クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:唄

本間豊堂(尺八)
松浪千紫(箏、三絃、胡弓)

 夜に岡大介さんのライヴに行くことにしていて、ダブル・ヘッダーにするか、さんざん迷ったのだが、やはりこれは見逃せないと、えいやと家を飛びだした。Winds Cafe でのライヴはまた格別なのだ。この日も期待通り、最高の演奏に加えて、思いもうけぬ余徳にあずかることができた。行くべきか行かぬべきか、迷った時には行くべし。

 日曜の原宿は完全に観光地状態で、内外の観光客がいり乱れ、熱中症警戒アラート何のその。皆さん、元気に歩きまわり、また行列している。1時間前に原宿に着いたのだが、目当てにしていた明治通り・表参道交差点角のカフェはフロア全体が真暗。向い側は大々的再開発で大きなビルが建ち、内装・外装の工事が、日曜にもかかわらず進行中。労働条件は大丈夫なのかと気を回してしまう。たぶん、こちらのビルも建替えようというのだろう、他のフロアも暗くなっている。どこか、時間をつぶせるところはないかと裏道をうろうろするが、裏道も人の波。それでも、1軒、席の空いているカフェらしきものを見つけて入る。特に問題もなく座れて、コーヒーもちょっと遅かったが無事出てきて、まずまずのお味。後から入ってくる二人組などが、予約してるかとか訊かれているが、こちらは独りだし、老人で、追い出すのも哀れに思われたのだろう。どうも、あたしぐらいの年齡の人間は店内はおろか、外の通りでも他に見あたらない。

 開場時刻になったので、カーサ・モーツァルトに行く。すでに半分ほど席が埋まっている。伝統邦楽の演奏会ということもあって、お客さんにも和服の人がいる。暑い中、ご苦労様です。プログラムはウエブ・サイトにもあって、前半、古典4曲。後半は現代曲4曲。アンコール無し。実際、終ったときには、演奏する方もくたくただったであろうが、こちらもお腹いっぱいではあった。量もたっぷりのフルコースを完食した気分。

 本間氏はあたしは初見参だが、サイトの紹介ではたいへん面白いことをされているので愉しみである。もっとも、いま伝統邦楽に真剣に取組んでいるなら、伝統の外に出ようとしない、なんてことはまずないだろう。伝統に深く入れば入るほど、外との交流に積極的になる、というのは、多かれ少なかれ、世界中の伝統音楽で起きているのではないか。音楽そのものの質をより高め、そのために冒険をする点では、一般的なポピュラー音楽よりも、伝統音楽の方が遙かに面白くなっている。ヒット・チャートのための音楽は、どれもこれも同じことのくり返しに聞える。今をときめくアニソンも、昔の「テレビまんが主題歌」と呼ばれていた頃の楽曲とは、多様性とそこから生まれる面白さの点では比べものにならない。今のアニソンは売れてしまうから、逆に一定の枠からはずれることができなくなっているとも見える。どうせ売れるんだから、どんなことでもできる、やっていい、とはならないらしい。「テレビまんが主題歌」の頃は、楽曲単独で売れるとは誰も思わず、期待していなかったから、天衣無縫に何でもあり、やってみなはれ、だったのだ、きっと。

 閑話休題。

 前半の古典。オープナーは尺八の古典中の古典〈鶴の巣籠〉の独奏。同じ曲が演る人によってまったく違う曲になるのは伝統曲の醍醐味のひとつ。この曲のあたしの印象はどちらかというと静かに始まり、だんだん激しくなるというものだったが、本間氏の演奏は最初の一音からおそろしく尖っている。そして、ほとんどテンションが落ちずに最後まで突走る。ひょっとして、古典の師匠があの横山(ノヴェンバー・ステップス)勝也というのがバックにあるのか。

 この曲だけでなく、他でも使うのだが、故意に音を細かく震わせるのをここぞというところで入れる。ヨーロッパの弦楽器のハーモニクス奏法に相当するようでもある。あるいは三絃のサワリの方が近いか。

 それにしてもこのスペースでは尺八の音の響きがいい。箏も胡弓も三絃もやはりよく響く。30人からの聴衆が入ってもよく響く。春の津軽三味線の時も音がいいと感じたが、ふだん生ではあまり聴かない楽器だから響きの良さが強調されたのだろう。

 2曲目から松浪千紫氏が加わり、まず尺八と箏の二重奏。八橋検校の〈乱〉、「みだれ」と読ませる。タイトル通り、めまぐるしく曲調が変わる。尺八が終始主メロで、箏があるいはカウンター・メロディ、あるいはハーモニー、時にはユニゾンと、これまためまぐるしく仕掛けを変える。これに似た感覚の曲を最近聴いたと思っていたら、後になって、そうだ、ラフマニノフのチェロ・ソナタだと思いあたった。ラフマニノフだけでなく、プーランクとかプロコフィエフとかのチェロ・ソナタも、こんな風にどんどん曲調が変わってゆく。ただ、ユニゾンはあまり無いようではある。ユニゾンは伝統音楽の専売特許なのだろうか。もっともクラシックの場合、ここまで音色やテクスチュアの異なる楽器が同時に演奏することはほとんど無い。音色が対極的な楽器のユニゾンは愉しい。

 そして3曲目〈黒髪〉。松浪氏が三絃を持ち、尺八伴奏で唄う。これが良かった。地唄舞の地唄だそうだが、普段の話し声より音程を少し上げて、少し鼻にかけ、少し喉をすぼめた感じの独得の発声。後で訊いたらやはり発声の訓練はされるそうだ。わずかにくすみのかかった、けれども澄んだ声。唄の内容は、頼朝を政子にとられた女が、嫉妬に狂いながら深夜長い黒髪を梳かしている情景をうたった、とあたしには聞えた。むろん松浪氏の説明でそうと知れるので、唄われているのを聴く間は、どこまでもたおやかな歌唱に聴きほれていた。とはいえ、どこか鬼気迫るとまではいかなくても、なごやかさとかおだやかさとかとは一線を画した張りつめた唄に吸いこまれる。

 古典のラスト〈鹿の遠音〉は尺八と胡弓の二重奏。胡弓は二胡とは別の、より古い形だそうだ。あるいは昔は今の胡弓も二胡もまとめて「胡弓」すなわち「胡」の弓奏楽器と呼んだのかもしれないという。三絃と同じ形の、一回り小さくした胴。ゆるゆるの弓。そして面白いのは、弓の角度は変えず、胴を回して低い方の弦を弾く。ほとんどは奏者から見て一番左の弦を弾いている。音量は小さいが、上品で、よく通る。演奏も面白く、たがいに相手のメロディを受け、くりかえしてから新たなメロディを奏でるのをくり返す。ブルターニュのカン・ハ・ディスカンみたいだ。最後だけユニゾンになる。

 後半オープナーはいきなり世界初演の新作。会場にも来ておられたきのしたあいこ氏、とあたしには聞えた方に、本間、松浪両氏が委嘱した尺八と箏の二重奏のための〈海に月が沈む時〉。虚子の「海に入りて 生まれかわろう おぼろ月」の句がモチーフ、というよりも、この句に出会ってタイトルが決まったそうな。夜の海の幻想から、月が沈んで朝になり、現実に戻るイメージの由。曲は2019年にできあがっていたが、パンデミックのため演奏できず、この日がワールド・プレミアになった。なかなか面白い曲で、途中、箏が左手で胴を下から叩いてパーカッション効果を出す。もっとも現代曲らしく、一度聴いたくらいでは何がなにやらわからん。

 次の〈朱へ……〉の作者沢田比河流は沢田忠男の子息。タイトルの「朱」は尺八の管の内部が朱色に塗ってあることをさすという。作者は父親に反撥してか、ロック・バンドをやっているそうで、この曲もロック調。これまた面白い。

 3曲目〈明鏡〉の作者杵屋正邦は長唄の大家で、あたしでも名前くらいは聞いたことがある。松浪氏の地唄とは三絃でも違う楽器を使うが、ここではあえて地唄の中棹と尺八の二重奏。このあたりになると、こちらもくたびれてきて、ひたすら聴きほれている。

 ラストは山本邦山の〈壱越〉。壱越とは本朝十二律の基音、洋楽ではニ音=D。その音がテーマになっているのだろうが、音程はさっぱりとれないから、そこはまったくわからん。尺八と箏の二重奏。邦山といえばあたしは尺八しか知らないが、箏も弾いたのだそうだ。だから邦山が箏のために書いた曲はとても弾きやすく、かつ弾き甲斐がある由。松浪氏もそうだが、伝統音楽をやる人はマルチも多い。津軽三味線の山中さんも尺八を吹く。能管、篠笛にゲムスホルンを吹く笛師もいる。これまたひたすら聴きほれるのみ。

 古典曲と現代曲と言われても、シロウトには違いなんかわからない。古典は現代曲に聞えるし、現代曲は古典に聞える。伝統邦楽の敷居が高いとすればそこだろうか。一度や二度聴いたくらいでは、良いも悪いもわからない。伝統音楽はそもそもどこにあってもそういうもので、一聴、わっと飛びつけるものではない。アイリッシュのように、わっと飛びついて飛びつけたつもりが、実はヘリにもひっかかっていませんでした、なんてものもある。良さがわかって、共感できるようになるには、聴く方もそれなりの訓練と根気が必要だ。ただし、深入りしてある地点を越えると、今度はどこまでも引きずりこまれて、二度と戻れないことになる。伝統音楽はコワイ。

 演っている方の姿勢も変わらない。本間氏は洋装で前半の古典は黒いシャツ、後半現代は白いシャツ。服は変わっても、演奏する際の姿勢は同じだし、楽曲に対するかまえも変わらない。和服の松浪氏はむろん変わらない。つまり、聴く方は視覚的な手がかりも無い。休憩が入るにせよ、また楽器の組合せは変わるにせよ、2時間たっぷり、半分ワケがわからないものを聴きつづけると、聴くだけでへとへとになる。

 ただし、そのへとへとになる体験がたまらない。わからないからダメでも無い。わからないものはわからないまま、体に入ってくる。そこがいい。自分にわからないものは価値が無いというのは、ゴーマンである前に、自分の器はちっぽけなんですと告白しているのに等しい。とりわけ伝統音楽は生き残ってきているものだ。世の転変をくぐり抜けて、生き残っている。それだけで聴く価値はある。たとえ、一聴、わっと飛びつきたくことがなかったにしても、ワケがわからなかったにしても、自分の短かい一生分よりも長く生きのびているものには敬意をはらうべきだ。

 現代曲にしても、そうして生き残ってきた伝統曲に対峙している。音楽として、楽曲の質において、生き残ってきた伝統曲と競りあわねばならない。現代曲が百年後に生き残っているかどうかはわからない。それは別の話だ。そうではなく、今この瞬間において勝負している。勝負を挑んでいる。その挑戦に立ち会うのは面白い。今この瞬間を生きている、そのことを実感する。

 とりあえず松浪氏のウエブ・サイトでCDを注文する。本間氏はまだCDは作られていないようだ。「むつのを」に参加とあるが、手許にある「むつのを」のCD《五臓六腑》は1998年のリリースで、本間氏は参加されていない。その後レコードを出しているのかは不明。

 終演後、松浪氏と歌舞伎の『阿古屋』の話になる。箏、三絃、胡弓をひとりで実際に演奏する演目で、玉三郎の当たり役。パンデミック前、歌舞伎座で玉三郎の演じるのを見られたのは一生の宝物。松浪氏も玉三郎のは見たとのことで、盛り上がった。もっとも松浪氏の松浪流は唄にも力を入れているそうで、次はぜひ唄を中心にした演目を Winds Cafe で見たいものだ。

 予定を大幅に超過して、終演16時半。陽は傾いたが、人の波はまったく引かない。その間を縫って、次の会場、浅草へ向かうべく、表参道の駅へとてくてくと登っていった。(ゆ)


参考
 歌舞伎座の玉三郎による『阿古屋』についての記事

 文楽の『阿古屋』についての記事

 アラキさんが初めて来日してから20年になるそうな。20年間、ほとんど毎年来日してツアーをしている、そういうことができるのも大したものである。新作《The East West Road》のジャケットには、国内で世話になった人びとの名がずらりと並んでいる。ほとんど全国におよぶ。人なつこいかれの人柄と、そしてもちろん音楽のすばらしいことがその裏にはある。

 バゥロンとヴォーカルの Colleen Raney、ギターの福江元太とのトリオでの、今回東京では唯一のライヴ。ラ・カーニャは世界中で一番好きなヴェニューとアラキさんは言う。あたしもここは好きだ。ミュージシャンとの距離が近いし、ステージが一段高いので、よく見える。マスターの操るサウンドもバランスがとれて気持ち良い。横浜のサムズアップとあたしには双璧だ。

 昼間のジャン=ミシェル・ヴェイヨンからのハシゴで、始まる前は前の余韻が残っていたというか、まだ茫然としたままで地に足が着いていなかった。2曲めあたりで、だんだん地上に降りてこれた。聴き慣れたアイリッシュ主体の楽曲と3人の演奏の親しみやすさのおかげか。

 ジャン=ミシェル・ヴェイヨンの音楽はそこを異界にしてしまうのだが、このトリオの音楽が響いているのは通常の空間だ。どこか tricolor の音楽に通じる。アイリッシュ・ミュージックとしてはあたりまえのことをきっちりと演る。それによって、日常空間を日常のまま位相をずらす。電子レンジでチンした材料で用意したようなふだんの食事が、食べてみるととんでもないご馳走に化けている。

 ブルターニュとの違いを如実に感じて、大袈裟に言えばふるさとに帰った想いがしたのは4曲目のホーンパイプ。やはりホーンパイプこそはアイリッシュの真髄、これをちゃんとできなくては一級のアイリッシュ・ミュージシャンとは言えない。3曲メドレーの2曲めが良かったが、名前がわからん。

 アラキさんはフルートと各種ホィッスルを結構頻繁に持ち替える。レイニィさんのバゥロンはハデなことは一切やらず、シュアにビートを刻むのに徹している。遊んでいるのはむしろ福江さんのギターで、やや大きめの音量とも相俟って、それを追うのも楽しい。

 そして何といってもこのトリオの、あたしにとっての最大のポイントは歌だ。アラキさんも、レイニィさんも一級のシンガーで、二人の歌をたっぷりと聴けたのは、この日、一番嬉しかった。とりわけ新作にも入っている〈Peggy-O〉からはアンコールまで歌が続いて、大いに喜ぶ。

 前半ではレイニィさんの〈Shades of Glory〉がハイライト。後半オープナーの軽快で明るい〈Reynardine〉がすばらしい。アラキさんはこういう「シリアス」なバラッドを、さらっと軽快に明るく唄って、しかも軽薄にならないところが面白い。レイニィさんの唄はむしろ抑えたタメのなかに艶かしさを秘めたところが魅力だ。一つのバンドでこういう二つの異なる色調が楽しめるのは珍しい。そして、どちらも相手がメインのときにつけるハーモニーが快感だ。

 福江さんの MC のおとぼけぶりにも堂が入ってきて、アイリッシュ色が強くなっている。

 一日のうちで、音楽の対極の相を二つながら味わえたのは貴重な体験だが、やはりひどくくたびれる。音楽を聴いている間はよいのだが、ライヴが終ってみると疲労困憊していることに気がついた。(ゆ)

 Folk Radio UK の Folk Show の最新版 40, 2018-09-28 が出ていたので、聴いてみる。

 選曲、原コメントは Alex Gallacher

00:00:00 June Tabor & Martin Simpson – Strange Affair
 1980年の《A Cut Above》から。久しぶりに聴くと、こんなに手の込んだことをやっていたのか、と驚く。当時シンプソンはまだアルバム1枚出したくらいで、このアルバムでギタリストとしての評価を確立したと記憶する。あの頃は情報も少なく、テイバーとシンプソンの組合せには驚いたものだ。後のテイバーの傑作《Abyssinians》の布石でもある。このトンプソンのカヴァーもいいが、掉尾を飾る Bill Caddick 畢生の名曲〈Unicorns〉は衝撃だった。


A Cut Above
June Tabor & Martin Simpson
Topic
2009-08-12


Abyssinians
June Tabor
Topic
2009-08-12




00:05:35 Fairport Convention – Days Of 49
 フェアポートのディラン・カヴァー集《A Tree With Roots: Fairport Convention And The Songs Of Bob Dylan》から。このヴォーカルはニコルだね。トンプソンのギターもばっちりだし、すばらしい。ディランをカヴァーするとみんなディランになると言うが、それはたぶんアメリカ人の話で、イギリス人はやはり別ではある。

A Tree With Roots: Fairport Co
Fairport Convention
Universal
2018-08-03




00:11:50 Karan Casey – Hollis Brown
 11/02リリース予定の新作《Hieroglyphs That Tell The Tale》から。このカランもディランじゃないねえ。すばらしいじゃないですか。

00:16:17 Stevie Dunne – The Yellow Wattle / The Maids at the Spinning Wheel / The Meelick Team
 アイリッシュ・バンジョーの名手。こりゃあ、ええ。こりゃあ、ええでよ。バゥロンすげえなと思ったら、ジョン・ジョーじゃないですか。その他もほとんど鉄壁の布陣。買いました。

00:21:43 Shooglenifty & Dhun Dhora – Jog Yer Bones
 11/09リリース予定の新作から。Dhun Dora はラジャスタンのグループだそうだが、ショウ・オヴ・ハンズとも共演していて、面白い連中。これもシューグルニフティと波長がぴったりで、実に面白い。この曲は Roshan Khan がシューグルニフティのメンバーの Ewan MacPherson の iPhone に吹きこんだ唄をベースにしていて、それと Laura Jane Wilkie のペンになる〈Jump Yer Bone〉をカップリングしている由。各種パーカッションを凄く細かく使っているのも楽しい。

00:26:31 Ushers Island – The Half Century Set
 昨年のデビュー・アルバムから。まあ、文句のつけようもない。念のため、メンバーは Andy Irvine, Donal Lunny, Paddy Glackin, Mike McGoldrick, John Doyle。これで悪いものができるはずがない。

Usher's Island
Usher's Island
Vertical
2017-06-15




00:32:12 LAU – Far from Portland
 3作め、《Race The Loser》(2012) から。ま、良くも悪しくもラウーですな。

Race the Loser
Lau
Imports
2012-10-09




00:39:56 Breabach – Birds of Passage
 10-26リリース予定の《Frenzy Of The Meeting》から。スコットランドの5人組。プロデュースは Eamon Doorley なら信用できる。この唄はいい。曲はギターの Ewan Robertson と Michael Farrell の共作。
Bandcamp


00:43:49 Hannah Rarity – Wander Through This Land
 もう一昨年になるのか、Cherish The Ladies と来日したスコットランドのシンガーで、昨年の BBC Scotland Young Tradition Award 受賞者の初のフル・アルバム《Neath The Gloaming Star》から。昨年出したミニ・アルバムよりもぐっと落着いた歌唱。また1枚剥けたらしい。この人の声はゴージャスですなあ。
Bandcamp

00:47:50 Chris Stout & Catriona McKay – Seeker Reaper
 デュオの昨年のアルバム《Bare Knuckle》から。凄いなと思うのはクリス・スタウトのフィドルで、この人も思えばずいぶん遠くまで来たもんだ。

Bare Knuckle
Chris Stout
Imports
2017-12-01




00:53:53 Rachel Newton – Once I Had A True Love
 最新作、出たばかりの《West》から。これは文字通り、一人だけで作ってます。曲は有名な伝統歌。一切の虚飾を排した演奏。緊張感が快い。
Bandcamp


00:57:05 Steve Tilston & Maggie Boyle – Then You Remember
 今回はテイバー&シンプソンはじめ、懐しい録音がいくつもあるけど、これもその一つ。1992年の《From Of Moor And Mesa》から。どちらもソロとしてもすばらしいけど、コンビを組むと魔法を生む。選曲者も言ってるように、探すに値するアルバム。

Of Moor and Mesa
Steve Tilston & Maggie Boyle




01:00:15 Thom Ashworth – Crispin’s Day
 この人はあたしは初めて。《Hollow EP》から。イングランドのシンガー。いいですねえ。顔に似合わず声は若い。ギターはじめ、楽器も全部一人でやってるそうな。歌詞はT・S・エリオットの『四つの四重奏』の一つ「バーント・ノートン」のアジャンクールの戦いをほのめかしたところからとっている由。その戦いは聖クリスピンの日に戦われた。
Bandcamp


01:03:47 Kelly Oliver – The Bramble Briar
 この人も初めて。3作め《Botany Bay》から。前2作と違い、全曲トラディショナルで、故郷の一帯から、Lucy Broadwood が蒐集したものをメインとしている由。これも確かに有名な曲。最近の若い人はまず伝統歌を唄い、それから自作に向かうが、この人は逆をやったわけだ。ジャケットの写真は3枚のなかで一番ひどいが、唄はいい。
Bandcamp


01:07:48 Fairport Convention – Percy’s Song
 ああ、サンディの声は聴けばわかる。うーん、この声とこの唄は、やっぱり他にはいないねえ。すげえなあ。これも前記フェアポートのディランのカヴァー集から。なるほど、こういうのも入れてるのか。原盤は《Unhalfbricking》(1969) ですね。しかし、全然古くないねえ。まるで昨日録音したみたい。とてもディラン・ナンバーに聞えん。イングランドの伝統歌だ。

アンハーフブリッキング+2(紙ジャケット仕様)
フェアポート・コンヴェンション
ユニバーサル インターナショナル
2003-11-05




01:13:10 Steeleye Span – Sheep-Crook And Black Dog
 これも全然古くない。1972年の《Below The Salt》から。マディ・プライアに言わせれば、この前の3枚はハッチングスの作品で、ここからがスティーライ本来の姿だ、ということにになるのかもしれない。しかしこの頃のプライアの声はまさに魔女、異界からの声だ。

Below the Salt
Steeleye Span
Shanachie
1989-08-08




01:17:49 Nic Jones – Billy Don’t You Weep For Me
 例の交通事故で音楽家生命を断たれる前のニック・ジョーンズの未発表録音、大部分はライヴを集めた《Game Set Match》(Topic Records) から。こういうのを聴くにつけ、彼が順調に成熟していっていたなら、どんな凄いことになっていたのか、悔やしさがぶくぶくと湧いてきて、だから、あまり聴く気になれない。演奏がすばらしいのはわかってたけど、こんなに録音が良かったんだ。

Game Set Match
Nick Jones
Topic
2009-08-12





01:22:39 Dick Gaughan – Crooked Jack
 ゴーハンの4作め《Gaughan》(1978)から。この歌は Dominic Behan の作品で、ゴーハンは Al O'Donnell から習った。アル・オドンネルはアイルランドのシンガー、ギタリストで、ゴーハンにとってはヒーロー、だけでなく、広い影響を与えている。1970年代にLPを2枚出していて、どちらもすばらしい。2015年に亡くなっていたとは知らなんだ。《RAMBLE AWAY》(2008) が最後の録音になるのか。ゴーハンはアコースティック・ギターは神様クラスだが、エレクトリックはほんとダメだねえ。この曲はまだマシな方。こうなるともう相性が合う合わない以前で、「持ってはいけない」クラスなんだが、本人はたぶん憧れてるんだよなあ。

Gaughan
Dick Gaughan
Topic
2009-08-12


Ramble Away
Al O'Donnell
Iml
2013-01-07



01:27:42 Jarlath Henderson – The Two Brothers
 この人も初めてお眼に、いやお耳にかかる。はじめ、シンプルなギター伴奏のシンガーだが、妙に力が抜けた唄い方がポスト・モダンだけど、しっかり歌をキープして悪くない、と思っていると、途中からがらりと変わる。このイリン・パイプは凄い。しかもこれがデビュー作だと。BBC Young Folk Musician Award 最年少受賞はダテじゃない。こいつは買わねば。

Hearts Broken, Heads Turned
Jarlath Henderson
Imports
2016-06-10




01:32:35 Martin Carthy and Dave Swarbrick – Polly on the Shore
 懐しいものの一つ。選曲者がこれのソースの《Prince Heathen》(1969) は Martin Carthy & Dave Swarbrick の second album と言ってるのは、何か勘違いしてるので、実際には5作め、第一期の最後。このアルバムはカーシィとしても一つの究極で、どれもいいが、何といっても有名なバラッド〈Little Musgrave and Lady Bernard〉(フェアポートの〈Matty Groves〉の原曲)の9分を超える無伴奏歌唱が圧巻。その昔、初めてこれを聴いた時、スピーカーから風圧、音圧じゃないよ、風圧を感じた。

Prince Heathen [LP]
Martin Carthy and Dave Swarbrick
Topic
2018-08-27




01:36:19 Duncan Chisholm – Caoineadh Johnny Sheain Jeaic / The Hill of the High Byre (Live)
 をー、この録音が出てたのは知らなんだ。買わねば。《Live At Celtic Connections》(2013) から。今、いっちゃん好きなスコットランドのフィドラー。このライヴは20人編成のストリングスとブラス・セクションまで参加してるそうだ。

Live at Celtic Connections
Duncan Chisholm
Imports
2013-11-12




 MacBook Pro 13-inch 2016 で Mojave の Safari で FRUK のサイトで再生してるけど、純正の USB-C アダプタから iFi iDefender3 経由で Mojo > LadderCraft 7製ミニ・ペンタコン変換ケーブル> マス工房 428 で AudioQuest NightOwl に onso のケーブルつけてバランス駆動で聴くと桃源郷にいる気分。(ゆ)

 イーリー・カオルーと読む。漢字表記では以莉・高露。台湾の先住民の一つ、アミ族出身のシンガー・ソング・ライターとのことで、ぜひ、生の声を聴いてくれと言われていた。

 なるほど、違うのである。CDの録音の質は決して低くない。むしろ、かなり良い方だと思う。録音は生の声を捉えていないと聞かされていたから、それを念頭において聴いたつもりだが、その声の質もしっかり捉えているように聞えた。それが、やはり、まるで違うのである。

 どこがどう違うというのが言葉にしにくい。この人の声は天然の声だ。伝統音楽、ルーツ・ミュージックから出てきた優れたシンガーの通例に漏れず、この人も自然に溢れるように声が出てくる。むしろ華奢に見える体のどこからこんな声が出るのだと不思議になるくらい、量感に満ちた声が滔々と溢れだす。声域も広い。伝統音楽のうたい手は一般に声域はあまり広くなく、その代わり出る範囲の声の響きの豊かさとコントロールの効いていることでは、他の追随を許さない。この人は高く通る音域から低く沈む音域まで、かなり広い範囲を自在にコントロールする。強く、張りのある声から、耳許で囁くような声に一瞬で移ることもできる。何か特別の訓練でも受けているのかと思われるくらいだ。その点で肩を並べるのは、マリア・デル・マール・ボネットとかリエナ・ヴィッレマルクのクラスで、スケールの大きさでは、ゲストの元ちとせよりも1枚上だ。

 録音ではこれはわからなかったと思ったのは、中域の膨らみで、倍音をたっぷりと含んだその響きを録音で捉え、きちんと再生するのはかなり難しいだろう。もっとも、こうした膨らみは、伝統音楽のすぐれたうたい手ならまずたいていは備えていて、たとえばドロレス・ケーンやマリア・デル・マール・ボネットは録音でもしっかりわかる。

 しかし、録音との違いは、中域の膨らみだけではない。とにかく、何もかもが違う。一方で、強い個性があるわけでもない。個性の点では元ちとせの声の方がはるかに個性的だ。イーリーさん、と呼ばせてもらうが、イーリーさんの声は、いわばポップスのいいシンガーの声と言いたくなる。CDではまさにそういう声である。唄っている曲の感触、録音の組立てもそれに添ったものでもあって、先住民文化の背景は意識しなければわからない。2曲ほど、伝統曲やそれに則った曲はあるが、それもとりわけルーツを前面に押し出したものではなく、全体としての作りは、上質のポップスだ。むしろ、あえてルーツ色や台湾色は薄めようとしているようにも聞える。エキゾティックなのは言葉だけだ。

 生で聴くと、うたい手として世界でも指折りの存在になる。アジアではちょっと他にいないのではないかとすら思える。テレサ・テンは生で見られなかったが、あるいは彼女に匹敵するのではと憶測してみたくなる。あるいは絶頂期の本田美奈子か。むろん、イーリーさんに「ミス・サイゴン」を唄ってくれと頼むつもりは毛頭ないが、その気になれば、悠々と唄えるだろう。元ちとせと声を合わせた奄美のシマ唄を聴くとそう思える。どうやら、昨日、会場のリハーサルで初めて習ったらしいが、歌のツボをちゃんと押えて、自分の唄としてうたっていたのには、舌をまいた。

 しかも、この人は、一見、そこらにいる、ごくフツーの「隣のおばさん」なのだ。おそらくは、どこまでもフツーで、でも器の大きな、いわゆる「人間の大きな」人なのだろう。その存在感が声に現れているのだ。だとすれば、これは生のライヴでしか、味わえない。少なくとも、一度は生で聴かないと、その凄さは実感できない。いつものように眼をつむって聴いていると、ひどく朗らかなものに、ひたひたと満たされてきて、安らかでさわやかで、しかも充実した感覚が残る。

 サポートするギターとピアノも一級のミュージシャンで、見事なものだが、イーリーさんの大きさに包まれているようにも見える。

 実は元ちとせを生で聴くのも初めてで、なるほど、この人も大したものだ。同時に、世に出ている録音のひどさに腹が立ってくる。この声を台無しにしているのは、ほとんど犯罪だ。前にも書いたが、ダブリンでチーフテンズと録音した〈シューラ・ルゥ〉の現地ミックスはすばらしかったことが蘇ってくる。あのヴァージョンは何らかの形でリリースされないものか。会場で配られたチラシにあった間もなくでるシマ唄集には期待したい。

 コンサートの構成はちょっと変わっていて、1時間、イーリーさんが唄ってから元ちとせが交替してうたい、次にイーリーさんのトリオに加わって唄う。そこで休憩が入り、その後、ステージが片付けられて、アミ族の踊りをみんなで踊る。面白かったのは、踊り手になってくれる人、ステージにどうぞと声をかけたら、わらわらとたちまち十数人、上がっていったことだ。チーフテンズのショウのラストでは、毎回おなじみになったこともあって、鎖になって踊る踊り手には事欠かなくなったが、こういうところでも、積極的に踊る人が現れるのは、見ていて気持ちがいい。10年前だったら、こうはいかなかっただろう。

 会場では物販のところに台湾のメーカー Chord & Major のイヤフォンも置いてある。このイヤフォンは音楽のジャンルに合わせた特性のモデルを展開している。ジャズとかロックとかクラシックなどだが、イーリーさんも協力しているのだという。ワールド・ミュージック向けというモデルがそれらしい。こうなると、これでイーリーさんの録音を聴いてみたくなるではないか。

 台湾からは以前、別の先住民部族出身の東冬侯溫(とんとんほぅえん)が来て、この人も凄かった。彼はもう少しルーツに近い位置で唄っているが、録音はやはりかなりモダンな組立てだ。ライヴはしかし、正規の衣裳で、伝統の太いバックボーンをまざまざと感じさせるものだった。やはり島の音楽は面白い。

Special Thanks to 安場淳さん(ゆ)

 とんでもないものを聴いてしまった。この声は、唄は、世界を変える。聴く前と後では、同じではいられない。たとえ、同じだと当初思ったとしても、時間が経つにつれて、同じではいられなくなっていることがわかってくる。

 宮古島の歌には多少の心組みもあった。つもりだった。しかし、この與那城美和氏の唄はこれまで聴いた琉球弧の伝統歌のどれとも違う。もっと古い感じがある。実際、三線の導入で宮古の古い歌が変わってしまったと言われる。

 三線は中国大陸からやって来たもので、歌がそれ以前から唄われていたことは確かだろう。三線は当然その歌とは別の伝統から生まれているので、宮古の古い歌がそれを伴奏にすることで変化したのもうなずける。もっともこのことはどんな伝統楽器でもありえるので、アイリッシュ・ミュージックにしてからが、現在そこで伝統楽器とされているものは、ホィッスル以外はすべて外来の楽器なので、各々の楽器によってアイリッシュ・ミュージックが変化している。とはいえ、それ以前の音楽がどういうもので、どう変化しているのかは今となってはもう解明する術はまず無い。

 宮古の場合にはそれができたらしい。共演のダブル・ベースの松永誠剛氏によれば、與那城氏は古い版と三線以後の版を唄い分けることができるそうだ。そしてこの日、與那城氏が唄われたのはその古い歌だったのだろう。

 あたしの体験内で最も近い音楽をあげれば、まずアイルランドのシャン・ノース歌謡だ。あるいはこの日、「前座」のDJでバラカンさんがアナログでかけたブルガリアはピリン地方の女性のアカペラ歌唱。はたまた、中央アジアの草原に棲む人びとの、それぞれの集団を代表する女性のうたい手たちが唄う伝統歌。歌の伝統の根源にまで降りたち、そこで唄ううたい手。音楽の、最も原初に近い、つまりはわれわれの存在そのものの根源に最も近い唄。

 與那城氏の声はとても強い。強靭な芯を強靭な肉が包み、すべてを貫いて聴く者の中に流れこむ。さして力を籠めているとも見えない。本人にとってはごく自然に、唄えばこういう声になるとでもいうようだ。粗方、客も帰った後で、なにかホールの響きについて話していたのか、その響きを確認するようにいきなり声を出されたが、それはさっき唄っていたのと全く同じ声だった。

 声域はメゾソプラノぐらいか。高い方はどこまでも澄む。低い方はたっぷりと膨らむ。そして、強いだけでなく、あえかに消えてゆく時の美しさ。声のコントロールということになるのかもしれないが、これまたごく自然に消えてゆく。

 ぴーんと延びてゆくかと思えば、絶妙なコブシをまわす。いつどこでコブシを入れるかは、決まっているようでもあり、即興のようでもある。

 傍らのダブル・ベースはまるで耳に入らないようでもあり、見えない糸で結ばれているようでもある。

 歌詞はもとよりわからない。英語以上にわからない。これまたアイルランド語のシャン・ノースと同じだ。しかし、歌に備わる感情はひしひしと伝わってくる。というよりも、これまたシャン・ノースと同じく、感情は聴く者の中から呼び起こされ、点火される。その感情に名はない。つけようもない。哀しいとか嬉しいとか、そんな単純なものではない。もっと深い、感情の元になるもの。

 宮古の言葉がどういうものか、宮古の言葉で宮古の紹介をしゃべる一幕もあった。沖縄本島はもとより、石垣島でも通じないそうだ。宮古の島の中でも少しずつ違うらしい。言葉だけでなく、顔もまたローカルな特徴があり、與那城氏はまったく初対面の老婦人に、出身地を最も狭い単位まで言い当てられたこともあるそうだ。アイルランドのドニゴールで、マレード・ニ・ウィニーとモイア・ブレナンの各々出身の村はごく近いが、言葉が微妙に違うという話を思い出す。

 松永誠剛氏のダブル・ベースも単純にリズムを刻むのには程遠い。冒頭、いきなりアルコでヴァイオリンのような高音を出す。全体でも指で弾くのとアルコは半々ぐらい。伴奏をつけるというよりは、與那城氏の唄に触発された即興をあるいはぶつけ、あるいは支え、あるいは展開する。唄にぴったり寄り添うかと思えば、遠く飛び離れる。唄の邪魔をしているように聞える次の瞬間、唄とベースが一個の音楽に融合する。こんなデュオは聴いたことがない。

 もちろんノーPAだ。会場はそう広くないが、相当に広いホールでも、おそらくPA無しで問題ないだろうと思われる。音圧という用語があるが、それよりも声の存在感、声が世界を変えてしまうその有様は、おそらく生でしかわからない。会場で販売されていたお二人のCDは買ってきたが、是非また生で体験したい。

 松永氏は結構おしゃべりで、話が音楽と同じくらいの時間だが、むしろそれくらいがちょうどいい。しゃべりも快い。與那城氏と彼女が体現する宮古の伝統にぞっこん惚れこんでいるからだ。

 ライヴに先立って、1時間、ピーター・バラカンさんがDJをされる。松永氏は songlines ということを考えていて、各地の歌は見えない線でつながっているというものらしいが、バラカンさんなりの songlines を見出すような選曲。そのリストはバラカンさんの Facebook ページに上がっている。

 さすがの選曲で実に面白かった。あたしにとっての発見はアフリカ系ペルー人という Susana Baca の唄。およそラテンらしくない、すっきりとさわやかな音楽で、一発で好きになる。

 対照的にサリフ・ケイタの Soro からの曲は、時代を感じてしまったのは、後でバラカンさんご自身も認めていた。ケイタの唄や女性コーラスはいいのだが、あの80年代のチープなシンセの音がほとんどぶち壊しなのである。これはケイタにとって不幸なことだし、おそらくあの時期に世に出た、「ワールド・ミュージック」の録音全体にとって不幸なことだ。もちろんどの時代の録音にも、時代に限られる部分と時代を超える部分があるものだが、あのシンセの音にはその超えてゆくところをもひきずり下ろすものがある。

 バラカンさんの時は、この安養院瑠璃講堂備えつけのタグチ・スピーカーが大活躍していた。システムはゼロから田口氏が設計・製作されたもので、正面と背面の他に、頭上の鴨居の部分にあたるところに据えつけた特殊な形のものに加えて、高い天上から吊り下げたユニットまであって、良い録音ではまさに音楽に包まれる。上述のスザーナ・バカの録音などはその代表だった。田口氏ご自身も見えていて、終演後、背後の正面のものよりは小さめのスピーカーのカバーをとって説明してくださる。全て平面型の小さなユニットを縦に連ねて、その脇にリボン・トゥイータをやはり縦に連ね、下に二発、ウーハーにあたる平面型のやや大きめのユニットがある。ちょうど昔のマッキントッシュのスピーカー・システムに似ている。

 備品のラックスマンのターンテーブルを使って、バラカンさんも2曲、アナログをかけたが、ここでデッドのアナログ大会をやってみたい、それも客として聴きたいものではある。

 安養院瑠璃講堂は音楽を聴くには最高の施設の一つだが、困るのは周辺に食べ物屋が無いことで、ここに来るといつも夕飯を食べそこなう。この次は環七沿いのドライブイン・レストランを試してみるか。(ゆ)


 昨年は5月21日だったからちょうど1年になる。山中信人、山本謙之助によるライヴは、お二人とも昨年よりも明らかに調子が良い。音楽というのは玄妙なもので、ライヴがあらゆる音楽の本来の姿であり、すべてのベースとは言っても、そのライヴが常にベストの出来になるということはありえない。あまりにも沢山の要素が働いていて、すべての要素がどんぴしゃりに合うことはごく稀だからだ。

 その中で最も影響が大きいのはミュージシャン自身の調子の良し悪しではあろうが、調子が良い悪いはそう簡単に言えるものではない。たとえばの話、今回の山中、山本両氏の演唱を体験して、昨年は実はそれほど調子が良くなかったのではないか、と思えたのだが、しかし昨年はそんなことは露ほどもわからなかった。

 いや、昨年も調子は良かった、今年はもっと良かったのだ、と言うことも可能かもしれない。一方で、もしそうならば、昨年は普通の調子の良さで、今年の調子の良さはどこかもっと根本的なところがアップデートされた故のものに思える。

 山中さんの場合にはよりわかりやすそうだ。津軽三味線世界大会での三連覇をされたことだ。三連覇というのは史上7人目、数十年ぶりで、最年長。そしてこの大会では三連覇すると殿堂入りして、以後、コンテストには参加できない。津軽三味線の世界では究極のトップの座という。それを成しとげた。昨年の Winds Cafe で「三連覇します」と気負いもなく、さらりと言ってのけられたのは、やはり自信と言うべきだろう。その時には自信と呼ぶのさえためらわれるような、ごくあたりまえの話に聞えたのだが、今こうして実現されてみると、そう言わせたのはやはり自信で、自信とはそうは見えないくらいでないとホンモノではないのだと思い知らされる。目標達成が偶然でもフロックでもなく、当然の結果であることを知っている人の自信だ。

 そうした自信が実際に結果を得て、何か別のものに変わったのだ。それを何と呼ぶのか、あたしは知らない。川村さんは風格と言う。確かに余裕がある。安定感がある。たとえばミスをしないという意味ではない。人間である以上、ミスが皆無ということはありえない。そうではなく、ミスも音楽の一部、芸の一部になってしまうのだ。ミスではなく、主体的になされたことに思われて、それによってむしろ音楽に、芸に味が出る。

 聴いている方にはミスかどうかは全くわからない。ただひたすら、陶然として音楽に惹きこまれる。あそこはミスだと指摘する人がたとえいたとしても、だからどうした、そんなことはまるで問題ではないと答えよう。

 いつもは付き物である太鼓を今回はあえて外した、と山中さんは言う。太鼓無しでどうなるかの実験だと言うのだが、こうした実験に踏みだすのもまた自信がアップデートされた何かの故ではないか。

 前半は三味線ソロで3曲。うち2曲はオリジナル。曲を作っている時に雷雨があり、稲妻が走り、雷鳴が轟いたのでそれを音楽にして〈稲妻ごろぴか〉と名づけたという。「まだ手が暖まっていない1曲めにやる曲じゃありませんね」と言いながら、楽器の限界を押し広げるような演奏が続く。おまけにリピートが無い。津軽三味線の曲とはそういうものなのか。あるいはリピートがあるものだというのは、ヨーロッパの音楽に毒されている感覚なのか。

 2曲めはチェコに遠征した際、地元のコントラバス奏者との共演したという曲〈土佐の砂山〉。そうした共演にふさわしい、境界を軽々と越えてゆくような曲だ。

 この二つ、いつ何が起きるかわからないような緊張感が張りつめている一方で、かすかながらユーモアの筋が見え隠れする。これがどういうベクトルを持ったユーモアなのか、演奏している自分に向けられているのか、聴かせようとしているのか、まだよくわからない。

 3曲めは世界大会で弾いた課題曲。これも昨年よりもスケールが大きいと聞える。

 山中さんはこれを演奏しては録音して聴き、また演奏するという訓練を250回やったという。そうして完璧を目指すのだが、300回目にミスをすることがある。300回やらないとわからないミス。そのミスを無くそうとしてまた研鑽を積む。そうやって初めて自分を高めることができる。上達ができる。コンテストでの優勝を目指すことが、技術的なものだけではなく、音楽全体の底上げにつながったそうだ。つまるところコンテストとは他の参加者と競うのではなく、己との戦いなのだ、との山中さんの言葉には納得してしまう。

 何やらひどく深刻な話のように思えるが、この話をする、そして三味線を弾く山中さんはひどく楽しそうだ。実は塗炭の苦しみをくぐり抜けてこの境地に達したのかもしれないが、そんな様子はカケラもない。つまりは、本当に自分が楽しめるものでないと、そこまでの研鑽は積めないということだろう。研鑽そのものを楽しめるようになることは、トップに立つためのおそらくは必要条件なのだ。

 山本謙之助さんの方に何があったのかはわからない。全国から民謡のチャンピオンが集まった大会で優勝し、日本一の民謡唄いとされたのは一昨年だから、それは直接の要因でもないだろう。嬉しいことがあったのか。しかし、その調子の良さには、やはり一時的なものではないものが聞える。今や、いつどこで唄っても、これくらいの歌は聴かせられる、ように見える。

 圧倒的な声の量と太さが最初から最後まで変わらない。コブシの粘りと節回しの面白さはますます冴えわたる。そして、唄とおしゃべりの転換の自在なこと。一節唄って、すぐに今唄った詞の意味を説明してまた唄にもどるのにいかにも無理がない。

 後半のハイライトは〈津軽世去れ節〉。こんな嫌な世の中は早く去れとの祈りのこめられた歌だそうで、一連唄うその前半の歌詞のある部分は決まっているが、後半、音を延ばしてゆくところは即興で、コブシをいかに回すかがうたい手の聴かせどころであり、これにいかにぶつけてゆくかが三味線に求められるのだそうだ。

 ここはむろんPAなど必要なく、肉声と生の三味線を至近距離でたっぷりと浴びられる。こういうチャンスはあまり無い。今、この場にいない奴はかわいそうだ、と不遜な想いが湧いてしまうのも無理はない。何が贅沢といってこれほど贅沢な体験は、おそらくここでしか味わえない。勢い、その後のパーティーでの清談もはずもうというものだ。

 どうやら Winds Cafe はやらせてくれという人が増えてるらしい。来年の予定はすでに埋まってしまったとのことで、山中、山本ご両人の次の登場は再来年の3月になった。それまでは何としても生きていなければならない。だけでなく、この音楽をとことん味わえるような状態でいなければならない。目標を持つのはいいことだ、と山中さんを見ると思えてくる。たとえその目標がそこへ登ってゆく対象ではなく、衰退をできるだけ遅らせるという消極的なものであっても。

 それにしても、だ。山中さんも山本さんも、後世に残すアルバムの一枚くらい、録音していただきたいと切に願う。(ゆ)

しゃっきとせ 「つるとかめ」のつること木津茂理さんが細野晴臣さんたちをサポートにライヴをするそうです。副題は「テンツク meets クロンチョン」。前半は木津姉妹によるわが国伝統音楽。後半は細野さんはじめ東京シャイネスの選抜メンバーらがサポート。こいつは見逃がせない。チケットは発売中です。くわしくはこちら





2009/01/17(土)18:00 open/ 19:00 start
東京・表参道 EATS and MEETS Cay
前売り 4,500円 当日 5,000円 ふるまい酒含む
チケット扱い=ローソン・チケット Lコード78710


Thanx > 木津さん

 ゲストに細野晴臣&浜口茂外也を迎えてブレイクした3枚目《しゃっきとせ》がもうすぐ発売になる、津軽三味線&ヴォーカルの澤田勝秋、鳴り物&ヴォーカルの木津茂理のお二人のデュオ、つるとかめのライヴ・スケジュール。

05/19(土)東京・渋谷 居酒屋ニュー信州 30席限定、要予約
05/31(木)横浜三渓園 鶴翔閣

 詳しくはこちら

 どちらもユニークなイベントですな。

 そして06/26、浅草はアサヒ・アート・スクエアでその《しゃっきとせ》の発売記念ライヴが、フル・メンバーでおこなわれるそうです。

 先日、つるかめに浜口氏(うさぎ)が加わったライヴがメディア向けにあったのにもぐりこんできましたが、それはもうすばらしいものでした。浜口さんはカホンやダホルの他、和太鼓もしっかりやられていて、感服しました。これに細野さんが入ったら、どういうことになるのか。正直、チーフテンズなんか、もうどうでもいい(爆)。(ゆ)

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