クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 セカンド・アルバム《赤い月》レコ発、伊福部昭没後二十年、二十五絃箏製作三十五周年、といろいろ名目を負っている。後半は伊福部作品三連発で1時間超。オープナー、自作の〈Careless grace〉を除いてすべて二十五絃による演奏。そしてアンコールに〈カッチーニのアヴェ・マリア〉を自ら唄って(ソプラノのなかなか良い声)、《赤い月》収録曲を全曲演奏と、三つの名目をすべてきっちり満たしたプログラム。A4判12頁、表一と表四はフル・カラーの立派なプログラムが配られる。会場のパルテノン多摩大ホールは客席数1,154もさることながらステージがたっぷりで、フルオケが二つくらい余裕で入りそうだ。客席は後ろに行くほど傾斜がつき、しかも左右にずらして配置してある。ステージまでの見通しが良く、どこに座ってもいいと思える。先日ブルーノートで見たマリア・シュナイダー・オーケストラもこういうところで見るとまた格別だろう(大宮はそういう会場だったらしい)。

 この広大なステージの前の方中央に箏の台。左端少し奥にピアノが壁に寄せてある。後半、箏の左に移動した。箏が面白いのは広いステージの中にあっても小さく見えない。実際長さは2メートルを超えるはずで、小さな楽器ではない。当然幅もあり、これを奏者から見て向こう側へ傾斜させて台の上に置く。少なくともそう見える。実は水平で、表面の傾斜からそう見えるのかもしれないが。外側の、低音弦をはじくときは椅子から体を浮かせ、手を伸ばしていたから、やはり傾斜はついているのだろう。

 十七弦はベースで高域はないが、二十五絃の上の方は普通の箏と同じのようだ。一台でより多様な表現が可能になる。先日 Winds Cafe で見た彼女が言っていたことによれば、二十五絃用には良い曲がたくさん書かれているらしい。今回の伊福部作品も〈琵琶行〉が二十五絃と〈交響的エグログ〉が二十絃のための曲で、〈プロメテの火より〉は石丸基司が二十五絃とピアノのために編曲している。前半の〈月舟〉も石丸作品で、二十五絃のためのものとある。

 個人的に最も感銘を受けたのは前半クローザーのバッハの〈シャコンヌ〉だった。箏でしか出せないヘンな音がたまらない。微分音とも違う。左手で弦を押さえて音を連続して変えるのを、弾くと同時に、あるいはその直前からやるように聞こえる。あるべきと思える音から外れた音が鳴る度に胸がキュンとなる。あるいは右手の主旋律に、左手が低音で応答する、その速度も、こういう楽器、つまり多弦のハープの類でしかできまい。この曲を聴けたたげでも来た甲斐があった。

 これに比べると後半の伊福部作品の面白さはぐっと地味になる。こういう曲を初めて聴いて楽しめ、というのはいささか無理がある。また聴きたいと思ったのが収穫。例の〈ゴジラのテーマ〉を思わせるキャッチーなフレーズがあちこちに出る。

 音楽とは別に面白かったのは小林氏の佇いだ。上は片方の肩を出したぴったりした服で、下はかなりゆったりしたパンタロンという出で立ち。裾は長く、靴は見えないが、どうも底が厚いか、かなりのハイヒールのようだ。それでステージの下手から楽器のところまで大股に歩いてゆく様にはやる気があまり感じられない。背は少し前屈み気味、嫌々ながらやらざるをえないことをやろうとしているとか、ルーティン・ワークをこなそうとしているとか見えるような雰囲気すら漂う。

 箏を前にして椅子に座り、弦を撫でていたかと思うと前触れもなく始める。ほんの一瞬位相が転換する間も見えないうちに曲が始まる。その途端、どこかだらしなく感じられた気分は拭い去られて、楽器と一体になった演奏が空間を満たす。曲が短いこともあるか、前半はすべて暗譜だった。バッハはメロディや構造は単純かもしれないが、箏の操作は相当に複雑に見えた。絃をはじきながらコマを細かく動かしてもゆく。弾き終わるとまた何ともゆるい感じで下がる。この対比は、後半でピアニストが加わるとさらに鮮明になった。ピアノの川上氏はピアニストらしく背筋がピンとしている。

 演奏からして木村氏が名手、達人の一人であることはまぎれもないが、楽器から離れると全然そうは見えない。別に名人らしくしていろと言うつもりはない。ただ、演奏中と演奏していないときでこれほど雰囲気に落差のある人は初めて見た気がする。

 ピアノと共演するため、後半は箏にPAを通していた。音は良く、ほぼ生音に聞こえた。箏とピアノという組合せも初めての気がする。今回ピアノはサポート役を振られていたが、対等にからみ合う演奏も聴いてみたい。箏はますます面白い。(ゆ)

1 Careless Grace(飾らない気品){木村麻耶}
2 トンコリ変奏曲 {Arturo Salinas} 初演
3 月舟 {石丸基司}
4 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第2番からシャコンヌ
{J. S. Bach, Karl Scheit 編曲, 木村麻耶 編曲補}

5 二十五絃箏曲 琵琶行 {伊福部昭}
6 舞踏曲 プロメテの火より 二十五絃箏とピアノのための {伊福部昭, 石丸基司 編曲}
7 二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ ピアノ・リダクション版
{伊福部昭, 石丸基司 編曲}

8 カッチーニのアヴェ・マリア

木村麻耶: 箏, 二十五絃箏, vocal
川上敦子: piano [6 7]



 このイベントはアニーこと中村大史さんと奥貫史子さん、石崎元弥氏が3人でライヴをしたいということではじまった由。その2回目で、今回はシンガーの Ema 氏をゲストに招いた。前半トリオで、後半4人で主に歌をやる。

 この4人が初めて集まったのは2年前,『ダブリンの鐘つきカビ人間』という劇のミュージカル化の際だそうだ。中村さんはこの時音楽監督として、使われる音楽、歌の作曲をしている。確か、先日の「アンサンブル・コンサート」のときも一部か演奏されたはずだ。この日はそのうちインストルメンタル2曲と歌1曲をメドレーでやる。どれもなかなかの佳曲。「アンサンブル・コンサート」のときも思ったが、中村さんは実によい曲を作る。

 Ema 氏がいい。ふだんはジャズを歌っているそうだが、自然にたっぷりとあふれ出る声を自在にコントロールする。その差し手引き手のタイミングと加減が何ともよろしい。どこから見ても一級の歌い手。こういう人がケルト系の歌をうたってくれるのは嬉しい。まずいきなり〈ダニー・ボーイ〉と来た。こういう歌をオープナーにもってくるのは何かあるはずだと思っていたら、何かあるどころではなかった。実に元気闊達でリズミカルな演奏。間にジグをはさむ、というのはどこかで聴いたぞと思ったら、後で中村さんがトリコロール版がベースと明かす。そうなのだ、こういう〈ダニー・ボーイ〉があったっていいじゃないかを通りこして、〈ダニー・ボーイ〉はこんな風に明るく元気にうたわれるべきだと思えてくる。あのみっともないおセンチなところなどかけらも無い。こりゃあ凄いぞ。

 ところがである、その衝撃も影がかすむほど、その後に名演名唱が続いたのだ。ダブル・アンコールまで後半はずっとハイライト。あたしはもう舞い上がりっぱなしだった。このイベントを知ったのは前々日。リハーサルが良かったので聴いてくれとアニーから連絡をもらった。昼は青葉台でドリーマーズ・サーカスだが夜なら行ける。雨は気になるが、いい音楽を聴くためならもう命を惜しむ年じゃない。行って良かった。昼間のドリーマーズ・サーカスがすっかり霞んでしまった。冥土の土産がまた一つ増えた。

 2曲目はアカペラから入る〈Welcome back Paddy home〉。名前は忘れたオールドタイムの有名な曲ときて、その次がハイライト中のハイライト。今回選曲は中村さんたち3人の提案がほとんどだが、1曲ジャズのスタンダードをこの編成でうたってみたいと Ema 氏から言いだした。それが大定番の〈My favorite things〉。意表を突いてバゥロンから始まるこれには鳥肌が立った。こんな〈My favorite things〉は聴いたことがない。これに比べれば他の演奏はコルトレーンですら表層をなぞっているだけに聞こえないか。いや、こういう尋常でない手法、Ema 氏の言葉を借りれば〈異文化交流〉の組立てだからこそ歌の本質、核にあるものが明瞭に現れるのだ。同時にそれをやっている音楽家たちの器もあらわになる。

 その後の『ダブリンの鐘つきカビ人間』からの曲、アニーの初期の傑作〈オリオン〉と〈気分〉もすばらしい。後者ではアニーはピアノ、〈オリオン〉ではリードを交互にとる。

 これは強力な人が出てきてくれたものだ。ジャズを歌う一級のシンガーがこういう歌をうたってくれる例はほとんどない。あたしの知る限りではアイルランドの Christine Tobin が初期にやっていたくらいだ。あるいはSusan McKeown。彼女自身は伝統の人だが、パートナーがジャズのベーシストだったから、その頃の録音はジャズのセンスでやっているものもある。それくらいだ。この組合せはぜひぜひ続けて、いずれは録音も出して欲しい。

 前半は奥貫さんの趣味全開で、ほとんどはケープ・ブレトンやオンタリオ、ケベックなどカナダの曲。得意のフット・パーカッションはもちろん、前半クローザーの長いメドレーではステップ・ダンスも飛び出した。

 奥貫さんのフィドルをこんなにたっぷり聴けたのも初めての気がする。いつも誰かと一緒だったり、セッションの中だったりだった。あらためて音色の太さと歯切れの良さに感嘆する。歯切れの良さはスコッチ系の曲が多いこともあるかもしれないが、それだけではないだろう。基本的なキャラクターであると聞こえた。一方で後半の歌伴では間奏でしっかりメロディを崩してみせて、いやいいですね。アンコールの〈Wild mountain thyme〉ではコーラスも披露する。

 石崎氏は今日はバンジョーではなく、マンドリンとバゥロンを曲により場面により持ちかえる。マンドリンもかなりの腕で、これも本朝ではプレーヤー、つまりブルーグラスではない人が少ないから、どんどんやっていただきたい。

 アニーはピアノが弾きたいという。実際ケルト系のダンス・チューンのピアノとしては相当に異色と思う。ギター伴奏の応用だろうか。時に左手で低いところでメロディの一部をユニゾンしたりするのが面白い。こういうピアノはケープ・ブレトンではまちがっても聴けないし、スコットランド、アイルランドでもほとんどいない。スコットランドの Dave Milligan が近いかもしれないが、彼はジャズもやる人である。

 それにしても作曲家・中村大史は逸材だと思う。「アンサンブル・コンサート」を京都と北海道の故郷でやるという。これは行きたい。行かねばならん。冥土の土産にするためにも。(ゆ)

中村大史: guitar, accordion, piano, vocals
奥貫史子: fiddle, vocals
石崎元弥: bodhran, mandolin, vocals
Ema: vocals



 小暮さんは他のうたい手とはまるで異なるところ、異次元に行ってしまっていた。元々個性的な声がさらに熟したと言おうか。成長とは違う気がする。一方熟すという言葉に含まれる老いの匂いはかけらも無い。時間を超越している。倍音がより豊富にも聞こえる。貫通力も増した。ただ、力づくで強引につき通ってくるのではない。するっと入ってくる。入ってくる時の摩擦がない。

 そして死が宿っている。死の影とか匂いとかではない。死そのものが声に宿る。うたい手が死を意識しているのではないだろう。唄う動機の根底に死が作用しているのではないか。それもやはりうたい手の意識にはのぼってこないところに。こちらの年齢も共鳴あるいは共振してのことかもしれない。その死の存在ゆえに、うたわれている生きる喜びがより切実に響く。もうすぐ自分にもやって来る死が実感される。メメント・モリ。実感されるから、今日も生きてあること、生きてこの唄を聴けることの嬉しさがこみあげてきて、胸に迫る。涙がこぼれる。本当に頬を伝うのを感じる。

 その声の威力をまず感じたのは3曲目〈それはすべてファド〉だった。ギタラ・ポルチュギースとヴィオラ・バハとピアノ、それに自身のギターでうたわれる。こういう歌を唄ってファドの作り手とうたい手たちはポルトガルのサラザール独裁政権時代を生きのびたそうだ。声が伸びるところでその声がふわあと空間を満たす。

 最初に涙が出てきたのは、5曲目〈ほたるの庭で〉。「今年もまた会いに来た」。今年も生きながらえ、やってくることができた。表には出さないからその嬉しさが心の奥に沈みこむ。何といううたなのだ、この歌は。

 後半は何をうたわれても涙が出てくる。〈あぜ道〉〈ちょうちょ〉〈ガタンゴトン〉〈タンポポのように〉。どうしてこんな歌が作れるのか。まるであたしのために、あたしだけのためにつくり、うたってくれていると聞こえる。生きてあることのありがたさが湧いてくる。失敗の連続にしか思えない人生だが、それがひどく貴重でありがたいものに見えてくる。

 とどめを刺されたのは二度目のアンコール、〈誰かが誰かを〉。ギターを置いてピアノだけでうたう。うたい手が別の次元に行っていると納得させられた。作者の紅龍さんが聴いたらどう言うだろうか。よくぞここまでうたってくれたと褒めるだろうか。俺にもうたえないくらいにうたいやがってと悔しがるだろうか。などということすら頭をよぎる。

 レコ発ライヴで録音に参加したミュージシャンが総勢8名、チェロとカンテレの2人を除いて顔をそろえた。もっともフルバンドでバックアップすることは少なく、さまざまな組合せで支える。パーカッションとヴィオラ・ダ・モーレにやはり耳を惹かれる。ギタラ・ポルチュギースの鮮烈な響き、オープナーでいきなり登場したグレート・バス・リコーダーのどこまでも柔らかい、底無しの低音も耳に残る。

 会場は下北沢のビル三階の多目的ホール。床はフローリング、天上はコンクリート打ち放し。少し低いと思われたが、声を初めとして音は良く抜けていた。

 終わっても呆然としていて、帰り際、プロデューサーも兼ねたピアノの永田さんがいるのに話しかけようとしても声が出なかった。(ゆ)

小暮はな: vocal, guitar
永田雅代: piano
関島岳郎: recorders, tuba
向島ゆり子: violin
関根真理: percussion
小澤陸: bass
月本一史: guitarra portugesa
伊代田大樹: viola baixo

 後半ベートーヴェンの第3楽章に入ってテンポがさらにゆっくりになった。元々この楽章はゆっくりと演奏される上に、今日は前半のメンデルスゾーンから遅めのテンポが続いていたから、おそらくこれ以上遅くはできないくらいになる。あたしはさらに感じ入った。今日の遅めのテンポがどんぴしゃだったのだ。名曲はゆっくりと聴きたい。ゆっくりが好きというのは年齢もあるだろう。ケルト系のダンス・チューンでも、つんのめるよりはのったりと表現できるようなテンポの方がよく聞こえる。

 〈大公〉の第3楽章はこの曲の肝である。というのは今回のための予習でわかったことの一つだった。ここでは静かな時がゆったりと流れる。それでいて曲中もっとも曲調の振幅が大きく、劇的な変化が激しいとも聞こえる。ここが肝だとわかった時、あたしが連想したのは例の〈大フーガ〉だった。後期弦楽四重奏曲群の肝である。どちらも破綻している。といって悪ければ破格の曲だ。作り手がおのれの中からあふれて来るものをコントロールできなくなった結果だ。

 西欧クラシック音楽は均整美を旨とする。破綻すること、あふれて収拾がつかなくなることを嫌う。早い話、前半のメンデルスゾーンの一番はきれいにまとまっている。第3楽章は軽やかなスケルツォで、起承転結の転を鮮やかにやってみせて、フィナーレを用意する。これはこれで立派なものだ。

 〈大公〉の第3楽章は四つの楽章の中で一番長い。一瞬くるりと成されるべき転が延々と続く。転の一瞬はそこから切れ目なく移る第4楽章冒頭のドンにあると聞こえる。しかしこれが転を成就するためには第3楽章がどこまでも静謐に深々と沈んでいなければならない。アーティストからの楽曲解説にある「祈り」ではあるかもしれないが、だとしても他力本願の祈りではなく、祈ることでエネルギーを引きだし、ためてゆく祈りだ。

 この楽章はどこまでも静謐な純粋な美しさに満ちていた。例えば二本の弦のハモり。とりわけ弱音のハモり。弓を引いているというよりは、弓が自ら弦の上を滑ってゆくような響き。

 そしてむろんここだけが良かったわけではない。冒頭のピアノからラストの3人そろってのフォルテシモまで、いとも自然に音楽が流れてゆく。人間がそこにいて演奏しているにはちがいないが、音楽そのものが自ら望んで顕現しているように感じる。ピアノがほぼ弾きづめに弾いているところへ、弦2本がふわりとさり気なく加わる。楽譜にしたがって演奏しているというよりも、音楽家がふと思いついて即興で演奏しているようにさえ感じる。

 そうでないことは承知している。今回はしっかり予習して臨んだ。クラシックの曲は、ある程度体に入って、どこでどういうフレーズや音が出るか、見当がつくようになって初めて面白みがわかることは身に染みていた。実際〈大公〉を初めて聴いた時には何とつまらない曲かとあきれた。どこが名曲だ、これならメンデルスゾーンの方がよほど面白いではないか。音数は少ないし、メロディは平板だし、変化もない。第3楽章は何も起きないにしては長すぎる。

 それが演奏者を変えながら、三回、四回と聴くうちにだんだん変わってきた。何ごとも起きないことが良くなってきた。そして五回目、中村紘子、海野義雄、堤剛による録音を聴いた時、シェーマはほぼ百八十度回転した。第1楽章の半ば、ピアノが高域でトレモロを続けるのに弦2本がずっとピチカートで応じるところで、背筋に戦慄が走った。そして第3楽章。ああ、ここがこの曲の肝なのだと実感すると同時にベートーヴェン、凄えとも感嘆していた。

 クラシックをまた聴くようになって、バッハとモーツァルトの偉大さは心から実感できるようになっていたけれども、ベートーヴェンは相変わらず素直に聴く気になれないでいた。〈大フーガ〉を含む後期弦楽カルテットをじっくり聴いて風向きが変わっていたのが、〈大公〉第3楽章の真価を感得して、〈大フーガ〉とこれを作っただけでも、ベートーヴェンはすげえと思えた。

 この2曲、というのもヘンだが、ここでは仮に2曲としておくけれども、この2曲でベートーヴェンの作曲家、クリエーターとしてのデーモンが爆発している。どちらも静かな音楽で、爆発という表現は似合わないが、それでも爆発としか言いようがない。先日まとめて聴いたチャーリー・パーカーのソロとか、グレイトフル・デッドの集団即興のベストの時とかと性格を同じくする。クラシックで他に探せばバッハの〈シャコンヌ〉だ。それだけにこの2曲が本来の力を発揮するように、あるいは本来の性格がリスナーにしっかりと受けとめられるように演奏するのは容易なことではない。表面はどこまでも静謐で、しかもなお内部にふつふつとエネルギーを感じさせなければならない。録音で聴いた中村、海野、堤のトリオはその基準は軽くクリアしていた。というよりも、最高の形で提示していた。

 今回生で聴いたこのトリオの演奏はそれをも凌駕していたとあたしには思える。〈大公〉全体の演奏が、である。むろん録音と生は別物だ。それでもなお、である。前回、昨年のフォーレとシューマンの時とはまた違う。あの時はこの世ならぬところへ、時空から完全に離れて連れて行かれた。今回はあくまでも音楽そのもの、至高の音楽にどっぷりひたされた。この違いがどこから来るのかわからないが、今はどうでもいい。前回は他の音楽が聴けなくなった、聴きたいと思わなくなった。今回は逆にどんどん聴きたくなっている。川村さんは次はこの人たちのピアノ五重奏を聴きたいという。よっしゃ、ピアノ・クィンテット、聴きましょう。

 元来は3年前、このトリオに〈大公〉トリオを演ってほしいと川村さんが依頼したのが始まりだそうだ。ところが直前になって、やむをえぬ事情でヴァイオリンが参加できなくなり、急遽チェロとピアノのデュオの形になった。あたしが惚れこんだラフマニノフのチェロ・ソナタがその成果。ヴァイオリンの復帰が遅れたために、翌年はプーランク、そして昨年はフォーレとシューマンをあたしたちは体験することができた。どちらも生涯何度もできない体験で、あたしにとってはまさに瓢箪から駒のありがたさ。そして、ついに今回、ヴァイオリンの復帰がかない、満を持しての〈大公〉。まるでこれまでの3回がこのための準備運動にさえ見える、といっても各々に至高の体験だったコンサートの価値が落ちるわけではない、それくらいこの〈大公〉は良かった。生きのびてこれを聴けたことの幸せを噛みしめたことである。

 前半のメンデルスゾーンがまた良かった。メンデルスゾーンの他の曲も聴いてみたいという欲求が出てきた。第2楽章ラストのゆらゆらと揺れながら消えてゆく様子もいいし、第3楽章は浮き浮きと良く弾んでまことに楽しい。休憩の時、この曲がこれだけ良いなら、後半の〈大公〉は名演になると川村さんと話していた。

 もっともマクラとしてやった〈無言歌:春の歌〉ピアノ・トリオ版は始まった途端、あたしはもう少しで吹き出すところだった。というのも山本直純のせいである。遙か数十年の昔、たまたま目にしたテレビ番組で、「題名のない音楽会」だったか、昼間だったような記憶もあるからまた別のものか、とにかくその中で山本が音頭をとってこのメロディで「水虫の唄」というのをやったのだ。どうしてそういうことをしたのかという経緯はもうすっぽりと忘れているが、冒頭の歌詞の一節は憶えている。

せぇつなくうずくみぃずむしはぁ、きぃみとぉぼくとのあいのしるーし

 山本はこれの歌唱指導をそこでやった。だから憶えているのだ。以来、このメロディがどこかで聞えてくると反射的に「せぇつなくうずくみぃずむしはぁ」と出てきてしまう。否応なく出てきてしまう。しかもこれがメンデルスゾーンのこの曲であると、あたしは今回初めて知ったのだった。ご本人たちはもちろんそんなことはまったくご存知なく、真剣に演奏している。唄になっていなかった部分も含めて、なかなかの佳曲でもある。しかしテーマがくり返される度に「せぇつなくうずく〜」と出てきてしまうのには困った。まあ、おかげでこちらもガチガチに期待して構えていたのが、肩の力が抜けて、より素直に後の音楽に向かうことができたのかもしれない。(ゆ)

前半
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ (1809-1947)
 「無言歌集第5巻」Op.62 より 第6曲 イ長調 アレグレット・グラツィオーソ「春の歌」(1842)
  《リチャード・クルーゲシェイド Richard Klugescheid (1889-1968) によるピアノ三重奏編曲版 (1907出版)》

フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
 ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 0p.49 (1839)

後半
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770-1827)
 ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 0p.97「大公」(1811)

アンコール
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
 ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 0p.49 第2楽章 アンダンテ・コン・モート・トランクィロ

百武恵子: piano
荒井智子: violin
竹本聖子: violoncello

 フィドル、ヴィオラの小松大さん、チェロの成田七海さんのデュオ Stringers のファースト・アルバム《Route One》、レコ発ライヴ。会場の「ボイラー室」は前に「音や金時」があった同じ場所。ビルの地下で、元々ここは銭湯で、地下室はボイラー室だった由。内装はステージ側の丸天井を描きかえたり、テーブル、椅子は替えているようだが、全体の配置、雰囲気は変わっていない。後でスケジュールを見ると、演目やミュージシャンも引き継いでいるようだ。まずは良かった。ただ、「ボイラー室」という名前はあまりに直截すぎるような気もする。


 このデュオのライヴを見るのは二度目。前回は hatao & nami との対バンだった。まずは成田さんのチェロの格段の進歩に喜ぶ。基本は弓で弦を短く弾く。弾くと言うより、弾くのと弦を叩くのとの中間ないし同時にやる感じ。ご本人は「ドリフト」と呼んでいる。弓を弦の上にずらせる感覚だろうか。

 ずらす長さには3種類くらいあるらしい。ごく短く、ほぼ叩くもの。少しずらすもの、そしてはっきりと弾いているとわかるもの。これに普通に弓で長く弾いてメロディをユニゾンすることもあり、ドローンをつける時もある。つまりこれらの弾き方をそのときどきに使い分け、あるいは組みあわせる。その効果はギターやブズーキやピアノなどのリズム楽器の生みだすものとは相当に異なる。

 グルーヴというには繊細だが、ドライヴする力はかなり強い。音が低いこともあるのだろう。下から押し上げる感覚も明瞭だ。フィドルやヴィオラの音が浮き上がるように聞こえる。

 一方でフィドルやヴィオラがチェロの生みだす、ビートともクルーヴとも違う不思議なドライヴに乗るのでも無い。フィドルやヴィオラの発する音がチェロの発する音に反応して輝きを増すのである。より艶やかに、みずみずしく響く。これは新しい。ダンス・チューンの、やはりノリとしかいいようが無いが、このノリ、この響きとチェロの太く、地の底から湧いてくるドライヴの感覚の組合せはこれまで聴いたことがない。

 もっともこういうことがわかってきたのはライヴが進んでからで、初めのうちは何が起きているのか、より正確にはチェロが何をやっているのか、わからなかった。一つには前回からは次元を異にしてチェロの語彙が豊富になっていたからだ。ライヴを通してあたしがわかったのは上述の五つくらいだが、もっとたくさんあってもおかしくない。それに音程も加わる。弦のずらせ方も一様ではない。弓を回転させてもいるらしい。

 どうやらチェロが凄いことになっているとようやくはっきりわかったのは4曲目のワルツだった。成田さんがやおらチェロを横抱きにした。ギターを弾くように指ではじく。さらにそのままメロディまでやってのける。しかもこの曲で小松さんが弾いているのはヴィオラだ。ヴィオラがドローンをつけ、メロディを弾くチェロにハーモニーをつける。それからおもむろにヴィオラがメロディを奏で、チェロがハーモニーをつける。うーん、こりゃあ、ええよ。

 次のホーンパイプではチェロは弓で弦を叩く。さらに次の、前半のクローザー、Music for found harmonium から始まるセットの2曲目のリールで、チェロがユニゾンする。

 ヴィオラとチェロの組合せは最強だ。後半の〈洞窟セット〉ではどんどんと地底に潜ってゆく。低音の快感。後半はハイライトが続いた。やはりヴィオラとチェロでゆっくりと始める〈クリスマス・イヴ〉。ここでチェロがつけるドローンにはハーモニクスが入っているのか。次のカロラン・チューンではチェロのソロも出た。

 曲の構成、順番は決めているわけだが、小松さんも成田さんも決まったことだけやっているわけでもない。フィドルが装飾音の入れ方を即興で変えれば、チェロも応ずるところも何回かあった。あたしにはわからなかったところもあったはずだ。とにかくふたりとも実にたのしそうだ。

 MC で明かされたことの一つに、このデュオのなれそめがある。最初予定されていたミュージシャン、成田さんのご母堂が体調を崩されて出られなくなった。その穴埋めに急遽二人でやってみたのだそうだ。ところがそれが案外うまくいった。お互いに面白かった。ではもう少し続けてみようということになった。確かにこの組合せは意図してできるものではあるまい。そうした偶然、瓢箪から駒が出るようにしか出てこないだろう。しかしできた以上は行けるところまでとことん行ってみて欲しい、と、このライヴを見てあらためて思う。音のバランスのためだろうか、どの楽器も軽く増幅をかけていたが、ほぼ生音に聞こえた。

 会場で買ったデビュー・アルバムはすばらしい出来で、あらためて書くかもしれない。やはり MC で、録音当日は小松さんが絶不調で、息も絶え絶えだったと明かされたが、録音にはそんな様子はカケラも無い。(ゆ)

 奈加さんの恒例、春の楽屋のライヴ、昨年と同じく目黒川花見の日で、中目黒の駅はごったがえし、駅員、警備員が交通整理に動員されていた。今年は屋台などだけで無く、駅前の広場では何やらライヴも行われている。そのステージの裏を通って楽屋に向かう。

 今年は向島ゆり子さんがゲスト。例のヴィオラ・ダ・ガンバらしき楽器とフィドル担当。例によってヴィオラらしいふくよかな響きが美味しい。間奏ではメロディをそのままくり返すのではなく、細かく変奏を入れる。大きく外すのも好きだが、こういう小さな変化もいいものだと思い知らされる。

 奈加さんの調子はいいい。いつになく良く声が出て、よく通る。ただでさえ耳に快い声がさらに気持ちよい。もともと澄んでいるのが、響きからわずかに残っていた不純物が漉しとられたようにさえ聞こえる。いつもはピアノに耳が誘われるが、今日はまず声に引きつけられる。うたっていない時には、ヴィオラとフィドルが空間を満たす。ヴィオラの低い方に膨らむ響きは古楽の味わいも生む。音楽がより原初的になる。ピアノはあえてサポートに徹しているようだ。ほとんど意識にのぼらない。

 今回新鮮だったのはもう一つ、奈加さんの小道具。うたいながら鈴などのパーカッションを使ったり、小鳥の声の笛を鳴らす。こういうビートへの意識はこれまで感じたことがなかった。そのせいか後半月夜の下の物語としてうたった〈As I roved out〉ではレゲエのビートが聞こえて驚いた。

 唄だけでは無く、語りもあった。有名な「リールの子どもたち」で、アイルランドの民話・伝説ではこういう理不尽とも思える話がかなりある。ひょっとすると話の筋よりも語る言葉の美しさを優先しているのかとも思えたりする。奈加さんは比較的淡々と語って余韻を残す。

 歌唱そのものは後半のほうがよかった。上述の〈月夜の下の物語〉そしてラストのわずかにテンポの速めな〈ポンチャートレイン〉。アンコールの〈丘の上にて〉。これを生で聴けたのは久しぶり。奈加さんが〈ダニー・ボーイ〉のメロディにつけたオリジナルのこの詞はやはり名曲と思う。

 濃厚でもありながら、同時に至極あっさりしているようでもある。もう少し聴いていたくもなる。たまにはリズム・セクションまでそろった編成でも聴いてみたい。それには新たな録音が必要になるか。そろそろ次が欲しいものだ。(ゆ)

奈加靖子: vocals, harp, percussion
向島ゆり子: viola da gamba, fiddle
永田雅代: piano

 矢島絵里子さんと岡皆実さんのデュオ Failte(フォルチャ、確か、welcome の意)のレコ発。前半は二人での演奏。後半はアルバムて1曲だけ加わったゲストを迎えて5人での演奏。ゲストはイレン・パイプ、ホィッスルの中原直美、フィドル、マンドリンの山田拓斗、バゥロン、ブズーキの植松波音の三氏。

 矢島さんはウッドとメタルの2種類のフルート、ホィッスルを持ちかえるほかに、小さな鉄琴,口にくわえて風の音を出すもの、鉦などのパーカッションを随所にはさむ。

 岡さんはブズーキとピアノ。ピアノは一見オルガンにみえる小型のもの。ピアノとブズーキの配分はほぼ半々。ピアノもコードを押さえるだけでなく、フルートとメロディをユニゾンしたり、カウンター・メロディを弾いたり、ハーモニーをつけたり、いろいろやる。ブズーキも同様で、アルペジオでビートをつけるのからコード・ストロークへ移ったり、逆もある。ピアノもブズーキも即興かと思える時もある。

 こういう2人の多彩な技、音色を組みあわせるアレンジが実にいい。センスがいい。2人だけでやっているとは思えない音の厚みが出る。空間が広がる。ホメリで聴いてもその効果は明らかだったが、今日は小さいながらPAをきちんと入れていて、一回り大きくなった感じだ。このPAは卓は見えず、コントロールはすべて iPad でやっているようだった。実にバランスの良い、センスも良いものだ。例えば、どちらかというと隠れがちのブズーキの音が明瞭によく響いていたのは嬉しかった。この会場はアクセスはお世辞にも良いとは言えないが、この音はそのデメリットを補ってあまりあった。

 アレンジの良さはこのデュオを初めて聴いた時から感心していたけれど、今回はひときわ冴えていた。しかもアレンジのためのアレンジというあざとさやケバケバしさはかけらもない。ごく自然に曲の良さがより引き立つように工夫されている。楽器や演奏手法の組合せ、テンポの変化、パーカッションの入れ方、いちいち腑に落ちる。まさにそれぞれの曲にふさわしく、メロディの良さが染みてくる。こういうセンスは訓練で身につくものなのか。あるいは何かお手本があるのか。日頃の精進の賜物か。あるいは天性の資質を研いているのか。おそらくはその全部の組合せなのだろう。

 そしてまた曲がいい。前は矢島さんの作る曲と岡さんの手になる曲が截然と判別できて、その対比が面白かったのだが、今日は不思議にもその区別が浮かびあがってこない。2人それぞれの曲というよりも Failte というユニットの曲として聞こえる。これもまたアレンジの妙だろうか。

 前半、後半、曲の並びも巧く、ダレることもない一方で大きな流れはあって、どちらもラストの曲がベスト。

 後半ゲストが入って、アルバムでは2人だけでやっている曲も、今日だけは5人でやる。5人の選択がまたいい。フィドルの山田氏はジル・アパップの能舞台ライヴで、ブルーグラスのバンジョーとのデュオで見ている。いわゆるケルト系以外のルーツと素養を備えて、 Failte の音楽にふだんとは異なる色彩を加える。フィドルというよりはヴァイオリンと呼ぶべきところもあって、懐がなかなか深い。

 中原さんのパイプを生で聴くのは久しぶりで、器の大きなゆったりした響きは相変わらず。ただでさえふくらみのあるロゥホィッスルの響きもさらに膨らむ。

 植松氏はたぶん初めて、少なくとも生は初めてのはずだ。堅実な演奏と聞こえた。できればサポートよりもフロントとして聴いてみたい。Chululu というバンドをされているようで、会場で売っていたCDを買いこんだ。

 5人編成の演奏はまたすばらしく、次のアルバムではぜひバンド編成の録音を増やして欲しい。流行りのアナログ盤でいえば、A面デュオ、B面バンドというのはどうだろうか。昔クリスティ・ムーアがやったように。

 曲は新譜からが大半だが、新曲やユニット名がまだない頃からやっているけれどアルバムに入れなかった曲などもやる。新曲に東欧風の曲もあるのは面白い。

 アレンジはいずれも念入りで、曲の性格ぴったりではあるが、劇的なところがほとんどない。唯一ドラマチックだったのがアンコール。というのはおそらく意図したわけではないだろう。

 アルバムは出したわけだが、曲はどんどんできていて、後二枚分くらいはすでにあるらしい。そういえば高梨菖子さんも曲がどんどんできるようで、笛の人はそういうものなのだろうか。それとも曲がどんどんできる人がたまたま笛の名手でもあるということか。できているうちの全部が全部形になるものでもないだろうが、少なくとも今日聴けた曲はどれも佳曲揃いだった。

 それにしても岡さんのピアノはいい。こうなるとセツメロゥズもピアノ入りで聴きたくなる。(ゆ)



 ミュージシャンはいくつもの顔を持っているものだ。優れた人になるほど、顔が増える。一つの顔だけ強調するのは売れる要諦かもしれないが、いわゆるアイドルのつまらなさはそこにある。

 アニーこと中村大史もいくつもの顔を持つ一人だ。トリコロールと O'Jizo の顔は違うし、ジョンジョンフェスティヴァルでの顔もまた違う。そしてこの日はそれらのどれとも違う顔を見せた。ひと言でいえば作曲家としての顔である。この日のレパートリィはすべて自作、それも参加したミュージカルや演劇などの舞台のための曲や、コンセプト・アルバムのために作った曲が中心である。

 彼が参加した舞台やミュージカルはチケットをとるのがひどく難しい。今は少しでも人気のある劇団はどこもそうらしい。チケットを買うのに抽選などと言われると、それだけで萎えてしまうのは老人の性か。だからこれらの音楽を本来の文脈で聴いたことはなかった。と言うより、そもそも聴いたことがなかった。映画にはサントラがあるが、舞台のための音楽は後でパッケージなりストリーミングなりで聴けるようになるのは滅多にないようだ。あたしが知らないだけか。

 こうした方面での中村さんの曲はバンドのためのものとは性格を異にする。アイリッシュやケルト系バンドでの、時にアグレッシヴになる闊達な側面とは対照的に、むしろ静謐になることもある抒情性に満ちる。聴いていて心が穏やかに静まり、溜まっていた澱が溶けて、すがすがしい気分になる音楽だ。あるいはほかほかと明るい山道を歩いてゆくと、心晴れ晴れ、日ごろの鬱も散じて生きてあることが嬉しくなる音楽でもある。こういう音楽をトリコロールや O'Jizo でやるのは、雰囲気を変えたり、アクセントをつけたりするのにはよいだろうが、これ一色というのは合わないだろう。どこかふさわしくない。バンドにはそれぞれ固有のキャラがある。

 中村さんもそのことは重々わかっていて、バンドとは別の形のコンサートをやりたいと思っていた。しかし彼自身はなかなか時間が取れない。そこで見かねた石崎元弥氏が制作を買ってでた、とMCで言う。

 実際このコンサートのために集めたミュージシャンに、中村さんがやっているバンドのメンバーはいない。と言ってまったく無縁の人たちでもない。これまで中村さんがさまざまな形で関わり、共演してきた人たちである。あらためて中村さんの顔の広さを思い知らされる。

 音楽の姿としてはバンドでやっているアイリッシュやケルト系は皆無。むしろクラシックに近い。現代音楽的なところさえある。メンバーの中で最も「アイリッシュ」のカラーが濃い奥貫氏も今日弾いているのはフィドルではない、ヴァイオリンである。ヴォーカルの優河氏も堂々たるオペラ歌手の風格を見せる。二人ともこんな面があったのかと驚かされる。衣装もみな正装に近い。中村さんは燕尾服だ。おまけに前半と後半で色を替えてきた。前半は遠目にはブルーの入ったグレー、後半は黒。

 全体としてこれはバンドの音楽ではなく、中村大史個人の、ソロの世界だ。あらためてこうしてまとめて聴くと彼は屈指のメロディ・メーカーである。美しい曲が次から次に奏でられて、ひたすら陶然としていた。その美しさを引立たせるように巧妙なアレンジが施されている。例えば[04]。楽器がメロディを引継ぎながら加わってきて、ついにはフル・バンドの壮大な音楽になる。響きもいい。新倉さんのチェロの膨らみ、ハープの鮮烈、そしておそらくはわざわざ選んで持ちこんだベヒシュタインのピアノの清らかさ。一級のミュージシャンたちが、それぞれのパートを心をこめて演奏して、曲に命を吹きこむ。皆さん、演奏するのが愉しくて仕方がないのもよくわかる。

 中村さん本人はどちらかと言えばピアノに向かっていることが多い。位置としては自分の楽団をリードするエリントンと言うところ。例外の一つはラストの〈Our birth〉。自作の中で最もプライヴェートな曲というこの宝石のようなメロディをピアノでリードし、アンサンブルがさまざまな形で展開する。膨らんではまたピアノにもどる。気がつくとすっかり音に引きこまれている。曲が終わったとわかった時にはほうとため息が出た。

 中村さんの生むメロディはアイリッシュ的、ケルティックな味わいが濃厚なのだが、聴いているとどこか日本的な感覚がある。これがどこから来るのかわからない。日本的と感じるのがなぜかもわからない。わからないがその感覚は明瞭でもある。不思議な感覚。

 アイリッシュばりばりを期待した向きにはアテが外れたかもしれない。とはいえこれもまたアニーの音楽だし、ひょっとすると彼の本質により近い形かもしれない。

 一方でよりダイナミックな側面もまた間違いなくあるはずだ。今回はゆったりした音楽、急激な変化の少ない演奏に終始していたが、次はもう少し動と静の対象を聴かせてもらえたらと願う。もちろん次回のありますように。そしてこのメンツでの中村作品集の録音が出ますように。

中村大史 / Piano, Guitar, etc.
優河 / Vocal
奥貫史子 / Violin
竹内理恵 / Saxophone, Clarinet, Flute
新倉瞳 / Cello
堀米綾 / Celtic Harp
かわぐちシンゴ / Guitar, Mandolin, etc.

 奥脇泉さんの「卒業」公演。ずっと笑顔で唄っていたのが、アンコールでは涙声になった。

 現メンバーでは最も新しく、最年少、背が一番高い。声の太さも一番。畠山さんが高音に突きぬけ、菊池さんがどこまでも透明に澄んでゆくのに対し、奥脇さんのソプラノは実の締まった豊かさを湛える。〈会津磐梯山〉前のMCの会津弁に代表されるユーモアのセンスも際立つ。事情は知らないが、この人が脱けるのは実に惜しい。昨年ギターの河野智美氏とのデュオで出した《さくやひめ》はすばらしかったから、そちらに傾注するのだろうか。とはいえ、ソロとアカペラ・コーラスは両立しないものでもないだろう、と素人は思う。

 このメンバーで最後ということもあろう、歌唱はどの曲も見事。アウラのライヴは同じ曲でも毎回アレンジを変えているように聞こえるが、今回はひときわ冴えわたっていた。オープナー〈ゴーデーテ〉はメンバーが客席後方から入ってきて唄いながらステージまで歩いて上がる演出。この礼拝堂の響きの良さがよくわかる。ハーモニーも四人が密にまとまるのではなく、上と下、高と低に広がる重なりを響かせる。この手法はこの後も存分に活用される。星野さんの声がぐっと低く沈んでゆくのがたまりまへん。時にはソプラノが下に潜ることもある。高い声が潜り、低い声が飛翔するのはスリリングだ。

 一つの時期の終りを画する時に定番で唄われる〈蛍の光〉も、アウラは原曲の意味にもどり、旧友との再会として唄う。しんみりせず、喜びに満ちた元気な唄。対照的に〈スカボロー・フェア〉は、こちらも原曲本来の意味にもどり、ダークで時に不気味ですらある。元歌の古いバラッドには The elfin knight というタイトルもあり、あたしはそれを〈妖魔の騎士〉と訳したことがある。

 前半クローザーの〈花〉はハーモニーが切れまくる。ひょっとすると空気の乾燥が会場の響きに作用しているのか。四人の声が個々にははっきり聞こえながら、その重なりに戦慄が体に走る。近年のアウラは詞のないスキャットのハーモニーを多用する。そのハーモニーの流れ、上になり下になってからみ合う流れが今日は一段となめらかで美しい。

 スキャットは後半オープナーの〈春の海〉では琴の弦をエミュレートし、次の〈竹田の子守歌〉ではすばらしい間奏の展開をする。ほとんどの曲でイントロとアウトロでも使うし、歌詞をうたうバックでも使う。楽器の役割。それが人間の声で奏でられるのは快感だ。一方で奥脇さんが強調していたように、とんでもなく難しくもあるだろう。このスキャットのインストルメンタル的唱法は近年のアウラ最大の発明であり、今のアウラをユニークな存在にしているとも見える。時にドローンとして使う時もあって、これがあたしにはまた快感。

 〈会津磐梯山〉は聴くたびにアレンジが違うと聞こえる。今日のヴァージョンは一段と冴えている。クローザーに向けて古いレパートリィを唄うと、こちらはスキャットが無い。四人とも常に詞を唄う。アウラの出発点はインストゥルメンタルに詞をあてはめて唄うことだった。今はそれとは百八十度アプローチが変わっていることになる。これも面白い。

 オペラ・シンガーの道に行きづまっていた時にアウラのファーストを聴いて救われたという奥脇さんの話は、前にもMCで聞いたことがある。とはいえ、アウラを目指し、加入したことで育てられたという感覚はアンコールの〈You raise me up〉を万感迫るものにしていた。ミュージシャンと聞き手は実はまったく別々のことを感じているのは事実としても、この時は奥脇さんの想いの一部を共感できたと感じた。

 クラシックだけでなく、さまざまな曲を、訓練された声と入念なアレンジのアカペラ・コーラスで聴かせてくれるアウラのすごさをあらためて実感する。ここ数年のアウラはコンサートごとにこれまでで最高という歌唱を聴かせてくれていて、今回も昨年末のクリスマスとくらべてもとびぬけている。この声の重なりの快感はこれからも追いかけたい。

 今回は會田瑞樹氏の自作ばかりを演奏するという企画。こういうプログラムは4回目だそうだ。演目はA4判4ページにぎっしり書かれたものが配られ、各曲の演奏前にも一通り口頭で説明される。この解説は必要でもあるだろう。というのも會田氏の演奏は見ているだけで背筋が寒くなるほどのものであるからだ。あんな演奏を休みなしで続けられるはずが無い。ましてや今回はダブル・ヘッダーで、後にもう1本コンサートが控えているので、1時間20分、8曲を一気にやる。

 主な楽器はヴィブラフォン。會田氏はこの楽器に惚れこんだか、とり憑かれたかしているらしい。他に小太鼓、サイドドラム、小型の木魚、電動歯ブラシ、何だかよくわからないものなども使う。電動歯ブラシはスイッチを入れてブーンと鳴る音を使ったり、ヴィブラフォンの音盤の上に当てて、目覚ましのベルの音を立てたりする。ラストの「一茶の俳句による打楽器のためのコンポジション」では、有名な「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」の句のパートで蠅の羽音に使っていた。

 會田氏は正面に置いたヴィブラフォンの、客席から見て左に小太鼓群、右に小道具類を置く。だいたいはヴィブラフォンだが、時に左に右に跳びまわり、ヴィブラフォンの前に出ることもある。

 たいていはマレットやバチで叩いているが、時に指や、マレットやバチの柄の方で叩いたりもする。ヴィブラフォンの胴体、フットペダルの軸なども叩く。オープナーの「心臓の小太鼓——歌唱を伴う小太鼓独奏のための」では小太鼓を指で叩きながら登場し、その面に顔を擦りつけたりもする。両手以外で打楽器を「叩いた」のはこの時だけだった。つまり足で蹴ったりはしない。考えてみるともっぱら足であやつる楽器というのは知らない。上半身に障碍のある人のためのものならあるのだろうか。

 ヴィブラフォンで連想するのはジャズのものが多い。MJQやゲイリー・バートンが代表だ。會田氏の音楽、演奏は別の世界である。明確なメロディと聞こえるものはほとんど無い。音は跳びはねる、文字通り。マレットは目にも留まらぬスピードで音盤の上を縦横に駆けぬけ、本人の体も跳ねる。ただし、右足はフットペダルを踏みつけて動かず、体の中心軸もぶれない。両手だけがそれ自身の意志をもっているかのように動く。

 音の強弱、大小の差が大きい。加えるに残響。ヴィブラフォンの最大の特徴は残響の長さ、音量、音の揺れ、すなわちビブラートの振幅をコントロールできることだ。大小長短広狭のヴィブラートが交錯する。フットペダルを離せば残響はカットされて、一瞬無音になる。

 短い曲で3、4分、長い方は10分近いものもあったか。音楽の演奏は肉体を駆使する点でスポーツに通じるが、會田氏の演奏は人間の運動能力の限界に挑戦している。どんな楽器でも名人達人と言われる人たちの演奏は素人が見ても無駄な動きが無く、「コスパが高い」と見える。會田氏の演奏も最小限の動きを軽々とやっているように見える一方で、とんでもないスピードでマレットやバチがすっ飛び、音が流れでてくる。いつまでこれが続けられるのかと老人は心配になるほどだ。ガムランのスピードも人間離れしているが、あれは複数の人間が少しずつタイミングをずらして叩くことで速く聞こえるので、一人ひとりはゆっくり叩いている。會田氏はいわば独りガムランをやっている。

 ここで肝要なのは會田氏は人間能力の限界に挑戦しようとして演奏しているわけでは無いことだ。あくまでも音楽を演奏している。人間の運動能力の限界に挑むのは結果、副産物で、それ自体に意味は無い。ヴィブラフォン・オリンピックは存在しない。しえない。

 曲は會田氏の自作だが、つくっている時には演奏の難易度など考えないのは当然だ。むろん物理的に不可能なものは書かないはずで、そういうものができてしまう時には修正するか、書き直すことになる。いずれにしても、會田氏はあくまでも音楽として面白い曲を作ろうとしている。はずだ。

 ここで「うつくしい」曲というのをあたしは躊躇う。一つには「うつくしい」曲はできるもので、作るものではないからだ。もう一つには會田氏の音楽をあたしはまず面白いと感じるからだ。もっと聴きたくなる。面白いというのはまずそういうことだ。この音楽、この曲をもう一度聴きたい。この人の音楽をもっと聴きたい、と思わせるものを備えていることである。

 明瞭なメロディが聞こえないのは現代音楽的で、メロディの代わりに音は離合集散する。「踊れ、赤い靴」や「リトアニア民謡『クリスマスの朝、バラが咲く』の主題による幻想曲」のように、既存のメロディを元にした曲でも、変奏はあるいはぶつぶつ切れ、あるいは飛躍する。

 一つあたしには明瞭に聞こえるのは遊びの感覚と切迫感だ。まず、楽器での面白い遊び方を探っている。運動能力の限界への挑戦も、その一環として生まれている。ように見える。ただ、演奏している姿と聞こえている音楽に直接の関係は無い。あくまでも音楽の上での遊びだ。

 切迫感は今世紀の音楽に共通する要素にも思える。會田氏の音楽のような、またジャズのような音楽そのものの面白さを追求したものだけでなく、ヒット狙いのポップスや、伝統音楽の現代的展開にも聴きとれる。気がする。今の時代のもつ空気の反映にも聞える。のんびりなどしていられない、いろいろなものが切羽詰まってきているのだという時代の空気。危機感も含まれるが、正面からたち向かうよりは、斜めにひっぱずすことで、危機への対処をより柔軟にしようとする姿勢に見える。

 曲はすべて楽譜に書かれている。打楽器の楽譜の書き方に決まった方式は無いそうで、會田氏の楽譜は會田氏にしか読めないのだろう。あれだけ複雑で、一見ランダムにさえ聞こえる曲を、正確に繰返すには楽譜が必要だろう。あるいは楽譜という手段があるがゆえにここまで複雑になっているのか。これも卵が先か、鶏が先か、だが、相乗効果によってますます複雑になっているところはあるのかもしれない。

 これもまた時代の反映でもあるだろう。今の時代は複雑なのだ。いつの時代も複雑だと言えるかもしれないが、デジタル化以後、複雑性は格段に増している。スピード感も増している。かつてはより大きな集団のレベルで初めて備わった複雑性が、個人のレベルで備わるようになった。複雑性の海に溺れないための方策の一つは、それを反映した優れた音楽を聴くことだ。それによって我々を包みこむ複雑な事象をより目に見えるものにし、感覚をなじませることが可能になる。いつもできるとは限らないが、不可能ではなくなる。音楽だけではなく、優れた芸術作品なら何でもいいが、音楽はより直接に訴える。

 この日の演目で最も強くもう一度聴きたいと感じたのはラストの一茶の俳句をベースとした曲。俳句を組みこむのに、朗読では無く、唄うのでもなく、音として、楽器によって出る音と同列のものとして声で演奏する。われわれはそこに否応なく意味を聴きとる一方で、意味は付随しない楽器による音の中に組みこまれると、言葉の意味が解体まではいかなくても、薄れる。音の配置そのものの面白さが浮上する。詩としての俳句、韻文の位相が濃くなる。この発見は新鮮だ。

 會田氏は声をよく使う。楽器を演奏しながらハミングを入れたりもする。キース・ジャレットが演奏しながらうなるのとは違う。明らかに意図的だ。この声と打楽器、例えばヴィブラフォンとの絡み、ハーモニーではない、絡みあいとしか言いようがない在り方はとても面白い。もっといろいろな絡み方を聴いてみたい。

 それにしても、打楽器というのは何でもありだ。その気になればメロディも奏でられるし、文字通り何でも、電動歯ブラシも楽器になる。打楽器を、もっと打楽器を。(ゆ)

 フィドル、ブズーキ、バゥロンでオールドタイムをやるというのはひょっとすると世界で初めてではないか。というのは大袈裟だが、きわめて珍しいことではある。オールドタイムに打楽器はない。スプーン、ボーンズが使われるかどうか。ましてやバゥロンでは。バゥロンもずいぶん広まって、ナッシュヴィルあたりではごく普通に使われる。使いやすい、アンサンブルに入れやすいのだろう。それほど柔軟性のあるバゥロンですら、オールドタイムに使われることは無い。

 外れる点では赤澤さんも同じだ。オールドタイムをブズーキでやるのはほとんど聴いたことが無い。ほぼ唯一の例外は、Transatlantic Sessions でブルース・モルスキィ、マイケル・マクゴールドリックとともにオールドタイム・チューンをやっているドーナル・ラニィだ。

 オールドタイムは頑固なのだ。自然発生した伝統音楽はみな頑固なのだが、オールドタイムの頑固さは突出している。

 レパートリィにも同じことが言える。この日の演目はまぎれもないオールドタイムの曲でありながら、もっぱらオールドタイムを演奏している人たちからは嫌われる、とまではいかなくても演奏するのを好まれない曲がいくつもあったらしい。

 この夜の音楽は編成からも当然予想されたことだが、オールドタイムの核は残しながら、そこからは外れる位相も明らかだった。告白すればあたしが興奮したのはその外れる部分、より正確に言えば外れていく部分だ。

 このように外れるところを好むのはひょっとすると世代的なものかもしれない。赤澤さんはあたしと同年、バスコさんは少し下だが、世代としては同じだ。一九五〇年代生まれのわれわれは七〇年代に青春を過ごしている。七〇年代は多様性が初めてそれとして花開いた時期だ。画一性の五〇年代が六〇年代に破裂し、その成果が七〇年代に具体化した。あたしらはその恩恵を浴びた。アイリッシュやオールドタイムなど、ヨーロッパ起源の伝統音楽に接したのもその一環だ。

 多様な外の文化に触れるやり方もいろいろあるだろうけれども、あたしは、そしてたぶん赤澤さんもバスコさんも、個々の要素のど真ん中だけでなく、それらが他の要素と接触・交配するところを面白がる。二つやそれ以上の要素がたがいに影響しあって、それまでどこにも見えなかったものが現れてくるのをスリリングと感じる。ふだんはど真ん中を好んでやったり聴いたりしているが、それだけだと不満が溜まる。異種交配されたものが欲しくなる。

 ということで実現した今回のライヴをぜひ見たい、そのためには京都まで出かけてもいいと思ったのは、こうした異種交配はあるいは唯一無二のチャンスかもしれないと思ったこととともに、もう一つの動機があった。

 バスコさんは3年前、目黒でライヴを見ることができたことでもう一度生を見たくなっていた。加えて赤澤さんだ。アイリッシュ・ブズーキ奏者としては世界一と目していながら、生に接したのはもう二十年ぐらい前か、下北沢で hatao、トシバゥロンとのトリオを見ただけだ。お互い古希を越えて、いつ何どきなにがあるかわからない。生きているうちに見られる人、会いたい人には見て会っておきたい。

 ハイライトはいくつもあるが、まずはバスコさんの唄。目黒の時もオープナーでいきなりアカペラで唄いだし、その後も唄は聴きどころだった。今回もここぞというところでうたう唄がいい。遠方から来たあたしのためにと唄ってくれたリチャード・トンプソンの二曲は染みました。一曲目はブズーキ・ソロから始めて、フィドルが入って〈ウィリー・オ・ウィンズベリ=フェアウェル・フェアウェル〉。二曲目は〈I want to see the bright lights tonight〉。1曲目はともかく、2曲などオールドタイムからは完全に離陸するのだが、バスコさんの唄とフィドルはあくまでもオールドタイムのスタイルなので、原曲の持つポップさがするりと消えて、伝統音楽の匂いを帯びる。後でやった〈Waltzing for dreamers〉も同じ。作者不詳の trad. だと言われても素直に納得してしまいそうだ。

 バスコさんはシンガーとして一級というわけではない。例えばこの日もとりあげたジョン・ハートフォードとか、あるいはノラ・ブラウンのような人たちと肩を並べるかというと、どこか違う気がする。といってヘタウマでもない。バスコさんは昔から得体の知れないところがある。若い時はどことなくフェアリーかエルフのような存在を連想させた。唄にもそういうところがあって、この世とあの世のあわいで唄っている雰囲気がある。

 くらべるとトシさんの唄ははっきりとこの世でうたっている。今回は一曲だけ、後半の後半バゥロンのソロからブズーキが入っての〈ニグロ・ジグ〉を経てのジグで唄ったのみだったけれども、声が良く通るのに驚いた。みわトシ鉄心ではコーラスが多いからわからなかったのか。

 オールドタイムのフィドルにもいろいろあって、ブルース・モルスキィのようにさっぱりきっぱり、竹を割ったようなものもある。バスコさんのはとにかくふにゃふにゃしている。芯はしっかり通っている。オールドタイムのメロディはひねくれたものがある。くらべるとアイリッシュのメロディはずっと真直ぐだ。そのひねくれたメロディがバスコさんのフィドルにかかるとさらにくねくねになる。バスコさんのフィドルの響きはまたひどく軽くもあって、その軽い音でおそろしくくねくねしたメロディが奏でられると、猛烈にふにゃふにゃになる。そしてそれが快感なのだ。装飾音は入れていないようなのに、メロディが揺れる。スイングと呼ぶには波長が短すぎるその揺れがいい。リピートのやり方も複雑で、赤澤さんもトシさんも聴いているだけでは捉えきれず、とうとう直接教えてもらったそうだ。オールドタイムはアイリッシュやスコティッシュの音楽とアフリカンの音楽と、さらにさまざまな音楽が混交してできてきた、究極の異種交配音楽の一つと言えるものだ。やっている人たち、つくってきた人たちも何が入っているか、はっきりとはわからないだろう。メロディのくねり方やリピートの複雑さはその交配の果実なのだろう。

 赤澤さんのブズーキはアイリッシュのバックに入る時も意表を突かれることが多い。それでいてメインの楽器や唄を確実に浮揚させる。こういうバッキングのフレーズをどこから思いつくのだろうと聴くたびに不思議になる。バスコさんとは違うところで、この人もこの世離れしているところがある。雰囲気というかたたずまいに、この世ならぬ異界の匂いがまとわりつく。しかもその異界がどこかはわからない。アイルランドのそれではないだろうとは思う。

 たまたま席が赤澤さんの真ん前だったから、もっぱらブズーキに耳をすませていた。フィドルやバゥロンの音は否が応でも耳に入るから、音の小さなブズーキに焦点を合わせてちょうど良い。三曲目〈ミシシッピ・ブレイクダウン〉のブズーキはGコード縛りだったが、コード・ストロークではなく、単音を弾く。

 今回は赤澤さんのソロが何曲もあったのにも喜んだ。スウェーデンの曲をやったり、チャイルド・バラッドをやったり。後者、ビートを通しながらメロディをしっかり聴かせる。バゥロンが入ってテンポ・アップする気に背筋に戦慄が走る。終わるのと間髪入れずにフィドルがソロを始めたのもかっこよかった。

 最初に書いたようにオールドタイム仲間ではやってもらえない曲をバスコさんは持ちこんだらしいが、選曲は実に良い。どれも外れ具合が良くて、一聴していい曲だと思えるものばかり。ラストはステファニー・コールマンの〈Irish polka〉。アイリッシュでもポルカでもない佳曲。スローで入って途中からテンポ・アップするのも美味しい。後に続けたのはアイリッシュの本物のポルカ。バスコさんのふにゃふにゃフィドルのおかげでまるでポルカに聞こえないのも新鮮。ここにはこの夜の、どこまでもオーセンティックでありながら、本流からは外れていく音楽の愉悦が凝縮していたようでもある。

 会場に、たまたま前の日にバスコさんが会ったリチャードというアメリカ人のマンドリン弾きが遊びに来ていて、三曲ほど参加する。ふだんはブルーグラスをやっているらしいが、なかなか達者なマンドリンで、この異種交配のライヴにもう一つ別の要素を加えて愉しい。後で聞いたら、彼の姓はパークス、父親はヴァン・ダイク・パークスだそうだ。

 会場は叡山電車の一乗寺駅からすぐのところ。インキョカフェという名はマスターの姓からとった由。インキョさんのやっている店だからインキョカフェ。マスターはまだ若い。30代でも通る。

 駅について時間があったので、駅の反対側にある恵文社一乗寺店に行ってみる。名前だけは昔から聞いていた。こういう店が近所に無くてよかった。もしあったら毎日通って、ただでさえ高い本の山がさらに何倍にも増殖していただろう。実にバランスよく並べられている本をながめているだけで吸いこまれるように一冊買ってしまう。どうしても買わずにいられない気にさせるものがあの店にはある。その後のライヴと同じく、あの店にもそれとは知らず、呼ばれていたのだろう。

 寒いことは寒いが、いい気分でインキョカフェを後にする。このトリオのライヴ、おたがい息のあるうちに、ぜひまたやってもらいたい。どこでやろうとそのときには駆けつけますよ。ますは素晴らしい夜をありがとうございました。(ゆ)

 西耕一氏プロデュースによる日本の作曲家のソロ・ピアノ作品のライヴ。必ずしも初めからピアノのために書かれたものだけではなく、フルオケのための作品のピアノ編曲も含む。2曲目の伊福部彰『交響譚詩』がまずそれで、本来オーケストラ用の曲であることはタイトルからもわかる。このピアノ独奏版は今回が初演の由。二楽章からなる兄の追悼の曲。第一楽章は動、第二楽章は静。あたしなんぞは伊福部といえば〈ゴジラのテーマ〉しか知らない。作品が他に沢山あることは知ってはいるが、ふだん日本人作曲家の作品はほとんど聴かない。生まれてからこれまで日本人作曲家の作品で聴いたのは、たぶん片手で数えられる。今回演奏された中で聞いたことのあったのは、アンコールの山田耕筰〈からたちの花〉だけだった。

 今回のテーマは伊福部とその門下の作曲家たちの作品。芥川也寸志、眞鍋理一郎、三木稔、黛俊郎。プロデュースの西氏は三木の門下になるそうな。伊福部、眞鍋各1曲、芥川3曲、三木、黛2曲ずつ。

 芥川の〈ラ・ダンス〉をマクラに、伊福部作品が20分。休憩をはさんだ黛の〈天地創造〉が40分超。その間に眞鍋、芥川、三木を並べる。仕上げは黛の「ジャズ」の曲〈オールデゥーブル〉。実質2時間半。戦中から戦後、最も新しいのは1987年というラインナップ。まさにピアノの音をたっぷりと浴びた。

 ピアニストの斉藤氏は30代だろうか。レジュメの経歴を見るとヨーロッパのコンクールを総なめにしているが、なにかで躓いて再起の途中。今回もいわば再デビューの一環らしい。あたしはそんなことは知らないし、出てくる音に反応する質だから、過去のことなど気にしない。ピーンと芯の通った、表情豊かなピアノにひたすら聴きほれていた。何より音色がきれいだ。鍵盤右端でかなり長い間細かく刻み続けながら左手も左端まで一杯に動かす場面もあったが、ゆるぎない演奏は気持ちよい。

 あたしは最後列の右端、扉の脇の席で、鍵盤の上の手がよく見えた。指の長い、いかにもピアニストの手だ。こういう演奏に出会うと、ピアノというのはヘンな楽器だと思う。弾き手からは楽器を選べない。巨匠になれば別なのだろうが、ほとんどは演奏する場所に備えつけられた楽器を使う。今日はどんな楽器かと毎回楽しみなんですと、谷川健作さんが書いているのをみたこともあるが、本音はそうとでも思わないとやってられないということではないか。

 ここのピアノはフルコンよりは短いが、部屋も相まってよく響くとあたしには聞こえる。少なくとも斉藤氏の演奏は響きが良かった。ピアノだけで2時間半聴かされて全然飽きない。どころか面白い。それでもいちばん感動したのはアンコールの「からたちの花」だった。斉藤氏はこれだけ弾き方を変えて、控えめの音量でそっと弾いた。それが良かった。やはり感動と面白く思うのは違う。

 一曲ずつ西氏の解説が入る。簡潔で面白い。師匠の三木から、そんなにあれこれ言うのなら君がやってごらんと、コンサートの選曲、構成を任されたのがそもそもの初めだそうだ。わが国の作曲家の作品をこれだけ集中して聴いたのは初めてだ。西氏の師匠、三木稔の名前さえ初耳という為体。それでもどれも面白く、どの曲ももっと聴きたいと思えた。フルオケ版も聴きたくなる。でもできれば斉藤氏のようなピアノや少人数のアンサンブルで聴いてみたい。初めてクラシックにハマった中学の時にはとにかく大編成ばかり好んでいたが、年を取ってからは室内楽の方に好みが移った。少人数でのアンサンブルやソロばかり聴いてきたせいか。しかしクラシックのフルオケというのはやはり相当に歪んでいると今は思う。

 西氏のプロデュースになる Winds Cafe は初体験で、これからは全部来ようと心に誓ったことであった。(ゆ)

西耕一: produce, comments
齊藤一也: piano

芥川也寸志:ラ・ダンス(1948)    
伊福部昭:交響譚詩(1943/酒井健吉編曲ピアノ独奏版)
眞鍋理一郎:ある風の曲〜La musica dun colpo di ventoA.F.L.の鎮魂の為に〜(1987)
芥川也寸志:赤穂浪士のテーマ(1964)
芥川也寸志:前奏曲集「田舎より」op.2(1944)
        1.歌
        2.野良にて
        3.踊り
        4.水車小屋のある小景
        5.黎明
        6.行進
三木稔:芽生え(1976/2000ピアノ版)
三木稔:3つのフェスタルバラード op.2(1954)
        1.市のおもいで
        2.夜の地車(だんじり)
        3.木偶(でく)まわし
黛敏郎:天地創造(1965)全曲(ピアノ版)
        1.テーマ
        2.アダムの誕生
        3.イヴの誕生
        4.カインとアベル
        5.ノアの方舟
        6.アララト山
        7.バベルの塔
        8.ソドム
        9.アブラハムとサラ
黛敏郎:オールデゥーブル(1947)

山田耕筰:からたちの花

 フルート2本だけの演奏を生で聴くのは初めて。hatao さんはアイリッシュ・フルートに楽器として大きな可能性を見ているという。いわゆるベーム式の、キーの付いた形ではできないことが、シンプルなアイリッシュのフルートではできる。指孔にあてる指をずらしたり、ゆっくりとふさいだり、開けたりすることで細かく音を変化させる。ビブラートは9種類できる。息でかける。指を細かくあてては離す。指孔をもむ。楽器自体をわずかに回す。楽器を動かすと同時に息でかける。などなど。指孔をもむのは中東のカヴァルやネイでも使われるという。

 それに気がついてから、アイリッシュ・フルートでアイリッシュ以外の音楽もやってみたくなった。矢島さんとの試みは一昨年11月が初めで、昨年6月に神戸で2人のオリジナルのみでやってみてたいへん面白かった。そこで再度東京でやろうというわけだ。もっとも今回はオリジナルだけでなく、尺八のために書かれた曲もやり、これがハイライトになった。

 使う楽器は2人ともD管。hatao さんの楽器は異なるメーカーの吹き口と本体をつなぎ合わせたものの由。普通は径が違って合わないのだが、たまたまぴったり合った。その組合せで出る音が唯一無二のものとして気に入っているという。

 楽器というのは作る人によって音が違うことは承知していたが、こういう合体の仕方は初めて聞いた。フルートは吹き口と指孔のある本体が必ず分れるからこういうこともありうる。パイプも部品がいろいろあるし、何よりリードは専門の職人がいるくらいだから、作った人が別々の部品を組合せることはあるかもしれない。

 手作りのモノの場合、どんな名人でもうまくできた製品とそれほどでもないものとできてしまうのはやむをえないだろう。むろん一定の水準はクリアするにしても、ぎりぎりでOKのものと、会心の出来のものでは質は変わってくる。その差が限りなく小さくなるのが名人、達人ということだろうが、神様ではない生身の人間である以上、どうしても差は出る。うまくできたモノに当る幸運を祈るしかない。

 フルートやホィッスルは直接息を吹きこんで音を出す点で、楽器の中でも肉体に最も近い。昔マット・モロイはフルートを吹いていたおかげで肺の病気に気がついたという。

 演奏者は楽器の出来の良し悪しに敏感だが、フルートの場合、より繊細に敏感になるのではないか。たぶん、ストラディヴァリウスは音が違うというのとはまた次元の違う話になる。誰でもそれを吹けば良い音が出るというよりは、もっとパーソナルな共鳴になるのではないか。hatao さんの楽器にしても、他の人が吹けば、そんなに良いとは感じない可能性は高い。

 とまれ2本のフルートだけの音楽は基本的にゆったりしている。とんとんとダンス・チューンというわけにはやはりいかないらしい。一方、フリー・リズムではない。ゆっくりではあるが、一定のテンポはある。

 2本のフルートの音はハーモニーとして重なるよりも各々独自の動きをする方が多い。どちらかといえばポリフォニーだろう。時に重なる場合はユニゾンになることが多い気がする。今回たまたまそうだったのかもしれないが。

 後半の初めで各々ソロも披露する。

 hatao さんは近年、アイリッシュ以外の笛、能管やケーナ、尺八などにまで対象を広げてインプットに努めている由。できる限り幅広くインプットに努めるのはミュージシャンとして当然とも思えるが、hatao さんの場合、アーティストとしての精進はあるにしても、笛のことをもっと知りたいという好奇心につき動かされているようにも見える。こういうインプットは義務感からできるものでもあるまい。

 ソロの演目はおなじみの〈ストー・モ・クリー〉だが、9種類あるというビブラートも含め、様々なテクニックの品評会、いわゆるショウ・ピースのようだ。といって単なるテクニック自慢にならないのが凄いところ。曲としてちゃんと聴ける。聴きほれる。これも伝統の力だろうか。

 矢島さんのソロは、パンデミックの始まりの頃、夜中にどうしてもフルートが吹きたくなってカラオケに行き、ようやく気が鎮まって出てくると夜明けがもう近かった。その時に湧いてきた曲。なかなかの佳曲。

 その次、山本邦山作曲の尺八二重奏第一番「竹」が今回最大のハイライト。序破急の三楽章から成る、その第三楽章がすばらしい。この二重奏曲は三部作であと2曲あり、それもいずれこのフルート2本でやりたいとのことで楽しみだ。

 邦山作品を除き、この日の演目は元の曲をフルート2本のためにアレンジしているが、1曲、hatao さん作曲の〈2本のフルートのための Spring air〉を最後にやる。ポリフォニーの曲。アンコールも hatao さんの曲で、本来は韓国語のタイトルで邦訳すると〈7月1日風が吹く日〉。倍音が実にきれい。

 同じ楽器の二重奏で無伴奏というのは、洋楽の場合ほとんど無い。ジャズや前衛、即興音楽の世界には2台のピアノによる演奏がある。ギター2本というのもある。アイリッシュのセッションで、たまたまその場へ来たのがコンサティーナ2人だけとかパイプ2人だけだったので、それでやるというのはありそうだが、それはまた別の話だろう。意図して同じ楽器、それもメロディ楽器2人だけでやるのはかなり新しい試みになる。そしてフルートによるものはこうして聴くと、結構いろいろな可能性がありそうだ。何よりも不思議なさわやかさが残った。フルートという楽器だけでなく、この2人の奏者から生まれているのかもしれないが。(ゆ) 

クインテット、コンチェルト

 大田智美氏のアコーディオン、野村誠氏のピアノによる、野村氏作曲の〈アコーディオン協奏曲〉を聴きながら、ふと音楽家にとって Winds Cafe というのは何なのだろう、という思いが浮かんできた。これはコンサートなのか。発表会なのか、あるいは私的な、プライヴェートな場での演奏なのか。

 下世話なところから言えば、投げ銭による収入はヘタなコンサートよりも多いだろうと思われる。Winds Cafe に出られるのは大いにメリットがあるだろう。選曲面でいえば、かなり自由だ。川村さんからお題が出ることもあるが、今回のように、ある作曲家の特定の楽器のための曲を全部演奏することは、通常のコンサートではまず考えられないだろう。しかもその楽器がアコーディオンだ。クラシックの世界では相当にマイナーな存在だ。なにせ、その高等教育のコースがある大学は世界で唯一ドイツにあるのみというくらいだ。

 今回のタイトルは「クインテットとコンチェルト」で、五重奏はともかく、協奏曲はどうするのだろうと心配にもなった。会場は室内オケでも演奏者だけで一杯になる。実際には作曲家自身がオケ・パートをピアノに編曲して演奏した。弦楽カルテット版もあって、当初はそれによる演奏も検討されていたらしい。

 この協奏曲は大田氏が例のドイツの大学のアコーディオン・コースの中のソリスト養成コース卒業試験のために、野村氏に依嘱したものだそうだ。あたしから見るとずいぶん贅沢な話に聞えるが、あるいは卒業試験用に作曲家に曲を書いてくれと頼むのはそう珍しいことではないのだろうか。

 演奏のためのリハーサルに野村氏もたち合った。その際指揮者との打合せにピアノ用に編曲したものを自分で弾いた。それは打合せ用で全曲をきっちりと編曲したものではない。ただ、そのことを聞いた川村さんが、オケの代役として野村氏のピアノを提案したのは川村さんなりの計算があったのだろう。つまり弦楽カルテットによるものよりも、野村氏自身のピアノ1本にする方が面白いものになるのではないかと考えたのだ。

 野村氏がそれを受けたのは、一つには川村さんの意向とあれば無視できなかったためもあるだろうが、それに加えて、自分でもその方が面白そうだと感じたからでもあるはずだ。そのために、他の大きな仕事との並行になって、直前まで編曲しては弾いてみて、難しすぎるとまたやり直して練習するという大変な思いをすることになった。御本人の日記によれば、前日まで弾けなかったのが、当日は指が動いた、ともある。音楽は玄妙なものだとつくづく思う。

 結果として川村さんの直観は見事にはまり、まことに見事な演奏をあたしらは味わわせてもらうことになった。

 この曲は卒業試験の初演、国内での弦楽カルテットによる演奏に続いて3回目の演奏の由。あたしはアコーディオンの協奏曲を聴くのも初めてだが、オケで聴くよりこの形で聴けて幸いだった。いわばアコーディオン・ソナタになっていたからだ。アコーディオンもよりよく聞えるし、曲の根幹がより明瞭になる。ダイナミズムやスケールの大きさはわかりにくいかもしれないが、本質にはアクセスしやすくなる。そしてそれが実に良い曲なのだ。

 野村氏の曲はわかりやすい。というより、より自然な姿勢で聴ける。現代曲によくある、聴くのにこちらのスイッチをいつもとはかけ離れたところに入れる必要がない。ピアニカのバスキングから出発したという野村氏のキャリアによるのかもしれない。協奏曲も、後のクインテットも聴いて愉しい。前者の祈りも後者の励ましも直接響いてくる。一方、どちらもかなり複雑な曲でもあって、一度聴いただけで呑みこめるようなものでもない。つまりくり返し聴くに値する。大田氏と野村氏にはぜひ録音を出していただきたい。できればピアノ版とフルオケ・ヴァージョンをカップリングで。

 協奏曲の演奏前にこの曲誕生と初演の事情を大田氏が説明した。

 ソリスト・コース卒業試験は二段構えで、2時間のリサイタルを行うのが一次。これに受かっての二次が協奏曲演奏で、野村作品はこのためのものだった。一次に受からないと再試験などはなく、そこでさようならである。作曲を依嘱したのは一次試験の前の話。さらに二次のための協奏曲は2曲の候補を提出し、大学側からどちらにするか指示がある。つまり野村作品はそのための依嘱だったにもかかわらず、演奏される確率は4分の1だった。大田氏は無事一次を通り、この曲を演奏して二次も通ってソリスト資格を認定されたわけだが、この事情は野村氏も知らず、今回初めて明かされた。作曲者としては非常な驚きだったわけだが、その影響が後の演奏にもあったとしても、実にポジティヴなものであったにちがいない。

 25分の熱演の後、休憩をはさんで、後半はクインテット。メンバーのうち、水谷氏は高校生、高橋氏は中3。年齡の違う人たちが一緒に演奏する姿は見る者を励ます。水谷氏は、この「野村誠のアコーディオン、全部やります」の第1回、 2021年11月の Winds Cafe 299 で3人の演奏者の1人としてデビューしたのを目撃している。当時小学生ながら、そんなことは微塵も感じさせない堂々たる演奏に仰天したことを覚えている。この時のことはブログに書いた。Vol. 2 は何かの理由で見逃している。やむをえぬ事情があったはずだが、こうなると見逃したことが悔まれる。

 これで一応野村誠のアコーディオン全部やりますはめでたく完結となった、はずだが、終演後大田氏が実はまだあるんですと言いだした。共作や新作があるというのだ。

 音楽家にとって Winds Cafe は何度でもやりたい場なのではないか、とここで先ほど浮かんだ思いが戻ってきた。ひょっとするとクラシック演奏者、特に若い人たちにとって Winds Cafe に出られることは一種の憧れの的になっているのではないか。これまでの経験からして、こういう直感はえてして半ばかそれ以上当っている。

 そう感じる理由の一つはここで聴かれる演奏が、どなたも実に活き活きしているからでもある。心底やりたい音楽を、とことん演れることが愉しくてたまらないのだろう。ジャンルにかかわらず、演奏者が心から愉しんでやっているかどうか、聴く方はわかるものだ。そして聴く方もまた愉しくなる。最高の演奏、音楽が生まれるのはそういう時だ。Winds Cafe ではそれが起きる確率が極めて高い。人間のやることにパーフェクトは無いから絶対そうなるとは言わないが、限りなく百パーセントに近い。毎回、奏者も演目もリスナーも違うところも影響しているかもしれない。気候がどうだなどと言っていられない。Winds Cafe には通わなくてはならない。(ゆ)

野村誠作曲「アコーディオン協奏曲」(2008/2025)
松原智美: accordeon
野村誠: piano

野村誠作曲 アコーディオン5重奏「おっぺけぺーの種を撒け」(2014)
大田智美: accordeon
松原智美: accordeon
水谷風太: accordeon
坂口拓: accordeon
高橋芽生: accordeon

 よしだよしこさんを聴きなさいと言われたのは初夏だった。その人のライヴを企画したから来いという誘いでもあった。〈Black muddy river〉を日本語化してうたっているよ、というのはあたしを誘いだすための殺し文句だった。別途 YouTube の URL も送られてきた。それを聴き、収録されているアルバム《ヨイシラセ》を買って聴いた。同時にライヴへの出席も申込んでいた。


ヨイシラセ [ よしだよしこ ]
ヨイシラセ [ よしだよしこ ]

 場所は誘った友人たちとその一党が月に一度集ってバンドの練習をし、録音もしているスタジオだという。送られてきた住所をスマホのマップに入れて辿ると地下鉄の月島の駅からほど近い。が、地図の示す場所に着いてもそれらしきものはない。狭い路地に住宅が建ちならんでいるだけだ。周囲を回ってみてもやはりそれらしきものは見当らない。しかたがないので一番近そうな路地の入口に腰を下ろし、開場時間まで待つことにした。するとほどなく誘った張本人の片割れが迎えに出てきてくれた。やはり自力で見つけるのはムリとわかっていたのであろう。案内されてみれば、マップの示した個人宅の1階がそのスタジオなのだった。ここの〈亭主〉が実家を隠居所に建てかえたとき、永年の夢をかなえるために造ったものの由。広さにすれば十六畳ぐらいだろうか。25名限定のライヴだ。

 欧米ではこういうハウス・コンサートは珍しくない。フォークやルーツ・ミュージックのミュージシャンたちは頻繁にやっている。

 よしださんはギターとハーモニカ、マウンテン・ダルシマーと御本人の唄。サポートがつくこともあるそうだが、今回はソロ。ここなら生音でもOKと思われたが、ちゃんとコンソールを通し、声も楽器もPAを通す。見事な音響でバランスもいい。おかげで実に気持ち良く、唄も楽器も聴くことができた。

 一時間半ノンストップ。はじめは休憩を入れるかどうか、決めていなかった様子だったが、流れからしてノンストップになったらしい。カヴァーがメインでオリジナルが交じる。ように聞える。カヴァーの方に印象の強い曲が多いからだろうか。カヴァーといっても海外の曲に日本語の詞をつけたものだ。それも訳詞というよりは半分以上オリジナル。まずオープナーの〈シューリルー〉、後半の〈ディポーティー〉〈Black muddy river〉そしてアンコールの〈ベルナデットの唄〉。まったく独自の日本語なのだが、各々の唄がうたっているキモの部分はしっかり押えているのに感嘆する。コーラスでは原詞により近く寄り添う。BMR のコーラス、黒く濁った河のように流れていけ に共感する。生で聴くと共感が深くなる。

 あたしは〈ベルナデット〉はもっぱらジェニファ・ウォーンズで聴いていて、あのコーラスには、とりわけ最後の1回にいつも感動して背筋に戦慄が走るのだが、よしださんの日本語のコーラスにも同じ戦慄を味わう。

 何でも日本語にしてしまうのには賛成できないが、「ディポーティー」とされてしまうことの痛みと重みが、よしださんがうたうと実感される。

 よしださんの唄はフォーク・ソング、民衆歌の基本から揺るがない。弱い人、虐げられた人の声なき声をうたう。本来癒しようもない痛みをうたにくるむことで聴くに耐えられるようにする。聴く者は痛みを一部共有する。それによってすぐに何かが変わるわけではないが、すぐ変わるものはまたすぐ変えられる。めざすのはより深い変化だ。考え方、感じ方そのものの変化だ。

 それにしても凄い唄が続く。〈竹田の子守唄〉の原曲。京都の竹田とも九州の竹田とも言われ、さらにうたわれているのが竹田という場所に限られることでもないそうだ。むろん子どもを寝かしつける唄ではない。

 マリー・ローランサンの詞に高田渡が曲をつけた〈鎮静剤〉。典型として女をうたっているけれど、ことは女に限られるものでもないだろう。

 しかし何といっても衝撃を受けたのは〈クラウディオさんの手〉と〈てっちゃん〉だった。チリからの亡命者であるクラウディオさんと、詩人・桜井哲夫をそれぞれにうたう。

 クラウディオさん(あたしはご本人を存じ上げないが、よしださんのうたを聴いた後ではこうとしか呼べない)が故国にいられなくなり、亡命する羽目に追いこまれた事情、その事情の原因となったかれの父親の行為には身がすくむ。同じ立場に立たされたとしたら、あたしはどうするか。

 てっちゃんとよしださんが新百合ヶ丘から乗る小田急線はあたしが住むところも通る。優先席を譲られたこともあるし、その時も譲った相手は礼を言う間もなく消えてしまった。ハンセン病患者たちに国は謝罪をした。しかし同様を仕打ちをしながら謝罪は愚か、過ちを認めてもいない人たちは他にもいる。そういうこともよしださんのうたは思い出させる。

 よしださんは最初の3曲〈シューリルー〉〈竹田の子守唄原曲〉〈鎮静剤〉を椅子に座り、マウンテン・ダルシマーを弾きながら唄う。弦は指で押える。

 4曲目自作の〈3/4あたり〉から立ってギターを弾く。時折りホールダーをつけてハーモニカを吹く。ギターもハーモニカもそれはそれは巧い。どちらもいい音がする。後で伺ったらギターは日本の個人メーカーの製品の由。

 生で聴いて初めて気がついたのはよしださんの声のうるみだ。どこか喉にからんでいるように二重に響くのが生で聴くとしっとりしたうるみに聞える。スコットランドのダギー・マクリーンの声に響き方がそっくりだ。

 この声と上手なギターによってていねいに唄われるうたはヘヴィで厳しい詞の内容がするりと入ってくる。ヘヴィで厳しいことに変わりはないが、受入れること、共感することができるようになる。心と体のどこかに跡を残す。それをなでると痛がゆく、気持ちよくなくもない、気がつくとなでてしまうような跡。いずれそれについて自分にも何かできるチャンスが来るかもしれない。その時に備えておくために、そこを時折りなでることになるだろう。そこをなでるためにもよしださんの唄を聴くことになるだろう。ヘヴィで厳しく重いことではあるけれど、それをうたうよしださんのうたを聴くのは快感なのだ。

 11月リリースに向けて録音している、とその時おっしゃっていた新作は先頃リリースされた。それを聴きながら、またこの場所で、よしださんの唄を聴きたいものだと思う。(ゆ)


よしだよしこ / 願います [CD]
よしだよしこ / 願います [CD]

 ここ2、3年、所沢で3人で一緒にやる機会があり、たいへん楽しかったので、東京でもやろうということでこの日のライヴ。

 まず前座と称して、澄田氏がソロでやる。あたしは初見参。四十代後半というところ。達者なギター、一級のうたい手。ルーツとしてはブルースだろうか。まずアコースティック・ギターで2曲。1曲目はコード・ストロークのみ。これだけ聴くとフォーク・シンガー。3曲目からエレキ。これはあたしにはちょっと音が大きすぎた。以後も時々音が大きすぎることがあって、いつも持ちあるいている耳栓をする。

 4曲目はサンハウスという日本のバンドの〈あてのない手紙〉。日本のバンドにはからっきしのあたしは原曲を知らないが、澄田氏の演奏はなかなかいい。差し手引き手のタイミングがいい。そこは次の「危険な遊び」をしようというブルース・ロックでも、その次のロックンロールでも同じ。声もいいし、唄も巧いし、ギターも弾ける。なるほど、こういう人もいるのだ。

 一拍あって、小滝氏が加わる。この2人の演奏がまずハイライト。英語のうたなのだが、澄田氏がギターを弾きながら口パーカッションを入れるのが面白い。こんなのは初めて見たが、近頃流行りなのだろうか。口パーカッションも即興で、センスがいい。そのうちメロディが消えて、小滝氏がフリーのアンビエントな音を出すのに、澄田氏もフリーで応じる。ほほう、2人でデッドの Space をやっているぞ。面白い。ひとしきりやって、澄田氏は一度引っこむが、小滝氏がいっかな止めず、プログラミングの音をしきりに出すので、また出てきて応じる。いや、楽しい。こりゃあ、いい。

 休憩が入って松浦さんのソロ。いつもながらギター巧い。今日は声もデカい。アコースティック・ギターのソロの弾き語りで耳栓をしたのは初めてだ。大好きな〈出土騷ぎ〉から始まったのに喜ぶ。〈カモなんです〉が続いて、〈その件について〉は初めて聴く。「ミャクラクなくミャクハクはかる」。曲の中で声をどんどん変える。次は待ってました、〈アサリでも動いている〉。その前にビールを飲むその表情がひどく真剣だ。ほとんど命をかけている。

 ここで澄田+小滝が入ってトリオとなり、〈デーモンとカーバンクル〉。これも初めて。澄田氏のギターがすばらしい。他人の伴奏の時の方が自分の唄につけるよりずっと良いのはリチャード・トンプソンそっくりだ。一方、ギターそのものの感じはジェリィ・ガルシアに似ている。

 かものはしからカヴァーをやってはどうかと提案をうけてやった〈レモンティー〉は松浦・澄田が終始デュオでうたう。おお、ドナ・ジーンとウィアではないか。そう見ると小滝氏はキース・ガチョーに聞えてくる。

 確かにこのトリオはナスポンズとは別の魅力がある。八方破れでもあり、どこへ行くかわからない。ナスポンズは狂気を秘めながら、表の形は整っている。バンドとしての枠組みを保っている。このヨカレのトリオはリズム・セクションがいないことでより自由で開放されている。どんな形もとれる。3人各々の性格がより露わにもなる。ラストの〈ヨカレの唄〉はその奔放さがモロに出ていた。

 アンコールがまた良かった。澄田氏がアコースティック・ギターで〈ラスト・ダンスはわたしに〉。日本語詞は誰か書いたか知らないが、実に見事だ。外国語の日本語版として最高の一つだろう。それを松浦さんがうたうと、原曲はすっぽり消えて、ぞっとするほどのリアリティが出る。松浦さんがにこにこと歌うと、項の毛がそそけ立つ。ナスポンズはスタジオ盤が聴きたいが、ヨカレのトリオはライヴ盤が聴きたい。

 それにしても下北沢の街を見ていると、人口減などどこの国の話だと言いたくなる。(ゆ)

松浦湊: vocal, guitar
澄田健: vocal, guitars
小滝みつる: keyboards

 マヌーシュ・ジャズは熱心なファンではないが、チャボロ・シュミットやストーケロ・ローゼンバーグ・トリオは来日公演を見に行った。アコースティック・ギターが活躍する音楽は何でも好きである。

 なぜかサンプル CD と資料が送られてきた。ありがたく聴いてみれば、こりゃあ好みですよ。はっきり好きと言えるのは、ここ数年ジャズを聴くことが増えているせいかもしれない。ただ、ジャズの主流ではギターは日陰者扱いだ。パット・メシーニィ(と読むのが本来の発音)、ジョン・マクラフリン、ジョンスコ、カート・ローゼンウィンケルなどの登場でエレキの存在は大きくなっているけれど、アコースティック・ギターのジャズはジム・ホールくらいしか聴かれていないようでもある。近年ルイス・スチュワートが続々復刻されているけれど、どれくらい聴かれているのだろうか。

 スチュワートもそうだが、アコースティック・ギターのジャズはラッパやピアノに比べるとおとなしい印象がある。あまり派手なことはやっていないように聞える。よく聴くと、派手ではないかもしれないが、結構スゴく面白いことをやっているのだが、表面地味ではある。

 マヌーシュはジャズのサブジャンルの一つになるのだろうけれども、それだけで一つの世界を作っているようでもある。何よりスタイルないしフォーマットが決まっていて、ほぼそこから外れない。アコースティック・ギターが2本、リードとリズム、ダブル・ベース。フィドルが加わることもある。しかしラッパやピアノが入ることはない。ビートの刻み方もいくつか決まったもののどれかになる。

 むろん制限があるから面白くなるのは俳句や短歌もそうだし、ブルーグラスもその点は共通する。まあ、今のあたしにはブルーグラスよりもマヌーシュの方が面白い。とりわけこのトリオのようなバンドを聴くのは面白く楽しい。アコースティック・ギターを限界まで駆使するところはたまらない。

 TDC は二人の達人ギタリストとベースのトリオで、ギタリストは実力伯仲の双頭バンドであるのもいい。チャボロは人間離れしていたけれども、サブのギタリストはずうっとリズムだけを刻んでいて、それ以外のことをやらせてもらえないのはいささか気の毒だった。チャボロの前では生半可なことはできないにしてもだ。

 手嶋氏と河野さんは実力は伯仲でもタイプが違うのもいい。これはライヴを見るとよくわかる。レコードを聴いているだけだと、そこまではっきりしない。やはり実演を見ることは大事だ。位置はレコードと同じく、右に手嶋氏、左に河野さん、中央奥にベースの阿部氏。

 河野さんは使う音域がどちらかというと低めが多く、あるいは好きで、音に温もりがあり、太く、丸い。

 手嶋氏は音はシャープでクール、ともすると足どり軽く高域に行く傾向があって、清涼感に満ちる。

 演奏そのものがどれだけ熱くなっても、各々の性格は変わらない。

 演奏はイントロがあって、テーマの提示、ギタリストが各々交替にソロをとり、時にベースもソロをとり、またテーマに戻る。というのはモダン・ジャズの定型ではある。このトリオには持続音が無い。ベースがアルコをやることはあるが、特別の場合だ。持続音の無いことと、ギターもベースも残響は小さく短いことで、マヌーシュ自体は音数が多い音楽だが、全体にさわやかになる。あたしが好きなのはまずそこだ。比べるとサックスなどは時に暑苦しくなってくる。

 そしてお二人の妙技。むろん技だけではない。即興には人が出る。細かく言えば、その日何を食べたか、近頃の人間関係はどうかまで出る。この日は3人とも絶好調と見えた。即興のキレがいい。面白いフレーズが湧きでて、意表をつく展開をする。単に交互にソロをとるだけでなく、一小節ごとにやりとりしたり、同時に別々のことをやることもある。そしてたぶんアレンジなのだろうが、きれいにユニゾンを決める。やりながら二人とも笑みを浮かべる。思わず出てしまう。

 そして鮮烈な音。小さなスピーカーで増幅はしていたが、聴いている分には生音が飛んでくる。デビューCDのレコ発ライヴにホメリがあるのを見て、迷わず申込んだ。その目論見はずばりとはまってこの音を浴びられるのは快感。

 どちらかというと後半の方が演奏が良くなっていたと感じた。やはり本当にエンジンが温まるまで時間がかかるのだろうか。リハーサルはしているはずだが、本番はまた別なのだろうか。

 後半2曲目、手嶋氏自作のマイナー調バラードの〈ランドスケープ〉がまずハイライト。その次のマイナーブルースが凄かった。ベースのソロから入って、ギターが細かいパッセージをユニゾンでやるのにぞくぞくする。ベースがメロディを奏で、ギターがかけあい、からみあう。次の次の曲では3人でユニゾンも飛びだす。この曲はイントロから面白い。レコードよりも曲が多彩だ。アルコ・ベースのイントロから始まる〈Made in France〉という曲にはどこかアラブ音楽の雰囲気もある。このバンド、まだまだ全部さらけ出していない感覚も残る。

 アンコールはコートダジュールというムードの曲。コーダで一小節ずつ3人が交互に演奏する。ぐるぐる回していっかなやめない。

 マヌーシュというジャンルないしフォーマットがこの音楽を生んでいるのだろうが、このトリオは面白い。ぜひまたここで聴きたいものだ。(ゆ)

Tokyo Django Collective
河野文彦: guitar(左)
手島大輔: guitar(右)
阿部恭平: bass

 年に一度の独演会。昨年からこの会場になった。面白いのは、木馬座も同じだったが、ステージの上は下足禁止であるらしい。靴下なのだ。昨年、上の助空五郎はタップダンス用の靴をはいたが、専用の板が敷かれた。それで思い出すのは先日見た能舞台でのジル・アパップたちの公演。アパップも含めて全員白足袋をはいていた。これも決まりらしい。裸足ではダメなのだろう。こういう決まりに理屈は無い。慣習というだけだ。ヨーロッパでクラシックのオケの公演なら、演奏する側はもちろん、聴衆側もタキシードにイヴニングで正装するのが慣習なのと同じだ。

 ただ、落語ではない音楽のライヴで靴下というのはどこかおちつかないのである。足元を見なければいいのだし、たいていは無視していられるが、一度気がつくと脇腹をつんつんされる感覚がある。

 もっとも能舞台に足袋というのは納得してしまうものもあるのもこれまた確か。

 岡さんのライヴで靴下というのが気になるのは裸足ではないからかもしれない。裸足はやはりダメなのか。他の人たちはともかく、岡さんが靴下というのが気になる。あたしが靴下が大キライで、自分ではなるべくはかないようにしているせいか。それにつけても思いだすのはリアム・オ・メーンリやキーラのロナン・オ・スノディがステージで裸足でやっていたこと。松本泰子さんも裸足でうたう。ミュージシャンは靴がはけないのなら、裸足でやってほしい。

 というのは文字通りの蛇足。

 今回は岡さん以外の出演者が3組。ちんどんののまど舎は3回連続の登場で、もはやこの人たちなしの独演会は考えられない。この人たちの音楽能力の高さからそれも道理で、岡さんとの共演はいつもハイライトだ。

 後の2組のうちひとつはウクレレ漫談。音楽で笑わせるという点では昨年見たモーツァルト・グループに通じる。この人も純粋にウクレレの演奏だけでも充分メシが食えるだろう。しかし音楽を演奏するだけでは収まらない何かを持っているにちがいない。

 もう一つはマジック。手品師。奇術師。妙齢の美しい女性。音楽とは一応縁は無さそうだ。

 ウクレレとマジックのお2人は岡さんと落語協会の同窓という縁で呼んだらしい。マジックもウクレレも大いに楽しませてもらった。マジックは笑いをとりながら、ちゃんとマジックとしても見せる。ルービック・キューブをネタにしたのは見応えがあった。

 これは岡さんの独演会。誰を呼ぼうとあたしなどが文句をいう筋合いはない。いろいろな芸を見せてもらうのもいい。こういう人たちもいるという紹介、いわゆる推し活もわかる。それでもなお、である。

 あたしは岡さんを見にきている。岡さんの唄を聴きに来ている。それが減るのだ。ありていにいえば3組は多すぎるのではないか。

 今回その少ない岡さんの出番で、あらためてうたい手としての成熟に感じいった。この声の張りと充実は滅多にないレベルにきているのではないか。それに初めて気がついた。というのは遅すぎるだろうが、気がつかないよりはマシではある。

 唄の巧さと MC の下手さはわかっていた。しかしこんなに声が良くなっていたのか。シンガー岡大介はまさに四十にして立っている。うたい手としてこれからが黄金期だ。

 もう一つ喜んだのは高田渡のカヴァーである。高田渡の唄こそは現代の、20世紀後半から21世紀初めにかけての「演歌」と呼んでいい。岡さんが大正・昭和の真の「演歌」に賭けていることは承知している。それも大事だ。しかしあまりにも時代が遠く、うたわれている社会も違っている。高田渡のうたはそのギャップを埋めている。岡流演歌として高田渡をうたうのをもっと聴きたい。レコードも欲しい。

 日曜夜の浅草は内外からの観光客でごった返している。ちょうど中国の大型連休でふだんにも増して増えているらしい。今見て聴いてきた芸と音楽のおかげで、観光客どんどんいらっしゃいの気分だ。それであたしのサイフが太るわけじゃまったく無いにしてもだ。(ゆ)

岡大介:唄, カンカラ三線, ギター
のまど舎=紺野しょうけい:チンドン + ほりごめみほ:アコーディオン
ウクレレえいじ:ウクレレ, 唄, 漫談
小梅:マジック

 最高のライヴ。好敵手にめぐりあった名人同士がたがいに秘術を尽して渡りあう。

 このところ shezoo さんのライヴはデュオが多い。いずれも一騎当千の人たちばかりなのは当然として、shezoo さんとの息の合い方もぴったりなのには毎回驚かされる。そういう相手を選んでいるといってしまえば、それまでだし、やってみたらダメだった相手と人前でライヴはしないであろう。それにしてもなのだ。とてもこの2人が一緒にやってまだ日が浅いとは到底思えない。いや、何度も共演してきたというだけのことでもない。

 今回はしかしこれまでの誰とよりもハマった組合せだ。まるでお互いがお互いのために生まれてきたようだ。各々のもっているものが余すところなく相手によって引き出され、1+1が正二十面体になる。

 それを深く実感させられたのは〈神々の骨版 Dies Irae〉。初めのトリニテでのヴァージョンは普段はフロントでメロディを担当するヴァイオリンとクラリネットが二音から成る短かいフレーズを延々と繰返す。繰返しながらもフレーズは少しずつ変わってゆく。音をきちんと止めるので、聴いているだけで息が詰まるような緊張感がみなぎる。シンプル極まるフレーズのユニゾンで繰返されるのをバックに、パーカッションがゆっくりとソロを始める。それにだんだん熱がこもり、のってきて、やがて奔放に盛大に爆発する。

 今回はピアノがいつものフレーズを繰返すが、音を切らない。弦を開放して音が響くのにまかせる。まずそこが新鮮。いっそさわやかなそのビートに対して、声が、ぶつかるのでもない、乗っかるのでもない。その周りをとびまわる。様々な声、実に様々な声がピアノが繰返すフレーズを足掛かり、手がかりにして高速のポルタリングをする。とんぼを切る。シュパっと駆けのぼったかと思うとふわりととび降りる。横っ飛びに飛ぶ。声でそれをやる。何なのだ、この人は、とのけぞった。

 蜂谷さんは初見参である。ライヴは愚か、録音すら聴いたことはなかった。shezoo さんの選んだ相手ならという信頼感もあって予習はしなかった。こういう時は全くの不見転でびっくりさせてもらうのを楽しむ、わけだが、それにしてもだ。

 この人はまず声の種類が異常に多い。訓練された声楽家の声から幼女声、ドスの効いた低音、極上のソウル・シンガーの声、等々々。しかもどの声にも歌っている人間の一個の個性が鮮明に刻印されている。

 異常なまでに多様なその声のコントロールがまた凄い。時には一音ずつ変わってゆく。真の七色変化。さらに各々の声の選択、使用が曲想に符合してゆく。妙な声、ズレた声、不適切な声が無い。

 いや、こういう言い方はちがう。

 メインのメロディにせよ、インプロにせよ、同じ声でワン・コーラス歌うことはほとんど無い。にもかかわらず、メロディとしてはもちろん、即興にあっても全体の統一感、連続感が崩れない。大きくうねるかと思うと、細部にもぐりこむ。その一瞬一瞬がもろにツボを押してくる。声の質、音量の大小、強度が、あたしにとっての理想に限りなく迫ってくる。

 shezoo さんのピアノはこの声を引出し、煽り、ジャブをかませる。同時に shezoo さんも即興に飛びたってゆく。shezoo さんの即興はかつては全宇宙をその音で満たそうとしていた。近頃は満たそうとするところは変わらないが、満たす対象が同じ宇宙でも内宇宙に変わってきた。広さよりも深さを求める。

 これがまた蜂谷さんの声と共鳴する。お互いやりたい放題勝手なことをしていて、各々に耳を集中すればどちらも全然違うことをやっているのに、全体としては美しくバランスのとれた音楽が聞えてくる。バッハのポリフォニー、グレイトフル・デッドの集団即興だ。まとまっているのではない。個々の要素はバラバラなまま、一つの音楽としてやってくる。だからデュオという、アンサンブルの形としては最低限なのに、音はとんでもなく豊饒で、大きく広がり、実がぎっしりと詰まっている。

 やる曲がどれも至上の名演に聞える。

 蜂谷さんはマイクも2本使う。片方は普通、もう1本は声にリバーブがかかる。マイクとの距離も計算し、近づいたり離れたり、スタンドに置いたり、手に持ったり。

 鉦、親指ピアノなどのパーカッションの使い方もセンスがいい。店内のスピーカーの上にあった筒からヒモが出ているものも手にとる。振るとしゃかしゃか鳴り、ヒモを引っぱるとドカンと鳴る。〈ムジカ丸〉という蜂谷さんが最初に作ったというまことに「フザケた」歌でこれを鳴らしまくる。そしてピアニカ。左手で支え、右手で弾いて、shezoo さんの即興に真向から挑む。

 蜂谷さんの曲も面白いが、聴きなれた shezoo さんの曲が全く新しい姿を現すのにゾクゾクする。〈タワー〉、そして〈Moons〉はベスト・ヴァージョンと言い切ろう。圧巻は各シンガーが用意した詩に shezoo さんが曲をつけるという今回の決まりによる歌〈ツキツキキツツキタタク〉。ほとんど意味のない、オノマトペだけのような歌がモノを言いはじめるのだ。歌による遊びというより遊びそのものであり、歌以外の何ものでもない。やっている本人たちが最高に愉しんでいる。至福。

 今年の「七つの月」のうち、スケジュールが合ったのは結局この千秋楽だけだったのだが、これに当ったのは心底嬉しい。

 ますます生きづらくなる一方の世の中だが、これでまたしばらくはしのげそうだ。ぜひ再演を。そして録音も。(ゆ)

蜂谷真紀: vocal, pianica, percussion
shezoo: piano

 矢島絵里子&岡皆実デュオ Failte のライヴは2度目。このデュオはホメリで聴くのにぴったり。至近距離でホメリの生音で聴くと、他で聴く気がなくなる。今回はとりわけブズーキの生音が快感。中でもベース音の響きにうっとりして、ベースが響くのを待っていた。後で伺うと、楽器はアイルランド製。おまけについ最近メンテナンスから戻ってきたばかり。そのメンテナンスを手がけた職人さんも夫妻で来ていたそうな。

 岡さんはフィンガー・ピッキングもする。ブズーキでフィンガー・ピッキングは他では見た覚えがない。音は小さくなるが、やはりギターよりもずっと繊細な音になる。他にもはじいたピックをそのまま弦に押しつけて残響をカットしたりもする。

 こういう工夫はセンスの良さの現れだろう。このデュオは何かにつけてセンスがいい。アレンジ、曲やライヴの構成でもそれが発揮される。

 今回、もう一つの「新兵器」はミニ・キーボード。幅は2オクターヴほどか。コンソールを介して小型のアクティヴ・モニタのペアから音を出していた。小さいが音色はいろいろ出せて、ピアノ、エレピ、シンセ、鉄琴など曲によって変える。この選択がよくはまっている。小さいから大きな動きはできないが、そういう制限を感じさせない。制限を逆に活かすのもセンスの良さだ。

 このデュオは二人のオリジナル曲を演るためのもので、前半は矢島さんの曲、後半は主に岡さんの曲。1曲合作。合作〈ポルカに魅せられて〉は3曲からなる組曲で、a を矢島、b、c を岡さんが各々作ってつなげた。フルートとブズーキ。なるほどポルカのビートに載せている。組合せの妙もあるが、3曲目がことの外に良い。

 組曲形式はこの次の〈星空に浮かぶ夢〉や前半の〈道しるべ〉で、途中からテンポを上げる形でも現れる。どちらも実にカッコいい。

 とはいえ、アレンジの前にまず曲が良い。どちらの曲も面白い。どちらかというと矢島さんの曲は抒情的、岡さんの曲はリズミカルという傾向。特に良かったのは〈道しるべ〉、前半最後の〈花桃の咲く坂道〉、後半では〈夏ピッキング〉と上述の2曲。それにアンコールの〈風かおる丘で〉。派手なところもないし、いかにもウケ狙いの定石フレーズも無いのもいい。

 さらにもう一つ、新機軸があった。岡さんの声である。後半〈夕焼けの忘れた空〉で、途中から矢島さんがスキャットで歌うのに、岡さんがハーモニーをつけた。人前での歌デビューだそうだが、実に気持ち良い。なるほどこういうやり方もあるのだ、とあらためてセンスの良さに脱帽。

 矢島さんは曲によってウッドと金属のフルートを使い分ける。金属の方がシャープでクリアな音が出るものだと納得する。

 歌もいい。時折り声が小さくて歌詞が聴きとれないこともあるが、不思議に気にならない。増幅することで壊れるようなものが、矢島さんの声にはある。もっと大きなハコでは増幅の必要もあるだろうが、ホメリならこのままでいい。

 初めは恐る恐る手探りの感じだったのが、4曲目〈道しるべ〉の半ばでテンポが上がった途端にがらりと雰囲気が変わる。以後、秀逸なアレンジの佳曲が続いて、終ってみればベストのライヴの1本。しかもこのインティメイトな生の音はここでしか聴けない。

 近々CDも作ると宣言されたので楽しみだ。せっせと作っていたら曲が溜まって、落とすのが大変とおっしゃる。Bandcamp でデジタル・アルバムとして全部出してくれと頼んでおく。

 出ると雨が降りだしている。家の近くでは土砂降りで、近くの川はどちらもあふれんばかり。この温暖化の時代をしのぐためにも、彼女たちの音楽は必要だ。(ゆ)

 會田瑞樹氏のライヴをようやく見られた。Winds Cafe 最多登場者ながら、なぜかいつもスケジュールが合わなかったり、こちらが体調を崩したり、何らかの理由で、ついにカーサ・モーツァルトでは見ることがかなわなかった。川村さんに1回ぐらいは見たでしょうと言われたが、やはり見ていない。この人のパフォーマンスを見て憶えていないはずがないと、実際に見て思う。

 「打楽器百花繚乱」という通しタイトルから想像していたのは、ヴィヴァルディ『四季』のCDジャケットにあるように、叩けば音が出る大小様々なものが所狭しと並んでいる光景だった。ところが会場に入ってみると置かれていたのは、正面にヴィブラフォンつまり鉄琴、右側にマリンバつまり木琴だけ。あれれ、というのが第一印象。ヴィブラフォンとマリンバが打楽器であることはわきまえているつもりだったが、あれらはどうしてもサントゥールの仲間に見えてしまう。あちらはどうやら弦楽器だ。こちらはむしろガムランやチャラパルタの仲間ということなのだろう。どちらも独りでは演奏できないことは大分違うけれども(チャラパルタは独りでもまったく不可能ではない、はず)。

 今回の内容は当日までヒミツだった。川村さんからは會田氏の名前から「樹」または「木」がテーマとして出されていたが、それについて答えることはラストの木琴、マリンバによる演奏で見事に果たされることになった。

 プログラムはまずヴィブラフォンのソロで、モーツァルト、バッハ、ブラームス、ドヴォルザーク各々の有名曲と、細川俊夫編曲の〈サクラ〉それに水野修孝の〈ヴィブラフォンのための三章〉を一気に演奏する。

 ヴィブラフォンという楽器は1920年代にアメリカで開発され、中でも Deagan 社の Vivraharp というモデルが有名になったのだそうで、會田氏の楽器もそのディーガン社製。電気で残響を増幅できる。

 ソロの演奏はどれもかなり残響を残すのがヴィブラフォンの味に聞える。

 2番目の演目はゲスト瀧沼亮氏を迎え、氏の〈コンサートのためのコンクレート〉の演奏。紹介文に「奇士」とあるが、瀧沼氏は六尺豊かな大男という表現がぴったり。単純に背が高いだけでなく、並はずれた存在感がある。ガクランにジャージのズボン、幅広のネクタイに黒縁眼鏡、長髪を後ろに束ね、帽子をかぶっている。

 作品は本人のパフォーマンス付き朗読、會田氏のヴィブラフォンとマリンバとセリフ、それに聴衆がそれぞれに出す音から成る4楽章。ご本人はこれまで美術、舞台表現のメディアで活動してきた由で、「演技」は堂に入ったもの。テキスト内容はシュールリアリスティック、會田氏は直角に置いた2つの楽器の間を跳びまわりながら声も出す。我々も思い思いに手や体を叩いたりして音を出す。なかなか楽しい。

 休憩をはさんで第二部はまず朝吹英一(1909-93)の3曲〈火華〉〈風鈴〉〈水玉〉のヴィブラフォンによる演奏。朝吹はヴィブラフォンを初めてわが国に輸入し、演奏し、そのための作曲をした人。財界の実力者の息子で本人も企業経営をしながら、ヴィブラフォンの啓蒙と演奏の活動を続けた。この3曲はそのヴィブラフォン用の代表作。各々に鮮明に性格が異なる。タイトルが各々の曲のキャラクターを端的に表す。楽器の特性や特有のテクニックを聞かせるためのいわゆるショウ・ピースではあるが、くり返し聴きたくなる曲だ。あたしとしては〈風鈴〉が一番心に響いたが、ころころと音がころがる〈水玉〉もいい。〈火華〉はもう少し涼しい時に聴きたい。

 その次が意表を突かれて、何よりも一番面白く楽しんだ。金関寿夫詞、間宮芳生曲の〈カニツンツン〉。金関は北米インディアンの詩の訳者として認識していたが、詞の中にもインディアンの種族の名やその語彙からとられたと覚しき音が聞えた。これは佐原詩音氏のピアノを伴にして、會田氏が、歌うというより声と体で演じる。確かにこの「曲」は声でうたうだけでは収まらない。各地で演じられているそうだが、これをまた見るためだけに會田氏の公演に行きたくなった。

 続いては佐原氏のピアノ・ソロ。鮮やかなものである。そして同じく佐原氏のアレンジで〈ほたるこい〉と〈われは海の子〉をヴィブラフォンとピアノで演奏する。遊び心満載のアレンジ。〈ほたるこい〉は聴衆もうたうようけしかけられる。〈われは海の子〉は八分の九拍子、アイリッシュのスライドでおなじみのリズムでよくスイングする。まさに波に揺られる感覚。

 というようにかなり多彩な内容で、お腹いっぱいになっていたのだが、ラスト1曲でこれがほとんど全部すっとんでしまった。

 山川あをい作曲の〈マリンバのための「UTA」〉第4番。

 ここまで會田氏は瀧沼作品を除いて暗譜で演奏していた。クラシックの人には珍しいと感心していたのだが、これは譜面を見てやる。曲自体は高校生の時に出逢って演奏しはじめてから20年、数えきれないほど演っていて、カラダに刻みこまれている。が、なぜか今日は譜面を見ながらやりたくなったのだそうだ。これが暗譜の演奏とどれほどの違いを生んでいたのかはわかる由もないが、この演奏は実に心に染み入った。

 後で川村さんも言っていたように「感動」とは違う何か。その世界に持っていかれたわけでもない。ひたひたと満たされる感覚、だろうか。音楽に包みこまれ、包んだ音楽がそのまましみこんで満杯になる。

 惚れぼれするようなパッセージがあるわけでもなく、劇的に盛り上がることもない。むしろシンプルなメロディが、流れるのではない、寄せてくる。演奏するのもそう難しくなさそうにも見えるが、案外そうでもないかもしれない。shezoo さんの《神々の骨》の〈怒りの日〉のように、シンプル極まるがきちんと演奏するには極限の集中を要する曲もある。あれは聴く方も集中させられるけれど、この〈UTA〉はそういうことはない。一方でこれはマリンバによる一つの極限の音楽にも聞える。アンコールはついにやらなかったのも当然。何をやってもこれの後では蛇足でしかない。

 ゲイリー・バートンのような人もいてヴィブラフォンは面白いと思うけれども、あたしとしてはマリンバの太いくせに繊細な響きに惹かれる。

 とまれようやく會田デビューができた。次は旋律を叩けない打楽器を叩きまくる會田氏を見て聴いてみたいものだ。

 奏者のためもあってきつめの冷房の室内から外に出ると暑気が襲ってきた。この調子だといずれ夏のイベントには参加できなくなるだろう。少なくとも昼間のイベントには。13時半開場となると一日で最も暑い時間に会場に向うことになる。Winds Cafe もかつてはもっと遅い涼しくなる時間にやっていた。またああいう時間帯での開催の検討をお願いしますよ、川村さん。(ゆ)


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 shezoo さんが打楽器奏者と共演するのはずいぶん見てきたが、デュオというのは初めての気がする。メロディを shezoo さんだけが演奏するのを聴くのは、もし初めてではないにしても、ひどく珍しく、新鮮だ。神々の骨版〈ディエス・イレ〉はバンドの時は複数の楽器がユニゾンでメインのメロディというよりシンプルきわまるリフを延々と繰返し、打楽器のソロが炸裂するのがパターンだが、今日はリフは独りだし、打楽器もソロが炸裂することはない。

 HAMA氏はこれまで shezoo さんが共演した打楽器奏者の中ではとび抜けて繊細で口数ないし手数が少ない。他の打楽器奏者が繊細でないわけではない。むしろ打楽器奏者は皆さん神経が細かい。少なくとも shezoo さんが共演してきた人たちは皆神経細やかで繊細だ。ドラム・キットではない、様々な打楽器を操る人はそうなるのか。神経が細やかだからドラム・キットから離れるのだろうか。HAMA氏はあたしは初見参だが、そうした人たちの中でもさらに一頭地を抜いて繊細であるように聞える。音も全体に小さい。

 楽器はアラブ系の片面太鼓、ダラブッカ、ハンドパンというのか、金属製の円盤型、叩く位置で音階を奏でられるもの、シンギング・ボウル、吊した鐘、木の枠に金属のパイプを3本並べたもの、床のスポンジの上に並べた十数枚の鉄板、といったところ。

 片面太鼓は叩く他に指で丸く弧を描いてこする。ダラブッカは膜面だけでなく、胴体も叩く。叩いて音が出るものは譜面台の支柱も叩く。片面太鼓の一つは内側に何やらたくさん糸で下がっていて、これらがノイズを発して面白い音になる。

 〈ディエス・イレ〉に戻れば、いかにもさあどうぞというようにピアノが例の静かで短かいリフを奏でているのに、打楽器も騒がず、静かに独り言をつぶやく。叫ぶことはない。叫ばない打楽器が新鮮で、聴きなれた曲の位相が転換する。ディエス・イレ=怒りの日はキリスト教の最後の審判の日のことだが、実は静かなのではないかとも思えてくる。

 後半は今回のテーマである架空の映画のサントラの趣で、すべての曲が途切れなしに演奏される。曲そのものは shezoo さんの既存の曲で、これを打楽器がつないでゆく。その時々でつなぐ楽器は替わる。ダフだったり、ミニ・ガムランもどきだったり、イランの太鼓だったり、ハンドパンだったりする。替わり目の前後は打楽器のソロになる。が、派手な即興などはしない。滑らかにソロになり、滑らかに次の曲が始まる。つまりピアノが入るので次の曲が始まったとわかる。

 「架空の映画」という意図はわからないでもないが、曲は既存のものなので、その曲に対するこちらの既存のイマージュが湧いてきてしまって、映画を連想する感じにはどうもならない。我ながらもう少しいろいろな連想がわく方が面白くなりそうだが、メロディに反応してしまうので、固定される傾向がある。想像力が貧困なのだ。

 shezoo さんのピアノも今回はフロントを張るわけだが、相手が派手にならないせいか、インプロも抑え気味というより内省的というべきか。音数は多いけれども、変化が小さいのに充実して聞えるのは面白い。

 後で HAMA氏が参加しているスーパージンギスカンズのアルバムを聴いても、叩きまくる感じではない。コントロールが効いている。端正ですらある。

 全体としてはむしろ涼しい音楽。ことしの夏にはまことに嬉しい。終演後、店のマスターからぜひ年内に再演を、と言われていたから期待しよう。

 外に出ると陽はまだかんかんと照っていて、暑さがどっと降りてくる。音楽のおかげで歩いていられる。(ゆ)

 hatao & nami のライヴはパンデミックの前以来だから、3、4年ぶりだろうか。小松さんのライヴを見るのもほぼ同じくらい間が空いた。その間、この人たちの録音は聴いているけれども、生に勝るものはない。

 まず Stringers の二人が始める。小松さんのフィドルと成田七海さんのチェロでアイリッシュをやるというユニット。つい先日 Jocelyn Petit & Ellen Gira の新作を聴いたばかりで、こういうことをやる人たちが洋の東西に同時多発的に出てくることに驚いた。



 結成はペティト&ギラの方が若干早いようだし、アルバムもすでに3枚あるが、Stringers もこれから楽しみ。

 後の MC で hatao さんも nami さんもチェロが好き。nami さんにいたっては手を染めたこともあるという。実はみんなチェロが好きなわけだ。あたしもチェロは大好きだから、この頃面白いチェリストがぞろぞろ出てきていることは愉しくてしかたがない。それともチェロだからこそ面白くなる、と言うべきか。成田さんも加わって、個人的にはますます盛り上がる。スコットランドの Abbey Newton、アイルランドの Neil Martin、イングランドの Caroline Lavelle、ウェールズの Jordan Price Williams、アメリカの Natalie Haas など、チェロでケルト音楽をやる人たちに伍して立派なケルティック・チェリストを目指していただきたいと切に願う。そういえば tricolor の《キネン》にも参加していた巌裕美子さんはどうしているだろう。やはりパンデミックからこちらライヴを聴けていないが、お元気だろうか。クレツマーまでやっていたあの人のチェロもまた聴きたいものだ。

 チェロがケルト系のダンス・チューンに加わる時、どうしてもベース、ビートを担当することが多いのだが、勝手な希望を言わせてもらえば、もっとメロディも弾いてほしいのである。あの音域でダンス・チューンをがんがん演るところを聴きたい。低音楽器で奏でられるメロディはフィドルや蛇腹や笛で奏でられる時とは全く別の美しさを見せてくれるからだ。そこで今回最大のハイライトの一つはアンコールの1曲目〈Josephine's waltz〉の冒頭、チェロによる演奏だった。この曲がチェロで演奏されるのを聴くのはたぶん初めてだし、おまけに生音である。全身が総毛立った。

 成田さんはアメリカのジャズ・チェロを学んでいるとウエブ・サイトにある。なるほど、短かいがインプロになったところは面白かった。一方で、チェロによるダンス・チューンのビート演奏も面白い。ギターやブズーキなど撥弦楽器のコード・ストローク、ピアノのコード演奏などによるビートは音が鋭角になる。ピアノはチェロに近いところもあるが、コードなのでイメージとしては下から持ちあげる。フィンガリングも含め、チェロがビートを演ると刻むにならない。ふくらみのある、しかし明晰な音が、水面に石を投げて生まれる波の同心円がぽわんぽわんと次々に生まれてゆく。小松さんのフィドルがその同心円の重なりの上を走ってゆく。軽いのだ。走るよりも舞ってゆく、だろうか。時折りハモったり、ドローンになるのも面白い。チェロはどちらにも行ける。かと思うと楽器を横抱きにして親指で弦を弾く。音が太い。

 ワルツではリードをとるし、スロー・リールでは短かいフレーズを繰返してリズムをとる。それにしても成田さんはチェロでグルーヴを生んでゆくのが実に愉しそうだ。フィドルを煽るようでもある。フィンガリングで始め、テンポを上げて、弓に持ちかえて弦を叩く。チェロの演奏法の変化で演奏が盛り上がる。このユニットはどうみてもフィドルではなく、チェロがリーダーだ。

 休憩をはさんで hatao & nami。今回 nami さんはほとんどハープで通す。それはそれで文句はないが、ラストにやったピアノの曲を聴くと、こういうのをもっと聴きたいと思う。nami さんがピアノを弾くと音楽に艷が出る。豊潤になる。ハープの音は繊細で、音楽は清冽になる。

 今回はオリジナル中心で、このデュオは即興も面白い。2曲目〈みなもを渡る風〉の中間部は面白い。hatao さんは長いB♭フルートと普通のフルートを持ちかえる。3曲目はなんと hatao さんがピアノを弾いてハープとデュエット。〈黄昏時のリール〉というこれは名曲だ。次のブルターニュ・チューンのメドローの1曲目はゆっくりの曲でフルートとハープがユニゾンするのに悦ぶ。

 5曲目 nami さんの〈雪どけ〉。ここで連結ホィッスルが登場した。3Dプリンタで作った部品でキーの異なる2本のホィッスルをつないである。片方からもう片方へ一瞬で移れる。音域が広がるし、曲の途中で調を変えることもできる。というのだが、そういうことがきて、曲に組込めるのは hatao さんぐらいだろう。この曲では nami さんのスキャットも出て、佳い曲だ。

 hatao さんは連結だけでなく、2本の笛をくわえて同時に演奏することもする。ローランド・カークだ。その技が出る〈タイム・フロー〉もつくづく佳い曲だ。

 2度のアンコールは全員で、1度目の1曲目が〈Josephine's waltz〉なわけだが、2曲目でフィドルを立ててフルートがドローンをつけたのが良かった。

 アンコール2度目はまずハープとフィドル、次にフルートとチェロ、そして全員で〈キンコラ・ジグ〉。hatao さんが主メロから低く外れてゆくのにぞくぞくする。

 靴を脱がされるのには閉口したが、ここはダンスなどのリハにも使われるのかもしれない。

 終演は22時近く。出るとぱらぱら雨が落ちている。昼間の暑熱の後では濡れるのもきもちよいくらいだった。(ゆ)

 サマー・コンサートは6年ぶりだそうだが、この前アウラを教会で聴いたのは、一昨年の盛夏の頃。当初この教会で予定していたのが、当日ダブル・ブッキングが発覚し、歩いて数分、新大久保駅の向こうの淀橋教会に急遽会場が移っての時以来だ。アウラはその後、ルーテル教会でのリベンジ・コンサートもしているが、その時は行けなかったので、今回ここで初めて聴く。

 淀橋教会はメソジスト系になるのか。こちらはルター派。各々の大きな教会が歩いて数分のところに並んでいるというのも面白い。今はコリアン・タウンになっているが、この辺りはかつては新宿駅周辺よりも盛えていたのだろう。もっともノーザン・アイルランドのアーマーにはカトリックとアングリカンの各々のトップの聖堂が、やはり歩いていける距離にある。おまけにそちらはどちらの名前もセント・パトリック聖堂でややこしい。

   会場は二階の礼拝堂で、淀橋教会のホールよりはずっと狭い。正面祭壇の右側に天井まで届くオルガン。正面の壁は小さめの煉瓦が敷きつめられていて、おまけに一つひとつの煉瓦の表面はラフに刻まれて揃えられておらず、全体としてでこぼこしている。 天井近くに細長いステンドグラスが4枚。どうも抽象画らしい。正面の壁の左側と残りの三方の壁はコンクリートの打放し。左右の壁の前方の半分は平らではなく、波打つ形。 背面の壁はいくつか方形に区切られて、各々で表装を変えている。 波打つ壁が終るあたりに縦に細長い PAスピーカーが左右1基ずつ。ゆったり掛けて4人掛けの長椅子が8脚ずつ4列。つまり128人入ると満席。詰めれば200人ぐらい。左から2列目最後部の椅子は録画録音の機材が置かれている。席は結局ほぼ満席になった。あたしが開場直後に入った時には気配も無かったが、その後、土砂降りの雨が降ったらしい。

 この礼拝堂は響きの良さで定評がある由。ために様々なコンサートに使われているらしい。ずっと狭いので、同じライブな響きでも、淀橋教会よりもさらに響く。淀橋教会は天井が限りなく高いので、声の響きは開放されてゆく。ここは音が重なるように感じる。あたしにはちょっと響きすぎで、歌詞の細かいところが聞えづらかった。PA はさらに聴きづらく、半分は何を言っているのかわからなかった。耳の老化が進んでいるのか。

 今回は「ケルトの歌」をうたうのが一つのテーマ。〈Loch Lomond〉から始めて定番が続くのはアウラらしいところ。最近のアウラは一人がリードをとる裏で他のメンバーがスキャットを重ねる手法を多用している。オープナーの〈Loch Lomond〉からこれがうまくハマる。とりわけ奥泉さんのリードの時のバックがいい。そして最後の一節をユニゾンでやったのには歓ぶ。こういう声のユニゾンはたまりまへん。

 次の〈The water is wide〉にはオリジナルの日本語詞をのせるのが新鮮。ラスト、思いきり声を伸ばすところ、皆さん、気持ちよさそうだ。

 リードはだいたいがソプラノ3人が交互にとる。とはいえ、奥泉さんが一番をとるケースが結構多いのは偶然なのだろうか。

 4曲目〈My love is a red red rose〉で雰囲気が変わる。よく見ると、前3曲とアレンジャーが変わり、ここから畠山さんの編曲になる。畠山さんのアレンジの方がすなおにあたしの耳に入ってくる。無理がない。歌の流れを活かすようにアレンジしている。ハーモニーの組立ても決まっている。ここでは星野さんのリードまで出る。

 前3曲のアレンジは坂部剛のクレジット。この人は後のバッハもやっていて、こちらはずっと素直に聴けた。フォークソングが相手の時はちょっと力みが入っている感じ。もっともラスト前〈Auld lang syne〉のアレンジはかなり面白いから、あるいは曲との相性だろうか。

 畠山さんのアレンジは冴えていて、〈竹田の子守唄〉〈木曾節〉〈会津磐梯山〉〈スオ・ガン〉〈スカボロー・フェア〉と、彼女がてがけた曲は全部いい。まあ、20年一緒にやってきて、メンバーの得意不得意なども完全に自家薬籠中にしていることもあるのだろう。各々のメンバーとしても、ユニットとしても、最もよく、面白く聞える、響かせるやり方が身についていると言えるかもしれない。

 とまれ、〈Red rose〉と〈竹田〉がまずハイライト。後者の、声で効果音を出すのも面白い。全員がリードをとるのもいい。この日は星野さんがリードをとる場面がいつになく多いように聞えて、歓ぶ。バスクラとかチューバとかチェロとか、低音楽器もそうだが、声も低い方がリードをとるのはぞくぞくする。

 もう一つのハイライトは前半クローザーの〈トルコ行進曲〉と後半クローザー前の〈Auld lang syne〉。前者につけた詞はバッカスをモチーフにしているそうで、グループ当初からのレパートリィでもあり、オハコと言ってもいいのだろう、実に楽しそうに歌われる。アウラは繊細さよりもむしろエネルギッシュな唄が本性ではないかと思うのはこういう時だ。後者も、これはスコットランドでは別れの曲ではなく、再会を言祝ぐ唄なのですと MC でわざわざことわって始めた。そして実際にほんの少し速いテンポで明朗闊達、元気よく歌う。しんみりなんぞしていない。これはすばらしい。

 どこへ行っても、日本の民謡が一番評判がいいそうだが、それはやはり新鮮だからではないか。つまり、民謡をアカペラ・コーラスで、こんな複雑精妙なアレンジで聴くことは普段はまず無いだろう。〈会津磐梯山〉など、曲芸的なめまぐるしいアレンジで、この唄の多様な側面をうまく演出する。近頃は民謡をいろいろな形でアレンジして演奏する人たちが増えているが、アウラのやり方は一つの最先端、最もラディカルともいえる。まあ、民謡については、全体にもっともっといろんな手法、スタイル、様式を試してもらいたい。

 〈スカボロー・フェア〉は東京では初演とのことだが、そう言われても、やはりどこかで聴いたことがあるように思えてしまう一方で、このアレンジは新鮮。それにしても MC にはいささか驚いた。これは本来、無理難題をふっかける妖精(あたしは「妖魔」と呼びたい)との会話で、うまく答えられないと魂を抜かれてしまうという唄だと説明されたからだ。ハーブの名前を列挙するのも、邪を祓う呪文であることも触れられる。この唄もようやくサイモン&ガーファンクルの呪縛から脱して、もともとの伝統バラッドとしての素姓が浸透しようとしているのだろうか。

 アンコールは『天空の城ラピュタ』のテーマ〈君をのせて〉。畠山さんと菊地さんが「ルルルル」でやる掛合いがいい。

 後半には響きに耳がだんだん慣れてくるのか、オープニングの時よりも、それほど反響が気にならなくなっていた。

 きちんと訓練された人間の声だけを浴びるのは、他には換えがたい快感である、ということをあらためて確認したことであった。次は12月13日、ハクジュ・ホールでのクリスマス・コンサートになるか。(ゆ)

 すでに何度かやっているそうだが、この組合せは初見参。基本的に二人のオリジナルを演るユニットらしい。二人のオリジナルはアイリッシュを一つのひな型ないし踏み台にしながらも、むしろ自由に作っている。歌もあって、後半は大部分が歌。中には将来定番となり、「伝統歌」になるといいなと思えるものもある。どういうものを期待していたか、自分でもはっきりしないが、こういうものではなかったことは確かで、裏切られて嬉しい。

 前半はインストルメンタル。矢島さんは曲によってウッドとメタル(ベーム式)を持ちかえる。どういう基準で選んでいるのかは訊くのを忘れた。ただ、音色、音調はほとんど変わらないと聞える。

 矢島さんのフルートは柔かい。先月のセツメロゥズとの共演の時も感じたが、音があまり前に出てこない。どちらかというとささやき声のようだ。その分、引き寄せられる。気がつくと身を乗りだすようにして聴きいっている。親密な演奏だ。もっともライヴが進むにつれ、だんだん音が大きくなるようでもあったのは、こちらの耳が馴れたのだろうか。大きくはなっても迫ってこないところは変わらない。

 ベーム式の金属でもウッドでも柔かさは同じ。この二種類を曲によって持ちかえ、しかもほぼ半々というライヴは他にほとんど経験がないから、変わらないのが当然なのかどうかはわからない。

 1曲、黒檀製の楽器を使う。珍しいものだろうか。相当にデリケートな楽器で、1日に吹ける時間に制限があり、おろしたての当初は1日1時間以内と厳しい。出す音にも制限があって、あまり高い音は出してはいけない。この日も1曲だけ。他の曲よりも音が太く、身が詰まり、そしてなるほど響きが若い。

 この曲〈旅路〉は矢島さんがギタリストの田中庸介氏と共作したものとのことで、しかも途中でテンポが上がり、また戻るという構成もあり、アニーもつけるギターをかなり工夫したそうだ。

 そしてもう一つ、アニーのこの日の楽器も特別だった。この日初めて人前で弾いたそうで、メーカーはロゥデンである。アイルランドやブリテンの伝統音楽にとってはマーティン以上に珍重される。マーティンはやはりカントリーやブルーグラスや、あるいはフォークにしてもアメリカン・ミュージックのためのものというところがある。他の音楽で使ってもすばらしいが、アメリカン・ミュージックを弾くと大喜びする。ロゥデンにもツボにはまる音楽があり、少くともその一つはアイルランドやスコットランドの伝統音楽なのだ。

 相手が矢島さんなので、この日はアニーの繊細な側面が引きだされていて、それがまたロゥデンに合う。ロゥデンは根が繊細というわけではないけれども、繊細さが必要なところでは他に比べるものがないくらい繊細になれる。アニーのギターはシンプルにコードでビートを刻むのも巧いが、この日はむしろゆったりとメロディを聴かせる曲が多かったから、アルペジオやピッキングを多用する。そして折りに触れてちゃらんと入れる一種の装飾音、高域で入れる合の手がこと外に美しく響くのは楽器のおかげでもあるようだ。これから弾きこまれてどんどん良くなってゆくだろうけれども、楽器のデビューに立会えたのはまたラッキーだった。

 後半は歌を続ける。アニーのシンガーとしての成長にはちょっと驚いた。声も出ているし、節回しも良い。近頃はミュージカルや劇中の音楽を担当することが多く、出演もするそうだ。ならば鍛えられるだろう。

 後半3曲目「ダブリンの鐘つき人」というミュージカルの挿入歌〈運命を愛せよ〉はこの日のハイライト。続く矢島さんの〈海辺にて〉も良い。ここでは二人でスキャットをかわすのが、現代音楽風でもあり、定型から外れてゆくのが面白い。「去年の夏休みを思い出して」作った曲も出る。これ、いいなあ。ラストの〈見送られる人〉はフルートがスリップジグのようなフレーズを吹き、そしてラストで二人がハモる。矢島さんはうたい手としてはまだまだ精進が要るが、このハーモニーは良かった。

 この二人の音楽はやはり親密なもの、英語でいう intimate な音楽で、まさにここホメリのような空間で、生音で聴くのがふさわしい。アルバムも作って欲しいが、それを聴く時は、夜遅く、照明も暗くし、イヤフォンで、できるかぎり小さな音で聴きたいものだ。

 ホメリは実に久しぶりで、7時開場なのをすっかり忘れて7時半開場と思いこんでいて、危ういところだった。いい気分は電車で帰る間も薄れず、駅から夜道をうらうらと歩いて帰ったことであった。(ゆ)

 何と言っても複数の箏によるアンサンブルが圧倒的だった。ハーモニーも含めてきちんと編曲されている。一つは前半の後半、ヴィヴァルディの《四季》から《春》全曲。もう一つは後半の後半、長沢勝俊による1982年の作品〈北国雪賦〉。前者は箏四面に十七絃、後者は箏三面に十七絃と三絃。

 最前列で見ていた川村さんによると、《四季》の楽譜は印刷されたものだったから、おそらく昨日や今日アレンジされたものではないだろう、とのことだった。箏のアンサンブルでああいうことをやってみたいと思うのは、そう珍しいことではないわけだ。伝統邦楽の楽器だからとて、伝統曲ばかりやっているのではつまらないと思うのはごくあたりまえ。古典の本曲はそれとしてしっかり伝えるが、一方で、今やって面白い曲をやるのは、伝統音楽のありかたとしてむしろ理想的ではある。この日も1曲目は八橋検校の〈みだれ〉で、古典中の古典だ。

 今回の主演である樋口美佐子氏は直前までにこにこしていたのが、その笑顔をすっと消したと思うと最初の音が響いて、空気ががらりと変わる。箏の音にはその場を引きしめる性格がある。少なくともあたしにはそう響くので、蕎麦屋の BGM で箏がかかっていたりするとおちつかなくなる。なるべく耳に入れないようにする。むろん樋口氏の箏の音は蕎麦屋の BGM とは次元が違う。一音一音が清冽だ。

 それにしてもこの日のプログラム、ソロの古典、ヴィヴァルディ、ソロの現代曲、アンサンブルの現代曲という組立ては実に巧い。お客が聴きたいものではなくて、演りたいものを演ってくれという川村さんのリクエストへ反応だというのだが、それにしてもできすぎている。つまりはそれだけ演りたい曲は山のようにあり、どのような組立ても自由自在というわけだろうか。

 それと、先日のピアノ・カルテットと同様、こういうアンサンブルでの演奏のチャンスは稀なので、絶好のチャンスとして、ふだん演りたくてもできないことを演った、という風でもある。最後にひと言ずつどうぞと促されて話した他のメンバーにとっても、この日のためのリハーサル、というよりは稽古だろうか、それは実に楽しいものだったらしい。樋口氏の自宅でおこなわれ、毎回ふるまわれた樋口氏の手料理のおかげもあったのかもしれないが、滅多にできないことを、何の制限もなしにやれる歓びは演奏にも現れていた。

 ヴィヴァルディで面白かったのは、第2楽章を始めから終りまで終止トレモロで演ったこと。それと第3楽章のテンポのとり方の絶妙なこと。撥弦楽器だけ、つまり持続音が無いアンサンブルでこのテンポで演られると、すばらしくリズミカルになる。楽曲としては、むしろこういう風に演奏してもらいたいのではないかとすら思えてくる。さらに箏では弦を平面から上に弾く。そのせいか、音が跳ねてゆく。跳ねながら揺れる。スイングする。バッハなども同じだが、バロックの音楽はダンスのためのものがたくさんある。このヴィヴァルディなどもひょっとするとダンス・チューンとして作られたのではないかと妄想したくなるくらいだ。たとえばマンドリンやギターなどの撥弦楽器でこの曲を聴いても、ここまで跳ねることはなく、したがって、これが実はダンス・チューンだと気がつくこともないだろう。

 もう一つ、撥弦楽器というよりも箏の特徴なのかもしれないが、響きが清冽なために重なってもふくらまない。厚く重なってゆくが、各々の層がはっきり見えるようで、壮麗な構築物にも聞える。これも面白い。

 後半の現代曲はどちらも冒険的な曲。実験的でもあって、様々な演奏法を試しているようでもある。弦を弾くのに指にはめたツメだけではなく、裸の指も使ったり、左手も使ったり。コマの左側を弾くし、上から掌で叩く、こする、この楽器から可能なかぎり多種多彩な音を出そうとしていると聞える。ハーモニクスのように聞える技も出る。沢井の曲はおまけにリピートが無い。とあたしには聞えた。

 長沢作品は、個々のメンバーでも、全体のアンサンブルとしても、演奏の難易度が相当に高そうでもある。むろん指揮者などはおらず、全員が客席に向いているから、お互い目線を合わせるわけでもない。

 2ヶ所ほど、三絃も含め、全員がぴたりと音を止めるところがあった。一瞬だが、完全に音が消える。反射的に、これで終りか、と思ったが、またすぐ演奏が再開された。思わずほおっと溜息が出る。川村さんによると、一番後ろの十七絃の奏者の谷井氏が、その終止が決まった瞬間、会心の笑みを浮かべて、他のメンバーを見やったそうな。これがぴたりと決まるまで、いったい何度稽古を繰返したのだろうか。しかし、あそこで決まった時の快感は演奏者にとってなにものにも換えがたいものではあっただろう。

 箏の音はソロだと場を引きしめるのだが、アンサンブルになると引きしめるというよりも、洗い清める。澄んで透明な空気が、やはり澄んで透明な音に満たされる。三絃も含めたこの透明な音のユニゾンの快感は比類がない。直前のリハーサルではこのヴェニューでは音が響きすぎるので、少し控えめに演奏するという判断をされたそうだが、実際には満員の客席の効果もあったか、まことに良い具合だった。演奏者もここは音が良いと口を揃えていた。

 これで Winds Cafe では、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・カルテット、そして箏のアンサンブルと、3回連続で圧倒的な音楽にどっぷりと浸からせていただいた。個々の会をとっても、これだけの音楽体験はまずもって稀というレベルなのに、それが3回続く、というのはもっと稀であろう。春から気の滅入ることが多かったので、音楽の神さまがあわれんでくれたものだろうか。おかげで何とか乗り切り、暑い夏に向かう気構えを持てそうだ。主宰の川村さん夫妻とミュージシャンの方々にはひたすら感謝もうしあげる。(ゆ)

樋口美佐子:箏
柿原百代:箏、三絃
矢野加奈子:箏
阿沙美穂芽:箏
谷井琴子:十七絃

 共鳴弦楽器のトリオ。どういうことになるのだろうと半分不安、半分わくわくで行ったわけだが、まずは面白い。向島さんも認めていたように、アレンジなどはまだまだ手探りの部分はあるにしても、このトリオによる音楽はもっと聴きたいと思う。この日向島さんが間違って別のCDを持ってきてしまった SonaSonaS のデビュー・アルバムも楽しみだが、ライヴをもっと聴きたい。

 共鳴弦のついている楽器といえば、あたしのなじみのあるものではまずハルディングフェーレ。このライヴも酒井さんから教えられた。もう一つが波田生氏のヴィオラ・ダ・モーレ。弦が共鳴弦も含めて14本ある。そして向島さん自身は五弦ヴィオラ・ダ・モーレ、というのだが、この楽器はやはり新しいのではないか。というのは、他の2本に比べて音色の性格が違うように聞えたからだ。

 共鳴弦のある楽器の音はどちらかというとくすむというと言い過ぎだろう、しかし音色は沈んだ色調で、地味になる。少なくとも、この日のハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレの音はそう聞えた。

 共鳴弦のある楽器といえばニッケルハルパも音量はそれほど大きくない。ハーディガーディは大きいようにも思えるが、あれはむしろサワリによるノイズのおかげで、実際の音量はそれほど大きくない。いずれにしても共鳴弦のある楽器、少なくともヨーロッパの弦楽器はどれも音量は控え目で、前には出てこない。

 ところが向島さんの楽器の音は明るいのだ。音量も大きい。音がどんどん前に出てくる。この楽器を初めて聴いたのは紅龍のライヴの時で、印象は変わらない。これが一体何なのか、今回も訊ねるのを忘れた。ライヴの中でも、ハルディングフェーレとヴィオラ・ダ・モーレについては一応の説明があったが、向島さんの五弦ヴィオラ・ダ・モーレについては何も触れられなかった。あれは何なのか、だんだん気になってくる。

 一方で共鳴弦楽器が複数揃って演奏して、音がどうなるのか、濁ったりしないのか、とも思っていたのだが、これはまったくの杞憂だった。ハーモニーは実に綺麗で、このトリオのウリの一つでもある。おそらくアレンジにもよるのだろう。トリオで始めてからすでに2年はやっているそうで、あれこれ試行錯誤もされたにちがいない。共鳴弦の鳴りも含めてハーモニーが綺麗に聞えるようなアレンジがされている。

 もっとも3本が揃ってハーモニーを奏でるのはそう多くなく、むしろ役割を割りふって、1本がメインで奏でると、他の2本はこれに合わせたり、サポートしたりすることが多いように思えた。この辺はまだ発展途上という感じではある。

 演奏された楽曲は向島さんのオリジナル、ハルディングフェーレが伝えてきた伝統曲、それにクラシックなど。まずオリジナルを全員でやる。この曲はこのトリオでやること、できることのショウケースの意味合いもあったらしい。現代音楽的でもあって、弦を押えるのにネックの上に左手を出してやったり、左手でこすったりという、おそらく通常とは異なる手法も見せる。

 それから3人各々をフィーチュアした演奏。酒井さんはソロで、椅子に腰かけて足で拍子をとる。ヴィオラ・ダ・モーレはヴィヴァルディのヴィオラ・ダ・モーレ協奏曲の抜粋。体の動きも大きなダイナミックな演奏。当時もこんな風にやっていたのだろうか。向島さんはなんとカロラン・チューン、〈Carlan's farewell to music〉。生涯の最後に、人間や場所ではなく、音楽と別れることを哀しむ曲を作ったことに感銘を受けたのだそうだ。言われてみれば、なるほど、他にこういう曲の作り方をした人はいないかもしれない。

 向島さんのオリジナルでは、1曲全部全員フィンガリングだけで演ったりもする。共鳴弦はこれでも共鳴するのか。あたしの駄耳ではよくわからない。しかし、インドの楽器は単音で弾いて共鳴するから、おそらく共鳴しているのだろう。

 フィンガリングだけでなく、第一部ラストのスウェーデンのトラッド〈ステファンの唄〉では、コード・ストロークも使う。

 休憩をはさんで第二部は、3人が客席後方から、鳥の鳴き声を立てながら登場するという演出。この日はカメラが何台も入って、全篇ビデオ撮影されていた。後で何らかの形で登場するらしい。そこからの第二部オープナーはノルウェイのトラッドで、チューニングも独得の由。

 その次にゲストのフルート、佐々木優花氏が参加する。佐々木氏はジャズをやっているそうで、向島さんとソロをとりあう。なかなかに聴かせる。あたしは初見参なので、この人は追いかけてみよう。

 またトリオに戻ってスウェーデンのトラッド、しかもクリスマスのための曲。夏至も近いし?ということらしい。これはしかしなんともいい曲で、聴き惚れてしまう。ハルディングフェーレの、くすんだというのがまずければ、セピア色の響きがいい。

 続いての日本民謡メドレーが今回最大のハイライト。ここはたぶん向島さんのアレンジだろう。〈こきりこ節> 越中おわら節> 津軽じょんがら節〉。どれもすばらしいが、あたしには〈じょんがら節〉がベスト。

 その次のバルカン・チューンもいい。共鳴弦同士がさらに共鳴しているような響きに陶然となる。

 アンコールは再びフルートが加わって、〈「その男ゾルバ」のテーマ〉。向島さんの楽器の音色の明るさが引立つ。

 他の共鳴弦楽器ともやってみたい、と言われるが、ニッケルハルパが加わると北欧色が濃すぎるような気もする。ハーディガーディは我が強いから、うまくアンサンブルになれるか。シタールやサロッドはちと無理でしょうなあ。とまれ、まずはこのトリオでの形をもっと追求されたものを聴きたい。レパートリィにしても、アレンジにしても、思いもかけぬものが出てくる可能性はありそうだ。面倒なことでは究極にも見える共鳴弦があって良かったと心底思えるようなハーモニーを聴いてみたい。

 それにしても共鳴弦なんて不思議なものを、よくも思いついたものよとあらためて感心する。(ゆ)

SonaSonaS
向島ゆり子: 五弦ヴィオラ・ダ・モーレ
酒井絵美: ハルディングフェーレ
波田生: ヴィオラ・ダ・モーレ

ゲスト
佐々木優花: flute

 やはりアイリッシュはいいなあ。ふるさとへ帰ってきた気がする。いつの間にこうなったのかはよくわからない。いわゆる「世紀の変わり目」前後にアイリッシュの録音を集中的に聴いてからだろうか。いや、その前にもうそういう感覚はあったような気もする。

 ジャズやアラブ・イスラームの音楽やクラシックやを聴いて、それぞれで天にも登る体験をして、さて、アイリッシュ、あたしの場合スコティッシュも含めて、その音楽を久しぶりに聴いてみると、世界をへめぐって故郷へもどってきたような感覚を覚える。聴くのがライヴならなおよろしい。

 前の前の週に Winds Cafe で圧倒的な音楽を聴いてしまって、これから一体どうすればいいのだ、と途方に暮れたのだが、いざ、セツメロゥズの演奏が始まると、あー、これこれ、これですよ、と全身の力が脱けた。終ってみれば、音楽を聴きたいという気持ちがまた湧いてきた。

 Winds Cafe の後の1週間は音楽など全然聴く気が起きなかった。何を聴いても幻滅しかしない感じがした。ほとんど音楽を聴くのが怖かったと言ってもいい。1週間経って意を決してグレイトフル・デッドを聴いたら、これはまともに聴けた。クラシックとはまるで対極にある音楽だからだろう。

 傍から見れば、クラシックの室内楽とデッドをどちらも愉しめるのはどこかおかしいと思われるかもしれないが、あたしの中では全く同列で、何の不思議もない。いーぐるのマスターの後藤さんもジャズもロックもクラシックもワールドも聴かれる。あたしに言わせれば、どれか一つのジャンルや、もっとごく狭い範囲、たとえば特定のミュージシャンとかレーベルとかスタイルしか聴かないという方が疑わしい。その人は本当に音楽が好きなのか。音楽が好きというよりは、その特定の何かが好きな自分が好きなのではないか。

 デッドは聴けたけれども、いつものようにどんどんと聴いてゆく気にはなれない。情報だけはどんどんと入ってくるけれども、おー、どれどれ、よっしゃひとつ聴いたれ、とはならないのだ。

 という状態で迎えたこのライヴは、だから不安でもあり、期待もしていた。これでダメだったら、ほんとうにどうすればいいのだ。という危惧はしかし、まず出てきた矢島絵里子さんと岡皆実さんのデュオが演奏を始めた途端に消えた。デュオとしてすでに何度かライヴはしているが、Failte と名乗ってのライヴは初だそうだ。フルートとブズーキ、それにピアノとパーカッション。ユニット名はアイルランド語なら「ようこそ」の意味になるだろう。

 このユニットは二人のオリジナルを演奏するためのものらしい。この日やったのはほとんどが矢島さんのものだった。曲作りのベースはお二人ともアイリッシュにある。アイリッシュはじめケルト系の音楽、とくにダンス・チューンは、楽器のできる人なら演奏したくなるものらしいが、それだけでなく、同時に曲も作りたくなるものらしい。本朝のトップ・アーティストの皆さんは各々にオリジナルも作っていて、また佳曲も多い。

 矢島さんの曲もあたしには面白い。そしてその面白さが岡さんによって増幅されるのだ。今回はピアノが新鮮だった。後のセツメロゥズでもピアノが大活躍するのだが、岡さんのピアノはアイリッシュやスコティッシュでは似たものを聴いたことがない。ピアノでダンス・チューンのメロディを弾く Padraic O'Reilly とも違う。岡さんのピアノは時にユニゾンでメロディを弾いたり、ソロで弾くこともあるが、基本は伴奏だ。それが単にコードを押えるのでもなく、ぽろんぽろんやるのでもない。チェロ・ソナタのピアノ的とも思えるけれども、一番近いのはジャズ・ピアノ、ジャズのリズム・セクションとしてのピアノではないか。

 つまり精神としての話だ。ブンチャ、ブンチャとビートをキープするのではなく、ビートをキープすると同時にハーモニーをつけると同時に合の手を挟んで煽ると同時にまだ他に何かやっている。岡さんとしては特別なことをやっているのではなく、何か誰かお手本があるのかもしれないが、このコンテクストではあたしにはすばらしく新鮮だ。ブズーキもハーモニーをつけるのにアルペジオでやったり、ドローンのようにつなげるのも新鮮。デュオだからよく聞える。

 曲もどれもいい。どこかで聴いたと思える曲が多いのも面白い。なつかしいというのではなく、こういういい曲は前に演っていたよねという感じ。とりわけ5曲目〈風はしる〉は即興のピアノのイントロからゆったりと入ってすばらしい。そこからの3曲はハイライト。

 矢島さんはフルートの他に各種パーカッションも操る。今回は鉄琴がよかった。こういうのは初めてだと思う。

 休憩をはさんでのセツメロゥズは諸般の事情でライヴそのものが1年ぶり。ということだが、そんなブランクは全然わからない。フィドルとアコーディオンのユニゾンが始まった途端、あー、帰ってきた、と思った。この感覚、これですよ。

 この二人のユニゾンの響きがまた気持ち良い。田中さんによると使っている楽器が珍しいもので、他には豊田さんぐらいだそうだ。音はシャープなのだが濡れている。瑞々しい。それが沼下さんのフィドルと重なるとまさに岩場を流れおちてゆく渓流の趣。4曲目のバーンダンスでのユニゾンがまたいい。もー、たまりまへん。

 そして2曲目〈Watermans〉で、来ました、このドラムス。今日は変拍子は医者に止められているとのことだが、そういう時はたいてい医者の忠告は破るためにある。おまけにここで岡さんがピアノを弾く。これはこの曲のベスト・ヴァージョン。これぞ、セツメロゥズ。生きててよかった。

 この日は主にファースト・アルバムからの選曲が多いが、いずれもアレンジを変えている。とにかくピアノが新鮮。だけでなく、誰もが新しい音を身につけているようにも聞える。7曲目のダンス・チューン、フィドルがドローンで不思議な音を出す。それに続く演奏の疾走感がまたたまりまへん。

 アンコールは矢島さんが加わって、まず矢島さんの曲。これまた清流を筏で下る感覚。締めは〈クリッターズ・ポルカ〉。

 Winds Cafe のピアノ・カルテットが非日常の極とすれば、こちらは日常そのもの。なのだが、日常でありながら、いわばもう一つの日常、そう日常の裏ともいえる次元に連れていってくれる。表面は何も変わらないけれども、その日常を作っている素粒子の回転が逆になるので、そこをくぐり抜けると溜まった澱が蒸発する、と言ってみよう。この音楽はあたしにとってはそういう作用をしてくれる。

 そうすると、あらためて生きる意欲も湧いてくるので、音楽もどんどん聴こう、本もどんどん読もう、という気になる。非日常を極める音楽は宝物だが、一方、普段着を着ることで変身してしまう音楽があってバランスがとれる。

 前半のデュオの気持ち良さにつられて、酒もお代わりしたら、ふだん飲まないからか、酔っぱらってしまったらしい。帰り、足下がふわふわしていた。まあ、たまにはいいか。(ゆ)

Failte
矢島絵里子: flute, percussion
岡皆実: bouzouki, piano

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki, piano
熊谷太輔: drums, percussion

 月例ラ・カーニャでの紅龍ライヴ。いつもの永田さんのピアノに向島ゆり子さんのヴィオラ・ダ・モーレ、小沢アキさんのギター。今回は永田さんの歌は無し。

 向島さんの楽器は共鳴弦を入れて10本。実際に弓が触れるのは5本に見えた。実になんともふくよかで、中身が詰まった、たっぷりとした響きがすぱあんと広がる。こりゃあ、いい。演奏する方も、これを弾けるのが嬉しくてしかたがないのがありありとわかる。いつも以上に熱が入っている。今回はまずこれがハイライト。

 ところでウィキペディアではヴィオラ・ダ・モーレの弦は6〜7本とある。今世紀に入って造られたハーダンガー・ダモーレなら十弦だが、そちらに近いのだろうか。ひょっとして折衷された新しい楽器だろうか。胴のサイズはヴィオラに見えた。

 この日のもう1つのハイライトは紅龍さん本人の歌である。絶好調と言っていい。声もよく出ているし、息の長短も自在で、伸びるべきところでは十分によく伸びる。歌うのも愉しそうだ。新譜お披露目ツアーでライヴを重ねたおかげだろうか。ギターもほとんど小沢さんのアコースティックに任せて、歌うことに専念しているようでもある。聴き慣れた歌もそれはそれは瑞々しい。

 オープナーはディラン〈時代は変わる〉。アンコールの2曲目のクローザーもディラン〈風に吹かれて〉。どちらも日本語版。完全に自分の歌としてうたっているのは当然ながら、今、ここでこれらを歌うことがまさに時宜を得ている。まさに今歌うべき、歌われるべき歌を、今にふさわしく歌っている。この2曲だけでなく、この日の歌はどれも、いつにもまして心に沁みてきた。どの歌にも切実に共鳴するものが、あたしの内にあった。そういう状態にあたしがいたということかもしれない。とはいえ、歌はあたしのために作られたわけでもなく、あたしだけのために歌われているわけでもない。それで個々の事情に共鳴してくるのは、より広く、あたしと似た状態にある人間の心の琴線を鳴らす、普遍的に訴えるものがこめられているからだろう。

 3曲目 Spooky Joe の歌のアヴァンギャルドなイントロでの向島さんの演奏、〈兵士のように詩人のように〉で小沢さんが弾くマンドリンそっくりのアコースティック・ギターが、特に印象に残る。

 〈野良犬の話〉と〈旅芸人の唄〉。2枚のソロに収められたうたのいずれにも隙は無いけれども、この二つには紅龍さん本人の音楽家としての行き方、人間としての在り方の自画像が聞える。そこにあたし自身を重ねて聴くのは、どういう風の吹きまわしか、自分でもわからない。わからないけれども、憧れと呼んでもいい感情が湧いてくる。ひとつの理想像でもある。完全無欠という理想ではなく、そのように生きてみたいと望む姿だ。性格からして不可能だし、実行したならたちまち野垂れ死ぬことは目に見えているにしても、望んでしまう。

 あたしの見るかぎり、新作を出した後のライヴは、演るたびに良くなっている。声はますます充実し、伸びるのが長くなっている。歌唄いとしての存在感、説得力が目に見えて大きくなっている。シンガーとしての紅龍はこれからが黄金期ではないか。いずれライヴ・アルバムも作ってほしい。

 日曜夜の下北沢は完全に観光地で、終ってから入ろうと思っていたカレー屋は夜も9時近いのにまだ長蛇の列。真冬に戻った中で老人は並んでなどいられない。さっさと退散したことであった。(ゆ)

 そうそうこの声、とうたいだした途端に納得した。ぎっしりと実の詰まった、異界から響いてくると聞える声。行川さをりさんの声と性質が似ている。行川さんの声が低い方に膨らむのに対して小暮さんの声は高い方へ広がる。ただスイート・スポットは最高域ではなくて、その少し下にあるらしい。そこで伸ばされると空間全体が共鳴して、こちらの体の芯がそれに共鳴する。くー、たまりまへん。例えば前半5曲目コインブラ・ファドの〈別れのバラード〉、例えば後半オープナー〈赤い魚〉。

 この人には紅龍さんの新作《紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]》で出逢った。この人、何者?と永田さんに訊くと、ふふふ見にいらっしゃいとあの低い声で誘う。そりゃ、行かずばなるまい。

紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]
紅龍 / RADIO MANCHURIA [CD]

 ということでこの日、出かけていったわけだが、すばらしいうたい手はたくさんいるにしてもこの声は唯一無二。しかもその声をちゃんとコントロールしている。これだけの声を持てばそれに頼り、溺れてしまってもおかしくない。実際そういう人もいる。しかし小暮さんは声によりかからず、しっかり主体性をもって声を聴かせるのではなく、歌を聴かせる。だからこそ声が引きたつ。

 自身のギターと永田さんのピアノとピアニカ。ギターはアルペジオ主体でかき鳴らすことはほとんどない。控え目で効果的。しかしその気になれば相当に弾けるのではとも思える。

 永田さんのピアノはいつもながら適確かつ随所に驚きが仕組まれていて、ふっと耳を奪われる。今回はピアニカが面白い。リスボアの街角でピアニカを奏する盲目の老女をうたった歌の伴奏というだけではない。おまけに左手でピアノ、右手で肩からかけたピアニカという芸当もしてみせる。これが見せるだけでなく、聴かせる。

 小暮さんは元はファドに惹かれ、ポルトガルにも住んだことがあるらしい。松田美緒さんも確か元はファドを歌っていたのではなかったっけ。ファドの昏さは我々には親しみやすいのか。一方でスコットランドの歌の昏さに共感する人は多くないのう。

 松田さんも日本語の伝統歌をうたうようになり、あたしはそこで「発見」するわけだが、小暮さんは自作やカヴァーで日本語のうたを歌う。オリジナルも面白い。詞も曲もいい。オープナーの「さねかずら」は認知症の母親を歌っている。そこにりきみが無い。哀しみも同情も聞えない。ただ、そういう存在としてまるごと受け入れる。器が大きい。

 次の歌は「きみは何を持っているの」とうたうが、これは問いというより、相手の目を覚まし、引きつける刺戟のようだ。

 とはいえこの日のハイライトは後半4曲目、紅龍作の〈誰かが誰かを〉の絶唱。語尾をのばしてまわす、コブシまではいかないゆったりとまわすのにうっとりしてしまう。次のメアリ・ホプキンの〈悲しき天使〉の日本語版、高田渡の主治医だったという藤村直樹による詞のヴァージョンもいい。こうして日本語で聴いたからか、この歌のメロディはクレツマーであることにようやく気がついた。そしてアップテンポの〈蝶々〉、ラスト曲とハイライトが続く。

 アンコールはピアノだけのバックで初恋をうたう。声とともに言葉にならない感情が流れこんでくる。

 おなじみのアーティストの安定したパフォーマンスにひたるのも快感だが、鮮烈な初体験にまさるものもまた無い。それが最も好きなタイプの声をたっぷりと浴びるとなれば無上の天国。これで明日からまた生きていけるというものだ。ぜひまた生を聴きたいし、聴けるだろう。

 このすばらしいうたい手に引きあわせてくれた永田さんと紅龍さんに感謝。

 やはり人の声は最高だとあらためてかみしめながら、なぜか古着屋のやたら増えた下北沢の街を駅へ向かう。(ゆ)

小暮はな: vocals, guitar
永田雅代: piano, pianica



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