クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:声楽

 こもりうたというジャンルが成立するかどうか、あやしいところがある。あたしは子どもたちを寝かしつけるのに、ソウル・フラワー・ユニオンの〈満月の夕〉とか、上々颱風の〈連れてってエリシオン〉とか、栗コーダー・カルテットの音楽を使っていた。なんだってこもりうたになるものだ。〈歓喜の歌〉でも、セックス・ピストルズだって、コルトレーンだって、アイラーだって、こもりうたになる。だろう。たぶん。

 一方でこもりうたという型もある。こどもを寝かしつけるためには、滑らかなメロディで、ゆったりしたテンポ、うたいやすいうたであるべしという考えに沿って作られ、できてきたうた。もっともクラシックの名立たる作曲家たちによるものは、実際にこどもたちに向かってうたわれたかどうか。同時代のヨーロッパの富裕な市民の家庭ではうたわれたかもしれない。

 佐藤氏のうたうこもりうたは、後者に属するものではあるが、どうも、子どもを寝かしつけるためにうたわれてはいないようだ。こもりうたが本当に成功すれば、聴き手は途中ですやすや眠るはずだ。このコンサートで、聴衆が全員、途中で眠ってしまったならば、大成功ということになるのか。

 聴きながら、これは子どもたちに聴いてもらいたいと思って、終演後、出口にいたKさんにそのことを言ったら、大人のためのコンサートに先立って、子どもたちのためのライヴをやっていたそうだ。どんな反応だったのかまでは聞きそびれた。皆、眠ってしまったのだろうか。

 大人の聴衆の中には眠っていた人もいたが、大部分は眠らずに聴き入っていたようだ。あたしも眠らなかった。むしろ、CDの《こもりうた》収録の曲を題材にした「紙芝居」に引き込まれていた。

 この試みは面白い。ただうたってゆくだけでは、よく知られたうたばかりのため、単調になりやすい。いかに生とはいえ、CDとそれほど違うアレンジにもなるまい。お話を語って、そのなかにうたを配置し、うたってゆくと、うたそのものにも新たな角度から光があたる。話自体の出来はともかく、試みとしては成功していた。これならば、今度は話を先につくって、ふさわしいうたを選んでゆく形も可能だろう。

 佐藤氏はクラシックの声楽の訓練を受けているわけだが、クラシックの声楽につきまとうとあたしには感じられていた嫌らしさがまったく無い。これは佐藤氏が所属していたアウラもそうだし、アヌーナなどのアイルランドのシンガーたちもそうだ。もちろん、伝統音楽のうたい手たちの声とは一段異なる。地声の延長ではなく、断絶ないし飛躍があるのは確かだが、その方向が人間的と感じられる。人の声としての潤いと温もりがある。

 じゃあ、たとえばオペラなんかの声にはそういうものが無いのか、といえば、あたしは無いと答える。あれはどこか不自然だ。まるで声帯だけ別のものに交換したサイボーグみたいだ。交換じゃなければ、声帯だけ異様に発達してるんじゃないか。もちろん、聴く人が聴けば、あれこそは天上の声ともなるんだろうが、あたしはとにかくてんでダメなのだ。

 だから初めて《こもりうた》のCDを聴いたときには驚いた。ポピュラーのシンガーがうたうものとも一線を画していた。訓練というのは恐しいもので、うたの表面をなぞるのではなく、一番の底まで降りてゆくことができるようになる。うたが作られた、生まれたその瞬間にまで遡ることができるようになる。そこからうたわれると、聞きなれたというよりも、ミミタコというよりも、もっと心身に刷りこまれているうたが、独立の存在として輝きだす。生まれて初めて聴くように響きだす。

 共演のオルガンがまたいい。伴奏の域を超えたもう一つの声になっていることはもちろんだが、オルガンそのものとしても新鮮だ。チープな電子オルガンの軽みと、大規模なパイプ・オルガンの深みが不思議に同居している。このオルガニストとの再会がこうしたうたをうたいはじめたきっかけと言う。であれば、二人の共演はぜひ続けていただきたい。

 コンサートでは1台の電子オルガンの一種らしいものが使われていた。このオルガンがこの教会にあって、外部の使用に公開されていることで、《こもりうた》のライヴ演奏が可能になったのだそうだ。アルバムに収録されている曲は、時代も場所も様々で、それぞれにふさわしいオルガンを生でつけようとすると、通常なら何台もの異なった楽器が必要になるらしい。実際、曲によって様々な音が響いていた。おそらくは増幅のところに仕掛があるので、PAシステムが必要なのだろう。ヴォーカルもそれに合わせるためか、生ではなく、PAを通していた。もっともかなり巧妙に調整したとみえて、限りなく生に近い響きだった。

 あるストーリーを語るということからすると、案外オペラに近いようでもある。カラン・ケーシィの《SEAL MAIDEN》も思い出す。そういえば、あそこにもそれは美しいこもりうたが入っていた。佐藤氏の《こもりうた》でも、ウェールズの伝統歌はハイライトの一つだ。

 せっかちに季節を先取りした冷たい雨が降っていたけれど、体のなかは、いい音楽でほどよくほくほくしている。新井薬師駅前のファミマにも大粒玉子ボーロがあってますますいい気分。(ゆ)


こもりうた
佐藤悦子 勝俣真由美
toera classics
2016-06-19


 合唱には原初的と言いたくなる魅力がある。原初からハーモニーがあったはずはない。しかし少しずつ音をずらして重ねるとおそろしく気持ちよい響きになることをヒトはどこかで発見した。ハーモニーが気持ちよく響く、聞えることは、ヒトの生物としての根源に関わっているにちがいない。

 地球上の音楽にあってハーモニーは特殊だ。ヨーロッパの発明ではある。少なくともヨーロッパで最も精妙に発達している。しかしヨーロッパ以外に生まれ育った人間にとっても、ヨーロッパ流のハーモニーを聞けば気持ちがいい。

 とはいえアウラはハーモニーそのものを重視する、あるいはむしろそれに依存する形からは離れている。アウラの音楽にあってはアレンジもハーモニーと同じくらい重要だ。ともすればハーモニー以上に重要になる。5人の声がきれいにハモる場面というのはごく少ない。最も効果的に、つまり美しく響く箇所に、切札として使われる。

 アウラのコンセプトは本来はハーモニーを前提としない音楽にアレンジによってハーモニーをつけ、元来のものとは別の美しさ、気持ちよさを引き出すことにある。ハーモニーを前提とする音楽でも、器楽曲を声で演奏することで、別のタイプのハーモニーを可能にし、楽器演奏とは異なる美しさ、気持ちよさを生み出す。どちらも通常の演奏では表に出ない、隠れている美しさを聞かせようとする。

 アカペラと呼ぶのは当然として、これを「クラシック」と言えるかと疑問を抱く人も少なくないのではないか。

 クラシックかどうか、そんなことはどうでもよろしい、本人たちがそれをどう呼ぼうとよい音楽であればいいのだ。といえばその通りだが、あたしはそこでふと立ち止まる。今クラシックと呼ばれているヨーロッパの古典音楽、17世紀以降、ヨーロッパ市民社会の音楽として発達した音楽は、もともと隠れている美しさを表に出そうとする試みだったはずだ。

 そう言ってしまえば、芸術という営為がそもそも隠れている美を表に出そうとする試みではある。というより、そういう試みを芸術と呼ぶわけだ。すなわちそこには冒険や実験が必然的に伴う。ならばアウラがやっていることは、まさにクラシックの王道に他ならない。

 アウラのハーモニーが、たとえばウォータースンズやオドーナル姉妹のものと異なるのは、そこに科学が関わるところだ。クラシックは科学から生まれている。科学から生まれた文学がサイエンス・フィクションなら、クラシックはサイエンス・ミュージックと呼ばれるべきだ。

 ウォータースンズや、グルジアやサルデーニャのアカペラ・コーラスは、無数の人びとが長い時間をかけて試行錯誤を繰り返しながら、うたい手と聴き手の双方にとって最も気持ちのよい音の組み合わせをさぐり当ててきたその現在形だ。その姿はゆっくりと、連続的に変化している。

 クラシックではそれを科学を用いて解決する。編曲者は職人ではなく、エンジニア、今ならむしろプログラマだ。大胆な実験も厭わず、量子的に変化する。アウラはその最先端にいる。

 アルトの星野典子が復帰し、池田有希が参加して、組み合わせが新しくなったので、コンサートにも「ブランニュー」というタイトルがついていた。録音ではさんざん聴いているが、ライヴは初めてなので、こちらもブランニューな耳だ。

 モーツァルト「トルコ行進曲」からいきなり沖縄民謡、「ずいずいずっころばし」、宮沢賢治ときて、ルネサンス、フォーレ、チャイコフスキー「花のワルツ」までが前半。後半は富山、会津、北関東の民謡からケルト系という構成。

 おもしろいことにというか、当然なことにというか、ハーモニー前提のフォーレが一番つまらない。というと語弊があるかもしれないが、あたしの耳にはべつにアウラがうたわなくてもいいじゃん、と聞える。

 アウラの手法が最もうまくハマっていたのは「ずいずいずっころばし」と「花のワルツ」だとあたしには聞えた。前者ではこのうたの底を流れる切迫感がちょうどいい強さでにじみ出ていた。後者はまああたしの大好きな曲ではあるしね。これを聴くと、ヴィヴァルディの《四季》で1枚アルバムを作ったように、《くるみわり人形》の組曲で1枚作ってほしいと思う。

 ケルト系はアウラのスタイルに合うと思うが、あたしとしてはもう一歩踏み込んでほしい感じがある。隔靴掻痒とまではいかないが、とことんまでやったという感じではない。使える音が少ないとかのケルト系ならではの性質を活かしきれていないか。あるいは、なつかしさのようなセンチメンタリズムにひきずられているのか。それこそヴィヴァルディやモーツァルトを相手にするのと同様、真向から斬り込んではどうだろう。

 などと細かいことは後から思ったことで、聴いている間は、たっぷり2時間、ひたすら気持ちよかった。背筋がぞくぞくしたのも一度や二度ではない。サルデーニャの Tenore di Bitti の時同様、ひたすら人間の声のハーモニーだけで他になにもない、というのには独特のすがすがしさがあって、まったく飽きない。昼間かなり歩きまわっていたので、いささかくたびれ気味で、ひょっとすると気持ちよくて寝てしまうかなと思ったが、まったく眠くならず、終ってみれば気分爽快。元気になっていた。

 会場は虎ノ門のJTの本社になるのか、高層ビルの2階。256席の室内楽専門ホール。3階分くらいの高い天井。フロアは水平だが、ステージの高さがうまく作ってあるのか、ミュージシャンの姿は後ろでもよく見える。土曜日の夜とて、周囲はひとけがない。歩いている人は皆、このコンサートの聴衆と思える。

 アウラの次のライヴはクリスマス、会場は白寿ホールとなると、こりゃあやはり行かねばなるまいのう。(ゆ)


アウラ Aura
畠山真央
池田有希
菊池薫音
奥脇泉
星野典子

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