クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:女声

 かつてはオレが応援しないで、誰が応援するのだ、ぐらいの気持ちでコンサートに臨んだものだった。結成して20年のアウラにはもうあたしなんぞの応援は要らない。こちらはそのハーモニーにひたすら浸って、いい気持ちになっていればいい。時々、本当に体が天に昇るような気分になる。

 前回は広々とした教会で、声は広大な空間に向かって解き放たれていた。今回は響きのコントロールされたホール。教会はクラシック音楽発祥の空間ではあるけれど、そこから出て、いわば聖のパワー・スポットから俗のサロンへと移ることで音楽として独立する。そして響きのコントロールへと向かう。このホールはやはり俗の空間で、教会との違いがラストの〈ハレルヤ〉に現れたのは当然ではある。前回の〈ハレルヤ〉が、聖なる空間によって引きだされ、人のためよりも神の、あるいは天のために響いていたとすれば、今回は俗空間にあって、うたい手たちの想いのこもった、人のための歌に聞えた。

 スキャットを使ったアレンジはさらに一段と巧妙になっていた。歌詞とスキャットの入れ替わりのタイミングと鮮かさに息を呑む場面がいくつもある。スキャットの種類も増えているし、アレンジのパターンもより多様だ。音量の大小、アクセントの強弱もメリハリがよくつき、リズムも変える。そうなると、5人だった時よりもアレンジが複雑になっているように聞える。にもかかわらず、全体の印象としてはすっきりと見通しが良い。そこにはおそらく、スキャットの役割を、たとえばインストルメンタルのパートに絞るというように、より整理していることも働いているのかもしれない。4人での体制が完成されたと思える。

 星野さんの低音がより際だつとともに、今回は菊地さんの声がこれまでになく大きく聞えた。彼女の声は大好きなので、あたしとしては喜ぶ。

 新曲の〈Auld Lang Syne〉はひょっとしてとひそかに期待したが、有名な方のメロディ。とはいえ、ストレートなアレンジが曲の美しさをあらためて引きたてる。いつか、古い方のメロディも歌ってくれると期待しよう。

 やはりこういうホールで聴くアウラは格別だ。教会には教会なりの良さがあるので、そちらも大歓迎だが、やはり距離があるし、それにどこか上の方から見られている気配のようなものがある。クリスチャンではないから気にすることもないし、時には聴衆以外のお仲間がいるのも面白いのだが、音楽から気を逸らされることもなくはない。俗のホールにはミュージシャンとリスナーしかいない。より純粋に音楽にひたりこんでいられる。人間の声だけのハーモニーには、他の音楽にはない魔法が宿る。(ゆ)

 教会でアウラを聴くのは初めてなので愉しみにしていた。ルーテル東京教会は地図で見ると歌舞伎町を抜けて大久保の方へ行けばいいはずだと、熱中症警戒アラートが出る中、汗をふきふき、新宿駅から歩く。この通りと見当をつけた大通りを右往左往してもそれらしき建物が無い。どうやらもう1本先らしい、とまた汗をかきかき歩く。新大久保駅から伸びる目抜き通りは歩道が狭く、内外の観光客でのろのろとしか歩けない。ようやく探しあてると「場所が変更になりました」の小さな立て看板が出ている。関係者らしき人が出てきて「アウラのコンサートですか」と訊ね、そうだというと地図をくれた。それと iPhone のマップによると、変更先の淀橋教会は同じ通りをもどり、新大久保駅を過ぎて中央線・大久保駅の手前らしい。そこでまたてくてく歩く。まったく東京は人が多い。ようやくそれらしき建物を探しあて、通りから引込んだ入口に近づくとスタッフの姿が見えた。

 予定していた教会がダブル・ブッキングだったとのことで、急遽、こちらになったそうな。当初の予定の教会は響きが良いそうだが、こちらは広大な空間。アウラ史上最大の空間らしい。江戸川橋の東京カテドラルや品川・御殿山の品川教会に匹敵するのではないかと思われる。ただ、パイプ・オルガンが無いのがちょと寂しい。それと、正面演壇背後の窓の外を中央線の線路が走っていて、大久保駅のホームが見える。一番手前、教会に近いところを中央線上り電車が走ると、その音が小さく聞える。それでもなお、こちらはこちらでやはりすばらしい音響。アウラのようなアカペラ・コーラスには最適の空間とあたしには思われた。ハクジュ・ホールや JTアートホール・アフィニスも良いが、適度にデッドなああいうホールよりは、思いきりライブな教会の空間でアカペラ・コーラスは聴きたい。この日は個々の声もハーモニーも両方ともよくわかる。意識せずとも自然に聴きわけられる。個々の声とハーモニーが同時に聞えてくる。不思議な感覚。6曲目〈アニー・ローリー〉のメロディに日本語詞をのせた〈愛の名のもとに〉ではドローンがそれはそれはよく響く。

 今回はアウラ結成20周年記念になっていて、メンバーが MC で各々思い出を語る。とはいえ、20年間ずっと在籍したのは唯一菊地さんだけで、他の3人は一時的に離脱した時期があり、奥脇さんにいたっては途中参加でメンバーとしては半分の時間になる。もっとも、20年前、アウラのファーストをたまたま買って聴き、こういうことが可能なのだと驚き、喜んだそうだ。当時オペラ専攻に籍を置いていたものの、本当にオペラがやりたいのか、自分でもわからなかったところへ、アウラを聴いて、めざす方向がおぼろげに見えたという。もっとも後にそのメンバーとなってこうして歌っているとは、その時にはまったく思いもよらなかった。20年というのは、そういうことが可能なくらい長い。結成当時はまだ学生だったメンバーもいる由だが、そういう人も今や40の坂を越えている。人生、いろいろあったはずで、それらをくぐり抜けてきた人たちの歌はやはり違う。この日のアウラを聴いてまず浮かんできたのは成熟だった。若い時にしかできない音楽もあるが、アカペラ・コーラス、それも複雑なアレンジによる精緻なハーモニーの妙を聴かせるアウラのような音楽は、歳月を経て、経験を重ね、山坂を越えて成熟する。

 まず目につくのは体力。アカペラ・コーラスは声だけが勝負で、しかもワンマン・ライヴということは初めから最後まで歌いつづける。歌は全身運動でもあって、どんな楽器演奏よりも体力を消耗する。最初の頃は途中休憩を入れても、アンコールの頃には息たえだえ、ということもあった。それで歌唱のクオリティが落ちるわけではむろん無かったし、若い人たちが最後の息をふりしぼって歌うのは初々しくもあり、可憐でもあった。もはや、そういうことはまったくない。5人でやっていたことをカルテットでやるのは大変なんです、ものすごく忙しくて息継ぎをしてるヒマがないんです、とおっしゃるのだが、むしろ、プログラムが進むにつれて輝きと迫力が増してゆき、今回のハイライトはラスト、アンコール前の『メサイア』の〈ハレルヤ〉。会場が教会ということでラストの位置に置いたのだろう、まさにこの空間で歌われるにふさわしい曲を、広大な空間いっぱいに響かせて、堂々たる歌唱。天国にいるはずのヘンデルも神さまも大いに喜んだにちがいない。普通のホールよりは、こういうところの方が天国に声は届きやすいだろう。

 20周年の回顧ばかりではない。5曲目〈My Love Is a Red, Red Rose〉は畠山さんのアレンジによる初演。スコッチらしい起伏の大きなメロディを活かして、交錯するハーモニーが見事。そして、これはスコッチらしくなく、明るいのである。アウラの音楽は明るい。前半ラストは宮城道雄の〈春の海〉。箏のエミュレーションも面白いが、原曲にはないはずのハーモニーがごく自然に聞えるのがもっと面白い。

 後半はまず『モンセラートの朱い本』からの2曲。バルセロナ郊外のモンセラート修道院に伝わる14世紀の写本に記されたもの。プリミティヴかつ洗練された歌唱で、これだけは星野さんを除いたソプラノ3人で歌われた。そこで外れた星野さんがリードをとる〈サンタ・ルチア〉もやはりいい。彼女のリードはもっと聴きたい。その次のサティがまたいい。コーダが粋だ。フォーレの〈レクイエム〉からの曲は故意に小さな声で歌われるが、それがまたよく響く。大きく増幅されるのではなく、小さいままに響くのが美しい。そして〈トルコ行進曲〉のアクロバティックな歌唱こそはアウラの真骨頂。こういうのを聴くと、アウラは繊細というよりも、実は「体育会系」で、芯が太く、どちらかといえば肝っ玉かあさん風ではないかとすら思える。

 突然、直前の会場変更はむしろ雨降って地固まる、怪我の功名、瓢箪から出た駒、あるいは棚からぼた餅とも言えるものだと思えた。

 カルテットとしての歌唱もすっかり板についた。新曲もあるし、そろそろ次のアルバムが欲しい、とあたしなどは思う。アウラの録音はイヤフォン、ヘッドフォンのチェックにも使える。昔は曲によって音がビビることもあったけれど、それはもう昔話。イヤフォン、ヘッドフォンでも音が良いのはあたりまえ。問題はその先、音楽をいかに活き活きと聴かせられるか。メーカーがいかに音楽を聴きこんでいるか、になっている。これからのオーディオのハードウェアを造る人たちには、ぜひ、アウラも聴いてほしい。これがきちんと再生できればホンモノですよ。

 20年は長いし、節目ではあるけれど、通過点でしかない。次の20年がどうなるか、最後まではあたしはまずもたないだろうが、行けるところまでは追いかけたい。(ゆ)


 前回アウラを聴いたのはここ同じ会場で3年前のクリスマス・コンサートだった。3年ぶりに聴く彼女たちのハーモニーはやはりすばらしい。コーラスで歌うことが愉しくてたまらないのが手にとるようにわかるので、見て聴いてこちらも愉しくなるのはいつもの通り。そこに巧まざるユーモアが滲みでるのもこのグループならではだろう。

 3年のご無沙汰の間に大きな変化が起きていた。池田有希氏が卒業して、クインテットからカルテットになった。同じ卒業でも、アイドル・グループのものとは次元が異なる。50人近くいる中で1人抜けても、全体の姿形には響かない。5人から1人抜けるのは、量にして2割減。音にしては数字では測れない。単に音量が減るとかいう話ではない。アレンジもすべてゼロからやりなおしになる。

 1人抜けることになった時点で、あえて後を補充せず、減ったままのカルテットでやると決めるのは並大抵のことではなかっただろう。アウラもすでに10年選手。ここで新たなメンバーを加えるのは、入る人、迎える人たち双方にとってハードルは高い。おそらくはそれ以前に、適切な人が見つからなかったのかもしれない。ソロでも十分やっていける実力をもち、なおかつ、アカペラ・コーラスでもやろうという積極的な意欲があり、さらに、他のメンバーとも気が合う、という条件を満たす人となると、おいそれとは見つかるまい。あるいはやむをえぬ選択だったのかもしれない。

 とはいえ、その結果は、雨降って地固まる、災い転じて福となる。カルテットのアウラはまことに新鮮だった。クラシックの世界ではクインテットは珍しくないのかもしれないが、あたしは他では五人組のアカペラ・コーラス・グループは聴いたことがない。だからだろうか、アウラのハーモニーはどこか不安定、というと言過ぎだろうが、どっしり安定しきったわけではないところを感じていて、そこが魅力の一つでもあった。聴いていると、4+1になったり3+2になったり、1対4、2対3になったりして、しかもその変化が規則的ではなく、千変万化していた。つまり五声であることでどこかが均衡が破れる。それが面白かったのだ。

 四声は安定する。それが最も明瞭にわかるのはコーダ、歌が終る最後の終止音のところ。そしてそこのハーモニーにアウラがクラシックとして歌っていることもまた最も明瞭に出る。先日のカルデミンミットのハーモニーとの違いがまざまざと現れる。たまたま二つの、女声4人の形は同じながら、まったく性格の異なるハーモニーをたて続けに聴くことができて、いろいろ発見があり、これまたたいへん面白かった。

 五声が安定しないことが魅力であったことはたぶん自覚されていたのだろう。四声の安定を、破るのではなく、一部をはずして傾むける試みも随所にされていたと聞えた。一番はっきりしていたのは歌詞を歌わず、スキャットを多用すること。1人ないし2人が歌詞を歌い、他のメンバーが声だけでハーモニーをつけたり、あるいは全員が声だけで「演奏」することもある。これはおそらく、全体の音量減をカヴァーして、瘠せて聞えるのを防ぐ効果も狙ってのことではないかとも思われる。そして、うまく一石で二鳥をとらえていたと思う。あたしの耳には、ドローンのように一つの音を長くひっぱるのがことによい効果を上げていた。

 〈芭蕉布〉では、沖縄の歌ということもあってか、発声法もクラシック標準のものからは変えていたように聞えたけれど、これはあたしの耳のせいかもしれない。

 1人減ったことの影響は必ずしも悪いものだけではない。良い効果とあたしには思えたのは、一人ひとりの声がよりはっきり聞えるようになったことだ。星野氏の低音がより大きくはっきり響いてきたのは、とりわけ嬉しかった。リードをとる場面も増えている。他のメンバーのソプラノと彼女の低音の対比もまたアウラの魅力の一つなので、ここがより増幅されたのは大きいと思える。こうなると、奈加靖子さんが歌詞を書いた〈ダニー・ボーイ〉の日本語版を、あの低いキーのままアウラが歌うのを聴いてみたくなる。

 カルデミンミットとの対比で面白いと感じられたことの一つは、さっきも言ったが、とりわけコーダのハーモニーに現れていた。カルデミンミットのハーモニーは倍音をより大きく響かせて解放しようとする。歌う方も聴く方も倍音に溺れようとする。アウラの、ということはクラシックのやり方は倍音が響くのにまかせず、響きをコントロールしようとする。ある点にむかって収斂しようとする。一点に向かうのはクラシックをクラシックたらしめる特性で、ここもその基本特性にしたがっている。倍音に溺れこまずに醒めようとする。音楽には演る方も聴く方も呑みこもうとする習性があって、そこにあらがおうとするところに西欧クラシックの面白みがあることが、このコーダを聴いていると浮上してきた。

 アレンジをまったくやりなおし、それを完全にモノにするのは、さぞかし大変だったろうなあ、とあらためて思う。一人ひとりの負担も当然増える。バッハやヴィヴァルディなど「新曲」もあったけれど、ほとんどはお馴染のレパートリィ。それを1人減ったと感じさせず、むしろより大きなスケールで歌われたのには感服する。どれも良かったけれど、個人的にはアンコールの〈アニー・ローリー〉日本語版がハイライト。つくづくこれは歌詞が良い。

 次はやはりこのカルテットでの新譜を期待してしまう。それも「新曲」で固めたもの。1曲ぐらいはアレンジ違いのセルフ・カヴァーがあってもいい。

 それにしても人間の声はええのう、とこれまたあらためて染々思い知らされたことでありました。(ゆ)

アウラ
畠山真央
菊地薫音
奥脇泉
星野典子

1121日・日

 シンプルな女声ヴォーカルの録音というので買ってあったのを思い出し、波多野睦美&つのだたかし《アルフォンシーナと海》を聴く。選曲、演奏、録音三拍子揃った名盤。

アルフォンシーナと海
波多野睦美
ワーナーミュージック・ジャパン
2003-01-22



 こういうのに出逢うと、手持ちの機器を総動員したくなる。聴き比べたくなる。機器の性格を露わにする音楽だ。これこそリファレンスにすべきもの。もっとも、こんな風に機材の長所短所がモロに出るのは、かえって都合が悪いこともあるかと下司の勘繰りもしてしまう。

 まずイヤフォンを聴いてみる。最も気持ちのよいのは
Tago Studio T3-02。ついで Acoustune HS1300SS 声の質感が一番なのはファイナル A4000A4000では2人をつのだの真ん前から見上げている感じになる。

 前半はスペイン語圏の曲を並べ、ラヴェル、プーランクのフランスからヴォーン・ウィリアムスのイングランド、そして武満の2曲で締める。この流れもいい。

 ベスト・トラックは〈Searching for lambs〉。波多野はこのイングランド古謡を原曲にかなり忠実に、真向から、虚飾を排して歌う。つのだがそれを支えるよりは、足許に杭を打ってゆくような伴奏をつける。波多野はその杭を踏みながら宙に浮かぶ。途中、波多野が高くたゆたうところで、つのだが低く沈んでゆくのにはぞくぞくする。聴くたびに歌の奥へと引きこまれるアレンジであり、演奏だ。

 武満の2曲は録り方が変わる。それまでより一歩下がった感じ。言葉が変わって、響きも変わるからか。確かに、これくらいの距離がある方が快い。



##本日のグレイトフル・デッド

 1122日には1968年から1985年まで4本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1968 Veterans Memorial Auditorium, Columbus, OH

 1時間半の1本勝負。ビル・クロイツマン病欠。クロイツマンが病欠したのはこの日と2週間後の12月7日の2回だけだそうだ。ハートが単独で叩いたのもこの2回のみの由。

 〈St. Stephen〉の途中でウィアは歌詞をど忘れする。


2. 1970 Middlesex County Community College, Edison, NJ

 セット・リスト不明。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座とされる。


3. 1972 Austin Municipal Auditorium, Austin, TX

 セット・リスト以外の情報が無い。


4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。秋のツアー千秋楽。後は2日間のオークランドでの年末年越しショウを残すのみ。

 これも情報がほとんど無い。(ゆ)


 アウラは2003年結成、というのは今回初めて披露されたのではなかったか。少なくともあたしは初めて知った。メンバーが変わっているとはいえ、聴くたびに成長している、それも、明瞭に良くなっているのがわかるのは、15年選手としては立派なものではある。

 前回は、新たに加わった2人が他の3人に追いついて、レベルが揃ったことで、ぱっと視界が開けたような新しさがあったが、今回はそのまま全員のレベルが一段上がっている。安定感が抜群だ。レベルが揃ってさらに一段上がったことで、それぞれの個性も明瞭になる。まず5人各々の声の性格が出てくる。個人的には星野氏のアルトと菊池氏の声がお気に入りで、今回はそれがこれまでにも増して素直に耳に入ってくるのが嬉しい。菊池氏の声には独特の芯が通っている。他のメンバーの声がふにゃふにゃというわけではもちろん無い。これは声の良し悪し、歌の上手下手とは別のことで、おそらくは持って生まれた声の質だろう。この芯があることで、たとえば長く伸ばす時、声がまっすぐ向かってくる感じがする。この感覚がたまらない。

 ライヴでは唄っている姿も加わって、この点では奥脇氏が今回は頭抜けている。とりわけ、目玉の〈ボヘミアン・ラプソディ〉での、天然な人柄がそのまま現れたような、いかにも楽しそうな唄いっぷりは、この曲の華やかさを増していた。そろそろこのメンバーで全曲録音した新譜をという話も出ていたのは当然。レパートリィも大幅に入れ換わっているし、録音でじっくり何度も聴きたい。

 曲目リストを眺めると、何時の間にか日本語の歌が大半を占めている。こういうクラシックのコーラス・グループにとって、日本語の歌を唄うのはチャレンジではないかと愚考する。クラシックの発声は当然ながら日本語の発音を考慮に入れていない。あれは印欧語族の言葉を美しく聞かせるための発声だ。そのことは冒頭の〈ハレルヤ〉や後半オープニングの〈ユー・レイズ・ミー・アップ〉、あるいは上記〈ボヘミアン・ラプソディ〉を聴けば明らかだ。こういう曲を開幕やクライマックスなどのポイントに配置するのも、その自覚があるからだろう。それにしても、〈ハレルヤ〉をオープニングにするのは、大胆というか、自信の現れというか、これでまずノックアウトされる。

 クラシックの発声で日本語の歌を美しく唄うための試みの一つは、ヨーロッパのメロディに日本語の歌詞を載せることだ。〈Annie Lawrie〉に載せた〈愛の名のもとに〉は前から唄っていたが、今回は〈Water Is Wide〉に日本語のオリジナルの歌詞を載せた〈約束〉を披露した。むろん水準は軽くクリアしているが、アウラに求められるような成功には達していない気もする。どこが足りないか、あたしなどにはよくわからないが、メロディと日本語の発音の組合せが今一つしっくりしていないように聞える。唄いにくそうなところがわずかにある。

 その点では沖縄の歌の方がしっくりなじんでいる。あるいは日本語の民謡や〈荒城の月〉もなじんでいるようだ。とすると、メロディと発音の関係だろうか。ヨーロッパでも、たとえば本来アイルランド語の伝統歌を英語で唄うとメロディと歌詞がぶつかる、とアイルランド語のネイティヴは言う。

 あるいは詞の問題か。ヨーロッパのメロディに日本語の詞を載せることは、明治期になされて、小学校唱歌として残っている。現代の口語よりも、明治期の漢文調の方が、異質のメロディには合うということだろうか。

 アレンジはどれも見事だ。今回感じ入ったのは、詞をうたっている後ろでうたっているスキャットやハミング、あるいは間奏のアレンジがすばらしい。たとえばわらべうたの〈でんでらりゅう > あんたがたどこさ〉のメドレー。そして〈星めぐりの歌〉のラストの星野氏のアルトがぐんと低く沈むのは、今回のハイライト。

 安定感ということでは、最初から最後まで、テンションが変わらない。以前は、ラストやアンコールあたりで、エネルギーが切れかけたようなところもあったが、今はもうまったく悠々と唄いきる。クラシックのオーケストラなどでは、最初から最後まで常に音を出している楽器は皆無なわけで、2時間のコンサートで全曲、全員が最初から最後まで音を出す、それも声を出し続けるのは、相当のスタミナが必要なはずだ。アウラが観光大使になった沖縄本島は金武町のとんでもなく量の多いタコライスを食べつくすというのも無理はない。

 ああ、しかし、人間の声だけのコンサートの気持ち良さはまた格別。彼女たちが婆さんになった時の歌を聴いてみたいが、そこまではこちらが保たないのう。(ゆ)

 恒例となったアウラのクリスマス・コンサート。今年はこれまであたしが聴いた中ではベストのライヴとなった。こういうライヴができるとなると、新録が欲しくなる。

 理由の一つは池田有希、奥脇泉両氏の進境ではあろう。今回聴いてから振り返ってみると、今まではコーラスの一角を担うのに精一杯で余裕が無かった、と見える。今回は明らかに余裕ができて、唄うことを楽しんでいる。これまでは他のメンバーに引っ張られていたのが、独立した一個のうたい手として、コーラスに参加している。

 従来のアウラが悪かったというわけでもないのだが、今回のパフォーマンスを体験してしまうと、これこそが本来の姿、潜在していたものが花開いた姿だとわかる。それは初代のアウラとも違うはずで、そちらの生を聴いていないから断言はしないが、あらためて輝きだした新しいユニットは、ずっと進化しているのだろう。初めから終りまで、歌唱のレベルはびくともしなかったし、むしろ後になるにしたがい、良くなるようにも見えた。〈You Raise Me Up〉は、正直なところプログラムを見て「またかよ」と思わないでもなかったが、実際に聴いてみれば、やはりこれは佳曲だとの思いを新たにさせられたし、その前のジョン・レノンの〈Happy Christmas〉にこめられたパワーは鳥肌ものだった。そしてアンコール、ヘンデルの〈メサイア〉には圧倒された。

 前半のハイライトはダイナミックな〈十日町小唄〉だが、日本語でうたわれた歌はどれも良かった。毎回唄われる〈花〉もアレンジを変えていると聞える。そう、同じ曲を唄っても、同じことをしない。毎回、アレンジを変え、アクセントを変え、唄い方も変えてくる。やはりライヴでは同じことを繰返さなかったグレイトフル・デッドにイカレているあたしとしては、これは高く評価する。

 奥脇氏のMCの時に〈花のワルツ〉で各自が何をやっているのか、それぞれに分解して聴かせてくれたのも面白かった。複雑で、難易度がとんでもなく高いことは想像を遙かに超えていた。同じハーモニーでも、例えばアヌーナのような重層的なものではなく、より立体的で、それぞれに勝手に唄っていると聞えるものがおたがいに絡みあい、華麗なイメージを描きだす。無関係な断片の集まりが、距離をとって見ると、精緻華麗な模様や映像を浮き上がらせるモザイクを想わせる。これもグレイトフル・デッドにそっくりだ。デッドは即興、アウラはアレンジという違いは大きいが、そこは演っている音楽の性格の違いでもある。それぞれにその方法でしかできないことを実現している。

 これで完成という感覚もむろん無い。伸びしろというとかえって限界を想定していて失礼だろう。ヴィヴァルディの《四季》を唄ったアルバムには shezoo さんが関っていて、アウラのもつ底の知れなさに彼女が感嘆するのを聞いたこともある。こういうのはどうだろうと投げかけると、予想を超えたものが返ってきて、逆に煽られることもしばしばだったそうだ。今のアウラもどこまで行くのか、本人たちも含め、誰にもわかるまい。

 オペラのベルカントはどうやっても好きになれないが、訓練を積んで、人の声に可能な表現をうたい尽くすのを聴く悦びは大きい。彼女たちが「次」に何を聴かせてくれるか、それはそれは楽しみだ。(ゆ)


ルミナーレ
アウラ
toera classics
2017-06-25


 こういう乙女たちにたくましくなった、という形容は似合わないかもしれない。とはいえ、風格を感じたのは確かだ。それが最も強かったのは前半最後、八木節のコーダで、5人のハーモニーがホール一杯に響きわたったときだ。後半のベートーヴェン、ピアノ・ソナタ「悲愴」第二楽章でも、ヴォリューム感をもって声が迫る。フォルティッシモが大きくなれば、音量の大小によるダイナミズムが生まれる。

 音量だけではなく、スタミナも充分だ。前には、どこかいっぱいいっぱいのところがあって、コンサートの最後やアンコールでは危うささえ感じることもなきにしもあらず。今回は、MCもそれほど長くなく、曲をどんどん唄うのに、アンコールでも余裕を感じる。

 というよりも、一つひとつの歌、音、歌詞がより大きく広がりながら、実体をもって伝わる。たとえば、森山直太朗の〈花〉はコンサートの度に唄っているが、今回はソロとコーラスが対等に聞える。

 これを要するに、器が一回り、大きくなった。

 新曲もあって、中でも〈庭の千草〉のメロディに新しい歌詞をつけたのは、面白かった。こういう試みはもっとあってもいい。新しい歌詞をつけたからといって、従来の〈庭の千草〉をないがしろにしているわけではなく、むしろ、トリビュートの一つではある。なんといっても、〈庭の千草〉は百年前の日本語だ。古典を今のことばで翻訳しなおすのと同じだ。

 日本語ネイティヴの歌が増えたのも楽しい。いずれ、日本語の歌だけでアルバム1枚作ってもらいたいものである。民謡に限る必要もないだろう。アウラがど演歌をあのコーラスで唄うのを聴いてみたい。〈満月の夕〉はどうだ。そういえば、アウラが「ラーメチャンタラ、ギッチョンチョンでパイノパイノパイ」と唄うのを聴いてもみたい。あるいは、そうだな、服部良一作品。〈昔のあなた〉とか、ビートをあえて排した〈銀座カンカン娘〉とか。

 今までもやっていたのかもしれないが、今回はスキャットのコーラスを多用しているのが良かった。一斉にハモるよりも、輪唱のように重ねてゆく。こういうのを聴いていると、1曲ぐらい、あるいは一番だけでも、ユニゾンというのも聴いてみたくなる。アイリッシュのユニゾンはテクスチュアの異なる楽器が同じメロディを同時に演奏することで生まれるズレが快感だが、アウラの5人の声の質の違いはどう出るだろうか。

 こうして何度か生を聴いていると、今度は各々のソロを聴いてみたくもなってくる。むろん、ソロをとる場面はあるが、もっと長く、たっぷりと聴いてみたくなる。リサイタルに行けばいいのだろうが、それよりも、アウラのコーラスとの対比で聴いてみたい。コール&レスポンスとか、コーラスはドローンだけとかいった形はどうだろう。単純にそもそもそういうことが可能かどうかすら、あたしにはわからないが。

 まあ、今のアウラを聴いていると、もう何でも、およそ歌と名のつくものならば、どんなことでもできそうに思える。

 外に出れば、温暖化がいよいよ進んできて、猛暑が続いているが、胸の中はたっぷりと聴いたコーラスからさわやかな風が流れている。(ゆ)


ルミナーレ
アウラ
toera classics
2017-06-25


 合唱には原初的と言いたくなる魅力がある。原初からハーモニーがあったはずはない。しかし少しずつ音をずらして重ねるとおそろしく気持ちよい響きになることをヒトはどこかで発見した。ハーモニーが気持ちよく響く、聞えることは、ヒトの生物としての根源に関わっているにちがいない。

 地球上の音楽にあってハーモニーは特殊だ。ヨーロッパの発明ではある。少なくともヨーロッパで最も精妙に発達している。しかしヨーロッパ以外に生まれ育った人間にとっても、ヨーロッパ流のハーモニーを聞けば気持ちがいい。

 とはいえアウラはハーモニーそのものを重視する、あるいはむしろそれに依存する形からは離れている。アウラの音楽にあってはアレンジもハーモニーと同じくらい重要だ。ともすればハーモニー以上に重要になる。5人の声がきれいにハモる場面というのはごく少ない。最も効果的に、つまり美しく響く箇所に、切札として使われる。

 アウラのコンセプトは本来はハーモニーを前提としない音楽にアレンジによってハーモニーをつけ、元来のものとは別の美しさ、気持ちよさを引き出すことにある。ハーモニーを前提とする音楽でも、器楽曲を声で演奏することで、別のタイプのハーモニーを可能にし、楽器演奏とは異なる美しさ、気持ちよさを生み出す。どちらも通常の演奏では表に出ない、隠れている美しさを聞かせようとする。

 アカペラと呼ぶのは当然として、これを「クラシック」と言えるかと疑問を抱く人も少なくないのではないか。

 クラシックかどうか、そんなことはどうでもよろしい、本人たちがそれをどう呼ぼうとよい音楽であればいいのだ。といえばその通りだが、あたしはそこでふと立ち止まる。今クラシックと呼ばれているヨーロッパの古典音楽、17世紀以降、ヨーロッパ市民社会の音楽として発達した音楽は、もともと隠れている美しさを表に出そうとする試みだったはずだ。

 そう言ってしまえば、芸術という営為がそもそも隠れている美を表に出そうとする試みではある。というより、そういう試みを芸術と呼ぶわけだ。すなわちそこには冒険や実験が必然的に伴う。ならばアウラがやっていることは、まさにクラシックの王道に他ならない。

 アウラのハーモニーが、たとえばウォータースンズやオドーナル姉妹のものと異なるのは、そこに科学が関わるところだ。クラシックは科学から生まれている。科学から生まれた文学がサイエンス・フィクションなら、クラシックはサイエンス・ミュージックと呼ばれるべきだ。

 ウォータースンズや、グルジアやサルデーニャのアカペラ・コーラスは、無数の人びとが長い時間をかけて試行錯誤を繰り返しながら、うたい手と聴き手の双方にとって最も気持ちのよい音の組み合わせをさぐり当ててきたその現在形だ。その姿はゆっくりと、連続的に変化している。

 クラシックではそれを科学を用いて解決する。編曲者は職人ではなく、エンジニア、今ならむしろプログラマだ。大胆な実験も厭わず、量子的に変化する。アウラはその最先端にいる。

 アルトの星野典子が復帰し、池田有希が参加して、組み合わせが新しくなったので、コンサートにも「ブランニュー」というタイトルがついていた。録音ではさんざん聴いているが、ライヴは初めてなので、こちらもブランニューな耳だ。

 モーツァルト「トルコ行進曲」からいきなり沖縄民謡、「ずいずいずっころばし」、宮沢賢治ときて、ルネサンス、フォーレ、チャイコフスキー「花のワルツ」までが前半。後半は富山、会津、北関東の民謡からケルト系という構成。

 おもしろいことにというか、当然なことにというか、ハーモニー前提のフォーレが一番つまらない。というと語弊があるかもしれないが、あたしの耳にはべつにアウラがうたわなくてもいいじゃん、と聞える。

 アウラの手法が最もうまくハマっていたのは「ずいずいずっころばし」と「花のワルツ」だとあたしには聞えた。前者ではこのうたの底を流れる切迫感がちょうどいい強さでにじみ出ていた。後者はまああたしの大好きな曲ではあるしね。これを聴くと、ヴィヴァルディの《四季》で1枚アルバムを作ったように、《くるみわり人形》の組曲で1枚作ってほしいと思う。

 ケルト系はアウラのスタイルに合うと思うが、あたしとしてはもう一歩踏み込んでほしい感じがある。隔靴掻痒とまではいかないが、とことんまでやったという感じではない。使える音が少ないとかのケルト系ならではの性質を活かしきれていないか。あるいは、なつかしさのようなセンチメンタリズムにひきずられているのか。それこそヴィヴァルディやモーツァルトを相手にするのと同様、真向から斬り込んではどうだろう。

 などと細かいことは後から思ったことで、聴いている間は、たっぷり2時間、ひたすら気持ちよかった。背筋がぞくぞくしたのも一度や二度ではない。サルデーニャの Tenore di Bitti の時同様、ひたすら人間の声のハーモニーだけで他になにもない、というのには独特のすがすがしさがあって、まったく飽きない。昼間かなり歩きまわっていたので、いささかくたびれ気味で、ひょっとすると気持ちよくて寝てしまうかなと思ったが、まったく眠くならず、終ってみれば気分爽快。元気になっていた。

 会場は虎ノ門のJTの本社になるのか、高層ビルの2階。256席の室内楽専門ホール。3階分くらいの高い天井。フロアは水平だが、ステージの高さがうまく作ってあるのか、ミュージシャンの姿は後ろでもよく見える。土曜日の夜とて、周囲はひとけがない。歩いている人は皆、このコンサートの聴衆と思える。

 アウラの次のライヴはクリスマス、会場は白寿ホールとなると、こりゃあやはり行かねばなるまいのう。(ゆ)


アウラ Aura
畠山真央
池田有希
菊池薫音
奥脇泉
星野典子

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