クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:宗教

08月17日・水
 アイルランドのカトリック教会がローマ教皇庁に、女性、LGBT+、離婚・再婚者をはじめとする、従来、教会主流からは外されてきた人びとへの態度をよりインクルーシヴなものに変更し、僧侶への禁欲・独身の強制を廃止するよう求める文書を送った、というのはいささか衝撃的なニュース。それだけ危機感が強く、そこまで追いつめられてもいる、ということだろう。そういうことに積極的にならないと、社会から、とりわけ若い世代から時代遅れの遺物として見捨てられるという危機感だ。アイルランドの社会が短期間にいかにドラスティックに変化しているかを、裏面から浮彫りにしてもいる。

 来年秋に予定されている宗教会議への準備文書とのことだが、第二ヴァチカン会議に匹敵する、あるいはそれ以上の大改革がなされるかどうか。ヨーロッパの一部や北米のカトリックは賛同するかもしれないが、中南米も含めたラテン諸国やアフリカではどうだろうか。わが国のカトリック教会はどうか。

 アングリカン・チャーチでも、アメリカなどの教会が女性主教就任を求めたのに対して、国別信徒数では今や世界最大のナイジェリアの教会が反対し、分裂を恐れてカンタベリ大主教がアメリカの教会にそう急ぐなとなだめたという話もあった。


%本日のグレイトフル・デッド
 08月17日には1970年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ共演。第一部アコースティック・デッド、第二部 NRPS、第三部エレクトリック・デッド。残っているセット・リストはテープに基くもので不完全。また当のテープが本当にこのショウのものかにも疑問が持たれている。

 ただ、第一部で〈Truckin'〉がデビューしたことは確かなようだ。ロバート・ハンター作詞、曲はジェリィ・ガルシア、フィル・レシュ、ボブ・ウィアの共作。1995年07月06日まで、計527回演奏。演奏回数順では7位。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉のペアよりも4回少なく、〈Jack Straw〉よりも51回多い。ペアをそれぞれ1曲と数えれば8位。つまり500回以上演奏されたのは全部で7ないし8曲。スタジオ盤は《American Beauty》収録。

 全米を走りまわる長距離トラック・ドライバーに託して、ツアーに明け暮れするバンドの喜怒哀楽を歌う。バンドのメンバーは飛行機で移動することも多いが、楽器・機材はトラックで運ばれたから、トラッキングはバンドとクルーの実感でもあっただろう。

 ロード・ムービーの趣。ビートもフリーウェイを駆ける大型トラック、というよりも、むしろ鉄道のレールの音を連想する。その点では、デッドの祖先の一つであるホーボー、貨物列車で移動した放浪の詩人たちへのオマージュも見える。

 ひとしきり歌を歌った後、長い集団即興=ジャムになることが多い。この曲の場合、ガルシアが細かくシンプルなパッセージで階段を昇るように音階を上がってゆき、頂点に達したところで、フル・バンドで「ドーン」と沈みこむという型が組込まれるようになる。これが決まった時の快感はデッドを聴く醍醐味の一つ。また、この型がだんだんできてゆくのを聴くのも愉しい。

 ガルシアによれば、ハンターの書く詞は当初は歌として演奏することをあまり考えておらず、曲をつけるのも、演奏するのもやり難いことが多かった。バンドのツアーに同行するようになって、ハンターの詞が変わってきて、この曲は詞と曲がうまくはまった最初の例の一つ。


2. 1980 Kansas City Municipal Auditorium, Kansas City, MO
 日曜日。09月06日までの16本のツアーの2本目。
 締まったショウらしい。

3. 1989 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。ヴェニュー隣の駐車場にもスピーカーが置かれて、700人ぐらいがそこで音楽に合わせて踊った。
 この時期のショウに駄作無し。

4. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。20ドル。開演7時。ブルース・ホーンスビィ参加。
 90年代でも最高のショウの1本の由。(ゆ)

07月19日・月
 師茂樹『「大乗五蘊論」を読む』を読む。



 
 『大乗五蘊論』は世親すなわちヴァスバンドゥの著作。このタイトルは漢訳で、わが国には漢訳で伝えられた。ここではこの漢訳本を一字一句、丁寧に読む。漢文、読みくだし文、現代語訳に、場合によってチベット訳の邦訳、サンスクリット原文の邦訳も添える。その上で、内容について解説する。

 世親は多作で、この本は比較的初期に属し、小著でもあって、これまではあまり重視されてこなかった。近年、早い時期の注釈書が出てきて、あらためて注目も浴びている。のだそうだ。釈尊直系の部派仏教から唯識派が生まれてくる中間の過程を示しているのも注目される要因であるらしい。世親は部派仏教の一派から大乗に改宗し、唯識派の論客として多数の著作を書いた、とされてきたのが、そうではなく、改宗はしていない可能性も出てきた。『大乗五蘊論』はそれを傍証するものでもあるらしい。世親の改宗はその伝記に書かれているが、高僧伝が必ずしも事実ではなく、むしろ書き手がモデルとしたくなるような生涯を歩んだと書かれることが多かった、というのは、『論理と歴史』に玄奘三蔵の伝記に関して出てきた。

 師氏は『大乗五蘊論』はリニアに頭から読んでゆくものではないだろうと言う。瞑想修行者が修行の折々に必要なところを参照できるようなハンドブックのようなもの、ということらしい。書かれているのは、この世界とそこにいる人間をどう把握するか、一見、抽象的なことだが、修行者からすると、修行の中で目の当たりに実感する具体的なことであるらしい。そこで遭遇する様々なことをどうとらえ、理解するかをこの本で確認できるわけだ。だから、一通り五蘊の説明が終った後で、そうして説明してきたことは別の枠組みから見るとどうなるか、いろいろなケースがあげられる。

 蘊は蘊蓄の蘊で、集まり、集めたものをさす。具体的には色受想行識の五つで五蘊。このうち、色が後になると落とされる。これはつまり、この世界をこの五つの枠組みに分けて捉えることになる。その分け方は緻密で、たとえば眼という器官とその機能とそれによる認識を別々に考える。認知科学の最前線で今これと似た考え方がホットなのだそうだ。また、中には修行の階梯が上がらないと見えないものもある。

 本来は瞑想修行者、悟りを開くために修行している人のためのものではあるが、あたしのようなまったく無知など素人にとって、メリットが一欠片も無いわけでもない。唯識派というより、唯識派と呼ばれるようにになってゆく人びとがこの世界と、その世界と修行する人間との関係をどう見ているかが直截的に書かれているからだ。

 こういう本を読むと、まあ自分は仏教についてなあんにもわかっちゃいないのだなあ、とよくわかる。仏教は一神教に比べて、大雑把でのんびりしていると思っていたが、どっこい、少なくとも同じくらい突込んで、徹底して尖った思考を重ねてきている。師氏の2冊を読んでも自分の無知と仏教の思想の広さ深さは垣間見られたけれど、この本の対象は専門家のための専門書であることで、その広さ深さをいきなり眼前につきつけれらるようでもある。本を開いてみたら、目の前が断崖絶壁だった。

 で、実際には必要になったらいちいちこの本を開くのではなくて、ここに書かれていることは全部頭の中に入れて、つまり暗記しておいて、いつでもさっと参照できるようにしておくものでもある。そりゃあ、まあ、そうだろう。いちいち参考書を開くのでは修行にはなるまい。そういう修行はやさしいものではなく、誰にでもできるものでもない。悟りというのはそういう厳しい修行を完成して初めて得られる、というのは素人にもよくわかる道理だ。やはり念仏だけ唱えればそれでOK、というのは、どうも安直に過ぎないか。

 修行をするに値する人間が、厳しい修行を重ねて初めて悟りを開けるので、そう誰でも、何でもかんでも、仏陀になれるわけじゃあない、という方がまっとうに思えてくる。仏陀になれるかなれないかは生まれた時から決まっているというのは不公平だというのは、公平性をどこか勘違いしていないか。仏陀になれない者は輪廻転生で生まれ変わることになるが、何にも考えずにただぐるぐる回るのではなくて、そこから脱することは可能だと理解し、目指していると、やがて成仏する資格のある存在として生まれかわる、そこで修行が成就すれば仏陀になれる。これなら納得できる。一度でだめなら、また輪廻し転生して成仏可能性を備えて生まれ、再度挑戦することもできる。一切衆生悉有仏性なのはそういう意味で、とにかくこの世に生まれれば、それでOK、あとは念仏唱えさえすりゃあいい、というのは、あんまり虫が良すぎる。

 それにしても、古代インドの思考は相当に異質で、いくら師氏が懇切丁寧に説明してくれても、一度や二度読んだくらいで、すとんとわかるものではない。もっといろいろと他の書物を読む必要もある。仏教は今のあたしらにとってはほとんど先天的に刷りこまれていて、今さら距離を置くことも難しいと思っていたけれど、こうしてみると、刷りこまれているのはそのごく一部、それもかなり通俗化した形なので、1枚薄いベールをめくってみれば、十分に異質で面白いものとわかる。一切衆生悉有仏性を通俗的に解釈して、仏教は生きものに優しいと思うのは実は勘違いで、仏教の核心には生命への強烈な否定があるとも見える。少なくとも表面的な生命は輪廻転生して苦を続けるだけだと否定して、そこからの離脱を目指す。これはラディカルな目標だ。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月18日には1967年から1990年まで、6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1967 Masonic Temple, Portland, OR
 木曜日。開演8時。共演 Poverty's People、U.S. Cadenza、Nigells。セット・リスト不明。
 当時ポートランドにはデッドヘッドが723人いて、全員が顔を揃えた。ファースト・アルバムとサウンド的には変わらない。ガルシアはレス・ポールを弾き、ピグペンはオルガンの上で飲みつづけていた。ドラマーは1人だけ。フェンダーのアンプが目一杯の音量で鳴っていた。ライト・ショーは無し。
 共演しているのはいずれも地元ポートランドのバンドの由。
 Poverty's People はもと Poverty's Five というワシントン州 Centralia 出身のガレージ・ロック・バンドで、1967年にこの名前に改名。1965年結成、68年まで活動。1966年にシングルが1枚ある。
 U.S. Cadenza は1965年から1969年まで活動。再編して今でもやっているらしく、Facebook のページがある。サンフランシスコ・サウンドのアクトの前座を勤めた。
 Nigells もポートランドのバンドの由だが、不明。

0. 1968年のこの日、《Anthem Of The Sun》がリリースされた。
 2作目のスタジオ盤。トム・コンスタンティンを含む7人編成。前年の09月から12月にかけてハリウッド、ノース・ハリウッドとニューヨークのスタジオで録音したものと、11月10-11日のロサンゼルス、シュライン・エクスポジションでのショウ、この年01月から03月にかけての、ユーレカ、シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、タホ湖でのショウの録音を合成して作られた。スタジオ盤とロサンゼルスのライヴ録音のプロデューサーは Dave Hassinger だったが、スタジオでのデッドのふるまいに愛想を尽かし、ニューヨークのスタジオ・セッションの途中でロサンゼルスに帰ってしまう。デッドはスタジオでの録音の機材とその可能性に夢中になり、アルバム制作そっちのけで「遊び呆けた」らしい。ハシンガーが脱けた後はバンドとダン・ヒーリィとボブ・マシューズのエンジニア陣で作りあげた。
 トラック・リスト。
Side One
That's It For The Other One
I. Cryptical Envelopment (Garcia)
II. Quadlibet For Tender Feet (Weir)
III. The Faster We Go, The Rounder We Get (The Grateful Dead)
IV. We Leave The Castle (The Grateful Dead)
New Potato Caboose (Lesh/Petersen)
Born Cross-Eyed (Weir)

Side Two
Alligator (Lesh/McKernan/Hunter)
Caution (Do Not Stop On Tracks) (McKernan)

 A面の〈That's It For The Other One〉は II. の後、I. に戻る。III と IV はライヴ版と異なる。とりわけ IV はプリペアド・ピアノを主体としたミュージック・コンクレート。

 このアルバムには2種類のミックスが存在する。リリース当初のものと、1971年、フィル・レシュが手掛けたものだ。時間も若干異なる。その後のアナログ・リリースと当初のCDリリースはこのリミックスを使っている。2018年の50周年記念デラックス版には、CD 1 に両方のミックスが収められた。聴き比べると、71年リミックス版はA面の IV が顕著に異なる。ベースが前に出て、ドラムスが引っこむ。迫力は増しているが、ごちゃっとしている。あたしとしては、リミックスは疑問の箇所が多く、よりつまらない。



 アルバムとしては、今聴いても、かなり面白い。ビージーズ風コーラスをフィーチュアしてヒットを狙ったと覚しき〈Born Cross-Eyed〉 は曲自体の出来が良くないし、〈Caution〉も未完成なところがある。それでもアルバムとして通して聴くとそういう欠陥はあまり気にならない。ファーストからは格段の進歩、あるいはむしろジャンプ、ステップぐらいはしている。当時にあって、それほど過激ではない一方で、デッドとしての特徴はすでに出ている。売れるものではなかったにせよ、質は水準を軽く超えている。スタジオでの実験も、当時聴けばともかく、今の耳には実験とはわからないくらいだ。


2. 1972 Roosevelt Stadium, Jersey City, NJ
 火曜日。4.50、5.50ドル。開演7時。三部制。2日前のコネティカット州ハートフォードと2本だけ、東海岸でやっている。ピークのこの年のショウらしく、見事な1本だそうだ。
 DeadBase XI の Mike Dolgushkin によれば、第一部でのより長く、よりスペーシィになった〈Bird Song〉の復活に歓び、第二部の〈Dark Star〉に、会場ごと他の世界に持っていかれたという。

3. 1976 Orpheum Theatre, San Francisco, CA
 日曜日。7.50ドル。開演8時。このヴェニュー6本連続のランの楽日。
 休憩中、ビル・グレアムが奇妙な仮面を客に配って、つけさせた。第二部が始まると、客電が点いたままになり、仮面の群れがバンドに向かってわめいたのは、実に可笑しかった、と Bernie Bildman が DeadBase XI で書いている。

4. 1982 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。12ドル。開演4時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 ダブル・アンコールは聴衆の求めに応じたもの。全体としても良いショウの由。とりわけ第二部後半。

5. 1989 Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 火曜日。21.50ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続のランの中日。
 全体はビデオに撮影されており、2012年04月に Century 系列の映画館で短期間公開された。
 見たショウが100本クラスのデッドヘッドたちが、第二部はベストと言う。滑らかに1本につながっている。
 第一部が終る頃降りだした雨で駐車場がひどいぬかるみになり、車がはまりこみ、これを引き出そうとしたレッカー車もはまりこむ始末で、終演後、駐車場から出るまでに4時間以上かかった由。

6. 1990 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。
 全体が《Dave's Picks, Vol. 40》でリリースされた。
 確かに良いショウで、文句のつけようもないのだが、春のツアーにはある輝きがわずかながらくすんでいる感じがある。十分に展開しきったという感覚が薄い。第一部の方が充実している。次のシカゴの3日間に顔を出す、ミドランドのデーモンが、すでにその影を落としているというべきか。
 なお、この《Vol. 40》に収められたこの日と翌日の2本はすばらしく録音が良い。(ゆ)

07月01日・金
 八百万の神は我々を見守ったりはしない。神に見られているというのは一神教の感覚だ。

 八百万の神はただそこらに居て、邪魔されると怒って祟る。だから、建物を建てるときには地鎮祭をする。建物を建てるのはその土地にいる神にとって最大の侵入のひとつだ。たとえ仏教寺院、キリスト教会、イスラームのモスクを建てるときでも、地鎮祭はやる。さもないと、工事を担当する人たちが承知しない。おそらくはそれぞれの流儀にしたがって、阿弥陀如来やイエス・キリストやアッラーのご加護を祈る形ではあるにしてもだ。

 八百万の神はただいるだけで、普段は人にはかかわらない。ああせい、こうせいとは言わない。そんなことをしてはいけないとも言わない。死後の福も保証しない。ただ、祈ってもらうのは悪い気はしないらしく、定期的に挨拶していれば、時には幸運を恵んでくれることもあるかもしれない。少なくとも、凶運を防いだり、やわらげたりはしてくれそうだ。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月01日には1970年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1970 Winnipeg Fairgrounds, Winnipeg, MB, Canada
 水曜日。Trans Continental Pop Festival の一環。

2. 1973 Universal Amphitheatre, Universal City, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。この後は27日のワトキンス・グレンまで夏休み。
 ハイクオリティのショウのようだ。
 ヴェニューはこの時まだ公式のオープン前。翌週のシナトラの1週間のレジデンス公演が公式オープンだった。

3. 1978 Arrowhead Stadium, Kansas City, MO
 土曜日。"Willie Nelson 4th Of July Picnic" という毎年のイベントの4回目。出演は Missouri、ウェイロン・ジェニングズ&ジェシ・コルター、ウィリー・ネルソンと来て、トリがデッド。やや短かめのショウ。ポスターにはジェリー・ジェフ・ウォーカーの名前もあるが、出なかったらしい。第一部クローザーが〈Me and My Uncle> Big River〉だが、それ以外はカウボーイ・ソングは無い。
 ここから08日まで中部ミニ・ツアー5本。5本全部の全体が《JULY 1978: The Complete Recordings》としてリリースされた。
 Missouri は1977年に会場のあるミズーリ州カンザス・シティで結成されたロック・バンド。同年にデビュー・アルバム《Missouri》を出し、中の1曲〈Movin' On〉がヒットした。断続的に再編を繰返して現役。

4. 1979 Seattle Center Coliseum, Seattle, WA
 日曜日。サクラメント、ポートランド、このシアトルと3日間のランの楽日。この後は08月04日まで夏休み。
 一連のツアーでガルシアの「ウルフ」ギターが使われた最後。次は1989年。
 開演前にレシュが、場内で花火に点火するなと叱ったそうな。
 ショウはすばらしいものの由。DeadBase Xi の Rob Bertrando によれば、とりわけ第二部。

5. 1980 San Diego International Sports Arena, San Diego, CA
 火曜日。06月05日からの11本のツアー、04月28日以来のツアーの打ち上げ。次は08月16日のミシシッピ河フェスティヴァル。
 なかなか良いショウのようだ。DeadBase XI の Mike Dolgushkin によれば第一部5・6曲目〈Lazy Lightning> Supplication〉と第二部オープナーの〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉がとりわけ凄い。
 終演後、ハートとクロイツマンが、1人のデッドヘッドをぶん殴っている警官を止めようとして逮捕された、とも、コカイン所持でデッドヘッドを逮捕しようとしていた警官とウィアが口論したとも伝えられる。

6. 1984 Pine Knob Music Theatre, Clarkston, MI
 日曜日。15ドル。開演6時半。
 相当に良いショウらしい。

7. 1985 Merriweather Post Pavilion, Columbia, MD
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演6時。
 20年間ショウに通ったデッドヘッドがそのうちでベストのショウと言う。

8. 1992 Buckeye Lake Music Center, Hebron, OH
 水曜日。開演6時。スティーヴ・ミラー・バンド前座。05月19日からの初夏のツアー26本の打ち上げ。
 第二部2〜5曲目〈In the Midnight Hour〉〈West L.A. Fadeaway> Truckin'> Spoonful〉とクローザー〈Turn On Your Lovelight〉にスティーヴ・ミラーとそのバンドのハープ奏者が参加した由。
 
 このショウの後、ガルシアは少し休んだだけで、ジェリィ・ガルシア・バンドのツアーに出て、08月02日に打ち上げた。帰ったガルシアは翌日になって、昏睡にまでいたらなかったものの、朦朧としてわけのわからないことをしゃべり、脚がむくんで、唇は紫色になった。病院に行くことを拒んだので、当時の伴侶のマナーシャは医者を呼んだ。心臓肥大、肺に損傷あり、重度の糖尿病の診断が出て、秋のツアーはキャンセルされた。ガルシアは健康の回復に努める。
 しかし、ガルシアは長期間、ステージでの演奏から離れていることができない。まだ早いという意見もあったものの、12月02日にデンヴァーで復帰する。

9. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。26.50ドル。開演7時。
 良いショウの由。(ゆ)

原始キリスト教史の一断面―福音書文学の成立    あまりの面白さに一気読みに読んでしまう。
    
    それにしても、クリスチャンでもないし、パレスティナの古代史に格別の興味を持っているわけでもないのに、どうしてこうも面白く読めるのか。
    
    ヨーロッパの文化に多少とも身を入れて興味を持っていれば、キリスト教に一定の関心を持たないわけにはいかない。そのキリスト教がどのように立ち上がってきたか、ということは確かに興味深いことではある。とりわけ、元はといえばユダヤ教内の批判勢力の一つにすぎなかったイエスの活動が、どのようにして教団として発展し、独立した宗教としてローマ世界の一角に地歩を固めてゆくか。いわゆる原始キリスト教の成立過程には、不思議な魅力がある。クリスチャンならばそれこそ「神の摂理」と言うだろうが、信者でない者にはそれではかたづけられない。そこにどういう人間がいて、どういう営みをしてそうなったか、知りたくなる。
    
    この本はマルコ福音書が、どのような事情のもとに、どのような意図をもって書かれ、どのような思想を体現しているかを、懇切丁寧に説いている。
    
    そこで現われてくる福音書記者としてのマルコの姿と、かれが描こうとしたイエスの姿、そしてそれをとりまく状況がまず面白い。
    
    厳密な歴史的手法による精緻きわまる分析と、テクストの微細な綾まで読みぬく感性によって、従来の、いわば宗教の手垢のついたマルコ像、イエス像、福音書像がまず蹴散らされる。そうしてたち現われてくる、すっぴんのマルコ、イエスの姿の恰好良さはどうだろう。
    
    ガリラヤという、古代パレスティナの中でも辺境の土に根差した、等身大のイエスが織りなすドラマ。ただしマルコによれば、存在そのものが驚くべきものであったイエスという人物の、その身の丈は通常の人のそれとはまったく比較を絶する。
    
    そしてそのイエスを描くことによってマルコが意図した、エルサレムを象徴とする原始キリスト教内の一部への痛烈な批判。それをあくまでも福音書本文の読解に則して、冷静に具体的に記してゆく文章の背後に、現代のキリスト教への批判を読まないことは不可能だ。
    
    マルコ福音書を護教の道具とするような誤解曲解あるいは操作を生み出すキリスト教への批判。マルコが批判している「弟子達」同様、現代のキリスト教がイエスの直系をうたいながら、実はイエスの教えを理解せず、それに「従って」いない、という批判。その教えとは、ここに示されたマルコ福音書によれば、迫害に耐え、人びとに仕える者となれ、「十字架」までその負担を担ってゆけ、というものだ。
    
    つまりはキリスト教は勝ってしまったことで、変質したのかもしれない。それとも変質することで勝てたのか。
    
    キリスト教とは本来、批判する者であり、したがって迫害される者であるはずだった。一部の者たちが大勢の庶民を支配し、搾取する手段と化していた当時のユダヤ教に対する批判者としてイエスは活動し、それ故に殺される。殺すしかないと相手に思わせるほど、その批判は適確痛烈であり、脅威だった。
    
    そのイエスの教えを奉じて生まれたはずのキリスト教自体が、批判したはずのユダヤ教と同じ幣に陥り、非キリスト教徒を排除し、一部の人間による大勢の支配、搾取をめざしている。
    
    そして、その事態は基本的に現在にいたるまで変わっていない。コンスタンティヌスの回心によってローマ帝国の事実上の国教とされて以来、キリスト教は常に支配する側に立ってきたし、今も立っている。支配される者を救うと口では言いながら、支配を正当化し、批判を抑えこむ手段として使われ、また自らその役割を積極的に担ってきた。その事実を、著者はザイールでネイティヴにキリスト教神学を教えながら叩きこまれる。
    
    著者の批判はむろんキリスト教で止まりはしない。およそ宗教という実体、あるいは宗教と同等の役割を果たしている実体、現代の各種情報媒体(そこにはマスメディアだけでなく、インターネットをインフラとする様々なメディアも含まれる)をはじめとする実体にまで及ぶ。
    
    マルコ福音書という古代文書の成り立ちと内容の分析という、徹頭徹尾学問的営為が、そのまま批判に直結する。そしてその学問の成果は一朝一夕になされたものではない。長い時間をかけ、膨大な作業と慎重な思索を積み重ねた末に得られたものだ。だから、この批判は事態の核心を直に射貫いている。そして磐石の重みがある。この批判に応えようとするなら、少なくとも同じくらいの時間と作業と思索を注ぎこまねばならない。
    
    それにしても、こういう本は「神を信じないクリスチャン」にして初めて書けるものではないか、とも思う。ここで著者が批判している人びとは当然クリスチャンであり、基本的に神を信じている。クリスチャンでなければ、わざわざ苦労して新約聖書を研究するはずもない。そもそも新約聖書の成立や内容に対して問題意識を持たないのだから。批判されている内容も、信者ならばこう考えてしまうのも無理はないと思えるところも少なくない。書かれていることを冷静に読め、と著者はくり返すが、人間、心の底で信じていることを読みこまないでいることには、よほどの努力、ほとんど天才にしかできないほどの努力が必要だろう。
    
    田川氏をクリスチャンとは認めないクリスチャンもいるが、これほど完膚なきまでに批判するのは、『キリスト教思想への招待』に明らかなようにキリスト教自体を捨てていない、捨てられないからだろう。『ルカ福音書』への註にもあるが、間違いを冒していることと、書かれていることの価値は別なのだ。
    
    もう1回それにしても、これだけ異なる四つの福音書を全部ひっくるめて正典として採用しているキリスト教は、いったい何なのだろうか。そこにはどういう事情があったのか。どれか一つに絞ることをどうしてしなかったのか。あるいはしようとしたができなかったのか。それはなぜか。
    
    まったく別の、時には逆のことが書いてあることでは仏典も負けてはいないが、それは仏教という宗教の本質から生まれている事態だ。キリスト教のような一神教、一つの「真理」による統一をめざす宗教にあっては、まるで違うことが書いてあるテクストをまったく同列に信仰の基礎たる正典とするなどということは、本来あってはならないはずだ。だから四福音書は本来同じことが書いてあるなどという到底ありえない無理な理屈を通さざるをえなくなる。それは違うと言うことを、それ以前に、新約聖書を歴史的に研究することを教皇庁が禁ずるなどということになる。
    
    キリスト教とて一神教という看板は掲げながら、その実結局は多神教化してはゆく。それでもなお、この四つの書物をそろって正典とするのは、やりすぎではないか。四福音書をまとめて、しかもこの四つだけを正典とすることは、2世紀のエイレナイオスが言い出しっぺだそうだが、当然、なぜこの四つなのかも問題になる。そうした発言が出る状況はどういうものだったのか。
    
    とすると、こうした問題意識をもって『書物としての新約聖書』を再読しなければならない。(ゆ)

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