クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:展覧会

 昨年行ったライヴ、コンサートの総数33本。同じミュージシャンに複数回行ったのは紅龍3回、新倉瞳&渡辺庸介とナスポンズ各々2回。COVID-19感染とぎっくり腰、発熱を伴う風邪で行けなかったもの数本。どれもこれも良かったが、中でも忘れがたいもののリスト。ほとんどはすでに当ブログで書いている。
















1014 七つの月 @ 岩崎博物館ゲーテ座ホール、横浜
 shezoo さんがここ数年横浜・エアジンでやってきたシンガーたちとのコラボレーションから生まれたアルバム《七つの月》レコ発ライヴ。一級のシンガーたちが次から次へと出てきて、各々の持ち歌を披露する。どなたかが「学芸会みたい」とおっしゃっていたが、だとしてもとびきり質の高い学芸会。シンガー同士の秘かなライヴァル意識もそこはかとなく感じられて、聴き手としてはむしろ美味極まる料理をどんどんと出される。一部二部が昼の部、夜の部に分られ、間に食事するだけの間隔があいたので何とかなったが、さもなければ消化不良を起こしていただろう。

 アルバム《七つの月》は shezoo さん自身は飽くまでも通過点と言うが、それにしても《マタイ》《ヨハネ》も含めて、これまでの全業績の一つの結節点であることは確か。アルバム自体、繰返し聴いているし、これからも聴くだろうが、ここからどこへ行くのかがますます愉しみ。


1017 Nora Brown @ Thumbs Up、横浜
 こういう人のキャリアのこの時期の生を見られたのは嬉しい。相棒のフィドラーともども、オールドタイムを実にオーセンティックにやっていて、伝統の力をあらためて認識させられた。会場も音楽にふさわしい。

1023 Dreamer's Circus @ 王子ホール、銀座
 ルーツ・ミュージックが音楽はそのまま、エンタテインメントとして一級になる実例を目の当たりにする。

1103 Julian Lage @ すみだトリフォニー・ホール、錦糸町
 何より驚いたのはあの大ホールが満杯になり、この人の音楽が大ウケにウケていたことだ。ラージの音楽は耳になじみやすく、わかりやすいものとは対極にあると思えるのだが、それがやんやの喝采を受けていた。それも相当に幅広い層の聴衆からだ。若い女性もかなりいた。あたしのような老人はむしろ少ないし、「ガンコなジャズ爺」はほとんど見なかった。ここでは「ケルティック・クリスマス」を何度も見ているが、ああいうウケ方をしたのは覚えが無い。


1213 モーツァルト・グループ @ ひらしん平塚文化芸術ホール
 レヴューを頼まれて見たのだが、最高に愉しかった。要するにお笑い芸である一方、あくまでも音楽を演奏することで笑わせるところが凄い。音楽家としてとんでもなく高いレベルにある人たちが、真剣に人を笑わせようとする。こういうやり方もあるのだと感心すると同時に、一曲ぐらい、大真面目に演奏するのを聴きたかった。

1228 紅龍, 題名のない Live @ La Cana, 下北沢
 昨年のライヴ納め。ピアノ、ベース、ギター、トランペット、パーカッションというフル・バンドに、シンガー2人。さらに後半、向島ゆり子さんも駆け付けて、最新作《Radio Manchuria》の録音メンバーが1人を除いて顔を揃えるという豪華版。プロデューサーでピアノの永田さんのヴォーカル・デビューという特大のおまけまで付き、まさに2024年を締めくくるにふさわしい夜になった。


 展覧会はあまり行けず。行った中でもう一度見たいと思ったもの。

エドワード・ゴーリー展@横須賀美術館
 これまで思っていたよりも遙かに大きく広く深い世界であることを実感。

田中一村展@東京都美術館
 奄美に行ってからの絵を見ると、ここまでの全てのキャリアはこの一群の絵を描くための準備と見える。奄美大島の一村記念館に行きたくなる。

オタケ・インパクト@泉屋博古館
 同じ美術館で同時開催されていた別の展示を見にいった家人が持ち帰ったチラシで見て勃然とし、会期末近くに滑り込み。まったく未知の、しかし素晴しい画家たちの絵に出会うスリル。日本画のアヴァンギャルドという謳い文句は伊達ではない。(ゆ)

 1969年生まれの南インド、カルナータカ出身の美術家の展覧会。どちらかというと北よりは南の方が好みではある。ビームセン・ジョーシーよりもスブラクシュミだ。シタールよりもヴィーナだ。ヴィーナはこの展覧会でもあちこちに出てくる。インド亜大陸は英国の植民地化が完成するまで、全土が統一政権のもとに入ったことはない。南は常に独立していた。展示の一角に中世マイスールの寺院の壁に刻まれた細密彫刻のスライドがあった。精密極まる細部と、全体の規模の巨大さに圧倒される。この時期の南インドは現在のインドネシアからアフリカまで股にかけた海洋帝国をつくっていて、各地に巨大な建築が残っているそうだが、あらためて舌をまく。

 会場に入ってまず感じたのは、巨大な量感だ。でかいだけでなく、ぎっしり中身が詰まっている。全体として巨大だが、細部まで描きこまれていて、細かく見ようと思えばいくらでもストーリーが見えてきて、まともにつきあおうとしたら1日や2日ではすみそうもない。まさに、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の世界だ。ちなみに『ラーマーヤナ』には南インド版ともいえる『カンバ・ラーマーヤナ』もある。『カンバ・ラーマーヤナ』が『ラーマーヤナ』を11世紀タミールナドゥの時空に置き換えた語直しであるように、ハルシャの作品群も現代のマイスールに置き換えた世界の物語の語直しに思える。

 こんなに物語を感じた美術展は初めてだ。一つひとつの作品がそれぞれに物語を語り、その細部がそれぞれに物語を語り、そして展覧会全体が物語を語る。その物語は当然一つではなく、いくつもの物語が重なり、響きあい、あるいは飛び交い、錯綜する。しかし混沌ではあっても混乱ではない。秩序とは違うなにかの、論理でもない、つながり、筋がある。作品独自の、それぞれの細部の、そして作家のなかの、つながりがある。明瞭に見えるわけではなく、むしろ暗示されている。物語は作家の中にあるのではなく、見る者の中にあり、それが作品によって誘発され、引き出されるようでもある。

 絵画作品、とはまた違う。床の上に説明もなく、あちこちほおり出されているように置かれている「絵」もある。天井に一つだけ離れて描かれているものもある。インスタレーション、パフォーマンス作品が入交る。「彫刻」の部類もある。ひと部屋全部、各国の国旗の上に置かれたミシンで埋めつくされ、壁にそって積み上げられたそれらの間に色とりどりの糸やヒモが渡されている。これは鑑賞よりも体験だ。展覧会全体が、見るよりも体験するように構成されている。床に寝転んで天井の鏡に映る床に描かれた顔の中の自分の姿を見る。高さ3.7メートル全長24メートルの循環する宇宙の環は「見る」だけではどうしようもない。子どもたちが思い思いに色を塗りたくった白いシャツの壁一面の展示。これはむしろ、来訪者一人ひとりが白いシャツにその場で色を塗れるようにしたかったのだろう。

 絵画として見ても、もちろんヨーロッパの伝統とはまったく異なる。遠近法がほとんど無い。無限とも思える反覆と繰り返すたびに少しずつ変化する差異に、巨大な画面に吸いこまれてゆく。「チャーミングな国家」のシリーズはぼくらが見慣れた絵画に一番近いとも言えるが、これも全体が1枚の「絵」であって、それぞれのフレームの中はその一部であると見るべきかもしれない。

 こうして体験するものは何か。

 一つは底知れないエネルギー。そして、ユーモアのセンス。そこから生まれるこの世に生きてあることの肯定だ。クソッタレとはきだしたくなることも多いし、どんどん増えるような気さえするが、それでも世界がこうしてあること、そこに生きていることは、それだけですばらしい。ポジティヴなエネルギー、ポジティヴなユーモア、楽天的であろうと意志する力。

 その意味で一番印象的なのは全体の核をなす「ここに演説をしにきて」とそのすぐ横、順番でいえば直前に置かれた「溶けてゆくウィット」だ。展示室の中でみると、奥の壁いっぱいを占める前者の前には人がたくさん立っているのだが、その右手の後者の前にはほとんど人がいない。しかし、おそらくこの二つはペアになるものだろう。少なくともぼくにはそう見えた。後者があるからこそ、前者が生きてくる。前者だけでは肝心なものが脱けてしまう。後者を描いているからこそ、この人は信用できる。

 買ってきた図録をぱらぱらやっていると、また記憶がよみがえる。最後の方に置かれていた「消費の連鎖の中で」を見ると、『ラーマーヤナ』の悪役、ラーヴァナとはこれのことだったのかとあらためて思い当たる。ラーヴァナは「ここに演説をしに来て」のなかにもいる。顔が向かって右に5つ、左に4つ着いていて、両隣が邪魔そうにしているのがそれだ。

 展覧会はたいていくたびれるものだが、今回のくたびれ方はまた格別だった。満腹感と高揚感もたっぷりしていて、身体はくたくただが、気分はさわやか。

 やはりインドは面白い。

 それにしても、土曜日午後の六本木ヒルズの人混みには辟易する。まっすぐ歩けない。森美術館ではこのハルシャ展の他に、マーヴェルとエルミタージュの展覧会も開かれ、さらにミュシャもまだやっていて、地上の入口では会場に入るまで30分とか出ていて恐れをなしたのだが、幸い、ハルシャ展はそれほどの混みようではなかった。それでも若い人たちがたくさんいるのには意を強くする。こうなると我々のような老人も、印象派ばかりではなくて、こういうものも見ろよ、体験しろよと言いたくなる。エルミタージュ展には老人が多かったのだろうか。手許の券は三つとも見られるものだったが、他を見るまでの体力はなかった。

 この展覧会に招いてくれた川村龍俊さんに心から感謝。(ゆ)

 東京・杉並のアート・スペース「遊工房」でベルファストを拠点とするアーティストの展示会が開かれるそうです。

 参加しているアーティストの何人かが来日していて、交流もできる由。

 この施設はスタジオとギャラリーを備え、宿泊もできる複合施設で、世界各地から様々なアーティストが来ているそうです。

 ノーザン・アイルランド芸術の展示はひょっとすると国内では唯一無二のチャンスかも。直接アーティスト本人に会える機会も現地へ行ったとしてもなかなか無いでしょう。

 ちょっとググったところでは、今回来る人たちはあちらでも代表的な存在らしい。



交差 INTERSECTIONS

-北アイルランドの11人の作家たち-

12/01(金)− 12/23(土)
12:00−19:00(最終日17:00まで)
月・火休み

初日12/01(金)は下記の予定
アーティストトーク 18:00-19:00(通訳有)
パフォーマンス   19:00- (宮下恵美子他)
オープニングドリンクス 19:00-21:00

<参加アーティスト>
William Artt
Rita Duffy
Gail Ritchie
Ima Pico
Ruth McCullough
Peter Richards
Fiona Larkin
Acitore Artezione
Aisling O'Beirn
Lorraine Burrell
Allan Hughes

 北アイルランド・ベルファーストを拠点として活動している現代美術の作家たち6人による平面作品と、クイーンズ・ストリート・スタジオで編集された5人の作家による映像作品を展示いたします。北アイルランドの作家による展覧会は稀有とおもわれます。この機会に是非ご高覧いただければ幸いです。

 また、展示作家のうち、Ruth McCullough, Fiona Larkin の2名は10月27日-12月3日まで、Rita Duffy, Gail Ritchie, Ima Pico,の3名は11月21日-12月4日までそれぞれ遊工房に滞在し、北アイルランドと日本の現代美術を通した積極的な交流を希望しています。この期間に関係各位のご来訪をお待ち申し上げております。

「交差 グローバリゼーションとアイデンティティー」−日本と北アイルランドのアーティスト交流−は日本とUKのアーティストを巻き込んで、両国の文化的アイデンティティーとグローバリゼーションについてデイスカッションし、交流を深め、アートを通したネットワークづくりを進める機会とするものです。2007年3月には、日本から稲垣立男、佐藤好彦、高島亮三、もとみやかおる、横山飛鳥他がベルファーストで滞在交流し、展示を予定しています。


Thanx! > 川村龍俊さん

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