クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:弾き語り

 松浦湊というシンガー・ソング・ライターを知ったのは昨年秋、かものはしこと川村恭子からザ・ナスポンズというバンドの3曲入りCDシングル《ナスの缶詰め, Ver.1》を買ったことによる。



 これがなんともすばらしかった。楽曲、演奏、録音三拍子揃った傑作。そのヴォーカルと曲の面白さにノックアウトされてしまった。

 まずは歌詞が抜群に面白い。日本語の歌詞でこういう言葉遊びをしているのは初めてお目にかかる気がする。ダジャレと思えたものが、そこから意味をずらしてまるで別のところへ向かうきっかけになる。まったく脈絡のなさそうなもの、ことにつながってゆく。その先に現れる風光がなんとも新鮮でスリリングで、そしてグリムダークでもあり、シュールレアリスムと呼びたくなる。どんぴしゃのメロディがその歌詞の面白さを増幅する。ちなみにタイトルが Vol. 1 ではなく、Ver. 1 であるのも遊びの一つに見えてくる。

 歌唱がいい。発音が明瞭で、声域も広く、様々なスタイルを歌いわけられる。コントロールがきいている。ホンモノの、一級の歌うたいだ。

 バンド全体のアレンジと演奏も、この面子で悪いものができようはずもないが、ヒロインに引張られ、またヒロインを盛りたてて、このバンドを心から愉しんでいるのがよくわかる。

 録音も見事で、ヴォーカルをきちんと前面に立て、器楽の音に埋もれるようなことはまったく無い。わが国のポピュラー音楽ではヴォーカルが引込んで、ともすれば伴奏やバックに埋もれて、何を聴かせたいのか、わからなくなる形にすることがなぜかデフォルトらしい。先日も、まだ聴いたことがないのかと友人に呆れられたので、Ado の新曲を Apple Music で聴いてみたが、やはりヴォーカルが周囲に埋もれているし、声にファズだろうか、妙なエフェクトがかれられていて、あたしの耳には歌詞がまったく聴きとれなかった(米津玄師の〈Kick Back〉はアメリカでもヒットしたそうだが、ヴォーカルがちゃんと前面に出ているのも要因だろう)。松浦の録音ではそういう心配はまるでない。その点では英語圏の歌の録音やミックスと同じだ。

 この3曲入りのシングルはまさにヘビロテとなった。毎日一度は聴く。持っているヘッドフォンやイヤフォンを取替え引替えして聴く。どれで聴いても面白い。聴けば、心はハレバレ。ラストの〈サバの味噌煮〉ではヴォーカルが聞えてくるといつも笑ってしまう。この曲での松浦の歌唱は、どこかの三流宮廷の夜会でサバの味噌煮のプレゼンをする貴婦人という役柄。つくづく名曲だ。

 さらに、本人のサイトを眺めているうちに、ソロの《レモンチマン》が出ていることに気づいて買った。こちらはバックが東京ローカルホンクだ。あのバンドのリード・シンガーが松浦に交替した形である。これもたちまちヘビロテとなった。《ナスの缶詰め, Ver.1》と交互に聴く。



 当然のことながら生を見たくなる。一番近いザ・ナスポンズのライヴをかものはしに聞いて予約した。ところが、その前々日に熱が出て、前日に COVID-19 陽性判定が出てしまった。その次が今回のソロ、松浦湊ワン・ヒューマン・ライヴである。このヴェニューで定期的に続いていて、今回が第19回の由。まずソロを見られたのは結果として良かった。ミュージシャンのより本質に近い姿が見聞できたからだ。そしてそれは予想した以上に「狂気」が現れたものだった。

 音楽は多かれ少なかれ「狂気」の産物である。それに触れ、共鳴したくて音楽を聴いている。言い方を変えれば、「狂気」の無いものは音楽として聞えない。つまりまったくの業務として演奏したり、作られたりしたものは商品ではあっても音楽では無い。

 現れる「狂気」の濃淡、深浅はそれぞれだが、録音よりもライヴでより強く現れる傾向はある。アイリッシュなどのケルト系のアクトでは比較的薄いことが多いが、表面おだやかで、坦々とした演奏の底にぬらぬらと流れているのが感じられて、ヒヤリとすることもある。このヒヤリを味わいたくて、ライヴに通うわけだ。

 加えてバンドよりもソロの方が、「狂気」がより現れやすい傾向もある。この「ワン・ヒューマン・ライヴ」はすでに回も重ね、勝手知ったるハコ、お客さんも馴染みが多く、あたしのような初体験はどうも他にはいないような具合で、演る方としてもより地が出やすい、と思われた。

 まず声の強さは生で聴く方がより実感する。マイクを通しているが、ノーPAでも十分ではないかと思われるくらいよく通る。駆使する声の種類もより多い。〈かも〉ではカモの鳴き声を模写するが、複数の鳴き声をなきわける。もっとも本人曰く、カラスの声も混じったらしい。個人的にこのところカラスと格闘しているのだそうだ。ゴミを狙われているのか。

 ソロを生で見てようやくわかったのがギターの上手さ。5本の指によるフィンガー・ピッキングで、その気になればこれだけで食えるだろう。《レモンチマン》のギターの一部は本人だったわけだ。テクだけでなく、センスもいい。「いーぐる」の後藤さんではないが、音楽のセンスの無いやつはどうにもならないので、名の通った中にも無い人はいる。そしてセンスというのは日頃の蓄積がものを言うので、即席では身につかない。松浦は未就学児の頃、たまや高田渡で歌い踊っていたというから、センスのよさには先天的な要素も作用しているはずだ。

 もう一つ面白かったのが、MC はだらけきっているのに、いざ演奏を始めると別人になるその切替。MC はゆるゆるだが、不愉快ではない。こっちも一緒にだらけましょうという気分にさせられる。この文章もつられてだらだらになっている。それがまるで何の合図もきっかけもなく、不意に曲が始まる。場の空気がぱっと変わって歌の世界になる。ぴーんと張りつめている。聴くほうもごく自然に張りつめている。終るとまただらんとする。

 歌も上手いが、上手いと感じさせない。つまり歌そのものよりも歌が上手いことが先にたつことがない。聴かせたいのは歌の上手さではなく、歌そのものだ。それでも上手いなあと思ったのは3曲目の〈誤嚥〉。歌のテーマは時代に即している。というより、これからますますヴィヴィッドになるだろう。

 グレイトフル・デッドのショウに傾向が似ていて、前半はどちらかというと助走の趣、休憩をはさんだ後半にエンジンがかかる。先述の〈かも〉から始めて、〈おやすみ〉〈マーガレット〉〈あさりでも動いている〉とスローな曲が3曲続いたのがまずハイライト。〈あさり〉は《ナスの缶詰め, Ver.1》冒頭の曲でもあるが、実に新鮮に聞える。その前2曲はいずれも名曲。このあたり、ぜひソロの弾き語りの録音を出してほしい。

 亡霊の歌をはさんで、その後、ラストの〈サバ〉までがまたハイライト。ここで「狂気」が最も色濃くなる。〈平明のうた〉?では複数の登場人物を歌いわける。その次の〈ラビリンス〉が凄い。こういう曲のならびは意図していたことではないけれどと言いながら、その流れに乗ってやった〈喫茶店〉がまた面白い。

 なにかリクエストありますかと言っておいて、上がったものに次々にダメ出しして、結局〈サバ〉におちつく。いやあ、やはり名曲だのう。

 アンコールの〈コパン〉がまた佳曲。弾き語りをやると決めて初めて作った曲だそうだ。神楽坂のシュークリームが名物のカフェと関係があるのか。

 7時半オンタイムで始め、終演は10時近い。堪能したが、しかし、これで全部ではあるまい。まだまだ出していないところ、出ていない相があるはずだ。それもまた感じられる。持ち歌もこの何倍もありそうだ。ここでの次回は5月5日、昼間。デッドもよく昼間のショウをしている。午後2時開演というのがよくある。たいていは屋外だ。そう、松浦はどうだろう。屋外の広いところでもソロで見てみたい。どこかのフェスにでも行かねばなるまいが。

 初夏の後の真冬の雨で、入る前はおそろしく寒かったが、出てきた時はいい音楽のおかげかゆるんでいる。(ゆ)


2024-03-01訂正
 うっかり「バック・バンド」と書いたところ、メンバーから抗議をいただいたので、お詫びして訂正いたします。確かにジェファーソン・エアプレインはグレイス・スリックのバック・バンドではないし、プリテンダーズはクリシー・ハインドのバック・バンドではありませぬ。ザ・ナスポンズの松浦湊はスリックやハインドに匹敵するとあたしは思う。ソロの時は、歌唱といい、ギターといい、ジョニ・ミッチェルやね。

 矢野あいみという人は知らないが、後の3人が出るんなら行かにゃなるめえと出かけると、やはり発見がありました。こういう発見ないし出会いは楽しい。tipsipuca プラスを追い掛けてふーちんギドと出会ったのに通じる。

 矢野氏はハープの弾き語りであった。梅田さんのものより小型の、膝の上にも載せられるサイズ。実際には膝の上に載せては弾きにくかろう。音域は当然高く、また響きもシャープ。この楽器を選んだきっかけは訊きそこなったが、声に合っているのも理由の一つだろう。

 矢野氏はこの声のアーティストだ。シンガーというよりも、声を使った表現という方がより正確だろう。うたは大きな割合を占めるが、うたうことがすべてではない。最もめだつのはホーミーのように2つの声を同時に出すテクニックで、ホーミーとは違うそうだが、効果は似ている。ホーミーの場合、高い方が倍音で額のあたりから出てくる感じだが、矢野氏のは2つの音の差がもう少し小さく、両方とも口のあたりから出てくる。これをうたの中に組込む。ホーミーの場合、それが行われている間はアーティストの表現のすべてを覆ってしまい、その場を支配する。それとはやはり異なって、うたの一部の拡大、表現の形としてはあくまでもうただが、その表情を多彩に豊かにする。

 このオーヴァートーンだけでなく、様々なテクニックないしスキルを駆使して、様々な声を出す。一番得意というか出しやすい声というのはあるようで、ここぞというところに使われると、倍音成分の多い声に、それだけで他は要らなくなる。不遜かもしれないが、歌詞もどうでもよくなる。

 シンガーというのは声の質だけで決まってしまうところがある。この声がうたってくれれば、歌詞の内容も、極端な場合にはメロディすらも要らなくなることがある。あたしにとってはアイリス・ケネディの声などはその例だ。絶頂期のドロレス・ケーンの声にもそういう瞬間がある。

 矢野氏はその気になればそれだけで勝負できる声をお持ちではないかと思う。それとも今の声は訓練の結果、得たものなのだろうか。いずれにしても、この声とテクニック、そしてハープの響きの相乗効果はかなりのもので、陶酔のひと時を過ごさせてもらった。おそらくハープを使っていることが一層効果を高めているので、ピアノやギターでも聴いてみたいが、隙間の大きい、発音と余韻の差が大きいハープの響きが効いているのだろう。

 あまりライヴはされていないようだが、ソロでも、あるいはこの日のようなバンドと一緒でも、もっと聴きたくなる。

 この日のプログラムは矢野氏が、ヴォイス・トレーニングの「お弟子さん」である服部氏に声をかけ、服部氏が高梨、梅田両氏に声をかけたということのようだ。服部氏も4曲うたったが、なんといっても中村大史さんの〈気分〉がいい。うたそのものもいいが、それを演奏する3人の「気分」がちょうどいい。それが一番よく出ていたのは高梨さんの笛。

 ライヴといっても、拳を握って、よおし聴くぞ、というのばかりがいいとはかぎらない。こういう、のんびりした、インティメイトな、友人の家のサロンのようなものもいいものである。ホメリだとその感じがさらに増幅される。強烈な感動にカタルシスをもらう、とか、圧倒的パフォーマンスに押し流される、とかいうことがなくても、ほんわかと暖かくなって、体のこわばりがとれてゆくのもまた良きかな。

 別にアイリッシュとうたう必要もないし、スコティッシュでもイングリッシュでもアフリカンでもいいわけだが、アイリッシュを掲げると親しみが増すというはどうもあるらしい。知らない人でも気軽に聴いてみようか、という気になりやすい。アイリッシュに人気があるのは、そういうところもあるのだろう。(ゆ)

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