クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:思想史

1222日・水

 このタイトル、とりわけ「仏教史上最大の対決」に惹かれて何だろう、と読んでみたのが大当り。拾い物といっては失礼だが、実に刺激的な本だ。この著者は追いかけよう。



 徳一は徳溢という表記もあって「とくいつ」と読む。平城京で学び、最澄と同時代に会津や常陸で活動し、多数の寺を建立、「伝灯大法師」と呼ばれた。生没年不詳。この論争は仏教の教義をめぐって徳一の天台教学批判に最澄が反論し、5、6年の間に大量の文書の応酬がなされる。二人の論争は最澄の死で一応終るのだが、そこで交わされた文書は200年後にも仏教内部での研究対象になっていた。

 一方で、この論争が単に二人のものではなく、その背後にはインドから東アジア全体に広がる時間的にも空間的にも実に大きく広い思想のドラマがあり、二人の論争はその一つの結節点、それ以前の流れがまとまり、またそこから拡散してゆくポイントになっている、というのがまずこの本の主張だ。

 そこには、最澄だけでなく、空海も含めた遣唐使に同行した留学僧たちによって持ちこまれる仏教の相対化も出てくる。かれらが将来した仏教があたかも仏教の正統の全部であるかのように最澄も主張し、後続もその主張を継承し、さらには20世紀のアカデミアまでもそれを踏襲するのだが、実際に留学僧たちが接した仏教は中国の中でも浙江など沿岸部を中心とした東部のものに限られていて、西に広がった仏教についてはまったく視野に入っていない、という具合だ。

 仏教はあたしらにとって最も身近な宗教だが、その教義についてはまるで知らないことも思い知らされる。徳一と最澄の最大の対立点は、すべての生きものがブッダになれるわけではないという五姓格別説と生きとし生けるものは全部仏になれるのだという一切衆生悉有仏性説なのだ。後者は天台宗はじめ、日本仏教のほとんどが採用した説だから、なじみがある、というよりも仏教ではそう考えると思いこんでいたから、前者はえーってなものである。しかし、著者の言うとおり「ブッダになること以外にも複数のゴールがある、と主張する五姓格別説のほうが」今のあたしらが生きている社会にとってはふさわしいとにも思えてくる。

 この二つの立場は一乗説と三乗説でもある、では「乗」とは何か、を巻頭で説明しているのを読んで、「へー、そうなんですか、いやー、ちーとも知らなんだ」とつぶやくのはあたしだけではあるまいとも思える。

 さらにその前に、この二つの説は大乗仏教内部でのものなので、いわゆる小乗仏教はまた別の話になる。そもそも「小乗」という呼称自体、大乗を名乗った連中がそれ以前からあった仏教に与えたもので、差別用語にもなりかねない。「小乗仏教」は歴史的用例になってもいるが、本来はそちらの方が主流であり、部派仏教と呼ぶ方が適切、というのも初めて知った。

 という風に、まず宗教としての仏教の姿を垣間見させてくれる。

 もっとも著者の主目的はそれではなく、この論争のもつ様々な側面を整理して、思想のドラマのなるべく大きな姿を提示し、一方でそこに現れる思考法や論争のツールを紹介することにある。ここでは「因明=いんみょう」がまず面白い。これは仏教で論理をもって異なる思想間で論争をする際のルールを定めたシステム、なのだそうだ。一度読んだくらいでは漠然としているけれど、極端に言えば仏教とキリスト教の間でも論争ができるように考案されたもの、と言われると、え、それって何?と身を乗りだしたくなる。

 この本の面白さはもう一つ別の次元にもあって、著者は自分が何をやっているか、明瞭に自覚し、しかもそれを巧みに記述する。

 「こういった諸課題を解決するために本書が行っていることは、最澄・徳一論争で筆者がおもしろいと思っているポイントを取捨選択し、複雑な議論をできるだけわかりやすいストーリーに落とし込んで叙述することである(それがうまくいっているかはさておき)。特に、最澄・徳一論争のなかでほとんど注目されることのなかった因明を第四章でとりあげたのは、学問的に重要だという研究者としての判断もあるが、異宗教間対話を前提とする因明を紹介したかった、というモチベーションがあったことは否定できない」202pp.

 この視点はここで紹介される思想のドラマ、思想史全体を展望して、メタ思想史にまで踏みこんでいる。いま現在にあって、千年前の思想のドラマを描くことにどういう意味があるのか、著者は真向から考え、答えを出しながらこの本を書いている。この論争は一乗か三乗かの二項対立などではないし、この時だけ、この二人だけで終るものでもない。異なる宗が交わることなく「空間的に同時存在」するような体制、丸山眞男が批判した「精神的雑居」に似たものを仏教界に基礎づけ、「雑種」を生みださない性格が、最澄・徳一論争における最澄の議論を一つのきっかけとして古代から中世に至る日本仏教のなかで構築され、そしてそれが近代まで維持された。という指摘は刺激的だ。その「最澄の論法の背景にあった思想」は、今でも生きているのではないか。何かというと二項対立に落としこんでカタをつけようとするのはその現れにも見える。世の中で起きていることは複雑なので、それを複雑なまま捉えようとするのは難しいけれど、そうするよう努力することは、人間が人間として生きてゆく上で避けて通れない。単純化すれば効率的に捉えられて、それでいいのだ、としていれば、人でなしになるだけだ。

 著者は1972年生まれだから、来年50歳。学者としては油が乗ってくる頃だ。井筒俊彦なみに頭のいい人だから、どこまで尾いていけるか心許ないが、読めるだけ読んでみよう。



##本日のグレイトフル・デッド

 1222日には1967年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1967 Palm Gardens, New York, NY

 このヴェニュー3日連続の初日。Group Image Christmas と題されたイベント。共演として The Gray CompanyThe Aluminum DreamThe Group ImageMimes with Michael がポスターにはある。前売3ドル、当日3.50ドル。開演9時。

 この日、アウズレィ・スタンリィがオークランドの北の Orinda LSD所持で逮捕され、かれによる LSD 製造がストップした。

 The Group Image は西海岸のサイケデリック・ロックの影響を受けて、この頃マンハタンで活動していた音楽集団で、1968年に1枚《A Mouth In The Clouds》というアルバムを出している。リード・シンガーの1人 Sheila Darla はグレイス・スリックに通じる声とスタイルだが、そのステージはむしろ後のパティ・スミスを連想させた由。Tidal にあり。

 その他のアクトについては不明。


2. 1970 Sacramento Memorial Auditorium, Sacramento, CA

 前売3ドル、当日3.50ドル。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ガルシア、ペダルスティールで参加。セット・リストの全体像は不明。


3. 1978 Dallas County Convention Center Arena, Dallas, TX

 開演8時。セット・リストは現存するテープによるので、アンコールの有無も含め、実際とは異なる可能性がある。Dead.net ではこのショウは1221日のものとしており、前日1221日の The Summit でのショウが無い。しかし、この両日にはチケットの半券が残っている。

 Dead.net に掲げられたセット・リストではクローザーは〈Wharf Rat〉。(ゆ)


教えられることは多い。丸山眞男と福沢諭吉はもちろんだが、アイザイア・バーリンと大佛次郎。『鞍馬天狗』とはそういう話だったのか。
    
    とはいえ、最も心に刻まれた一節。
    
    1994年09月22日、大正大学司書研修セミナーでの講演をもとにした「私の図書館体験」のなかで、敗戦後、国会図書館を軌道に乗せた中井正一について触れた文章。


    一九四七年頃かと思いますが、国会図書館の副館長として活動しておられた頃の中井さんの思い出を、鶴見俊輔氏が語っていて、たいへん面白い。
    鶴見さん自身の言葉によると、氏はその頃神経症的な心理状態に入っていて、何も書くことができずまいっていた。そこで、そのことを中井さんに相談すると、次のように答えられたということです。

    そういう時には、大きな活字で書いてある中国の歴史の本をよむがよい。国会図書館をやめろ、というビラを電信柱にはられて、いやがらせを受けたことがあってまいったが、そういう時に『資治通鑑』(宋の司馬光の撰、二九四巻)を毎日すこしずつ読むと、志を立てた人が出て何かやっては殺され、また別の人物がたって何かやって殺される歴史のリズムがつたわってきて、自分の毎日についてわりに平然として受け入れることができるような気がしてきた。
    (中略)
    (その『資治通鑑』の一節に)帝王の悪政を諫める臣下があれば、

    主上怒而煮之
    主上怒而炙之
    主上怒而裂之
    主上怒而斬之
    等々。

    助言者として政治に関与するインテリの位置あるいは運命の象徴的記述であります。これを読むと、ソクラテスが毒杯を贈られたのは、まだなまぬるい、と申せましょう。
291-292pp.


    あえて蛇足。ここで「インテリ」と呼ばれている人びとは歴史的に見れば古代から清朝までの中国知識人階級であるが、21世紀に敷衍すれば政治に関与しようとする人間は、地位、階級にかかわりなく誰にでもあてはまる。民主主義では誰でも政治に関われる一方で、民主主義にあっても権力が主権者に均等に配分されているわけではないからだ。そして権力とは人を殺してその責任を問われない権能だ。だから権力の行使には必ず人殺しが付随する。
    
    そして、何らかの形で文化活動をする人間はすべて政治にかかわっている。音楽をする、絵を描く、俳句をひねる、いや、こうしてブログを書いたり、YouTube に動画をアップしたり、U-Stream で放送したり、ついったーでつぶやくことも文化活動だ。さらにはそうした発信だけでなく、受信すること、音楽を聴く、動画を見る、文章を読む、ファッションに身を包む、いや、あるサイトにアクセスするだけでも文化活動になる。
   
    文化が政治とは関係ないと考えるのは、政治の本質を見誤るものだ。政治とははやい話、メシを喰ったり、糞をひり出したりすることも含まれる。そして文化とは何をどう喰うか、喰ったものをどうひり出すかから始まる。屋外で鼻をかむことを禁じた政権に統治される国では、屋外で鼻をかむ人間は「反政府分子」、今風にいえば「テロリスト」とみなされる。9/11の直後、FBIは図書館利用者の閲覧履歴を提出することを図書館に求めようとした。
   
    つまりは今のような「リセット」の時期にあっては、誰もが「インテリ」にならざるをえない。当人の意志にかかわりなく、生きようとただあがくことだけで、政治に関わる「インテリ」とみなされる。
    
    となれば、「畳の上で死ぬ」よりも、権力を保持する者に殺されてなお史書に名が残るほどの何かをするのも一興ではある。「畳の上」で死のうが、処刑台の上で八つ裂きにされて死のうが、死ぬことに変わりはない。スティーヴ・ジョブズの死に妹が見てとったように、人間にとって死ぬことは畢竟一種の「苦行」、一歩一歩階段を登るように達成することなのだから。(ゆ)

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