ヴァシーリー・グロスマンを読もうとして、待て待て、その前にスターリングラード攻防戦について基本的なところを押えるべし。とて、Anthony Beevor の Stalingrad, 1998 を知る。邦訳もある。軍隊用語、組織名は手に負えるものではないから、邦訳に如くはなしと手にとってみると、うん、なんだ、これは。どうも、うまくない。解説に、原書は readability で評価が高いとあるが、邦訳は読みやすいとはとても言えない。ごつごつとひっかかる。アマゾンの読者評でも翻訳の読みにくさを指摘しているものが複数あるから、あたしだけのことでもあるまい。
これはどうもやはり原書にあたるしかない。と、Penguin トレード・ペーパーバック版を入手する。こちらは確かに読みやすい。軍隊用語も気にならない。すらすらと読める。これほど違うと、どこがどうなって、こういうことになるのか、気になってくる。そこで本文最後の一節を比べてみる。文庫版581頁。
スターリングラードでパウルスに対抗したチュイコフ将軍の第六二軍は、第八親衛軍として長い道のりをベルリンまで進軍した。チュイコフは占領軍の総司令官となる。彼はソヴィエト連邦元帥に昇りつめ、あの危機を迎えた九月の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防省代理にもなった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士には墓標のある墓はない。統計の上でも彼らは他の戦闘の死者に紛れこんでいる。そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう。
これはこの長い話の最後の結論だ。
「そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう」
この「そこ」は何を指すのか、どうにも腑に落ちない。この段落に書かれたことのどこに「ある種の正義」が存在するのか。チュイコフが栄達したことか。他ならぬフルシチョフに引き立てられたことか。まさか、チュイコフの命令で射殺された兵士たちが、墓もなく、記録からも抹殺されたことが「正義」だとは言うまい。原文はどうか。
His opponent at Stalingrad, General Chuikov, whose 62nd Army had followed the long road to Berlin as the 8th Guards Army, became commander of the occupation forces, a Marshal of the Soviet Union and deputy minister of defence under Khrushchev, who had appointed him on that September night of crisis by the Volga. The tousands of Soviet soldiers executed at Stalingrad on his orders never received a marked grave. As statistics, they were lost among the other battle casualties, which has a certain unintended justice.
Penguin Books, 1999, 431pp.
「統計の上でも〜」以下はカンマ付き関係代名詞で結ばれた一文。したがってここでの justice は処刑された者たちが処刑された犯罪者として勘定されているのではなく、他の戦闘とはいえ戦死者として扱われていることを明瞭に示す。戦争において、この違いには天と地の開きがあろう。
そこで明らかになるのは、「統計の上でも」の「でも」が問題であること。この「でも」によって、墓の無いことと戦死者に数えられていることが同様の性格を備えたひとまとまりのものに解釈される。原文では全く別のことがらが、訳文ではまとまって読める。
墓の無いことは「正義」ではない。しかし、原文ではこのことと、戦死者に数えられていることは別のこと、というよりも対立することであり、ここは「統計の上では」と訳さなければならない。「も」と「は」の違い、細かいことではあるが、文章のつながりの上では鍵を握る。
ここでなぜ「でも」にしたのか。その方が日本語として通りが良いと判断したのか。しかし、本来、ほとんど対極にあることがらをあたかも同じ範疇に属することのように訳してしまうのは、誤訳と呼ぶのは酷かもしれないが、明白な誤訳よりも質が悪い。
段落の最初の訳文にも文句をつけたくなる。この段落前半全体の主語はチュイコフである。チュイコフが梯子を一段ずつ昇って、栄達する。訳文はチュイコフが率いた軍を主語にすることで、この流れを断ち切った。カンマ以下の関係代名詞が導く従属節を独立させて前に置いて、チュイコフが上がってゆく姿を押し出そうとした、と一応見える。が、その後で、ベルリンでのことを独立の文にした。文章の流れがここでもぎくしゃくする。
「あの危機を迎えた九月の夜」。「迎えた」は原文に無い。「迎えた」を加える理由は見当らない。訳文の調子を整えるためとも言えない。むしろ、これを加えたことで、原文の備えている緊迫感が削がれる。原文はリズミカルに畳みかけて、まさに危機だったのだよ、あの夜は、という感覚を伝える。例えば that night of crisis in September では無いのだ。こうであったら意味は同じでもリズムが無くなる。加えて「危機を迎えた九月」では、第三者の視点が忍びこみ、さらにのんびりしてしまう。チュイコフもフルシチョフも危機の当事者である。そこが薄れる。
もう一つ、「期せずして」。「期せずして」は通常「期待していないにもかかわらず」を意味する。すると、この「期せずして」の主語は後世の人間、ひいては我々読者であろう。しかし、原文では intend していないのは読者ではない。ソ連の軍ないし政府である。この場合、「期せずして」と訳すのは誤訳と言うべきだろう。
これらを踏まえて改訂してみる。
改訂案
スターリングラードでパウルスの相手となったチュイコフ将軍は、第六二軍から第八親衛軍となった部隊を率いて長い道のりをベルリンまで進軍し、占領軍総司令官となり、ソヴィエト連邦元帥となり、あの九月の危機の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防相代理となった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士に墓標のある墓はない。統計の上では彼らは他の戦闘の損害に紛れこんでいる。それは意図したものではないにせよ、正義といえよう。
「統計の上では」の前に「とはいえ」あるいは「一方、」と入れたいところではある。その方が原文の意図を明瞭にする。しかし、著者はここでそれに相当する言葉を入れていない。入れてもおかしくはないところに入れていないことは、訳者として尊重しなければならない。
まあ、しかし、そもそもこの訳文があるからこういう分析もできるので、白紙で渡されたら、あたしでもチュイコフにかかるカンマ以下の関係代名詞による従属節を独立させていたかもしれない。
というわけで、まさに、期せずして、翻訳の勉強をさせてもらうことになった。回り道せずにまっすぐグロスマンにとりかかっていたら、この勉強はできなかった。
とはいえ、こんな回り道ばかりしているから、肝心のグロスマンがなかなか読めない。(ゆ)