小尾俊人の名を初めて意識したのはおそらくその死亡記事を読んだときだったと思う。それから彼の著書『昨日と明日の間―編集者のノートから』や『本は生まれる。そして、それから』を読み、感嘆した。こういう人がやっていて、なるほどみすず書房はああいう出版活動ができたのか。

 もっとも小尾の著書から関心は丸山眞男に向かい、『戦中と戦後の間』には書き手と編集者の双方にまた感嘆した。この本は大学4年の時に出ていて、当時はベストセラーともなっているのに、まったく関心を抱いた覚えがない。今読むとあらためて教えられることが多い。その一方で、丸山眞男はこれ1冊読めば自分には充分という感じもする。ここには丸山のエッセンスが凝縮されているように読める。これもまた小尾の編集者としての力の発露だろうか。

 そこで遠くなった小尾の名に再び遭遇したのは本書の元となった『みすず』の連載が始まった時だった。隔月のその連載を毎回待ちかねて、息を詰めて読んだ。人生の師匠である著者の文章ということもあったが、それ以上に内容に惹きつけられた。まるで自分の足跡を消そうとしているような小尾が消しそこなった断片をひとつずつ拾いあつめ、小尾の姿を再構成してゆく著者の粘りに感嘆した。だから、本書の出版もまた待ちこがれた。

 いざ手にとった本の厚さにまず驚いた。こんなに加筆されたのかと思ったら、半分は小尾自身の1951年の日記だった。

 この本のキモは小尾の日記だ。表紙にもわざわざ刷ってある。著者が書いた部分はこの日記への序文にも解題にも見える。この日記が残された理由は不明かもしれないが、どこかに小尾自身の意図が働いているはずだ。小尾自身、これを残すと判断したとき、後に誰かが読むことは承知していたはずでもある。読ませたいとはまではいかなくとも、読まれてもいいとしていたはずだ。

 いや、そうではないかもしれない。死後も残すとまではっきり意識はしなくても、抹殺するにはどこか忍びない、ためらわれるものがある。そうして処分せずにおいたものを小尾自身忘れてしまい、後に残された、偶然の産物ということもありそうだ。

 いずれにしても、この日記は残るべくして残った。それはどうやら動かない。

 「密儀、偲ぶ会なし」という遺志は、自分が生み、育てた出版社からその評伝が出るという結果を生んだ。むろんこれはタイトルにもあるように、生涯をすべて辿ったものではないが、おそらくは最も肝心の部分、最も波瀾に富み、それゆえ劇的でもある時期の基本的様相を明らかにしている。

 葬儀や偲ぶ会は本来死者のためのものではない。遺された人びと、家族や親族や、あるいは親しい人びとが故人を失なった悲しみを耐えるための方便である。小尾がそのことを承知していなかったとも思えないが、他人の「自由」を奪ってまで己の人生をコントロールしたい、と考えたのか。自分がみすずから退いた時、実弟はじめ古くからの社員も数名、一緒に退社させた人だ。いやこの場合おそらくそうではなく、もっと単純にはにかんだのだろう。自分がそういうものの対象になることが、どうにも気恥ずかしく、そのことを思っただけで尻の穴がむずむずしてきたのだろう。あるいはそれはまた、170頁にあるエピソードの対象となった人物のように、「生き残りの復員組」のひとりとして「怯んだ」と言えるかもしれない。

 この「怯み」のよってくるところとして著者は「サバイバーズ・ギルト」と自己の卑小化とこれ以上の傷を避けたいとする恐れをあげている。同じ著者の『敗戦三十三回忌―― 予科練の過去を歩く』に描かれた学徒出陣組の姿、いきなり将校にされて自分より年下の者たちを特攻に出す順番を決める役割を負わされた人間が、平気でいられるはずはない。義務としてやらされたとはいえ、そうしたことをやった人間に、そんな晴れがましい(と見える)ことをやる、あるいはやってもらう資格があるのかと疑ったとしても無理はない。そう疑うことでかろうじて心の平衡が保てるだろう。

 しかし、そのはにかみがこんな書物を生もうとは、まさにお釈迦さまでもない、生身の人間である小尾にわかろうはずもない。葬儀や偲ぶ会は一時的だ。いかに盛大な葬儀や偲ぶ会でも、すんでしまえば終りである。そういうことがあったという記録は残っても、それだけだ。書物は違う。本は共時的には小さなメディアだが、通時的には途方もなく大きくなりうる。そして一度書物として出たものはいつまでも残る。終らないのだ。この出版を小尾本人が知ればはずかしさに身悶えするだろうが、もう遅い。本は書かれ、出てしまった。小尾俊人の姿はここに永遠に留められることになった。そして小尾とは無縁な、小尾の名前すら聞いたことのない人間が、かれがどのような人間で何をしようとし、またしたかを知ることが可能になった。

 そしてこの日記だ。唯一残されていた個人としての記録。この年小尾は29歳。老成した人間とひどく若い人間が同居している。緊張感が張りつめている一方で、ひどくのんびりしているところが同時にある。また同じ人と頻繁に会う。ひと言でいえば人なつこい。これだけ毎日いろいろな人間と会って話をしながら、いったいいつ本を読むのか。おそろしい速読だったという話も、前に出てくる(62頁)が。クルツィウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』を原書で読んだりもしている。あの篠田一士が音をあげたシロモノだ。後にみすずが邦訳を出す。四半世紀前、当時定価12,000円の本を、値段をまったく見ずに注文し、ブツが来てから仰天した。

 277頁、七月三日の「スマさん」須磨彌吉郎の注にあるラインバーガー『心理戦争』1953にもあらためて蒙を啓かれる。そうだった、みすずはこれを出していたのだ。図書館で取寄せてみると、ページを繰ったらバラバラになりそうな本がきた。少し読んでみれば翻訳もしっかりしているし、父親の方のポール・ラインバーガーの話も少し出てくる。孫文の顧問だった人物で、訳者は戦前、上海でこの父親に会ってもいる。小尾はコードウェイナー・スミスを読んだろうか。ちなみに『心理戦争』Psychological Warfere はこの訳書の出た後に第二版が出ている。Gutenberg に電子版がある。

 著者は月刊『みすず』創刊時から、小尾の依頼で出版界に苦言を呈するコラム「朱筆」を出版太郎の名で書き続けた。後、2冊の大冊にまとめられる。もともとは海外の書物の翻訳権仲介として、小尾からはむしろ嫌われた関係で始まりながら、このことをはじめ、様々な面で著者が小尾から相談を受け、協力していることはここにも出てくる。それだけ小尾が信頼した人物にその評伝が書かれたことは、小尾にとってやはりふさわしい。

 それにしても、岩波、筑摩、みすずとわが国を代表する出版社の3つが信州人の創設になるというのは面白い。(ゆ)