クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:打楽器

 このデュオのレパートリィは一番好みに近い。バッハからスウェーデン、キルギス、そしてクレツマー。これからも広がりそうだ。いずれアイルランドやブリテン群島にも行ってくれるか、と期待させるところもある。

 これで三度目のライヴで、どんどん進化している。今回のハイライトは何といっても第一部の2曲目というか後半。バッハ、無伴奏チェロ組曲第二番をまるまるデュオでやる。元来無伴奏の曲に伴奏をつけるというのは、クラシックの常識からすれば無謀、野蛮だろうが、少なくともこの演奏はバッハ本人が聴いても喜んだろう。さすがにかなり綿密にアレンジしてあると見えて、ナベさんも楽譜を見ながら演っている。何よりも本来原曲に備わるグルーヴが実際に活き活きと感じられたのがすばらしい。ダンス・チューンとして聞えたのだ。今年初めに出たアイルランドの アルヴァ・マクドナー Ailbhe McDonagh の録音で感じられたグルーヴがより明瞭に出ていた。実は無伴奏というのは誤解で、バッハ本来の意図はこちらなのだ、と言われても納得できる。聴いていてとにかく愉しかった。

 興味深かったのは、新倉さんが、全世界の孤独なチェリストはナベさんと共演すべきだ、と言っていたこと。ただ独りで演るのはなんとも寂しく、心細く、これまでどうしても演る気になれなかったのだそうだ。バッハの無伴奏組曲6曲はおよそチェリストたる者、己のものとして弾ききることは窮極の目標であろう。ヴァイオリン=フィドルと異なり、チェロで伝統音楽から入る人はいない。必ずクラシックからだ。チェリストは全員がクラシックの訓練を受けている。チェロ・ソナタやコンチェルトで目標になる曲も多々あるだろうが、そういう曲は相手が要る。バッハの無伴奏組曲は独りでできる。一方でそれはまったくの孤独な作業にもなる。あのレベルの曲を独りで演るのは寂しいことなのだ。ナベさんとのこの共演を経ていたので、初めて第一〜第三番を弾くリサイタルができたと言う。ナベさんが傍にいる感覚があったからできたと言うのだ。ひょっとすると、それはあのグルーヴを摑むことができたからかもしれない、とも思う。これまでのこの曲の録音で本来あるはずのグルーヴが感じられず、楽曲が完全に演奏されきっていない感覚がどうしてもぬぐえなかったのは、奏者が独りでやらねばならず、頼れるものが無かったせいなのかもしれない。

 一方でナベさんに言わせると、グルーヴは揺れている。それもわかる。ダンス・チューンだとて、拍が常に均等であるはずはない。実際、ナベさんがやっていたスウェーデンのポルスカのグルーヴも別の形で揺れている。

 このチェロと打楽器によるバッハ無伴奏組曲の演奏は革命的なことなのではないか。二人とも手応えは感じていて、全曲演奏に挑戦するとのことだから大いに期待する。その上で新倉さんによる独奏も聴いてみたい。そして両方のヴァージョンの録音をぜひ出してほしい。

 第二部も実に愉しくて、バッハの組曲ばかりが際立つということがないのが、またすばらしい。まず二人のインプロヴィゼーションが凄い。ほんとに即興なのか、疑うほどだ。ラストもぴたりと決まって、もう快感。

 そして前回初登場の新倉さんによるカザフスタンのドンブラとナベさんのキルギスの口琴の再演。ドンブラはストローク奏法だが、〈アダーイ〉というこれは相当な難曲らしい。しかし新倉さんがやるといとも簡単そうに見える。ピックの類は使わず、爪で弾いているようだ。カザフやキルギスなど、中央アジアの草原に住む遊牧民たちは各々に特徴的な撥弦楽器を抱えて叙事詩を歌うディーヴァに事欠かないが、いずれ新倉さんもその一角を占めるのではないかと期待する。

 第二部後半はクレツマー大会で、まずは前回もやった有名な〈ニグン〉。クレツマーといえばまずクラリネット、そしてアリシア・スヴィガルズのフィドルがあるけれど、チェロでやるのは他では聴いたことがない。この楽器でここまでクレツマーのノリを出すのも大したものだと感心する。スキャットもやり、おまけに二人でやってちゃんとハモっている。これまた快感。続くイディッシュ・ソング・メドレー、1曲目の〈長靴の歌〉では、チャランポランタンの小春による日本語詞も披露した。

 それにしても、たった二人なのに、何とも多彩、多様な音楽を満喫できたのにあらためて感謝する。ともすれば雑然、散漫になるところ、ちゃんと一本、芯が通っているのは、二人の志の高さの故だろう。それに何より、本人たちが一番愉しんでいる。関東では次のライヴまでしばし間があくらしいが、生きて動けるかぎりは参りましょう。

 出てくると神楽坂はまさに歓楽街。夜は始まったばかり。こちらはいただいた温もりを抱えて、家路を急いだことでありました。(ゆ)


 いやもうすばらしくて、ぜひとももう一度見たいと思った。演る方も愉しいのだろう、どうやら続くようで、実に嬉しい。

 デュオを組んだきっかけは、昨年秋の時の話とはちょっと違っていて、新倉さんが名古屋、渡辺さんが岐阜でライヴをやっていて、新倉さんが渡辺さんのライヴを見に行こうとしたら会場のマスターがどうせなら楽器を持ってきたらと誘ったのだという。とまれ、このデュオが生まれたのは、音楽の神様が引合せたのだろう。

 今回、お二人も言うように、チェロと打楽器の組合せはまずこれまで無かったし、他にも無いだろう。この場合、楽器の相性よりも、本人たちがおたがい一緒に演りたい相手と思ったところから出発しているにちがいない。むろん、チェロと打楽器のための曲などあるはずもなく、レパートリィから作る必要がある。というのは、何をしようと自由であるとも言える。試行錯誤は当然にしても、それ自体がまた愉しいと推察する。

 この日はバッハやグリーグ、クレズマー、北欧の伝統曲、それに二人のオリジナルという構成で、完璧とは言えなくても、ほぼどれも成功していた。あるいはお二人の技倆とセンスと有機的つながり、それにそう、ホールの魔術が作用して成功させていたというべきか。

 開演前、渡辺さんが出てきてハマー・ダルシマーのチューニングをする。後でこれについての説明もしていたこの楽器が今回大活躍。ステージ狭しと広げられた各種打楽器の中で、使用頻度が一番高かったのではないか。旋律打楽器としてはむしろ小型で、ビブラフォンなどよりは扱いやすいかもしれない。チューニングは厄介だが。

 オープニングは二人が客席後方から両側の通路を入ってきた。各々手でささえた鉢のようなものを短い棒で叩いている。金属製の音がする。ステージに上がって台の上に置き、ナベさんがしばしソロ。見ていると鉢のように上が開いているわけではなく、鼓のように何か張ってあるらしい。それを指先で叩く。これも金属の音がする。なかなか繊細な響きだ。

 と、やおら新倉さんが弓をとりあげ、バッハの無伴奏組曲第一番のプレリュードを始める。ここは前回と同じ。

 このホールの響きのよさがここで出る。新倉さんもハクジュ・マジックと繰り返していたが、楽器はノーPAなのに、実に豊かに、時に朗々と鳴る。この会場には何度も来ているが、ホールの響きがこれほど良いと聞えるのは初めてだ。チェロはことさらこのホールに合っているらしい。それはよく歌う。いつもはあまり響かない最低域もよく響く。サイド・ドラムのような大きな音にもまったく負けない。

 しばしチェロの独奏が続いて、ナベさんが静かに入ってくる。はじめは伴奏の雰囲気がだんだん拮抗し、次のサラバンドの後、今度は打楽器の独奏になる。この響きがまたいい。大きくなりすぎないのは、叩き方によるだけでもないようだ。残響を含めてホールの響きに自然にそうなるようにも見える。

 サイド・ドラムでマーチ風のビートを叩きはじめるとチェロがジーグを始める。これが良かった。ちゃんと踊っているのだ。先日聴いたアイルランドのチェリスト Ailbhe McDonagh の録音もそうだが、ダンス・チューンになっている。この組曲の各パートはダンス曲の名前になっているんだから、元々はダンス・チューンのはずである。バッハの曲はそうじゃないという確固たる根拠があるのか。作曲者はチェロの独奏を前提にしているが、打楽器が加わることでダンス・チューンになるのなら、どんどん入るべし。この曲全体をこのデュオで録音してほしい。それとは別に新倉さんのソロでも聴きたいものではあるが。

 新倉さんはクラシックだけでなく、東欧の伝統音楽も好きだそうで、そこでクレズマー。これもいい。チェロでクレズマーというのは初めて聴いたが、ハマー・ダルシマーとの組合せもハマっていて、もっと聴きたい。二人で口三味線するのもいい。これがまずハイライト。

 次のグリーグ〈ソルヴェイグの唄〉からスウェーデンのポルスカへのつなぎも自然。ポルスカをチェロで弾くのはたいへんそうだが、楽しそうでもある。ハマー・ダルシマーの共鳴弦がそれは美しく響く。この曲でのチェロの響きが今回のベスト。こうなると、この会場で酒井絵美さんのハーダンガー・フィドルを聴いてみたいものだ。

 新倉さんはいろいろな楽器に興味があるそうで、京都の楽器屋で見かけた口琴を買ってしまったり、カザフスタンの撥弦楽器を持ちこんだりしている。口琴は結局ナベさんが担当し、チェロと合わせる。口琴もカザフの楽器も音がひどく小さいが、このホールではしっかり聞えるのが、まさに魔法に思える。

 撥弦楽器を爪弾くのにハマー・ダルシマー、それにガダムだろうか、これまた音の小さな壺型の打楽器と声を合わせたのがまたハイライト。新倉さんのオリジナルでなかなかの佳曲。

 ラストは前回もやったナベさんのオリジナルの面白い曲。中間部でふくらむチェロの響きに陶然となる。アンコールはイタリアのチェロ奏者の曲で、さすがにチェロのための曲で楽器をいっぱいに使う。

 今回はこのホールが続けているリクライニング・コンサートで、座席を一列置きに空けていて、シートを後ろに倒せる。もともとそういう仕掛けにしてある。とはいえ、ゆっくりもたれてのんびり聞くというには、かなりトンガったところもあって、身を乗出して耳を開いて聴く姿勢になる。

 いやしかし、このデュオはいい。ぜひぜひ録音も出してほしい。

 それにしてもハマー・ダルシマーの採用はナベさんにとってはターニング・ポイントになるのではないかという気もする。このデュオ以外でも使うだろう。これからどう発展してゆくかも楽しみだ。

 この日は昼と夜の2回公演があって、どちらにするか迷ったが、年寄りはやはり明るいうちに帰りたいと昼間を選んだ。このところ真冬に逆戻りしていたが、またエネルギーをいただいて、ほくほくと帰る。ありがたや、ありがたや。次は6月だ。(ゆ)

 shezoo さんのプロジェクトとしては最も長いものになったトリニテの新ヴァージョンを初めて見る。Mk3 である。このメンバーでは2回目だそうだが、もうすっかりユニットとして十分に油が回っている。

 そもそもトリニテは壷井さんと shezoo さんが組むことが出発点で、この二人さえいれば、あとは誰がいもトリニテになる、と言えるかもしれない。楽曲もヴァイオリンを活かした形に作られたり、アレンジされたりしている。ここではピアノはあくまでも土台作りに徹して、派手なことはやらない。即興では少し羽目をはずすけれども、他のユニットやライヴの時よりも抑制されている。

 とはいえ、ユニットである以上、他のメンバーによって性格は変わってくる。初代のライヴは一度しか見られなかったが、パーカッションの交替で性格が一変したことは、ファーストとライヴ版を聴けばよくわかる。もっともパーカッションはスタイルも使う楽器も基本的な姿勢も人によってまったくの千差万別だし、岡部氏と小林さんではさらに対照的でもある。ユニットの土台がピアノで、パーカッションはむしろ旋律楽器と対等の位置になるトリニテではなおさら変化が大きくなるだろう。

 今回はけれどもクラリネットが交替が大きい。トリニテの曲はリリカルな側面がおいしいものが多く、小森さんはその側面を展開するのにぴったり合っていた。トリニテのライヴは1本の流れで、烈しい急流もあり、ゆったりとたゆたう瀬もあり、その流れをカヌーのようなボート、あるいは桶にでも乗って流されてゆくのが愉しかった。

 今度のトリニテはパワー・ユニットである。たとえていえば、Mk2 がヨーロッパの、ECM的なジャズとすれば、新トリニテはごりごりのハード・バップないしファンキー・ジャズと言ってもいい。そもそもずっとジャズ寄りになっている。

 北田氏のクラリネットはまず音の切れ味がすばらしい。音もフレーズも切れまくる。バス・クラですらこんなに切れていいのか、と思ってしまうほど。しかもその音が底からてっぺんまでがっちりと硬い。確かに、小森さんは、ときたまだが、もう少しクラリネットが前に出てほしい、と思うときもなくもなかった。北田氏は、この日は会場の都合でたまたまだろうが、位置としても一番前で、オレがこのバンドの主という顔で吹きまくる。

 壷井さんも当然負けてはいない。これまでのトリニテのライヴでは聴いたこともないほどアグレッシヴに攻める。しかも KBB の時のようなロック・ヴァイオリンではなく、あくまでもトリニテのヴァイオリンの音でだ。そうすると響きの艷がぐっと増す。〈人間が失ったものの歌〉の、低域のヴァイオリンの響きの迫力は初めて聴くもので、この曲がこの日のハイライト。

 これを聴くと壷井さんの演奏が実にシリアスなのがよくわかる。MC では冗談ばかりとばしているイメージがあるけれども、根は真面目であると、これを聴くと思ってしまう。北田氏の演奏は対照的にユーモアたっぷりだ。クラリネットという楽器がそもそもユーモラスなところがあるけれど、それにさらに輪をかけているようだ。

 今回の発見は〈アポトーシス〉がバッハの流儀で作られていること。バッハ流ポリフォニーで始まり、フーガになる。まさに前奏曲とフーガ。それに集団即興が加わるところが shezoo 流ではある。

 この曲と〈よじれた空間の先に見えるもの〉が CD では表記が入れ替わっていた、というのにはあたしも全然気がつかなかった。トリニテはライヴで見ることが多く、CD を聴いてもタイトル・リストはあまり見ていないからか。ライヴでタイトルと曲が結びついていたせいかもしれない。

 北田氏の印象があまりに強くて、パーカッションの変化があまり入ってこなかったのだが、井谷氏は岡部氏や小林さんに比べると堅実なタイプのように聞えた。どこかミッキー・ハートを連想したりもする。次回はもう少し、注目してみたい。

 トリニテの次は来年1月22日、かの埼玉は越生の山猫軒。山の中の一軒家で、shezoo さんの「夜の音楽」のライヴ盤の録音場処。調べると日帰りも無理ではないので、思いきって行ってみることにする。

 それにしても、トリニテも10年かけて、いよいよ面白くなってきた。これあ、愉しみ。(ゆ)

壷井彰久: violin
北田学: clarinet, bass clarinet
井谷享志: percussion
shezoo: piano

 9月下旬からそろそろとライヴに行きだした。しかし、どこかまだ腰が定まらない。かつてのように、いそいそわくわくというわけにはいかない。おそるおそるというほどでもないが、おたがい仮の姿のようなところがある。いや、ミュージシャンたちはそのつもりではないだろう。むしろ、一層魂をこめて、一期一会、次は無いかもしれないというつもりでやっているのだろう。問題はこちらにある。リハーサル、と言ってみるか。ライヴを見るのに練習もへったくれもないと言われるだろうが、毎月2、3回、多いときには週に2回というペースでなにかしらのライヴに通っていると、勢いがついているのだ。ランナーズ・ハイというのはこういうものではないかとすら思えてくる。それがぱたりと止まった。それは、まあ、いい。ちょうど仕事も佳境に入って、正直、ライヴに行かずにすむのがありがたいくらいだった。

 その仕事も一段落ついた頃、配信ライヴを見たり、ぽつりぽつりとライヴに行ってみたりしだした。どうも違う。同じではない。COVID-19は今のところ無縁だが、こちらの意識ないし無意識に影響を与えているのか。

 ひとつの違いは音楽がやってくる、そのやってくるあり方だ。ひょっとするとライヴがあった、そこに来れたというだけで野放図に喜んでしまっているのだろうか。どこを見ても、なにが聞えても、すばらしいのだ。個々の音、とか、楽曲とか、どの演奏とか、そんな区別などつかない。もう、全部手放しですばらしい。音が鳴りだすと、それだけで浸ってしまい、終ると目が覚める感覚。どんな曲だったか、どんな演奏だったか、何も残っていない。手許を見れば、曲目だけは一応メモしてあるが、それだけで、いくら眺めても、個々の曲の記憶はさっぱりない。ただ、ああ、ありがたや、ありがたや、と想いとも祈りとも呪文ともつかないものがふわふわと湧いてくる。

 今回はいくらか冷静になれた。冷静というよりも、酔っぱらっていたのが、少し冷めたと言う方が近いかもしれない。

 真先に飛びこんできたのは加藤さんのサックスの音。これまでの加藤さんのサックスはやわらかい、どんな大きく強い音を出してもあくまでもやわらかい響きだった。この日の加藤さんの音の押し出しは、これは無かった。パワフルだが力押しに押しまくるのではなく、音が充実していて、ごく自然に押し出されてくる。確信と自信をもってあふれ出てくる。たとえば最盛期のドロレス・ケーンのような、本物のディーヴァの、一見何の努力もせずに自然にあふれてくるように流れでる声に似ている。力一杯でもない。八分の力ぐらいだろうと見える。それでもその音はあふれ出て空間を満たし、聴く者を満たす。

 次に浮かびあがったのは Ayuko さんの声。谷川俊太郎の「生きる」に立岩潤三さんが曲をつけた、というよりもその曲をバックに自由に読む。後のMCでは読む順番もバラし、自由に入れかえていたそうだ。普通に朗読するように始まったのが、読む声も音楽もいつしかどこまでも盛り上がってゆく。いつもの「星めぐりの歌」は、これまでいろいろ聴いたなかで最もテンポが遅い。そして、ラスト、立岩さんの〈Living Magic〉のスキャット。

 そこまではわかった。らしい。アンコールの〈エーデルワイス〉が歌いおさめられると、やはり夢から覚めた。ふっと、われに返る。立岩さんが何をやっていたか、shezoo さんが何をやっていたか、覚えていない。あれだけダイナミック・レンジの広い各種打楽器の音が配信できちんと伝わるだろうか、いや、このシンバルを生で聴けてよかったと思ったのは覚えている。〈Moons〉のピアノのイントロがまた変わったのもぼんやり浮かんでくる。

 ライヴ、生の音楽をそのまま体験するのは、やはり尋常のことではないのだ、とあらためて思いしらされる。音楽の送り手と受け手が、その音楽が鳴っている空間を共有することには、時空を超越したところがある。非日常にはちがいないが、読書や映画やゲームに没頭するのとは決定的に異なる。パフォーマンス芸術ではあるが、演劇や舞踏の劇場空間とも違う。何なのだろう、この異常さは。

 あたしはたぶんその異常さに中毒してしまっているのだ。ライヴの全体に漬かってしまって、ディテールがわからないのは、禁断症状の一種なのかもしれない。もう少しまた回数を重ねれば、靄が晴れてきて、細部が聞えるようになるのだろうか。

 このライヴは同時配信されて、まだ見ることもできるが、見る気にはなれない。以前はライヴはそれっきりで、再現のしようもなかった。そしてそれで十分だった。いや、一期一会だからこそ、さらに体験は輝くのだ。

 ライヴの配信、あるいは配信のみのライヴというのは、また別の、新しい媒体なのだ。まだ生まれたばかりで、手探り、試行錯誤の部分も大きい。梅本さんから苦労話もいろいろ伺ったが、おそらくこれからどんどんそのための機材、手法、インフラも出てくるだろう。それはそれでこれから楽しみにできる。

 しかし、ライヴの体験は、その場で音楽を共有することには、代わるものがない。COVID-19は世界のもろさをあらためて見せつけている。世界は実に簡単に、派手な効果音も視覚効果もなく、あっさりと崩壊する。その世界のなかで、生きていることの証としてライヴに行く。それができることのありがたさよ。

 この日はハロウィーン。そしてブルー・ムーン。雲一つない空に冷たく冴えかえる満月に、思わず遠吠えしそうになる。(ゆ)


夜の音楽
Ayuko: vocals
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussion
shezoo: piano


 この秋に上演された舞台『オーランドー』の音楽を林正樹氏が作曲し、このトリオで劇中で演奏された。その音楽だけをライヴでやってみようという試み。

 『オーランドー』はヴァージニア・ウルフの小説を元にした劇のはずで、結局見に行けなかったが、かなりコミカルなものだったらしい。1曲3人がリコーダーで演奏する曲があるが、林氏が吹きながら笑ってしまって曲にならない。ピアノと違ってリコーダーは吹きながら笑えば音が揺れてしまう。本番でも笑わずにちゃんと吹けたのは2、3回と言いながらやった昨夜の演奏も、途中笑ってしまう。はじめは3人とも前を向き、なかでも林氏は他の二人を向いて吹いていたのだが、相川さんは途中で後ろ向きになって吹いていた。林氏の吹いている様を見ると自分も笑ってしまうからだろう。

 これは極端な例だが、他にもユーモラスな曲が半分くらいはある。林氏のユーモアのセンスは録音ではあまり表に出ないが、ライヴだと随所に迸る。というよりも、その演奏の底には常にユーモアが流れていて、折りに触れて噴出する感じだ。金子飛鳥氏とのライヴで披露した「温泉」シリーズの曲もユーモアたっぷりだった。

 鈴木氏が演奏するのを見るのは、ヨルダン・マルコフのライヴにゲスト出演した時だけで、本人のものをフルに見るのは初めて。都合7種類の管楽器、ソプラノ・リコーダーからバス・クラまで、音質も吹き方も相当に異なる楽器をあざやかに吹きこなす。その様子も、上体を反らしたり、前に倒したり、くねらせたり、足を踏みこんだり、見ているだけでも面白い。こういう管楽器奏者はこれまで見たことがない。まるでロック・バンドのリード・ギターのようだ。

 この人の音はひじょうに明瞭、というよりおそろしく確信的、と言いたくなる。小さな音や微妙なフレーズでも、まったく疑問ないし揺らぎを感じさせない。それが林氏のユーモアとからむと、なんとも言いようのない、ペーソスのあるおかしみが漂う。

 この二人の手綱をしっかり操るのが相川さんのビブラフォンとパーカッション、というのが昨夜のカタチだった。1曲、フラメンコというよりも、中世イベリアのアラブ風の曲では達者なダラブッカを披露して、このときだけちょっとはじけていたのも良かった。

 昨夜は前半の最後に鈴木氏のオリジナル、後半の頭に相川さんの作品も演奏された。鈴木氏のは安土桃山時代の絵図につけた曲。《上杉本 洛中洛外図屏風を聴く》に入っているような曲。これも面白かったが、相川さんのお菓子の名前をつけた小品4つからなる組曲が良い。そういう説明を聞いたからか、ほんとうに甘味がわいてくる。

 『オーランドー』のための林氏の音楽は多彩多様で、音楽だけ聴いてまことに面白い。サントラ録音の計画があり、年内録音、来年春のリリースというのには、会場が湧いた。林氏が劇を見た方はと問いかけたのに、聴衆の九割方の手が上がった。しかし、こういう音楽だったらやはり見るのだったと後悔しきり。確かアニーも出ていたはずだ。昨夜は劇中で演奏されたそのままではなく、ライヴ仕様で、3人がソロを繰り出す曲もあった。

 席が林氏のほぼ真後ろになり、氏の演奏する後ろ姿を見ることになったが、それがやはり見ていて飽きない。ソロを弾いている姿にはどこか笑いが浮かんでいる。本人は別に意識してはいないだろう。夢中になって、あるいはノリにノって弾いている、その姿が楽しい。演奏しているピアニストの後ろ姿というのはあまり見られないだろう。昨日は細長い会場を横に使い、外から見て右側の壁に沿ってミュージシャンが並び、客席はそれをはさむ設定だった。ミュージシャンの正面の席は壁際に一列だけ。

 昨日の演奏を見ても、『オーランドー』のサントラは楽しみだ。寒さがゆるんで、半月もどこかほっとしている顔だった。(ゆ)

 最近はブランドン・サンダースンとカーヌーン3がマイブーム。
ひとつ、イベントのお知らせです。 


「名プレイヤーで辿るバウロンの歴史とこれから」
バウロン研究会特別編レクチャーライブ
おおしまゆたか+トシバウロン+長濱武明

日時:9月23日(水・祝)
   開場 14:30 開演 15:00
   懇親会 17:30〜19:30
場所:東京・神田 Live & Bar SECOND STEP
(都営地下鉄新宿線 小川町駅・東京メトロ丸の内線 淡路町駅より徒歩2分)
料金:
レクチャーライブ:一般 2,500円+1ドリンク
         学生 2,000円+1ドリンク
懇親会(飲み放題 軽食付):一般 3,000円
              学生 2,000円
申込・問合せ:
バウロン研究会

 なお、定員が36名だそうです。
予約申込は SECOND STEP でもできます。


 今回もバゥロン演奏者としてはわが国トップのお二人(ついでながら、世界でも指折り)に加わっていただきます。音楽は聴いて見てナンボなので、百聞百見は一語に如かず。

 バゥロンというのはアイリッシュ・ミュージックの楽器のなかでもちょっと特別の位置にありますね。打楽器というだけでなく、楽器としての生い立ちというか経歴というか、その由来がこれほど明瞭にわかっているのも伝統音楽では珍しい。

 ブズーキとならんで、伝統音楽の柔軟性をよく表してもいますが、一方でこちらはモノ自体は昔からあったもので、手近にあるものを利用してしまう伝統音楽の貪欲さもうかがわれます。

 そして、その使われ方の展開というか発達というか、演奏法からアンサンブルへの組み込み方まで、これほど短期間にこれほど変化した楽器もまた、世界中見渡しても珍しいでしょう。もはや「単なる」タイコではなく、メロディまで演奏できてしまうほど。しかもそれが複雑で大型のシステムでもデジタル機器でもなく、一見単純な片面太鼓というのが驚きでもあります。さらにその変化はまだまだ継続中。

 アイリッシュ・ミュージックの枠をこえて、広く使われだしたバゥロンですが、それがどのようにして現在の姿を備えるにいたったか、を鍵となるプレーヤーを軸に振り返ってみよう、というのが今回のイベントです。春に出しました『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』にもとづくイベントの一環でもあります。先日、アイルランド大使公邸で開催されたイベントのバゥロン版というところ。

 今回はしゃべりだけではなく、映像や音源の資料もあわせて利用すべく準備中です。(ゆ)


P.S.
 これがうまくいけば、他の楽器でもやってみたいんですよね。イルン・パイプなんか、すごく面白いと思うんですが。




 5月に横浜で開かれるアフリカ開発会議を記念して
セネガルのパーカッション・グループが来日するそうです。

 セネガルというとコラ伴奏のグリオがまず浮かびますが、
この人もグリオだそうな。
何度も来日してもいるようです。

 セネガル版『リバーダンス』というとちょと違うか。
でもこういう人たちが踊らないはずはないですし。
それにこの手のパフォーマンスは見てなんぼです。
うーん、見たいなあ。

 呼ぶのはジャパン・ファウンデーション、つまり国際交流基金で、
時間、料金等、詳しいことはこちら

--引用開始--
 ジャパンファウンデーションは、TICADIV(第4回アフリカ開発会議)開催に
あたり、セネガル初の人間国宝ドゥドゥ・ニジャエ・ローズ氏率いる
パーカッショングループ(総勢20名)のコンサートを開催します。
華麗な衣装とタムタムを身にまとい、一糸乱れぬ壮大なシンフォニーと
グルーヴは必見・必聴です。
 TICADIV開催地の横浜公演では、日本を代表する太鼓奏者ヒダノ修一氏の
スーパー太鼓プロジェクトと共演する他、「アフリカン・フェスタ」の
オープニングでの演奏や地方公演なども行ないます。
--引用終了--

<横浜公演>
05/16(金)横浜・関内ホール
05/17(土)横浜・関内ホール
共演: ヒダノ修一スーパー太鼓プロジェクト

05/20(火)東京国際フォーラム・ホールC
共演: 金刺凌大、金刺由大(は・や・と

05/21(水)茨城・筑波ノバホール
05/22(木)新潟: 魚沼市小出郷文化会館
05/23(金)宮城: えずこホール(仙南文化センター)

というタイトルで、Butter Dogshatao さんがインドの打楽器奏者と赤澤淳さんとのトリオでライヴをするそうです。

 この打楽器奏者のナンダさんは先日関西在住の人たちとやはりインドとケルトの共演をやられた方で、とんがりやまさんがレポートされてます。


 加えて、昨日行われた最初の顔合わせのセッションの録音が hatao さんのサイトで聞けます。
その1
その2
その3

 初顔合わせでこれですから、1ヶ月経って練上げたらどうなるのか。こわいくらいです。
 録音残してくれえ。



現在来日中のインドのパーカッション奏者、ナンダ・クマールさんとの共演が決定しました。

【時】08/28(月)19:00-21:00
【ところ】京都烏丸 irish pub field
【出演】
  hatao: アイリッシュフルート
  Nantha Kumar: タブラ、ガタム、ガンジーラ
  赤澤淳: ブズーキ
【料金】ノーチャージ、カンパ制
【内容】ケルト音楽とインドのパーカッションとの
  セッション。特別な決め事を排除して、即興的に演奏して
  みたいと思います。ケルト音楽のように、インド音楽の
  ように・・。
【みどころ】
  ナンダさんの演奏はすごいです! ソロで10分以上
  タブラを演奏されます。すごく引き込まれます。
  生でこれほどの演奏はなかなか見れないかも。
  超・超絶です。
  即興の得意な3人の自由奔放なケルト音楽もこの日
  ならではです。近日、音源を公開します。

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