クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:抗がん剤

 東日本大震災の10日前に大腸がんの開腹手術を受けてから10年経ちました。あの日は病院2階の病室にいました。揺れがおさまってから、建物の外に避難するかもしれないとのことで、点滴の柱を持って階段を1階に降りました。結局、外には出ず、しばらくロビーでテレビを見ながら待機してから、2階にもどり、家に電話して家族の無事を確認しました。

 10年経って、今のところがんの再発、転移は出ていません。先日の人間ドックで肺に影があると言われて、すわ、来たか、と青くなりましたが、CT では何もありませんでした。

 抗がん剤の Folfox の後遺症は残っています。足の指先はずっとしびれています。おそらくこのまま一生、しびれているのでしょう。それは慣れましたが、最近になって、左の親指と中指の先端、爪の下あたりが圧迫されると痛むようになりました。たとえば朝眼が覚めると、布団に圧迫されて痛くなっています。外見は何もなく、念のため整形外科にも行きましたが、レントゲンを撮ってもやはり何もなく、原因がわかりません。圧迫されなければ、痛みはありません。このまま痛みが続くようなら、次は神経科に行くかと思っています。痛みを意識しだしたのは今月に入ってですが、ひと頃よりは痛みの程度が軽くなってきたような気もします。

 55歳でがんが判明して10年目。50、60というキリよりも、45、55 という5のつく年に体の転換があるようなので、今年もあるだろうと覚悟しています。老化にもとづく変化は逃げられません。運動して、進行を遅らせるくらいです。なるべく遅らせるべく、雨以外は毎日散歩しています。おかげで体重は70キロをだいぶ切り、BMIは22.7。まあだメタボリック・シンドロームだと言われましたが、これは厚生省の陰謀なので無視します。

 温暖化も確実に進行していて、10年後にどうなっているのか、見るのはコワくもありますが、それでもやはり見たいものです。それまでにはここでも地震があるでしょうから、それもなんとか生きのびたい。地震には一応備えてるつもりですけど、いざとなると、あれをやっときゃよかった、これもやらねばならなかった、と思うことでありましょう。今考えているのはポータブル電源をどうするかなあ。(ゆ)

 先週の腹部エコー検査では問題なく、この結果を見て、抗がん剤治療はめでたく終了となりました。点滴のために入れてあるポートも摘出しましょう、ということになりました。年末に CT 検査をして、その時、一緒に取り出すことになります。局部麻酔をして簡単な手術を受けるので、一泊はした方が良いらしい。

 全身の発疹とかゆみが抗がん剤によるものか、もう一度抗がん剤治療をやってみないと明確にはわからない、とはいうものの、それを試してみるというのも正直願いさげでありました。

 手術後3年は注意せよ、とあらためて釘を刺されたのはもちろんですが、とまれ、ひとまず肩の荷がおりて、ほっとした気分です。

 まだ抗がん剤の影響が消えたわけではありません。発疹とかゆみは、抗がん剤の影響だと信じていますが、まだ残っています。体のあちこちに、ぽつんと出て、いきなり猛烈にかゆくなる症状です。かゆくなるのでそこを見ても、まだ何もないこともあります。とにかくそこに薬を塗って、しばしがまん。薬を塗ったからといって、市販のかゆみ止めのようにすうっとかゆみが消えるわけではありません。むしろ、一時的にはかゆみが強まるようにも感じられます。とにかくかきむしらないようにがまんがまん。

 紫外線もまだまだ今のぼくの肌には強いらしい。昨日も、午前中、どうしても昼前にすませなければならない買物やら何やらで外出しました。日傘、というより、普通の雨傘を日傘代わりに使っているのですが、とにかく傘を持って出て、顔と両手からは日光をさえぎっていました。さえぎっていたつもりなのですが、帰宅したとたん、手やら顔やらにぽつぽつとかゆいところがふき出しました。手の甲はしばらく出ていなかったのですが、ひさしぶりに出ました。

 夜になると、またあちこち猛烈にかゆくなり、そのたびに起きあがって薬を塗ります。3時頃まで、それを繰り返していました。

 やはり日中の外出は避けねばならないようです。今月末のヘッドフォン祭には行かないわけにはいかないので、屋外にいる時間を極小にするべく努めるしかないでしょう。さいわい屋内のイベントですから、外にいる時間は多くないはず。雨が降らないまでも、曇ってくれるとうれしい。ドラキュラの気持ちがわかります。いや、ほんと。

 とはいえ、とにかく抗がん剤治療が終わったことで、カラダにもココロにも、そしてフトコロにもかかっていた大きな負担がなくなります。1ヶ月、治療を休んだわけですが、肝臓の値が明確に改善されていました。主治医が驚くほどで、ひょっとすると、畏友川村龍俊さんに教えられて以来、朝晩続けているリラックス体操の効果も加わっているかもしれません。この体操についてくわしくはこの本をどうぞ。
 

 これまでは抗がん剤という「毒」を飲んではその効果に耐えるという、受け身の姿勢にならざるをえなかったわけですが、これからはもう少し積極的になれそうです。当面は東大出版会から出たばかりの『ユーラシア世界』全5巻と Subterranean Press から出ているロバート・シルヴァーバーグの短篇全集既刊分の読破、それにライバーの「ファファード&グレイ・マウザー」シリーズとハインラインの『栄光の道』から始める "Sword & Sorcery" の勉強、かな。物欲ではゼンハイザーの Momentum と CEntrance の新DAC/PHA、HiFi-M8。そうそう、近くはマーティン・ヘイズ&デニス・カヒルの来日がありますね。ドラキュラよろしく日が沈むと徘徊することが多くなるでしょう。さいわい(?)これからは夜が長くなるし。

 まずは、今月末のヘッドフォン祭には行くつもりです。また Jaben のブースのあたりにウロウロしてるはずです。そちらで、よしなに。(ゆ)

は方法が変更になりました。点滴から服薬になり、一番強い薬がなくなりました。

 1日3回、食事の前後1時間ははずす、というルールで飲むのは、慣れてしまえば気になりませんが、時にめんどうではあります。

 この形で4週間服用、1週間休み。

 ということでやったんですが、副作用がきつくなりました。

 今年の夏の暑さのせいか、薬が蓄積されていたせいか、体のあちこちに発疹が出て、むしょうに痒くなる症状がひどくなりました。顔や手、腹など、真黒なできものが重なり、リンパ液がじくじくと滲み出るという状態。

 服用を始めて5週間後の診察で、これを一目見た主治医は即座に、「一度抗がん剤治療を停止しましょう」。痺れを軽減するために飲んでいた漢方薬も停止。かゆみ止めの抗アレルギー剤が処方され、紹介状を持たされました。それを持って翌日近くの皮膚科へ。塗り薬が処方されました。かなり強力なものらしく、顔用には別の塗り薬。それをたっぷりと塗るようにと実例を示されました。

 せっせと塗ったせいか、現在はかなり症状は良くなり、薬も中くらいの強さのものに代わりました。が、まだ体のあちこちがかゆくなる症状は続いています。皮膚科の先生によると、これが抗がん剤によるものかどうかは、もう一度抗がん剤を試してみないとわからない、もともと皮膚があまり丈夫な方ではないようだから、加齢によって現れたものかもしれない。ということで、とにかくかゆみがあらわれたら即座に薬を塗るように、との指示。この先生はあまり内服薬がお好きではないのか、抗がん剤治療中といういささか特殊な条件のせいか、内服は出ませんでした。正直言うと、出してもらいたいところでしたが、たしかに肝臓には負担がかかっているので、なるべく休ませてやるのも大事ではあろう、とあえて申請はしませんでした。

 抗がん剤による痺れを軽減する漢方薬も停止になったので、痺れは少しもどってきました。

 それにしても痒いというのは、まことに辛いものである、と今回思い知らされました。痛みは鼓舞される、というと言い過ぎかもしれませんが、まだ対抗のしようもある気がしますが、痒いのはひたすら意気を阻喪させられだけです。つっかえ棒になるものがありません。また、何かに集中することもできない。本を読む、音楽を聴く、ブログを書く、といったことにまるで意欲が湧きません。最低限、どうしてもしなければならないこと、メシを食う、クソを放る、先に延ばせない仕事をする。それものろのろとする。眠るのも体のあちこちが代わる代わる痒くなるので、寝入ることもできません。一番ひどい時は、夜中前に床についても、明け方まで輾転として、ふと気がつくと昼過ぎ、という状態が続きました。紫外線を絶対的に避けなければならないので、昼間外出できず、したがって散歩もできません。買物すら、日没後。吸血鬼生活です。

 そんな中でまだしもそれほど消極的ではなかったのは料理でした。料理というより、食事のしたくをすること、と言うべきでしょう。適度に体を動かし、適度に頭も使うという点では、食事のしたくほどバランスのとれたものはそう多くない、と思いながらやっていました。

 ここ2、3日、急激に気温が下がったおかげもあるのか、かゆみは軽くなってきています。今は顔が一番痒いかな。それと腹、腿の付け根と太股の裏側、尻、背中、臍、などが時おり無性にかゆくなります。それっとばかり薬を塗るわけですが、もう少し頻度が収まってくれないと、おちおち遠出もできません。ライヴの最中にいきなりシャツをめくって塗るわけにもいきません。

 もうしばらくは吸血鬼生活を続けねばなりますまい。来月初旬、次の診察とエコー検査があり、その結果によってまた治療が再開されるかもしれず、そうなると痒みももどってくる可能性もあります。汗をかくことは少なくなりますから、痒みもそうひどくはならないのではないかと期待。

 気温が下がってきて、夕暮に飛ぶこうもりの数が増えたようでもあります。飛ぶことに特化しただけあって、スピードも敏捷性も抜群。鈍重な蝉なんかよりもよほど飛ぶのがうまい。シートンの動物記に渡りをする大型のこうもりの群れが燕の集団を追いこす描写がありますが、さもありなん。一昨日あたりはまだつくつく法師ががんばってましたが、昨日はまったく聞こえませんでした。陽が落ちて、地表の虫たちの声がひときわ大きくなっています。(ゆ)

ふいー、ちょうど1年回りました。来月頭に検査をして、その結果で今後の治療法をどうするか、決めることになります。
    
    今回はちょっと辛かった。ここ2回ほど、比較的楽になっていたので、今回もそんな感じかと楽観していましたが、なかなかそう簡単に問屋は卸してくれません。
    
    どういうところが辛い、と明確に言えるのではなく、あれこれ積み重なって、全体としてなんとも辛いとしか言いようがない状態。
    
    薬で抑えられた吐き気が、それでも蓋の隙間から洩れてたち登ってくるのがひとつ。全身のダルさがひとつ。手足の痺れがひとつ。何だかよくわからないものがまだ他にもいくつもあるらしい。
    
    吐き気止めの薬の副作用で、入院二日目は確実に便秘になります。もっともカマのおかげで、三日目の朝にはたいてい便通があるのですが、寒さが加わると、今度は下り気味になります。何度もトイレに通ったり、腹がごろごろいったり、という具合で、便通が不規則になるのも結構辛い。
    
    手足の痺れは近頃左半身が強くなってきて、肘を中心に左腕全体が痺れることがあり、また左足の親指が痺れを通りこして痛くなることが増えてきました。そのことを医師に伝えたら、今回は点滴する薬剤のうち、その副作用を起こす要素の量が減りました。それで少しは楽になるかと期待もしたのですが、かえって辛くなったのにまたがっくり。もっとも、このために支払いはかなり減りました。
    
    病院の食事はもうまったく受けつけなくなってしまい、やむなく冷蔵庫に入れなくてもよいものをいくつか、持ちこみました。どうしても菓子の類か果物になります。かろうじてパンだけは食べられるので、三日目の退院直前の朝食はパンとフルーツだけにしてもらいました。今後も点滴入院することになれば、同じパターンにしてもらうことになるでしょう。
    
    昨年末くらいから、退院した日の昼食もしっかり食べるようにしていて、ここ2回ほど、退院直後の調子が比較的楽だったのもそのせいかと思っていました。が、今回はさらにしっかり食べたにもかかわらず、カラダもアタマもヘヴィなまま。今週の水曜日、つまり点滴開始からちょうど1週間たって、ようやく霧が晴れてきた感じです。
    
    家事をしたり、こたつに入ったりしている分には支障ありませんが、外に出るととたんに動きが鈍いのがわかります。走るということが考えられません。速歩もムリ。カラダにまかせて、ゆっくりと、一歩ずつ歩くことしかできません。それはそれで良いと考えるようにしていますが、たまには歯痒くなることもあります。
    
    抗がん剤も昔に比べれば遥かに良くなっているのでしょうし、ぼくの場合はがんを抑えるというよりは、再発予防が主眼なので、間隔も長くなっていますから、これでも楽な方でしょう。であっても、これをもう1年続けるのは願いさげにしたいものですし、何年かたってまたやるのも何とか避けたい。
    
    がんを抱えるのは、明日があるかどうかわからない宙ぶらりんの状態に耐えることでもある。と1年抗がん剤治療を受けてきて思いしらされたことであります。
    
    がん細胞は四六時中体内で生まれていて、ふだんは免疫システムが病巣になる前に叩いているわけです。それが何らかの理由で免疫システムが破れたり、一時的に機能不全になってがんができる。その理由には心身症的なものもある由。ぼくのがんのことを聞いたある鍼の先生は、5年くらい前に何かひどいショックを受けたんですね、と言ったそうな。そう言われると心当たりが無いこともない。がっくり落ちこむと免疫力も下がるらしい。
    
    とすれば、一方で宙ぶらりんに耐えながら、やはり明日があると信じて、今日を充実させることが大事になってきます。一分一秒を惜しむ、というよりは愛おしみながら、ゆったりと構え、焦らず、されど休まず、一歩一歩歩んでゆく。そのこと自体を楽しむ。
    
    窓のすぐ外の染井吉野の蕾がふくらんで、雨に濡れています。虫たちも姿を現してきました。以前はとかくうるさいと感じていたんですが、フクシマからこちらは、ともに放射能を生きる仲間に見えてきました。それがこちらの勝手な思い込みであることは承知しています。ほんとは、迷惑かけてすまんなあ、とあやまるべきところではあります。もっとも、たぶんかれらは、ぼくら人間が滅びさった後も、かれらなりの生活を元気に続けてゆくでしょう。病気になる、つまり危機になると、人間、謙虚になりますね。
    
    とまれ、来月の検査まで、できるかぎり健康度を高めるように、この記事の下の方にあるリラックス体操をまずは毎日やってます。(ゆ)

大腸がん切除のための開腹手術を受けてからちょうど1年たった。
    
    傷口は半分ほどは消えている。最終的には薄く色が着いた線が残るくらになるのだろう。
    
    消化機能も問題なく、毎日おおむね快便。便の色も良い。
    
    このところ、抗がん剤にも慣れたか、点滴の間隔が長いのでうまく調節できているのか、体がひと頃よりも軽い。来月の検査の結果が良いものである可能性が、少しは高くなっていることを期待している。

    1年たってみて、あらためて、生きながらえた、と実感する。消化管ががんでほぼ完全にふさがれていたのだから、点滴という技術がなければ、必要な栄養もとれず、餓死していたはずだ。貧血の方も、輸血ができない時代/地域であったならば、改善されたはずもない。どちらにしても、1年などはとうてい保たず、昨年の夏までにはおさらばしていただろう。いや、樹々がやわらかい緑に芽吹くのも見られなかっただろう。
    
    手術前には、最悪の場合、余命2年と言われた。幸い、結果は最善で、どうやら最低でもあと4年は生きられそうだ。精進すれば、もう少し長く行けるだろう。とはいえ、1時間に1回胸のレントゲンを撮られるのに相当する、ないしそれ以上の量の放射線を1日24時間、365日浴びているわけだし、内部被爆も完全に防ぐことはできない。だから、生きている間、まっとうな暮らしが続けられるという保証はどこにも無い。免疫力を上げる食事をとり、くつろぎ、笑って免疫力を増やし、適度の運動をして体力を養うしかない。
    
    とまれ、今は、文字どおりの「余生」、おまけの寿命、ということになる。
    
    生きながらえたとして、それが良いこととかぎらないのは無論だ。これからもっとひどい体験、大きな苦痛がやってくる可能性は高い。あの時、死んでいた方がマシだった、と思うこともありえる。
    
    とはいうものの、なのだ。くたばってしまうよりは、生きてその苦痛を耐えしのぶ方を、選べるものなら選びたい。死にそこなってみると、そう思える。1年でも生きながらえたことを、心底、ありがたいと思う。
    
    死に対する態度として、ひとつの理想は、塩野七生が『神の代理人』で描くところの、教皇アレッサンドロ六世、「史上最悪の教皇」と悪評高いロドリーゴ・ボルジアのものだ。


    サヴォナローラの説教の中に、人間の一生はすべて、いかに良き死に方をするか、その一事のためにのみ存在する、という一句があった。だが、私は別の言葉が気に入っている。古のユダヤ人の言ったという「生ける犬は、死せる獅子にまさる」。

    私も、いくつかのことをやり遂げたうえで死にたいと思っている。だが、もしその途中で、神が、おまえの生命は終ったと言われたとしたら、私は、やりかけている仕事をそのままにして、神の御召に応じるだろう。仕事の未完成を嘆かず、自分の運命も呪わずに。

    だがそれまでは、犬のようにでも生きるつもりだ。私は、必ず訪れてくる死を常に考えているほど、自虐的には出来ていない。死が肩をたたいた時は、自分を彼の手にまかせるだろう。しかし、それまでは生き続け、自分の仕事をやり続けていくつもりだ。

    犬のように生きるのだから、「良き死」とか、どういう死に方をしようかなどということには心を使わない。たとえ、路傍で野たれ死にしようとも、悪評の中に死のうとも、また、死後に後世の非難攻撃を受けようとも、私には少しも関係のないことなのだ。

    大切なことは、決してあせってはならないということだ。反対に危険なことは、自分のやっていることが無駄なことかもしれないとか、未完成に終るかもしれないと思いだし、それではならないと考えた末、あせって思いつめてしまうことである。


    今生きている時間は「余生」なのだから、何をやろうと最初から「無駄」だし、「未完成に終わる」ことも目に見えている。だから、あせる心配はまず無いだろう。
    
    一度、死の淵を垣間見てしまうと、「犬のように」生きることも当然になる。
    
    とすれば、少しはこの理想に近づけたのかもしれない。
    
    さらにその元をたどれば、がんのおかげ、とも言える。
    
    手術日から10日後に東日本大震災が起きた。ベッドに寝ていると、揺れがよくわかる。揺れだしてすぐ「地震だ」と吾知らず声にだして言っていた。ふだんそんなことは言わないのに。
    
    震災は列島を、この「世界」を根柢から変えた。この1年、列島の住民の大半は、何も変わっていないと自らに思いこませようとしてきたようにみえる。しかし、「黒船」が来てしまった世界はもう元にはもどれない。ことばの本来の意味での「復興」は、この複合災害では不可能だ。
    
    前回、列島が蒙った複合災害、太平洋戦争による荒廃では「山河」は残っていた。今回はその「山河」が壊れた。と姜尚中氏は言う。視点を変えて言い換えれば、かつて都市部にとって太平洋戦争が意味したことを、震災は東日本の農村にとって意味しているのだろう。しかも今回の方が、空間的にも規模が大きく、時間的にもより長期にわたる。
    
    大腸がんは、この個人を変えた。どう変わったか、どの程度変わったかは、自分ではわからないが、変わっていることはわかる。今のところ変わったとわかるのは、何でもゆっくりやるようになった。
    
    元来は短気でせっかちな方で、結果もすぐ出ないとキレてしまう。ものごとはさっさとかたづけ、できるだけフリーに使える時間を確保しようとしていた。それで確保した時間をさてどれだけ活用できるかは二の次だった。
    
    きっかけは抗がん剤の副作用である。とりわけ点滴から帰った直後などは体が重い。ささいなことでもゆっくりとしかできない。一応日常生活に支障がないレベルまで回復しても、空気が粘着性になったような、あるいは水の中を動くような感じでしか動けない。そうなってみると、それはそれでいいじゃないか、と思えだす。まあ、思わざるをえない。なにしろ、ささっとやろうとしても、体も心も全然反応しない。しようとしているのかもしれないが、実際にはできていない。だから、日常の暮らしのごく細かいことからして、ゆっくりと着実にするようになった。
    
    そうしてみると、これがなかなか気持ち良いのである。時間をかけるから、ていねいにやるようにもなる。やりそこなって、舌打ちしながら同じことを繰り返すことも減る。同じことをもう一度やらなければならないのは、結構苛立つ。それがささいな、とるにたらないことだったりすると、よけい腹が立つ。これはカラダにもココロにも良くはない。免疫力も落ちる。それが減るから、ますます気持ち良い。
    
    さらに、たとえ失敗しても、あまり気にならなくなった。いくらゆっくりと着実にやろうとしても、まちがったり、やりそこなったりすることは度々起こる。この Folfox という抗がん剤は有効成分に末梢神経に対する毒性をもつものがある。それで手足が痺れるという副作用が出るが、それだけではないだろう。神経そのものも多少とも影響を受けるはずで、痺れは漢方薬で軽くなっても、神経全体の働きは鈍くなる。それを受ける体の動きも鈍い。失敗も多くなるのだ。
    
    それが気にならない。失敗するのも当然と思えるようになった。それは薬のせいで、いわば「自己責任」ではない、と思えるからだろうか。そういうところも無いとは言えないが、それだけではない開き直りもあるように思える。人間なんだから、失敗するのはあたりまえ。失敗したらまたやりなおせばいい。何度でも、やりなおしましょう、できるまで。どうしてもできなかったら、他のやり方を試しましょう。そういう気構えが起きるようになった。
    
    ちょっと不思議なことではある。
    
    近頃、気がつくと歩く速度が速くなっていたりするが、そういう時 は、意識して速度を落とすようにしている。意識しないとゆっくりにならないのは、それだけ体が回復してきたか、薬に慣れてきたのだろう。

    内と外と、二重の大きな、ひょっとすると根柢からの変化の過程は、まだ始まったばかりだろう。その変化の行く末を実感するぐらいは、この先も生きながらえたい。この世で何が面白いといって、変化のプロセスの現場に立会い、目の当たりにすることほど面白いことはない。
    
    たとえ、苦痛のさなかに死んでゆくことになるにしても、やっぱりこの人生面白かったなあ、と思いながら死んでゆきたいと願う。(ゆ)

特にこれといった事件もなく、無事終わりました。前回は比較的楽だったんですが、今回はまた着実に副作用が強くなった感じです。帰宅した翌日にたまたま冷水に手をひたしたら、ビリビリっときました。漢方薬のおかげで手足指先の痺れはわりあい軽くすんでいるので、今回初めて、あっと驚きました。きちんと薬を飲んでいたら、次の日からは、すこしぴりぴりくるものの、これまでとそれほど変わらないくらいにおちつきました。
    
    吐き気も2日目、木曜日の夕食頃から明確になって、こちらは火曜日になってようやく消えました。点滴が始まる前から飲む吐き気止めのイメンドという薬は3日間1錠ずつ飲んで1週間効くそうですから、本来、こんなものなのでしょう。どこか具合が悪いわけではなく、薬のせいとわかっているのでまだ耐えられますが、これがもっと強く長く続くのは、やはり避けたい。
    
    だるさはいつもと同じで、こちらはとにかく時間がたって体からある程度、薬が抜けるのを待つしかありません。寝てるしかないにしても、寝たからといって軽くなるわけでもないようです。むしろゴミ捨てとか、郵便を取りにとか、ちょっと歩くだけでも、少し楽になるような気もします。とはいっても、散歩に出るところまではいきません。
    
    一番はっきりと感じたのは、排泄すると少しの間ですが楽になること。大でも小でも、体のなかに溜めておくとだんだん苦しくなります。出すとすっきりするのは健康なときでも同じですが、それ以上にほっと溜息が出ます。とにかく排泄は頻繁に、が点滴直後をできるだけ楽にするコツでしょう。病院でも排尿の量を測らされるのは、入れた薬はどんどん出さねばならないからでもありますね。入れて出すなかで有効成分が貯まってゆくのでありましょう。
    
    病院で点的中はほとんど眠ってました。入院前、ちょと眠りが足りなかったこともあったのでしょうが、うとうとしてはトイレに起き、またうとうとすると食事の時間、またうとうとすると検温タイム、という調子。読書などはまるでする気になれず。音楽もあまり聴かず。例によって湧いてくる空想とも妄想ともつかないものをぼんやりと追うともなしに追いかけ、薬が順調に減ってゆくか、ときどき見定める。
    
    これがなかなか順調に減ってくれません。予定どおりなら、入院3日め、金曜日の朝10時には終わるはずですが、これまで予定どおりに終わったことがない。たいてい30分から1時間遅れます。やはり一刻も早く退院したいわけです。退院して、好きなものを食べたい。今回は、退院したら昼メシは牡蠣フライか鍋焼き饂飩、と思いながら、終わるのを待ってました。
    
    帰宅後も空腹になると吐き気が出てくるので、ちょこちょこと食べてました。この時ばかりは太ることなど気にせずに食べます。リンゴがうまい。
    
    入院から1週間以上たってから、かゆみが出てきました。点滴開始直前に飲む痒みどめがこれまで効いていたのか。副作用の痒みは痒いところの皮膚を見ても、何も源らしいものが見当りません。肌のすぐ下、表皮ではなく、その下が痒いようにも思えます。また、どこに出るかが行き当たりばったり。無性に痒いかと思うと、いつの間にか、消えています。
    
    というわけで、うまくいけばあと2回。何とか無事、終わってくれと祈る毎日であります。(ゆ)

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