クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:数学

07月24日・日
 Washington Post Book Club のニュースレターで紹介されていた Alec Wilkinson, A Divine Language の電子版の無料サンプルを読んで、そのまま購入。



 
 この人はノンフィクションに分類される本を10冊書いていて、これが11冊目。前作 The Ice Balloon は飛行船で北極探索をしようとしたスウェーデン人の話。その前 The Protest Singer はピート・シーガーについての短かい本。その前 The Happiest Man In The World は型破りのホームレス、ポッパ・ニュートリノの「伝記」。デビュー作 Midnight は25歳で就職したマサチューセッツ州ウェルフリート、つまりケープ・コッドの先端から一つ南の町の警察官としての経験を書いたもの。警官になる前はバークレーでロック・ミュージシャンをしていて、ディランのバンマスであるトニィ・ガルニエと一緒にやったこともある。LSD の体験もしている。60年代末の話だ。デッドヘッドではないまでも、デッドを知らないはずはない。
 かれの父親の一番の親友は The New Yorker の小説担当編集を長らく勤め、作家でもある William Maxwell で、父親の頼みで Midnight の原稿を読んでもらえたことから、マクスウェルに「弟子入り」し、The New Yorker で働きはじめる。1952年生まれ。
 ウィリアム・マクスウェルはもう1人のマクスウェル、マクスウェル・パーキンスの次の世代を担った編集者でその担当作家の1人はサリンジャーだった。『ライ麦畑』を書き上げたとき、サリンジャーはマクスウェルの別荘に車を走らせ、そのベランダで夫妻に読んで聞かせた。別荘があったのはケープ・コッドで、それが建つ同じ道沿いの家でウィルキンソンは育った。おかげでかれはウェルフリートの2,000人の住人を知っていた。警官になれたのはそれが理由だ。
 出たばかりの A Divine Language は65歳になったウィルキンソンが一念発起して、数学をモノにしようとする。1年余りのその奮闘の記録、だそうだ。副題に "Learning Algebra, Geometry, and Calculus at the Edge of Old Age"。数学の才に恵まれてシカゴ大学の教授をしている姪の支援を受けながら、若い頃に失敗した数学をイチから学びなおそうとする。高校を卒業できたのは、数学の試験でカンニングをしたおかげだった、という告白からこの本は始まる。老いを感じる時、人は何かを学ぶことで知的衰退を遅らせようとする。新たな言語を学んだり、詩集を1冊暗誦できるようにしたり、という具合だ。ウィルキンソンの場合はなぜか数学だった。それも趣味ではなく、きちんと学問の訓練を受ける形でだ。数学のあのにやにや笑いを吹きとばしてやりたいという一心からである。
 当然、著者は、その本道を学ぶだけでなく、数学を様々な角度から攻めたてる。その歴史、作ってきた人びと、数学者集団の特性、数学と世界の関係。電子版の無料サンプルを読んでいるだけでも、著者の博識には読書欲をかきたてられる。断片が引用される本を次から次へと読みたくなる。
 そしてもちろんここには老いること、困難な課題にくらいついていくこと、そしてこの世界の表に現れない本質的な秩序についての考察が鏤められている。
 この人の文章は一見簡潔でドライだが、ユーモアがこぼれ出る。こぼれ出るのがわかっていて、こぼれ出るのに任せているようだ。あるいは本人にとっては特段ユーモラスなことを書こうとしているわけではなくても、読んでいると思わず腹を抱えて笑ってしまう。読むのがたいへん愉しい。
 というわけで、The Protest Singer と The Happiest Man In The World も注文してしまった。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月24日には1987年と1994年の2本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 金曜日。開演7時。ディランとのツアーの一環。
 第一部、第二部がデッド、第三部がデッドをバックにしたディラン。第一部と第二部のデッドのみのセットの全体が《View From The Vault IV》で DVD と CD で別々にリリースされた。DVD の方は第一部5〜7曲目〈Friend Of The Devil〉〈Me And My Uncle> Big River〉が省かれている。
 また第三部5曲目〈I Want You〉が《Dylan & The Dead》でリリースされた。
 見た人によると、最初にディランがソロで数曲やったらしい。
 第3の黄金時代へと向かいはじめている時期で、演奏はすばらしい。第二部はほぼ1本につながった70分。

2. 1994 Soldier Field, Chicago, IL
 日曜日。32.50ドル。開演6時。このヴェニュー2日連続の2日目。トラフィック前座。
 前日に比べると劣るようだ。ガルシアだけが不調というわけではなく、〈It Must Have Been Roses〉ではウィアが二度も歌詞を間違えた。とはいえ、輝きはまだところどころあり、印象に残るショウという人もいる。
 二度、同じところの歌詞を間違えた、ということは、歌詞をいちいち思い出しながら歌っているのではなく、自動的に口をついて出てくるようになっているのだろう。それが何かの拍子に、別の似たフレーズと置き換わってしまうわけだ。
 デッドのレパートリィは少ないときでも50、1980年代には常時100を超え、1987年以降は150曲前後で推移した。これはステージで実際にやった曲を集めて、重複を除いた数だ。デッドは演奏する曲をその都度その場で決めている。ということは150にも及ぶ数の曲はいつ何時でも演奏できたわけだ。動画を見ると初期の頃から歌詞は一切見ていない。150曲の歌詞はすべてアタマにというよりも、カラダに刻みこまれていたわけだ。
 1993年頃になってガルシアが歌詞を忘れたり、間違えたりすることが多くなるのが問題になる。これは動脈硬化で、脳に十分な量の血液が行かなくなるためだと後にわかる。当面、本人の努力でどうなるものでもないから、歌詞を映しだすプロンプターを用意することで解決をはかった。だからここではガルシアが「正しい」歌詞をうたっていて、ウィアの方が違う歌詞を同時にうたってしまった。それも二度も。ウィア自身、自分で自分に呆れはてたとかぶりを振るのが画面に大映しになったそうだ。
 もっとも調子の良い時でも、歌詞のスタンザの順番が入れ替わったり、スタンザの前半が次のスタンザの後半にくっついたり、ということは稀ではない。むしろ、歌詞のまちがいがまったく無いショウの方が少ないと言ってもいい。デッドの場合、調子が良い時には、そういう「ミス」はまったく気にならない。あはは、またやってら、と聴いている方は文字通り笑って許す。ミスが気になるのは、全体の演奏の質がよくないときだ。
 この年の夏のツアーは長く、このショウでは疲れている様子が目立ったらしいが、この後08月04日のジャイアンツ・スタジアムまで、4箇所、7本残っている。(ゆ)



 macOS も iOS もニューラルエンジンというものを使って、いろいろ便利な機能を実現している。あるいは深層学習によって、自動車の無人運転が可能になる。ならば、その深層学習とは何者なりや、というので読んでみる。数式は出てくるけれども、その数式がどういうことを言っているかを文章でも書いてくれているので、まったく雲を摑むようなものでもない。漠然とした感じは摑めた気もする。

 既存の数学の原理から要請されることとは反対のことをやってうまくゆく、という点。論文やライブラリなどのリソースがオープンで無料になっているので、多種多様な研究者が参入して大いに湧いている点はたいへん面白い。Nature は掲載料が高く、機械学習領域専門誌を作ろうとして反対運動が起きた。学術雑誌は講読だけでなく、掲載にも高いカネをとるそうな。このインターネット時代にもう古いんではないか。論文の評価にはカネと手間がかかる、というのはやはり前世紀までのシステムだろう。科学論文の審査にも深層学習は使えるんじゃないか。もちろんそれだってタダではないだろうが、何人かに読ませて判断させるのは「非科学的」に思える。科学としてもヴィクトリア朝の科学だ。

 科学者、研究者という、いわば「象牙の塔」の住人だけですんでいたものが、動機も性格もめざすところも異なる多種多様な人びとがどんどん参入することで、研究が活発になる。しかも、研究が進んである程度原理なども解明できてから実用化される、というのではなく、原理なんかわからなくても、どんどん実用化され、また成果を上げている。あるいはこれは18世紀からの産業革命当時に起きていたのと似ているのかもしれない。もっとも今回は起きていることのスピードと、それ以上に次元のレベルが異なる。少なくとも分子レベルではない。原子以下のレベルだ。分子レベルが従来の数学と機械学習、データ分析手法になるだろう。おそらくは量子レベルで起きているので、深層学習原理の解明には、相対論、量子論もからんでくるだろう。ここにはそういう角度からのアプローチは無いが、想像はつく。とすれば、ますます多種多様な分野、立場の人びとの参入が必要になる。多様性の確保はここでも至上命題なのだ。そして同様のことは、他の分野、例えば天文学でも起きている。

 もう一つ面白いのは、自然言語など、そのままではデジタル化になじまないデータをデジタル化する技術。埋め込み embedding というのだそうだが、ここでは「りんご」をベクトル=複数の数値の列に変換する例があがっている。これもやりようによって結果が変わってくる。つまり「巧い」デジタル化ができる方法論、手法が探索されている。

 従来、数学で証明されていたことと真向から対立する現象が起きている。その現象がなぜそうなるのか、わからない。深層学習で起きているのはそういうことだ。こういう本を読んでいると、パラダイム変換の速度と仕組みも変わってくるのかと思う。自分が依拠しているパラダイムをどんどん変換していかないと科学者として生きていけなくなる時代が来ているのではないか。馴染んだパラダイムにしがみついて一生を終えられる時代はやはり古いものではないか。Nature はそういう時代の産物に見える。

 あるいはパラダイムというのはもっと大きな枠組みなので、それはなかなか変えられない、ということだろうか。 

 実験と理論それぞれの結果が合わないことはこれまでにも起きている。熱輻射の問題は有名だ。そこから量子力学というまったく新しい概念を扱う学問が生まれた。同じことが繰返されるとすれば、深層学習の原理の解明から、データを扱う全く新しい学問が生まれる可能性もある。本書末尾で、深層学習のその向こうを望んでいるのもそういうことだろう。そして今回、そういう学問を生みだすのは、プランクとかアインシュタインといった傑出した個人ではなく、集団の知、ネットワークでつながった集団の知能になるだろう。それもまたスリリングなことだ。なぜなら、そうなればそうした集団の知を働かせる原理の解明あるいは応用も可能になるだろうからだ。そこには生身の人間の知能だけでなく、AI も入ってくる。むしろ、おそらく生身の人間だけでは、もはや解明できないところまで来ているのではないか。

 深層学習が実際に何をやっているのか、というのは、正直、よくわからない。データ解析とその評価と適用による推測、ということなのだろうが、同じような計算を何度も繰返す、前の層の計算結果を次の層に入れ、パラメータを変えて繰返すことで、より適正な結果、予測や判断を出す、らしい。キモは1回で全部すませるのではなく、いくつもの層に分けること。しかも、一つの層の中でも前段と後段で役割分担したりもする。それと適切なパラメータを探りあてて適用すること。そうすることで、従来の分析手法では扱えなかった、非連続の関数や入力された場所に応じて異なる滑らかさを持つ関数でしか表せないデータや現象の分析が可能になる。前者はごくわずかに異なる値を入れると大きく結果が異なる現象、たとえば水が氷になるようなもの、後者は画像の上部と下部で構造が異なる画像データや時間に応じて形状が変わる信号データだ。

 適切なパラメータを探りあてる方法は、結果のわかっている既存のデータを使って、同じ結果が出るようなパラメータの最適値を探す。ニューラルネットワークが過去の事例から得られたデータを再現できるならば、新しいデータにもおおむね適合できるだろうという考えがベースになっているそうだが、この考え方は一応無理が無いと思えるけれども、一方でニューラルネットワークのようなまったく新しい原理で動いているらしいシステムに対して、本当にそれでいいのか、と問いたくもなる。今のところ、それでうまくいっているからいいじゃん、とも言えるけれども、ニューラルネットワーク、深層学習の本当の実力が発揮されていないのではないかと言ってみたくもなる。本当はもっといろいろな、画期的なことができるのに、その能力のごく一部、それも非常にプリミティヴな部分しか使っていないのではないか。たとえばエネルギー効率が次元が異なるほど良い動力システムの開発とか、人体の免疫システムの再生法の発見とか、あるいは大地震・大噴火の予測も可能なんじゃないか。あるいはこういうことすら、従来の価値観の延長にあるので、全然別の何か、インターネットのような、誰も存在すら想像できなかった何かが生まれるかもしれない。そこを解明するためにも、深層学習の原理の解明が必要なわけだ。

 深層学習のような現在只今、猛烈な勢いで研究が進んでいる分野の現状を紹介するのはたいへんな仕事で、本書はかなりうまくやっている。数年後には時代遅れになってしまっているとしても、現時点での理解、現状の現場報告として史料になってもゆくだろう。それにこういう数学の基礎研究のようなものはニュースになりにくい。専門家がど素人にもわかるように書いてくれるのは貴重だ。もちろんど素人の方でも、数式に恐れをなしてばかりいないで、わかるところだけでも食らいついてゆく努力は必要だ。(ゆ)

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