クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:文化

9月17日・金

 Washington Post 書評欄のニュースレター Book Club が報じる The National Book Festival の記事を見ると、詮無きこととは知りながら、うらやましさに身の震える想いがする。今年は10日間、オンラインでのヴァーチャル・イベントで100人を超える著者が、朗読、講演、対談、インタヴュー、質疑応答などに参加する。児童書、十代少年少女、時事問題、小説、歴史と伝記、ライフスタイル、詩と散文、科学というジャンルだ。こういう一大イベントが本をテーマに開かれるということ、それを主催するのが議会図書館であるということ、そして、これがもう20年続いているということ。これを見ると、本というもの、そしてそこに形になっている文化への態度、考え方の違いを感じざるをえない。わが国は先進国、BRICs で唯一、本の売上がここ数十年減り続けている国だ。パンデミックにあっても、あるいはパンデミックだからこそ、世界のいわゆる四大出版社は昨年軒並、売上を大きく伸ばした。



 このフェスティヴァルは9/11の直前、2001年9月8日に、当時のブッシュ大統領夫人ローラの提唱で始まった。オバマ大統領夫人ミシェルは他のことに忙しくて、このフェスティヴァルを顧る余裕が無かったので、イベントは大統領一家からは独立する。当初はワシントン、D..のナショナル・モールで屋外で開かれていたが、2013年からワシントン・コンヴェンション・センターに移る。参加者はのべ20万人に達していたそうだ。そして昨年パンデミックのためにオンラインに移行するわけだが、これによって逆にワシントン、D..のローカル・イベントから、本物の全国=ナショナルなイベントになった。

 夫人はブック・フェスティヴァルから離れたにしても、オバマ氏は読書家として知られ、今でも毎年シーズンになると、推薦図書のリストを発表して、それがベストセラーになったりする。それもかなり幅広いセレクションで、政治、経済、時事に限られるわけではない。 わが国の元首相でこういうことができる人間がいるだろうか。大統領としては最低の評価がつけられながら、元大統領としてはベストと言われるカーター氏も一家あげての読書家で、夕食に集まるときには、各々が食卓に本を持ってきて、食事をしながら本について語りあう、というのを読んだこともある。

 と顧ると、本、活字、言葉をベースとした文化の層の厚さの彼我の差にため息をつかざるをえない。わが国では本が売れないのも無理はない、という諦観にとらわれてもしまう。確かにわが国にはマンガがある。しかし、マンガでは表現できないものもまたあまりに多いのだ。それにマンガが表現しようとしないことも多すぎる。

 こういうイベント、お祭がアメリカ人は大好きで、またやるのが巧い、というのもあるだろう。本のイベントの原型はSF大会ではないかとあたしは思っているけれど、ワールドコンだけでなく、今ではローカルな大会=コンヴェンションやスターウォーズ、スタートレック、ゲームなどのジャンル別の大会も花盛りだ。もちろんどれも今は中止、延期、オンライン化されているけれど、今後も増えこそすれ、減ることはあるまい。

 コミケやそれにならったイベントはわが国において、こうしたフェスティヴァル、コンヴェンションに相当する役割を果たせるだろうか。そもそものイベントの趣旨、志向しているところが違うようにも見える。それともわれわれはモノの売買を通じてでないと、コミュニケーションを始めることができないのだろうか。

 ブック・フェアも性格が異なるように思える。とはいえ、わが国でもこのナショナル・ブック・フェスティヴァルに相当するイベントを開くとすれば、例えば東京ブック・フェアが門戸を広げ、著者や編集者をより巻き込む形にすることが近道ではないかという気もする。

 パンデミックはそれまで見えなかったことをいろいろ暴露しているけれど、文化、とりあえず活字文化の層の薄さもその一つではある。

 ほんとうは活字文化だけではない。文化全体、文化活動そのものが薄いことも明らかになった。パンデミックの前、ライヴや芝居や展覧会などに青年、中年の男性の姿がほとんど無いのが不思議だったのだが、何のことはない、彼らは仲間内で飲むのに忙しくて、そんなものに行っているヒマが無かったのだった。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月17日には1966年から1994年まで8本のショウをしている。うち公式リリースは2本。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前日に続き、同じヴェニュー。


2. 1970 Fillmore East, New York, NY

 4日連続の初日。料金5.50ドル。三部制で第一部はアコースティック。ガルシアはペダルスティールを弾き、ピグペンはピアノを弾くこともあり、New Riders Of The Purple Sage David Nelson が一部の曲でマンドリンで参加。第二部が30分弱の NRPS。第三部がエレクトリック・デッド。この4日間はいずれも同じ構成。


3. 1972 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD

 このヴェニュー3日連続の最終日。料金5.50ドル。夜8時開演。《Dick’s Picks, Vol. 23》としてアンコールのみ除いてリリースされた。前半の〈Bird Song〉(10分超、ベスト・ヴァージョンの一つ)、〈China Cat Sunflower > I Know You Rider〉(11分、Rider のジャム最高!)から〈Playing in the Band〉(18分、最高!)への並び、それに後半、1時間超の〈He's Gone > The Other One > Sing me back home〉のメドレー。CD3枚組でも全部入らない黄金の72年。ロック・バンドのコンサートの契約書には普通「最長演奏時間」の項目がある。どんなに長くなっても、これ以上はやらないよ。デッドのショウの契約書には「最短演奏時間」の項目があった。どんなに短かくても、これだけは演奏させろ。長くなる方は無制限。

 演奏はピークの年72年のそのまた一つのピーク。1972年は公式リリースされたショウの本数も、ショウ全体の完全版のリリースの数でも30年間のトップだけど、この年のショウは全部出してくれ。と、こういう録音を聴くと願う。まあテープ、今ならネット上のファイルやストリーミングを聴けばいいんだけどさ。でも、公式リリースは音が違うのよねえ。


4. 1973 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY

 同じヴェニュー2日間の初日。だが、翌日のショウには疑問符がつく。開演午後7時。後半2曲目〈Let Me Sing Your Blues Away〉から最後まで〈Truckin'〉を除き、トランペットのジョー・エリスとサックスのマーティン・フィエロが参加。その〈Let Me Sing Your Blues Away〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 ピアノ左端、ガルシアのギター右。キースのヴォーカルはピアノの右。そのキースの声とピアノの間でフィエロがサックス。彼はロック・バンド向けのサックス奏者ではある。だいぶ慣れてきて、キースはピアノも愉しそうだ。


5. 1982 Cumberland County Civic Center, Portland, ME

 料金10.50ドル。夜8時開演。〈Throwing Stones〉初演。前半最後から2番目。


6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 9本連続の8本目。


7. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の2本目。開演夜7時半。


8. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA)

 3日連続の中日。開演夜7時。(ゆ)


松井ゆみ子
『アイリッシュネスの扉』
ヒマール
ISBN978-4-9912195-0-4

アイリッシュネスの扉表紙


 アイルランドは不思議な国だ。ここを1個の独立した地域と認識しはじめてから、ずっと不思議なのは変わらない。ヨーロッパの一角なのに、洗練されていない田舎であるその在り方に、妙になじみがある。ユーラシア大陸の東西の端という、地球上でおよそ最も遠いところなのに、その佇まいに親近感が湧いてくる。初めてハワイ、オアフに行って島の中を走りまわった時にも、この風景は妙になじみがあると感じた。そのなじみのある感覚が、アイルランドの場合、視覚だけでなく、聴覚や、五感の奥の感情から湧いてくる。ひと言で言えば人なつこい、その人なつこさが「なつかしい」。


 同じケルトの他の地域では、こういう人なつこさはあまり感じない。他をあまり知らないこともありえる。どこも同じく音楽を通じてのつきあいで、その中でアイルランドの音楽は妙に人なつかいと感じる。


 その同じ人なつこさをこの本に感じる。人なつこいけれど、ベタベタしない。やたらすり寄らない。読み終わって、その辺にころがしておいて、表紙が目に入ると気分がよくなる。沈んでいた気分がふうわりと浮かんでくるし、ブリブリ怒っていれば、思わず吹きだしてしまう。中身の何か、イメージとか文章の一節がふっと浮かんでくる。


 アイルランド人には何でも屋さんがよくいるそうだ。手先が器用で、モノを使って何かをやる、日曜大工、家の修繕、電気器具の手入れ、何をやらせてもパッパッとかたづける。


 もっとも著者も手先が器用だ。カメラも料理もぶきっちょにはできない。あたしのようなぶきっちょにできるのは、スチーマーをレンジでチンくらいで、オーヴンを使いこなすなんてのは、悪夢になりかねない。


 器用な著者は、せっせと焼き菓子つまりクッキーやケーキを作っては、これを餌にそういう何でも屋さん、ハンディマンたちを駆使して、田舎の、歴史の詰まった家に暮す。ここはアイルランドであるから、もちろんのこと幽霊はつきものだ。アイルランドの幽霊はあまり悪さをしない。最悪でもじっとしているだけで、悪い結果はたいていがそれを見る側に問題があって起きる。幽霊のせいではない。


 幽霊がいるのにはもう一つ理由があって、アイルランドでは家が残っている。著者が住んでいる家も築二百年とかで、増築されたり、水廻りが改修されたりはしていても、根幹はそのままだ。いくら幽霊でも、完全に取り壊されたり、建替えられては残れないだろう。そして、幽霊もそれが取り憑いている家もまた人なつこい。


 いや、あたしは別にアイルランドの家に住んだことがあるわけじゃない。ただ、この本を読んでいると、そういう、長く建っていて、歴史の積み重なった、人なつこい家に暮している気分になってくる。ここでは歴史はどこか遠く、頭の遙か上を通りすぎてゆくものではなくて、毎日その中で暮しているものになる。毎日の暮しがそのまま歴史になってゆく。家だけではない。歴史に包まれ、浸りこんで暮していると、家を囲む自然、人、音楽、料理、食材、スポーツ、イベント、あらゆるものが、歴史になってゆく。歴史はエラい人たちが派手にたち回って作られるものではなくて、ごく普通の人たち、ハンディマンやフィドラーやカントリーマーケットの売子やハーリングの選手やも含む人たちの毎日の暮しから生まれるのだ、と実感が湧いてくる。


 やはり、アイルランドは不思議な国だ。


 著者は手先が器用なだけではなくて、敏感でもある。目も耳も鼻も舌も、そして皮膚もいい。いくら歴史の詰まった家に住んでも、あたしのように鈍い人間は、たぶん何も感じないだろう。幽霊など出ようものなら、スタコラ逃げだすにちがいない。


 著者は五感をいっぱいに働かせて、その歴史を感じとる。とりわけ触覚だ。触覚は指の先だけで感じるものではない。顔や腕など、外に出ているところだけで感じるものでもない。全身で、時にはカラダに沁みこんできたものを筋肉や血管や内蔵で感じたりもする。自覚しているかどうかは別として、著者は触覚をめいっぱい働かせている。文章も写真もその触覚で感じたものを形にしている。


 例えば著者が今住んでいる家を建てたパーマストン。ものの本などで現れるのは、武力をバックにしたいわゆる砲艦外交を得意技として、大英帝国建設に貢献した強面のタカ派の顔だ。パーマーズドンと著者が呼ぶ人は、大飢饉で打ちのめされた人びとを少しでも助けるノブリス・オブリージュに忠実で、どこか翳のある、憎めないところもある風情だ。


 触覚を働かせるには、触れなければならない。つまり距離が近い必要がある。一方であまりに近寄ると、周りが見えなくなる。木は見えるけれど、森が見えなくなる。触覚であれこれ感じながら、著者はちゃんと森が見えているようでもあって、これまた不思議だ。


 アイリッシュネスの扉はむろん1枚だけではない。いくつもの扉があって、開ける扉によっていろいろなアイリッシュネスが現れる。一番愉しいのはやはり食べることらしい。食材や料理、作ったものを食べたり売ったりすることになると、筆またはペンまたは鍵盤が踊りだす。


 飲むことも愉しいのだろうが、酒は自分では(まだ)作れないので、食べることとは別らしい。著者は馬も好きなはずだが、今回はあえて封印したようだ。代わりに出てくるのはトラクターだ。アイルランドの田舎の足はトラクターなのだそうだ。ちょっと訊いたら、わが国の農家にとってなくてはならない軽トラは、アイルランドには無いそうだ。


 扉を開けては覗きこみ、あるいは中へ入って歩きまわる。しばし暮してもみる。いや、そうでもないか。暮していると、ふと扉が開くのかもしれない。丘の下の妖精の王国への扉のように。ひょっとすると、気づかずに抜けていたりもするのかもしれない。後で、あああれが扉だったかと納得されるわけだ。呼ばれて入ることもあるのだろう。そこで見、聞き、嗅ぎ、味わい、そして肌や内蔵で感じたことを書いた。報告というと硬すぎる。遠く離れて住む誰かへの手紙、読む人がいるかもわからない、そう、壜に入れて海に流す、風船にゆわけて風に飛ばす手紙。本を書くのはそれに似ている。


 アイルランドらしい、というのはあたしにとっては不思議なことに等しい。特別なものではない。一見、ごく日常的、ありふれたように見える。けれどよくよく見ると、そこにそうしてあること、そこで人がしていることはヘンなのだ。どこがこうヘンだ、と指させない。そもそもあのベタつかない、群れない人なつこさからして不思議だ。この本も不思議だ。ここがおもしれえっと指させない。これだ!と膝を叩くわけでもない。でも、読んでみると気分は上々、著者がいい暮しをしている、そのお裾分けをもらったようだ。何度読んでも減らない。むしろ、噛むほどに味が出てくる感じがある。


 この本は造りも不思議だ。わが国の本は再販制で、返品されたものをまた出荷する。そのためにカバーがついている。カバーだけ換えて新品として出荷するわけだ。でも、この本にはカバーがない。表紙は本体についている。洋書のトレード・ペーパーバックの感覚だ。カバーがないと、本はこんなにすっきりするのだ、と英語の本では見慣れている姿に改めて感じいる。


 表紙、業界用語でいう表1、裏表紙、同表4がカラー写真なのは普通だけど、表紙の裏、表2と、裏表紙の裏、表3も同じくカラー写真なのは新鮮だ。この4枚も含め、中の写真はすべて著者の手になる。この写真も人なつこく、不思議だ。人など影も無い写真でも人なつこい。著者の手になるアイルランドの写真集ってなかったっけ。


 著者が住んでいるスライゴーとドリゴールとロスコモンの州境のあたりのローカルな伝統音楽家たちのポートレート集にすてきな言葉があった。


 何か新しいたチューンを覚えると、その曲を知ってる奴が他にいないかと探しはじめる。いればそれを一緒に演奏できるからだ。それが愉しいからだ。


 音楽の極意はいつでもどこにどんな形であっても、これ、つまり共有の確認なのだろうけれど、アイルランドではそれがとりわけ剥出しで、あの不思議な人なつこさはここから生まれているのか、とも思える。


 この本もまたたぶんそういう作用をするのだろう。この本を読んだ奴が他にいないか、探しはじめる。どうしてもいなけれぼ教える。覚えたばかりの曲を教えてやって、一緒にやる。この本を教えて、読ませて、一緒に盛り上がる。巻末のおやつを作りあって、食べてみる。あたしが作ったとしたら、それはそれはひっでえしろものができるだろう。家族すら見向きもしないようなそいつを、食べてやろうという人はいるだろうか。(ゆ)


 小尾俊人の名を初めて意識したのはおそらくその死亡記事を読んだときだったと思う。それから彼の著書『昨日と明日の間―編集者のノートから』や『本は生まれる。そして、それから』を読み、感嘆した。こういう人がやっていて、なるほどみすず書房はああいう出版活動ができたのか。

 もっとも小尾の著書から関心は丸山眞男に向かい、『戦中と戦後の間』には書き手と編集者の双方にまた感嘆した。この本は大学4年の時に出ていて、当時はベストセラーともなっているのに、まったく関心を抱いた覚えがない。今読むとあらためて教えられることが多い。その一方で、丸山眞男はこれ1冊読めば自分には充分という感じもする。ここには丸山のエッセンスが凝縮されているように読める。これもまた小尾の編集者としての力の発露だろうか。

 そこで遠くなった小尾の名に再び遭遇したのは本書の元となった『みすず』の連載が始まった時だった。隔月のその連載を毎回待ちかねて、息を詰めて読んだ。人生の師匠である著者の文章ということもあったが、それ以上に内容に惹きつけられた。まるで自分の足跡を消そうとしているような小尾が消しそこなった断片をひとつずつ拾いあつめ、小尾の姿を再構成してゆく著者の粘りに感嘆した。だから、本書の出版もまた待ちこがれた。

 いざ手にとった本の厚さにまず驚いた。こんなに加筆されたのかと思ったら、半分は小尾自身の1951年の日記だった。

 この本のキモは小尾の日記だ。表紙にもわざわざ刷ってある。著者が書いた部分はこの日記への序文にも解題にも見える。この日記が残された理由は不明かもしれないが、どこかに小尾自身の意図が働いているはずだ。小尾自身、これを残すと判断したとき、後に誰かが読むことは承知していたはずでもある。読ませたいとはまではいかなくとも、読まれてもいいとしていたはずだ。

 いや、そうではないかもしれない。死後も残すとまではっきり意識はしなくても、抹殺するにはどこか忍びない、ためらわれるものがある。そうして処分せずにおいたものを小尾自身忘れてしまい、後に残された、偶然の産物ということもありそうだ。

 いずれにしても、この日記は残るべくして残った。それはどうやら動かない。

 「密儀、偲ぶ会なし」という遺志は、自分が生み、育てた出版社からその評伝が出るという結果を生んだ。むろんこれはタイトルにもあるように、生涯をすべて辿ったものではないが、おそらくは最も肝心の部分、最も波瀾に富み、それゆえ劇的でもある時期の基本的様相を明らかにしている。

 葬儀や偲ぶ会は本来死者のためのものではない。遺された人びと、家族や親族や、あるいは親しい人びとが故人を失なった悲しみを耐えるための方便である。小尾がそのことを承知していなかったとも思えないが、他人の「自由」を奪ってまで己の人生をコントロールしたい、と考えたのか。自分がみすずから退いた時、実弟はじめ古くからの社員も数名、一緒に退社させた人だ。いやこの場合おそらくそうではなく、もっと単純にはにかんだのだろう。自分がそういうものの対象になることが、どうにも気恥ずかしく、そのことを思っただけで尻の穴がむずむずしてきたのだろう。あるいはそれはまた、170頁にあるエピソードの対象となった人物のように、「生き残りの復員組」のひとりとして「怯んだ」と言えるかもしれない。

 この「怯み」のよってくるところとして著者は「サバイバーズ・ギルト」と自己の卑小化とこれ以上の傷を避けたいとする恐れをあげている。同じ著者の『敗戦三十三回忌―― 予科練の過去を歩く』に描かれた学徒出陣組の姿、いきなり将校にされて自分より年下の者たちを特攻に出す順番を決める役割を負わされた人間が、平気でいられるはずはない。義務としてやらされたとはいえ、そうしたことをやった人間に、そんな晴れがましい(と見える)ことをやる、あるいはやってもらう資格があるのかと疑ったとしても無理はない。そう疑うことでかろうじて心の平衡が保てるだろう。

 しかし、そのはにかみがこんな書物を生もうとは、まさにお釈迦さまでもない、生身の人間である小尾にわかろうはずもない。葬儀や偲ぶ会は一時的だ。いかに盛大な葬儀や偲ぶ会でも、すんでしまえば終りである。そういうことがあったという記録は残っても、それだけだ。書物は違う。本は共時的には小さなメディアだが、通時的には途方もなく大きくなりうる。そして一度書物として出たものはいつまでも残る。終らないのだ。この出版を小尾本人が知ればはずかしさに身悶えするだろうが、もう遅い。本は書かれ、出てしまった。小尾俊人の姿はここに永遠に留められることになった。そして小尾とは無縁な、小尾の名前すら聞いたことのない人間が、かれがどのような人間で何をしようとし、またしたかを知ることが可能になった。

 そしてこの日記だ。唯一残されていた個人としての記録。この年小尾は29歳。老成した人間とひどく若い人間が同居している。緊張感が張りつめている一方で、ひどくのんびりしているところが同時にある。また同じ人と頻繁に会う。ひと言でいえば人なつこい。これだけ毎日いろいろな人間と会って話をしながら、いったいいつ本を読むのか。おそろしい速読だったという話も、前に出てくる(62頁)が。クルツィウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』を原書で読んだりもしている。あの篠田一士が音をあげたシロモノだ。後にみすずが邦訳を出す。四半世紀前、当時定価12,000円の本を、値段をまったく見ずに注文し、ブツが来てから仰天した。

 277頁、七月三日の「スマさん」須磨彌吉郎の注にあるラインバーガー『心理戦争』1953にもあらためて蒙を啓かれる。そうだった、みすずはこれを出していたのだ。図書館で取寄せてみると、ページを繰ったらバラバラになりそうな本がきた。少し読んでみれば翻訳もしっかりしているし、父親の方のポール・ラインバーガーの話も少し出てくる。孫文の顧問だった人物で、訳者は戦前、上海でこの父親に会ってもいる。小尾はコードウェイナー・スミスを読んだろうか。ちなみに『心理戦争』Psychological Warfere はこの訳書の出た後に第二版が出ている。Gutenberg に電子版がある。

 著者は月刊『みすず』創刊時から、小尾の依頼で出版界に苦言を呈するコラム「朱筆」を出版太郎の名で書き続けた。後、2冊の大冊にまとめられる。もともとは海外の書物の翻訳権仲介として、小尾からはむしろ嫌われた関係で始まりながら、このことをはじめ、様々な面で著者が小尾から相談を受け、協力していることはここにも出てくる。それだけ小尾が信頼した人物にその評伝が書かれたことは、小尾にとってやはりふさわしい。

 それにしても、岩波、筑摩、みすずとわが国を代表する出版社の3つが信州人の創設になるというのは面白い。(ゆ)

 今回の30本の内容はすでに公式サイトには発表されているが、あらためて書き出してみる。

01. 1966-07-03, Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
02. 1967-11-10, Shrine Exposition Hall, Los Angeles, CA
03. 1968-10-20, Greek Theatre, Berkeley, CA
04. 1969-02-22, Dream Bowl, Vallejo, CA
05. 1970-04-15, Winterland, San Francisco, CA
06. 1971-03-18, Fox Theatre, St. Louis, MO
07. 1972-09-24, Palace Theater, Waterburry, CT
08. 1973-11-14, San Diego Sports Arena, San Diego, CA
09. 1974-09-18, Parc Des Expositions, Dijon, France
10. 1975-09-28, Golden Gate Park, San Francisco, CA
11. 1976-10-03, Cobo Arena, Detroit, MI
12. 1977-04-25, Capitol Theatre, Passaic, NJ
13. 1978-05-14, Providence Civic Center, Providence, RI
14. 1979-10-27, Cape Cod Coliseum, South Yarmouth, MA
15. 1980-11-28, Lakeland Civic Center, Lakeland, FL
16. 1981-05-16, Cornell University, Ithaca, NY
17. 1982-07-31, Manor Downs, Austin, TX
18. 1983-10-21, Centrum, Worcester, MA
19. 1984-10-12, Augusta Civic Center, Augusta, ME
20. 1985-06-24, Riverbend Music Center, Cincinnati, OH
21. 1986-05-03, Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
22. 1987-09-18, Madison Square Garden, NY
23. 1988-07-03, Oxford Plains Speedway, Oxford, ME
24. 1989-10-26, Miami Arena, Miami, FL
25. 1990-10-27, Le Zenith, Paris, France
26. 1991-09-10, Madison Square Garden, NY, NY
27. 1992-03-20, Copps Coliseum, Hamilton, Ontario, Canada
28. 1993-03-27, Knickerbocker Arena, Albany, NY
29. 1994-10-01, Boston Garden, Boston, MA
30. 1995-02-21, Delta Center, Salt Lake City, UT

 メンバーは歴代11人に加え、1990〜1992年はブルース・ホーンスビィが参加し、1991年にスペシャル・ゲストとしてブランフォード・マルサリスが加わる。

 全米各地13の州、カナダ、それにフランス。収容人員1,000人のフィルモア・オーディトリアムから2万人のデルタ・センターまで。

 カリフォルニア、8本
 ニューヨーク、4本
 マサチューセッツ、3本
 フロリダ、メイン、フランス、各2本
 ロード・アイランド、コネチカット、ニュー・ジャージー、ミシガン、ミズーリ、オハイオ、テキサス、ユタ、オンタリオ、各1本

 全米に散らばってはいるが、カリフォルニアを除けば、やはり東部が多い。またニューヨークは特別で、サンフランシスコ以外でデッドの最も強固な地盤があり、ファンの絶対数ではサンフランシスコを上回っていた。ニューヨークでデッドのショウが売り切れにならない日が来るとは思えない、と70年代初めにあるプロモーターが言っていた。1992年のカナダは最後の海外公演。

 2月、2本
 3月、3本
 4月、2本
 5月、3本
 6月、1本
 7月、3本
 9月、5本
 10月、8本
 11月、3本
 1月、8月、12月は無い。

 8月にも12月にも、デッドは優れたショウを残している。8月は <<SUNSHINE DAYDREAME>> として出た1972年のオレゴン州ヴェネタがあるし、12月は毎年大晦日の年越しショウがある。1月だけはショウ自体が少ない。だいたいにおいて、1月は休息の時期だ。一方秋は文字通り収獲の季節だった。

 7月3日と10月27日はそれぞれ2本ある。前者は1966年と1988年、後者は1979年と1990年。

 ヴェニューが重なるのはマジソン・スクエア・ガーデンで、1987年と1991年。

 こうした結果は意図的であるよりは偶然のなせるところがある。すでに100本以上のショウが公式にリリースされており、重複を避けたからだ。

 1968年のグリーク・シアターがCD1枚。
1966、1967、1969、1970、1975、1977、1986、1987の各年が2枚組。
その他が3枚組。
一番短いのが1968年、グリーク・シアターでの65分14秒、7トラック。
時間が一番長いのは1974年、フランスはディジョンの3時間25分12秒。
トラック数が一番多いのは1972年、コネチカット州ウォーターベリィの27トラック。
30本合計73時間41分32秒、575トラック。
平均2時間27分23秒、19トラック。
時間の計測は iTunes による。

 各CDのジャケットは共通デザインでそれぞれ色を変えている。似た色もあるが、一応全て違う色にしてある。水星から火星までの軌道が中心の稲妻髑髏の太陽を囲み、各惑星の位置はコンサートの日のものと推測する。また、該当するコンサートについての関係資料、記事の切り抜き、契約書や旅程表、ポスターやラミネートが掲載されている。

30tats66+95


  上が1966年、下が1995年。

 録音エンジニアの分担。

Owsley Stanley — 1966, 1969, 1970, 1972
Dan Healy — 1967, 1976, 1979-1988, 1990—1993
Grateful Dead — 1968
Rex Jackson — 1971
Kidd Candelario — 1973, 1974
Betty Cantor-Jackson — 1975, 1977, 1978
John Cutler — 1989, 1994, 1995

 1967年と1987年の録音はジェフリー・ノーマンがミックスダウンをやりなおしている。

 マスタリングはジェフリー・ノーマンとデヴィッド・グラッサーが分担。各々の分担は記されていない。

 1967年から1978年までの録音は Plangent Processes の John K. Chester と Jamie Howarth によってアナログ・テープからデジタルへの移行とワウフラッター修正が行われた。Charlie Hansen @ Ayre Acoustics にSpecial thanks がある。Ayre はニール・ヤングが作ったデジタル・プレーヤー Pono の根幹部分を担当している。それからすると、このセットを聴くのに最もふさわしいプレーヤーは Pono であろう。

 この技術陣の貢献は大きい。まだ初めの5本ほどを聴いただけだが、音質の良さは従来の公式リリースと比べても一段レベルが違う。楽器の分離と位置が明瞭で、スペースも大きく広い。就中、ヴォーカルの生々しさはライヴ音源であることを忘れさせる。もともとベアの録音は音が良いが、その良さが十全に活かされている。

 さて、それでは30年の旅に発ってみよう。(ゆ)

 グレイトフル・デッドの結成50周年記念ボックスセット 30 TRIPS AROUND THE SUN の出荷が始まったよ、という通知が来てほどなく現物がやって来た。発送したらトラッキング・ナンバーも知らせるということだったが、通知もなく、いきなりモノが DHL でやってきた。輸入消費税をとられた。

30TATS outbox 2

30TATS inbox
 

 ひと通り開封し、スクロールで番号を確認してから、本をとりだす。電子版も買ってしまったら、本の PDF がダウンロードできたので、ひととおり眼は通していた。

30TATS book
 

 この本は英語書籍のふつうのハードカヴァーの大きい方のサイズ。たぶん人工とおもうが、革装のソフトカヴァーというべきか。糊付け製本ではなく、糸綴じで、背がオープンになっており、ぺたんと開くことができる。全288ページ。

 半分の151ページがニコラス・メリウェザー Nicholas Meriwether による "Shadow Boxing the Apocalypse: An Alternate History of the Grateful Dead。

 反対側が表紙になって135ページの "Dead Heads Tell Their Tales"。

 2つの間にボックスセット全体のクレジットと、バンドの歴代全メンバーの名前と担当がある。

 つまり、2つの本が背中合わせになっている。なので、ぺたんと開けるようになっているのだろう。これはなかなか良い製本で、たいへん読みやすい。

 印刷やレイアウトはしっかりしていて、写真や図版も鮮明。これは PDF ではちょっとかなわない。あちらは拡大するとボケてしまう。

 PDF 版には、これに加えて、デヴィッド・レミュー David Lemieux による "Show Notes"と、ジェス・ジャーノゥ Jesse Jarnow による "Song Chronology"がある。


 "Show Notes" はCD版では個々のショウのCDパッケージに印刷されている。30本の録音のそれぞれについて、リイシュー・プロデューサーのレミューが簡潔に解説する。それぞれの年でその録音を選んだ経緯を述べてから、聴き所をあげる。デッドといえども当然調子の良し悪しはあるわけで、1980年代前半などは選ぶのに苦労しているし、もちろん1975年は大問題だ。この年4回だけおこなわれたコンサートのうち、1回は30分だけ、1回はテープが無く、1回は《ONE FROM THE VAULT》として既に出ている。残りの1回が今回収録されたわけだが、これがリリースの要望も多かった9月28日、ゴールデンゲイト・ブリッジ公園でのフリー・コンサートだ。

One From the Vault
Grateful Dead
Arista
1995-10-24

 

 各年での収録コンサートの選択にあたっては公式に未発表のもののうち、その年を象徴し、ハイライトとなるようなものを選んだということだが、それに加えて、なるべく珍しい選曲、組合せを提供しようともしている。

30TATS CDs


 "Song Chronology" は、スクロール、巻紙に印刷されている。PDF版ではタイトルの下に、演奏された時期とひとことがある。巻紙ではそれぞれが、どのショウで演奏されているかを色分けした表になっている。順番は時系列だ。〈I Know You Rider〉(Trad.)に始まり、〈Childhood's End〉(Lesh)に終る198曲。オリジナルは全て入っているが、カヴァーは一部(19曲)で、ディランやチャック・ベリーは入っていない。

30TATS scroll


 メリウェザーは University of California Santa Cruz の図書館に置かれた Grateful Dead Archives の管理人を勤める。このエッセイの長さは70,000語超。邦訳すれば400字詰原稿用紙換算で700枚以上。300ページの文庫なら優に2冊分。グレイトフル・デッドの歴史を書いた本の中で最も短かいものになり、ライナー・ノートとしてはおそらく史上最長だ。

 1965年から1年毎に1章として、デッドの歴史を書いてゆく。ボックスセットに選ばれている毎年のコンサートのコンテクストを提供することが主眼だ。まずその年を総括し、そして大きな出来事をほぼ時系列で追う。ライヴ本数、レパートリィの曲数、新曲の数などの数字も押える。主なツアーの時期と行き先、リリースされた録音、そしてショウや録音へのメディアの反応を述べる。その際、上記アーカイヴからの資料が、ヴィジュアル、テクスト双方からふんだんに引用される。'60年代、'70年代、'80年代、'90年代について各々イントロがあり、さらに全体の序文と結語がつく。この全体の序文と結語、それにショウについての注記が公式サイトに公開されているが、これはダウンロードしたものよりも拡大されている。

 とりわけ目新しい事実が披露されているわけではないが、従来あまりなかった角度からの分析は新鮮だ。レパートリィの数など具体的に上げられると、あらためて驚かされもする。例えば1977年にデッドが演奏したレパートリィは81曲。これだけでも驚異的だが、1980年代後半には数字はこの倍になる。

 1970年代初めにデッドは精力的に大学をツアーしているが、これによってデッドの音楽に出逢ってファンになった学生たちが後にデッドヘッドの中核を形成するという指摘は目鱗だった。デッドのメンバーやクルーで大学を出ているのはレッシュくらいだが、デッドの音楽と歌詞に学生たちは夢中になったのだ。

 これで思い出すのは1970年代後半、ある東部の大学でのベニー・グッドマンのコンサートでの話だ。体育館を改装した多目的ホールの会場にやってきたグッドマンは中に3歩入って内部を見渡すと、床に唾を吐いて言った。
 「くそったれ、またファッキン体育館か」
そして回れ右して出てゆき、客電が落とされる5分前までもどってこなかった。ちなみにまだシットとかファッキンとかまともに印刷できなかった頃で、グッドマンのような大物の口からこういう言葉が出たことに聞いた方は驚いている。この時の演奏はなかなかご機嫌なものではあるが、目立つのは女性ヴォーカルの方で、グッドマンの存在感はあまりない。

 むろん、デッドとグッドマンでは、天の時も地の利もまるで違うから、同列には論じられないが、2つの世代の交錯がぼくには象徴的に見える。

 メリウェザーが繰り返して描くのは、デッドの音楽がうみだす共同体生成とヒーリングの効果である。内外からかかる圧力やそこから生まれる軋轢、様々な障碍も音楽が帳消しにし、乗り越えることを可能にしてゆくその作用だ。

 最も印象的なシーンのひとつは1995年3月オークランドのスペクトラムでの3日連続公演の3日め、ファースト・セットの最後に突如、録音から20年ぶりに〈Unbroken Chain〉が初めてステージで演奏されたところだ。デッドヘッドの unofficial anthem になっていたこの曲がついに目の前で演奏されるのを見た聴衆の歓声は演奏を掻き消すほどだった。その瞬間がデッド体験最高のハイライトになったファンも多かった。

 ちなみに、これはレシュの息子のリクエストによるそうだ。

 そして7月9日の最後のコンサート。ぼろぼろになりながら、なお持てる力をすべて絞り出して〈So Many Roads〉をうたうガルシアの姿。スピリチュアルな響きさえ湛えたその姿は聴衆だけでなく、バンド仲間をも動かし、レシュはガルシアがアンコールとした〈Black Muddy River〉の絶望と諦観の余韻を〈Box of Rain〉の希望と決意へ拾いあげる。この一節はメリウェザーの力業=トゥル・ド・フォースだ。

 グレイトフル・デッドとしてのこの最後の演奏の録音は、ボックスの蓋に収められた7インチ・シングルのB面にカットされている。A面に入っているのは、1965年11月、The Emergency Crew として録音した最初の録音のうちの〈Caution〉、その時の録音したもののうち唯一のオリジナル曲だ。

 メリウェザーが提供するパースペクティヴに映しだされるデッドの歩みは、こういう現象が30年にわたって続いたことは奇蹟以外のなにものでもないと思えてくる。そしてその余沢をぼくらも受けているわけで、これからも受ける人は増えこそすれ、減りはしないのではないか。


 "Dead Heads Tell Their Tales" は50周年を記念して募集したデッドヘッドからの手紙を集める。初めてのライヴの体験、デッドヘッド同士の交歓、自分にとってデッドとは何か、ささやかなエピソードから深淵なコメントまで、ほんのひと言から、1,000語(四百字詰め原稿用紙換算約10枚)以上の長文まで、語り口も内容も実に様々だ。

 ぼくとしては、この部分を最も興味ぶかく読んだ。デッドヘッドとその世界がどういうものか。ひいてはデッドが生み出した世界がアメリカにおいてどういう位置にあり、いかなる役割を担ってきたか。ごく断片的で表層的ではあれ、初めて現実感と説得力をもって伝わってきたからだ。

 書き手もまことに多種多様。The Warlocks 時代からのファンもいれば、ガルシア死後の若いファンもいる。ヨーロッパから遠く憧れつづけた人たち、同時代に生き、しかもスタジオ録音は全部聞き込んでいながらついに一度もライヴを体験しなかったアメリカ人もいる。ブレア・ジャクソンやビル・ウォルトンなどのビッグ・ネーム・ファンや、スタンリー・マウスやハーブ・グリーンなど関係したアーティスト、あるいはツアーのシェフを勤めたシェズ・レイ・セウェル Chez Ray Sewell、ビル・クロイツマンの息子ジャスティンなども含む総勢180人が口を揃えて言うのは「デッドに出逢って人生は良い方に変った」ということ、そしてその変化をもたらしてくれたことへの感謝の気持ちである。

 もちろん、デッドに出逢ったことで悪い方へ人生が変化した人もいたはずだ。ここは祝いの場であるからそういう声は出てこない。その点はどこか別のところでバランスをとる必要はあるだろう。

 とはいうものの、ここに溢れるポジティヴなエネルギーと心からの感謝の想いをくりかえし浴びていると、ひとまずそういうマイナス面は忘れて、この歓喜にこちらの身もゆだねたくなってくる。デッドはオアシスなのだ。せちがらい、クソッタレなこの世界で、まことに貴重なプラス・エネルギーを浴び、充電できる場なのだ。

 文章だけでなく、ファンたちが贈った様々なヴィジュアル・アートがページを飾る。肖像画やパッチワークや彫刻、バンバーステッカー、さらにはイラク戦争に従軍した兵士がトルコであつらえた骸骨と薔薇の画を編みこんだ絨緞。そこにあふれるのは、ミュージシャンたちの姿とならんで髑髏と骸骨すなわち死の象徴だ。

 Grateful Dead と名乗った瞬間、かれらは死の象徴を歓びのシンボルへと換える道へ踏み出した。

 死の象徴があふれるデッドのコンサートでは奇蹟が起きる。その実例もまた数多くここには記録されている。

 駐車場に "I need a miracle." と書いたプラカードを持った青年がすわっていた。そこへ薮から棒にビル・グレアムが自転車に乗ってあらわれ、青年の前に乗りつけるとプラカードをとり、チケットを渡して、あっという間に消えてしまった。チケットを渡された青年はただただ茫然としていた。

 幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、デッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。コンサートの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。

 Dennis McNally によれば、90年代の絶頂期、デッドが発行した招待状=無料入場券は年間60万ドル相当に達していた。

 それだけではない。デッドはプロがやってはいけないとされることを残らずやっていた。コンサートの契約書には、[最短]演奏時間が書きこまれていた。ラミネートと呼ばれるバックステージパスの斬新でユニークなデザインと製作に毎回莫大な金と手間をかけていた。ライヴ・サウンドの改善のために、カネに糸目をつけなかった。レコードを出しても、そこに収録した曲を直後のツアーで演奏することは避けた。聴衆がコンサートを録音し、録音したテープを交換することを認め、後には奨励した。等等等。それ故に誰にも真似のできない超大成功をおさめたわけだ。そして、この「成功」にカネの割合は小さい。

 なぜ、デッドはそういうことをしたか。それはたぶん、かれらの資質だけでなく、あの1960年代サンフランシスコという特異な時空があってこそ生まれたものでもあるだろう。デッドは60年代にできたその土台に最後まで忠実だったこともこの本を読むとはっきりわかる。80年代のレーガンの時代にも、90年代にも、デッドのコンサートは60年代エトスのオアシスであり、そこへ行けば Good Old Sixties の空気を吸ってヒッピーに変身することができた。

 一方でそれにはまた、とんでもないエネルギーと不断の努力が必要でもある。「努力」というのはデッドには似合わない気もするし、日本語ネイティヴの眼からはいかにもノンシャランに見えるかもしれない。しかし、眉間に皺を寄せ、日の丸を染めぬいた鉢巻を締め、血と涙と汗を流し、歯を食いしばっておこなう努力だけが努力の姿ではない。日本流のものとは違うが努力以外のなにものでもないことを、デッドは30年間続けた。ともすれば、こんなに努力しているボクちゃんエラいという自己陶酔に陥りがちなスポ根的努力とは無縁な、しかし誠実さにおいてはおそらく遙かに真剣な努力を、デッドは重ねていた。

 ステージの上で毎晩ああいうことをやるのはどんな感じかとファンに訊ねられたガルシアはふふふと笑ってこう答える。
 「そりゃな、一輪車を片足だけでこいで、砂が流れ落ちてくる砂丘を登ろうとしているようなもんだよ」

 そうして努力しても、常に報われるとは限らない。むしろ、シジュフォスと同じく、虚しく終ることも多かったはずだ。しかし、成功した時のデッドのショウはまさしく奇蹟としか思えない。その奇蹟を捉えた記録を年1本ずつ30本集めたのがこのボックスということになる。(ゆ)

 Apple Watch の懐中時計版が欲しいな。

 版元のサイトに告知が出ましたので、こちらでも宣伝します。

 20年近く前に書いた『アイリッシュ・ミュージックの森』(青弓社)を改訂して出しなおします。

 題して『アイルランド音楽 碧(みどり)の島から世界へ』

 旧著のうち、本文には最低限の訂正、修正をほどこし、「その後」についての第六章を加筆しました。「まえがき」「あとがき」も差し替えています。各章ごとに入れていた補足は取捨選択、改訂して巻末にまとめました。読書案内、ディスコグラフィは割愛しました。

 追加としてトシバウロンとの対談があります。かれがどのようにアイリッシュ・ミュージックに入りこんでいったかがよくわかり、興味深かったです。

 付録にCDが付きます。これは当初予定にはなくて、まさに瓢箪から駒。先日の『アルテス』2015年3月号の編集後記で鈴木さんも書かれてますが、かなり聴き応えのあるオムニバスができあがりました。これはひとえに楽曲を提供してくださった皆さまのおかげです。このためだけに買われても損はないでしょう。

 発売は3月25日。お近くの本屋さんに予約していただければ、幸いです。

 もちろん、ここに書いたのは、ぼくにとってのアイリッシュ・ミュージックなので、これが唯一のアイリッシュ・ミュージックだ、とか、これこそがアイリッシュ・ミュージックの王道本流元祖本家だ、などと言うつもりは毛頭ありません。まあ、そんなものはそもそもあり得ませんが。

 むしろ、これが刺激になって、様々なアイリッシュ・ミュージックの姿が現れてくれれば嬉しい。もっといろいろなアイリッシュ・ミュージック、色、トーン、テクスチャ、性格、位相などの異なるアイリッシュ・ミュージックが現れてほしい。

 この改訂新版が出るにあたっては、多くの方々のお世話になっています。今日までアイリッシュ・ミュージックを聴きつづけてこれたことからして、たくさんの人たちに支えられています。一人だけだったら、とっくの昔にどこか別の方へ引っ張られていたかもしれません。このブログの元にもなったメルマガの編集発行を共にしてくれたマイケル菱川さんと洲崎一彦さんには、何よりもまず御礼を申さねばなりません。あれが無かったら、今のぼくはありませんでした。そして、そこに書いてくださった方々、読んでくださった方々にも深く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。

 「まっさん」のおかげで、今度はスコットランド音楽が独自のものとして認知されないかなあ、と期待しています。ウィスキーでもスコッチとアイリッシュが違うように、血はつながっていても、スコッチ・ミュージックとアイリッシュ・ミュージックはまた別なんですがねえ。(ゆ)



 大嵐になった今月13日木曜日の夜、下北沢の本屋兼カフェで開かれた栩木伸明さんの講演会に行った。栩木さんが昨年みすず書房から上梓された『アイルランドモノ語り』で読売文学賞を受賞された、そのお祝いの会である。先輩受賞者である管啓次郎氏がホスト役。 お二人の対談形式かと思っていたら、前半、栩木さんの語り、後半、菅氏からの投げかけに栩木さんが応える形。最後に管氏が聴衆からの質問を誘い、二人が質問をし、栩木さんが応えた。

 一番の収獲は、本の冒頭に出てくる「ヘンズ・ネスト」の実物を手にとれたこと。栩木さんがミュージアムのショップで買われた小型のレプリカではあるが、サイズ以外は「ホンモノ」だ。「ホコリっぽくツンとくる匂い」も嗅ぐことができた。

 それからトーリー島のキングの描いた絵。本の52頁に載っている「大西洋上のトーリー」の実物。絵はどんなに詳細で鮮明なものでも、写真で見ただけでは一番肝心なものが顕れない。見えない。たとえばの話、実際のサイズで、この絵は思いのほか、小さかった。iPad の一回り大きいくらいだろうか。そして、確かに妙に惹きこまれる。美しいとか、迫力があるとか、あるいは深い意味があるとかいうのではないかもしれないが、いつまでも見ていたくなる。そして見ているうちに、胸の奥がおちついてくる。こういう絵なら、手許に置いて、ときどき眺めたい。といっても、こればかりは現地に行かなければ買えないのだろう。また、このネット時代に、わざわざそこに行かなければ手に入らない、というのもひとつの価値だ。

 トーリー島に行くのは結構たいへんです、と栩木さんが言う。船酔いは覚悟しろ、ともおっしゃる。もっとも船酔いは、どくとるマンボウのように、生まれつきか、かからない人もいるし、どんなに船に弱い人でも、繰り返し乗っていればだんだん強くなるというから、何度も通えばいずれ平気になるだろう。それよりも、島に渡る船が出るところまで行くのがまずたいへんらしい。

 お薦めはどこですか、という聴衆からの質問に、トーリー島が一番と応えられていたから、これから島へ行く日本人は増えるだろう。住みつく人もいるかもしれない。アラン島だって、地元の人と結婚して住んでいる日本人がいるのだ。

 ただし、離島の生活が楽ではないのは、James MacIntyre の THREE MEN ON AN ISLAND を読んでもわかる。冬の嵐が続いて船が来られなくなり、食料がなくなって寝ているしかなくなることもあるのだ。ブラスケット島が無人になったのも、そういうことが度重なったためだ。ちなみにこの本は、アイルランドの西端の孤島にひと夏過ごした3人の、こちらは職業画家の記録である。1951年のことだ。すてきなスケッチと水彩画にあふれた瀟洒な本で、ニワトリもちゃんと出てくる。

Three Men on an Island
James Macintyre
Blackstaff Pr
1996-01-01



 ブラスケット島の住民が集まったのが、アメリカはマサチューセッツ州スプリングフィールドで、ここはアイルランド国外のゲールタハトの様相を示した、というのは今回栩木さんのお話で初めて知った。

 もう一つの収獲はキアラン・カースンの『琥珀捕り』について、アイリッシュ・ミュージックのダンス・チューンと同じ構造だ、との指摘。韻文でこれをやるのはわかるし、実例も多いと思うけれど、散文でやるのは思いいたらなかった。そういう視点から再読してみよう。実のところ、ひどく面白いのだが、なんとなくコツコツ当たるところがあって、見事な作物であることは確かで、不満はなにもないのに、諸手を挙げて絶賛する気にどうしてもなれなかった。どうも散文となると「筋」をなぞろうとしてしまうらしい。筋の展開がリニアではなく、サイクルであることに気がつかなかった。なるほど、そうして読んでみると、シェーマが変わるかもしれない。

 栩木さんのお話がもっぱら本のはじめの方に集っていたのはやむをえないところだろう。うしろの方の、「岬めぐり」の章のお話など、あらためて聞けるチャンスがあると嬉しい。

 開演前の会場にはアルタンが流れ、お話の中でもかけたりもしていた。管氏も、いいですね、ぼくもアイリッシュ・ミュージックは大好き、と言われていたあたり、あらためてアイリッシュ・ミュージックもあたりまえの存在になったものよのう、との思いを新たにする。アイリッシュ・ミュージックを出すと、これはアイルランドの伝統音楽でありまして、なんて説明というか言い訳というか、そういうものをやらねばならない、ということがなくなったのは、やはり素朴に嬉しく、ありがたい。

 栩木さんは読売文学賞受賞によって、自分が書き手として日本語の活動に貢献したと認められたことが嬉しいとおっしゃる。それを否定するつもりは毛頭ないが、一方で栩木さんは翻訳家としてりっぱな仕事をされてきているわけで、それもまた日本語への貢献に他ならないことも、指摘するのもおこがましいが、言わせてもらいたい。明治以降の、いわゆる口語という文章語の形成展開に翻訳の果たしてきた役割はむしろ大きい。単語だけでなく、構文や、さらには思考方法や、感じ方にいたるまで、翻訳によって日本語は鍛えられてきた。英語というワンクッションをはさんではあるけれど、そこにアイルランドという新たな要素を加えたのは栩木さんの功績のひとつでもあるはずだ。イェイツのなかのアイルランド性は、本を読んでいただけではわからなかった、と栩木さんは言われるが、それはたぶん栩木さんだけではなく、かつてのわが国「英文学」の趨勢ではなかったか。音楽の勃興によって、アイルランド自体の見方も変わった、そのことによってアイルランド性の捉え方も変わったのではないか。

 先日も古い資料をひさしぶりに見ていたら、「二流のイギリスとしてのアイルランド」なんて言葉が恥ずかしげもなく使われているのに、覚えずして顔がほてった。そう書いたのは自分ではないにしても、その表現に疑問を感じないどころか、うんうんとうなずいていたことは確かだったからだ。この四半世紀で、アイルランドのイメージは、180度というも愚か、まったくの次元の別な物になってしまった。天動説から地動説への転換にも相当しよう。その地点から見れば、かつては「英」文学の一部であったアイルランドの文芸もまた別物となるだろう。

 もちろん、翻訳家だけでなく、書き手としての栩木さんにはもっともっと書いていただきたい。ティム・ロビンソンの『アラン島』二部作、『コネマラ』三部作はたしかに圧倒的だけど、栩木さんなら、また別のアプローチであれに肩をならべる文章を書いてくれるのではないかと期待する。そしてそれはまた、アイルランド人には書けないものであるだろう。イングランド人ロビンソンの作物がアイルランドのネイティヴには書けなかったように。

 『アイルランドモノ語り』は、昨年読んだ本の中では一番の収獲だった。というより、人生でもこれだけの本に出会うことは、そんなに何度もない、と思われた。この本は、最初の章を読んだとき、一日一章と決めて、読んでいった。一気に読んでしまうのがもったいなかったからだ。お話をうかがって、あらためてまた一章ずつ読みはじめた。今度は毎日一章ではない。一週間に一章、ぐらいのペースだ。時には他の本やネットに脱線しながら、ゆっくりと読んでいる。そう、この本に欠陥があるとすれば、それは索引が無いことである。無ければ作ればいい。というわけで、自分で索引を作りながら、読んでいる。

 もう1冊、読みだしたのが Fintan O’Toole の A HISTORY OF IRELAND IN 100 OBJECTS。栩木さんの本とほぼ同時に出たのを、例によって積読してあった。タイトル通り、100個のモノをダシにして、アイルランドの島に人間があらわれてから21世紀までの歴史を語る試み。栩木さんの語るモノがきわめてパーソナルな性格を帯びるのに対し、こちらは良くも悪しくも公的な、パブリックなモノがならぶ。それはそれで面白く、オトゥールの文章も、ある時は掘り下げ、ある時は大きく拡がり、縦横に語って、この島に展開されてきたドラマをぐいぐい描きだす。実物がどこで見られるかの案内もついていて、その気になればツアーできるようにも作られている。

A History of Ireland in 100 Objects
Fintan O'Toole
Royal Irish Academy
2013-03-12



 遅まきながら、栩木さん、読売文学賞受賞、おめでとうございます。(ゆ)

アイルランドモノ語り
栩木 伸明
みすず書房
2013-04-20

 先週の腹部エコー検査では問題なく、この結果を見て、抗がん剤治療はめでたく終了となりました。点滴のために入れてあるポートも摘出しましょう、ということになりました。年末に CT 検査をして、その時、一緒に取り出すことになります。局部麻酔をして簡単な手術を受けるので、一泊はした方が良いらしい。

 全身の発疹とかゆみが抗がん剤によるものか、もう一度抗がん剤治療をやってみないと明確にはわからない、とはいうものの、それを試してみるというのも正直願いさげでありました。

 手術後3年は注意せよ、とあらためて釘を刺されたのはもちろんですが、とまれ、ひとまず肩の荷がおりて、ほっとした気分です。

 まだ抗がん剤の影響が消えたわけではありません。発疹とかゆみは、抗がん剤の影響だと信じていますが、まだ残っています。体のあちこちに、ぽつんと出て、いきなり猛烈にかゆくなる症状です。かゆくなるのでそこを見ても、まだ何もないこともあります。とにかくそこに薬を塗って、しばしがまん。薬を塗ったからといって、市販のかゆみ止めのようにすうっとかゆみが消えるわけではありません。むしろ、一時的にはかゆみが強まるようにも感じられます。とにかくかきむしらないようにがまんがまん。

 紫外線もまだまだ今のぼくの肌には強いらしい。昨日も、午前中、どうしても昼前にすませなければならない買物やら何やらで外出しました。日傘、というより、普通の雨傘を日傘代わりに使っているのですが、とにかく傘を持って出て、顔と両手からは日光をさえぎっていました。さえぎっていたつもりなのですが、帰宅したとたん、手やら顔やらにぽつぽつとかゆいところがふき出しました。手の甲はしばらく出ていなかったのですが、ひさしぶりに出ました。

 夜になると、またあちこち猛烈にかゆくなり、そのたびに起きあがって薬を塗ります。3時頃まで、それを繰り返していました。

 やはり日中の外出は避けねばならないようです。今月末のヘッドフォン祭には行かないわけにはいかないので、屋外にいる時間を極小にするべく努めるしかないでしょう。さいわい屋内のイベントですから、外にいる時間は多くないはず。雨が降らないまでも、曇ってくれるとうれしい。ドラキュラの気持ちがわかります。いや、ほんと。

 とはいえ、とにかく抗がん剤治療が終わったことで、カラダにもココロにも、そしてフトコロにもかかっていた大きな負担がなくなります。1ヶ月、治療を休んだわけですが、肝臓の値が明確に改善されていました。主治医が驚くほどで、ひょっとすると、畏友川村龍俊さんに教えられて以来、朝晩続けているリラックス体操の効果も加わっているかもしれません。この体操についてくわしくはこの本をどうぞ。
 

 これまでは抗がん剤という「毒」を飲んではその効果に耐えるという、受け身の姿勢にならざるをえなかったわけですが、これからはもう少し積極的になれそうです。当面は東大出版会から出たばかりの『ユーラシア世界』全5巻と Subterranean Press から出ているロバート・シルヴァーバーグの短篇全集既刊分の読破、それにライバーの「ファファード&グレイ・マウザー」シリーズとハインラインの『栄光の道』から始める "Sword & Sorcery" の勉強、かな。物欲ではゼンハイザーの Momentum と CEntrance の新DAC/PHA、HiFi-M8。そうそう、近くはマーティン・ヘイズ&デニス・カヒルの来日がありますね。ドラキュラよろしく日が沈むと徘徊することが多くなるでしょう。さいわい(?)これからは夜が長くなるし。

 まずは、今月末のヘッドフォン祭には行くつもりです。また Jaben のブースのあたりにウロウロしてるはずです。そちらで、よしなに。(ゆ)

バット・ビューティフル    ジャズとクラシックは「うた」を拒んだ音楽だ、とずっと思っていた。しかし、ジャズはどうやら「うた」を奪われた人びとの音楽らしい。少なくともクラシックとは「うた」との関わりが違う。
    
    それにしてもジャズは「面白うてやがて悲しき」音楽ではある。そしてそこにこそジャズの美しさがある。この本はそう主張している。主張するというよりは、その悲しき美しさを文章として形にしている。どの章も美しいが、とりわけ掉尾を飾るアート・ペパーの章。なかでも監獄の中庭でペパーがサックスを吹くシーン。ここで言葉によって表現されていることは、まぎれもなく音楽の悲しさ、美しさであるにもかかわらず、音楽では表現できない。
    
    この本の凄みはそこにある。音楽で表現されていることを、音楽にはできない形で言葉で表現してみせる。それによって言葉の持つ限界を突破している。あるいは少なくとも限界を大きく押し拡げている。同時に対象とされている音楽の悲しさ、美しさを、音楽とは別の角度から照らしだす。もはやフィクションかどうかなどということは問題ではない。
    
    ここまでくれば、実は素材が音楽であるかどうかすらも問題ではなくなる。ジャズあってこそ生まれた作物ではある。書き手のインスピレーションの源となり、想像力を推進しているのがジャズであることはまぎれもない。しかし、作物そのものはジャズに寄りかかっていない。素材となった音楽を聞いていなくとも、対象のミュージシャンについて何も知らなくとも、この文章の美しさ、悲しさは、抗いようもなく読む者の中に流れこんでくる。
    
    ぼくはジャズについては無知である。興味の赴くまま、あちこちとかじってはいるけれど、そんなことで「わかる」ほど、ジャズの蓄積は薄くない。だから、ここにとりあげられたミュージシャンたちの音楽もまともに聞いてはいない。ベン・ウェブスターにいたっては、名前すら初耳だったくらいだ。名前を知っていて、録音も少しは聞いている人たち、ミンガスやチェト、モンクなども、ここに描かれたエピソードについてはまったく知らない。だから、どこまでが事実でどこからが虚構かということもわからない。
    
    たぶん、それは幸運なことだった、と今、思う。何も知らずに、いわば白紙の状態でこの作物を読むことができたのは、二度と体験できないことなのだ。ふさわしくないかもしれないが、日本代表がサッカーのワールド・カップ本大会初出場を決めた試合は、この宇宙の起源から終末までの間で一回しかないのに似ている。この作物を読む人の圧倒的多数は、ジャズについて広く深い知識を持ち、この七人の録音は「擦り切れる」まで聴いており、ここに描かれたエピソードも含めたミュージシャンの経歴についても充分承知しているだろう。そうした人びとには不可能な、特権的な体験をすることができたのは、まことにありがたい巡り合わせだった。
    
    ぼくはだからむしろこの本を、ジャズに関心がない人に薦めたい。音楽に関心がない人に薦めたい。音楽を引受けるとは、どういうことか。音楽によって表現を行うとはどういうことか。そうして、引受けられて生まれた音楽はどういうものか。それをここまで痛切に、深く、伝えてくる文章は、いや文学は、他の何をさしおいても読む価値がある。
    
    音楽は平凡な人間がやる非凡なことだ、とは、イングランドの蛇腹奏者ジョン・カークパトリックの言葉だ。ジョンカーク、とぼくらは呼ぶかれは、蛇腹つまりコンサティーナやアコーディオンを演奏してイングランド伝統音楽を現代に蘇えらせた男だ。ぼくらから見れば非凡を絵に描いたような存在だが、本人にしてみれば自分は凡人にすぎない、ということだろう。そうして、その平凡な人間が音楽という非凡な行為をはたそうとすれば、そこには必ず犠牲を伴う。かれの言葉の含蓄を、ぼくはそう見る。
    
    その犠牲は音楽のタイプによっても、音楽が行われる時空によっても、また、個々のミュージシャンによっても、形も大きさも異る。しかし、ミュージシャンが犠牲を払うことはいつでもどこでも誰でも同じなのだ。きっと。ここに描かれたのは、その中でも極度に悲しく、それ故美しい形だ。そして、そうした犠牲を求める音楽の悲しさが、これ以上は無いだろうと思われるほどに美しく書かれている。その悲しく美しい音楽を、人はジャズと呼ぶ。
    
    いや、音楽表現だけではなく、およそ人間が何かを表現しようとすれば、そこには犠牲が伴う。この作物を書くためにも、ダイヤーはなにかを犠牲にしている。なにも芸術とよばれる範疇の表現だけではない。「労働」や「仕事」や、あるいは「家事」にあっても、人間は表現をしている。つまりは人は犠牲を払いながら生きている。非日常的な芸術は日常にあって埋もれているそうした事実と犠牲の本質をあらためて掘り出し、磨き、差し出す。音楽にあっては、ジャズにあっては、その犠牲が極端な形であらわれる。
    
    もちろんダイヤーのこの作物に表現されたものが音楽表現のすべてではない。ジャズが表現しているもののすべてでもないだろう。ダイヤー個人の見ている、聴きとっているもののすべてですらないはずだ。あくまでもこれは、個人ダイヤーがその感性で捉ええたもののうち、作家ダイヤーの言葉によって表現しえたものの、さらに一部である。ダイヤー自身にとっても、ジャズを別の形、それほど悲しくはないが、美しさでは劣らない形で描くこともできなくはないだろう。とはいえ、たぶんそれはダイヤー以外の人に委ねられている。
    
    しかしながら、その前に、まず人はジャズを聴かねばならない。この作物に、たとえ白紙の状態で遭遇したとしても、読んでしまった以上、ジャズを聴かねばならない。あのアート・ペパーの音楽を、音の形で、音楽の形で聴かねばならない。
    
    なお、「著者あとがき」は本文とは別ものだ。これもまた、ジャズを相手にデュエットを演じる形のひとつではある。こちらについては伝統音楽を聴いている人間としては突込みどころだらけで、本文とは逆の位相で面白い。また、ぼくなどにはひとつのジャズの展望としても参考になる。著者が本文に対置して、本文の咀嚼、消化の助けになることを期待していることもわかる。あるいは本文と「バランスをとる」ような錘になることを期待している、という方が近いか。
    
    とはいえ、これは「蛇足」の類ではある。著者がこうした文章がこの書物には必要だと感じたならば、それもまたジャズという音楽の作用ではあるのだろう。ジャズに備わった性格、書き手自身が「あとがき」冒頭で否定しているような文章を、結局書いてしまわずにはいられなくさせるような性格の現れとも言える。
    
    矛盾と断じるのは容易いが、この矛盾した性格こそが、ジャズをジャズたらしめているのでもあろう。ジャズにはどこかそういう捻れたところがある。ジャズのルーツのひとつである(とぼくには見えるのだが)ユダヤの音楽や、ジプシー/ロマの音楽にもそういう捻れたところがあって、ジャズの捻れはそれを受け継いでいるとともに、また外へと受け継がれてもいる。
    
    それにしても、こうした書物を生みだすところ、ジャズがうらやましい。伝統音楽からはこんな美しい作物は生まれそうにない。もちろん伝統音楽、ルーツ・ミュージックからはまた別の形の作物が生まれてきたし、これからも生まれるだろう。しかし、これほどの痛切さをもって、深く心の中に斬りこんできた作物は、どうやらこれまでも見当たらないし、これからも出そうにない。
    
    アイリッシュ・ミュージックから生まれたものとしては、キアラン・カーソンの LAST NIGHT'S FUN: In and Out of Time With Irish Music という傑作があるけれども、あの作物が表現しているのは「とぼけた楽しさ」だ。アイリッシュ・ミュージックの肝はそれじゃないか、と言われればその通りだが、無いものねだりとわかってはいても、ダイヤーの作物が放つ痛切さを、いわば「本拠地」で感じてみたいとも思ってしまう。(ゆ)

アイルランド・ストーリーズ    栩木伸明さんの選・訳によるウィリアム・トレヴァーの2冊めの短篇集が出ました。今回は舞台がアイルランドのもの12篇。1960年代のものから2006年O・ヘンリー賞受賞作まで。うち1篇は雑誌掲載だけで、本国でも単行本収録されていない貴重品です。
   
    カヴァーなどに使われている写真は栩木さんがご自分で写されたもの。この表紙はトーリー島で、アコーディオンを弾いているのはこの島の「王様」。
   
    届いたばかりで、これからじっくりと一日一篇ずつ読みます。栩木さんは短篇集を編むのをLPのベスト・アルバムを作るのに譬えていますが、読むときはLPとは違って、ゆっくりと読みたいものであります。(ゆ)

    以上、47人の書き手による50点の候補作のデータをまとめておく。

書き手の性別
    女性18人
    男性29人

書き手の年齢
    最年長 ウィリアム・トレヴァー 1928年生
    最年少 セシリア・アハーン 1981年生

生年代別の人数
    1920年代生 1
    1930年代生 4
    1940年代生 3
    1950年代生 11
    1960年代生 11
    1970年代生 7
    1980年代生 1
    生年不明 10名
   
物故者 2名

邦訳のあるもの 11点
該当作以外に邦訳のある作家 14人

発行年別点数
    2001    2
    2002    3
    2003    2
    2004    6
    2005    5
    2006    8
    2007    9
    2008    12
    2009    3

ノンフィクション 12点
長篇小説 31点
短篇集 2点
ジュヴナイル/ヤングアダルト 5点(すべて長篇)うち4点邦訳あり

    アイルランド2000年代を代表する本としては、圧倒的に小説、ということらしい。それだけ創作、出版ともに盛ん。とりわけ若い読者向けのものの隆盛は際立つ。
   
    邦訳がこの分野に多いのは、ひとつには「ハリポタ」の後遺症でもあるので、必ずしも作品の質が成人向けのものより平均して高い、というわけでもなかろう。
   
    ノンフィクションの中では、回想録・自伝類が半分の6点。歴史ものが2点。もっともこの片方は伝記の一種ではある。経済関係が、経済人の回想録も含めれば2点。政治関係が1点。哲学思想も含むものが1点。自然科学が無いのは、あるいはハナからはずしたのか。詩、韻文関係が作品そのものは無くて、シェイマス・ヒーニイのインタヴューによる自伝1冊というのも、ちょと解せない。詩や詩人の地位は高いし、日本語の詩よりも公の場で接する機会ははるかに多いが、実際に詩集を読む人はそれほど多くない、ということか。

    書き手の3分の1というのは、やはり女性が多いと言うべきだろう。これが1990年代ならば、女性の比率はもっと減ったのではないかと思う。今の勢いなら、2010年代はさらに女性の書き手が増えそうだ。最年長が男性、最年少が女性、となったのはおそらく偶然だろうが、象徴的ではある。専門的な分野でも増えると期待。
   
    ということで、これから未読の48点を実際に読んでみることにする。邦訳のあるものは後回し。
   
    まずは、サッカーのワールド・カップ南アフリカ大会中ということもあり、ポール・マグラアの自伝からかな。(ゆ)

Foolish Mortals    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その50。

    このおさらいのラストは1930年生まれのジェニファ・ジョンストン。作品としては本篇の後に、昨年、最新作 Truth or Fiction が出ている。ウィリアム・トレヴァーエドナ・オブライエンとともにこの50選の書き手の中では最長老世代。
   
    ちなみにこの順番は『アイリッシュ・タイムズ』の記事に掲載された順番。どういう基準かは不明。
   
    ジョンストンはキャリアは長いし、作品も映画化されているのだが、邦訳は一点もない。この辺が翻訳出版の「七不思議」である。
   
    ダブリン生まれだが、家庭はアイルランド国教会信徒で、その小説のモチーフはアングロ・アイリッシュのプロテスタントの20世紀における没落が多い。この辺が邦訳しても売れない、と判断される要因だろうか。
   
    最も有名な作品は1979年の The Old Jest だろう。ホイットブレッド賞受賞作で、ロバート・ナイト監督、アンソニー・ホプキンス、レベッカ・ピジョン主演で『青い夜明け』The Dawning (1988) というタイトルで映画化もされた。アイルランド独立戦争がテーマの由。
   
    母親は俳優、父親は劇作家、いとこにも女優がいるという一族。
   
    現在はノーザン・アイルランドのデリー在住だが、共和国の「人間国宝」に相当する「オスダナ」のメンバーでもある。
   
    本篇はメイン・キャラの一人、ヘンリーが交通事故から意識を回復するところから始まる。運転していたのは二人めの妻で、彼女は事故で死んでいる。周囲には最初の妻ステフと二人の子どもたち、ヘンリーの母親が現れて、それぞれのドラマを演じる。ヘンリーはダブリンで出版社を経営している。事故はどうやら仕組まれたものであるようで、真相を知っているらしい画家の母親はそれを明かそうとしない。
   
    テーマは21世紀初頭のダブリンの中流階級の家庭における家族の絆、あるいは家族の関係とはどういうものか、どう変化しているのか、世の常識をくつがえすところにある由。
   
    ここでもものごとを進め、事態を打開してゆくのは女性たちで、男どもは醜態をさらしているらしい。
   
    21世紀初頭のアイルランドは「女性」の社会、女性中心に回っている社会である、とこの50選を眺めるかぎりでは言えそうだ。現在のわが国にも似た男尊女卑社会だった20世紀とはまことに対照的ではある。一言で言えばそれは「武士は喰わねど高楊枝」の社会であり、女たちは、もう二度とあんなことはごめんだ、男には任せておけない、とほぞをかためているのだろう。(ゆ)

スカルダガリー 1    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その49。
   
    今回の Irish Book of the Decade 受賞作。アイルランド・ゼロ年代を代表する本として、これが選ばれた。
   
    こういう大きな賞に児童書が選ばれるのは、やはり珍しいことではある。もっとも、そもそも5本も児童書が入っているのは、アイルランドにおける児童書出版の盛んなこと、質の高さの証であるとともに、出版界、あるいは文芸の世界での児童書の地位の高さをも物語る。
   
    これが日本語圏であればどうだろうか。ハリポタは大人もたくさん読んだかもしれないが、やはりそれは例外で、児童書はいかに質が高くても、たとえば村上春樹や高橋源一郎、橋本治、あるいは大江健三郎、さらには井上靖、井上ひさしといった作家たちの作品とは別世界のものにされているけしきだ。例外は宮沢賢治ぐらいか。坪田譲治や鈴木三重吉、椋鳩十、そこまでいかなくとも、あさのあつこ、いやそれよりもラノベでひとくくりにされる書き手は、はじめから同列に扱われない。山手樹一郎の少年小説が池波正太郎や山本周五郎とならべられることもなさそうだ。
   
    『ハウルの動く城』の原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、児童ものと大人ものと両方書いている人だが、児童ものの方が自由に書けるという。児童ものの唯一の制限は露骨なセックス描写だけで、他は、たとえばプロットをいくら複雑にしてもかまわない。若い読者はちゃんとついてくる。
   
    あるサイン会場で、娘に付き添いで来ていた母親から「抗議」を受けたことがある。あなたの話は複雑すぎて、わからない、もっと簡単にしてほしい。これを傍らで聞いたその娘は作家に対し、ママの言うことなんか気にしないで、あたしはちゃんとわかるから、と保証した。
   
    テーマにしてもおとな向けはいろいろタブーがあるし、おとなが読みたがらないテーマも多い。政治や哲学はその筆頭だ。児童向けではそういう制限もない。
   
    同様のことは日本語の本にもあてはまりそうだ。
   
    話をこのアイルランド・ゼロ年代の50選にしぼっても、5点の児童ものは、それぞれにおとな向けではできないことをやっているとみえる。ケイト・トンプソンのもののように、伝統音楽が作品の不可欠の要素になっている小説は、どうやら大人向けのものには無いらしい。ジョン・ボインのものも、大人向けでは思いつかない角度から、人間の愚行の極致を描いてみせる。
   
    『スカルダガリー』は『アルテミス・ファウル』とともに、エンタテインメントに徹しているらしいが、デレク・ランディはオゥエン・コルファーよりもファンタジーを存在の一部にしているようではある。
   
    願わくはこの受賞を機に、アイルランドの児童書がどんどんと邦訳されますように。(ゆ)

P.S.アイラヴユー (小学館文庫)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その48。

    チック・リットはあるいは英語の小説伝統の一部なのかもしれない。19世紀にも女性のベストセラー小説家は何人もいたらしい。ブロンテ姉妹はさしづめその筆頭で、『嵐が丘』『ジェイン・エア』はチック・リットの嚆矢と言えないこともなかろう。なおこの姉妹は生まれ育ちはアイルランドである、念のため。
   
    後に忘れられた人では、ヘンリー・ウッド夫人とか、ハンフリー・ウォード夫人など、当時は夫の名に「ミセス」を付けた名前で書き、出版していた。ウォード夫人はヘンリー・ジェイムズとも親交があったそうだ。もちろん、現在の書き手たちとは状況が異なるから、テーマやモチーフは違ってくるが、女性特有の視点やスタイルがセールス・ポイントになるのは同じであるようだ。
   
    この人はそのチック・リットの最も新しいスターで、またこのジャンル最大のヒット・メーカーの一人でもある。
   
    これはデビュー作で、ベストセラーとなり、映画化されてさらに売れた。これを含め、3作ある小説はすべて邦訳されている。(ゆ)

湖畔    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その47。
   
    今年1月に邦訳が出ている。

    回想録『小道をぬけて』とともにこの50選で2冊目のジョン・マクガハン。6冊めにして最後の小説作品。人生の最後の時期をアイルランドのある湖畔の農村で暮らす老夫婦の日常生活。「平凡」の偉大さを発見したのがジョイスならば、その平凡を散文詩にうたいあげたのがマクガハンか。

    エイモン・デ・ヴァレラが夢みたアイルランドは、国として実現することはついにないが、個人のレベルではこうしたところに具体化されているのかもしれない。デ・ヴァレラは政治家としては同時代に並ぶ者なき達人だったかもしれないが、個人的レベルでしか実現可能性のない夢を国家の夢と混同したところで失墜した、と言えようか。
   
    邦題はアメリカ版のタイトルからとったと思われる。(ゆ)

Netherland (Vintage Contemporaries)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その46。
   
    1964年コーク生。アイルランドとトルコの混血。幼少時、両親は頻繁に転居。モザンビーク、トルコ、イランに住む。12歳からオランダに腰を落ちつける。ケンブリッジで法律を学び、最初の小説を書いた後、イングランドでビジネス法関係の弁護士を勤める。夫人は『ヴォーグ』誌の編集者だが、ファラー・シュトラウス・ジローの編集者時代に、後の夫の第二長篇を却下した。現在はニューヨーク在住で、『アトランティック・マンスリー』に文芸批評を書く。英語、仏語、蘭語を話す。
   
    作家デビューは This is the Life (1991) で、本作は3作め。著書は他に Blood-Dark Track: A Family History (2001) がある。
   
    話は比較的単純。語り手はオランダ人株式仲買人がイングランド人の妻と息子と1998年にニューヨークに移住する。9/11後、かれは妻と疎遠になり、妻は息子を連れてロンドンに帰る。語り手は若い頃楽しんだクリケットにはまりこむ。ニューヨークでは当然移民のごく一部が楽しむだけだが、その中にトリニダード出身の実業家チャックがいる。カリスマ的なチャックはニューヨークにクリケット・スタディアムを造り、クリケットをアメリカのメジャー・スポーツにする夢をもっている。語り手はチャックの夢に共感するが、チャックとの関係が深まるとともに、かれが賭博や犯罪組織と関係を持つことを知る。夢やぶれて、語り手もロンドンの妻子のもとへ赴く。後日、語り手はチャックが殺害されたことを知る。
   
    というストーリーだけでは、この話の面白みはわからないようだ。刊行当時、9/11後にニューヨークとロンドンの生活について書かれた、最もおかしく、怒りに満ち、読むのがつらい、荒涼とした小説、と評された。『グレート・ギャツビー』のポストコロニアル版として、ポストコロニアル小説として群を抜いた作品という評もある。オバマ大統領の愛読書としても知られる。
   
    アイルランドにしても、オランダにしても、おそらくはアメリカを正面ではなく、斜めの角度から見る視点を提供しているのだろう。それも、意識的なものではなく、ごく自然にそうなってしまうのだ。
   
    オランダ人はニューヨークに最初に植民した人びとであり、後にイングランド人に奪われ、さらにアメリカ化されたそこに行くことは、他の人びとには無い感覚を生むこともありえる。オランダ人にとって植民地でありながら、植民地ではない。クリケットはイングランドのシンボルたるスポーツであり、イングランドがオランダから奪った植民地に、イングランドのシンボルをトリニダード人とオランダ人が造ろうというのは、イングランドへの捻れた復讐にもみえる。と同時にアメリカを内部から切り崩す契機もはらむ。チャックは犯罪組織間の抗争で殺されたとも考えられるが、「テロとの戦い」の一環として、「反アメリカ分子」として抹殺された可能性も捨てきれない。
   
    カラム・マッキャンと同世代であり、アイルランドの外で活動し、伝統的に「アイルランド的」とされてきたものに依存しない作風でも共通する。この50選に選ばれた作品もともに9/11をモチーフとする点も同じなのは、はたして偶然か。一方、世代的には一世代ずれるが、コスモポリタンな背景ではヒューゴー・ハミルトンに通じよう。これをしも「アイルランド文学」に含めることで、アイルランドの文学はその展開の場を拡大し、ひいてはアイルランド人の意識も拡大している。(ゆ)

Judging Dev: A Reassessment of the Life and Legacy of Eamon De Valera    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その45。
   
    1972年ダブリン生。現在ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンのアイルランド史教授。これまでに9冊の著書がある他、テレビにも頻繁に出演。
   
    本書は8冊めの著書で、この後に来月、最新作 Occasions of Sin: Sex and Society in Modern Ireland が控えている。
   
    この50冊の中では唯一の学術書といってよい。歴史ノンフィクションではもう一冊、Des Ekin の The Stolen Village があるが、あちらはジャーナリストによる。
   
    フェリッターの専門はアイルランド史の中でも20世紀だ。アイルランドに人間が住みついてからこんにちまでの約1万年の間で、歴史として最も面白いのは、17世紀と20世紀、とぼくは思う。どちらもこの島の社会が根柢から変化した時代だ。
   
    大変化ということなら5世紀のキリスト教、9世紀のヴァイキング、12世紀のノルマン人の、それぞれの到来も大きいわけだが、劇的なプロセスと登場人物たちの個性の豊かさ、後世への影響となると、17と20なのだ。
   
    なかでも20世紀のアイルランドは、同時代としての興味も湧くし、直接間接のつながりも太い。生々しい一方で、ひとまず幕を閉じたひとつの時代として、いわば「棺の蓋を覆った」状態で振り返ることができる。同時にまだまだ明らかになっていないことも多い。フェリッターの2004年の著書 The Transformation of Ireland 1900-2000 は、その20世紀アイルランドの政治社会経済文化の総合的通史として画期的な著作だが、その中の「イースター蜂起の決定的な歴史はまだ書かれていない」という一節は、ぼくにはちょっとしたショックだった。
   
    アイルランドは小さな国ではあるけれど、その社会や歴史、そして何よりそこに住む人びとの性格はなかなかに複雑だ。一筋縄ではいかない、というが、ほとんどの人間は2本から3本の筋で生きているようにもみえる。なかには4本やそれ以上の筋を持つ者も少なくない。かれらに比べれば、イングランド人のほうが、人の悪さでは上回っても、性格としてはむしろずっと単純だ。
   
    この本の主題であるエイモン・デ・ヴァレラ(1882-1975)は、アイルランド人のなかでも最も複雑怪奇な人物のひとりだ。ひとことで言えば、20世紀アイルランド最大の政治家、であるが、その業績の評価も毀誉褒貶が激しい。上記通史を読むかぎり、フェリッターの姿勢は結論を急がず、クールに対象に迫る。おそらくこの本も、これまでになかったような新鮮な捉え方、評価軸を提示して、単純にプロとかコンとかではない、むしろ読者自身にこの人物について、ひいては20世紀アイルランド史について、考えさせる刺激的論考を展開しているはずだ。
   
    デ・ヴァレラが世に出る初めは、他ならぬイースター蜂起に際して、叛乱軍が市内各地を占拠したそのうちの一つの指揮官としてだ。そして、首謀者と現場指揮官のうちで処刑を免れた唯一の人物でもある。英国が処刑をためらったのは、デ・ヴァレラがニューヨーク生まれで、アメリカ市民権を持っていたからといわれる。
   
    母親はリマリックからの移民だが、父親はキューバからの移民だった。生まれた時の名はジョージ・デ・ヴァレロといった。後に母親はかれの名をエドワードとすることを申請し、認められた。エイモンはアイルランド語名だが、これに相当する英語名は本来はエドマンドが正しい。なお、de Valera と de を小文字にするのはスペイン語の表記法だ。以上、ウィキペディア英語版による。
   
    イースター蜂起のいわば唯一の生き残りとして、独立戦争の中でトップへとのし上がり、休戦協定を英国と結ぶ代表となるものの、独立を決めた英愛条約締結交渉への参加は拒否する。アーサー・グリフィスとマイケル・コリンズを中心とする交渉団が、南部26州の英連邦内の自治国として独立する条約を持って帰るとこれの批准に反対し、内戦を引き起こす。
   
    内戦で破れると武力闘争路線を捨ててフィアンナ・フォールを創設し、こんにちまで続くアイルランド政治のひな型を作る。そして共和主義本流としての地位を確立して長期政権を担い、20世紀前半のアイルランドの姿を築く。
   
    第二次世界大戦を利用して、英連邦からの離脱、アイルランド農民が英国政府に負っていた負債の「くりあげ償還」を実現し、ゲールの神話とカトリック信仰を基本イデオロギーとした共和国憲法を制定する。この1937年憲法は、いくつか重要な修正もされているものの、基本的には現行憲法である。そこから生みだされた共和国の枠組みはその後長くこの国のあり方と人びとの国に抱くイメージを規定しつづける。
   
    一方、かれが掲げた理想国家はついに実現されることはなく、文化の発展や社会の改善に向けた政策はことごとく意に反した結果しか生まない。アイルランド共和国がその住民の大多数にとって住みやすい国へと脱皮するには、デ・ヴァレラの政策を経済面で百八十度転回したショーン・レマスの登場を待たねばならない。レマスはデ・ヴァレラの子飼いであり、その経済政策の設計者であり、政権移譲の際も他に対抗馬がいなかったほどだった。結局デ・ヴァレラは一番弟子におのれの業績を全否定されることになる。
   
    もしアイルランド共和国に「父」がいるとすれば、それはエイモン・デ・ヴァレラだった。あるいはこのことはまだ過去形になっていないのかもしれない。
   
    著者はこの本で、デ・ヴァレラのいわば「厳父」としての世俗的なイメージが、レマス時代に作られたもので、当人の実体とは離れていると主張しているらしい。とすれば、そのイメージは誰が何のために作ったのか、が当然問題となる。
   
    この「アイルランド・ゼロ年代の1冊」受賞作はネットでの投票で決められたわけだが、投票締切1週間ほど前に公表されたその途中経過では、トップ10の中に本書が入っていた。他は人気や評価の高い小説家の作品ばかりの中に、学術書である本書が入っていたのは印象的だった。エイモン・デ・ヴァレラという人には、重要な政治家というにとどまらない歴史的人物として幅広い層からの関心を集める魅力があるのだろう。わが国の近代史では、多少とも似た人は見当たらない。(ゆ)

Havoc, in Its Third Year: A Novel    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その44。


    1956年、ノーザン・アイルランドはベルファスト郊外にカトリックの家族に生まれる。かれが生まれた地域はカトリックとプロテスタントが混在して住んでいることを誇りにしていた。
   
    1974年、オフィシャルIRAによる銀行強盗に関連して、ロイヤル・アルスター警察(RUC)の警官殺害の容疑で起訴される。1975年、控訴審で逆転無罪を獲得、メイズ監獄から釈放。
   
    1978年、ロンドンに移住するが、ここでも爆弾事件の容疑をかけられて、16ヶ月拘留される。ベネットは自ら自分と仲間の弁護に立ち、1979年、無罪をかちとる。
   
    後に、ギルドフォード・フォーの一人の回想録執筆に、名前を出さずに協力するのは、こうした経歴からするとよくわかる。
   
    ギルドフォード・フォーは、1974年、ロンドンの南にあたるギルドフォードの町のパブが爆破された事件などで逮捕、起訴され、有罪宣告を受けて服役した4人のアイルランド人をさす。事件はIRAによるものだったが、この4人はまったく無関係で、事件は英国警察(スコットランドヤード)の完全なでっちあげだった。4人は15年間、刑務所で過ごした後釈放される。同じく無実の罪で刑務所に入れられたマガイア・セヴン、バーミンガム・シックスとともに、ノーザン・アイルランド紛争の生んだ英国警察行政の一大汚点として歴史に残ることになった。
   
    ちなみにオフィシャルIRAはプロヴィジョナルIRAと区別する際の呼称で、1969年、IRAはこの二つに分裂する。分裂の理由は単純ではないが、かいつまんで言えば、当時のIRA指導部が社会主義的傾向を強め、アイルランド全島の統一にはまず社会主義革命が必要と主張しはじめたことに、伝統的なカトリック・イデオロギーの共和主義者が反発したことによる。
   
    オフィシャルは1972年以降、英国、プロテスタントよりもプロヴィジョナルやプロヴィジョナルよりさらに過激なINLA(アイルランド国民解放軍)などとの抗争に明け暮れるようになる。後には資金調達のために始めた麻薬取引などの組織犯罪が主な活動になったと言われる。
   
    ベネットはロンドンで無罪判決を得た後、キングズ・カレッジ・ロンドンで歴史を学び、1987年に博士号を得た。小説家としてのデビューは1991年、The Second Prison で、同年のアイリッシュ・タイムズ/エア・リンガス賞の最終候補になった。
   
    注目を集めたのは、3冊目の長篇 The Catastrophist『恋々』(2001-08)。独立前後のコンゴを舞台に、ある作家の報われぬ恋を描いたもの。
   
    その後がこの『大惨事、その三年め』で、ヒューズ&ヒューズ/サンデー・インディペンデント・アイルランド小説賞を受賞。
   
    2006年に英国の日曜紙『オブザーヴァー』に Zugzwang を連載

    また、映画、TVの脚本も多数手がけている。
   
    本篇は、17世紀前半、ピューリタン革命前夜のイングランド北部のある町を舞台に、一人の男性が、世間とのしがらみ、圧力、利害に抗し、地位、財産、名声を失いながら、真実と、愛する者たちへの愛と、人間としての感情に忠誠を貫く姿を描く。
   
    17世紀前半のイングランドは疾風怒濤の世界だ。社会全体の変化はその社会を構成する人びと自身が作りだしているにもかかわらず、変化を生みだした人びとの生活を容赦なく粉砕し、変えてゆく。何が「正しく」、何が「立派」であるか、評価の軸は千々に乱れ、意見のわずかの違いをもとに、離合集散して、たがいに対立抗争し、お先真暗な未来を前に、人びとは頼れる指針を求めて右往左往する。
   
    要するに、今の、この21世紀前半の、世界の状況によく似ている。
   
    王党派と議会派の対立からいわば鬼っ子として生まれたクロムウェルの独裁も一時的で、事態は収拾にはほど遠く、混乱は17世紀いっぱい続いて、莫大な犠牲と甚大な損害のすえに、ブリテンとアイルランドの情景は一変する。
   
    いま、われわれがその只中にあって右往左往している変化は、17世紀イングランドの人びとが直面したものよりも、深度ははるかに深く、規模も全世界的であるだろうが、変化にさらされて人間としての価値を問われ、裁かれている現場の苦しみは同じだ。つぶされる蟻にとっては、頭上の足が人間の子どものものか、マンモスのものか、どちらでも違いはない。
   
    本篇の主人公は町の王室私有財産管理官であり、重役だ。しかし妻と妻が後見人となっている少女の二人を、ともに心から愛する羽目に陥る。さらに、自分の赤ん坊を殺した容疑をかけられた無実のアイルランド女の弁護にまわって、町の主流から孤立する。熱心ではないがカトリックであることで、司祭をかくまうのをためらわない。戦乱を逃れて放浪する人びとに一宿一飯を提供し、なかの一人を自分の農園で雇うことさえする。
   
    歴史上のヒーローにはちがいない。しかしこのヒーローは、われわれの眼に映って初めてヒーローとなるので、本人が「生きた」時空にあっては、「鼻つまみ者」として世間から排除されてゆく。今、われわれの生きるこの世界の片隅で、人としての本文を尽くそうとしている者も、やはり同じように、世間から排除されているにちがいない。いつの時代にも、地球上どこでも、同じことがこれまで起きてきたし、今も起きているし、これからも起きるだろう。
   
    であれば、この物語は、「原型の物語」のひとつだ。何度でも、形を変え、媒体を変え、くりかえし、語られるべき物語なのだ。われわれの存在そのものが矛盾であることを忘れないために。(ゆ)

ロイ・キーン 魂のフットボールライフ    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その43。

    50選に入った二人のスポーツ選手がともに、ハーリングやゲーリック・フットボールではく、サッカー、いわゆるアソシエイティッド・フットボールのスターというのは21世紀の特徴だろうか。「ケルティック・タイガー」を経て、アイルランドのスポーツ精神もまたアイルランドの枠を出て「国際化」したのだろうか。
   
    アイルランドで人気のある、というより新聞などのメディアに頻繁に登場するスポーツとしてはサッカー、ラグビー、クリケット、ゴルフ、ハーリング、ゲーリック・フットボール、テニス、自転車、競馬というところ。皆、屋外の競技だ。
   
    ハーリングなどのいわゆるゲーリック・スポーツは20世紀アイルランド人の故郷への帰属意識養成に大いに貢献した。アイルランドの人びとの意識を直接にはブリテンから引き離し、共和国内にまとめると同時に、各州対抗のシステムを通じて州への帰属意識を高めてきた。映画『麦の穂をゆらす風』が、主人公たちがハーリングを楽しむシーンから始まるのは、反英国の意志と国内対立の双方を象徴していた。1920年11月21日日曜日の午後、英軍補助隊とRIC(ロイヤル・アイルランド警察)が、その日の朝、マイケル・コリンズが指揮した英軍士官11名の殺害に対する報復の対象として、ダブリン対ティパラリのゲーリック・フットボールの試合を観戦中の群衆を選んだのは、偶然ではなかった。
   
    サッカー、ラグビー、クリケットなどはどちらかというと国際マッチを通じて、対外的な帰属意識を強める作用がある。もっともサッカーの場合はその意識の外縁はヨーロッパの内部だし、ラグビー、クリケットは旧英連邦の内部に限られるわけではある。アジアやアフリカは入ってこない。
   
    もちろん、ポール・マグラアとロイ・キーンの二人の書いたもの自体がたまたま優れていたのかもしれない。サッカーという競技自体の要素は作用していないのかもしれない。それでも、これが例えば四半世紀前に同様の試みが行われたとしたら、ゲーリック・スポーツ関連が1冊も入らない、ということはなかったのではないかという気がする。
   
    一方で、アイルランドのスポーツ選手として、おそらく現在最も広く全世界にその名が知られているのもこの人だろう。わが国でもこうして邦訳が出るくらいだ。
   
    スポーツの国別対抗戦は、実弾を使った戦争の代替手段であるだけでなく、たがいの対抗意識や無知から生まれる悪感情を緩和する機能ももっている。サッカーにはお国柄が出るという。ならば、サッカーを通じてある国を知ることは、言語、視覚、聴覚による芸術を通じて知ることよりも、その国の本質に迫れる可能性を秘める。
   
    そしてまた外国を知ることは、自国を知ることでもある。自国を知らない者は、当人は「愛国者」のつもりでも、おのれの国に殺されることになる。(ゆ)

ロイ・キーン 魂のフットボールライフ    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その43。

    50選に入った二人のスポーツ選手がともに、ハーリングやゲーリック・フットボールではく、サッカー、いわゆるアソシエイティッド・フットボールのスターというのは21世紀の特徴だろうか。「ケルティック・タイガー」を経て、アイルランドのスポーツ精神もまたアイルランドの枠を出て「国際化」したのだろうか。
   
    アイルランドで人気のある、というより新聞などのメディアに頻繁に登場するスポーツとしてはサッカー、ラグビー、クリケット、ゴルフ、ハーリング、ゲーリック・フットボール、テニス、自転車、競馬というところ。皆、屋外の競技だ。
   
    ハーリングなどのいわゆるゲーリック・スポーツは20世紀アイルランド人の故郷への帰属意識養成に大いに貢献した。アイルランドの人びとの意識を直接にはブリテンから引き離し、共和国内にまとめると同時に、各州対抗のシステムを通じて州への帰属意識を高めてきた。映画『麦の穂をゆらす風』が、主人公たちがハーリングを楽しむシーンから始まるのは、反英国の意志と国内対立の双方を象徴していた。1920年11月21日日曜日の午後、英軍補助隊とRIC(ロイヤル・アイルランド警察)が、その日の朝、マイケル・コリンズが指揮した英軍士官11名の殺害に対する報復の対象として、ダブリン対ティパラリのゲーリック・フットボールの試合を観戦中の群衆を選んだのは、偶然ではなかった。
   
    サッカー、ラグビー、クリケットなどはどちらかというと国際マッチを通じて、対外的な帰属意識を強める作用がある。もっともサッカーの場合はその意識の外縁はヨーロッパの内部だし、ラグビー、クリケットは旧英連邦の内部に限られるわけではある。アジアやアフリカは入ってこない。
   
    もちろん、ポール・マグラアとロイ・キーンの二人の書いたもの自体がたまたま優れていたのかもしれない。サッカーという競技自体の要素は作用していないのかもしれない。それでも、これが例えば四半世紀前に同様の試みが行われたとしたら、ゲーリック・スポーツ関連が1冊も入らない、ということはなかったのではないかという気がする。
   
    一方で、アイルランドのスポーツ選手として、おそらく現在最も広く全世界にその名が知られているのもこの人だろう。わが国でもこうして邦訳が出るくらいだ。
   
    スポーツの国別対抗戦は、実弾を使った戦争の代替手段であるだけでなく、たがいの対抗意識や無知から生まれる悪感情を緩和する機能ももっている。サッカーにはお国柄が出るという。ならば、サッカーを通じてある国を知ることは、言語、視覚、聴覚による芸術を通じて知ることよりも、その国の本質に迫れる可能性を秘める。
   
    そしてまた外国を知ることは、自国を知ることでもある。自国を知らない者は、当人は「愛国者」のつもりでも、おのれの国に殺されることになる。(ゆ)

In the Forest    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その42。

    ウィリアム・トレヴァー、ジェニファ・ジョンストンとともに現役最長老世代の19作めの長篇。小説作品としてはこの後、2006年に The Light of Evening がある。
   
    いわゆるチック・リット、この50選の中でも最大勢力ともいえる女性の視点からの小説の元祖はこの人かもしれない。日本語への紹介でも、『恋する娘たち』三部作を筆頭とするそのタイプのものが1970年代後半から80年代前半にかけて集中的に9点が邦訳されている。その他にもエッセイ、昔話など3点の邦訳があるので、50選の中では最も邦訳書の多い人と言える。最新の邦訳はペンギン評伝双書の1冊『ジェイムズ・ジョイス』(2002-09)。
   
    一方でこの人は人間の奥にある闇を直視できる人でもあるようだ。これはそうした作品のひとつで、アイルランド西部の農村部で起きた実際の殺人事件を題材にしている。カポーティの『冷血』に似た手法らしい。
   
    1994年4月29日から5月7日にかけて、クレア州で当時20歳のブレンダン・オドンネルが5人の人間を誘拐し、そのうち3人を殺した。被害者は画家イメルダ・ライニィ、その3歳の息子リアム、それにジョー・ウォルシュ。オドンネルは逮捕、起訴されて終身刑が確定し服役したが、1997年、薬の副作用で獄中で死亡。
   
    主人公はその殺人犯をモデルとした若い男ミシェン・オケイン。父親は母親に暴力をふるい、母親は主人公が10歳のときに死ぬ。それ以後、精神的にハンディキャップがあるとされて各地の施設を転々とするうちに、かれは独自の世界を育てる。とはいえ、それでかれが人殺しになったことを説明はできない。
   
    著者は複数の視点から物語るため、「すべて」が明らかになることはない。書かないことで書きえないことを浮かびあがらせる手法か。
   
    ここで扱われるテーマは政治、性に関する政治、聖職者による性的虐待、児童虐待などなど。これをゴシック小説の手法で語るのがミソか。
   
    タナ・フレンチの『悪意の森In the Woods もそうだが、これもまた森がひとつのメタファになっているようだ。アイルランドには森のイメージは薄いのだが、現れるときは暗さが強調されるところがある。(ゆ)

There are Little Kingdoms: Stories by Kevin Barry    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その41。

    このおさらいもあと10タイトル。
   
    この人も生年や出身地を明らかにしていないが、写真やインタヴューからして、おそらく30代半ばというところ。

    コークでジャーナリストをしていたが、一念発起してキャンピング用トレイラーを買い、とある田舎に駐めて半年そこで暮らしながら、創作に没頭。そこで生まれた短篇が文芸誌に売れはじめる。これは最初の著書でいずれもアイルランドの田舎の小さな町を舞台にした短篇集。2冊目は来年、初の長篇が予定されている。
   
    クレア・キーガンの『青い野を歩く』に続くこの50選で2冊目の短篇集で、デビュー作としてもタナ・フレンチ、ジュリア・ケリィ、それに最終的にこの「アイルランド・ゼロ年代の1冊」に選ばれたデレク・ランディの『スカルダガリー』ともに4人いる。
   
    もっともロイ・キーン、ポール・マグラア、ビル・カレンの「素人」トリオのものも「デビュー」作ではある。
   
    お手本としたのはアメリカの短篇作家ジョン・チーヴァーだそうで、実際かれの短篇はチーヴァーが主な作品発表の場とした『ニューヨーカー』にも掲載されている。
   
    地方の小さな町の、一見平凡な人びとの暮らしの、一枚皮をはぐと現れる「異常さ」を、すぐれたユーモアをもって語ったものらしい。伝統的な共同体が独自の性格を失い、のっぺらぼうの現代社会に呑みこまれていく過程を捉えている、と評されている。過去を神話化するのでもなく、ノスタルジーに陥るのでもなく、クールに坦々と書いているようだ。
   
    こういう話はリアリズムに徹した末にシュールリアリズムやホラーになることも少なくないので楽しみ。(ゆ)

The Master    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その40。
   
    この50選中 Brooklyn とともに2冊めのトービーン。Brooklyn の前作にあたる。

    アイルランドにとって歴史は「文化資産」のひとつだ。少し古い国ではどこでもそうと言えるが、アイルランドではほとんど「天然資源」の趣すらある。ということは、霊感の源泉ともなれば、逃れようとて逃れられない重荷ともなる。作家という職業はその歴史に対して敏感にならざるをえない。あるいは、アイルランドにあっては、歴史に敏感でなければ作家にはなれない。したがって、様々な方法でこれと折り合いをつけるよう努力する。その苦闘の跡を、あるいは手練手管の妙を眺めるのも読者としての楽しみのひとつであったりもする。

    カラム・トービーンは歴史に対して真正面から誠実に相対している作家の一人だ。その誠実さ、歴史を真向から受け止めるその角度の精度において、おそらく現在右に出る者はいないかもしれない。

    例えば気鋭の史家ディアマド・フェリッターと組んだ The Irish Famine: A Documentary (2001)。元は別々に刊行されたものを1冊にまとめたものの由で、第一部がトービーンのエッセイ、第二部がフェリッターが選んだ当時の各種文献からの抜粋を集めたもの。これに引用文献リスト、さらに勉強したい人のための推薦文献リスト、索引が付く。
   
    ここでのトービーンの主張ないし提案のひとつは、歴史に想像力を働かせることだ。実証主義は土台だが、土台だけでは生きた歴史にならない。〈大飢饉〉が実際にどのようなものであったのか、当時の人びとがどのような状況に置かれ、何を感じ、何を考え、どうふるまったか、を明らかにしようとする時、「史実」が記録された史料、たとえば救貧法関連の記録、私信、閣議記録、当時の報道をいくら読みこんでも、こぼれ落ちる部分がある。そして、史実をすくいあげようとする歴史家の指をすり抜けてゆくものにこそ、歴史の真実が含まれている。
   
    トービーンが小説で表現しようとするのは、この歴史の断片、通常史実とは呼ばれないような、 歴史の諸相に生命を吹きこみ、たとえ事実ではなくとも真実ではあるものなのだろう。
   
    とはいうものの、トービーンの書く小説を歴史小説と呼ぶのもためらわれる。かれは何か、体系的な「史観」を提供しているわけではない。もっとずっと広い視野で歴史を掴みながら、デターユを掘り起こす。おそらくトービーンの小説に最も近いものは島崎藤村の『夜明け前』ではないか。

    この The Master の主人公はアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズだ。その晩年、ロンドンでの演劇上演の失敗から南イングランドのライに隠遁し、そこで生涯の傑作となる小説を次々に生みだした時期の作家の内面を描く。人生の危機にあって、作家としての理想を追求して世間との接触をほとんど断ち、作家としての存在もほとんど黒子と化してゆく。
   
    と書いてみると、ピンチョンやサリンジャーを連想するが、あるいはかれらは先輩ジェイムズの顰みにならったのか。
   
    創作という行為と作家が住む日常の、現実の世界との関係が主なモチーフの一つとなろうか。ここではジェイムズが「異邦人」であることが鍵かもしれない。同じ英国のアメリカ人T・S・エリオットとは違ったベクトルをジェイムズはめざしていたようだ。エリオットは心身ともに英国人となるべく、世間と積極的に交わり、大御所としての存在をめざす。ジェイムズはあくまでもアメリカ人のまま、世間との接触を断ち、孤高のクリエイターへと沈潜する。
   
    というようなことが書いてあるのかどうか。20世紀世界文学の中でのジェイムズの位置の確認も兼ねるか。篠田一士は『二十世紀の十大小説』でフォークナーとドス・パソスをとりあげて、ジェイムズは落とした。ジェイムズは20世紀ではなく、19世紀の完成ということか。プルーストやジョイスと並べるのではなく、フロベールやバルザック、ディケンズ、あるいはトルストイ、ドストエフスキーと並べるべきなのだろう。一方でジェイムズには20世紀の先取りもあるように思えてしかたがない。少なくとももはや19世紀ではやっていけないことを感じとり、「次」を模索していた、というと意識的にやっているようだが、むしろクリエイターとしての本能で従来のやり方ではできないものを掴もうとしていたように思える。同様のことはコンラッドにも感じる。
   
    ヨーロッパは19世紀から無理矢理引き剥がされた。本音を言えばまだまだ19世紀でいたかっただろうに。なんと言っても19世紀はヨーロッパの世紀なのだから。もっとも引き剥がした張本人もヨーロッパ自身ではある。つまりは19世紀から20世紀への移行はあのような極限まで暴力的なものにならざるをえなかったのだろう。
   
    その引き剥がしのプロセスを創作過程として体験したのが、ジェイムズであり、コンラッドではなかったか。フォークナー、ドス・パソス、ジョイスといった書き手はすでに転換を終えた世界に棲息している。極限の暴力で「白紙」になった世界に、新たな文字を刻もうとしている。ジェイムズとコンラッドは、19世紀小説にケリをつけ、20世紀文学への地均し、というよりマッピングをする作業を引き受けた。そうと自覚していたかどうかは別として。
   
    アイルランドにとって19世紀から20世紀への移行は、大掴みすれば、従属から独立への移行だった。独立というより、そんなに不満ならば、あとは勝手にやってろ、もう面倒はみないとほうり出された。ほうり出されて、必死になってもがいた苦闘の軌跡がアイルランドの20世紀だ。20世紀も末になって、その苦闘は思いもかけぬ形で報いられるわけだが、ここからふりかえった時、19世紀はどう見えるか。あるいは19世紀から20世紀への移行はどう見えるか。おそらくは今ようやく、アイルランドは19世紀と20世紀を冷静にふりかえることができるようになったのだろう。
   
    〈大飢饉〉についての上記の本もそうがだ、トービーンはそのふりかえりの作業を自分なりにやっているとみえる。この作品もヘンリー・ジェイムズの苦闘を通じて、アイルランドの苦闘を描きだそうとしているのか。(ゆ)

A Secret History of the IRA    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その39。

    2007年にアイルランドと英国向けに第二版が出ている。
   
    著者は長年にわたって「北」の「トラブルズ」を取材していたジャーナリストで、カトリック、プロテスタント、英国政府のいずれにも深く関わり、そのニュース・ソースのネットワークでは抜群のものがあったらしい。
   
    刊行当時、大いに物議を醸し、IRAの奥深くからの情報にもとづいて大いなる陰謀を暴いた偉大な本と持ち上げる向きもあれば、一方に、ごく一部の見解に無批判に基いた、偏向して独善的な叙述と非難する者もいる。
   
    まだ現物を読んでいないから大きなことは言えないが、各種書評を読むかぎりでは、いろいろ他にはない新たな事実、新たな展開を盛り込みながらも、それらの事実、展開を有機的に関連づける全体像に欠けるため、説得力を失っている、というところか。事実や経緯を冷静に述べて、現実感のある歴史を描きだすというよりも、身についてしまった「新聞見出し」を追うセンセーショナリズムに引きずられた結果、記述が空回りしてしまった、と想像する。
   
    基本的にはIRAをその創設から20世紀末、聖金曜日合意までの足跡を追ったものらしい。しかし、大部分は90年代末からのいわゆる和平プロセスにおけるIRA指導部、ありていに言えばシン・フェイン党首ジェリー・アダムズの動きを追っている。その主張は、アダムズがIRAとシン・フェイン党の大部分を裏切り、共和主義運動の大義を犠牲にして和平プロセスを推進した、そしてアダムズの裏切りはかれが党首になってからの20年間ずっと続いていた、というものらしい。
   
    いかにアダムズが有能な政治指導者で、権謀術数にも長け、現場の信頼が篤いとしても、ただ一人で共和主義運動を、それに参加している大部分の人びとの意向とは反対の方向へ動かせるとは、素人目にも、外野からの観察としても、とても信じられない。
   
    この本の背景には聖金曜日合意によってシン・フェインとIRAは、もっとありていに言えばカトリックは、反英闘争の目標を達成できないまま妥協した、という感覚がある。この挫折感を抱えた人びとは、そのはけ口として、アダムスを標的にする傾向があるように思える。
   
    傍から見れば、権力共有政府の大きな部分を担い、カトリックを守る、あるいはカトリック差別を否定ないし柔らげることは、武装闘争時代よりも遥かに容易になっただろうと見える。
   
    むろん、そう簡単にプロテスタント側が既得権益を手放すはずもないが、しかし少しずつでも変化が出ていることは、プロテスタント側にも不満が高まっていることからもわかる。何しろノーザン・アイルランドは、宗派抗争の名を借りた経済的な階級闘争に血道をあげている間に、地域経済全体が衰退しきってしまった。それだけでなく、「ケルティック・タイガー」と化した「南」にあっさり追いぬかれ、はるか後塵を拝する羽目になってしまった。カトリックに任せるとああなるぞ、とバカにしていた共和国に、である。
   
    北のカトリックにしても、いくら南が繁栄したところで、その余録が直接北に回ってくるわけではない。あくまでもノーザン・アイルランドの地域の中でやっていかねばならないわけだ。
   
    聖金曜日合意は、ミモフタもない言い方をすれば、ノーザン・アイルランドのプロテスタントもカトリックももう後がない、このまま対立抗争を続ければ、共倒れになって、かつての共和国以上のどん底に落ちこんで二度と這いあがれなくなる、という恐怖の産物である。
   
    当然、カネがすべてではないと思っている人間は多い。IRAの反英闘争はカネのためではない、少なくともカネのためだけではない、と思っている人間はたくさんいる。そういう人たちにとっては聖金曜日合意は反英反プロテスタント闘争の大義への裏切りに映る。闘争で犠牲になった人びとはいったい何のために死んでいったのか、というわけだ。
   
    アイルランドの20世紀における反英闘争、あるいは共和主義 Republicanism と呼ばれる運動は、そうした二面性をおそらく常に抱えていたのだ。いや、ノーザン・アイルランドだけではない、抑圧に対する闘争とは常に思想と経済の両面を抱えているのだ。そして、現実の解決は常に経済をベースとしておこなわれる。思想、すなわち人の生き方は常に取り残される。
   
    ノーザン・アイルランド紛争は20世紀でも最も長い紛争だった。カトリック側でこれを担ったIRA、正確には Provisional IRA つまりIRA暫定派は、当然単なる反政府武装組織ではない。その主要目的のひとつは、プロテスタント側からの搾取、抑圧、虐待からカトリックを守ることだった。ということはノーザン・アイルランドの政府、警察(RUC= Royal Ulster Constabulary ロイヤル・アルスター警察)、そして英軍からカトリック住民を守ることである。したがってIRAは場合によってはカトリックのためのほとんど自治政府として機能する。とりわけ、治安維持機関、警察の役割も果す。
   
    和平プロセスの最大の問題のひとつが、RUC の再編、改名であったこと、現在の権力共有政府の最大の問題のひとつが警察管轄権のロンドンからベルファストへの移譲であることは、ノーザン・アイルランド紛争の本質の一端を顕わにしている。ほぼ完全にプロテスタントの要員からなり、プロテスタントの権益を守ることを第一の任務としていた RUC は2001年に Police Service of Northern Ireland と改称・再編された。
   
    IRAとて人間の集団である。マイナスの側面、隠しておきたいことは多々あるはずだ。ましてや、反英反プロテスタント闘争の必要から半分以上は秘密組織である。ノーザン・アイルランドのカトリック地区では絶対的といってよい権力も持っていた。となれば堕落腐敗もまぬがれない。その全貌が明らかになるためには、こうした本の1冊や2冊では間に合わないだろう。
   
    IRAが何であったか。何をし、何をなさなかったか。何故か。それは結局IRAだけの問題ではなく、ノーザン・アイルランド紛争全体の歴史の中で検討されねばならない。この本はその検討のための興味深い素材の一部を提供している、と推測する。それがこの50選に選ばれたのは、ひとつには一種のタブーとなっていたノーザン・アイルランドのカトリック側指導部批判を、やや歪んだ形ながらやってのけたからではないか。
   
    こういう紛争の歴史は、当事者よりも第三者の方がうまく書けるものだ。ドイツやアメリカあるいは北欧あたりの研究者が順当だろうが、わが国にも堀越智氏のような人がいる。その学統を汲んだ人たちに小生としては期待する。カトリックもプロテスタントも納得せざるをえないような、バランスのとれた、包括的かつ徹底的なノーザン・アイルランド紛争の歴史が日本語ネイティヴから現れることを期待する。
   
    ノーザン・アイルランド紛争は20世紀以降世界各地で起こってきた、また起こっている地域紛争の最古最大のものの一つだ。各植民地の独立運動のヴァリエーションの一つとも捉えられるし、独立した旧植民地内の植民地体制に対抗する運動の一つであるし、アメリカ合州国政府の言う「テロとの戦い」の原形とも言える。カトリック、プロテスタントそれぞれがパレスチナの各々の当事者に共感し、肩入れするのも無理はない。ならばノーザン・アイルランド紛争の成り立ち、構造、背景まで含めた全体像を提示することは、現代を相手にする歴史家の仕事として最高にやりがいのあるものの一つではないか。(ゆ)

Tatty    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その38。
   
    この人も生年が明らかでない。というより、バイオグラフィ情報が極端に少ない。作品の内容からしてダブリン子ではあるだろう。現在はダブリン在住。
   
    デビューは1995年、The Dancer。ここから、The Gambler (1996)、The Gatemaker (2000) と続く「ダブリン」三部作で名を挙げる。これは第一次世界大戦前から1953年までのダブリンを、ある家族を通じて描いているらしい。その次の著書がこれ。短篇作家としての評価も高いようだが、短篇集はまだ無い。著書としては 最新長篇 Last Train from Liguria (2009) がある。
   
    この本は小説と回想録を融合したものとして高い評価を受けた。1964年から74年までのダブリンを舞台に、開幕時5歳の女の子タティの愛称を持つキャロラインの一人称で語られる、ある中流家族崩壊の物語。
   
    読む人によって毀誉褒貶の激しい人で、まるで正反対の評価が出ている。本書はベストセラーにもなり、この年の Irish Book Award の最終候補にもなっているが、その賞の最終候補を論評するサイトではくそみそにこきおろされている。それだけはまるかはまらないかがはっきり別れるのだろう。(ゆ)

悪意の森 (上) (集英社文庫)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その37。

    この人は1973年生まれで、Irish Book of the Decade を受賞したデレク・ランディTenderwireクレア・キルロイと同年。なお、この50選中で生年がわかる人では他に『縞模様のパジャマの少年』のジョン・ボインと架空作家のロス・オドリスコル・ケリィの黒子ポール・ハワード、それにロイ・キーンが70年代生まれ。
   
    ジュリア・ケリィケヴィン・バリィデレク・ランディとともにこれもデビュー作。エドガー賞受賞作。さすがに邦訳が出ている。翌年第2作 The Likeness を出す。ただし続篇やシリーズではない。
   
    公式サイトによると、著者はトリニティ・カレッジ・ダブリンで俳優の訓練を受け、そちらでも活動している由。アイルランド、イタリア、アメリカ、マラウィで育ち、1990年からはダブリン在住。
   
    このデビュー作も第二作も、事件の設定が風変わりでおもしろい。いずれも探偵役の主人公はダブリンの警察の刑事だが、アイルランドならばこんな事件があってもおかしくないと思わせる。
   
    それにしても、アマゾン・ジャパンの読者評、最後まで一気に読ませれば、それは優れた小説の証として十分ではないかと思うが、皆さん、どこかでケチを付けないと気がすまないのか、素直に誉めるのは沽券にかかわるということなのか。(ゆ)

Connemara: Listening to the Wind (Connemara Trilogy 1)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その36。
   
    この50選発表時点で読んでいた2冊のうちのもう1冊。
   
    この人については、メルマガ本誌本年四月号の(ゆ)の記事でとりあげていますが、読まれていない人もいると思うので、改めて。
   
    ティム・ロビンスンは1935年イングランドのヨークシャ生まれ。ケンブリッジで数学を修めた後、海外で教師をしたり、視覚芸術家として活動したりした後、1972年にゴールウェイ湾のアラン諸島最大の島アランに移住。1984年、その北の対岸コナマーラのラウンドストーンに移住。現在もそこに住んでいます。アイルランドに住みついて活動している点ではケイト・トンプソンと同じ。
   
    アイルランドでは芸術活動に伴う収入には所得税がかからないので、かつてはブリテンから作家やミュージシャンが大挙して移住したこともありました。この二人はそうした人びととは違って、アイルランドの土地と人に惚れこんだ結果、住みつき、アイルランドの魅力を文章にしてくれています。
   
    トンプスンは小説として、ロビンスンはエッセイとして、それぞれにユニークな把握と提示をしています。
   
    どちらかというとロビンスンの方は、外国人であることを活用し、土着の視点では見えないところを見、聞こえないものを聞き、感じられないことを感じている、といえるでしょう。
   
    また、数学者としての素養と訓練は、ロビンスンの観察力、把握力を磨いていますし、文章も明晰で喚起力が強いもので、こういう性格の文章はアイルランド土着の書き手にはあまり見られません。

    1977年にバレンの、1980年にアラン島の、1992年にコナマーラの地図を自身の出版社から刊行します。普通の地図には載っていない細かい地形、地名が丹念に集められて掲載された独自の地図です。どれもすべて実際に自分の足で歩いて確認した情報です。

    1986年、最初の著書 Stones of Aran: Pilgrimage を出版。好評をもって迎えられます。これは現在、現代の古典を収録している New York Review of Books の叢書に第二部の Labyrinth (1995) とともに収められています。
   
    以後、現在までに10冊の著書があります。エッセイ集、小説集、視覚芸術家としての作品の写真集、写真家とのコラボレーションなど様々ですが、主著は上記『アランの石』二部作と『コナマーラ』三部作。
   
    この『コナマーラ:風に耳をすませて』は9冊目。最新作は Connemara: The Last Pool of Darkness (2008)。『コナマーラ』第三部は前2冊の間隔からすると今年刊行のはずですが、今のところまだ予告などはありません。
   
    『アランの石』で確立したロビンスンのスタイルは、ある限られた土地を丹念に歩き、その地勢、そこに生きるいきもの、歴史を丹念に観察、調査、検証を行い、それらをすべて消化した上で、あらためてひとつのヴィジョンとして文章に定着する、というものです。これは地図を作成する過程で、アラン島をくまなく、それこそその足が踏んでいない地面は無いくらいにくまなく歩きまわるうちに形成されたスタイルでしょう。
   
    むろん一人の人間がすべてを知るわけにはいかないので、ロビンスンの関心は主に、鉱物と植物、それに歴史と人間関係に向かいます。その関心と観察の細かいこと。細部にこそ神は宿りたもう。肉眼の極限にまで降りてゆくような観察で明らかにされる細部の描写から、思索は深まる同時に広がって、今度は全宇宙を包含するほどになる。
   
    『アランの石:巡礼』では、アラン島を東端の砂浜を出発して時計まわりに海岸線を一周します。『迷宮』では、同じ東端から内部を歩きます。
   
    『コナマーラ:風に耳をすませて』では、南西部のラウンドストーンからはじめて、その北にラウンドストーン・ボグから内陸部を歩き、「九つのピン」と呼ばれるコナマーラの背骨を成す山に登ります。『最後の闇の水溜り』では北西部、メイヨー州との州境から海岸を南下します。第三部では、コナマーラの南部、アイルランド語伝統の濃いコナマーラでもその中心であり、公式のゲールタハトでもある南部海岸地帯を歩く予定。
   
    というわけで、『アランの石』と『コナマーラ』は、身辺雑記でもあり、紀行でもあり、博物誌でもあり、歴史でもあり、説話集でもあり、哲学書でもあり、つまり言葉の最も本質的な意味で文学であります。アイルランドのごく一部の狭い狭い空間とそこに流れた時間に竿さして、アイルランドの全体像を描きだす。さらには人間世界の、そして人間が置かれた世界の全体像を描きだす。細部を重ねることによって。
   
    万人向けの本ではありません。しかし、その気になれば、誰でも入ることができる。一応リニアな作りではありますが、どこから読んでもよい。これだけ読んでもよいし、著者の作った地図とともに読めばまた格別の味わいがあるでしょうし、地元の写真、動画などとを伴にすれば、さらに面白い。もちろん、実際に自分もそこを歩きながら読めれば最高ではあります。
   
    翻訳を業とする者として、アイルランドを心の故郷とする者として、この『コナマーラ』と『アランの石』はぜひ自分の手で日本語に移してみたい作品であります。が、はたして自分の手に負えるものかどうか、それすらあやしい。と思いまどいつつ、あちらこちらと、また著者の他の著作を読み返す日々であります。なお、ロビンスンの著作はまだ邦訳はありません。(ゆ)

With My Lazy Eye    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その35。

    この50選の中に4冊ある小説デビュー作。刊行時のインパクトも相当なものだったらしいが、こうして3年たっても評価されるということは、たとえ、この著者がついに2冊めを書けなかったとしても、この本は価値があるとみるべきかもしれない。
   
    著者は本業は公務員で、この本の大成功後も勤めをやめていないそうだ。ただ、この人自身はセレブといっていい人で、父親はフィナ・ゲール党所属の国会議員で、法務大臣を勤めていた。
   
    この小説は、著者の分身であるヒロインの「成人」を描いたもので、どこまでが現実でどこからがフィクションか、容易に見分けがつかないものらしい。著者にとって父親は単なる良い父親で、家では政治については一切触れない。とはいえ、どんな小さな国とはいえ、著名政治家の家庭がごく普通の、どこにでもある家庭であるはずはなく、ヒロインが少女から脱皮してゆく過程は小説の素材として不足のないものであったようだ。
   
    著者はその自分の姿を客観視し、ビタースイートなユーモアをまぶして、新鮮な体験として提示することに成功しているのだろう。
   
    当然、第二作を書くのはたいへんだろうと予測され、今のところまだ書かれていないようである。(ゆ)

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その34。

    シェイマス・ヒーニイがアイルランドの詩の現役代表なら、小説の現役代表はこの人ということになる。ウィリアム・トレヴァー、エドナ・オブライエン、ジェニファ・ジョンストンが長老世代。ヒューゴー・ハミルトン、セバスチャン・バリィ、ロディ・ドイル、 ケイト・トンプソン、カラム・トービーン、パトリック・マッケイブの1950年代世代が中核。その後に、ジョセフ・オコナー、カラム・マッキャン、ジョセフ・オニール、クレア・キーガンの60年代世代が続く。
   
    今回の50選の中でも40年代生まれの作家というのは1940年生のモーヴ・ビンキーと1945年生のこの人ぐらいだ。他の世代に比べると、それだけ作家になるのが厳しい時代に遭遇したということか。そのハードルを乗り越えてきたこの二人が、現在のアイルランドの男女の小説家をそれぞれ代表するというのは、それなりに筋が通っているとも言える。
   
    で、これはそのバンヴィルのブッカー賞受賞作。やはり代表作ということになろう。『海に帰る日』(2007-08) として邦訳も出た。めでたいことではあるが、この人ぐらい、きちんと紹介されてほしい。理由なき殺人を犯人の側から描いて前回ブッカー最終候補になった The Book of Evidence (1989) も訳されてないし、Doctor Copernicus (1976) 『コペルニクス博士』(1992-01)、Kepler (1981)『ケプラーの憂鬱』(1991-10)と三部作をなす The The Newton Letter (1982) も出ていない。そういう中でベンジャミン・ブラック名義の Christine Falls (2006) が『ダブリンで死んだ娘』(2009-04) として出ているのは言祝ぐべきか。しかし、この邦題はひどいね。
   
    ちなみに他の邦訳としては、エッセイ Prague Pictures: Portraits of a City (2003) が『プラハ 都市の肖像』(2006-04) として、小説第2作 Birchwood (1973) が『バーチウッド』(2007-07) として、出ている。

    今回、このおさらいをしていても思うが、わが国でアイルランド文学の研究者は少なくないだろうに、現代文学をきちんと追いかけて紹介している人はいないのか。飜訳にいたらないまでも、どういう書き手がいて、どういうものを書いているのか、それは全体の中でどういう位置になるのか、ということを掴めるような紹介だって無意味ではないだろう。単にこちらの探しかたが悪いのか。
   
    これがエンタテインメント系になると、SFやファンタジー、ミステリなどは、それなりに紹介がされていて、その気になれば、概要を掴むことができるのだが、いわゆる純文系とか、児童文学(含むヤングアダルト)とか、少しずれるととたんに五里霧中になる。まさか、わが国のアイルランド文学者はみーんな、ジョイス、ベケット、イエイツばかりやっていて、他の書き手は知りません、というわけでもあるまいに。
   
    英文学の一部として、イングランドやスコットランドといっしょくたにされているのだろうか。だとすれば、もったいない話で、だったら英語で書かれているということで、アフリカやインドの書き手も一緒に扱ったっていいだろう。アイルランドは、アフリカやインドよりも物理的距離はずっと近いとはいえ、イングランドやスコットランドとは明瞭に異なる文化をもっている(いや、スコットランドだって独自の文化だが)。少なくともアメリカがブリテンと違うのと同程度にアイルランドはブリテンとは違う。アメリカ文学が別なら、アイルランド文学だって別だ。
   
    とまれ、詩だったらいざとなれば栩木伸明さんに聞けばよいわけだが、散文の方で栩木さんに相当する人は誰がいるのだろう。(ゆ)

Yours, Faithfully    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その33。

    これもチック・リット、 女性を主人公とし、女性特有の問題をテーマとするジャンルの作家。ジャンル的にはこの50選の中で人数が一番多いのではないか。まあ、わが国でも林真理子とか吉本ばななとか、あのあたりの書き手に近いのだろう。
   
    現物を読んでいるわけではないが、設定はダブリンを中心とした都会の中流階級の話が多いように思われる。少なくともあまり貧乏人は出てこないようだ。もっとも貧困層の話はこれも大量に刊行されている回想録や自伝でいやというほど読める。こちらは逆に中流から上はほとんどない。その点では、こういう書き手が増えたのはやはり経済成長のおかげにみえる。
   
    この人の経歴はチック・リット作家としてはちょと異色で、はじめアイルランドの商業銀行に入り、ディーラーとなってついには主任ディーラーにまで昇進。アイルランド初の女性チーフ・ディーラーだった由。もっともその割には書く小説は幸田真音のような経済小説ではなく、女性ディーラーが主人公であっても、テーマは個人的な問題、結婚、妊娠、恋愛、家族、友情などである。アイルランド経済の中での女性の地位、というようなモチーフも見当らない。この辺がアイルランドらしさということか。
   
    チック・リットではそうしたいわば「天下国家」を論じたり、テーマとして正面からとりあげたりすることは無いようだ。また、宗教、というよりも教会との関係も大きくとりあげられることはどうもないらしい。背景にはあるはずだし、異教徒や外国人の眼から見ると、著者も意図しない形で顕わになっていることもありえるが。あくまでもメイン・キャラの周辺にフォーカスを絞り、そこで起きる人間模様を語ることに専念しているようにみえる。また基調は明るく、ユーモラスで、問題自体は深刻でも暗い雰囲気にはならない。結末も悲劇、オープン・エンディングなどではない。
   
    それと、この分野の書き手で生年を明らかにしている人は例外に属する。
   
    この人は幼ない頃から本に関わる仕事をしたいと念じていて、いわば「ケルティック・タイガー」の一角を支えながらも、30代半ばになって、今書かなければ一生書けないと一念発起。最初に書いたものは売れなかったが次のオファーにつながり、最終的には銀行を辞め、作家に専念。現在は小説家業のかたわら『アイリッシュ・タイムズ』に経済コラムを執筆。なお生粋のダブリン子。
   
    デビューは Dreaming of a Stranger (1997)。以後、年1冊のペースを確実に守る。3作目の Suddenly Single (1999) が『サドンリー・シングル』 (2001-11) として、4作目の Far from Over (2000) が『パーフェクト・マリッジ』 (2002-05) として邦訳されている。

    今回候補になったのは11作めの長篇で、2人のヒロインの結婚と妊娠をめぐる話。 片方は子どもが欲しいのにできず、もう片方は17歳の娘がいるのに二人目を妊娠する。しかしこちらの夫は妊娠判明と前後して、実は重婚していることが明るみに出て……。
   
    最新作は14作めの The Perfect Man (2009)。またパトリシア・スカンランの立ち上げた Open Door シリーズのノヴェラが2冊。他に短篇集が2冊。今秋3冊めの短篇集が刊行予定。短篇集がこれだけ出るのはチック・リットの書き手としては珍しい。(ゆ)

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