クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:文学

07月27日・水
 Micheal R. Fletcherがカナダの人だと知って、俄然興味が湧く。GrimDark Magazine が騒いでいるのは知っていたが、いつか読もうのランクだったのだが、ISFDB でふと見ると、オンタリオ出身でトロント在住。となると読んでみたくなる。なにせ、カナダはスティーヴン・エリクソンが出ているし、チャールズ・ド・リントがいるし、ミシェル・ウェスト=ミシェル・サガラもトロントだし、ヴィクトリア・ゴダードもカナダだ。ウェストの先輩筋にあたる Julie E. Czerneda や K. V. Johansen もいる。

 フレッチャーは2015年の Beyond Redemption で彗星のように現れた。

Beyond Redemption
Fletcher, Michael R
Harper Voyager
2015-06-16


 
 1971年生まれだから44歳で、遅咲きの方だ。もっともデビュー作は2年前2013年に 88 という長篇をカナダの小出版社から出している。後2017年に Ghosts Of Tomorrow として出しなおした。スティーム・パンクものらしい。このカヴァーを見ると読みたくなる。

Ghosts of Tomorrow
Fletcher, Michael R.
Michael R. Fletcher
2017-02-19


 
 以来今年05月の An End To Sorrow で長篇9冊。共作が1冊。作品集が1冊。
 以前はオーディオのエンジニアでミキシングや録音の仕事をしていたらしいことは今年01月の "A Letter To The Editor From Michael R Fletcher" に触れられている。これは GrimDark Magazine の Patreon 会員用に約束した短篇をなぜ書けないかの言い訳の手紙で、1篇のホラ話になっている。



 長篇は二部作が二つに三部作が一つ。スタンド・アローンがデビュー作の他に1冊、Beyond Redemption、The Mirror's Truth の二部作と同じ世界の話。この世界では妄想を現実にできる人間がいるが、それができる人間は必ず気が狂っている。こんな世界がロクな世界でないことは当然だが、そこからどんどんとさらに崩壊してゆく世界での権力争いと泥棒たちの野心とそれに巻きこまれる各々にろくでなしだが個性だけは強烈なやつら。まさに grim で dark、凄惨で真暗な世界での、希望とか優しさとかのかけらもない話、らしい。そして、それが面白い、というのだ。
 とまれ、読んでみるしかない。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月27日には、1973年から1994年まで、4本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1973 Grand Prix Racecourse, Watkins Glen, NY
 金曜日。翌日の本番のためのサウンドチェック。ではあるが、すでに来ていた数千人が聴いていたし、2時間以上、計11トラックの完全なテープが残っている。
 "Summer Jam" と名づけられたイベントでオールマン・ブラザーズ・バンド、ザ・バンドとの共演。
 後半の〈Me and My Uncle〉の後のジャムの一部が〈Watkins Glen Soundcheck Jam〉として《So May Roads》でリリースされた。
 本来正式なショウではないが、公式リリースがあるのでリストアップ。
 ワトキンス・グレンはニューヨーク州北部のアップステート、シラキューズから南西に車で130キロの村。この辺りに Finger Lakes と呼ばれる氷河が造った細長い湖が11本南北に並行に並んでいる、その中央に位置する最大のセネカ湖南端。会場となったレース場は NASCAR カップ・シリーズなど、全米的催しの会場。かつてはアメリカの F1 レースの会場でもあった。

2. 1974 Roanoke Civic Center, Roanoke, VA
 土曜日。
 Wall of Sound の夏。全体としては非常に良いショウだが、ところどころ斑の出来ではあるようだ。
 この7月末、25日から1日置きでシカゴ、ヴァージニア、メリーランド、コネティカットと回り、8月上旬フィラデルフィアとニュー・ジャージーで3日連続でやって夏休み。9月はヨーロッパに行き、その後10月下旬ウィンターランドでの5日間になる。

0. 1977 Terrapin Station release
 1977年のこの日、《Terrapin Station》がリリースされた。
 バンド7作目のスタジオ盤。アリスタからの最初のリリース。前作 Grateful Dead Records からの最後のリリース《Steal Your Face》からちょうど1年後。次は翌年11月の《Shakedown Street》。1971年からこの1978年まで、毎年アルバムをリリースしている。
 トラック・リスト。
Side one
1. Estimated Prophet {John Perry Barlow & Bob Weir}; 5:35
2. Dancin' in the Streets {William Stevenson, Marvin Gaye, I.J. Hunter}; 3:30
3. Passenger {Peter Monk & Phil Lesh}; 2:48
4. Samson & Delilah {Trad.}; 3:30
5. Sunrise {Donna Godchaux}; 4:05

Side two
1. Terrapin Part 1
Lady with a Fan {Robert Hunter & Jerry Garcia}; 4:40
Terrapin Station {Robert Hunter & Jerry Garcia}; 1:54
Terrapin {Robert Hunter & Jerry Garcia}; 2:11
Terrapin Transit {Mickey Hart & Bill Kreutzmann}; 1:27
At a Siding {Robert Hunter & Mickey Hart}; 0:55
Terrapin Flyer {Mickey Hart & Bill Kreutzmann}; 3:00
Refrain {Jerry Garcia}; 2:16

 2004年《Beyond Description》収録にあたって、ボーナス・トラックが追加。このアルバムについては録音されながらアルバムに収録されなかったアウトテイクがある。
07. Peggy-O (Traditional) - Instrumental studio outtake, 11/2/76
08. The Ascent (Grateful Dead) - Instrumental studio outtake, 11/2/76
09. Catfish John (McDill / Reynolds) - Studio outtake, Fall 1976
10. Equinox (Lesh) - Studio outtake, 2/17/77
11. Fire On The Mountain (Hart / Hunter) - Studio outtake, Feb 1977
12. Dancin' In The Streets (Stevenson / Gaye / I. Hunter) - Live, 5/8/77

 このアルバムは内容もさることながら、録音のプロセスが重要だ。プロデューサーのキース・オルセンはバンドに対してプロとしての高い水準を要求する。当初の録音に対し、こんなものは使えないとダメを出しつづける。業を煮やしたバンドが、これ以上はできないと言うと、オルセンは答えた。
 「いんや、きみらならもっといいものができる」
 また、スタジオでの時間厳守など、仕事の上でのルールを守ることを徹底する。
 それまで、好きな時に好きなようにやっていたバンドにとってはこれは革命的だった。そうしてリズムをキープし、余分な部分を削ぎおとすことで、音楽の質が上がり、またやっていてより愉しくもなることを実感したのだろう。この録音過程を経て、グレイトフル・デッドはほとんど別のバンドに生まれかわる。1977年がデッドにとって最良の年になるのは、半ばオルセンのおかげだ。それ以前、とりわけ大休止の前に比べて、演奏はよりタイトに、贅肉を削ぎおとしたものになり、ショウ全体の時間も短かくなる一方で内容は充実する。だらだらとやりたいだけやるのではなく、構成を考えたショウになる。シンプルきわまりない音とフレーズの繰返しだけで、おそろしく劇的な展開をする〈Sugaree〉に象徴される、無駄を省いた演奏も、このアルバムの録音ゑ経たおかげだ。
 つまるところ、大休止から復帰後の、デッドのキャリア後半の演奏スタイル、ショウの構成スタイルに決定的な影響を与えたアルバムである。
 一方で仕事をする上でのそうした革新が内容につながるか、というと、そうストレートにいかないのがデッドである。それに、仕上がったものは、バンドの録音にオルセンがオーケストラと合唱をかぶせたため、さらに評価がやりにくくなっている。バンド・メンバーからも批判された。
 まず言えることは、これまでのアルバムの中で、最もヴァラエティに富んでいる。B面はハンター&ガルシアが中心となった組曲〈Terrapin Station〉だが、A面はすべてのトラックで作詞作曲が異なる。しかも珍しくカヴァーを2曲も収めている。
 B面のタイトル・チューンをめぐっては、時間が経って聴いてみると、一瞬ぎょっとするものの、聴いていくうちに、だんだんなじんでくる。アレンジと演奏そのものは質の低いものではない。そして、後にも先にも、デッドの音楽では他には聴けないものだし、ライヴでももちろんありえないフォームだ。オーケストラによるデッド・ナンバーの演奏があたりまえに行われている昨今からすれば、むしろ先駆的な試みであり、デッドの音楽の展開の新たな方向を示唆しているとも言える。
 レパートリィの上では、〈Estimated Prophet〉〈Dancin' in the Streets〉〈Samson And Delilah〉それに〈Terrapin Staiton〉は以後定番となってゆく。

3. 1982 Red Rocks Amphitheatre, Morrison, CO
 火曜日。13.75ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 お気に入りのヴェニューでノッていたようだ。第二部は〈Playing In The Band〉に始まり、〈Playing In The Band〉に終る。途中にも入る。

4. 1994 Riverport Amphitheater, Maryland Heights, MO
 水曜日。24.50ドル。開演7時。このヴェニュー2日連続の2日目。第一部4曲目〈Black-Throated Wind〉でウィアはアコースティック・ギター。
 開演前にざっと雨が降り、ステージの上に虹が出た。それでオープナーは〈Here Comes Sunshine〉。
 前日よりは良く、第一部の〈Jack-A-Roe〉〈Black-Throated Wind〉、第二部オープナーの〈Box Of Rain〉、クローザー前の〈Days Between〉など、ハイライトもあった。
 ツアーの疲れが一番溜まる時期ではある。(ゆ)

07月26日・火
 ワシーリー・グロスマン『万物は流転する』をみすずが新装復刊したので購入。来月には『人生と運命』も新装復刊されるので、今度はちゃんと買って読む予定。

万物は流転する【新装版】
ワシーリー・グロスマン
みすず書房
2022-06-20


 
 NYRB が出している一連のグロスマンの英訳には Life And Fate も Everything Flows… もちゃんとある。その他に、『人生と運命』の前日譚になる Stalinglad と、時間的にはさらにその前の時期を描いた The People Immortal が出ている。
 Stalinglad は1952年にソ連でロシア語で刊行された同名の書に、未刊行原稿を加えたものらしい。頁数は1,000超えで、Life And Fate よりも厚い。邦訳はされそうにないから、邦訳をひと通り読んでから挑戦してみるか。
 The People Immortal は、どんな手段を使ってでもドイツ軍の前進を止めろと命じられたある部隊の顛末だそうだ。英語版 Wikipedia によれば1943年にモスクワでこれの英訳が出ている。原書はもっと前なのか。
 NYRB版では The Road としてまとめられている中短篇、報道記事、エッセイなどはみすずの2冊の作品集とほぼ重なるようだ。みすずでは後期の『システィーナの聖母』に一部が入っているアルメニアの旅行記が、An Armenian Sketchbook として1冊になっている。
 とまれ、まずは『人生と運命』を読むべし。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月26日には1972年から1994年まで、3本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1972 Paramount Theatre, Portland, OR
 水曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 DeadBase XI の John W. Scott によれば、この年にしては平均的な出来、ということはかなり水準の高いショウになる。3時間半超の長さも、この年では珍しくない。そこには30分を超える〈Dark Star〉も含まれる。
 翌日から2週間夏休みで、08月12日にサクラメントで単発のショウを行い、20日から10月02日までの長い秋のツアーに出る。春のヨーロッパ・ツアーの後で休んでいるので、この年は11月末までほとんど休み無し。

0. 1976 Steal Your Face release
 1976年のこの日《Steal Your Face》がリリースされた。
 バンド5作目のライヴ・アルバム。Grateful Dead Records 最後のリリース。アナログ2枚組に収められた14曲は1974年10月16〜20日のウィンターランドでの連続公演の録音から選ばれた。実際には16日からの収録は無い。各日からの収録曲は以下の通り。

1974-10-17
Casey Jones
It Must Have Been the Roses

1974-10-18
Ship of Fools
Beat It On Down the Line
Sugaree

1974-10-19
Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo
Black Throated Wind
U.S. Blues
Big River
El Paso

1974-10-20
Promised Land
Cold Rain and Snow
Around and Around
Stella Blue

 後に同じ公演からの録音としてリリースされた《The Grateful Dead Movie Sound Track》との重複はこのうち17日の〈Casey Jones〉1曲のみ。ただし、GDMST 収録の版は短縮されている。

 アルバムのトラック・リスト。当時のロックのライヴ・アルバムの常で、全体が1本のショウとして聴けるように並べられている。

Side one
1. The Promised Land {Chuck Berry} 3:15 1974-10-20
2. Cold Rain And Snow {Trad.} 5:35 1974-10-20
3. Around And Around {Berry} 5:07 1974-10-20
4. Stella Blue {Robert Hunter & Jerry Garcia} 8:48 1974-10-20

Side two
5. Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo {Hunter, Garcia} 8:00 1974-10-19
6. Ship Of Fools {Hunter, Garcia} 6:59 1974-10-18
7. Beat It On Down The Line {Jesse Fuller} 3:22 1974-10-18

Side three
8. Big River {Johnny Cash} 4:53 1974-10-19
9. Black-Throated Wind {John Barlow, Bob Weir} 6:05 1974-10-19
10. U.S. Blues {Hunter, Garcia} 5:18 1974-10-19
11. El Paso {Marty Robbins} 4:15 1974-10-19

Side four
12. Sugaree {Hunter, Garcia} 7:33 1974-10-18
13. It Must Have Been The Roses {Hunter} 5:58 1974-10-17
14. Casey Jones {Hunter, Garcia} 7:02 1974-10-17

 このアルバムはバンド史上最低の内容との評価がほぼ確定していて、後に二つのボックス・セットにアナログ時代の全アルバムがボーナス・トラック付きでまとめられた際にも、これだけは収録されなかった。1989年に初めてCD化され、2004年にリマスター版がリリースされて、音質は改善された。2017年のレコードストア・ディ用に再度リマスターされたアナログ盤がリリースされ、ここで音質はかなり改善された由。

 あたしはこのアルバムをリアルタイムで買った。ちょうどその頃、CSN&Y からアメリカ音楽に目覚め、オールマン、リトル・フィート、ザ・バンドなどを聴きあさっていた頃で、グレイトフル・デッドも聴くべしと、折りしも発売されたばかりの新譜を買った。デッドはこれが初お目見えで、どういうバンドかも、どんなアルバムを出しているのかも、まったく知らなかった。
 何度か聴いたものの、まったく面白くもなんともなく、ロックのライヴ・アルバムにあるまじきやる気の無さが目立つ、ふにゃふにゃとしまりのない演奏ばかりとしか聞えなかった。比較対象となっていたのはオールマンの《フィルモア》であり、CSN&Y の《4 Way Street》であり、ザ・バンドの《Rock Of Ages》であり、ディランの《激しい雨》であり、デイヴ・メイスンの《Certified Live》だった。クリムゾンの《U.S.A.》もあったが、文脈が異なる。
 結局あたしとしては箸にも棒にもかからないものとして、これは棚に眠ることになった。バンドにも見切りをつけ、他のアルバムは買うことも聴くこともなかった。その頃のわが国のラジオではかからなかったし、「ブラックホーク」はじめ、ロック喫茶で聞いた覚えもない。
 アメリカ音楽に自分なりに深入りするにつれて、時にデッドの名前に出逢うこともあり、そう言えばとほんの時偶、数年おきぐらいに引っ張り出して聞いてみるのだが、その度にやはりダメだという結論を確認するだけだった。教えられて《Workingman's Dead》と《American Beauty》の CD は買って聴いてみたものの、《Steal Your Face》の悪印象は強烈で、デッドについての評価を変えるにはいたらなかった。
 近年デッドにはまりこんでから、あらためて最初のリマスター版を聴いてみると、記憶にあるほどひどいとは思わないことを発見した。おそらく、デッドの曲を知り、演奏がどういうものかわかってきているせいだろう。もっともこのアルバムとして聴くよりは、各々のショウの一部として聴いた方が、コンテクストがわかるのでより素直に聴ける気がする。デッドのショウはやはり1本ずつでまとまっている。
 一方でこの選曲は、確かにデッドのレパートリィを代表するものが入ってはいるものの、デッドの音楽の真髄が聴けるかとなると首をかしげてしまう。《Live/Dead》や《Europe '72》に収められたジャム、集団即興のスリルはここには無い。さあ、どうだ、こいつを聴いてみろ、というよりは、恐る恐る出して見ました、という感じだ。Grateful Dead Records はすでに仕舞うことが決まっていて、身が入らなかったのかもしれない。
 アルバムの出来としては、エントリー・ポイントにはなりえないことは確かだ。デッドの音楽に親しんでから、こういうものもあると聴いても遅くはない。


2. 1987 Anaheim Stadium, Anaheim, CA
 日曜日。開演5時。ディランとのツアーの千秋楽。
 第一部、第二部、デッド、第三部デッドをバックにしたディラン。そのデッドのセットの全体が《View From The Vault IV》で DVD と CD でリリースされた。ただし drums> space は DVD では編集されている。
 また、第三部からクローザーの2曲〈Gotta Serve Somebody〉〈All Along The Watchtower〉とアンコールの2曲目〈Knockin' On Heaven's Door〉の3曲が《Dylan & The Dead》でリリースされた。
 ボブ・ディランとのこのツアーは07月04日から26日まで計6本。すべてスタジアムでのショウ。収容人数と入場者数は以下の通り。

04: Sullivan Stadium, Foxborough, MA = 61,000/ 61,000
10: John F. Kennedy Stadium, Philadelphia, PA = 71,097/ 90,000
12: Giants Stadium, East Rutherford, NJ = 71,598/ 71,598
19: Autzen Stadium, Eugene, OR = 40,470/ 40,470
24: Oakland–Alameda County Coliseum, Oakland, CA = 53,354/ 55,000
26: Anaheim Stadium, Anaheim, CA = 47,449/ 50,000
TOTAL 344,968/ 368,068 (94%)

 このうち12、24、26日のショウのデッドのセットの全体と、04日のデッドのセットから1曲が公式にリリースされている。
 《Dylan & The Dead》でリリースされたのは04、19、24、26日のショウからの録音。


3. 1994 Riverport Amphitheater, Maryland Heights, MO
 火曜日。24.50ドル。開演7時。このヴェニュー2日連続の初日。
 古強者のデッドヘッドにとっては我慢ならないほどひどいショウだが、これが初めての新たなファンにとっては最高のショウの1本になる。(ゆ)

07月24日・日
 Washington Post Book Club のニュースレターで紹介されていた Alec Wilkinson, A Divine Language の電子版の無料サンプルを読んで、そのまま購入。



 
 この人はノンフィクションに分類される本を10冊書いていて、これが11冊目。前作 The Ice Balloon は飛行船で北極探索をしようとしたスウェーデン人の話。その前 The Protest Singer はピート・シーガーについての短かい本。その前 The Happiest Man In The World は型破りのホームレス、ポッパ・ニュートリノの「伝記」。デビュー作 Midnight は25歳で就職したマサチューセッツ州ウェルフリート、つまりケープ・コッドの先端から一つ南の町の警察官としての経験を書いたもの。警官になる前はバークレーでロック・ミュージシャンをしていて、ディランのバンマスであるトニィ・ガルニエと一緒にやったこともある。LSD の体験もしている。60年代末の話だ。デッドヘッドではないまでも、デッドを知らないはずはない。
 かれの父親の一番の親友は The New Yorker の小説担当編集を長らく勤め、作家でもある William Maxwell で、父親の頼みで Midnight の原稿を読んでもらえたことから、マクスウェルに「弟子入り」し、The New Yorker で働きはじめる。1952年生まれ。
 ウィリアム・マクスウェルはもう1人のマクスウェル、マクスウェル・パーキンスの次の世代を担った編集者でその担当作家の1人はサリンジャーだった。『ライ麦畑』を書き上げたとき、サリンジャーはマクスウェルの別荘に車を走らせ、そのベランダで夫妻に読んで聞かせた。別荘があったのはケープ・コッドで、それが建つ同じ道沿いの家でウィルキンソンは育った。おかげでかれはウェルフリートの2,000人の住人を知っていた。警官になれたのはそれが理由だ。
 出たばかりの A Divine Language は65歳になったウィルキンソンが一念発起して、数学をモノにしようとする。1年余りのその奮闘の記録、だそうだ。副題に "Learning Algebra, Geometry, and Calculus at the Edge of Old Age"。数学の才に恵まれてシカゴ大学の教授をしている姪の支援を受けながら、若い頃に失敗した数学をイチから学びなおそうとする。高校を卒業できたのは、数学の試験でカンニングをしたおかげだった、という告白からこの本は始まる。老いを感じる時、人は何かを学ぶことで知的衰退を遅らせようとする。新たな言語を学んだり、詩集を1冊暗誦できるようにしたり、という具合だ。ウィルキンソンの場合はなぜか数学だった。それも趣味ではなく、きちんと学問の訓練を受ける形でだ。数学のあのにやにや笑いを吹きとばしてやりたいという一心からである。
 当然、著者は、その本道を学ぶだけでなく、数学を様々な角度から攻めたてる。その歴史、作ってきた人びと、数学者集団の特性、数学と世界の関係。電子版の無料サンプルを読んでいるだけでも、著者の博識には読書欲をかきたてられる。断片が引用される本を次から次へと読みたくなる。
 そしてもちろんここには老いること、困難な課題にくらいついていくこと、そしてこの世界の表に現れない本質的な秩序についての考察が鏤められている。
 この人の文章は一見簡潔でドライだが、ユーモアがこぼれ出る。こぼれ出るのがわかっていて、こぼれ出るのに任せているようだ。あるいは本人にとっては特段ユーモラスなことを書こうとしているわけではなくても、読んでいると思わず腹を抱えて笑ってしまう。読むのがたいへん愉しい。
 というわけで、The Protest Singer と The Happiest Man In The World も注文してしまった。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月24日には1987年と1994年の2本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 金曜日。開演7時。ディランとのツアーの一環。
 第一部、第二部がデッド、第三部がデッドをバックにしたディラン。第一部と第二部のデッドのみのセットの全体が《View From The Vault IV》で DVD と CD で別々にリリースされた。DVD の方は第一部5〜7曲目〈Friend Of The Devil〉〈Me And My Uncle> Big River〉が省かれている。
 また第三部5曲目〈I Want You〉が《Dylan & The Dead》でリリースされた。
 見た人によると、最初にディランがソロで数曲やったらしい。
 第3の黄金時代へと向かいはじめている時期で、演奏はすばらしい。第二部はほぼ1本につながった70分。

2. 1994 Soldier Field, Chicago, IL
 日曜日。32.50ドル。開演6時。このヴェニュー2日連続の2日目。トラフィック前座。
 前日に比べると劣るようだ。ガルシアだけが不調というわけではなく、〈It Must Have Been Roses〉ではウィアが二度も歌詞を間違えた。とはいえ、輝きはまだところどころあり、印象に残るショウという人もいる。
 二度、同じところの歌詞を間違えた、ということは、歌詞をいちいち思い出しながら歌っているのではなく、自動的に口をついて出てくるようになっているのだろう。それが何かの拍子に、別の似たフレーズと置き換わってしまうわけだ。
 デッドのレパートリィは少ないときでも50、1980年代には常時100を超え、1987年以降は150曲前後で推移した。これはステージで実際にやった曲を集めて、重複を除いた数だ。デッドは演奏する曲をその都度その場で決めている。ということは150にも及ぶ数の曲はいつ何時でも演奏できたわけだ。動画を見ると初期の頃から歌詞は一切見ていない。150曲の歌詞はすべてアタマにというよりも、カラダに刻みこまれていたわけだ。
 1993年頃になってガルシアが歌詞を忘れたり、間違えたりすることが多くなるのが問題になる。これは動脈硬化で、脳に十分な量の血液が行かなくなるためだと後にわかる。当面、本人の努力でどうなるものでもないから、歌詞を映しだすプロンプターを用意することで解決をはかった。だからここではガルシアが「正しい」歌詞をうたっていて、ウィアの方が違う歌詞を同時にうたってしまった。それも二度も。ウィア自身、自分で自分に呆れはてたとかぶりを振るのが画面に大映しになったそうだ。
 もっとも調子の良い時でも、歌詞のスタンザの順番が入れ替わったり、スタンザの前半が次のスタンザの後半にくっついたり、ということは稀ではない。むしろ、歌詞のまちがいがまったく無いショウの方が少ないと言ってもいい。デッドの場合、調子が良い時には、そういう「ミス」はまったく気にならない。あはは、またやってら、と聴いている方は文字通り笑って許す。ミスが気になるのは、全体の演奏の質がよくないときだ。
 この年の夏のツアーは長く、このショウでは疲れている様子が目立ったらしいが、この後08月04日のジャイアンツ・スタジアムまで、4箇所、7本残っている。(ゆ)

07月22日・金
 3ヶ月半ぶりの床屋。この爽快感はやめられない。夕方、散歩に出て、今年初めて蜩を聞く。

 夜、竹書房編集のMさんから連絡。今月末「オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(藤井光訳)刊行記念オンライントークイベント」というオンライン・イベントがあるそうな。

 SFセミナーでもバトラー関連企画があるそうな。もう間に合わんか。
「オクテイヴィア・バトラーが開いた扉」出演:小谷真理 橋本輝幸

 わが国でもじわじわ来てますなあ。あたしが訳した The Parable 二部作は今秋刊行でごんす。皆さま、よしなに。

 それにしても、バトラーさん、出身高校にまでその名前がつけられる今の状況を知れば、墓の下で恥ずかしさに身を縮こませてるんじゃないか。こんなはずではなかったのに、と。なにせ、「血を分けた子ども」がネビュラを獲ったとき、こういうことにならないようにと思ってやってきたのに、と言ったくらいだからねえ。

 とはいえ、彼女の場合、黒人で女性という二重のハンデを筆1本じゃないペン1本だけで克服したわけだから、尊敬されるのも無理はない。それも、今と違ってマイノリティへの差別がまだあたりまえの時代、環境においてだし。まあ、とにかく、あたしらとしてはまずは作品を読むことだな。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月22日には1967年から1990年まで4本のショウをしている。公式リリースは2本。

1. 1967 Continental Ballroom, Santa Clara, CA
 土曜日。2.50ドル。このヴェニュー2日連続の2日目。共演サンズ・オヴ・シャンプリン、ザ・フィーニックス、コングレス・オヴ・ワンダーズ。セット・リスト不明。これを見た人の証言は2日間のどちらか不明。

2. 1972 Paramount Northwest Theatre, Seattle, WA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第一部3曲目〈You Win Again〉5曲目〈Bird Song〉11曲目〈Playing In The Band〉、第二部クロージングの3曲〈Morning Dew〉〈Uncle John's Band〉〈One More Saturday Night〉の計6曲が《Download Series, Vol. 10》でリリースされた。
 どれもすばらしい演奏。〈Bird Song〉と〈Playing In The Band〉は成長途中で、中間のジャムがどんどん面白くなっている時期。各々でのジャムのやり方を開発してゆく過程が見える。〈Playing In The Band〉の冒頭、ウィアがドナ・ジーン・ガチョーと紹介する。ドナの参加はまだこれだけ。
 〈Morning Dew〉はこの2曲よりは完成に近づいている。フォーマットはほぼ固まっていて、あとは個々の要素をより深めてゆく。

3. 1984 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。開演2時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 最高のショウの1本の由。

4. 1990 World Music Theatre, Tinley Park, IL
 日曜日。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの中日。ティンリー・パークはシカゴ南郊。
 第二部2曲目〈Hey Pocky Way〉の動画が《All The Years Combine Bonus Disc》でリリースされた。
 第一部6曲目〈When I Paint My Masterpiece〉が始まって間もなく、一瞬、電源が切れて、沈黙が支配した。
 その後の第一部クロージングへの3曲がすばらしかったそうだ。(ゆ)

06月19日・日
 山村修の本をあらためて読んでいる。この人は本当に惜しかった。〈狐〉名義による書評はもちろんだが、それ以外のエッセイがすばらしい。『遅読のすすめ』には大笑いしながら、膝を叩き、唸り、そして、励まされた。そうだ、本はゆっくり読んでいいのだ。いや、ゆっくり読むべきだ。数ではない。著者が何年も、ときには何十年もかけてようやくできた本を、そんなにあわてて読みいそぐのはむしろ失礼ではないか。相応の敬意を払い、その本にふさわしいテンポで読むべし。たくさん読みたいという欲求は否定しないが、だからといって無闇に急ぐのも本末転倒だ。

 それにしても、初めの方の『猫』の引用にはやられた。腹を抱えて、げらげら笑ってしまう。こりゃあ、やっぱりまた読まなくちゃ。

 『気晴らしの発見』がまた凄い。大宅壮一のこんな文章を見つけてくるのには脱帽するしかない。ベンヤミンは気晴らしを芸術の対極においたが、ここでは気晴らしが芸術の域に達している。ベンヤミンも気晴らしのこういう位相に気づいていたら、自殺することもなかったんじゃないか。

 ひいおばあさん同士が姉妹という中野翠が、青空を見る人というのがまたいい。あたしは真青な空よりも雲が浮かんでいる方が好きだが、空を見る気分はわかるつもりだ。近頃周りを見ていると、どうも皆さんうつむいてばかりいるようでもある。たまには顔を上げて、空を見てはいかが。気は勝手に晴れてくれない。晴れるように工夫をして、きっかけを作る必要はある。『鬼平』にも出てくるが、まず笑ってみる。絶体絶命の状況で笑うことで余裕を作る。こういうところ、やはり池波はわかってるなあ、と感心する。戦争体験だろうか。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月19日には1968年から1995年まで10本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。

01. 1968 Carousel Ballroom, Francisco, CA
 水曜日。前売1.50ドル、当日2ドル。開演7時半。共演リッチー・ヘヴンス。Blackman's Free Store のためのベネフィット・イベント。ポスターには "Gratefull Dead" とある。
 セット・リストとして、前半〈Turn On Your Lovelight〉で始まり、〈Not Fade Away〉からまた TOYL に戻るもの、後半、〈Playing In The Band〉から〈Dark Star> The Other One〉をテーマとしたジャムになるもの、が残っている。ここから NFA と PITB の初演とされている。
 〈Not Fade Away〉はこれ以前に、《Rare Cuts & Oddities 1966》に収録された、1966年初めの日付場所不明の録音がある。これも含め1995-07-05まで計565回演奏。演奏回数順では5位。〈Sugar Magnolia〉より36回少なく、〈China Cat Sunflower〉よりも7回多い。スタジオ盤収録無し。アナログ時代のライヴ盤にも収録は無い。クレジットは Norman Petty and Charles Hardin。Hardin はバディ・ホリーが作曲者として用いた名前。Petty はホリーのマネージャーでおそらく名義のみ。The Crickets の1957年のシングルはヒットせず。ローリング・ストーンズが1964年に出したシングルがヒットした。
 当初はピグペンの持ち歌で、後にウィアが受け継ぐ。クローザーになることも多く、その場合、最後のコーラスに聴衆が声と手拍子を合わせ、バンドがステージから去っても延々と続けて、バンドを呼びもどす、というケースがよくある。
 〈Playing In The Band〉はハンター作詞、ウィア作曲。1995-07-05まで計610回演奏。演奏回数順では2位。〈Me and My Uncle〉よりも14回少なく、〈The Other One〉〈Sugar Magnolia〉よりも9回多い。バンドのオリジナル曲としては1位で、文句なくデッドのレパートリィを代表する曲。スタジオ盤はウィアのソロ・ファースト《Ace》収録。ただし、こちらでは歌詞が若干変えている。ハンターが書いた通りのヴァージョンとしては《Skull & Roses》収録のものがある。デッドとしてのスタジオ盤には収録無し。
 デッドの曲は演奏が重なるにしたがって姿を変えてゆくが、この曲はその中でも最も大きく変わったものだろう。当初は5分以内で終る歌だったものが、1972年のヨーロッパ・ツアーの間に中間の集団即興、ジャムの部分が膨らみだし、1973年から、74年頃には30分に及ぶモンスターになる。さらに、途中で他の曲が挿入されるようになり、挿入される曲が複数になって、第二部全体あるいはショウ全体をはさむ。ついにはコーダに復帰するのが複数のショウにまたがるまでになる(とうとう復帰しなかったこともある)。デッドの定番曲の録音を年代順に聴いてゆくのはたいへんに愉しいが、この曲の聴き比べはとりわけ愉しい。
 ウィアの曲らしく、メロディもユニークで、アメリカというよりはイングランドの曲に聞える。フェアポート・コンヴェンションあたりがやってもおかしくない。

02. 1976 Capitol Theatre, Passaic, NJ
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。8.50ドル。開演7時半。
 全体が《June 1976》でリリースされた。

03. 1980 West High Auditorium, Anchorage, AK
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時半。アラスカ州での公演はこの時のみ。聴衆の半分は本土からやってきたデッドヘッド。当時アラスカでは個人的にマリファナを栽培することは合法だったので、自家製ポットでもてなすモーテルのおやじもいたそうな。
 ショウは見事なもの。

04. 1987 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。
 そうそう、〈Samson & Delilah〉のコーラスで "Tear this old building down" の "down" をガルシアが「ダウゥゥゥゥン」と伸ばす時は調子が良い証拠。

05. 1988 Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 日曜日。このヴェニュー4本連続のランの初日。開演7時。
 第二部オープナーで〈Foolish Heart〉がデビュー。ハンター&ガルシアの曲。1995-06-27まで84回演奏。スタジオ版は《Built To Last》収録。
 熱く、乾燥した日で、駐車場が舗装されていないので、舞い上がった土埃が会場の中に飛んできた。人呼んで「ダスト・ボウル・ショウ」。1時間遅れで始まり、第一部は短かかったが、第二部はすばらしい。

06. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。
 第一部クローザー〈Bird Song〉、第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉を初め、非常に良いショウの由。

07. 1991 Pine Knob Music Theatre, Clarkston, MI
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。23.50ドル。開演7時半。
 第二部2・3曲目〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉、Space 後のクローザーを含む3曲の計5曲が《Download Series, Vol. 11》でリリースされた。

08. 1993 Soldier Field, Chicago, IL
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。スティング前座。開演6時。
 非常に良いショウの由。

09. 1994 Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。28.50ドル。開演2時。Cracker 前座。第一部4曲目〈El Passo〉でウィアがアコースティック・ギター。
 この時期でもこれが最初のショウで人生が変わったという人がいる。

10. 1995 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 月曜日。33.50ドル。開演7時。このヴェニュー2日連続の2日目。ボブ・ディラン前座。(ゆ)

0329日・火

 国書刊行会が再編集し、従来単行本未収録作品も集めて、あらためて4冊にまとめた浅倉さんの『ユーモア・スケッチ大全』が完結。著作権をとるのが大変な作業だっただろうと推察する。まことにありがたいことである。

 『ユーモア・スケッチ大全』は浅倉さんのライフワーク、というのはあらためてよくわかる。その一方で、浅倉さんがやって雑誌掲載だけになっている中短篇を集めたオムニバスはできないのかなあ。傑作名作快作がかなりあるはずだが。







##本日のグレイトフル・デッド

 0329日には1967年から1995年まで11本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。


01. 1967 Rock Garden, San Francisco, CA

 水曜日。このヴェニュー5日連続の2日目。


02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA

 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。5ドル。共演チャック・ベリー。


03. 1969 Ice Palace, Las Vegas, NV

 土曜日。1時間半のステージ。共演サンタナ、The Free CircusThe Free Circus は不明。

 4曲目〈Dark Star〉の前に誰かが、ハートのものに聞える声が、「これからやる曲はここラスヴェガスのアイス・パレスのために特別に作ったものだ。今朝書いたばかりだよ」と言う。


04. 1983 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。25ドル。開演8時。


05. 1984 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA

 木曜日。このヴェニュー4本連続の2本目。25.00ドル。開演8時。


06. 1985 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。13.50ドル。開演7時半。第一部3曲目〈I Ain't Superstitious〉でマシュー・ケリー参加。

 なお、この3日間は自由席でオールスタンディング。自由に踊れた。ちなみに、デッドヘッドにとって、グレイトフル・デッドは基本的にダンス・バンド、その音楽で踊るためのバンドである。ちんまり椅子に座って聞いているものではない。会場が椅子席の場合、外の廊下やロビーで踊る者もいた。バンド側もそうした客のために、廊下やロビーにもPAのスピーカーを置いた。


07. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演9時。開演時刻が遅いのは「レッスルマニア III」と重なったため。


08. 1990 Nassau Coliseum, Uniondale, NY

 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。第一部6曲目〈Bird Song〉が《So Many Roads》で、第二部オープナー〈Eyes Of The World〉が《Without A Net》でリリースされた後、《Spring 1990 (The Other One)》で全体がリリースされた。その〈Bird Song〉と第二部全部、アンコールまで、ブランフォード・マルサリスが参加。

 2,300本を越えるグレイトフル・デッドの全てのショウの中で「ベスト」と言われるものに1977年05月08日、コーネル大学バートン・ホールでのものがある。国の歴史的録音遺産にも収められている。これがバンドのみによる「ベスト」とするなら、このショウはゲスト入りでの「ベスト」と呼んでいい。多少ともジャズに心組みがあるならば、これを聴くことで、グレイトフル・デッド・ミュージックの真髄への扉が最高の形で開かれるだろう。グレイトフル・デッドが「単なる」ロック・バンドからかけ離れた存在であることも、よくわかるだろう。ブランフォード・マルサリスの参加によって、デッドの音楽そのものが一段上のレベルに昇っている点でもユニークだ。この時のデッドは全キャリアの中でも最高のフォームで、最高の音楽を生みだしているけれども、このショウでは、それからさらにもう一段昇っている。

 一方のブランフォード・マルサリスからみれば、ロックのミュージシャンのアルバムへの参加としてはスティングの《Bring On The Night》が有名だけれども、ここではそれよりも量も質も遙かに凌駕する。あちらはいわばスティングの曲をやるジャズ・バンドだが、こちらはマルサリスとデッドによる共作だ。各々にとって新しい音楽なのである。

 成功の鍵の一つはマルサリスがジャズのミュージシャンの中でも柔軟性にとりわけ富み、土俵の異なる相手ともやれる性格を備えていたことだろう。このショウの成功によって、デッドは後にデヴィッド・マレィやオーネット・コールマンを迎えてショウをしている。ジェリィ・ガルシアはコールマンのアルバム《Virgin Beauty》にゲスト参加して、かなり成功しているけれども、コールマンがゲスト参加したケースでは成功しているとは言えない。コールマンがあまりに個性的で、相手に合わせることができないためだ。これはおそらく能力というよりも性格からくるもので、合わせようとしても不可能だろう。コールマンの音楽家としての成立ちに、誰かに合わせるという概念そのものが存在しないのだ。

 マレィはコールマンとマルサリスの中間、ややマルサリス寄りで、マルサリスほどではないが、かなり成功している。デッドヘッドの評価も高い。

 なお、マレィの参加した1993-09-22, Madison Square Garden, New York , NY とコールマンの参加した1993-02-23, Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA の聴衆録音はネット上で聴くことができる。

 またこのマルサリスのショウの公式録音はボックス・セットと同時にこれだけ独立して《Wake Up To Find Out》として一般発売されている。ディスク・ユニオンの新宿ジャズ館ではロング・セラーとも聞く。

WAKE UP TO FIND OUT:
GRATEFUL DEAD
RHINO
2014-09-05

 

 きっかけはこの年が明けてまもなく、レシュとマルサリスの共通の友人の一人がレシュに、マルサリスに何か伝えることがあるかと訊ねたことだ。レシュはマルサリス兄弟のファンで、そのデビュー時からずっと追いかけていたから、ブランフォードには一度ショウを見にきてくれと伝えるよう頼んだ。ブランフォードは前日28日のショウを見にきて、終演後、楽屋に挨拶に行き、レシュとガルシアから熱烈に誘われた。そこでこの日、ソプラノとテナーの2本のホーンを持ってやって来たものだ。

 リハーサルは無かった。ブランフォードはデッドの音楽をそれまでほとんど聴いたことがなく、どの曲をやりたいかと訊ねられても答えようがなかったらしい。一方で、相手がどんな音楽であっても合わせることができるという自信もあったのだろう。何でもやっていい、ついていくからと答えて、バンドは驚いた顔をした。とはいえ、デッドもジャズのミュージシャンが入りやすい曲を考えてもいたはずだ。第一部クローザー前の〈Bird Song〉、第二部オープナーの〈Eye of the World〉はその典型である。〈Estimated Prophet〉〈Dark Star〉と続けたのもそうした流れだし、Space はここではフリー・ジャズ、それも大胆かつ繊細な極上のフリー・ジャズだ。〈Turn On Your Lovelight〉は、ブランフォードが聴いて育った音楽でもあった。感心するのはアンコールの〈Knockin' On the Heaven's Door〉で、ちょっとこれ以上のこの歌のカヴァーはありえないと思える。

 ブランフォードが後でゲストで出てくるという期待は、メンバーの気分を昂揚させたらしく、この日のショウは初っ端から絶好調だ。前日、あるいは24、25日と比べても、ノッチは一つ上がっている。

 ブランフォードが入った効果はたとえば〈Bird Song〉の次の第一部クローザー〈The Promised Land〉でのガルシアの歌唱に現れる。それはそれは元気なのだ。〈Estimated Prophet〉でもウィアがブランフォードの前で歌うのが楽しくてしかたがないのがありありとわかる。実際、その裏でブランフォードがつけるフレーズが実に冴えていて、ウィアと掛合いまでする。

 ガルシアのギターもあらためて霊感をもらって、突拍子もない、しかもぴたりとはまったフレーズがあふれ出てくる。ガルシアだけではなく、レシュもミドランドもウィアもドラマーたちも、出す音が違っている。

 他のショウはそう何度も聴いてはいない。だいたい、1本が長いから、そう何度も聴けない。それがこのショウだけは、もう何度も聴いている。聴くたびに新たな発見をし、あらためて感服する。この音楽を聴けることの幸せを噛みしめる。


09. 1991 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY

 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。23.50ドル。開演7時半。第一部クローザー〈When I Paint My Masterpiece〉の途中で機器トラブルが起き、中途半端に終る。が、第二部は良かった。


10. 1993 Knickerbocker Arena, Albany, NY

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。開演7時半。第一部7曲目〈Lazy River Road〉が2016年の、第二部オープナー〈Here Comes Sunshine〉が2017年と2020年の、アンコール〈Liberty〉が2018年の、第二部2〜4曲目〈Looks Like Rain; Box Of Rain> He's Gone〉が2021年の、それぞれ《30 Days Of Dead》でリリースされた。都合6曲、46分がリリースされたことになる。


11. 1995 The Omni, Atlanta, GA

 水曜日。このヴェニュー4本連続の3本目。開演7時半。(ゆ)


0317日・木

 セント・パトリック・ディ記念で、Irish Times がアイルランドの32のカウンティ各々を舞台にした本、小説とノンフィクションをリストアップしていた。順番は州名のアルファベットによる。


 ゲーリック・フットボールやハーリングなどの、アイルランドのナショナル・スポーツは各州対抗が基本で、その盛り上がり方はわが国の高校野球も真青だ。各々のカウンティ、日本語では伝統的に州と訳されている地域は面積から言えば狭いが、外から見ると意外なほどに人も環境も特色があり、住人の対抗心も強い。こういう特集が組まれる、組めるのもアイルランドならではだろう。

 伝統音楽、アイリッシュ・ミュージックもローカリティの味がよく強調されるけれど、それ以前に基本的なローカルの性格の特徴をこうした本で摑むのも面白い。それに、真の普遍性はローカルを突き詰めたところに現れる。



##本日のグレイトフル・デッド

 0317日には1967年から1995年まで10本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。


 1967年のこの日、ファースト・アルバム《The Grateful Dead》が発売された。このアルバムでは〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉がデビューしている。ライヴで揉まれずに、いきなりスタジオ盤でデビューした、デッドでは数少ない曲の一つ。クレジットの McGannahan Skjellyfetti はバンドとしてのペンネーム。このクレジットが付いた他の2曲〈Cold Rain And Snow〉〈New, New Minglewood Blues〉は本来は伝統曲。

 196701月、ロサンゼルスの RCA スタジオで3日ないし4日で録音された。〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉のみサンフランシスコで録音されている。プロデューサーの Dave Hassinger はローリング・ストーンズのアルバムをプロデュースしており、デッドがそのアルバムを好んでハシンガーを指名したと言われる。冒頭の〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉を除き、すでにライヴの定番となっていた曲を収録している。ビル・クロイツマンの回想によれば、ライヴ演奏の良いところをスタジオ盤に落としこむ技術はまだ無かった。もっとも、結局デッドはそういう技術を満足のゆくレベルに持ってゆくことができなかった。あるいはライヴがあまりに良すぎて、スタジオ盤に落としこむことなど、到底できるはずもなかったと言うべきか。

 今聴けば、ピグペンをフロントにしたリズム&ブルーズ・バンドの比較的ストレートなアルバムに聞える。ガルシアも言うとおり、当時のバンドのエッセンスがほぼそのまま現れているのでもあろう。ピグペンの存在が大きい、唯一のスタジオ盤でもある。

 アルバムには故意に読みにくくしたレタリングで

 "In the land of the dark the ship of the sun is driven by the"

と記され、その後の "Grateful Dead" はすぐにわかる。故意に読みにくくしたのはバンドの要請による。デザイナーはスタンリー・マウス。コラージュはアントン・ケリー。後に「骸骨と薔薇」のジャケットを生みだすことになるコンビ。

 ビルボードのチャートでは最高73位という記録がある。

 2017年のリリース50周年記念デラックス版では 1966-07-29 & 30, P.N.E. Garden Auditorium, Vancouver, BC, Canada の2本のショウの録音が収録された。これはデッドにとって初の国外遠征でもある。



01. 1967 Winterland Arena, San Francisco, CA

 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。共演チャック・ベリー、Johnny Talbot & De Thang。セット・リスト不明。

 この日、Veterans Auditorium, Santa Rosa, CA でもショウがあったという。The Jaywalkers という共演者の名前もある。が、詳細は不明。DeadBase に記載無し。サンタ・ローザはサンフランシスコの北北西60キロほどにある街だから、昼間ここでショウをやり、夜ウィンターランドに出ることは可能だろう。


02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。2.50ドル。このヴェニュー3日連続の最終日。ジェファーソン・エアプレインとのダブル・ビルで、おそらくデッドが前座。80分ほどの演奏。《Download Series, Vol. 06》で全体がリリースされた。リリースに付けられたノートによると、《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》ボックス・セットを作成した際に、関連した録音が他に無いか、デッドのアーカイヴ録音が収めらた The Vault を隈なく捜索して見つけた宝石。

 すばらしいショウで、あのフィルモアのショウの1年前にすでにこれだけの演奏をしていた、というのに舌をまく。原始デッドの熱の高さと集中にひたることができる。時間が限られていることと、後に出てくるジェファーソン・エアプレインへの対抗心も作用しているだろう。〈Turn On Your Lovelight〉だけ独立していて、その後の〈That's It for the Other One〉からラストのフィードバックまで1時間近くノンストップ。ところどころ、ジャズの色彩、風味が混じる。時にはほとんどジャズ・ロックの域にまでなる。面白いのは、二人のドラマーが叩きまくっていることで、これだけ叩きまくるのはこの時期だけかもしれない。クロイツマン22歳、ハート25歳。やはり若さだろう。20年後とは完全に様相が異なる。

 グレイトフル・デッドはヘタだった、とりわけ、初期はヘタだった、という認識がわが国では根強くあるように思われるが、その認識はどこから出てきたのだろう。デッドがヘタと言われると、あたしなどは仰天してしまう。スタジオ盤はそんなにヘタだろうか。アメリカでの当時の評価を見ると、60年代にすでに演奏能力の高さには定評がある。


03. 1970 Kleinhans Music Hall, Buffalo, NY

 火曜日。4.50ドル。開演7時?。会場は2,200ないし2,300入るクラシック用ホール。Buffalo Philharmonic Orchestra との共演で、〈St. Stephen> Dark Star> Drums> Turn On Your Lovelight〉を演奏した。Drums ではオーケストラの打楽器奏者がデッドの二人のドラマーに合流した。〈St. Stephen〉は演奏されたという複数の証言があるが、記録の上では残っていないらしい。当初オファーされたバーズが辞退して、デッドにお鉢が回った。デッドは出演料をタダにした。また The Road、フルネームを the Yellow Brick Road という地元のバンドも出演した。

 クラシックのフルオケとロック・バンドの共演という企画はオーケストラの指揮者 Lukas Foss のアイデアらしい。必ずしも成功とは言えないが、まったくの失敗でもなかった。オーケストラの聴衆とデッドヘッドやその卵たちがいりまじった客席は、デッドの演奏に興奮して、立ち上がり、手拍子を打ち、踊ったそうだ。

 当時はヴェトナム反戦運動の昂揚期で、バッファローでも地元の大学を中心に騒然としていた。そういう中で、こうした実験が行われたのは面白い。クラシック界にもこれをやろうという人間がいて、デッドがその試みに応じたのは、どちらの側にも柔軟性や実験精神があったわけだ。グレイトフル・デッドというバンドが出現したのも、アメリカ音楽全体のそうした性格が土台にあったと思われる。


04. 1971 Fox Theatre, St. Louis, MO

 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。

 公式録音のマスターテープに物理的な問題があって、全体のリリースは無理とのことで、〈Next Time You See Me〉と〈Me And Bobby McGee〉が dead.net "Taper's Section" で公開された。


05. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。18.50ドル。開演7時。

 1971年以来のセント・パトリック・ディ記念のショウで、Train To Sligo という名前のパサデナのケルティック・バンドが前座。リード・ヴォーカルでコンサティーナ奏者は若い女性で、黒のミニ・スカートに網タイツという衣裳で登場し、聴衆から大いに口笛や歓声をかけられた。頭上に渦巻く煙にも驚いた様子だった。メンバーは以下の通り。1981年結成で、この年解散。2枚のアルバムがあるが、あたしは未聴。Gerry O'Beirne Thom Moore がいるから、聴いてはみたい。

Jerry McMillan (fiddle)

Paulette Gershen (tin whistle)

Judy Gameral (hammered dulcimer, concertina, vocals)

Gerry O'Beirne (six- and twelve-string guitars, vocals)

Janie Cribbs (vocals, bodhran)

Thom Moore (vocals, twelve-string guitar, bodhran)

 セント・パトリック・ディ記念のショウは次は1991年で、以後、1995年まで毎年0317日に行われた。

 この日のデッドの演奏は良い由。


06. 1991 Capital Centre, Landover, MD

 日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。春のツアーのスタート。ブルース・ホーンスビィがピアノで参加。第二部5・6曲目〈Truckin' > New Speedway Boogie〉が2017年の、第一部クローザー前の〈Reuben And Cherise〉が2018年の、オープナーの2曲〈Hell in a Backet > Sugaree〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 〈Hell in a Backet > Sugaree〉と〈Truckin' > New Speedway Boogie〉はどちらも良い演奏。ガルシアのギターも好調で、ホーンスビィが入っていることの効果だろうか。後者では肩の力が抜けて、シンプルな音を連ねるだけで、いい味を出す。ガルシアの芸である。ウェルニクも凡庸なミュージシャンではない。バンドによって引き上げられている部分はあるにせよ、それだけの伸びしろは持っていたのだ。〈Sugaree〉ではガルシアのギターによく反応している。

 〈Reuben And Cherise〉はハンター&ガルシアの曲で、グレイトフル・デッドとしてはこの日が初演。0609日まで4回しか演奏されていない。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドでは定番のレパートリィで、197711月から199504月の間に100回以上演奏されている。スタジオ盤はガルシアのソロとしては4枚目で Jerry Garcia Band 名義のアルバムとしては最初になる《Cats Under The Stars》収録。

 グレイトフル・デッドとジェリィ・ガルシア・バンドの違いが、こういう曲で鮮明になる。前者ではガルシアのソロもアンサンブルの一部に編みこまれている。他のメンバーとの絡み合いでソロを展開する。勝手に弾いているわけではない。ガルシアがソロですっ飛んで、他のメンバーがそれについていっているように聞える時でも、内実はそうではない。このことは初めから最後まで変わっていない。

 後者ではガルシアは勝手に歌い、弾いている。何をやるか、どれだけやるか、どのようにやるか、決めるのはガルシアであり、他のメンバーはそれをサポートしている。だから、ガルシアは伸び伸びと歌い、弾いている。一方で、そこには緊張感が無い。なにもかもがゆるい。そのゆるさがまた良いのだが、JGB を聴いてからデッドを聴くと、身がぐっと引き締まる。同じソロ・プロジェクトでも、マール・ソーンダースと演っている時にはまた違って、ソーンダースとの対話がある。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドではお山の大将だ。

 そして〈Reuben And Cherise〉は明らかに後者では成立するが、グレイトフル・デッドではうまく働かない。その理由は単純ではないだろうが、あたしにはまだよくわからない。ひょっとするとバンド自体にもわからなかったかもしれない。構造としては〈Dupree's Diamond Blues〉と共通するが、何らかの理由で、他のメンバーがうまく絡めないようだ。そうなると、ガルシアにとっても面白くなくなる。独りお山の大将でやるなら、ジェリィ・ガルシア・バンドでやればいいので、デッドでやる意味はない。デッドは全員でやることの面白さを追求するのが動機であり目的だ。試してみて、全員でやることを愉しめない楽曲はレパートリィから落ちる。ある時期は愉しいが、アンサンブルの変化で愉しくなくなって落ちる曲もある。演奏回数の多い定番曲はいつやっても、何回やっても愉しかった曲だ。デッドヘッドに人気が高く、曲としての出来も良い〈Ripple〉などもバンド全員で愉しめなかったのだろう。

 この日〈Reuben And Cherise〉をやることは予定に入っていたらしい。デッドはステージの上で、その場で次にやる曲目を決めているが、とりわけデビューさせる曲はその日の予定に入れていたと思われる。


07. 1992 The Spectrum, Philadelphia, PA

 火曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。セント・パトリック・ディ記念。あまりよい出来ではないらしい。


08. 1993 Capital Centre, Landover , MD

 水曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。〈Lucy In The Sky With Diamonds〉がデビュー。19950628日まで、計19回演奏。この歌のタイトルは LSD のもじりと言われる。良いショウの由。


09. 1994 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。26.50ドル。開演7時半。


10. 1995 The Spectrum, Philadelphia, PA

 金曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時半。(ゆ)


0112日・水

 LOA のニュースから今月8日、87歳で亡くなった Joan Didion  "After Henry" を一読。親友で、頼りにしていた編集者の Henry Robbins 追悼文。1979年7月、出勤途中、マンハッタンの地下鉄14番街駅でばったり倒れて死ぬ。享年51歳。追悼式ではドナルド・バーセルミ、ジョン・アーヴィング、最初の版元 Farrar, Strauss & Giroux Robert Giroux、最後の版元 Dutton John Macrae が弔辞を述べた。1966年、Vogue で働きながら書いていた自分と夫を見出し、一人前のライターに育ててくれた。 FSG で出発し、ヘンリーがサイモン&シュスターに移ると一緒に移る。ヘンリーがダットンに移った時には契約が残っていたので、ついていかなかった。取り残された孤児と感じた。1975年のある晩、バークレーで、かつてその講義を聞いた教授たちの前で講演をすることになり、死ぬほど怖かった。そこへヘンリーが現れ、講演の部屋までつき添い、大丈夫、うまくいくと太鼓判を押してくれた。その言葉を信じた。ベストセラー作家でも駆け出しでもない中途半端の位置にいる著者が脅えているのに、飛行機でニューヨークから駆けつけるなんてことは、本来、編集者がやるべきことではない。ヘンリーが言うことは何でも信じたが、3つだけ、信じなかったことがある。1つは2冊目の長篇 Play It As It Lays のタイトルが良くないこと。2つめは3冊目の長篇 A Book Of Common Prayer 冒頭二つ目の文章を二人称で書いたのは良くないこと。3つめがこの文章のオチであり、そしてこれ以上はないオマージュになっていること。感心する。この人はスーザン・ソンタグの1歳下で、カリフォルニアの出身。ソンタグよりもデッドに近い。LOA のディディオンの巻の編者 David L. Ulin の観察は興味深い。

カリフォルニアに住んでいれば、「アメリカ」というものを、合州国の国境を超えて、より広く、より包括的な形で考えないわけにはいかない。ディディオンは、カリフォルニアとの関連と国全体での議論との関連の双方で、こうした(ラテン・アメリカとの)つながりを把握していたことから、関心を抱いたのだと思う。

 グレイトフル・デッドもまたカリフォルニアの産物だ。してみれば、たとえまったく同じ人間が揃ったとしても、モンタナやテキサスではデッドは生まれなかった。ロサンゼルスでも無理だろう。やはりベイエリアだ。ディディオンもサクラメントの生まれ。ソンタグが60年代をニューヨークから俯瞰したとすれば、ディディオンはそれをカリフォルニアのベイエリアから見たのではないか。よおし、読みましょう。



##本日のグレイトフル・デッド

 0112日には1979年に1本ショウをしている。公式リリース無し。


1. 1979 The Spectrum, Philadelphia, PA

 前年1128日の公演の振替え。7.508.50ドル。開演7時。外は吹雪。第一部クローザー〈Deal〉ではガルシア、ウィア、ドナが声ですばらしい即興をした。

 会場は196709月オープン、200910月閉鎖の屋内アリーナで、収容人数はコンサートでは18,000から19,500。コンサート会場としてメジャーなアクトが頻繁に使用した。オープンから1996年まで、ホッケーの Philadelphia Flyers、バスケットの Philadelphia 76ers の本拠だった。

 デッドは196812月から199503月まで、計53本のショウをここで行なう。うち完全版3本を含む7本が公式リリースされている。

 デッドが演奏した会場を見てゆくと、すでに閉鎖されているところが目につく。アメリカではこうした大規模な施設はどんどん建替えられている。残っているところも改修拡張されている。ホッケーやバスケットなどプロ・スポーツ・チームが本拠にするようなところは、今では2万は優に超えるのが普通だ。(ゆ)


1211日・土

 Iona Fyfe のニュースレターを見て、Lewis Grassic Gibbon, Sunset Song を注文。

Sunset Song (Canons) (English Edition)
Gibbon, Lewis Grassic
Canongate Canons
2006-03-30


 リチャード・トンプソンの〈The Poor Ditching Boy〉の元になった小説の由。アバディーンシャーが舞台。あの歌の背後にこういう本があるとは知らなんだ。ファイフはこの歌をスコッツ語で歌ったシングルを出す。



 ギボンはスコットランド出身で、20世紀初めに活動した作家。1929年フルタイムのライターになってから34歳で腹膜炎で死ぬまでに、20冊近い著書と多数の短篇を残した。この長篇から始まる三部作 A Scots Quair が最も有名。わが長谷川海太郎と生没年もほぼ同時期で、短期間に質の高い作品を多数残したところも共通している。ちょと面白い偶然。


 家族から MacBook Air iPhone をつなぐケーブルのことを訊かれたので、iFi USB-C > A Apple Lightning 充電ケーブルで試すとちゃんとつながる。Kindle のライブラリの同期もできたのに喜ぶ。有線でつなぐとできるのだった。これまで無線であっさりつながっていたので、有線でつなぐということを思いつかなかった。送りたい本をメールで Kindle 専用アドレスに送ると移せるとネットにはあったが、面倒で後回しにしていた。Kindle 自身の同期では、アマゾンで買ったものしか同期されない。他で買ったり、ダウンロードしたりした本は無線ではどうやっても同期できなかった。



##本日のグレイトフル・デッド

 1211日には1965年から1994年まで8本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1965 Muir Beach Lodge, Muir Beach, CA

 アシッド・テスト。ここでベアことアウズレィ・スタンリィがグレイトフル・デッドと初めて出逢う。


2. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA)

 ビッグ・ママ・ソーントン、ティム・ローズとの3日連続の最終日。セット・リスト無し。


3. 1969 Thelma Theater, Los Angeles, CA

 このヴェニュー3日連続の2日目。第一部クローザーまでの4曲〈Dark Star > St. Stephen > he Eleven > Cumberland Blues〉、第二部クローザーの〈That's It For The Other One> Cosmic Charlie〉が《Dave's Picks 2014 Bonus Disc》でリリースされた。


4. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA

 3日連続の中日。


5. 1979 Soldier's And Sailors Memorial Hall, Kansas City, KS

 このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時半。


6. 1988 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。開演6時。


7. 1992 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の初日。開演7時。


8. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の3本目。27.50ドル。開演7時。第二部クローザー前の〈Days Between〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)


1119日・金

 Shanling EM5 は面白い。ようやくこういうものが出てきた。これを買う気はないが、このラインで次ないしその次を期待する。これと M30 のいいとこどりして、もっと突き詰めたもの、かな。

 それにしても Naim をどこか、やらないか。あそこの Uniti Atom は聴いてみたい。ここは今はフォーカルと同じ親会社の傘下なんだから、ラックスマンがやればいいのに。


 Audeze を完実電気がやるのはめでたい。LCD-5 はともかく、Euclid は気になっていた。iSINE のデザインは買う気になれなかったが、こちらは許容範囲。


 Tor.com のノンフィクションのお薦めから Careless People by Sarah Churchwell を注文。フィッツジェラルド夫妻と『華麗なるギャツビー』の裏事情を狂言回しにして、ジャズ・エイジ、「不注意」というよりは「気にしない」と言う方がこの場合、適切ではないかと思う人びとの時空を描く、ものらしい。Nghi Vo の『ギャツビー』の語直し The Chosen And The Beautiful は面白かった。あれは『ギャツビー』の世界をこの世の裏側から描いているが、このチャーチウェルの本はギ・ヴォの生みだした世界とフィッツジェラルド夫妻が生きていた時空の間の世界を綱渡りするのではないかと期待する。
 


 Grado White + マス工房 model 428 で聞くデッドは実によろしい。《30 Days Of Dead》の MP3 ファイルでもひどく生々しくなる。
 



##本日のグレイトフル・デッド

 1119日には1966年と1972年にショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続の中日。3日間のうち、このショウのみ録音が殘っている。この時期の1本のショウを捕えた録音として定評がある。ピグペン時代のエッセンスが聞ける、と John W. Scott DeadBase XI で書いている。ジェファーソン・エアプレインがグレイス・スリックのバック・バンドであるというのと同様に、グレイトフル・デッドはピグペンのバック・バンドであるとも言えた。デッドのバンドとしてのスタートがピグペンのパフォーマンスとカリスマによるものであることの証拠、なのだろう。ピグペンとレシュの関係の深さも聞けるようだ。


2. 1972 Hofheinz Pavilion, University of Houston, Houston, TX

 開演8時。前日と同じヴェニュー。チケットの半券によればオールマン・ブラザーズ・バンドとの対バンだったようだ。

 これもこの時期のショウとして相当に良かったようだ。

 大学の施設で2日ないしそれ以上連続で演るのは珍しい。(ゆ)


6月29日・火
 
 LOA の最新の Story of the Week の解説にあった Jean Stafford の父親の話は面白い。こういう、莫大な遺産に押しつぶされた人間は他にもたくさんいただろうし、今でもいるだろう。その父親、Jean の祖父はアイリッシュ移民で、ミズーリで牧場主として成功する。Jean の父親の John は莫大な遺産(19世紀から20世紀の代わり目で30万ドル、インフレ率から換算すると今では950万ドル相当)を継ぎながら、第一次世界大戦直後、それを株式投機ですっからかんにすってしまう。あとはひたすら売れない原稿を書きつづけて、1966年、91歳まで生きた。一家の生計は母親が自宅を女子大生向けの下宿にして支えた。

 娘のジーンによれば、地下室に籠り、朝の5時から夜の8時まで、昼食もとらずにタイプを叩きつづけ、毎日最低でも5,000語書いていた。まったく売れないにしても、ここまで原稿を書く、小説を書きつづけたというのは、やはり何かを持っていたのか。あるいは何かに憑かれていたのか。

 まだ遺産があった若い頃、少なくとも1冊は作品が出版され、短篇はいくつか雑誌掲載されている。まったくのゴミというわけでもなかったのではないか。原爆に似た神秘的な兵器 "Hell Ray" についても書いていた、というから、"increasingly unconventional stories" というものには、サイエンス・フィクション的な要素もあったのか。とはいえジーンのある伝記によれば "The piles of unpublished, unread manuscripts accumulated more quickly than the inevitable rejection letters." だったそうから、送ってみなかったわけではないらしい。もっとも送る先を間違えれば、当然拒絶されただろう。それともやはり半ば気が狂っていたのか。死の15年前にジーンが最後に会った時、その姿に、子どもたちが揺籠の中で自殺しなかったのは驚きだと思ったとなると、やはり一種の狂気であろうか。

 こういう狂気は日本語でもあるのだろうか。と思ってしまう。今ならいるだろうか。誰も読まないテキストを、それも毎日40〜50枚、15,000〜20,000字を延々とブログに書きつづける、とか。それだけ毎日書いて、なおかつ中身がちゃんとあり、同じことの繰返しで無く、何かの引き写しでも無いなら、それは一つの才能だろう。もう少しヒマになったら、できるかどうか、やってみるかとも思ってしまう。だからといって John Stafford の原稿を読んでみたいとは思わないが。

 John が若い頃パルプ雑誌にウェスタンを書いていた様々な筆名が、ちゃんと調査され、本人のものとつきとめられているのも、なかなか面白い。契約書などが残っているのか。シルヴァーバーグも ISFDB を見ると、その筆名はほぼつきとめられているらしいが、かれはまだ戦後だ。もっともアメリカは戦災を蒙ったことがないから、戦前からの文書、書物もちゃんと残っているらしい。パルプ雑誌の著者との連絡は大部分が手紙で、しかも手紙のみでやられていた(だから著者の中には女性や黒人もいた由)というから、その手紙が残っているのか。どこかの図書館にどーんと集められているのかもしれない。(ゆ)

6月23日・水曜日
 
 Cayin N6ii-Ti R-2R チタニウム・リミテッドエディション。DAC チップの供給に難があるのを逆手にとったのか、ラダー式を採用。AirPlay は無し。マザーボード交換は面白いんだが、その他にこれというのが無い。I2S はあるけど、つなぐものが無い。FiiO は AirPlay、DSD変換、THXアンプとそろっている。当面、これを凌ぐものはなさそうだ。


 Oさんに教えられた平出隆の本を図書館からあるだけ借りてくる。詩集はあとまわしで、まずは散文。『左手日記例言』が無かったのは残念。『鳥を探しに』は購入以来誰も開いたこともないようなまっさらな本。この厚さ、しかも二段組み。いいなあ。こうこなくっちゃ。この長さだけで、読もうという気がもりもり湧いてくる。

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左手日記例言
平出 隆
白水社
1993-06-01


6月21日・月

“Copy the whole thing out again in long-hand.”
- Paul Theroux, author of Under the Wave at Waimea

があるのに嬉しくなる。たいていは逆だ。もっとも英語の場合、タイプないしキーボードと画面に向かって打つのがデフォルトだ。初稿を手書きで書く人は多くはない。しかし、別に小説や翻訳ではなくても、レコード評や書評やエッセイでも、試してみる価値はあるかもしれない。今や、あたしらだって、画面に向かってキーボードを打っている。

 これは一度書きあげてからブラッシュアップするための手法ではある。とにかく最後まで書きあげろ、とか、毎日書け、とかももちろんあるが、セルーのこれは初めて見た。

 言わずもがなではあるが、手書きは自分の肉体を使って一字一字書くことで文章に命を吹きこむためにやる、さらにこの場合には文章が生きているか確認するためにやるので、人に見せるためのものではない。作家の肉筆原稿を読んで喜ぶのは研究者ぐらいだ。


 むろん小説を書こうと思ったら、書く前にまず読まねばならない。このペンギンのサイトでも、とにかく「読め」とある。"You can only vomit what you eat." 創作とは、どんな形であれ、食べたものを口から吐くか、尻から出すか、どちらかで、どちらにしても、食べたものしか出てこない。出すには食べねばならない。

 吸収するのは活字からとは限らず、静止画でも動画でも音楽でも、あるいは味覚、嗅覚、触覚からでもいい。それらは蓄積されて材料になる。とはいうものの、最終的な産物が小説であるならば、活字を一番多く吸収することは必要なのだ。それこそ浴びるように、どっぷりと首まで、溺れそうになるくらいに小説に漬かることは必要なのだ。絵を描こうとすれば絵を見る、動画を造るのなら動画を見る、音楽を作ろうとすれば音楽を聴く、旨い料理を作ろうと思えば旨い料理を食べることが必要なのだ。証明はできないが、経験的にわかる。


 もう一つ。ドリトル先生が鸚鵡のポリネシアに語る言葉を敷衍した James Wood の How Fiction Works (2008) からの引用。

Literature differs from life in that life is amorphously full of detail, and rarely directs us toward it, whereas literature teaches us to notice. Literature makes us better noticers of life.

How Fiction Works
Wood, James
Vintage
2009-02-05



 ここで life は人生、暮し、日常をさすだろう。ファンタスティカは life から取り出したものを life の中ではありえない姿に変形して示す。変形することで人間以外の存在、人間がその一部でしかない環境まで視野を広げ、life の本質をより効果的に、より明確に示す。リアリズムよりもさらに良く life を気づかせる。それも、当人にはそうとは気づかせないままに。娯楽に逃避しているつもりで、実は現実が意識の奥に刻みこまれている。そこがまたファンタスティカの面白いところだ。(ゆ)
 

5月6日・木

 ドーナルの新バンド Atlantic Arc の新譜のクラウドファンディングは成功したと通知。出だしがのんびりで大丈夫かと心配したが、あっちこっちでニュースになって集ったらしい。

 ジェリィ・ガルシア公式サイトから GarciaLive, Vol. 16: 1991-11-15, Madison Square Garden, NY, NY の案内。ジャケット・デザイン一新。モダンになった。今度のTシャツもまずまずかっこいい。

 散歩の帰りに公民館に寄り、本2冊ピックアップ。『ローベルト・ヴァルザー作品集』の第1巻と第5巻。

 「少なくともヴァルザーの主要作品と目されてきたものは、ほぼすべて日本語に訳出されたことになるだろう」第5巻, 359pp.

 しかしヴァルザーの「主要作品」は3本の長篇小説ではあるまい。「現在のズーアカンプ版全集で二十巻中の十五巻を占め、さらに遺稿集六巻にも所収されている計千数百篇にもなる散文小品」(第1巻, 373pp.)であるはずだ。この作品集の最初の3巻は長篇のみ。散文小品が入っているのは4、5の2巻で、第4巻は37篇、第5巻は「フェリクス場面集」を24篇と数えると41。計78篇。1割どころか5%ぐらいか。ここに収められたものはもちろん精選されたものであるだろうが、ヴァルザーの場合、「ベスト」とか「ワースト」とかは無意味だ。もう3冊ぐらいは散文小品だけの巻、それにミクログラムばかり集めた1巻が欲しい。『詩人の生』と『絵画の前で』はどうか。昔読んだ飯吉光夫編訳の『ヴァルザーの小さな世界』が出てこないので、『ヴァルザーの詩と小品』としてみすずから出なおしたものも図書館で頼んでみよう。重複は少ない。みすず版はいくらか増補されてもいるようだ。

ローベルト・ヴァルザー作品集5
ローベルト ヴァルザー
鳥影社
2015-10-30

 

 折りよく、とりあえず注文してみた New Directions + Christine Burgin による Microscripts が届く。編訳は Susan Bernofsky。全部で526枚遺されたミクログラムのうち29枚を選び、現物の表裏をカラーの実物大で複製し、その英訳を添える。2010年にハードカヴァーで出たものに4枚追加した2012年のペーパーバック。1枚に複数の話が書かれているものもあるらしい。巻頭に訳者による解説、巻末にベンヤミンのヴァルザー論と表紙の絵を描いている Maira Kalman によるイラスト・エッセイを収める。

Microscripts
Walser, Robert
New Directions
2012-11-21



 カルマンは雪の上に倒れているヴァルザーの写真を見て、ヴァルザーに惚れこんでしまったのだそうだ。ヴァルザーは1956年のクリスマスの日に日課の散歩に出て、途中で心臓発作を起こし、倒れて死んでいるのが発見された。享年78歳。散歩は『作品集』第4巻収録の傑作「散歩」はじめ、いくつもの文章に書かれているように、ヴァルザーにとっては書くことと並んで、晩年書かなくなってからは、何よりも大事な活動だった。かれは散歩するために生きていた。その途次に斃れたのはだからいわば「舞台の上」で、「現役」のまま死んだことになる。カルマンの言うとおり、そんなに悪い死に方ではない。むしろ、本人としては本望ではなかったか。あたしなどもこういう死に方をしたいものだ。

 というわけで、ヴァルザー熱は当分冷めそうにない。(ゆ)

5月2日・日曜

 『ローべルト・ヴァルザー作品集4』読了。

 
ローベルト・ヴァルザー作品集4: 散文小品集I
ローベルト・ヴァルザー
鳥影社
2012-10-17


わたしの書く散文小品は、わたしの考えるところでは、ある長い、筋のない、リアリスティックな物語の部分部分を成している。あれやこれやの機会に作成したスケッチは、一つの長篇小説のあるいは短めの、あるいは長めの章なのだ。先へ先へと書き継いでゆくその小説は、同じ一つの小説のままで、それは大小さまざまに切り刻まれて、ページもとれてばらばらになった〈わたしの本〉と名づけてもらってもよいものだ。
「ヴァルザーについてのヴァルザー」203pp.

 この感覚はよくわかる。リニアに続く物語というよりは、断片が集まってあるイメージを生むような形。見る角度によって見えるものが変わるもの。ヴァルザーの作品は全部読むのが理想だが、読めるものだけでイメージを見ることはできる。読む数が増えるほどに、読む深さが増すほどに、イメージはより精細に鮮明になる。そして、そのイメージは一定ではない。新たな作品を読むごとに、イメージは変わる。おそらく読むたびに変わる。

言葉の中にはそれを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている、そう願いつつ望みつつ、わたしは言葉の領域で実験を続けているのです。
「わたしの努力奮闘」213pp.

 ヴァルザーがその全作品を通じて書こうとしていた〈わたしの本〉とは、つまりこの「未知の生のごときもの」を呼び覚ます、その奮闘の軌跡であろう。それは呼び覚まされたか。完全に目覚めていないまでも、完き姿を現してはいないまでも、その朧げな存在、影よりは濃い、実体よりは薄い存在は感じられる。ような気がする。結局それは誰がどう奮闘しようと、この世に完全に呼びだし、明瞭に描ききることはかなわない、朧げなその影を暗示する、あるいは喚起することしかできないものではあろう。そしてヴァルザーは、可能なかぎりそれに「成功」した。その文章を読む快楽、翻訳を読んでも湧きあがってくる快感を感じられるのは、「成功」と呼んでいい。そこまで到達した書き手の一人として、唯一人、佇んでいる。

 そして巻末の「散歩」が凄い。この人、基本的に饒舌なのだ。もっともドイツ語で書く人間が寡黙ないし文章の節約をするわけではない。ゲーテの小説は長いし、マンの『魔の山』はほとんどおしゃべりだけでできてるし、『ヨセフとその兄弟』も饒舌の塊だ。ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』も『ひらめ』もとにかくしゃべる。カフカの書簡。それを思えば、インド・ヨーロッパ語族は饒舌になるのか。『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』、ガルシア=マルケスを筆頭とするラテン・アメリカ文学、ポルトガルのジョゼ・サラマーゴ、バルザックにシャトーブリアンにサン・シモンにカサノヴァにプルーストにロベール・メルル。ディケンズ、ギボン、チャーチル、Anthony Powell、Francis Parkman、William T. Vollman。そしてもちろんトルストイ、ドストエフスキー、レスコフ、トロツキー、グロスマン。中国語は基本的に節約する。漢字を書くのは労力を要する。『西遊記』『紅楼夢』は節約してなおかつあれだけの量になる。日本語も節約を旨とする。俳句は究極の節約だ。日本語では饒舌は悪徳だ。日本語から見るとヴァルザーの饒舌は過剰に見える。しかし、おそらく、ドイツ語から見れば過剰ではない。あるいは過剰であることは悪いはずはなく、まず良いことなのだ。フランスのスーパーが日本に店を開いた時、売物の野菜、果物を店頭に山と積み上げてみせた。ヨーロッパではそれは普通、デフォルトで、商品が豊かであることはより新鮮で安いことも意味する。日本では「やり過ぎ」に見える。日本語ネイティヴはものが豊かであることに慣れていない。この列島は有史以来つい最近までずっと貧しかった(急に豊かになってしまうと、その豊かさをどう使っていいのかわからない)。貧しいなかでいかに豊かに生きるかに腐心してきた。言葉もそれに倣う。なるべく少ない字数でなるべく多くのことを言おうとする。しかし、量はある閾値を超えると質に転換する。そして、ある量でしか言えない、伝わらないこともある。質だけで量をすべて代用はできない。ヴァルザーは一篇ずつは短かい。しかし、千数百篇にのぼる全体としての量は少なくはないだろう。そしてその一つひとつにはすさまじい、と日本語ネイティヴには見える饒舌が詰めこまれている。

 しかし、待てよ。そうすると、饒舌が詰めこまれた、しかも分量が少ない作品は文章量が多いのか。この場合、情報量は別だろう。しゃべりまくりながら、実質的には何ひとつ言わないこともできる。ヴァルザーにはそういう作品もある。ただし、ではそれが無価値かというとそうはならない。何も言わずにしゃべりまくる文章を読むことが快感になる。そして、その快感は情報が詰めこまれた文章を読む快感とは性格が異なる。

 饒舌という言葉にはそのテクストによって伝えられる情報の質と量への評価も含まれる。文字数、言葉の数では過剰でも、伝えられる情報の質が低く、量が少ないものという含みがある。しかし、ヴァルザーによって明らかになるのは、言葉が充分に多ければ、中身の質と量が問題にならなくなる、ということだ。これは量から質への転換とはまた別だ。あるいはヴァルザーの特異性はここにあるのだろうか。

 いや、ヴァルザーの場合にはその文章によって何が語られているか、ではなく、どう語られているか、が問題なので、語られている情報の量、実質的に伝えられることが可能な情報の量は作品の出来の良し悪しを左右しない。たぶん、そこがまず特異なのだ。そしてどう語られているかの良し悪し、つまり良く語られているか、悪く語られているかの判断基準が作品によって違う。

 ここに収録されているのは選びぬかれたもので、「悪く」語られているものは無い。とはいうものの、ヴァルザーのスタイル、手法であれば、「悪く」語りようはないだろう。十分に語られているか、語られきっていないか、の違いではないか。こういう時、翻訳でしか読めないことのもどかしさを痛感する。出来の「悪い」作品を読めない。そして全体像はそれも読まねば、ほんとうのところはわかりようがない。全部読んだからといって、わかるとは限らないが、とにもかくにも全部、少なくとも出来の悪いとされる作品も読むことが前提となる。

 もう一つの側面。この饒舌は筆にまかせて垂れながしたもの、書き散らしたものではない。むしろ、おそらく彫琢に彫琢を重ねた末の「饒舌」であり「過剰」だ。どうしてもこうなってしまう、あふれ出てしまうことが無いのではなく、それも計算に入れた上で文章を練りに練りあげて各々の形になっている。彫琢というと日本語では主に削ることを意味するが、ここではそうではない。これもおそらく言語の性格の違いだ。マーヴィン・ピークも『ゴーメンガスト』を書くのに、まず最後まで一通り書いておき、それから文章や言葉、表現をつけ加えていった。第三部『タイタス・アローン』は著者の死によってその原型のまま残され、前の2冊が完成形だ。

 とまれヴァルザーの存在はドイツ語作家の世界にあらためて眼を開かされる。まずはシュティフターだろう。ヴァルザーも愛でるブレンターノ。そしてジャン・パウル、ムージル。『ヨセフ』にも再度挑戦だ。

 少なくともこの第4巻は買ってもいいか。


 Audirvana からイベントへの誘いが来るが、Mac で音楽を聴くことがほぼ無くなってしまったので、起動することはまず無いなあ。(ゆ)

 Washington Post Book Club のミュースレターで Amanda Gorman の詩を訳すことが白人にできるか、という議論が持ち上がっているという話。カタラン語の訳者ははずされ、オランダ語の訳者は辞任したという。翻訳という仕事の性質を理解しない行き過ぎ。あまりにアメリカ的発想。Washington Post も "weird" と言っている。中東、トルコまで含めたアジア諸国はどうなるのだ。アラビア語はいるかもしれないが、ペルシャ語や北欧の諸言語はどうだ。文芸翻訳は専門家ではだめなのだ。母語話者である必要がある。詩の翻訳となればなおさらだ。詩の翻訳が可能か、あるいはどこまでいけば翻訳として認められるかは、また別の問題。

 夜、ローベルト・ヴァルザー『ヤーコプ・フォン・グンテン』読了。凄え。傑作とか名作とか、そんな枠組みは超えている。こいつは英訳でも読んでみよう。記録を見たら、なんと1991年に読んでいた。完全に忘れていた。筑摩の『ローベルト・ヴァルザーの小さな世界』でヴァルザーに最初に夢中になった時らしい。当時、他に邦訳はこれしかなかった。当然、眼のつけ所も感応するところも異なる。今の方がよりヴィヴィッドに、切実に迫ってくる。

 今回まず連想したのはマンの『魔の山』だった。どちらも閉鎖空間にたまたま入りこんだ、ほとんど迷いこんだ人物に、入ったことで自らの新たな位相が現われ、その空間を通じて世界と向き合う。そこに映しだされる世界像に読者は向き合うことになるのだが、ヴァルザーの世界像は平面ではなく、読む者の内面に浸食し、やがて読者の世界をも覆いつくす。そしてその世界は徹底的におぞましく、それ故に蠱惑に満ちる。

 どこかに着地しそうでしない文章。通常の価値判断のことごとく逆手をとる態度。人間らしく生きることが、この上なく非人間的な人間を生みだす人間の「原罪」を読む者はつきつけられる。冷徹に観察されて、美しい文章で描かれた、その原罪がごろんと目の前にころがされる。

 マンの『魔の山』は19世紀までの、第一次世界大戦で滅ぶことになる世界、人間は自分のやることをコントロールできると信じられた世界を提示する。ヴァルザーが見ているのは、カフカの『城』が建つ世界であり、竜のグリオールが横たわる世界であり、夜空に燐光が明滅して電波受信がロシアン・ルーレットになった世界のもう一つの顔だ。この世界はつい先日読んだ山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』の世界にもつながっており、文章の気息、着地しそうでしない叙述も共通する。一つひとつは短かい断片を重ねてゆくスタイルも同じだ。

 ヴァルザーの場合、マンのような息長く、読む者を引きずるように長く話を続けることはできなかったらしい。結局3冊めのこれが最後の長篇となり、他はすべてごく短かい。ショートショートと呼ぶにはオチがない。もともとオチを期待するような話ではなく、デビュー作である『フリッツ・コッハーの作文集』にある「作文」というのが一番近いようだ。とにかく、ヴァルザーは読めるものは全部読まねばならない。

ローベルト・ヴァルザー作品集3: 長編小説と散文集
ローベルト・ヴァルザー
鳥影社
2013-05-31


 セント・パトリック・ディ。高橋創さんはダブリンにいた間、この日は終日家にこもっていたそうだが、気持ちはわかる。アイルランドの音楽は好きだが、こういうお祭りさわぎは好きになれない。

 Shanling M3X は WiFi を省略し、USB DAC 機能もはずし、2.5mmバランス・アウトを捨てて低価格にしたもの。MQA はフルデコードだが、これは ESS9219C の機能。ハードウェア・レンダラーになっている。この最新チップ採用で電力消費も抑え、バッテリーの保ちがよくなっているのもウリか。このチップを採用した初めての DAP のようだ。チップの発表は2019年11月。エントリー・モデルでは AirPlay 2 対応はまずないなあ。

 1500前に出て、公民館で本を受け取り、歩いて駅前。かかりつけクリニック。先週の検査の結果を聞く。肺は問題なし。中性脂肪と尿酸値が高いぞ、気をつけろ。

 借りてきたのは『ローベルト・ヴァルザー作品集第3巻』。『ヤーコプ・フォン・グンテン』と『フリッツ・コハーの作文集』収録。まずは刊行順にしたがい、後者から読みだす。ヴァルザーは近年ますます評価が高くて、New York Review Books が英訳をがんがん出している。なら、あらためて英語ででも読むべえかと思ったら、しっかり邦訳で作品集が5冊も出ていて、その他にも出ている。危惧したとおり、学者訳のところもままあるが、とりあえず邦訳で読んでみるべえ。

 
ローベルト・ヴァルザー作品集3: 長編小説と散文集
ローベルト・ヴァルザー
鳥影社
2013-05-31



 もう1冊は山城むつみ『ドストエフスキー』。どうもいよいよドストエフスキーを読むことになりそうな気分。呼ばれているような気分。

 夜、借りてきた『ドストエフスキー』序論を読む。ひじょうに面白い。まずドストエフスキーの「キャラクター」が個々の登場人物の属性として与えられているのではなく、登場人物同士、あるいはその人物と世界との関係に生成される、という指摘。そして自ら理想とする状態、関係が生まれることに賭けて小説を書いた、という指摘。これは当然、ドストエフスキーで終るわけではなく、その後の小説家たちが、少なくともその一部が、小説執筆のコアとしたことだ。たとえばディレーニィ、たとえばル・グィン、たとえばバトラー。というより、今の英語のサイエンス・フィクション、ファンタジィでのキャラクターの描き方の基本は属性よりも関係によるものじゃないか。

ドストエフスキー (講談社文芸文庫)
山城むつみ
講談社
2016-04-08



 この本は二葉亭四迷と内田魯庵、あるいはバフチンはじめ20世紀初めの批評家たちがドストエフスキーから受けた衝撃から説きおこすが、その同じ衝撃を山城も、その山城がちくま文庫版『ドストエフスキー覚書』の解説を書いた森有正も受けている。そういう衝撃、人生を変えるような衝撃を読書から受けたことがあるか、と考えこんでしまう。ヴァン・ヴォクトの『宇宙船ビーグル号』の衝撃はサイエンス・フィクションに回心したわけで、人生における決定的な衝撃ではあるが、では、あの本ないしヴァン・ヴォクトについて1冊本を書こうという気が起きるか、となると、うーん、唸ってしまう。しかし、今、あたしが読んでドストエフスキーからそういう衝撃を受けられるか。それよりはディレーニィではないかとも思う。両方読みゃあいいわけだが、残り少ない人生、優先順位は考えねばならない。


 その Samuel R. Delany, Letters From Amherst 着。扉に娘の Iva の写真があって、高校卒業時のものの由だが、かなりの美人。母親のマリリン・ハッカーの顔はしらないが、やはり美人なのだろう。巻末に補遺としてそのアイヴァへの手紙が数通、収められ、そのうち2通のタイプされた現物そのままのコピーもある。ディレーニィは手書きではなく、タイプしているらしい。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


 ナロ・ホプキンソンの序文はなかなかいい。1960年生まれ。昨年還暦。ディレーニィはほぼリアルタイムだろう。この人はトロントに住んでいて、ジュディス・メリルがやっていた作家塾に参加していたそうな。そこへディレーニィが来て、メリルと対談し、サイン会をした。その時 Dhalgren の、もともと図書館からの回収本を買い、何度も読んでぼろぼろになったものを、ごめんなさいと言いながら差し出すと、ディレーニィは読んでくれたことが大事なのだ、と答えた。そうか、ぼろぼろになるまで読むのだ、あれを。

 N. K. ジェミシンが1972年生まれ。ンネディ・オコラフォーは1974年生まれ。ホプキンソンのデビューが1996年。オコラフォー、2000年。ジェミシン、2004年。ホプキンソンのデビューが36歳でやや遅い。


 駅前まで歩くお伴は Show of Hands《Backlog 1987-1991》。

Backlog 1987-1991
Hands On Music
1999-01-01


 
 ショウ・オヴ・ハンズは1987年2月にデュオとして最初のギグを行う。ファースト・アルバム Show Of Hands はその直前に録音し、カセットのみでリリースした。会場で売るためだ。2年後の1989年末にセカンド Tall Ships を録音して翌1990年初めにリリース。1991年にフルタイムのデュオとして活動を開始し、サード Out For The Court をリリースする。ここまではいずれもカセットのみで、ライヴ会場で手売りされた。当時はインターネットも無く、販売ルートはきわめて限られていた。レコードの国際的流通網にカセットはほとんど乗らない。ごく稀に気合いの入った業者がミュージシャンと直接連絡をとって入れることがあったぐらいだ。この3枚(3本?)のアルバムもその存在を知ったのはこのコンピレーションが出たことによる。

 このアルバムはその3枚計36トラックから15のトラックを選んで1995年にリリースされた。内訳はファーストから6、セカンドから3、サードから6。スティーヴ・ナイトリィによるライナーによれば、1992年の Live に収めたものは省いたそうで、そちらにはファーストとセカンドから5トラックが入っている。それ以外は楽曲、演奏面で時間の選別に耐えられなかったものということになる。

 二人ともこの時点で未経験な若者ではない。フィル・ビアは Paul Downes との Downes & Beer 以来のキャリアを持ち、一級のうたい手にして、およそ弦楽器全般についてのエキスパートであり、類稀なギターとフィドルの奏者として、デュオを組む前にはアルビオン・バンドのメンバーだったし、ストーンズの Steeler's Wheels にも貢献している。スティーヴ・ナイトリィもイングランドの West Country のアンダーグラウンド・ロック・シーンで名の知られたシンガーであり、教師として食べながら、音楽活動はやめていなかった。ソングライターとしての力量はこれ以後のショウ・オヴ・ハンズでの軌跡が証明してゆくことになる。いずれにしても、ミュージシャンの技量としてはどこからも文句の出ない水準にすでにある。

 カセット・リリースではあるけれど、録音の質は高い。CD化にあたって当然デジタル・マスタリングはしているはずだが、おそらく元の録音の質が高いと思われる。設備の整ったスタジオではなく、ビアの自宅などでの録音のようだが、良い録音は設備ではない、良い耳が肝心だということのすぐれた証明の一つだ。ビル・リーダーの自宅居間で録られたバート・ヤンシュのファーストと同じ。

 今、あらためて聴くと、かなりアメリカ寄り、あるいはポップス的、ポピュラー音楽の「主流」寄りの楽曲が多い。「ヒット狙い」のような曲もある。ビアももともとブルーズ大好き、アメリカン大好きなわけで、ここでもシャープなブルーズ・ギターを弾きまくる。聴く者の感性に鋭どい錐を突きこんでくるような、こういうギターはアメリカンのギタリストにはなかなか弾けないだろう。かれらは斧でざくざくと切りきざむ。

 面白いのは、ナイトリィの曲と歌は、キンクスやストーンズとは異なるのはもちろんだが、聴いていると、どこかグレイトフル・デッドのアコースティックでの演奏を聴いている気分になることだ。デッドの音楽にはアメリカン離れしたところがあって、イングランドやスコットランドの伝統音楽の影響というと強すぎる、根っこがつながっている感覚がある。ショウ・オヴ・ハンズの音楽が出発点において、デッドの音楽と根っこがつながっていると言うと言い過ぎだろうが、根っこをたどってゆくと、それほどかけ離れたところに辿りつくわけではないと思わせる。

 あるいはアメリカにおけるデッドとイングランドにおけるショウ・オヴ・ハンズの立ち位置、音楽的な立ち位置に共通点があるということか。ショウ・オヴ・ハンズはあくまでもナイトリィのオリジナルが中心で、 Nancy Kerr & James Fagan や Boden & Spears に比べれば軸足は伝統音楽のど真ん中に置いてはいない。一方でそのナイトリィのオリジナルも音楽伝統には深く棹さしていて、伝統音楽とのその距離の取り方が魅力ではある。デッドの音楽も、アメリカ音楽のあらゆるジャンル、形式をとりこみながら、さらに広く外の要素も注入して独自の音楽を作っている。

 もっともここに収められた曲でその後のレパートリィにも残っているのはレナード・コーエンの First We Take Mahattan ぐらいだ。Now We Are Four - Live でのこの曲の演奏でのビアのフィドルは一世一代とも言えるものだが、当初からフィドルは弾きまくっていたのだった。

 ビアのフィドルはスウォブリックとは異なるイングランドの伝統を汲む。2曲あるダンス・チューンも、ケルト系というよりはオールドタイム寄り。

 このアルバムのウリのひとつはラストに置かれた22分におよぶ Tall Ships で、これはセカンド・カセットのA面全部を占めていた。どうやら歴史的裏付けがあるらしいある話を、様々な曲のメドレーで語る。ショウ・オヴ・ハンズが1991年にフルタイムのデュオとして本格的に始動する、その一つのジャンプボードになったのが、この曲だった。原型はナイトリィが1970年代末にベースの Warwick Downes とやっていた時に生まれた。ウォリックは Paul の兄弟のようだ。

  話はこうだ。ナポレオン戦争の直後、イングランド西部の海岸にある村で、不漁と不作が続き、切羽詰まった村人は断崖の上で偽の明りをともし、沖合を通る商船を断崖の麓の岩礁に誘って難破させることを試みる。企みは成功するが、溺れた水夫の一人はその村出身の若者だった。1年前、村を出て船乗りになっていたのだった。(ゆ)

文學界 (2020年11月号)
文藝春秋
2020-10-07


 「JAZZ × 文学」として「総力特集」を組む。冒頭に村井康司さんによる村上春樹へのロング・インタヴューを置き、以下に

創作2本
対談3本
長めのエッセイ2本
「ジャズと私」として短いエッセイ9本
「ジャズ喫茶店主が選ぶこの1枚とこの1冊として7本
それに小説と非小説それぞれの読書ガイド

を収録する。巻頭から155ページ。全体の4割を割いている。

 『文學界』の読者にジャズを紹介しようというのが基本の姿勢。村上春樹にこれからスタン・ゲッツを聴こうという人へのお薦めを訊ねているのが象徴だ。登場している書き手たちの作品の背後にジャズがあることを示し、そのジャズの世界へ誘う。

 登場している人たちは皆、長年ジャズに親しんでいる。聴くだけでなく、読んでもいる。作家だけでなく、ジャズ喫茶の店主たちも皆読書家だ。そのセレクションがまず面白い。初めのお二人の1冊はジャズの本だが、他の5人それぞれの1冊はジャズと結びつけられることはまず無いものばかりだ。

 親しみ方も半端ではなく、時間が長いだけでなく、聴いている音楽のほとんどはジャズであるらしいし、深く突込んで聴いている。

 にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、語られているジャズはほとんどがビバップからコルトレーンの死までの、ジャズの黄金時代と呼ばれるごく短かい時期の録音だ。山下洋輔 × 菊地成孔、岸政彦 × 山中千尋の対談が各々のジャズを対象にしているのと、ラストに置かれた柳樂光隆氏の文章がかろうじて今起きているジャズに触れているのが目立つ。

 あるいはペーター・ブロッツマンについての保坂和志の文章が新鮮になる。この文章は、ブロッツマンの、ジャズの、ひいては音楽の聴き方そのものについても新鮮で、この特集で最も面白いものの一つだ。

 個人的には文学側で唯一、本人を知っている木村紅美さんの文章も面白い。そういえば、彼女と音楽全体について話をしたことはなかった。

 アマチュアとして実践する立場からジャズの「現場」について論じた岸政彦のエッセイもいろいろと興味深い。これを読むと、ジャズとアイリッシュ・ミュージックの相似にますます確信が強くなった。世界のいたるところで音楽の共通言語になっているということで、つまり、一定の数の「スタンダード」といくつかのルールを身につけているだけで、誰とでもどこでも「セッション」できてしまうという点で、ジャズとアイリッシュ・ミュージックは同じだ。だからといって、両方一緒にやるのも容易というわけではないが。

 もう一つ、岸氏のいう「ジャズ界」がニューヨークを頂点とするヒエラルキーをなしているという見方もいろいろな意味で興味深い。ロンドンやミュンヘンやストックホルム、あるいはイスタンブールやカイロ、あるいはブエノスアイレスやサンパウロでジャズをやっている人たちもそういうヒエラルキーを捕捉しているのだろうか。その前に、アトランタやシカゴやサンフランシスコやでジャズをやっている人たちが、そういうヒエラルキーを見ているのだろうか。

 いるのかもしれない。アイリッシュ・ミュージックにおいて、源泉としてのアイルランドの地位は絶対的だから、ジャズにおいてもそうしたセンターがあってもおかしくはない。

 ただ、ジャズにはそういうニューヨークを頂点とするヒエラルキーを成すものとは別の側面、位相、要素もあるようにも見える。そして、あたしが今いっちゃん面白いと入れこんでいるのは、そのヒエラルキーからは外れた、センターをひっぱずすようなジャズなのだ。端的に言えば、各地の伝統音楽の要素を持ちこみ、あるいは伝統音楽にジャズの方法論を適用して、これまで聴いたことがないと思える音楽をやっている連中だ。

 もう一つ言えば、あたしのような、ジャズも聴くリスナー、音楽は大好きで、ここに登場している人たちと同じく、音楽が無くては生きてはいけないが、ジャズはその音楽生活の一部であるような人間が面白がる音楽だ。

 その意味では、村上春樹が聴いているジャズ以外の音楽も含めた話を聞いてみたい。CDで持っているのはクラシックが多いというのなら、何をどのように聴いているのか。それは村上の中でジャズとどうつながっているのかいないのか。オーディオ・ファンの端くれとしては、何で聴いているのかも訊いてみたいが、おそらくそれはもうどこかに出ているのだろう。

 JAZZ × 文学を掲げるのであれば、「ジャズ文学」についての話が、読書ガイドだけではなく、もっとあってもいいと思う。この号には映画『スパイの妻』をめぐる蓮實重彦、黒沢清、濱口竜介の鼎談も載っていて、これが滅法面白い。映画はふだん見ないあたしも、これなら見てもいいかなと思えるくらい面白い。たとえば間章の文業について、微に入り細を穿って検討する座談会ないし論考ぐらいは欲しいところだ。筒井康隆の「ジャズ小説」についてのものでもいい。

 まあ、そういうことはこれからやられることを期待しよう。

 それにしても、こういう特集が組まれるのは、ジャズが今また盛り上がっていることの反映なのだろう。それにしてはその今の盛り上がりの内実に触れているのが、ほとんど柳樂さんの文章だけというのも、これまたひどく「ジャズ的」と思うのは下司の勘繰りであろうか。

 ジャズはもともとが雑種音楽で、実に多種多様多彩なものから成っていて、多種多様多彩な位相、側面を展開し、聴かせてきた、とあたしには見えるのだが、たとえばここに現れているように、ジャズをモノ・カルチャーと見ようとする姿勢ばかりが目立つのは、もったいないとも思うし、半世紀前ならともかく、「多様性」があらゆる文化のキーワードになってきている今の精神にはそぐわないとも思う。リニアな物語として捉えるのは、目先、役に立つかもしれないが、そういう物語は多くのものを切り捨てなければ成立しない。一般的に言っても、語られていないところで起きていることの方がずっと面白く、したがって大事なことの方が多いのだ。そのことは『100年のジャズを聴く』後藤雅洋×村井康司×柳樂光隆でも、散々言われていたことではある。皆さん、あの本を読んでいないのか。

100年のジャズを聴く
柳樂 光隆
シンコーミュージック
2017-11-16



 現代のジャズ・ミュージシャンのレコード棚にはジミー・ジュフリーのレコードが、現代のジャズ・ファンのレコード棚よりもずっと沢山あるのではないかと思っている、証拠は何も無いが。先日、ECM から出た Matthieu Bordenave/Patrice Moret/Florian Weber の La Traversee のレヴューにこうあって、なるほどと思って聴いてみれば、そう、こういう絡み合う即興があたしには面白いのだと納得した。そして、この絡み合う即興は、そう、グレイトフル・デッドの即興にも通じるのだ。このアルバムの3人がデッドを聴いているとはちょっと思えないが。(ゆ)

 村井さんの新著はジャズと関係が深い作家についての文章、ジャズ関連書の短かい書評、ジャズについての本についての解説を集めたもの。基本的に他に書いたものを集めているが、4分の1ほどは書下しだし、この本の企画が決まってから書いたものもあるそうだ。

 その本のローンチ・イベントはこの本の中心をなす第一部、作家とジャズの関連を探った文章の中からスコット・フィッツジェラルドとジャック・ケルアックを選び、それぞれとジャズのつながりを映像と音で確認するものだった。作品は当時ベストセラーとなり、作家も時代の寵児となるが、そのために比較的若くして死んだことと、時代を超えて読みつがれ、後世への影響も大きいことは共通する。

 前半のフィッツジェラルドは「ジャズ・エイジ」のフレーズを広めた張本人であり、また20世紀前半アメリカを代表する小説家でもある。ここでの眼目は「ジャズ」が今のわれわれにとってこの言葉が意味するものよりも遙かに広い意味をフィッツジェラルドの時代には持っていた、ということ。それはまずセックスの表現から始まり、セックスの比喩としての踊りの言葉になり、それからその踊りのための音楽をさすようになった。「ジャズ」とは音楽のジャンルないしスタイルだけではなく、『グレイト・ギャツビー』に描かれた派手で野放図なパーティーを描写する言葉だった。

 ということで1974年の映画『グレイト・ギャツビー』から、ギャツビーが開くパーティーのシーンを見る。この映画の音楽監督はシナトラ最盛期の編曲者でもあり、音楽の時代考証はきっちりやっている由。当時最も人気のあったポール・ホワイトマン楽団の音楽をもとにしているそうで、パーティーでは男女、ときには女性のカップルがこれで踊りまくっている。男性はタキシードに蝶ネクタイ、女性はそれぞれに工夫を凝らした派手な衣裳。鳥の羽根を頭につけたりしている。膝上の丈で、踊ると下着が見える服もある。楽隊は画面には出てこない。

 ポール・ホワイトマン楽団はガーシュウィンの〈ラプソディ・イン・ブルー〉を世界初演、初録音していて、それも聴く。リード楽器はクラリネット。ジャズというよりクラシックの演奏だ。作曲者の意識としても、ジャズというよりアメリカ流クラシックのつもりだったのではないかと思われてくる。

 同じ楽団はパーティーのお開きにあたって甘いワルツも演奏し、これも当時ヒットしている。これはもうどこからどう見てもジャズではない。しかし、そう思うのは現代からふり返っているわれわれの勝手な思いこみであり、フィッツジェラルドにとっては、そしてミュージシャンたちにとっては同じ範疇のものだった。そのことを認識することは、今フィッツジェラルドを読むにあたって、そしてポール・ホワイトマン楽団を聴くにあたって重要だろう。ジャズにはわれわれの「ねばならない」にしたがう義理も義務も無い。一方でそのことを誤読し、超訳することも、現代のわれわれにとって意味がないことでもない。ただし、自分が誤読し、超訳していることをきちんと踏まえていれば、ではある。

 ポール・ホワイトマン楽団に恐れをなしたのか、客の半分ほどが帰った休憩後の後半のケルアックでも映画『路上』からパーティーのシーンを見る。1948年から49年への年越しパーティーだが、服装がより今風になり、かかっている音楽がビ・バップになっている他は、やっていることは四半世紀前とまったく同じ。ビ・バップは踊れないと文句を言われたというが、皆さん、平気でばりばり踊っている。セックスの代用または前段階であることも変わらない。

 ケルアックはジャズ・エイジから大恐慌と第二次世界大戦を経たビート・ジェネレーションに属するとされるが、こうして見ると、現代に通じる文化の誕生を体現している。フィッツジェラルドは断絶の向こう側の世界に生き、その時代を描いた。文学の上から言えば、むしろ19世紀の伝統に棹さし、ジョイスやプルーストよりはヘンリー・ジェイムズにつながる。つまり基本的にフィッツジェラルドは風俗作家だ。文学的な革命よりも、コンヴェンショナルな形の中でベストを尽くそうとする。

 ケルアックの革命はジョイスやプルーストほど意識的でなかった。アメリカで初めて可能になった、無意識の革命であり、ジャズや映画やサイエンス・フィクションと同列だ。『路上』の文章はジャズだ。ケルアックは言葉でジャズを演っている。その軌跡、録音が『路上』の形になっている。だから厳密にはあれは散文ではない。韻文でもなく、その中間のどこか、あるいは散文と韻文を含む平面から垂直に離れたどこかにある。散文として翻訳されると、どこかずれていると感じるのはそのためだ。

 ケルアックがパーカーやデクスター・ゴードンや、「クールにもコマーシャルにもまだ向かっていない」ジョージ・シアリングに共感したのも、だから無理はない。サイエンス・フィクションも同じ時期にジョン・W・キャンベルによる革命が進行中だったが、そこにジャズにつながるものは見えない。ケルアックとジャズのつながりは、時間的なものよりも空間的なものにみえる。キャンベル革命の現場はマンハタンの Astounding Science Fiction 編集部だったが、それはジャズ・クラブのような現実の空間よりも、文学世界というヴァーチャル空間に存在していた。

 サン・ラのような例外はあるとはいえ、どうやらサイエンス・フィクションと親近性がある音楽はジャズよりもロックである。サイエンス・フィクションが即興性よりも組み立てる傾向が強いこともあるかもしれない。プログレとは限らない。ジェリィ・ガルシアは熱狂的なSFマニアだったし、初期のデッドはスタージョンの『人間以上』をバンドのモデルの一つとしていた。デッドの即興はジャズのような個人の噴出ではなく、集団が組み立ててゆく。決してガルシアのギターをバンドが支えているものではない。

 言い換えれば村上春樹にサイエンス・フィクションは書けない。サイエンス・フィクションのように見えても、見えるだけで、本質的にサイエンス・フィクションでは無い。もっとも村井さんの描くところの村上の文学は、村上本人のフィッツジェラルドへの傾倒とは裏腹にフォークナーにつながるように見える。ここでフォークナーを論じる準備はないが、ケルアックが無意識にやっていたことを、フォークナーはより意識的にやっていた、とも思える。

 ケルアックが本当にやりたかったのは、最後に紹介された即興演奏とタメをはる俳句を即興で放出することではなかったか。英語による俳句は英詩の伝統からははずれていて、韻文とは言えない。むろん散文でもない。『路上』は例外的に長大な俳句とみるべきかもしれない。あるいは連句か。ケルアック個人が吐き出したものよりも、ニール・キャサディや「メリールゥ」と巻いた歌仙なのではないか。その後ケルアックが『路上』に匹敵するものが書けなかったのも、連句をつけてくれる相手に恵まれなかったせいではないか。ズート・シムズやアル・コーンとの共演も連句のつもりだったのではないか。

 そうしてみると、本でとりあげられている村上春樹と和田誠の『ポートレイト・イン・ジャズ』は連句の一種と言えないか。

 ケルアックでもう一つ、『路上』の映画のスリム・ゲイラードのシーンがすごい。本人ではもちろんなく、そのそっくりさんだそうだが、恐しいほどの芸達者で、これだけできればゲイラードの物真似でなくても、オリジナルとして十分通用するではないかと思われる。こういう芸人が、何人もいるとも思えない。そして「ハナモゲラ語」の祖先でもあるゲイラードの芸は、ヒップホップの遠い祖先とも言えそうだ。このあたりと Gil Scott-Heron との関連も気になる。スコット・ヘロンは村上春樹、佐藤泰志と同年でもある。

 本の半分を占める第一部で取り上げられた人物から今回フィッツジェラルドとケルアックを選んだのは、この2人だけがアメリカ人だからだろうか。だとすれば、他の人たちについても、いーぐるでのイベントをしていただきたいものだ。Spotify のプレイリストはやはり味気ない。村井さんとこの人たちとの連句を体験したい。(ゆ)

 漱石の『夢十夜』の朗読に音楽をつける。ただし音楽は朗読の「伴奏」や「バック」では無い。朗読と対等の位置付けだ。音楽は作曲しているところと即興のところがあるが、その境は分明でない。それぞれの話で、朗読と音楽の構成の大枠は決まっているが、朗読がいつどこに入るか、は即興の場合もある。これまた、決まっているところと即興の部分は分明でない。

 音楽を担当するのはピアノの shezoo、パーカッションの相川瞳、サックスの加藤里志。朗読を担当するのは西田夏奈子と蔵田みどり。そして、各挿話からイメージを育み、イラストとして描き、スライドで上映するのが西川祥子。

 蔵田さん以外のメンバーはこれに先立つアンデルセン『絵のない絵本』全篇を朗読と音楽とイラストで体験するイベントを成功させている。これがあまりに面白かったので、もう少しやろうということになり、その対象として『夢十夜』を選んだ。まことにふさわしいものを対象にしたものだ。『夢十夜』は『絵のない絵本』と同じメンバーで2回に分けてやり、その後、蔵田さんを加えて全夜上演をやっている。今回は全夜一挙上演の2回めになる。

 前回の全夜上演は見られなかったので、蔵田さんのパフォーマンスに接するのは初めてだが、彼女の参加は大成功ではある。一挙上演となると、朗読者が一人では単調になるかもしれないという配慮から出たアイデアかもしれない。西田さんとは対極にあるアプローチで、西田さんが俳優という本業を活かして、朗読を演じるのに対し、蔵田さんはシンガーという本業を朗読に持ちこんで、唄うように読む。その対照がまことに鮮やかで面白い。二人は交互にメインの役割を担当し、蔵田さんが奇数、西田さんが偶数の夜を読む。時には、各々一部の声を分けたりする。その呼吸が絶妙だ。

 音楽は基本は同じだが、テキストのどこで入るかや、楽器同士の受け渡しなど、細かいところをいろいろ変えているようだ。このトリオは実に切れ味がいい。音楽をシャープにしているのは主に相川さんのパーカッションだが、加藤さんのサックスやクラリネット、リコーダーまでがこれによく応えている。shezoo さんのピアノもリリカルの演奏がすぱすぱとキレる。

 もちろん各々の話にふさわしい音楽を作り、演っているわけだが、音楽だけでも独立している。聴いて愉しい。愉しい音楽がそのまま舞台設定ともなり、朗読を増幅もする。話が立体的に立ち上がってくる。イメージがより鮮明に湧く。同時に言葉の響きがより明瞭になる。話の世界に引きこまれ、没入させられる。話の伝えようとするところが、ひしひしと伝わってくる。それは論理ではない。教訓でもむろん無い。名状しがたい感覚だ。ひょっとすると、そのキモを感じとるには、ただ読むだけではダメで、こうして音楽とパフォーマンスが一体となって初めて感得が可能になるのかもしれない。

 西川さんのイラストは古書の1ページをきりとり、裏から線香の火を近づけて焦がして描く。今回は『夢十夜』の文庫のそれぞれの話の1頁だったようだ。

 十篇一気に体験して気がついたのは、全体としてピーンと張りつめた話から始まるのが、徐々にゆるんできて、最後はほとんど落語になっている、という構成の妙である。一夜ずつは独立した話だが、通してみると、全体として一本の筋が通っている。そして、その筋から覗けるのは、この話はずいぶんと奥が深いということだ。ファンタジィの常として、いかようにも読めるが、これまたすぐれたファンタジィとして、おそろしく根源的なところまで掘りさげている。人間が生きることの玄妙さを具体的に浮き上がらせる。そして少なくともその一部は、こうしたパフォーマンスでしか垣間見ることができない。

 もちろん音だけではない。朗読者たちの演技、表情だけでもない。ミュージシャンたちの姿、画面の絵、そしてこの場の空気、雰囲気まで含めての、全体体験だ。その場に立ちあわなければ味わえない体験だ。

 だから、また別の作品、たとえば足穂の『一千一秒物語』あたりを見たいと思う一方で、この『夢十夜』全夜一挙上演を、また見たいとも思う。これは何度も体験したいし、見る方も数を重ねることで、あらたに見えたり感じたりするところがあるはずだ。そしてその体験の蓄積の上にようやく感得できるものがあるはずだ。

 今回、意表をつかれたのはラストの蔵田さんと shezoo さんによる「からたちの花」だった。これがこんなに切実に、染々と心に流れこんできたのは初めてだ。歌そのものの美しさに眼を開かれた。ゆっくりと、決して声を上げず、ささやき声になる寸前の声で、ていねいに唄う。

 この歌をラストのしめくくりとして唄うことは shezoo さんのアイデアだそうだが、蔵田みどりといううたい手を得て初めてどんぴしゃの、これ以上無い幕引きになっている。漱石が聴いたなら、大喜びしたにちがいない。同時に、古いこの歌が、時空を超えて輝いていた。この歌を聴くためだけにでも、『夢十夜全夜上演会』を再演して欲しい。あの十篇のパフォーマンスがあって、その後に唄われるところが良いのだ。

 これは狭い空間で体験すべきものではある。観客100人でも多すぎるかもしれない。朗読者やミュージシャンたちの表情の微妙な変化も見えるくらいの、近いところで見たい。もちろんオペラグラスで見てはぶち壊しだ。

 それにしても、こういう、新しい形を思いつき、形にしてゆくアーディストたちには心からの敬意を表さざるをえない。ありがとうございました。(ゆ)

 今度の日曜日、東京アイリッシュハープ・フェスティバル2017が開かれます。ダブリンの村上淳志さんと東京の木村林太郎さんのふたりのハーパーが中心になって開かれているハープの祭典の3回め。会場はティアラこうとうです。

 昼は各種ワークショップ、夜はコンサートというスケジュールで、このワークショップの一環として、村上さんと栩木伸明さんとあたしで、「アイルランド音楽✕スコットランド音楽 聴き酒」というレクチャーを行ないます。

 今回の海外からのゲストが Rachel HairJoy Dunlop の二人ですが、二人ともスコットランド人。なので、「アイリッシュハープ」とスコットランドを結ぶ露払いをやってくれ、というのが村上さんからの趣旨です。

 あたしに声がかかったのは、昨年末、下北沢で行なった「アイリッシュハープ講座」の際、あたしとの打合せがたいへん楽しかった、というのが理由だそうです。村上さんは栩木さんとも親交があり、あたしも栩木さんはまんざら知らない仲でもないということで、この企画となりました。

 栩木さんはみなさんご存知のとおり、アイルランドの詩、音楽、歴史、文化について、今わが国で一番活発に執筆活動をされています。なので栩木さんがアイルランドをいわば代表し、あたしがスコットランドの代弁者という役柄です。

 スコットランドの伝統音楽はもともとはアイルランドからの植民者たちがもちこんだものです。アイルランド語とスコティッシュ・ゲール語は、後者が前者から枝分かれしたもので、ゆっくり話せば今でも意思疎通はできるそうな。同様に音楽も、スコットランドで独自の展開をしていますが、根っこは共通しています。そのあたりの共通点、あるいはアイルランドならでは、スコットランドならではの味わいを浮かびあがらせることができれば、おもしろいでしょう。

 とはいえ、先の打合せが楽しかったのはそのためのリハーサルが無かったおかげだ、というので、ぶっつけ本番、出たとこ勝負、その場での即興でいこうということになっています。いったいどういうことになるのか、鬼が出るか、蛇が出るか、はたまた天女が舞い降りるか、皆目見当がつきません。

 まあ、あたしとしてはアイルランドとならんで大好きなスコットランドの音楽の魅力を少しでも伝えられれば本望です。たとえば、もうベテランのハーパー、Savourna Stevenson のオリジナル曲〈Lament for a Blind Harper〉。タイトルからするとカロランにゆかりがあるのではと思われるでしょうし、実際、そう思われてもかまわないと本人もどこかで言っていました。けれどなんとも美しいこの曲はこれぞスコットランド以外の何ものでもないというメロディであるのです。あたしなどは、これを聴くたびに、ココロはヒースの花咲くスコットランドの原に飛んでいってしまいます。これは父親のピアニストで作曲家 Ronald Stevenson による演奏。

 

 というあたしの与太話はともかくとして、ダブリン在住の村上さんと東京ベースの栩木さんの楽しい(にちがいない)話を生で聞けるチャンスはなかなかありません。「聴き酒」というタイトルなので、きっとうまい酒もでるんじゃないでしょうか。レクチャーというよりは、リスナーともども、グラス片手におしゃべりを楽しんでみたいと、あたしは思ってます。

 そういう意味では、満員でぎゅうぎゅうになるよりも、少ない人数で親密にできた方がよいのかもしれません。とはいえ、誰も来ないでわれわれ3人だけ、というのも寂しいもんです。ということで、あらためてお知らせします。(ゆ)

--引用開始--
「アイルランド音楽✕スコットランド音楽 聴き酒」

 おおしまゆたか・栩木伸明・村上淳志

 13:15〜14:45(90分)

 定員35名 参加費2000円

アイルランドとスコットランドをこよなく愛する3匹の翻訳家と文学者と演奏家が、両国の音楽から聴こえてくる繋がりや違いについてよもやま話を繰り広げる座談会。フェスティバル・コンサート鑑賞前の至福の一杯!
--引用終了--

 トマス・フラナガン Thomas Flanagan を知ったのは New York Review of Books のニュースレターだった。そこでそのエッセイ集 THERE YOU ARE: Writing on Irish & American Literature and History, 2004 を知り、読んでみた。検索してみるとこの本が出ている。シェイマス・ヒーニイが序文で触れているのはこれだった。
 
 わが国ではミステリ作家として知られている。というよりもミステリ作家としてしか知られていない。本国アメリカでは逆にミステリを書いていたことはほとんど知られていない。まず第一にアイルランドの文学と歴史の泰斗であり、次に近代アイルランドを描いた歴史小説三部作の作者であり、それがすべてだ。

 1949年から1958年にかけて、26歳から35歳にかけて、フラナガンは7本の短篇を EQMM に発表している。そのうち2本は当時同誌が行なっていた年次コンテストでトップになっている。この時期かれは修士と博士をとったコロンビア大学の准教授だった。どこで読んだか忘れたが、これらの短篇は家賃を払うために書かれたという説があるが、分量からしても、当時の身分からしても、冗談ととるべきだろう。

 ちなみに『アデスタを吹く冷たい風』文庫版解説およびウィキペディアの記事では、「カリフォルニア大学バークレー校の終身在職教員」とあるが、母校 Amherst College ウエブ・サイトのバイオグラフィによれば、バークレーにいたのは1978年までで、78年から96年まではニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の教授を勤めている。96年に教職から引退してからバークレーに住み、執筆に専念した。

 4人の祖父母はいずれもアイルランドはファーマナ出身の移民だった。かれは移民三世になる。上記エッセイ集 THERE YOU ARE の表紙に使われた写真は24歳の時のフラナガンで、タバコを加えて見下ろしているのは、コロンビアの大学院生というよりは、アイルランド系マフィアの鉄砲玉だ。



 今、翻訳で読んでも、ジャンルに関係なくなかなか優れた作品と思うが、アメリカでは全く忘れられていて、単行本にもなっていない。アイルランドを舞台とした長篇三部作はテレビにもなり、ベストセラーだったが、短篇がまったく顧られないのは、形式や狙いが異なるとはいえ、いささか不思議でもある。ヒーニィの言及が無ければ同名異人かと思うほどだ。

 長篇第一作 The Year of the French (1979) のテレビ・ミニシリーズ版 (RTEとフランスのテレビ局の合作、1982) の音楽を担当したのがパディ・モローニで、この音楽をチーフテンズでやったアルバムもある。チーフテンズは、ミュージシャンとして「出演」もしている。

The Year of the French
Chieftains
Shanachie
1990-02-20

 
 作品の初出を調べようと思って検索してみたが、EQMM の全てを網羅した Index はみつからない。唯一見つかったものも不完全で The Fine Italian Hand と The Cold Winds of Adesta しか載っていない。わかった限りのデータを発表順に書いておく。

玉を懐いて罪あり The Fine Italian Hand, 1949-05
アデスタを吹く冷たい風 The Cold Winds of Adesta, 1952; 1969-07(再録)
良心の問題 The Point of Honor, 1952
獅子のたてがみ The Lion's Mane, 1953
うまくいったようだわね This Will Do Nicely, 1955
国のしきたり The Customs of the Country, 1956
もし君が陪審員なら Suppose You Were on the Jury, 1958-03

 どれも言葉のトリックだ。何をどう書くか、そしてより重要なことには書かないかの工夫によって読者の意表をつく。だからなおさらこれは原文で読みたくなる。韻律やダジャレなどに頼るものではないから、翻訳でも十分楽しめるが、原文にはおそらくより微妙な遊びやひっかけがあるはずだ。

 もっともミステリとは畢竟言葉のトリックではあろう。すべての手がかりが読者の前にそろっている、わけではない。

 すぐれたミステリはみなそうだろうが、これもまた謎解きだけがキモではない。謎が解けてしまったらそこでおしまいではない。むしろ、あっと思わされてから、頭にもどって読みなおしたくなる。それには周到な伏線だけでなく、むしろその周囲、ごく僅かな表情やしぐさの描写の、さりげないが入念な書込みがある。細部を楽しめるのだ。

 もう一つの魅力は舞台の面白さで、これはとりわけテナント少佐ものに顕著だ。軍事独裁政権下の探偵役、それも型破りで有能な人物はそれだけで魅力的だ。つまりサイエンス・フィクションやファンタジィ同様、設定自体がキャラクターの一つになっている。ランドル・ギャレットの「ダーシー卿シリーズ」と同様の形だ。テナント少佐はダーシー卿に比べればずっと複雑な性格で、おそらく読みかえすたびに新たな面、新たな特性に遭遇することになるだろう。ダーシー卿の場合、あの世界全体の表象として現れているので、かれ個人の側面は薄い。テナント少佐の世界は現実により近いので、世界を説明する必要はない。それだけ個人のキャラクターに筆を割ける。これが長篇ならば別だが、中短編の積み重ねで世界を作ってゆく場合には世界設定と個人のキャラクターとしての厚みと深みはトレードオフになる。

 テナント少佐が住み、働いている「共和国」は Jan Morris 描くところの Hav を思わせる。地中海沿岸のヨーロッパのどこかであること、出入口がほとんど鉄道1本であることが共通するが、それだけではない。時代からとり遺された感覚、ノスタルジアとアナクロニズムの混淆、そして頽廢の雰囲気。現代の時空にそこだけぽっかりと穿いた穴。そして奇妙に現代の世界を反映するそのあり方。歪んでいるが故にかえって真実を映す鏡。真実の隠れた部分が拡大されて映る鏡。

 この国はかろうじて危うい均衡を保っていて、テナント少佐自身がまたその中で危うい均衡を保っている。しかし、現実というのはどっしり安定して動かない、などということはおそらくあったとしてもごく稀で、たとえば極盛期清朝のように、一見磐石に見えても実際には危うい均衡を保っているだけなのだ。磐石に見えれば見えるほど、それは崩壊の瀬戸際にある。これらの物語は、テナント少佐の綱渡りを描いてもいて、その緊張感が面白さを増すのは、ふだん見えない、見ないようにしている危うさが眼前に現れるからだ。

 テナント少佐を支えるものは何であろうか。将軍の先も長くないことだろうか。といってとって代わって政権をとる意志も能力も自分には無いことはわかっている。そういう意味では、テナント少佐についてはもっと読みたかった。コロンビアからバークレーに移ってからは著者は短篇を書くことはなかった。フラナガンのなかでは学者、教育者としての側面とともに小説家としての存在も消しがたくあったのだろうが、そのエネルギーは長篇執筆に向けられた。短篇を書くほどの余裕は無かったのかもしれない。

 しかしここに現れた短篇作家としての力量は中途半端なものではない。EQMMはじめダイジェスト版の雑誌に書いている作家によくいる、一定の水準は超えるが、突破した傑作は書けない職人とも一線を画す。ジョイスに傾倒し、初めてダブリンを訪れた際には、空港からホテルまでのタクシーの中で、ジョイスに関係のある場所を残らず指摘してみせたという伝説の持主であれば、ここに『ダブリン市民』の遠い谺を聞き取ることも可能だろう。もし本気で作家として身を立てようとしたならば、おそらくは後にかれがその批評の対象としたような作家たちに肩を並べていただろう。あるいはこれらの作品を書いたのが家賃稼ぎというジョークがジョークではなく事実だったとしたら、つまり生活のために小説を書かねばならなかったとしたら、シルヴァーバーグのように作家として大成していたかもしれない。名門アマースト大学を出て、コロンビアで博士号をとるとそのまま教授陣に加わる頭脳と才覚の持主だったことがはたして本人にとって、そして世界にとって幸福なことだったか。本人はおそらく幸福だったのであろう。しかし、世界はおかげでより貧しくなった。

 この7本をミステリ・ファンがどう読むかは知らない。本国では忘れられたその作品を独自に集めてハヤカワ・ミステリの1冊として出したところを見れば、正当な評価をしている。しかし、その本は復刊希望で多くの票を集めながら、長いこと品切れのままだった。

 実際、どれもストレートな形の「ミステリ」ではない。殺人事件の解決もあるし、どれも謎解きがメインテーマだ。しかし、「ミステリ」と言われて一般の人が思い浮かべるものからはずれている。謎解きはあくまでも中心の推進剤だが、作者の関心はむしろ謎のよってきたるところに置かれている。なぜ、こんな謎が生じるのか。事件を誰が起こしたかよりも、なぜ生じたか。当然それは作者が生きている時空に起きていることにつながる。探偵が現れて活躍するための事件ではなく、事件は起こるべくして起こり、探偵はいやいやながら、やむをえず介入する。事件は日常的で、それだけ切実だ。

 一方でどれにもゲームの匂いがある。ある厳密なルールにしたがって書いてみて、どういうものが出てくるか、試しているようにもみえる。その点でぼくの読んだかぎり最も近いのは中井英夫の『とらんぷ譚』の諸篇だ。

 こうなってくるとやはり長篇を読まざるをえなくなる。1798年、ウルフ・トーンの叛乱からアイルランド独立戦争までを描く三部作。小説という形で初めて可能な歴史の真実の提示がどのようにされているか。NYRB版で合計2,000ページ超。(ゆ)








The Tenants of Time
Thomas Flanagan
NYRB Classics
2016-04-05


The End of the Hunt
Thomas Flanagan
NYRB Classics
2016-04-05


 ジョージ・R・R・マーティンがそのブログ Not A Blog でやはりローカスの推薦作品リストをとりあげている

 そうそう、マーティンも指摘している通り、ローカスのリストから漏れた優れた作品はまだまだあるはずだ。

 ところで今年のヒューゴーについて昨年末来、いろいろ書いている。

 昨年は Puppygate でヒューゴーは大揺れに揺れ、結果「受賞作なし」が続出したわけだが、長篇賞は中国の劉慈欣『三体』の英訳(翻訳は Ken Liu)が受賞し、一方、Sad Puppy が送りこんだ候補作はすべて最下位かそれに近い形で落選して、かれらの意図はみごとに裏切られる結果となった。マーティンはワールドコンの会場で「ヒューゴー落選者パーティー」を開いて、意地を示した。

 Sad Puppy は今回も従来通り、ヒューゴーの投票を仲間うちの集団投票で乗っ取る意志を表明しているが、マーティンによればどうやら様相がいささか変わっている

 Sad Puppy はごく狭い価値観の上に書かれた作品群を候補作に送りこみ、引いては受賞させることを狙っているわけだが、かれらのウエブ・サイト上にはおそろしく広い範囲の価値観を代表する作品が候補の候補として上げられ、これまでのような誹謗中傷や罵詈雑言は影を潜めて、それらの作品について真剣で活発な議論が行われている。俎上に載せられた作品の中には、Puppy たちがもともとヒューゴーから排除しようとした傾向の作品も多数含まれている。とすれば、昨年の二の舞になる可能性は低くなるのではないか。

 そしてマーティンはヒューゴーのノミネートに参加することを薦める。それにはワールドコンのメンバーになる必要があるが、来年のヘルシンキ大会の会員にもノミネート権はある。そしてできれば今年の大会のメンバーになって投票しよう、と呼びかける。それも自分の意見として、誰か他人の指示に従って投票するのではなく、自らの判断のもとに投票しよう、と呼びかける。

 つまり、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、そしてそのファンダムの健康にとっては多様性の確保、できるだけ幅の広い、奥の深い多様性を確保拡大してゆくことが何より重要である、という認識だ。サイエンス・フィクションという現象が多様性の確保拡大への志向から生まれていることの確認でもある。そして現行のモダン・ファンタジィは、サイエンス・フィクションを生んだ幻想文学からよりも、サイエンス・フィクションから枝分かれしたものではある。

 ここで興味深いのは、Sad Puppy への対策として、これを隔離し、排除しようとはしないことだ。それでは Sad Puppy と同じことをやることになる。逆にそこでの議論に積極的に参加し、具体的な作品の推薦や議論を通じて、かれらが当初意図したことを換骨奪胎してしまおうという動きが見える。いやそれは言いすぎかもしれない。換骨奪胎することは二次的な結果であって、そういう結果が生まれることを期待はしても、第1の目的にはしていない。第1の目的は議論すること、議論を通じて相手の認識を変えようということだ。価値観の合わない人間たちは排除するという Sad Puppy の行為の根源にある認識を変えようとする。狭い視野と認識に閉じこもるよりもより多様な様々な価値観が共存する方がおもしろいではないか、と提案し、その認識の共有をめざす。すべてのサイエンス・フィクションに通底する主張ないし目的があるとすれば、それは多種多様な、時には異様なまでに異なった価値観が共存することのおもしろさを示すことである。

 もっとも言わせてもらえば、それはすべての芸術、サイエンス・フィクションのみならず、文学のみならず、およそ芸術活動とされるすべての行為の根源的な目的ではある。サイエンス・フィクションはその提示、多様性を生みだす契機として現代の科学とテクノロジーを利用する。そこがあたしにとっては他の芸術活動よりもより身近に切実に感じられ、したがっておもしろい。


 そうしてマーティンは自分もヒューゴーを受賞する価値があると考える作品をあげている。かれはこれらの作品をノミネートしようと言ってはいない。これらがノミネートに値するかどうか、確認するだけの価値はある、と言う。それが推薦作品リストのあるべき姿であり、ローカスのリストはそのお手本とも言う。これまでのところ Best Editor: Long Form, Dramatic Presentation の Long Form と Short Form、Graphic Story、Related Works、それに Professional Artists について書いている。その余白に2冊の長篇を挙げている。

NEMESIS GAMES, James S. A. Corey
SEVENEVES, Neal Stephenson

 James S. A. Corey は Daniel Abraham と Ty Franck のデュオのペンネームで、この作品は Expanse シリーズの5冊め。うわ、また読まねばならぬシリーズが増えたぞ。シリーズ第1作 LEVIATHAN WAKES, 2011 はヒューゴーにノミネートされ、ローカス賞ではベストSFの第5位。『巨獣めざめる』として中原尚哉訳が出ている。第2作 CALIBAN'S WAR はローカスで第5位、第3作 ABADDON'S GATE はローカス・ベストSF賞受賞、第4作 CIBOLA BURN はローカス第8位、といずれも好評だが、ヒューゴーにはこれまで縁が無い。

 Neal Stephenson の方は17冊めの長篇。スティーヴンスンはこれまで3冊邦訳があるが、今世紀に入ってからのものは邦訳されていない。

 関連書籍も2冊。
 
THE WHEEL OF TIME COMPANION, ed. by Harriet McDougal, Alan Romanczuk, and Maria Simons
YOU'RE NEVER WEIRD ON THE INTERNET (Almost), A Memoir, by Felicia Day

 フェリシア・デイの回想録はまあまず邦訳は出ないだろう。36歳で回想録、というのもちょと早すぎるような気もするが、ひょっとして10年ごとくらいに何冊も書くつもりかも。

 『「時の車輪」コンパニオン』も邦訳はおそらく出ない。当然のことながらネタバレのオンパレードだから、これはあのシリーズのファンのためのもので、それも全部読んだ人のためのもので、さらに何度も読んでいる人のためのものだ。まったく本篇を読んだことのない人間には、あるいは少なくとも半分くらいまでは読んでいないと、これは役には立たないだろう。その代わり、熱心なファンにはこたえられまい。本篇では明らかにされていない、あるいは曖昧なままになっていることなども、ジョーダンのノートなどからかなり詳しく書かれてもいるらしい。

 最新の記事では Best Editor: Long Form をとりあげる。これは編集者の中で書籍、長篇の編集者が対象だ。Short Form が雑誌編集者になる。

 編集者は表に出ない。わが国でも近年は編集担当を奥付に明記する本も増えているが、まだまだ黒子としての存在であることが本分とされる。編集者として評価されるのは例外的な存在だ。アメリカでも事情は同じで、Tor が本に担当編集者の名前を付けだしたのも、ここ2、3年だ。そこで一部の有名人に投票が集中することになり、ヒューゴーの中でもこの部門は前身も含め、同一人物の連続または複数受賞が多い。現在のような区分になり、書籍編集者が受賞しはじめると、他の部門にはない慣行ができる。受賞が2、3回重なると、それ以後、候補にあげられることを永久に辞退する。これは初期の受賞者であるデヴィッド・G・ハートウェルが始めたが、それ以後の受賞者たちにも受け継がれている。この部門は一種の功労賞になっているわけだ。普段あまり評価されることのないところで重要な仕事をしている人たちなのだから、照明があたるチャンスをなるべく大勢の人びとに拡げたい、というのはわかる。

 ところが、昨年は Puppygate のあおりを食って、この部門は「受賞者なし」になった。マーティンに言わせれば、この部門の昨年の候補者はいずれも受賞に値する人たちだったから、これはいささか「不当」な扱いになる。今年はしっかり候補を見定めて、投票すべきはちゃんと投票しよう、と呼びかける。

 こういう部門、とりわけ編集者はマーティンのようなプロでないとわかりづらい。Locus の消息欄を丁寧に追いかけていれば名前や所属は多少ともわかるだろうが、普段の仕事ぶり、誰を担当し、何を編集しているかまではなかなかわからない。ここで名前のあがっている人たちには、今後とも注目しよう。

 その他の部門についてはそれぞれの記事を参照。




 今日はウィリアム・バトラー・イェイツの誕生日。DNBのフリー配信はそのイェイツの項目(1週間はタダで見られる)。執筆者は R. F. Foster というのはまあそうであろう。項目の長さはワーズワース、ブラウニング、チョーサーに次ぎ、キーツより上。とはいえこのあたりは数百語の違いなので、まず同等といっていいだろう。詩人ではテニソンがワンランク上にあり、ミルトンがその上、そしてコールリッジが18,800語で、詩人では今のところトップ。文学者ではその少し上にディケンズがいる。別格はシェイクスピアで、これは手許にある DNBの項目でもトップで、エリザベス一世より長い。

 イェイツはその所属する集団がほぼ滅亡する寸前に現れ、アイルランド全体の文化を代表する存在になったというところで、カロランに似ている。

 ウィリアム・バトラーは詩人として名をなしたが、父親も姉妹弟も画家として名をなしたのは、おもしろい。ウィリアム・バトラーも画才があり、一家の絵を集めた展覧会の図録はときどき取出して見る。ウィリアム・バトラーの詩も言葉で絵を描いているようにも思える。 

 駐日アイルランド大使館ではイェイツ生誕150周年ということで「イェイツ・デー」と銘打って、様々な催しをしている。

 今月は16日が「ブルームの日」で、アイルランド文学の関係者は忙しい。(ゆ)

 武田百合子は1個の才能を備えていたではあろうが、一方で作家・武田百合子が生まれるには、泰淳という存在が必要であっただろう。泰淳と出会わず、たとえば画家や写真家と結婚していれば、視覚芸術の方面で一家を成したことだろう。

 ラストに近く、泰淳最後の夏の章を読みながら、手術を受ける前のことを思いかえしていた。夜だんだん眠れなくなっていた。はじめはなかなか寝つかれないという程度だったものが、やがて一晩中輾転として朝を迎え、かろうじて午前中浅い眠りをとる、という状態になった。夜眠れない症状は、手術を受ける前年の秋頃から急速に悪化していったようだ。そして、2011年の2月のはじめ、腸閉塞の症状が出る。それからはモノを食べられなくなった。食べれば腹が痛むからだ。バナナなどを、少しずつ食べてはごろごろしていた。市販の腸の薬など飲んでみて、それで何とか排便はできたりしたが、痛みは去らない。

 そういう風に弱ってゆくのを、泰淳はもっとゆっくり辿っていた、と想像する。すると、ここに現れる泰淳の感覚が手にとるようにわかる。気がする。感情や思考はわからない。しかし、かれが感じていただるさや眠い上に眠い感じ、めまいはわかる。気がする。

 そして、そこから、ここに至る泰淳の姿があらためて立ち上がってくる。リスを観察する泰淳。草を刈る泰淳。『富士』を書く泰淳。文字通り、身を削って巨大な作品を書きつづける作家。そして、その傍にあって、作品を書かせる女。百合子がいなかったならば、作家・武田泰淳もまた、存在しなかった。『富士』が生まれることもなかった。たとえ、時には身を震わせて怒らせられることがあっても、その怒りも含めて、作家は女を必要としていた。

 『森と湖のまつり』の不思議な吸引力。読んだことをすっぽりと忘れさせる『富士』。『滅亡について』に展開される、深く透徹した洞察とそれを適確に伝える表現力。『十三妹』のクールなユーモア。中国文学や仏教の知識と体験、戦争などの表向きの影響とは別の次元で、泰淳に圧倒的な影響をおよぼし、あるいはいっそ支配していたのは、百合子の存在であったのだろう。

 富士の麓のこの空間とこの時代は、おそらく百合子の力がもっとも純粋に作用し、最も効果を発揮する時空であったのだ。それが『富士』を生む。泰淳をして『富士』を生ませる。身を削ってまで、生みおとさずにはいられなくする。

 十数年越しにこの日記を読み終わった今こそ、『富士』を読まねばならない。(ゆ)

富士日記〈上〉 (中公文庫)
武田 百合子
中央公論社
1997-04-18


 ルーシャス・シェパードが今月18日に死去、とLocus が昨日の朝報じる。享年70。デビュー時すでに40歳だったせいか、いつまでも若い印象があったが、いつの間にか古希を迎えていたのだった。

 シェパードを初めて意識したのはいつだったろう。たぶん年刊傑作選のどれかで "Salvador" を読んだ時ではなかったか。フレドリック・ブラウンの「闘技場」の再話ともいえる話で、近未来の中米に投影したヴェトナム戦争を背景に、人間の「非人間的」側面というか要素というか、「暗黒面」を粘着性の高い文章で圧倒的リアリティをもって描きぬいていた。人間にはそうした暗黒面が人間である以上否応なくついてまわるものだ、いや、一般に「非」人間的といわれる側面こそが、人間を人間たらしめているのだと、頭というよりは胸の底、横隔膜のあたりにズシンと叩きこまれたような衝撃だった。

 それからシェパードを手当たり次第読みだした。サイバーパンクよりも何よりも、この人の作品には、「今」という感覚が濃厚だった。目の前で展開されているのは、超現実あるいは現実の裏でのことであろうとも、語られているのは自分が生を享けたこの世界、という感覚は絶対的だった。その世界の、こういう形でしかあぶり出せない位相が、あらがいようもなく、つきつけられる。

 手許にあった雑誌、アンソロジーをしらみ潰しにあさっては読んでいった。Locus の記事では UNIVERSE 13 の "The Taylorville Reconstruction" がデビュー作とあるが、F&SF の "Solitario's eye" の方が先という記憶がある。「サルバドール」の、一種異様な熱を帯びた闇の味覚はどれにも健在だった。ひとつだけ異色だったのが "The fundamental things" で、乾いたユーモアに驚いたものだ。

 このユーモアは小説よりもエッセイに色濃く出ることが多い。F&SF に連載していた映画評などに典型的だが、時にそれが爆発することもあった。ハリー・ポッターの映画の一本目が公開されたときだったと思うが、その行く末を予想した文章にはしばし笑いが止まらなかった。一方で、「ハリポタ・ファン」の中には、大いに腹を立てる人も少なくないと思われた。

 「サルバドール」の次に、同じくらい衝撃を受けたのが "A Spanish lesson"、就中作者が作品の枠から踏み出して重い問い掛けを放つラストに茫然となった。

 そして "Nomans Land" の恐怖。これは「究極の恐怖小説」だと、今でも思う。怖くて再読できない。

 "Barnacle Bill the spacer" は堂々たる「スペース・オペラ」に "The fundamental things" のユーモアが、より陰翳を深くして潜み、絶妙の味を出している。

 とはいえ、シェパードといえばやはり「竜のグリオール」のシリーズということになる。最初の作品「竜のグリオールに色を塗った男」は、初読ではその重要性を完全に見逃した。真価がわかったのは、人並に第2作「鱗狩人の美しい娘」で、Mark Ziesing が出した瀟洒なハードカヴァーだ。そして "The father of stones" にはただただ圧倒された。その時点で、このシリーズは、あと1本、長めのノヴェラを書いて完成と著者が言うのをどこかのインタヴューで読んで心待ちにした。が、出ない。15年経って "Liar's House" が出たときは、だから踊りあがって悦び、本が届くと飛びついた。

 さらに7年後に出た "The Taborin Scale" も予約して届くと同時に読んだ。

 読んだのだが、どうにもはぐらかされたという想いがぬぐえない。後の2作は前3作とは明らかにテーマもアプローチもスタイルも変わっている。もちろん変わったこと自体は当然でもあろうが、どうも良くない方に変わったのではないか。

 だから集大成たる THE DRAGON GRIAULE が届いたときには、新作が含まれていたが、読む気になれずに積読のままだ。

 この時期、前世紀末あたりから、小説を読めない症状が続いていたのだが、それでもシェパードのこのシリーズだけは、自分でも驚くほどあっさりと読むことができた。それだけに、失望感は大きかった。

 とはいえ、シェパードの新しい小説をもう読めなくなる、とわかった今、あらためて全作品の再読を始めようとすれば、やはりここから始めるしかないだろう。他ならぬグリオール・シリーズの長篇が予告されていることでもある。これが遺作になるのだろうか。

 シェパードは中篇の作家だ。長篇は書けない。かれの長篇は長さは長篇でも構造はノヴェラだったり、ノヴェラの連作だ。その代わり、中篇には無類の上手である。こういう人はサイエンス・フィクションではよく見かける。ポール・アンダースン、ロバート・シルヴァーバーグ、ジョン・ヴァーリィ、ロジャー・ゼラズニィ、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。アンダースンやシルヴァーバーグは長篇も上手いが、本領は中篇だ。ヴァーリィは長篇よりも中篇の方が遙かに良い。ゼラズニィも一番得意だったのは中篇だろう。中篇の翻訳は出にくいから、こういう人たちはなかなかまっとうに評価されない。そして、サイエンス・フィクションにはノヴェラがベストの形式、と言ったのはジョアンナ・ラスだったと思うが、こうした人たちの作品を思えば、至言と思う。

 シェパードは上記の人たちに比べても中篇がさらに得意で、中篇専門作家といってもいいくらいだ。中篇、アメリカでいう novella や novelette という形式は、かれのためにある。シェパードを読む鍵は、内容だけでなく、形式にもあるはずだ。

 ルーシャス・シェパードは、サイエンス・フィクションから生まれた、アメリカ最高の作家、と思う。文学上の系譜からいえば、サイエンス・フィクションの本流ではなく、おそらく南部ゴシックの流れを汲む。フォークナーにもつながり、さらにはマーク・トウェインにまで遡るかもしれない。

 とはいえ、ディックやヴォネガットのようにアメリカ文学のカノンに組込まれることはないだろう。ディレーニィのように敬意を集めることもおそらくない。ラファティやティプトリーのように、マニアックに愛されることもない。

 にもかかわらず、かれが現代アメリカ最高の小説家であることは動かない。山田風太郎が日本最高の小説家であるように。風太郎は長篇が得意だが、作風も似ていなくもない。ドライで冷徹なユーモアが底に流れているのも共通している。風太郎を読むことが20世紀後半の日本を読むことであると同様、シェパードを読むことは、ポスト・ヴェトナムのアメリカを読むことだ。そこでは、人間は人間的であろうとすればするほど否応なく「非」人間的になってゆくという、究極の悲劇(それこそが「原罪」ではないか)同時に喜劇が、ヒリヒリとしたリアリティを備えて展開される。それは21世紀の最初の四半世紀に、ぼくらが直面している世界そのものだ。シェパードを読めば、世界が「わかる」。

 『タボリン鱗』で、巨竜グリオールは長い長い眠りから覚め、立ち上がろうとして崩れおちる。グリオールは「文明」だろうか。それとも「世界」なのだろうか。あるいは「人間」という存在そのものの鏡像なのか。

 30年の文業の成果は多くはないが、少なくもない。「余生」のテーマとしてはちょうど良い。楽しい作業には必ずしもならないとしても、手応えは充分以上、生きてあることの実感は存分に味わえる。

 さらば、シェパード。おんみの魂の自由に時空を翔けめぐらんことを。合掌。(ゆ)

バット・ビューティフル    ジャズとクラシックは「うた」を拒んだ音楽だ、とずっと思っていた。しかし、ジャズはどうやら「うた」を奪われた人びとの音楽らしい。少なくともクラシックとは「うた」との関わりが違う。
    
    それにしてもジャズは「面白うてやがて悲しき」音楽ではある。そしてそこにこそジャズの美しさがある。この本はそう主張している。主張するというよりは、その悲しき美しさを文章として形にしている。どの章も美しいが、とりわけ掉尾を飾るアート・ペパーの章。なかでも監獄の中庭でペパーがサックスを吹くシーン。ここで言葉によって表現されていることは、まぎれもなく音楽の悲しさ、美しさであるにもかかわらず、音楽では表現できない。
    
    この本の凄みはそこにある。音楽で表現されていることを、音楽にはできない形で言葉で表現してみせる。それによって言葉の持つ限界を突破している。あるいは少なくとも限界を大きく押し拡げている。同時に対象とされている音楽の悲しさ、美しさを、音楽とは別の角度から照らしだす。もはやフィクションかどうかなどということは問題ではない。
    
    ここまでくれば、実は素材が音楽であるかどうかすらも問題ではなくなる。ジャズあってこそ生まれた作物ではある。書き手のインスピレーションの源となり、想像力を推進しているのがジャズであることはまぎれもない。しかし、作物そのものはジャズに寄りかかっていない。素材となった音楽を聞いていなくとも、対象のミュージシャンについて何も知らなくとも、この文章の美しさ、悲しさは、抗いようもなく読む者の中に流れこんでくる。
    
    ぼくはジャズについては無知である。興味の赴くまま、あちこちとかじってはいるけれど、そんなことで「わかる」ほど、ジャズの蓄積は薄くない。だから、ここにとりあげられたミュージシャンたちの音楽もまともに聞いてはいない。ベン・ウェブスターにいたっては、名前すら初耳だったくらいだ。名前を知っていて、録音も少しは聞いている人たち、ミンガスやチェト、モンクなども、ここに描かれたエピソードについてはまったく知らない。だから、どこまでが事実でどこからが虚構かということもわからない。
    
    たぶん、それは幸運なことだった、と今、思う。何も知らずに、いわば白紙の状態でこの作物を読むことができたのは、二度と体験できないことなのだ。ふさわしくないかもしれないが、日本代表がサッカーのワールド・カップ本大会初出場を決めた試合は、この宇宙の起源から終末までの間で一回しかないのに似ている。この作物を読む人の圧倒的多数は、ジャズについて広く深い知識を持ち、この七人の録音は「擦り切れる」まで聴いており、ここに描かれたエピソードも含めたミュージシャンの経歴についても充分承知しているだろう。そうした人びとには不可能な、特権的な体験をすることができたのは、まことにありがたい巡り合わせだった。
    
    ぼくはだからむしろこの本を、ジャズに関心がない人に薦めたい。音楽に関心がない人に薦めたい。音楽を引受けるとは、どういうことか。音楽によって表現を行うとはどういうことか。そうして、引受けられて生まれた音楽はどういうものか。それをここまで痛切に、深く、伝えてくる文章は、いや文学は、他の何をさしおいても読む価値がある。
    
    音楽は平凡な人間がやる非凡なことだ、とは、イングランドの蛇腹奏者ジョン・カークパトリックの言葉だ。ジョンカーク、とぼくらは呼ぶかれは、蛇腹つまりコンサティーナやアコーディオンを演奏してイングランド伝統音楽を現代に蘇えらせた男だ。ぼくらから見れば非凡を絵に描いたような存在だが、本人にしてみれば自分は凡人にすぎない、ということだろう。そうして、その平凡な人間が音楽という非凡な行為をはたそうとすれば、そこには必ず犠牲を伴う。かれの言葉の含蓄を、ぼくはそう見る。
    
    その犠牲は音楽のタイプによっても、音楽が行われる時空によっても、また、個々のミュージシャンによっても、形も大きさも異る。しかし、ミュージシャンが犠牲を払うことはいつでもどこでも誰でも同じなのだ。きっと。ここに描かれたのは、その中でも極度に悲しく、それ故美しい形だ。そして、そうした犠牲を求める音楽の悲しさが、これ以上は無いだろうと思われるほどに美しく書かれている。その悲しく美しい音楽を、人はジャズと呼ぶ。
    
    いや、音楽表現だけではなく、およそ人間が何かを表現しようとすれば、そこには犠牲が伴う。この作物を書くためにも、ダイヤーはなにかを犠牲にしている。なにも芸術とよばれる範疇の表現だけではない。「労働」や「仕事」や、あるいは「家事」にあっても、人間は表現をしている。つまりは人は犠牲を払いながら生きている。非日常的な芸術は日常にあって埋もれているそうした事実と犠牲の本質をあらためて掘り出し、磨き、差し出す。音楽にあっては、ジャズにあっては、その犠牲が極端な形であらわれる。
    
    もちろんダイヤーのこの作物に表現されたものが音楽表現のすべてではない。ジャズが表現しているもののすべてでもないだろう。ダイヤー個人の見ている、聴きとっているもののすべてですらないはずだ。あくまでもこれは、個人ダイヤーがその感性で捉ええたもののうち、作家ダイヤーの言葉によって表現しえたものの、さらに一部である。ダイヤー自身にとっても、ジャズを別の形、それほど悲しくはないが、美しさでは劣らない形で描くこともできなくはないだろう。とはいえ、たぶんそれはダイヤー以外の人に委ねられている。
    
    しかしながら、その前に、まず人はジャズを聴かねばならない。この作物に、たとえ白紙の状態で遭遇したとしても、読んでしまった以上、ジャズを聴かねばならない。あのアート・ペパーの音楽を、音の形で、音楽の形で聴かねばならない。
    
    なお、「著者あとがき」は本文とは別ものだ。これもまた、ジャズを相手にデュエットを演じる形のひとつではある。こちらについては伝統音楽を聴いている人間としては突込みどころだらけで、本文とは逆の位相で面白い。また、ぼくなどにはひとつのジャズの展望としても参考になる。著者が本文に対置して、本文の咀嚼、消化の助けになることを期待していることもわかる。あるいは本文と「バランスをとる」ような錘になることを期待している、という方が近いか。
    
    とはいえ、これは「蛇足」の類ではある。著者がこうした文章がこの書物には必要だと感じたならば、それもまたジャズという音楽の作用ではあるのだろう。ジャズに備わった性格、書き手自身が「あとがき」冒頭で否定しているような文章を、結局書いてしまわずにはいられなくさせるような性格の現れとも言える。
    
    矛盾と断じるのは容易いが、この矛盾した性格こそが、ジャズをジャズたらしめているのでもあろう。ジャズにはどこかそういう捻れたところがある。ジャズのルーツのひとつである(とぼくには見えるのだが)ユダヤの音楽や、ジプシー/ロマの音楽にもそういう捻れたところがあって、ジャズの捻れはそれを受け継いでいるとともに、また外へと受け継がれてもいる。
    
    それにしても、こうした書物を生みだすところ、ジャズがうらやましい。伝統音楽からはこんな美しい作物は生まれそうにない。もちろん伝統音楽、ルーツ・ミュージックからはまた別の形の作物が生まれてきたし、これからも生まれるだろう。しかし、これほどの痛切さをもって、深く心の中に斬りこんできた作物は、どうやらこれまでも見当たらないし、これからも出そうにない。
    
    アイリッシュ・ミュージックから生まれたものとしては、キアラン・カーソンの LAST NIGHT'S FUN: In and Out of Time With Irish Music という傑作があるけれども、あの作物が表現しているのは「とぼけた楽しさ」だ。アイリッシュ・ミュージックの肝はそれじゃないか、と言われればその通りだが、無いものねだりとわかってはいても、ダイヤーの作物が放つ痛切さを、いわば「本拠地」で感じてみたいとも思ってしまう。(ゆ)

今日は雲があるので、陽射しが遮られる。が、風はあきらかに秋の風。
    
    気温が高いので蝉たちは元気。ひさしぶりに油の声も聞こえる。が、数は激減。法師蝉ばかりきわだつ。土曜日は近くの小学校の運動会で、時おり激しい雨が降るなか、朝から大騒ぎだったが、今日は蝉の声があたりの静けさを強調する。
    
    先日から調子づいたので、朝から仕事したい気分が湧いてきて、午前中、かなり集中できた。今やっているギネス本の第三章、十九世紀末から二十世紀初めにかけてギネス醸造所の専属医師だったジョン・ラムスデンなる人物の事績は、なかなかに泣かせる。とりわけ、章の掉尾を飾る、第一次世界大戦直前から最中にかけてアイルランドが体験した暴力の嵐の中で、敵味方なく負傷者の手当をするため、銃弾もものともせず最前線に飛びこんでゆく医師の姿には、訳しながら覚えず目頭が熱くなった。ついには片手に白旗、片手に医師鞄を下げて駆けこんでくる医師の姿を見ると、皆、射撃を控えるようになる。そして、自分たちの国のより良い未来の可能性をその姿に垣間見るのだ。
    
    もっともこれはラムスデンの事績としてはむしろ枝葉末節に属するもので、かれの業績の本分は、ギネス社の従業員やその家族、工場の近隣住民たちの居住環境の改善と公衆衛生の向上だ。
    
    調子に乗っていつもの倍ちかい量をこなす。いつもこういう調子で行けば、来月末脱稿の予定は守れるかもしれない。抗がん剤の副作用の出方にもよるが。
    
    先週に入って手足の先の痺れが強くなっている。その前まではそれほど感じなかったのは、本来とは逆のような気もする。首まわりの痒いのはようやく軽くなってきたが、あちこち入れ替わり立ち替わり痒くなるのはあいかわらず。これも副作用か。
    
    ドス・パソスのスペイン紀行『ロシナンテ再び旅に出る』を読む。内戦前、両大戦間のスペイン。この人もアメリカ人として生まれながら、アメリカからははみ出してしまった者の一人。『U.S.A.』 のような本を着想し、書けたのも、そのおかげではあろう。
    
    そのはみ出し方はアメリカ人にしかおそらくできない。この人の生涯そのものが数奇ではある。生まれたのはシカゴのホテルで、幼少の頃はヨーロッパのホテルを点々として育ち、その生涯のほとんどを旅から旅を続けて過ごした。かれにとって故郷は具体的な場所ではなく、いうなれば「アメリカ」という抽象概念だったろう。むしろ旅そのものが故郷だったかもしれない。
    
    両親はともに既婚者で、つまりドス・パソス本人は「不倫の子」だ。アメリカどころか、「世間」からはみ出して生まれた。生まれた時、母は42歳、父はその10歳年長。19歳で母を、21歳で父を失う。兄弟姉妹はない。良い伝記が読みたい。
    
    アメリカからはみ出したアメリカ人としては、他にはコードウェイナー・スミスがいる。ブルース・スターリングがいる。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアがいる。ルーシャス・シェパードも数えていいかもしれない。
    
    作家にははみ出し者が結構いる、というよりはどこかではみ出していないと作家にはならない。ミュージシャンではあまりいないように思える。マイルス・デイヴィスもデューク・エリントンもフランク・ザッパもジェリィ・ガルシアもボブ・ディランも、あるいはジョン・ケージも、とことんアメリカ人ではある。
    
    はみ出してしまった者は音楽には行かないのかもしれない。同じパフォーマンス芸でも演劇やダンスや曲芸に行くとも思える。
    
    JAVS nano/V はパスパワーだが、かなりパワーを喰うようで、MacBook Pro ではバッテリーだと音が悪くなる。バッテリーの減りも速い。電源をつないで使うのが基本。

    DAC など、つなぎっぱなしにしていると、音が悪くなることがある。USB のジャックを換えると回復する。USB につなぐ時は他の USB 接続はしない方が良いらしい。TimeMachine にライブラリを置いて、無線で飛ばす方が音が良いという話もある。
    
    ダギー・マクリーンがあらためてマイ・ブーム。昨年久しぶりのオリジナル新作が出ていた。届くまでの復習に、新しい方から一枚ずつ聞き直す。(ゆ)

Galileo's Dream    ロビンスンはラファティに通じる。
   
    奇をてらったわけではない。いや、両方とも「奇」をてらっている、とは言えるかもしれないが。
   
    つまり、どちらも書いている、いたのは「ほら話」英語でいう "tall tales" なのである。現代でこの類の話を書くにはSFが一番合っている。読者も多いし、受け入れられやすいというのでSFの分野で書いたのだ。
   
    もっともはじめから「SF」というなにか固まったものがあり、それに合わせて、それを書きたいから書く、という書き手は、そんなに、というかほとんどいないのではないか、とも思う。
   
    たいていは、それぞれに書きたいもの、あるいは書けてしまう、できてしまうものがあり、それをリリースしようとした時、最適な場がSFだった、というものではないか。あるいは他ではできない、リリースを断わられて、やむなくSFで、というケースも結構あるようにも思われる。
   
    ほら話もそのひとつで、パブなどでの「かたり」ならまだしも、活字としてリリースしようとすれば、他にはどこにも落とし所はなかろう。SFというのはまことに便利なものではある。
   
    ガリレオといえば地動説裁判、そしてガリレオ衛星、とまあ相場は決まっている。実際にかれがどういう人間で、どういう生活をして、何を残したか、まではまずいかない。
   
    木星の一番大きな四つの衛星をガリレオ衛星という、なんてのも、根っからの天文ファンでなければ知らないかもしれない。とは言え、知っている人間にとっては、自分が発見した衛星を望遠鏡で覗いていたら、その上に立っていた、なんて話は、もうそれだけでうれしくなってくる。理屈などどうでもいいのだ。
   
    とにかく、ガリレオをかれが見つけた衛星の上に立たせたい、あるいはその間を飛びまわらせたい。
   
    いかに天才とはいえ、17世紀はじめのイタリアに生まれ育った人間だ。しかもイタリア半島から一歩も出たことはない。敬虔なカトリックで、地動説は奉じてもそれで信仰が揺らぐわけではない。そんな人間を、相対性理論から先、ニュートンからアインシュタインまでの距離よりも大きな距離がアインシュタインから先にあるような、そんな科学のもとにできている世界にいきなり連れこんで、無事にすむはずはない。
   
    常識的に考えれば、それはそうだろう。
   
    だからこれはほら話なのだ。ポール・バニヤンの話、ジョニー・アップルシードの話、あるいは火星のビッグマンの話。呪文をとなえるとせまくなって他の人間には見えなくなる谷の話。九百人のお祖母さんの話。
   
    むかしむかし、あるところにガリレオという男がおりました。ガリレオは望遠鏡の噂を聞いて、ひとつ自分でも作ってやろうと思いました。できたもので夜空をあちこち眺めていると、あれれ、木星のそばに何かあるぞ。やあ、動いてる。あれって、もしかして星じゃないか。地球に月があるように、木星にも木星の月があるんじゃないか。やあ、四つもあるぞ。というので、ガリレオはこの発見を本に書きました。みんなはそれを読んで、びっくり仰天、やんややんやとはやしました。
   
    でも、ガリレオはだんだんつまらなくなりました。木星のまわりを回っているのはわかるが、あそこはいったいどんなところなんだろう。行ってみたいなあ。そう思いながら、毎晩望遠鏡で覗いておりました。望遠鏡はどんどん良くなって、木星の月たちもだんだん大きく見えるようになります。でも、その上まで見えるわけではありません。
   
    そんなある日、望遠鏡の噂を聞かせてくれた異邦の男が持ってきたのが、見たこともないような大きな望遠鏡。早速これで覗かせてもらうと、をを、星がどんどん近くなる、うわ、落っこちる。というので気がつくとガリレオは自分がみつけた木星の衛星のひとつの上に立っておりました。めでたし、めでたし。
   
    いや、めでたしではなくて、これからガリレオの冒険が始まるのだけれど、これが20世紀前半だったら、ガリレオは地球のことなどきれいさっぱり忘れて、木星系狭しとばかりにあばれまわり、美女を助け、悪者をやっつけて大活躍、やがて木星から先の太陽系を統一して偉大な王となり、末永く、しあわせに暮らしました。めでたし、めでたし。
   
    と、今度こそはめでたしになるかもしれない。しかし、今は21世紀だ。ポスト9/11の時空。それに、ガリレオが木星王になるというのはほら話ではない。ほら話はとぼけなくては。
   
    そこで、作者はどうしたか。
   
    ガリレオには地球と木星の間を往復してもらうことにしたのだ。
   
    そしてもうひとつ、地球でのガリレオにはその人生をしっかり生きてもらうことにした。つまり、実際に生きたガリレオはこうだっただろうという話を、こちらはもうリアリズムに徹して、ほらなどどこにもない、生身のガリレオ、不眠症と脱腸のおかげで、いつも赤い眼をして、よたよたと歩きまわり、召使たちをどなりつけ、ぶん殴り、大公や教皇や枢機卿たちにはへいこらし、雇い主のケチに怒りくるい、批判者たちを罵倒しまくり、そして、世界でまだ誰も知らないことを知って感動にうちふるえる、そういう姿を生き生きと、読者の目の前に描きだしてみせたのだ。
   
    マッドではない、ひとりの科学者の姿を、その魅力も欠点もひっくるめて、これほどあざやかにありありと描きだした話がこれまでにあっただろうか。天才ではあっただろう。科学者としてはついてもいただろう。しかし、一個の人間、夫、父、事業家、つまり世間から見たひとりの人間としては、及第点はまずやれない。いや、とうの昔に誰からも見棄てられていてもおかしくはない。
   
    そしてあの有名な裁判の場でのガリレオの姿。かれは科学を守ろうとしたのではもちろんない。ただひたすら異端の罪として裁かれること、すなわち焚刑にされることだけを避けようとした。ジョルダーノ・ブルーノの二の舞だけはごめんだ。そのためには何でもするつもりだった。
   
    地動説がキリスト教の教えに反すると思ったわけでもない。地動説こそは神の造りたもうたこの世界の姿を正しく説明するものだ、アリストテレスは、天動説は神の造りたもうた世界を正しく説明していない、と考えただけである。神は嘘をつかない。神が造りたもうたものを真正直に見ればわかる。これまでは人間の眼がまちがっていたのだ。
   
    だからガリレオは当初の判決文の中で、自分は善きキリスト教徒ではなかった、『天文対話』出版に際して検閲当局をだました、という二つの点だけは承服できない、たとえ焚刑にされてもこれだけは認められないと抗議した。
   
    この裁判でのガリレオの姿にどこか気高いものがあるとすれば、それは信ずるところを守ろうとしたからだろう。地動説は信ずるところではない。それはすなおに見れば誰の眼にも明らかなことで、教会がいかに否定しても、自分がいくらそれを奉じないと強弁しても、それによって地球が太陽の周りを回っている事実が消えたり、変わったりするわけではない。しかし、自分が善きキリスト教徒かどうかは、自分がそう信じ、他人にもそう認めさせるしか決定方法は無い。
   
    この裁判は歴史上最も有名な裁判のひとつだ。こんにちにいたるまで、その内容についてくりかえしとりあげられる。その理由は、ガリレオが焚刑を免れた、かれが生き残ったからだろう。地動説に対するローマ教皇庁の弾圧ということなら、まさにジョルダーノ・ブルーノは科学への殉教者としてもっと注目され、有名になってもよいはずだ。ガリレオは生き残った。「それでも地球はうごく」と言い残した。むろんこれは伝説だが、伝説の例にもれず、事件の本質をあらわしている。ガリレオが生き延びたこと自体が「それでも地球はうごく」と言っていたのだ。
   
    そして、この裁判がこうなったのは、実は木星での冒険があったからなんですよ、みなさん。ガリレオが木星に行かなかったら、かれは実は焚刑にされていたんです。ね、世の中、何が幸いするか、わからないでしょ。めでたし、めでたし。
   
    ああ、これがSFで無くて、何であろう。一人の稀有な科学者の生身の姿を描ききり、なおかつ、この科学者を当人が発見した天体の上で活躍させる。ほら話としてのSFの極致ではないか。
   
    これはもう作家としての円熟である。こういう力業を、トゥル・ド・フォースを、無理を感じさせずにやってのける。SFとしてのリアリズムだけなら、他にも同じくらいの力の持ち主は何人もいる。歴史部分だけとれば、一流ならばこれくらいは書けてほしい。しかし、この二つをシームレスにつないで、極上の歴史小説でもあり、SFでもある話を書けるのは、はたして他にいるだろうか。
   
    いないわけではない。ロビンスンもこの作品についてのエッセイであげていたシルヴァーバーグの『時間線を遡って』Up The Line は、遥かな先駆けであり、出来ばえとしても匹敵する。いや、本当にすぐれたタイム・トラベル小説は本来、歴史小説とSFの最高の形での統合なのだろう。とすれば、そうしたいくつかのすぐれたタイム・トラベル小説群に、今ひとつ、ひときわ大きな成果が加わった、と言うべきだろう。(ゆ)

S-Fマガジン 2010年 08月号 [雑誌]    今回再録された5篇を読んでまず思ったのは、浅倉さんの日本語のリズム感の確かさ。すぐれた翻訳者、いや翻訳者にかぎらず、すぐれた日本語の書き手、あるいは言語にかかわらずすぐれた書き手は、文章のリズムが良いが、翻訳者の場合、原文のリズムと自分のリズムの折り合いを、まずつけなければならない。相性というのはここに現れるけれど、浅倉さんは原文のリズムを的確に捉えることと、それを自然な日本語のリズムの中に再現することに秀でていた。誰か特定のリズムというのではない。再録の5人のリズムはそれぞれに違う。そのそれぞれをきちんと掴んでいる。それぞれを日本語の文章のリズムに活かされている。そして、なおかつ、そこに「浅倉節」とも言うべき、独自のリズムが生まれている。
   
    浅倉さん固有のリズムと最も近かったのは、ゼラズニィではないか。こういう技巧的な、一歩間違うと装飾過剰な文章を、その華麗さを保ったまま、嫌味を感じさせずに日本語にうつすのは、ある程度先天的な共感が働かないと難しいと思う。
   
    これに比べると、グラントやロバーツは、文学伝統に則っているので、むしろやりやすいだろう。
   
    ラファティとジェロームになると、どちらかというと浅倉さんがご自分のリズムに引きつけた部分が大きいように感じられる。
   
    その上で、今回、最も感じいったのはグラント「ドローデの方程式」。これはもう完璧としかいいようがない短篇を、完璧としかいいようのない翻訳に仕立ててくださっている。原文で読む気にもならない。たとえ読んだとて、この浅倉訳を読むほどに「理解」できるとも思えない。
   
    この短篇は小説、つまり書き言葉でしか表現できない表現を生みだしている。その点ではメタ・フィクションとも言える。また、これはSF以外の何ものでもない、SF以外では表現できないことを表現している。一見そう見えても、これはファンタジーではない。現実にとって科学とは何か。科学に何ができるかを掘り下げている。それは同時に科学は何をすべきか、科学の使命はどうあるべきか、の問題を扱うことにもなる。つまりこれは科学の現状への痛烈きわまる批判でもあるのだ。
   
    こういう作品をきちんと評価し、紹介する眼と舌を養いたいと思う。
   
    ラファティは雑誌掲載だけで、単行本収録がかなわなかったということで、あらためて読めるのは嬉しい。これはSFの王道のひとつであるユートピアものの変形だが、ル・グィンの「オメラスから歩みさる人びと」に通じる。ユートピアの実現には大いなる犠牲が必要であり、その犠牲は人間性と深く結びついている。人間が人間であるかぎり、ユートピアはついに夢想の中にしか存在しない。ラファティはアイルランド人であるから、これを「老人の知恵」として語る。そして、地球上のすべてのアイルランド人にとって、「アイルランド」はユートピア以外のなにものでもない。
   
    ジェロームは人間のいやらしさをラファティとは反対側から映しだしてみせる。さすが、アイルランド人をいじめつづけたイングランド人だ。たしかにユーモアではあるが、読みようによってはこれほどブラックな、真黒なユーモアもない。それをむしろしっとりと、それほどいやらしくもない話に浅倉さんは仕立てている。ひょっとすると、これを読んで無邪気に笑う読者を、意地悪く見つめている訳者の姿が見えないか。
   
    ロバーツについては、言うべきことは何もない。何度でも言うが、全篇浅倉訳で読みたかった。どこかに原稿が隠されていないものか。
   
    ゼラズニィで何が一番好きか、と訊かれれば、なんのためらいもなく「十二月の鍵」と答える。今回の再録にこれが無いのは不満といえば不満だが、今回の「このあらしの瞬間」もなかなかよくゼラズニィしていて、まずは満足。
   
    邦訳の初出1975年6月といえば、まだSFMをちゃんと読んでいたと思うのだが、これは読んだ記憶がまったく無い。もうSFMを「卒業」した気分だったのか。その前年、森さんが辞められて、隅から隅まで読みつづける気を無くしたことはあったかもしれない。SFファン交流会の二次会でも出ていたが、森さんの後、今岡清氏が出るまで、SFM の編集長は編集者というより管理人になった。というと長島良三氏や倉橋卓氏には失礼かもしれないが、たしか両氏ともミステリ・マガジンと兼任されていたし、福島、森に比べればSFについては「素人」であり、SFM は「漂流」しはじめた、という感覚は当時リアルだったことはまちがいない。
   
    これがぼくだけの感覚ではなかったことは、マイク・アシュリーのSF雑誌の歴史の第3巻 Gateways to Forever 巻末の補遺で非英語圏のSF雑誌をとりあげた際、長島、倉橋両氏を "hard-headed bussinessmen" (420pp.) と評したことにも現れている。ここは柴野さんからの情報をもとに著者が書いているので、この評価は柴野さんのものであっただろう。
   
    同時に、大学に入って、SFM より F&SF や原書に挑戦しはじめたこともあったかもしれない。しかし、当時、読みだした頃の自分が何を原書で読んでいたのかは、さっぱり思いだせない。
   
    とまれ、「十二月の鍵」の代わりに本篇がとられたことに大きな不満がないのは、本篇がいわば「十二月」の前日譚になっているせいもある。あるいは、「十二月」は本篇の語り手の生まれ変わりが、自分なりの黄金時代を、ルネサンスを発見する、あるいは見方によっては強引に引きよせる話だからだ。オリジナルの初出をみると、本篇が F&SF 1966年6月、「十二月」が New Worlds 1966年8月。おそらくはたてつづけに書かれたのだろう。
   
    読みあわせれば、この2篇の相似は明らかで、「キザ」(中村融氏)とまで言われる叙述のスタイルもそっくり。とはいえ、「十二月」と本篇は同じものの表裏で、それぞれに力点を置く位置も置かれ方も違うから、どちらもそれぞれに楽しめる。ちなみに単行本としてはどちらも『伝道の書に捧げる薔薇』収録。
   
    ついでに言えば、「十二月」に次いで好きな作品は「フロストとベータ」と「復讐の女神」。前者は New Worlds 1966/03、後者は Amazing 1965/06。どちらも浅倉さんの訳で『キャメロット最後の守護者』収録。ちゃんと調べたわけではないが、1965年から66年にかけてはゼラズニィの「大当りの年」ではないか。というより、この4篇が生まれただけで十分「大当り」だし、この4篇があれば、長篇も含めて他は何も要らないと言ってもいい。
   
    あるいはむしろ、ほぼ半世紀(!)経って、今、この頃の1960年代半ばのゼラズニィを改めて読んでみるのは面白いかもしれない。ちょうど NESFA が短篇全集を出したことでもある。まさに彗星のように、いやむしろ超新星のようにデビューして、60年代に混迷を極めて、気息奄奄となっていたアメリカSFに、颯爽と進むべき道を示した、あの熱さとかっこよさは今もなお新鮮ではないか、と、本篇を読んで思う。エリスンやディッシュやディレーニーやが変身するのも、あるいはウィルヘルム、ティプトリー、ラスやらが現れるのも、さらには「レイバー・デー・グループ」やサイバーパンクの出現も、このゼラズニィあってこそではなかったか。
   
    それにしても、当時30前の著者がこれを書きえたのは、作家の創作活動の妙とはいえ、驚異の念に打たれざるをえない。本篇の語り手の孤独、次の角を曲がった向こうに「黄金時代」があるんじゃないか、という願望とも予感ともつかない感覚は、今の年になって初めてわかる。「十二月の鍵」にしても、初読の時はよくわからなかったのが、あの何ともかっこいいスタイルに惹かれて何度か読み返すたびに好きになっていった。
   
    ディック、ティプトリー、ラファティの評価は、「新・御三家」と呼ばれてもおかしくないほどまでに固まったと思うが、60年代のゼラズニィと70年代のヴァーリィの評価は、SFへのその貢献に比べて、異様に低いようにも思う。それにはおそらくは、両者ともに長篇作家よりも中篇作家、ノヴェラやノヴェレットを最も得意とし、そのフォーマットに最も優れた作品を残したせいもあるのではないか。
   
    そして、中篇作家であるがために不当に低い評価しかされていない書き手は、案外多いようにも思う。シルヴァーバーグもそうだし、ルーシャス・シェパードもそうだ。
   
    浅倉さんへの追悼文はそれぞれに良かったが、「偲ぶ会」やSFファン交流会で話されたことと重なる部分も多かった。
   
    なかで出色はやはり伊藤典夫氏の文章で、分量からしても、つきあいの深さ、古さからも、群を抜いて読みごたえのあるものだ。氏にはぜひ、昔のことを、きちんと書き残しておいていただきたい。結局昔のことをご存知で残っているのは、ほとんど森さんと伊藤氏だけではないか。アメリカ人が「創造」した「宇宙」を日本語に植えかえる、その苦闘はぜひ読みたいと思うし、伊藤氏は当事者でありながら、中心のすぐそばにいながら、中心そのものではなかった、まことに都合の良い位置におられたわけだ。日本語SF形成期の跡をたどるには絶好の書き手と思う。
   
    追悼特集としては充実したものではあるが、浅倉さんの追悼はこれで終わるわけではない。浅倉さんの残したものの評価はむしろこれからだろう。この特集はその端緒にすぎない。
   
    「後ろ向き」のものより「前向き」の特集を、というアマゾン読者評のコメントもその通りではあるが、前に進むためにも、これまで何がなされ、何がなされなかったかを押えることは必要ではある。矢野、野田、柴野、浅倉と、日本語SFを裏で支えてきた人びとが幽明界を異にされたことは、歴史をたどりなおし、評価しなおす契機になる。
   
    今回の特集には、浅倉久志がどういう人であったか、の説明はひとこともない。ここで初めてその名前に接する人や、この名前を意識する人にはいささか不親切とも思う。その一方で、浅倉久志とは何者ぞ、と問われれば、こういう翻訳を残した翻訳者です、まず読んでくださいと言って、よけいな雑情報をあえてばっさり切った潔さも認める。(ゆ)

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