タグ:文学
ワシーリー・グロスマン
Alec Wilkinson, A Divine Language
オクテイヴィア・E・バトラー
山村修の本
『ユーモア・スケッチ大全』
03月29日・火
国書刊行会が再編集し、従来単行本未収録作品も集めて、あらためて4冊にまとめた浅倉さんの『ユーモア・スケッチ大全』が完結。著作権をとるのが大変な作業だっただろうと推察する。まことにありがたいことである。
『ユーモア・スケッチ大全』は浅倉さんのライフワーク、というのはあらためてよくわかる。その一方で、浅倉さんがやって雑誌掲載だけになっている中短篇を集めたオムニバスはできないのかなあ。傑作名作快作がかなりあるはずだが。
##本日のグレイトフル・デッド
03月29日には1967年から1995年まで11本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。
01. 1967 Rock Garden, San Francisco, CA
水曜日。このヴェニュー5日連続の2日目。
02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。5ドル。共演チャック・ベリー。
03. 1969 Ice Palace, Las Vegas, NV
土曜日。1時間半のステージ。共演サンタナ、The Free Circus。The Free Circus は不明。
4曲目〈Dark Star〉の前に誰かが、ハートのものに聞える声が、「これからやる曲はここラスヴェガスのアイス・パレスのために特別に作ったものだ。今朝書いたばかりだよ」と言う。
04. 1983 Warfield Theatre, San Francisco, CA
火曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。25ドル。開演8時。
05. 1984 Marin Veterans Memorial Auditorium, San Rafael, CA
木曜日。このヴェニュー4本連続の2本目。25.00ドル。開演8時。
06. 1985 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。13.50ドル。開演7時半。第一部3曲目〈I Ain't Superstitious〉でマシュー・ケリー参加。
なお、この3日間は自由席でオールスタンディング。自由に踊れた。ちなみに、デッドヘッドにとって、グレイトフル・デッドは基本的にダンス・バンド、その音楽で踊るためのバンドである。ちんまり椅子に座って聞いているものではない。会場が椅子席の場合、外の廊下やロビーで踊る者もいた。バンド側もそうした客のために、廊下やロビーにもPAのスピーカーを置いた。
07. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA
日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演9時。開演時刻が遅いのは「レッスルマニア III」と重なったため。
08. 1990 Nassau Coliseum, Uniondale, NY
木曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。第一部6曲目〈Bird Song〉が《So Many Roads》で、第二部オープナー〈Eyes Of The World〉が《Without A Net》でリリースされた後、《Spring 1990 (The Other One)》で全体がリリースされた。その〈Bird Song〉と第二部全部、アンコールまで、ブランフォード・マルサリスが参加。
2,300本を越えるグレイトフル・デッドの全てのショウの中で「ベスト」と言われるものに1977年05月08日、コーネル大学バートン・ホールでのものがある。国の歴史的録音遺産にも収められている。これがバンドのみによる「ベスト」とするなら、このショウはゲスト入りでの「ベスト」と呼んでいい。多少ともジャズに心組みがあるならば、これを聴くことで、グレイトフル・デッド・ミュージックの真髄への扉が最高の形で開かれるだろう。グレイトフル・デッドが「単なる」ロック・バンドからかけ離れた存在であることも、よくわかるだろう。ブランフォード・マルサリスの参加によって、デッドの音楽そのものが一段上のレベルに昇っている点でもユニークだ。この時のデッドは全キャリアの中でも最高のフォームで、最高の音楽を生みだしているけれども、このショウでは、それからさらにもう一段昇っている。
一方のブランフォード・マルサリスからみれば、ロックのミュージシャンのアルバムへの参加としてはスティングの《Bring On The Night》が有名だけれども、ここではそれよりも量も質も遙かに凌駕する。あちらはいわばスティングの曲をやるジャズ・バンドだが、こちらはマルサリスとデッドによる共作だ。各々にとって新しい音楽なのである。
成功の鍵の一つはマルサリスがジャズのミュージシャンの中でも柔軟性にとりわけ富み、土俵の異なる相手ともやれる性格を備えていたことだろう。このショウの成功によって、デッドは後にデヴィッド・マレィやオーネット・コールマンを迎えてショウをしている。ジェリィ・ガルシアはコールマンのアルバム《Virgin Beauty》にゲスト参加して、かなり成功しているけれども、コールマンがゲスト参加したケースでは成功しているとは言えない。コールマンがあまりに個性的で、相手に合わせることができないためだ。これはおそらく能力というよりも性格からくるもので、合わせようとしても不可能だろう。コールマンの音楽家としての成立ちに、誰かに合わせるという概念そのものが存在しないのだ。
マレィはコールマンとマルサリスの中間、ややマルサリス寄りで、マルサリスほどではないが、かなり成功している。デッドヘッドの評価も高い。
なお、マレィの参加した1993-09-22, Madison Square Garden, New York , NY とコールマンの参加した1993-02-23, Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA の聴衆録音はネット上で聴くことができる。
またこのマルサリスのショウの公式録音はボックス・セットと同時にこれだけ独立して《Wake Up To Find Out》として一般発売されている。ディスク・ユニオンの新宿ジャズ館ではロング・セラーとも聞く。
きっかけはこの年が明けてまもなく、レシュとマルサリスの共通の友人の一人がレシュに、マルサリスに何か伝えることがあるかと訊ねたことだ。レシュはマルサリス兄弟のファンで、そのデビュー時からずっと追いかけていたから、ブランフォードには一度ショウを見にきてくれと伝えるよう頼んだ。ブランフォードは前日28日のショウを見にきて、終演後、楽屋に挨拶に行き、レシュとガルシアから熱烈に誘われた。そこでこの日、ソプラノとテナーの2本のホーンを持ってやって来たものだ。
リハーサルは無かった。ブランフォードはデッドの音楽をそれまでほとんど聴いたことがなく、どの曲をやりたいかと訊ねられても答えようがなかったらしい。一方で、相手がどんな音楽であっても合わせることができるという自信もあったのだろう。何でもやっていい、ついていくからと答えて、バンドは驚いた顔をした。とはいえ、デッドもジャズのミュージシャンが入りやすい曲を考えてもいたはずだ。第一部クローザー前の〈Bird Song〉、第二部オープナーの〈Eye of the World〉はその典型である。〈Estimated Prophet〉〈Dark Star〉と続けたのもそうした流れだし、Space はここではフリー・ジャズ、それも大胆かつ繊細な極上のフリー・ジャズだ。〈Turn On Your Lovelight〉は、ブランフォードが聴いて育った音楽でもあった。感心するのはアンコールの〈Knockin' On the Heaven's Door〉で、ちょっとこれ以上のこの歌のカヴァーはありえないと思える。
ブランフォードが後でゲストで出てくるという期待は、メンバーの気分を昂揚させたらしく、この日のショウは初っ端から絶好調だ。前日、あるいは24、25日と比べても、ノッチは一つ上がっている。
ブランフォードが入った効果はたとえば〈Bird Song〉の次の第一部クローザー〈The Promised Land〉でのガルシアの歌唱に現れる。それはそれは元気なのだ。〈Estimated Prophet〉でもウィアがブランフォードの前で歌うのが楽しくてしかたがないのがありありとわかる。実際、その裏でブランフォードがつけるフレーズが実に冴えていて、ウィアと掛合いまでする。
ガルシアのギターもあらためて霊感をもらって、突拍子もない、しかもぴたりとはまったフレーズがあふれ出てくる。ガルシアだけではなく、レシュもミドランドもウィアもドラマーたちも、出す音が違っている。
他のショウはそう何度も聴いてはいない。だいたい、1本が長いから、そう何度も聴けない。それがこのショウだけは、もう何度も聴いている。聴くたびに新たな発見をし、あらためて感服する。この音楽を聴けることの幸せを噛みしめる。
09. 1991 Nassau Veterans Memorial Coliseum, Uniondale, NY
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。23.50ドル。開演7時半。第一部クローザー〈When I Paint My Masterpiece〉の途中で機器トラブルが起き、中途半端に終る。が、第二部は良かった。
10. 1993 Knickerbocker Arena, Albany, NY
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。開演7時半。第一部7曲目〈Lazy River Road〉が2016年の、第二部オープナー〈Here Comes Sunshine〉が2017年と2020年の、アンコール〈Liberty〉が2018年の、第二部2〜4曲目〈Looks Like Rain; Box Of Rain> He's Gone〉が2021年の、それぞれ《30 Days Of Dead》でリリースされた。都合6曲、46分がリリースされたことになる。
11. 1995 The Omni, Atlanta, GA
水曜日。このヴェニュー4本連続の3本目。開演7時半。(ゆ)
アイルランドの各カウンティを舞台にした本
03月17日・木
セント・パトリック・ディ記念で、Irish Times がアイルランドの32のカウンティ各々を舞台にした本、小説とノンフィクションをリストアップしていた。順番は州名のアルファベットによる。
ゲーリック・フットボールやハーリングなどの、アイルランドのナショナル・スポーツは各州対抗が基本で、その盛り上がり方はわが国の高校野球も真青だ。各々のカウンティ、日本語では伝統的に州と訳されている地域は面積から言えば狭いが、外から見ると意外なほどに人も環境も特色があり、住人の対抗心も強い。こういう特集が組まれる、組めるのもアイルランドならではだろう。
伝統音楽、アイリッシュ・ミュージックもローカリティの味がよく強調されるけれど、それ以前に基本的なローカルの性格の特徴をこうした本で摑むのも面白い。それに、真の普遍性はローカルを突き詰めたところに現れる。
##本日のグレイトフル・デッド
03月17日には1967年から1995年まで10本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。
1967年のこの日、ファースト・アルバム《The Grateful Dead》が発売された。このアルバムでは〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉がデビューしている。ライヴで揉まれずに、いきなりスタジオ盤でデビューした、デッドでは数少ない曲の一つ。クレジットの McGannahan Skjellyfetti はバンドとしてのペンネーム。このクレジットが付いた他の2曲〈Cold Rain And Snow〉〈New, New Minglewood Blues〉は本来は伝統曲。
1967年01月、ロサンゼルスの RCA スタジオで3日ないし4日で録音された。〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉のみサンフランシスコで録音されている。プロデューサーの Dave Hassinger はローリング・ストーンズのアルバムをプロデュースしており、デッドがそのアルバムを好んでハシンガーを指名したと言われる。冒頭の〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉を除き、すでにライヴの定番となっていた曲を収録している。ビル・クロイツマンの回想によれば、ライヴ演奏の良いところをスタジオ盤に落としこむ技術はまだ無かった。もっとも、結局デッドはそういう技術を満足のゆくレベルに持ってゆくことができなかった。あるいはライヴがあまりに良すぎて、スタジオ盤に落としこむことなど、到底できるはずもなかったと言うべきか。
今聴けば、ピグペンをフロントにしたリズム&ブルーズ・バンドの比較的ストレートなアルバムに聞える。ガルシアも言うとおり、当時のバンドのエッセンスがほぼそのまま現れているのでもあろう。ピグペンの存在が大きい、唯一のスタジオ盤でもある。
アルバムには故意に読みにくくしたレタリングで
"In the land of the dark the ship of the sun is driven by the"
と記され、その後の "Grateful Dead" はすぐにわかる。故意に読みにくくしたのはバンドの要請による。デザイナーはスタンリー・マウス。コラージュはアントン・ケリー。後に「骸骨と薔薇」のジャケットを生みだすことになるコンビ。
ビルボードのチャートでは最高73位という記録がある。
2017年のリリース50周年記念デラックス版では 1966-07-29 & 30, P.N.E. Garden Auditorium, Vancouver, BC, Canada の2本のショウの録音が収録された。これはデッドにとって初の国外遠征でもある。
01. 1967 Winterland Arena, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。共演チャック・ベリー、Johnny Talbot & De Thang。セット・リスト不明。
この日、Veterans Auditorium, Santa Rosa, CA でもショウがあったという。The Jaywalkers という共演者の名前もある。が、詳細は不明。DeadBase に記載無し。サンタ・ローザはサンフランシスコの北北西60キロほどにある街だから、昼間ここでショウをやり、夜ウィンターランドに出ることは可能だろう。
02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
日曜日。2.50ドル。このヴェニュー3日連続の最終日。ジェファーソン・エアプレインとのダブル・ビルで、おそらくデッドが前座。80分ほどの演奏。《Download Series, Vol. 06》で全体がリリースされた。リリースに付けられたノートによると、《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》ボックス・セットを作成した際に、関連した録音が他に無いか、デッドのアーカイヴ録音が収めらた The Vault を隈なく捜索して見つけた宝石。
すばらしいショウで、あのフィルモアのショウの1年前にすでにこれだけの演奏をしていた、というのに舌をまく。原始デッドの熱の高さと集中にひたることができる。時間が限られていることと、後に出てくるジェファーソン・エアプレインへの対抗心も作用しているだろう。〈Turn On Your Lovelight〉だけ独立していて、その後の〈That's It for the Other One〉からラストのフィードバックまで1時間近くノンストップ。ところどころ、ジャズの色彩、風味が混じる。時にはほとんどジャズ・ロックの域にまでなる。面白いのは、二人のドラマーが叩きまくっていることで、これだけ叩きまくるのはこの時期だけかもしれない。クロイツマン22歳、ハート25歳。やはり若さだろう。20年後とは完全に様相が異なる。
グレイトフル・デッドはヘタだった、とりわけ、初期はヘタだった、という認識がわが国では根強くあるように思われるが、その認識はどこから出てきたのだろう。デッドがヘタと言われると、あたしなどは仰天してしまう。スタジオ盤はそんなにヘタだろうか。アメリカでの当時の評価を見ると、60年代にすでに演奏能力の高さには定評がある。
03. 1970 Kleinhans Music Hall, Buffalo, NY
火曜日。4.50ドル。開演7時?。会場は2,200ないし2,300入るクラシック用ホール。Buffalo Philharmonic Orchestra との共演で、〈St. Stephen> Dark Star> Drums> Turn On Your Lovelight〉を演奏した。Drums ではオーケストラの打楽器奏者がデッドの二人のドラマーに合流した。〈St. Stephen〉は演奏されたという複数の証言があるが、記録の上では残っていないらしい。当初オファーされたバーズが辞退して、デッドにお鉢が回った。デッドは出演料をタダにした。また The Road、フルネームを the Yellow Brick Road という地元のバンドも出演した。
クラシックのフルオケとロック・バンドの共演という企画はオーケストラの指揮者 Lukas Foss のアイデアらしい。必ずしも成功とは言えないが、まったくの失敗でもなかった。オーケストラの聴衆とデッドヘッドやその卵たちがいりまじった客席は、デッドの演奏に興奮して、立ち上がり、手拍子を打ち、踊ったそうだ。
当時はヴェトナム反戦運動の昂揚期で、バッファローでも地元の大学を中心に騒然としていた。そういう中で、こうした実験が行われたのは面白い。クラシック界にもこれをやろうという人間がいて、デッドがその試みに応じたのは、どちらの側にも柔軟性や実験精神があったわけだ。グレイトフル・デッドというバンドが出現したのも、アメリカ音楽全体のそうした性格が土台にあったと思われる。
04. 1971 Fox Theatre, St. Louis, MO
水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。
公式録音のマスターテープに物理的な問題があって、全体のリリースは無理とのことで、〈Next Time You See Me〉と〈Me And Bobby McGee〉が dead.net の "Taper's Section" で公開された。
05. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。18.50ドル。開演7時。
1971年以来のセント・パトリック・ディ記念のショウで、Train To Sligo という名前のパサデナのケルティック・バンドが前座。リード・ヴォーカルでコンサティーナ奏者は若い女性で、黒のミニ・スカートに網タイツという衣裳で登場し、聴衆から大いに口笛や歓声をかけられた。頭上に渦巻く煙にも驚いた様子だった。メンバーは以下の通り。1981年結成で、この年解散。2枚のアルバムがあるが、あたしは未聴。Gerry O'Beirne と Thom Moore がいるから、聴いてはみたい。
Jerry McMillan (fiddle)
Paulette Gershen (tin whistle)
Judy Gameral (hammered dulcimer, concertina, vocals)
Gerry O'Beirne (six- and twelve-string guitars, vocals)
Janie Cribbs (vocals, bodhran)
Thom Moore (vocals, twelve-string guitar, bodhran)
セント・パトリック・ディ記念のショウは次は1991年で、以後、1995年まで毎年03月17日に行われた。
この日のデッドの演奏は良い由。
06. 1991 Capital Centre, Landover, MD
日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。春のツアーのスタート。ブルース・ホーンスビィがピアノで参加。第二部5・6曲目〈Truckin' > New Speedway Boogie〉が2017年の、第一部クローザー前の〈Reuben And Cherise〉が2018年の、オープナーの2曲〈Hell in a Backet > Sugaree〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。
〈Hell in a Backet > Sugaree〉と〈Truckin' > New Speedway Boogie〉はどちらも良い演奏。ガルシアのギターも好調で、ホーンスビィが入っていることの効果だろうか。後者では肩の力が抜けて、シンプルな音を連ねるだけで、いい味を出す。ガルシアの芸である。ウェルニクも凡庸なミュージシャンではない。バンドによって引き上げられている部分はあるにせよ、それだけの伸びしろは持っていたのだ。〈Sugaree〉ではガルシアのギターによく反応している。
〈Reuben And Cherise〉はハンター&ガルシアの曲で、グレイトフル・デッドとしてはこの日が初演。06月09日まで4回しか演奏されていない。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドでは定番のレパートリィで、1977年11月から1995年04月の間に100回以上演奏されている。スタジオ盤はガルシアのソロとしては4枚目で Jerry Garcia Band 名義のアルバムとしては最初になる《Cats Under The Stars》収録。
グレイトフル・デッドとジェリィ・ガルシア・バンドの違いが、こういう曲で鮮明になる。前者ではガルシアのソロもアンサンブルの一部に編みこまれている。他のメンバーとの絡み合いでソロを展開する。勝手に弾いているわけではない。ガルシアがソロですっ飛んで、他のメンバーがそれについていっているように聞える時でも、内実はそうではない。このことは初めから最後まで変わっていない。
後者ではガルシアは勝手に歌い、弾いている。何をやるか、どれだけやるか、どのようにやるか、決めるのはガルシアであり、他のメンバーはそれをサポートしている。だから、ガルシアは伸び伸びと歌い、弾いている。一方で、そこには緊張感が無い。なにもかもがゆるい。そのゆるさがまた良いのだが、JGB を聴いてからデッドを聴くと、身がぐっと引き締まる。同じソロ・プロジェクトでも、マール・ソーンダースと演っている時にはまた違って、ソーンダースとの対話がある。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドではお山の大将だ。
そして〈Reuben And Cherise〉は明らかに後者では成立するが、グレイトフル・デッドではうまく働かない。その理由は単純ではないだろうが、あたしにはまだよくわからない。ひょっとするとバンド自体にもわからなかったかもしれない。構造としては〈Dupree's Diamond Blues〉と共通するが、何らかの理由で、他のメンバーがうまく絡めないようだ。そうなると、ガルシアにとっても面白くなくなる。独りお山の大将でやるなら、ジェリィ・ガルシア・バンドでやればいいので、デッドでやる意味はない。デッドは全員でやることの面白さを追求するのが動機であり目的だ。試してみて、全員でやることを愉しめない楽曲はレパートリィから落ちる。ある時期は愉しいが、アンサンブルの変化で愉しくなくなって落ちる曲もある。演奏回数の多い定番曲はいつやっても、何回やっても愉しかった曲だ。デッドヘッドに人気が高く、曲としての出来も良い〈Ripple〉などもバンド全員で愉しめなかったのだろう。
この日〈Reuben And Cherise〉をやることは予定に入っていたらしい。デッドはステージの上で、その場で次にやる曲目を決めているが、とりわけデビューさせる曲はその日の予定に入れていたと思われる。
07. 1992 The Spectrum, Philadelphia, PA
火曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。セント・パトリック・ディ記念。あまりよい出来ではないらしい。
08. 1993 Capital Centre, Landover , MD
水曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。〈Lucy In The Sky With Diamonds〉がデビュー。1995年06月28日まで、計19回演奏。この歌のタイトルは LSD のもじりと言われる。良いショウの由。
09. 1994 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL
木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。26.50ドル。開演7時半。
10. 1995 The Spectrum, Philadelphia, PA
金曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時半。(ゆ)
ジョーン・ディディオン
01月12日・水
LOA のニュースから今月8日、87歳で亡くなった Joan Didion の "After Henry" を一読。親友で、頼りにしていた編集者の Henry Robbins 追悼文。1979年7月、出勤途中、マンハッタンの地下鉄14番街駅でばったり倒れて死ぬ。享年51歳。追悼式ではドナルド・バーセルミ、ジョン・アーヴィング、最初の版元 Farrar, Strauss & Giroux の Robert Giroux、最後の版元 Dutton の John Macrae が弔辞を述べた。1966年、Vogue で働きながら書いていた自分と夫を見出し、一人前のライターに育ててくれた。 FSG で出発し、ヘンリーがサイモン&シュスターに移ると一緒に移る。ヘンリーがダットンに移った時には契約が残っていたので、ついていかなかった。取り残された孤児と感じた。1975年のある晩、バークレーで、かつてその講義を聞いた教授たちの前で講演をすることになり、死ぬほど怖かった。そこへヘンリーが現れ、講演の部屋までつき添い、大丈夫、うまくいくと太鼓判を押してくれた。その言葉を信じた。ベストセラー作家でも駆け出しでもない中途半端の位置にいる著者が脅えているのに、飛行機でニューヨークから駆けつけるなんてことは、本来、編集者がやるべきことではない。ヘンリーが言うことは何でも信じたが、3つだけ、信じなかったことがある。1つは2冊目の長篇 Play It As It Lays のタイトルが良くないこと。2つめは3冊目の長篇 A Book Of Common Prayer 冒頭二つ目の文章を二人称で書いたのは良くないこと。3つめがこの文章のオチであり、そしてこれ以上はないオマージュになっていること。感心する。この人はスーザン・ソンタグの1歳下で、カリフォルニアの出身。ソンタグよりもデッドに近い。LOA のディディオンの巻の編者 David L. Ulin の観察は興味深い。
カリフォルニアに住んでいれば、「アメリカ」というものを、合州国の国境を超えて、より広く、より包括的な形で考えないわけにはいかない。ディディオンは、カリフォルニアとの関連と国全体での議論との関連の双方で、こうした(ラテン・アメリカとの)つながりを把握していたことから、関心を抱いたのだと思う。
グレイトフル・デッドもまたカリフォルニアの産物だ。してみれば、たとえまったく同じ人間が揃ったとしても、モンタナやテキサスではデッドは生まれなかった。ロサンゼルスでも無理だろう。やはりベイエリアだ。ディディオンもサクラメントの生まれ。ソンタグが60年代をニューヨークから俯瞰したとすれば、ディディオンはそれをカリフォルニアのベイエリアから見たのではないか。よおし、読みましょう。
##本日のグレイトフル・デッド
01月12日には1979年に1本ショウをしている。公式リリース無し。
1. 1979 The Spectrum, Philadelphia, PA
前年11月28日の公演の振替え。7.50、8.50ドル。開演7時。外は吹雪。第一部クローザー〈Deal〉ではガルシア、ウィア、ドナが声ですばらしい即興をした。
会場は1967年09月オープン、2009年10月閉鎖の屋内アリーナで、収容人数はコンサートでは18,000から19,500。コンサート会場としてメジャーなアクトが頻繁に使用した。オープンから1996年まで、ホッケーの Philadelphia Flyers、バスケットの Philadelphia 76ers の本拠だった。
デッドは1968年12月から1995年03月まで、計53本のショウをここで行なう。うち完全版3本を含む7本が公式リリースされている。
デッドが演奏した会場を見てゆくと、すでに閉鎖されているところが目につく。アメリカではこうした大規模な施設はどんどん建替えられている。残っているところも改修拡張されている。ホッケーやバスケットなどプロ・スポーツ・チームが本拠にするようなところは、今では2万は優に超えるのが普通だ。(ゆ)
〈The Poor Ditching Boy〉の元になった小説
12月11日・土
Iona Fyfe のニュースレターを見て、Lewis Grassic Gibbon, Sunset Song を注文。
リチャード・トンプソンの〈The Poor Ditching Boy〉の元になった小説の由。アバディーンシャーが舞台。あの歌の背後にこういう本があるとは知らなんだ。ファイフはこの歌をスコッツ語で歌ったシングルを出す。
ギボンはスコットランド出身で、20世紀初めに活動した作家。1929年フルタイムのライターになってから34歳で腹膜炎で死ぬまでに、20冊近い著書と多数の短篇を残した。この長篇から始まる三部作 A Scots Quair が最も有名。わが長谷川海太郎と生没年もほぼ同時期で、短期間に質の高い作品を多数残したところも共通している。ちょと面白い偶然。
家族から MacBook Air とiPhone をつなぐケーブルのことを訊かれたので、iFi の USB-C > A と Apple の Lightning 充電ケーブルで試すとちゃんとつながる。Kindle のライブラリの同期もできたのに喜ぶ。有線でつなぐとできるのだった。これまで無線であっさりつながっていたので、有線でつなぐということを思いつかなかった。送りたい本をメールで Kindle 専用アドレスに送ると移せるとネットにはあったが、面倒で後回しにしていた。Kindle 自身の同期では、アマゾンで買ったものしか同期されない。他で買ったり、ダウンロードしたりした本は無線ではどうやっても同期できなかった。
##本日のグレイトフル・デッド
12月11日には1965年から1994年まで8本のショウをしている。公式リリースは2本。
1. 1965 Muir Beach Lodge, Muir Beach, CA
アシッド・テスト。ここでベアことアウズレィ・スタンリィがグレイトフル・デッドと初めて出逢う。
2. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA)
ビッグ・ママ・ソーントン、ティム・ローズとの3日連続の最終日。セット・リスト無し。
3. 1969 Thelma Theater, Los Angeles, CA
このヴェニュー3日連続の2日目。第一部クローザーまでの4曲〈Dark Star > St. Stephen > he Eleven > Cumberland Blues〉、第二部クローザーの〈That's It For The Other One> Cosmic Charlie〉が《Dave's Picks 2014 Bonus Disc》でリリースされた。
4. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA
3日連続の中日。
5. 1979 Soldier's And Sailors Memorial Hall, Kansas City, KS
このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時半。
6. 1988 Long Beach Arena, Long Beach, CA
このヴェニュー3日連続の最終日。開演6時。
7. 1992 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
このヴェニュー4本連続の初日。開演7時。
8. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
このヴェニュー4本連続の3本目。27.50ドル。開演7時。第二部クローザー前の〈Days Between〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)
気にしない人びと
11月19日・金
Shanling EM5 は面白い。ようやくこういうものが出てきた。これを買う気はないが、このラインで次ないしその次を期待する。これと M30 のいいとこどりして、もっと突き詰めたもの、かな。
それにしても Naim をどこか、やらないか。あそこの Uniti Atom は聴いてみたい。ここは今はフォーカルと同じ親会社の傘下なんだから、ラックスマンがやればいいのに。
Audeze を完実電気がやるのはめでたい。LCD-5 はともかく、Euclid は気になっていた。iSINE のデザインは買う気になれなかったが、こちらは許容範囲。
Tor.com のノンフィクションのお薦めから Careless People by Sarah Churchwell を注文。フィッツジェラルド夫妻と『華麗なるギャツビー』の裏事情を狂言回しにして、ジャズ・エイジ、「不注意」というよりは「気にしない」と言う方がこの場合、適切ではないかと思う人びとの時空を描く、ものらしい。Nghi Vo の『ギャツビー』の語直し The Chosen And The Beautiful は面白かった。あれは『ギャツビー』の世界をこの世の裏側から描いているが、このチャーチウェルの本はギ・ヴォの生みだした世界とフィッツジェラルド夫妻が生きていた時空の間の世界を綱渡りするのではないかと期待する。
Grado White + マス工房 model 428 で聞くデッドは実によろしい。《30 Days Of Dead》の MP3 ファイルでもひどく生々しくなる。
##本日のグレイトフル・デッド
11月19日には1966年と1972年にショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
3日連続の中日。3日間のうち、このショウのみ録音が殘っている。この時期の1本のショウを捕えた録音として定評がある。ピグペン時代のエッセンスが聞ける、と John W. Scott が DeadBase XI で書いている。ジェファーソン・エアプレインがグレイス・スリックのバック・バンドであるというのと同様に、グレイトフル・デッドはピグペンのバック・バンドであるとも言えた。デッドのバンドとしてのスタートがピグペンのパフォーマンスとカリスマによるものであることの証拠、なのだろう。ピグペンとレシュの関係の深さも聞けるようだ。
2. 1972 Hofheinz Pavilion, University of Houston, Houston, TX
開演8時。前日と同じヴェニュー。チケットの半券によればオールマン・ブラザーズ・バンドとの対バンだったようだ。
これもこの時期のショウとして相当に良かったようだ。
大学の施設で2日ないしそれ以上連続で演るのは珍しい。(ゆ)
書く狂気
まだ遺産があった若い頃、少なくとも1冊は作品が出版され、短篇はいくつか雑誌掲載されている。まったくのゴミというわけでもなかったのではないか。原爆に似た神秘的な兵器 "Hell Ray" についても書いていた、というから、"increasingly unconventional stories" というものには、サイエンス・フィクション的な要素もあったのか。とはいえジーンのある伝記によれば "The piles of unpublished, unread manuscripts accumulated more quickly than the inevitable rejection letters." だったそうから、送ってみなかったわけではないらしい。もっとも送る先を間違えれば、当然拒絶されただろう。それともやはり半ば気が狂っていたのか。死の15年前にジーンが最後に会った時、その姿に、子どもたちが揺籠の中で自殺しなかったのは驚きだと思ったとなると、やはり一種の狂気であろうか。
DAP 新作、部厚い二段組の本
手書きの効用と文学の本質
“Copy the whole thing out again in long-hand.”- Paul Theroux, author of Under the Wave at Waimea
Literature differs from life in that life is amorphously full of detail, and rarely directs us toward it, whereas literature teaches us to notice. Literature makes us better noticers of life.
ローベルト・ヴァルザー熱
「少なくともヴァルザーの主要作品と目されてきたものは、ほぼすべて日本語に訳出されたことになるだろう」第5巻, 359pp.
ヴァルザーの凄み
わたしの書く散文小品は、わたしの考えるところでは、ある長い、筋のない、リアリスティックな物語の部分部分を成している。あれやこれやの機会に作成したスケッチは、一つの長篇小説のあるいは短めの、あるいは長めの章なのだ。先へ先へと書き継いでゆくその小説は、同じ一つの小説のままで、それは大小さまざまに切り刻まれて、ページもとれてばらばらになった〈わたしの本〉と名づけてもらってもよいものだ。
言葉の中にはそれを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている、そう願いつつ望みつつ、わたしは言葉の領域で実験を続けているのです。
03-27: ヴァルザー、翻訳
3月17日 ローベルト・ヴァルザーとショウ・オヴ・ハンズ
Shanling M3X は WiFi を省略し、USB DAC 機能もはずし、2.5mmバランス・アウトを捨てて低価格にしたもの。MQA はフルデコードだが、これは ESS9219C の機能。ハードウェア・レンダラーになっている。この最新チップ採用で電力消費も抑え、バッテリーの保ちがよくなっているのもウリか。このチップを採用した初めての DAP のようだ。チップの発表は2019年11月。エントリー・モデルでは AirPlay 2 対応はまずないなあ。
もう1冊は山城むつみ『ドストエフスキー』。どうもいよいよドストエフスキーを読むことになりそうな気分。呼ばれているような気分。
ナロ・ホプキンソンの序文はなかなかいい。1960年生まれ。昨年還暦。ディレーニィはほぼリアルタイムだろう。この人はトロントに住んでいて、ジュディス・メリルがやっていた作家塾に参加していたそうな。そこへディレーニィが来て、メリルと対談し、サイン会をした。その時 Dhalgren の、もともと図書館からの回収本を買い、何度も読んでぼろぼろになったものを、ごめんなさいと言いながら差し出すと、ディレーニィは読んでくれたことが大事なのだ、と答えた。そうか、ぼろぼろになるまで読むのだ、あれを。
『文學界』2020年11月号
創作2本
を収録する。巻頭から155ページ。全体の4割を割いている。
村井康司『ページをめくるとジャズが聞こえる』発刊記念イベント@いーぐる
『夢十夜』全夜上演会 @ Seed Ship、下北沢
東京アイリッシュハープ・フェスティバル2017@ティアラこうとう(告知)
「アイルランド音楽✕スコットランド音楽 聴き酒」おおしまゆたか・栩木伸明・村上淳志13:15〜14:45(90分)定員35名 参加費2000円アイルランドとスコットランドをこよなく愛する3匹の翻訳家と文学者と演奏家が、両国の音楽から聴こえてくる繋がりや違いについてよもやま話を繰り広げる座談会。フェスティバル・コンサート鑑賞前の至福の一杯!
『アデスタを吹く冷たい風』トマス・フラナガン/宇野利泰=訳
わが国ではミステリ作家として知られている。というよりもミステリ作家としてしか知られていない。本国アメリカでは逆にミステリを書いていたことはほとんど知られていない。まず第一にアイルランドの文学と歴史の泰斗であり、次に近代アイルランドを描いた歴史小説三部作の作者であり、それがすべてだ。
1949年から1958年にかけて、26歳から35歳にかけて、フラナガンは7本の短篇を EQMM に発表している。そのうち2本は当時同誌が行なっていた年次コンテストでトップになっている。この時期かれは修士と博士をとったコロンビア大学の准教授だった。どこで読んだか忘れたが、これらの短篇は家賃を払うために書かれたという説があるが、分量からしても、当時の身分からしても、冗談ととるべきだろう。
ちなみに『アデスタを吹く冷たい風』文庫版解説およびウィキペディアの記事では、「カリフォルニア大学バークレー校の終身在職教員」とあるが、母校 Amherst College ウエブ・サイトのバイオグラフィによれば、バークレーにいたのは1978年までで、78年から96年まではニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の教授を勤めている。96年に教職から引退してからバークレーに住み、執筆に専念した。
4人の祖父母はいずれもアイルランドはファーマナ出身の移民だった。かれは移民三世になる。上記エッセイ集 THERE YOU ARE の表紙に使われた写真は24歳の時のフラナガンで、タバコを加えて見下ろしているのは、コロンビアの大学院生というよりは、アイルランド系マフィアの鉄砲玉だ。
今、翻訳で読んでも、ジャンルに関係なくなかなか優れた作品と思うが、アメリカでは全く忘れられていて、単行本にもなっていない。アイルランドを舞台とした長篇三部作はテレビにもなり、ベストセラーだったが、短篇がまったく顧られないのは、形式や狙いが異なるとはいえ、いささか不思議でもある。ヒーニィの言及が無ければ同名異人かと思うほどだ。
長篇第一作 The Year of the French (1979) のテレビ・ミニシリーズ版 (RTEとフランスのテレビ局の合作、1982) の音楽を担当したのがパディ・モローニで、この音楽をチーフテンズでやったアルバムもある。チーフテンズは、ミュージシャンとして「出演」もしている。
作品の初出を調べようと思って検索してみたが、EQMM の全てを網羅した Index はみつからない。唯一見つかったものも不完全で The Fine Italian Hand と The Cold Winds of Adesta しか載っていない。わかった限りのデータを発表順に書いておく。
玉を懐いて罪あり The Fine Italian Hand, 1949-05
アデスタを吹く冷たい風 The Cold Winds of Adesta, 1952; 1969-07(再録)
良心の問題 The Point of Honor, 1952
獅子のたてがみ The Lion's Mane, 1953
うまくいったようだわね This Will Do Nicely, 1955
国のしきたり The Customs of the Country, 1956
もし君が陪審員なら Suppose You Were on the Jury, 1958-03
どれも言葉のトリックだ。何をどう書くか、そしてより重要なことには書かないかの工夫によって読者の意表をつく。だからなおさらこれは原文で読みたくなる。韻律やダジャレなどに頼るものではないから、翻訳でも十分楽しめるが、原文にはおそらくより微妙な遊びやひっかけがあるはずだ。
もっともミステリとは畢竟言葉のトリックではあろう。すべての手がかりが読者の前にそろっている、わけではない。
すぐれたミステリはみなそうだろうが、これもまた謎解きだけがキモではない。謎が解けてしまったらそこでおしまいではない。むしろ、あっと思わされてから、頭にもどって読みなおしたくなる。それには周到な伏線だけでなく、むしろその周囲、ごく僅かな表情やしぐさの描写の、さりげないが入念な書込みがある。細部を楽しめるのだ。
もう一つの魅力は舞台の面白さで、これはとりわけテナント少佐ものに顕著だ。軍事独裁政権下の探偵役、それも型破りで有能な人物はそれだけで魅力的だ。つまりサイエンス・フィクションやファンタジィ同様、設定自体がキャラクターの一つになっている。ランドル・ギャレットの「ダーシー卿シリーズ」と同様の形だ。テナント少佐はダーシー卿に比べればずっと複雑な性格で、おそらく読みかえすたびに新たな面、新たな特性に遭遇することになるだろう。ダーシー卿の場合、あの世界全体の表象として現れているので、かれ個人の側面は薄い。テナント少佐の世界は現実により近いので、世界を説明する必要はない。それだけ個人のキャラクターに筆を割ける。これが長篇ならば別だが、中短編の積み重ねで世界を作ってゆく場合には世界設定と個人のキャラクターとしての厚みと深みはトレードオフになる。
テナント少佐が住み、働いている「共和国」は Jan Morris 描くところの Hav を思わせる。地中海沿岸のヨーロッパのどこかであること、出入口がほとんど鉄道1本であることが共通するが、それだけではない。時代からとり遺された感覚、ノスタルジアとアナクロニズムの混淆、そして頽廢の雰囲気。現代の時空にそこだけぽっかりと穿いた穴。そして奇妙に現代の世界を反映するそのあり方。歪んでいるが故にかえって真実を映す鏡。真実の隠れた部分が拡大されて映る鏡。
この国はかろうじて危うい均衡を保っていて、テナント少佐自身がまたその中で危うい均衡を保っている。しかし、現実というのはどっしり安定して動かない、などということはおそらくあったとしてもごく稀で、たとえば極盛期清朝のように、一見磐石に見えても実際には危うい均衡を保っているだけなのだ。磐石に見えれば見えるほど、それは崩壊の瀬戸際にある。これらの物語は、テナント少佐の綱渡りを描いてもいて、その緊張感が面白さを増すのは、ふだん見えない、見ないようにしている危うさが眼前に現れるからだ。
テナント少佐を支えるものは何であろうか。将軍の先も長くないことだろうか。といってとって代わって政権をとる意志も能力も自分には無いことはわかっている。そういう意味では、テナント少佐についてはもっと読みたかった。コロンビアからバークレーに移ってからは著者は短篇を書くことはなかった。フラナガンのなかでは学者、教育者としての側面とともに小説家としての存在も消しがたくあったのだろうが、そのエネルギーは長篇執筆に向けられた。短篇を書くほどの余裕は無かったのかもしれない。
しかしここに現れた短篇作家としての力量は中途半端なものではない。EQMMはじめダイジェスト版の雑誌に書いている作家によくいる、一定の水準は超えるが、突破した傑作は書けない職人とも一線を画す。ジョイスに傾倒し、初めてダブリンを訪れた際には、空港からホテルまでのタクシーの中で、ジョイスに関係のある場所を残らず指摘してみせたという伝説の持主であれば、ここに『ダブリン市民』の遠い谺を聞き取ることも可能だろう。もし本気で作家として身を立てようとしたならば、おそらくは後にかれがその批評の対象としたような作家たちに肩を並べていただろう。あるいはこれらの作品を書いたのが家賃稼ぎというジョークがジョークではなく事実だったとしたら、つまり生活のために小説を書かねばならなかったとしたら、シルヴァーバーグのように作家として大成していたかもしれない。名門アマースト大学を出て、コロンビアで博士号をとるとそのまま教授陣に加わる頭脳と才覚の持主だったことがはたして本人にとって、そして世界にとって幸福なことだったか。本人はおそらく幸福だったのであろう。しかし、世界はおかげでより貧しくなった。
この7本をミステリ・ファンがどう読むかは知らない。本国では忘れられたその作品を独自に集めてハヤカワ・ミステリの1冊として出したところを見れば、正当な評価をしている。しかし、その本は復刊希望で多くの票を集めながら、長いこと品切れのままだった。
実際、どれもストレートな形の「ミステリ」ではない。殺人事件の解決もあるし、どれも謎解きがメインテーマだ。しかし、「ミステリ」と言われて一般の人が思い浮かべるものからはずれている。謎解きはあくまでも中心の推進剤だが、作者の関心はむしろ謎のよってきたるところに置かれている。なぜ、こんな謎が生じるのか。事件を誰が起こしたかよりも、なぜ生じたか。当然それは作者が生きている時空に起きていることにつながる。探偵が現れて活躍するための事件ではなく、事件は起こるべくして起こり、探偵はいやいやながら、やむをえず介入する。事件は日常的で、それだけ切実だ。
一方でどれにもゲームの匂いがある。ある厳密なルールにしたがって書いてみて、どういうものが出てくるか、試しているようにもみえる。その点でぼくの読んだかぎり最も近いのは中井英夫の『とらんぷ譚』の諸篇だ。
こうなってくるとやはり長篇を読まざるをえなくなる。1798年、ウルフ・トーンの叛乱からアイルランド独立戦争までを描く三部作。小説という形で初めて可能な歴史の真実の提示がどのようにされているか。NYRB版で合計2,000ページ超。(ゆ)
ヒューゴー賞2016日記 如月9日
ウィリアム・バトラー・イェイツ
イェイツはその所属する集団がほぼ滅亡する寸前に現れ、アイルランド全体の文化を代表する存在になったというところで、カロランに似ている。
ウィリアム・バトラーは詩人として名をなしたが、父親も姉妹弟も画家として名をなしたのは、おもしろい。ウィリアム・バトラーも画才があり、一家の絵を集めた展覧会の図録はときどき取出して見る。ウィリアム・バトラーの詩も言葉で絵を描いているようにも思える。
武田百合子『富士日記』
Lucius Shepard, R.I.P.
『バット・ビューティフル』ジェフ・ダイヤー/村上春樹=訳
それにしてもジャズは「面白うてやがて悲しき」音楽ではある。そしてそこにこそジャズの美しさがある。この本はそう主張している。主張するというよりは、その悲しき美しさを文章として形にしている。どの章も美しいが、とりわけ掉尾を飾るアート・ペパーの章。なかでも監獄の中庭でペパーがサックスを吹くシーン。ここで言葉によって表現されていることは、まぎれもなく音楽の悲しさ、美しさであるにもかかわらず、音楽では表現できない。
この本の凄みはそこにある。音楽で表現されていることを、音楽にはできない形で言葉で表現してみせる。それによって言葉の持つ限界を突破している。あるいは少なくとも限界を大きく押し拡げている。同時に対象とされている音楽の悲しさ、美しさを、音楽とは別の角度から照らしだす。もはやフィクションかどうかなどということは問題ではない。
ここまでくれば、実は素材が音楽であるかどうかすらも問題ではなくなる。ジャズあってこそ生まれた作物ではある。書き手のインスピレーションの源となり、想像力を推進しているのがジャズであることはまぎれもない。しかし、作物そのものはジャズに寄りかかっていない。素材となった音楽を聞いていなくとも、対象のミュージシャンについて何も知らなくとも、この文章の美しさ、悲しさは、抗いようもなく読む者の中に流れこんでくる。
ぼくはジャズについては無知である。興味の赴くまま、あちこちとかじってはいるけれど、そんなことで「わかる」ほど、ジャズの蓄積は薄くない。だから、ここにとりあげられたミュージシャンたちの音楽もまともに聞いてはいない。ベン・ウェブスターにいたっては、名前すら初耳だったくらいだ。名前を知っていて、録音も少しは聞いている人たち、ミンガスやチェト、モンクなども、ここに描かれたエピソードについてはまったく知らない。だから、どこまでが事実でどこからが虚構かということもわからない。
たぶん、それは幸運なことだった、と今、思う。何も知らずに、いわば白紙の状態でこの作物を読むことができたのは、二度と体験できないことなのだ。ふさわしくないかもしれないが、日本代表がサッカーのワールド・カップ本大会初出場を決めた試合は、この宇宙の起源から終末までの間で一回しかないのに似ている。この作物を読む人の圧倒的多数は、ジャズについて広く深い知識を持ち、この七人の録音は「擦り切れる」まで聴いており、ここに描かれたエピソードも含めたミュージシャンの経歴についても充分承知しているだろう。そうした人びとには不可能な、特権的な体験をすることができたのは、まことにありがたい巡り合わせだった。
ぼくはだからむしろこの本を、ジャズに関心がない人に薦めたい。音楽に関心がない人に薦めたい。音楽を引受けるとは、どういうことか。音楽によって表現を行うとはどういうことか。そうして、引受けられて生まれた音楽はどういうものか。それをここまで痛切に、深く、伝えてくる文章は、いや文学は、他の何をさしおいても読む価値がある。
音楽は平凡な人間がやる非凡なことだ、とは、イングランドの蛇腹奏者ジョン・カークパトリックの言葉だ。ジョンカーク、とぼくらは呼ぶかれは、蛇腹つまりコンサティーナやアコーディオンを演奏してイングランド伝統音楽を現代に蘇えらせた男だ。ぼくらから見れば非凡を絵に描いたような存在だが、本人にしてみれば自分は凡人にすぎない、ということだろう。そうして、その平凡な人間が音楽という非凡な行為をはたそうとすれば、そこには必ず犠牲を伴う。かれの言葉の含蓄を、ぼくはそう見る。
その犠牲は音楽のタイプによっても、音楽が行われる時空によっても、また、個々のミュージシャンによっても、形も大きさも異る。しかし、ミュージシャンが犠牲を払うことはいつでもどこでも誰でも同じなのだ。きっと。ここに描かれたのは、その中でも極度に悲しく、それ故美しい形だ。そして、そうした犠牲を求める音楽の悲しさが、これ以上は無いだろうと思われるほどに美しく書かれている。その悲しく美しい音楽を、人はジャズと呼ぶ。
いや、音楽表現だけではなく、およそ人間が何かを表現しようとすれば、そこには犠牲が伴う。この作物を書くためにも、ダイヤーはなにかを犠牲にしている。なにも芸術とよばれる範疇の表現だけではない。「労働」や「仕事」や、あるいは「家事」にあっても、人間は表現をしている。つまりは人は犠牲を払いながら生きている。非日常的な芸術は日常にあって埋もれているそうした事実と犠牲の本質をあらためて掘り出し、磨き、差し出す。音楽にあっては、ジャズにあっては、その犠牲が極端な形であらわれる。
もちろんダイヤーのこの作物に表現されたものが音楽表現のすべてではない。ジャズが表現しているもののすべてでもないだろう。ダイヤー個人の見ている、聴きとっているもののすべてですらないはずだ。あくまでもこれは、個人ダイヤーがその感性で捉ええたもののうち、作家ダイヤーの言葉によって表現しえたものの、さらに一部である。ダイヤー自身にとっても、ジャズを別の形、それほど悲しくはないが、美しさでは劣らない形で描くこともできなくはないだろう。とはいえ、たぶんそれはダイヤー以外の人に委ねられている。
しかしながら、その前に、まず人はジャズを聴かねばならない。この作物に、たとえ白紙の状態で遭遇したとしても、読んでしまった以上、ジャズを聴かねばならない。あのアート・ペパーの音楽を、音の形で、音楽の形で聴かねばならない。
なお、「著者あとがき」は本文とは別ものだ。これもまた、ジャズを相手にデュエットを演じる形のひとつではある。こちらについては伝統音楽を聴いている人間としては突込みどころだらけで、本文とは逆の位相で面白い。また、ぼくなどにはひとつのジャズの展望としても参考になる。著者が本文に対置して、本文の咀嚼、消化の助けになることを期待していることもわかる。あるいは本文と「バランスをとる」ような錘になることを期待している、という方が近いか。
とはいえ、これは「蛇足」の類ではある。著者がこうした文章がこの書物には必要だと感じたならば、それもまたジャズという音楽の作用ではあるのだろう。ジャズに備わった性格、書き手自身が「あとがき」冒頭で否定しているような文章を、結局書いてしまわずにはいられなくさせるような性格の現れとも言える。
矛盾と断じるのは容易いが、この矛盾した性格こそが、ジャズをジャズたらしめているのでもあろう。ジャズにはどこかそういう捻れたところがある。ジャズのルーツのひとつである(とぼくには見えるのだが)ユダヤの音楽や、ジプシー/ロマの音楽にもそういう捻れたところがあって、ジャズの捻れはそれを受け継いでいるとともに、また外へと受け継がれてもいる。
それにしても、こうした書物を生みだすところ、ジャズがうらやましい。伝統音楽からはこんな美しい作物は生まれそうにない。もちろん伝統音楽、ルーツ・ミュージックからはまた別の形の作物が生まれてきたし、これからも生まれるだろう。しかし、これほどの痛切さをもって、深く心の中に斬りこんできた作物は、どうやらこれまでも見当たらないし、これからも出そうにない。
アイリッシュ・ミュージックから生まれたものとしては、キアラン・カーソンの LAST NIGHT'S FUN: In and Out of Time With Irish Music という傑作があるけれども、あの作物が表現しているのは「とぼけた楽しさ」だ。アイリッシュ・ミュージックの肝はそれじゃないか、と言われればその通りだが、無いものねだりとわかってはいても、ダイヤーの作物が放つ痛切さを、いわば「本拠地」で感じてみたいとも思ってしまう。(ゆ)
日録
気温が高いので蝉たちは元気。ひさしぶりに油の声も聞こえる。が、数は激減。法師蝉ばかりきわだつ。土曜日は近くの小学校の運動会で、時おり激しい雨が降るなか、朝から大騒ぎだったが、今日は蝉の声があたりの静けさを強調する。
先日から調子づいたので、朝から仕事したい気分が湧いてきて、午前中、かなり集中できた。今やっているギネス本の第三章、十九世紀末から二十世紀初めにかけてギネス醸造所の専属医師だったジョン・ラムスデンなる人物の事績は、なかなかに泣かせる。とりわけ、章の掉尾を飾る、第一次世界大戦直前から最中にかけてアイルランドが体験した暴力の嵐の中で、敵味方なく負傷者の手当をするため、銃弾もものともせず最前線に飛びこんでゆく医師の姿には、訳しながら覚えず目頭が熱くなった。ついには片手に白旗、片手に医師鞄を下げて駆けこんでくる医師の姿を見ると、皆、射撃を控えるようになる。そして、自分たちの国のより良い未来の可能性をその姿に垣間見るのだ。
もっともこれはラムスデンの事績としてはむしろ枝葉末節に属するもので、かれの業績の本分は、ギネス社の従業員やその家族、工場の近隣住民たちの居住環境の改善と公衆衛生の向上だ。
調子に乗っていつもの倍ちかい量をこなす。いつもこういう調子で行けば、来月末脱稿の予定は守れるかもしれない。抗がん剤の副作用の出方にもよるが。
先週に入って手足の先の痺れが強くなっている。その前まではそれほど感じなかったのは、本来とは逆のような気もする。首まわりの痒いのはようやく軽くなってきたが、あちこち入れ替わり立ち替わり痒くなるのはあいかわらず。これも副作用か。
ドス・パソスのスペイン紀行『ロシナンテ再び旅に出る』を読む。内戦前、両大戦間のスペイン。この人もアメリカ人として生まれながら、アメリカからははみ出してしまった者の一人。『U.S.A.』 のような本を着想し、書けたのも、そのおかげではあろう。
そのはみ出し方はアメリカ人にしかおそらくできない。この人の生涯そのものが数奇ではある。生まれたのはシカゴのホテルで、幼少の頃はヨーロッパのホテルを点々として育ち、その生涯のほとんどを旅から旅を続けて過ごした。かれにとって故郷は具体的な場所ではなく、いうなれば「アメリカ」という抽象概念だったろう。むしろ旅そのものが故郷だったかもしれない。
両親はともに既婚者で、つまりドス・パソス本人は「不倫の子」だ。アメリカどころか、「世間」からはみ出して生まれた。生まれた時、母は42歳、父はその10歳年長。19歳で母を、21歳で父を失う。兄弟姉妹はない。良い伝記が読みたい。
アメリカからはみ出したアメリカ人としては、他にはコードウェイナー・スミスがいる。ブルース・スターリングがいる。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアがいる。ルーシャス・シェパードも数えていいかもしれない。
作家にははみ出し者が結構いる、というよりはどこかではみ出していないと作家にはならない。ミュージシャンではあまりいないように思える。マイルス・デイヴィスもデューク・エリントンもフランク・ザッパもジェリィ・ガルシアもボブ・ディランも、あるいはジョン・ケージも、とことんアメリカ人ではある。
はみ出してしまった者は音楽には行かないのかもしれない。同じパフォーマンス芸でも演劇やダンスや曲芸に行くとも思える。
JAVS nano/V はパスパワーだが、かなりパワーを喰うようで、MacBook Pro ではバッテリーだと音が悪くなる。バッテリーの減りも速い。電源をつないで使うのが基本。
DAC など、つなぎっぱなしにしていると、音が悪くなることがある。USB のジャックを換えると回復する。USB につなぐ時は他の USB 接続はしない方が良いらしい。TimeMachine にライブラリを置いて、無線で飛ばす方が音が良いという話もある。
ダギー・マクリーンがあらためてマイ・ブーム。昨年久しぶりのオリジナル新作が出ていた。届くまでの復習に、新しい方から一枚ずつ聞き直す。(ゆ)
K S Robinson, GALILEO'S DREAM
奇をてらったわけではない。いや、両方とも「奇」をてらっている、とは言えるかもしれないが。
つまり、どちらも書いている、いたのは「ほら話」英語でいう "tall tales" なのである。現代でこの類の話を書くにはSFが一番合っている。読者も多いし、受け入れられやすいというのでSFの分野で書いたのだ。
もっともはじめから「SF」というなにか固まったものがあり、それに合わせて、それを書きたいから書く、という書き手は、そんなに、というかほとんどいないのではないか、とも思う。
たいていは、それぞれに書きたいもの、あるいは書けてしまう、できてしまうものがあり、それをリリースしようとした時、最適な場がSFだった、というものではないか。あるいは他ではできない、リリースを断わられて、やむなくSFで、というケースも結構あるようにも思われる。
ほら話もそのひとつで、パブなどでの「かたり」ならまだしも、活字としてリリースしようとすれば、他にはどこにも落とし所はなかろう。SFというのはまことに便利なものではある。
ガリレオといえば地動説裁判、そしてガリレオ衛星、とまあ相場は決まっている。実際にかれがどういう人間で、どういう生活をして、何を残したか、まではまずいかない。
木星の一番大きな四つの衛星をガリレオ衛星という、なんてのも、根っからの天文ファンでなければ知らないかもしれない。とは言え、知っている人間にとっては、自分が発見した衛星を望遠鏡で覗いていたら、その上に立っていた、なんて話は、もうそれだけでうれしくなってくる。理屈などどうでもいいのだ。
とにかく、ガリレオをかれが見つけた衛星の上に立たせたい、あるいはその間を飛びまわらせたい。
いかに天才とはいえ、17世紀はじめのイタリアに生まれ育った人間だ。しかもイタリア半島から一歩も出たことはない。敬虔なカトリックで、地動説は奉じてもそれで信仰が揺らぐわけではない。そんな人間を、相対性理論から先、ニュートンからアインシュタインまでの距離よりも大きな距離がアインシュタインから先にあるような、そんな科学のもとにできている世界にいきなり連れこんで、無事にすむはずはない。
常識的に考えれば、それはそうだろう。
だからこれはほら話なのだ。ポール・バニヤンの話、ジョニー・アップルシードの話、あるいは火星のビッグマンの話。呪文をとなえるとせまくなって他の人間には見えなくなる谷の話。九百人のお祖母さんの話。
むかしむかし、あるところにガリレオという男がおりました。ガリレオは望遠鏡の噂を聞いて、ひとつ自分でも作ってやろうと思いました。できたもので夜空をあちこち眺めていると、あれれ、木星のそばに何かあるぞ。やあ、動いてる。あれって、もしかして星じゃないか。地球に月があるように、木星にも木星の月があるんじゃないか。やあ、四つもあるぞ。というので、ガリレオはこの発見を本に書きました。みんなはそれを読んで、びっくり仰天、やんややんやとはやしました。
でも、ガリレオはだんだんつまらなくなりました。木星のまわりを回っているのはわかるが、あそこはいったいどんなところなんだろう。行ってみたいなあ。そう思いながら、毎晩望遠鏡で覗いておりました。望遠鏡はどんどん良くなって、木星の月たちもだんだん大きく見えるようになります。でも、その上まで見えるわけではありません。
そんなある日、望遠鏡の噂を聞かせてくれた異邦の男が持ってきたのが、見たこともないような大きな望遠鏡。早速これで覗かせてもらうと、をを、星がどんどん近くなる、うわ、落っこちる。というので気がつくとガリレオは自分がみつけた木星の衛星のひとつの上に立っておりました。めでたし、めでたし。
いや、めでたしではなくて、これからガリレオの冒険が始まるのだけれど、これが20世紀前半だったら、ガリレオは地球のことなどきれいさっぱり忘れて、木星系狭しとばかりにあばれまわり、美女を助け、悪者をやっつけて大活躍、やがて木星から先の太陽系を統一して偉大な王となり、末永く、しあわせに暮らしました。めでたし、めでたし。
と、今度こそはめでたしになるかもしれない。しかし、今は21世紀だ。ポスト9/11の時空。それに、ガリレオが木星王になるというのはほら話ではない。ほら話はとぼけなくては。
そこで、作者はどうしたか。
ガリレオには地球と木星の間を往復してもらうことにしたのだ。
そしてもうひとつ、地球でのガリレオにはその人生をしっかり生きてもらうことにした。つまり、実際に生きたガリレオはこうだっただろうという話を、こちらはもうリアリズムに徹して、ほらなどどこにもない、生身のガリレオ、不眠症と脱腸のおかげで、いつも赤い眼をして、よたよたと歩きまわり、召使たちをどなりつけ、ぶん殴り、大公や教皇や枢機卿たちにはへいこらし、雇い主のケチに怒りくるい、批判者たちを罵倒しまくり、そして、世界でまだ誰も知らないことを知って感動にうちふるえる、そういう姿を生き生きと、読者の目の前に描きだしてみせたのだ。
マッドではない、ひとりの科学者の姿を、その魅力も欠点もひっくるめて、これほどあざやかにありありと描きだした話がこれまでにあっただろうか。天才ではあっただろう。科学者としてはついてもいただろう。しかし、一個の人間、夫、父、事業家、つまり世間から見たひとりの人間としては、及第点はまずやれない。いや、とうの昔に誰からも見棄てられていてもおかしくはない。
そしてあの有名な裁判の場でのガリレオの姿。かれは科学を守ろうとしたのではもちろんない。ただひたすら異端の罪として裁かれること、すなわち焚刑にされることだけを避けようとした。ジョルダーノ・ブルーノの二の舞だけはごめんだ。そのためには何でもするつもりだった。
地動説がキリスト教の教えに反すると思ったわけでもない。地動説こそは神の造りたもうたこの世界の姿を正しく説明するものだ、アリストテレスは、天動説は神の造りたもうた世界を正しく説明していない、と考えただけである。神は嘘をつかない。神が造りたもうたものを真正直に見ればわかる。これまでは人間の眼がまちがっていたのだ。
だからガリレオは当初の判決文の中で、自分は善きキリスト教徒ではなかった、『天文対話』出版に際して検閲当局をだました、という二つの点だけは承服できない、たとえ焚刑にされてもこれだけは認められないと抗議した。
この裁判でのガリレオの姿にどこか気高いものがあるとすれば、それは信ずるところを守ろうとしたからだろう。地動説は信ずるところではない。それはすなおに見れば誰の眼にも明らかなことで、教会がいかに否定しても、自分がいくらそれを奉じないと強弁しても、それによって地球が太陽の周りを回っている事実が消えたり、変わったりするわけではない。しかし、自分が善きキリスト教徒かどうかは、自分がそう信じ、他人にもそう認めさせるしか決定方法は無い。
この裁判は歴史上最も有名な裁判のひとつだ。こんにちにいたるまで、その内容についてくりかえしとりあげられる。その理由は、ガリレオが焚刑を免れた、かれが生き残ったからだろう。地動説に対するローマ教皇庁の弾圧ということなら、まさにジョルダーノ・ブルーノは科学への殉教者としてもっと注目され、有名になってもよいはずだ。ガリレオは生き残った。「それでも地球はうごく」と言い残した。むろんこれは伝説だが、伝説の例にもれず、事件の本質をあらわしている。ガリレオが生き延びたこと自体が「それでも地球はうごく」と言っていたのだ。
そして、この裁判がこうなったのは、実は木星での冒険があったからなんですよ、みなさん。ガリレオが木星に行かなかったら、かれは実は焚刑にされていたんです。ね、世の中、何が幸いするか、わからないでしょ。めでたし、めでたし。
ああ、これがSFで無くて、何であろう。一人の稀有な科学者の生身の姿を描ききり、なおかつ、この科学者を当人が発見した天体の上で活躍させる。ほら話としてのSFの極致ではないか。
これはもう作家としての円熟である。こういう力業を、トゥル・ド・フォースを、無理を感じさせずにやってのける。SFとしてのリアリズムだけなら、他にも同じくらいの力の持ち主は何人もいる。歴史部分だけとれば、一流ならばこれくらいは書けてほしい。しかし、この二つをシームレスにつないで、極上の歴史小説でもあり、SFでもある話を書けるのは、はたして他にいるだろうか。
いないわけではない。ロビンスンもこの作品についてのエッセイであげていたシルヴァーバーグの『時間線を遡って』Up The Line は、遥かな先駆けであり、出来ばえとしても匹敵する。いや、本当にすぐれたタイム・トラベル小説は本来、歴史小説とSFの最高の形での統合なのだろう。とすれば、そうしたいくつかのすぐれたタイム・トラベル小説群に、今ひとつ、ひときわ大きな成果が加わった、と言うべきだろう。(ゆ)
SFM 8月号「浅倉久志追悼」
浅倉さん固有のリズムと最も近かったのは、ゼラズニィではないか。こういう技巧的な、一歩間違うと装飾過剰な文章を、その華麗さを保ったまま、嫌味を感じさせずに日本語にうつすのは、ある程度先天的な共感が働かないと難しいと思う。
これに比べると、グラントやロバーツは、文学伝統に則っているので、むしろやりやすいだろう。
ラファティとジェロームになると、どちらかというと浅倉さんがご自分のリズムに引きつけた部分が大きいように感じられる。
その上で、今回、最も感じいったのはグラント「ドローデの方程式」。これはもう完璧としかいいようがない短篇を、完璧としかいいようのない翻訳に仕立ててくださっている。原文で読む気にもならない。たとえ読んだとて、この浅倉訳を読むほどに「理解」できるとも思えない。
この短篇は小説、つまり書き言葉でしか表現できない表現を生みだしている。その点ではメタ・フィクションとも言える。また、これはSF以外の何ものでもない、SF以外では表現できないことを表現している。一見そう見えても、これはファンタジーではない。現実にとって科学とは何か。科学に何ができるかを掘り下げている。それは同時に科学は何をすべきか、科学の使命はどうあるべきか、の問題を扱うことにもなる。つまりこれは科学の現状への痛烈きわまる批判でもあるのだ。
こういう作品をきちんと評価し、紹介する眼と舌を養いたいと思う。
ラファティは雑誌掲載だけで、単行本収録がかなわなかったということで、あらためて読めるのは嬉しい。これはSFの王道のひとつであるユートピアものの変形だが、ル・グィンの「オメラスから歩みさる人びと」に通じる。ユートピアの実現には大いなる犠牲が必要であり、その犠牲は人間性と深く結びついている。人間が人間であるかぎり、ユートピアはついに夢想の中にしか存在しない。ラファティはアイルランド人であるから、これを「老人の知恵」として語る。そして、地球上のすべてのアイルランド人にとって、「アイルランド」はユートピア以外のなにものでもない。
ジェロームは人間のいやらしさをラファティとは反対側から映しだしてみせる。さすが、アイルランド人をいじめつづけたイングランド人だ。たしかにユーモアではあるが、読みようによってはこれほどブラックな、真黒なユーモアもない。それをむしろしっとりと、それほどいやらしくもない話に浅倉さんは仕立てている。ひょっとすると、これを読んで無邪気に笑う読者を、意地悪く見つめている訳者の姿が見えないか。
ロバーツについては、言うべきことは何もない。何度でも言うが、全篇浅倉訳で読みたかった。どこかに原稿が隠されていないものか。
ゼラズニィで何が一番好きか、と訊かれれば、なんのためらいもなく「十二月の鍵」と答える。今回の再録にこれが無いのは不満といえば不満だが、今回の「このあらしの瞬間」もなかなかよくゼラズニィしていて、まずは満足。
邦訳の初出1975年6月といえば、まだSFMをちゃんと読んでいたと思うのだが、これは読んだ記憶がまったく無い。もうSFMを「卒業」した気分だったのか。その前年、森さんが辞められて、隅から隅まで読みつづける気を無くしたことはあったかもしれない。SFファン交流会の二次会でも出ていたが、森さんの後、今岡清氏が出るまで、SFM の編集長は編集者というより管理人になった。というと長島良三氏や倉橋卓氏には失礼かもしれないが、たしか両氏ともミステリ・マガジンと兼任されていたし、福島、森に比べればSFについては「素人」であり、SFM は「漂流」しはじめた、という感覚は当時リアルだったことはまちがいない。
これがぼくだけの感覚ではなかったことは、マイク・アシュリーのSF雑誌の歴史の第3巻 Gateways to Forever 巻末の補遺で非英語圏のSF雑誌をとりあげた際、長島、倉橋両氏を "hard-headed bussinessmen" (420pp.) と評したことにも現れている。ここは柴野さんからの情報をもとに著者が書いているので、この評価は柴野さんのものであっただろう。
同時に、大学に入って、SFM より F&SF や原書に挑戦しはじめたこともあったかもしれない。しかし、当時、読みだした頃の自分が何を原書で読んでいたのかは、さっぱり思いだせない。
とまれ、「十二月の鍵」の代わりに本篇がとられたことに大きな不満がないのは、本篇がいわば「十二月」の前日譚になっているせいもある。あるいは、「十二月」は本篇の語り手の生まれ変わりが、自分なりの黄金時代を、ルネサンスを発見する、あるいは見方によっては強引に引きよせる話だからだ。オリジナルの初出をみると、本篇が F&SF 1966年6月、「十二月」が New Worlds 1966年8月。おそらくはたてつづけに書かれたのだろう。
読みあわせれば、この2篇の相似は明らかで、「キザ」(中村融氏)とまで言われる叙述のスタイルもそっくり。とはいえ、「十二月」と本篇は同じものの表裏で、それぞれに力点を置く位置も置かれ方も違うから、どちらもそれぞれに楽しめる。ちなみに単行本としてはどちらも『伝道の書に捧げる薔薇』収録。
ついでに言えば、「十二月」に次いで好きな作品は「フロストとベータ」と「復讐の女神」。前者は New Worlds 1966/03、後者は Amazing 1965/06。どちらも浅倉さんの訳で『キャメロット最後の守護者』収録。ちゃんと調べたわけではないが、1965年から66年にかけてはゼラズニィの「大当りの年」ではないか。というより、この4篇が生まれただけで十分「大当り」だし、この4篇があれば、長篇も含めて他は何も要らないと言ってもいい。
あるいはむしろ、ほぼ半世紀(!)経って、今、この頃の1960年代半ばのゼラズニィを改めて読んでみるのは面白いかもしれない。ちょうど NESFA が短篇全集を出したことでもある。まさに彗星のように、いやむしろ超新星のようにデビューして、60年代に混迷を極めて、気息奄奄となっていたアメリカSFに、颯爽と進むべき道を示した、あの熱さとかっこよさは今もなお新鮮ではないか、と、本篇を読んで思う。エリスンやディッシュやディレーニーやが変身するのも、あるいはウィルヘルム、ティプトリー、ラスやらが現れるのも、さらには「レイバー・デー・グループ」やサイバーパンクの出現も、このゼラズニィあってこそではなかったか。
それにしても、当時30前の著者がこれを書きえたのは、作家の創作活動の妙とはいえ、驚異の念に打たれざるをえない。本篇の語り手の孤独、次の角を曲がった向こうに「黄金時代」があるんじゃないか、という願望とも予感ともつかない感覚は、今の年になって初めてわかる。「十二月の鍵」にしても、初読の時はよくわからなかったのが、あの何ともかっこいいスタイルに惹かれて何度か読み返すたびに好きになっていった。
ディック、ティプトリー、ラファティの評価は、「新・御三家」と呼ばれてもおかしくないほどまでに固まったと思うが、60年代のゼラズニィと70年代のヴァーリィの評価は、SFへのその貢献に比べて、異様に低いようにも思う。それにはおそらくは、両者ともに長篇作家よりも中篇作家、ノヴェラやノヴェレットを最も得意とし、そのフォーマットに最も優れた作品を残したせいもあるのではないか。
そして、中篇作家であるがために不当に低い評価しかされていない書き手は、案外多いようにも思う。シルヴァーバーグもそうだし、ルーシャス・シェパードもそうだ。
浅倉さんへの追悼文はそれぞれに良かったが、「偲ぶ会」やSFファン交流会で話されたことと重なる部分も多かった。
なかで出色はやはり伊藤典夫氏の文章で、分量からしても、つきあいの深さ、古さからも、群を抜いて読みごたえのあるものだ。氏にはぜひ、昔のことを、きちんと書き残しておいていただきたい。結局昔のことをご存知で残っているのは、ほとんど森さんと伊藤氏だけではないか。アメリカ人が「創造」した「宇宙」を日本語に植えかえる、その苦闘はぜひ読みたいと思うし、伊藤氏は当事者でありながら、中心のすぐそばにいながら、中心そのものではなかった、まことに都合の良い位置におられたわけだ。日本語SF形成期の跡をたどるには絶好の書き手と思う。
追悼特集としては充実したものではあるが、浅倉さんの追悼はこれで終わるわけではない。浅倉さんの残したものの評価はむしろこれからだろう。この特集はその端緒にすぎない。
「後ろ向き」のものより「前向き」の特集を、というアマゾン読者評のコメントもその通りではあるが、前に進むためにも、これまで何がなされ、何がなされなかったかを押えることは必要ではある。矢野、野田、柴野、浅倉と、日本語SFを裏で支えてきた人びとが幽明界を異にされたことは、歴史をたどりなおし、評価しなおす契機になる。
今回の特集には、浅倉久志がどういう人であったか、の説明はひとこともない。ここで初めてその名前に接する人や、この名前を意識する人にはいささか不親切とも思う。その一方で、浅倉久志とは何者ぞ、と問われれば、こういう翻訳を残した翻訳者です、まず読んでくださいと言って、よけいな雑情報をあえてばっさり切った潔さも認める。(ゆ)