ニュージーランドのヒューゴーにあたる賞。ヒューゴー同様、ニュージーランドの全国大会での投票で受賞作が来まる。今年の第37回大会 Au Contraire 2016 は6月第1週末。
Sean Monaghan の "The Molenstraat Music Festival” が Asimov's 読者賞とオーレアリス賞の候補になっている。また Best Professional Production / Publication のカテゴリーに LETTERS TO TIPTREE の一篇が入っている。その他は、他の賞の候補、ローカス推薦リストとは重ならない。このあたりは地元の刊行物やそこでの発表を優先するという意味合いもあるのではないか。
サー・ジュリアス・ヴォーゲル(1835-1899)は第8代のニュージーランド首相(1873-75, 76)。1889年に : Anno Domini 2000, or, Woman's Destiny を刊行する。女性が社会の枢要な位置にいる世界を描いたユートピアもので、ニュージーランド最初のサイエンス・フィクションとされる。この本のおかげか、ニュージーランドは1893年、女性が参政権を獲得した最初の国となった。
なおニュージーランドの首相では現在まで唯一のユダヤ系。
3月も下旬となり、ヒューゴーのノミネーション締切が近づくとともに、各賞の受賞作が発表されはじめた。
ディック賞はペーパーバック・オリジナルとして刊行されたもので最も優れた作品に与えられる。受賞作と特別表彰が発表される。BASF賞ではアリエット・ド・ボダールが長篇と短篇の双方を制した。両方を同時に同一作家が受賞したのは初。ド・ボダールのBASF賞は2010年短篇賞以来二度目。長篇で賞を受けたのは初めてで、これまでの4回の各賞受賞はすべて中短編だった。受賞した長篇は4作め。Dominion of the Fallen と名づけられたシリーズの一環。このシリーズは昨年中短編が6本とこの長篇が出た。
F&SF 3月・4月号の書評欄で Michelle West が取り上げている5冊のうち3冊は2015年の刊行で、ヒューゴーの対象になる。こういうところの書評は基本的に誉めるために取り上げる。自論を展開したり、対象の作品以外のことやものについて何か述べたりするために書かれることは少ない。それでも好みというのはあるし、書き手の誉め具合に波長が合わないことはあるわけで、取り上げられた全部が全部、涎が垂れるというのは滅多にない。ウェストは波長が合う方だが、今回はしかしどれもこれもすぐ読みたくなったのには困った。しかも、ミリタリー・サイエンス・フィクション、純文風ファンタジィ、幽霊屋敷を舞台にした連作、ポスト・アポカリプスの冒険ファンタジィ、そしてハード・サイエンス・フィクションと、作風もバラエティに富んでいる。しかし時間がないよ。植草甚一は毎日1冊、1年365冊読んだことがあって、おまけにその少なくない部分は日本語以外の本だったらしいが、ほんとにちゃんと読んだのか。いや、楽しんで読んだのか。ミステリーはともかく、サイエンス・フィクションやファンタジィはちゃんと読まないと楽しめないのよね。
すぐ読めるかどうか、5冊の電子本の価格を各サイトで調べる。結構幅がある。電子本で1,000円を超えると買う気が失せる。電子本は結局内容へのアクセス権を買うので、紙の本のように丸ごと自分のものになるわけではないからか。紙の本は読み終ったりして不要になれば、人にあげるなり、売るなりできるが、電子本はそれができない。死ねばそこで終りだ。5冊のなかでは一番読みたい Leah Bobet の AN INHERITANCE OF ASHES が安い Kobo でも 1,700円超えるのに二の足を踏む。紙なら古本が1,500円以下だ。
をー、F&SFの次号に Yukimi Ogawa が載るとの予告。紙媒体初進出。楽しみだ。この人に注目するのは、日本に棲む日本語ネイティヴ・スピーカーで英語で作品を発表しているところ。Aliette de Bodard もとりあげていた。あらためて調べると Kindle で1本出ているので購入。2014年に出ていてこの年はこれで5本。ざっとみたところでは昨年は1本しか出ていない。
"In Her Head, In Her Eyes" 電子本付録のインタヴューによれば、日本語で作品を発表したこともあったが、今は英語でしか書けない。英語のリズムが合っている、と本人は言う。母語では距離が近すぎて、おしゃべりになってしまうのだろう。小説はどんなに語るように書かれていても、構成が必要だ。母語ではない英語で小説を書いて成功したのにはコンラッドやナボコフという例もある。が、英語との接し方が異なる。かれらは環境の変化によって英語を強制されたが、オガワは意識して選択している。この点ではアリエット・ド・ボダールもおそらく同じだ。前者ではまず英語は生きるために必要な手段だが、オガワやド・ボダールにとってはツールのひとつだ。言語表現で効果的に表現するためにはあえて一度対象を体の外に出す必要がある。とりわけ散文ではそうだ。体の外に出すために第2言語を使うのは、これまであまり試みられたことはないのではないか。とりわけ、日本語では。英語がそうした作業に最適かどうかは、おそらく人によって異なるのだろう。
いや、そうか、明治期までは漢文、漢語がその役割を果していたのだ、きっと。言文一致は文章語を口語に近づける試みであるとともに、漢文からの脱出運動でもあった。それは見事に成功したわけだが、一方で表現を作る過程の質も変えたこともありうる。文語は日常語とは別の言語と言えるほどだったから、文章を書くことは別の人間になることでもあった。書く対象を体の外に出すのはそういうことも含む。それが言文一致によって、より柔軟で、幅の広い表現能力を備えると同時に、体の外に出す効果は弱くなった。文語そのものは第二次世界大戦終結まで残るが、そちらも口語に影響されて客体化効果は衰弱した。
というのは脇道に逸れたが、小説を書こうとする人びとは対象を客体化するために、各自何らかの形で第2言語を利用していたのだろう。漱石は英語、鷗外はドイツ語、荷風はフランス語、というのは比較的わかりやすい例だし、戦後にしても大江健三郎はフランス語、村上春樹は英語という具合だ。星、小松、筒井は翻訳を通して第2言語の作物に接触した、ということになろうか。オガワが面白いのは、もう一度日本語にもどるのではなく、そのまま英語で書いていることだ。フランス語やスペイン語で書く日本語ネイティヴ・スピーカーも現れると、さらに面白くなる。
オガワのような書き手の出現にはネットの存在がおそらく不可欠だろう。オガワをそちらに向けて押しだすとともに、オンライン雑誌が媒体を用意した点においても。マーケットとしては、日本語よりも英語の方が遙かに大きい。
一方で、では英語の書き手はどうやって客体化しているのか。英語自体の中に客体化のための装置があるのではないか、というのが一応の見立てだ。(ゆ)