松井ゆみ子
『アイリッシュネスの扉』
ヒマール
ISBN978-4-9912195-0-4
アイルランドは不思議な国だ。ここを1個の独立した地域と認識しはじめてから、ずっと不思議なのは変わらない。ヨーロッパの一角なのに、洗練されていない田舎であるその在り方に、妙になじみがある。ユーラシア大陸の東西の端という、地球上でおよそ最も遠いところなのに、その佇まいに親近感が湧いてくる。初めてハワイ、オアフに行って島の中を走りまわった時にも、この風景は妙になじみがあると感じた。そのなじみのある感覚が、アイルランドの場合、視覚だけでなく、聴覚や、五感の奥の感情から湧いてくる。ひと言で言えば人なつこい、その人なつこさが「なつかしい」。
同じケルトの他の地域では、こういう人なつこさはあまり感じない。他をあまり知らないこともありえる。どこも同じく音楽を通じてのつきあいで、その中でアイルランドの音楽は妙に人なつかいと感じる。
その同じ人なつこさをこの本に感じる。人なつこいけれど、ベタベタしない。やたらすり寄らない。読み終わって、その辺にころがしておいて、表紙が目に入ると気分がよくなる。沈んでいた気分がふうわりと浮かんでくるし、ブリブリ怒っていれば、思わず吹きだしてしまう。中身の何か、イメージとか文章の一節がふっと浮かんでくる。
アイルランド人には何でも屋さんがよくいるそうだ。手先が器用で、モノを使って何かをやる、日曜大工、家の修繕、電気器具の手入れ、何をやらせてもパッパッとかたづける。
もっとも著者も手先が器用だ。カメラも料理もぶきっちょにはできない。あたしのようなぶきっちょにできるのは、スチーマーをレンジでチンくらいで、オーヴンを使いこなすなんてのは、悪夢になりかねない。
器用な著者は、せっせと焼き菓子つまりクッキーやケーキを作っては、これを餌にそういう何でも屋さん、ハンディマンたちを駆使して、田舎の、歴史の詰まった家に暮す。ここはアイルランドであるから、もちろんのこと幽霊はつきものだ。アイルランドの幽霊はあまり悪さをしない。最悪でもじっとしているだけで、悪い結果はたいていがそれを見る側に問題があって起きる。幽霊のせいではない。
幽霊がいるのにはもう一つ理由があって、アイルランドでは家が残っている。著者が住んでいる家も築二百年とかで、増築されたり、水廻りが改修されたりはしていても、根幹はそのままだ。いくら幽霊でも、完全に取り壊されたり、建替えられては残れないだろう。そして、幽霊もそれが取り憑いている家もまた人なつこい。
いや、あたしは別にアイルランドの家に住んだことがあるわけじゃない。ただ、この本を読んでいると、そういう、長く建っていて、歴史の積み重なった、人なつこい家に暮している気分になってくる。ここでは歴史はどこか遠く、頭の遙か上を通りすぎてゆくものではなくて、毎日その中で暮しているものになる。毎日の暮しがそのまま歴史になってゆく。家だけではない。歴史に包まれ、浸りこんで暮していると、家を囲む自然、人、音楽、料理、食材、スポーツ、イベント、あらゆるものが、歴史になってゆく。歴史はエラい人たちが派手にたち回って作られるものではなくて、ごく普通の人たち、ハンディマンやフィドラーやカントリーマーケットの売子やハーリングの選手やも含む人たちの毎日の暮しから生まれるのだ、と実感が湧いてくる。
やはり、アイルランドは不思議な国だ。
著者は手先が器用なだけではなくて、敏感でもある。目も耳も鼻も舌も、そして皮膚もいい。いくら歴史の詰まった家に住んでも、あたしのように鈍い人間は、たぶん何も感じないだろう。幽霊など出ようものなら、スタコラ逃げだすにちがいない。
著者は五感をいっぱいに働かせて、その歴史を感じとる。とりわけ触覚だ。触覚は指の先だけで感じるものではない。顔や腕など、外に出ているところだけで感じるものでもない。全身で、時にはカラダに沁みこんできたものを筋肉や血管や内蔵で感じたりもする。自覚しているかどうかは別として、著者は触覚をめいっぱい働かせている。文章も写真もその触覚で感じたものを形にしている。
例えば著者が今住んでいる家を建てたパーマストン。ものの本などで現れるのは、武力をバックにしたいわゆる砲艦外交を得意技として、大英帝国建設に貢献した強面のタカ派の顔だ。パーマーズドンと著者が呼ぶ人は、大飢饉で打ちのめされた人びとを少しでも助けるノブリス・オブリージュに忠実で、どこか翳のある、憎めないところもある風情だ。
触覚を働かせるには、触れなければならない。つまり距離が近い必要がある。一方であまりに近寄ると、周りが見えなくなる。木は見えるけれど、森が見えなくなる。触覚であれこれ感じながら、著者はちゃんと森が見えているようでもあって、これまた不思議だ。
アイリッシュネスの扉はむろん1枚だけではない。いくつもの扉があって、開ける扉によっていろいろなアイリッシュネスが現れる。一番愉しいのはやはり食べることらしい。食材や料理、作ったものを食べたり売ったりすることになると、筆またはペンまたは鍵盤が踊りだす。
飲むことも愉しいのだろうが、酒は自分では(まだ)作れないので、食べることとは別らしい。著者は馬も好きなはずだが、今回はあえて封印したようだ。代わりに出てくるのはトラクターだ。アイルランドの田舎の足はトラクターなのだそうだ。ちょっと訊いたら、わが国の農家にとってなくてはならない軽トラは、アイルランドには無いそうだ。
扉を開けては覗きこみ、あるいは中へ入って歩きまわる。しばし暮してもみる。いや、そうでもないか。暮していると、ふと扉が開くのかもしれない。丘の下の妖精の王国への扉のように。ひょっとすると、気づかずに抜けていたりもするのかもしれない。後で、あああれが扉だったかと納得されるわけだ。呼ばれて入ることもあるのだろう。そこで見、聞き、嗅ぎ、味わい、そして肌や内蔵で感じたことを書いた。報告というと硬すぎる。遠く離れて住む誰かへの手紙、読む人がいるかもわからない、そう、壜に入れて海に流す、風船にゆわけて風に飛ばす手紙。本を書くのはそれに似ている。
アイルランドらしい、というのはあたしにとっては不思議なことに等しい。特別なものではない。一見、ごく日常的、ありふれたように見える。けれどよくよく見ると、そこにそうしてあること、そこで人がしていることはヘンなのだ。どこがこうヘンだ、と指させない。そもそもあのベタつかない、群れない人なつこさからして不思議だ。この本も不思議だ。ここがおもしれえっと指させない。これだ!と膝を叩くわけでもない。でも、読んでみると気分は上々、著者がいい暮しをしている、そのお裾分けをもらったようだ。何度読んでも減らない。むしろ、噛むほどに味が出てくる感じがある。
この本は造りも不思議だ。わが国の本は再販制で、返品されたものをまた出荷する。そのためにカバーがついている。カバーだけ換えて新品として出荷するわけだ。でも、この本にはカバーがない。表紙は本体についている。洋書のトレード・ペーパーバックの感覚だ。カバーがないと、本はこんなにすっきりするのだ、と英語の本では見慣れている姿に改めて感じいる。
表紙、業界用語でいう表1、裏表紙、同表4がカラー写真なのは普通だけど、表紙の裏、表2と、裏表紙の裏、表3も同じくカラー写真なのは新鮮だ。この4枚も含め、中の写真はすべて著者の手になる。この写真も人なつこく、不思議だ。人など影も無い写真でも人なつこい。著者の手になるアイルランドの写真集ってなかったっけ。
著者が住んでいるスライゴーとドリゴールとロスコモンの州境のあたりのローカルな伝統音楽家たちのポートレート集にすてきな言葉があった。
何か新しいたチューンを覚えると、その曲を知ってる奴が他にいないかと探しはじめる。いればそれを一緒に演奏できるからだ。それが愉しいからだ。
音楽の極意はいつでもどこにどんな形であっても、これ、つまり共有の確認なのだろうけれど、アイルランドではそれがとりわけ剥出しで、あの不思議な人なつこさはここから生まれているのか、とも思える。
この本もまたたぶんそういう作用をするのだろう。この本を読んだ奴が他にいないか、探しはじめる。どうしてもいなけれぼ教える。覚えたばかりの曲を教えてやって、一緒にやる。この本を教えて、読ませて、一緒に盛り上がる。巻末のおやつを作りあって、食べてみる。あたしが作ったとしたら、それはそれはひっでえしろものができるだろう。家族すら見向きもしないようなそいつを、食べてやろうという人はいるだろうか。(ゆ)