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あらひろこさん
井上ひさし『四千万歩の男』
1971年09月にバンドに参加。ピアノ、キーボード担当。同年10月19日ミネアポリスで初ステージ。1979年02月17日を最後のステージとしてバンドを離脱。
みみたぼ @ Sweet Rain、中野
須貝知世&木村穂波 with 中村大史@カフェ・ムリウイ、祖師ヶ谷大蔵
Eternal Flame @横濱エアジン
第四回 岡大介のカンカラはやり歌@横浜にぎわい座、桜木町
Music for Isolation @ けやきの森の季楽堂
第4回 岡大介のカンカラはやり歌
03月30日・水
岡大介さんからライヴのお知らせ。あたしはもちろん予約しました。
無事、開催されますように。
【横浜にぎわい座四月興行】
★第4回 岡大介のカンカラはやり歌★
〜添田啞蟬坊生誕150年祭/♪なつかしの横浜 恋の港〜
【今年は添田啞蟬坊生誕150年なのに、どこの街も団体も開催しようとしない。日本歌謡にとって一番大切な人物なのに。ならば自分がやれば良い。まず第一弾は啞蟬坊の故郷・カナガワより、親友の空五郎君と二人で、カンカラ一本エーゾエーゾ!ご予約お待ちしております。】
会場:桜木町「横浜にぎわい座」(045-231-2515)
2022年4月30日(土)
13:30開場 14:00開演
前売予約2100円 当日2600円
全席指定(※マスク着用)
◆出演:岡大介(カンカラ三線・演歌師)
◆ゲスト:上の助空五郎(ボードビル)
【予約問合せ】(岡)
070-5012-7290
taisuke@dk.pdx.ne.jp
##本日のグレイトフル・デッド
03月30日には1967年から1995年まで12本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版1本。
01. 1967 Rock Garden, San Francisco, CA
木曜日。このヴェニュー4日連続のランの3日目。セット・リスト不明。ショウ自体が無かった可能性もある。
02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA
土曜日。このヴェニュー3日連続の中日。共演チャック・ベリー。
03. 1973 Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY
開演8時。
04. 1980 Capitol Theatre, Passaic, NJ
日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。春のツアーのスタート。01-13のオークランドでのカンボディア難民救済コンサート参加以来で、本格的な始動。12.50ドル。開演8時。
第一部7曲目〈Far From Me〉はミドランドの新曲の初演。作詞はバーロゥで、1990-07-22まで73回演奏された。
この年デッドのショウは86本、レパートリィは103曲。新曲はミドランドの〈Far From Me〉とウィアの〈Feel Like a Stranger〉。新年早々《Go To Heaven》を録音し、同年4月末にリリースされる。どちらもこれに収録。
この年のイベントは秋にある。09-25/10-14 にサンフランシスコの Warfield Theatre(15本)、10-22/31にニューヨークの Radio City Music Hall(8本)でそれぞれレジデンス公演を行う。この時は珍しく毎回第一部をアコースティック・セットで演奏し、それも含むセレクションが2枚のライヴ・アルバム《Reckoning》と《Dead Set》として翌年リリースされた。またビデオ《Dead Ahead》としても出ている。この2つのレジデンス公演から1本のショウ全体のリリースはまだない。10-09と10-10のアコースティック・セットのみの全体は2019年のレコードストア・ディ用に限定でリリースされた。また10-23のアコースティック・セットの冒頭1曲を除く全体が《Reckoning》2004年拡大版でリリースされている。
このアコースティック・セットは60年代に何度も共演したペンタングルからアイデアをもらったとガルシアは言っていた。ジャニスが生きのびていたなら、ジャニスをリード・ヴォーカルにしたアコースティック版グレイトフル・デッドのステージが出現していたかもしれないと妄想してしまう。
05. 1983 Warfield Theatre, San Francisco, CA
水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。25ドル。開演8時。
06. 1986 Providence Civic Center, Providence, RI
日曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。13.50ドル。
07. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA
月曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。
08. 1988 Brendan Byrne Arena, East Rutherford, NJ
水曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。
09. 1989 Greensboro Coliseum, Greensboro, NC
木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時半。
10. 1990 Nassau Coliseum, Uniondale, NY
金曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。オープナーの〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉が《Without A Net》でリリースされた後、《Spring 1990》で全体がリリースされた。
前日のブランフォード・マルサリスとの最高のショウの余韻が残っていて、すばらしい出来。人によっては前日よりも良いという。全体としてはそれは言い過ぎだと思うけれど、部分的には前日を凌ぐ、あるいはマルサリスとの共演では出てこないような演奏がとび出す。
このツアーではガルシアはギターよりもむしろヴォーカルがすばらしい。全盛期の力をとりもどし、年季の入った練達の歌いまわしを聴かせることもする。それが、マルサリスとの共演で一層良くなっている。マルサリスが入った〈Bird Song〉の次の〈The Promised Land〉のコーラスからして俄然違ってくる。声も楽々と出ている。
この日の第一部では〈Dire Wolf〉や〈Don't Ease Me In〉がそうだし、第二部に入るとオープナーの〈Iko Iko〉からして乗りに乗っていて、〈China Doll〉〈Uncle John's Band〉いずれもすばらしい。そして〈Standing on the Moon〉。これ1曲の歌唱でここまでのツアーのガルシアのヴォーカルのすべてを吹き飛ばすような、まさに絶唱とも言うべきシンギング。こうなると巧拙とか、声がどうとかではない。ここでは歌の後のガルシアのギター・ソロもすばらしく、この歌としてもベスト・ヴァージョンだし、この日のハイライトだし、春のツアー全部の中でもベスト・トラックの一つだ。
ヴォーカルという点ではウィアも負けてはいない。四半世紀歌いつづけてきて、押しも押されもしない一級のシンガーに成長している。
面白いのは、マルサリスとの共演以後の4日間は歌がすばらしい。ガルシア、ウィアだけでなく、ミドランドも、レベルが一段上がっている。もともとこの人はシンガーとしては、デッド随一ではあるが、コーラスもリードもさらに良くなっていて、この3人の歌が何よりも聞き物になっている。デッドは長く、スリリングなジャムが最大の売物というのは、必ずしも的外れではないけれども、しっかり歌うバンドがその土台にはでんと座っている。その土台、生地が、最高の形で表に現れたのが、ここからの4日間だ。
歌が良ければ器楽も充実し、〈Playing in the Band〉はマルサリスの入ったヴァージョンを聴いてみたかった思う。ベスト・ヴァージョンの一つ。〈Little Red Rooster〉でのミドランドのハモンドのソロに熱くなり、〈Picasso Moon〉のアンサンブルの面白さにあらためて眼を見開かされる。
ここでの3日間を最高の形で締めくくり、翌日は休んで、最後の三連荘、アトランタへ向かう。
11. 1994 The Omni, Atlanta, GA
水曜日。このヴェニュー3日連続の初日。25.50ドル。開演7時半。アンコール〈Liberty〉が《So Many Roads》に収録された。第一部クローザー前〈New Speedway Boogie〉でウィアがアコースティック・ギター。〈Dark Star〉最後の演奏。
12. 1995 The Omni, Atlanta, GA
木曜日。このヴェニュー4本連続の最終日。開演7時半。第二部4曲目〈Samba in the Rain〉が《Ready Or Not》でリリースされた。(ゆ)
師茂樹『最澄と徳一:仏教史上最大の対決』
12月22日・水
このタイトル、とりわけ「仏教史上最大の対決」に惹かれて何だろう、と読んでみたのが大当り。拾い物といっては失礼だが、実に刺激的な本だ。この著者は追いかけよう。
徳一は徳溢という表記もあって「とくいつ」と読む。平城京で学び、最澄と同時代に会津や常陸で活動し、多数の寺を建立、「伝灯大法師」と呼ばれた。生没年不詳。この論争は仏教の教義をめぐって徳一の天台教学批判に最澄が反論し、5、6年の間に大量の文書の応酬がなされる。二人の論争は最澄の死で一応終るのだが、そこで交わされた文書は200年後にも仏教内部での研究対象になっていた。
一方で、この論争が単に二人のものではなく、その背後にはインドから東アジア全体に広がる時間的にも空間的にも実に大きく広い思想のドラマがあり、二人の論争はその一つの結節点、それ以前の流れがまとまり、またそこから拡散してゆくポイントになっている、というのがまずこの本の主張だ。
そこには、最澄だけでなく、空海も含めた遣唐使に同行した留学僧たちによって持ちこまれる仏教の相対化も出てくる。かれらが将来した仏教があたかも仏教の正統の全部であるかのように最澄も主張し、後続もその主張を継承し、さらには20世紀のアカデミアまでもそれを踏襲するのだが、実際に留学僧たちが接した仏教は中国の中でも浙江など沿岸部を中心とした東部のものに限られていて、西に広がった仏教についてはまったく視野に入っていない、という具合だ。
仏教はあたしらにとって最も身近な宗教だが、その教義についてはまるで知らないことも思い知らされる。徳一と最澄の最大の対立点は、すべての生きものがブッダになれるわけではないという五姓格別説と生きとし生けるものは全部仏になれるのだという一切衆生悉有仏性説なのだ。後者は天台宗はじめ、日本仏教のほとんどが採用した説だから、なじみがある、というよりも仏教ではそう考えると思いこんでいたから、前者はえーってなものである。しかし、著者の言うとおり「ブッダになること以外にも複数のゴールがある、と主張する五姓格別説のほうが」今のあたしらが生きている社会にとってはふさわしいとにも思えてくる。
この二つの立場は一乗説と三乗説でもある、では「乗」とは何か、を巻頭で説明しているのを読んで、「へー、そうなんですか、いやー、ちーとも知らなんだ」とつぶやくのはあたしだけではあるまいとも思える。
さらにその前に、この二つの説は大乗仏教内部でのものなので、いわゆる小乗仏教はまた別の話になる。そもそも「小乗」という呼称自体、大乗を名乗った連中がそれ以前からあった仏教に与えたもので、差別用語にもなりかねない。「小乗仏教」は歴史的用例になってもいるが、本来はそちらの方が主流であり、部派仏教と呼ぶ方が適切、というのも初めて知った。
という風に、まず宗教としての仏教の姿を垣間見させてくれる。
もっとも著者の主目的はそれではなく、この論争のもつ様々な側面を整理して、思想のドラマのなるべく大きな姿を提示し、一方でそこに現れる思考法や論争のツールを紹介することにある。ここでは「因明=いんみょう」がまず面白い。これは仏教で論理をもって異なる思想間で論争をする際のルールを定めたシステム、なのだそうだ。一度読んだくらいでは漠然としているけれど、極端に言えば仏教とキリスト教の間でも論争ができるように考案されたもの、と言われると、え、それって何?と身を乗りだしたくなる。
この本の面白さはもう一つ別の次元にもあって、著者は自分が何をやっているか、明瞭に自覚し、しかもそれを巧みに記述する。
「こういった諸課題を解決するために本書が行っていることは、最澄・徳一論争で筆者がおもしろいと思っているポイントを取捨選択し、複雑な議論をできるだけわかりやすいストーリーに落とし込んで叙述することである(それがうまくいっているかはさておき)。特に、最澄・徳一論争のなかでほとんど注目されることのなかった因明を第四章でとりあげたのは、学問的に重要だという研究者としての判断もあるが、異宗教間対話を前提とする因明を紹介したかった、というモチベーションがあったことは否定できない」202pp.
この視点はここで紹介される思想のドラマ、思想史全体を展望して、メタ思想史にまで踏みこんでいる。いま現在にあって、千年前の思想のドラマを描くことにどういう意味があるのか、著者は真向から考え、答えを出しながらこの本を書いている。この論争は一乗か三乗かの二項対立などではないし、この時だけ、この二人だけで終るものでもない。異なる宗が交わることなく「空間的に同時存在」するような体制、丸山眞男が批判した「精神的雑居」に似たものを仏教界に基礎づけ、「雑種」を生みださない性格が、最澄・徳一論争における最澄の議論を一つのきっかけとして古代から中世に至る日本仏教のなかで構築され、そしてそれが近代まで維持された。という指摘は刺激的だ。その「最澄の論法の背景にあった思想」は、今でも生きているのではないか。何かというと二項対立に落としこんでカタをつけようとするのはその現れにも見える。世の中で起きていることは複雑なので、それを複雑なまま捉えようとするのは難しいけれど、そうするよう努力することは、人間が人間として生きてゆく上で避けて通れない。単純化すれば効率的に捉えられて、それでいいのだ、としていれば、人でなしになるだけだ。
著者は1972年生まれだから、来年50歳。学者としては油が乗ってくる頃だ。井筒俊彦なみに頭のいい人だから、どこまで尾いていけるか心許ないが、読めるだけ読んでみよう。
##本日のグレイトフル・デッド
12月22日には1967年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1967 Palm Gardens, New York, NY
このヴェニュー3日連続の初日。Group Image Christmas と題されたイベント。共演として The Gray Company、The Aluminum Dream、The Group Image、Mimes with Michael がポスターにはある。前売3ドル、当日3.50ドル。開演9時。
この日、アウズレィ・スタンリィがオークランドの北の Orinda で LSD所持で逮捕され、かれによる LSD 製造がストップした。
The Group Image は西海岸のサイケデリック・ロックの影響を受けて、この頃マンハタンで活動していた音楽集団で、1968年に1枚《A Mouth In The Clouds》というアルバムを出している。リード・シンガーの1人 Sheila Darla はグレイス・スリックに通じる声とスタイルだが、そのステージはむしろ後のパティ・スミスを連想させた由。Tidal にあり。
その他のアクトについては不明。
2. 1970 Sacramento Memorial Auditorium, Sacramento, CA
前売3ドル、当日3.50ドル。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ガルシア、ペダルスティールで参加。セット・リストの全体像は不明。
3. 1978 Dallas County Convention Center Arena, Dallas, TX
開演8時。セット・リストは現存するテープによるので、アンコールの有無も含め、実際とは異なる可能性がある。Dead.net ではこのショウは12月21日のものとしており、前日12月21日の The Summit でのショウが無い。しかし、この両日にはチケットの半券が残っている。
Dead.net に掲げられたセット・リストではクローザーは〈Wharf Rat〉。(ゆ)
農業のプレーヤー交替
12月12日・日
ウチが米を買っている農家からのニュースレターに、トラクター、コンバインなど農機具の価格が高騰し、壊れても買換えができないので廃業する農家が急増している、という話。農地に資産価値はなく、廃業しても農地は残る。これを近隣の大規模農園経営を志向する農家がタダ同然で借りて、従来考えられなかった大きな面積の農地での経営をしようとしている。この状況がここ数年で急激に進んでいる。しかし、大規模農園を運営するには大規模な農機具導入が欠かせず、それには億単位のカネがかかるので、うまくいかないことも多い。
この辺りでも水田はどんどん減っていて、ここ数年、2010年代後半から減り方が加速している感じがある。もっともこの辺は土地が広くないので、大規模になるところはまず無い。野菜を栽培する畑になるところが半分くらい。中には田圃1枚全部キャベツ畑になっているところもあるが、ほとんどはいろいろな作物を少しずつやっているから自家用と思われる。一方、あとの半分くらいは放置されて雑草ばかりになっている。中には田植はしたのに、その後放置されて雑草が生い茂り、稲刈りもされないままになっている田圃さえあった。主が病気になったか、あるいは死んだのかもしれない。
しかしこの状況はK氏も言うとおり、プレーヤーが交替することでパラダイム・シフトが起き、農業が刷新される可能性もある。
##本日のグレイトフル・デッド
12月12日には1969年から1994年まで11本のショウをしている。公式リリース2本。うち完全版1本。
01. 1969 Thelma Theater, Los Angeles, CA
このヴェニュー3日連続最終日。《Dave's Picks, Vol. 10》で全体がリリースされた。
02. 1970 Sonoma County Fairgrounds, Santa Rosa, CA
ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。開場7時半。
現存しているテープに基くセット・リストでは頭の方が切れている可能性がある。
03. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA
3日連続の最終日。クローザーの〈Goin' Down The Road Feeling Bad> One More Saturday Night〉の前にウィアがニューヨークの街頭で1万匹の蜜蜂を箱に詰めこんで持っている男に遭う話をする。箱はぶんぶん唸っていた。
前座は Rowan Brothers。かれらもデッドもともに Nudie スーツ、カントリーのシンガーたちのきんきらきんのアレを着てステージに上がった由。DeadBase XI の Mike Dolgushkin のレポートによる。
映画『忍冬の花のように』でウィリー・ネルソンたちのバンドがグレン・キャンベルがモデルと言われる共演のカントリー・シンガーのヌーディー・スーツに対抗して、全員がスコットランド・ハイランドのキルトの衣裳に身を固めて出るシーンを思い出す。
04. 1973 The Omni, Atlanta, GA
6ドル。開演7時。
DeadBase XI の Ross Warner によると、この日のサウンドチェックのテープが出回っていたそうな。
05. 1978 Jai-Alai Fronton, Miami, FL
ハイアライ jai-alai というのはスカッシュに似たスポーツで、fronton はその競技場をさす。スペイン、ラテン・アメリカで盛んで、フロリダでも行われている。ここはそのための施設として建てられたものをコンサート、カジノにも使っていて、現在は Casino Miami と呼ばれる。収容人数は6,500。デッドはここで3回演奏している。マイアミのこのヴェニューではオールマン、サンタナ、フランク・シナトラ、ブルース・スプリングスティーンなどもやっている。
06. 1980 Swing Auditorium, San Bernardino, CA
会場は1949年に建てられた屋内アリーナで収容人数は1万。名前はカリフォルニア選出の上院議員にちなむ。プレスリーが好んで、13年連続でここでコンサートをした。1960年代に改装されて、西海岸有数のロック・コンサート会場となる。1964年ローリング・ストーンズ最初のアメリカ・ツアーの出発点。1981年9月、双発セスナ機が突込んで建物が大破し、解体された。
デッドは1969年からこの年まで計4回、ショウをしている。うち1969年とこの80年は12月。1977年78年は各々の年の最初のショウ。1977年のショウは《Dave's Picks, Vol. 29》でリリースされた。
07. 1981 Fiesta Hal, San Mateo County Fairgrounds, San Mateo, CA
Dance for Disarmament と題されたイベント。第一部はジョーン・バエズが参加し、ミドランド抜きのアコースティック・セット。第二部オープナー〈New Minglewood Blues> Little Red Rooster〉とクローザー前の〈Around And Around〉に Matthew Kelly が参加。アンコール〈It's All Over Now, Baby Blue〉にジョーン・バエズが参加してヴォーカルをとる。
バエズはデッドがジャムをするのを好まず、バック・バンドに徹してもらいたかったらしい。とはいえ、全体の出来は良かった由。DeadBase XI の Mike Dolgushkin のレポートによる。
08. 1990 McNichols Arena, Denver, CO
このヴェニュー3日連続の初日。21.45ドル。開演7時。
09. 1992 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
このヴェニュー5本連続の2本目。開演7時。第二部4曲目〈Dark Star〉が昨年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
10. 1993 San Diego International Sports Arena, San Diego, CA
このヴェニュー2日連続の初日。26ドル。開演7時。
11. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA
このヴェニュー4本連続の最終日。27.50ドル。開演7時。
第一部3・4曲目〈Me and My Uncle〉〈Maggie's Farm〉でウィアはアコースティック・ギター。Drums に Sikiru Adepoju が参加。
アデポジュは1950年生まれのナイジェリア出身のパーカッショニスト。幼なくして兄弟とともに父親からトーキング・ドラムを伝授される。1985年に Nigerian All-Stars の一員として渡米。その後、Babatunde Olatunji に会い、かれを通じてミッキー・ハートと知り合う。デッドのショウの Drums に参加する他、ハートのプロジェクトに多数参加している。(ゆ)
岩崎宏美 & 国府弘子《Piano Songs》
11月29日・月
昨夜 T3-01 で音がおかしい、高域が伸びきらないと聞えたのは、T3-01 をきちんと耳に載せていなかったためらしい。Sound Warrior の SW-HP10LIVE も、音がおかしいと思ったのは、装着の仕方の問題だったようだ。
イヤフォンでも耳への入れ方でかなり音が変わるが、ヘッドフォンだからといって甘く考えてはいけない、という教訓。
シンプルな編成の女性ヴォーカル・シリーズ。岩崎宏美 & 国府弘子《Piano Songs》。これはパンデミック以前のさるオーディオ・イベントでデモに使われていたのに圧倒されて即購入したもの。デモに使われていたオープニングの〈Scarborough Fair〉と〈時の過ぎゆくままに〉がやはり圧巻。とりわけ前者は、国府の力演もあって、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。最後の繰返しなど聴くと、一応ラヴソングとして歌っているようだが、しかし、感傷を徹底して排した歌唱もいい。
念のために記しておけば、このイングランド古謡はラヴソングなどではなく、香草の名を呪文として唱えて悪魔の誘いからかろうじて逃げる、ほとんどホラーと呼んでいい話だ。
手許のディスクは〈時の過ぎゆくままに〉も含め、数曲が "New Mix Version" になっている。これがどうも疑問。〈Scarborough Fair〉のミックスが "old" とすると、こちらの方が自然に聞える。〈時の過ぎゆくままに〉は歌もピアノもすばらしいが、この "New Mix Version" では、うたい手がピアノの中に立っているように聞えてしかたがない。スピーカーで聴くとまた違うかもしれないが。
##本日のグレイトフル・デッド
11月29日には1966年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは1本。
1. 1966 The Matrix, San Francisco, CA
このヴェニュー4日連続の初日。開演9時、終演午前2時。共演 Jerry Pond。セット・リストはテープによる。全部かどうか不明。また、交換網に出回っているテープはこの日のショウだけのものではなく、4日間の録音から編集したものではないか、という議論もある。テープが出回りだしたのは1997年1998年の頃で、すでに30年経っている。録音した者、編集した者が誰かも不明。
Jerry Pond はこの頃デッドと何回か共演というか前座を勤めた。背の高い、人好きのするギタリストでソングライターだった。平和運動に関係する人びとを FBI が追いかけだした時にメキシコに逃れ、シャーマンの弟子となって、かれなりに「悟り」を開いたという。Lost Live Dead の記事のコメントによる。
この記事自体は、フィルモアのヘッドライナーになろうとしていたこの時期に、デッドがわざわざずっと小さな The Matrix で4日間も演奏したのは、デモ・テープを録音しようとしたためではないか、という推測を語る。
2. 1970 Club Agora, Columbus, OH
第一部はガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ。第二部は休憩無しの2時間。セット・リストはテープによる。
ガルシアが常になくノっていて、通常ならドラムスになるところ、ガルシアが演奏を止めないので、少しして他のメンバーも入って〈Good Lovin'〉に突入、モンスターとなる、そうだ。
3. 1979 Cleveland Public Auditorium, Cleveland, OH
7.50ドル。開演7時。
セット・リスト以外、他には情報無し。
4. 1980 Alligator Alley Gym, University of Florida, Gainesville, FL
9ドル。開演8時。第一部3曲目〈Candyman〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
5. 1981 Pittsburgh Civic Arena, Pittsburgh, PA
9.50ドル。開演7時半。
セット・リスト以外、他には情報無し。
6. 1994 McNichols Arena, Denver, CO
開演7時。
第一部〈El Paso〉でウィアはアコースティック・ギター。(ゆ)
波多野睦美&つのだたかし《アルフォンシーナと海》
11月21日・日
シンプルな女声ヴォーカルの録音というので買ってあったのを思い出し、波多野睦美&つのだたかし《アルフォンシーナと海》を聴く。選曲、演奏、録音三拍子揃った名盤。
こういうのに出逢うと、手持ちの機器を総動員したくなる。聴き比べたくなる。機器の性格を露わにする音楽だ。これこそリファレンスにすべきもの。もっとも、こんな風に機材の長所短所がモロに出るのは、かえって都合が悪いこともあるかと下司の勘繰りもしてしまう。
まずイヤフォンを聴いてみる。最も気持ちのよいのは Tago Studio T3-02。ついで Acoustune HS1300SS。 声の質感が一番なのはファイナル A4000。A4000では2人をつのだの真ん前から見上げている感じになる。
前半はスペイン語圏の曲を並べ、ラヴェル、プーランクのフランスからヴォーン・ウィリアムスのイングランド、そして武満の2曲で締める。この流れもいい。
ベスト・トラックは〈Searching for lambs〉。波多野はこのイングランド古謡を原曲にかなり忠実に、真向から、虚飾を排して歌う。つのだがそれを支えるよりは、足許に杭を打ってゆくような伴奏をつける。波多野はその杭を踏みながら宙に浮かぶ。途中、波多野が高くたゆたうところで、つのだが低く沈んでゆくのにはぞくぞくする。聴くたびに歌の奥へと引きこまれるアレンジであり、演奏だ。
武満の2曲は録り方が変わる。それまでより一歩下がった感じ。言葉が変わって、響きも変わるからか。確かに、これくらいの距離がある方が快い。
##本日のグレイトフル・デッド
11月22日には1968年から1985年まで4本のショウをしている。公式リリース無し。
1. 1968 Veterans Memorial Auditorium, Columbus, OH
1時間半の1本勝負。ビル・クロイツマン病欠。クロイツマンが病欠したのはこの日と2週間後の12月7日の2回だけだそうだ。ハートが単独で叩いたのもこの2回のみの由。
〈St. Stephen〉の途中でウィアは歌詞をど忘れする。
2. 1970 Middlesex County Community College, Edison, NJ
セット・リスト不明。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座とされる。
3. 1972 Austin Municipal Auditorium, Austin, TX
セット・リスト以外の情報が無い。
4. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
15ドル。開演8時。秋のツアー千秋楽。後は2日間のオークランドでの年末年越しショウを残すのみ。
これも情報がほとんど無い。(ゆ)
ユリシーズ・グラントの来日
11月20日・土
昼食をとりながら『青天を衝け』第35回「栄一、もてなす」再放送を見る。畏友の1人に見た方がいいよ、と薦められたもの。グラントが世界周遊旅行の途中日本に立ち寄り、その接待係を澁澤が仰せつかる。グラントはまた澁澤の家を訪問することを望む。
これを見ているわが国の視聴者はユリシーズ・グラントが何者かは、おそらくどうでもいいことなのだろう。とにかくアメリカのエラいさんが来た、というだけで話としては一応成立するわけだ。
グラント本人に興味がある我々としては、かれが日本でどのように交流したか、そしてその日本での言動がその後のわが国にどう影響したか、が当面問題になるだろう。それは南北戦争とわが国の関係の一端をもなす。グラントの言葉は澁澤にどういう影響を与えたか。あるいは明治政府や明治の財界にどういう影響を与えたか、与えなかったか。
Ron Chernow の伝記では第四部 A Life of Reflection のオープニング、40章 The Wanderer でこの時の世界周遊を扱かっている。
グラントが日本まで来たのは、その前のヨーロッパ旅行から帰国することを考えだした時に、海軍長官 Richard W. Thompson から蒸気船 Richmond で地中海からスエズ運河を通り、インド、中国、日本に旅行する提案を受けたからだ。トンプソンとしてはグラントの名声を利用して、ヨーロッパ列強の植民地当局とアジア諸地域にアメリカの存在を印象づけることを狙った。グラントもこれを絶好のチャンスとして、帰国を延ばし、東周りで帰ることにする。
グラントのヨーロッパ旅行そのものからして、発端はプライベートなもので、私費によるものだったにしても、単なる旅行者というわけにはいかず、むしろ大きな外交イベントの一つとして、各国のアメリカ公使館はグラントに必要な援助を惜しむなという指令を受けていた。
グラントはインド、ビルマ、シンガポール、香港、上海、北京と、行く先々で現地のトップと面会しているし、清に頼まれた沖縄問題の解決を日本政府にもちかけてもいる。そうなると、自分はもう大統領ではないから、いくらもてなされても見返りはできないというのは、かれの謙遜さの現れと一見見えるが、いささか不誠実といえなくもない。あるいは、グラントは日本政府が期待していることをちゃんと把握していて、自分に過大な期待はかけるなと釘を刺したのか。あるいはまた条約改正は簡単ではないし、その前にやらねばならないことがある、と忠告したつもりだったか。
チャーノウが引用しているところからすると、劇中でのグラントの科白は、澁澤邸で言ったかどうかは別として、史料に忠実のようだ。
チャーノウは大統領経験者がより自由でかつ影響力のある立場を活かして、第三者的に対立する勢力の仲介をするという新しい役割を開発した、と評価する。もちろん、この時点ではアメリカはまだアジアに植民地を持っていない。フィリピンを獲得するのは20年後だ。
澁澤榮一はじめ、日本側で接した人びとがグラントが何をやってきたか、どこまで理解していただろうか。歓迎の言葉の中に、グラントが反乱を鎮圧し、その後、正義をもって国を平和に治めたことは世界が周知しているとの一節があり、グラントはこれに喜んだ、とチャーノウは書く。回想録の中で一貫して南軍を「叛徒」と呼び、戦いはあくまでも反乱を鎮圧しているとみなしたグラントであれば喜ぶのは当然だが、当時のわが国の人びとは、四半世紀前の南北戦争を2年前の西南戦争に重ねて、反乱鎮圧と実際に見ていたのか。とすれば、現在の我々よりも、遙かに切実に捉えていただろう。
ん、すると西郷は、いやむしろ西郷本人というよりは、西南戦争を企画実行した指導部は南北戦争について研究していたのだろうか。あるいは明治政府側は薩摩の蜂起に対して、南北戦争を想起しただろうか。当時、どれくらいの情報がわが国に入っていたか、入手可能だったか。南北戦争がその後のアメリカを現在にいたるまで規定しているように、西南戦争が現在にいたるまでわが国を規定しているとするならば、南北戦争は西南戦争を通じて、近現代日本の形成に甚大な影響を及ぼしていることになる。
南北戦争を勝利に導き、反乱を鎮圧したグラントをもてなすことには、明治政府としては外交的な配慮だけでなく、自分たちの正当性の確認の意図もこめていたのかもしれない。
総じて女優陣の方が演技が自然だ。男優たちは、そういう演出をしているのか、動作がいちいち大袈裟で、実際にはこんな動作は絶対にしない、というふるまいをする。これも歌舞伎の伝統だろうか。女性俳優には歌舞伎の伝統がないから、ナチュラルな演技が規準になる。女形の演技は規準にならない。
それにしても見ていて少しも面白くない。ストーリーテリングが良くない。というより無い。脚本と演出の両方の効果だろうか。物語を語れていない。場面の一つひとつはまだいいが、つながっていない。語りのメリハリが無い。単調で、ただシーンが並んでゆく。
いずれにしても、これ以上前も後ろも見たいとは思わない。
唯一感心したのはカメラ・ワークで、これはたぶんデジタル・ビデオでその場で画面を確認できるようになったことによる変化だろう。新鮮な角度や切り取り方、人物にカメラが追尾する手法、あるいはカメラの前を人物が横切ることを厭わないことに象徴される長回しは面白い。
ただし全てセット内での撮影で、限られた空間の中でのドラマだ。カメラの視野は常にごく狭い角度の中に収められている。グラント一行が船の上から手を振るシーンはロケだが、カメラが退いたり、パンしたりすることはない。街頭で弁士が演説しているのは屋外のはずだが、そうは見えない。天下国家を論じるよりも、町内会の揉め事に見える。大河ドラマになっていない。あまり大きくない池が並んでいる。
大河ドラマなるものに初めてハマったのは、中学1年のときの『天と地と』だった。原作が海音寺潮五郎の代表作で、本も買って読み、面白かった。川崎市の郊外に隠居家を建てて住んでいた祖父母のところに正月に泊まりがけで遊びに行き、2キロほど離れてぽつんとあった一番近い本屋、昔田舎にあった本屋と文房具屋を兼ねた小さな店までてくてく歩いて買いに行った。さすがに天下の大河ドラマ原作、そんな小さな店にもちゃんとあった。店番のおばさんから、こんな厚い本を2冊も読むのかね、エライねー、と言われた。体は小さい方だったから、小学生と思われたのかもしれない。角川文庫の上下巻で、それまでに読んだ最も長い話だったはずだが、一気に読んだと記憶する。語り、ストーリーテリングは抜群だった。テレビ・ドラマのタイトル・バックは一面たちこめた霧の中から騎馬軍団が現れ、石坂浩二扮する上杉謙信の采配の一振りで一斉に疾走を始める。ドラマのクライマックス、川中島の一戦の開幕シーンだ。もちろん屋外で、空撮も入っていた。かなりの数の騎馬が走っていた覚えがある。
天の時も地の利も異なるところで、比べるのは意味が無いかもしれないが、やはりいろいろな意味で「大河」という呼称にふさわしくないほど小さく、流れも淀んでいると見える。
この列島に暮らす我々はなにかというと小さく縮こまりたがる。「一丸」となりたがる。まとまりたがる。ドラマだけではない。筆記具の世界ではとにかく先の細いものが好まれる。小さな文字を書こうとするかららしい。ちまちまと狭いところにたくさん書きこもうとするらしい。それもまた「職人芸」かもしれないが、あたしはもっと広々としたところを悠々と流れていたい。
##本日のグレイトフル・デッド
11月20日には1966年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。
1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
3日連続の最終日。午後2時から7時まで、Student Non-violent Coordinating Committee のための資金集め。James Cotton Blues Band、Lothar and the Hand People の他クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、Johnny Talbot & De Thangs が共演。
Johnny Talbot は1939年テキサス生まれのリズム&ブルーズ・シンガーで、1965年にカリフォルニアのバークリー高校を卒業後、自分のバンド De Thang を作る。フィルモアがまだ黒人向けヴェニューだった頃から出演し、ビル・グレアムもタルボットを出演させた。ファンクの元祖、と公式サイトは言う。
2. 1970 The Palestra, University of Rochester, Rochester, NY
開演9時。前半というより第一部だけで2時間。第二部が1時間。それにアンコール。
同じ町でこの夜コンサートをしていたジェファーソン・エアプレインが立ち寄り、第二部にヨウマ・カウコネンが初めから参加し、半ば過ぎからジャック・キャサディも参加した。
3. 1971 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA
ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ポスターによれば "Dance Concert"。
KMET FM で放送された。
4. 1973 Denver Coliseum, Denver, CO
同じ会場の1日目。後半9〜11曲目〈Truckin'> The Other One> Stella Blue〉のメドレーが《Road Trips, Vol. 4, No. 3》でリリースされた。この3曲で約40分。
5. 1978 Cleveland Music Hall, Cleveland, OH
後半ウィアは体調を崩し、楽屋で嘔吐した。ために当初ステージに上がれず、バンドはジャムから始め、〈Drums > Jack-A-Roe〉の後、〈Playing in the Band〉を始めるために短時間出てまたすぐ引っこみ、最後の〈Around and Around〉でショウを仕舞うために出てきた、そうだ。別の証言では、〈Jack-A-Roe〉の最後で出てきて、その後はずっといたが、アンコールは無かった由。
〈Playing in the Band〉ではさまれた2曲のうち後ろの〈If I Had The World To Give〉はハンター&ガルシアによる《Shakedown Street》収録の曲で、ライヴでは3回しか演奏されなかった。このショウがその最後。ただし、その3回はいずれも良い演奏だそうな。
6. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
15ドル。開演8時。アンコール前のラスト〈Sugar Magnolia〉後半のいわゆる Sunshine Daydream の時、ウィアは積みあげられたスピーカーの上に乗って歌ったそうな。(ゆ)
Winds Cafe 299 @ Casa Mozart, 原宿
大田智美、松原智美、水谷風太三氏による野村誠作品演奏。最大三台のアコーディオンによる。
クラシックのアコーディオン演奏とはどういうものかに興味が湧いて出かけていった。サクソフォンとかアコーディオンとか、通常のクラシックのイメージには入ってこない楽器でクラシックをやっているのは面白い。サクソフォン・カルテットによる『ゴールドベルク』は人生最高の音楽体験の一つだったし、今回もそこまではいかないが、別の意味でたいへん愉しい体験をさせていただいた。
アコーディオンはコード、和音を伸ばして演奏できる。他にこういうことができるのはオルガンだけで、オルガンはそうそう持ち運びはできない。イリン・パイプのレギュレイターもできることはできるが、メロディを自由自在に演奏するわけにはいかない。聞けばクラシック用楽器の音域はピアノよりもわずかに狭いくらいだそうで、これも携帯できる楽器の中では最も広いだろう。つまりは携帯用パイプ・オルガンというべき楽器なわけだ。ただし、パイプ・オルガンはウインドだが、こちらはリードの違いはある。そのリードは蜜蝋で接着しているので、暑くなると溶ける心配があるそうな。アイルランドのアコーディオンやトリティキシャは螺子止めしてあるんではなかったっけ。
で、まずこの和音がそのまま伸びるのが快感。右手できれいな和音が伸びるのに、左手のベースが重なると、もうたまりまへん。こういう音がこんなに快感とは思わなんだ。その快感の元にはリードであることもあるようだ。つまり、シャープな音が重なるのが快感なのだ。パイプ・オルガンの快感が天上から降ってくるのを浴びる形とすれば、アコーディオンの快感は体内に直接入ってくる。肌から染みとおってくる感覚。目の前、2、3メートルのところで演奏されているのもあるかもしれない。面白いのは演奏している方も実に気持ちよさそうに演奏している。これは倍音の快感だろうか。バグパイプのドローンは演奏している方にとっても快感だそうだが、あれに通じる気がする。倍音だけでも快感だけど、倍音がメロディを演奏するとさらに快感が増す。
曲そのものも、今のクラシック、いわゆる現代音楽のイメージとは違って、ずっと親しみやすい。形のあるメロディが次々に繰り出される。ほとんどミュゼットか、タンゴでも聴いているようだ。それにユーモラスでもある。これも現代音楽では珍しいと感じる。音楽の根幹にはユーモアのセンスがある。バッハはもちろん、あの生真面目に眉間に皺を寄せてるベートーヴェンだって、根底にはユーモアのセンスがある。それを感じとるのが音楽を愉しむコツだ、とあたしは思う。宮廷音楽もユーモアは出にくいが、どこかにユーモアがない音楽は死んでいる。野村氏の曲にはユーモアがたっぷり入って、それが楽器の特性と相俟って増幅される。
野村氏はもともとはいわゆる現代音楽らしい曲を作っていたそうで、アコーディオンの曲を作るようになって、親しみやすい、川村さんの言葉を借りれば「涙腺を刺激する」ような曲を作りだしたそうな。あの、倍音の快感を聴くとやはりそうなるのだろう。それに元々持っていたユーモアのセンスが楽器に促されて噴出したこともあるだろう。もちろんあの楽器でゴリゴリのフリージャズとかやっている人もいるのだろうし、それはそれで面白いところもあるだろうが、あたしとしては、こういう倍音の快感をめいっぱい展開する曲を聴きたい。
曲としては2曲目の大田氏のソロ「誰といますか」とラストのトリオ「頭がトンビ」がハイライト。前者は古典的に聞えるメロディがズレてゆくのが面白く、倍音もたっぷり。後者は三台のアコーディオンの倍音の重なりに陶然となる。左手のベースが沈みながら沈みきらずに続くのがいい。東日本大震災の時、インドネシアにいて、何もできないまま、この曲をアコーディオン用に編曲することで何とかバランスをとっていたそうな。
ラスト前の「お酢と納豆」も面白い。千住ダジャレ音楽祭でダジャレ勝ち抜き戦をやった時、出てきたダジャレの一つで「オスティナート」のもじり、だそうだ。「おすとなっとう」という短かいフレーズを繰返しながら、少しずつ変化する。ラヴェルの「ボレロ」と同じ構造だが、ずっと短かく、変化も小さいのが、軽快かつシャープ、ちょっとアイリッシュ・ミュージックにも似ていたりする。
今回話題のひとつは小学生水谷君の登場。4歳のときからもう8年やっているそうな。楽器は小振りだが、堂々たる演奏で、目をつむって聴くと小学生とは思えない。順調に育ってくれることを願う。
やはりアコーディオンという楽器はいろいろな意味で面白い。大田氏が中心となっての野村作品演奏会の第2回は再来年だそうだ。生きている目標ができた。
##本日のグレイトフル・デッド
11月14日には1970年から1987年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。
0. 1967 American Studios, North Hollywood, CA
この日、〈Dark Star〉のシングル盤がここで録音された。この曲のスタジオ版はこのシングルのみで、アルバム収録は無い。
1. 1970 46th Street Rock Palace, Brooklyn, NY
このヴェニュー4日連続の最終日。セット・リスト不明。
2. 1971 Texas Christian University, Fort Worth, TX
開演7時半。4ドルと3ドルの2種類あるが、チケットの画像がぼやけていて、詳細不明。4ドルと5ドルと、自由席が2種類あったが、間の柵を守っていたのは小柄な老女たちだったので、みんな乗りこえていた、という証言もある。
ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ペダルスティールのチューニングはガルシアがやったが、実際に演奏したのは Buddy Cage。
デッドのショウはすばらしかった。
前半3・4曲目の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉、6曲目〈Sugaree〉と後半全部の計10曲が《Road Trips, Vol. 3, No. 2》のボーナス・ディスクで、前半10・11曲目の〈Loser〉〈Playing In The Band〉が昨年の、オープナーの〈Bertha〉が今年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。全体の半分がリリースされている。
3. 1972 Oklahoma City Music Hall, Oklahoma City, OK
場所柄、カントリー&ウェスタンの雰囲気だったらしい。
4. 1973 San Diego Sports Arena, San Diego, CA
《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。
この秋のツアーからは完全版リリースが連続している。10月29日、30日のセント・ルイスが先日の《Listen To The River》、1本置いて11月09〜11日のウィンターランドが《Winterland 1973》、次がこのショウで、次の17日の UCLA でのショウが《Dave's Picks, Vol. 5》、さらに次のデンヴァー2日連続の2日目が《Road Trips, Vol. 4, No. 3》でリリースされた。
会場の音響はひどかったが、Wall of Sounds に向かっているPAシステムはすばらしく、2曲目で音が決まると、後は気にならなくなった。
臨月近かったそうだが、それが幸いしたか、このショウのドナの歌唱はうまい具合に力が脱けて、絶妙のハーモニーをかもし出している。
〈Here Comes the Sunshine〉が長いジャムになる。こんなになるのは聴いたことがない。どの歌もすばらしい演奏。
5. 1978 Boston Music Hall, Boston, MA
ショウよりも周囲の警官の方に注意が惹かれるショウらしい。
6. 1987 Long Beach Arena, Long Beach, CA
このヴェニュー2日目。1987年を代表するショウのようだ。(ゆ)
砂漠の狐@Li-Po, 渋谷
音楽で旅に出よう
介護保険料、ハーモニカ・ジャズ、The Secret Trio、行川さをり
音源をリリースしている国内アーティストのリスト
Rauma
2021-06-10 改訂
2021-06-08 改訂
夜の音楽 @ 横浜・エアジン
玉響@横浜・エアジン
03-22: 燕、O'Jizo、ディレーニィ
『ラティーナ』オンライン版 Best Albums 2020
透明な庭「百年に一度の花」guest 桑野聖+加藤里志 @ 音倉、下北沢
詠美衣 @ 音倉、下北沢
Mikey O'Shea、高橋創&トシバウロン @ カフェ・ムリウイ、祖師ヶ谷大蔵
夜の音楽 @ 横濱 エアジン
透明な庭 @ strings、吉祥寺
Winds Cafe 279 山中信人・山本謙之助 @カーサ・モーツァルト、原宿
山中信人:三味線
山本謙之助:歌