クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:日本

 いや、もう最高。さいこう。サイコー!

 対バンの楽しみは片方が初体験の時が一番愉しい。tricolor はいろいろな場で見ていて、録音も聴き込んでいる。かたや kuumori はメンバーすら知らなかった。むろん、故意に知らなかったのだ。

 先行は tricolor。いきなり〈アニヴァーサリー〉で始めるという反則技。と思ったら、長尾さんが、今日はどれくらいはじけられるかがテーマです、と言って、マスクをして歌をうたう。お客として来ていた熊谷太輔さんを呼びこんで、1月、同じハコでやったセッション・ライヴの時にやった曲、長尾さんの〈Hare's March〉をやる。kuumori のドラマー、長尾さんとは旧知の田嶋トモスケさんをゲストに迎える。全体に、演奏のテンションがいつになく高い。たしかにはじけている。このトリオはどちらかといえば、肩に力の入らない、ぶだん着の音楽をぶだん着のままで演奏するのが身上で、またそれがライヴでも魅力だった。今回は気合いがどんと入っている。ライヴができる歓びがそのまま音にあらわれている。

 それを浴びるこちらも嬉しい。〈アニヴァーサリー〉が始まったとたん、全身の力がほーっと抜ける。不足していた栄養分を注入されて、ココロとカラダが歓んでいる感覚がひしひしと湧いてくる。飢えていたのだ。生演奏に、ライヴに。生演奏そのものは、02/22のいーぐるでのイベントで、三味線を1曲聴いているけれど、それくらいでは、むしろ飢餓感をかきたてられる方が大きかった。そうだ、やはりぼくらには音楽が必要なのだ。ライヴが必要なのだ。こういう危機の時にこそ必要なのだ。百年前の関東大震災の夜、バスキングに出た添田唖蝉坊の一行の演奏に、人びとが家々から飛びだしてきて、大歓迎したという話を思い出す。

 ぼくらは危険がいっぱいの世界に生きている。今は新型コロナがクローズアップされているけれど、温暖化による極端な気象はいつなんどき災厄を生みかねない。去年の台風では相模川は文字通りのぎりぎりセーフだったけど、今年も大丈夫という保証は無い。それに、いずれ近いうちに地震もくる。要はリスクの大きさを見定めて、バランスをとって生きてゆくしかない。

 新型コロナは正体がわからず、我々に免疫が無いことが不安を生んでいるわけだが、免疫は感染しなければ獲得できない。虎穴に入らずんば虎子を得ず。病気にかかりたくはないが、かかるときはかかる。新型コロナで死ななくても、がんで死ぬこともある。専門家によれば、この新型コロナウィルスが消滅することは無い。これから数年の間にわが国の大多数の人間が一度は感染する。できることは爆発的感染のピークの山をできるだけ低く、遅くすること。それは成功しつつあるように見えるけれど、一方でピークが長く延びる可能性もある。

 いずれにしても、いくらマスクをつけても、感染しない保証など無い。それはインフルエンザやノロも同じ。どちらもやはり治療法は無い。症状が出れば対症療法しかできない。個人としてできることは、感染しないことよりも、感染しても症状が出ないようにすることだ。つまり、免疫力を上げるように努めることだ。

 免疫力を上げる一番手っ取り早い方法は笑うことである。アメリカの編集者として有名なノーマン・カズンズは免疫疾患のひとつとされる膠原病を喜劇の映画を見て笑うことで治し、『笑いと治癒力』を書いた。

 もう一つ、手軽な方法は感動することだ。文学でも美術でもパフォーマンス芸術でも、何でもいい、感動すること。カタルシスはその一部、おそらくは重要な部分だが、それに限られないだろう。どちからといえば感涙にむせるよりも、おもしろかったあ\(^O^)/と万歳する方がたぶん効果的。

 kuumori のライヴは最高の音楽と至高の笑いを結びつけて、免疫力向上機能をこれ以上ないほどたっぷり備えていた。音楽を聴きながら、こんなに気持ちよく笑ったのは、ほんとうに久しぶりだ。かれらはコミック・バンドではない。冗談を連発するわけでもない。音楽だけとりだせば、技術も志もセンスも第一級のクオリティだ。何よりも音楽の根柢に潜む「狂気」を表面すれすれに湛えている。

 どこか「狂って」いない音楽はBGMでしかない。耳を傾むけるに価する音楽には狂気が宿る。狂っている場所も狂い方も様々だが、必ずある。モーツァルトもジョン・レノンもマイルスも、皆、狂っていた。

 kuumori の4人のメンバーはそれぞれに狂気を表に出す。長尾さん流に言えば、はじける。最も派手にはじけていたのはバンジョーの桑原達也(以下敬称略)。デヴィッド・ボウイにちょっと雰囲気が似ている。バンジョー自体はベラ・フレックも真青。ダブル・ベースの刀禰和也は特定の条件下ではじけることにしているらしい。そのベースの骨太なことは、あたしは生ではこれまで聴いたことがない。ドラムスの田嶋友輔は、久しぶりに見るけれど、ドラマーとしての器がぐんと大きくなっている。刀禰+田嶋の生みだすグルーヴの快感こそは、狂ったリズム・セクションの真骨頂。そして、リーダーとして一見一番おちついているように見えるギター(マヌーシュ・ジャズで使う、穴が小さな楕円形のアコースティック・ギター)&ヴォーカルの加勢明は、たぶん、狂い方が一番徹底している。

 歌がまたいい。日本語ポピュラー・ソングの王道ど真ん中を行くメロディに、視点を巧妙にずらした、予想を裏切る歌詞をのせる。唄いあげるのではなく、むしろ、坦々と唄う。静かな狂気だ。

 始まった途端に思わず座りなおしたが、一発がんとまともにくらったのは3曲めの〈ブルーグラス〉。このバンドの素顔が現れた。バンジョーのソロに背筋に戦慄が走る。その後はもうずっと上がりっぱなし。繰り出される曲のどれもこれもびんびんと響いてくる。7曲目〈ビューティフル〉からアニーがアコーディオンで参加し、音の厚みがぐんと増す。バンジョー桑原とアニーの丁々発止も底抜けに愉しい。アンコールでは桑原が頭のうしろでバンジョー・ソロをかませば、アニーもあのでかいアコーディオンを頭に載せて弾く。

 kuumori のはじけ方が頂点に達したのは、〈さおり行きの各駅停車〉での桑原のパフォーマンスで、満場爆笑の渦。

 ああ、これですよ。ライヴの愉しさ、ここにあり。もちろん、いろいろな条件がうまく重なった。良い条件とばかりは限らない、悪い条件もまたポジティヴな作用をしていた。それも含めてすべてがうまくはまり、回転したときのライヴは、ここまで行けるのだ。こうなれば、ウィルス、何するものぞ。

 演っている方も気持ち良いのだろう、演奏は終る気配もなく続き、とうとう打ち上げた時にはすでに23時。最終深夜バスに乗るため、挨拶もそこそこに、下北沢駅への坂道をダッシュするのもまた愉しからずや。ミュージシャン、空飛ぶこぶたやのスタッフ、そして共にライヴを愉しんだお客さんたちに、感謝また感謝。(ゆ)

 やあっぱり、対バンは面白い。こういう対バンが無いと Loup-Garou というバンドの存在は知らないままだった。なぜ、この名前なのかは訊くのを忘れた。

 アコーディオンの田中さんが両方のメンバーであることで、瓢箪から駒でできた企画らしい。話をもちかけられたルーガルーの最初の反応が「正気ですか」というものだった、というのは、見ようによっては絶大な自信と言えなくもない。実際に見てみれば、年に一度しかライヴはしないというのがもったいないバンドだ。

 芸大Gケルトの同期でやっていたもののうち、この6人が残ったそうだが、やはり残るにはそれだけの理由があるものだ。いや、別に論理的な明確な理由というものではなくとも、聴けば納得がゆく。

 編成はフィドル、アコーディオン、パイプ(チャンター)&ホィッスル、ハープ、ブズーキ、バゥロン&フルート。こういうところにハープが入るのは面白いし、このハーパー、なかなか面白い。メンバーの中で一番ノリノリになる。楽器のイメージとはほとんど真逆のキャラのようだ。ソロないしもう少し小さな編成で聴いてみたい。

 セツメロゥズのレコ発ライヴで話を聞いたときにはとにかくリールが好きで、リールしかやらない、とのことで楽しみにしていたのだが、案に相違して、ジグだのマズルカだのもやる。それはそれで楽しいが、一度はリールばかり延々と演るのを見たくはある。

 というのも、さすがにGケルトで鍛えられているだけあって、演奏力は立派なもので、これでケイリ・バンドではない形でリールを畳みかけてくるのを浴びてみたいと思わせる。感心したのは選曲と組合せの巧さだ。今回オリジナルは無いとのことで、既存の曲を選んで組み合わせているはずだが、どのセットにもああいい曲だなあと思わせる曲が1曲はあって、これがキモになってセットを引き締めている。そして組合せ、配列が巧みに工夫されている。つなぎ方やイントロも冴えている。自然な流れと意表を突く意外性が無理なく同居している。こういうのは訓練で身につくとも思えないので、やはりセンスを磨いているのだろう。メンバーは演奏するよりも踊る方が好きとのことだから、ダンサーとしてのセンスも作用しているのかもしれない。

 ぜひ、リールばかりのライヴを体験したいが、今年はもうやったから次は来年、なのだそうだ。

 セッティングの転換が休憩時間になったが、田中さんは出ずっぱりで、終ってから、くたびれましたー、とにこにこしながら言う。

 今回はブズーキの音が大きく設定されていて、こうなると、このバンドのキモはこのブズーキなのだということがよくわかる。アンサンブルの土台でもり、ドライブでもあって、フロントとパーカッションをつないで押し出す。熊谷さんはむしろ楽しそうに遊んでいるのだ。

 とはいえ今回のハイライトは〈Bridget Cruise〉で、これまでよりまた少しだがテンポを落とし、ほとんどフリーリズム寸前になる。アレンジも変えていると聞える。後半、いきなりアップテンポになる、その対照もいい。次の〈Waterman's〉はもうすっかり自分たちの曲になっている。かつては巧まざるスリルとサスペンスだったのが、今は余裕でスリリングだ。そして〈Up in the Air〉でリズム・セクションがシンコペーションするのが、またカッコいい。

 アンコールはもちろん全員。バゥロンとパーカッションのイントロがまず聴かせる。これだけの大所帯でしかも生音となると、パーカッションのドライヴが効いてくる。ビッグバンドはやっぱり愉しい。大きいことはいいことだ。

 これもぜひ毎年恒例にして欲しい。次は全員一緒にやる曲をもっと増やしてもらいたい。

 それにしても、なんで、人狼なんだろう。(ゆ)

Loup-garou
(メンバー詳細聞き取れず。不悪)

セツメロゥズ
沼下麻莉香: fiddle
田中千尋: accordion
岡皆実: bouzouki
熊谷太輔: percussion

 この組合せでの新年ライヴは今年で6回めだそうだが、あたしは初体験。ついでに Cocopelina のライヴも初体験で、ようやく念願が果たせた。

 tricolor の対バンは、最初は全員でやって、おもむろに順番を決める、または決めずに入り乱れてやるというのが定番になっているらしい。今回は中藤、斎藤のダブル・フィドルを長尾さんがギターで支える形で始まった。ゆったりとしたテンポの曲で、長尾さんもフィンガー・ピッキングなど入れて、ソフトな出だし。それから、それぞれの女性陣が代表してあっち向いてほいで順番を決める。

 負けた Cocopelina が先攻。いきなり新曲のリールのセット。バンジョー、フィドル、ギターの組合せで、テンポが速すぎず、遅くならず、実にどんぴしゃ。このテンポどりの巧さは終始変わらず、このユニットの1つのウリだろう。そして録音よりも、ライヴで初めてわかる類のものでもある。つまり、どれもこれも同じテンポというのではなく、その曲に最も合うテンポを探りあてていて、それをきちんとあてはめてくる。演奏している間もどっしりと安定しているのはもちろんだ。そしてこのセットでは、ゆったりしているその底で、ひそやかな緊張感が張りつめているのが快感。

 次は岩浅氏がバンジョーをフルートに持ち替えて、ジグからポルカを2曲連ねるセット。こういう曲種の組合せは新鮮。岩浅氏はローランド・カークばりに、長短のホィッスルを2本同時にくわえて、ドローンをつけるなんてこともやってみせる。バンジョーもフルートも達者なものだが、この日はどちらかというとフルートを持った方が冴えていた感じ。後半、フルートとギターの演奏から2周めにフィドルが加わってフルートがハーモニーに回るところ、さらにホィッスルに持ち替えて3曲めに導き、またフルートにもどるあたり、こう書くとあわただしそうだが、本人はいたってのんびりとあわてず騒がずやっている。そしてその次、フルートのスロー・エアからのセットがハイライト。リールを2曲続けてからジグに行く。このメドレーのユニゾンがすばらしい。

 こういう対バンでは各々のバンドの性格がより明瞭になる。どちらもトリオで、編成も似ているが、Cocopelina はどちらかというと正面突破型だ。それを推進しているのが山本氏のギター。この人のギターは音がまとまらずに発散される。それがきりっとしたさいとうさんのフィドルと、やはり輪郭のはっきりした岩浅氏のフルートやバンジョーを包みこんで押し出す。このギターの音のバランスが実に良い。

 この日のサウンド・エンジニアは昨年の同じ場所での tricolor + きゃめる に続いて原田さんで、いやもう、すばらしい音だった。どの楽器も明瞭で、本来の響きで歌い、しかもバランスがしっかりとれている。前回も良い音だったが、このハコの機材、癖にも慣れたのだろうか、さらに良くなって、ほとんど完璧。アコースティックのライヴ・サウンドはこうこなくっちゃ。

 Cocopelina の演奏が一段落ついたところで、プレゼント・タイム。メンバーがそれぞれ、思い思いに持ってきたお土産を聴衆に配るのだが、今回は入場時にひらがなを書いた紙片が渡されていて、メンバーがランダムに言うひらがなを持っている人が当選という形式。本や食べ物や手芸作品などなど。ミュージシャンがお客にプレゼントする、というのも珍しいが、なかなか楽しい。

 このプレゼント・タイムは休憩でもあって、すぐに tricolor の演奏。Cocopelina に比べると、こちらは洗練を突きつめようとするところがある。ビートの刻み方、フレーズの展開、緻密なアレンジにこだわるようにみえる。最初の〈Lucy〉の3曲目はその象徴。Cocopelina の演奏には、何もかも忘れて身を委ねられると思えるのに対し、tricolor の音楽は、細部のキメに身悶えさせられる。

 ここにはピアノがあるので、アニーがピアノも弾く。すると全体がどっしりと腰が座る。中藤さんがコンサティーナで、ピアノ、ギターの形でスロー・エアからリールというセットがハイライト。アニーが先日のソロでも唄っていた〈じかきうた〉は、あらためていい曲だ。

 アンコールはもちろん全員で、2本のフィドルが微妙に音程をずらして遊ぶのが楽しい。この大所帯でアニーがアコーディオンを持つと、アンサンブルの厚みがどんと増す。これあ、いいなあ。これですよ、これ。この部厚いユニゾンの愉しみ。

 どちらのユニットも10年やっていて、音楽に余裕がある。オトナの音楽だ。やはり正月にはこういう感じで聴きたい。年があらたまるというのは、それで過ぎた年のことが何も彼もご破算になるわけではないけれど、それでも、気持ちを前向きに切替える契機にはなる。こういう音楽はその切替えを後押ししてくれる。

 さいとうさんが昨年生まれたお嬢さんを連れてきていて、3ヶ月という赤ちゃんがどういう風の吹き回しか、あたしの顔を見てはきゃっきゃっと笑みくずれてくれるので、何とも嬉しくなる。良い音楽に加えて、この笑顔で、大いに元気をいただきました。(ゆ)

Cocopelina
さいとうともこ: fiddle
岩浅翔: flute, whistles, banjo
山本宏史: guitar



tricolor
中藤有花: fiddle, concertina, vocal
長尾晃司: guitar, mandolin
中村大史: bouzouki, guitar, accordion, vocal

 今年のライヴ納め。別に選んだわけではなく、たまたまだが、このバンドで1年を締めくくれるのはめでたいことではある。ちなみに来年のライヴ開きは、この日アナウンスのあった中村大史さんのホメリでのソロ・ライヴになった。

 今年のグルーベッジは何といっても林正樹氏との共演が強烈だったが、バンドにとっても節目になったように見える。あれから2度見たわけだが、その前とはギアの入り方が変わった。この位のレベルになると、個々の技量は完成の域に達しているので、問題はバンドとしての練度、アレンジとアンサンブルのつながり方の密度、そしてその日の調子ということになる。ハコや聴き手の状態も作用するが、今のグルーベッジにはどんなハコでも、どんな聴き手でも自分たちの世界に巻きこんで持ってゆく力がある。その力の保有量と出し方のコントロールが、林氏との共演の後で違ってきたのだ。バンドとして備えている蓄電池の容量がまず増えた。そしてそこからいつどこでどのように力を流すかのコントロールがより適確に自在になった。

 もともと高かったバンドとしての練度がより上がった。というよりも、内部でのつながり方がより緊密になり、互いの反応速度が速くなっている。アレンジを毎回変えているように聞える、その流れがごく自然で滑らかだ。2曲目の〈タイム・トラベル〉は互いに雰囲気のまったく異なる短かいフレーズをつなげて、めまぐるしく色調が変転するのが、アンサンブルのフットワークが軽いから、聴く方も身も心も軽くなって、一緒に飛んでゆく。こういう快感は他では味わったことがない。

 各々の調子が良いのは3曲目、ゆったりしたレゲェのビートにのせた〈水槽の中の人魚〉でソロを回すところに出る。このたっぷりとタメをとったテンポはとてもいい。もっと聴きたい。

 その調子の良さとアンサンブルの密度の高さは5曲目の〈水模様〉でハイライトになる。中間部のフリーの即興がたまりまへん。それぞれが勝手なことをやるのがそのまま集団即興になり、密度を保ったまま曲にもどる。このフリーの集団即興はもう少し聴いていたかったが、こういうものは少し物足りないくらいがちょうどいいのであろう。

 後半はバンドとしても今年のライヴ納めもあって、アップテンポの曲を畳みかける構成で、これはこれで文句はないが、後半冒頭の〈mono etude〉のようなスローなバラードをじっくりと、それこそ延々と展開するのを聴きたくもある。このバンドに課題があるとすれば、こういう曲でアップテンポな曲とまったく同等に有無を言わさず聴衆を巻きこんで運んでゆくことだろうか。


 今年は行くライヴを絞ったつもりだったが、それでも平均すると毎週1本は行っていた勘定になり、貧乏人にはまだ多いなあ。来年はもう少し減らしたい。(ゆ)

Groovedge
中村大史[ギター・アコーディオン]
秦コータロー[アコーディオン・ピアノ]
大渕愛子[フィドル]
渡辺庸介[パーカッション]


Live Lab. Groovedge feat.林正樹 [DVD]
中村大史(g.)
アトス・インターナショナル
2019-11-27



 昼間のアウラとライヴ・ダブル・ヘッダーの後半。

 カルマンはハンマー・ダルシマー、馬頭琴、バゥロンのトリオだが、3人とも歌を唄う。馬頭琴の岡林さんはもともとホーミィもやり、オルティンドーも唄うが、バゥロンのトシさんが近頃本気で唄いだし、それにつられてか小松崎さんも唄う。3人で声を合わせたりもする。もちろんアウラのメンバーのような正規教育をうけた専門家ではないが、それなりに精進もしていて、アウラでは逆に不可能な歌を聴かせてくれる。このあたりが音楽の玄妙なところだ。楽器はそれぞれに目的が決まっていて、その中で最高の音が出るようになっている。声は目的が定まっていない。どのようにでも使える。そして千変万化する。アウラのような極美のハーモニーもあれば、カルマンのような、合うというよりはズレていることが愉しいものがある。

 とはいえ、まずは器楽だ。これは菜花でのルーツ・ミュージック・ライヴ・シリーズ「菜花トラッド」の一環で、これまではPAを入れていたが、今回は生音。これが成功している。最も成功していたのは馬頭琴。馬頭琴も近頃は前面に木を張って、音量を大きくしたタイプが主流だそうだが、岡林さんの楽器は山羊革を張った古風なもの。この響きがたまらない。どこまでも深く、音が内部に膨らんでいって、時空から抜けでたように聞える。澄んだ音だが、ピュアというよりも、いろいろな滋養が溶けこんで、複数の旨みが交響しあっているようでもある。

 岡林さんはこれでアイリッシュ・チューンも弾きこなしてしまうが、楽器のほうも別に無理をしている様子でもないのが、不思議でもあり、あたりまえでもある。本当の名手は、楽器に本来想定されていない歌をうたわせて、あたかも初めからそのために作られているように聴かせることができるものなのだろう。

 小松崎さんのダルシマーは地味な響きがする。この楽器は結構ハデにもなりうるが、健さんの演奏はいい具合にくすんで、おちついている。楽器のせいか、技術によるものかわからない。たぶん、両方のからみ合いではあろう。おそらくは年齡の要素もあるはずだ。いい年の取り方をしている。枯淡の境地、というとよぼよぼの老人に聞えるだろうか。凄いとすぐわかることをやっているわけではないが、聴いていると、いつの間にか引きこまれ、抜けられなくなる。こういう風になるには、技ばかりいくら磨いても無理で、人としての生き方がかかわってくる。

 トシさんのバゥロンは対照的に凄みが出てきた。1曲やったソロも特別に変わったことをやるわけではないのだが、別の世界に運ばれる。とはいえ、それよりも、アンサンブルでの何でもないビートの付け方に年季が入ってきた気がする。生音ということもあって、ブラシを使い、音量を下げ、当りをソフトにしながら、芯はしっかりしている。他の2つの楽器がアンプ無しに増幅される。

 最初はこの組合せでアンサンブルが成り立つのかと思ったりもしたが、生音で何度か聴いていると、無いほうが不思議になってくるから不思議に面白い。

 たぶん、ひとつにはあんまりがっちり決めこまず、ゆるくやっているのもハマっているのだろう。細部まで緻密に計算するのではなく、互いに相手の周りをふうわりとまわるように、相手の反応をうかがいながら、良い意味でいいかげんにやる。そういうことができるのも、各々が達人だからではあるが、そのゆるい円舞のなかに引きこまれると、遙か彼方まで世界が広がるのは、アンサンブルの醍醐味だ。

 このユニットの歌は楽しい。トシさんはこのところ凝っているマウス・ミュージック、リルティングを披露し、また良くなっている。打楽器奏者だからか、ビートの拾い方が巧い。これを伴奏に踊れるだろう。輪唱、ユニゾン、ハーモニーと、繰り出す技も結構多彩だ。アウラでは声の出し方は皆同じで、だからこそハーモニーが綺麗に響くわけだが、こちらは発声のしかたも三人三様で、揃っていてもズレている。そこが何とも楽しい。音楽ではどちらもアリなのだ。ということは、どんなものでも、どちらもアリなのだ。岡林さんはオルティンドーを聴かせて、これももっと聴きたい。

 菜花トラッドでは食事が付く。この日はモンゴルへのトリビュートで、ホーショールと呼ばれる揚げぎょうざというかミートパイというか、がメインで、これにじゃがいもと人参を小さな賽の目に切って茹でてマヨネーズであえたものとレタスのサラダがつく。ホーショールの中の肉はたぶん豚肉。いつもながら、実に旨い。味付けがうまくて、調味料などなしに、ぱくぱく食べられる。野菜もサラダもまことに結構。揚げたてて熱々。何度来てもたまりまへん。

 菜花はクラフト・ビールを出す店に改装するそうで、新装オープンまで菜花トラッドもお休み。そちらはまた楽しみではありますなあ。(ゆ)

カルマン
小松崎健: hammered dulcimer, vocals
岡林立哉: 馬頭琴, khoomii、 vocals
トシバウロン: bodhran, vocals

流離う音楽
Karman カルマン
KONPEIカムパニー
2014-05-25


 ともに活動しはじめて10周年ということで実現した初めての共演は、それはそれは楽しいもので、次は20周年というのに、反射的に行くぞ、と思ってしまったほどだ。それまで生きているかどうかもわからないのはすっぽりと忘れていた。しかし、10年後にこの連中がどうなっていて、どんな音楽を聴かせてくれるか、ぜひ生身で体験したいものではある。

 先日の tricolor となつやすみバンドとの共演と同じく、どちらかが前半、片方が後半という対バン形式ではなく、まず全員が出てきて、一緒に各々のレパートリィを1曲ずつやる。どちらもライヴでも何度も聴いているが、ダブル・フィドルがまず気持ちがいい。後で酒井さんにそう言うと、あたしもそうなんです、フィドルが重なると、これだよ、これと思います、と拳を握りしめた。彼女は北欧の音楽を演ることも多く、フィドルが重なることの醍醐味はよく知っている。ハルディング・フェーレを弾いていて、フィドルに移ると、音が重ならないのが寂しいのだそうだ。アイリッシュでも同じで、アルタンが一度トリプル・フィドルになった時期の録音は格別だ。

 さらにここにはピアノがあるので、アニーがピアノに座ったのがまたいい。グルーベッジに林正樹氏が加わったのと同様の効果で、ビートがよく弾む。

 2曲やったところで、各々単独での演奏になるが、どちらが先にやるかは、アニーが音頭をとって、その場で中藤さんと酒井さんがあっち向いてホイの勝負で決める。2回めであっさり酒井さんが勝って、きゃめる先攻。

 このバンドは見る度に巧くなっているように見えるのは錯覚だろうか。毎回誰かが着実に巧くなっていると見える。今回は高梨さんのホィッスルと成田さんのコンサティーナ。どちらもどっしりと安定感が増している。高梨さんは憧れというブライアン・フィネガンに肩を並べるまでは行かないまでも、楽器の自在な操り方はだいぶ近づいてきた。元々レベルが高いミュージシャンが巧くなったように見えるのは、かなり精進していると思うのだが、悲壮感はかけらも無い。まずは〈Northen Lights〉と〈Smokey Leaf〉で、どちらもスローで始まり、途中でアップテンポに切り替わるが、その出し入れも堂に入ってきた。ハイライトはこのセクション最後の〈Carry On〉で、ブズーキのピッキングとフィドルのソロが聞き物。

 替わった tricolor はやはり10年、演奏しつづけているという〈Lucy〉で始める。うーん、貫禄があるなあ。きゃめるの音楽がカラフルに華やいでいるのに並ぶと、tricolor の音楽は奔放な筆づかいで描く水墨画の趣が出てくる。筆を運ぶ向きと速度を制御しているのは長尾さんのギターのようだ。刻み方とタイミングを細かく操るところは、グレイトフル・デッドのボブ・ウィアも連想する。

 4曲めに中藤さんが打合せなしに高梨さんを呼びこんで、《Bigband》で高梨さんが参加した曲をやる。アニーはアコーディオン。これがハイライト。

 そしてまた全員で4曲。こうなると音の厚みが快感。アニーはブズーキにファズをかけて弾きまくる。ほとんどヘビメタだ。そして最後は期待どおり〈Anniversary〉。この曲はやはり大勢でやるのが愉しい。Bigband のライヴの高揚感を思い出す。いやあ、体が浮きましたね。

 アンコールも各々のレパートリィから1曲ずつ。〈春風の祝福〉とポルカのセット。20周年と言わず、毎年一度はやってほしい。tricolor は毎年年始は Cocopelina とのあけましておめでとうライヴをやっているそうだから、これから毎年年末はきゃめるとの忘年ライヴをやるのはいかがですか。次はもっとメンバーの入替えて、様々な組合せで聴いてみたい。

 土曜の昼間で、小さいお子さんもいて、昼間から呑む泡盛も旨い。それにしても、今年のライヴは豊作だ。(ゆ)

キネン
トリコロール
Pヴァイン・レコード
2019-05-15


PARTY!
きゃめる
ロイシンダフプロダクション
2019-08-11


 日曜日の11時開演という、ちょっと異例のスケジュールにもかかわらず、大勢のお客様にご来場いただき、御礼申し上げます。

 今回はスコットランドの高等音楽教育機関である Royal Conservatoire of Scotland の卒業生と在学生がゲスト、しかも日本人として初の卒業生で、正直、イベントが成立するだけの人が集まるか不安もありました。

 もっとも、事前の打合せでお二人から伺った話から、内容は面白いものになるという自信はありました。一番難しかったのは、盛り沢山の内容をどう詰めこむか、というところで、これは進行役のトシバウロンが、うまくコントロールしてくれました。

 レジュメに書きながらあそこに盛りこめなかったことの1つは、RCS があるグラスゴーという街の性格です。スコットランドはエディンバラとグラスゴーの二つが飛びぬけた大都市で、3番手のアバディーンを遙かに引き離しています。その二つの大都市はかなり性格が異なるそうなのです。

 スコットランドは、グラスゴーの西にあるクライド湾からネス湖に平行に北東に引いた線で、南東側ロゥランドと北西側ハイランドに大きく分けられます。ロゥランドは歴史的にイングランドとの結び付きが強く、英語が支配的です。ハイランドはスコットランド独自のゲール語文化圏で、アイルランドとの結び付きが強いです。英語は第1言語ですが、独自のゲール語であるガーリックもしぶとく生きのびています。人口はロゥランドに集中していて、三つの大都市もいずれもロゥランドに属します。

 そのうちエディンバラは行政と経済の中心地であり、スコットランドの首都としての機能がメインです。グラスゴーは対照的に文化の中心地であり、今や、世界でも有数の大規模な音楽フェスティヴァルになった Celtic Connections もグラスゴーで開かれます。

 グラスゴーがそうなったのには、ハイランド文化圏が近いことも作用しているのではないかと、あたしは睨んでいます。

 質疑応答で出た質問について少し補足します。

 アイルランドやスコットランドの音楽については比較的知られているが、ウェールズはどうなのか。

 ウェールズもケルト文化圏の例にもれず、伝統音楽は盛んです。とりわけハープの伝統と合唱の伝統に厚いものがあります。telyn と呼ばれるハープは松岡さんや梅田千晶さんが使われているものに似た小型のものから、人の背を遙かに越える大型のものまで、いくつかの種類があります。また、中世以来のハープ伝統が途切れずに伝わってもいます。ハープ伝統がつながっているのはウェールズだけです。

 ウェールズのゲール語はキムリア語と呼ばれます。ゲール語はほとんどの地域で少数派になっていて、存続や拡充の努力がおこなわれていますが、ウェールズだけはキムリア語がメインの言語になっています。南部の首都カーディフのあたりでも、今ではキムリア語が多数派になっているそうです。そのキムリア語による合唱と即興詩の伝統が続いています。

 一方、1970年代後半から、他地域のフォーク・リヴァイヴァルの影響を受けて、モダンな伝統音楽をやる若者たちが現れてきました。何度か波がありますが、今は三度めか四度めの波が来て、盛り上がっています。今年初めて Wales Folk Awards が選定され、その最終候補に残った楽曲のプレイリストが Spotify にあります。

 これを聴けば、今の、一番ホットなウェールズ伝統音楽の一角に触れられます。一方で、ここにはばりばり現役のベテラン勢はほとんどいないことにもご注意。

 ご質問でもう1つ、スコットランド音楽の伝統的楽器に打楽器は無いのか。

 ケルト系音楽全体に言えることですが、ほぼメロディ楽器だけで、打楽器は伝統的には使われていませんでした。ケルト系だけではなく、ヨーロッパの伝統音楽全体にも言えることで、ヨーロッパはやはりメロディが主体です。

 最近、というのは1970年代以降、アイルランドのバゥロンのような打楽器が使われるようになりました。バゥロンはその柔軟性、表現力の広さから、伝統音楽以外のポピュラー音楽、ロックやカントリーなどでも使われていますが、スコットランドでもプレーヤーが増えています。

 一方、ハイランド・パイプによるパイプ・バンドではサイド・ドラムまたはスネアと大太鼓は欠かせません。パイプ・バンドは19世紀にイングランドの差金で始まったと言われますが、ハイランド・パイプとスネアと大太鼓からなるあの形態は、スコットランド人にとってはたまらない魅力があるようです。スネアと大太鼓の華麗な撥捌き(叩いている時だけでなく、叩かない時も)はパイプ・バンドの魅力の大きな要素の1つです。

 スコットランド音楽もあそこでお見せできたのは氷山の一角なので、奥には広大な世界があります。そのあたりは松岡さんもおられることだし、これからおいおい紹介していけるだろうと思います。〈蛍の光〉Auld Lang Syne の古いヴァージョンのような美しい音楽は山ほどあります。(ゆ)

 Rauma はカンテレのあらひろこさんと馬頭琴の嵯峨治彦さんのデュオで、今年で結成10周年の由。きゃめるも Tricolor も Rauma もみんな10年前に始まっている。

 Rauma は10年目にして初めてのCD《深い海》を出し、そのレコ発ツアー、秋の章、千秋楽がこのライヴ。ハープの木村さんが華を添える。

 カンテレという楽器の音を初めて聴いたのは、まだCDが無い、LP全盛の頃の Martti Pokela のアルバムだった。ジャケットの絵などから、前に水平に置いて指で弾く、ツィター属のひとつとはわかったが、その響きはまったく聴いたことのない深いものだった。

Kantele the Old & New
Martti Pokela
Arc Music
1994-06-15



 あらためてあらさんに確認したら、共鳴弦があるわけでなく、張られている弦が互いに共鳴してああいう響きになるのだそうだ。弾く弦そのものの共鳴を増幅、利用する楽器はおそらく他には無いのではないか。

 ご多分に漏れず、本家のフィンランドでも第二次世界大戦後は一時廃れるが、マルティ・ポケラの登場で息を吹き返し、彼がシベリウス・アカデミーで講座を開くにいたって、若い世代にも広がっているそうだ。わが国はフィンランド国外で、フィンランド移民もほとんどいないところでは最も演奏者数が多いと言われているらしい。

 カルデミンミットなどでカンテレそのものの生演奏は聴いたこともあるはずだが、あらさんの演奏はまた格別だ。フィンランドも含め、世界でも有数の演奏者によるものなのだから。

 Rauma はこれに馬頭琴が組み合わさる。というのも、おそらくは世界でも他に例は無いだろう。フール・フーントゥがフィンランドに行って、共演したことはあるかもしれないが。

 馬頭琴とホーミィといえばあたしはまず岡林立哉さんなのだが、嵯峨さんも優れた演奏家だ。モンゴルやトゥバの伝統音楽を演奏する人はわが国でも増えていて、この日使われた、これも伝統的な撥弦楽器のドシュプルールは何と国産というのには驚いた。

 嵯峨さんの馬頭琴はどちらかというと柔かく、艷があって、あらさんのカンテレとよく合う。岡林さんの演奏は、比べてみると骨が通って、より原初的な響きがある。

 《深い海》はすっかり愛聴盤で、とりわけタイトル曲がすばらしい。終り近く、カンテレが〈てぃんさぐの花〉のメロディをさりげなく混ぜるのがたまらない。今回はレコ発で、アルバム内の曲が多かったが、ふだんはもっと即興が多いのだそうで、こういう遊びもそういう即興の中から生まれたものなのだろう。

 とはいえ、ハイライトだったのは、嵯峨さんがドシュプルールを伴奏にホーミィもまじえ、トゥバ独特のダミ声で唄ったトゥバの現代曲、ソ連時代の国策道路建設を称える曲。本来、愛国歌の一種のはずだが、日本語の歌詞もまじえて今うたわれると、すばらしい批判の歌になる。ドシュプルールのビートもあって、まるでブルーズなのだ。砂漠のブルーズがあるなら、こちらは草原のブルーズだ。

 これに合わせるカンテレがまたスリリング。カンテレの弦にもハープのようなレバーがついているが、弾いておいてこのレバーを操作し、音を揺らす。スライド・ギターの効果だ。たぶん、こんな奏法は伝統には無いと思われるが、ドシュプルールのビートとの掛合いはそれは愉しい。

 それに続く、ポケラ作曲の〈トナカイの子守歌〉はアルバムにも入っている曲で、カンテレと馬頭琴の溶け合い方が一層美しい。ポケラのトナカイはもちろんサーメの人びとのトナカイだが、トゥバにもトナカイの放牧をやっている人たちがいるのだそうだ。

 さらに木村さんが加わってのトリオも面白い。まずは嵯峨さんが、自分の生まれた年のヒット曲です、といってやった〈名前のない馬〉。しかも日本語版である。原曲はリアルタイムで聞いてもいて、好きな曲のひとつでもあるが、日本語でうたわれるとまた別物。そして、ここでのカンテレの間奏がみごとの一言。あらさんは伝統はきっちり身につけているが、だからこそだろう、冒険も好きなのだ。

 〈エレノア・プランケット > バタフライ〉のメドレーでは、ハープ、馬頭琴、カンテレがそれぞれにリードを取り、またハーモニーをつける。

 3人でのアンコールはアヌーナの Michael McGlynn が娘が生まれた時に作った〈アシュリン〉で、カンテレのソロから始まり、馬頭琴が受け、ハープがピッキングでハーモニーをつける。こういうのを聞いていると、トリオでの録音も欲しくなる。

 木村さんは前座で唄いまくる。こちらでは『閑吟集』からの「山椒哀歌」に続けて、〈私の小舟〉から〈The Flower of Maherally〉につなげたのがハイライト。

 木村さんは伝統歌もいいが、オリジナルも聴きごたえがある。ご母堂の実家、秋田の鹿角で霊感を得て、藤野由佳さんが詞をつけたという曲は出色。高域のリフが言わんかたなく美しい。

 音楽に心のすみずみまで洗われた一夜だった。

 Rauma の名前の由来がなかなかに深いものであったが、ここには書けない。(ゆ)


訂正 2019-10-27
 Martti Pokela は男性だという指摘をいただき、訂正しました。このジャケットですっかり女性だと思いこんで、確認したこともありませんでした。どうも、すみません。
Thanx > 坂上さん

 グルーベッジの前回のライヴの時、大渕さんが10月7日に次郎吉で自分が主催するライヴをやります、グルーベッジも出ます、というので、何をやるのかよくわからないまま、出かける。行ってみたら、大渕さんの10年来の友人という、アメリカはオレゴン州ポートランドのシンガー・ソング・ライター Kathryn Claire という人の新譜来日ツアーのラストだった。新作《Eastern Bound For Glory》は会場では売られていたが、まだ正式発売前。

 オレゴン州ポートランドときて、はてどこかで聞いた名前だと思っていたら、ハンツ・アラキと数枚、アルバムを共作していた。アルバムはうっかり聞き逃していたが、こうなると、聞かねばならない。

 今回はしかし、アイリッシュやケルト色は無く、いわゆるアメリカーナだ。大渕さん選抜のバックバンドもすばらしく、極上のアメリカーナを生で聴けた。こういう音楽を生で聴けるのは、あたしには貴重でありがたい体験。まずは、大渕さん、ご苦労様でございました。

 前半はグルーベッジ。前回、林正樹氏を迎えてのライヴは、今年最高、のみならず生涯でも最高のライヴの一つだった。今回はカルテットにもどっての、かっちりとバンドとしてまとまった、切れ味抜群の演奏。

 ナベさんはポップだというのだが、あたしにはトンガって、かつシャープ、しかも密度の濃いその音楽はむしろジャズに近く聞える。切れ味という点では、大渕さんのもう一つのバンド、ハモニカクリームズも負けないが、あちらはシャープな側面とルーズな側面の出し入れ、押し引きのバランスが身上だ。グルーベッジにはどこまでも切れ味を研いでいこうとする姿勢がある。ソロの即興にしても、ジャズや前衛音楽を指向して、どこまで切りこめるか、行けるところまで行ってやれと突っこんでゆく。それでいて一触即発の方へは傾かず、アンサンブルとしてのまとまりと絡み合いをさらに緻密にしてゆく。それはたぶん、ナベさんの性格もあるのかもしれない。ドレクスキップも後期になるにつれ、そういうところが現れていた。これをポップだというのなら、シャープなポップと言うべきか。そんなものがありえるとして、それが今回一番端的に現れていたと聞えたのは〈Cloud 9〉。


 キャスリン・クレアはフィドルも弾くそうだが、今回はバックバンド付きのせいか、あるいは大渕さんがいるせいか、本人は弾かず。大渕さんはキーボードに2曲ほどフィドルを弾き、MCもこなす。

 正直、こういうアメリカーナのシンガー・ソング・ライターは、優れた人も星の数ほどいて、誰を聴くかはもう筋をたどるしかない。何かの縁、赤い糸とは言わないが、天の、ないしはミューズの導きで出会うのをたぐるわけだ。キャスリンは日本には子どもの頃、数年滞在したこともある由で、その時通った、在日アメリカ人の子弟が通うアメリカン・スクールでソングライティングのワークショップもやったそうだ。

 キャスリンはシンガーとして一級で、重心の低い声も好み。歌作りとしても、厳しい内容を明るいメロディに載せられる人だ。このあたりがアイリッシュの流れを汲んでいるところ。ハイライトは最新作に入っている〈Dead in the Water〉。ここでの大橋氏のギター・ソロが見事。

 もう一つのハイライトはアンコール。グルーベッジのメンバーも加わっての、ジョン・デンヴァーの、たしか〈悲しみのジェット・プレーン〉という邦題がついていたヒット曲だが、思いきりアップテンポの緊張感漲る演奏が、曲の隠れた良さを展開してくれた。各メンバーにソロも回し、最高のエンディング。

 バックバンドのメンバーは大渕さんが最高と信じるメンバーを集めましたということだが、いずれも一騎当千の強者。とりわけ、ギターは大渕さんが「橙」というユニットを組んでいる相手でもある。あちらはアコースティック・ギターで、むしろ黒子に徹するところがあるが、エレキを持って、大渕さんと丁々発止するところも見たい。

 こういうシンガー・ソング・ライターなら、このバンド・サウンドも最高だが、本人のギターと大渕さんのフィドルだけというのも一度見たかった。キャスリンは結構頻繁に来日しているようだから、将来、そういうチャンスもあることを期待しよう。

 お客には大渕さんの人脈か、大渕さんと同年輩の女性が多いが、キャスリンなら、あたしと同世代の、アメリカーナが好きな爺さんたちも楽しめるはずだ。まずは、会場で買った3枚のCDとハンツとの共作を聴き込むことにしよう。(ゆ)


Kathryn Claire: vocal, guitar
大渕愛子: keyboards, fiddle
大橋大哉: electric guitars
吉川知宏: drums
藤野俊雄: bass


GROOVEDGE
渡辺庸介: percussions
大渕愛子: fiddle
中村大史: guitar
秦コータロー: accordion


Emigrant's Song/the Labourer's Lament
Hanz Araki & Kathryn Claire
Imports
2013-08-13


Bones Will Last
Kathryn Claire
CD Baby
2017-03-24




 セカンド《by the way》レコ発ライヴということで、短かいセットを3つ。パート1と3は主に新譜から、パート2は主にファーストからの選曲、という構成。もっともCD自体は10-13発売。

 ライヴになるとフロントの二人の安定感が際立ってくる。録音では、今回のセカンドではアレンジに工夫を凝らし、楽器の絡み合いも念入りに考えていて、そこが大きな魅力の一つなのだが、ライヴになると、フィドルとアコーディオンのユニゾンの滑らかさが何とも言えぬ快感を生む。もともとこの二つの楽器の組合せはアイリッシュ・ミュージックの面白さの核を体現しているところがあって、音のキャラクターとしても似合いの一組なのだが、沼下さんと田中さんの組合せにはそれとは別に、ミュージシャン同士として、互いにハマっているところが聞える。沼下さんによれば特に意識して装飾音などを合わせているわけではないそうだが、細かいところまでよく一致する。音色の合い方と装飾音まで含めたフレーズの合い方が相俟って、ユニゾンの極致とすら思えてくる。とにかく気持ちが良い。このユニゾンによって、カルテットがトリオに聞えたりする。

 一方で、では初めから終りまでトリオかというと、そんなことにならないのが、今のこのバンドの面白さだ。録音よりユニゾンが前面に出るとはいえ、アレンジの冒険があちこちで飛び出してくる。カルテットが今度はビッグバンドにも聞える。CDでも冒頭にはいっているオープニングの曲はその典型だ。異なるビートが並行して進んでいって、やがて一つになり、また別れ、融合する。全体に筋を通して引き締めているのが岡さんのブズーキで、熊谷さんのパーカッションが、時に先頭になって引張り、あるいは地面の下から持ち上げ、そして世界をどーんと拡大する。時には、そこで聴いている空間よりも大きく破裂させる。

 このバンドはそもそも岡さんと沼下さんが熊谷さんと演りたいと思って始まっているが、熊谷さんの演奏の深化が魅力でもある。たとえばパート1ラストの〈House Party〉のスライドのドラミング、パート2〈マルシェの散歩道〉での、他の3人によるユニゾンを浮上させるダイナミズム。極めつけは、新譜の目玉でもある〈Waterman's〉。マイケル・マクゴールドリックによる8分の9拍子と8分の11拍子の組合せのこの曲は、バンドとしての初演からやっている。初めの頃は、変拍子を必死になって叩いていたのが、どんどん良くなってきて、今ではもう余裕をもって遊んでいる。わざとビートをズラすのがいい。そうするとフロントの演奏も良くなって、今回のハイライト。新譜の演奏はこれまでで最高と思えたが、それすら凌駕している。

 速い曲ばかりでなくて、パート2〈ヒコーキ雲とビール〉では、録音よりもテンポを落とし、アレンジも変えて、面目一新。ファーストの曲をセカンドの精神で組み直しているのだ。そういえば他でもテンポのコントロールが一段と冴えて、緩急の差が破綻なしにより大きくなり、劇的効果が効いている。ポリリズムとさえ言えそうな複数のテンポ、ビートと緩急の出し入れは、これからのこのバンドのテーマになってゆくのだろう。そうすると、フロントの二人のメロディ演奏の安定していることが大きくモノを言ってこよう。

 アンコールはもちろん新譜でも最後に入っている〈Shee Beg Shee Mor〉。二人で弾いているのかと思ったら、3人が右手だけで弾く。今回はこれに熊谷さんが低域で茶々を入れるのがまたいい。録音でも、今回も、3人のフレーズはまったくの即興だそうだ。

 こうなると、アイリッシュをベースにしながら、もう少しジャズに振れたアンサンブルも聴きたくなってくる。今回も一瞬、それを連想させる場面もあって、ココロが躍った。

 生きてるだけでとられる税金がまた上がるので鬱になりかけていたのが、救われた気分。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

沼下麻莉香(フィドル)
田中千尋(ボタンアコーディオン)
岡皆実(アイリッシュブズーキ)
熊谷太輔(パーカッション)


Blow
セツメロゥズ
ロイシンダフプロダクション
2018-01-14


 西調布のレストラン、菜花でのヨーロッパ伝統音楽のライヴ・シリーズ第2回。フィドルの奥貫史子さんとハープの梅田千晶さんのデュオ。あたし的には梅田週間の最後。

 この二人はこれにバゥロン、パーカッションの北川友里さんが加わって Koucya というトリオを組んでいる。この日は北川さんはお休みで、デュオに曲によってナヴィゲーターのトシバウロンがバゥロンで加わった。これはこれでいいものではあるが、Koucya でのライヴも見たいものではある。

 奥貫さんはホメリで一度ライヴを見ているし、あちこちのイベントで見ているが、彼女のフィドルをじっくり生で聴くのは初めてだ。カナダのケープ・ブレトンが好きで、よく通っていることは聞いている。

 今回はケープ・ブレトンばかりではなく、アイリッシュやらケープ・ブレトンの源流スコティッシュやら、また Koucya のレパートリィも多い。その各々にふさわしいフィドルを弾くのは当然といえば当然だが、やはり見事なものではある。

 それでもやはりこのフィドルは他のアイリッシュやケルト系のフィドラーとは一線を画す。まず実にキレがいい。決然としている。主張が強い。一つひとつの音、フレーズの形がくっきりしている。輪郭が見える気すらする。一方で音にツヤがある。艷気よりも清冽な渓流のような、よく磨きこんだ銘木のようなツヤである。それがアイルランドにゆくとドニゴールの響きになるし、スコティッシュやケープ・ブレトンにはよく合う。ただ、ポルカを弾いてもドニゴール・スタイルになるのが、ちょっと不思議に響いたりもする。

 もっとも今回そのツヤが最も輝いたのは奥貫さんがバッハの〈主よ人の望みの喜びよ〉をアレンジした〈BWV147〉。無伴奏ソロ演奏ということもあるが、有名なこのメロディをワルツからリール、さらにキーを上げてゆくフィドルの茶目っ気には、バッハ本人が聞いたら大喜びしたにちがいない。バッハは「バッハらしく」演奏しなくてはならない、なんてことはまったくないのだ。むしろバッハは当時の身の周りのフォーク・ミュージックに親しんでいたはずで、こういうダンス・チューンとしての方がずっと「バッハらしい」かもしれない。

 音もだが、演奏スタイルも今、わが国で活躍しているケルト系フィドラーの中では最も奔放な方だろう。奔放さでこれに匹敵するのは大渕さんぐらい。それにしても、奥貫さんの使う楽器が普通よりも大きく見えるのはあたしの錯覚だろうか。本人に確かめるのを忘れたが。

 奥貫さんはフット・パーカッションも使う。靴もちゃんと爪先と踵に金属を張ったダンス・シューズを履いて、1曲見事なオタワ・ヴァレー・スタイルのステップ・ダンスも披露した。床にはボードも置かれていて、これはお店が用意されたものだった由。ダンスの時はハープがメロディ、バゥロンがビートをつけた。ハープで踊る、というのも珍しい。いや、この場合、ダンスの伴奏をハープがするというのが珍しい、と言うべきか。こんなことをやるのは世界でも梅田さんくらいではないか。

 相手のフィドルがそういうものだから、梅田さんのハープも前2回とはがらりと変わる。こちらも一つひとつの音を強く、明瞭に弾くし、全体にパーカッシヴなスタイルが多くなる。パンチが効いている。かと思うと、低域でコードを入れながら、ユニゾンでメロディを弾くのも増える。だけでなく、音の大小、強弱をよりはっきりと打ち出す。楽器に可能な音域を目一杯に使う。

 Koucya のレパートリィでオリジナルの〈葉っぱのワルツ〉では、間奏でフィドルもハープもジャズ的な展開までする。

 梅田さんはやはり器が大きい。相手がどう来ようと、それをどっしりと受けとめて、ふさわしい返しをする。テクニックの抽斗や語彙の豊冨なことが土台になっているが、それだけでなく、ミュージシャンとしての器量が大きいのだ。こうやって短期間に異なる組合せで見て、ようやくそこがわかってきた。

 この菜花トラッドでは食事と飲物が付く。前回はアイリッシュ・ミュージックがメインだったのでアイリッシュ・シチュー。今回はイングランドのシェパーズ・パイにサラダとパンのセット。シェパーズ・パイはポテトとマトンで作るそうだが、実に旨い。サラダもパンも旨い。量も充分。前回のアイリッシュ・シチューも旨かったが、これだけ旨いと、ふだんの食事に来たくなる。もう少し近ければなあ。小田急の沿線に店を出してくれないものか。パウンド・ケーキがあったので、休憩の時に頼んでみる。胡桃が入って、チョコレートも入っているのか、黒に近い褐色のケーキで、これがまた旨い。Hasami Porcelain のマグに入れて出されたコーヒーも旨い。何も彼も旨い。もうたまりまへん。

 旨い食事と美味しい音楽。生きてることはいいことだ。(ゆ)

奥貫史子: fiddle, foot percussion, step dancing
梅田千晶: harp
トシバウロン: bodhran

 梅田週間第二弾。前回と楽器が同じフルートの須貝さんとのデュオ。

 楽器は同じだが、音も雰囲気もまるで違うのが面白い。あるいは使う楽器の違いもあるのかもしれない。矢島さんの楽器については知らないが、須貝さんのものはオーストリアのマイケル・グリンター製で、たしか豊田さんも同じメーカーの楽器を使っていたと記憶する。グリンター氏はアイリッシュ・フルートのメーカーとしては世界でも1、2を争う人気だったが、昨年末、交通事故で亡くなられたのだそうだ。この日はそのグリンター氏に捧げるということで、須貝さんが珍しくも無伴奏ソロでスロー・エア〈Easter Snow〉を吹いた。これがまずハイライト。

 独断と偏見で言わせてもらえば、パイプに最も合う曲種はジグだ。ホィッスルにはホーンパイプ。フィドルはリールで、アコーディオンにはポルカ。そしてフルートにはスロー・エアである。フルートは息継ぎをしなければならない。ホィッスルも同じだが、音を出すのに必要な息の量が格段に違うので、ホィッスルでは息継ぎは少なくてすむ。フルートは結構頻繁に必要だ。一つひとつの音を延ばすスロー・エアでは、息継ぎのタイミングをはかるのが簡単ではない。一方で、うまく合うと、それがアクセントになって、メロディが引き立つ。他の楽器ではまず不可能な形で「入魂の」演奏になる。自分が演奏している楽器を作った人への鎮魂歌はその実例だった。

 後半のオープニングはスウェーデンの曲を2曲。まずはポルスカをロウ・ホイッスル、次に〈夏のワルツ〉をコンサティーナで演る。これまたスウェーデンの伝統ではありえない組合せで、新鮮だ。とりわけワルツではコンサティーナがよくうたう。

 今週は梅田週間なので、普段よりも梅田さんの音に集中して聴いてみる。曲によってパターンを変え、さらにリピート毎に変え、同じことを繰り返すことがない。基本的には左手がベースで右手がハーモニーだが、コードをストロークするかわりに複数の弦を同時に弾く。ハーモニーのつけ方にも、カウンターを奏でるのとメロディにより添うのがまず目立つ。右手も左手と一緒にコードを弾くこともあり、左手も時には右手のもう一つ下でメロディに添うこともある。Shannon Heaton の〈Bluedress Waltz〉では、アルペジオの音に強弱を付け、曲の表情に陰翳を生む。これもハープのほぼ独壇場だ。

 会場は京王線・仙川駅から歩いて10分ほど、桐朋学園の裏にあたる人家を改造したスペース。普段は陶芸のギャラリーで、時にカフェにもなるそうだ。二人は入口を入ったところのタタキで演奏し、聴衆は一段上がった木の床に並べられたテーブルと椅子に座る。最大15名とのことで、実際には11名。心地良いハウス・コンサートの趣。生音も気持ち良く響いて、ハープの音がいつになく明瞭に聞える。輪郭がくっきりしている。同時に例えば低音弦のサステインが沈んでゆくのが実感できる。聴く方の位置が高いことも作用しているのかもしれない。

 須貝さんの〈Mother's Lalluby〉には、あらためて良い曲だと認識させられる。須貝さんは一見どっしり構えた肝っ玉母さんのイメージがますます染み込んでいるが、一方で奥にはかなり繊細な魂があることも垣間見える。坦々とサポートする梅田さんが母親に見えてくる。

 休憩時間に、クリーム・チーズ・ケーキと紅茶がふるまわれる。まずこのチーズ・ケーキが絶品でありました。これだけのチーズ・ケーキは食べたことがない、と思われるほどの旨さ。紅茶も美味で、こういう紅茶にはなかなかお目にかかれない。

 展示されている陶器で、鈴木卓氏のマグはカップが下のほうへふっくらと膨らんで、まことに良い具合で、わずかにクリームの入った白の無地もよかったのだが、把手のサイズがあたしの手には小さすぎた。どうも国内産のコーヒー・マグはみなさん、下の方を細くするものばかりで、どっしりと安定した形はこれまで見たことがなかった。今メインに使っている銀座・月光荘謹製のマグはまずまず気に入っているが、もうちょっと大振りのものがあればなあ。

 仙川には美味しいパン屋さんがあるそうだが、ライヴ終演後では売り切れとのことで、やむなく次善の策をとる。(ゆ)

須貝知世: flute, whistle, low whistle, concertina
梅田千晶: harp

 梅田週間の第一弾。計画したわけではないが、梅田さんが相手を替えてやるライヴが3回、1週間のうちに重なる。まずはフルートの矢島絵里子さん。矢島さんのライヴは初めて。

 矢島さんはこの夏にアイルランドにフルートを習いに行ってきたというので、この日はアイルランド尽くしにしたという。

 矢島さんのフルートはこの次に見る須貝知世さんのフルートとは対照的に柔かく、繊細だ。あたしが見ているフルート吹きは豊田さんにしても、hatao さんにしても、須貝さんにしても、いずれも音が太く、強く、たっぷりとしている。これもたまたまそうなったのだろうが、そういうフルートに慣れていたので、矢島さんのフルートにはちょっと意表を突かれる。あるいはもともとクラシックのフルートをやっていたのだろうか。もちろん、アイリッシュのフルートは太くなければならないはずはない。この優しいフルートもなかなかいい。

 もっとも出だしは少し硬くなっていたようで、曲が進むにつれて腰が座ってくる。この辺はやはりアイリッシュで、クラシックのものではない。2曲めでホィッスルにスイッチし、2曲やった後の4曲めのフルートはぐんと良くなっている。こういう優しく繊細なリールは他ではあまり聞いたことがない。前半最後の〈Ashokan Farewell〉は今回、アイルランドで、先生に気に入っている曲を教えてくれと頼んだら教えられた曲だそうだ。もともとはワルツだが、これを半分以下にテンポを落とし、ほとんどスロー・エアとしてやったのはすばらしかった。メロディの美しさがひときわ映える。この曲がアイルランドにも広まっているのは、〈Josephin's Waltz〉が "Trad." として広まっているようなものだろう。

 後半に入るとますます調子が出てきて、冒頭で梅田さんがホィッスルに挑戦し、ホィッスル2本で〈Lord Inchiquin〉をやったのがまずハイライト。梅田さんがメイン・メロディを吹き、矢島さんがハーモニーをドローン的につける。2周めでは、メロディに沿ったハーモニーをつける。これもゆっくりとやるのが、やはりメロディが際立つ。カロラン・チューンはむしろミドルからアップ・テンポで演奏されることが多いと改めて思うが、スローなカロランも至極良いものだ。

 その次のホィッスルとハープによる〈King of Fairies > Butterfly〉がまたすばらしい。ホィッスルがよく弾んでいる。

 矢島さんは歌もうたわれる。その次にシャンソンを日本語で2曲。〈ナントに雨が降る〉と〈サンフランシスコの6枚の枯葉〉。軽くアンプを通し、どちらもむしろささやくように唄う。これは何といっても梅田さんのハープ伴奏が効いている。シャンソンの伴奏にハープが使われるなんてことは史上初であろう。梅田さんの凄みは音楽伝統にも沈みこみながら、クレツマーとかシャンソンとか、これまでおよそハープとは無縁だった音楽にも貪欲にくらいついてゆくところだ。それが少しも違和感がない。まるで各々の伝統としてハープが使われているように一方では響きながら、しかしやはり新鮮なのである。この2曲に伴奏をつけるために、数十曲のシャンソンの録音を聴きまくったそうだが、一応はピアノをベースとしながら、ハープの特性をしっかり活かすのは、やはりセンスが良いのだ。

 あたしにとって矢島さんのヴォーカルが気持ち良いのは、しゃべる声と唄う声のピッチが同じであるところだ。たいていの人は唄う時の方が高くなる。故意に高くしているわけではなく、自然にそうなるのだろうが、最近の若い人、とりわけ男性はひょっとして意識して高くしているのではないかと思えることもある。全部ではないが、その違いが聴いていておちつかなくなることがある。本来の声で唄っているのではないように聞えるのだ。しゃべる声と唄う声が同じ高さだと、そういう心配が無い。もっとも歌のタイプによるのかもしれない。例えばブルターニュの歌を唄うとすれば変わってくる可能性はある。

 同じ楽器でも、色々なタイプの演奏を聴くのはやはり勉強になって、面白い。フルートはカラダと直接つながるから、その人の人となりが表に出やすい。もっとも、伝統音楽はクラシックやポップスや、あるいはジャズに比べてさえ、他の楽器でも当人の生地が音や音楽に反映する割合が大きくなる。そこがまた面白いところではある。

 こういうライヴを見聞してしまうと、どうも録音を聴く気が起こらなくなるのも困りものだ。録音は録音で聴かねばならないものがどんどんと溜まっているのだが、近頃、移動の間やヒマな時には本ばかり読んでいる。(ゆ)

矢島絵里子: wood flute, modern flute, whistle, vocal
梅田千晶: harp

 いやあ、もう、サイコーに気持ち良い。ダブル・パイプはドローンが出ただけで有頂天になってしまうんですと中原さんは言う。パイパーはパイプを演奏していると脳内麻薬が出てきて、にやにやしてしまうと鉄心さんも言う。聴いている方でもいくぶん量は少ないだろうが、快感のもとは出ている。パイプの音の重なりには他には無い気持ち良さがある。スコットランドのパイプ・バンドの快感もおそらく同様のものなのだ。

 それにしてもイリン・パイプの音の重なりは実際に、生で聴かないと、その本当の気持ち良さはたぶんわからない。この日はまず午前中雨が降って、湿度がパイプにちょうど良いものになった。会場はレストランで、ミュージシャンたちの背後は白壁だが、上の方が少し丸くなっている。天井も円筒形。ここは以前、さいとうともこさんを聴いたが、生楽器が活きるヴェニューだ。この日もアコースティック・ギターに軽く増幅をかけた他はすべて生音。

 イリン・パイプのデュオは中原さんと金子鉄心さんが臨時に組んだもの、というよりパイパーが二人いるから一丁一緒にやるかという感じのセッションで、この日のライヴの本来の趣旨からはいささかずれるのだが、これを聴くというより体験できたのは、まことに得難く、ありがたく、生きてて良かったレベルのものでありました。

 ふだん関西で活動している鞴座が東下するので、中原さんがそれを迎えてフィドルの西村さんをひっぱり出してデュオのライヴを仕込んだ、というところらしい。西村さんとのデュオは断続的に10年ほど前からやっているそうだが、この日は久しぶりに人前で演奏するものだという。とはいえ、二人の呼吸はぴったりで、フィドルとパイプのデュオの楽しさを満喫する。

 そろそろデュオという名のとおり、速い曲をたったかたったか演るのではなく、ゆったりとした演奏なのも肩の力がいい具合に抜ける。ジグをゆっくり演奏するのがこんなに良いものとは知らなんだ。ホーンパイプ、いいんですよねー、というのにはまったくその通りと相槌をうつ。何度でも言うが、ホーンパイプこそはアイリッシュのキモなのだ。ホーンパイプをちゃんとホーンパイプとして聴かせられるのが、アイリッシュ・ミュージックのキモを摑んでいる証である。では、どういうのがちゃんとしたホーンパイプか、というのは、いつものことだが言葉では表しがたい。あえて言えば、あの弾むノリをうまく弾ませられるかどうかが明暗を分ける。一方で弾んでばかりではやはり足りなくて、あの粘りをうまく粘れるか、もポイントだ。

 このデュオは基本的にユニゾンだが、時々、片方がドローンだけやったり、また一カ所、フィドルがソロで始めたのがあって、すぐにユニゾンになったのには、もう少しソロで聴いていたかった。ワンコーラスくらい、それぞれに無伴奏のソロでやるのもいいんじゃないかとも思う。それにしても、これだけ中原さんのパイプをじっくり聴くのも久しぶりのような気もする。

 そろそろデュオは6曲ほどで、鉄心さんが呼びこまれ、3曲、ダブル・パイプとこれにフィドルが加わる形で演る。これが聴けただけでも来た甲斐があった。

 休憩の後、鞴座の二人に今回は録音でもサポートし、エンジニアもやられている岡崎泰正氏がアコースティック・ギターで加わる。岡崎氏は1曲〈Gillie Mor〉ではヴォーカルも披露する。スティングがお手本らしいが、なかなか聴かせた。

 鞴座は鞴を用いた楽器のユニットということで、レパートリィはアイルランドやらクレズマーやらブルガリアやら、おふたりの心の琴線に響いた音楽のエッセンスをすくい上げ、オリジナルとして提示する。その曲、演奏には、わずかだが明瞭なユーモアの味が入っているのが魅力だ。ルーツ・ミュージックをやる人たちは往々にしてどシリアスになりがちだが、鞴座の二人の性格からだろうか、聴いているとくすりと笑ってしまう。どこが可笑しいとか、ここがツボだという明瞭なものがあるわけではない。吉本流にさあ笑え、笑わんかい、と押しつけたり騒いだりもしない。別に笑いをとろうと意識していないのだ。ただ、聴いていると顔がほころんできて、にやにやしてしまう。鉄心流に言えば、脳内麻薬が降りてきているのだろう。

 藤沢さんはもっぱら鍵盤アコーディオンのみだが、鉄心さんはパイプだけでなく、ソプラノ・サックスやらホィッスルやらもあやつる。これがまたとぼけた味を出す。鉄心さんのとぼけた味と、藤沢さんのいたってクールな姿勢がまた対照的で、ボケとツッコミというのでもなく、二人の佇まいにふふふとまた笑いが出る。

 岡崎氏のギターも長いつきあいからだろう、いたって適切、サポートのお手本の演奏だ。

 アンコールは全員で〈Sally Garden〉。これが意外に良かった。2周めでは鉄心さんのパイプがハーモニーに回り、これまた美味。

 もう一度それにしても、ダブル・パイプはまた聴きたい。鉄心さんだけでもやって来て、一晩、イリン・パイプだけ、なんてのをやってくれないものか。

 All in Fun は料理も旨く、生楽器の響きも良く、また来たい。大塚の駅前は都電が走っていてなつかしいが、幸か不幸か、電車は来なかった。来ていたら反射的に乗ってしまいそうだ。(ゆ)

そろそろデュオ
中原直生: uillean pipes, whistles
西村玲子: fiddle

鞴座
金子鉄心: uillean pipes, soprano saxophone, whistle
藤沢祥衣: accordion
+
岡崎泰正: acoustic guitar, vocal


The First Quarter Moon
鞴座 Fuigodza
KETTLE RECORD
2019-02-17


フイゴ座の怪人
鞴座
KETTLE RECORD
2016-12-17


鞴座の夜 A Night At The Fuigodza
鞴座
KETTLE RECORD
2004-10-31






トリケラ旅行紀
鞴座
KETTLE RECORD
2012-07-22


おはなし
鞴座
KETTLE RECORDS
2014-09-14


ふいごまつり
鞴座
KETTLE RECORD
2008-11-09


 今回はトリオ。やはりあたしはトリオの方が好みだ。ドラムスが入って、強力にドライヴするハモクリも良いのだが、3人各々の演奏が内部までしっかり聴けて、その絡みもよくわかる方が面白い。どこでユニゾンして、どこでハーモニーになり、どこは掛合で、どこはソロをとるか。ギターのカッティングの変化、ハモニカの楽器の交換による音色の変化、フィドルのエフェクタの切替。超高速パッセージで突っ走りながら、そういう細かい変化を織りこんでゆくのが、このバンドの醍醐味だ。ゆったりじっくりはどちらかというと、個々のソロを展開するための母体になる。

 トリオのせいか、いつもよりフィドルの音量が大きく、よく聞えるのも嬉しい。それに呼応するように、ハモニカでとんでもなく高い音域の楽器を使うのがまた面白い。ブルターニュのバグパイプ、ビニューと同じくらい。

 もう一つ、今回の特殊事情はロケーション。スケジュールの都合で、メンバーのうち二人は22:25発御殿場線最終国府津行きに乗らねばならない。あたしも同じ電車に乗らねばこの日のうちに帰れないから調べたが、万一これを逃すと、新松田までタクシーを飛ばすことになり、1.5万はかかる。終演時刻の縛りがきついのだ。

 もちろん、こういうことは初めてではないだろうが、緊張感はやはり質が違う。限られた時間に全精力をぶち込む勢いが違う。このバンドの場合、演奏の切れ味が一段とシャープになる。たとえば、〈Speak Easy Roll〉イントロのハモニカ・ソロ。いつ聞いてもこのソロは凄いが、テンポをまだ上げないところの密度の濃さ。

 そしてその次の〈時間泥棒〉。録音も含めて、これまでに聴いた最高の〈時間泥棒〉かもしれない。何が凄いか。間奏部の即興はもちろんだが、メインのメロディを細かく、ごくわずか崩したりオカズを加えたり、あるいは4分の1拍ずらしたりして変形する、そのスリルがたまらない。一見、ラフに奔放に演奏しているように見せながら、実はおそろしく緻密に演っているその対称の妙。それはこのバンドの音楽全体に言えるが、この曲にはその手法のメリットが凝縮されている。

 聴衆の反応がまたいい。清野さんがアオるせいもあるのだろうが、それだけでなく、演奏の機微に敏感に反応する。ほとんどは地元ないしその関係者だろうか。帰りの電車にはあたしらの他にはそれらしき人はいなかった。あるいは皆さん、車で来ていたのか。

 御殿場線は初めて乗る。やはり初めて乗る線は楽しい。乗り鉄というほどではないが、列車に乗るのは好きで、ずっと外を眺める。箱根の外輪山の外側を通るので、山の陰になり、暗くなるのが早い。今度はもっと明るい時間にのんびりと乗りに来よう。

 早く着いたので、会場の場所を確認しようと歩いていたら、旨そうなラーメン屋があり、ちょっと迷ったがどうせ食事はせねばならないし、思いの外、寒かったので、入ってみる。煮干しダシの品を頼んで、なかなかの味でござんした。

 ふだん行かないような場所でのライヴはやはり面白い。そこへ行くことそのものがまず面白く、いつもとは雰囲気の違うところで聴くと、音楽も新鮮だ。山小屋でのアイリッシュ・ミュージック・キャンプも行きたい。今年は仕事とかち合ってしまったが、いずれ、チャンスがあるだろう。(ゆ)


ステレオタイプ
ハモニカクリームズ
Pヴァイン・レコード
2018-03-28


 今年最高のライヴ。今年は水準の高いライヴが多く、先週のザ・なつやすみばんど+ tricolor はじめ、「今年最高!」がいくつもあるのだが、これは「夢の共演」の実現がそのまま期待どおりに期待を超えてくれて、身も心もとろける想い。

 林氏のライヴは何回か見ていて、どれもすばらしいものだったが、どちらかというと隙間の多い、むしろ静かな思索系の音楽の印象が強かった。グルーベッジのような、「はしゃぎ系」の、精神としてはジャズよりもロック寄りのアンサンブルで氏のピアノを聴くのは初めてだ。それがどうなるのだろうというのが、期待のポイントの一つだったわけだ。

 まず面白いかったのは林氏が入ることで、グルーベッジのバンドとしての性格が顕わになったこと。大渕さんがいることと、ドラムス系のパーカッションがいるから、あたしが見ている中で編成とサウンドが一番近いのはハモニカクリームズだ。ハモクリのアンサンブルは清野さんを中心として、ハープとフィドルのフロントが引張る形だ。個々のミュージシャンの展開の積み重ねになる。グルーベッジではバンドの中心はナベさんのパーカッションになる。これがアコーディオンとフィドルのフロントを押し出す。アニーも含めてソロも少なくないが、他の3人の演奏はパーカッションにつながっていて、バンド全体のアンサンブルとしての性格が強い。

 ハモクリにドラムスが入る形で見ることが多いのだが、ハモクリのドラムスは田中さんも含めて、アンサンブルの土台を据えて、ビートをキープする役割だ。グルーベッジのナベさんはおとなしくビートをキープするよりも、自分から走りだす。いわば、ナベさんのパーカッションがキント雲となって他のメンバーを載せて、天翔ける。ビートのキープはアニーのギターが担う。

 そこに林氏のピアノが加わると、リズム・セクションが充実する。終演後にアニーも言っていたが、ギターだけだと時に充分ではないと感じていたところへ、ピアノによって厚みが加わり、奥行も深くなる。カルテットのグルーベッジに何か欠けているわけではないが、ピアノが加わったクィンテットは理想により近い。

 それにしても林氏のピアノ表現の多彩多様なことにはあらためて驚かされる。何気ない、どこにでもありそうなフレーズがさらりと入れるだけで、音楽の全体の味わいがぐんと深くなる。かと思うと、おそろしくトンガった不協和音を叩きこんで、突如別世界を現出させる。他のメンバーを煽り、またより奔放な展開を誘う。

 冒頭4曲、グルーベッジのカルテットで演奏し、5曲目に林氏が入ったのだが、これがまず凄い。グルーベッジのメンバーは林氏が入るというだけで一段ギアが切り替わる。曲は〈パラドックス〉で、アコーディオンからソロを回してゆくのを、ピアノが裏でさらに煽る。フィドルから受けたギターはいきなりテンポを変えてロックンロールになり、さらにぐんとテンポを落としてブルーズになり、これをピアノが受けて見事なブルーズ・ピアノで入り、またもとの曲にもどる。これだけでも来た甲斐があると思っていたら、後半にさらに凄いものが待っていた。

 せっかくだからとやった林氏の2曲は、この世のものとも思えない至福の音楽。1曲めの〈ブルー・グレイ・ロード〉は間を奏でるのレパートリィとして馴染んだ曲だが、ここでもソロを回して、まったく別の様相を見せる。この日はどの曲でも秦さんのアコーディオン・ソロがすばらしい。何をどう精進するとこうなるのであろうか。繰り出してくるフレーズがいちいち腑に落ち、胸に染みる。

 2曲めは林氏の「五十音シリーズ」の1曲〈ソタチ〉、「ソ」の音が全体の音の4分の3を占めるという曲で、なるほど同じ音が連発されるのだが、これがまた面白い。林氏の曲は、理詰めで始まりながら、そしてその理屈がずっと筋を通しながら、同時に破天荒にすっ飛ぶのが特徴なのだが、その象徴のような曲。演奏の難易度は相当に高そうだが、皆さん、それは楽しそうに演る。

 ピアノが入った演奏を聴いていると、どこかでこういう感覚は味わったことがあるな、と思えてきていた。この2曲を聴いたところで思い当たった。ザッパなのだ。ナベさんはテリィ・ポジオだ。

 幸いにこの日のライヴはビデオ収録され、CSの Music Air ライブ・ラボで10/27、24:00から放映される由。こいつはちゃんと録画しなければいけませんぜ、皆さん。

 それにしてもぜひぜひ、この形は続けてほしい。林氏も楽しそうだったし、グルーベッジも林氏と演ることでさらにまた1枚も2枚も剥けそうだし、録音も作ってほしいと切に願う。

 いやあ、ほんと、生きててよかった。(ゆ)

Groovedge
 秦コータロー: keyboard accordion
 大渕愛子: fiddle
 中村大史: guitar
 渡辺庸介: percussion

林正樹: piano



 ザ・なつやすみバンドの sirafu 氏が、アイルランドのパブ・セッションみたいだとMCで言う。その通り、良いセッションの現場に居合わせて、音楽を浴びている感覚だ。

 対バンというと、二つのアクトのどちらかが前、もう片方が後、最後に一緒に、というのが定型だが、今回は違う。両方のバンドのメンバーがいきなり全員出てきたのには驚いた。いったいどうなるのだ、全部一緒にやるのか。という危惧は、最初の1曲で雲散霧消した。まあ、tricolor が関わってヘンなことになるはずはない。tricolor がイントロの形で1曲演り、そのまま後をうけてザ・なつやすみバンドが演奏する。ああ、いいバンドだ。その後は tricolor だけで2曲ほど演ると、ザ・なつやすみバンドが演り、《うたう日々》で中川氏が唄っていた曲を全員で演る。さらには、片方の演奏にもう片方のメンバーが加わる。

 この二つのユニットの音楽はかなり傾向が異なる。tricolor はアイリッシュをはじめとするケルト系伝統音楽をベースにしたインストゥルメンタルがメインだし、ザ・なつやすみバンドは中川氏のオリジナルの歌が主軸だ。中川氏の音楽の土台はまだよくわからないが、いろいろと入ってもいるようだ。ただ、そこにはケルト系の要素はまず無い。レコードだけ聞いていると、この二つが一緒に演るということはおよそありそうにないと思えるだろう。それが、まったく違和感が無い。各々のキャラはちゃんと立っている一方で、全員で演ってもまるでずっと一緒にやっているように聞える。

 一つにはメンバーの音楽的な懐が皆深い。伝統音楽をやっていると深くなるものだが、ザ・なつやすみバンドのメンバーも負けていない。ジャズが共通の土台のように思えるが、それだけでは無いはずだ。中でも sirafu 氏は別格で、天才と言っていい。演奏する楽器としては現時点ではスティールパンが一番ハマっていたが、トランペットもギターも笛もマンドリンも見事。とにかく音楽のセンスがいい。この点では中村アニーが好一対で、かれもアコースティック・ギター、アコーディオン、ホィッスル、最後にはエレクトリック・ギターまで演っていた。アニーはずっと見てきているから、そうは思っていなかったが、こうして並ぶと、sirafu氏が天才なら、アニーも天才だ。

 この場合の天才はモーツァルトやポール・マッカトニーやコルトレーンの天才とは異なる。音楽をいいものにするコツを心得ていて、その適確なことが尋常でないのだ。ミュージシャンというよりはプロデューサー的な側面だ。他は全く同じメンバーで同じ曲を演っても、その人が入ると入らないのではまるで別物になってしまう。ドーナル・ラニィが典型だ。sirafu 氏やアニーがドーナルと同列というわけではまだ無いが、あのレベルになる資格は充分にある。

 こういう音楽的なセンスの良さはもちろん二人だけではなくて、一級のミュージシャンは皆備えている。というより、このセンスがある人が一級と認められる。tricolor もザ・なつやすみバンドも、他のメンバーも一級だ。一級の集団を天才が引っぱっているわけだ。そういう仕組みが、こうして対バンすると見えてくる。それも、定型ではなくて、このごっちゃの形だからこそ見えてきたのだろう。

 もう一つには、この二つのユニットは音楽に対する態度が共通している。ザ・なつやすみバンドは毎日を夏休みにするために音楽を演っている。tricolor も毎日のぶだん着の音楽を演っている。毎日の暮らしに欠かせないものとして音楽を演っている。音楽無しには1日も生きていけない人間のための音楽を演っている。BGMとして聞き流してもいいし、じっくりと全身全霊で聞き入ることもできる音楽を演っている。

 音楽にもいろいろある。カネを儲けるための音楽や、理想の一点を求めるための音楽や、ふだんの自分とは別の存在になるための音楽や、おしゃべりするための音楽や、いろいろある。そういう中でこの二つのユニットが各々に演っている音楽は、なぜ音楽を演るのかという点でかなり共通している。一緒に演る時に基盤にできる共通の部分が大きい。

 このライヴを見ていて思い出したのは John John Festival と馬喰町バンドの対バンだった。あれも前半後半分担ではなく、二つのバンドが対面して位置し、1曲ずつ交替に演奏し、互いに勝手に相手の演奏に参加していい、という、今回とよく似た形のものだった。JJF と馬喰町バンドも音楽への態度に共通するところが大きかった。

 アニーは JJF のメンバーでもあるが、あちらで見せる顔は tricolor で見せる顔とまたキャラが異なる。ザ・なつやすみバンドのメンバー、たとえば sirafu 氏が別のユニットをやっているとすれば、それもまた見てみたい。全く異なるキャラの音楽が聴けるだろうし、それもまたきっと面白いにちがいない。

 それにしても、ザ・なつやすみバンドは今回初めて見聞したのだが、メンバーは皆さん素敵だ。それぞれに、他のユニットもされているのなら、追っかけをしたくなる。あたしはパーカッショニストに弱いので、村野氏はふーちんと並ぶ女性ドラマーとして嬉しくなる。

 ザ・なつやすみバンドの名前を初めて聞いたのは tricolor の《うたう日々》に中川理沙氏が参加した時で、いい名前だと思ったものの、録音を聴くまでにはいかなかった。中川氏は《うたう日々》のレコ発ライヴにも参加していて、眼の前にいるのに、透明な幕を隔てた「異界」でうたっているような存在感が面白かった。ザ・なつやすみバンドでもそれは変わらないが、自作を唄うので、いくぶん「異界」が近くなっていた感じではある。

 会場はホテル地下のレストランだが、座席は両端に少しあるだけで、大半は立ち見。2時間以上立ちっぱなしでさすがにくたびれ、終演後はたまたま遭遇したアニーにだけ挨拶して、早々に退散した。また少し雨が降ったのか、外の空気はそれほど熱くない。なつやすみももう終りだ。(ゆ)

 8月は毎年、「納涼歌舞伎」と称して、三部制をとる。各部のチケットの価格も若干安い。

 今年は初めて玉三郎が出演し、夜の部に「新版 雪之丞変化」をかけた。出演は玉三郎、中車、七之助、それに狂言回しの鈴虫役を尾上音之助と坂東やゑ六が分担する。見たのはやゑ六の方。

 「雪之丞変化」はタイトルぐらいは聞いたことはあるが、どんな話かも知らなかった。悪代官に両親を殺された長崎の豪商の息子が、歌舞伎役者の女方として身を立てながら、仇を狙う。それを一座の先輩や江戸の盗賊など周囲が支援し、見事、仇を討つ。という話だそうだ。内容的にも、構成上も、かなりいろいろの含みのある話で、これを4人で2時間で見せようというのはいささか無理がある。その無理を通すために、舞台の上に大小様々のスクリーンを置いて、映像を映す。それは舞台の裏の情景だったり、主人公、雪之丞の演技を見ている観客であったり、あるいは「街の声」、さらには雪之丞が演じる舞台そのものだったりする。雪之丞は念願だった江戸での上演で「京鹿子娘道成寺」を演ずるのだが、玉三郎自身が別の機会に演じた際の映像が映しだされる。

 舞台の上に映像を映して、芝居の一部とする手法は昔からあるものだそうだが、大正時代に法律で禁止されてから、その法律の効力が消えても手法としては復活はしていなかったらしい。なぜ、法律で禁止までされたのか、は知らない。

 しばらくやっていなかった手法を復活する、にしては、どうも準備不足のけしき。意図はわかるが、映し出される素材、その使い方、挿入するタイミングや舞台上の演技とのからみ、いずれも噛み合っているとは言えない。

 その中で面白かったのは、冒頭、仁木弾正を演ずる菊之丞が花道を下がってゆくところを正面から映し、この像を増幅して見せたところ。そしてその後、花道から舞台下の空間に降り、歩いてゆくのを追う映像だ。客席からはふだんは絶対に見えない映像で、舞台の上に再現しても、労力の割りに面白くないだろう。後半にも、舞台上の演技を舞台手前から黒衣が映している映像を舞台の画面に映しだしても見せて、これも面白い。カメラはスマホのようだったが、映像としては充分だ。

 雪之丞を玉三郎が演じ、その先輩女方、星三郎を七之助が演じる、というのはおそらくわざとしたことだろう。これもまた玉三郎による後輩教育の一環だ。その七之助は力演だ。とりわけ、宮島で七之助の星三郎が、玉三郎の雪之丞に、女方としての様々な役の心得を諭し、二人して科白の一節を口ずさみ、芝居をするシーンはすばらしい。ここと、その後、星三郎が江戸公演を前に病死するところがハイライト。この二つのシーンだけが際立っていて、他はつまらない。一カ所だけ、若い雪之丞がとんでもなく甲高い声を出すところ、70近い男があの声をあれだけ綺麗に出すのには感心する。

 この話が語っているものの中では、役者としての覚悟と夢を強調しているのだが、玉三郎の演技にそのリアリティが出ていない。娘道成寺を演じる雪之丞を演じるところはさすがで、道成寺を演じるのは玉三郎ではなく、雪之丞の存在感がきちんと出ている。が、それ以外の、まだ雪太郎と呼ばれている頃の未熟さとか、河原者、河原乞食と呼ばれた役者という仕事への迷いとかになると、どこかに忘れてきたように存在感が薄くなる。科白も二度ほど言い間違えていたし、どうもあまり調子が良くないんじゃないか、とすら思えてくる。ひょっとすると、そうした「初心」をとりもどすための工夫なのかもしれないが。この納涼歌舞伎の第一部「伽羅先代萩」も監修し、この新版では補綴と演出もして、忙しすぎるのかもしれない。玉ちゃんもやはり人間だったか。

 1人で五役の中車は大忙しだが、演技としては敵役の土部三斎が一番良かった。派手なところはあまりないが、芝居の屋台骨を支える役を渋く演じるタイプで、この奮闘を見て、ますます好きになってきた。この人と亀蔵が、今のところ、あたしの贔屓だ。(ゆ)

 ひょっとして「クレツマー祭」になるのかと半ば期待、半ば恐れていたのだが、そんなことはなく、むしろ、さらにレパートリィの幅が広く、ばらけてきた。

 ハイライトはそのバラけたものの一つ、ベルギーのグループ Naragonia の曲で、中には芯が通っているが、表面はごく柔かい曲の感触が、このトリオにはよく似合っている。もともとは闊達なダンス・チューンとかクレツマーとか、およそチェロには不向きな類の曲を半ば強引、半ば楽々と、楽しくやってのけてしまうのが魅力であるわけで、巌さんが着々と腕を上げる、というよりも、慣れてきていて、シェトランド・リールまで鮮やかに聞かせてくれるのには顔がほころぶ。

 とはいえ、やはり似合いの曲というのはあるもので、ナラゴニアの曲でのチェロのリリシズムには陶然となる。あらためて元の録音も聴きたくなるが、あちらにはチェロはいない。チェロの入ったナラゴニアの曲はここでしか聴けない。

 もっともそれを言えば、シェトランド・リールにしても、スウェーデンの曲にしても、クレツマーにしても、こんな編成でやっている人たちは他にはいない。チェロだけでなく、ハープだって、その方面では使われない。世界は広いから絶対にいないとは言わないが、一時的なものではなく続けているのは、彼女たちだけだろう。今のところは。

 今日は夏なので、挑戦的に行きます、と言っていたが、編成からして挑戦なのだ。そもそも挑戦というのは、捩り鉢巻きで、腕をまくり、眦を決して、さあやるぞ、とやるもんじゃあ無い。表向きはごくあたりまえの、何でもないことに見えて、ちょっと待てよと考えてみると、とんでもないことをしているのが本当の挑戦というものだ。このトリオはさしづめ、そのお手本のひとつではある。

 トリオとしてあれこれ試し、挑戦するなかで、めぐり遭ったのがナラゴニアということだろう。この路線をもう少し深めてゆくのを聴いてみたいものだ。

 その後の〈Miss Laura Risk〉がまた良い。チェロがよくうたう。こちらはテンポがちょうどよいのだろうか。

 アンコール前は tricolor でやっているジグ。ここでのチェロがまた不思議な音を出す。ダブル・ストップなのだろうか、二つのメロディが聞える。これはたまりまへん。

 ゲンまつりは当面、四季に合わせて続けるそうで、次は涼しくなってから。さて、どうなるか、いや、楽しみだ。(ゆ)

中藤有花: fiddle
巌裕美子: cello
梅田千晶: harp

 北欧好きの3人が集まったトリオの、ライヴを見るのは初めてで、ここで見られるたのはまず最高の体験だった。ここは本当に音が良い、とあらためて確信する。ニッケルハルパもハルダンゲル・フェレも共鳴弦が命の楽器だ。スカンディナヴィアは実に共鳴が好きだ。榎本さんと酒井さんがそれぞれの楽器の共鳴弦の鳴り方を一音だけ弾いて聞かせてくれた、その共鳴が消えてゆくのがはっきりと聞える。こんなに明瞭に聞けたのは初めてだ。ヴェーセンの求道会館もよくわかったが、今回は至近距離でもある。

 実際に演奏すると、それぞれの楽器の音がまた明瞭に独立し、かつ溶けあうのもまた手にとるようにわかる。共鳴弦のある楽器の場合、この溶けあうというのはポイントだ。共鳴弦同士が溶けあってくれず濁ってしまっては、せっかくの共鳴が共鳴にならない。生楽器はノーPAがベストだが、こと共鳴弦楽器に限っては、いつもノーPAが良いとは限らない。ここはそこが理想的だ。それが最高に発揮されるのはユニゾンで、ニッケルハルパとハルダンゲル・フェレのユニゾンの、ほとんど艷気と呼びたくなる豊饒さを堪能できたのがまず収獲。

 考えてみれば、この二つの楽器のユニゾンというのは、伝統の中ではありそうでなかなか無い類。ひょっとするとここでしか聞けないかもしれない。これにハープが加わるのは、さらに稀になる。ノルディックの音楽でハープは少しは出てきているとはいえ、まだまだ異端だと、この日も梅田さんが言っていた。せっかくだからと、ハープのソロでスウェーデンの曲もやる。こういうのを聴くと、どうしてスカンディナヴィアにハープが無いのかと不思議になる。共鳴が不足なのか。ならば、共鳴弦のあるハープを誰か発明してもよさそうなものだ。そんなものは不可能だろうか。しかし、ハープは隣同士の弦が共鳴することもよくある。フィンランドにはハープを横に倒したカンテレがあるわけだが、スウェーデンとノルウェイには何もない。それとも、かつてはあって、消えてしまったのか。一方で残っていないというのは、やはりそれを面白いと思う人間がいなかったということの現れでもある。

 曲はスウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、デンマーク産のものをやってゆく。スウェーデン、ノルウェイあたりの曲は独特のスイング感がたまらない。ハーモニーまでが揺れる。榎本さんも酒井さんも、この揺れるスイングはもう体に染みついていて、揺れがしっかりと地に足が着いている。と言うとヘンかもしれないが、揺れが安定している。揺れの軸がぶれないのだ。

 やはりスウェーデン、ノルウェイの曲が多いが、後半冒頭にやったハラール・ハウゴーの曲がすばらしい。これが今回のハイライト。

 ハイライトはもう一つあって、榎本さんがリードで3人が唄う。こういう音楽をやっていると、どうして唄わないのかとあまりに頻繁に言われるので、唄うことにしました。というので、アカペラでまず榎本+梅田のユニゾンからハーモニー。はじめスウェーデン語でうたい、次に榎本さんがつけた日本語歌詞。これが抱腹絶倒。もっと聞きたい。

 外は暑いけれど、中はすっかり北国の気分。真昼のコンサートというのもいいものだ。(ゆ)


3 Tolker
酒井絵美: fiddle, hardanger fiddle, vocal
榎本翔太: nyckelharpa, vocal
梅田千晶: harp, vocal

公式サイト

 いやしかし、ここまで対照的になるとは思わなんだ。やはりお互いにどこかで、意識しないまでも、対バン相手に対する距離感を測っていたのかもしれない。これがもし na ba na と小松&山本の対バンだったならば、かえってここまで対照的にはならなかったかもしれない。

 対照的なのが悪いのではない。その逆で、まことに面白かったのだが、各々の性格が本来のものから増幅されたところがある。違いが先鋭化したのだ。これも対バンの面白さと言えようか。

 須貝&梅田のデュオは、この形でやるのは珍しい。メンバーは同じでも、トリオとデュオではやはり変わってくる。トリオでの枠組みは残っていて、一応の役割分担はあるが、自由度が上がる。それにしても、こうして二人として聴くと、須貝さんのフルートの音の変わっているのに気がつく。もともと芯の太い、朗らかな音だったのが、さらにすわりが良くなった。〈Mother's Lullaby〉では、これまでよりも遅いテンポなのだが、タメが良い。息切れせず、充分の余裕をもってタメている。一方でリールではトリオの時よりもシャープに聞える。中藤さんと二人揃うと、あの駘蕩とした気分が生まれるのだろうか。あるいは梅田さんのシャープさがより前面に出てくるのか。

 小松&山本は初っ端から全開である。音の塊が旋回しながら飛んできて、こちらを巻きこんで、どこかへ攫ってゆくようだ。

 今回は良くも悪しくも山本さん。メロディをフィドルとユニゾンするかと思えば、コード・ストロークとデニス・カヒル流のぽつんぽつんと音を置いてゆくのを同時にやる。一体、どうやっているのか。さらには、杭を打ちこむようにがつんと弾きながら、後ろも閉じるストローク。ビートに遅れているように聞えるのだが実は合っている、不思議な演奏。

 その後の、ギター・ソロによるワルツがしっとりとした曲の割に、どこか力瘤が入ってもいるようだったのだが、終ってから、実は「京アニ」事件で1人知人が亡くなっていて、今のは犠牲者に捧げました、と言われる。うーむ、いったい、どう反応すればいいのだ。

 これは小松さんにもサプライズだったようだが、そこはうまく拾って、ヴィオラのジグ。これも良いが、フィドルでも低音を多用して、悠揚迫らないテンポで弾いてゆく。こういう器の大きなフィドルは、そう滅多にいるものではない。

 最後にせっかくなので、と4人でやったのがまた良かった。のんびりしているのに、底に緊張感が流れている。2曲めでは、初めフィドルとギターでやり、次にフルートとハープに交替し、そこにフィドルとギターが加わる。フィドルはフルートの上に浮かんだり、下に潜ったり、よく遊ぶ。そこから後半は一気にスピードに乗ったリール。この組合せ、いいじゃないですか。

 やはり対バンは楽しい。たくさん見てゆけば、失敗に遭遇することもあるだろうが、今のところはどの対バンも成功している。失敗するにしても、おそらくは収獲がたくさんある失敗になるのではないか。(ゆ)


はじまりの花
na ba na ナバナ
TOKYO IRISH COMPANY
2015-11-15


Thousands of Flowers
須貝知世
TOKYO IRISH COMPANY
2018-09-02



 いやあ、浴びた、浴びた。ハモクリの快感はここにある。あたしにとってかれらの音楽は、とりわけライヴは、聴くのではない、浴びるのだ。会場の大小は関係ない。大きければ大きいだけ、小さければ小さいなりに、浴び方が変わるだけだ。どちらかというと小さなところで浴びるのが好きなのは、あたしの人間のスケールが小さいからだろう。大きいところに放りだされると、どうしていいかわからなくなってしまう。野外などでは、音楽なんぞ、浴びていられなくなる。

 ここのところハモクリのライヴは対バンが続いていた。それはそれで相手方との出会いがあって楽しい。前回の古川麦も、その前の踊ろうマチルダも、いいミュージシャンで、出逢えて嬉しい。

 とはいえ、何はばかるところなくハモクリの音楽を浴びられる快感はまた格別だ。対バンではなかなか聞けない大渕さんの歌も聴けて、堪能しました。歌は唄いつづければうまくなるので、高い声が無理なく出るようになっている。

 大渕さんのフィドルも変わっている印象。一つはワウワウやファズのエフェクタの使い方が一段と巧妙になった。ハープがむしろ高音へ飛んでゆくのに呼応して、五弦ヴァイオリンの低い方へ低い方へと下ってゆくのも気持ちがよい。アイリッシュ的なソロでは、弓と指がそれぞれにまるで別のことをしているように聞えるし、見える。さらに、これもエフェクタを使うのか、音の輪郭をぼかす。音のエッジを立てない。以前の彼女のフィドルからはちょっと考えられないのだが、これまた妙に気持ちが良い。

 ドラムスの渡辺拓郎氏は、清野さん、長尾さんの同窓だそうで、小田原出身ということもあるらしい。ふだんはメジャーなバンドのメンバーの由。シュアーなロック・ドラマーというところ。ぐいぐいとドライヴするよりも、どっしり構えて、フロントが勝手にできるように支える。

 こういうとき、ロックにいかずにむしろジャズ的になるのが、このバンドの面白いところではある。

 ここは小さい。小田原の駅からは5分ほど歩いた、国道1号、東海道に面した古い家を改造した店だ。店の前の東海道は正月には駅伝のルートになるはずだ。正面から入った土間にバンドが位置し、聴衆はそこから上がった板の間に靴をぬいであがる。前半は入りきれずに外で聞いていた人もいたとかで、後半はどんどん詰めこみ、みな立ち見で踊る。クライマックスでは、狭いなかで輪をつくっている人たちもいる。それがごく自然に見えるバンドではあり、音楽ではある。いつもとは違うロケーションも楽しい。次は御殿場だ。(ゆ)

ステレオタイプ
ハモニカクリームズ
Pヴァイン・レコード
2018-03-28


 今月2回ある定例公演の二つ目。演し物は狂言『左近三郎(さこのさむろう)』と能『夕顔』。

 狂言は短かいもので上演時間15分ほど。狩人と禅坊主の二人の対話劇。なかなか可笑しい。狂言の科白は聞いてすぐわかる。

 能は『源氏物語』を題材にして、ある僧が京で夕顔の霊に会う。こちらも僧と夕顔の霊の二人の劇に、後で事情を説明する役の者が出てくる。演技といえるほどのものはほとんど無い。少なくとも、あたしなどには演技とは見えない。表情も変えず、腕や体も動かさず、舞台をあちこち行ったり来たりするだけ。歌舞伎以上に一定の型にはまっている。その型や型の組合せに意味があるのかもしれない。科白はほとんどわからない。

 僧に続いて、二人がかりで四方に布を巻いて中を隠した篭のようなものを床をすべらせて運んでくる。ここに夕顔の霊が入っていて、途中で布が解かれ、霊が出現する。これを「山ノ端之出」というそうな。

 夕顔の霊は梅若万三郎が勤めたが、腰が悪いらしく、舞台の上でも待っている時は丸椅子に腰かけ、立つ時も介添えが必要な様子だった。立ってしまえば問題はないらしいし、声はしっかりしていた。もっとも、面をつけているから、ますますもって聞き取りにくい。

 前回の『道成寺』は科白自体が少なく、ほとんど音楽と舞踏だった。『夕顔』も音楽劇と呼びたいものだ。違うのはこちらでは地謡が活躍する。八人の男性が舞台の脇に座り、ユニゾンで唄う。我々の席は脇正面なので、地謡の座は正面になる。唄っている時の表情とかが見えて、なかなか面白い。正面をじっと見ていることは同じだが、ずっと瞑目している人、眼を開けたままの人、瞑ったり開けたりしている人、それぞれにいる。年齡の幅はかなり広いようだ。まさか20代ではないだろうが、そう見える人もいる。唄う前に、前に置いていた畳んだ扇子を手に取り、唄っている間、これを立てている。歌が終るとまた前にもどす。この動作のタイミングも八人ぴたりと一致している。もちろん、合図も何も無い。

 それにしても、今回はこの地謡が実に気持ちよい。声の質がたまたまうまく合ったのか、合うように選んでいるのか、とにかくユニゾンの響きが快感そのものだ。ハーモニーの快感にはどこか予定調和的なところがあるが、ユニゾンの響き、それぞれに異なる声の重なり方の快感はもっと原初的だ。ハーモニーは天上から降ってくるが、ユニゾンは地の底から湧いてきて、腹に響く。そして、確かにユニゾンなのに、ハーモニーのような重層的な響きが聞えてくる。ラストも囃子方とともに地謡が盛り上げて、「(霊が)失せにけりぃ」でふっつりと終る。これまた快感。

 能は基本的に音楽劇なのか、とも思ってしまう。大鼓も鼓も打つ前に声を出す。この声は役者が科白を言っていようがいまいがおかまいなしに出す。ますます科白が聞きとりにくい。役者の動きは極端に少ないから、見るというより聞く方が大きい。聞えている音のほとんどは音楽だ。

 まあ、最低でも10本くらいは見ないと、ほんとうのところはわかりそうにないが。(ゆ)

 ふだんはアイルランド在住の村上淳志さんが一時帰国してワークショップなどやられていて、その仕上げとして、主にクラシック・ハープの演奏者向けにアイリッシュ・ハープについて解説する講座をやるので遊びに来ませんかと誘われた。村上さんの話ならきっと面白いにちがいないと、ほいほいとでかける。

 場所は六本木ヒルズの向かいのビルの上。正面全面ガラス張りのセミナールーム。40人ほどだろうか。クラシック向けといいながら、結構アイリッシュ方面の人たちもいたようだ。ワークショップに参加された方もいたのだろう。

 アイリッシュ・ハープとは何ぞや、がテーマではある。ということはアイリッシュ・ミュージックをハープを通じて語ることになる。ルーツ・ミュージックでは楽器と音楽の結びつきが強い。アイリッシュ・ミュージックとは何ぞやを語ろうとすれば、歌は別として、どれかの楽器に即して語るしかない。抽象的なアイリッシュ・ミュージックというものは存在しない。

 村上さんはよく整理されていて、まずセッション、次に装飾音、そして楽器としての特性を解説する。その各々に話が面白いのは、やはり現地で日々、実際に音楽伝統に触れているからだ。

 セッションはユニゾンだ、というのはあたしらには常識だが、それが横につながる感覚だ、というのはミミウロコだ。ハーモニーは縦に重なる感覚になる。アイリッシュ・ミュージックはユニゾンだからつまらないと言ったクラシック音楽関係者がいたらしいが、心底そう信じているのなら、その人間はクラシック音楽そのものもわかっていない。ユニゾンとハーモニーはクラシック音楽の両輪ではないか。

 むろんハーモニーの快感とユニゾンの快感は質が異なる。ただ、ユニゾンの快感の方がより原初的、人間存在の核心に近い感じがする。

 それにユニゾンは単純でない。ユニゾンが快感になるには、ただ同じメロディを同じテンポで演奏すればいいわけではない。表面、簡単に見えながら、内実では繊細で微妙で複雑な調整をしている。それに装飾音だ。

 この装飾音の説明が面白い。カットとかランとか passing note とか、さらにハープが得意とするトリプレットや finger slide や、ハープ流ダブル・ストップを実演しながら紹介する。これは強力だ。入れる時と入れない時を交互に演って比べるのは、まさにメウロコだ。ダブル・ストップというのは村上さんがそう呼んでいるのだそうで、どこにでも通じるものではないらしいが、フィンガー・スライドとともに、近頃巷で流行っている由。

 そしてハーパーにはお待ちかね、ハープ奏法のテクニック。これは主に左手の使い方。10度の多用、つまり10度離れた二つの音を同時に弾くもので、マイケル・ルーニィの影響というのは以前、ハープ講座の時に聞いた。

 ハープ特有のシンコペーションとか、レバー式のハープなればこそ可能になるキーチェンジとか、かなり高度なテクニックではないかと思われる話がぽんぽん出てくる。クラシックのグランド・ハープはペダルで全部の弦の音程を一斉に上下できる。レバー式は1本ずつ手で上げ下げしなければならない、と思いきや、アイリッシュ・ミュージックの曲では五音音階が多いから、オクターヴの1番上は使わないことが多い。するとそこの弦のレバーは動かさずにキーが転換できてしまう。と書いても、実はあたしはよくわかっていない。とにかく、動かすレバーと動かさないレバーの組合せで、グランド・ハープには不可能な技ができてしまう。右手と左手の音階を別々にしたりすらできる。

 これはクラシックのハーパーにはちょっとしたショックではなかろうか。

 そうそう、主な対象はクラシックの演奏者だから、ちゃんと楽譜がレジュメに入っていて、装飾音もきっちり書いてある。

 後半は曲種の紹介。今回は、ジグ、リール、ホーンパイプ、ポルカ、エア、ハープ・チューン、その他という分類。ハープ・チューンはカロランやらその仲間たちの曲。その他にはバーンダンス、フリン、マーチ、ワルツ、マズルカ、セット・ダンスなどが含まれる。

 もちろん各々に実演する。どれもさすがの演奏だが、最後に演奏したその他の曲種、スロー・エア〈黄色い門の町〉から〈Sally Gally〉のメドレーがすばらしい。アレンジもきっちりしていて、これを聞けただけでも、来た甲斐があった。

 最後はお薦めのCDの紹介。村上さんがえらいのは、ハープだけではなく、他の楽器のCDも薦めるところだ。中には自分が演奏する楽器の録音しか聞かないという人もいるが、それではその演奏している楽器も上達しないことを、村上さんはちゃんとわかっている。アイリッシュ・ミュージックを体に染みこませるには、いろいろな楽器の演奏も聞かねばならない。

 ここであたしにご指名があって、20枚ほどあがっているCDで、1枚だけと言われたらどれを選ぶか、と訊ねられる。あたしが選んだのは Brian McNamara《A Piper's Dream》。クラシックではハープはどちらかというと日陰の存在だが、アイリッシュ・ミュージックではハープは女王さま。ただし、臣下がいない。ハープの後を継いだ王様がイリン・パイプ。他の楽器はパイプをエミュレートしようとする。だから、アイリッシュ・ミュージックのCDを何か1枚ならば、まずパイプを聴いてください。

 マクナマラのこのCDはかれのソロ・デビュー作で、タイトル通り、パイパーにとって会心の、これぞ理想の音楽ができた、と言える傑作だ。音楽の新鮮さ、パイプの響きの美しさ、演奏の質の高さ、選曲と組合せの巧さ、まあ、これ以上のものは無いでしょう。

A Piper's Dream
Brian Mcnamara
Claddagh



 村上さんは冒頭でアイリッシュ・ミュージックの性格として、千差万別であり、変化し続ける音楽だ、と言ってのけた。かれは一見華奢で、線が細そうに見えるが、実はこういう根源的なことをさらりと言える大胆不敵な人物なのだ。

 梅雨の晴れ間とまではいかないが、とにかく雨は降りそうもない日曜日。ヒルズやミドタウンの喧騒もどこか遠い世界のように感じる。浮世離れしているといえば、これほど浮世から離れたものもないようなアイリッシュ・ハープの話ではある。が、それ故に、浮世に風穴をひとつひょうと穿けたような、村上さんの話であり、ハープ演奏だった。(ゆ)

 na ba na の音楽はのんびりしている。急がない。ミュージシャン同士の緊迫したからみ合いもない。リールでさえも、ゆるやかだ。

 わざとそうしているようでもない。この3人が集まると、ごく自然にこういう音楽になる、と響く。むしろ、こういう音楽ではない形、スピードに乗ったチューンや、丁々発止のやりとりが出るとなると、どこか無理がかかっているのと見えるのではないかとすら思う。もっとも、いずれそのうち、そういう形が現れないともかぎらない。ある形に決まっていて、それからは絶対にはずれません、というようなところも無いからだ。

 na ba na のライヴは久しぶり。須貝さんの産休もあって、ライヴ自体が久しぶりではないか。須貝さんがコンサティーナを弾いたり、コンサティーナ2台のデュエットをしたり、スウェーデンの曲をやったり、新機軸も結構ある。が、ことさらに、新しいことやってます、というのではない。これまた自然にこうなりました、というけしき。

 梅田さんも中藤さんも、きりりと引き締まるときには引き締まるから、このゆるやかにどこも緊張していないキャラクターは主に須貝さんから出ているのだろう。須貝さんはまだ若いが、どこか「肝っ玉かあさん」の雰囲気がある。ゆるやかで緊張はなくても、だらけたところも無い。芯は1本、太いものが、どーんと、というよりはしなやかに通っている。通っていることすらも、あまり感じさせない。インターフェイスはどこまでも柔かい。

 それにしても生音が気持ち良い。ここは10人も入れば一杯の店だが、天井が高く、片側の壁、ミュージシャンの向い側の壁は全面が木製。ミュージシャンは細長い店の長辺の一つに並ぶ。すると音が広がり、膨らんで、重なりあう。なんの増幅もなしに、3人の音がよく聞える。

 今回、とりわけ快かったのはフィドル。中藤さんのフィドルはよく膨らむのが、さらに一層増幅され、中身のたっぷり詰まった響きが、いくぶん下の方から浮きあがってくる。もう、たまりまへん。

 なんでも速く演ればいいってもんじゃあないよなあ、とこういう音楽を聴くと思う。もっとも、なんでもゆっくり演ればいいってもんでは、一層ないだろう。技術的にはゆっくり演る方が難易度は高そうだ。ヘタで速く演れませんというのは脇に置くとして、意図的に遅くするのとも、このトリオのゆるやかさは異なる。こういうものは性格だけでもなく、日常生活の充実もあるはずだ。いや、幸せオンリーというわけじゃない。そんなことはあるはずがない。日常生活は幸せと不幸がいつも常にないまぜになっているものだ。そのないまぜを正面から受け止めて最善を尽すことを楽しむ。不幸を他人のせいに転嫁するかわりに、自分を高めることで不幸を幸いに転換しようと努める。そういう実践が半分以上はできているということではなかろうか。

 という理屈はともかく、彼女たちの音楽を聴いていると、今日も充実していたと実感できる。(ゆ)

はじまりの花
na ba na ナバナ
TOKYO IRISH COMPANY
2015-11-15


 三重の松阪をベースにするバンド、カンランが7年ぶりに出したセカンド・アルバム《Yggdrasill》はファーストから格段の進化・深化を遂げた傑作で、ぜひ生を見たいと思っていたから、このレコ発ライヴには飛びついた。

 カンランはマンドーラとニッケルハルパのトリタニタツシさん、ヴォーカルのアヤコさん、それにパーカッションのカリム氏のトリオで、主に北欧の伝統音楽とそれをベースにしたオリジナル、さらには日本語の民謡を料理する。

 北欧音楽をやるバンドとしてはまずドレクスキップが有名だろうが、トリタニさんは彼らよりもずっと前から北欧の音楽を演奏してきている。ドレクスキップにとってもモデルの一つだったはずだ。この日は都合がつかなかったパーカッションの代理として、榎本翔太さんがゲストとして全面参加していた。

 "Yggdrasill" は北欧神話に出てくる世界樹であることは言うまでもない。地下の黄泉の世界から天上の神々の世界まで貫いてそびえる巨樹だ。フェロー諸島にこの名前のバンドがあり、来日もしたアイヴォールがリード・ヴォーカルをしていた。

 このセカンドではまずシンガーのアヤコさんの進境が著しい。著しいというよりも、ファーストとは別人のように自信にあふれ、溌剌と唄う。その声がまずすばらしい。ぎっちりと中身の詰まった声が、ごく自然に溢れでて、流れるというよりも飛んでくる。どこにも力が入っておらず、大きくもなく、唄いあげることもしないが、貫通力が抜群だ。口も大きく開いていない。美しい声ではないかもしれないが、聴いていてひどく気持ち良い声だ。いつまでも聴いていたくなる、また聴いていられる声、聴くほどにもっと聴きたくなる声だ。

 同時に、どこか妖しい魅力を備えていて、異界の巫女の声のようでもあり、喜んで聴いていると搦めとられて離れられなくなりそうでもある。呪術的という点ではヴァルティナに通じるところもあるが、もっと重心が低く、そう、神々の世界を翔びまわるフェアリィというよりは、我々の棲むこの世界に根をおろしたもののけの声だ。

 スタイルもいい。一見あるいは一聴、坦々と唄って、感傷も感情もこめることがない。聴きようによっては単調に、無表情に響くかもしれない。唄っている間、表情は変わらない。手の動きや位置で多少強調感をつけることもあるくらいだ。しかし、そこがかえって気持ちが良いのだ。歌にこめられた感情をうたい手が表に出さないのは伝統音楽の一つの大きな特徴だが、それだけではないものがアヤコさんの歌にはある気がする。単に感情を現さないだけでなく、それを凝縮し、ぎりぎりまで固めたものをぽんと押し出す。無表情に見えるのは、あまりにぎりぎりまで押し固められているからだ。それが声にのって飛んでくる。ぽんぽんとカラダに当る。当ってそのまま入りこむ。なんという快感。歌よ、終ってくれるな。この声をいつまでも浴びていたい。

 今回は日本語で唄われている曲が多い。北欧の伝統曲にオリジナルの日本語歌詞をつけたもの、メロディもオリジナルのもの、そして日本語の民謡。民謡は別として、日本語の歌詞がまた面白い。内容も面白いが、それとともに相当に練りこまれていて、音の響きとして面白く、メロディにのっている。それが楽曲全体の気持ち良さをさらに増す。

 トリタニさんはニッケルハルパのわが国における開拓者の1人だが、ベースの楽器はギターで、やはりマンドーラの方が特徴が出るようにみえる。このマンドーラは一般に販売されているものではなく、ギリシャのブズーキを基に、クラシックのマンドリン奏者だった人が製作者と協力して作ったもので、世界でも両手で数えられるくらいの本数しか存在しないそうだ。同じくギリシャのブズーキをもとにアレ・メッレルが独自に改造したのがスウェディッシュ・ブズーキ。アイリッシュ・ブズーキに比べると5コースで、5本めの最低音の弦はフレットをはずして、より低いベースが出るようにしている。という話は後で伺った。

 トリタニさんの楽器はこれらに比べるとボディが大きく、ラウンドバックで、音がより太く、強い。アレ・メッレルもドーナル・ラニィも、ブズーキの音を前面に出すよりも、むしろアンサンブルの中のミュージシャンたちに聞かせるように演奏する。トリタニさんのマンドーラはそれよりも自己主張が大きく、アンサンブルに組込むのにはずいぶん試行錯誤したそうだ。今のシンプルなトリオの形はその成果、一個の結論ではある。もっともこの日、アンコールでジョンジョンと合体したとき、アニーの弾いたピアノが加わった形はなかなか良かった。

 このマンドーラを操るトリタニさんはほとんど天才の域である。コード・ストロークやメロディを奏でるピッキングや、その他、何をどうやっているのか、あたしなどにはわからないことをいとも簡単に、少なくとも簡単そうにやってのける。顔にはもう少しで微笑みといっていいが、そうは言いきれない表情が浮かんでいる。楽しくてたまらず、嬉しくてたまらず、思わず顔がにやけそうになるのを締めているようでもあり、心ここにあらず、音楽にひたりこんでいるようでもある。

 榎本さんはもちろんニッケルハルパで、この人はリードをとっても、サポートに回っても、バランスのとり方が実に適切で巧い。擦弦楽器で適切な歌伴をするにはかなりのセンスの良さを要求される。榎本さんのこのセンスはすばらしい。CD ではパーカッションが入るわけだが、その不在の穴をまったく感じない。これが本来だと思えてしまうほどだ。それでも、1曲、トシさんが加わった時は、ヴォーカル、マンドーラ、ニッケルハルパとの組合せをもっと聴きたくなる。

 この日はカンランのレコ発ライヴということで、John John Festival は前座である。トシさんは「露払い」と言う。かれらのライヴを見るのは、CDとして出た求道会館以来。今年の JJF のテーマはアニーがピアノを弾くことだそうで、半分くらいピアノを弾く。ロバハウスのピアノは小型のアップライトで、ちょっと音がくぐもった感じがするが、今回はそれがちょうどいい。そして、ギターからピアノになると、じょんのフィドルの音が浮上する。じょん自身の進境と相俟って、フィドルの艶かしさが一層映える。これは先々が楽しみだ。最後は例によって歌でしめくくる。その1曲目、もうおなじみの〈思いいづれば〉はほとんどア・カペラでうたうが、ぎりぎりまでテンポを落として回すコブシがこれまでとは一段ちがうほど気持ち良い。ラスト〈海へ〉のハーモニーも堂に入ってきた。

 アヤコさんのヴォーカルを軽く増幅した以外はすべて生音で、ここはやはり生音がほんとうに快い。ニッケルハルパの倍音もよく響く。

 トリタニさんとはトシさんをまじえて、昨日、5時間、飲みながらあれこれおしゃべりしてたいへん楽しかったのだが、カンランの名前の由来を訊くのをすっかり忘れていた。(ゆ)

ユグドラシル
カンラン
Sahara Bleu record
2019-05-19


 アウラは2003年結成、というのは今回初めて披露されたのではなかったか。少なくともあたしは初めて知った。メンバーが変わっているとはいえ、聴くたびに成長している、それも、明瞭に良くなっているのがわかるのは、15年選手としては立派なものではある。

 前回は、新たに加わった2人が他の3人に追いついて、レベルが揃ったことで、ぱっと視界が開けたような新しさがあったが、今回はそのまま全員のレベルが一段上がっている。安定感が抜群だ。レベルが揃ってさらに一段上がったことで、それぞれの個性も明瞭になる。まず5人各々の声の性格が出てくる。個人的には星野氏のアルトと菊池氏の声がお気に入りで、今回はそれがこれまでにも増して素直に耳に入ってくるのが嬉しい。菊池氏の声には独特の芯が通っている。他のメンバーの声がふにゃふにゃというわけではもちろん無い。これは声の良し悪し、歌の上手下手とは別のことで、おそらくは持って生まれた声の質だろう。この芯があることで、たとえば長く伸ばす時、声がまっすぐ向かってくる感じがする。この感覚がたまらない。

 ライヴでは唄っている姿も加わって、この点では奥脇氏が今回は頭抜けている。とりわけ、目玉の〈ボヘミアン・ラプソディ〉での、天然な人柄がそのまま現れたような、いかにも楽しそうな唄いっぷりは、この曲の華やかさを増していた。そろそろこのメンバーで全曲録音した新譜をという話も出ていたのは当然。レパートリィも大幅に入れ換わっているし、録音でじっくり何度も聴きたい。

 曲目リストを眺めると、何時の間にか日本語の歌が大半を占めている。こういうクラシックのコーラス・グループにとって、日本語の歌を唄うのはチャレンジではないかと愚考する。クラシックの発声は当然ながら日本語の発音を考慮に入れていない。あれは印欧語族の言葉を美しく聞かせるための発声だ。そのことは冒頭の〈ハレルヤ〉や後半オープニングの〈ユー・レイズ・ミー・アップ〉、あるいは上記〈ボヘミアン・ラプソディ〉を聴けば明らかだ。こういう曲を開幕やクライマックスなどのポイントに配置するのも、その自覚があるからだろう。それにしても、〈ハレルヤ〉をオープニングにするのは、大胆というか、自信の現れというか、これでまずノックアウトされる。

 クラシックの発声で日本語の歌を美しく唄うための試みの一つは、ヨーロッパのメロディに日本語の歌詞を載せることだ。〈Annie Lawrie〉に載せた〈愛の名のもとに〉は前から唄っていたが、今回は〈Water Is Wide〉に日本語のオリジナルの歌詞を載せた〈約束〉を披露した。むろん水準は軽くクリアしているが、アウラに求められるような成功には達していない気もする。どこが足りないか、あたしなどにはよくわからないが、メロディと日本語の発音の組合せが今一つしっくりしていないように聞える。唄いにくそうなところがわずかにある。

 その点では沖縄の歌の方がしっくりなじんでいる。あるいは日本語の民謡や〈荒城の月〉もなじんでいるようだ。とすると、メロディと発音の関係だろうか。ヨーロッパでも、たとえば本来アイルランド語の伝統歌を英語で唄うとメロディと歌詞がぶつかる、とアイルランド語のネイティヴは言う。

 あるいは詞の問題か。ヨーロッパのメロディに日本語の詞を載せることは、明治期になされて、小学校唱歌として残っている。現代の口語よりも、明治期の漢文調の方が、異質のメロディには合うということだろうか。

 アレンジはどれも見事だ。今回感じ入ったのは、詞をうたっている後ろでうたっているスキャットやハミング、あるいは間奏のアレンジがすばらしい。たとえばわらべうたの〈でんでらりゅう > あんたがたどこさ〉のメドレー。そして〈星めぐりの歌〉のラストの星野氏のアルトがぐんと低く沈むのは、今回のハイライト。

 安定感ということでは、最初から最後まで、テンションが変わらない。以前は、ラストやアンコールあたりで、エネルギーが切れかけたようなところもあったが、今はもうまったく悠々と唄いきる。クラシックのオーケストラなどでは、最初から最後まで常に音を出している楽器は皆無なわけで、2時間のコンサートで全曲、全員が最初から最後まで音を出す、それも声を出し続けるのは、相当のスタミナが必要なはずだ。アウラが観光大使になった沖縄本島は金武町のとんでもなく量の多いタコライスを食べつくすというのも無理はない。

 ああ、しかし、人間の声だけのコンサートの気持ち良さはまた格別。彼女たちが婆さんになった時の歌を聴いてみたいが、そこまではこちらが保たないのう。(ゆ)

内藤希花、城田じゅんじ& Alec Brown @ 大倉山記念館、横浜
 この会場への登り坂の急なことはいつも感心する。初めて行ったときには驚いた。横浜でもずっと南の港の見える丘公園のあたりも急な坂が多いけれど、ここのはずっと長い。つまり高い。帰りは遠くまで一望できる。視界が良ければ海も見えるか。今回はその入口近く、公園の手前の線路に沿っているところに何軒もマンションができていて、ここの住人は毎日この坂を昇り降りしているのかと、またまた感心する。健康には良いかもしれない。実家が建っていたのは丘の中腹で、下のバス道路から入る坂は相当に急だったが、その丘には長生きの人が多かった。

 2月に吉祥寺で内藤、城田のペアに高橋創さんが加わった形で見た時に、最近、チェロを入れたトリオでやっていて、6月にまたやると聞いて楽しみにしていた。フィドルとギターのペアにもう一人加えるとすればチェロがいいと内藤さんは思っていたそうだが、これにはあたしもまったく同意する。アイリッシュの Neil Martin やスコットランドの Abby Newton、アメリカで Alasdair Fraser と組んでいる Natalie Haas といった人たちはチェロでケルト系音楽を豊かにしてくれている。わが国でも巌裕美子さんが出現してくれた。

 あたしの場合、まずチェロの音が好きなのだが、内藤さんはどうやらまず低音が欲しかったらしい。コントラバスではどうしても小回りが効かない。そりゃ、ケルト系の細かい音の動きをコントラバスでやるのは、ジャコ・パストリアス級の天才でもムリだろう。そこでチェロを考えていたのだが、ケルト系をチェロでやっているのは、今のところ上記の4人でほとんど尽きてしまう。

 たまたま YouTube でアイルランドでのセッションの動画を見ていたら、チェロで参加しているやつがいた。あたしが訳した『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』によれば、セッションにチェロを持ちこむ人間は「厳罰を受けて当然」(21pp.)ではあるが、この男は歓迎されていたらしい。そこでいきなり日本に来ませんか、とメッセージを送ったというのはいかにも内藤さんらしい。この人、相当に天然である。受け取った方は初めは詐欺と疑ったそうだが、まあ当然である。それでも何度かやりとりするうちに、ほぼ1年前、とうとうやって来た。一緒にやってみた。昨年秋、ツアーをし、今回が二度目。





 この Alec Brown なる青年はアーカンソー出身で、今はアイルランド留学中、伝統フルートで博士号をとったそうだ。クラシックの世界でチェロでメシが食えるだけでなく、アイリッシュ・フルートも吹けて、しかも歌もうたえる。アーカンソーと言えばド田舎もいいところで、よくもアイリッシュ・ミュージックに出会ったと思うが、その点はわが国も同じか。

 アレック君のチェロは基本はベースだ。ベースのハーモニーをつける。ダブル・ベースのようにはじくこともよくやる。時々、ギターのように横に抱いて親指でかき鳴らす。ただし、その演奏は相当に細かい。小回りはやはり効くのだ。

 で、かれが加わるとどうなるか。実はまだよくわからない。音は当然厚くなる。それがフィドルにどう作用しているか、1度聞いただけでは、まだよくわからなかった。内藤さんは全然変わらない。これも当然。むしろますますスケールが大きくなっていて、風格すら備わっている。それがチェロが加わったことで増幅されているのか、それとも彼女自身の成長か、よくわからない。

 城田さんもまるで変わらない。これもまた当然。音域としてはチェロはフィドルよりもギターに近いし、演奏スタイルもギターに近い。ギターよりはフィドルに接近はする。とすれば、ギターとともにチェロはフィドルを支える形になる。はずだ。そうなることもあるが、そうならないことも多い。むしろ、ギターとともに支えるというよりも、フィドルにからんでゆく。時にユニゾンでメロディを弾く。この場合、同じメロディを例えばオクターヴ低く弾くのではなく、同じ音域でユニゾンする。もっともこれもアイリッシュとしては当然。

 一番大きな変化は歌が増えたこと。アレックは昨年、一人で口ずさんでいるのを内藤さんが耳にして、ライヴで唄うよう薦めるまで、人前でうたったことはなかったそうだ。さすがにまだ荒削りなところもあるが、この人、一級のシンガーだ。うたい手としては城田さんよりも上かもしれない。城田さんはなにしろ経験の厚みが違うから、今はまだまだ比べられないが、うたい手の資質としては上ではないかとも思える。この二人のハーモニーもいい。声の質が合っている。

 アーカンソーの生まれというのはここに出ていて、全体にオールドタイムの曲が増えていた。そして、このトリオのオールドタイムはそれはそれは聴いて気持ちよい。アイリッシュよりも気持ちよい。というよりも、オールドタイムの歌の間奏にアイリッシュのジグをはさむというのは、このトリオでしか聴けない。今のところ。前半最後のこの〈The Cuckoo〉、後半の〈Sally in the Garden〉がハイライト。後者ではアレックは口笛で鳥の声のマネをしてみせる。器用な人だ。その前、かれが唄ったトム・ウェイツの曲もよかった。そしてアンコール、〈Ashokan Farewell〉のフィドルとチェロのユニゾンがたまりまへん。

 前半はあっさりと、後半たっぷりで終演21時を過ぎ、日曜の夜とて、バスの便が無くなるので、終ってすぐに失礼する。正面の扉を出たとたん、正面に満月、そのすぐ下に木星が輝いている。今聴いてきた音楽と同じく、なんとも豪奢だ。(ゆ)

 エージングというとスピーカーやヘッドフォン、イヤフォンなどで、使っているうちにだんだん音が練れて良くなり、聴くのが楽しくなってくる現象だ。音の出口ばかりでなく、アンプやケーブルでもある。

 これが人間の声でもありうるのではないか、と奈加さんの歌を聴いていて思った。奈加さんの歌を聴きだして5、6年だが、ここのところ、声が変わってきたように感じていた。

 歌においての声はもちろん声帯から出る生来のものだけではない。舌や歯や唇やの作用も入っている。発声だけでなく、言葉の発音が融合している。唄う声にエージングがあるとすれば、声帯がその歌に合うように練れてくるだけでなく、舌や唇の発音もまた練れてくるのだろう。

 その効果が明瞭に聴きとれたのは最新作の《Slow & Flow》で、タイトルどおり、テンポをできるだけ落として、ゆっくりと唄われる言葉がそれは快く響く。

 聴いていて気持ちが良いというのは、実のところ、聞き手にとっては最高の体験だ。どんなに美しい声で唄われても、1曲聴けばもうたくさん、ということもありえる。しかし、この日の奈加さんの声は、とにかく、ずっと浸っていたくなる。おしゃべりはいいから、早く唄ってくれ、あの快感に浸らせてくれ、と言いたくなる。

 アイルランド語の歌で快感がとりわけ大きい。奈加さんの声は「イ」の音でよく膨らむ傾向があって、それが少し低めの中音域にかかるとさらに膨らむ。それがうまい具合にここぞというところで出る。もう、たまりまへん。

 今回はピアノの永田さんと二人だけで、これだけシンプルな編成も初めてだ。永田さんは2曲ほどピアニカを使ったりもするし、1曲、〈Tell Me Ma〉で、お客さんの一部に鈴のパーカッションの協力を仰いだりしていたが、それでかえって二人だけの時の、贅肉を削ぎ落としたどころか、ほとんど骨と皮だけの歌の凄みが浮かびあがる。空間に奈加さんの声が屹立する。それが、とにもかくにも、気持ちよいのだ。

 英語の発音も一段とナチュラルに、ネイティヴに近く聞える。日本語訛で唄われるのが味になることもあるが、やはりその言語本来の発音で唄われる時、歌は最も生き生きする。このことは、先日の古川麦氏の歌でも実感した。奈加さんは古川氏のようなバイリンガルではないが、精進すればここまで行けるのだ。

 最近、アイルランド大使館からお呼びがかかって、大使館のイベントで演奏することが多いそうだが、ネイティヴが聴きたいと思うところまで、奈加さんの歌が到達しているとも見える。

 面白いのは、後で聞いたら、ご本人は今日は声の調子が今一つと思いながら唄っていたそうで、それでもあれだけ気持ちよく響くのは、それだけ高いところまで行っているとも見えるし、音楽という現象の玄妙なところでもある。(ゆ)

 このところハモクリは対バンばかり見ている。前回は踊ろうマチルダで、この出会いも喜んだが、今回の古川麦も引き合わせてくれたことに感謝する。

 本人の歌とギターと口笛、ダブル・ベース、それにドラムス。ドラムスはハモクリと同じ田中佑司。この田中氏は tricolor のレコ発の時の田中氏で、繊細で陰翳の細やかなドラマーだ。清野さんに言わせれば「大人のドラムス」。ハモクリでのドラミングが「コドモのドラムス」とは思わないが、フロントを乗せる乗せ方がシンプルでないことは確か。tricolor の時のドラミングとももちろん違って、これまでのところでは一番ジャズに近い。あたしにはとても面白い一面ではある。この人のドラミングはもっといろいろな組合せ、シチュエーションで見てみたい。

 ダブル・ベースの千葉広樹氏も凡百のベーシストではない。もっとも今のところ、「平凡な」ベーシストというのは幸いにして見たことがない。ダブル・ベースを人前で弾こうというほどの人は、誰も彼も一騎当千、一国一城の主だ。千葉氏はソロもとり、アンコールでは田中氏とも渡り合って、むしろこれを煽っていた。

 古川氏はまず英語がうまい。というよりこれはネイティヴの英語だ。発音はアメリカンだが、楽曲は必ずしもアメリカンというわけでもない。どこか、アメリカにはないシャープなところがあって、はじめはカナダかなと思った。後でバイオを見ると、カリフォルニア生まれでオーストラリアで育つとあるのに納得。

 古川氏の英語には日本語ネイティヴの訛が無い。音楽にも日本語ネイティヴがアメリカなどの音楽をやる時の訛が無い。そこがひどくさわやかだ。訛は無い方が常にいいわけではない。あった方が味が出ることもあり、それはケース・バイ・ケースだ。古川氏の場合には、無いことがプラスに出ている。

 それは発声法にも出ていて、最近の若い日本語ネイティヴのうたい手に共通する裏声的な発声ではなく、もっと地声に近く、無理がない。聞いていてストレスを感じない。すなおに耳に、そしてカラダに入ってくる。

 ギターのセンスも面白い。鮮かなフィンガーピッキングを聞かせるかと思うと、コード・ストロークで展開するソロがそれはスリリングだったりする。

 さらに面白かったのは、エフェクタなのだろうか、その場で弾いたり唄ったりしたものを録音してリピートさせ、それに歌やギターをかぶせるということをする。一人で自分の声にハモったりする。あらかじめ録音しておいたものではないらしい。

 そうしたセンスと手法が、なんとも新鮮だ。日本語と英語の往復にも無理がない。両方に軸足を置いている。日本語の世界にも英語の世界にも根を下ろしながら、中途半端でもないし、どちらかに足をとられることもない。ハイブリッドと簡単に片付けられるものでもなさそうだ。そこには人知れぬ本人の努力と苦労があるはずだが、明らかにこれまで日本語の歌の世界には無かった、新鮮な感覚がある。英語がモノマネでもないし借り物でもない。それがそのまま日本語にも通じている。どちらか一方に偏るのではなく、共存している。

 ベースとドラムスの二人も、リズム・セクションというよりは、ユニットとして、古川氏のそうしたスタンスを理解し、共鳴していると聞える。トリオでやることで、陰翳がより深くなり、細部が浮かびあがる。


 ハモクリは半年に1度ぐらいの間隔で見ると、変化がわかっておもしろいでしょう、と終演後に清野さんに言われた。今のハモクリに変化を求めているわけではないが、この日は冒頭にやった新曲がまずみごと。フィドルとハープが別々のメロディを奏でながら、全体として統一されたグルーヴを生んでゆく。これはスリリングだ。

 これまではどちらかといえば、アイリッシュ流のユニゾンで、ハープとフィドルが細かい音の動きをぴたりと一致させてゆく。そのフレーズ、メロディが、ケルトとブルーズの融合した、ハモクリ節とでも呼びたくなるユニークなもので、意表を突く展開がソリッドなグルーヴに乗ってゆくところにスリルがあった。それはこの夜も同じで、おなじみの曲のスリリングなことは変わらないのだが、冒頭の曲に現われた傾向が今後、新たな流れになってゆくとすれば、ハモクリのもう1本の柱になってゆく可能性もあろう。

 もう一つ新鮮だったのは、アンコールの最後、全員にソロを回したときの長尾さんの演奏。これまでもあったかもしれないが、組合せが違うせいか、をを、こういうこともやるのかという意外性を感じた。もっとふつうにああいうコード・ストロークの展開を入れてもいいように思う。というよりも、もっと聞きたい。

 元住吉は別件で何度か降りたことがあるが、いつも駅の周辺か、川沿いに日吉の方へ下っていたので、その向こうにああいう小屋があるとはこれまたいささか意外ではある。チキン・カレーはたいへん美味でござんした。(ゆ)

このページのトップヘ