クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:明治

1120日・土

 昼食をとりながら『青天を衝け』第35回「栄一、もてなす」再放送を見る。畏友の1人に見た方がいいよ、と薦められたもの。グラントが世界周遊旅行の途中日本に立ち寄り、その接待係を澁澤が仰せつかる。グラントはまた澁澤の家を訪問することを望む。

 これを見ているわが国の視聴者はユリシーズ・グラントが何者かは、おそらくどうでもいいことなのだろう。とにかくアメリカのエラいさんが来た、というだけで話としては一応成立するわけだ。

 グラント本人に興味がある我々としては、かれが日本でどのように交流したか、そしてその日本での言動がその後のわが国にどう影響したか、が当面問題になるだろう。それは南北戦争とわが国の関係の一端をもなす。グラントの言葉は澁澤にどういう影響を与えたか。あるいは明治政府や明治の財界にどういう影響を与えたか、与えなかったか。

 Ron Chernow の伝記では第四部 A Life of Reflection のオープニング、40 The Wanderer でこの時の世界周遊を扱かっている。

Grant (English Edition)
Chernow, Ron
Head of Zeus
2017-11-02

 

 グラントが日本まで来たのは、その前のヨーロッパ旅行から帰国することを考えだした時に、海軍長官 Richard W. Thompson から蒸気船 Richmond で地中海からスエズ運河を通り、インド、中国、日本に旅行する提案を受けたからだ。トンプソンとしてはグラントの名声を利用して、ヨーロッパ列強の植民地当局とアジア諸地域にアメリカの存在を印象づけることを狙った。グラントもこれを絶好のチャンスとして、帰国を延ばし、東周りで帰ることにする。

 グラントのヨーロッパ旅行そのものからして、発端はプライベートなもので、私費によるものだったにしても、単なる旅行者というわけにはいかず、むしろ大きな外交イベントの一つとして、各国のアメリカ公使館はグラントに必要な援助を惜しむなという指令を受けていた。

 グラントはインド、ビルマ、シンガポール、香港、上海、北京と、行く先々で現地のトップと面会しているし、清に頼まれた沖縄問題の解決を日本政府にもちかけてもいる。そうなると、自分はもう大統領ではないから、いくらもてなされても見返りはできないというのは、かれの謙遜さの現れと一見見えるが、いささか不誠実といえなくもない。あるいは、グラントは日本政府が期待していることをちゃんと把握していて、自分に過大な期待はかけるなと釘を刺したのか。あるいはまた条約改正は簡単ではないし、その前にやらねばならないことがある、と忠告したつもりだったか。

 チャーノウが引用しているところからすると、劇中でのグラントの科白は、澁澤邸で言ったかどうかは別として、史料に忠実のようだ。

 チャーノウは大統領経験者がより自由でかつ影響力のある立場を活かして、第三者的に対立する勢力の仲介をするという新しい役割を開発した、と評価する。もちろん、この時点ではアメリカはまだアジアに植民地を持っていない。フィリピンを獲得するのは20年後だ。

 澁澤榮一はじめ、日本側で接した人びとがグラントが何をやってきたか、どこまで理解していただろうか。歓迎の言葉の中に、グラントが反乱を鎮圧し、その後、正義をもって国を平和に治めたことは世界が周知しているとの一節があり、グラントはこれに喜んだ、とチャーノウは書く。回想録の中で一貫して南軍を「叛徒」と呼び、戦いはあくまでも反乱を鎮圧しているとみなしたグラントであれば喜ぶのは当然だが、当時のわが国の人びとは、四半世紀前の南北戦争を2年前の西南戦争に重ねて、反乱鎮圧と実際に見ていたのか。とすれば、現在の我々よりも、遙かに切実に捉えていただろう。

 ん、すると西郷は、いやむしろ西郷本人というよりは、西南戦争を企画実行した指導部は南北戦争について研究していたのだろうか。あるいは明治政府側は薩摩の蜂起に対して、南北戦争を想起しただろうか。当時、どれくらいの情報がわが国に入っていたか、入手可能だったか。南北戦争がその後のアメリカを現在にいたるまで規定しているように、西南戦争が現在にいたるまでわが国を規定しているとするならば、南北戦争は西南戦争を通じて、近現代日本の形成に甚大な影響を及ぼしていることになる。

 南北戦争を勝利に導き、反乱を鎮圧したグラントをもてなすことには、明治政府としては外交的な配慮だけでなく、自分たちの正当性の確認の意図もこめていたのかもしれない。


 総じて女優陣の方が演技が自然だ。男優たちは、そういう演出をしているのか、動作がいちいち大袈裟で、実際にはこんな動作は絶対にしない、というふるまいをする。これも歌舞伎の伝統だろうか。女性俳優には歌舞伎の伝統がないから、ナチュラルな演技が規準になる。女形の演技は規準にならない。

 それにしても見ていて少しも面白くない。ストーリーテリングが良くない。というより無い。脚本と演出の両方の効果だろうか。物語を語れていない。場面の一つひとつはまだいいが、つながっていない。語りのメリハリが無い。単調で、ただシーンが並んでゆく。

 いずれにしても、これ以上前も後ろも見たいとは思わない。

 唯一感心したのはカメラ・ワークで、これはたぶんデジタル・ビデオでその場で画面を確認できるようになったことによる変化だろう。新鮮な角度や切り取り方、人物にカメラが追尾する手法、あるいはカメラの前を人物が横切ることを厭わないことに象徴される長回しは面白い。

 ただし全てセット内での撮影で、限られた空間の中でのドラマだ。カメラの視野は常にごく狭い角度の中に収められている。グラント一行が船の上から手を振るシーンはロケだが、カメラが退いたり、パンしたりすることはない。街頭で弁士が演説しているのは屋外のはずだが、そうは見えない。天下国家を論じるよりも、町内会の揉め事に見える。大河ドラマになっていない。あまり大きくない池が並んでいる。

 大河ドラマなるものに初めてハマったのは、中学1年のときの『天と地と』だった。原作が海音寺潮五郎の代表作で、本も買って読み、面白かった。川崎市の郊外に隠居家を建てて住んでいた祖父母のところに正月に泊まりがけで遊びに行き、2キロほど離れてぽつんとあった一番近い本屋、昔田舎にあった本屋と文房具屋を兼ねた小さな店までてくてく歩いて買いに行った。さすがに天下の大河ドラマ原作、そんな小さな店にもちゃんとあった。店番のおばさんから、こんな厚い本を2冊も読むのかね、エライねー、と言われた。体は小さい方だったから、小学生と思われたのかもしれない。角川文庫の上下巻で、それまでに読んだ最も長い話だったはずだが、一気に読んだと記憶する。語り、ストーリーテリングは抜群だった。テレビ・ドラマのタイトル・バックは一面たちこめた霧の中から騎馬軍団が現れ、石坂浩二扮する上杉謙信の采配の一振りで一斉に疾走を始める。ドラマのクライマックス、川中島の一戦の開幕シーンだ。もちろん屋外で、空撮も入っていた。かなりの数の騎馬が走っていた覚えがある。

 天の時も地の利も異なるところで、比べるのは意味が無いかもしれないが、やはりいろいろな意味で「大河」という呼称にふさわしくないほど小さく、流れも淀んでいると見える。

 この列島に暮らす我々はなにかというと小さく縮こまりたがる。「一丸」となりたがる。まとまりたがる。ドラマだけではない。筆記具の世界ではとにかく先の細いものが好まれる。小さな文字を書こうとするかららしい。ちまちまと狭いところにたくさん書きこもうとするらしい。それもまた「職人芸」かもしれないが、あたしはもっと広々としたところを悠々と流れていたい。



##本日のグレイトフル・デッド

 1120日には1966年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続の最終日。午後2時から7時まで、Student Non-violent Coordinating Committee のための資金集め。James Cotton Blues BandLothar and the Hand People の他クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、Johnny Talbot & De Thangs が共演。

 Johnny Talbot 1939年テキサス生まれのリズム&ブルーズ・シンガーで、1965年にカリフォルニアのバークリー高校を卒業後、自分のバンド De Thang を作る。フィルモアがまだ黒人向けヴェニューだった頃から出演し、ビル・グレアムもタルボットを出演させた。ファンクの元祖、と公式サイトは言う。


2. 1970 The Palestra, University of Rochester, Rochester, NY

 開演9時。前半というより第一部だけで2時間。第二部が1時間。それにアンコール。

 同じ町でこの夜コンサートをしていたジェファーソン・エアプレインが立ち寄り、第二部にヨウマ・カウコネンが初めから参加し、半ば過ぎからジャック・キャサディも参加した。


3. 1971 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ポスターによれば "Dance Concert"

 KMET FM で放送された。


4. 1973 Denver Coliseum, Denver, CO

 同じ会場の1日目。後半9〜11曲目〈Truckin'> The Other One> Stella Blue〉のメドレーが《Road Trips, Vol.  4, No. 3》でリリースされた。この3曲で約40分。


5. 1978 Cleveland Music Hall, Cleveland, OH

 後半ウィアは体調を崩し、楽屋で嘔吐した。ために当初ステージに上がれず、バンドはジャムから始め、〈Drums > Jack-A-Roe〉の後、〈Playing in the Band〉を始めるために短時間出てまたすぐ引っこみ、最後の〈Around and Around〉でショウを仕舞うために出てきた、そうだ。別の証言では、〈Jack-A-Roe〉の最後で出てきて、その後はずっといたが、アンコールは無かった由。

 〈Playing in the Band〉ではさまれた2曲のうち後ろの〈If I Had The World To Give〉はハンター&ガルシアによる《Shakedown Street》収録の曲で、ライヴでは3回しか演奏されなかった。このショウがその最後。ただし、その3回はいずれも良い演奏だそうな。


6. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。アンコール前のラスト〈Sugar Magnolia〉後半のいわゆる Sunshine Daydream の時、ウィアは積みあげられたスピーカーの上に乗って歌ったそうな。(ゆ)


 昨年の第10回はやむをえず欠席で残念無念。今年は万全の体制で臨んだ。このところ、岡さんのライヴはこの木馬亭独演会で年に1回見るだけになってしまっているのはもう少し何とかしたいが、ライヴ通い全体の回数を絞ろうと努めているので、なかなか行けない。これだけでも行けるのは、それだけに嬉しい。

 この人の声と歌にはほんとうに元気をいただく。もう、ほんとに、どーしょーもない世の中で、いっそのこと、火星に亡命でもしたいくらいだが、岡さんがうたうのを聴いていると、よおし、もう一丁、やってみるかという気になる。こういう人が、同時代に生きて、唄ってくれていることのありがたさが身に染みる。

 今回は前半一部はカンカラ自由演歌で、例によってカンカラ三線だけを伴奏に、ソロで唄いまくる。後半の二部は昨年出したアルバムのライヴ版で、録音にも参加した武村篤彦氏がエレクトリック・ギター、パーカッションに熊谷太輔さんというトリオで、「フォーク・ロック」をやる。

 今年は〈東京節〉、「ラーメチャンタラ、ギッチョンチョンで、パイノパイノパイ」というあれの百周年にあたるそうな。これをラストに置いて、鳥取春陽の〈緑節〉に始まり、明治の〈人間かぞえ歌〉から令和の〈人間かぞえ歌〉につなげ、〈値上げ組曲〉〈増税節〉〈カネだカネだ〉と畳みかける。〈ああわからない〉では客席に降りて、中央の通路を後ろまで来る。誰が来ているか確認してます、と笑わせるが、本当に確認もしてる様子。〈十九の春〉は〈ラッパ節〉の替え歌とのことで、次は〈ラッパ節〉。そして〈東京節〉で締める。

 いつものことながら、カンカラ三線のミニマルな伴奏が歌そのものを引き立てる。無伴奏で唄うよりも親近感が生まれる一方で、伴奏には耳がいかない。一昨年は貫禄のようなものを感じたが、今回はむしろ迫力がある。このクソったれな世の中、何するものぞ、という気概。明治、大正、昭和の演歌師たちもこの気概を発散していたのだろう。

 休憩、というほどのこともなく、BGMにしては音が生々しいと思ったら、幕が開いて、3人が演奏している。左にギターの武村氏、真ん中に岡さん、右に熊谷さん。岡さんだけ立っている。岡さんはアコースティック・ギターとハーモニカ。今度は全曲自作の「フォーク・ロック」。

 武村氏のギターはアーシィなセンスがいい。派手なリード・ギターではなく、ちょっとくぐもったトーンで、渋いフレーズを連発する。

 熊谷さんはいわばホーム・グラウンドで、これもむしろ地味に抑え、ブラシを多用して、ややくすんだパステルカラーの味わい。こういうのを聞くと、セツメロゥズあたりでは、フロントに拮抗できるだけの気合いをこめているのがわかる。あちらでこういうドラムスを叩いたら、たぶんぶち壊しなのだ。

 昨年出した《にっぽんそんぐ》収録の全14曲を全部やる。ほとんど一気呵成。フォーク・ロックと言いながら、ディランで言えば《John Wesley Harding》か《血の轍》の趣。熊谷さんはレヴォン・ヘルムだが、武村氏はロビー・ロバートソンというよりはバディ・ミラー。岡さんのハーモニカは初めて聴く気もするが、冴えわたる。

 とはいえ、ここでも声の力をひしひしと実感する。それはまたコトバの力でもあって、「サケサケサケサケサケ」というリフレインに血湧き肉踊る。踊るといえば、常連客の1人で、いつも踊るおっちゃんが、途中でもうたまらんという風に立ち上がって踊りだす。声とコトバにビートの力が加わると、確かにじっとしてはいられない。

 ラストはやはり〈東京〉。これを聴くために通っているようなところもある。

 引っこんだと思ったら、岡さんが1人で飛びだしてきて、アンコール。客席からリクエストがかかり、それに応えてまずアカペラで唖蝉坊の〈むらさき節〉。そしてカンカラ三線で〈春がきた〉。

 今年も無事、聴けた。地震のくる来年はどうだろうか。すでに10月4日と決まっている。

 月明かりの浅草は昼間の喧騒はさすがに収まっていたが、まだ余韻に浸りたい人がわさわさいる。1人、ベンチに腰を下ろし、本堂を眺めている白人のおばさんは、ベテランの旅行者の雰囲気。こういう人に岡さんの歌を聞かせたら、何と言うだろう。(ゆ)

岡大介: vocal, カンカラ三線
武村篤彦: electric guitar
熊谷太輔: drums

にっぽんそんぐ ~外国曲を吹き飛ばせ~
岡大介 武村篤彦 仲井信太郎
off note / Aurasia
2018-04-29






かんからそんぐ 添田唖蝉坊・知道をうたう
小林寛明 岡大介
オフノート
2008-02-03


 今年で九年め。来年は十周年。2018年9月30日。何をやるのか、今から楽しみ。

 実に久し振りの岡さんのライヴ。一部は演歌をさらっと4曲。〈復興節〉の現代版から始まり、次の〈ストトン節〉がまずはハイライト。岡大介入魂のオリジナル歌詞をこれでもかとぶちこんだスペシャル版で、うたい終って、今日はもうこれで終りという気分です、という。全国回りながらうたううちに好きな歌謡曲が2つできました、とうたったのが〈王将〉と〈大東京音頭〉。

 前者は大阪のうたということで登場したのが、桂九雀師匠。落語はそれほど好きではないが、大いに笑わせていただきました。教養の無い成金の隠居がステイタスが欲しくてデタラメにやる茶の湯で皆が迷惑する噺。上方の方だけど、あんまり関西弁は強くない。あるいは東京というので手加減されたのかもしれない。

 シンガーのライヴに落語家が出るというのも、岡さんのものくらいではないか。確かに諷刺を旨とするところで演歌と落語は通底するところもあるし、パフォーマンス、それもコトバと声によるものという点では似ているが、普通はストレートにはつながらない。あるいは寄席というのは本来こういうものなのかもしれない。うたも落語も同列なのかもしれない。落語にはリズムやメロディは一見無いが、間のとりかたや声の抑揚は無ければ文字どおり噺は始まらない。とすれば、演歌は落語のエッセンスをぎゅっと絞りこんだもので、落語は演歌をある典型的具体的状況のもとに展開したものとも言える。両方続けて体験すると、それぞれがより深く訴える。

 第三部は唖蝉坊を中心とした、明治大正昭和の演歌乱れ撃ち。もちろん、原曲そのままではなく、時に岡さんのオリジナルの歌詞が入る。〈炭坑節〉の後に、この元歌をやったのは面白かった。

 十年、うたい続けて、それもほとんどストリートや流しでうたい続けて、これだけうたえる人は、今ちょっといないのではないか。マイクからはずれてうたっても、声はよく通る。貫禄がついてきたと言ってもいい。その割にステージングがあまり上達していないのは、あるいはこれが岡大介のキャラかもしれない。客の煽りに乗ってしまうのも、ひょっとすると芸人としては失格と言われかねないが、本質的にシャイな若者、年齡とは関係ない永遠の若者が、好きな唄をうたいたい一心でひたすらうたっている潔さをあたしは見る。

 うたにもいろいろあるが、岡さんの唄はコトバで勝負するタイプだ。聞いて歌詞が明瞭にわかることが命。そしてその歌詞で筋の通らないことを笑いとばす。聴く者にカタルシスを与え、元気をもたらす。

 舞台に現れず、袖で叩いて岡さんを支えた打楽器も良かった。

 頭の方で「ぼくがやっているのはうたです、音楽じゃありません」と言い切ったのには一瞬えっと思ったけど、聴いてゆくうちに、納得させられた。このうたは、音楽というよりも落語のような話芸にずっと近いのだ。そして、それはうたというものの本質の一つであろうとも教えられる。ひょっとすると、うたと音楽を同じ範疇に含めるのは、勘違いなのかもしれない。

 すっかり元気をもらって出てみれば、浅草寺はライトアップされていて、まだまだ観光客もたくさん歩いている。半月が鮮やか。(ゆ)

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