クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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05月10日・火
 Susan L. Aberth の Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art が届く。キャリントンの生涯と作品を包括的に扱ってベストの本の由。出たのは2010年でキャリントンはまだ生きていた。

Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art
Aberth, Susan L.
Lund Humphries Pub Ltd
2010-05-15

 
 名前は知っているけれど親しんではいなかったある作家に急に惹かれるというのは珍しくはないが、この人の場合は小説と絵の両方で、今回のきっかけは全短篇集からなのだが、むしろこれまでほとんど知らなかった絵に惹かれる。
 
 本が届いて包みから出し、表紙が現れて、まずガーンとなる。1950年頃の作とされる "Darvault"。タイトルはイール・ド・フランスのある村の名前、らしい。高い塀に囲まれた荘館の庭、のようだ。表4に掲げられているのは1956年の "Ab eo quod"。ラテン語で「以下の事実により」の意味、とネットには出てくる。降霊術が行われるテーブルが置かれた部屋、らしい。キャリントンは手法はシュールレアリスムだが、主題としたのは錬金術、オカルトと称されるもの、というのがアバースの本のモチーフだそうだ。シュールレアリスムの絵画は好きで、一番好きなのはキリコ、次はマグリットだが、これまでまともに見たことがなかったキャリントンの絵は一番しっくりくる。こりゃあ、ええ。こりゃあ、ええよ。

 この人はその生い立ち、キャリアも面白い。メキシコかあ。やあっぱり、マヤの霊がいるのかねえ。いや、その前にまずキャリントンをじっくり見て、読んでみましょう。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月10日には1969年から1991年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版1本と準完全版1本。

1. 1969 Rose Palace, Pasadena, CA
 土曜日。前売3.50ドル、当日4ドル。開演8時、終演1時。このヴェニューでの2日連続のイベントの2日目。初日はサンタナが出演。メインはクリームのさよなら公演の映像上映。2時間弱の一本勝負。オープナー〈Hard To Handle〉はステージの電気がいかれて最後で中断。3曲目〈Morning Dew〉も機材トラブルでこれからクライマックスというところで中断。ウィアが「くそったれ!」と言うとガルシアが「演奏する音がでかすぎたんだな」。

2. 1970 Atlanta Sports Arena, Atlanta, GA
 日曜日。3ドル。開演4時。
 航空会社のミスで機材が到着せず、デッドはオールマン・ブラザーズ・バンドの機材を借りた。この日はまずオールマンが演奏し、次にデッドが演奏し、最後に両者がジャムをした。デッドのセット・リストの全体像は不明。ショウの前座は地元アトランタの Hampton Grease Band で、最後のジャムにこのバンドの Glen Phillips と Mike Holbrook も参加したという証言がある。
 ビル・クロイツマンは回想録 Deal でこのショウに触れて、Hampton Grease Band のリーダー Bruce Hampton は友人だとしている。056pp.

3. 1972 Concertgebouw, Amsterdam, Netherland
 水曜日。ヨーロッパ・ツアー14本目。オランダでの2日連続の初日は、1888年オープンの由緒あるコンセルトヘボウでのショウ。デッドのせいかどうかは知らないが、ロック・バンドのコンサートで内装を傷つけられたため、現在はロックのコンサートは拒否している由。何でも、ケーブルを留めるため、所かまわずガムテープを貼ったらしい。クラシックのコンサートではケーブルが這うことはないからねえ。
 第一部10曲目〈He's Gone〉が《Europe '72》でリリースされた後、《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。なお、後者のブレア・ジャクソンのライナーによれば、《Europe '72》の〈He's Gone〉のコーダには1972-07-16コネティカット州ハートフォードでのショウのコーダのコーラスがオーヴァーダビングされている。
 フランクフルト、パリ、ビッカーショウ・フェスティヴァルが一つのピークだったか、このショウはどこか疲れが見えないこともない。長いツアーでは当然波がある。このツアーのように、ショウの間があいていても、そういう波はあるだろう。波は高まれば低くならざるをえない。そういう調子の波が最も顕著に現れるのはどうしてもガルシアになる。
 この日のガルシアはなかなか点火しない。歌はまだきっちり歌っているが、ギターははじめほとんどおざなりに聞える。4・5曲目で〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉をやるが、ほとんどソロを弾かない。12曲目〈Playing In The Band〉でようやく弾くのをやめなくなって良くなりはじめ、3曲後の〈Tennessee Jed〉で見違えるように良くなる。次の〈Big Boss Man〉で完全に回復し、さらに次の〈Greatest Story Ever Told〉では離陸してすばらしいソロを聴かせる。第二部でもそのまま飛びつづける。ショウの仕舞いに向かう前の〈Sugar Magnolia〉のギターがこの日のベスト。
 第一部14曲目〈Jack Straw〉ではガルシアとウィアのヴォーカル分担が復活し、以後は常に2人が役割分担して歌われる。
 この日のビッグ・ジャムは〈The Other One〉で、第二部を〈Truckin'〉で始めて、短かいドラムスをはさんですぐに移る。これも良いが、この日はむしろこの後に続くゆっくりしたバラードに聴き所が多い。すぐ後の〈Wharf Rat〉、2曲後のピグペンの〈The Stranger〉、さらに2曲後の〈Sing Me Back Home〉。いずれも歌いだしは力を抜いて、投げやりのようなのが、進むにつれて徐々に力が入り、最後は熱唱になる。〈Sing Me Back Home〉は回を重ねるごとに良くなる。
 ピグペンもどちらかというと疲れているようだが、このツアーではとにかく踏ん張っている。オルガンもしっかり弾いているし、〈The Stranger〉は弾きながら歌う。〈Not Fade Away〉もきっちり決める。
 アンコールは無し。
 次は翌日のロッテルダム。

4. 1978 Veteran's Memorial Coliseum, New Haven, CT
 水曜日。7.50ドル。開演7時半。
 第二部3曲目〈It Must Have Been The Roses〉とアンコールの〈U.S. Blues〉を除き、《Dick's  Picks, Vol.25》でリリースされた。

5. 1980 Hartford Civic Center, Hartford, CT
 土曜日。10.50ドル。開演7時半。
 これも良いショウの由。春は本当に毎年調子が良い。

6. 1986 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。14ドル。開演2時。
 これも良いショウの由。

7. 1987 Laguna Seca Raceway, Monterey , CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。20ドル。開演正午。ライ・クーダー、ブルース・ホーンスビィ&ザ・レンジ前座。
 第一部3曲目〈West L.A. Fadeaway〉にロス・ロボスのデヴィッド・イダルゴが参加。

8. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。
 第一部2曲目〈They Love Each Other〉がブルース・ホーンスビィのボックス・セット《Intersections: 1985-2005》の DVD でリリースされた。
 かなり良いショウの由。(ゆ)

0317日・木

 セント・パトリック・ディ記念で、Irish Times がアイルランドの32のカウンティ各々を舞台にした本、小説とノンフィクションをリストアップしていた。順番は州名のアルファベットによる。


 ゲーリック・フットボールやハーリングなどの、アイルランドのナショナル・スポーツは各州対抗が基本で、その盛り上がり方はわが国の高校野球も真青だ。各々のカウンティ、日本語では伝統的に州と訳されている地域は面積から言えば狭いが、外から見ると意外なほどに人も環境も特色があり、住人の対抗心も強い。こういう特集が組まれる、組めるのもアイルランドならではだろう。

 伝統音楽、アイリッシュ・ミュージックもローカリティの味がよく強調されるけれど、それ以前に基本的なローカルの性格の特徴をこうした本で摑むのも面白い。それに、真の普遍性はローカルを突き詰めたところに現れる。



##本日のグレイトフル・デッド

 0317日には1967年から1995年まで10本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。


 1967年のこの日、ファースト・アルバム《The Grateful Dead》が発売された。このアルバムでは〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉がデビューしている。ライヴで揉まれずに、いきなりスタジオ盤でデビューした、デッドでは数少ない曲の一つ。クレジットの McGannahan Skjellyfetti はバンドとしてのペンネーム。このクレジットが付いた他の2曲〈Cold Rain And Snow〉〈New, New Minglewood Blues〉は本来は伝統曲。

 196701月、ロサンゼルスの RCA スタジオで3日ないし4日で録音された。〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉のみサンフランシスコで録音されている。プロデューサーの Dave Hassinger はローリング・ストーンズのアルバムをプロデュースしており、デッドがそのアルバムを好んでハシンガーを指名したと言われる。冒頭の〈The Golden Road (To Unlimited devotion)〉を除き、すでにライヴの定番となっていた曲を収録している。ビル・クロイツマンの回想によれば、ライヴ演奏の良いところをスタジオ盤に落としこむ技術はまだ無かった。もっとも、結局デッドはそういう技術を満足のゆくレベルに持ってゆくことができなかった。あるいはライヴがあまりに良すぎて、スタジオ盤に落としこむことなど、到底できるはずもなかったと言うべきか。

 今聴けば、ピグペンをフロントにしたリズム&ブルーズ・バンドの比較的ストレートなアルバムに聞える。ガルシアも言うとおり、当時のバンドのエッセンスがほぼそのまま現れているのでもあろう。ピグペンの存在が大きい、唯一のスタジオ盤でもある。

 アルバムには故意に読みにくくしたレタリングで

 "In the land of the dark the ship of the sun is driven by the"

と記され、その後の "Grateful Dead" はすぐにわかる。故意に読みにくくしたのはバンドの要請による。デザイナーはスタンリー・マウス。コラージュはアントン・ケリー。後に「骸骨と薔薇」のジャケットを生みだすことになるコンビ。

 ビルボードのチャートでは最高73位という記録がある。

 2017年のリリース50周年記念デラックス版では 1966-07-29 & 30, P.N.E. Garden Auditorium, Vancouver, BC, Canada の2本のショウの録音が収録された。これはデッドにとって初の国外遠征でもある。



01. 1967 Winterland Arena, San Francisco, CA

 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。共演チャック・ベリー、Johnny Talbot & De Thang。セット・リスト不明。

 この日、Veterans Auditorium, Santa Rosa, CA でもショウがあったという。The Jaywalkers という共演者の名前もある。が、詳細は不明。DeadBase に記載無し。サンタ・ローザはサンフランシスコの北北西60キロほどにある街だから、昼間ここでショウをやり、夜ウィンターランドに出ることは可能だろう。


02. 1968 Carousel Ballroom, San Francisco, CA

 日曜日。2.50ドル。このヴェニュー3日連続の最終日。ジェファーソン・エアプレインとのダブル・ビルで、おそらくデッドが前座。80分ほどの演奏。《Download Series, Vol. 06》で全体がリリースされた。リリースに付けられたノートによると、《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》ボックス・セットを作成した際に、関連した録音が他に無いか、デッドのアーカイヴ録音が収めらた The Vault を隈なく捜索して見つけた宝石。

 すばらしいショウで、あのフィルモアのショウの1年前にすでにこれだけの演奏をしていた、というのに舌をまく。原始デッドの熱の高さと集中にひたることができる。時間が限られていることと、後に出てくるジェファーソン・エアプレインへの対抗心も作用しているだろう。〈Turn On Your Lovelight〉だけ独立していて、その後の〈That's It for the Other One〉からラストのフィードバックまで1時間近くノンストップ。ところどころ、ジャズの色彩、風味が混じる。時にはほとんどジャズ・ロックの域にまでなる。面白いのは、二人のドラマーが叩きまくっていることで、これだけ叩きまくるのはこの時期だけかもしれない。クロイツマン22歳、ハート25歳。やはり若さだろう。20年後とは完全に様相が異なる。

 グレイトフル・デッドはヘタだった、とりわけ、初期はヘタだった、という認識がわが国では根強くあるように思われるが、その認識はどこから出てきたのだろう。デッドがヘタと言われると、あたしなどは仰天してしまう。スタジオ盤はそんなにヘタだろうか。アメリカでの当時の評価を見ると、60年代にすでに演奏能力の高さには定評がある。


03. 1970 Kleinhans Music Hall, Buffalo, NY

 火曜日。4.50ドル。開演7時?。会場は2,200ないし2,300入るクラシック用ホール。Buffalo Philharmonic Orchestra との共演で、〈St. Stephen> Dark Star> Drums> Turn On Your Lovelight〉を演奏した。Drums ではオーケストラの打楽器奏者がデッドの二人のドラマーに合流した。〈St. Stephen〉は演奏されたという複数の証言があるが、記録の上では残っていないらしい。当初オファーされたバーズが辞退して、デッドにお鉢が回った。デッドは出演料をタダにした。また The Road、フルネームを the Yellow Brick Road という地元のバンドも出演した。

 クラシックのフルオケとロック・バンドの共演という企画はオーケストラの指揮者 Lukas Foss のアイデアらしい。必ずしも成功とは言えないが、まったくの失敗でもなかった。オーケストラの聴衆とデッドヘッドやその卵たちがいりまじった客席は、デッドの演奏に興奮して、立ち上がり、手拍子を打ち、踊ったそうだ。

 当時はヴェトナム反戦運動の昂揚期で、バッファローでも地元の大学を中心に騒然としていた。そういう中で、こうした実験が行われたのは面白い。クラシック界にもこれをやろうという人間がいて、デッドがその試みに応じたのは、どちらの側にも柔軟性や実験精神があったわけだ。グレイトフル・デッドというバンドが出現したのも、アメリカ音楽全体のそうした性格が土台にあったと思われる。


04. 1971 Fox Theatre, St. Louis, MO

 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。

 公式録音のマスターテープに物理的な問題があって、全体のリリースは無理とのことで、〈Next Time You See Me〉と〈Me And Bobby McGee〉が dead.net "Taper's Section" で公開された。


05. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。18.50ドル。開演7時。

 1971年以来のセント・パトリック・ディ記念のショウで、Train To Sligo という名前のパサデナのケルティック・バンドが前座。リード・ヴォーカルでコンサティーナ奏者は若い女性で、黒のミニ・スカートに網タイツという衣裳で登場し、聴衆から大いに口笛や歓声をかけられた。頭上に渦巻く煙にも驚いた様子だった。メンバーは以下の通り。1981年結成で、この年解散。2枚のアルバムがあるが、あたしは未聴。Gerry O'Beirne Thom Moore がいるから、聴いてはみたい。

Jerry McMillan (fiddle)

Paulette Gershen (tin whistle)

Judy Gameral (hammered dulcimer, concertina, vocals)

Gerry O'Beirne (six- and twelve-string guitars, vocals)

Janie Cribbs (vocals, bodhran)

Thom Moore (vocals, twelve-string guitar, bodhran)

 セント・パトリック・ディ記念のショウは次は1991年で、以後、1995年まで毎年0317日に行われた。

 この日のデッドの演奏は良い由。


06. 1991 Capital Centre, Landover, MD

 日曜日。このヴェニュー3日連続の初日。春のツアーのスタート。ブルース・ホーンスビィがピアノで参加。第二部5・6曲目〈Truckin' > New Speedway Boogie〉が2017年の、第一部クローザー前の〈Reuben And Cherise〉が2018年の、オープナーの2曲〈Hell in a Backet > Sugaree〉が2020年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 〈Hell in a Backet > Sugaree〉と〈Truckin' > New Speedway Boogie〉はどちらも良い演奏。ガルシアのギターも好調で、ホーンスビィが入っていることの効果だろうか。後者では肩の力が抜けて、シンプルな音を連ねるだけで、いい味を出す。ガルシアの芸である。ウェルニクも凡庸なミュージシャンではない。バンドによって引き上げられている部分はあるにせよ、それだけの伸びしろは持っていたのだ。〈Sugaree〉ではガルシアのギターによく反応している。

 〈Reuben And Cherise〉はハンター&ガルシアの曲で、グレイトフル・デッドとしてはこの日が初演。0609日まで4回しか演奏されていない。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドでは定番のレパートリィで、197711月から199504月の間に100回以上演奏されている。スタジオ盤はガルシアのソロとしては4枚目で Jerry Garcia Band 名義のアルバムとしては最初になる《Cats Under The Stars》収録。

 グレイトフル・デッドとジェリィ・ガルシア・バンドの違いが、こういう曲で鮮明になる。前者ではガルシアのソロもアンサンブルの一部に編みこまれている。他のメンバーとの絡み合いでソロを展開する。勝手に弾いているわけではない。ガルシアがソロですっ飛んで、他のメンバーがそれについていっているように聞える時でも、内実はそうではない。このことは初めから最後まで変わっていない。

 後者ではガルシアは勝手に歌い、弾いている。何をやるか、どれだけやるか、どのようにやるか、決めるのはガルシアであり、他のメンバーはそれをサポートしている。だから、ガルシアは伸び伸びと歌い、弾いている。一方で、そこには緊張感が無い。なにもかもがゆるい。そのゆるさがまた良いのだが、JGB を聴いてからデッドを聴くと、身がぐっと引き締まる。同じソロ・プロジェクトでも、マール・ソーンダースと演っている時にはまた違って、ソーンダースとの対話がある。しかし、ジェリィ・ガルシア・バンドではお山の大将だ。

 そして〈Reuben And Cherise〉は明らかに後者では成立するが、グレイトフル・デッドではうまく働かない。その理由は単純ではないだろうが、あたしにはまだよくわからない。ひょっとするとバンド自体にもわからなかったかもしれない。構造としては〈Dupree's Diamond Blues〉と共通するが、何らかの理由で、他のメンバーがうまく絡めないようだ。そうなると、ガルシアにとっても面白くなくなる。独りお山の大将でやるなら、ジェリィ・ガルシア・バンドでやればいいので、デッドでやる意味はない。デッドは全員でやることの面白さを追求するのが動機であり目的だ。試してみて、全員でやることを愉しめない楽曲はレパートリィから落ちる。ある時期は愉しいが、アンサンブルの変化で愉しくなくなって落ちる曲もある。演奏回数の多い定番曲はいつやっても、何回やっても愉しかった曲だ。デッドヘッドに人気が高く、曲としての出来も良い〈Ripple〉などもバンド全員で愉しめなかったのだろう。

 この日〈Reuben And Cherise〉をやることは予定に入っていたらしい。デッドはステージの上で、その場で次にやる曲目を決めているが、とりわけデビューさせる曲はその日の予定に入れていたと思われる。


07. 1992 The Spectrum, Philadelphia, PA

 火曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。セント・パトリック・ディ記念。あまりよい出来ではないらしい。


08. 1993 Capital Centre, Landover , MD

 水曜日。このヴェニュー3日連続の中日。開演7時半。〈Lucy In The Sky With Diamonds〉がデビュー。19950628日まで、計19回演奏。この歌のタイトルは LSD のもじりと言われる。良いショウの由。


09. 1994 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL

 木曜日。このヴェニュー3日連続の中日。26.50ドル。開演7時半。


10. 1995 The Spectrum, Philadelphia, PA

 金曜日。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時半。(ゆ)


教えられることは多い。丸山眞男と福沢諭吉はもちろんだが、アイザイア・バーリンと大佛次郎。『鞍馬天狗』とはそういう話だったのか。
    
    とはいえ、最も心に刻まれた一節。
    
    1994年09月22日、大正大学司書研修セミナーでの講演をもとにした「私の図書館体験」のなかで、敗戦後、国会図書館を軌道に乗せた中井正一について触れた文章。


    一九四七年頃かと思いますが、国会図書館の副館長として活動しておられた頃の中井さんの思い出を、鶴見俊輔氏が語っていて、たいへん面白い。
    鶴見さん自身の言葉によると、氏はその頃神経症的な心理状態に入っていて、何も書くことができずまいっていた。そこで、そのことを中井さんに相談すると、次のように答えられたということです。

    そういう時には、大きな活字で書いてある中国の歴史の本をよむがよい。国会図書館をやめろ、というビラを電信柱にはられて、いやがらせを受けたことがあってまいったが、そういう時に『資治通鑑』(宋の司馬光の撰、二九四巻)を毎日すこしずつ読むと、志を立てた人が出て何かやっては殺され、また別の人物がたって何かやって殺される歴史のリズムがつたわってきて、自分の毎日についてわりに平然として受け入れることができるような気がしてきた。
    (中略)
    (その『資治通鑑』の一節に)帝王の悪政を諫める臣下があれば、

    主上怒而煮之
    主上怒而炙之
    主上怒而裂之
    主上怒而斬之
    等々。

    助言者として政治に関与するインテリの位置あるいは運命の象徴的記述であります。これを読むと、ソクラテスが毒杯を贈られたのは、まだなまぬるい、と申せましょう。
291-292pp.


    あえて蛇足。ここで「インテリ」と呼ばれている人びとは歴史的に見れば古代から清朝までの中国知識人階級であるが、21世紀に敷衍すれば政治に関与しようとする人間は、地位、階級にかかわりなく誰にでもあてはまる。民主主義では誰でも政治に関われる一方で、民主主義にあっても権力が主権者に均等に配分されているわけではないからだ。そして権力とは人を殺してその責任を問われない権能だ。だから権力の行使には必ず人殺しが付随する。
    
    そして、何らかの形で文化活動をする人間はすべて政治にかかわっている。音楽をする、絵を描く、俳句をひねる、いや、こうしてブログを書いたり、YouTube に動画をアップしたり、U-Stream で放送したり、ついったーでつぶやくことも文化活動だ。さらにはそうした発信だけでなく、受信すること、音楽を聴く、動画を見る、文章を読む、ファッションに身を包む、いや、あるサイトにアクセスするだけでも文化活動になる。
   
    文化が政治とは関係ないと考えるのは、政治の本質を見誤るものだ。政治とははやい話、メシを喰ったり、糞をひり出したりすることも含まれる。そして文化とは何をどう喰うか、喰ったものをどうひり出すかから始まる。屋外で鼻をかむことを禁じた政権に統治される国では、屋外で鼻をかむ人間は「反政府分子」、今風にいえば「テロリスト」とみなされる。9/11の直後、FBIは図書館利用者の閲覧履歴を提出することを図書館に求めようとした。
   
    つまりは今のような「リセット」の時期にあっては、誰もが「インテリ」にならざるをえない。当人の意志にかかわりなく、生きようとただあがくことだけで、政治に関わる「インテリ」とみなされる。
    
    となれば、「畳の上で死ぬ」よりも、権力を保持する者に殺されてなお史書に名が残るほどの何かをするのも一興ではある。「畳の上」で死のうが、処刑台の上で八つ裂きにされて死のうが、死ぬことに変わりはない。スティーヴ・ジョブズの死に妹が見てとったように、人間にとって死ぬことは畢竟一種の「苦行」、一歩一歩階段を登るように達成することなのだから。(ゆ)

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