溜まっていたCDのリッピングに精を出す。どうやっても読めないトラックがときたまある。ソフトを換えても同じだから、パイオニアのドライブの問題だろう。かつてはこういうものは古い iMac の内蔵ドライブで読みとっていたのだが、それは年末に処分してしまった。やはり代わりになるような「ゆるい」外付ドライブを探さねばならん。
Samuel R. Delany, Letters From Amherst。3通め。1991-01-28。ここでのメイン・イベントは叔父 Hubert T. Delany が前年末12月30日に89歳で亡くなり、その通夜、葬儀が年明け1月2日、3日に行われたこと。この叔父はニューヨーク市の判事を勤め、その判決で市民権確立に努めたことで、死去に際しては New York Times に大きな死亡記事が載り、葬儀では市長からの感謝の言葉が朗読されるような人だった。一方で50代末から脳に異常をきたし、寝たきりになり、30年以上、ほとんど植物人間として過ごした。夫人は夫を自宅で通いの看護師の援助を得て、死ぬまで介護した。ディレーニィはアルツハイマーだろうと思っていたが、どうやらそうではなく、より複雑な病だったらしい。
葬儀というのはどこでも同じで、会ったこともなかった親戚が現れ、長い間、無沙汰していて、相手が幼ない頃の記憶しかない若者たちに遭遇する。ディレーニィが若い頃、16歳くらいまで、誰かに初めて会うと、あなたはあのヒューバート・ディレーニィ判事の親戚かと訊かれるのが常だった。葬儀で会った若いいとこたちは、同じ状況で、あなたはSF作家のディレーニィの親戚かと訊かれると言う。
ディレーニィの一族は長命でもあるらしく、葬儀には101歳や99歳で健在の故人の姉たちも、自分の足で歩いてやってくる。また一族の人間には独特のたたずまい、しぐさ、雰囲気があり、それは直接血がつながっていないはずの養子として育てられた人びとにも共通する。そしてその一族には判事、弁護士、医師、株式ブローカーなどがごろごろいる。教会での葬儀に参列しながら、ディレーニィはまるで威圧されているような気分になる。そして、マリリン・ハッカーと結婚した直後のある瞬間を思いだす。もし自分が最も摩擦の少ない道を選んでいたならば、大して努力することもなく、実入りのよい職業につき、順調にキャリアを重ね、かなりの物質的成功を収めていただろう、そして自分はそれに背を向けて、自分の才能に賭けることを選んだという事実を実感した瞬間だ。一部にはそれは名声のためであり、その点ではささやかながら成功したかもしれないが、自分のことをチップではなくサムと呼ぶ人びとの圧倒的でさりげない富の提示の只中にいて、ディレーニィはおちつかない気分になる。そして、そのおちつかない気分をおもしろいと思う。
自分の中のおちつかない気分をおもしろいと思えるというのが、作家としての才能ということだろう。あるいはバラカンさんの言う「自虐的」self-deprecating に通じるものだろうか。ディレーニィは徹頭徹尾アメリカンで、イングランド人と同じ感覚というわけではないだろうが、効果としては同様な作用にも思える。普通ならマイナスの効果をもたらすような文章にユーモラスな要素がからんで、ポジティヴな印象に反転するのもこの能力の故かもしれない。
チップ・ディレーニィの生まれるのが5年でも早いか遅いかしていたならば、おそらく作家は誕生しなかったのではないか。作家はチップ個人と時代の相互作用の産物だろう。The Motion Of Light In Water 巻頭のあの18歳の写真の眼光の鋭さは、一族の備える巨大な慣性に抗おうとするところから生まれてもいたのだ。『アプターの宝石』から『ノヴァ』にいたる1960年代の奔流のような創作活動の背後でも、同じ反抗精神が働いていたはずだ。
きらびやかな一族の中でのおちつかない気分をおもしろいと思う中には、そうした「若気の至り」への想いもあるように見える。
一方でディレーニィは18歳で、葬儀屋を営んでいた父親と死別している。そのこともまた、一族からの離脱の後押しになっていたはずだ。「父は1958年、ぼくが17歳の時、肺がんで死んだ」。問われればそう答えるのが常だった。ディレーニィ個人の記憶の中ではそうなっていた、というのは示唆的だ。(ゆ)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04