クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:朗読

 會田瑞樹氏のライヴをようやく見られた。Winds Cafe 最多登場者ながら、なぜかいつもスケジュールが合わなかったり、こちらが体調を崩したり、何らかの理由で、ついにカーサ・モーツァルトでは見ることがかなわなかった。川村さんに1回ぐらいは見たでしょうと言われたが、やはり見ていない。この人のパフォーマンスを見て憶えていないはずがないと、実際に見て思う。

 「打楽器百花繚乱」という通しタイトルから想像していたのは、ヴィヴァルディ『四季』のCDジャケットにあるように、叩けば音が出る大小様々なものが所狭しと並んでいる光景だった。ところが会場に入ってみると置かれていたのは、正面にヴィブラフォンつまり鉄琴、右側にマリンバつまり木琴だけ。あれれ、というのが第一印象。ヴィブラフォンとマリンバが打楽器であることはわきまえているつもりだったが、あれらはどうしてもサントゥールの仲間に見えてしまう。あちらはどうやら弦楽器だ。こちらはむしろガムランやチャラパルタの仲間ということなのだろう。どちらも独りでは演奏できないことは大分違うけれども(チャラパルタは独りでもまったく不可能ではない、はず)。

 今回の内容は当日までヒミツだった。川村さんからは會田氏の名前から「樹」または「木」がテーマとして出されていたが、それについて答えることはラストの木琴、マリンバによる演奏で見事に果たされることになった。

 プログラムはまずヴィブラフォンのソロで、モーツァルト、バッハ、ブラームス、ドヴォルザーク各々の有名曲と、細川俊夫編曲の〈サクラ〉それに水野修孝の〈ヴィブラフォンのための三章〉を一気に演奏する。

 ヴィブラフォンという楽器は1920年代にアメリカで開発され、中でも Deagan 社の Vivraharp というモデルが有名になったのだそうで、會田氏の楽器もそのディーガン社製。電気で残響を増幅できる。

 ソロの演奏はどれもかなり残響を残すのがヴィブラフォンの味に聞える。

 2番目の演目はゲスト瀧沼亮氏を迎え、氏の〈コンサートのためのコンクレート〉の演奏。紹介文に「奇士」とあるが、瀧沼氏は六尺豊かな大男という表現がぴったり。単純に背が高いだけでなく、並はずれた存在感がある。ガクランにジャージのズボン、幅広のネクタイに黒縁眼鏡、長髪を後ろに束ね、帽子をかぶっている。

 作品は本人のパフォーマンス付き朗読、會田氏のヴィブラフォンとマリンバとセリフ、それに聴衆がそれぞれに出す音から成る4楽章。ご本人はこれまで美術、舞台表現のメディアで活動してきた由で、「演技」は堂に入ったもの。テキスト内容はシュールリアリスティック、會田氏は直角に置いた2つの楽器の間を跳びまわりながら声も出す。我々も思い思いに手や体を叩いたりして音を出す。なかなか楽しい。

 休憩をはさんで第二部はまず朝吹英一(1909-93)の3曲〈火華〉〈風鈴〉〈水玉〉のヴィブラフォンによる演奏。朝吹はヴィブラフォンを初めてわが国に輸入し、演奏し、そのための作曲をした人。財界の実力者の息子で本人も企業経営をしながら、ヴィブラフォンの啓蒙と演奏の活動を続けた。この3曲はそのヴィブラフォン用の代表作。各々に鮮明に性格が異なる。タイトルが各々の曲のキャラクターを端的に表す。楽器の特性や特有のテクニックを聞かせるためのいわゆるショウ・ピースではあるが、くり返し聴きたくなる曲だ。あたしとしては〈風鈴〉が一番心に響いたが、ころころと音がころがる〈水玉〉もいい。〈火華〉はもう少し涼しい時に聴きたい。

 その次が意表を突かれて、何よりも一番面白く楽しんだ。金関寿夫詞、間宮芳生曲の〈カニツンツン〉。金関は北米インディアンの詩の訳者として認識していたが、詞の中にもインディアンの種族の名やその語彙からとられたと覚しき音が聞えた。これは佐原詩音氏のピアノを伴にして、會田氏が、歌うというより声と体で演じる。確かにこの「曲」は声でうたうだけでは収まらない。各地で演じられているそうだが、これをまた見るためだけに會田氏の公演に行きたくなった。

 続いては佐原氏のピアノ・ソロ。鮮やかなものである。そして同じく佐原氏のアレンジで〈ほたるこい〉と〈われは海の子〉をヴィブラフォンとピアノで演奏する。遊び心満載のアレンジ。〈ほたるこい〉は聴衆もうたうようけしかけられる。〈われは海の子〉は八分の九拍子、アイリッシュのスライドでおなじみのリズムでよくスイングする。まさに波に揺られる感覚。

 というようにかなり多彩な内容で、お腹いっぱいになっていたのだが、ラスト1曲でこれがほとんど全部すっとんでしまった。

 山川あをい作曲の〈マリンバのための「UTA」〉第4番。

 ここまで會田氏は瀧沼作品を除いて暗譜で演奏していた。クラシックの人には珍しいと感心していたのだが、これは譜面を見てやる。曲自体は高校生の時に出逢って演奏しはじめてから20年、数えきれないほど演っていて、カラダに刻みこまれている。が、なぜか今日は譜面を見ながらやりたくなったのだそうだ。これが暗譜の演奏とどれほどの違いを生んでいたのかはわかる由もないが、この演奏は実に心に染み入った。

 後で川村さんも言っていたように「感動」とは違う何か。その世界に持っていかれたわけでもない。ひたひたと満たされる感覚、だろうか。音楽に包みこまれ、包んだ音楽がそのまましみこんで満杯になる。

 惚れぼれするようなパッセージがあるわけでもなく、劇的に盛り上がることもない。むしろシンプルなメロディが、流れるのではない、寄せてくる。演奏するのもそう難しくなさそうにも見えるが、案外そうでもないかもしれない。shezoo さんの《神々の骨》の〈怒りの日〉のように、シンプル極まるがきちんと演奏するには極限の集中を要する曲もある。あれは聴く方も集中させられるけれど、この〈UTA〉はそういうことはない。一方でこれはマリンバによる一つの極限の音楽にも聞える。アンコールはついにやらなかったのも当然。何をやってもこれの後では蛇足でしかない。

 ゲイリー・バートンのような人もいてヴィブラフォンは面白いと思うけれども、あたしとしてはマリンバの太いくせに繊細な響きに惹かれる。

 とまれようやく會田デビューができた。次は旋律を叩けない打楽器を叩きまくる會田氏を見て聴いてみたいものだ。

 奏者のためもあってきつめの冷房の室内から外に出ると暑気が襲ってきた。この調子だといずれ夏のイベントには参加できなくなるだろう。少なくとも昼間のイベントには。13時半開場となると一日で最も暑い時間に会場に向うことになる。Winds Cafe もかつてはもっと遅い涼しくなる時間にやっていた。またああいう時間帯での開催の検討をお願いしますよ、川村さん。(ゆ)


Windscafe344small

 しばらく前から Winds Cafe は師走の月を除いてクラシックの室内楽のコンサートになっている。今回はピアノの百武恵子氏を核にしたプーランク作品ばかりのライヴだ。

 あたしなんぞはプーランクと聞いてなんとなくバロックあたりの人と思いこんでいて、19世紀も最末期に生まれて死んだのは1963年、東京オリンピックの前の年というのにびっくり仰天したのが、2、3年前というありさま。クラシックに狂っていた中学・高校の頃にその作品も聴いたことがなかった。あるいはその頃はプーランクは死んでからまだ間もなく、注目度が落ちていたのかもしれない。

 あわててプーランクをいくつか聴いて、こんなに面白い曲を書いた人がいたのかと認識を新たにしていた。そのきっかけはこの百武氏と今回も登場のチェロの竹本聖子氏によるラフマニノフとプロコフィエフのチェロ・ソナタである。主催の川村さんに泣きついてこの日の録音を聴かせてもらって、この2曲、とりわけラフマニノフにどハマりにハマってしまった。この録音を繰り返し聴くだけでなく、図書館のCD、ストリーミングをあさりまくり、聴きまくった。図書館にはコントラバス版のCDもあって、なかなか良かった。

 そこで発見したことは、この20世紀前半という時期のクラシックの楽曲が実に面白いということだ。まだ現代音楽になる前で、しかもその前の煮詰まったロマン派とは完全に一線を画す。モダンあるいはポスト・モダン以降にかたまったあたしの感性にもびんびん響くとともに、音楽の「流れ」の要素を無視するまでにもいたっておらず、リニアな曲として聴くことができる。思えばかつてクラシックに溺れこんでいたとき、最終的に行きついたバルトーク、コダーイ、ヤナーチェック、シベリウス、ショスタコヴィッチなどもこの時期の人たちだ。マーラーやハンス・ロットを加えてもいい。あの時そのままクラシック聴きつづけていれば、ラフマニノフ、プロコフィエフ、そしてこのプーランクなどを深堀りしていたかもしれない。一方で、その後、あっちゃこっちゃうろついたからこそ、この時期、音楽史でいえば近代の末になる時期の曲のおもしろさがわかるようになったのかもしれない。

 この日の出演者を知って、これは行かねばならないと思ったのは、プーランクで固めたプログラムだけではない。ラフマニノフのチェロ・ソナタの様々なヴァージョンを聴いても、結局あたしにとってベストの演奏は百武&竹本ヴァージョンなのである。これは絶対に生を体験しなければならない。

 いやあ、堪能しました。会場は急遽変更になり、サイズはカーサ・モーツァルトよりもちょっと狭いけれど、音は良い。演奏者との距離はさらに近い。ロケーションも日曜日の原宿よりは人の数が少ないのがありがたい。もうね、田舎から出てゆくと、あの人の多さには最近は恐怖を覚えたりもするのですよ。

 驚いたのは小さな、未就学児のお子さんを連れた家族が多かったこと。Winds Cafe の客はあたしのような爺婆がほとんどなのが普通で、一体何がどうしたのかと思ったけれど、後で聞いたところでは百武氏のお子さんがその年頃で、同じ年頃の子どもたちを通じてのご友人やそのまたお友だちが「大挙」して来場したのだった。必ずしもこういう音楽になじみのある子どもというわけではなく、演奏中はもじもじしたり、退屈そうな様子をしたりする子もいた。それでも泣きわめいたりするわけではなく、とにかく最後まで聞いていたのには感心した。こういうホンモノを幼ない頃に体験することは大事だ。音楽の道に進まなくても、クラシックを聴きつづけなくても、ホンモノを生で体験することは確実に人生にプラスになる。ホンモノの生というところがミソだ。ネット上の動画とどこが違うか。ネット上ではホンモノとフェイクの区別がつかない。今後ますますつかなくなるだろう。生ではホンモノは一発で、子どもでもわかる。これが一級の作品であり、その一級の演奏であることがわかる。

 子どもたちが保ったのは、おそらくまず演奏者の熱気に感応したこともあっただろう。また演奏時間も1曲20分、長いチェロ・ソナタでも30分弱で、いわゆるLP片面、人間の集中力が保てる限界に収まっていたこともあるだろう。そして楽曲そのものの面白さ。ゆったりした長いフレーズがのんびりと繰返されるのではなく、美しいメロディがいきなり転換したり、思いもかけないフレーズがわっと出たりする。演奏する姿も、弦を指ではじいたり、弓で叩いたりもして、見ていて飽きない。これがブラームスあたりだったら、かえって騒ぎだす子がいたかもしれない。

 あたしとしては休憩後の後半、ヴァイオリンとチェロの各々のソナタにもう陶然を通りこして茫然としていた。やはり生である。ヤニが飛びちらんばかりの演奏を至近距離で浴びるのに勝るエンタテインメントがそうそうあるとは思えない。加えて、こういう生楽器の響きを録音でまるごと捉えるのは不可能でもある。音は録れても、響きのふくらみ、空間を満たす感覚、耳だけではなく、全身に浴びる感覚を再現するのは無理なのだ。

 今回はとりわけヴァイオリンの方の第二楽章冒頭に現れた摩訶不思議な響きに捕まった。この曲はダブル・ストップの嵐で、この響きも複数の弦を同時に弾いているらしいが、輪郭のぼやけた、ふわりとした響きはこの世のものとも思えない。

 どちらも名曲名演で、あらためてこの二つはまたあさりまくることになるだろう。ラフマニノフもそうだが、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタといいながら、ピアノが伴奏や添えものではなく、まったく対等に活躍するのもこの時期の楽曲の面白さだ。プーランクもピアニストで、時にピアノが主役を張る。ヨーロッパの伝統音楽でもフィドルなどの旋律楽器とギターなどのリズム楽器のデュオはやはりモダンな展開のフォーマットの一つだが、そこでも両者が対等なのが一番面白い。近代末の「ソナタもの」を面白いと感じるのは、そこで鍛えられたのかもしれない、と思ったりもする。かつてクラシック少年だった時にはオーケストラばかり聴いていた。室内楽は何が面白いのかわからなかった。今は小編成の方が面白い。

 小さい子どもが来ることがわかっていたのか、百武氏はプログラムの前半にプーランクが絵本『象のババール』につけた音楽を置いた。原曲はピアノで、プーランクの友人がオーケストラ用に編曲したものを、この日ヴァイオリンを弾かれた佐々木絵里子氏がヴァイオリン、チェロ、ピアノのトリオのために編曲された特別ヴァージョン。この音楽がまた良かった。ピアノ版、オーケストラ版も聴かねばならない。

 『ババール』の絵本のテキストを田添菜穂子氏が朗読し、それと交互に音楽を演奏する。ババールの話はこれを皮切りに15冊のシリーズに成長する由だが、正直、この話だけでは、なんじゃこりゃの世界である。しかし、これも後で思いなおしたのは、そう感じるのはあるいは島国根性というやつではないか。わが国はずっと貧乏だったので、なにかというと世の中、そんなうまくいくはずがないじゃないかとモノゴトを小さく、せちがらくとらえてしまう傾向がある。ババールの話はもっとおおらかに、そういうこともあるだろうねえ、よかったよかったと楽しむものなのだろう。それにむろん本来は絵本で、絵と一体になったものでもある。それはともかく、プロコフィエフの『ピーターと狼』のように、プーランクの曲は音楽として聴いても面白い。

 アンコールもちゃんと用意されていた。歌曲の〈愛の小径〉を、やはり佐々木氏が編曲されたヴァージョンで、歌のかわりに最初の一節を田添氏が朗読。

 田添氏が朗読のための本を置いていた、書見台というのか、譜面台というのか、天然の木の枝の形を活かした背の高いものが素敵だった。ここの備品なのか、持ちこまれたものなのか、訊くのを忘れた。

WindsCafe300


 百武氏とその一党によるライヴはまたやるとのことなので、来年の次回も来なくてはならない。演る曲が何かも楽しみだが、どんな曲でも、来ますよ。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

田添菜穂子: narration
佐々木絵里子: violin
竹本聖子: violoncello
百武恵子: piano

Francis Jean Marcel Poulenc (1899-1963)
1. 15の即興曲第15番「エディット・ピアフを讃えて」FP176, 1959
2. 「子象ババールのお話」FP129, 1945
3. ヴァイオリン・ソナタ FP119, 1943
4. チェロ・ソナタ FP143, 1948
アンコール 愛の小径 FP 106-Ib, 1940

 漱石の『夢十夜』の朗読に音楽をつける。ただし音楽は朗読の「伴奏」や「バック」では無い。朗読と対等の位置付けだ。音楽は作曲しているところと即興のところがあるが、その境は分明でない。それぞれの話で、朗読と音楽の構成の大枠は決まっているが、朗読がいつどこに入るか、は即興の場合もある。これまた、決まっているところと即興の部分は分明でない。

 音楽を担当するのはピアノの shezoo、パーカッションの相川瞳、サックスの加藤里志。朗読を担当するのは西田夏奈子と蔵田みどり。そして、各挿話からイメージを育み、イラストとして描き、スライドで上映するのが西川祥子。

 蔵田さん以外のメンバーはこれに先立つアンデルセン『絵のない絵本』全篇を朗読と音楽とイラストで体験するイベントを成功させている。これがあまりに面白かったので、もう少しやろうということになり、その対象として『夢十夜』を選んだ。まことにふさわしいものを対象にしたものだ。『夢十夜』は『絵のない絵本』と同じメンバーで2回に分けてやり、その後、蔵田さんを加えて全夜上演をやっている。今回は全夜一挙上演の2回めになる。

 前回の全夜上演は見られなかったので、蔵田さんのパフォーマンスに接するのは初めてだが、彼女の参加は大成功ではある。一挙上演となると、朗読者が一人では単調になるかもしれないという配慮から出たアイデアかもしれない。西田さんとは対極にあるアプローチで、西田さんが俳優という本業を活かして、朗読を演じるのに対し、蔵田さんはシンガーという本業を朗読に持ちこんで、唄うように読む。その対照がまことに鮮やかで面白い。二人は交互にメインの役割を担当し、蔵田さんが奇数、西田さんが偶数の夜を読む。時には、各々一部の声を分けたりする。その呼吸が絶妙だ。

 音楽は基本は同じだが、テキストのどこで入るかや、楽器同士の受け渡しなど、細かいところをいろいろ変えているようだ。このトリオは実に切れ味がいい。音楽をシャープにしているのは主に相川さんのパーカッションだが、加藤さんのサックスやクラリネット、リコーダーまでがこれによく応えている。shezoo さんのピアノもリリカルの演奏がすぱすぱとキレる。

 もちろん各々の話にふさわしい音楽を作り、演っているわけだが、音楽だけでも独立している。聴いて愉しい。愉しい音楽がそのまま舞台設定ともなり、朗読を増幅もする。話が立体的に立ち上がってくる。イメージがより鮮明に湧く。同時に言葉の響きがより明瞭になる。話の世界に引きこまれ、没入させられる。話の伝えようとするところが、ひしひしと伝わってくる。それは論理ではない。教訓でもむろん無い。名状しがたい感覚だ。ひょっとすると、そのキモを感じとるには、ただ読むだけではダメで、こうして音楽とパフォーマンスが一体となって初めて感得が可能になるのかもしれない。

 西川さんのイラストは古書の1ページをきりとり、裏から線香の火を近づけて焦がして描く。今回は『夢十夜』の文庫のそれぞれの話の1頁だったようだ。

 十篇一気に体験して気がついたのは、全体としてピーンと張りつめた話から始まるのが、徐々にゆるんできて、最後はほとんど落語になっている、という構成の妙である。一夜ずつは独立した話だが、通してみると、全体として一本の筋が通っている。そして、その筋から覗けるのは、この話はずいぶんと奥が深いということだ。ファンタジィの常として、いかようにも読めるが、これまたすぐれたファンタジィとして、おそろしく根源的なところまで掘りさげている。人間が生きることの玄妙さを具体的に浮き上がらせる。そして少なくともその一部は、こうしたパフォーマンスでしか垣間見ることができない。

 もちろん音だけではない。朗読者たちの演技、表情だけでもない。ミュージシャンたちの姿、画面の絵、そしてこの場の空気、雰囲気まで含めての、全体体験だ。その場に立ちあわなければ味わえない体験だ。

 だから、また別の作品、たとえば足穂の『一千一秒物語』あたりを見たいと思う一方で、この『夢十夜』全夜一挙上演を、また見たいとも思う。これは何度も体験したいし、見る方も数を重ねることで、あらたに見えたり感じたりするところがあるはずだ。そしてその体験の蓄積の上にようやく感得できるものがあるはずだ。

 今回、意表をつかれたのはラストの蔵田さんと shezoo さんによる「からたちの花」だった。これがこんなに切実に、染々と心に流れこんできたのは初めてだ。歌そのものの美しさに眼を開かれた。ゆっくりと、決して声を上げず、ささやき声になる寸前の声で、ていねいに唄う。

 この歌をラストのしめくくりとして唄うことは shezoo さんのアイデアだそうだが、蔵田みどりといううたい手を得て初めてどんぴしゃの、これ以上無い幕引きになっている。漱石が聴いたなら、大喜びしたにちがいない。同時に、古いこの歌が、時空を超えて輝いていた。この歌を聴くためだけにでも、『夢十夜全夜上演会』を再演して欲しい。あの十篇のパフォーマンスがあって、その後に唄われるところが良いのだ。

 これは狭い空間で体験すべきものではある。観客100人でも多すぎるかもしれない。朗読者やミュージシャンたちの表情の微妙な変化も見えるくらいの、近いところで見たい。もちろんオペラグラスで見てはぶち壊しだ。

 それにしても、こういう、新しい形を思いつき、形にしてゆくアーディストたちには心からの敬意を表さざるをえない。ありがとうございました。(ゆ)

 どういうイベントなのか、実はよくわからずに出かけた。shezoo さんから聴きにきてくれと頼まれたからなのだが、なんともすばらしいイベントで、最高のクリスマス・プレゼントだった。しかも、これはこれから2年かけて全33話をこの形でやるという。それぞれが楽しみだが、最後まで順調にいけば、まことにユニークな成果になるにちがいない。

 shezoo さんのスケジュール表によればこのイベントは
 
「Nishikawa Sachiko Solo Show 『星の煌めきと夜のやさしさと』 第1部  『絵のない絵本』」

というもので、西川祥子さんの映像のもと、西田夏奈子氏がテキストを朗読し、それに加藤里志さん (sax)、相川瞳さん (perc)、それに shezoo さんが音楽をつける。

 音楽は各エピソードごとにテーマを shezoo さんが作曲し、それに続いて3人が即興する。

 テキストはアンデルセンの『絵のない絵本』で、昨日はその序章と第一話、第二話の3つが演じられた。もちろん名前は知っていたが、古典の例にもれず、読んだことはなかった。聴いて驚いた。これは読もう。

 朗読とはいっても、西田氏は俳優が本業でもあり、むしろ演技というべきだろう。しかも、自身演奏者として、他の3人とともに即興する。テーマが提示された後は、音楽のどこで、どのように読みだしてもいい、ということになっている。この呼吸がすばらしかった。朗読も完全に音楽の一部となっている。うたではなく、あくまでも散文を読む演技であることが、かえって音楽を立体化し、固有の世界を作りだす。そして、描かれたシーンが眼前に活き活きと浮かんでくる。序章の月の顔、第一話の川面を流れてゆく火、第二話の怒れる父親。

 そこには正面のスクリーンに投影された西川氏の絵の力もあずかっていた。西川氏は shezoo さんのトリニテ最初の CD 《prayer》の曲から霊感を得た「クロとカゲ」というイラストと文章による映像作品を作ってもいる。モノクロなのだが、見る者がそれぞれに色を投影できる。そして、静止画なのに、動いているように見える。あるいは絵が物語を語る。

 会場の喫茶茶会記がまたこの世界形成に貢献している。まず場所が秘密めいている。四谷三丁目の交差点からほど近いのだが、やや奥まったところにあり、地図を見ながら行ったにもかかわらず路地の入口を通りすぎてしまい、だいぶ歩いてからこりゃ違うと、今度は慎重にあともどりしてようやく見つけた。会場を見つけられない人が何人かいて、スタートが遅らされた。必要な時だけそこに存在し、ふだんは絶対に見つけられない店のようでもある。

 中に入ると、靴はぬいでスリッパに履きかえる。入ってすぐのところはカウンターとテーブルが一つ。ここは喫茶やバーになっているらしい。正面の扉の向こうがホール、さらにその奥にもう一つ小部屋があり、ここはこの日は楽屋になっていた。表の部屋とホールにはヴィンテージものの大型のオーディオ装置がでんと置かれて、いい音で鳴っている。ホールはステージのようなものはなく、演者と客席の境は何もない。20人も入れば一杯で、昨日は満席。照明も少なく、白昼にはこの部屋も存在しない雰囲気だ。月が訪れては語る話を演ずる場所としては、これほどふさわしい場所もそうないだろう。

 1時間弱の演奏は緊張感に満ち、音楽と話が混然一体となった世界に吸いこまれた。

 加藤さんはソプラノとバリトンを持ち替える。shezoo さんのシニフィアン・シニフィエのゲストで見たのが最初だった。クールな姿勢から振幅の大きな、冴えた音楽をくりだす。

 パーカッションの相川さんは中村大史さんとトリオも組んでいる人だった。かなり多彩な楽器を駆使して、これまたシャープな演奏をする。第二話でのダラブッカがみごと。

 shezoo さんを加えた3人での演奏は今回初めての由だが、他の人も感嘆していたように、とてもそうは見えない。西田氏も含めて、相当に練りあげたように聴こえた。

 そしてこの形でこの会場で毎回3話ずつ、隔月で2017年いっぱい、ひょっとすると2018年までかかるかもしれないというスケジュールで全33話を演ずる計画。昨日はプロの映像作家によって動画も撮られていたので、あるいは完結の暁にはDVDのボックスセットも出るかもしれないが、それよりもやはりライヴで体験するのがまず第一の選択肢でしょう。なにしろ即興の部分は当然演奏者たち自身にもどうなるかわからないのだから。あたしはもう全部スケジュールに組みこみました。これの完結を見るまでは死ねないよ。(ゆ)

このページのトップヘ