クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:本

Victoria Goddard, The Hands Of The Emperor; 2019
Victoria Goddard, Derring-Do For Beginners; 2023
Ray Robertson, All The Year Combine: The Grateful Dead in Fifty Shows; 2023
Nghi Vo, Mammoths At The Gates; Tordotcom Publishing, 2023
友川カズキ, 一人盆踊り; ちくま文庫, 2019
洲之内徹, さらば気まぐれ美術館, 新潮社, 1988
The Annotated Memoirs Of Ulysses S. Grant, annotated by Elizabeth D. Samet; Liveright Publishing, 1886/2018
バート・S・ホール + 市場泰男, 火器の誕生とヨーロッパの戦争 Weapons And Warfare In Renaissance Europe; 平凡社ライブラリー, 1999/2023


 今年はとにかく Victoria Goddard に明け暮れ、そして洲之内徹を発見した。その合間に石川淳の中短篇を読みつづけ、Elizabeth D. Samet が厖大な、分量として本文と肩を並べ、かつ無数の図版を加えた厖大な注をつけたユリシーズ・S・グラントの回想録に夢中になった。


 まずは洲之内徹である。この人の名前と著書を知ったのは友川カズキの『一人盆踊り』だった。その『一人盆踊り』を教えられたのは、ダーティ・松本のブログである。
 『一人盆踊り』そのものも抜群に面白い読物だった。松本が書いているお地蔵さんにとりつかれた話も確かに面白いが、図書館から借りて読んでみて買う気になったのは、その話の次に入っている「一番下の空」という詩だった。その後の「詩篇供廚房められた中のいくつかも良かった。

 友川はシンガーであり、詩人であり、そして絵を描く。三つめからこの中の一篇「洲之内徹さんのこと」が生まれた。

 この文章は洲之内徹の追悼文である。白洲正子の追悼文の引用でしめくくりながら、これ自身見事な文章だ。こういう文章を書かせる洲之内徹が書いた本は読んでみたいと思わない方がおかしい。図書館には全部そろっていた。まず文庫版『気まぐれ美術館』を読み、『絵の中の散歩』を読み、以下、「気まぐれ美術館」の各巻を読んでいった。読みおえると、「気まぐれ美術館」以外の美術に関するエッセイを集めた『芸術随想』の2巻を、こちらは古書を買って読んだ。洲之内がとりあげた絵が図版として大量に入っていたからだ。

 信じられないくらい面白い。絵についてのエッセイがこんなに面白くなれるものとは知らなんだ。まさに我を忘れて読みふけってしまう。あっさり読んでしまうのはもったいないと、少しずつ読もうとするのだが、ついつい手が伸びてしまう。読みだすとやめられない。書いてあるのは、聞いたこともない絵描きたちのことばかりだ。日本で活動している、していた絵描きたちだ。日本語ネイティヴではない人も数人いる。読みおえた時には、誰もかれも昔から知っている人になっていた。

 とりわけ、最終巻『さらば気まぐれ美術館』だ。この巻に入ったとたん、空気が一変する。悽愴の気を帯びる。これが最後とわかっているのはこちらの話で、書いている本人はまだまだ何年も書きつづけるはずなのに、もうすぐ終りと気づいてしまった感覚がじわじわと這いのぼってくる。

 まず、洲之内はそれまで片鱗もなかったにもかかわらず、いきなり音楽を聴きはじめる。きっかけは友川だ。絵描きの友川のレコードを聴き、ライヴに行ったことで、日本のシンガー・ソング・ライターたちのレコードを聴きだす。周囲が薦めるものを片端から聴く。そしてある日、ジャズを発見する。今度はジャズに溺れこむ。レコードをかけて、以前はそんなに飲めなかった酒を飲みつづけながら、何時間も聴く。人にも無理矢理聴かせる。結局死ぬ間際まで聴きつづける。

 こんな風に死に物狂いで、実際に生きるためにも音楽を聴いていた人間、聴いている有様は見たことがなかった。洲之内の絵を見る眼のことを友川は書いている。もし眼のように耳がものを言うならば、洲之内の耳はさぞかしすさまじく美しい形相を見せていただろう。佐藤哲三や松田正平について語るように、洲之内がコルトレーンやモンクについて語っていたら、と思わざるをえない。

 洲之内徹については散々語られてきたし、これからも語られるだろう。あたしは黙ってその文章をくり返し読むだけでいい。こういう人に出会うと、もっと早く出会っていたかったと思うが、その度に、出会うにはその時が満ちることが必要なのだと自分に言い聞かせる。


 エリザベス・サメトが注をつけたユリシーズ・S・グラントの回想録を読んだのは、Washington Post Book Club で紹介されたからだ。



サメトはこの回想録にとり憑かれ、その研究をするためにウェストポイントの米陸軍士官学校で英語を教える仕事についた。そうして永年研究してきたありったけをこの注にぶちこんだ。と思えるが、おそらくまだまだ出していない、出せかなかったものが山のようにあるのだろう。そういうことも垣間見える。登場する人物などの固有名詞はもちろん、当時の社会、インフラ、テクノロジーなどの状況から、戦争を記録し、叙述する方法やスタイルの多様性、そしてグラント本人と回想録そのものの評価の変遷などなど、およそ紙の本として、一冊本として可能なかぎりの情報を詰めこんでいる。おかげで索引がはじき出された。基本にあるのは、時間的にも空間的にも可能な限り広い文脈で読もうとする姿勢である。例えば参照される文献には古代ギリシャ・ローマはもちろん、中国の古典から現代のものまで含まれる。グラントの本文はもともと滅法面白いが、それをさらに何倍、いや何乗にも増幅する。

 本文とサメトの注とから浮かびあがるグラントという人物も面白い。軍指揮官としてのグラントはアメリカのみならず、世界史上有数といわれる。断片的、ランダムな報告から、現場の地理的環境、状況全体を瞬時に適確に把握し、適切な対応ができる能力、自分が見えないところで敵が何をしようがまったく気にしないでいられる能力、戦場全体を総合的に把握して戦略を立てて実行する能力、そして全軍を一つの目標に向かって動かしてゆく能力を備えた。身長170センチの小男で、風采はあがらない。当時戦場で撮られた写真に映っているのは、どう見てもせいぜいが下士官だ。戦闘の間は丸腰のまま馬で戦場を駆けまわりながら、指示を出す。いったいいつ眠るのだと思えるほどの多忙の合間を縫って、愛妻ジュリアに頻々と手紙を書く。

 戦争に勝つという共通の目標に向かっている集団である軍隊を率いたとき、グラントは無類の強さを発揮した。しかし、一国の政治にはそうした共通の目標はありえず、様々な目標を各々の集団または個人がめざす。そういう集団を率いるとなるとグラントはほとんど無能になる。大統領としては最低の一人とされる。

 南北戦争終結までを扱うグラントの回想録は、62歳の時、詐欺師にひっかかって、全財産を失い、金を稼ぐ必要ができたことから書きはじめられた。ほぼ同時に喉頭がんが発覚して、金を稼ぐのも急がねばならなくなって本格化する。最後の原稿を渡したのは死の5日前。つまりがんが進行する中、1年で書いた。今や、アメリカ文学の古典として、いくつもの版が出ている。サメト注のものは、これら従来の版に冠絶する。


 バート・S・ホール + 市場泰男の『火器の誕生とヨーロッパの戦争』は、タイトル通りの話だが、火器には携帯用の小火器だけでなく、大砲もある。ヨーロッパの戦争はオープン・フィールドでの野戦と攻城戦がほとんどで、したがって初めは大砲が発達する。小火器がモノを言いはじめるのは、後込めシステムとライフルすなわち施条(しじょう)もしくは腔旋が発明されてからだ。それ以前の銃は装填に手間暇がかかりすぎたし、射った弾がどこに飛んでゆくかわからなかったから、使い方が限定されていた。滑腔銃である火縄銃で狙いをつけて撃つ、なんてことはありえないのだ。そしてライフルを施した銃が普及して最初の戦争が南北戦争だ。


火器の誕生とヨーロッパの戦争(945;945) (平凡社ライブラリー) [ バート・S.ホール ]
火器の誕生とヨーロッパの戦争(945;945) (平凡社ライブラリー) [ バート・S.ホール ]

 鉄砲や大砲は戦争の仕方をがらりと変えた、という定説を、そうではなかったと論証するのが、著者がこの本を書いたきっかけ。技術、テクノロジーはリニアに一直線に発展するものではないし、革新的なテクノロジーが即座に戦争のやり方を変えたわけでもない。むしろ、曲りくねって、時には改良しようとして逆行することもある。発明されただけで世の仕組みを変えることにはならない。

 情報のデジタル化も同じだ。それ自体では、たとえばCDが一時LPにとって代わったように、旧来の使われ方の中で使われる。これがネットワークと結びついた時、デジタル化の本領が発揮され、あるいはその真の意味が発見されて、情報はメディア、紙やレコードやフィルムから解放された。

 火器は人間ないし他の動物を殺傷する以外の機能は無い。槍、弓矢、刀剣も同様だが、それらは象徴になりうる。火器は象徴にならない。徹底的に工業製品だからか。それだけに、テクノロジーの本質を他よりも剥出しにする。


 石川淳はまずは文庫で読んでいる。エッセイ、随筆については昨年ほぼ読みつくした。『森鷗外』など、あえて読まずにとってあるものもあるが、最初期から最晩年までを網羅する形で、重要なものは読めた。そこで今年は中短篇小説をあらためて読みだし、そしてこちらも文庫で読めるものは読みつくした。

 まず驚いたのはエッセイと小説がほとんど対極といっていいくらいに違うことである。エッセイは漢文とフランス文学とそして江戸文化の分厚く、強靭な教養そのままに、「最後の文人」の面目躍如である。

 中には『諸国畸人伝』のように、諧謔精神たっぷりに対象を選んでいるものもある。その書きぶりは堂々たるもので、あまりに正統的なので、あたしなどはかつがれていることにかなり後になるまで気がつかなかった。正統的な叙述がそもそもかつぐ手法であるわけだ。

 そういうものも含めて、表面的には江戸以来の日本語のエッセイ、随筆の王道をひき継ぐ。これはどう見ても文学、それも「純」をつけたり、ゴチックで強調したりすべき文学だ。このエッセイだけでも石川淳が近代日本文学の巨人の一人に数えられるのも無理はない、とすら思えてくる。

 ところが小説は様相がまるで違う。こちらはどう見ても、「異端」と呼ばれておかしくないものばかりだ。小説の王道どころではない。裏街道ですらない。道なき道をかき分けてゆく。石川淳の前に道はなく、石川淳の後ろに道が残る。後を追って辿る者はいそうにない道だ。石川に並べられるのは中井英夫であり、かれが「異端の作家」と呼んだ、夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎、さらには山田風太郎といった面々だ。小説だけとりだせば、石川淳に最も近い位置に今いるのは筒井康隆ないし円城塔だろう。あるいは川上弘美か。石川淳の中短篇が『新潮』とか『群像』とか『文學界』とか、あるいは『すばる』などの雑誌に発表されたというのは、どういう契機なのだろう。出世作『普賢』が芥川賞をとったからだろうか。というようなことまで思ってしまう。

 しかしまあ面白い。もちろん文庫に収録されるものは精選されているとはいえ、どれもこれも面白い。「おとしばなし」のシリーズのような、カルヴィーノやレムを髣髴とさせるホラ話。半村良の『産霊山秘録』を髣髴とさせる「八幡縁起」のような伝奇もの。あるいは「まぼろし車」のような純粋のホラー。この「まぼろし車」を菅野昭正ほどの読み巧者が完全に読みあやまっていたのは、別の意味で面白かった。そうすると石川淳のキャリア全体が壮大な詐欺に見えてくる。20世紀日本の文学界全体をまんまとかつぎおおせた大詐欺師・石川淳。むろん、その石川淳と、「最後の文人」である石川淳は矛盾しない。同時にその二つの相を持っていたのだ。

 来年は長篇を読む予定だ。『狂風記』だけは読んでいるが、これを石川の長篇の最高傑作と呼ぶのを、あたしはためらう。むしろ『至福千年』や『荒魂』に期待する。


 さてヴィクトリア・ゴダードである。この人について語るのは難しい。ゴダードの作品はかなり人を選ぶからだ。ハマる人はハマるけれども、そうでない人にとってはまったくのゴミにしか思えない性質の小説だ。それに、なぜ、自分がこれにハマるのか、いつも以上にわからない。



 ひとつだけ言えそうなのは、あたしがゴダードを読むのは、そこに希望が語られているからだろう、ということだ。単に希望を持ちましょうと言っているわけではない。脳天気に楽天的な話で希望を抱かせようとするわけでもない。読んでいると、希望が持てそうな気がしてくるのである。具体的にはたぶんそこがゴダードを読みつづける人と棄てる人を分けるのではないか。ゴダードを読んでいると湧いてくる希望の感覚を、なんでこんな感覚が湧いてくるのだといぶかりながらも、話から必然的に生まれてくるものとして認め、受け入れる人と、徹頭徹尾うさん臭いもの、認めてしまっては危ない罠として拒む人が分れるのではないか。

 だから、とにかく文句ない傑作だから読めと、たとえばアン・レッキーの Ancillary Justice 邦題『叛逆航路』を薦めるようにはゴダードを薦めるわけにはいかない。

 しかも、エントリー・ポイントとしてのお勧めも難しい。ベストのエントリー・ポイントが The Hands Of The Emeperor であることはファンの一致するところだが、これは30万語超、邦訳400字詰3,000枚の長篇だ。kindle で902、Apple Book で 1,317 というページ数である。しかも、その長さを実感する小説なのだ。抜群に面白いが、なかなか読みおわらず、読みおえたとき、ああ長かったと思えてしまう。長かった、でも面白かった。そして、もう一度読みたいと思えてくる。



 これだけではない。ゴダードの作品は登場人物など、様々な形でからみ合っていて、一通り読んで終りではなく、もう一度全部読みなおしたくなるのである。

 エントリー・ポイントの2番目の選択肢としては The Greenwing & Dart シリーズの1冊目 Stargazy Pie だが、このシリーズの本当の面白さは巻を追って深まるので、これだけ読んでも、何の話かよくわからないうらみがある。あえて言えば、これを読んでみて、続きを読んでもいい、読みたいと感じられたら脈があるかもしれない。



 中短篇は初期のものは後に長篇で確立するスタイルとは違う。近作は長篇の外伝が多いので、元の長篇を読んでいないと面白さがよくわからない。

 もう一度あえて言えば The Bride Of The Blue Wind は、これまでのゴダードの全作品の中であたしが一番好きなものではある。このノヴェラは語り口が他のものと異なり、Nine Worlds と作者が名づけた世界での神話を語る、ダンセイニを思わせるやや古風なもので、きりりと引きしまった見事な出来だ。登場人物たちも後の他の作品に、いろいろと姿を変えて出てくる。



 そしてこれが例外となる語り口、ゴダードの主要作品の語り口がまた問題だ。ひと言でいえば、のんびりしているのである。毎日の暮しの細々としたことをゆったりとしたテンポで語ってゆく。食べもの、ファッション、買物、子どもたち、ゴシップ、近所づきあい。派手な活劇だけでなく、その裏にあるはずの生活を描く。ヒーローたちが負わされた宿命を進んで担おうという気になるような生活である。

 その語りのテンポはおよそ現代風の、常に何かに追いかけられているようなペースと根本的に異なる。このテンポについてゆけるかどうか、そこまで遅くゆるめることができるかが、おそらくはゴダードを読む第一関門となろう。言いかえると、語る必要のあることのすべてを、必要なだけの時間をかけて語るという姿勢を認め、いくらでも時間をかけていいし、手間暇をかけて語ってもいい、と思えるかどうかである。

 もっともこの人はアクション・シーンが不得手なわけではない。アクション・シーンでもペースは変わらず、一つひとつのシーン、手順をていねいに追いながら、しかも緊迫感が漲る。すさまじいまでの早技がほとんど舞踏に見える。考えてみれば、これはかなりの力業だ。並の筆力ではこうはいかない。ゆっくりていねいに描写すれば、緊張感は犠牲になるのが普通だ。

 あたしはとにかくどハマりにハマった。今年いっぱいかけて、長篇 At The Feet Of The Sun と Nine Worlds ものではない短篇を一握り残して、読みおえた。The Hands Of The Emperor にはやはり感動した。そして、今のところ最新の長篇 Derring-Do For Beginners には夢中になった。新たなシリーズの第一作で、続きを読みたくてしかたがない。

 ゴダードは2014年以来現在までに総数33本の作品を発表している。
短篇 = 7
短中篇 ノヴェレット = 4
長中篇 ノヴェラ = 9
長篇 = 12
 この他に Discord のみで読める短篇が3本。これもあたしは読んでいない。

 来年はゴダードの再読をしながら、また別の人を試すことになろう。誰かにハマるか。Richard Swan か Fonda Lee か Kevin Hearne か。あるいはまったくの新人か。ニー・ヴォはハマりかけている。C. S. E. Cooney もいる。一方、ル・グィンをあらためて読みなおそうという気分もある。ライバーを読んでやろうかとも思う。そうだ、ビーグルもいる。

 と思っていたら、マイケル・ビショップの訃報を Locus の最新号で知る。とすれば、追悼の意味で読むとするか。(ゆ)

 アマゾンがデスクトップ版の Kindle for Mac を新版にした。従来のものは Kindle Classic と呼んで、間もなく使用できなくするらしい。この新版はアマゾンで買ったもの以外の mobi ファイルを受けつけない。アマゾン以外で買ったり、ダウンロードしたりした Kindle 本もかなりな数あるが、それらは認識しない。新しい本は Send to Kindle を使えとあるのだが、使おうとすると、これまでは問題なく Kindle で読めていた本が、このフォーマットはサポートしていません、と出る。デスクトップ版でこういう態度に出たということは、iPad OS、iOS 用でも同様だろう。

 そこで一度試したもののユーザー・インターフェイスが気に入らなくてお蔵入りさせていた Calibre をひっぱり出した。新しくなっていて、UI もだいぶマシになった。それよりもこれは mobi を epub に変換できるはずだ。試しにやってみると、Lo and behold!、みごとに変換してくれる。変換は MacBook Air (M1) でやるが、「ブック」で一度開けば、iPad mini でも iPhone でも開ける。よしよし、アマゾンが自社以外で入手した電子本は占めだすというのなら、mobi ファイルで持っている本は全部 epub に変換して読もう。

 電子本のメリットはいろいろあるが、配布元の意向次第で読めなくなるのは問題だ。だからできるかぎり紙の本を買うのだが、それができなくなりつつある。洋書の話だ。

 どうしても新刊で欲しいものは別として、従来洋書は一番安い版を探して買っていた。ほとんどは BookFinder で検索して一番安いもの、たいていは古書を買っていた。その方が電子版より安かった。それがパンデミックによって送料が上がり、さらに円安である。送料含めて1冊2,000円を切るのは稀だ。こうなると電子版より高いことが増える。

 新刊は完全に電子本の方が安い。しかし小説はともかく、ノンフィクション類で図版や写真が入っているものは電子版では見にくい。小説でも地図が重要なファンタジーはできるだけ紙で欲しい。地図だけ別にウエブ・サイトなどで公開してくれている人もいるが、まだ少ない。

 電子本は好きではない。上記以外にも、まず画面で読むのが眼に辛い。国籍で買えないことがある。人に貸したり、あげたりできない。読むのにツールと電気が要る。

 買うときは Apple Bookstore、Kindle ストア、楽天 kobo ストアで探し、一番安いものを買っていた。しかし、今後は Kindle はそれ以外には無い場合のみ買うことになるだろう。

 電子本を読むのはもっぱら iPad mini である。重さ、サイズがちょうどいい。そして、すべての電子本が読める。ePub のみならず、mobi も、kobo もアプリを入れればそのまま読める。

 iPhone は画面が小さすぎて、長時間見ていると頭が痛くなる。スマホがデフォルトなのだろうか、ゲームも映画もスマホで見ている人も巷にはかなりいるが、ああいうマネはとてもできない。

 すべての本に電子版があるわけでもない。電子版が出ているのは今世紀に入ってからの本か、古くて著作権が切れたタイトルのどちらかだ。20世紀後半に出た書物の電子化が少ない。古典と目される作品は電子化されていても、ちょっと外れるとダメだ。安田均さんは1960年代、70年代のSFペーパーバックは日本で一番集めたと思うと言っていた。宝物だ。

 雑誌はまた話が別だ。雑誌掲載のみで単行本化されていない中短篇は厖大だ。今世紀初めまでの雑誌は紙のバックナンバーを読むしかない。古書市場に出てこないものもある。古い雑誌に載った小説の著作権はもともと電子化は含まれていないし、著者にもどっているのが普通だし、物故者も増えてくるから、電子化はこれからも進まないだろう。

 何らかの形で単行本化されるものは氷山の一角に過ぎない。そして雑誌初出でしか読めない作品にも、忘れさられるままにするのはもったいないものがたくさんある。SFFのようなエンタテインメント系の作家の中短篇を網羅した全集が出ることは例外に属する。C・M・コーンブルースやジュディス・メリル、トム・リーミィやウォルター・M・ミラー・ジュニアのような作品数の少ない書き手は別として、ディックやスタージョン、セラズニィにシェクリイぐらいだ。シルヴァーバーグは初期に書きまくったものは選集になっている。ルグィンは進行中。アンダースンは中断している。ある作家の全作品を読もうとすれば、ほとんどは雑誌掲載のものを1本ずつあたるしかない。

 F&SF誌は定期購読をやめたことがないから、30年分はある。Asimov's も創刊から数年分はある。死んだ時、こいつらをゴミにするのはもったいないが、どこか、もらってくれるところはあるだろうか。

 電子本のメリットにはもう1つあると最近気付いた。やたらに本を買いこんで積読を増やすことが減った。なくなったわけではないけれど、ブツを買うのは今年に入って激減した。電子本が出ていれば、手許に置いておく必要がないからだ。読みたいときに買える。今のところはではあるが。洋書は買わなくては読めない。だから、とにかく手許に置いておかなくてはという心理も働いて、読めるはずがない量の本を買いこんでいた。その分が大幅に減った。ちょっと寂しくはあるが、やはり良いことではある。(ゆ)

 Subterranean Press のニュースレターでトム・リーミィの全中短篇集成の予告。未発表ノヴェラ収録とあっては買わないわけにはいかない。例によって送料がバカ高いが、やむをえん。昔出た San Diego Lightfoot Sue and Other Stories はもちろん買って、断片まで含めて、隅から隅まで読んだ。レオ&ダイアン・ディロンによるカヴァーにも惚れ惚れした。

 リーミィを知ったのはもちろん伊藤典夫さんの訳で SFM に載った「サン・ディエゴ・ライトフット・スー」で、何度読みかえしたかわからない。ああ、このタイトル。70年代だよねえ。F&SF1975年8月号巻頭を飾る。翌年ネビュラ受賞。1970年代の F&SF は本当に凄かった。後年、ロサンゼルスに仕事で半年住んだ時、最初の週末にわざわざローレル・キャニオン・ドライヴを走り、Hollywood Sign に行ってみたものだ。

 その Subterranean Press は先日久しぶりのティプトリーの作品集もアナウンスして、未発表、単行本未収録は無いようだが、やはり注文してしまった。

 これらのカネをさて、いったいどうやって工面するか。

 Subterranean Press の本は絶対逃せないものは直接注文するが、それほどでもない時はアマゾンに注文している。送料の桁が違って安い。そこでやって来たのが Jack McDevitt, Return To Glory。あらためて確認すると、この人、なんとシルヴァーバーグと同い年、3ヶ月しか違わない。ただし、デビューはシルヴァーバーグから遅れること四半世紀。というわけで、シルヴァーバーグはそろそろ燃え尽きているが、マクデヴィットは87歳でばりばり書いている。この本にも未発表短篇が5本ある。

Return to Glory
McDevitt, Jack
Subterranean Pr
2022-10-31



 シルヴァーバーグはすでに多すぎるくらい書いているわけで、もう何も書かなくても十分ではある。Subterranean Press はシルヴァーバーグも熱心に出していて、年明け早々に Among Strangers がやってきた。アマゾンに注文したのを忘れていた。3本の長篇とノヴェラを収めたこのオムニバスをぱらぱらやっていると、にわかにシルヴァーバーグが読みたくなり、買いためてあった中短篇集を掘りだしてきた。Subterranean Press からの中短篇全集も買ってはあるが、あえてなるべくオリジナルの形で読んでみたくなる。

Among Strangers
Silverberg, Robert
Subterranean Pr
2022-12-01



 昨年アメリカの出版界で最も話題になったのはブランドン・サンダースンの Kickstarter プロジェクトだった。COVID-19 で本のプロモーションのためのツアーが全部なくなった。それまでかれは1年の3分の1をツアーに費していたから、時間があいてしまった。そこで何をしたかというと、誰にも内緒で長篇を4本書いてしまった。それらを自分で出版するのに資金を募ったら、185,341人の支援者によって 41,754,153USD、今日のレートで55億円弱という Kickstarter 史上最高額の寄付が集まり、サンダースンの版元である Tor だけでなく、出版界全体が青くなった。

 その秘密の長篇4本の最初の1冊 Tress Of The Emerald Sea がやってきた。本だけでなく、特製の栞やらピンバッジやら、いろいろおまけも入っている。輸送用の外箱も、中のクッションも専用に作ったらしい。あんまり綺麗なので、シュリンクラップを破る気になれない。中身は電子版で読めるから、当分、このまま積んでおこう。

TotEScntnts

TotESpin


 それにしても、これらの本は、あたしが死んだら、どこへ行くのだろうか。(ゆ)

本の索引の作り方
藤田 節子
地人書館
2019-10-19


 一番の驚きは本文には無い語彙を見出しに立てる、というところ。本文の記述から概念をとりだしたり、本文のテクストを改変したりして、よりアクセスしやすい見出しをたてろと言う。索引というのは本文とそれに付随する索引対象にある語句、語彙のみを対象にするものだと思っていた。索引の要諦は、レイアウト、配列もさることながら、どう項目を立てるか、拾うかなのだから、そこで内容にまで踏みこめ、というのはメウロコ。


 翻訳書も独自に作れ、と暗黙のうちに言っている。とはいえ、原書に立派な索引がついていれば、それをベースにすべきであろうとは思う。英語の本だからといって、索引がついているからといって、それがまっとうとは限らないことがあるにしてもだ。Hugh Thomas の大西洋奴隷貿易の歴史 The Slave Trade の英国版の索引は立派なものだが、アメリカ版の索引はまるでひどいしろものだった。


 それにしても本朝で索引がほとんど無視されてきたのはなぜなのだろうか。本全体の中での分量からいえば比較的小さいかもしれないが、索引が無い本は本来備えるはずの価値の半分しかない。明治に初めて触れて、その後、自家薬籠中のものとして、自明のものとして採用されているものは多いのに、索引の重要性はなぜ浸透していないのか。


 ひょっとすると、索引の扱われ方が本来妥当なものより犯罪的にまで軽いことは、明治期以降に採用された他の概念、システムも実は本来妥当な形とは相当にかけ離れた形でしか定着していないことを示唆しているのではないかとすら思える。


 富国強兵、帝国主義などの採用の仕方も、和魂洋才とか言って、本筋とはひどくかけ離れたものであったために、一度は亡国の憂き目を見なければならなかったわけだ。


 索引というのは、とりわけここでいう閉鎖型の、個々の書籍の一部としての索引はそのシステムも姿形も、あまりに本質的すぎて、変形のさせようがない。その概念をそっくりそのまま呑みこむしかない。日本語ネイティヴにはそれは苦手、というよりもまず不可能なのではないか。そこで、索引はそれほど重要ではないということにしてしまう。理解できないものは重要ではない、手が届かない葡萄はすっぱいことにするわけだ。


 さらに一つ、ここにも指摘されているが、索引というのは、本文とそれに付随する部分で語られていることを一度分解し、編成しなおすものだ。これに対して無意識のうちにでも反撥する傾向が著者の側にあるのではないか。自分が書いたものは、頭から最後まで、意図した通りに読め、それ以外の「利用」のしかたは著者の権威にたてつくものだ、というわけだ。そこで、索引をよけいなもの、書物に不可欠のものではなく、せいぜいがおまけとみなす。


 これは著者の側の不遜というものだろう。1冊の本が著者の意図した通りに読まれことなど、まずありえない。それにたとえその本に書かれていることがいかに重要な、あるいは立派なことであっても、索引によって思いもかけない角度からそこに光が当たることもある。それもまた索引の本質的な役割の一つだ。と、本書を読むとわかる。


 あるいは単純に、索引を作るのが面倒なのかもしれない。索引の作成は時間と労力と注意力、そして何よりもシステマティックに構想して、これを実装する能力が必要だ。時間と労力の点では、たとえば索引の校正は、所在指示、つまり見出し語の後についている頁を全部一つひとつ、実際に引いてみるしかない。本全体を見渡し、主旨に沿って多すぎず少なすぎず、大小、軽重のバランスをとって見出し語を拾いだし、整理するのは、大きな構想力と細心の注意の双方の賜物だ。日本語ネイティヴには最も苦手な部分ではある。


 英語の本に慣れていると、索引が無い本は片脚をもがれたように見える。中には、本文の中身は凡庸でも、索引が充実しているために重宝する本もある。


 これまで索引がまったく無くて驚いたのはユリシーズ・S・グラントの回想録に Elizabeth D. Samet が詳細な注釈をつけた The Annotated Memoirs Of Ulysses S. Grant ぐらいだ。これはしかし、回想録本文が相当に長い上に、それに匹敵するか、これを上回ろうかという分量の注釈と写真、図版を加えていて、B5判に近い判型のハードカヴァー1,100ページを優に超える本だから、索引をつけようとしたら、少なくともこの2割から3割増しになり、現実的ではないという判断だろう。


 いずれにしても、本書は、アナログであれデジタルであれ、およそ出版を業とする組織の編集部には必須だろう。ここにもあるが、コンピュータによる検索や、ソフトが自動的に作る索引はホンモノの索引ではなく、索引としての役には立たないのだ。それらには検索の漏れやノイズがあまりにも多すぎる。文脈を読んで、本文には無い項目を見出し語として立てることもできない。将来、AI 利用によって、より柔軟で、内容や概念にまで踏みこんだ読解の上にたった索引作成ができるようになる可能性はある。一方で、AI がフィクションや作曲もするようになっても、生身の人間による創作物がすたれることはないように、生身の人間による索引の価値が落ちることはない。AI はむしろ、生身の人間による索引作成を補助する形が理想だろう。


 索引作成は専門のスキルを必要とする高度に職人的な仕事、技なのだ。と、あらためて思い知らされる。(ゆ)


 まずはアマゾンに予約しておいた Vasily Grossman, The People Immortal が午前中に配達。1942年に赤軍の機関紙『赤い星』に連載された長篇。残されていた原稿から追加してロシア語本文を確定してから英訳している。この小説には実在のモデルがおり、その人物たちについての注記が付録にある。付録にはバルバロッサ作戦でナチス・ドイツがソ連を席捲している最中にソ連軍最高司令部スタヴカが出した命令なども収められている。

The People Immortal (New York Review Books Classics)
Grossman, Vasily
New York Review of Books
2022-09-27



 昼過ぎ、佐川が DHL の荷物を二つもってくる。Mark A. Rodriguez, After All Is Said And Done: Taping the Grateful Dead 1965-95 と Subterranean Press からの Anthony Ryan, To Blackfyre Keep。

 アンソニー・ライアンのは年1冊で出しているノヴェラのシリーズ The Seven Swords の4冊目。全6冊予定。

To Blackfyre Keep (Seven Swords, 4)
Ryan, Anthony
Subterranean Pr
2022-09-30

 

 前者は凄いものであった。今年の Grateful Dead Almanac から跳んだ In And Out Of The Garden の Podcast ページで紹介されていたもの。デッドのテープ文化全体についての厖大な資料集。関係者へのインタヴュー、テーパーズ・コーナー設置の経緯についてのデッドの全社会議の議事録、Audio 誌に掲載されたテーパーズ・コーナー特集記事の複製、テープ・ジャケットのコレクションなどなど。宝の山だがLPサイズの本に細かい活字でぎっしり詰めこまれて、消化するのに時間がかかりそうだ。

After All Is Said and Done: Taping the Grateful Dead; 1965-1995
Rodriguez, Mark A.
Anthology Editions
2022-09-20



 夕方、郵便ポストを確認すると、Robert Byron, The Station が入っていた。22歳の時、友人二人とともギリシャの聖地アトス山を訪ねた旅行記。初版は1928年刊行。買ったのは2011年の再刊。バイロンはこの旅行で東方の土地と文化に惹かれて中央アジアを旅し、9年後1937年に出した The Road To Oxiana で文学史に名を残す。


 

 最後に、夕飯もすんだ7時半、郵便局の配達が大きな航空便を持ってくる。バート・ヤンシュの At The BBC アナログ・ボックス・セット。LPサイズのハードカヴァー。40ページのライナーの内容はバートの BBC ライヴの歴史、共演者・キャスター、そして彼の広報担当の見たバート。このボックスを企画したのはコリン・ハーパーだった。正式発売は4日だが、発送通知は来ていた。アナログ版は4枚組で48曲収録だが、CD8枚組収録の147曲にプラス α のダウンロード権が付いている。1966年から2009年まで、バートが BBC に残した録音を網羅している。らしい。

 こうなるとバート・ヤンシュもあらためて全部通して聴きたくなる。ひー、時間が無いよう。(ゆ)

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0213日・日

 本や CD を買おうとして、送料がどかんと上がっているのに気がついた。アメリカは昔から海外への送料が非関税障壁と思えるほどバカ高かったから、そう変化は感じないが、問題は UK である。大英帝国の遺産で、UK は世界中にモノを安く送るシステムがあるのだと信じていた。それくらい安かった。アイルランドから来るよりもずっと安い。安かった。大陸からはほとんど買わないのでわからないが、アイルランドと変わらないはずだ。

 今回はその UK からの送料が上がっている。ブツの価格の半分、または超える。パンデミックだけでなく、Brexit の影響も加わっているのかもしれない。

 これではブツは買えなくなる。新刊はまだいい。電子版がある。問題は古書しかないものだ。CD はクレジットや楽曲解説がネット上で手に入るものについてはファイルのダウンロードまたはストリーミングに移行するしかない。実際、デッド関連で古い録音を聴くのはほぼ Tidal に頼っている。幸い、多少とも名の通ったアーティストの録音は Tidal でほぼ網羅されている。Tidal に無いようなマイナーあるいはもっと名を知られていない人たちの録音は他でも無い。

 しかし、ブツが必要な場合も、音楽では少なくない。困ったことである。

 一度上がった送料は、そう簡単には下がるまい。本や CD だけに限るものではないことはもちろんだ。わが国はたいていのものを輸入している。その昔、『ジャンプ』が1号出ると、インドネシアの山が一つ禿山になる、と言われた。まあ、コミックも電子版の方が売上が上になっている。にしても、だ。

 患者数は減っても、パンデミックの影響は、むしろこれから深く広く広がってゆくんじゃないか。



##本日のグレイトフル・デッド

 0213日には1970年と1988年の2本のショウをしている。1970年の方は公式リリースがある。


1. 1970 Fillmore East, New York, NY

 このヴェニュー3本連続の2本目。遅番ショウからの4曲が《History Of The Grateful Dead, Vol. 1 (Bear's Choice)》で、早番ショウの3曲目〈Good Lovin'〉が、《The Golden Road》収録の《History Of The Grateful Dead, Vol. 1》のボーナス・トラックで、遅番ショウ後半の〈Dark Star> That's It for the Other One> Turn On Your Lovelight〉が《Dick's Picks, Volume 4》で、それぞれリリースされた。遅番ショウは前半がアコースティック・セットで〈Dark Star> That's It for the Other One> Turn On Your Lovelight〉がエレクトリック。

 全部で2時間10分強。

 DeadBase XI のレポートで John W. Scott はこのショウのテープを「無人島テープ」の1本に挙げている。

 早番ショウの〈Good Lovin'〉と遅番ショウのアコースティック・セットの〈Katie Mae〉のピグペンは、全盛期もかくやという演奏。長年、周囲が薦めていたが、本人はどうしてもやろうとしなかったこと、自分のギター1本で歌うことを、この時、初めてこの曲でやった。ベアがこのショウをその追悼に選んだのもよくわかる。エレクトリック・セット〈Dark Star> That's It for the Other One〉も、このショウがデッド史上最高の1本であると言われても、なるほどとうなずける。〈Dark Star〉では、スペーシーな音の散らしは比較的短かく、ドライヴの効いたジャムが続く。〈That's It for the Other One〉のジャムも、後半、延々とエネルギーが切れない。どちらも30分。ただこれまた30分近い〈Turn On Your Lovelight〉ではピグペンが息切れしてしまっている。バンドは盛り立てようとして、何とか最後まで保たせる。これを凄いというジョン・スコットの弁は正直理解できない。スコットもその場にいたわけではなく、テープで聴いている、とこのレポートを読むかぎりは思われる。

 ベアことアウズレィ・スタンリィは草創期のデッドにとっては不可欠の人間だ。一つには質の良い LSD を製造する技に長けて、LSD そのものの供給源として、LSD の販売による財産によってデッドの財政を一部支えたパトロンとして、そして、デッドのPA装置の音質の向上に大きな貢献をし、またそのショウの録音を始めたエンジニアとして、の3つが大きい。加えるに、デッドのトレードマークの一つである頭蓋骨の中の稲妻を考案したのもベアである。また後にデッドのシンボルの一つとなる踊るクマのイラストも、かれがモデルだといわれる。

 あたしら、後世のリスナーにとっては、エンジニアとしてまことにありがたい存在だ。1960年代から1970年頃までの原始デッドのショウのサウンドボード録音はほとんどがベアの手になる。エンジニアとしての腕も抜群で、おかげでデッドのショウはPAの音がよく、それをクリアに録音してくれている。かれも立ち上げに参加した音響工房 Alembic はショウの音響の改善を追求して、ついには "Wall of Sound" に行きつく。

 《History Of》は続篇がついに出なかったが、《Live/Dead》と《Grateful Dead (Skull & Roses)》の間をつなぐライヴ盤として、当時は貴重だった。アコースティック・セットの録音も《Reckoning》が出るまでは他には無い。


2. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 このヴェニュー4本連続の初日。この年最初のショウ。開演8時。

 年初の一発目でまだバンドは目覚めていない。(ゆ)


12月24日・金

 「有隣堂しか知らない世界」がなにやらグランプリをとったというので、どれどれと覗く。
 

 ころげまわって爆笑してしまう。最新のカレー篇もいいが、その前 Vol. 77 「新明解国語辞典 VS 三省堂国語辞典」が傑作。カレー篇は MC のブッコローのほとんど独り舞台だが、こちらは三省堂辞書出版部部長・山本康一氏が役者。とっくに死語になって削られているだろう、いやこれはそもそも辞典には載らないか、「役者やのう」と言いたくなる。ほんと、この人凄い。辞書なんぞ作らせておくにはもったいないくらいだが、本人はやはり辞書を作るのが三度のメシより好きなのであろう。まあ「冷静に」考えれば、台本作者と演出家がしっかり仕事をしているのであろうが、それを活かしてちゃんと演じられるのはやはり大したものと言わねばならない。『新明解』はこういう人にして初めて作れたのか。

 一方、有隣堂もエラい。宮仕えのころにはずいぶんお世話になったし、ここへ来てからも厚木店にはお世話になっている。もっとも、近頃は本は買わず、買うのはもっぱら文具、それも安いものばかりだが。もちろん、人はすっかり入れ替わっているし、会社自体もずいぶん変わっているけれど、こういう動画プロジェクトを見ても、他の本屋とは違う「愛」を感じる。

 思い切り笑いたければ、吉本なんぞより、これを見ればいい。タメになる(?)情報も得られる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1224日には1966年と67年の2本ショウをしている。1968年以降はクリスマス・イヴは休み。公式リリースは無し。


1.1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 2日連続ショウの2日目。スティーヴ・ミラー・ブルース・バンドとモビー・グレープ共演。セット・リスト不明。


2. 1967 Palm Gardens, New York, NY

 このヴェニュー3日連続のショウの3日目。開演9時。セット・リスト不明。(ゆ)


9月22日・水

 Index, A History Of The, by Dennis Duncan, Alen Lane 着。ペーパーバックを待ちきれずにハードカヴァーを買ってしまった。立派な索引がついている。しかも、コンピュータで作ったものの実例が冒頭2ページ分あり、これがどうダメかの説明もある。その後に人間が作ったものが本番としてある。もちろんこの索引はプロの索引師が作ったのだ。わが国には索引作りが得意な人はいるかもしれないが、プロはいないだろうなあ。英語圏の大学には索引を研究している講座もあって、索引師養成コースもあるらしい。Society of Indexers もある。

Index, A History of the
Duncan, Dennis
Allen Lane
2021-09-02


 索引は文化で、わが国の伝統には無い。これも明治期に入ってきて、一応定着しているようには見えるけれど、邦書についている索引は形だけのものが多い気がする。当然ついているはずのタイプの本に無いことも多い気がする。とりわけ学術書。日本語の索引の作り方は英語のものとはまた異なると思うが、そういうことをまっとうに研究している人はいるのだろうか。英語の本では、中身は凡庸でも索引が優秀なので使える本もあったりする。大部の本では索引を利用して、当面必要なところだけ読むこともできる。R. A. Foster Modern Ireland などはそうやって部分的に読んでいる、つまり辞書のかわりにしているので、未だに通読していない。翻訳でもさせられなければ、通読しないで終りそうだ。そら、やれと言われれば、喜んでやりまっせ。それにしても、今、これ、出そうというところ、あるかなあ。

Modern Ireland: 1600-1972
Foster, R. F.
Penguin Books
1990-02-01


 
 

 索引にもどれば、デジタルの検索が世界を支配するようになって、あらためてその重要性が注目されている。グーグルを検索するのは、生のデータを検索しているのではなく、グーグルの索引を検索している、とグーグルのエンジニアも言っている。索引をどう作るかだけでも、検索結果は変わってくる。ハッシュタグも索引の一種ではある。
 その索引、ここでは一応本の索引は、冊子体 codex の発明が契機となる。それ以前の巻物 volume では索引は役に立たない。ランダム・アクセスが簡単にできないと索引は役にはたたない。冊子体はランダム・アクセスを容易にし、さらにノンブル、頁打ちの発明によって、本の中の位置の特定が飛躍的に容易になる。

 それにしても、アルファベットのあの順番、abc という順番は、いつ、どうやって定まったのだろう。規準になったのは何なのだ。中国には索引の伝統が無いように見えるけれど、漢字にはアルファベットやひらがなのように定まった順番というものがないからではないか。それに、まあ、字の数が多すぎる。『康煕字典』に現れたような順番が定まっているにしても、誰でも知っている順番ではない。索引を漢字だけで作るのはまず不可能だ。音韻も時代・地域で違いが大きすぎて規準にならない。索引には「誰でも知っている順番」が必要なのだ。

 序文を読んで index concordance の違いがようやくわかる。いわゆる索引、本の巻末についているのはテーマ別索引で、語彙のリストがコンコーダンス。後者はたとえば聖書とかシェイクスピアの作品とかの語彙をリストアップして、どこに出てくるかを記したリストだ。もっともこれに各々の語彙の説明をつけたものもコンコーダンスと呼ばれる。手許にあるものでは、スティーヴン・キングの『ダーク・タワー』シリーズのコンコーダンスがこれで、そうなると一種の百科事典だ。コンピュータが作る索引は本来の意味のコンコーダンスに近い。それはそれで聖書やシェイクスピア作品なら便利でもあろうが、どの本にも必要というわけじゃない。一般の本の巻末につけるのは、ある主題に沿って分類したものだ。だから、コンコーダンスは完全に中立的になりうる。一方、主題索引は、この序文に挙げられた例のように、ある主張を強烈に打ち出すツールにもなりうる。


 

 本文、第1章冒頭はバラードの短篇「索引 The Index1977 から始まる。でも、著者が指摘するこの短篇の欠陥は納得できる。これなら筒井康隆の「注釈の多い年譜」の方が形式が合っている。

 グラント回想録の Samet による注釈版には索引が無くて驚いたけれど、まともにつけようとすれば、1,000を超える今のページ数の3割増くらいにはなるんじゃないか。でも、本当はこの注釈の索引は欲しい。

 ところで、この「索引」という語はどこから出てきたのか。『大漢和』でも引かにゃなるまいか。


 届いたサンシャインの新しいインシュレータに M11Pro を置いてみる。サウンドジュリアの金属ベース+カーボンのもの、昔にサンシャインから試用品としてもらったマグネシウムの円筒形塊と比べる。金属ベース+カーボンも悪くは無いが、サンシャインの新しいインシュレータに載せるとどこか安心感が湧いてくる。音が明瞭に変わるわけではないが、背景が静かになる気がする。ここから離す気になれない。


 散歩からもどると AppleWatch のフィットネスが今日は階段を1階分しか昇っていないと言う。そんなはずはないぞ。いつもと同じだ。ちゃんと最後に昇ってる。アホめが。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月22日は1967年から1993年まで、6本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1967 Family Dog, Denver, CO

 ポスターだけ残っている。セット・リスト無し。Mother Earth が共演。


2. 1968 Del Mar Fairgrounds, Del Mar, CA

 秋分の日フェスティヴァルで、共演者多数。Quicksilver Messenger Service, Taj Mahal, Buddy Miles Express, Mother Earth, Curly Cook's Hurdy Gurdy Band, the Youngbloods, Ace of Cups, Phoenix,  Sons of Champlinポスターが2種残っている。女性の顔をしたハーベスト・ムーンをフィーチュアしたもの。

 Curly Cook's Hurdy Gurdy Band というのはちょっと気になる。この時期、アメリカでハーディガーディをフィーチュアしたバンドがあったのか。どんな音楽をやっていたのか。音を聴きたいが、レコードは無いらしい。


3. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA

 この会場3日連続の初日。夜7時開演。この頃になるとどこの会場も複数日のレジデンス公演。

 後半オープナー〈Gimme Some Lovin'〉にスペンサー・デイヴィスがゲスト・シンガー。

 1969年から20年近く間が空くのは偶然とはいえ面白い。この時期は1975年や1986年を除き、毎年秋のツアーの最中だが、1969年から86年までは毎年休日だったわけだ。


4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 9本連続の7本目。


5. 1991 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の3本目。基本的に良いショウのようだが、60年代、70年代をバンドとともに過ごしたデッドヘッドと、80年代以降にバスに乗った人びとで意見が別れるのは興味深い。もっとも90年代に顕著になる MIDI によるサウンドの多様化とシンセ・サウンドの多用は、好みの別れるところではある。


6. 1993 Madison Square Garden, NY

 6本連続の千秋楽。前半最後の〈Bird Song〉から最後までアンコールを除き、デヴィッド・マレィがサックスで参加。さらに後半のラスト2曲で James Cotten がハーモニカで加わる。ブランフォード・マルサリス、オーネット・コールマン、このマレィと、ジャズのサックス奏者が参加したショウを聴いた中では、1990-03-28のマルサリスの初回に次ぐ出来。DeadBase XI での John W. Scott の評ではこの年のベストとしている。テープ・コミュニティの評価でもこの年のベストとされたようだ。これは公式で出してほしい。

 ジェイムズ・コットンはマディ・ウォーターズのバンドから出たブルース・ハープ奏者。この時58歳。(ゆ)


9月17日・金

 Washington Post 書評欄のニュースレター Book Club が報じる The National Book Festival の記事を見ると、詮無きこととは知りながら、うらやましさに身の震える想いがする。今年は10日間、オンラインでのヴァーチャル・イベントで100人を超える著者が、朗読、講演、対談、インタヴュー、質疑応答などに参加する。児童書、十代少年少女、時事問題、小説、歴史と伝記、ライフスタイル、詩と散文、科学というジャンルだ。こういう一大イベントが本をテーマに開かれるということ、それを主催するのが議会図書館であるということ、そして、これがもう20年続いているということ。これを見ると、本というもの、そしてそこに形になっている文化への態度、考え方の違いを感じざるをえない。わが国は先進国、BRICs で唯一、本の売上がここ数十年減り続けている国だ。パンデミックにあっても、あるいはパンデミックだからこそ、世界のいわゆる四大出版社は昨年軒並、売上を大きく伸ばした。



 このフェスティヴァルは9/11の直前、2001年9月8日に、当時のブッシュ大統領夫人ローラの提唱で始まった。オバマ大統領夫人ミシェルは他のことに忙しくて、このフェスティヴァルを顧る余裕が無かったので、イベントは大統領一家からは独立する。当初はワシントン、D..のナショナル・モールで屋外で開かれていたが、2013年からワシントン・コンヴェンション・センターに移る。参加者はのべ20万人に達していたそうだ。そして昨年パンデミックのためにオンラインに移行するわけだが、これによって逆にワシントン、D..のローカル・イベントから、本物の全国=ナショナルなイベントになった。

 夫人はブック・フェスティヴァルから離れたにしても、オバマ氏は読書家として知られ、今でも毎年シーズンになると、推薦図書のリストを発表して、それがベストセラーになったりする。それもかなり幅広いセレクションで、政治、経済、時事に限られるわけではない。 わが国の元首相でこういうことができる人間がいるだろうか。大統領としては最低の評価がつけられながら、元大統領としてはベストと言われるカーター氏も一家あげての読書家で、夕食に集まるときには、各々が食卓に本を持ってきて、食事をしながら本について語りあう、というのを読んだこともある。

 と顧ると、本、活字、言葉をベースとした文化の層の厚さの彼我の差にため息をつかざるをえない。わが国では本が売れないのも無理はない、という諦観にとらわれてもしまう。確かにわが国にはマンガがある。しかし、マンガでは表現できないものもまたあまりに多いのだ。それにマンガが表現しようとしないことも多すぎる。

 こういうイベント、お祭がアメリカ人は大好きで、またやるのが巧い、というのもあるだろう。本のイベントの原型はSF大会ではないかとあたしは思っているけれど、ワールドコンだけでなく、今ではローカルな大会=コンヴェンションやスターウォーズ、スタートレック、ゲームなどのジャンル別の大会も花盛りだ。もちろんどれも今は中止、延期、オンライン化されているけれど、今後も増えこそすれ、減ることはあるまい。

 コミケやそれにならったイベントはわが国において、こうしたフェスティヴァル、コンヴェンションに相当する役割を果たせるだろうか。そもそものイベントの趣旨、志向しているところが違うようにも見える。それともわれわれはモノの売買を通じてでないと、コミュニケーションを始めることができないのだろうか。

 ブック・フェアも性格が異なるように思える。とはいえ、わが国でもこのナショナル・ブック・フェスティヴァルに相当するイベントを開くとすれば、例えば東京ブック・フェアが門戸を広げ、著者や編集者をより巻き込む形にすることが近道ではないかという気もする。

 パンデミックはそれまで見えなかったことをいろいろ暴露しているけれど、文化、とりあえず活字文化の層の薄さもその一つではある。

 ほんとうは活字文化だけではない。文化全体、文化活動そのものが薄いことも明らかになった。パンデミックの前、ライヴや芝居や展覧会などに青年、中年の男性の姿がほとんど無いのが不思議だったのだが、何のことはない、彼らは仲間内で飲むのに忙しくて、そんなものに行っているヒマが無かったのだった。


##本日のグレイトフル・デッド

 9月17日には1966年から1994年まで8本のショウをしている。うち公式リリースは2本。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 前日に続き、同じヴェニュー。


2. 1970 Fillmore East, New York, NY

 4日連続の初日。料金5.50ドル。三部制で第一部はアコースティック。ガルシアはペダルスティールを弾き、ピグペンはピアノを弾くこともあり、New Riders Of The Purple Sage David Nelson が一部の曲でマンドリンで参加。第二部が30分弱の NRPS。第三部がエレクトリック・デッド。この4日間はいずれも同じ構成。


3. 1972 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD

 このヴェニュー3日連続の最終日。料金5.50ドル。夜8時開演。《Dick’s Picks, Vol. 23》としてアンコールのみ除いてリリースされた。前半の〈Bird Song〉(10分超、ベスト・ヴァージョンの一つ)、〈China Cat Sunflower > I Know You Rider〉(11分、Rider のジャム最高!)から〈Playing in the Band〉(18分、最高!)への並び、それに後半、1時間超の〈He's Gone > The Other One > Sing me back home〉のメドレー。CD3枚組でも全部入らない黄金の72年。ロック・バンドのコンサートの契約書には普通「最長演奏時間」の項目がある。どんなに長くなっても、これ以上はやらないよ。デッドのショウの契約書には「最短演奏時間」の項目があった。どんなに短かくても、これだけは演奏させろ。長くなる方は無制限。

 演奏はピークの年72年のそのまた一つのピーク。1972年は公式リリースされたショウの本数も、ショウ全体の完全版のリリースの数でも30年間のトップだけど、この年のショウは全部出してくれ。と、こういう録音を聴くと願う。まあテープ、今ならネット上のファイルやストリーミングを聴けばいいんだけどさ。でも、公式リリースは音が違うのよねえ。


4. 1973 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY

 同じヴェニュー2日間の初日。だが、翌日のショウには疑問符がつく。開演午後7時。後半2曲目〈Let Me Sing Your Blues Away〉から最後まで〈Truckin'〉を除き、トランペットのジョー・エリスとサックスのマーティン・フィエロが参加。その〈Let Me Sing Your Blues Away〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 ピアノ左端、ガルシアのギター右。キースのヴォーカルはピアノの右。そのキースの声とピアノの間でフィエロがサックス。彼はロック・バンド向けのサックス奏者ではある。だいぶ慣れてきて、キースはピアノも愉しそうだ。


5. 1982 Cumberland County Civic Center, Portland, ME

 料金10.50ドル。夜8時開演。〈Throwing Stones〉初演。前半最後から2番目。


6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 9本連続の8本目。


7. 1993 Madison Square Garden, New York , NY

 6本連続の2本目。開演夜7時半。


8. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA)

 3日連続の中日。開演夜7時。(ゆ)


松井ゆみ子
『アイリッシュネスの扉』
ヒマール
ISBN978-4-9912195-0-4

アイリッシュネスの扉表紙


 アイルランドは不思議な国だ。ここを1個の独立した地域と認識しはじめてから、ずっと不思議なのは変わらない。ヨーロッパの一角なのに、洗練されていない田舎であるその在り方に、妙になじみがある。ユーラシア大陸の東西の端という、地球上でおよそ最も遠いところなのに、その佇まいに親近感が湧いてくる。初めてハワイ、オアフに行って島の中を走りまわった時にも、この風景は妙になじみがあると感じた。そのなじみのある感覚が、アイルランドの場合、視覚だけでなく、聴覚や、五感の奥の感情から湧いてくる。ひと言で言えば人なつこい、その人なつこさが「なつかしい」。


 同じケルトの他の地域では、こういう人なつこさはあまり感じない。他をあまり知らないこともありえる。どこも同じく音楽を通じてのつきあいで、その中でアイルランドの音楽は妙に人なつかいと感じる。


 その同じ人なつこさをこの本に感じる。人なつこいけれど、ベタベタしない。やたらすり寄らない。読み終わって、その辺にころがしておいて、表紙が目に入ると気分がよくなる。沈んでいた気分がふうわりと浮かんでくるし、ブリブリ怒っていれば、思わず吹きだしてしまう。中身の何か、イメージとか文章の一節がふっと浮かんでくる。


 アイルランド人には何でも屋さんがよくいるそうだ。手先が器用で、モノを使って何かをやる、日曜大工、家の修繕、電気器具の手入れ、何をやらせてもパッパッとかたづける。


 もっとも著者も手先が器用だ。カメラも料理もぶきっちょにはできない。あたしのようなぶきっちょにできるのは、スチーマーをレンジでチンくらいで、オーヴンを使いこなすなんてのは、悪夢になりかねない。


 器用な著者は、せっせと焼き菓子つまりクッキーやケーキを作っては、これを餌にそういう何でも屋さん、ハンディマンたちを駆使して、田舎の、歴史の詰まった家に暮す。ここはアイルランドであるから、もちろんのこと幽霊はつきものだ。アイルランドの幽霊はあまり悪さをしない。最悪でもじっとしているだけで、悪い結果はたいていがそれを見る側に問題があって起きる。幽霊のせいではない。


 幽霊がいるのにはもう一つ理由があって、アイルランドでは家が残っている。著者が住んでいる家も築二百年とかで、増築されたり、水廻りが改修されたりはしていても、根幹はそのままだ。いくら幽霊でも、完全に取り壊されたり、建替えられては残れないだろう。そして、幽霊もそれが取り憑いている家もまた人なつこい。


 いや、あたしは別にアイルランドの家に住んだことがあるわけじゃない。ただ、この本を読んでいると、そういう、長く建っていて、歴史の積み重なった、人なつこい家に暮している気分になってくる。ここでは歴史はどこか遠く、頭の遙か上を通りすぎてゆくものではなくて、毎日その中で暮しているものになる。毎日の暮しがそのまま歴史になってゆく。家だけではない。歴史に包まれ、浸りこんで暮していると、家を囲む自然、人、音楽、料理、食材、スポーツ、イベント、あらゆるものが、歴史になってゆく。歴史はエラい人たちが派手にたち回って作られるものではなくて、ごく普通の人たち、ハンディマンやフィドラーやカントリーマーケットの売子やハーリングの選手やも含む人たちの毎日の暮しから生まれるのだ、と実感が湧いてくる。


 やはり、アイルランドは不思議な国だ。


 著者は手先が器用なだけではなくて、敏感でもある。目も耳も鼻も舌も、そして皮膚もいい。いくら歴史の詰まった家に住んでも、あたしのように鈍い人間は、たぶん何も感じないだろう。幽霊など出ようものなら、スタコラ逃げだすにちがいない。


 著者は五感をいっぱいに働かせて、その歴史を感じとる。とりわけ触覚だ。触覚は指の先だけで感じるものではない。顔や腕など、外に出ているところだけで感じるものでもない。全身で、時にはカラダに沁みこんできたものを筋肉や血管や内蔵で感じたりもする。自覚しているかどうかは別として、著者は触覚をめいっぱい働かせている。文章も写真もその触覚で感じたものを形にしている。


 例えば著者が今住んでいる家を建てたパーマストン。ものの本などで現れるのは、武力をバックにしたいわゆる砲艦外交を得意技として、大英帝国建設に貢献した強面のタカ派の顔だ。パーマーズドンと著者が呼ぶ人は、大飢饉で打ちのめされた人びとを少しでも助けるノブリス・オブリージュに忠実で、どこか翳のある、憎めないところもある風情だ。


 触覚を働かせるには、触れなければならない。つまり距離が近い必要がある。一方であまりに近寄ると、周りが見えなくなる。木は見えるけれど、森が見えなくなる。触覚であれこれ感じながら、著者はちゃんと森が見えているようでもあって、これまた不思議だ。


 アイリッシュネスの扉はむろん1枚だけではない。いくつもの扉があって、開ける扉によっていろいろなアイリッシュネスが現れる。一番愉しいのはやはり食べることらしい。食材や料理、作ったものを食べたり売ったりすることになると、筆またはペンまたは鍵盤が踊りだす。


 飲むことも愉しいのだろうが、酒は自分では(まだ)作れないので、食べることとは別らしい。著者は馬も好きなはずだが、今回はあえて封印したようだ。代わりに出てくるのはトラクターだ。アイルランドの田舎の足はトラクターなのだそうだ。ちょっと訊いたら、わが国の農家にとってなくてはならない軽トラは、アイルランドには無いそうだ。


 扉を開けては覗きこみ、あるいは中へ入って歩きまわる。しばし暮してもみる。いや、そうでもないか。暮していると、ふと扉が開くのかもしれない。丘の下の妖精の王国への扉のように。ひょっとすると、気づかずに抜けていたりもするのかもしれない。後で、あああれが扉だったかと納得されるわけだ。呼ばれて入ることもあるのだろう。そこで見、聞き、嗅ぎ、味わい、そして肌や内蔵で感じたことを書いた。報告というと硬すぎる。遠く離れて住む誰かへの手紙、読む人がいるかもわからない、そう、壜に入れて海に流す、風船にゆわけて風に飛ばす手紙。本を書くのはそれに似ている。


 アイルランドらしい、というのはあたしにとっては不思議なことに等しい。特別なものではない。一見、ごく日常的、ありふれたように見える。けれどよくよく見ると、そこにそうしてあること、そこで人がしていることはヘンなのだ。どこがこうヘンだ、と指させない。そもそもあのベタつかない、群れない人なつこさからして不思議だ。この本も不思議だ。ここがおもしれえっと指させない。これだ!と膝を叩くわけでもない。でも、読んでみると気分は上々、著者がいい暮しをしている、そのお裾分けをもらったようだ。何度読んでも減らない。むしろ、噛むほどに味が出てくる感じがある。


 この本は造りも不思議だ。わが国の本は再販制で、返品されたものをまた出荷する。そのためにカバーがついている。カバーだけ換えて新品として出荷するわけだ。でも、この本にはカバーがない。表紙は本体についている。洋書のトレード・ペーパーバックの感覚だ。カバーがないと、本はこんなにすっきりするのだ、と英語の本では見慣れている姿に改めて感じいる。


 表紙、業界用語でいう表1、裏表紙、同表4がカラー写真なのは普通だけど、表紙の裏、表2と、裏表紙の裏、表3も同じくカラー写真なのは新鮮だ。この4枚も含め、中の写真はすべて著者の手になる。この写真も人なつこく、不思議だ。人など影も無い写真でも人なつこい。著者の手になるアイルランドの写真集ってなかったっけ。


 著者が住んでいるスライゴーとドリゴールとロスコモンの州境のあたりのローカルな伝統音楽家たちのポートレート集にすてきな言葉があった。


 何か新しいたチューンを覚えると、その曲を知ってる奴が他にいないかと探しはじめる。いればそれを一緒に演奏できるからだ。それが愉しいからだ。


 音楽の極意はいつでもどこにどんな形であっても、これ、つまり共有の確認なのだろうけれど、アイルランドではそれがとりわけ剥出しで、あの不思議な人なつこさはここから生まれているのか、とも思える。


 この本もまたたぶんそういう作用をするのだろう。この本を読んだ奴が他にいないか、探しはじめる。どうしてもいなけれぼ教える。覚えたばかりの曲を教えてやって、一緒にやる。この本を教えて、読ませて、一緒に盛り上がる。巻末のおやつを作りあって、食べてみる。あたしが作ったとしたら、それはそれはひっでえしろものができるだろう。家族すら見向きもしないようなそいつを、食べてやろうという人はいるだろうか。(ゆ)


が、昨日のチーフテンズ公演の会場で発売されました。

 以後、チーフテンズの公演会場で先行販売されます。

 アマゾンでは予約できます。チーフテンズが行かないところ、もう行ってしまったところの皆さまはこちらでどうぞ。


 もちろん、ご近所の本屋さんでも注文できます。アルテスパブリッシングの本はいわゆる配本は無いので、注文しないと届きません。どうぞ、ご注文のほどを、よしなに。(ゆ)

 今月号の本誌「クラン・コラ」読物篇の洲崎さんの記事は読みごたえがありました。京都 field でのセッションのすばらしい体験に、読んでいても、体が浮き上がる気がしました。その場にいれば、ほんとうに体が浮き上がっていたかもしれません。

 そういうセッション体験がそうそうあるものではないことはすぐわかります。セッションは生きものであり、良いライヴが稀なものである以上に良いセッションは得難いものであります。

 一方でセッションはアイリッシュ・ミュージックの土台、これを支える最も基本的な場でもあります。これなくしてはアルタンもダーヴィッシュも、そしてチーフテンズも生まれえなかった。アイリッシュ・ミュージックが世界に広まったことは、日々、世界中で、無数のセッションが開かれていることです。

 そのセッションを良いものにするには、いささかコツが要ります。セッションはうまくいくよりも、いかないことの方が多いものでありますが、このコツを身につければ、うまくいくことの方が多くなる。かもしれない。(笑)少なくとも、うまくいかないことが減る可能性は高くなるでしょう。

 そのコツをわかりやすく、説いた本が出ます。それが『アイリッシュ・ミュージック・セッション・ガイド』です。著者はアメリカ人のバリー・フォイ。シカゴに生まれ、アイルランドで腕を磨いたベテラン。セッションの何たるかをカラダで熟知しているだけでなく、これをアイルランド以外の地でアイリッシュ・ミュージックを楽しむのに必要なものが何かもよく知っている。そういう人が書いた本なら、試してみる価値はあるでしょう。


IrishSessionGuide


 この本は単にアイリッシュ・ミュージックのセッションのうまいやり方を解説しているだけではありません。つまり、プレーヤー、ミュージシャンのためだけの本ではないのです。同時にこれは、アイリッシュ・ミュージックとはどういうものか、そのキモを、きっちりと説いた本でもあります。

 そして何より嬉しいのは、読んで大笑いできること。これを読めば、アイリッシュ・ミュージックについて、少し深く入りこむことができるとともに、ココロもハレバレ、明日も生きようという意欲が湧いてきます。

 著者の盟友でやはりアイリッシュ・ミュージックのミュージシャンだったロブ・アダムズの、とぼけたスケッチが、著者のユーモアに絶妙のボケをかましてくれます。

 この次セッションに行く前に、さらっと眼を通した上でポケットに突っ込んで行けば、いつもとは違うセッションになる。かもしれません(^_-)。少なくとも、陰々滅々に落ち込んだり、怒り心頭に発していたりしていても、少しはそれがやわらいで、いいセッションになる。かもしれません。

 チーフテンズの公演会場で先行販売します。来月頭には、一般発売されます。これが売れてくれないと、訳者のあたしは年が越せません。どうぞ、皆さま、買うてくだされ。(ゆ)

追伸
 あたしが書いた Ashley Davis は今年はルナサを迎えて、クリスマス・ツアーをやるそうです。ルナサをバックにうたうというのも贅沢でしょう。そのうち YouTube に上がるかな。


 ドア・チャイムを鳴らしたのは郵便配達の人で、ポストに入らないんですよ、と手渡された封筒は確かに部厚い。送り出し人を見ると福岡の Rethink Books とある。はてな、ととり出してみたら、こんな枕本が出てきた。


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 下北沢に B&B という本屋兼カフェがあって、あたしも何度かイベントに行ったし、またイベントをさせてもらってもいる。そこの中川さんからそういえば「今日の宿題」を頼まれて出したことがあったっけ。先日、本にするからと「校正」も頼まれていた。それがこんな立派な、サイコロのような本とは思いもよらなかった。宿題を出した人は計320人、各々が見開き2ページになるから、それだけで640ページ。写真やいろいろついて計680ページ。サイズは文庫。定価は980円+税。販売は B&B と B&B が出張出店し、この「今日の宿題」が掲示された福岡・天神の Rethink Books のみ。もっとも Rethink Books の方は今月いっぱいで閉店。

 昨年6月1日から1年間の限定で開いた Rethink Books の店内に、本棚は置けないスペースがあり、ここを活用するために考えられたのが「今日の宿題」。毎日違う人が出した「宿題」がここに掲示される。この「宿題」はネットなどでは公表されず、本屋に行かないと見られない。もっとも知らないで来た人は不意打ちを食う。「宿題」をどう受取るかはもちろん、来店した人、見た人それぞれに任される。その宿題を集めたのが、この本だ。

 320人の出題者は掲出順に巻頭の谷川俊太郎氏からラストの吉増剛造氏まで、まあ、いろいろな人がいる。一応肩書もついている。山伏という人もいる。B&B のイベントに出たときに頼まれたので、あたしと村上淳志さんとトシバウロンが並んでいる。あたしのものと、トシさんのものの趣旨が同じなのも面白い。アイリッシュ・ミュージックとの関わりからの感覚だからだろうか。少なくともあたしはそうだ。

 アイリッシュ・ミュージックを好むようになったのは、あたし自身の積極的な意志による選択では、金輪際無いからだ。そうすると、他の音楽の嗜好も、読む本も、どれも向こうからやってきたので、自分から選んだとは到底思えなくなる。おまえは私を聴かねばならない。おまえは俺を読まねばならない。いつもそう言われていると感じる。そして、相手の「意志」には従わざるをえない。到底抵抗できるようなものではないからだ。それに、従って嫌な想いをしたことも、今のところ、無い。

 それはそれとして、他の人たちが出した宿題を見てゆくのは、たまらなく面白い。にやりとするもの、へーえと驚くもの、うーんと考えこまされるもの、わっはっはと笑えるもの、そうだよねえと共感するもの、なんだかわからないもの。どれにも共通するのは、出した本人が常日頃抱えている問題意識の反映であること。したがってどれも切実なのだ。思わず、答えたくなる。もちろん、どう答えるかは、読者に任される。答えなくたっていい。ただ、答えようとして、いろいろ考えることは楽しい。

 一気に読むのも楽しいだろうが、ここは元の趣旨にしたがって、毎日一題、1年かけてゆっくりと読んでゆくのも面白い。

 この企画に招いていただいた中川さん、ありがとうございました。そして、この企画を考えて実行した内沼晋太郎氏と B&B、Rethink Books の皆さんにも感謝。(ゆ)

 安部公房は首から下げる式の大きな画板に原稿用紙を置いていつも書いていた。安部にとっての書斎はこの画板だった。というのを読んで、いい話だ、あたしも画板に MacBook を置いて書いたら楽そうだ、と思っていたら、この本を見て、書庫は欲しいと思うようになった。実家を畳んだとき、預けてあった本の大部分は処分し、どうしても残しておきたい本だけ持ってきたのだが、段ボールに入れて積んだままだ。どこに何があるのかももうわからない。読みたい本があって、そういえばあれは持っていたはずだと、データベースを検索するとちゃんと入っている。が、どうにも出てこない。探しまわる労力を考えると、古本を買うほうが安いし早いと注文してしまう。


 コレクターではないつもりだが、本もレコードもなんだかんだでそれぞれ1万タイトルはある。30年も追いかけていれば、塵も積もるのだ。これの背中が一望できるようにしたい。とは思う。読みたい、聴きたいというよりも、すいと抜きだしてパラパラやったり、ジャケットを眺めたり、ライナーを読んだりするだけでいい。ひょっとすると本やレコード同士が共鳴したり、呼びあったりして、思わぬ反応が生まれるかもしれない。


 本書はそういう願望、欲望にもならない、遙かな願望には最適の書庫を建てる話だ。そこがまず面白い。東京の、それも23区内という超過密地帯では、プロの協力が不可欠だ。それでもあやうく「ガセ」を掴まされかけるというスリルもある。


 なぜ、こういう建物を建てる気になったか。そこがまた面白い。著者はあたしの一歳下、父親はともに同じ昭和2年生まれ、ということも面白い。あたしの父親は貧乏人の次男坊だったから、松原の父親のようには壊れなかったが、やはりよくわからない人物だった。そもそも父親の実家がよくわからないイエだった。次男ということもあり、父は婿養子に来たから、あたしが継ぐべきイエは母親のそれだが、これまたあって無いようなもの。昭和のはじめに静岡の田舎から単身上京した祖父が「初代」ということになる。この祖父が自分の実家とは交際が無かったからだ。ウチで法事というのは、祖父以後のホトケさんが対象になる。つまり、松原のような事情はあたしには無縁なのだが、だからこそ、知らない世界だからこそ面白い。松原の祖父のような人間は他にも多数いたはずで、昭和の日本を支えたのはこういう人びとだったのではないか。


 堀部安嗣という建築家の考え方が面白い。とりわけ興奮したのは、この書庫から触発されて設計してみた公共図書館のアイデア(162pp.)。そもそもこの書庫を思いつく源泉となったスウェーデン市立図書館には憧れていたが、この堀部版図書館があれば、その街に引越したいくらいだ。


 この図書館のプランに付随して堀部が述べる図書館の役割には共感する。


「今の時代、図書館の最も重要な役割は街で浴びた情報から自分を避難させ、情 報を洗い落とすところにあるといっていいかもしれないし、今後そのような役割 が重視されてゆくような気がする。情報を集める場所だった図書館が、有象無象 の情報から身を守り、自分にとって本当に必要な情報だけを得られる場所となっ てゆく。」165pp. 


 図書館もだが、本、書物の役割がそもそもそれじゃないか。つまり情報を濾過し、取捨選択して整理し、知識として使えるようにする。 出版の役割もそこにあるんじゃないか。


 この構想をもう一歩進めるならば、図書館は大きなものが1ヶ所に集中している必要はない。情報はクラウドにあればいい、その方がむしろ利用しやすく、されやすい。エネルギーは1ヶ所で作らなくてもいい。必要なところで必要なだけ作ればいい。従来は不可能だったことも、テクノロジーの発達は可能にしている。図書館もまた、小さな書庫、1万冊を収蔵する書庫が10軒あれば10万冊、100軒あれば100万冊。そしてそれぞれが特色を持つ。堀部の公共図書館プランの1つの円筒が独立した形だ。それが街のあちこちにある。そこを歩きまわる。途中にすてきなカフェもあって、いま借りてきた本に目を通す。


 阿佐ヶ谷の書庫は松原の死後、どうなるであろうか。息子あるいは弟子が讓り受けて使うことになる可能性が最も高い。しかし、「地域に開放」して、誰でも利用できるようにすることもできる。


 この書庫も完璧ではない。ここでは階段を登り降りできなくなるという可能性は考慮されていない。もちろん、ここにエレヴェータを設置することはかぎりなく不可能に近いだろうし、できたとしてもとんでもなく高価になるだろう。


 とはいえ、そういう設備のある書庫もあっていいはずだ。


 それにしても、一番の面白さは、1万冊の本とばかでかい仏壇を8坪の土地に収めるという松原隆一郎の挑戦に、堀部安嗣が応えてゆくところだ。そして出した、円筒を螺旋階段でつなぐという回答の面白さ。さらに、円筒の建物、つまり塔を建てるのではなく、立方体の内部をくり抜くという面白さ。外から見れば窓が少ない以外は特にめだつものではないが、一度中に入ると、これに似た空間は、今この瞬間では、地球上にはまず無いだろう。これは「バベルの図書館」の極小版ではないか。


 松原の挑戦に堀部がみごとに応えて、松原はかれにとって理想の書庫兼仕事場を手に入れた。ここからどんな仕事を生み出すか、今度は松原が堀部に挑戦されているわけだ。この書庫にふさわしい仕事を生み出すことができるか。それは松原自身の課題であるが、一方で、環境と創造性の関係の点からは、より広い「世間」の関心も呼ばずにはいまい。


 この本を読もうとしたきっかけは月刊『みすず』7月号の植田実「住まいの手帖」105「阿佐ヶ谷の書庫」。この号ではもう1冊、酒井啓子「若者は『砂漠』を目指す」に啓発されて、ブノアメシャン『砂漠の豹 イブン・サウド』を読んでいる。そして今日の Al Jazeera の記事 "Bringing Arab opera to a Western stage" のネタになった新作オペラの原作 Cities of Salt は、そのイブン・サウドが建てたサウディアラビアで1932年、石油が見つかったことから起きる大騒動を描いて、20世紀アラブ文学の代表作とされる。この長篇5部作はサウディアラビアでは発禁、著者のアブドルラーマン・ムニフはサウディアラビア市民権を剥奪されている。となると、読む価値はあるだろう。(ゆ)

とくに、すでに読み終わったキンドル・ブックの魅力は
まったく恐ろしいほどの速さで劣化する。
(そこは、音楽の電子ファイル化とはぜんぜん感触が違う。)
裏をかえせば、紙の本はやっぱりとんでもないメディアだ。
文字情報以外の膨大なディテールが意識下に働きかけてくる、一個の宇宙。
紙の本が家の中で場所をふさぐのは、「物質」であることより、
読み終わっても本としての魅力がたいして褪せないことが原因なのだ。
それどころか永遠に読まずに終わっても、
そこに在るだけでチャーミングなんだから始末に負えない。
from「菊坂だより」@みすず書房ニュースレター no. 86 (2011/10/27)


    確かにその通り。
    
    と一度はうなずくのではあるが、しかし一方であの本はどこにいった、と探しまわる必要が無い、めざす本が即座に出てくる、というのはまた別の魅力だ。
    
    音楽もそうだが、デジタル化されることで、ソフトウェアつまり本の中身と、ハードウェアつまりモノとしての本が分離する。「キンドル」が味気ないとすれば、中身だけの味気なさではあろう。
    
    とはいえ、いったん分離されてみると、やはり本質的なのは中身であって、モノとしての魅力はまた別のものなのだ、と気がつく。
    
    読みおわって魅力が劣化するとすれば、それはキンドルのせいではなく、その中身そのものの魅力がそういう性格を備えているからではないか。
    
    中身のつまらない本は、物質としてもやはりつまらない。(ゆ)

    昨日の古書ほうろうイベントで店内BGMとして作ったプレイリストです。『聴いて学ぶアイルランド音楽』に出てくる曲が入っているトラックを集めました。
   
    お聞きになりたい方は、ほうろうのスタッフに申し込んでください。全部聞こうとすると2時間強かかります。
   
    使用したCDは後日、個別に紹介します。

    トラック名、ミュージシャン名、アルバム・タイトル、発表年および楽器編成、という順番。

##01. A Fig for a Kiss
a. Jig Jazz> A Fig For A Kiss
    Niall Keegan
    Don't Touch The Elk, 1999
    flute, guitar
b. A Roll Of The Dice> A Fig For A Kiss
    Mick Conneely
    Selkie, 2001
    fiddle, bouzouki

##02. The Ash plant
a. The Ash Plant> Kitty Gone A Milking> The Trap Room
    Éamonn Coyne
    Through The Round Window, 2002
    banjo, accordion, bouzouki
b. Ash Plant> Black-haired Lass> Wise Maid
    James Conway
    Mouth Box, 2002
    harmonica, mandolin, guitar
c. Farewell To Wally Range> Comb Your Hair And Curl It> The Ashplant
     (e) Shuzo Band
     Trip, 2007
    flute, bouzouki, bodhran, fiddle
d. The Ewe With The Crooked Horn> The Ashplant
    Natalie MacMaster
    Blueprint, 2003
    fiddle, banjo, dobro, mandolin, guitar, bass
e. Ashplant> Merry Harriers> The Hut In The Bog
    Martin Hayes & Dennis Cahill
    Ceol Tacsi, 2000
    fiddle, guitar

##03. The dog among the bushes
a. The Cavan Reel> The Dog Among The Bushes> The Blackberry Blossom
    丸田瑠香&柏木幸雄
    A Mother's Love Is A Blessing, 2007
    fiddle, concertina, gutar
b. The Dogs Among The Bushes> Jenny's Wedding
    Planxty
    The Well Below The Valley, 1973
    uillean pipes, bodhran, bouzouki

##04. Dr Gilbert
a. Rattigan's> Dr Gilbert> Good Morning To Your Nightcap
    Anders Trabjerg & Tak Tamura(田村拓志)
    For The Same Reason, 2004
    accordion, fiddle, guitar, bodhran
b. Dr Gilbert's> Maudabawn Chapel> Mrs Crehan's
    Padraic O'Reilly
    Highly Strung!, 2007
    piano, strings, bodhran, guitar

##05. Fanny Power
a. Fanny Power
    らぶらぶバンド
    らぶらぶバンド Vol. 1, 2006
    fiddle, dulcimer, concertina, guitar
b. Planxty Fanny Power
    James Kelly & Zan McLeod
    The Ring Sessions, 1995
    guitar, fiddle

##06. Garrett Barry's
a. Garrett Barry's> The Humours Of Trim (Jigs)
    Dónal Clancy
    Close To Home, 2006
    guitar
b. Garrett Barry's Jig> The Lark In The Morning
    Leo Rickard
    Pure Piping, 2000
    uillean pipes

##07. The maid behind the bar
a. The Maid Behind the Bar> The Boys of Ballisodare
    Tom Cussen & Tony Howley
    There's Alway Room In Our House, 2003
    sax, banjo, bodhran, piano
b. The Road To Cashel> The Maid Behind The Bar
    Sharon Shannon, Mike McGoldrick, Jim Murray & Dezi Donnelly
    Renegade, 2007
    accordion, flute, fiddle, guitar, bass, drums

##08. Mist covered mountain
a. Mist Covered Mountains> Farewell To Fuinary> The Island That Lies To The North> The Mavis Wood
    Alasdair MacCuish & The Black Rose Ceilidh Band
    West Coast And Beyond, 1996
    piano, accordion, bass, drums, fiddle
b. Mist Covered Mountain> Tell Her I Am
    Matt & Shannon Heaton
    Dearga, 2003
    flute, guitar
c. The Warlocks> The Mist Covered Mountain
    Sheena
    Living Hands, 2009
    fiddle, flute, guitar, bass, drums, keyboards
d. Frankie's Jig> Mist Covered Mountain> Dee Reel
    Brian Kelly
    The Plain Of Jars, 2006
    banjo, guitar
e. The Mist Covered Mountains Of Home> The Orphan> Tarbolton
    John Renbourn
    The Black Balloon, 1979
    guitars, flute, bodhran

##09. O'Keefe's slide
a. Jim O'Keefe's> The Clog> The Star Above The Garter> The Hare In The Corn
    Athena Tergis, John Doyle, Brendan Dolan, Tim Collins, Joanie Madden, Liz Carroll, Jerry O'Sullivan & Eileen Ivers
    Absolutely Irish, 2008
    fiddle, accordion, guitar, uillean pipes, banjo
b. Norman: Padraig O’Keefe’s Slide> Callaghan’s Slide> Glountane Slide> A Slide Called Norman
    Ian Carr & Karen Tweed
    Fyace, 1997
    accordion, guitar

##10. Queen of the May
a. Doctor Gilbert's Reel> Queen Of The May
    Sean Smyth, Matt Molloy, Paul McGrattan, Arty McGlynn, Noel O'Grady & John Joe Geraghty
    Music At Matt Molloy's, 1992
    fiddle, flute, bouzouki, guitar, step dance
b. Woodcock Hill> The Queen Of The May
    Declan Masterson
    Fairwater=Fionnuisce, 1996
    uillean pipes, bouzouki, keyboards
c. Untitled Reel> Queen Of The May> The Congress
    Kevin Burke
    Open House, 1992
    fiddle, harmonica, mandolin, accordion

##11. The reel of Rio
a. Dominick Rooney's> The Reel Of Rio, Reels
    Mike & Mary Rafferty
    The Old Fireside Music, 1998
    accordion, flute, bouzouki
b. The Maids Of Galaway> The Reel of Rio/Coyne's> Return to Miltown> Hunting the Boyne> Return of the Maids
    The Green Fields Of America
    Live In Concert, 1989
    mandolin, guitar, accordion, uillean pipes, fiddle
c. Rio=The Reel Of Rio> All Round The Room> The Merry Thatcher
    Niall & Cillian Vallely
    Callan Bridge, 2002
    concertina, pipes, guitar

##12. The woman of the house
a. Gypsy Princess> Woman of the House
    Randal Bays
    The Salmon's Leap, 2000
    fiddle, accordion
b. Micho Russell's Reel> The Laurel Tree> The Woman Of The House
    Mary Bergin
    Feadóga Stáin 2, 1992
    whistle, uillean pipes, harp, bodhran
c. The Duke Of Leinster> Woman Of The House
    Conal Ó Gráda
    Top Of The Coom, 1990
    flute, bodhran, guitar

    ものの見事に雨男ぶりを発揮して、朝から雨になったにもかかわらず、大勢の方におこしいただき、御礼申しあげます。
   
    小生のしゃべりはともかく、芸大 G-Celt 選抜メンバーの演奏がすばらしく、また打ち合わせにはなかった、各担当楽器の説明までやっていただいて、なかなか有意義な午後になったのではなかったかと思います。
   
    ほうろうにもメリットがあったようで、あるいは今後またなにかできればと期待しています。もっとマニアックなものを、というご希望もいただいており、確かに思いきりマニアックな内容ではやったことがないので、それも一度は楽しいでしょうか。
   
    なお、小生が紹介した音源、また昨日店内でかけていた音源はほうろうに残してあります。お聴きになりたい方は店でリクエストしてください。いつでもOKとのことです。内容についてはこれから当ブログであらためて紹介します。(ゆ)

    昨日は東京・千駄木の古書ほうろうでのアイリッシュ・ミュージック・デイの打ち合わせに行ってきました。生演奏をしていただく、芸大の方の下見も兼ねてます。
   
    なおイベントの詳細は古書ほうろうのウエブ・サイトに載りました。
   
    芸大のアイリッシュ・ミュージック・サークル、通称 G-Celt は関東の大学のサークルの中では最も歴史もあり、活動も盛んです。先日、ちょっと取材させていただいたので、近々本誌で記事にする予定。
   
    さすが芸大だと思ったのは、楽器にたいする妙な抵抗がない、というより、皆さん、日常生活の一部で、楽器をやるといっても構えることがない。ごく自然に演奏されているので、これは結構アイルランドの現場の感覚に近いんじゃないかと思いました。
   
    その G-Celt からの選抜(!)メンバー四名、フィドル、アコーディオン、ホイッスル、ブズーキの編成で、当日はまずライヴをしていただきます。晴れていれば、お店の前で、雨ならば店内で、ということになります。(ゆ)は強力な雨男で、この頃、ますます強くなっているので、われこそは晴れ女晴れ男と自認される方、ぜひ、ご参集ください。
   
    その後は店内で(ゆ)によるレクチャーということになりますが、まあ、気楽に聴いていただければと思います。素材はアイルランドのうたを中心にしようと思っています。インストゥルメンタルは生演奏に接する機会も増えてきましたが、うたはうたう人はさすがに多くなく、耳にされる機会も少ないと思いますので。
   
聴いて学ぶアイルランド音楽

    このイベントは『聴いて学ぶアイルランド音楽』の発行元、アルテスパブリッシングの全点フェアを記念してのことなので、当然この本に出てくるうたを中心にしますが、それだけではちょと足りないので、十年ほど前に『ユリイカ』がアイルランドの詩歌を特集した時に書いた記事でとりあげたものをベースにしようかと考えています。
   
    古書ほうろうの宮地さんは粋な方で、当日は店内でギネスやキルケニーも販売されるとのこと。古本屋でギネス、というのは日本初でしょうか。ブック・カフェでギネスを置いているところはあるのかな。
   
    まあ、そういうことで、初夏の日曜の午後を、ゆったりと過ごせたらいいなと思っています。
   
    さあ、これから選曲だ。(ゆ)

一箱古本市の歩きかた (光文社新書)    元気が湧いてくる本です。もっとも、誰もがこれを読んで元気が湧いてくるわけではないでしょう。一攫千金を狙っていたり、本を読むことで自己改造ができないかと期待したりしている向きは、素通りされた方がよろしいかと存じます。
   
    ここに語られているのは、小さな小さな企画です。広告代理店が間に入ってスポンサーを集め、巨額の資金を投入して巨大な数の不特定多数の人間を動員し、底引き網で味噌も糞もいっしょくたにかっさらい、大儲けする。ひと言で言えば「ヒット」を狙う姿勢とは対極にある企てであり、動機であり、志向であり、手法です。
   
    個人、それもカネもコネもカンバンもジバンも無い、ごく普通の庶民のひとりである個人が、自分や仲間たちが楽しめる、同時に本というメディアとそれが作る世界を盛り上げる可能性を求めて行動を起こした、その記録。
   
    この人びとが持っていたのは、本に対する愛着、本の作る世界全体を楽しみたいという欲求、平均よりは少しばかり大きな行動力、知恵を絞り、骨を折ることを楽しむ楽天性、そして他人との協力は惜しまないが、群れることはしない独立精神。
   
    こうした「自立した個人」が本が好きという一点でつながることで、本の世界を盛り上げ、同時に自分たちが住む共同体を活性化しようと行動を起こした。その象徴、要のイベントが「一箱古本市」でありました。
   
    どこまでも個人の営為を積み重ねることでイベントを作ってゆく。地方自治体や地元企業のような組織を利用することはあっても、主導権はあくまでも個人の集団が握ります。
   
    鍵は企画に参加する全員がそのプロセスを初めから最後まで楽しむこと。楽しもうという姿勢と楽しませる配慮の相乗効果でしょう。本との多様なつきあい方をそのまま受け容れ、何かを排除することをしないこと。そして、大きなこと、大きくなることを目的としないこと。つまり優劣を競わないこと。
   
    これまでの世界、われわれの社会は大きいことを第一とし、小さなことの価値を認めませんでした。世界全体は置くとしても、わが国は19世紀後半以来ひたすら大きくなることを求めました。「大国」であることが何より大事なことでありました。政治的に失敗すると、経済で大国になろうとしました。その結果として、われわれは今、お先真暗の「未来」を前に立ちすくんでいます。
   
    もっとも「未来」とは本来お先真暗なものであります。そこに見えるとわれわれが思っていることは、われわれの願望にすぎません。われわれは実際には手探りで前に進んでいます。
   
    その「未来」があらためて「お先真暗」に見えるならば、われわれはわれわれ自身が何を望んでいるのか、何を見たいと、どうありたいと思っているのか、それがわからなくなっているのです。
   
    そして、大きなことを至上命題とするかぎり、われわれは自分たちが望むもの、こうなってほしい、こうありたいと考えることをもはやつかまえることはできない。おそらくは。
   
    そんなものはつかまえなくてもいい、という向きもあるでしょう。未来はお先真暗のままでいい、という人もいるはずです。なかなか度胸のいい人たちです。あるいはあの「アパッチ族」の末裔かもしれません。
   
    でも、それはやはりまずいのではないか、と考える人もいます。自分たちが、個人として、また共同体として、何を望むのか、つかまえたい。少なくともつかまえようと努力したい。あるいは明確な欲求ではなく、漠然とした不安、何となくつまらない、何かが足らないという感覚かもしれません。面白いことをやりたい。
   
    そこで大きなことを避けて、小さなこと、自分たちの手が届く範囲のこと、身の丈に合うことで、この欲求を満たそう、不安を薄めようとした人びとがいました。本という小さなメディアを愛する人びとです。
   
    本書を読むかぎり、本を媒介として自分たちの願望を垣間見ようとした試みは、各地で成功しているようです。成功という意味は、自分たちの願望が見えたというのではなく、どのような形であれ参加した人びとが、楽しいと感じ、またやろうと思っていることです。
   
    一つひとつはバラバラなイベントにつながりがあるように見えるのは、著者の存在があるからです。本を媒介にして、共同体の中にゆるやかなつながりを回復しようとする各地の企てを、今度は南陀楼綾繁という個人がつないでゆく。
   
    ひょっとすると、これが続いてゆくことで、われわれが未来に求めるものが、おぼろげでも見えてくるかもしれない。その希望がここにはあります。「元気が湧いてくる」と言うのはここのことです。
   
    本というメディアの小ささを承知しており、その小ささを本にとっても本で遊ぶ人びとにとってもプラスと考える。肩肘張らずに、ごく自然にそれができる人びとが現れてきている。これが希望でなくて、何が希望でありましょうや。
   
    ここで大きなことの追求と小さなことの積み重ねが共存できない、と考えるのも性急でしょう。ただ、これまでのわれわれは、この二つを同時に行うことはどうも得意ではなかったようです。小さなことをやるための訓練を、組織的にほどこすこともありませんでした。教育は常に大きなことのやり方を教えようとするのみで、それはおそらく今でも変わっていません。そこでは小さなことをやるのに必要な資質、乱暴に言ってしまえば、個人として自立できる資質は、大きなことをやるのに必要な資質、ここでも乱暴に言ってしまえば、組織に組込まれて協調できる資質と相容れないと思われているようです。
   
    というのは、本書の範囲からは少し脱線しました。まあ、これまでが大きいことの良さばかりが強調されていたので、小さなことを扱う場合には、そこに集中した方がバランスはとれるというものです。(ゆ)

    拙訳の『聴いて学ぶアイルランド音楽』の版元、アルテスパブリッシング全点フェア開催中の東京・千駄木の古書ほうろうさんでのアイリッシュ・ミュージック・イベントは

05/23(日)15:00〜

    ということになりました。
   
    ご近所でもある芸大のアイリッシュ・ミュージック・サークル G-Celt のご協力が得られたので、まずアイリッシュ・ミュージックのライヴを楽しんでいただき、16:00から小生のおしゃべり、ということになりました。
   
    何をしゃべるか、というのはおいおい考えますが、せっかくライヴがあるので、ふだんあまり聴けないような音源を聴いていただこうかと思っています。やはり、うた、ですかね。昨年、医科歯科大で「授業」させていただいたときもシャン・ノースをかけたら、かなり反応が良かったし。
   
    入場料等は無料ですが、G-Celt のメンバーには、よろしければ投げ銭、おひねり、差し入れなどをしていただければ、演奏にも身が入ると思います。
   
    昨日はその打ち合わせにアルテスパブリッシングの鈴木さんとほうろうに伺ってきました。古本屋に入るのすら久しぶりでしたが、この店は神田あたりの店とちがって、妙にゆったりしています。空間も本のならべ方もゆるい。そのせいか、ほんとうに久しぶりにゆきあたりばったりに本を買いたい気分が湧いてきて、ちょうど篠田一士の『音楽の合間に』(音楽之友社、1978)が千円であったのをみつけて買ってしまいました。以前、篠田の本を集めた時にもこれだけは手に入らなかったのでした。
   
    鈴木さんには近所の往来堂という、こちらは新刊書店にも案内されました。いや、興奮しました。本を買いたくなる棚というのを、これまたほんとうに久しぶりに見ました。もう四半世紀近く昔になるのかな、宮仕えしていた頃、営業で回っていた都内の店のいくつかを思いだしました。今泉さんがいた池袋・リブロとか、松田さんがいた銀座・旭屋とか、その棚の前に立つだけでわくわくしてくるような本屋さんがありました。むろん、アマゾンなど無い、いやネットもケータイも無い時代ですから、今と同列にはなりませんが、むしろ今でもやり方次第ではこういうこともできるのです。
   
    往来堂は外見はごく普通のどこにでもあるような本屋さんですが、品揃えはどこにもない、こんな本があるんだという「発見」に満ちたものです。ここに来なければ、こういう「発見」はできない。少なくともそう思わせる。ほうろうもそうですが、この「発見」や「出会い」の体験は、ネットではまだできませんし、当分、不可能でしょう。
   
    読んだことのある、あるいは読んではいないが内容はある程度知っている本の隣に、まったく知らない書き手の知らない本がある。隣に並んでいる、というのがミソなわけです。棚から抜きだして、表紙を見たり、目次を眺めたり、あちこちパラパラ読んでみたり。そうして、新たな世界が開ける。
   
    しかも、この店は、例えば飯田橋の深夜プラス1のような「専門店」の看板を掲げているわけではなく、一見、そんじょそこらにあるような、ごく普通の店です。とりわけ本好きや好書家が集まるわけではない。どこにでもあるベストセラーもちゃんとある。このさりげなさがいい。この店のためにわざわざ遠方からたずねてくるようなことはないけれど、このあたりに来たら、必ず寄る。たとえ何も買わなくても、気分は上々、晴れ晴れとして店を出られる。

    ああ、こういう本屋が近所にあればねえ、と鈴木さんと二人、溜息をついたことでした。ほうろうや往来堂のような店がある、というのは、その街の文化の質の良さの現れだろうと思いました。
   
    この日は「しのばずブックストリート一箱古本市」の日で、鈴木さんはほうろうの前に「出店」していたので、くっついて打ち上げにまでもぐりこませてもらいました。実行委員会にアイリッシュ・ミュージック関係で昔からの仲間の中濱さんがいて、これまた久しぶりに再会。最近、フランスのワイン産地の土壌、地形とできるワインの関係を詳細に分析、記録した本の飜訳を上梓されてます。ほうろうに現物があって拝みましたが、とんでもない代物で、ワイン好きにはたまらないでしょう。
   
    打ち上げ式では、実行委員会が委嘱した人たちが全店を歩いて、その中から各々の視点からユニークと見た「箱」つまり店の表彰がありました。コメンテイターの方々の話や、表彰された店主さんたちの話も味のあるものでした。ここで感心したのは、表彰の基準が優劣ではないこと。表彰の基準はあくまでもコメンテイターの個人的な思い入れや判断で、何ら「客観的」な基準があるわけではない。売上冊数と金額のベスト3の発表もありましたが、こちらは特に表彰もなし。それだけの売上を挙げたこと自体で十分表彰になっていると思うという、司会の南陀楼綾繁さんの言葉が印象的でした。北海道からの参加者もあり、全国各地から参加者があるそうな。その様子を見、さらにその後の宴会でいろいろ話を伺っていると、いっちょ、参加するかな、という気になってきました。さいわい、というか、売るものには困らないし(^_-)。問題は、ぼく自身が超強力な雨男ということ。
   
    南陀楼綾繁さんにもついにお目にかかれたし(『一箱古本市の歩きかた (光文社新書)』も買いました)、なんだかすごく気分がよくなって、どうやら飲みすぎたようでありました。(ゆ)

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