クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:来日

 まずはこのようなイベントがこうして行われたことをすなおに喜ぼう。新鮮な要素は何も無いにしても、やはり年末には「ケルティック・クリスマス」が開かれてほしい。

 今年、「ケルティック・クリスマス」が復活と聞き、そこで来日するミュージシャンの名前を見て、うーん、そうなるかー、と溜息をついたことを白状しておく。ルナサやダーヴィッシュがまずいわけではない。かれらの生がまた見られるのは大歓迎だ。それにかれらなら、失望させられることもないはずだ。会場の勝手もわかっている(と思いこんでいたら、実はそうではなかった)。パンデミックの空白を経て、復活イベントを託す相手として信頼のおける人たちだ。

 しかし、ルナサもダーヴィッシュもすでに何度も来ている。反射的に、またかよ、と一瞬、思ってしまったのは、あたしがどうしようもないすれっからしだからではある。キャシィ・ジョーダンが開巻劈頭に言っていたように、ダーヴィッシュは結成44年目。ルナサももうそろそろ四半世紀は超える。みんなそろって頭は真白だ。どういうわけか、ルナサもダーヴィッシュもステージ衣裳を黒で統一していたから、余計映える。例外は紅一点キャシィ姉さんだけ。

 この日はいろいろと計算違い、勘違いをした上に判断の誤りも加わり、あたしとしては珍しくも開演時間に遅刻してしまった。ルナサの1曲目はすでに始まっていた。この曲が終ってようやく客席に入れてもらえたが、客席は真暗だから、休憩、つまりルナサが終るまでは入口近くの空いている席に座ることになった。バルコニー席の先頭を狙ってあえてA席にしたのだが、チケットには3階とあった。この距離でステージを見るのは初めてで、これはこれで新鮮ではある。距離が離れているだけ、どこかクールにも見られる。いつもなら目はつむって、音楽だけ聴いているのだが、これだけ距離があると、やはり見てしまう。そのせいもあっただろうか。2曲目を聴いているうちに、ルナサも老いたか、という想いがわいてきた。

 あるいはそれは、遅刻したことでこちらの準備が整わず、素直に音楽に入りこめなかったせいかもしれない。ライヴというのは微妙なバランスの上に成りたつものだ。演奏する側がたとえ最高の演奏をしていたとしても、聴く方がそれを十分に受けとめられる状態にないと音楽は失速してしまう。そういう反応が一定の割合を超えると、今度は演奏そのものが失速する。

 3曲目のブルターニュ・チューンで少しもちなおし、次のルナサをテーマにしたアニメのサントラだといって、看板曲をやったあたりからようやく乗ってきた。このメドレーの3曲目で今回唯一の新顔のダンサーが登場して、かなりなまでに回復する。

 このダンサー、デイヴィッド・ギーニーは面白かった。アイルランドでも音楽伝統の濃厚なディングルの出身とのことだが、それ故にだろうか、実験と冒険に遠慮がない。華麗でワイルドで、一見新しい世代とわかるその一方で、その合間合間にひどく古い、と言うよりも根源的な、いわゆるシャン・ノース・スタイルの動作とまでいかない、空気がまじる。やっていることはマイケル・フラトリーよりもずっとアメリカンとすら思えるが、節目節目にひらめく色が伝統の根幹につながるようだ。だから新奇なことをやっても浮かない。とりわけ、ダーヴィッシュの前に無伴奏で踊ったのは、ほとんどシャン・ノース・ダンスと呼びたくなる。芯に何か一本通っている。

 その次のキリアンの作になる新曲が良く、ようやくルナサと波長が合う。そしてその次のロゥホイッスル3本による抒情歌で、ああルナサだなあと感じいった。あたしなどにはこういうゆったりした、ゆるいようでいてピシリと焦点の決まった曲と演奏がこのバンドの魅力だ。

 全体としてはメロウにはなっている。あるいは音のつながりがより滑らかになったと言うべきか。若い頃はざくざくと切りこんでくるようなところがあったのが、より自然に流れる感触だ。音楽そのもののエネルギーは衰えていない。むしろこれをどう感じるか、受けとるかでこちらの感受性の調子を測れるとみるべきかもしれない。

 休憩になってチケットに記された席に行ってみると、三階席真ん前のど真ん中だった。左に誰も来なかったのでゆったり見られた。狙っていた2階のバルコニー右側先頭の席は空いていた。

 後半冒頭、ギーニーが出てきて上述の無伴奏ソロ・ダンシングを披露する。無伴奏というのがまずいい。ダンスは伴奏があるのが前提というのは、アイリッシュに限らず「近代の病」の類だ。

 山岸涼子の初期の傑作『アラベスク』第二部のクライマックス、バレエのコンテストでヒロインの演技中伴奏のピアニストが途中で演奏をいきなり止める。しかしヒロインは何事もないようにそのまま無伴奏で踊りつづけ、最後まで踊りきる。全篇で最もスリリングなシーンだ。あるいは何らかのネタがあるのかもしれないが、有無を言わせぬ説得力をもってこのシーンを描いた山岸涼子の天才に感嘆した。

 クラシック・バレエとアイリッシュではコンテクストはだいぶ違って、アイリッシュ・ダンスには無伴奏の伝統があるが、踊る動機は同じだろう。

 歌や楽器のソロ演奏と同じく、無伴奏は踊り手の実力、精進の程度、それにその日の調子が露わになる。そして、この無伴奏ダンスが、あたしには一番面白かった。これを見てしまうと、音楽に合わせて踊るのが窮屈に見えるほどだった。

 ダーヴィッシュはさすがである。ルナサとて一級中の一級なのだが、ダーヴィッシュの貫禄というか、威厳と言ってしまっては言い過ぎだが、存在感はどこか違う。ユーロビジョン・ソング・コンテストにアイルランド代表として何度も出ていることに代表される体験の厚みに裏打ちされているのだろうか。

 そしてその音楽!

 今回は最初からおちついて見られたこともあるだろう。最初の一音が鳴った瞬間からダーヴィッシュいいなあと思う。ところが、いいなあ、どころではなかった。次の〈Donal Og〉には完全に圧倒された。定番曲でいろいろな人がいろいろな形で歌っているけれども、こんなヴァージョンは初めてだ。うたい手としてのキャシィ・ジョーダンの成熟にまず感嘆する。一回りも二回りも大きくなっている。この歌唱は全盛期のドロレス・ケーンについに肩を並べる。いや、凌いですらいるとも思える。そしてこのアレンジ。シンプルに上がってゆくリフの快感。そしてとどめにコーダのスキャット。この1曲を聴けただけでも、来た甲斐がある。

 ダンスも付いたダンス・チューンをはさんで、今度はキャシィ姉さんがウクレレを持って、アップテンポな曲でのメリハリのついた声。これくらい自在に声をあやつれるのは楽しいにちがいない。聴くだけで楽しくなる。この声のコントロールは次の次〈Galway Shore〉でさらによくわかる。ウクレレと両端のマンドリンとブズーキだけのシンプルな組立てがその声を押し出す。

 そして、アンコールの1曲目。独りだけで出てきてのアカペラ。

 ダーヴィッシュがダーヴィッシュになったのは、セカンド・アルバムでキャシィが加わったことによるが、40年を経て、その存在感はますます大きくなっていると見えた。

 とはいえダーヴィッシュはキャシィ・ジョーダンのバック・バンドではない。おそろしくレベルの高い技術水準で、即興とアレンジの区別がつかない遊びを展開するのはユニークだ。たとえば4曲目でのフィドルとフルートのからみ合い。ユニゾンが根本のアイリッシュ・ミュージックでは掟破りではあるが、あまりに自然にやられるので、これが本来なのだとすら思える。器楽面ではスライゴー、メイヨーの北西部のローカルな伝統にダブリンに出自を持つ都会的に洗練されたアレンジを組合わせたのがこのバンドの発明だが、これまた40年を経て、すっかり溶けこんで一体になっている。そうすると聴いている方としては、極上のミュージシャンたちが自由自在に遊んでいる極上のセッションを前にしている気分になる。

 アンコールの最後はもちろん全員そろっての演奏だが、ここでキャシィが、今日はケルティック・クリスマスだからクリスマス・ソング、それも史上最高のクリスマス・ソングを歌います、と言ってはじめたのが〈Fairy Tale of New York〉。アイルランドでは毎年クリスマス・シーズンになるとこの曲がそこらじゅうで流れるのだそうだ。相手の男声シンガーを勤めたのはケヴィン・クロフォード。録音も含めて初めて聴くが、どうして立派なシンガーではないか。もっと聴きたいぞ。

 それにしてもこれは良かった。そしてようやくわかった。中盤で2人が「罵しりあう」のは、あれは恋人同志の戯れなのだ。かつてあたしはあれを真向正直に、本気で罵しりあっていると受けとめた。実際、シェイン・マゴゥワンとカースティ・マッコールではそう聞えた。しかし、実はあれは愛の確認、将来への誓い以外の何者でもない。このことがわかったのも今日の収獲。

 最後は全員でのダンス・チューンにダンサーも加わって大団円。いや、いいライヴでした。まずは「ケルクリ」は見事に復活できた。

 キャシィ姉さんのソロ・アルバムを探すつもりだったが、CD売り場は休憩中も終演後もごった返していて、とても近寄れない。老人は早々に退散して、今度は順当に錦糸町の駅から帰途についたことであった。(ゆ)

 Peatix からの知らせで、マイケル・ルーニィ、ジューン・マコーマックとミュージック・ジェネレーション・リーシュ・ハープアンサンブルの公演の知らせ。パンデミック前に松岡莉子さんが手掛けていた企画が、二度の延期を経て、ようやく実現したものの由。ルーニィとマコーマックの夫妻だけでも必見だが、九人編成のハープ・アンサンブルが一緒なのはますます逃せない。即座にチケットを購入。






 久しぶりに聞くメアリの声はやはりすばらしい。AK100に入れ、拝借している FitEar の新作イヤフォン試作品(ほぼ完成品)で聴くと、さんざん聴きなれた曲もまことに新鮮。これまで気がつかなかった録音の細かい綾まで手にとるようにわかるのも楽しい。〈No Frontiers〉のヴォーカルにはこんなにリヴァーブかけてたんだねえ。〈The Holy Ground〉の故デイヴ・アーリィのドラムが胸に響く。〈I Will Be There〉でのポール・ブレディとのかけ合いなんか、生で聴きたいねえ、と思うが、まあムリなので、あらためて耳をすます。

 これは今回の来日に合わせた日本での独自企画盤だそうで、選曲はまあ納得のゆくものではある。あたしとしてはメアリは何といってもソロのファースト、それも〈Anarchie Gordon〉なので、あれが入っていれば完璧なんだけど。

 告白すれば、メアリ・ブラックからはすっかり遠ざかっていて、最新作もこれを聴いてあわてて注文したくらいだが、こうしてあらためて聴いてみると、アイルランドの声はやはりこの人にとどめをさす。伝統歌のうたい手はひとまず別として、モーラ・オコーネル、エレノア・マカヴォイ、エレノア・シャンリー、あるいはメアリとカラのディロン姉妹などなど、それぞれにすばらしいうたい手がその後陸続と現れたにしても、アイルランドに包まれる感覚が誰よりも強いのはメアリ・ブラックの声だ。少なくともぼくにとってはそうだ。伝統からは一歩離れたところでうたっているために、むしろその感覚が強くなる。メアリの声にはそういうところがある。〈Anarchie Gordon〉にしても、本来イングランド産のうたのはずだが、メアリがうたうとまぎれもないアイルランドのうたになる。このうたを初めて聴いたのはもちろんニック・ジョーンズで、それはそれで今も色褪せないが、やはりこのうたはメアリの持ち歌として聞こえる。

 メアリ・ブラックの功績はまずそこにある、と思う。メアリがうたうと、伝統歌にまつわる特有の「臭み」はみごとに脱けながら、しかもなおうたの出自、うたを生んだ伝統の香りは馥郁とただよう。ここで言う「臭み」はむろんほんとうにくさいものではない。たとえていえばそれは糠味噌の、納豆の、くさやを焼く煙の「臭み」だ。アイレイ産スコッチ・モルトのクレオソートに似た「匂い」。「醗酵」は化学的には「腐敗」と同じ現象だ。ただ、それが人間にとって役にたつ腐りかたをするとき醗酵と呼ぶにすぎない。ただし、うまく醗酵させるには不断の監視と手入れが要る。伝統も同じで、ただ放置すれば、あるいは単に保存すれば腐る。伝統音楽は多数の無名の人びとが丹精こめて見守り、世話をしてこんにちまで生きている。伝統の「臭み」はこの醗酵過程から生まれたものだ。

 一方でその「臭み」が人を遠ざける。醗酵して生まれたものは好んでも、その途中のにおいが残っているのは耐えられない、という人は少なくない。

 メアリ・ブラックはその「臭み」に耐えられない人も良い香りと感じるようにうたうことができる。彼女の他にそういうことができたのは、ぼくの知るかぎりではアン・ブリッグスぐらいだ。それは意識しておこなっていたことではおそらく無く、持って生まれた資質に負うところが大きいだろう。General Humbert でうたっている時から、メアリのうたは洗練されていた。その資質を磨き、大きく花開かせたのはデクラン・シノットではあった。

 そこからメアリのもう一つの功績が生まれる。アイルランドの新しいソングライターたちのうたを広めたことだ。このベストでいえば、〈No frontiers〉〈Katie〉の Jimmy McCarthy、〈Summer sent you〉の Noel Brazil、〈Carolina Rua〉の Thom Moore といった人たちは、メアリがとりあげなければ、世に現れたとしてもずっと遅れていただろう。

 この人たちの作るうたは、アメリカ人のつくるうたはもちろん、イングランドのソングライターたちのものとも明らかに一線を画している。それまでには無かった、今からふりかえれば、アイルランド的としか言いようのない、ある決定的な資質を備えている。伝統から一歩離れてはいるが、しかし、他のどこでもない、アイルランドのうたであることを静かに、しかし強烈に主張している。

 メアリがうたうことで、そのアイルランド性がさらに強調される。そしてまたメアリのうたのアイルランド性もまた増幅される。そこから生まれる効果は、うたとうたの作り手とうたい手の、そして、聴き手の幸福な共同体を出現させる。

 その「アイルランド性」の内実について、より突っこんだ分析をする用意は今はない。あるいはそういう分析を受けつけないかもしれない。たとえばフラメンコの「スペイン性」とはあり方が違うような気もする。ただ、それがアイルランドの伝統音楽に回り道をしながらも深くつながっていることは確かに感じられる。メアリのうたを聴いて、すぐにシャン・ノースが良いと思えるようになるというわけではない。メアリのうたの香りの源に、アイルランド伝統歌謡の大海があるのだ。

 これはメアリが世界にもたらした贈り物だが、彼女はわが国にとって、もうひとつ大事なものを贈ってくれた。いや、ものではなく人である。野崎洋子さんだ。

 今はミュージック・プラントの主宰として活躍される野崎さんは、この20年、この国のリスナーに、アイルランドや北欧のミュージシャンの生の音楽を体験できるライヴを提供してくれている。野崎さんがいなければ、ルナサもポール・ブレディもヴェーセンも、おそらく来ることはなかっただろう。個人的にはポールとともに来たティム・オブライエンのうたを生で体験できたのも大きい。その野崎さんがアイルランド音楽と出会い、こうしたミュージシャンたちとつながったその出発点はメアリだ。

 プランクトンにも足を向けては寝られないが、ぼくにとっては野崎さんの存在の方が大きい。

 ご本人は特にアイルランドだからと意識したわけではない、とおっしゃる。それはその通りなのかもしれないが、大手のプロモーターではなく、野崎さんのような音楽とミュージシャンを心から愛し、相手に寄り添う形で、つまりカネのためではなく、音楽とミュージシャンのために公演をつくってくれる人が手がけてくれてきたことは、アイリッシュ・ミュージックのリスナーとしてこれ以上望めない、まことに幸運としか言いようのないことだと思う。

 メアリ・ブラックはいわゆる「ライト・タイム、ライト・プレイス」の存在なのだ、きっと。メアリ自身も幸運にめぐまれたのだろうが、その幸運はまたメアリの声にのって、世界へと拡がった。思えばメアリのソロ・ファーストと、マレード・ニ・ムィニーとフランキー・ケネディのデビュー作はほぼ同時に出ている。一見、偶然にもおもえるが、あるいは必然だったのかもしれない。

 そのメアリがまたやって来る。これが最後の来日になる。そりゃ、アイルランドへ行けば聴けるかもしれないが、行ける可能性は限りなく低いし、ひょっとすると行っても聴けないかもしれない。それに、ここで、自分の生まれ育ったところで聴くところに、他では、おそらく現地でも体験できない味が生まれる。30年前、マレードたとちとともに、アイルランドの音楽を、これがそうだと教えてくれたメアリのライヴを、もう一度体験しに行こうと思う。

 ありがとう、メアリ。ありがとう、野崎さん。あなた方の上に、音楽の神の祝福あれ。(ゆ)

ザ・ベリー・ベスト・オブ・メアリー・ブラック
メアリー・ブラック
キングレコード
2014-04-23


はオリジナル・メンバーではありませんね。
何を考えていたんだろう。

 昨日配信しました本誌情報篇のなかで、
ラーナリム来日メンバーのエンマ・ビョーリンを
オリジナル・メンバーと書いていますが、

まるで勘違い

でありました。まことに申しわけありません。

 エンマについてはノルディック・ノーツの
ラーナリムのページにもちゃんと説明があります。


Thanx! > マスター@やなぎ

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