先週土曜日夜。大泉学園も in F も初めてだ。西武池袋線に乗るのも、遥か昔、飯能の先の高麗神社で行われたサムルノリの奉納ライヴを見に行った帰り以来だろうか。
ピアノ、作曲、編曲の shezoo さんのユニット、シニフィアン・シニフィエの初ライヴ。編成はピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、サックスとフルート持ち替え、ダブル・ベース。この編成で「現代音楽」をやるという。shezoo さんにとっての現代音楽はアルヴォ・ペルトとジョルジュ・リゲティとその先のバルトークの由。それにバッハがまじる。ということでこの夜はペルト、リゲティ、バッハが2曲ずつにバルトークがひとつ。
このバルトークが何といっても良かった。「ミクロコスモス」の149番をジャズとして料理する。ヴァイオリン、クラリネット、サックスとソロをとる。いずれ劣らぬ芸達者の中に、バリトンで吹いたサックスがとりわけ冴えわたる。コーフンしますた。バルトークが聴いてもきっとコーフンしただろう。
といってジャズ的展開ばかりではなく、もう一つ、shezoo さんのオリジナルで別ユニット Trinite のための「神々の骨」の1曲もやはりすばらしい。Trinite の渋谷でのライヴのハイライトの一つだったこの曲はペルトへのトリビュートとも言えるが、緊張と弛緩が対等に同居していて、シンプルで美しい曲なのに聴いているうちにカラダとココロの中のどこかがねじられてくる。3.11と直接の関連はないのかもしれないが、ポスト3.11のリアリティをどんな楽曲よりもひしひしと感じる。どこと明確に指さすことはできないが、どこかが決定的に変わってしまっている感覚。あまりに決定的な変化のために、そうは見えない。またそうは見たくない。そういう変化をいやおうなく抱えこまされた事態を表面化する音楽なのだ。その変化はいずれ、思いもかけない時に、思いもかけない形で爆発するはずだ。その時をただじっと待つしかないという事態でもある。
それがシンプルで美しい音楽の形をとって提示されるとき、極小なりとはいえ、何らかの準備をととのえることに貢献するのではないか。あらかじめこの音楽を聴いておくことで、実際に出るまで、出口の形も、いつ出られるかもわからない、その「時」への希望をつなぐことができるのではないか。ここには、かすかではあるが、まぎれもない希望が着実に流れている。
同じ希望は、この夜のどの演奏にも流れていたようにもおもう。
ヴァイオリンの壷井彰久氏とクラリネットの小森慶子氏は Trinite でもおなじみで、やはり質の高い演奏を聴かせてくれたが、バルトークでの活躍もあって初見参のサックス・大石俊太郎氏と出逢えたのは嬉しい。ベースの水谷浩章氏は、むしろオーケストラのコントラバスに求められるような役割をふられてとまどいながら楽しんでいた様子がおもしろかった。サックスとのデュオでのバッハは珍品というと失礼かもしれないが、ひょっとすると新たな突破口たりうる可能性を感じる。そう、バッハはもっといろいろな楽器で演奏されるべきだ。
shezoo さんがご自分のブログに、あれは自分が聴きたいことをやったのだと書かれているが、バッハだってバルトークだって、自分が聴きたい音楽を作っていたはずである。(ピーター・S・ビーグルが言うように)作家は自分が読みたい物語を書く。画家は見たい絵を書く。音楽家は聴きたい音楽を音にする。その音楽をなろうことならぼくもまた共有したい。共有されることで作品は巣立つ。その巣立ちに立会いたい。
Trinite とこのシニフィアン・シニフィエを聴いて、shezoo さんのやることへの信頼は確立した。なにをどんな名目でやろうと、時間とカネと体力の許すかぎり、聴きにゆくであろう。
時間がちょと早かったので、駅のあたりをうろうろ。どこにでもある私鉄沿線の町になりつつあるが、まだ抵抗してしぶとく生き延びている独得の蓄積がありそうだ。と感じていたら、おもしろそうな古本屋がある。比較的新しいマンションらしい建物の一階で、エントランスをはさんだ左側の喫茶店もうまそうだ。一度行きすぎるが、やはり引かれるものがあって扉を引きあけて入る。
古書ほうろうとはまた違って、昔ながらの、どこか得体のしれない無気味さを備えた店。そうか、ほうろうは明るいのであった。あそこでは書棚の向こうからぬっと何かが出てくるような雰囲気はない。
とりあえずと右手の文庫の棚を見てゆくと、宮崎市定の『謎の七支刀』と中野美代子『三蔵法師』ともに中公文庫を見つけてしまう。宮崎のはなぜか買いそこねていたし、中野のはリアル玄奘の伝記となれば、読まないわけにはいくまい。コミックの棚も『サスケ』新書判の揃いなんかがある。うーむ『カムイ伝』愛蔵版かあ。
いやいや今日は背中のリュックも重いのだと思いなおして、文庫二冊だけにする。値段が書かれるべきところに262という半端な数字が書いてあるので、ほんとはいくらなんだろうと思ったら、その数字まんまの値段であった。
こういう本屋は田園都市線の沿線にはありえない。あの線の、とりわけ梶ケ谷から先は町に蓄積がない。ブランド品をならべたシャレた店はあるかもしれないが、何の役にもたたない文化の薫りは薬にしたくもないのである。もともとは大山街道筋だったはずで、それなりに過去の堆積があってもおかしくはないのだが、きれいに消されてしまっている。
ちなみに本屋の名前はポラノ書房。ちゃんとサイトもある。
宮崎の本は、得意の文献分析による謎解きで、よくできたミステリを読む気分で、一気読み。さらに同時期の他の刀の遺物から銘文の源流をたどって、東アジア全体の動きにまでいたるのも、この人の真骨頂。そもそもこんな銘文を刀に刻んで与えるあるいは残すというふるまいがいつどこで生まれたのかは、年代推定にあたっても重要なポイントではある。全世界の歴史を通じて、どこでも行われたというようなことではない。むしろ、特定の時代と地域に限定される現象なのだから。
それにしても漢文が読めなくては中世までの日本列島とその周辺の歴史を学ぶことなどできないのは、漢文に加えてポルトガル語もできないでは日本の戦国時代史を学べないのと同じ。当然、江戸時代の研究にはオランダ語は必須だし、幕末から明治にかけてはそれに加えて英仏露朝語も必要になる。20世紀に入れば、独伊が加わる。日本の歴史を学ぶのはたいへんだ。(ゆ)