クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:歌

 ここは2回目。前回は昨年10月の、須貝知世、沼下麻莉香&下田理のトリオだった。その時、あまりに気持ちよかったので、今回の関東ツアーのスケジュールにここがあったのを見て、迷わず予約した。すずめのティアーズとの共演にもものすごく心惹かれたのだが、仕事のイベントの直前でどうなるかわからないから、涙を呑んだ。後でトシさんからもう共演は無いかもしれないと言われたけど、前座でもなんでも再演を祈る。

 前回も始まったときは曇っていて、後半途中で雨が降りだし、降ったり止んだり。今回も後半途中で予報通り降りだす。次も雨なら、なにかに祟られているのか。

 前回は無かった木製の広いベランダが店の前に張りだす形にできていて、バンドははじめここに陣取る。PA が両脇に置かれている。リスナーは店の中からそちらを向くか、ベランダの右脇に張られたテントの中で聴く。PA は1台はそちら、もう1台が店の中に向いている。バックの新緑がそれは綺麗。前回は紅葉にはちょっと早い感じだったが、今回は染井吉野が終ってからゴールデン・ウィークまでの、新緑が一番映える時期にどんぴしゃ。こういう背景でこういう音楽を聴けるのはあたしにとっては天国だ。

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 このトリオを見るのはほぼ1年ぶり。前回は昨年2月。是政のカフェで、アニーが助っ人だった。その時はこの人たちをとにかく生で見られるというだけで舞いあがってしまっていた。とりわけみわさんだ。トシさんは他のバンドでも何度も見ている。鉄心さんも鞴座の生を見ている。みわさんはその時が初めてで、録音を聴いて永年憧れていたアイドルに会うというのはこういう気持ちかと思った。

 二度目としてまずは最高のロケーション、環境だ。そう、あの八ヶ岳アイリッシュ音楽フェスティヴァルのどこかで見られるとすれば、肩を並べるかもしれない。そういえば、去年あそこで一緒になった方も見えていて、今年の日程を教えてもらった。今年は9月第一週末、6〜8日だそうだ。よし、行くぞ。まだゲストも決まっていないそうだが、須貝さんとサムはいるし、セッションはそこらじゅうであるだろうから、あとはたとえ誰も来なくたってかまわない。

 で、みわトシ鉄心である。前回、これはあたしにとって理想のバンドだと思ったが、その理想のバンドがますます理想に近づいている。あるいは、ああ、あたしにとって理想のバンドとはこういう存在だったのだ、と気づかせてくれるレベルになっている。リルティングでのジグの1曲目からアンコールまで、ただただひたすらいい気持ち、そう、あの幸福感に包まれていた。

 既存のバンドで一番近いのはたぶん Cran だ、とあたしは思った。あちらは男性ばかりのトリオ、やはりパイプがいて、ギターならぬブズーキがいる。そして三声のコーラスで聴かせる。女声がいるということではスカラ・ブレイがあった。あちらはギター伴奏の四声。となるとみわトシ鉄心はクランとスカラ・ブレイのいいとこ取りをしていることになる。




 それにしてもだ、女声と男声のハーモニー、それも混声合唱団ではなく、少人数のハーモニー・コーラスには他のヴォーカルにはない蠱惑的と言いたい魅力が宿る。グレイトフル・デッドでも、1970年代半ば、76〜78年にかけての、ボブ・ウィアとドナ・ジーン・ガチョーの2人のコーラス、あるいはこれにジェリィ・ガルシアが加わった3人でのコーラスは、デッド30年の音楽の中でも一際輝く瞬間を何度も味わわせてくれる。デッドやスカラ・ブレイと同じく、みわトシ鉄心も地声で歌う。そこから、たとえばマンハッタン・トランスファーとは違って、土の薫りに包まれ、始源の響きが聞えてくる。そして、このトリオの面白いのは、みわさんがリードをとるところだ。

 今回まず感じいったのは、コーラスの見事さ。これが最も端的に現れたのはアンコールのそれもコーダのコーラスだった。これには圧倒された。とはいえ、オープナーの曲からずっと3人でのハーモニーがぴたりと決まってゆくのが実に快感。たぶんそれには鉄心さんの精進が効いているのではないか。前回はどこか遠慮がちというか、自信がもてないというか、歌いきれていない感覚がわずかながらあった。そういう遠慮も自信のなさも今回は微塵も見えない。しっかりとハモっていて、しかもそれを愉しんでいる。

 そうなのだ、3人がハモるのを愉しんでいるのだ。これは前回には無かったと思う。ハモるのは聴くのも愉しいが、なによりもまず歌う方が愉しいのだ。たぶん。いや、それは見ていて明らかだ。ぴたりとハモりが決まるときの快感は、音楽演奏の快感の中でも最高のものの一つではないかと、これは想像ではあるが、ハーモニーが決まることで生まれる倍音は外で聴くのもさることながら、中で自分の声もその一部として聞えるのはさらに快感だろう。

 だからだろうか、アレンジにおいても歌の比重が増えていて、器楽演奏の部分はずっと少ないように思えた。とはいえ、チューン演奏ではメインになるパイプの飄々とした演奏に磨きがかかっている。パイパーにもいろいろいて、流麗、華麗、あるいは剛直ということばで表現したくなる人たちもいる。鉄心さんのパイプのように、ユーモラスでいい具合に軽い演奏は、ちょっと他では聴いたことがない。

 ユーモラスな軽みが増えるなんてことは本来ありえないはずだ。よりユーモラスに、より軽くなる、わけではない。軽いのではない。軽みと軽さは違う。ところが、その性質が奥に隠れながら、それ故により明瞭に感じられる、不思議なことが起きている。あるいは歌うことによりのめり込んだからだろうか。

 みわさんはもともと一級のうたい手で、今さらより巧くなるとは思えないが、このトリオで歌うことのコツを摑んだのかもしれない。

 たぶん、そういうことなのだろう。各々個人として歌うことだけでなく、この3人で歌うことに習熟してきたのだ。楽器でもそういうことはあるだろうが、声、歌の場合はより時間がかかると思われる。その習熟にはアレンジの手法も含まれる。それが最も鮮明に感じられたのは〈古い映画の話〉。この歌も演奏されるにしたがって形を変えてきているが、ここに至って本当の姿が現れたと聞えた。

 それにしても、実に気持ち良くて、もうどれがハイライトかなどというのはどこかへ飛んでいた。ハイライトというなら始めから最後まで全部ハイライトだ。それでも後になるほど、良くなっていったようにも思う。とりわけ、休憩後の後半は雨を考慮して、バンドも中に入って屋内で生音でやる形にした。途中で雨が降りだしたから、まことに時宜を得た措置だったのだが、それ以上に、直近の生音での演奏、そしてコーラスには何度も背筋に戦慄が走った。

 そうそう、一番感心したのは、前半クローザーにやった〈オランモアの雄鹿〉。仕掛けがより凝って劇的になった上に、鉄心さんのとぼけた語りがさらに堂に入って、腹をかかえて笑ってしまった。

 バンドもここの場所、環境、雰囲気を気に入ったようだし、マスターもこの音楽には惚れたようで、これからも年に一、二度はやりましょうという話になっていたのは、あたしとしてはまことに嬉しい。「スローンチャ」のシリーズだけでなく、ほかのアクトもできるだけ見に来ようと思ったことであった。

 帰り、同じ電車を待っていた50代とおぼしきサラリーマンのおっさんが、「寂しいところですねえ、びっくりしました」と話しかけてきた。確かに谷峨の駅は寂しいかもしれないが、だからといって土地そのものも寂しいわけではない。(ゆ)

 このところ、積極的に音楽を聴く気にも、本を読もうという気にもなれなかった。日々、暮らしに必要なことやルーチンをこなしながら、茫然と過してしまう。

 というのはやはり能登の地震のショックなのではないか。と思ったのは、このライヴに出かける直前だった。年末にはようやくデッド本が向かうべき方向が見えてきたし、エイドリアン・チャイコフスキーに呼ばれてもいて、よっしゃひとつ読んでやろうやという気分になっていたはずだった。年が明けてしばらくは毎年恒例のことで過ぎる。元旦は近隣の神社、どれも小さく普断は無人の社に初詣してまわる。2日、3日は駅伝で過ぎ、3日、駅伝が終ったところで3年ぶりに大山阿夫利神社へ初詣に行った。そして、4日、5日と経つうちに、どうもやる気が起きない。こりゃあボケが始まったのかという不安も湧いた。それがひょっとすると元旦に大地震というショックの後遺症、PTSD といっては直接の被害者の方々に失礼になろうが、その軽いものに相当するやつではなかろうか、とふと思ったのだった。

 ライヴのことはむろん昨年のうちに知り、即予約をしていて、今年初ライヴがこれになることに興奮もし、楽しみにもしていた。はずだった。それが、いざ、出かけようとすると、腰が重いのである。これという理由もなく行きたくない、というより、さあライヴに行くぞという気分になれない。

 ライヴというのは会場に入ったり、演奏が始まったりするのがスタートなのではない。家を出るときからイベントは始まっている。ライヴに臨む支度をしていく。そういう心構えを作っていく。それがどこかではずれると、昨年末の「ケルティック・クリスマス」のように遅刻なんぞしたりしてしまうと、せっかく作った心構えが崩れて、音楽をすなおに楽しめなくなる。

 しかし、こういう時、なんとなく気が進まないといってそこでやめてしまうと、後々、後悔することになることもこれまでの経験でわかっている。だから、半ば我が身に鞭打って出発したのだった。

 そうしたら案の定である。開演時刻と開場時刻を間違えていて、いつもなら開場前に来て開くのを待っているのが、今回は予約客のほとんどラストだった。危ない危ない。席に座るか座らないかで、ミュージシャンたちが前に出ていった。努めて気を鎮める。

 そうして始まった。いや、始まったのだろうか。shezoo さんも石川さんも、永井さんの方を見つめている。永井さんは床にぺたりと座りこんで、何やらしているようだ。遅く来たために席は一番後ろで、音を聴く分にはまったく問題ないが、永井さんが床の上でしていることは前の人の陰になって見えない。やむなく、時々立ちあがって見ようとしてみる。

 そのうち小さく、静かに音が聞えてきた。はじめは何も聞えなかったのが、ごくかすかに、聞えるか聞えないかになり、そしてはっきりと聞えだした。何か軽く叩いている。いろいろなものを叩いている。その音が少しずつ大きくなる。が、ある大きさで止まっている。すると、石川さんが声を出しはじめた。歌詞はない。スキャットでうたってゆく。しばらく2人だけのからみが続く。一段落したところでピアノがこれまた静かに入ってきた。

 こうして始まった演奏はそれから1時間半以上、止まることがなかった。曲の区切りはわかる。しかし、まったく途切れなしに演奏は続いている。たいていは永井さんが何かを鳴らしている。ピアノが続いていることもある。そうして次の曲、演目に続いてゆく。

 いつものライヴと違うのは曲のつなぎだけではない。エアジンの店内いたるところにモノクロの小さめの写真が展示されている。そして奥の壁、ちょうど永井さんの頭の上の位置にスクリーンが掲げられて、ここにも写真が、こちらはほとんどがカラーで時折りモノクロがまじる写真がスライド・ショー式に写しだされる。このスクリーンを設置するために、永井さんは床に座ったわけだ。各種の楽器も床の上や、ごく低い位置に置かれている。

 写真はいずれも古い木造の校舎。そこで学んだり遊んだりしているこどもたちからして小学校だ。全部ではないが、ほとんどは同じ学校らしい。背景は樹々の繁った山。田植えがすんだばかりの水田の手前の道に2人の男の子が傘をさして立ち、その間、田圃のずっと向こうに校舎が見える写真もある。

 写真は荒谷良一氏が1991年に撮影したものという。それから30年以上経った昨年春、この写真によって開いた写真展を shezoo さんが訪れ、そこでこのコラボレーションを提案した。写真から shezoo さんはある物語を紡ぎ、それに沿って3人各々のオリジナルをはじめとする曲を選んで配列した。それには、川崎洋編になる小学校以下の子どもたちによる詩集『こどもの詩』文春新書から選んだ詩の朗読も含まれる。この詩がまたどれも面白い。そして音楽と朗読に合わせて荒谷氏が写真を選んでスライド・ショーに組立てた。

 後で荒谷氏に伺ったところでは、教科書用の写真を撮るのが仕事だったことから、教科書会社を通じて小学校に頼んで撮らせてもらった。こうした木造校舎は当時すでに最後に残されたもので、どこか壊れたら修理はできなくなっていた。撮影して間もなく、みな建替えられていった。小学校そのものが無くなった例も多い。

 写真展のために作った写真集を撮影した小学校に送ったところ、そこに当時新任教師として写っていた方が校長先生になり、子どもの一人は PTA 会長になっていたそうな。

 shezoo さんが写真から紡いだ物語は、完成した1本のリニアな物語というよりは、いくつもの物語を孕んだ種をばら播いたけしきだ。聴く人が各々にそこから物語を引きだせる。言葉で語ることのできない物語でもある。音楽と写真が織りなす、言葉になれない物語。あるいは物語群。ないしいくつもの物語が交差し、からみあい、時には新たな物語に生まれかわるところ。それでいて、ある一つの物語を語っている。それがどんな物語か、何度も言うが、ことばで説明はできない。聴いて、見て、体験するしかない。幸いに、このライヴはエアジンによって配信もされていて、有料ではあるが、終った後でも見ることができる。あたしがここで縷々説明する必要もない。

 打楽器は実に様々な音を出す。叩くのが基本だが、加えてこする、振る、かき乱す、たて流す、はじく、などなど。対象となる素材もまた様々で、木、革、金属、プラスティック、石、何だかわからないもの。形もサイズもまた様々。今回は大きな音を出さない。前回のライヴでは、時にドラム・キットを叩いて他の2人の音がかき消される場面もあって、その時は正直たまらんと思った。しかし後で思いかえしてみれば、それはそれでひとつの表現であるわけだ。ここでは打楽器が他を圧倒するのだという宣言なのだ。今回、打楽器はむしろ比較的小さな音を出すことを選んだ。ひとつには映像、写真とのコラボレーションという条件を考慮してでのことだろう。また、前回は大きな音を試したから、今回は小さな音でどこまでできるかを試すという意味もあるだろう。とまれ、この選択はみごとにうまく働き、コラボレーションの音楽の側の土台をがっしりと据えていた。曲をつないだのはその一つの側面だが、途切れがまったく無いことによる緊張の高まりをほぐすのが大きかった。永井さんの演奏にはユーモアがあるからだ。

 石川さんも shezoo さんもユーモアのセンスには事欠かないが、ふたりともどちらかというと、あまり表に出さない。隠し味として入れる方だ。永井さんのユーモアはより外向的だ。演奏にあらわれる。そして器が大きい。他の2人のやることをやわらかく受けとめ、ふさわしく返す。

 石川さんはスキャットで始める。歌詞が出たのは4曲目〈Mother Sea〉、「海はひろいな〜、おおきいな〜」というあの歌の英語版である。当初、このメロディはよく知ってるが、なんの歌だっけ、と思ったくらい意表を突かれた。

 とはいえ、詞よりもスキャットをはじめ、これも様々な音、声を使った即興の方に耳が引っぱられる。詞が耳に入ってきたのは、後半も立原道造の詩に shezoo さんが曲をつけた〈薄明〉。絶唱といいたくなる、ここから演奏のギアが変わった。その次、小学校3年生の詩「ひく」に続いて打楽器が炸裂する。次のカール・オルフ〈In Trutina〉がまた絶唱。テンションそのまま〈雨が見ていた景色〉と今度は5年生の詩「青い鳥へ」を経て、〈からたちの花〉の「まろいまろい」の「い」を伸ばす声に天国に運ばれる。しめくくる shezoo さんの〈両手いっぱいの風景〉は、まさに今、ひとつの物語をくぐりぬけてきた、体験してきたことを打ちこんでくる。もう一度言うが、どんな話だと訊かれても、ことばでは答えられない物語。そして、打楽器が冒頭の、今日の演奏を始めた低いビートにもどる。ゆっくりとゆっくりとそれが小さくなり、消えてゆく。

 渡されたプログラムでは、いくつかの曲と詩がひとまとまりにされていて、どこかで休憩が入るものと思いこんでいたから、まったく途切れもなく続いてゆくのに一度は戸惑った。それが続いてゆくのにどんどん引きこまれ、気がつくと今いる時空は、音楽が途切れなく続くことによって現れたものだった。

 語りおえられたことが明らかになって夢中で喝采しながら、生まれかわった気分になっていた。そして、ここへ来るまで胸をふさいでいたものが晴れているのを感じた。それが能登の地震によるショックだったとようやくわかったのである。やはり人間に音楽は必要なのだ。

 今回はそれに木造校舎で学び遊ぶ子どもたちの姿が加わった。その姿はすでに失われて久しい。二度ともどることもない。それでも写真は記憶、というよりは記憶を呼びおこす触媒として作用する。そこで呼びおこされる記憶は必ずしも見る人が実際に体験したものの記憶とは限らない。木造校舎は地球からの贈り物の一つだからだ。映像と音楽の共鳴によって物語による浄化と再生の力は自乗されていた。

 関東大震災の夜、バスキングに出た添田唖蝉坊の一行は人びとに熱狂的に迎えられた。阪神淡路大震災の際、避難所でソウル・フラワー・モノノケ・サミットが演奏した時、人びとはそれまで忘れようとしていた、抑えつけていた涙を心おきなく流した。

 音楽はパンではない。しかし、人はパンのみにて生きられるものでもない。音楽は人が人であるために必要なのだ。このすばらしいライヴで今年を始められたことは、期せずして救われることにもなった。shinono-me、荒谷良一氏、そして会場のエアジンに心から感謝。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

荒谷良一: photography, slide show



http://tatsutoshi.my.coocan.jp/WindsCafe316.html

 いつものように早めに着くと、3階のホールの扉が開いていて、三味線の音が聞える。なにか、すごく響きがいい。この日は晴れて空気が乾いており、こういう時は三味線は音が良くなるのだそうだ。

 響きが良く聞えたのはもう一つ理由があって、山中さんが2本持ってきた三味線の片方が、プラスティックを張ったものだったこともある。こちらはまったく音を吸わずに反射するから、響きがシャープで明朗になる。もう1本は従来の犬の皮を張ったもので、弾き比べをすると、明らかに音が柔かく、音程も低めになるように聞える。あまりいい例ではないだろうが、フラット・ピッチのイリン・パイプのようだ。なぜ、プラスティックの楽器を持ってきたかは後で書くが、撥も鼈甲とプラスティックとがあって、犬の皮の楽器をプラスティックの撥で弾いても、プラスティックの楽器を鼈甲の撥で弾いても、やはり音が変わる。さらには、同じ撥でも、張りだした上の両端がまったく同じではなく、どちらを使うかで音は変わるのだそうだ。

 山中さんはパンデミックが始まる前は、1年365日のうち360日近く、何らかの形で仕事をされていた。公演やリハーサルや、あるいは教授などで、三味線を弾かない日はなかったそうな。それが、ある日を境にぱったりと無くなった。そうすると、ゲームばかりやっていたという。たまに三味線を弾いても、まったく面白くない。音楽家、演奏家といわれる人たちは、人前で演奏することが止まるととたんに腕が落ちる由だが、それはたぶん、モチベーションが落ちて、演奏することが楽しくなくなるからではないか。

 山中さんはそこで尺八をあらためてやり始めた。うたもうたい始めた。そうして尺八やうたが上達するにつれて、ようやく三味線も再び楽しくなり、また上手くなっていった。ということで、この日は1曲、尺八で高橋竹山の〈竹〉という曲をやる。竹山も尺八を吹いた。雨の日はカドヅケで三味線は弾けない。代わりに尺八を吹いたわけだ。

 山中さんの尺八がまた実によいのは、やはり音楽家としてのセンスが抜群なのだろう。巧いことは巧いがセンスの無い人というのはいるものである。そういうのに当ると気の毒にもなるが、聴かされる方はたまらない。困ったことに、センスというのは鍛えてどうなるというものではない。多少、磨くことはできるだろう、たぶん。

 いつものようにまず前半は山中さんのソロとおしゃべり。上に書いたようなことをおしゃべりしながら、即興をやる。初めはなにか新しい作曲かとも聞えたが、聴いているうちにだんだんこれは即興だろうと思えてきた。かなり長い演奏で、 津軽三味線の様々なテクニック、フレーズを次々に展開してゆく。時折り、そこから外れて、をを、と声をあげたくなる瞬間もある。見事に締めてから、「今のは適当にやりました」。とはいえ、こういう風に弾いていると、かれこれ35年間弾いてきて、初めて出現したフレーズがあるとも言う。

 前半の締めは〈じょんがら節〉。プラスティックの楽器を鼈甲の撥で弾く。確かに、プラスティックの楽器+プラスティックの撥と犬の皮の楽器+鼈甲の撥の中間の響きがする。

 後半、山本さんの唄は〈あいや節〉からで、伴奏は犬の皮の楽器。曲によって楽器を使いわける。1曲目からよく声が出ている。こりゃあ、今日は調子がいいぞ。山本さんの唄にはグルーヴがある。それが明瞭に出たのは3曲目〈よされ節〉。スピードに乗った速弾きの三味線伴奏に、唄はゆったりしたグルーヴでうねってゆく。これですよ、これ。

 4曲目〈鯵ヶ沢甚句〉からプラスティックの楽器の伴奏。山中さんが聴衆に手拍子をとらせる。これは初めての気がするが、悪くない。

 6曲目〈津軽山唄〉は尺八の伴奏。これがまたいい。

 7曲目〈津軽三下がり〉で犬の皮の楽器に替え、次の 〈りんご節〉で、またプラスティックの楽器。ここで山本さんの声に一段とハリが出る。中音域がぐわっと押し出してきて、圧倒される。

 9曲目の〈じょんがら節〉で、新節と旧節の違いを山中さんが説明する。新節はどんどん上に上がってゆくメロディ。旧節にまた新旧があり、新旧節は新節と対照的に下がってゆくメロディ。そして旧の旧節は踊りの伴奏で、とても速い。踊りの伴奏が速いというのは面白い。アイリッシュ・ミュージックでも同じで、同じダンス・チューンの演奏でも、ダンスの伴奏はとんでもなく速くなる。聴くだけの場合にはゆっくりになるのだ。

 メロディで音が上がってゆくのは、その方が華やかで明るくなるかららしい。歌謡曲やポップスに対抗して生まれてきたそうな。あたしはやはり下がってゆく、おちついたメロディの方が好み。

 お二人とも実に久しぶりに人前で演奏されるそうで、とりわけ、山本さんはパンデミックが始まって以来、ほぼ初めての由。そのせいか、この日は途中で歌詞を忘れることが再三ある。津軽民謡は歌詞で聴かせるものではなく、自由な即興の「はあ〜」や、歌詞の最後をコブシを回して延ばすところが肝なので、歌詞をまちがえたとて大勢に影響はないのだが、カラダに染みこんでいるはずの歌詞が出てこないのは唄っていて気分が悪くなるのだろう。とりわけ山本さんは稼ぐために唄うのではなく、唄うのが楽しいから唄うので、気持ちよく唄えないのはガマンならないのだ、きっと。リハーサルでは気持ちよさそうに唄っていたそうだから、この春80歳になったから物忘れがひどくなった、ということでもないだろう。

 聴衆が入っての本番はやはり緊張し、その緊張がやりがいを生む。今日はリハーサルでは乾いていた空気が、人が入るとやや湿り気を帯びる。その湿り気に気が引き締まる。しかし、本番の空白が長かったために、その緊張が仇となった、ということらしい。

 なので、来年春、捲土重来を期すことになる。あたしとしては、理由はなんであれ、このお二人の生が聴けるのなら、それもこのカーサ・モーツァルトのような小編成の生楽器や声を聴くには最高の環境で聴けるのなら、何の文句もなく、双手をあげて賛成する。

 ところでプラスティックを張った三味線である。山中さんがこれを作って公演でも使っているのには主に二つ理由がある。一つはまずプラスティックの楽器の質が上がって、人前での演奏に使ってもまったく問題ないレベルになったこと。従来は、稽古にはともかく、とても人前で弾くには耐えられなかったのだそうだ。それがここ数年で急速に良くなってきた。これを促進したのは、犬の皮そのものの入手が困難になってきたことがある。

 もう一つの理由は、比較的最近、外国人の前で演奏した時、演奏の後の質疑応答で、いつまで犬の皮を使っているのか、という質問をされたことである。これから海外に演奏に行く際、動物由来の材料を使っていることが支障をきたす原因になりかねなくなる、という判断だ。撥の鼈甲もそろそろ危ないらしい。

 海外から来た聴衆の指摘に山中さんは素早く反応したわけだが、楽器、とりわけ伝統的な楽器の材質の問題は一筋縄ではいかない。実際、犬の皮の楽器のやわらかく、低めの響きは、プラスティックではまだ出ないし、ひょっとするとついに出ないかもしれない。楽器は形だけでなく、それを作っている材料も含めて成り立つものだ。バゥロンは山羊革が伝統だが、たとえばプラスティックに替えて、あの響きが出るのか。あるいはプラスティック三味線のように、響きが変わるだろうか。すると、それは同じ楽器と言えるのか。

 それにプラスティックそのものが、今や悪者扱いされている。レジ袋はダメだが、三味線はOK、というわけにもいかないだろう。

 倫理的問題の前に、犬の皮の供給が途絶える可能性もあるらしい。三味線に張られた皮は破れるのだそうだ。いつ破れるのかはわからない。張ったばかりですぐに破れることもある。いずれにしても、使っていればいつかは必ず破れる。だから、必ず予備の楽器か皮を持っている、と山中さんは言われる。

 ちなみに、棹の方はもっとずっと長く保つが、弾いていると弦の下がえぐれてくるそうだ。溝があまりに深くなると、鉋で削って平らにしてもらう。またえぐれてくぼむ。また削る。で、だいたい30年くらいでもうこれ以上削れなくなるほど薄くなり、その楽器は役目を終える。

 一応イベントについての制限もなくなったものの、患者数はまた増えていて、第9波という声も聞え、どうもすっきりしない。それでも、このお二人の音楽、地の底からどくどく湧いてくるような音楽を浴びせかけられると、言いようのない幸福感に浸される。生きていてよかったと心底思う。これからも生きてあるかぎりは、精一杯生きようとも思えてくる。ジャンルとか、形態とかは関係ない。お二人の人間としての存在の厚みが、そこを通ってくる音楽を太く、中身がみっちり詰まったものにしている。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

山本謙之助: 唄
山中信人: 三味線, 尺八
 

 とにかく寒かった。吹きつける風に、剥出しの頭と顔から体温がどんどん奪われてゆく。このままでは調子が悪くなるぞ、という予感すらしてくる。もう今日は帰ろうかと一瞬、思ったりもした。

 この日はたまたま歯の定期検診の日で、朝から出かけたが、着るものの選択をミスって、下半身がすうすうする。都内をあちこち歩きまわりながら、時折り、トイレに駆けこむ。仕上げに、足休めに入った喫茶店がCOVID-19対策でか入口の引き戸を少し開けていて、そこから吹きこむ風がモロにあたる席に座ってしまった。休むつもりが、体調が悪くなる方に向かってしまう。

 それでもライヴの会場に半分モーローとしながら向かったのは、やはりこのバンドの生はぜひとも見たかったからだ。関西ベースだから、こちらで生を見られるチャンスは逃せない。

 デビューとなるライヴ・アルバムを聴いたときから、とにかく、生で見、聴きたかった。なぜなら、このバンドは歌のバンドだからだ。アイリッシュやケルト系のバンドはどうしてもインスト中心になる。ジョンジョンフェスティバルやトリコロールは積極的に歌をレパートリィにとりいれている。トリコロールは《歌う日々》というアルバムまで作り、ライヴもしてくれたけれど、やはり軸足はインストルメンタルに置いている。歌をメインに据えて、どんな形であれ、人間の声を演奏の中心にしているバンドは他にはまだ無い。

 キモはその音楽がバンド、複数の声からなるところだ。奈加靖子さんはソロだし、アウラはア・カペラに絞っている。バンドというフォーマットはまた別の話になる。ソロ歌唱、複数の声による歌と器楽曲のいずれにも達者で自由に往来できる。

 あたしの場合、音楽の基本は歌なのである。歌が、人間の声が聞えて初めて耳がそちらに向きだす。アイリッシュ・ミュージックでも同じで、まず耳を惹かれたのはドロレス・ケーンやメアリ・ブラックやマレード・ニ・ウィニーの声だった。マレードとフランキィ・ケネディの《北の音楽》はアイリッシュ・ミュージックの深みに導いてくれた1枚だが、あそこにマレードの無伴奏歌唱がなかったら、あれほどの衝撃は感じなかっただろう。

Ceol Aduaidh
Frankie Kennedy
Traditions (Generic)
2011-09-20

 

 歌は必ずしも意味の通る歌詞を歌うものでなくてもいい。ハイランド・パイプの古典音楽ピブロックの練習法の一つとしてカンタラックがある。ピブロックは比較的シンプルなメロディをくり返しながら装飾音を入れてゆく形で、そのメロディと装飾音を師匠が声で演奏するのをそっくりマネすることで、楽器を使わずにまず曲をカラダに叩きこむ。パイプの名手はたいてがカンタラックも上手い。そしてその演奏にはパイプによるものとは別の味がある。

 みわトシ鉄心はまだカンタラックまでは手を出してはいないが、それ以外のアイルランドやブリテン島の音楽伝統にある声による演奏はほぼカヴァーしている。これは凄いことだ。こういうことができるのが伝統の外からアプローチしている強味なのだ。伝統の中にいる人たちには、シャン・ノースとシー・シャンティを一緒に歌うことは、できるできないの前に考えられない。

 中心になるのはやはりほりおみわさんである。この人の生を聴くのは初めてで、今回期待の中の期待だったが、その期待は簡単に超えられてしまった。

 みわさんの名前を意識したのはハープとピアノの上原奈未さんたちのグループ、シャナヒーが2013年に出したアルバム《LJUS》である。北欧の伝統歌、伝統曲を集めたこのアルバムの中で一際光っていたのが、河原のりこ氏がヴォーカルの〈かっこうとインガ・リタ〉とみわさんが歌う〈花嫁ロジー〉だ。この2曲は伝統歌を日本語化した上で歌われるが、その日本語の見事さとそれを今ここの歌として歌う歌唱の見事なことに、あたしは聴くたびに背筋に戦慄が走る。これに大喜びすると同時にいったいこの人たちは何者なのだ、という思いも湧いた。

Ljus
シャナヒー (Shanachie)
Smykke Boks
2013-04-10



 みわさんの声はそれから《Celtsittolke》のシリーズをはじめ、あちこちの録音で聴くチャンスがあり、その度に惚れなおしていた。だから、このバンドにその名前を見たときには小躍りして喜んだ。ついに、その声を存分に聴くことができる。実際、堂々たるリード・シンガーとして、ライヴ・アルバムでも十分にフィーチュアされている。しかし、そうなると余計に生で聴きたくなる。音楽は生が基本であるが、とりわけ人間の声は生で聴くと録音を聴くのとはまったく違う体験になる。

 歌い手が声を出そうとして吸いこむ息の音や細かいアーティキュレーションは録音の方がよくわかることもある。しかし、生の歌の体験はいささか次元が異なる。そこに人がいて歌っているのを目の当たりにすること、その存在を実感すること、声を歌を直接浴びること、その体験の効果は世界が変わると言ってもいい。ほんのわずかだが、確実に変わるのだ。

 今回あらためて思い知らされたのはシンガーとしてのみわさんの器の大きさだ。前半4曲目のシャン・ノースにまずノックアウトされる。こういう歌唱を今ここで聴けるとはまったく意表をつかれた。無伴奏でうたいだし、パイプのドローンが入り、パイプ・ソロのスロー・エア、そしてまた歌というアレンジもいい。かと思えば、シャンティ〈Leave Her Johnny〉での雄壮なリード・ヴォーカル。女性シンガーのリードによるシャンティは、女性がリードをとるモリス・ダンシングと同じく、従来伝統には無かった今世紀ならではの形。これまた今ここの歌である。ここでのみわさんの声と歌唱は第一級のバラッド歌いのものであるとあらためて思う。たとえば〈Grey Cock〉のような歌を聴いてみたい。ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの《Broken Hearted I'll Wander》に〈Mouse Music〉として収められていて、伝統歌の異界に引きずりこまれた曲では、みわさんの声がドロレスそっくりに響く。前半ラストの〈Bucks of Oranmore〉のメロディに日本語の歌詞をのせた曲でのマジメにコミカルな歌におもわず顔がにやけてしまう。

 この歌では鉄心さんの前口上で始まり、トシさんが受ける。これがまたぴったり。何にぴったりかというと、とぼけぶりがハマっている。鉄心さんの飄々としたボケぶりとたたずまいは、いかにもアイルランドの田舎にいそうな感覚をかもしだす。村の外では誰もしらないけれど、村の中では知らぬもののいないパイプとホィッスルの名手という感覚だ。どんな音痴でも、音楽やダンスなんぞ縁はないと苦虫を噛みつぶした顔以外見せたことのない因業おやじでも、その笛を聴くと我知らず笑ったり踊ったりしてしまう、そういう名手だ。

 鉄心さんを知ったのは、もうかれこれ20年以上の昔、アンディ・アーヴァインとドーナル・ラニィが初めて来日し、その頃ドーナルと結婚していたヒデ坊こと伊丹英子さんの案内で1日一緒に京都散策した時、たしか竜安寺の後にその近くだった鉄心さんの家に皆で押しかけたときだった。その時はもっぱらホィッスルで、パイプはされていなかったと記憶する。もっとも人見知りするあたしは鉄心さんとはロクに言葉もかわせず、それきりしばし縁はなかった。名前と演奏に触れるのは、やはりケルトシットルケのオムニバスだ。鞴座というバンドは、どこかのほほんとした、でも締まるところはきっちり締まった、ちょっと不思議な面白さがあった。パンデミック前にライヴを見ることができて、ああ、なるほどと納得がいったものだ。

The First Quarter Moon
鞴座 Fuigodza
KETTLE RECORD
2019-02-17



 この日使っていたパイプは中津井真氏の作になるもので、パンデミックのおかげで宙に浮いていたものを幸運にも手に入れたのだそうだ。面白いのはリードの素材。本来の素材であるケーンでは温度・湿度の変化が大きいわが国の風土ではたいへんに扱いが難しい。とりわけ、冬の太平洋岸の乾燥にあうと演奏できなくなってしまうことも多い。そこで中津井氏はリードをスプルースで作る試みを始めたのだそうだ。おかげで格段に演奏がしやすくなったという。音はケーンに比べると軽くなる。ケーンよりも振動しやすいらしく、わずかの力で簡単に音が出て、その分、音も軽くなる由。

 これもずいぶん前、リアム・オ・フリンが来日して、インタヴューさせてもらった時、パイプを改良できるとしたらどこを改良したいかと訊ねたら、リードだと即答された。アイルランドでもリードの扱いには苦労していて、もっと楽にならないかと思い、プラスティックのリードも試してはみたものの使い物にはならない、と嘆いていた。もし中津井式スプルース・リードがうまくゆくとすれば、パイプの歴史に残る改良になるかもしれない。少なくとも、温度・湿度の変化の大きなところでパイプを演奏しようという人たちには朗報だろう。鉄心さんによれば、中国や韓国にはまだパイパーはいないようだが、インドネシアにはいるそうだ。

 鉄心さんのパイプ演奏はレギュレーターも駆使するが、派手にするために使うのではなく、ここぞというところにキメる使い方にみえる。時にはチャンターは左手だけで、右手でレギュレーターのレバーをピアノのキーのように押したりもする。スプルースのリードということもあるのか、音が明るい。すると曲も明るくなる。

 パイプも立派なものだが、ホィッスルを手にするとまた別人になる。笛が手の延長になる。ホィッスルの音は本来軽いものだが、鉄心さんのホィッスルの音にはそれとはまた違う軽みが聞える。音がにこにこしている。メアリー・ポピンズの笑いガスではないが、にこにこしてともすれば浮きあがろうとする。

 トシさんが歌うのを初めて生で聴いたのは、あれは何年前だったか、ニューオーリンズ音楽をやるバンドとジョンジョンフェスティバルの阿佐ヶ谷での対バン・ライヴの時だった。以来幾星霜、このみわトシ鉄心のライヴ・アルバムでも感心したが、歌の練度はまた一段と上がっている。後半リードをとった〈あなたのもとへ〉では、みわさんの一級の歌唱に比べても、それほど聴き劣りがしない。後半にはホーミーまで聴かせる。カルマンの岡林立哉さんから習ったのかな。これからもっと良くなるだろう。

 そもそもこのバンド自体が歌いたいというトシさんの欲求が原動力だ。それも単に歌を歌うというよりは、声による伝統音楽演奏のあらゆる形態をやりたいという、より大きな欲求である。リルティングやマウス・ミュージックだけでなく、スコットランドはヘブリディーズ諸島に伝わっていた waulking song、特産のツイードの布地を仕上げる際、布をテーブルなどに叩きつける作業のための歌は圧巻だった。これが元々どういう作業で、どのように歌われていたかはネット上に動画がたくさん上がっている。スコットランド移民の多いカナダのケープ・ブレトンにも milling frolics と呼ばれて伝わる。

 今回は中村大史さんがゲスト兼PA担当。サポート・ミュージシャンとしてバンドから頼んだのは、「自由にやってくれ」。その時々に、ブズーキかピアノ・アコーディオンか、ベストと思う楽器と形で参加する。こういう時の中村さんのセンスの良さは折紙つきで、でしゃばらずにメインの音楽を浮上させる。それでも、前半半ば、トシさんとのデュオでダンス・チューンを演奏したブズーキはすばらしかった。まず音がいい。きりっとして、なおかつふくらみがあり、サステインもよく伸びる。楽器が変わったかと思ったほど。その音にのる演奏の闊達、新鮮なことに心が洗われる。このデュオの形はもっと聴きたい。ジョンジョンフェスティバルでオーストラリアを回った時、たまたまじょんが不在の時、2人だけであるステージに出ることになったことを思い出してのことの由。この時の紹介は "Here is John John Orchestra!"。

 みわトシ鉄心の音楽はあたしにとっては望むかぎり理想に最も近い形だ。ライヴ・アルバムからは一枚も二枚も剥けていたのは当然ではあるが、これからどうなってゆくかも大変愉しみだ。もっともっといろいろな形の歌をうたってほしい。日本語の歌ももっと聴きたい。という期待はおそらくあっさりと超えられることだろう。

 それにしても、各々にキャリアもあるミュージシャンたち、それも世代の違うミュージシャンたちが、新たな形の音楽に乗り出すのを見るのは嬉しい。老けこむなと背中をどやされるようでもある。

 是政は西武・多摩線終点で、大昔にこのあたりのことを書いた随筆を読んだ記憶がそこはかとなくある。その頃はまさに東京のはずれで人家もなく、薄の原が拡がっていると書かれていたのではなかったか。今は府中市の一角で立派な都会、ではあるが、どこにもつながらず、これからもつながらない終着駅にはこの世の果ての寂寥感がまつわる。

 会場はそこからほど近い一角で、着いたときは真暗だから、この世の果ての原っぱのど真ん中にふいに浮きあがるように見えた。料理も酒もまことに結構で、もう少し近ければなあと思ったことでありました。

 帰りは是政橋で多摩川を渡り、南武線の南多摩まで歩いたのだが、昼間ほど寒いとは感じず、むしろ春の匂いが漂っていたようでもある。風が絶えていた。そしてなにより、ライヴで心身が温まったおかげだろう。ありがたや、ありがたや。(ゆ)

みわトシ鉄心
ほりおみわ: vocals, guitar
トシバウロン: bodhran, percussion, vocals
金子鉄心: uillean pipes, whistle, low whistle, vocals

中村大史: bouzouki, piano accordion
 

 昨年11月、In F 以来のこのユニットのライヴ。

 始まってまずぱっと湧いたのが、音がいい。shezoo さんの左手が明瞭に聞える。それに乗る右手も鮮やかだ。なんでも、ピアノを替えられたそうで、その評判がとても良いとのことだが、確かによく鳴る。気持ちよく鳴る。音楽の表情が細かいところまで無理なく、とりわけ集中しなくても聞えてくる。音の粒立ちがあざやか。楽器が良いからといって音楽が良くなる保証はないが、shezoo さんのような人が弾けば、楽器と演奏者の相乗効果は大きい。

 ついでに言えば、shezoo さんは言うところの名手というわけではたぶん無い。テクニカルではもっと巧い人はたぶんたくさんいるだろう。もちろんヘタなはずはなく、自分が描いた音、音楽を引き出す技量は十分だ。それよりも音楽を、楽器を歌わせることが巧い。良い楽器はもちろんだが、それほど条件が揃わない時でも、そこからベストないしそれ以上のものを引き出せる。また、各々の状況に合わせて弾くのも巧い。ここぞと思えばどんどん突込んでゆくし、退き時と判断すれば、すっと引込む。あるいは、『マタイ』の時のように、指揮のための演奏に徹することもできる。それが名人というものだ、と言われれば、別に否やはない。

 石川真奈美さんの声もいい。綺麗に聞える。もともと綺麗なのが、一層綺麗に聞える。こちらも細かいところ、節回しの複雑なところ、拳を握るところ、力を抜くところ、いちいち、よくわかる。声域の広さ、色の多彩さと鮮かさもよくわかる。どうも PA が良いということらしい。PA が良いことは大事だ。その音の良し悪しは全体の出来にもつながる。

 ノーPAにはノーPAの良さがある。ただベルカントだったらあたしは聴きに来ない。ベルカントはどうにも苦手だ。人間の出す声とも思えない。だから、shezoo さんの『マタイ』はあたしにとって理想の音楽になる。クラシックの発声法ではない、しかし一級のシンガーたちによるからだ。

 今回はバッハは封印。月末に『ヨハネ』が予定されていることでもあるし、バッハが無いことは後になって気がついたくらい、充実したプログラムでもあった。

  中心は shezoo さんが、ここ数年横浜・エアジンでやっている「七つの月」と題されたイベントのために書いた曲。7人のシンガーに shezoo さんが各々にふさわしいアンサンブルを仕立てて歌ってもらう。1曲は新曲を書く。今年も9月に予定されている。そうだ、予約をしなくては。ただ、ヘッドフォン祭がそのど真ん中に入ってしまっているので、一番聴きたい人が聴けない。うぇーん。
 
  オープナーはクルト・ワイルの曲に shezoo さんが詞をつけた〈窓に雨、瞳に涙〉で、ここの間奏のピアノがまず良い。そう、今回は shezoo 流インプロはほとんどなく、大半の間奏がシンプルな音やフレーズを重ね、連ねる形。ピアノの音の良さが引き立つし、またそれが即興の美しさを引き立てる。ピアノのせいか。それとも、アレのせいか、と1人にやにやしてしまう。まあ、いろいろであろう。たまたま、虫の居所がそういう具合だったとか。
 
 3曲目の〈サマータイム〉がまずハイライト。緊張感漲る歌唱に吸いこまれる。その次、shezoo さんの〈窓にかかる空の絵〉の、高く伸びる声に空高く引きあげられる。続く〈悲しい酒〉がさらに良い。前半クローザーの〈終りは始まり〉で、ピアノの左手が常に一定のビートを刻んで、右手が歌の裏で細かいフレーズを小さくつけてゆくのがたまらん。
 
 後半オープナーの〈鏡のない風景〉はライヴでしか聴いたことがないが、今回あらためて名曲と認識する。ピアノが歌にぶつかってゆき、歌を高くはじき出す。連の最後の「いない」の力の抜き方に背筋がぞくぞくする。ここでも間奏のピアノは激することなく、シンプルに坦々とうたう。

 この歌はハンセン病患者が霊感の元だそうだが、より普遍的な歌になっている。自閉症スペクトラムの人の歌にも聞えるし、病気とは別の、自分ではどうしようもない様々な理由から孤立してしまう人の歌にも聞える。たとえば京アニ事件の犯人やその親族の人びとにもあてはまろう。

 エミリー・ディキンスンの〈When night is almost done〉では、ピアノの音の粒がことさらに輝き、その次〈星影の小道> のちの想いに〉がハイライト。まさに、木立ちの中にほのかに光る小道が1本、伸びている。コーダでピアノがぱらんぽろんと小さく音を散らし、そこへシンガーの声がハモるのにうっとり。次の〈からたちの花〉で、この日唯一の shezoo 流インプロが出て、石川さんも声で合わせる。山肌にもくもくと雲が湧きでて、尾根を越えてなだれ落ちてゆく風情。
 
  アンコールの〈The Rose〉に意表を突かれる。ベット・ミドラーのあれを、ごくごくしっとりと、抑えに抑えて、静かに歌う。絶品。
 
 まだ、ライヴを聴くカラダにこちらがなっていない。生の声と音にただただ聴きほれてしまう。生を聴いているというだけで陶然としてしまう。『ヨハネ』ではもう少し受けて立てるようにしたいとは思うものの、どうなるか。
 
 週末の夜の中野はこれからが本番という感じ。駅までのほとんどの店が満員か、それに近い。COVID-19感染者数はどんどんと増えているが、気にしている人など誰もいないようだ。死んでいないからだろうか。なんとなく腑に落ちないところもあるが、すばらしいライヴの余韻はそういうものも吹き消してくれる。(ゆ)

みみたぼ
石川真奈美: vocal
shezoo: piano

セット・リスト
01. 窓に雨、瞳に涙
02. 雨が見ていた景色
03. Summer Time
04. 窓にかかる空の絵>
05. 悲しい酒
06. 終りは始まり

07. 鏡のない風景
08. When night is almost done
09. 星影の小道>
10. のちの想いに
11. からたちの花
12. ひとり林に

Encore
The Rose

2022-07-01, Sweet Rain, 中野, 東京

0119日・水

Flying Into Mystery
Moore, Christy
Sony Music
2021-11-19

 

 2016年の《Lily》以来のオリジナル録音。この間、2017年に《On The Road》、2019年に《Magic Nights》のライヴ盤を出し、2020年にはファースト《Paddy On The Road》からのセレクションも含む初期の選集盤《The Early Years 1969-81》を出した。
 ライヴ盤は長いキャリアの中でもベストと言えるメンバーのバンドに支えられて、全キャリアでもベストの歌唱と思えるものばかりで、しかも、成熟とか、大成とか言う年齡の属性をカケラも感じさせない、瑞々しく力強いパフォーマンスに、あたしとしてはかつは驚嘆し、かつは喜んだものだ。この2枚は現在は一つのパッケージで売られていて、もしこれからクリスティの音楽を聴こうというのなら、まず真先に薦める。むろん、プランクシティから聴いてもまったくかまわないが、この2枚のライヴには、この不世出のシンガーが行きついた最高の姿が現れている。

Magic Nights on the Road
Moore, Christy
Sony Music
2019-11-22

 

 このアルバムはライヴに現われた元気一杯なうたい手を期待すると肩透かしをくう。この人は複雑なことを一見シンプルにうたった歌をストレートに聴かせるのが巧い。ストレートに聞えるからと、中身もシンプルだと気楽に構えると、どこか納得できないところが残る。後味がよくなくなる。もっとも、後味がよくないことが、この人の歌の、とりわけソロの歌の最大の魅力とも言えるだろう。これがプランクシティやムーヴィング・ハーツのようなバンドになると、違ってくる。

 何よりもこの人の声は耳に快いものではない。といって不快なわけではないが、執拗にまとわりつく。否応なく耳に入ってくる。とりわけ、今回のように、ほとんど声を上げず、しゃべるように、あるいは囁くように歌うときにはなおさらだ。初めはクリスティもついに老いたか、と思ったのだが、聴いてゆくとそうではないと納得される。こういう声しか出ないから、やむをえず、これで歌っているわけではない。故意に抑えて、こういう歌い方を選んでいる。アルバム全体の基調として選んだのか。それとも、個々の歌に合わせて選んでいるうちに、たまたまそういうものが集まったのか。あるいはその中間か。いずれにしても、終始声を上げないこのアルバムは、そのために聴く者に耳をそばだてさせる。するりと耳に入り、入った先で重くなる。

 バックのアレンジももっぱらこの声を引き立たせることをめざす。数曲、別録音でキーボードとストリングスが加えられているのも、あくまでも背景に徹する。全体として、各々の曲にふさわしい背景を配して、声を前面に出す。これならクリスティのギター1本でもいいように思えるが、そうなると今度はギターが声と拮抗してしまうのだろう。むしろ、歌によって背景の色を少しだが明瞭に変えることで、各々の歌の性格を押しだし、アルバムとして聴くときの流れを作っている。

 クリスティは公式サイトに全曲の歌詞とノートをアップしている。アルバムのライナーの PDF もある。もっともそこに書かれている各曲のノートは個別の歌詞のページに載っているものと同じではある。これを読み、歌詞を味わいながら聴いていると、歌の一つひとつが、各々の重みをもって、胸の内に沈潜してくる。ライヴ盤を聴くのとは対照的な経験だ。

 選曲は例によって、同時代の問題意識と、個人的に惹かれるものごと、現象へのオマージュのバランスがとれている。なんとも巧い。そして、底に流れるユーモアのセンス。アイルランド人のユーモアのセンスには、底意地が悪いとしかみえないものも時にあるが、そういう要素もちゃんと入っている。かれがアイルランドで絶大な人気を得ている、人間国宝とでも言うべき存在なのは、たぶんそこではないか。

 ある晩、ゲイリー・ムーアの音楽をずっと聴いてゆくうちに、深夜、この歌が現れた、と言ってとりあげた曲から、ディランの詩を伝統曲のメロディに乗せてうたうラストまで、一気に聴くべきものではないだろう。1曲聴いてため息をつき、また1曲聴いてお茶を(あるいはコーヒーでもワインでも)すすり、さらに1曲聴いて、満月を見あげる。たっぷりと時間をとって、味わいたい。あるいはこれと思い当たった曲をくり返し聴いてもいい。傑作とか名盤とか呼ばれることを喜ぶ境地はかれのアルバムはすでにずっと昔に卒業している。

 サポート陣ではシェイミー・オダウドが例によって手堅い仕事をしている。そして息子のアンディがつけるコーラス顔がほころぶ。


Christy Moore: vocals, guitar

Jim Higgins: percussion, organ

Seamie O'Dowd: guitars, harmonica, bouzouki, mandolin, fiddle, banjo, bass, chorus

Andy Moore: chorus

Gavin Murphy: keyboards, orchestral arrangements

Mark Redmond: uillean pipes

James Blennerhassett: double bass


[12 Tracks ]

01. Johnny Boy {Gary Moore} 3:12

02. Clock Winds Down {Jim Page} 2:21

03. Greenland {Paul Doran} 4:43

04. Flying Into Mystery {Wally Page & Tony Boylan} 2:30

05. Gasun {Tom Tuohy & Ciaran Connaughton} 3:02

06. All I Remember {Mick Hanly} 3:01

07. December 1942 {Ricky Lynch} 4:39

08. Van Diemen's Land {Trad.} 3:57

09. Bord Na Mona Man {Christy Moore} 3:41

10. Myra’s Caboose {Trad.} 3:20

11. Zozimus & Zimmerman {Christy Moore & Wally Page} 3:33

12. I Pity The Poor Immigrant {Bob Dylan+Trad.} 3:38


Produced by Christy Moore, Jim Higgins

Recorded by David Meade

Additional Recording by Gavin Murphy

Mixed by David Meade

Mastered by Richard Dowling @ Wav Mastering, Limerick

Artwork by David Rooney

Designed by Paddy Doherty



##本日のグレイトフル・デッド

 0119日には30年間で一度もショウをしていない。年間に4日あるうちの一つ。すなわち、

0109

0119

0229日)

0809

1225

 30年間に7回ある閏0229日にもショウはしていない。最後のものを除いて偶然だろうか。それにしてはきれいに9の日が並んでいるのは不思議にも不気味にも思える。もっとも、デッドの場合、こういうシンクロニシティは少なくない。(ゆ)


1228日・月

 アイルランド伝統音楽のソース・シンガーの中でおそらく最も有名で、後世への影響も大きいエリザベス・クローニン(1879-1956)の歌集が20年ぶりに改訂された。編纂しているのは孫の Daibhi O Croinin

The Songs of Elizabeth Cronin, Irish Traditional Singer: The Complete Song Collection
O'cronin, Daibhi
Four Courts Pr Ltd
2021-10-29






 ベスと呼ばれたクローニンはコークのゲールタハトに生まれ、母親から歌好きを継いで育つ。この一帯はもともと歌謡伝統の濃いところで、19世紀から採集家が多数訪ずれた。ベスはシェイマス・エニスはじめ、様々な採集家の対象となる。アラン・ロマックスも録音し、さらにジーン・リッチーが録音したことで広く知られるようになる。


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 ベスの録音としては130トラックほど残っているそうで、ここでは RTEBBC、ロマックス、リッチー、ダイアン・ハミルトンによる録音59トラックを2枚のCDに収めて付録としてある。音質劣化で使えないものを別として、音楽的、伝統的に興味深いものを選んだそうだ。録音年代はシンガー晩年の1947年から1955年の間。録音場所はいずれもベスの自宅。

 本の方はベスが残した歌の歌詞を集めた。ベスが何らかの形で書き残したもので、そのすべてをいつでも歌えたわけではないだろうし、そもそも全部を覚えたわけでもないだろう。覚えたいと思って書きとめたものもあると思われる。とにもかくにも、ベス・クローニンというシンガーが自分の手で書くだけの価値があると認めた歌、ということになる。総数196曲。
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 巻頭のエッセイはベス・クローニンのバイオグラフィではなく、彼女が生まれ育ったコークのゲールタハトの一つ Baile Mhuirne (Ballyvourney) 一帯を訪ずれた歌の採集家たちを後づける。つまりベスの歌の背景を採集家という角度から描こうとする。

 また、ベスが歌を習った、覚えた対象と方法も推測する。ここで面白いのは、ベスには歌の好みがあって、中には冒頭の2、3連しか覚えていない曲もある。これは当然のことであって、伝統的シンガーは全曲を覚える必要も義務も無い。歌いたいと思った歌の歌いたいところだけ覚える。ベス・クローニンに限らない。パーシー・グレインジャーが録音したことで有名なイングランドの Joseph Taylor の〈The Murder of Maria Marten〉も、実際に歌われ、録音されたのは最初の2連だけだ。テイラーはそれしか覚えていなかった。アシュリー・ハッチングスはこの曲をシャーリー・コリンズに《No Roses》で歌わせるにあたって、メロディはグレインジャーによるテイラーの録音のものを使い、歌詞は様々なソースから組みたてた。

 収録された歌には英語とアイルランド語の両方があり、タイトルのアルファベット順に混在して並べられている。録音があるものは楽譜も付く。アイルランド語の歌には英語で内容の要約が添えられる。歌のその他の注釈は録音のあるものはその注記、既存の歌集に収録がある場合はその書誌情報と比較。

 20年前の初版では編者が曲につけた注釈とCD収録の実際の録音の間にかなりの齟齬があった。様々な制約から本文とCDの制作が別々に行われ、編者はCDの最終形を聞かずにテキストを書いていたためだそうだ。その事情が第2版の序文に丁寧に書かれている。とすれば、まずはそのあたりもきちんと訂正され、わずか6曲だが追加されたこの第2版を買えばいいわけだ。とまれ、アイルランド伝統歌謡の最重要シンガーの1人であるベス・クローニンの全貌にこれで容易に接することができる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1228日には1966年から1991年まで、17本のショウをしている。この数字は365日の中で2番目に多い。公式リリースは4本。うち完全版1本。


01. 1966 Governor's Hall, Sacramento, CA

 Beaux Arts Ball と題されたイベント。共演クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス。前売3ドル、当日3.50ドルというポスターと2ドルというポスターがある。3種残っているポスターのどれにも開演時刻が書いていない。セット・リスト不明。

 会場はデッドのみならず、多数のロック・アクトがコンサートをしている。が、施設の実態はよくわからない。旧California State Fairgrounds にあった由。


02. 1968 The Catacombs, Houston, TX

 2021日とロサンゼルスで演奏した後、29日のマイアミ・ポップ・フェスティヴァル出演に向かう途中、ここに立ち寄った。会場は300人も入れば満杯のクラブで、当時22歳以上の人間は入れなかった。第一部は夏に出た《Anthem Of The Sun》をほとんどそのまま演奏し、第二部では〈Dark Star> The Eleven> Dark Star〉を延々とやった。とあるブログに述べる。


03. 1969 International Speedway, Hollywood, FL

 ヴェニューの名前は実際には Miami-Hollywood Speedway の由。1時間半のテープがあるが、全部ではないらしい。


04. 1970 Legion Stadium, El Monte, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。この後は大晦日のショウ。オープナーの〈Cold Rain And Snow〉が2010年、最初の《30 Days Of Dead》でリリースされた。


05. 1978 Golden Hall, San Diego Community Concourse, San Diego, CA

 このヴェニュー2日連続の2日目。


06. 1979 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。《Road Trips, Vol. 3, No. 1》で全体がリリースされた。

 この頃はまだ会場の外でデッドヘッドたちはキャンプできた。朝、プロモーターの Bill Graham Presents のスタッフがキャンパーたちに熱いスープを提供していた。

 オープナーが〈Sugaree〉でいきなり15分の演奏。こういう稀なセレクションの時はバンドの調子が良い証拠。実際ダブル・アンコールの2曲目〈One More Saturday Night〉まで、気合いの入った、充実したショウ。〈Space〉は短かいが、その前の Drums で二人が大太鼓を叩きまくる迫力は、この二人でも滅多に聞けない。ミドランドはすっかりアンサンブルに溶け込み、冴えたキーボード・ワークで全体を盛りあげる。オルガンもいいが、ぽろんぽろんという電子音がここでは利いている。ガルシアのギターはジャズとしかいいようがない。が、ジャズと違ってデッドのジャムは他の全員がサポートに回るソロの形をとらない。むしろ、全員がたがいにからみあう。ガルシアのギターはほとんど混沌としたその中に筋を通してゆく。

 この年は正月5日からツアーに出ているし、ガチョー夫妻からブレント・ミドランドへの交替があり、ショウの総数としては75本だが、長い1年だった。それを締め括るランのベストのショウと言われる。


07. 1980 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。第二部半ば〈Terrapin Station〉の途中でバンド全体がステージに乗って、どこやら外宇宙からちょうど着陸した、という幻影が見えた、と Robin Nixon DeadBase XI で書いている。照明と音楽と精神状態の合作らしい。


08. 1981 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。


09. 1982 Oakland Auditorium, Oakland, CA

 大晦日に向けての5本連続のランの中日。13.50ドル。開演8時。第一部3曲目の〈El Paso〉は作者 Marty Robbins が死んで最初の演奏。


10. 1983 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2日目。開演8時。


11. 1984 San Francisco Civic Center, San Francisco, CA

 大晦日に向けての3本連続のランの初日。開演8時。


12. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2日目。開演8時。


13. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2日目。17.50ドル。開演7時。


14. 1988 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての3本連続のランの初日。開演7時。トム・トム・クラブ、Peter Apfelbaum & Hieroglyphics Ensemble が前座。第二部6曲目〈Uncle John's Band〉が2011年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、2018年の《30 Days Of Dead》で Uncle John's Band> I Need A Miracle〉の形でリリースされた。

 UJB はわずかに前のめりのテンポ。ミドランドのハーモニーはあふれてくるものを押えられない。クロイツマンがいくらか冷静にビートをキープする一方で、ハートも噴き出すものをそのまま音にする。最後のコーラスが終った途端、空気が切り替わり、一瞬、どちらへ行くかわからぬまま屹立して次の瞬間、ほとんど凶暴なギターをガルシアがくりだして INAM。ここでのウィアはシンガーとして一級と言っていい。これはもう嘆願、祈りの歌ではない。脅迫すれすれ。いや、奇跡はもらうものではない、自ら起こすものだという宣言だ。UJB ではかろうじて押えこまれていたものが、爆発している。会場のコーラスは驚くほど歯切れが良い。

 Peter Apfelbaum 1960年バークリー生まれのマルチ・インストルメンタリスト、作曲家。楽器はピアノ、テナー・サックス、ドラムス。Hieroglyphics Ensemble はベイエリア出身のミュージシャンたち17人で編成したビッグ・バンド。1990年代にはドン・チェリーと共演している。トレイ・アナスタシオやフィッシュのアルバムにも参加。


15. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2本目。20ドル。開演7時。第一部2曲目〈Feel Like A Stranger〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 まずウィアの歌唱に気合いが入っている。ガルシアのギターとミドランドの鍵盤がこれに応える。いいジャムが続いて、後半、"Long, long, crazy night" とミドランドが入ってきてからのウィアとの掛合いが粋。"loooooooooooooooooooooooooooooong” と思いきり引っぱって、"long, crazy night" と合わせる。こういうところ、ミドランドにして初めて可能な洗練された野生だ。

 この89年後半から1990年春にかけてのデッドの3度目のピークは、空前にして絶後、デッドだけでなく、およそ20世紀の音楽において他に類例も比肩もできるものはない。あえて言えば、マイルスの『ダーク・メイガス』からの三部作をも凌ぐ。


16. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2本目。22.50ドル。開演7時。


17. 1991 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 大晦日に向けての4本連続のランの2本目。開演7時。(ゆ)


1121日・日

 A&C オーディオのヒッポさんがブログで大貫妙子&坂本龍一『UTAU』と井筒香奈江『レイドバック 2018』のミキシングの違いを指摘しているのを見て、Apple Music on iPad mini + AirPods Pro で聴いてみる。これはヒッポさんの言う「位相周りの良い」システムではないが、それでも違いはわかる。
 確かに大貫の声も坂本のピアノもごく自然で、生で聴いている感覚。

 井筒のはピアノの音がおかしい。生で聴いて、こんな風に聞えたことはない。ヒッポさんがピアノの中に頭を突込んだようだというのは言い得て妙だ。それに声とピアノとベースが全部1ヶ所に、つまり同じ空間を同時に占めているように聞える。音量のレベルも全部同じ。生ならPAを通してもこんな風に聞えることはない。おまえの耳がおかしいのだと言われるかもしれないが、あたしならこれを優秀録音とは言わない。 

 いずれにしても、これがリファレンスだというオーディオ評論家の評価は、あたしも聴いてみればなるほどそうだと思うものでは無いことは確かだ。そういう意味ではわかりやすい指標になる録音ではある。これをリファレンスとして書いていることの反対だと思えばいいわけだ。

 歌も大貫と井筒ではだいぶ差がある。井筒は声は出せるようだが、アーティキュレーションが甘い。または歌詞の読みこみが不足。聴いていて、つまらない。念のため、3曲聴いてみるが、それ以上聴きつづける気が失せる。

 大貫&坂本はCDを買おう。

UTAU(2枚組)
大貫妙子 & 坂本龍一
commmons
2010-11-10




##本日のグレイトフル・デッド

 1121日には1969年から1985年まで5本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1969 Building A, Cal Expo, Sacramento, CA

 KZAD 開局記念日パーティー。前売6.50ドル、当日7ドル。開場6時、開演8時、終演午前1時。共演 A B SkhyCountry Weather, Commander Cody Wildwood

 このショウの第二部のテープは SBD、サウンドボード録音としてテープ交換網に出回った最初のものと言われる。

 Country Weather 1966年サンフランシスコ郊外 Walnut Creek The Virtues として結成され、67年に改名。アヴァロン・ボールルーム、フィルモア、ウィンターランドなどでサンフランシスコ・シーンのアクトの前座を勤めた。

 Commander Cody はその後、& His Lost Planet Airmen など様々な名前のバンドを率いて知られるようになる。本名は George Frayne でアイダホ出身。今年9月、ニューヨーク州で死去。

 Wildwood は調べがつかず。デッドの前身のブルーグラス・バンドの一つに Wildwood Boys があるし、この名前のバンドはいくつもある。 


2. 1970 Sargent Gym, Boston University, Boston, MA

 3.50ドル。偽造チケットが発覚し、開演が遅れる。セット・リストは曲順がはっきりしない。DeadBase XI SetList Program を合わせると〈That's It for the Other One〉を1曲と数えて9曲やっている。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。DeadBase XI はまた "a chimp act" が前座をした、とする。どんなものなのだろう。猿回し? 同じく DeadBase XI Thomas Flannigan のレポートでもよくわからない。セット・リストでは〈That's It for the Other One〉とされているところ、フラニガンは〈Not Fade Away〉としている。

 タダで入ろうと押し込んだ連中を警官隊が排除し、騒動になる。ボストンの警察でも最も手強い群衆を相手にする黒人からなる警官隊が動員された。

 デッドが出てきたのはすでに10時。最初の4曲はこともなく終り、休憩が入って、再び出てきたデッドは〈Good Lovin'〉をやり、会場は爆発する。その次に〈Dancing in the Street〉をやり、これには黒人の警官隊もガードマンたちも踊った。この曲もセット・リストには無い。さらに〈St. Stephen〉〈Not Fade Away〉と続いて、ラストは〈Uncle John's Band〉。喝采は止まなかったが、とうとうクルーが出てきて、バンドはくたびれてもう終りと宣言。


3. 1973 Denver Coliseum, Denver, CO

 このヴェニュー2日目。《Road Trips, Vol. 4, No. 3》で全体がリリースされた。

 〈Me And My Uncle〉は演奏回数1位だがオープナーは珍しい。どの曲もよい演奏だが突破しているところはなかったのが〈They Love Each Other〉でがらりと変わる。リズミカルに、弾むようなビートに乗って歌われるのは新鮮。〈Here Comes Sunshine〉がまたすばらしい。以後、〈Big River〉〈Brokedown Palace〉〈Weather Report Suite〉とハイレベルの演奏が続く。

 1973年は72年のような、決定的名演、突出した瞬間はあまりないのだが、全体として中身の詰まった、水準の高い演奏が、どの曲でも変わらないところがある。


4. 1978 Community War Memorial Auditorium, Rochester, NY

 7.50ドル。開演7時。第一部最後の〈Deal〉で、ガルシアは最後のリフレイン"Don't you let that deal go down."34回繰返した由。


5. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。3日連続の中日。第一部はそこそこ、第二部が良かった由。

 この日、開演前、ステージ裏のドアがビールの樽を入れるために開けられ、会場は凍りついた。この日は寒かった。ビールの樽はステージ裏のバーのためだったが、ここでは酒を売る免許をとっていないことを、酒類販売取締りの担当者が発見し、以後、代金は受けとれなくなった。(ゆ)


 みみたぼはシンガーの石川真奈美さんとピアノの shezoo さんのデュオ。あたしは初体験だが、もう4年やっているのだそうだ。「みみたぼ」って何だろうと思ったら、「みみたぶ」と同じ、と辞書にある。どういう訛かわからないが、みみたぶではユニットの名前にはならないか。

 歌とピアノは対等に会話するが、ピアノが歌を乗せてゆくこともある。逆はどうだろう。やはり難しいか。一方で、ピアノが歌に反応することはありそうだし、実際そう聞える瞬間もある。そういう瞬間を追いかけるのも愉しそうだ。次はそうしてみよう。今回2人のからみが一番良かったのは、後半最初のリチャード・ロジャースの〈Blue Moon〉。

 歌は石川さんのオリジナル、shezoo さんのオリジナル、ジャズのスタンダード、バッハ、歌謡曲。この振幅の大きさがいい。

 中でもやはりバッハはめだつ。石川さんも参加した2月の『マタイ』で歌われた曲。あの時の日曜日の方を収録した DVD がもうすぐ出るそうだ。いや、愉しみだ。あれは生涯最高の音楽体験だった。生涯最高の音楽体験はいくつかあるけれど、その中でも最高だ。今、ここで、『マタイ』をやることの切実さに体が慄えた。その音楽を共有できることにも深く歓んだ。DVD を見ることで、あの体験が蘓えるのが愉しみなのだ。石川さんもあれから何度か、いろいろな形でこの歌を歌われてきた、その蓄積は明らかだ。それはまた次の『マタイ』公演に生きるだろう。

 バッハの凄さは、どんな形であれ、その歌が歌われている時、その時空はバッハの時空になることだ。クラシックの訓練を受けているかどうかは関係ない。何らかの形で一級の水準に達している人が歌い、演奏すれば、そこにバッハの時空が現出する。

 その次のおなじみ〈Moons〉が良かった。石川さんはもちろん声を張って歌うときもすばらしいが、この日はラストに小さく消えてゆく、その消え方が良かった。消えそうで消えずに延ばしてゆく。『マタイ』の前のエリントンもそうだし、この〈Moons〉、そしてホーギー・カーマイケルの〈Skylark〉。

 ここでは封印していた?インプロが出る。でも、いつものように激しくはならない。音数が少なく、むしろ美しい。

 shezoo 流インプロが噴出したのは後半2曲目〈Blue Moon〉の次の〈砂漠の狐〉。これが今回のハイライト。いつもよりゆっくりと、丁寧に歌われる。グレイトフル・デッドもテンポが遅めの時は調子が良いけれど、こういうゆったりしたテンポでかつ緊張感を保つのは簡単ではないだろう。ラスト、ピアノが最低域に沈んでゆくのにぞくぞくする。

 エミリー・ディキンスンの詩におふたり各々が曲をつけたのも面白かったが、ラストの立原道造の〈のちの想いに〉に shezoo さんが曲をつけたものが、とりわけ良かった。声がかすれ気味なのが歌にぴったり合っていた。

 アンコールの歌謡曲〈星影の小道〉が良かったので、終演後、服部良一の〈昔のあなた〉をリクエストする。雪村いづみがキャラメル・ママをバックに歌った《スーパージェネレーション》で一番好きな曲。歌詞もメロディも雪村の歌唱も、そしてバックも完璧。〈胸の振子〉もいいけれど、このデュオには〈昔のあなた〉の方がなんとなく合う気がする。

スーパー・ジェネレイション
雪村いづみ
日本コロムビア
1994-11-21


 このアンコール、ア・カペラで歌いだし、ピアノに替わり、そしてピアノとうたが重なる、そのアレンジに感じ入る。

 shezoo さんは以前はインストルメンタルが多かったけれど、ここ数年はシンガーとつるむことが多くなっているのは嬉しい。いいうたい手を紹介してもらえるのもありがたい。願わくは、もっと録音を出してくれますように。配信だけでも。(ゆ)


1009日・土

 shezoo さんが猛烈に誘うので「音楽×空間 第3回公演」に、原宿に出かける。いやもう、確かにこれは聴けたのはありがたい。また一人、追っかける対象が増えた。

 この企画は作曲家の笠松泰洋氏が高橋、shezoo デュオのライヴを見て、自分の曲も歌ってほしいともちかけて始まった由。笠松氏もオーボエ始め、各種リード楽器で参加する。細かいフレーズは吹かず、ドローンや、ゆったりしてシンプルなメロディを奏でる。曲によっては即興もされていたようだ。shezoo さんの〈Moons〉ではピアノのイントロの後、メロディを吹いた。

 とにかく何といっても高橋さんの声である。みっちりと身の詰まった、空間を穿ちながら、同時に満たしてくる声。一方で、小さく細く延ばすときでさえ、倍音が響き、そしてサステイン、という言葉を人間の声に使ってもかまわなければ、サステインがおそろしく長い。音域も広く、音量の幅も大きく、会場一杯に朗々と響きわたるものから、聞えるか聞えないかの囁き声まで、自由自在に操る。その声で歌われると、〈Moons〉のような聞き慣れた曲がまるで別の様相を現す。

 専門はバロック、古楽の歌とのことで、オープニングはヒルデガルド・フォン・ビンゲンの曲から shezoo さんの〈Dies irae〉の一つ(どれかはすぐにはわからん)、そして笠松氏の〈Lacrimosa dies illa〉をメドレーで続ける。というのは、説明され、プログラムにあるので、ああ、そうなのかと思うが、後はもうまったく夢の世界。歌とピアノ、それにご自分では「ヘタ」と言われる割には確かな笠松氏のリードが織りなす音楽に聴きほれる。

 shezoo さんのピアノの音がまた尋常ではない。あそこのピアノは古いタイプの復元で、弾きやすいものではないそうだが、音のふくらみが聴いたことのない類。高橋さんの声に拮抗できるだけの実を備えている。ピアノもまた朗々と歌っている。ピアノ自身が天然の増幅装置になって大きな音はまさに怒りの日のごとく、小さな音はどこまでも可憐にささやく。

 会場にも来ておられた岩切正一郎氏の詩に笠松氏が曲をつけた3曲、しかも1曲は世界初演というプログラムとこれに続く〈Moons〉が後半のハイライト。岩切氏の詩は気になる。全体を読んでみたい。日本語の現代詩、口語の詩は、韻文としては圧倒的に不利だが、歌にうたわれることで、別の命を獲得することは体験している。そのもう一つの実例になるだろう。

 〈Moons〉のイントロはまた変わっている。訊いたら、先日のエアジンでの10人のシンガーとの共演の際、全員がこの歌をうたい、そのため、全てのイントロを各々に変えたのだそうだ。ちょっと凄い。この歌だけで1枚、アルバムをぜひ作って欲しい。一つの歌を10人の別々のシンガーが歌うなんて、まず他にはできないだろう。スタジオに入るのが無理なら、ライヴ録音はいかが。今のエアジンの体制なら可能ではないか。

 しかし、本当に夢のような時間。人間の声の魅力をあらためて思い知らされる。歌にはパワーがある。ありがたや、ありがたや。

 今日の14時から音降りそそぐ 武蔵ホール(西武池袋線武蔵藤沢駅前)で、同じ公演がある。


 徃きのバス、電車の中で借りてきたばかりのヤコブ・ヴェゲリウス『曲芸師ハリドン』を一気に読む。このタイトルはしかし、原著の意図を裏切る。話はシンプルだが、奥はなかなか深い。それに、海の匂いと乾いた文章は魅力的。そしてハリドンがやはりあたりまえの存在ではないことが最後にはっきりするところはスリリング。これなら他も愉しみだ。
 

曲芸師ハリドン
ヤコブ ヴェゲリウス
あすなろ書房
2007-08T


 帰り、ロマンスカーの中でデッドを聴くが、A4000の音が良い。すんばらしく良い。ヴォーカルが前面に出て、生々しい。をを、ガルシアがウィアがそこに立って歌っている。全体にクリアで見通しが良く、にじみもない。聴いていてわくわくしてくる。音楽を心底愉しめると同時に、ああ、いい音で聴いてるなあ、という実感がわく。ここは A8000と同じだ。うーむ、エージング恐るべし。

 それにしても、FiiO FD7 は「ピュア・ベリリウム・ドライバー」、A8000は「トゥルー・ベリリウム・ドライバー」。どう違うのだ。というより、それが音の違いにどう出ているのか。もちろん、音は素材だけでは決まらないが、うー、聞き比べたくなってくる。それもこの場合、店頭試聴ではだめだ。両方買って、がっちりエージングをかけて、自分の音源で確かめなければならない。


 Linda C. Cain, Susan Rosenbaum,  Blast Off 着。Leo & Diane Dillon が絵を描いている、というだけで買った絵本。宇宙飛行士になる夢をずっと持っている黒人の女の子が、友だちにあざけられ、空地にあったガラクタでロケットを作って宇宙へ飛びだす。友だちは夢と笑うが、もう動じない。初版1973年。この時期に黒人の女の子が主人公で、なおかつ、その子が宇宙飛行士になるという話は先駆的。ということで、New York Review of Books が再刊。

Blast Off (New York Review Children's Collection)
Rosenbaum, Susan
NYR Children's Collection
2021-09-21


##本日のグレイトフル・デッド

 1009日は1966年から1994年まで、11本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版2本。


01. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 午後2時から7時までで、ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド、ジェファーソン・エアプレインとの共演。セット・リスト無し。


02. 1968 The Matrix, San Francisco, CA

 前日と同じでウィアとピグペン抜き。


03. 1972 Winterland Arena, San Francisco, CA

 後半冒頭、グレース・スリックがブルーズ・ジャムに参加して、即興の歌をうたった。どうやら酔っぱらっていたらしい。テープが残っていて、「あのビッチをステージから連れだせ」とどなっているビル・グレアムの声が聞えるそうな。彼女がデッドのステージに一緒に出たのはこの時だけ。


04. 1976 Oakland Coliseum Stadium, Oakland, CA

 The Who との共演2日間の1日目。ショウ全体が《Dick's Picks, Vol. 33》でリリースされた。

 Philip Garris とい人のポスターがすばらしい。2日間のコンサートのためだけにこういうポスターを作っていたのはエライものだ。

 演奏はデッドが先。11時開演。前座というわけではなく、普段のショウをきっちりやっている。後半は最初から最後まで切れ目無しにつながった一本勝負。

 この頃はまだ聴衆録音は公認されておらず、録音しているところを見つかると機材やテープが没収されることもあった。


05. 1977 McNichols Arena, Denver, CO

 8.25ドル。7時半開演。良いショウらしい。


06. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 15本連続のレジデンス公演の11本目。この日と翌日の第一部アコースティック・セット全体が、2019年のレコードストア・ディのためのタイトルとしてアナログとCDでリリースされた。また第三部の2曲目〈Greatest Story Ever Told〉が《Dead Set》でリリースされた。

 このアコースティック・セットの全体像を聴くと、他も全部出してくれ、とやはり思う。


07. 1982 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA

 12ドル。屋外で午後2時開演。この年のベストの一つ、と言われる。


08. 1983 Greensboro Coliseum, Greensboro, NC

 後半 Drums の後、2曲しかやらず、最短記録かもしれない。演奏そのものは良かったそうだ。


09. 1984 The Centrum, Worcester, MA

 2日連続の2日目。ジョン・レノンの誕生日で、アンコールは〈Revolution〉。

 良いショウらしい。


10. 1989 Hampton Coliseum, Hampton, VA

 前日に続き、"Formerly the Warlocks" として行われたショウ。《Formerly The Warlocks》ボックス・セットで全体がリリースされた。その前に、オープナーの〈Feel Like A Stranger〉が1990年に出たライヴ音源集《Without A Net》に収録されていた。

 このサプライズ・ショウの試みはバンドにとっても刺激になり、新しいことをやろうという気になったらしい。ブレア・ジャクソンのライナーによれば、しばらくやったことのなかったこと、つまり事前のリハーサルをした。しばらくレパートリーから外れていた曲がいくつも復活したのはそのためもあった。

 2日間ではこちらの方がいいという声が多い。あたしもそう思う。前日は自分たちの勢いに呑まれているところがなきにしもあらず。この日はうまく乗れている。MIDI による音色の変化もハマっている。

 この日のサプライズは〈Dark Star〉。1984-07-13以来の復活で、この後は比較的コンスタントに演奏された。最後の演奏は1994-03-30。演奏回数は235回。演奏回数順では56位。5年ぶり、それにデッドのシンボルともいえる曲の復活とあって、聴衆の歓声は前日にも増して大きく長かったことは録音でもわかる。さらにアンコールの〈Attics Of My Life〉は1976-05-28以来、13年ぶり。

 まだネットも携帯もないこの晩、深夜、明け方にもかかわらず、全米のデッドヘッドたちはおたがいに電話をかけまくった。


11. 1994 USAir Arena, Landover, MD

 3日連続の初日。35ドル。午後7時半開演。レックス財団のための資金集めのショウ。そこそこの出来とのこと。(ゆ)


 シンガーの Muireann Nic Amhlaoibh(ムイレン・ニク・アウリーヴ)が、アイルランドの作曲家が編曲したシャン・ノースの伝統歌を Irish Chamber Orchestra と伴に歌うというコンサート "ROISIN REIMAGINED" が来月7日の Kilkenny Arts Festival であります。


 このコンサートを録音してCDとしてリリースする計画があり、その資金を Kickstarter で募っています。


 締切まで1週間足らずですが、まだ目標額には達していません。皆さま、ぜひぜひ応援しましょう。


 ムイレンはアイルランドの現役シンガーでも最高の一人です。「謎に満ちた完璧だ」とドーナル・ラニィも言ってます。これまでの録音は Bandcamp で試聴の上、購入できます。(ゆ)


6月17日・木

 市から介護保険料通知。昨年の倍になる。年収2,000万以上の金持ちはいくら稼いでも金額が変わらない。「不公平」だ。金があればあるほど、収入に対する保険料の比率は減るんだぜ。余裕のある奴はますます余裕ができる。その1割しか年収のない人間はちょっと増えると月額倍増って、そりゃないだろう。

 散歩の供は Ariel Bart, In Between
 Bandcamp で購入。ファイルは 24/44.1 のハイレゾ。

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 ハーモニカ・ジャズ。ピアノ・トリオがバック。チェロも数曲で参加。いや、いいですねえ。ハーモニカの音か、この人の音か、線は細いが芯はしっかり通っているというやつで、繊細な抒情と骨太な叙事が同居している。ハーモニカの音には軽さとスピードもありながら、鋭どすぎない。それにわずかに音が濡れている。文字通り瑞々しい。とんがったことをしないで、まあ普通のジャズをしている一方で、惰性でやっているのでもなく、故意にそうしているわけでもなく、自然にやっている感じが新鮮さを醸しだす。聴いていて、またか、とは思わない。はっと驚くようなこともないが、むしろじわじわと効いてくるするめ盤の予感。曲はすべて本人のオリジナル。愁いのある昏いメロディはあるいはセファルディム系だろうか。参加ミュージシャンの名前だけではアラブ系の人もいる。

 1998年3月生まれ。7歳からクロマティック・ハーモニカを吹いているそうな。The New School University in New York でジャズ演奏の学位を取得。ベーシストの William Parker と2枚、Steve Swell and Andrew Cyrille がポーランドのレーベル Not Two から出したアルバムに参加。本人のリーダー・アルバムとしてはこれが初めて。ようし、追いかけましょう。


 夜は YouTube の宿題をかたづける。MacBook Air (M1, 2020) から AirPlay で FiiO M11Pro に飛ばし、DSD変換して聴く。YouTube 側はノーマルでも聴くのは DSD だ。M11Plus は本家ではリリースされたが、国内販売開始のアナウンスはまだ無い。数が少なすぎて、回せないのか。やはり M17 狙いかなあ。

 スナーキー・パピーの Grount Up Records が提供する The Secret Trio のライヴ音源が凄い。凄いとしかいいようがない。ウードはアラ・ディンクジャンではないか。お久しぶり。お元気なようで何より。



 shezoo さんに教わった、行川さをりさんの YouTube 音源をあれこれ視聴。Asu とのデュオ Kurasika の〈写真〉。向島ゆり子さんがすばらしい。Kurasika と上田健一郎による、どこでもスタジオにしてしまう「旅するレコーディング」もいい。これはまさにクーキー・マレンコが言っていたものではないか。周囲の音も音楽の一部で、でかいせせらぎの音が歌とギターに耳を引付ける。うぐいすは絶妙の合の手を入れてくれる。引き込まれて、次々に聴いてしまう。(ゆ)






 横浜・エアジンで玉響のライヴ。石川氏が入っているので買ってみた玉響のデビュー《Tamayura》があまりに良いので、ライヴに行く。

tamayura
玉響 〜tamayura〜
玉響
2021-03-10

 

 ライヴを見るのはミュージシャンの演奏している姿を確認するのが第1の目的だが、まず前原氏が面白い。体はほとんど動かさず、ギターも動くことなく、手と指だけが動いている。フィンガー・ピッキングだが、時にどうやって音を出しているのか、指が動いているとも見えないこともある。冒頭と第二部途中で MC をするが、させられてますオーラがたっぷり。人前でしゃべる、というより、しゃべることそのものがあまり得意ではないオーラもたっぷり。ギターを弾いていられさえすればいい、そのためにはどんなことでも厭わない、という感覚。まことにもの静かで、控え目だが、芯は太く、こうと決めたらテコでも動きそうにない。ソロをとる時も譜面を見つめていて、あれ、予め作曲ないしアレンジしてあるのかなとも見えるが、演奏はどう聴いても、そうとは思えない。さりげないところと、すっ飛んでいるところがいい具合にミックスされている。楽器はクラシックで、お尻にコードが挿さっているが、シンプルな増幅のみらしい。少なくともこのアンサンブルでは、エフェクタなどはほとんど使っていないように聞える。4曲め Pannonica でのソロ、5曲め Calling You でのソロ、それにアンコール Softly as in a Moring Sunrise でのソロが良かった。

 Calling You は録音はしたけれど、CDからは外したものの由。いつもと違って速めのテンポのボサノヴァ調。前半ピアノ、後半ギターがソロをとり、どちらもいい。

 太宰氏もあまり体を動かす方ではない。鍵盤をいっぱいに使うけれど、上半身はそれほど動かない。この人のピアノは好きなタイプだ。リリカルで、実験も恐れず、ギターや歌にも伴奏より半歩踏みこんだ演奏で反応する。それでいて、ソロの時にも、控え目というほど引込んではいないが、尊大に自我を主張することはしない。

 このトリオの面白さはそこかもしれない。独立している個のからみ合いは当然なのだが、そのからみ合い方がごく自然でもある。自己主張のあまり相手の領域に土足で踏みこむのでもなく、ひたすら相手を盛りたてることに心を砕くのでもなく、絶妙の距離を保ちながら、音をからみ合わせる快感を追求する。

 石川氏のヴォーカルも突出しない。歌とその伴奏ではなく、歌はあくまでも対等の位置にある。かなり多種多様な性格の声と唄い方を駆使するのがあざとくならない。一方、変幻自在というよりも歌に一本筋が通って、ひとつの方向に導く。このピアノとギターにその声がうまくはまっている。

 そしてアレンジの面白さ。知っている曲だとよくわかるのは、一見かけ離れた新鮮さによってもとの楽曲の良さがあらためて感得できる。あたしにそれが一番明瞭なのは Yesterday Once More で、とりわけあのコーラスをゆっくりと、一語一音ずつはっきりと区切るように歌われる快感は他ではちょっと味わえない。

 レコ発なので、CD収録曲中心。即興はもちろん録音とはまた違い、まずはそこが楽しい。3人とも抽斗は豊冨で、録音よりさらに良い時もいくつもある。配信も見て、記録したくなる。

 配信用もあるせいか、サウンドもすばらしく、アコースティックな小編成の理想的な音だ。エアジン、偉い。ごちそうさまでした。(ゆ)

玉響
石川真奈美: vocal
太宰百合: piano
前原孝紀: guitar

4月20日・水

 上半身の痒いのがだいぶ収まる。やはり入浴時の洗いすぎだったのだろう。手が痒かったのも、殺菌力もある強い石鹸で頻繁に洗っていたからだったらしい。手洗い消毒用石鹸の手につける量を減らしたら、痒みは出なくなる。

 インターバル速歩で公民館に往復。本1冊返却、2冊借出し。借りたのは小山田浩子『穴』新潮文庫と『ローベルト・ヴァルザー作品集 4 散文小品集I』。小山田浩子はこれの英訳が今年のローカス推薦リストのホラーに挙げられていたため。なるほど、面白そうだ。こういう作品が芥川を獲るようになったのも時代の推移か。以前だったら意地でも与えなかっただろう。
 
穴 (新潮文庫)
浩子, 小山田
新潮社
2016-07-28


 ヴァルザーは先日ウン十年ぶりに再読した『ヤーコブ・フォン・グンデン』ですっかりヴァルザー熱が復活してしまったため。ヴァルザーの本領である短文、小品を集めたもの。早速最初の1篇「グライフェン湖」を読んで陶然となる。文章を読む歓び、ここにあり。そう、ヴァルザーの魅力は何が書かれているか、ではなくて、どう書かれているか、なのだ。日本語とドイツ語のネイティヴ、それぞれに相手の言語に通じた2人の共同作業である訳文もこれ以上のものはあるまい。ヴァルザーはこうした短文を二千数百篇残したそうだが、もちろんここに訳出されたのはそのごく一部。英訳も読んでみるか。第5巻は死後発見された長篇とさらに小品。この2冊は買ってもいいかなあ。

ローベルト・ヴァルザー作品集4: 散文小品集I
ローベルト・ヴァルザー
鳥影社
2012-10-17



 Monstress, Vol. 4、Jackie Kay, Bessie Smith 着。Monstress はこっちが先に来た。

 Jackie Kay という人は現在スコットランドの桂冠詩人で、ベッシー・スミスのこの伝記は1997年初版の再刊。スコットランド人の母、ナイジェリア人の父に1961年に生まれ、誕生と同時にスコットランド人夫婦の養子となる。2歳上の兄も同じ夫婦の養子になっていて、グラスゴーの、周りに自分たち兄妹以外に黒人がまったくいない環境で育つ。12歳の時、父がプレゼントしてくれた2枚組 Any Woman's Blues でスミスの歌に出逢い、生涯の友となる。この出逢いから話は始まる。スミスは別格だった。14歳の時、カウント・ベイシーとともにやってきたエラ・フィッツジェラルドを生で聞いたが、エラの声は娘らしく、くすくす笑っていた。スミスの剥出しの生の声は、それまで存在すら知らなかった場所に引きずりこむ(13pp.)。ジャケットのスミスの写真を見て、自分と同じ色をしていることで黒人としての自覚が目覚める。本人も差別を受けている。

 All black people could at some point in their life face racism or racialism (I could never understand the difference) therefore all black people had a common bond.  It was like sharing blood. [16pp.]

 母親とともに南アフリカの政治犯たちにクリスマス・カードを送る。家の中にはネルソン・マンデラ、ソルダド(ソレダ)・ブラザーズ、アンジェラ・デイヴィス、カシアス・クレイ、カウント・ベイシー、デューク・エリントンといった人たちのイメージがたくさんあった。ケイはこうした黒人たちと家族であることを想像する。その家族をつないでいたのはスミスの歌う声だった。

 スコットランドで生まれ育った黒人の詩人が書いたブルーズ・シンガーの伝記、というのはそれだけで興味が湧く。加えてこの本の評価は高いから期待しよう。
 アマゾンに予約注文していた Subterranean Press の The Best Of Elizabeth Hand は発送日未定になったので、BookFinder で検索すると、普通に売っている。アマゾンをキャンセルして、AbeBooks で注文。同時にアマゾンに注文した The Best Of Walter Jon Williams はそのままにしてみる。果たして来るか。Subterranean のはモノはいいんだが、どれも限定版で、直接注文すると送料がバカ高く、本体と同じかそれより高い。アメリカの海外配送料金の高さは引き下げられるべし。(ゆ)

4月18日・日

 散歩用ヘッドフォンに久しぶりに eGrado を使ってみる。夜、少しじっくり聴こうと 428 をかますと良く歌う。これは素姓が良いのだ。ディスコンになったのは残念。SR60e を使えということなんだろうが、屋外で使うときには、eGrado のこの固いプラスティックががっちりはまるのが気持ち良いのだ。価格.com で見ると SR80e はもう無くて、SR60e の次は125e。325 も無く、GW100、Hemp と来て、RS2e になる。



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 すばらしい。ゆったりと悠揚迫らず、イングランドの歌の世界にどっぷりと浸れる。James Patterson のヴォーカルとギター。John Dipper のはヴィオラ・ダ・モーレとのことだが、ちょっといなたい、けれど気品のある響きが聞き慣れたフォークの世界と一線を画す。練りに練られたフレーズを即興に聴かせ、声を縫って、水墨画のような空間を描きだす。ハーディングフェーレほどではないが、共鳴弦が立体的な響きを生む。ソロではクラシック的な技法でノルディックの伝統曲を演るのが、やや乾いた音になるのが面白い。

 Patterson Jordan Dipper のトリオによる Flat Earth も見事なアルバムで、Ralph Jordan はどうしたのだろうと思ったら、2014年に亡くなっていたのだった。これにはそのジョーダン追悼の想いもこめられている。

Flat Earth
Patterson Jordan Dipper
Wild Goose
2003-08-11



 パタースンの歌唱は酸いも甘いも噛みわけた大人の味。激することも落ちこむこともない。ブリテンの伝統歌唱に特徴的な、感傷を排した、ちょっと聴くと単調な、その実、複雑微妙な綾を織りこんで、柔かいテクスチャの奥に硬い芯を隠した声、軽く鼻にかけた、松平さんが「鉄則」と呼んだ発声法が心地良い。

 曲は伝統歌ばかりでなく、ハーディやハウスマンの詩に曲がつけられた、元来はクラシック・スタイルで演奏されることを想定しているものもある。こういう曲も、この声で歌われると伝統歌に聞える。

 こういうシンプルな組立ての、伝統歌やそれに準じる歌をじっくりと聴かせるアルバムが、このところまたイングランドで豊作になってきた。(ゆ)

 3日連続で医者に通う。

 月曜日、眼科。先月下旬の人間ドックで「左眼底網膜神経線維層欠損疑い」で、要精密検査。視力、眼圧、眼底写真、視野検査をして、昨年夏の時と変化がほとんどないから、まだ緑内障の治療を始めるほどではない。もう一度年末くらいに検査をしてみましょう。

 火曜日、歯科。左下門歯の隣にかぶせていたのが外れてしまったのは割れたためで、作り直し。前回型をとったのがぴたりとはまる。

 水曜日、内科。同じ人間ドックで「右上肺野孤立性結節影疑い」で、要 CT 検査。早速 CT をとってもらうが、何もなし。一応放射線の専門家に出し、腫瘍マーカーもとってみましょう、来週またいらっしゃい。半分以上覚悟していたので、拍子抜け。同時にほっとする。

 久しぶりに電車に乗り、M11Pro > A4000 + final シルバーコート・ケーブル 4.4mm で聴く。秋葉原のファイナルの試聴室で確認はしていたものの、この化けぶりはかなりのもの。まず音量のレベルをアンバランスから2割は落とさねばならない。ステージがわっと広くなり、音楽がぎょっとするほど生々しくなる。ここまでの生々しさは初代T1バランス版に匹敵するか。距離が近いのが違うところ。この組合せは A8000 とタメを張る。ケーブルの値段がイヤフォンより高いが、合計しても A8000 の5分の1。もう1セット買って、遊ぶかとも思うが、それよりはたぶん A3000 を買う方が面白いかもしれない。

 A4000 は接続が 2pin というところも気に入った。MMCX はどうも信用できない。A4000 と A3000 は 2pin にしたから、ファイナルはこれで行くのかと思ったら、糸竹管弦はまた MMCX。あれが欲しいとならないのはそれもある。

 聴いていたのは Hanz Araki の最新作《At Our Next Meeting》。アイルランド録音で、プロデュースと録音はドノ・ヘネシー。トレヴァーはじめ、練達のサポート陣で、派手なところはまるでないが、出来は相当にいい。かれの録音の中でもするめ盤になる予感。

ha-aonm 



























Hanz Araki - vocals, flute, whistle, shakuhachi, bodhran
Donogh Hennessy - guitar, baritone guitar, bouzouki, keys
Niamh Varian-Barry - violin, viola
Trevor Hutchinson - bass
Meabh Ni Bheaglaoich - button accordion
Laura Kerr - fiddle
Colleen Raney - chorus

 9月下旬からそろそろとライヴに行きだした。しかし、どこかまだ腰が定まらない。かつてのように、いそいそわくわくというわけにはいかない。おそるおそるというほどでもないが、おたがい仮の姿のようなところがある。いや、ミュージシャンたちはそのつもりではないだろう。むしろ、一層魂をこめて、一期一会、次は無いかもしれないというつもりでやっているのだろう。問題はこちらにある。リハーサル、と言ってみるか。ライヴを見るのに練習もへったくれもないと言われるだろうが、毎月2、3回、多いときには週に2回というペースでなにかしらのライヴに通っていると、勢いがついているのだ。ランナーズ・ハイというのはこういうものではないかとすら思えてくる。それがぱたりと止まった。それは、まあ、いい。ちょうど仕事も佳境に入って、正直、ライヴに行かずにすむのがありがたいくらいだった。

 その仕事も一段落ついた頃、配信ライヴを見たり、ぽつりぽつりとライヴに行ってみたりしだした。どうも違う。同じではない。COVID-19は今のところ無縁だが、こちらの意識ないし無意識に影響を与えているのか。

 ひとつの違いは音楽がやってくる、そのやってくるあり方だ。ひょっとするとライヴがあった、そこに来れたというだけで野放図に喜んでしまっているのだろうか。どこを見ても、なにが聞えても、すばらしいのだ。個々の音、とか、楽曲とか、どの演奏とか、そんな区別などつかない。もう、全部手放しですばらしい。音が鳴りだすと、それだけで浸ってしまい、終ると目が覚める感覚。どんな曲だったか、どんな演奏だったか、何も残っていない。手許を見れば、曲目だけは一応メモしてあるが、それだけで、いくら眺めても、個々の曲の記憶はさっぱりない。ただ、ああ、ありがたや、ありがたや、と想いとも祈りとも呪文ともつかないものがふわふわと湧いてくる。

 今回はいくらか冷静になれた。冷静というよりも、酔っぱらっていたのが、少し冷めたと言う方が近いかもしれない。

 真先に飛びこんできたのは加藤さんのサックスの音。これまでの加藤さんのサックスはやわらかい、どんな大きく強い音を出してもあくまでもやわらかい響きだった。この日の加藤さんの音の押し出しは、これは無かった。パワフルだが力押しに押しまくるのではなく、音が充実していて、ごく自然に押し出されてくる。確信と自信をもってあふれ出てくる。たとえば最盛期のドロレス・ケーンのような、本物のディーヴァの、一見何の努力もせずに自然にあふれてくるように流れでる声に似ている。力一杯でもない。八分の力ぐらいだろうと見える。それでもその音はあふれ出て空間を満たし、聴く者を満たす。

 次に浮かびあがったのは Ayuko さんの声。谷川俊太郎の「生きる」に立岩潤三さんが曲をつけた、というよりもその曲をバックに自由に読む。後のMCでは読む順番もバラし、自由に入れかえていたそうだ。普通に朗読するように始まったのが、読む声も音楽もいつしかどこまでも盛り上がってゆく。いつもの「星めぐりの歌」は、これまでいろいろ聴いたなかで最もテンポが遅い。そして、ラスト、立岩さんの〈Living Magic〉のスキャット。

 そこまではわかった。らしい。アンコールの〈エーデルワイス〉が歌いおさめられると、やはり夢から覚めた。ふっと、われに返る。立岩さんが何をやっていたか、shezoo さんが何をやっていたか、覚えていない。あれだけダイナミック・レンジの広い各種打楽器の音が配信できちんと伝わるだろうか、いや、このシンバルを生で聴けてよかったと思ったのは覚えている。〈Moons〉のピアノのイントロがまた変わったのもぼんやり浮かんでくる。

 ライヴ、生の音楽をそのまま体験するのは、やはり尋常のことではないのだ、とあらためて思いしらされる。音楽の送り手と受け手が、その音楽が鳴っている空間を共有することには、時空を超越したところがある。非日常にはちがいないが、読書や映画やゲームに没頭するのとは決定的に異なる。パフォーマンス芸術ではあるが、演劇や舞踏の劇場空間とも違う。何なのだろう、この異常さは。

 あたしはたぶんその異常さに中毒してしまっているのだ。ライヴの全体に漬かってしまって、ディテールがわからないのは、禁断症状の一種なのかもしれない。もう少しまた回数を重ねれば、靄が晴れてきて、細部が聞えるようになるのだろうか。

 このライヴは同時配信されて、まだ見ることもできるが、見る気にはなれない。以前はライヴはそれっきりで、再現のしようもなかった。そしてそれで十分だった。いや、一期一会だからこそ、さらに体験は輝くのだ。

 ライヴの配信、あるいは配信のみのライヴというのは、また別の、新しい媒体なのだ。まだ生まれたばかりで、手探り、試行錯誤の部分も大きい。梅本さんから苦労話もいろいろ伺ったが、おそらくこれからどんどんそのための機材、手法、インフラも出てくるだろう。それはそれでこれから楽しみにできる。

 しかし、ライヴの体験は、その場で音楽を共有することには、代わるものがない。COVID-19は世界のもろさをあらためて見せつけている。世界は実に簡単に、派手な効果音も視覚効果もなく、あっさりと崩壊する。その世界のなかで、生きていることの証としてライヴに行く。それができることのありがたさよ。

 この日はハロウィーン。そしてブルー・ムーン。雲一つない空に冷たく冴えかえる満月に、思わず遠吠えしそうになる。(ゆ)


夜の音楽
Ayuko: vocals
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussion
shezoo: piano


 松本さんは芸の幅が広く、この日はいきなりアラブ歌謡から始める。あたしにはタイトルすら聴きとれないが、歌の内容は例によってラヴソングで、愛の対象が人なのか神なのかよくわからないもののようだ。shezoo さんのピアノは大したもので、ちゃんとアラブ音楽になっている、とあたしには聞える。

 ピアノの響きがいい。とりわけ中高域の響きがおちついた輝きを放つ。きらびやかにすぎず、華やかにすぎず、歯切れがいい。小型のアップライト型だが、足許に弦が剥出しになっていて、鳴りはよさそうだ。後で訊いたら、ようやくこのピアノの弾き方がわかったと言っていた。力を抜いて、八分の力で弾くつもりでやるとちょうどいい由。

 2曲目は〈The Water Is Wide〉。このピアノの伴奏はこれまで聴いたこの歌の伴奏のベスト。途中、二人がフリーで即興するところもいい。この曲でこういうのは珍しい。

 この二人がやると即興は結構多くて、〈砂漠の狐〉はもちろん、〈鳥の歌〉でも、後半の宮沢賢治の詩の朗読にピアノをつける「山の晨明に関する童話風の構想」でも、即興が入る。この二人を聴く楽しみの一つだ。

 そして3曲目。待ってました。〈マタイ受難曲〉からの1曲。聴いていて背筋が伸びる。いやあ、バッハってすげえなあ。そして、これをここまで聴かせるこの二人もすげえ。こうやってシンプルな形で聴くと、細かいコブシがずいぶん回っているのがよくわかるのだが、これも全部作曲されているんだそうだ。来年02/20&21、2日間の全曲演奏は何をおいても行かねばならない。

 松本さんは賢治にハマっているそうで、後半では『北守将軍と三人兄弟の医者』をもとにしたミュージカルのために旦那の和田啓氏が作った〈兵隊たちの軍歌〉をやる。これが後半のハイライト。このミュージカルは全体を見たいものだ。

 あたしは初体験だが、二人だけのライヴは結構やっているらしい。もっと見るようにしよう。

 聴衆一人。まるであたしのためだけに演奏されているようだ。配信で視聴している人はいるとはいえ、この生を体験できるのは、全宇宙であたしだけ。いや、なんという贅沢。どんな大金持ちでも、王侯貴族でも、この贅沢は味わえない。まあ、バッハを抱えていた領主かな。これもコロナの恩恵か。ラズウェル細木だったか、聴衆が少ないと、音楽家から流れだす音楽の分け前が増えると言っていたが、今日は独占だ。うわはははははは。

 もちろんブールマンのマスターも一緒にいるが、かれは配信のあれこれにも気をつかわねばならず、何もかも忘れて音楽に集中するわけにもいかない。ふっふっふ。

 配信された映像はまだ数日はアーカイヴで見られるそうだ。投げ銭もよしなに。

 また昼間のライヴで、出ればまたも炎天。吉祥寺もそうだったが、成城学園の住人は皆さんお元気で、老人でも日傘もささずに、ひょいひょいと歩いておられる。(ゆ)

 先日、中川さん@SFUから電話が来て、アンディの詩集が出るんやけど、知っとる? 世間知らずのあたしが知るはずがない。たまたま松井ゆみ子さん@スライゴーからも出るんですよー、とメール。そこについていたサイトを見てみてびっくり仰天。なんとなんと柴田元幸氏の訳ではないか。こりゃ、たいへんだ。

 アンディのレパートリィから21曲、それもオリジナル、トラディショナルほぼ半々。伝統歌を柴田氏がどう料理されているのか、それはそれは気になる。

 いったい、何を収録したのだろう。書名にもなっている Never Tire of the Road は別として、West Coast of Clare はまず確実だろう。Blacksmith も入っているはずだ。Martinmass Time はどうだろう。Viva Zapata、Edward Connors、Curragh of Kildare、Patrick Street、Forgotten Heroes... いや、3月の刊行が楽しみだ。イラストも特別のものらしい。

 刊行が03/20になってるが、センパトには間に合うんだろうか。あたし? もちろん、予約しますよ。10冊くらい買って、あちこち配ろうか。

 いやあ、しかし、アンディの歌やアイルランドの伝統歌を、柴田氏のような人の日本語で読める日が来るとは、まったく思いもよらなかった。柴田氏がやられることになった経緯も知りたいものである。(ゆ)

 今年最初のライヴ。個人的な事情もあって、年明けとはいえ、にぎやかでアゲアゲな調子のものは願い下げという想いがあったのだが、このソロ・ライヴはひそやかに、静かに、しかし決してネガティヴではない、あくまでも明るく前を向いていて、今のあたしの気分にはまことにぴったりのひと時を過ごさせてくれた。聴いていると「明るいニック・ドレイク」という言葉が浮かんできて、後でアニーに言ったらまんざらでもない様子だった。

 アニーとしてもインストルメンタルではなく、うたを唄う、弾き語りのスタイルのライヴは初めてだそうで、緊張してます、不安です、と口ではいうのだが、演奏している姿にはそんなところは微塵も無い。MCはいつもに比べれば多少ぎこちなくもないが、音楽そのものの質はいつもの中村大史のレベルはしっかり超えている。

 ひとつにはこのホメリという空間のメリットもある。ここは生音がよく響くところで、声もやはりよく通る。後半は結構力を入れてストロークを弾いてもいたが、声がそれに埋もれてしまうことはない。もっとも、その辺りの音量の絞りかた、力の加減、押手引き手の呼吸は心得たものだ。

 ギター一本の弾き語りというスタイルはあたしにとっては他のどんな形よりもおちつく。基本中の基本。極端にいえば、ギター一本とうただけで満場を唸らせることは、一人前のミュージシャンとしての最低の条件ですらあると思っている。アイルランドの音楽、ばかりでなく、その前のスコットランドやイングランドの音楽を聴いた初めもギターとうたの弾き語りだった。ディック・ゴーハン、ニック・ジョーンズ、ヴィン・ガーバット、マーティン・カーシィ、デイヴ・バーランド、クリスティ・ムーア、アンディ・アーヴァイン、ポール・ブレディ、ミホール・オ・ドーナル、アル・オドネル、クリス・フォスター、マーティン・シンプソン、スティーヴ・ティルストン等々々。こうした人たちのうたとギターに誘われて、伝統音楽の深みへと誘われ、はまりこんでいったのだ。

 わが国でもこうしてギター一本とうたで、異国の、また故国のうたを聴かせてくれる人が現れているのは、頼もしく、嬉しい。たとえば泉谷しげる。ここでまさか泉谷のうたをこういう形で聴こうとは思わなんだが、アニーはまるで自分が作ったうたのようにうたう。ここから森ゆみ、そして自作の〈夏の終りに〉の3曲がハイライト。

 まだ自作がそれほど多くないので、と言ってカヴァーをうたうが、どれもが原曲を離れて、アニーの血肉になっている。カヴァーには曲に引っぱりあげられることを期待する場合も少なくないが、アニーはそんなことは夢にも考えていない。クリスティ・ムーアにうたわれることで有名になった曲は数知れないが、それらはどれもムーアが自作とまったく同じレベルまで咀嚼消化吸収して、あらためて自分のうたうべきうたとして唄った結果だ。アニーのカヴァーにも同じ響きがある。

 アニーはどのうたも急がず騒がず、ゆったりと静かにうたう。ソロ・アルバム《Guitarscape》は静謐さに満ちているが、うたが入ってもやはり静かだ。静まりながら、前へ前へと進む。そう、これは明るいニック・ドレイクよりも、クールなクリスティ・ムーアと呼ぶべきかもしれない。ムーアも静かにうたうこともあるが、どんなに小さな声でうたっても、かれの場合にはその奥がいつもふつふつと煮えたぎっている。アニーも煮えたぎっているのかもしれないが、あえてそれがそのまま出るのを抑えて、どこまでもクールに唄う。それが気持ち良い。

 年末から気が重い状態が続いていて、まだ当分この状態に耐えていかねばならず、ますます気が重かったのだが、こういうクールでポジティヴな音楽には救われる。他の形でも超多忙の人だから、毎月とか隔月とかは無理だろうが、春夏秋冬や、あるいは4ヶ月に一度ぐらい、こういう音楽を聴かせてくれることを願う。そしていずれはうたとギターだけのアルバムも期待する。

 ライヴ通いの上では、まずこれ以上は望めない形で2020年は始まった。(ゆ)

guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26


 昨年の第10回はやむをえず欠席で残念無念。今年は万全の体制で臨んだ。このところ、岡さんのライヴはこの木馬亭独演会で年に1回見るだけになってしまっているのはもう少し何とかしたいが、ライヴ通い全体の回数を絞ろうと努めているので、なかなか行けない。これだけでも行けるのは、それだけに嬉しい。

 この人の声と歌にはほんとうに元気をいただく。もう、ほんとに、どーしょーもない世の中で、いっそのこと、火星に亡命でもしたいくらいだが、岡さんがうたうのを聴いていると、よおし、もう一丁、やってみるかという気になる。こういう人が、同時代に生きて、唄ってくれていることのありがたさが身に染みる。

 今回は前半一部はカンカラ自由演歌で、例によってカンカラ三線だけを伴奏に、ソロで唄いまくる。後半の二部は昨年出したアルバムのライヴ版で、録音にも参加した武村篤彦氏がエレクトリック・ギター、パーカッションに熊谷太輔さんというトリオで、「フォーク・ロック」をやる。

 今年は〈東京節〉、「ラーメチャンタラ、ギッチョンチョンで、パイノパイノパイ」というあれの百周年にあたるそうな。これをラストに置いて、鳥取春陽の〈緑節〉に始まり、明治の〈人間かぞえ歌〉から令和の〈人間かぞえ歌〉につなげ、〈値上げ組曲〉〈増税節〉〈カネだカネだ〉と畳みかける。〈ああわからない〉では客席に降りて、中央の通路を後ろまで来る。誰が来ているか確認してます、と笑わせるが、本当に確認もしてる様子。〈十九の春〉は〈ラッパ節〉の替え歌とのことで、次は〈ラッパ節〉。そして〈東京節〉で締める。

 いつものことながら、カンカラ三線のミニマルな伴奏が歌そのものを引き立てる。無伴奏で唄うよりも親近感が生まれる一方で、伴奏には耳がいかない。一昨年は貫禄のようなものを感じたが、今回はむしろ迫力がある。このクソったれな世の中、何するものぞ、という気概。明治、大正、昭和の演歌師たちもこの気概を発散していたのだろう。

 休憩、というほどのこともなく、BGMにしては音が生々しいと思ったら、幕が開いて、3人が演奏している。左にギターの武村氏、真ん中に岡さん、右に熊谷さん。岡さんだけ立っている。岡さんはアコースティック・ギターとハーモニカ。今度は全曲自作の「フォーク・ロック」。

 武村氏のギターはアーシィなセンスがいい。派手なリード・ギターではなく、ちょっとくぐもったトーンで、渋いフレーズを連発する。

 熊谷さんはいわばホーム・グラウンドで、これもむしろ地味に抑え、ブラシを多用して、ややくすんだパステルカラーの味わい。こういうのを聞くと、セツメロゥズあたりでは、フロントに拮抗できるだけの気合いをこめているのがわかる。あちらでこういうドラムスを叩いたら、たぶんぶち壊しなのだ。

 昨年出した《にっぽんそんぐ》収録の全14曲を全部やる。ほとんど一気呵成。フォーク・ロックと言いながら、ディランで言えば《John Wesley Harding》か《血の轍》の趣。熊谷さんはレヴォン・ヘルムだが、武村氏はロビー・ロバートソンというよりはバディ・ミラー。岡さんのハーモニカは初めて聴く気もするが、冴えわたる。

 とはいえ、ここでも声の力をひしひしと実感する。それはまたコトバの力でもあって、「サケサケサケサケサケ」というリフレインに血湧き肉踊る。踊るといえば、常連客の1人で、いつも踊るおっちゃんが、途中でもうたまらんという風に立ち上がって踊りだす。声とコトバにビートの力が加わると、確かにじっとしてはいられない。

 ラストはやはり〈東京〉。これを聴くために通っているようなところもある。

 引っこんだと思ったら、岡さんが1人で飛びだしてきて、アンコール。客席からリクエストがかかり、それに応えてまずアカペラで唖蝉坊の〈むらさき節〉。そしてカンカラ三線で〈春がきた〉。

 今年も無事、聴けた。地震のくる来年はどうだろうか。すでに10月4日と決まっている。

 月明かりの浅草は昼間の喧騒はさすがに収まっていたが、まだ余韻に浸りたい人がわさわさいる。1人、ベンチに腰を下ろし、本堂を眺めている白人のおばさんは、ベテランの旅行者の雰囲気。こういう人に岡さんの歌を聞かせたら、何と言うだろう。(ゆ)

岡大介: vocal, カンカラ三線
武村篤彦: electric guitar
熊谷太輔: drums

にっぽんそんぐ ~外国曲を吹き飛ばせ~
岡大介 武村篤彦 仲井信太郎
off note / Aurasia
2018-04-29






かんからそんぐ 添田唖蝉坊・知道をうたう
小林寛明 岡大介
オフノート
2008-02-03


 型破りのライヴ。こうして生に接してみると、引田さんは型破りのミュージシャンだ。アニソンを唄わせられるだけで満足できないのは当然。 シンガーとしては本田美奈子にもたぶん匹敵する。

 まず「ブランケット」と呼んでいる即興から始まった。高橋創さんのギター、熊本比呂志氏のパーカッションとのトリオによる、純然たる即興演奏。

 なのだが、高橋さんは音をランダムに散らすのではなく、いくつかのコードをストロークで弾いてゆく。コードの選択と順番と継続時間がランダムなのだ。

 むしろ、パーカッションがよく遊ぶ。アラブ系をメインにして、叩く、こする、撫でる、その他いろいろ。ダホルとデフを各々片手に持ち、同時に叩くこともする。ブラシというよりは、小型のホウキで叩いたり、こすったりもする。

 ヴォーカルはそこに声を乗せてゆく。スキャットで声を延ばす。引田さんの声は基本は澄んでいるのだが、なにかの拍子に中身がぎっちりと詰まった、量感たっぷりの響きを帯びる。高い方にゆくとそうなる傾向が大きいようだが、必ずそうなるわけでもない。即興だがあまり細かく音を動かさない。ゆったりと、大きな波を描く。

 実はこの日、あまり体調が良くなく、ライヴを前にして声が出なくなってしまっていたそうで、この形から始めたのは、そのせいもあったのかもしれない。ホィッスルも吹き、ピアノも弾く。いつ、どこで、どのように出してもいいという制限の無いところで、だんだん声が出てきたらしい。ひとしきり、トリオでの演奏をやってから、引田さんだけがピアノの前に座り、他の二人は引き揚げる。後はピアノのソロの弾き語り。

 ここでも予め、唄う曲と順番を決めるのではなく、その場での思い付きでどんどんと唄ってゆく。新譜レコ発という名義なので、新譜からも唄うが、そこにはあまりこだわらない。茨木のり子「わたしがいちばんきれいだったとき」に曲をつけたもの。フォークルの〈悲しくてやりきれない〉。そのうちに、客席から言葉を募り、これをつなげてその場で曲をつける、という遊びをやりだす。この日の昼間は同じヴェニューで松本佳奈氏のソロ・ライヴで、こういうことをやっていたので、マネします、という。客から順番に一言ふたこと、言葉をもらう。言葉のつなぎとメロディを考えている間、高橋さんがギター・ソロでつなぐ。

 高橋さんはアイリッシュ・ミュージックのギタリストとしても一級だが、こういう何気ないソロも実にいい。別にどうということもないのだが、音に流れがあって、それに身を任せているといい気分になる。

 やがてできあがった曲は、引田さんらしさがよく出ている。こういう遊びにはプレーヤーの地が出るものだ。そのまま金子みすずの歌、さらに息子さんに捧げる歌。これがすばらしい。内容はかなり厳しいと思われるが、それをお涙頂戴ではなく、突き放した、クールな態度で、むしろおおらかに唄う。あからさまに感情をこめない歌とピアノが、かえって思いのたけを切々と伝えてくる。あるいはこれを唄うことは予定には無かったのかもしれないが、今日はこれを唄うために開催したのだとすら思えてくる。

 アンコールは谷川俊太郎とそして、みすずの最も有名な「わたしと小鳥とすずと」を、松本氏と交替に唄う。ギターは高橋さんと、松本氏のバックを勤めた奥野氏がやはり交替にソロをとる。

 コンサートというよりも、引田さんの家でその歌と演奏に浸っている気分。この場所は床から頭上7メートルの天井まで吹き抜けの空間で、ピアノはベーゼンドルファーの由。道理で音が違う。大きな空間をいっぱいに満たしてゆく。音楽を生で演奏することと、それをその場にいて全身で受けとめることの、両方の本質を、頭にではなく、胸の奥に打ち込まれるようた体験だった。

 茫然として出ると、深閑とした成城学園の構内を抜けて歩く。どこか、このままこの世の隣の世界に入りこんでしまうようにも思われた。(ゆ)

 このユニットは服部阿裕未さんが歌を唄うのがテーマの一つだが、いきなり歌で始まったのには、ちょっと意表を突かれた。ジブリの〈風の通り道〉。この歌を聴くたびに、あたしは辻邦生が水村美苗との往復書簡集『手紙、栞を添えて』のエピローグとして書いた「風のトンネル」を思い浮かべる。辻のほとんど絶筆といっていいこのエッセイは、軽井沢の家から浅間山に向かって風が開いたトンネルに、自分の表現活動の源泉ないし根幹またはその両方を認め、その生涯をまとめあげた美しい文章で、宮崎駿が示そうとしたものとは、まああまり関りは無い。無いのだが、この歌を聴くたびにこの文章が思い浮かぶ。逆はあまりないが、歌は文章を呼びおこす。そしてその文章を読むときの、静謐な時間の味が甦る。

 服部さんの歌唱は精進の跡が歴然としている。シンガーとしての実力が上がったというよりは、プレゼンテーションのコツを摑んでいる。人前で歌を唄うのは、ただその実力を常にフルに発揮すればいいということではたぶん無いのだ。ライヴの場の設定によっても、一つのギグの中においても、どこまで力を出すかは変わってくるのだろう。たとえばここでの歌唱と、後の〈想い出づれば〉での歌唱では、実力の出し方は明らかに違った。

 アレンジも良くなっている。コンサティーナとブズーキのバックは静かに始まって、徐々に盛り上げてゆく。ライヴの後で高梨さんがしきりに「按配」を気にしたと言っていたのがよくわかる。バックの音量が大きすぎず、小さすぎず、実にうまく「按配」されている。

 歌が半分。前回もやったスザンヌ・ヴェガの〈The Queen and the Soldier〉も格段に良い。これは三拍子の曲であることに初めて気がついた。服部さんの歌はスイングしている。

 〈Johnny's Gone for a Soldier〉は悲劇を明るく唄うのがミソで、ここでもホーンパイプの〈Rights of Man〉と組み合わせて楽しいが、服部さんの声は愁いを帯びていて、どうやっても明るくなりすぎない。意識してうたっているとすればたいへんなものだし、生来のものであるなら、ますます貴重だ。

 そしてとどめは〈想い出づれば〉。John John Festival もやっている明治の唱歌を、やはりコンサティーナとブズーキをバックに正面切って唄う。唱歌とか歴史とかいう前に、一個の良い歌として唄いきる。しかも伴奏楽器とアレンジによる斬新なシチュエーションの中で唄われて、これは今の、現代の歌として聞える。歌詞は意味云々の前にまず美しい。言葉の響きが美しい。明治の人びとはヨーロッパの文物に出会って、これを日本語に移すために苦闘した。その苦闘によって日本語はそれ以前とは次元を異にするほど幅の広い表現能力を獲得した。いわゆる小学校唱歌もまたその苦闘の一環でもあり、またその最上の成果の一つでもある。こういう歌を聴くとそう思う。それらはまたアイルランドやスコットランドの伝統歌のメロディを採用することで、そうした伝統歌そのものへの我々の回路を開いてもくれたが、ここではそのメロディもあたかも我々自身の伝統のようにも響く。

 この方向はぜひ探究してほしいし、本人たちも何か摑んだものがあったらしい。この日唄った〈Uncle Rat〉はアイルランドのわらべうただが、日本語のわらべうたまで含めた日本語の歌のアイリッシュ的解釈を集めて1枚アルバムを作ってもいいのではないか。

 歌がよくなるとダンス・チューンも良くなる。という法則があるわけじゃないが、これもまた良くなっている。前半のポルカでは音を伸ばさずにスタッカートのように切るのが面白く、アンコールのリールではうまく回っているセッションの趣が味わえた。が、個人的ハイライトは後半のジグのセット。コンサティーナ、アコーディオン、ブズーキという組合せが珍しいことはご本人たちも自覚しているそうだが、こんなに面白いものとは今回の発見。とりわけ、コンサティーナが低くふくらむところやコンサティーナとアコーディオンがからみ合うところは、もうたまりまへん。こういう低い音の膨らみは蛇腹楽器ならではだ。笛ではできないこういうことをやりたくてコンサティーナに手を出したという高梨さんの気持ちもよくわかる。

 こういうユニットを聴くのにホメリはぴったりではある。サイズも響きも、増幅無しに聴いて気持ちがいい。ちょうど繊細なイラストの展示もしていて、これまた彩の音楽に雰囲気がぴったりだった。こういう音楽を生で聴くと、耳の健康にも良いように思うのは錯覚とばかりは言えまい。(ゆ)

 前回の、ユニットとしては初のライヴは見逃したので、初めてのライヴだ。服部阿裕未、高梨菖子、岡皆実のトリオ。服部さんはヴォーカルとアコーディオン、高梨さんが笛とコンサティーナ、岡さんはブズーキに徹する。むろんすべて生音で、こういうユニットだとホメリの音の良さが活きてくる。岡さんのブズーキは、たとえばきゃめるなどの時よりもずっと抑えた弾き方だが、たっぷりと響いてくる。蛇腹二種の音も、それぞれの特徴がよくわかる。

 こういう時、一番不利なのは声だが、服部さんの歌も明瞭によく聞える。もちろん、脇の二人、あるいはご本人のアコーディオンも、バランスを考えているのだろう。

 先日の O'Jizo のものとはまた対照的に、ここに来る客はミュージシャンの関係者だったり、あたしのようにずっと追っかけをしていたり、ホメリのファンだったり、いずれにしても、リスナーとしては白紙ではない。ミュージシャンの方も、片方では耳の肥えた聞き手を相手にしなくてはならないと同時に、あれこれ気を使う必要もない。歌について、楽器について、あるいは音楽とはまるで関係のない個人的体験について、ざっくばらんに、おしゃべりする。まことにゆるいライヴだ。ライヴというよりも、会場の性格もあって、友人の家のリビングで、一杯やりながら、友だちの演奏を聴いている気分だ。

 このユニットの特色の一つは服部さんの歌にある。歌がメインのユニット、というのはまだわが国では珍しい。ようやくバンドとしての形ができてきました、と後で服部さんは言っていたが、そういう手探りでいろいろ試行錯誤しているのがそのまま出るのを聴くのも、実は楽しいものである。バンドと一緒にこちらも成長してゆくような気分になる。あたしのような老人にとっては、若返った気分にもなる。

 初回を見ていないから比較はできないが、今のこのユニットに最もうまくはまっていたのは、後半の〈Johnny Is Gone for a Soldier〉だった。あたしでも名前がわかるホーンパイプ〈Rights of Man〉ではさみ、歌自体もやや速いミドル・テンポで、闊達に唄う。この歌はお手本にしている PPM のヴァージョンもそうだが、哀しみを前面に出すことが多いのだが、こういう明るい演奏の方が、むしろ歌のリアリティが現れるように思う。

 歌では高梨さんの二つもいい。昨年春、服部、高梨にクボッティが加わったトリオでも唄われて良かった〈春を待つ〉がさらに良くなっている。新曲〈金魚の夢のうた〉もかなりの佳曲。高梨さんにはもっと歌を作って欲しい。

 今回あらためて驚いたのは服部さんのノリの良さである。後で聞いたら、豊田さんからもあなたのノリはまるでアイルランドのネイティヴのものだから、ぜひケイリ・バンドに入ってくれと誘われた由。これはおそらく天性のものなのだろう。誰にでも身につけられるものでもないのかもしれない。演奏技術とは別のことである。前半終り近く、高梨さんがコンサティーナで、蛇腹2台でやったリールのセットがハイライト。難しくて、高梨さんはずっとこればかりコンサティーナで練習していて、昨日のリハでもメロメロだったそうだ。終った時に、高梨さんが思わず「できたー!」と叫んだくらい。テクニックから言えば、もっとずっと巧く弾きこなす人はわが国にもいるだろうが、このノリが出せるかは保証の限りではない。とにかく、聴いていて気分が良くなる。昂揚してくる。これはもう聴いているだけでわかることは、この曲に送られた拍手が一際大きく、長かったことが証ししている。上記ホーンパイプの成功も、おそらくここにある。

 もう1曲、後半の〈Swedish Jig〉もすばらしい。わが国ではまだまだ珍しいアコーディオンということもあるから、服部さんにはどんどんとライヴをやってほしいものだ。

 岡さんは歌伴でも良いセンスを発揮する。背景を提供するというよりも、うたい手に沿って、唄を押し上げる。どこで習ったのか、誰をお手本にしているかは知らないが、やはり御本人も歌が好きなのだろう。その岡さんが、服部さんに唄ってもらいたいと持ち込んだのが、スザンヌ・ヴェガの〈The Queen and the Soldier〉というのだから。あたしはこれは Alyth McCormack で知ったのだが、ダーヴィッシュもやっているそうだ。ここでこういうものが聴けるとは、嬉しい驚き。これも、これからどう育ってゆくか、楽しみである。

 これは良いバンドが現れたものだ。歌好きのあたしとしては、多少時間はかかろうとも、ぜひぜひ大成してもらいたい。やっぱり、歌はええ。(ゆ)

 想像を遙かに超えた音楽だった。

 初めてのライヴだが、国内の初物としては例外的に「予習」を充分に積んでライヴに臨んだ。tricolor の《BIGBAND》ライヴの時よりも聴き込んでいたかもしれない。しかし、そこから想像していたものとはまるで別物の音楽を聴かせてくれたのだ。

 まず驚いたのは、加藤さんの上達ぶりだ。上達と言っては失礼になるかもしれない。テクニックだけではない。音楽家としての器がひとまわりもふたまわりも大きくなっている。加藤さんのそうした変身は『夢十夜』全夜上演の時にも明らかだったが、あの時よりもさらに一段と大きくなっている。もっともあちらはあくまでも朗読がメインだったので、こちらは音楽だけでの勝負ではある。

 それが最も明瞭に現れたのは後半トップの〈鳥の歌〉。テーマでも即興でも、揺るぎのない土台の上に、芯が一本ぴいんと通った美しい音がおおぶりの絵を描いてゆく。太い筆で黒々と一気にしかし悠揚迫らず書いてゆく。音を伸ばす時の響きが微動だにしないままに伸びてゆくその快感! 即興では shezoo さんがかなり煽るのにしっかり応えてゆくが、クラスタの連続になっても乱れている感じがしない。壮大な建築物が構築されてゆくようだ。サキソフォーンという楽器は、なんというか、もっとヤクザな楽器ではなかったか。

 歌のバックをつけるときでは、確固たる存在感がありながら、その存在感によって歌を押し上げる。今回は歌が多かったのだが、そのどれにあっても、シンガーを立てながら、器楽としても存分に唄う。あたしとしては理想に近い。

 その歌がまたすばらしい。Ayuko さんはうたい手としては実に幅の広い人で、それこそ歌であれば、ばりばりのジャズやソウルからど演歌まで唄える、それもそれぞれのスタイルのメリットを充分に活かしながら、なおかつ自分の歌としてうたえる人とみえる。例によって shezoo さんの名曲〈Moons〉も良かったが、その次の〈朧月夜〉にまずノックアウトされる。

 しかし本当の圧巻は後半2曲め〈星めぐりの歌〉とフォークルの〈悲しくてやりきれない〉の連続パンチ。もう何もかも忘れて聴き入る。惹きこまれる。日本語の歌をライヴで聴くことの醍醐味、ここにあり。これは到底コトバにならない。生きててよかった。

 その後のユーミン〈春よ、こい〉もいい。アンコールのクルト・ワイルもいい。もう、この人の唄うものなら何でもいい。何でも聴きましょう、とい気になる。shezoo さんが誘ってくれなければ、この方たちと演ることは無かったと言われるが、まったく、shezoo さんがこのバンドを組んでくれなければ、あたしがこのうたい手の歌に会うことは無かっただろう。いやもう、感謝感謝である。

 パーカッションの立岩さんは、終演後にいろいろお話しさせていただいて楽しく、ザッパの《In New York》が好きとおっしゃるのには嬉しくなった。あたしもあれが一番好きだ。ダラブッカや大型で浅いチューナブルのバゥロン、シンバル、鈴(膝に付けたりもしていた)などを駆使して、ここぞというところに、くぅー、たまらんというアクセントを入れてくる。アンコールでは、バゥロンをブラシで軽く叩くのが粋。今回はどちらかというと押えていたようにも思うが、もう少し広いハコで、存分に「叩きまくる」のを聴いてもみたい。今日は「音や金時」で、パーカッションのソロがあるそうだが、残念ながら、John Carty と重なってしまった。3月の「夜の音楽」はエアジンだから、期待しよう。ゆかぽんともうお一人の打楽器奏者のトリオで、ホメリで演られたこともあるそうで、あそこにゆかぽんがフルサイズのビブラフォンを持ちこんだというのに驚く。また演る計画というから、それは何としても見に行かなければ。それにしても shezoo さんが組むパーカショニストはほんとうに面白い人ばかりだ。

 その shezoo さんは、このバンドではバンマスではなく、一人のメンバーとして対等に参加しているとのことで、ピアノも弾きまくる。とりわけ良かったのは前半最後、〈君の夏のワルツ〉のソロ(ここでは冒頭のシェイクスピア、ソネット第18番の朗読でも、Ayuko さんがメリハリをつけて、朗読と歌の間を綱渡りするのがすばらしい)。即興でもかなり羽目を外し、他のメンバーを煽る。こういう shezoo さんを見て聴くのは楽しい。まあ、たとえば トリニテでこういうことをすれば、おそらくぶちこわしになるだろう。以前はあそこでも shezoo さんにもっと羽目を外してもらいたいと思ったこともあったが、何度かライヴを見ているうちに、そうではないことが腑に落ちてきた。そういう意味では、来月のエアジンでの「七つの月」の時に、それぞれの組合せで shezoo さんがどう変貌するのかも見てみたいものの一つではある。

 ヴォーカル以外はすべて生音。こういうところも小さいハコならでは。極上と食べたミュージシャンが口を揃えるピザはお腹いっぱいで食べられなかったし、座るところに迷ったりもしたが、音楽はもうちょっとこれ以上のものはなかなか無い。今年のベスト・ワンは決まった、とはまだ言わないが、5本の指には充分入ってくるだろう。3月のエアジンが実に楽しみだ。

 ここも駅からはほど近く、吉祥寺という街はこういう店を(あたしには)隠していて、あなどれない。(ゆ)

夜の音楽
Ayuko: vocals
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussion
shezoo: piano
 

 仙波清彦氏率いるはにわオールスターズの公演が来年3月20日と発表されてます。仙波氏の音楽家生活50周年記念だそうな。

 ああ、ついに生で見られる。これは死ぬまでに一度見たかったのであります。メンツといい、音楽といい、現在最高の、空前のビッグバンドです。絶後とは言わない。しかし、当分、これに匹敵するものは出ないでしょう。あたしが生きている間は無理だ。こういうバンドが常時活動して、ツアーして巡っている理想世界に、われわれは残念ながら棲んでいませんが、こういうバンドが存在し、コンサートをやってくれるというだけで、生きている甲斐があるというものです。

 はにわオールスターズって、何だ? という方はこちらを御覧あれ。(ゆ)


 イベントのお知らせです。

 朝日カルチャーセンターの東京・新宿教室で1回だけのアイリッシュ・ミュージック入門講座をやります。9月8日(土)の夜です。

https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/23bd4144-13a1-acd6-ec5d-5adf1d1846a4 

 全体でブリテン諸島の音楽という3回のシリーズになっていて、アイルランドがあたしの担当です。イングランドは宮廷音楽、スコットランドはダンスが中心になるらしい。アイルランドはあたしがやるので、伝統音楽ですね。今回、エンヤとかヴァン・モリソンとかU2とかコアーズとかポーグスとかメアリ・ブラックとかは出てきません。ヴァン・モリソンは入れるかなあ、と考えてはいますが、たぶん入らないんじゃないかな。クラシックも、アイルランド人が大好きなカントリーも無し。

 アイリッシュ・ミュージックの真髄、というのを標題に掲げました。この「真髄」とは何か。あたしは「キモ」と呼んでます。まさかね、これが「キモ」ですよと差出せるものなんかあるはずが無い。あったらキモチ悪いです。

 そうではなくて、アイリッシュ・ミュージックを聴いていて、背筋にゾゾゾと戦慄が走って、涙腺がゆるんで、同時にわけもなく嬉しくなってくる。わめきだしたいような、でもじっとこの感じを抱きしめたいような、何ともいえない幸福感がじわじわと湧いてくる。呆けた笑いが顔が浮かんでくるのをどうしようもない。そういう一瞬があるものです。もうね、そういう一瞬を体験すると病みつきになっちまうわけですが、そういう時、アイリッシュ・ミュージックのキモに触れているのだ、とあたしには思えるのです。

 何よりもスリルを感じるそういう一瞬は、昨日聴きだして、今日ぱっとすぐ味わえるもんじゃない。少なくともあたしはそんなことはありませんでした。その頃は、他に手引きもなく、もちろんネットなんてものもなく、わけもわからず、ただ、どうにも気になってしかたがなくて聴いていた。聴きつづけていると、ある日、ゾゾゾと背筋に戦慄がはしった。今のは何だ、ってんで、また聴く。そうやってだんだん深みにはまっていったわけです。その自分の体験の実例を示せば、ひょっとすると、何かの参考になるかもしれない。少なくとも手掛りのひとつにはなるんじゃないか。

 あたしらが聴きだした頃、というのは1970年代半ばですが、その頃は、音源も少ないし、情報もほとんど無いしでワケがわからなかったんですけど、一方で、少しずつ入ってきたから、その都度消化できた。自分の消化能力に見あった接触、吸収が可能でした。アイリッシュ・ミュージックのレコード、当時はもちろんLPですけど、リリースされる数もごく少なかったから、全部買って何度も聴くことができました。ミュージシャンの来日なんて、もうまるで考えられないことで、レコードだけが頼りでしたしね。

 今はアイリッシュ・ミュージックだって、いざ入ろうとしてみたら、いきなりどーんとでっかいものが聳えている感じでしょう。音源や映像はいくらでも山のようにあるし、情報も無限で、どれが宝石でどれがガセネタかの見分けもつかない。昔、数少ない仲間内での話で、アイリッシュ・ミュージックのレコードのジャケットと中身の質は反比例する、買うかどうかの判断に迷ったら、ジャケットのダサいやつを買え、というのがありました。半ば冗談、半ば本気でしたけど、今はこういうことすら言えない。

 そこでカルチャーセンターでの講座も頼まれるわけですが、だからって、これがキモに触れられる瞬間ですと教えられるものでもない。ここにキモを感じてください、ってのも不可能。だって、アイリッシュ・ミュージックのどこにキモを感じるかは人それぞれ、まったく同じ音楽を聴いても、キモを感じる人もいれば感じない人もいる。

 あたしが今回示そうと思ってるのは、つまりはあたしにとってのキモと思えるものの実例です。これまで半世紀近くアイリッシュ・ミュージックを聴いてきて、ああキモに触れたと思えたその代表例をいくつか提示してみます。それは例えばプランクシティのファースト・アルバム冒頭のトラックの、リアム・オ・フリンのパイプが高まる瞬間であったり、ダラク・オ・カハーンの、一見まったく平凡な声が平凡にうたう唄がやたら胸に沁みてくる時であったりするわけです。そういう音源や映像をいくつか聴いたり見たりしていただいて、そのよってきたるところをいくらか説明する。こういう例は何度聴いても当初のスリルが擦りきれることがありません。そこがまたキモのキモたる由縁です。

 それと、アイリッシュ・ミュージック全体としてこういうことは言えると考えていることも話せるでしょう。例えば、アイリッシュ・ミュージックというのは生活のための音楽である。庶民の日々の暮しを支えて、いろいろ辛い、苦しいこともあるけれど、なんとか明日も生きていこうという気にさせてくれる、そのための音楽である。

 音楽はみなそうだ、と言われればそれまでですが、アイリッシュ・ミュージックはとりわけそういう性格が濃い。それは庶民の、庶民による、庶民のための音楽です。名手、名人はいます。とびぬけたミュージシャンもいます。でも、そういう人たちは特別の存在じゃない。スターではないんです。ある晩、この世のものとも思えない演奏をしていた人も、翌朝会うとなんということはない普通の人です。カネと手間暇をかけて念入りに作られたエンタテインメントでもありません。プロが作る映画やショー、ステージとはまったく別のものです。

 一方で、ミュージシャン自身が内部に持っているものの表現でもありません。シンガー・ソング・ライターやパンク・バンド、あるいはヒップホップ、またはジャズ畑の音楽家、クラシックの作曲家といった人たちが生み出す音楽とは、成立ちが異なります。アイリッシュ・ミュージックのミュージシャンたち、シンガーたちも、まず自分が楽しむために演奏したり、唄ったりしますが、自分だけのためにはしません。アイリッシュ・ミュージックの根底には、一緒にやるのが一番楽しい、ということがあります。「一緒にやる」のには、聴くことも含まれます。

 アイリッシュ・ミュージックのミュージシャンたちはパブとか誰かの家に集まってセッションと呼ばれる合奏をよくやります。多い時には数十人にもなって、みんなで同じ曲をユニゾンでやるわけですけど、そういう中に楽器をもって演奏するふりをしているだけで、実は全然音を出していない、出せないつまり演奏できない人が混じっていたが、その場の誰もあやしまなかったという話があります。本当かどうか、わかりませんが、そういう話を聞いても、不思議はないね、さもありなん、と思えてしまうのがアイリッシュ・ミュージックです。実際にそういう人がいて、実はその場の他の全員が気がついていても、許してしまう、誰もその人を指さして批難して追い出すなんてことはしない。一緒に楽しんで場を盛り上げている人間が一人増えるんだから、そういう人がいたって全然いいじゃないかと考えるのがアイリッシュ・ミュージックです。

 これまでアイリッシュ・ミュージックについて公の場やパーソナルな機会に話して、一番よく訊ねられる質問があります。

 「どうしてアイリッシュ・ミュージックを聴くようになったんですか」

 なんでそういうことを訊くんだろうとはじめは思いましたが、気がつくと自分でも同じ質問をしたりしてるんですよね。とすれば、これは案外ものごとの急所を突いているのかもしれないと思えてきます。

 この質問に正面から答えようとすると回りくどくなるので、今回は簡潔に、あたしはアイリッシュ・ミュージックのこういうところに引っぱられてここまできました、という話にもなるでしょう。

 具体的に何を聴いたり見たりするかは、大枠はほぼ固まってますが、細かい点はこれからおいおい考えます。カルチャーセンターは初めてなんで、どんな人が来られるのか、いやその前に、だいたい人が来るのか、楽しみでもあり、コワくもあり。(ゆ)

 矢野あいみという人は知らないが、後の3人が出るんなら行かにゃなるめえと出かけると、やはり発見がありました。こういう発見ないし出会いは楽しい。tipsipuca プラスを追い掛けてふーちんギドと出会ったのに通じる。

 矢野氏はハープの弾き語りであった。梅田さんのものより小型の、膝の上にも載せられるサイズ。実際には膝の上に載せては弾きにくかろう。音域は当然高く、また響きもシャープ。この楽器を選んだきっかけは訊きそこなったが、声に合っているのも理由の一つだろう。

 矢野氏はこの声のアーティストだ。シンガーというよりも、声を使った表現という方がより正確だろう。うたは大きな割合を占めるが、うたうことがすべてではない。最もめだつのはホーミーのように2つの声を同時に出すテクニックで、ホーミーとは違うそうだが、効果は似ている。ホーミーの場合、高い方が倍音で額のあたりから出てくる感じだが、矢野氏のは2つの音の差がもう少し小さく、両方とも口のあたりから出てくる。これをうたの中に組込む。ホーミーの場合、それが行われている間はアーティストの表現のすべてを覆ってしまい、その場を支配する。それとはやはり異なって、うたの一部の拡大、表現の形としてはあくまでもうただが、その表情を多彩に豊かにする。

 このオーヴァートーンだけでなく、様々なテクニックないしスキルを駆使して、様々な声を出す。一番得意というか出しやすい声というのはあるようで、ここぞというところに使われると、倍音成分の多い声に、それだけで他は要らなくなる。不遜かもしれないが、歌詞もどうでもよくなる。

 シンガーというのは声の質だけで決まってしまうところがある。この声がうたってくれれば、歌詞の内容も、極端な場合にはメロディすらも要らなくなることがある。あたしにとってはアイリス・ケネディの声などはその例だ。絶頂期のドロレス・ケーンの声にもそういう瞬間がある。

 矢野氏はその気になればそれだけで勝負できる声をお持ちではないかと思う。それとも今の声は訓練の結果、得たものなのだろうか。いずれにしても、この声とテクニック、そしてハープの響きの相乗効果はかなりのもので、陶酔のひと時を過ごさせてもらった。おそらくハープを使っていることが一層効果を高めているので、ピアノやギターでも聴いてみたいが、隙間の大きい、発音と余韻の差が大きいハープの響きが効いているのだろう。

 あまりライヴはされていないようだが、ソロでも、あるいはこの日のようなバンドと一緒でも、もっと聴きたくなる。

 この日のプログラムは矢野氏が、ヴォイス・トレーニングの「お弟子さん」である服部氏に声をかけ、服部氏が高梨、梅田両氏に声をかけたということのようだ。服部氏も4曲うたったが、なんといっても中村大史さんの〈気分〉がいい。うたそのものもいいが、それを演奏する3人の「気分」がちょうどいい。それが一番よく出ていたのは高梨さんの笛。

 ライヴといっても、拳を握って、よおし聴くぞ、というのばかりがいいとはかぎらない。こういう、のんびりした、インティメイトな、友人の家のサロンのようなものもいいものである。ホメリだとその感じがさらに増幅される。強烈な感動にカタルシスをもらう、とか、圧倒的パフォーマンスに押し流される、とかいうことがなくても、ほんわかと暖かくなって、体のこわばりがとれてゆくのもまた良きかな。

 別にアイリッシュとうたう必要もないし、スコティッシュでもイングリッシュでもアフリカンでもいいわけだが、アイリッシュを掲げると親しみが増すというはどうもあるらしい。知らない人でも気軽に聴いてみようか、という気になりやすい。アイリッシュに人気があるのは、そういうところもあるのだろう。(ゆ)

 先日、奈加靖子さんのインストア・ライヴの折りに渋谷タワーで買った Edmar Casteneda の新作《ライヴ・アット・ザ・ジャズ・スタンダード》があまりにすばらしいので、そのカスタネダが参加しているスーザン・マキュオンの《BLACKTHORN》を久しぶりに聴く。

 
Blackthorn: Irish Love Songs
Susan McKeown
World Village USA
2006-03-14


 これはカスタネダの、おそらくデビュー録音だと思うが、冒頭の <Oiche Fa Fheil' Bride = On Brigid's Eve> がまずスーザンのヴォーカルとカスタネダのハープだけで、初めて聴いたときの衝撃は何度聴いても薄れない。というよりも聴くたびに新鮮。スーザンのアイルランド語歌唱のこれは一つの頂点だ。どこにも余計な力の入っていない、しなやかで強靭、すみずみまでよく制御がゆきとどいた歌唱。はじめはおそろしくひねくれたメロディに響くが、聴きこんでゆくとこれ以上ないくらい美しい旋律が聞えてくる。その声にあるいはより沿い、あるいは対峙し、あるいは横合いから茶々を入れ、しかも独自に奔放に飛びまわるハープ。この音楽はまぎれもなくアイルランド語の歌謡伝統のコアを貫きながら、同時により広い文脈を獲得して、今この星の音楽へ離陸している。かつてはありえなかった、離れた文化同士の衝突と格闘と融合が目の前で進行する。

 これがカスタネダのデビューというのは、出た当時、このハープに仰天して、他に録音はないのかと探しまわって結局見つからなかったからだ。その後しばらくして、Artist's Share でソロ・デビューCDのプロジェクトがアナウンスされたと記憶する。もっとも、ジャズ方面で出ていたのがあたしの探し方ではひっかからなかっただけかもしれない。

 久しぶりにそのまま聴いていると、この冒頭の曲の末尾、カスタネダの疾走感あふれるソロからいきなりモダン・アイリッシュ・スタイルのアンサンブルに転換する2曲め<A Maid Going to Comber/ The Red and Black> がまたいい。とりわけ後ろに続くチューンでの Dana Lyn のフィドルの弾みに顔がほころぶ。

 ダナ・リンはヴィオラも弾いて、4曲目 <Maidin Fhomhair (One Morning in Autumn) /Princess Royal> でバロックの通奏低音のように地を這うフレーズを半ばドローンのように付ける。どこか亡霊の動きのようでもある。英語でいう 'haunting' の気分。このうたは聴いているだけで胸を締めつけられるような、アイルランドにしかありえないあのメロディのひとつ。スーザンはアイルランド語と英語を交互にうたう。後半のホーンパイプではテンポを落とし、一つひとつの音をていねいにつないで、リズムよりもメロディを強調する。抒情の極み。

 6曲目のタイトル・トラックでも、スーザンの無伴奏アイルランド語歌唱から始まると、やがて下に入ってくるリンのヴィオラのドローンに、かえってスーザンの声に耳を引きつけられる。

 トラック8 <The Lass of Aughrim> でもこのヴィオラが効いて、雲間から漏れる希望の光を浴びる。緊張感を高めるとみせて、とぼけてもいるようだ。この人、相当に懐が深いぞ。サイトを見てみるとアイリッシュ・プロパーではないが、それにしては [02] でのフィドルはアイリッシュ専門にやってるフィドラーだってなかなか弾けるものではない。カスタネダといい、こういう人を連れてくるところ、スーザンの面目躍如だし、ニューヨークでしかできないことでもあろう。

 このアルバムは涙ばかり流さねばならないわけではなく、<Bean Phaidin (Paudeen’s Woman)> では、口琴とバンジョーの伴奏ににやりとさせられるし、<Deirin De (The Last of the Light)> ではチャラパルタとこれもバスクの打楽器らしき鉦と再びカスタネダがからむ。こちらは童謡だろうか、カスタネダも楽しそうだ。

 カスタネダは 11 <S Ambo Eara (The Man for Me)> で三度フィーチュアされて、本来遊びうたであるメロディとかけ離れたフレーズを繰り出して、ここでも音楽の枠組をぶち破る。独特のスタッカート音をまぶしたソロも存分に披露する。

 うーん、やはりこれはスーザンのこれまでのところベスト録音だ。同時にアイリッシュ・ミュージックの録音としても、オールタイム・ベストでベスト10に入れよう。

 スーザン・マキュオンは幅の広い人で、スコットランドの Johnny Cunningham が曲を担当した Mabou Mines の人形と人間による PETER & WENDY に参加して、みごとな歌唱を披露してもいる。このサウンド・トラックはおよそケルティック・ミュージックの名のもとにリリースされた録音のなかでも最高の一つで、今は亡きジョン・カニンガム畢生のメロディがいくつも入っている。それにしてもこのステージをぜひ一度生で見たいものだ。1997年の初演以来、何度かツアーしているらしいが、音楽は生バンドでやっている。


Susan McKeown
BLACKTHORN: Irish Love Songs = An Draighnea Donn
World Village 468054
2005

Musicians
Susan McKeown: vocals
Xuacu Amieva: trompa, rabel
Cormac Breatnach: low whistle
Edmar Casteneda: harp
Rosi Chambers: vocals
Steve Cooney: guitar
Robbie Harris: percussion
Lindsey Horner: bass
Dana Lyn: fiddle, viola, harmonium
Don Meade: harmonica
Eamon O'Leary: guitar, bouzouki, mandolin, electric guitar, banjo
Igor Oxtoa & Harkaitz Martinez: txalaparta

Tracks
1. Oiche fa Fheil’ Bride (On Brigid’s Eve) 5:32
2. A Maid Going to Comber; The Red and Black 3:50
3. Do In Du (The Things in Your Heart) 3:10
4. Maidin Fhomhair (One Morning in Autumn); Princess Royal 5:27
5. Bean Phaidin (Paudeen’s Woman) 1:54
6. An Draighnean Donn (The Blackthorn Tree) 3:40
7. Caleno Custure Me (I am a Girl from the Suir Side) 2:39
8. The Lass of Aughrim 3:08
9. Deirin De (The Last of the Light) 2:54
10. An Raibh Tu ag an gCarraig? (Were you at Carrick?) 4:15
11. S Ambo Eara (The Man for Me) 3:00
12. An Droighnean Donn (The Blackthorn Tree) 3:56


 
Peter &amp; Wendy (1997 Original Cast Members)
Johnny Cunningham
Alula
1997-10-21


 Winds Cafe 215「メランコリーの妙薬」無事終了しました。ご来場くださいました皆様、ありがとうございました。

 いろいろと計算違いがあり、本来休憩を入れても2時間半ですむはずのものが、延々4時間におよぶという体たらく。さらに、「妙薬」にはまったくならず、というより当初意図した「妙薬」にはならず、やはり「メランコリー」を治す薬にどうやらなってしまいました。ご期待にそえず、また広げた風呂敷に中身を盛ることができず、お詫びもうしあげます。

 とまれ、当日かけました15曲のうたとシンガーについての解説をあらためて書いていきます。歌詞もうたわれているものになるべく近いものに改めました。


 参考文献として、The Penguin Book of English Folk Songs (1959、以下この一連の解説では PBEFS) と The New Penguin Book of English Folk Songs (2012、以下 NPBEFS) をまず挙げておきます。

 前者はヴォーン・ウィリアムスとA・L・ロイドの編集になるもので、出版以来、イングランドの伝統歌をうたいたい人びとにとってバイブルとなり、様々な形でイングランドのフォーク・リヴァイヴァルに絶大な影響を与えました。われわれのような聴くだけの人間にも、頼りになる種本でした。というのも、イングランドに限らず、ブリテン、アイルランドの伝統歌のレコードには歌についての解説はあっても、歌詞が付いているものはほとんど無かったからです。英語もろくざま聞き取れない人間には、こうした歌詞集はたいへんありがたいものでした。ここに掲載されている歌詞そのままにうたわれていることも少なくなかったからです。収録曲数は70。

 ペンギンが絶版にした後、しばらく入手が難しかったのですが、2003年に English Folk Dance and Song Society の委嘱で、Malcolm Douglas が解説を大幅に増補改訂して、CLASSIC ENGLISH FOLK SONGS として再刊しています。

Classic English Folk Songs
English Folk Dance & Song Society
2003-12

 

 The New Penguin Book of English Folk Songs は Steve Roud と Julia Bishop の編纂になり、2012年にハードカヴァー、今年ペーパーバックで出ました。ラウドは永年 EFDSS の伝統歌データベースの構築に携わり、このデータベースに収録されている歌にはそれぞれ Roud 番号がついています。ビショップはここでは主にメロディなど音楽面を担当しています。収録曲数は旧版の倍以上の151曲。編纂方針は異なりますが、重複するものもあります。


 

 もうひとつ Child 番号について。今回聴いていただいたうたのうち、01, 02, 03, 10 はいわゆる「チャイルド・バラッド」でそれぞれチャイルド番号がついています。アメリカの文献学者 Francis James Child が THE ENGLISH AND SCOTTISH POPULAR BALLADS, 5 vols, 1882-1898 を編纂しました。英語の口誦伝承バラッドのそれまでの研究成果を集大成したものとして、おおいに重宝され、後世の研究や演奏にも大きな影響を与えました。ここに収録された 305 曲のバラッドを、チャイルドがつけた整理番号で呼ぶのが慣習になっています。

 ラウド番号やチャイルド番号がつけられたのはなぜか。口誦伝承で伝えられているうたは、当然「正調」がありません。どれも少しずつ歌詞やメロディが違っています。内容、ストーリーは同じながら、舞台設定や登場する固有名詞をはじめとする細部、さらにはタイトルが異なることも、ごく普通のことです。こうしたヴァリアント=異版を束ねて、同じグループであることを示すのが、こうした番号です。もちろん絶対的なものではなく、厳密なものですらありませんが、こうした物差しがあるといろいろと便利でまた面白くなることもあります。
 

 まずはあらためて、当日聴いていただきました曲目を掲げます。
順番、曲名、シンガー名、アルバム名、発表年、作者です。


01. Golden Vanity, Bob Fox, The Blast, 2006, Trad.
 
02. Sir Aldinger (Child 59), Chris Foster, Outsiders, 2008, Trad. + Chris Foster

03. The Lady Of York, Chris Wood, Trespasser, 2007, Trad.

04. The Dalesman's Litany, Dave Burland, A Dalesman's Litany, 1971, Trad.

05. Why Old Men Cry, Dick Gaughan, "Far, Far From Ypres", 2008, Dick Gaughan

06. Sailing to Australia, Dougie MacLean, Butterstone, 1983, Dougie MacLean

07. Wild Rover, Jim Causley, Lost Love Found, 2007, Trad.

08. L & N Don't Stop Here Anymore, Jimmy Aldridge & Sid Goldsmith,
Let The Wind Blow High Or Low, 2014, Jean Ritchie

09. Wild Rover, Mick West, A Poor Man's Labour, 2004, Trad.

10. The Bonnie Banks Of Fordie (Child 014), Nic Jones, Ballads (Anthology), 1997, Trad.

11. Moon In The Glass, Paul Stephenson, Light Green Ball, 2002, Paul Stephenson

12. The Folkstone Murder, Pete Castle, False Waters, 1995, Trad.

13. Fair And Tender Lovers, Roger Wilson, Stark Naked, 1994, Trad. & Roger Wilson

14. The Wind That Shakes The Barley, The Alias Acoustic Band,
1798 - 1998 Irish Songs Of Rebellion, Resistance & Reconciliation, 1998, Trad.

15. Boots Of Spanish Leather, Tony Rose, Bare Bones, 1999, Bob Dylan


 今回の15曲のうち、伝統歌は9曲。05, 06, 08, 11, 15 は20世紀以降に作られたオリジナル曲です。05、06 はスコットランド人、11 はイングランド人、08、15 はアメリカ人の手になります。

 枕はこのくらいにして、次回から個々のうたに入ります。(ゆ)

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