クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:歴史

Victoria Goddard, The Hands Of The Emperor; 2019
Victoria Goddard, Derring-Do For Beginners; 2023
Ray Robertson, All The Year Combine: The Grateful Dead in Fifty Shows; 2023
Nghi Vo, Mammoths At The Gates; Tordotcom Publishing, 2023
友川カズキ, 一人盆踊り; ちくま文庫, 2019
洲之内徹, さらば気まぐれ美術館, 新潮社, 1988
The Annotated Memoirs Of Ulysses S. Grant, annotated by Elizabeth D. Samet; Liveright Publishing, 1886/2018
バート・S・ホール + 市場泰男, 火器の誕生とヨーロッパの戦争 Weapons And Warfare In Renaissance Europe; 平凡社ライブラリー, 1999/2023


 今年はとにかく Victoria Goddard に明け暮れ、そして洲之内徹を発見した。その合間に石川淳の中短篇を読みつづけ、Elizabeth D. Samet が厖大な、分量として本文と肩を並べ、かつ無数の図版を加えた厖大な注をつけたユリシーズ・S・グラントの回想録に夢中になった。


 まずは洲之内徹である。この人の名前と著書を知ったのは友川カズキの『一人盆踊り』だった。その『一人盆踊り』を教えられたのは、ダーティ・松本のブログである。
 『一人盆踊り』そのものも抜群に面白い読物だった。松本が書いているお地蔵さんにとりつかれた話も確かに面白いが、図書館から借りて読んでみて買う気になったのは、その話の次に入っている「一番下の空」という詩だった。その後の「詩篇供廚房められた中のいくつかも良かった。

 友川はシンガーであり、詩人であり、そして絵を描く。三つめからこの中の一篇「洲之内徹さんのこと」が生まれた。

 この文章は洲之内徹の追悼文である。白洲正子の追悼文の引用でしめくくりながら、これ自身見事な文章だ。こういう文章を書かせる洲之内徹が書いた本は読んでみたいと思わない方がおかしい。図書館には全部そろっていた。まず文庫版『気まぐれ美術館』を読み、『絵の中の散歩』を読み、以下、「気まぐれ美術館」の各巻を読んでいった。読みおえると、「気まぐれ美術館」以外の美術に関するエッセイを集めた『芸術随想』の2巻を、こちらは古書を買って読んだ。洲之内がとりあげた絵が図版として大量に入っていたからだ。

 信じられないくらい面白い。絵についてのエッセイがこんなに面白くなれるものとは知らなんだ。まさに我を忘れて読みふけってしまう。あっさり読んでしまうのはもったいないと、少しずつ読もうとするのだが、ついつい手が伸びてしまう。読みだすとやめられない。書いてあるのは、聞いたこともない絵描きたちのことばかりだ。日本で活動している、していた絵描きたちだ。日本語ネイティヴではない人も数人いる。読みおえた時には、誰もかれも昔から知っている人になっていた。

 とりわけ、最終巻『さらば気まぐれ美術館』だ。この巻に入ったとたん、空気が一変する。悽愴の気を帯びる。これが最後とわかっているのはこちらの話で、書いている本人はまだまだ何年も書きつづけるはずなのに、もうすぐ終りと気づいてしまった感覚がじわじわと這いのぼってくる。

 まず、洲之内はそれまで片鱗もなかったにもかかわらず、いきなり音楽を聴きはじめる。きっかけは友川だ。絵描きの友川のレコードを聴き、ライヴに行ったことで、日本のシンガー・ソング・ライターたちのレコードを聴きだす。周囲が薦めるものを片端から聴く。そしてある日、ジャズを発見する。今度はジャズに溺れこむ。レコードをかけて、以前はそんなに飲めなかった酒を飲みつづけながら、何時間も聴く。人にも無理矢理聴かせる。結局死ぬ間際まで聴きつづける。

 こんな風に死に物狂いで、実際に生きるためにも音楽を聴いていた人間、聴いている有様は見たことがなかった。洲之内の絵を見る眼のことを友川は書いている。もし眼のように耳がものを言うならば、洲之内の耳はさぞかしすさまじく美しい形相を見せていただろう。佐藤哲三や松田正平について語るように、洲之内がコルトレーンやモンクについて語っていたら、と思わざるをえない。

 洲之内徹については散々語られてきたし、これからも語られるだろう。あたしは黙ってその文章をくり返し読むだけでいい。こういう人に出会うと、もっと早く出会っていたかったと思うが、その度に、出会うにはその時が満ちることが必要なのだと自分に言い聞かせる。


 エリザベス・サメトが注をつけたユリシーズ・S・グラントの回想録を読んだのは、Washington Post Book Club で紹介されたからだ。



サメトはこの回想録にとり憑かれ、その研究をするためにウェストポイントの米陸軍士官学校で英語を教える仕事についた。そうして永年研究してきたありったけをこの注にぶちこんだ。と思えるが、おそらくまだまだ出していない、出せかなかったものが山のようにあるのだろう。そういうことも垣間見える。登場する人物などの固有名詞はもちろん、当時の社会、インフラ、テクノロジーなどの状況から、戦争を記録し、叙述する方法やスタイルの多様性、そしてグラント本人と回想録そのものの評価の変遷などなど、およそ紙の本として、一冊本として可能なかぎりの情報を詰めこんでいる。おかげで索引がはじき出された。基本にあるのは、時間的にも空間的にも可能な限り広い文脈で読もうとする姿勢である。例えば参照される文献には古代ギリシャ・ローマはもちろん、中国の古典から現代のものまで含まれる。グラントの本文はもともと滅法面白いが、それをさらに何倍、いや何乗にも増幅する。

 本文とサメトの注とから浮かびあがるグラントという人物も面白い。軍指揮官としてのグラントはアメリカのみならず、世界史上有数といわれる。断片的、ランダムな報告から、現場の地理的環境、状況全体を瞬時に適確に把握し、適切な対応ができる能力、自分が見えないところで敵が何をしようがまったく気にしないでいられる能力、戦場全体を総合的に把握して戦略を立てて実行する能力、そして全軍を一つの目標に向かって動かしてゆく能力を備えた。身長170センチの小男で、風采はあがらない。当時戦場で撮られた写真に映っているのは、どう見てもせいぜいが下士官だ。戦闘の間は丸腰のまま馬で戦場を駆けまわりながら、指示を出す。いったいいつ眠るのだと思えるほどの多忙の合間を縫って、愛妻ジュリアに頻々と手紙を書く。

 戦争に勝つという共通の目標に向かっている集団である軍隊を率いたとき、グラントは無類の強さを発揮した。しかし、一国の政治にはそうした共通の目標はありえず、様々な目標を各々の集団または個人がめざす。そういう集団を率いるとなるとグラントはほとんど無能になる。大統領としては最低の一人とされる。

 南北戦争終結までを扱うグラントの回想録は、62歳の時、詐欺師にひっかかって、全財産を失い、金を稼ぐ必要ができたことから書きはじめられた。ほぼ同時に喉頭がんが発覚して、金を稼ぐのも急がねばならなくなって本格化する。最後の原稿を渡したのは死の5日前。つまりがんが進行する中、1年で書いた。今や、アメリカ文学の古典として、いくつもの版が出ている。サメト注のものは、これら従来の版に冠絶する。


 バート・S・ホール + 市場泰男の『火器の誕生とヨーロッパの戦争』は、タイトル通りの話だが、火器には携帯用の小火器だけでなく、大砲もある。ヨーロッパの戦争はオープン・フィールドでの野戦と攻城戦がほとんどで、したがって初めは大砲が発達する。小火器がモノを言いはじめるのは、後込めシステムとライフルすなわち施条(しじょう)もしくは腔旋が発明されてからだ。それ以前の銃は装填に手間暇がかかりすぎたし、射った弾がどこに飛んでゆくかわからなかったから、使い方が限定されていた。滑腔銃である火縄銃で狙いをつけて撃つ、なんてことはありえないのだ。そしてライフルを施した銃が普及して最初の戦争が南北戦争だ。


火器の誕生とヨーロッパの戦争(945;945) (平凡社ライブラリー) [ バート・S.ホール ]
火器の誕生とヨーロッパの戦争(945;945) (平凡社ライブラリー) [ バート・S.ホール ]

 鉄砲や大砲は戦争の仕方をがらりと変えた、という定説を、そうではなかったと論証するのが、著者がこの本を書いたきっかけ。技術、テクノロジーはリニアに一直線に発展するものではないし、革新的なテクノロジーが即座に戦争のやり方を変えたわけでもない。むしろ、曲りくねって、時には改良しようとして逆行することもある。発明されただけで世の仕組みを変えることにはならない。

 情報のデジタル化も同じだ。それ自体では、たとえばCDが一時LPにとって代わったように、旧来の使われ方の中で使われる。これがネットワークと結びついた時、デジタル化の本領が発揮され、あるいはその真の意味が発見されて、情報はメディア、紙やレコードやフィルムから解放された。

 火器は人間ないし他の動物を殺傷する以外の機能は無い。槍、弓矢、刀剣も同様だが、それらは象徴になりうる。火器は象徴にならない。徹底的に工業製品だからか。それだけに、テクノロジーの本質を他よりも剥出しにする。


 石川淳はまずは文庫で読んでいる。エッセイ、随筆については昨年ほぼ読みつくした。『森鷗外』など、あえて読まずにとってあるものもあるが、最初期から最晩年までを網羅する形で、重要なものは読めた。そこで今年は中短篇小説をあらためて読みだし、そしてこちらも文庫で読めるものは読みつくした。

 まず驚いたのはエッセイと小説がほとんど対極といっていいくらいに違うことである。エッセイは漢文とフランス文学とそして江戸文化の分厚く、強靭な教養そのままに、「最後の文人」の面目躍如である。

 中には『諸国畸人伝』のように、諧謔精神たっぷりに対象を選んでいるものもある。その書きぶりは堂々たるもので、あまりに正統的なので、あたしなどはかつがれていることにかなり後になるまで気がつかなかった。正統的な叙述がそもそもかつぐ手法であるわけだ。

 そういうものも含めて、表面的には江戸以来の日本語のエッセイ、随筆の王道をひき継ぐ。これはどう見ても文学、それも「純」をつけたり、ゴチックで強調したりすべき文学だ。このエッセイだけでも石川淳が近代日本文学の巨人の一人に数えられるのも無理はない、とすら思えてくる。

 ところが小説は様相がまるで違う。こちらはどう見ても、「異端」と呼ばれておかしくないものばかりだ。小説の王道どころではない。裏街道ですらない。道なき道をかき分けてゆく。石川淳の前に道はなく、石川淳の後ろに道が残る。後を追って辿る者はいそうにない道だ。石川に並べられるのは中井英夫であり、かれが「異端の作家」と呼んだ、夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎、さらには山田風太郎といった面々だ。小説だけとりだせば、石川淳に最も近い位置に今いるのは筒井康隆ないし円城塔だろう。あるいは川上弘美か。石川淳の中短篇が『新潮』とか『群像』とか『文學界』とか、あるいは『すばる』などの雑誌に発表されたというのは、どういう契機なのだろう。出世作『普賢』が芥川賞をとったからだろうか。というようなことまで思ってしまう。

 しかしまあ面白い。もちろん文庫に収録されるものは精選されているとはいえ、どれもこれも面白い。「おとしばなし」のシリーズのような、カルヴィーノやレムを髣髴とさせるホラ話。半村良の『産霊山秘録』を髣髴とさせる「八幡縁起」のような伝奇もの。あるいは「まぼろし車」のような純粋のホラー。この「まぼろし車」を菅野昭正ほどの読み巧者が完全に読みあやまっていたのは、別の意味で面白かった。そうすると石川淳のキャリア全体が壮大な詐欺に見えてくる。20世紀日本の文学界全体をまんまとかつぎおおせた大詐欺師・石川淳。むろん、その石川淳と、「最後の文人」である石川淳は矛盾しない。同時にその二つの相を持っていたのだ。

 来年は長篇を読む予定だ。『狂風記』だけは読んでいるが、これを石川の長篇の最高傑作と呼ぶのを、あたしはためらう。むしろ『至福千年』や『荒魂』に期待する。


 さてヴィクトリア・ゴダードである。この人について語るのは難しい。ゴダードの作品はかなり人を選ぶからだ。ハマる人はハマるけれども、そうでない人にとってはまったくのゴミにしか思えない性質の小説だ。それに、なぜ、自分がこれにハマるのか、いつも以上にわからない。



 ひとつだけ言えそうなのは、あたしがゴダードを読むのは、そこに希望が語られているからだろう、ということだ。単に希望を持ちましょうと言っているわけではない。脳天気に楽天的な話で希望を抱かせようとするわけでもない。読んでいると、希望が持てそうな気がしてくるのである。具体的にはたぶんそこがゴダードを読みつづける人と棄てる人を分けるのではないか。ゴダードを読んでいると湧いてくる希望の感覚を、なんでこんな感覚が湧いてくるのだといぶかりながらも、話から必然的に生まれてくるものとして認め、受け入れる人と、徹頭徹尾うさん臭いもの、認めてしまっては危ない罠として拒む人が分れるのではないか。

 だから、とにかく文句ない傑作だから読めと、たとえばアン・レッキーの Ancillary Justice 邦題『叛逆航路』を薦めるようにはゴダードを薦めるわけにはいかない。

 しかも、エントリー・ポイントとしてのお勧めも難しい。ベストのエントリー・ポイントが The Hands Of The Emeperor であることはファンの一致するところだが、これは30万語超、邦訳400字詰3,000枚の長篇だ。kindle で902、Apple Book で 1,317 というページ数である。しかも、その長さを実感する小説なのだ。抜群に面白いが、なかなか読みおわらず、読みおえたとき、ああ長かったと思えてしまう。長かった、でも面白かった。そして、もう一度読みたいと思えてくる。



 これだけではない。ゴダードの作品は登場人物など、様々な形でからみ合っていて、一通り読んで終りではなく、もう一度全部読みなおしたくなるのである。

 エントリー・ポイントの2番目の選択肢としては The Greenwing & Dart シリーズの1冊目 Stargazy Pie だが、このシリーズの本当の面白さは巻を追って深まるので、これだけ読んでも、何の話かよくわからないうらみがある。あえて言えば、これを読んでみて、続きを読んでもいい、読みたいと感じられたら脈があるかもしれない。



 中短篇は初期のものは後に長篇で確立するスタイルとは違う。近作は長篇の外伝が多いので、元の長篇を読んでいないと面白さがよくわからない。

 もう一度あえて言えば The Bride Of The Blue Wind は、これまでのゴダードの全作品の中であたしが一番好きなものではある。このノヴェラは語り口が他のものと異なり、Nine Worlds と作者が名づけた世界での神話を語る、ダンセイニを思わせるやや古風なもので、きりりと引きしまった見事な出来だ。登場人物たちも後の他の作品に、いろいろと姿を変えて出てくる。



 そしてこれが例外となる語り口、ゴダードの主要作品の語り口がまた問題だ。ひと言でいえば、のんびりしているのである。毎日の暮しの細々としたことをゆったりとしたテンポで語ってゆく。食べもの、ファッション、買物、子どもたち、ゴシップ、近所づきあい。派手な活劇だけでなく、その裏にあるはずの生活を描く。ヒーローたちが負わされた宿命を進んで担おうという気になるような生活である。

 その語りのテンポはおよそ現代風の、常に何かに追いかけられているようなペースと根本的に異なる。このテンポについてゆけるかどうか、そこまで遅くゆるめることができるかが、おそらくはゴダードを読む第一関門となろう。言いかえると、語る必要のあることのすべてを、必要なだけの時間をかけて語るという姿勢を認め、いくらでも時間をかけていいし、手間暇をかけて語ってもいい、と思えるかどうかである。

 もっともこの人はアクション・シーンが不得手なわけではない。アクション・シーンでもペースは変わらず、一つひとつのシーン、手順をていねいに追いながら、しかも緊迫感が漲る。すさまじいまでの早技がほとんど舞踏に見える。考えてみれば、これはかなりの力業だ。並の筆力ではこうはいかない。ゆっくりていねいに描写すれば、緊張感は犠牲になるのが普通だ。

 あたしはとにかくどハマりにハマった。今年いっぱいかけて、長篇 At The Feet Of The Sun と Nine Worlds ものではない短篇を一握り残して、読みおえた。The Hands Of The Emperor にはやはり感動した。そして、今のところ最新の長篇 Derring-Do For Beginners には夢中になった。新たなシリーズの第一作で、続きを読みたくてしかたがない。

 ゴダードは2014年以来現在までに総数33本の作品を発表している。
短篇 = 7
短中篇 ノヴェレット = 4
長中篇 ノヴェラ = 9
長篇 = 12
 この他に Discord のみで読める短篇が3本。これもあたしは読んでいない。

 来年はゴダードの再読をしながら、また別の人を試すことになろう。誰かにハマるか。Richard Swan か Fonda Lee か Kevin Hearne か。あるいはまったくの新人か。ニー・ヴォはハマりかけている。C. S. E. Cooney もいる。一方、ル・グィンをあらためて読みなおそうという気分もある。ライバーを読んでやろうかとも思う。そうだ、ビーグルもいる。

 と思っていたら、マイケル・ビショップの訃報を Locus の最新号で知る。とすれば、追悼の意味で読むとするか。(ゆ)




 著者 Ray Robertson はカナダの作家だ。デトロイトのすぐ東のオンタリオ州チャタムに育ち、今はトロントをベースにしている。これまでに小説が9冊、ノンフィクションが4冊、詩集が1冊ある。これは5冊目のノンフィクションになる。

 この本はアメリカ人には書けない。カナダに生まれ育った人間だからこそ書き、また書けたものだ。それによって、これはおよそグレイトフル・デッドについて書かれたもので最もすぐれた本の1冊になった。文章だけとりだせば、最もすぐれたものだ。ほとんど文学と言っていい。

 ほとんど、というのはグレイトフル・デッドについて書くとき、人はデッドヘッドにならざるをえないからである。デッドヘッドが書くものは普遍的にならない。文学になるためにはどこかで普遍に突破しなければならないが、デッドヘッドにはそれはできない。デッドヘッドにとってはグレイトフル・デッドが、その音楽が宇宙の中心であり、すべてである。普遍などというしろものとは縁が無い。

 著者は最後におれはデッドヘッドだと宣言している。これもまたカナダの人間ならではだ。アメリカ人はそんな宣言はしない。カナダの人間は宣言する必要がある。一方でこの宣言によっても、この本は限りなく文学に近づいている。

 人はなろうと思ってデッドヘッドになるわけではない。自分の意志で左右できるものではない。そもそも、デッドヘッドとはなりたいと人が望むものには含まれない。あるいは、望む望まないの前に、存在を知らない。なってしまって初めてそういうものがいることに気づく。

 あたしなどは自分がデッドヘッドであることに、この本を読むまで気づかなかった。

 この本は副題にあるように、ボーナス・トラックとして挙げられたものを含めて51本のショウを語ることでグレイトフル・デッドを語ろうとしている。ショウについての記述の中に、バンドの成り立ちやメンバーの状態、周囲のコンテクストなどを混ぜ込んでゆく。一本ずつ時代を追って読み進めれば、デッドとその音楽が身近に感じられるようになる。

 はずはないんだなあ、これが。

 デッドの音楽、グレイトフル・デッドという現象は、そんなに容易く飲み込めるような、浅いものではない。ここに書かれていることを理解し、うなずいたり、反発したりするには、すでに相当にデッドとその音楽に入れ込んでいる必要がある。これはグレイトフル・デッドの世界への入門書ではない。デッドへの入門書など書けないのだ。告白すれば、そのことがわかったのはこの本を読んだ効用の一つだった。

 グレイトフル・デッドは入門したり、手引きに従って入ってゆけるものではない。それぞれが、それぞれのきっかけで出逢い、引き込まれ、ハマり込み、そしてある日気がつくとデッドヘッドになっている。

 人はデッドの音楽をおよそ人の生み出した最高の音楽とみなすか、こんなものはゴミでしかないと吐き捨てるかのどちらかになる。中間はない。

 この本はデッドヘッドからデッドへのラヴレターであり、宣言書である。1972〜74年を最高とするという宣言だ。この宣言が意味を持つのはデッドヘッドに対してだけである。グレイトフル・デッドの世界の外では何の意味もない。または、全く違う意味になる。。

 あたしはこの宣言に反発する。してしまう。自分が反発しているのを発見して、自分もまた著者と同様、デッドヘッドであると覚った。覚らざるをえなかった。その事実を否応なくつきつけられた。

 だが、その宣言のやり方には感心した。させられた。デッドに関する本として可能な限り文学に近づいていることは認めざるをえなかった。

 著者があたしの前に現れたのは、今年の冬、今年最初の《Dave's Picks》のライナーの書き手としてだ。次には今年のビッグボックス《Here Comes Sunshine》でもメインのライナーを書いていた。一読して、アーカイヴ・シリーズのプロデューサー、デヴィッド・レミューがロバートソンを起用した意図はわかった。文章が違う。文章だけで読めるのである。

 ライナーというのは通常中身で支えられている。読者にとって何らかの形で新しい情報、あるいは既存の情報の新たな解釈が提供されることが肝心だ。それを伝える文章は伝えられるべき情報が的確に伝わればいい。むしろまずはそれを目指す。文章そのものの美しさ、味わい、面白さは考慮から外していい。

 ロバートソンのライナーにはスタイルがある。独自の表現スタイルがある。一文読めばそれとわかる個性がある。文章を読むだけの愉しみを味わえる。これがグレイトフル・デッドについての文章でなければ、純粋に文章だけを読んで愉しむこともできると思える。

 こういうスタイル、スタイルのあり方の文章によってデッドについて書かれたものはこれまで無かった。あたしの読んできたものの中には無かった。もっともデッドに夢中になった初めの頃は何を読んでも目新しい事実、情報ばかりだったから、まずはそれらを消化するのに懸命で、文章の良し悪しなど目もくれなかった恨みはある。とはいえ、ここまでの質の文章があれば気がついていたはずだ。

 これまでデッドについて書いてきた人びとはいずれもまず何よりもデッドヘッドである。つまり若い頃からのデッドヘッドだ。すなわち、自分はなにものであるかの1番目にデッドヘッドがくる人びとだ。この人たちは作家になろうなどとは望まない。文章を書くことに命を賭けようとは思わない。デッドヘッドは書く人ではない。聴く人、踊る人、意識を変革しようとする人、その他の人ではあるだろう。しかし書くことが三度の飯より好きな人にはならない。デッドヘッドが三度の飯より好きなのはますデッドの音楽を聴くことだ。

 これまでデッドについて書いた人間で書くことが仕事であるという点で最も作家に近いのはデニス・マクナリーであろう。かれによるバンドの公式伝記 A Long Strange Trip は質の良い、つまり読んで楽しい文章で書かれている。しかしかれは本質的には学者だ。文学を書こうとしてはいない。
 《30 Trips Around The Sun》につけた史上最長のライナー・ノートの執筆者ニコラス・メリウェザーもやはり学者である。それにあそこでは歴史ですらない、それ以前の年代記を作ることに専念している。

 ロバートソンの文章は違う。ロバートソンが文学を書こうとしているわけではない。書くものが書き手の意図からは離れて、どうしても文学になろうとしてしまうという意味でかれは作家である。

 加えてかれがデッドヘッドになるのは47歳の時。彼にとってデッドヘッドは何番目かのアイデンティティである。デッドヘッドである前に作家なのだ。その作家がデッドについて書けば、それはどうしても文学に近づいてしまう。これまでに無かったデッド本がかくして生まれた。

 ここでは作家とデッドヘッドが文章の主導権を握ろうとして格闘している。文章は右に振れ、左に揺らぎ、天空にかけのぼろうとして、真逆さまに転落し、また這い上がる。その軌跡が一個の文学になろうとするその瞬間、横殴りの一発に吹っ飛ぶ。これを読んでいる、読まされている、読まずにはいられないでいるこちらは、翻弄されながら、自らのグレイトフル・デッドの像を重ね合わせる。嫌でもその像が浮かんできて、二重写しになってしまう。

 1972〜74年のデッドが最高であること。そのこと自体は目くじら立てることではない。ドナの声がデッドとして空前絶後の輝きをデッドの音楽に加えていたという主張にもその通りと諸手を上げよう。

 しかし、とあたしの中のデッドヘッドは髪の毛をふり乱し、拳を机に叩きつける。これは違う。これはグレイトフル・デッドじゃない。

 いや、あたしのグレイトフル・デッドがどんな姿かを開陳するのはここではやめておく。

 グレイトフル・デッドを語る方法として、50本のショウをたどるというのが有効であることは証明された。デッドはスタジオ盤をいくら聞いてもわからない、その片鱗でも摑もうというのなら、まずショウを、一本丸々のショウを何本も、少なくとも50本は聴く必要がある。デッドヘッドにとっては自明のことであるこのことも改めて証明された。

 さて、ではここに選ばれた51本を改めて聴きなおしてやろうではないか。

 そして、あたしのグレイトフル・デッドを提示してやろうではないか。(ゆ)

 これは英語圏のサイエンス・フィクション、ファンタジーの主な書き手をデビュー作発表年の順番にならべてみたリストである。

 もともとはキャサリン・マクリーンが1949年にデビューしていて、シルヴァーバーグよりも早いことに気がつき、その前後にデビューしていたのはどんな人たちだったかと調べはじめて拡大していったものだ。ネビュラのグランド・マスターをベースに、メジャーと目される人たちと自分の好み、関心のある書き手を拾いあげた。データは ISFDB で最も早い小説作品の発表年である。(長篇)としたのはデビュー作が長篇だった人。

 むろん、あの人がいない、この人もいないと指摘したくなるだろうが、それはご自分で調べてみればいい。新しい方は今年のグランド・マスター、ビジョルド(女性で7人目)を区切りとしている。


2023-05-07追記
 生没年とデビュー時の満年齢を加えてみた。単純計算なので、デビュー時の正確な年齡ではない。不悪。こうしてみると、またいろいろと見えてくる。

1926, エドモンド・ハミルトン 1904/1977; 22歳
1928, コードウェイナー・スミス 1913/1966; 15歳
1928, ジャック・ウィリアムスン 1908/2006; 20歳
1928, ミリアム・アレン・ディフォード 1888/1975; 40歳
1930, C. L. ムーア 1911/1987; 19歳
1930, オラフ・ステイプルドン 1886/1950; 44歳
1930, チャールズ・ウィリアムズ(長篇)1886/1945; 44歳
1931, クリフォード・D・シマック 1904/1988; 27歳
1931, ジョン・ウィンダム 1903/1969; 28歳
1931, ヘンリイ・カットナー 1915/1958; 16歳
1933, C・S・リュイス 1898/1963; 35歳
1934, スタンリィ・G・ワインボウム 1902/1935; 32歳
1934, フリッツ・ライバー 1910/1992; 24歳
1935, ジェイムズ・ブリッシュ 1921/1975; 14歳
1936, フレドリック・ブラウン 1906/1972; 30歳
1937, アーサー・C・クラーク 1917/2008; 20歳
1937, エリック・フランク・ラッセル 1905/1978; 32歳
1937, L・スプレイグ・ディ・キャンプ 1907/2000; 30歳
1937, J・R・R・トールキン(長篇) 1892/1973; 45歳
1938, シオドア・スタージョン 1918/1985; 20歳
1938, リチャード・ウィルスン 1920/1987; 18歳
1938, レイ・ブラッドベリ 1920/2012; 18歳
1938, レスター・デル・リイ  1915/1993; 23歳
1939, アイザック・アシモフ 1920/1992; 19歳
1939, アルフレッド・ベスター 1913/1987; 26歳
1939, アンドレ・ノートン 1912/2005; 27歳
1939, ウィリアム・テン 1920/2010; 19歳
1939, A・E・ヴァン・ヴォクト 1912/2000; 17歳
1939, C・M・コーンブルース 1923/1958; 16歳
1939, マーヴィン・ピーク 1911/1968; 28歳
1939, ロバート・A・ハインライン 1907/1988; 32歳
1940, デーモン・ナイト 1922/2002; 18歳
1940, フレドリック・ポール 1919/2013; 21歳
1940, リィ・ブラケット 1915/1978; 25歳
1942, ゴードン・R・ディクスン 1923/2001; 19歳
1942, ハル・クレメント 1922/2003; 20歳
1942, フィリップ・K・ディック 1928/1982; 14歳
1944, A・バートラム・チャンドラー 1912/1984; 22歳
1945, ジャック・ヴァンス 1916/2013; 29歳
1946, フィリップ・ホセ・ファーマー 1918/2009; 28歳
1946, マーガレット・セント・クレア 1911/1995; 35歳
1947, ポール・アンダースン 1926/2001; 21歳
1947, マリオン・ジマー・ブラドリー 1930/1999; 17歳
1948, ジュディス・メリル 1923/1997; 26歳
1948, チャールズ・L・ハーネス 1915/2005; 33歳
1949, キャサリン・マクリーン 1925/2019; 24歳
1949, ジェイムズ・E・ガン 1923/2020; 26歳
1949, ハーラン・エリスン 1934/2018; 15歳
1950, E・C・タブ 1919/2010; 31歳
1950, チャド・オリヴァー 1928/1993; 22歳
1950, リチャード・マシスン 1926/2013; 24歳
1951, J・G・バラード 1930/2009; 21歳
1951, ジーン・ウルフ 1931/2019; 20歳
1951, ゼナ・ヘンダースン 1917/1983; 34歳
1951, チャールズ・ボーモント 1929/1967; 22歳
1951, ボブ・ショウ 1931/1996; 20歳
1952, アルジス・バドリス 1931/2008; 21歳
1952, ジョン・ブラナー 1934/1995; 18歳
1952, Donald Kingsbury 1929/; 23歳 [Locus Best 1st Novel]
1952, フランク・ハーバート 1920/1986; 32歳
1952, ミルドレッド・クリンガーマン 1918/1997; 34歳
1952, ロバート・シェクリイ 1928/2005; 24歳
1952, ロバート・シルヴァーバーグ 1935/; 17歳
1953, アン・マキャフリィ 1926/2011; 27歳
1953, ロジャー・ゼラズニイ 1937/1995; 16歳
1954, エイヴラム・デヴィッドスン 1923/1993; 21歳
1954, キャロル・エムシュウィラー 1921/2019; 23歳
1954, バリントン・J・ベイリー 1937/2008; 17歳
1954, ブライアン・W・オールディス 1925/2017; 29歳
1955, ジョアンナ・ラス 1937/2011; 18歳
1956, ケイト・ウィルヘルム 1928/2018; 28歳
1956, マイケル・ムアコック 1939/; 17歳
1957, ピーター・S・ビーグル 1939/; 18歳
1958, キット・リード 1932/2017; 26歳
1959, R・A・ラファティ 1914/2002; 45歳
1960, スティーヴン・キング 1947/; 13歳
1960, ベン・ボヴァ 1932/2020; 28歳
1961, アーシュラ・K・ル・グィン 1929/2018; 32歳
1961, Sterling E. Lanier 1927/2007; 34歳
1961, フレッド・セイバーヘーゲン 1930/2007; 31歳
1962, サミュエル・R・ディレーニィ 1942/; 20歳(長篇)
1962, トーマス・M・ディッシュ 1940/2008; 22歳
1963, クリストファー・プリースト 1943/; 20歳
1963, ジョン・スラデック 1937/2000; 26歳
1963, Damian Broderick 1944/; 19歳
1963, テリィ・プラチェット 1948/2015; 15歳
1963, ノーマン・スピンラッド 1940/; 23歳
1964, キース・ロバーツ 1935/2000; 29歳
1964, ラリィ・ニーヴン 1938/; 26歳
1965, グレゴリー・ベンフォード 1941/; 24歳
1965, ジョセフィン・サクストン 1935/; 30歳
1965, ブライアン・ステイブルフォード 1948/; 17歳
1965, マイク・レズニック 1942/2020; 23歳
1966, M・ジョン・ハリスン 1945/; 21歳
1967, グレッグ・ベア 1951/2022; 16歳
1967, リチャード・カウパー 1926/2002; 39歳(長篇)
1967, ジョージ・R・R・マーティン 1948/; 19歳
1968, ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 1915/1987; 53歳
1968, ジェイン・ヨーレン 1939/; 29歳
1968, タニス・リー 1947/2015; 21歳
1969, イアン・ワトスン 1943/; 26歳
1969, ジョー・ホールドマン 1943/; 26歳
1969, スゼット・ヘイデン・エルジン 1936/2015; 30歳
1969, マイケル・G・コーニィ 1932/2005; 37歳
1970, ヴォンダ・N・マッキンタイア 1948/2019; 22歳
1970, エドワード・ブライアント 1945/2017; 25歳
1970, コニー・ウィリス 1945/; 25歳
1970, パメラ・サージェント 1948/; 22歳
1970, マイケル・ビショップ 1936/; 34歳
1971, オクテイヴィア・E・バトラー 1947/2006; 24歳
1971, Glen Cook 1944/; 27歳
1971, Rachel Pollack 1945/2023; 26歳
1972, ハワード・ウォルドロップ 1946/; 26歳
1973, Eleanor Arnason 1942/; 31歳
1973, パトリシア・A・マッキリップ 1948/2022; 25歳
1974, ジョン・ヴァーリィ 1947/; 27歳
1975, ジェイムズ・パトリック・ケリー 1951/; 24歳
1975, パット・マーフィー 1955/; 20歳
1976, カーター・ショルツ 1953/; 23歳
1976, キム・スタンリー・ロビンスン 1952/; 24歳 [Locus Best 1st Novel]
1976, C・J・チェリィ 1942/; 34歳(長篇)
1976, ジェフ・ライマン 1951/; 25歳
1976, ティム・パワーズ 1952/; 24歳(長篇)
1976, ナンシー・クレス 1948/; 28歳
1976, ブルース・スターリング 1954/; 22歳
1977, ウィリアム・ギブソン 1948/; 29歳
1977, オースン・スコット・カード 1951/; 26歳
1977, サムトウ・スチャリトクル 1952/; 25歳 [Locus Best 1st Novel]
1977, ジェイムズ・P・ブレイロック 1950/; 27歳
1977, ジェイムズ・P・ホーガン 1941/2010; 36歳(長篇)
1977, スティーヴン・R・ドナルドソン 1947/; 30歳(長篇)
1977, チャールズ・ド・リント 1951/; 26歳
1977, テリー・ブルックス 1944/; 33歳(長篇)
1977, パット・キャディガン 1953/; 24歳
1977, ポール・ディ・フィリポ 1954/; 23歳
1977, ルイス・シャイナー 1950/; 27歳
1978, ジョージ・ターナー 1916/1997; 62歳 ※小説家としてのデビューは1959年43歳。
1978, ジョン・ケッセル 1950/; 28歳
1978, フィリップ・プルマン 1946/; 32歳
1979, Suzy McKee Charnas 1939/2023; 40歳
1979, ダグラス・アダムズ 1952/2001; 27歳(長篇)
1979, ロバート・L・フォワード 1932/2002; 45歳 [Locus Best 1st Novel]
1979, ロビン・ホブ/ミーガン・リンドルム 1952/; 27歳
1980, デイヴィッド・ブリン 1950/; 30歳(長篇)
1980, マイケル・スワンウィック 1950/; 30歳
1981, ジャック・マクデヴィッド 1935/; 46歳 [Locus Best 1st Novel]
1982, イアン・マクドナルド 1946/2022; 36歳 [Locus Best 1st Novel]
1982, ダン・シモンズ 1948/; 34歳
1982, Terry Dowling 1947/; 35歳
1982, トレイシー・ヒックマン 1955/; 27歳
1982, ロバート・ジョーダン 1948/2007; 34歳(長篇)
1983, グレッグ・イーガン 1961/; 22歳
1983, スティーヴン・ブルースト 1955/; 28歳(長篇)
1983, ルーシャス・シェパード 1943/2014; 40歳
1984, ウォルター・ジョン・ウィリアムス 1953/; 31歳(長篇)
1984, Emma Bull 1954/; 30歳 [Locus Best 1st Novel]
1984, ジョフリー・A・ランディス 1955/; 29歳 [Locus Best 1st Novel]
1984, デヴィッド・ゲメル 1948/2006; 36歳(長篇)
1984, マイケル・F・フリン 1958/; 26歳 [Locus Best 1st Novel]
1984, ニール・ゲイマン 1960/; 24歳
1984, ポール・J・マコーリィ 1955/; 29歳
1984, マーガレット・ワイス 1948/; 36歳
1985, カレン・ジョイ・ファウラー 1950/; 35歳
1985, タッド・ウィリアムス 1957/; 27歳(長篇)
1985, チャールズ・ストロス 1964/; 21歳
1985, デリア・シャーマン 1951/; 34歳
1985, ロイス・マクマスター・ビジョルド 1949/; 36歳

 生年ではなく、デビューの年でみるといろいろと面白い。1937〜40年組(キャンベル革命)とか、51/52年組とか、76/77年組とか、あるいは68年、70年の女性トリオとか、やはり塊で出てくるものだ。こういうつながり、塊をたどって読んでみるのも面白いだろう。

 一方、ブリッシュは「御三家」よりも早いとか、ル・グィンとセイバーヘーゲンが同期とか、「御三家」と同世代と思っていたアンダースンがひと回り下だとか、60年代の人と思っていたゼラズニィが50年代も初めの頃から書いていたとか、サイバーパンクでギブスンやスターリングとひとくくりにされたベアはひと回り上だとか、70年代になって名前が出てきたジーン・ウルフが1951年にデビューしているとか、他にも読み方を変える発見もあるかもしれない。マリオン・ジマー・ブラドリーが1947年、17歳でデビューしていたのは、あたしにはその1つ。もっともこれは自分でやっていたファンジンで、明確なプロ・デビューは1954年4月のF&SF。

 「御三家」はほぼ同期だが、ディック、ラファティ、ティプトリーの「新御三家」はバラバラ。

 マクリーンに関して言えば、エリスンと同期、メリルは1年先輩になる。その前から書いている女性作家というと、リィ・ブラケット、C・L・ムーア、アンドレ・ノートン、マーガレット・セント・クレア、そしてミリアム・アレン・ディフォードがいたわけだ。

 この中であたしがリアルタイムで体験した初めはジョン・ヴァーリィである。ちょうど Asimov's 誌創刊の頃でもあって、70年代半ばはこうして見ても実にエキサイティングな時期だった。ヴァーリィの登場はいわばその幕を切って落とすファンファーレでもあり、また最も華やかな才能が眼の前で花開いてゆくのをまざまざと見せつけられるものだった。F&SF誌に載った「火星の王の宮殿にて」に描かれた、眠っていた火星の生物たちが時を得て次々と姿を現してくるめくるめく情景は、サイエンス・フィクションを読んでいて最も興奮した瞬間の1つでもあった。この時期には『スター・ウォーズ』革命も重なるわけだが、その前から、質の面でも、サイエンス・フィクションは60年代の試行錯誤による成果を踏み台に、大きな飛躍が始まっていたのだ。

 SFFの質の向上の現れは、たとえばヴァーリィを紹介したF&SF誌の充実ぶりに見てとれる。1970年代のF&SFは黄金時代と言っていい。1966年から1991年まで編集長を務めた Edward L. Ferman は1981年のヒューゴーでは Best Professional Editor とともに、「ジャンルにおける作品の質の拡大と改善への貢献」に対して特別賞を授与されている。

 ヴァーリィはどれもこれも面白く、成功しているとは言えない長篇も楽しんでいたところへ、脳天一発かち割られたのが「残像」The Persistence of Vision だった(これまたF&SF誌発表)。これはおそらく英語で書かれた長短合わせて全てのサイエンス・フィクションの中でも最高の1作、いや、およそ英語で書かれたすべての小説の中で最高の作品の1つだが、1個の究極でもあって、その衝撃は大きかった。これ以後のヴァーリィはいまだに読んでいない。

 まあ、あたしはいつもそうで、ル・グィンもバラードもシェパードも、一時期夢中になって読むが、あるところまで行きつくと、ぱたっと読まなくなる。しばらく経ってから、また読みだすが、ヴァーリィはまだ読む気になれない。それだけ「残像」のショックが大きかったということか。

 われわれの五感とコミュニケーションのそれぞれと両者の絡み合いについて、これほど深く掘り下げて、その本質を、本来言葉にできない本質を、同時に言葉でしか表現できない本質を、ありありと感得させてくれた体験を、あたしはまだ他に知らない。ハンディキャップや disabled とされてきた状態も個性であり、多様性の一環として捉えようという時代にあって、一方で、デジタル技術によるリアルタイム・コミュニケーションに溺れる人間が多数派になっている時代にあって、「残像」はあらためて熟読玩味されるべき作品ではある。

 ヴァーリィと言えば、長篇 Wizard に登場する異星人がとりうる複数の性の対応関係を示したチャートについて、作家の Annalee Newitz が先日 Tor.com に書いた記事のコメント欄にヴァーリィ本人が登場したのは面白かった。しかも、この記事のことはグレゴリー・ベンフォードから教えられた、というのもまた面白い。やあっぱり、皆さん、あそこはチェックしてるんですなあ。これを見て、Titan だけ読んだ「ガイア三部作」も含めて、あらためて「残像」以降のヴァーリィを読もうという気になったことではある。(ゆ)


2019-12-24追加
1934, スタンリィ・G・ワインボーム
1976, カーター・ショルツ

2019-12-30追加
1963, テリィ・プラチェット
1977, テリー・ブルックス(長篇)
1979, ダグラス・アダムズ(長篇)
1984, デヴィッド・ゲメル(長篇)

 ようやく掲題の原稿を脱稿して、版元に渡したところです。

 Jonathan Bardon の A History Of Ireland In 250 Episodes, 2008 の全訳です。版元はアルテスパブリッシング。今年のセント・パトリック・ディ刊行はちょと難しいかなあ。




 バードンはノーザン・アイルランド出身の歴史家で、これは250本の短かい話をならべて、アイルランドに人間がやってきた紀元前7000年ないし6500年頃から1965年1月、当時の共和国首相(= ティーシャック)ショーン・レマスとノーザン・アイルランド首相テレンス・オニールの会合までを語った本です。

 歴史になるにはどれくらい時間的な距離が離れればいいのか。歴史家は通常50年、半世紀という数字を出します。直接の関係者が大部分死んでいるからでしょう。とすれば1960年代までは歴史として扱えることになり、本文を1965年でしめくくるのは適切ではあります。

 もともとは同題のラジオ番組があり、2006年から2007年にかけて、BBCアルスタのラジオで毎週月曜から金曜まで1回5分で放送されました。バードンはその放送台本を担当し、その台本をベースにして書物として仕上げています。ただし放送は240回、第二次世界大戦開戦を告げる英国首相ネヴィル・チェンバレンの国民向けラジオ放送で終りでした。バードンはその後に10本書き足して1965年までを描き、さらにエピローグで21世紀初頭までカヴァーしています。

 本書にはオーディオ・ブックもありますが、放送されたものをそのまま使っているので、そちらは240話までで終っています。単なる朗読ではないので、聞いて面白いですが、その点はご注意を。 

 1回5分ですから、各エピソードは短かく、さらっと読めます。放送を途中から聞いたり、時々聞いたりしても話がわかるように一話完結になってもいます。本の方もぱらりと開いたページから読めますし、頭から通読すればアイルランドの歴史を一通り読むことができます。

 一方、内容はかなり濃くて、ここで初めて公けになった史実もありますし、おなじみの事件に新たな角度から光があてられてもいます。14世紀にダーグ湖に巡礼に来たスペインはカナルーニャの騎士や17世紀末にコネマラまで入ったロンドンの書籍商の話などは、たぶん他では読めません。エピソードとはいえ、噂や伝説の類ではなく、書かれていることにはどんなに些細なことでもきちんとした裏付けがあります。歴史書として頼りになるものです。イースター蜂起のようなモノグラフが公刊されているものは別として、ほぼあらゆる点で、アイルランドの歴史についての日本語で読める文献としてはこれまでで最も詳しいものになります。

 短いエピソードを重ねる形は歴史書としてなかなか面白い効果を生んでもいます。通史としても読める一方で、一本のつながった筋のある物語というよりは、様々な要素が複雑にからみあって織りなされている様子が捉えやすくなることです。物語にのめり込むのではなく、一歩退いたところで冷静に見る余裕ができます。

 歴史は無数のできごと、要素が複雑多岐にからみあっているので、すっきり一本の物語にまとめようとするのは不可能、無理にそうしようとすると歪んでしまいます。最大の弊害は物語に落としこめない要素が排除されてしまうことです。そして歴史にとって本当に重要なことが、本筋とされる流れとは無関係に見える要素の方にあることは少なくありません。あるいは、一見傍流の、重要でもないと見えた要素が後になってみると、本筋だったこともよくあります。

 さらに加えて、ベースとする史料そのものからして、初めからバイアスがかかっているのが普通です。またどんなに避けようとしても、書いている本人の歴史をこう見たいという願望が忍びこみやすい。どんな人でも、人間である以上、そうした感情は生まれて当然なので、自分はそんなことはないと思っている人ほどその罠にはまるものです。通史を書くのは難しく、書く人間の力量が試されますし、本当に良い通史がめったにないのもわかります。

 この本では話は連続はしていますが、一本の筋にはなっていません。話が切りかわると、視点が変わりもします。歴史を織りなす何本もの筋があらわれてきます。著者もこの手法のメリットに味をしめたのでしょう、同様の手法でアイルランドとスコットランドの関係史も書いています。

 あたしは本が2008年に出たときに買って読んでみました。アイルランドの一冊本の通史は何冊も出てますが、どれがいいのかよくわからず、手を出しかねていたので、これはひょっとすると面白いかもと思いました。届いてまずその厚さにびっくりしましたが、読みだしてみると実に面白い。一話ずつは短かいので、ショートショートでも読む感覚。どんどんと読めてしまいます。史料の引用のやり方も巧い。ほとんど巻擱くあたわず、というくらいのめり込みました。

 ちょうどその頃はヒマでもあったので、自分の勉強のためにもと日本語に訳すことも始めてみました。可能な時には翻訳にまさる精読はありません。最初の訳稿がほぼできあがった頃、大腸がんが発覚して九死に一生を得る、同時に東日本大震災が重なるということがありました。恢復の日々の中で再度訳稿を読みなおして改訂するのが支えの1本にもなってくれました。

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 その後、訳したところで満足し、他の仕事も入ったりして、しばし原稿は眠らせていました。何かの雑談のおりだったか、もう記憶からはすっぽり落ちていますが、とにかくアルテスパブリッシングのSさんにこんなのがあるんだけどというような話をしたのでしょう。Sさんが乗ってきて、それはウチで出そうという話になったのがもう数年前。それならもう一度、きちんと出すつもりで見直さねばいけない、ということで、他の仕事の合間を縫って、ぼちぼちとやっていたわけです。その間、思いもかけず山川出版社から『アイルランド史』という日本語で読める信頼できる通史も出たので、固有名詞を中心に日本語の表記をこれに倣うようにする作業も入りました。昨年春も過ぎる頃になってようやくまとまった時間がとれるようになり、あらためて馬力をかけて改訂を進めて、ようやくまずはこれ以上よくできないというところまで来ました。
 アイルランドの歴史は海外との関係の歴史です。ことが島の中だけですむなんてことはまずありません。偽史である Lebor Gabala Erenn = アイルランド来寇の書が「史実」と長い間信じられていたのも、この島には繰返し波となって様々な人間たちがやってきたと語る内容が、アイルランドの人びとの皮膚感覚にマッチしたからでしょう。

 対照的に我々日本列島の住民は、列島の中だけで話がすむと思いたがる傾向があります。実は昔から列島の外との関係で中の事情も決まってきているわけですが、そうは思いたくない。アイルランドの歴史とならべてみると、よくわかります。もっともこの列島がもっと南に、たとえば今の沖縄本島の位置に本州がある形だったら、アイルランドのように大陸との関係が遙かに密接になっていたでしょう。今の位置は北に寄っていて、大陸との北の接点の先は文明の中心からはずっと離れ、人口も希薄でした。これが幸か不幸かは時代によって、見方によって変わってきます。

 アイルランドに戻れば、表面的にはその歴史はお隣りとの紛争の連続のようにも映りますが、必ずしも一方的な関係でもありません。また小さな島なのに、その中が一枚岩になったこともないのも興味深い。「うって一丸になろう」なんてことは思いつきもしない人たちなんですね、この島の住人は。常に何らかの形で異質な要素が複数併存していて、それがダイナミズムを生んでいます。つまり、この島では常にものごとや考えが流動していて、よどんで腐ることがありません。

 17世紀以降、アイルランドからは様々の形で大勢の人間が出てゆき、行った先で増えて、アイルランドの文化を伝えることになりました。出ていった人たちは望んで出たわけではありませんし、その苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったことは明らかですけれど、時間が経ってみると、ディアスポラは必ずしもマイナスの面ばかりでないこともまた明瞭です。むしろ、ディアスポラ無くして、現在のアイルランドの繁栄は無いとも言えそうです。その点ではユダヤ人が生きのびたのはディアスポラのおかげであることと軌を一にします。ひょっとすると、マイノリティが生きのびるにはディアスポラが不可欠なのかもしれません。少なくとも現在のアイリッシュ・ミュージックの繁栄はディアスポラのプラス面が現れた例の一つでもあります。

 アイルランドという面白い国、地域の歴史を愉しく通覧もできるし、ディテールに突込む入口にもなる本だと、あたしは思います。乞うご期待。(ゆ)

 先日読み終わった Chuck Rogers, Heroes Road はおよそファンタジーに求めるものがすべてたっぷりと魅力的な形でぶちこまれていて、大いに愉しませてもらった。分量も十分、エンディングは見事、そして続篇への予告篇もきっちり。続篇 Heroes Road 2 はさらに面白いそうだが、Michael R. Fletcher, Beyond Redemption と2冊、部厚い本を読んだので、次はちょっと軽めの本が読みたい。本棚にぽつんとあった岩村忍『暗殺者教国』が目についた。リブロポートからの再刊で、40年前に出た時に買ったまま、ほったらかしていた。



Beyond Redemption (English Edition)
Fletcher, Michael R.
Harper Voyager
2015-06-16




 読みだしてみれば、読みやすく、面白く、簡潔で、結局読んでしまう。

 10世紀から13世紀まで、約2世紀半、現在のイラン北西部、アラムートの城に蟠踞したイスラームの異端イスマイリ派、別名ニザリ派の誕生からモンゴルによる滅亡、そして復活までを略述する。セルジューク朝と渡り合い、マムルーク朝や十字軍にも脅威を与えた教団政権。イスマイリ派はシーア派の分派で、スンニからもシーアからも異端とされながら、一時は西アジア一帯にとびとびながらかなりの範囲に勢力を持った。今でも絶滅したわけではなく、あちこちにしぶとく生きているそうな。なによりも政略手段として暗殺を積極的に採用したことで歴史上有名だ。『アサシン・クリード』という人気ゲームの源になったことでも知られる。遙か昔、『ゴルゴ13』のエピソードの一つにも出てきた。

 ロジャースの『英雄たちの道』では、暗殺者教団のボスである「山の長老」配下の暗殺者たちが主人公たちの命を狙って、あちこちで大立ち回りをする。なかなか楽しい連中だ。もちろん、作品世界にふさわしくデフォルメされているが、結構巧くデフォルメしていることが、岩村本を読むとわかる。ロジャースはちゃんと調べて書いている。

 もっとも岩村本で一番メウロコだったのは13章の教義の解説だ。どんどん過激になっていって、ついにはイスラームとは似ても似つかない、別の宗教といえるもの(預言者ムハンマドの権威まで否定する)になりながら、最後にまたくるりと回転してスンニ派に合流してしまう。「奇怪」といえばこの過激化したものと、最後の転回が一番「奇怪」。こういう教義、絶対独裁者である教団トップの思考の変遷が、どういう環境の変化に押されたものなのか、知りたくなるが、そこまではようわからないらしい。

 岩村が本来専門外のイスマイリ派に深入りしたのは、かれらを滅ぼしたチンギス・ハンの孫フラグの麾下の武将の一人キドブハを追いかけたため、というのも面白い。ナイマン出身で、どうやらネストリウス派のクリスチャンだったらしいキドブハはフラグのもとで西アジアからシリア征服に功を立てる。しかし、最後にマムルーク朝がモンゴルの進攻を止めた1260年09月03日の戦いで死ぬ。この戦いとかれの戦死はモンゴル帝国にとっては分水嶺となる。

 つまり、岩村本はイスマイリ派をユーラシア大陸西半分の大きな歴史の動きのなかに置いて描く。大きく広い動きと、イスマイリ派をめぐる小く狭い動きの対比がダイナミズムを生む。

 最終章、イスマイリ派が頑強にモンゴル軍に抵抗したラミアッサール城の遺蹟に赴く紀行は、700年の時間の遠さを実感させる。同時に半世紀前のイラン西部の様相もまた別世界だ。

 巻末の「新版によせて」で、岩村がロンドンの本屋で見つけて面白く読んだという Freya Stark の The Valley Of The Assassins, 1934 を調べてみると1982年に現代教養文庫で『暗殺教団の谷 女ひとりイスラム辺境を行く』として出ている。図書館にないか検索するとスタークの伝記『情熱のノマド:女性探検家フレイア・スターク』が出てきた。1993年に100歳で亡くなったこの人、とんでもない人らしい。邦訳はもう1冊 Riding To The Tigris, 1959 が篠田一士の訳で『チグリス騎馬行』として出ている。こちらは『現代ノンフィクション全集』第16巻で、図書館にある。主な著作は Internet Archives で読める。

情熱のノマド 上―女性探検家フレイア・スターク
英子, 白須
株式会社共同通信社
2002-06T



 こうして読む本がどんどんと芋蔓式に増えてゆく。(ゆ)

07月19日・火
 終日、雨が降ったり止んだり。雨雲レーダーでみると、相模湾のあたりに黄色や赤の雲の帯が東西に伸びている。東は房総、三浦両半島の半ば、西は伊豆半島の付け根のあたりが覆われている。雨は強くなく、スポーツセンターのテニスコートでは、遊んでいる人たちも何組かいるくらいだが、こういう雨は歩くととりわけ速歩の時に顔に当るので歩きたくはない。郵便局と公民館への往復に止める。それだけで汗びっしょり。

 公民館で1冊だけなぜか遅れていた井上ひさし『四千万歩の男』講談社文庫版第一巻を受け取る。これでようやく読みだせる。2008年04月、初代 Apple Watch を手に入れてつけだした記録で、今月初め、2,900万歩にこぎつけた。3,000万歩は順調にいけば10月半ば。4,000万歩は順調にいけば2026年。計測開始から18年。伊能忠敬は4,000万歩を17年で歩いている。1日平均6,443歩。そう多くもなさそうだが、忠敬は二歩一間で距離を測りながら歩いているし、いたるところで測量してもいる。




 井上はこの忠敬の行為を愚直な意志のおかげとするが、人間、意志だけでこんなことはできない。こうすることが何らかの形で忠敬には歓びだったはずだ。愉しかったはずだ。かつての国内の国鉄路線全線乗車をした宮脇俊三に通じるところもある。井上も対象に倣って愚直に書いたというが、忠敬の細かい日常の一挙手一投足を書くことが愉しくなっていったにちがいない。いくら恰好の資料があるといっても、愉しくなければ、こんなに長くは書けまい。『四千万歩の男』は文庫版どれも600ページ超、5冊で3,200ページを超える、日本語では珍しい部類の長篇。井上の作品としても最長だろう。

 文庫版第五巻巻末に著者自筆年譜がある。1977=昭和52年02月、著者43歳までのものではあるが、たいへんに面白い。続きがどこかにあるならぜひ読みたい。誕生ののっけから面白いが、最高なのは、1974=昭和49年04月「日本亭主図鑑」をめぐる騒動。
 「ワイセツ罪で逮捕されたストリッパーと共闘もできずに、なにが女権論者か」という著者の問いに対してここでいう「女権論者」も答えているはずで、その答えは知りたい。
 一方で、「女性にとって男性は対立物である、と考えるのは浅はかな二元論である。むしろ、世の中は、"賃金を払うもの" と "賃金をもらうもの" とに分かれていることに早く気づき、ともに手をたずさえて、"賃金を払うもの"と対抗しようではないか」という著者の訴えはまことに理にかなっているのだが、一点、見逃しているところがある。われらが国の男性は女性を前にすると、自分は "賃金を払うもの" であると思いこむ習性がある。この反応は後天的なものではあるかもしれないが、幼少時から刷りこまれているので、その根っ子はほとんど先天的な深さにまで達している。男性自身、そう反応していることを自覚しない。あなたも "賃金をもらうもの" ではないかと指摘すると、バカにするのかとキレたりもする。女性たちはそのことを嫌というほど思い知らされている。その男性からそんな呼びかけをされても、信用するわけにはいかない、と思うのは無理もない。

 男性のその習性になぜ井上は気づかず、あたしは気づいているのか。それが年の功というものだろう。人間年をとると、性による違いが小さくなる。ともに無性に近づく。すると自分の若い頃の男性としてのふるまいが少しは客観的に見えてくる。井上も晩年にはわかっていたはずだ。

 まあ、このことについては「日本亭主図鑑」を読んで、井上が上記の訴えをどのような形でしているか、確認してからにしよう。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月19日には1974年から1994年まで5本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版2本。

0. Keith Godchaux Born
 1948年のこの日、キース・ガチョーがシアトルに生まれる。1980年07月23日、マリン郡で交通事故で死去。
 1971年09月にバンドに参加。ピアノ、キーボード担当。同年10月19日ミネアポリスで初ステージ。1979年02月17日を最後のステージとしてバンドを離脱。

  グレイトフル・デッドの音楽は歴代の鍵盤奏者によって性格が決定される。初代ピグペンではブルーズ・ロックが基調だったものが、キースによってより幅の広い、多彩なものとなり、他のいかなるロック・バンドからも際立つグレイトフル・デッド・サウンドを形成する。ブルーズが全く消えるわけではないが、深く埋め込まれてほとんどそれとはわからなくなり、代わってカントリーとロックンロール、それにジャズが基調となる。

 ガルシアは偉大なプライム・ムーヴァー、第一発動者ではあったが、そうあり続けるために、自分の投げたものを受け止め、投げ返す相手を必要とした。ウィア、レシュ、クロイツマン、ハートは各々に重要な相手ではあったが、ガルシアが最も頼りにしていたのは鍵盤奏者である、というのがあたしの見立てだ。鍵盤奏者の出来如何によってその日のガルシアの調子が決まると言ってもいいくらいだ。他のメンバーの演奏にももちろん耳は傾けていたが、ガルシアのギター、とりわけそのソロは、鍵盤との対話だ。この形を開発し、展開してゆく、その相手がキースだった。ピグペンとの間ではそういう対話がまず無い。ピグペン時代のガルシアのソロは、鍵盤が相手ではなく、ウィアやレシュ、ドラマーたちに投げかけている。キースが登場するにいたって、ガルシアはインスピレーションを引き出すきっかけとして、キースの演奏を使うようになる。あるいは霊感の湧き出し方を測る物差し、さらには落ちないための支えともしてゆく。そして鍵盤奏者に頼るこの形は最後まで続くことになった。デッドに鍵盤奏者が必須だったのは、誰よりもガルシアが鍵盤奏者を必要としていたためである。

 ガルシアがなぜ鍵盤奏者をソロの相手にしたか。1970年から Howard Wales, 続いて Merl Saunders と出会い、セッションをしたことがきっかけかもしれない。あるいは元々ガルシアには鍵盤奏者への嗜好があって、そうしたセッションを始めたのかもしれない。ソーンダースとの演奏をするようになって、ガルシアのギターは変わる。ソーンダースに「音楽」を教えられたことをガルシアは回想している。ギター・ソロを導き出す役割をデッドの中の鍵盤奏者に求める時、ピグペンでは役不足だったのだ。というよりも、ピグペンのオルガン演奏を形成するものは、すでにガルシアの中にもあるので、対話にならなかったのだろう。対話の相手になるには、自分の中には無いものが相手に有る必要があった。

 キースの演奏の水準は参加直後の1972年のヨーロッパ・ツアーと1976年夏の復帰直後をピークとする。後者では複数の曲でソロをとってもいて、かなり良い。それが1978年になって急転直下したようにみえる。かれのソロが必ず入る〈Big River〉を年代順に聴いてゆくと、78年の後半からが深刻だ。デッドのように毎回、違うことをするというのは、もちろん容易なことではない。楽曲でソロをとる場合、創造性がモロに問われる。ガルシアのギター・ソロの変化はその意味では驚異的だ。それは才能だけではなく、自分の中の蓄積を絶えず補給すること、つまりインプットに努めていたことを意味する。ガルシアは音楽はおそろしく幅広いものを聴いていたし、映画も見たし、本も読んだ。あらゆる形で常にインプットしていた。キースの場合、そうしたインプットが不足していったのだろう。そうすると出るものも凡庸になるし、変化も小さくなる。デッドにあって、そういうことは逆に目立つ。当然自覚されたはずで、それを補うために、キースがとった一つの方策がガルシアのソロをコピーすることだった。当然これはガルシアが最も嫌がることだ。そうした音楽の上での不調はプライヴェートにも反映したのだろう。ドナとの関係も破綻してゆき、それがまたバンド活動に悪影響を及ぼしている。結局、1979年初頭、話合いの結果、ガチョー夫妻がそろってバンドを離れることに一同合意する。

 キースにはいくつか好きなレパートリィがあったようだ。デッドの他のメンバーはあまり好き嫌いは出さない、というより嫌いなものは演奏しないが、キースの演奏には嫌いなものは出なくても、好きなところは出る時がある。〈Cassidy〉〈Friend of the Devil〉や〈Scarlet Begonias〉〈Help On The Way〉が代表的で、これらの曲での演奏はほぼ常に活き活きしている。〈Playing in the Band〉 は好みだが 〈Dark Star〉 は得意ではない。ロックンロールの曲でかれのピアノがソロをとることが多いが、あまり好きではないように聞える。


1. 1974, Selland Arena, Fresno, CA
 金曜日。夏のツアー後半のレグのスタート。08月06日ルーズヴェルト・スタジアムまでの9本。
 第二部、レシュとネッド・ラギンの〈Seastones〉後半にガルシア参加。
 全体が《Dave's Picks, Vol. 17》でリリースされた。
 とりわけ、第二部〈Weather Report Suite〉から〈Eyes Of The World〉へのジャムが異常なまでに良い。

2. 1987 Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR
 日曜日。20ドル。開演2時。ディランとのツアーの一環。一部、二部、デッド。三部がデッドをバックにしたディラン。
 第三部10曲目〈Queen Jane Approximately〉が《Dylan & The Dead》でリリースされた。
 第三部オープナーで〈Maggie's Farm〉がデビュー。デッドはディラン抜きでもこの年その後数回演奏し、1990年10月に復活させて、1995年04月05日まで計43回演奏。デッドでのヴォーカルはウィア。スタジオ盤収録無し。原曲は1965年の《Bringing It All Back Home》所収。
 〈Queen Jane Approximately〉かなりゆったりとしたテンポ。コーラスはガルシアとミドランド。最後、ディランはコーラスを歌わず、ガルシアとミドランドだけ、小さく繰返すのがかわいい。ディランもノッている。

1989, Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。
 第二部オープナー〈Box of Rain〉が《Fallout From The Phil Zone》で、第一部クローザーへの3曲〈West L.A. Fadeaway; Desolation Row> Deal〉が《Downhill From Here》で(動画のみ)、第二部2曲目の〈Foolish Heart〉が《Beyond Description》所収の《Built To Last》のボーナス・トラックで、リリースされた。
 〈Box of Rain〉〈Foolish Heart〉どちらも力演。
 前者では "box of rain" のフレーズの入る行をウィアとミドランドがコーラスを合わせるのが良い。レシュはそこはコーラスに任せる。
 後者はすばらしい演奏。ガルシアも熱唱するし、後半のジャムが最高。ミドランドがシンセサイザーで素早いパッセージを連発する。この曲はミドランドあってのものという気がしてくる。
 いずれ全体を出して欲しい。

1990 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 木曜日。開演7時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 2曲目〈They Love Each Other〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、アンコール〈U.S. Blues〉を除く全体が《Dave's Picks, Vol. 40》で、その〈U.S. Blues〉が《Dave's Pick, Vol. 41》でリリースされた。
 のっけから前日より良いとわかる。オープナー〈Jack Straw〉の間奏でのガルシアのギター。もっとも、前日の方が良いという人もいる。とまれ、この2日間はミドランド・デッドの最後の輝きとして、繰返し聴かれるに値する。

1994 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 火曜日。24.50ドル。開演7時。このヴェニュー3日連続のランの初日。
 第一部4・5曲目〈Big River> Maggie's Farm〉でウィアがアコースティック・ギター。
 可もなく不可もないショウらしい。(ゆ)

07月19日・月
 師茂樹『「大乗五蘊論」を読む』を読む。



 
 『大乗五蘊論』は世親すなわちヴァスバンドゥの著作。このタイトルは漢訳で、わが国には漢訳で伝えられた。ここではこの漢訳本を一字一句、丁寧に読む。漢文、読みくだし文、現代語訳に、場合によってチベット訳の邦訳、サンスクリット原文の邦訳も添える。その上で、内容について解説する。

 世親は多作で、この本は比較的初期に属し、小著でもあって、これまではあまり重視されてこなかった。近年、早い時期の注釈書が出てきて、あらためて注目も浴びている。のだそうだ。釈尊直系の部派仏教から唯識派が生まれてくる中間の過程を示しているのも注目される要因であるらしい。世親は部派仏教の一派から大乗に改宗し、唯識派の論客として多数の著作を書いた、とされてきたのが、そうではなく、改宗はしていない可能性も出てきた。『大乗五蘊論』はそれを傍証するものでもあるらしい。世親の改宗はその伝記に書かれているが、高僧伝が必ずしも事実ではなく、むしろ書き手がモデルとしたくなるような生涯を歩んだと書かれることが多かった、というのは、『論理と歴史』に玄奘三蔵の伝記に関して出てきた。

 師氏は『大乗五蘊論』はリニアに頭から読んでゆくものではないだろうと言う。瞑想修行者が修行の折々に必要なところを参照できるようなハンドブックのようなもの、ということらしい。書かれているのは、この世界とそこにいる人間をどう把握するか、一見、抽象的なことだが、修行者からすると、修行の中で目の当たりに実感する具体的なことであるらしい。そこで遭遇する様々なことをどうとらえ、理解するかをこの本で確認できるわけだ。だから、一通り五蘊の説明が終った後で、そうして説明してきたことは別の枠組みから見るとどうなるか、いろいろなケースがあげられる。

 蘊は蘊蓄の蘊で、集まり、集めたものをさす。具体的には色受想行識の五つで五蘊。このうち、色が後になると落とされる。これはつまり、この世界をこの五つの枠組みに分けて捉えることになる。その分け方は緻密で、たとえば眼という器官とその機能とそれによる認識を別々に考える。認知科学の最前線で今これと似た考え方がホットなのだそうだ。また、中には修行の階梯が上がらないと見えないものもある。

 本来は瞑想修行者、悟りを開くために修行している人のためのものではあるが、あたしのようなまったく無知など素人にとって、メリットが一欠片も無いわけでもない。唯識派というより、唯識派と呼ばれるようにになってゆく人びとがこの世界と、その世界と修行する人間との関係をどう見ているかが直截的に書かれているからだ。

 こういう本を読むと、まあ自分は仏教についてなあんにもわかっちゃいないのだなあ、とよくわかる。仏教は一神教に比べて、大雑把でのんびりしていると思っていたが、どっこい、少なくとも同じくらい突込んで、徹底して尖った思考を重ねてきている。師氏の2冊を読んでも自分の無知と仏教の思想の広さ深さは垣間見られたけれど、この本の対象は専門家のための専門書であることで、その広さ深さをいきなり眼前につきつけれらるようでもある。本を開いてみたら、目の前が断崖絶壁だった。

 で、実際には必要になったらいちいちこの本を開くのではなくて、ここに書かれていることは全部頭の中に入れて、つまり暗記しておいて、いつでもさっと参照できるようにしておくものでもある。そりゃあ、まあ、そうだろう。いちいち参考書を開くのでは修行にはなるまい。そういう修行はやさしいものではなく、誰にでもできるものでもない。悟りというのはそういう厳しい修行を完成して初めて得られる、というのは素人にもよくわかる道理だ。やはり念仏だけ唱えればそれでOK、というのは、どうも安直に過ぎないか。

 修行をするに値する人間が、厳しい修行を重ねて初めて悟りを開けるので、そう誰でも、何でもかんでも、仏陀になれるわけじゃあない、という方がまっとうに思えてくる。仏陀になれるかなれないかは生まれた時から決まっているというのは不公平だというのは、公平性をどこか勘違いしていないか。仏陀になれない者は輪廻転生で生まれ変わることになるが、何にも考えずにただぐるぐる回るのではなくて、そこから脱することは可能だと理解し、目指していると、やがて成仏する資格のある存在として生まれかわる、そこで修行が成就すれば仏陀になれる。これなら納得できる。一度でだめなら、また輪廻し転生して成仏可能性を備えて生まれ、再度挑戦することもできる。一切衆生悉有仏性なのはそういう意味で、とにかくこの世に生まれれば、それでOK、あとは念仏唱えさえすりゃあいい、というのは、あんまり虫が良すぎる。

 それにしても、古代インドの思考は相当に異質で、いくら師氏が懇切丁寧に説明してくれても、一度や二度読んだくらいで、すとんとわかるものではない。もっといろいろと他の書物を読む必要もある。仏教は今のあたしらにとってはほとんど先天的に刷りこまれていて、今さら距離を置くことも難しいと思っていたけれど、こうしてみると、刷りこまれているのはそのごく一部、それもかなり通俗化した形なので、1枚薄いベールをめくってみれば、十分に異質で面白いものとわかる。一切衆生悉有仏性を通俗的に解釈して、仏教は生きものに優しいと思うのは実は勘違いで、仏教の核心には生命への強烈な否定があるとも見える。少なくとも表面的な生命は輪廻転生して苦を続けるだけだと否定して、そこからの離脱を目指す。これはラディカルな目標だ。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月18日には1967年から1990年まで、6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1967 Masonic Temple, Portland, OR
 木曜日。開演8時。共演 Poverty's People、U.S. Cadenza、Nigells。セット・リスト不明。
 当時ポートランドにはデッドヘッドが723人いて、全員が顔を揃えた。ファースト・アルバムとサウンド的には変わらない。ガルシアはレス・ポールを弾き、ピグペンはオルガンの上で飲みつづけていた。ドラマーは1人だけ。フェンダーのアンプが目一杯の音量で鳴っていた。ライト・ショーは無し。
 共演しているのはいずれも地元ポートランドのバンドの由。
 Poverty's People はもと Poverty's Five というワシントン州 Centralia 出身のガレージ・ロック・バンドで、1967年にこの名前に改名。1965年結成、68年まで活動。1966年にシングルが1枚ある。
 U.S. Cadenza は1965年から1969年まで活動。再編して今でもやっているらしく、Facebook のページがある。サンフランシスコ・サウンドのアクトの前座を勤めた。
 Nigells もポートランドのバンドの由だが、不明。

0. 1968年のこの日、《Anthem Of The Sun》がリリースされた。
 2作目のスタジオ盤。トム・コンスタンティンを含む7人編成。前年の09月から12月にかけてハリウッド、ノース・ハリウッドとニューヨークのスタジオで録音したものと、11月10-11日のロサンゼルス、シュライン・エクスポジションでのショウ、この年01月から03月にかけての、ユーレカ、シアトル、ポートランド、サンフランシスコ、タホ湖でのショウの録音を合成して作られた。スタジオ盤とロサンゼルスのライヴ録音のプロデューサーは Dave Hassinger だったが、スタジオでのデッドのふるまいに愛想を尽かし、ニューヨークのスタジオ・セッションの途中でロサンゼルスに帰ってしまう。デッドはスタジオでの録音の機材とその可能性に夢中になり、アルバム制作そっちのけで「遊び呆けた」らしい。ハシンガーが脱けた後はバンドとダン・ヒーリィとボブ・マシューズのエンジニア陣で作りあげた。
 トラック・リスト。
Side One
That's It For The Other One
I. Cryptical Envelopment (Garcia)
II. Quadlibet For Tender Feet (Weir)
III. The Faster We Go, The Rounder We Get (The Grateful Dead)
IV. We Leave The Castle (The Grateful Dead)
New Potato Caboose (Lesh/Petersen)
Born Cross-Eyed (Weir)

Side Two
Alligator (Lesh/McKernan/Hunter)
Caution (Do Not Stop On Tracks) (McKernan)

 A面の〈That's It For The Other One〉は II. の後、I. に戻る。III と IV はライヴ版と異なる。とりわけ IV はプリペアド・ピアノを主体としたミュージック・コンクレート。

 このアルバムには2種類のミックスが存在する。リリース当初のものと、1971年、フィル・レシュが手掛けたものだ。時間も若干異なる。その後のアナログ・リリースと当初のCDリリースはこのリミックスを使っている。2018年の50周年記念デラックス版には、CD 1 に両方のミックスが収められた。聴き比べると、71年リミックス版はA面の IV が顕著に異なる。ベースが前に出て、ドラムスが引っこむ。迫力は増しているが、ごちゃっとしている。あたしとしては、リミックスは疑問の箇所が多く、よりつまらない。



 アルバムとしては、今聴いても、かなり面白い。ビージーズ風コーラスをフィーチュアしてヒットを狙ったと覚しき〈Born Cross-Eyed〉 は曲自体の出来が良くないし、〈Caution〉も未完成なところがある。それでもアルバムとして通して聴くとそういう欠陥はあまり気にならない。ファーストからは格段の進歩、あるいはむしろジャンプ、ステップぐらいはしている。当時にあって、それほど過激ではない一方で、デッドとしての特徴はすでに出ている。売れるものではなかったにせよ、質は水準を軽く超えている。スタジオでの実験も、当時聴けばともかく、今の耳には実験とはわからないくらいだ。


2. 1972 Roosevelt Stadium, Jersey City, NJ
 火曜日。4.50、5.50ドル。開演7時。三部制。2日前のコネティカット州ハートフォードと2本だけ、東海岸でやっている。ピークのこの年のショウらしく、見事な1本だそうだ。
 DeadBase XI の Mike Dolgushkin によれば、第一部でのより長く、よりスペーシィになった〈Bird Song〉の復活に歓び、第二部の〈Dark Star〉に、会場ごと他の世界に持っていかれたという。

3. 1976 Orpheum Theatre, San Francisco, CA
 日曜日。7.50ドル。開演8時。このヴェニュー6本連続のランの楽日。
 休憩中、ビル・グレアムが奇妙な仮面を客に配って、つけさせた。第二部が始まると、客電が点いたままになり、仮面の群れがバンドに向かってわめいたのは、実に可笑しかった、と Bernie Bildman が DeadBase XI で書いている。

4. 1982 Ventura County Fairgrounds, Ventura, CA
 日曜日。12ドル。開演4時。このヴェニュー2日連続の2日目。
 ダブル・アンコールは聴衆の求めに応じたもの。全体としても良いショウの由。とりわけ第二部後半。

5. 1989 Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 火曜日。21.50ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続のランの中日。
 全体はビデオに撮影されており、2012年04月に Century 系列の映画館で短期間公開された。
 見たショウが100本クラスのデッドヘッドたちが、第二部はベストと言う。滑らかに1本につながっている。
 第一部が終る頃降りだした雨で駐車場がひどいぬかるみになり、車がはまりこみ、これを引き出そうとしたレッカー車もはまりこむ始末で、終演後、駐車場から出るまでに4時間以上かかった由。

6. 1990 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。
 全体が《Dave's Picks, Vol. 40》でリリースされた。
 確かに良いショウで、文句のつけようもないのだが、春のツアーにはある輝きがわずかながらくすんでいる感じがある。十分に展開しきったという感覚が薄い。第一部の方が充実している。次のシカゴの3日間に顔を出す、ミドランドのデーモンが、すでにその影を落としているというべきか。
 なお、この《Vol. 40》に収められたこの日と翌日の2本はすばらしく録音が良い。(ゆ)

06月21日・火
論理と歴史―東アジア仏教論理学の形成と展開
師 茂樹
ナカニシヤ出版
2015-06-10


 いやー、難しい。『最澄と徳一』は新書でもあって、ど素人にもわかるように書いてくれているが、こちらは専門家向けで、専門家なら当然熟知していることは説明などしない。あたしのように無学な人間はほとんどお手上げになる。

 一方で、ここでは原典からの引用をすべて現代語訳でしている。原文は脚注に掲載する。ということは、必ずしも専門家だけを相手にしているわけではなく、いわゆるハイ・アマチュア、アカデミアの住人ではないが、その道に突込んでいる人たちや、そこまでいかなくても関心はある人間にもアクセスしやすくしている。そこを頼りにほとんど必死の想いで読んだのだが、途中でへたることもなく、詰まることもなく、一応すらすらと最後まで読みとおせたのは不思議でもある。

 井筒俊彦の『イスラーム思想史』も、読んでいる間はたいへんに面白く、どんどんと読めて、まるで自分の頭が良くなったように感じたものだが、それはもちろん著者がちゃんとわかるように書いてくれているので、読みおわって、さて何を読んだのかと思いなおすと、さっぱり浮かんでこず、ああ、いい本を読んだなあ、という充実感だけが残った。

 こちらはそれよりはもう少し「わかった」感覚があるのは、イスラームに比べれば、仏教にはなにがしかの心組みがあるからだろう。出てくる人名にも馴染はあるし、『最澄と徳一』を読んでいたから、専門用語も少しは見当がつく。こういう本に親近感を持つのは、やはりクリスチャンでもムスリムでもなく、仏教徒ということになるのだろう。神道は宗教とは言えない。では、何なのかと言われると詰まるけれど、まあ、アニミズムの一種じゃないか。

 それにしても、仏教にもその教義をめぐって深刻な対立があり、喧々囂々の論争があったのだ、というのは正直なところメウロコものではある。結局、あたしらが知ってる仏教というのはせいぜいが葬式仏教で、あの世に行くときの心の準備のためにあるようなものだ。一方で、宗教としての仏教の目的ないし宗旨の眼目はそれよりも生きている間に成仏つまりブッダになることだ。死んだ後のことはせいぜいが二の次なのである。そして、いかにブッダになるか、を釈尊が説いたわけだが、その説き方とブッダになるなり方をどう捉えるかが大問題となる。これらをめぐって熱い議論がかわされた。それもインドから中国、朝鮮、日本、それにおそらくはネパール、チベットから中央アジアにかけての広い空間と、数百年ないし千年にわたる時間をかけてだ。ここではそのうち中国、朝鮮、日本の東アジアと、唐の玄奘から最澄・徳一までの時空に枠組みを限って、その論争の内実を描こうとしている。と、あたしは読んだ。

 その際、切口というかとっかかりとしているのが、唯識比量と呼ばれる仏教の論理式だ。三蔵法師・玄奘がインドで立てたとされているもので、これが真が偽か、真とすれば何を言っているのか、をめぐってまず大論争が起きる。

 この論理が成立するかどうか、あたしなんぞにはわからん。本書を読むかぎりでは、いろいろエクスキューズ、限定詞をつけて、その条件の中では成立するのだ、と言っているように見える。そんなにいろいろ条件をつけなくては成立しないことを、わざわざ言う必要もないとも思えてしまう。

 ともあれ、これの解釈をめぐってまず二つに大きく別れ、一方はこれを真としてそこを土台にいろいろ組み立て、もう片方は違うといって、そこからまたいろいろと組み立てる。真とする方は当然ながら玄奘の弟子たち、その系統を汲んだ人たちで、日本では法相宗から最澄にまでいたる。それに対立するのは、インド中観派のパーヴィヴェーカの流れを汲む人たちで、日本では三論宗と徳一にいたる。つまり、この本は、『最澄と徳一』で描かれた論争の背後に広がっている思想と論争の世界を描いている。というよりは、この本で描かれた思想史の中から、その結節点である最澄・徳一論争の部分を材料として取り出して、因明をはじめとする仏教論理学と仏教思想の内実をわかりやすく書いたのが新書版になる。

 出発点の玄奘の弟子たちの時代には、ほぼ純粋に唯識比量だけをめぐっての論争だったものが、東アジアに広まるにつれて、他の要素や文脈が入ってくる。三転法輪説やら三時教判やら三乗・一乗の対立やら空有論争やら、という具合だ。その間には玄奘が唯識比量を立てたもともとの事情の伝承がどんどん変えられたりもする。

 難しいのは、その論争でどこがどう違って、何をめぐって争っているか、の部分だ。キリスト教でも、教義をめぐって論争になるその解釈の違いなんてのは、外から見ると、どこがどう違うのか、よくわからないことが間々ある。どっちもまるで雲を摑むようなことを主張していたりする。当事者にとってはゆるがせにできないことで、だからこそ論争するわけだけど、熱くなってるのはわかるが、なにがそんなに違うのよ、と口をはさみたくなったりする。

 ここでも、丁寧にいろいろと補足しながら現代語に訳してくれているし、さらに要点を説明してくれていて、その限りではわかったつもりになるのだが、全体としてみると、どこか茫洋としてしまう。単にあたしの頭が悪いか、老齢でぼけているのかもしれない。本当はすぐにもう一度、あたまから読みなおしたいのだが、この本は神奈川大学図書館からの借り物で、2週間で返さねばならず、一度通読するだけで10日かかったから、そんな時間はない。途中で、あんまり面白いので、買おうとしたら、もう古書しかなくて、15,000円の値がついている。一度返して、また借りるしかない。たぶん、『最澄と徳一』を再読してから、再度挑戦する方が良いかもしれない。あるいは、仏教の教義、論理について、もう少し勉強してからもどるべきだろう。

 1章読むとぐったりして、残りはまた明日と本を閉じるけれど、翌日になると自然に手が伸びて、うんうん唸りながらも読むのが愉しくてしかたがなかった。よくわからないけれど面白い本というのもあるのだ。あたしがこんなに面白く読めるのだから、専門家や突込んだ人たちには相当にエキサイティングなんじゃないか。

 仏教にも教義をめぐって熱い論争があった、というのも面白いし、そういう論争がいつ絶えたのか、どうしてなくなったのか、最澄と空海は論争しなかったのか、などということも湧いてくる。

 それと、借りた本にはどこにも説明がないのだが、本のジャケットに印刷されているものが妙に気になる。実際の因明文献原文の拡大コピーではないかと思われるけれど、これが何で、どういうことを述べているのか、気になってしかたがない。縦組で、家系図のように横に枝が出たり、また戻ったり、何らかの論理を表現しているように見える。漢字ばかりでこういうことをやっているのは新鮮でもある。

 「まえがき」がまず面白い。この「まえがき」の面白さが全巻を通じている気もする。

 筆者は今でも、自分が徳一の研究者であり、日本の法相唯識の研究者だと思っている。ただ、徳一や最澄が引用しているものを遡って調べて論文を書いていた、結果的に朝鮮半島をはじめとする東アジア全域の文献を扱うことになり、そしていつの間にか玄奘三蔵の唯識比量に至ってしった、という次第である。振り返ってみれば、七〜九世紀の東アジアの仏教世界を研究するのに「日本」という枠組みにこだわることはそれほど生産的でないことがわかってきたが、一方で研究成果の受信者である現代の人々(筆者を含む)には近代以降の国民国家的な思考の枠組みが強固に埋め込まれていることも間違いないので、「専門は日本仏教です」と言うべきなのかどか、居心地の悪さを常に感じている。

 徳一と最澄に突込みながら、関心の赴くままに対象を広げていったのも面白いし、国民国家どころか「日本」という概念すらあったかどうか、あったとして我々のものとどこまで重なるのか大いに検討の余地がある時代であることを認識していて、さらにそれを対象とした研究の受け手のことまで考えているのもまた面白い。こういう人は信用できる。次は『「大乗五蘊論」を読む』だな。『大乗五蘊論』が何たるかも知らんのだが。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月21日には1967年から1995年まで14本のショウをしている。公式リリースは3本。

01. 1967 Polo Field, Golden Gate Park, San Francisco, CA
 水曜日。セット・リスト不明。
 夏至祭、と DeadBase XI にある。この日、夜明けから日没まで行なわれた由。フラワー・ムーヴメント、ヒッピー文化のイベントの一つ。無料のコンサートに参加したバンドは他にクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、the Mad River, the Phoenix。
 The Mad River は1966年04月、オハイオ州イエロー・スプリングスの Antioch College で結成された5人組バンド。名前は近くを流れる川からとられた。1967年03月、バークリーに拠点を移し、ここでリチャード・ブローティガンの知己を得て、大いにプッシュされた。キャピトル・レコードから1968年と69年にアルバムを出す。
 The Phoenix は不明。この名前のバンドは多すぎる。

02. 1969 Fillmore East, New York, NY
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。サヴォイ・ブラウン、バディ・マイルズ・エクスプレス共演。
 早番、遅番の2回。テープでは早番は1時間弱。遅番は1時間半強。しかし DeadBase XI での Mick Levine のレポートによれば、11時に始まった遅番は、バディ・マイルズ、サヴォイ・ブラウンとデッドで4時間を超え、デッドがついにステージから去った時には朝5時半。
 早番3曲目で〈High Time〉がデビュー。遅番でも演奏された。ハンター&ガルシアの曲。1995-03-24まで、134回演奏。1970年07月12日を最後にレパートリィから落ち、1976年06月09日に復活。1978、83、89年を除いて、毎年、時偶演奏された。ハーモニー・コーラスがウリの曲で、したがって1976年、77年の、ドナの入っている時期が最も美しく映える。

03. 1970 Pauley Ballroom, University of California, Berkeley, CA
 日曜日。アメリカ・インディアンのためのベネフィット。残っているセット・リストはテープにより、そのテープは全体を収めてはいないと思われる。

04. 1971 Chateau d'Herouville, Herouville, France
 月曜日。05月30日までの春のツアーと07月02日からの夏のツアーの間に、この1日だけフランスに飛んだショウ。本来はあるフェスティヴァルに出るためだったが、イベントは雨のためにお流れとなった。デッドは泊まっていた城をホテルにしたものの裏のプール脇に即席のステージを作って演奏した。翌年春のヨーロッパ・ツアーの布石の一つではあろう。
 第一部半ば〈China Cat Sunflower > I Know You Rider〉がドキュメンタリー《Long Strange Trip》のサントラでリリースされた。

05. 1976 Tower Theatre, Philadelphia, PA
 月曜日。このヴェニュー4日連続のランの初日。8.50ドル。開演7時。
 第一部後半〈Scarlet Begonias; Lazy Lightnin'> Supplication; Candyman〉の4曲が《Download Series, Vol. 04》でリリースされた。

06. 1980 West High Auditorium, Anchorage, AK
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演7時半。
 アラスカへの唯一の遠征の締めはなかなか良いものらしい。

07. 1983 Merriweather Post Pavilion, Columbia, MD
 木曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。開演7時。
 第一部がすばらしい由。

08. 1984 Kingswood Music Theatre, Maple, ON, Canada
 木曜日。開場2時、開演5時。ザ・バンド前座。アンコールの3曲にザ・バンドのメンバー参加。
 第二部3曲目で〈Never Trust a Woman〉がデビュー。これが2020年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。ミドランドの作詞作曲。1990-07-23まで39回演奏。スタジオ盤収録無し。
 非常に良いショウの由。

09. 1985 Alpine Valley Music Theatre, East Troy, WI
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。16.50ドル。開演8時。
 冷たい雨が降っていた。が、ショウは相当に良い由。

10. 1986 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演5時。
 第二部3曲目〈He's Gone〉は2日前に死んだバスケットボール選手の Len Bias (1963-1986) に捧げられた。ドラフト全体の2位でボストン・セルティクスに指名された2日後に急死。
 ショウはすばらしいものの由。

11. 1987 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演3時。

12. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。開演7時。ケーブル TV のペイ・バイ・ヴューで全国放映された。画像、音声ともに見事な由。第二部、2曲目〈Hell in a Bucket〉からクローザー〈Turn On Your Lovelight〉まで、drums> space を除いてクラレンス・クレモンスが参加。
 ショウそのものも最高だそうだ。

13. 1993 Deer Creek Music Center, Noblesville, IN
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。22.50ドル。開演7時。
 かなり良いショウの由。

14. 1995 Knickerbocker Arena, Albany, NY
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。30ドル。開演7時。
 Deadlists によれば、第一部は1時間、第二部は1時間半強。ガルシアはふらふらで、今何を演っているか、いちいち教えられなければならないような状態だったが、それでも2時間半のショウをしている。
 クローザー〈Morning Dew〉はこれが最後の演奏となった。この曲も含め、全体としてかなり良いショウの由。(ゆ)

05月26日・木
 まず《Dave's Picks, Vol. 1》のアナログ・セットが発送通知から1ヶ月かかってようやくやって来た。このシリーズはジャケット・デザインが共通だけど、30センチ角のサイズはやはり迫力がある。一応収録時間を CD版と比べる。最大10数秒の幅でLPの方が長かったり、短かかったりする。アナログに収めるにあたって、カットしたところは無いようだ。5枚目のB面、Side 10 はブランク。

 John Crowley の新作 Flint And Mirror 着。なんと17世紀後半のテューダー朝によるアイルランド侵略が題材で、ヒュー・オニールとエリザベス一世がメイン・キャラの一角。こいつは早速読みたいが、さて、順番としては次の次だな。Tor からのハードカヴァーだが、造本が1970年代の Doubleday Science Fiction を思わせる。フォント、版組、紙の手触り、薄さ。意図的なものだろうか。後で Rivers Solomon, Sorrowland のハードカヴァー古書が着いたので、これと比べるとなおさらその感を強くする。Sorrowland の方は、これぞ今の造本。Doubleday Science Fiction がSFの発展に果した役割って小さくない、というより、あれは全米の図書館に入っていったのだから、相当に大きいんじゃないか。誰かまとめているのかね。雑誌の歴史はあるが、単行本出版の歴史はあたしは覚えがない。

Flint and Mirror
Crowley, John
Tor Books
2022-04-19


Sorrowland
Solomon, Rivers
Merky Books
2021-03-11



 クロウリーの謝辞を読んで、ネタ本の1冊 Sean O Faolain の The Great O'Neill も古書を注文。そういえばオフェイローンもいたのだ。この人も面白そうだ。Wikipedia によれば紋切り型にアイルランド文化を決めつける態度や検閲によってこれを守ろうとする姿勢に強硬に反対したコスモポリタンと、狂信的愛国主義者が同居しているらしい。しかし、この二つは同居が可能だ。むしろ誠実にアイルランドを愛そうとすれば、コスモポリタンにならざるをえない。いや、どこの国にせよ、誠実に国を愛そうとすれば、コスモポリタンにならざるをえない。自国の利益だけを考えていては国の存続を危くする。このことは20世紀の歴史を通じて明白になっている。新たな実例が目の前で進行中だ。オフェイローンは The Irish: A Character Study を昔読みかけたことがあった。あらためて読んでみよう。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月26日には1972年から1995年まで5本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版2本、準完全版1本。。

1. 1972 Strand Lyceum, London, England
 金曜日。このヴェニュー4日連続の楽日。ヨーロッパ・ツアーの千秋楽。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 第二部オープナー〈Truckin'〉5曲目〈Morning Dew〉9曲目〈Ramble On Rose〉それにアンコール〈One More Saturday Night〉が《Europe '72》でリリースされた。全体が《Europe ’72: The Complete Recordings》でリリースされた。また第二部7曲目〈Sing Me Back Home〉が《Europe '72, Vol. 2》に収録された。
 31曲。CD で3時間43分。
 このショウは文句なくツアー最後を飾る最高のショウで、1972年というピークの年のベストの1本でもある。デッドは各々の時期によって音楽が変わるから、全体を通じてのベストというのは選び難いが、全キャリアを代表するショウであることも間違いない。また、ピグペンがメンバーとしてフルに参加した最後のショウでもある。一つの時代の終りを最高の形で示してもいる。これを境にデッドは別のバンドになってゆく。そちらの完成が1977年だ。
 この日は第一部にピグペンの持ち歌が集中している。第二部では一度も歌っていない。それだけ、体調が悪かったと思われる。とはいえ、歌っている4曲の歌唱は見事。体調が悪いなどとは微塵も感じさせない。これだけ聴けば、これがかれが歌う最後のショウであるなどとはまったくわからない。あるいは音楽をやり、こうしてバンドで歌うことで支えていたのかもしれない。晩年のボブ・マーリィのように。
 ピグペンのもの以外の歌はどれもこのツアーの総決算を聴かせる。〈Playing In The Band〉は展開の方向が定まり、ここから大休止前にかけて、モンスターに成長してゆく、その予兆が感じられる。もう一つの看板である〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉も、やはり展開の方向がほぼ決まって、これから面白くなるぞとわかる演奏だ。この日は第一部のクローザーとして〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Not Fade Away〉をやってしまう。やや軽いとも思えるが、それでもほとんど決定的な演奏。
 第二部では〈The Other One〉が〈Morning Dew〉を包みこみ、ほぼ完全に花の開ききった〈Sing Me Back Home〉とともに、ピークを作る。というよりも、オープナー〈Truckin'〉からクローザーの〈Casey Jones〉まで、テンションは上がりっぱなしだ。しかし勢いにまかせてというところはほとんど無く、常にクールなコントロールが効いていて、低く小さく抑えるところと、がんがん行くところの対比とタイミングはこれ以上のものは不可能だろう。こういうところがデッドのショウの面白いところで、勝手気儘にやっているようにみえて、その実、緻密な組立てをしている。たとえば〈Casey Jones〉は、最後に加速してゆく繰返しで、ラストがこれまでで最も速くなるまでになる。前日まではほとんどアンコールは無いが、さすがに最終日はアンコールをやる。ここでのガルシアのソロがすばらしい。
 このツアーからは《Europe '72》という、当時非常識なLP3枚組のライヴ盤が生まれ、デッドのアルバムで最高の売行をみせる。《Live/Dead》と並んで、グレイトフル・デッドというバンドを定義する作品となる。それが実は氷山の一角のカケラであった、とわかるのが《Europe ’72: The Complete Recordings》だ。一連のツアーの全体像が公式リリースされているのは、今のところ、これと1990年春のツアーの二つだけだ。この二つは、デッド30年のキャリアの前期と後期に立つピークをなす。
 あたしはこの22本のショウを聴くことでデッドにハマっていった。聴きだした時には、デッドって何者だ、と思いながら聴いていた。聴きおわった時には、もっと聴かずにはいられなくなっていた。グレイトフル・デッドの音楽とそれが生みだし、それを取り巻く広大な世界が垣間見えたからだ。それからひたすらショウの公式リリースを集め、聴きだした。「テープ」、今はネット上のファイルだが、「テープ」という概念はあたしにはまだ無かった。テープ文化はブートレグ文化とはまったく違う。グレイトフル・デッド特有の現象だ。
 これまで1個のバンドにここまでハマったことは無い。フランク・ザッパも公式に出ているものはすべて手に入れたが、こういうハマり方はしていない。
 1972年春は、原始デッドとアメリカーナ・デッドが合流し、完成し、そして次の位相へと転換するプロセスだ。22本のヨーロッパ・ツアーはそれを具体的な音楽として示している。これを聴くことは、グレイトフル・デッドというバンドがその思春期から青年期へと脱皮するプロセスを体験することでもある。
 そう見れば、この最後のロンドン4日間、とりわけ最終日のショウには、その後のバンドの音楽の姿が最高の形で現れている。

2. 1973 Kezar Stadium, San Francisco, CA
 土曜日。5.50ドル。開場10時。開演11時。デッドの登場午後2時。"Dancing On The Outdoor Green (DOG)" と題されたイベントで、デッドがヘッドライナー、ウェイロン・ジェニングズとニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが共演。スターターは NRPS でキース・ガチョーとマシュー・ケリーが参加。2番目がウェイロン・ジェニングズ。デッドは三部構成で4時間超のステージ。内容はすばらしく、この年のベストのショウの1本の由。
 第二部6曲目〈Box Of Rain〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 オープニングのウェイロン・ジェニングズのバンドのペダルスティール奏者 Ralph Mooney の演奏をガルシアが食い入るように見ていた由。
 元来は05月22日、23日の2日間として予定されていたもの。

3. 1977 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
 木曜日。第一部6曲目〈Passenger〉が2012年の、第二部2曲目〈High Time〉が2013年の、オープナー〈The Music Never Stopped〉が2014年の、第二部オープナー〈Samson and Delilah〉が2016年の、アンコール〈Uncle John's Band〉が2017年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave's Picks, Vol. 41》で全体がリリースされた。
 この CDケースに写真が掲載されたノートによると、
Crew Call: 10 AM
Sound Check: 4 PM
Door Open: 6 PM
Show Time: 7 PM
End Of Show: 11PM - STRICT CURFEW!!
とある。最後の音は午後11時までに鳴り終えなければならない。この注意書きが大文字でタイプされているのは、それだけ掟破りが多かったと思われる。この頃のデッドは1972、73年頃のように、やたらに長く演奏することはなくなっていたが、とにかくケツを決められるのが嫌いだったのだろう。この日、この制限が守られたかは定かではない。CD での時間は2時間54分。
 前日のリッチモンドからボルティモアまでは250キロ、車で2、3時間。移動日無し。翌日は移動日でコネティカット州ハートフォードまで、ボルティモアからは480キロ。このハートフォードが春のツアーの千秋楽。
 この日はどちらかというと第二部が良いショウの1本に聞える。第一部もすばらしいが、とんでもないと思えるところがまず無い。ほとんど坦々と演奏していると聞える。というのは贅沢なのだが、1977年春については、そういう贅沢も許される。では、悪いかといえば、むろんそんなことはなく、どの曲もすばらしい演奏が続く。ただ、どこか、きっちりと収まっているところはある。
 中ではオープニングの2曲、4曲目という早い位置の〈Sunrise〉、〈Brown-Eyed Women〉〈Looks Like Rain〉、そして〈New Minglewood Blues〉が突込んだ演奏を聴かせる。第二部では〈High Time〉の言葉をそっと置くようなコーラス、〈Big River〉のガルシアのソロ、〈Estimated Prophet〉後半の集団即興が聞き物。そして、〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Around and Around〉の畳みかけ。〈Not Fade Away〉のガルシアのギター・ソロは凄みすら感じさせる。ほとんどこの世のものとも思えない。〈Goin' Down The Road Feeling Bad〉でもその調子が崩れない。ここでは基本として3人とも小さく歌い、"bad, bad, bad" とくり返すところだけ声を大きくする。だんだん力を入れてゆき、ついにはわめき、いきむ。その対照の妙。〈Around and Around〉でもガルシアのギターがすばらしい。アンコールの〈Uncle John's Band〉は、3人の歌の入り方がよく計算されている。1人で歌い、2人で歌い、3人目が加わり、また元にもどり、という具合。この曲のコーラスはドナがいた時期の後半が最も美しい。
 ああ、永遠の1977年春。

4. 1993 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。開演7時。レックス財団ベネフィット。
 《Road Trips, Vol. 2, No. 4》とそのボーナス・ディスクで第二部 Space を除く全体がリリースされた。
 第二部の中核〈Playing In The Band〉は1990年代で1、2を争うと言われる。

5. 1995 Memorial Stadium, Seattle, WA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。33.25ドル。開演5時。第一部クローザー前の〈Eternity〉でウィアがアコースティック・ギター。
 かなり良いショウの由。とりわけ第二部オープナー〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain〉が良いらしい。(ゆ)

0225日・金

 市から Covid-19 ワクチン3回目接種券到着。

 公民館に行き、本5冊受け取り。借りてきた本の1冊は Helen Swick Perry, The Human Be-In, 1970 の邦訳『ヒッピーのはじまり』。昨年5月、作品社から出たもの。原書は古書でも140ドルとかしている。邦訳には当時のポスター、写真、記事などのヴィジュアルもついていて、とにかくこいつを読むべえ。

ヒッピーのはじまり
ヘレン・S・ペリー
作品社
2021-05-31

 

 もう1冊は Johann Hari, Chasing The Scream: The First and Last Days of the War on Drugs, 2015 の邦訳『麻薬と人間』。こっちはベストセラーだけあって、原書も安いが、これも翻訳をまず読んでみんべえ。『スターリングラード攻防戦』のように、よほどひどければ原書に行けばよい。邦訳は昨年2月、またしても作品社。ここは田川建三さんの『新約聖書 訳と注』を出している。こうなると今、一番面白い版元と言ってもいい。

麻薬と人間 100年の物語
ヨハン・ハリ
作品社
2021-01-29

 

 あとの2冊はジギスムンド・クルジジャノフスキイの作品集2冊。まあ、これは買ってもいいんだが、念のため確認。河出からもう1冊出ている。河出の『神童のための童話集』の訳者がキンドルで2冊出している。

 あたし的にはグラドの輸入元のナイコム名義でスパムが来る。送付元を確認するとアドレス末尾が .pk だからパキスタン。これも本当にそこから来ているかはわからん。ナイコムのサイトを見たらアナウンスがあった。eイヤホンの親会社のK氏からも、自分の名前でスパムが出回っているとお詫びのメール。今時、なりすまされるのは本人の落ち度ではなかろう。どこやらの中間のサーバが侵入されたんじゃないか。ナイコム、eイヤホンとは過去にメールのやりとりをしていた。



##本日のグレイトフル・デッド

 0225日には1966年から1995年まで5本のショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1966 Cinema Theatre, Los Angeles, CA

 Sunset Boulvard Acid Test。2ドル、メンバーは1ドル。開演午前零時。8曲のセット・リストが残っている。


2. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 このヴェニュー3日連続の中日。オーティス・ラッシュ&ヒズ・シカゴ・ブルーズ・バンドとキャンド・ヒート共演。セット・リスト不明。


3. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 この年最初のショウ。このヴェニュー3日連続の初日。開演7時。

 第一部8曲目、クローザー前の〈Cassidy〉が《Without A Net》で、5曲目〈Stagger Lee〉が昨年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 ローリング・ストーンズの〈The Last Time〉が第一部7曲目でデビュー。19950706日まで、計70回演奏された。スタジオ盤収録は無し。

 〈Stagger Lee〉はガルシアのヴォーカルが遠くて、ほとんど聞えないのが難点だが、演奏はいい。

 〈Cassidy〉は宝石の一つ。《Without A Net》はレシュの選曲で、こういうのを拾うあたり、さすがだ。ウィアとミドランドが左右に別れて聞えるが、ちゃんとデュエットになっている。この曲はドナがいた時に、おそらく彼女の声を念頭に置かれて書かれている。ミドランドは見事にドナの代役をつとめて、この歌のしぶとさが滲みでる。それに誘われたか、3番の後のインストルメンタルが不定形のジャムになる。全員参加、誰がリードともわからない集団即興。長くはないが、それもまたよし。これぞ、デッドを聴く醍醐味。あっさりと、一見、何の合図もなく、コーラスにもどるところもカッコいい。この年のこの時期の異常なまでの好調さがよくわかる。


4. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 この年最初のショウ。このヴェニュー3日連続の初日。春節記念。24.50ドル。開演7時。

 この年のショウは85本。前年より4本増えた。レパートリィは143曲。うち前年には演奏されなかったものが12曲。新曲は3曲。〈Samba in the Rain〉〈If The Shoe Fits〉〈Childhood’s End〉。興収では5位。ローリング・ストーンズ、ピンク・フロイド、イーグルス、バーブラ・ストライザンドに次いだ。

 1月にバンドは「ロックンロールの殿堂」入りをした。その式典にガルシアだけは欠席し、等身大の写真の切抜きが代わりに出た。

 〈Samba in the Rain〉はハンターの詞にウェルニクが曲をつけた。6月8日にサクラメントで初演。1995年7月9日のラスト・ショウまで38回演奏。スタジオ盤収録無し。

 〈If The Shoe Fits〉は Andrew Charles 作詞、レシュ作曲。6月9日サクラメントで初演。1995年3月24日まで計17回演奏。スタジオ盤収録無し。

 〈Childhood’s End〉はレシュの作詞作曲で7月20日インディアナ州ノーブルヴィルで初演。1995年7月9日のラスト・ショウまで計11回演奏。

 レシュの2曲は《Ready Or Not》にも入らず、公式リリースでは出ていない。

 ニコラス・メリウェザーはどれもポテンシャルはあるが、十分に育つだけの時間が無かったとしている。


5. 1995 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の中日。開演7時。(ゆ)


0217日・木

 Dark Breakers, C. S. E. Cooney、ザ・バンド全曲解説, 五十嵐正、着。

 Dark Breakers は既出2篇も大幅に改訂、拡張している、と巻末の著者ノートにある。この2篇は10年前に書いたもので、一昨年 Tor.com から出た Desdemona And The Deep の水準と長さに合わせる必要があった。今回加えられたのは、短かめのノヴェラ1篇と短篇2篇で、これらは最近の作。

 五十嵐さんの本は、デッド本の参考になるか、と思って買ってみた。〈The Nigth They Drove Old Dixies Down〉の項目に目を通す。お手本にしたいほど良く書けていると思う。しかし、デッドにはこの手法は使えない。デッドの「全曲解説」をするとすれば、アルバムの枠をはずして、タイトルのアルファベット順か、あるいは演奏回数の多い順にするしかない。《Built To Last》以降にデビューした曲は当然バンド在世中の公式アルバムには入っていないし、デッドにおいてはカヴァー曲はオリジナルと同様に重要だが、これまたどこにも入っていないものが多すぎる。逆にスタジオ盤に収録されながら、ライヴでは一度も演奏されなかった曲もある。

 数からいえば、300曲とすれば、ほぼ漏れは無かろう。1曲1,000字でトータル30万字。400字詰750枚。でも、重要曲は千字では収まらないし、メンバーのバイオとか、バンドの歴史とか、あれこれ加えて、まあ、千枚は超えますね。

 としてみても、それでデッドの総体が摑めるか。デッドの「作品」はアルバムではなく、個々の曲でもなく、1本1本のショウになる。一連のツアー、ランとしてのまとまりもある。曲からのアプローチは縦糸に相当する。横糸は2300本余りのショウだ。だから、少なくとも、公式に全体がリリースされているアーカイヴ音源を対象として、そちらからのアプローチも必要になる。つまり、最低で2冊必要だ。

 さらに、デッドを生み出し、デッドが生み出したアメリカの社会という観点もある。これはむしろ社会学の範疇で、音楽からは離れるかもしれない。あたしの手に余ることは確かだ。Jesse Jarnow Heads を翻訳できれば、足掛かりにはなりそうだ。



##本日のグレイトフル・デッド

 0217日には1968年から1988年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1968 Selland Arena, Fresno, CA

 3.50ドル。開場7時半、開演8時半。共演カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、Valley Fever。デッドが先に演奏、とショウのプロモーターの一人は言うが、客の一人はデッドが最後としている。〈Good Morning Little Schoolgirl〉をやり、それからプロモーターによれば〈Turn On Yoru Lovelight〉、客によれば〈Viola Lee Blues〉を延々と演って終り。ガルシア公式サイトではデッドは最後で、演ったのは TOYL としている。

 Valley Fever は地元のバンドの由。

 〈Turn On Your Lovelight〉は日時場所が明確なものとしては19670805日、トロントで初演。19720524日ロンドンを最後に、一度レパートリィから落ちる。19811016日、オランダで復活。19840707日以後再び定番となり、最後は19950619日、ニュー・ジャージー州イースト・ラザフォード。計349回演奏。演奏回数順では26位。当初はピグペンの持ち歌で、後年はウィアが歌う。なお "Turn On Yoru Lovelight" "Turn On Your Love Light" の二通りのスペルがある。オリジナルのボビー・ブランドのリリースや、その他のほとんどのカヴァーでは後者のスペル。デッドも初めは後者を使っていたが、後、"Lovelight" を使うようになる。

 ショウでは後半の盛り上がるところで演奏されることが多い。〈Good Lovin'〉とならんで、ピグペンが即興でうたう「ラップ」を展開する曲でたいていは長い演奏になる。後期のウィアがヴォーカルをとる時期では、器楽演奏の比重が増え、やはり長いジャムが展開される。

 原曲は Joseph Scott & Deadric Malone 1961年に書いた。スコットは1961年から68年まで、ボビー・ブランドが仕事をしたバンドリーダーでアレンジャー。マローンはレコード・レーベルのオーナー経営者 Don Robey の筆名で、おそらく曲作りに実際に関ってはいない。ブランドはスコットの編曲で1961年に吹き込み、その年末にリリースされて、翌年初め、R&Bチャートで2位になっている。カヴァーは多く、ヴァン・モリソンのゼムやグレッグ・オールマン、ジェリー・リー・ルイス、トム・ジョーンズ、バリー・ゴールドバーグ、エドガー・ウィンターなどもやっている。


2. 1973 St. Paul Auditorium, St. Paul, MN

 第一部の半ばでスイッチが入ったらしい。第二部半ばで、〈Here Comes Sunshine> China Cat Sunflower> I Know You Rider〉という、この時だけの組合せが出る。HCS から CCS への移行があまりに見事なので、これがその後繰返されなかったのは不思議と John J. Wood DeadBase XI で書いている。

 〈Here Comes Sunshine〉はハンター&ガルシアの曲。この年0209日スタンフォード大学のショウでデビュー。1年後、19740223日に一度レパートリィから落ち、19921206日に復活。以後、最後まで演奏された。計66回演奏。スタジオ盤は《Wake Of The Flood》収録。アルバムのタイトルはこの曲の歌詞冒頭から。

 歌詞は例によって意味がとりにくいが、象徴としてのノアの洪水が底流にあると思われる。洪水をもたらした雨がやみ、雲が切れて陽光がさしこんでくる情景。ハンターによれば、1949年のワシントン州の洪水に遭遇し、父親に見捨てられて、他人の家に仮寓した体験を歌っている。ちなみにハンターは母親の再婚相手の姓。この曲がデビューしたパロ・アルトは、ハンターが両親とともに転居して、一度は入ったコネティカット大学をドロップアウトしてまで戻った地だ。


3. 1979 Oakland Coliseum Arena, Oakland, CA

 前売7.50ドル、当日8.50ドル。開演8時。ガチョー夫妻最後のショウ。後任のブレント・ミドランドにアンサンブルに入る準備期間を与えるため、0422日までショウは休む。

 DeadBase XI Mike Dulgushkin によれば、このショウの時点ではガチョー夫妻がこれで脱けることを聴衆は知らなかった。

 1970年代はデッドにとって最も幸福な時期で、それを支えた要素の一つはガチョー夫妻の存在である、というのがあたしの見立て。もう一つの要素は、メンバーが30代で、十分なエネルギーを保ちながら、ミュージシャンとして、バンドとして成熟していることだ。1年半、ショウを休んだことも、結果としてはベストの形になった。

 デッドヘッドにドナ・ヘイターは多いが、ドナの声は70年代デッドにユニークなカラーを与えている。とりわけ、休止期以後のハーモニーは、デッドの歌の最も美しい情景を生みだす。単純にシンガーとして見れば、おそらくデッドのうたい手の中ではトップだろう。ここで脱けることがなければ、ドナがリード・ヴォーカルをとる曲が主要なレパートリィの一部として聴けたかもしれない。ドナの後継がデッドに現れなかったのは、ガルシアが1980年代以降、自分のバンドには女性コーラス陣を欠かさなかったこととは対照的であり、いろいろな意味で興味深い。

 キースはデッドにおいて鍵盤の地位を明瞭に確立した。それ以前のピグペンにしても、トム・コンスタンティンにしても、バンドに不可欠ではあっても、リスナーにとっては重要ではなかった。キースのピアノは他のメンバー、とりわけガルシアにとって無くてはならないものになっただけでなく、バンド全体の音楽のなかで存在を主張し、積極的にジャムにからんで、リスナーからも注目される。ショウにあって、かれのスタインウェイはステージ上で目立った。

 それだけに、19720827日のヴェネタでのショウを収めた映画 "Sunshine Daydream" において、音は聞えるのに、かれの姿が画面に全く登場しないのは故意としか思えず、不審でもある。ショウの音源と共にリリースされた DVD の版は再編集されているとのことだが、オリジナルの版は見ていないので、そちらではキースが映っているのかはわからない。しかし、キースはすでに死んでいるわけだし、2013年のリリースの時点でその映像を削らなければならない理由は見当らない。このドキュメンタリーはその他の点ではまことに面白いものであるので、余計その穴が目立つ。


4. 1982 Warfield Theatre, San Francisco, CA

 25ドル。開演8時。同じヴェニュー2日連続の2日目。すばらしいショウの由。この2日間はベネフィットのためとニコラス・メリウェザーは言うが、何のためかは不明。


5. 1988 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 開演7時。良いショウの由。(ゆ)


02月08日・火

 公民館に往復して、図書館から借りた本をピックアップ。イアン・カーショーのヒトラー伝の上巻と最新刊の『ナチス・ドイツの終焉』。浩瀚なヒトラー伝でも決着がつかなかった疑問、ナチス・ドイツはなぜ最後まで抵抗を続け、全ドイツを道連れにできたのか、という疑問に挑戦したもの。どちらも部厚いが、どちらも原注・文献が2割はある。ヒトラー伝は二段組。『ナチス・ドイツの終焉』の訳者は1934年、ナチスが政権をとった翌年の生まれだから87歳。それでこの仕事をしたというのは、本当に自分でやったのなら偉いもんだ。冒頭を読むかぎりでは、訳文にひっかかるところは無い。

 もともとはワシーリィ・グロスマンを読もうとして、その準備のためにアンソニー・ビーヴァーのスターリングラード攻防戦を読んだら、そこから滅亡までのナチスの歴史にハマってしまった。肝心のグロスマンはそっちのけになる。まあ、いずれ戻れるだろう。

ナチ・ドイツの終焉 1944-45
イアン・カーショー
白水社
2021-11-26



##本日のグレイトフル・デッド

 0208日には1970年と1986年にショウをしている。公式リリースは1本。


1. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA

 このヴェニュー、4日連続のランの最終日。3ドル。開演7時。タジ・マハル共演。

 オープナー〈Smokestack Lightnin’〉と5曲目〈Sittin' On Top Of The World〉が《The Golden Road》所収の《History Of The Grateful Dead, Vol. 1 (Bear's Choice)》でリリースされた。オリジナルの《History Of The Grateful Dead, Vol. 1》は19700213日と14日のフィルモア・イーストでのショウの録音からの抜粋だが、2001年に《The Golden Road》のボックス・セットに収録された際、4曲が加えられた。その4曲のうちの2曲がこの日の録音。

 〈Smokestack Lightnin’〉はこの日の西での演奏と13日の東での演奏を聴き比べることができる。ピグペンがリード・ヴォーカルのブルーズ・ナンバー。ハウリン・ウルフが最も有名だろう。ジョン・リー・フッカー、ヤードバーズ、アニマルズも録音している。19670318日サンフランシスコで初演。19720325日ニューヨークがピグペンでの最後。19830409日に復活し、19941018日マディソン・スクエア・ガーデンが最後。計53回演奏。

 ブルーズ・ロック・バンドとしてのデッドの実力がわかる。もっともガルシアのギターはブルーズ・ギターではない。後にはばりばりのブルーズ・ギターも弾くが、この時期は典型的なブルーズのフレーズはほとんど弾かない。ピグペンのヴォーカルも典型的なブルーズ歌唱ではない。それでもブルーズの感覚は濃厚だ。タジ・マハルも典型的なブルーズの人ではないが、この演奏を当時どう聞いたか、何か記録があれば面白いだろう。タジ・マハルは前年に傑作《Giant Step/De Ole Folks At Home》を発表している。少なくともガルシアはこれを聴いていたはずだ。

 〈Sittin' On Top Of The World〉はブルーズというよりはより広いアメリカーナの共有財産として、オールドタイム、ヒルビリー、ブルーズ、ウェスタン・スイング、ブルーグラスなどの人たちに演奏され、1930年代から様々な録音がある。ガルシアのアイドルの一人ビル・モンローもブルーグラス・ボーイズで録音している。ガルシアのデッド以前からのレパートリィの1曲で、1962年の Hart Valley Drifters の録音がリリースされている。デッドとしては19660312日ロサンゼルスで初演。1972年春のヨーロッパ・ツアーまで演奏され、その後、跳んで19890702日、マサチューセッツでの演奏が最後。計25回演奏。なお〈Sittin' on Top of the World〉がデッドの録音での表記だが、'Sitting' と略さない形の表記も若干ある。デッド以外の録音では略さない方が一般的のようだ。


2. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 16ドル。開演8時。このヴェニュー5本連続のランの初日。この年最初のショウ。春節記念。かなり良いショウの由。(ゆ)


0206日・日

 中止になる可能性も五分五分よりは六分四分ぐらいになってきたが、0311日の ICF の講座は開催される前提で準備をしなければならない。あたしの担当は「アイルランドの歴史」の概略だが、アイリッシュ・ミュージックのファン、演奏者にとってのアイルランドの歴史について話せ、ということだろう。だいたい、いかに小さな国とはいえ、その全史を2時間で話せというのは無理だ。

 ということを念頭において、どこに焦点を当てるかを考えてみる。

 まず、アイルランドの島に人間が到達した時。人間がいなけりゃ、音楽は無いわな。

 次はケルトの到来。どこまでつながってるか、分明でないところも大きいが、一応、アイリッシュ・ミュージックはケルトのキャラクターを備えている、と言える。

 5世紀、聖パトリックに代表されるキリスト教の到来。やっぱり、根本、土台だ、ということは強調しておくべきだろう。教会の権威は近年地に墮ちてるが、キリスト教は教会だけじゃない。

 10世紀末から11世紀初頭、ブリアン・ボールヴァのハープの意味。ほんとに王様本人が弾いたのか、は別として。

 17世紀のイングランドの侵略。社会にとってはでかいんだが、音楽と直接は結びつかん。どう話すか。

 19世紀初頭、ナポレオン戦争。ナポレオンはアイルランドのカトリックにとっては希望の星だった。だから、歌の題材になる。

 1845年、大飢饉。これで社会が変わる。ということは、あたしらが聽いてる伝統音楽も、これ以後の社会の反映。

 1935年、ダンス・ホール条例。家での「無許可」のダンス、ケイリが禁じられたことで、音楽の姿が変わる。

 1950年代後半からの外蘋度改革。これによって1960年代からの音楽革命の担い手たる若者が登場する。

 1990年、メアリ・ロビンスン大統領就任。このことに象徴される変化によって、アイルランドの文化は世界の注目を集める。ICF もいわばその落とし子だ。

 これに、主な楽器の歴史をざっくりと加える。

 てな、ところでどうだろうか。



##本日のグレイトフル・デッド

 0206日には1966年から1989年まで5本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1966 Northridge Unitarian Church, Los Angeles, CA

 ノースリッジ・アシッド・テストで、この教会の牧師がデッドを招いたそうな。録音が残っている。が、アウズレィ・スタンリィはこれを19日としている。前日、サンフランシスコのスタジオでリハーサルをしているとすると、19日の方が蓋然性が大きい。


2. 1969 Kiel Auditorium, St. Louis, MO

 アイアン・バタフライの前座で1時間半ほどの演奏。〈Dark Star> St. Stephen> The Eleven> Turn On Your Lovelight〉というこの年の定番セットを演奏したところでレシュが、アイアン・バタフライがもうすぐ出る、と言うが、少し間があって、ガルシアが、まだ少し時間があるから、もう少し演るよ、といって、〈That's It for the Other One〉を始める。録音によるので、この間がどれくらいかは不明。

 アイアン・バタフライは前年の《In-A-Gadda-Da-Vida》がヒットし、サード《Ball》がこの年の01月に出たばかりで、そのサポート・ツアーだろう。1971年に解散。ウィキペディアでは「サイケデリック・ロック・バンド」と呼ばれている。Wikipedia ではむしろハード・ロック、ヘヴィメタの源流の一つとされている。


3. 1970 Fillmore West, San Francisco, CA

 4日連続のランの中日。3.50ドル。約2時間の一本勝負。この時期の典型、ということはデッドとして第一級の出来。


4. 1979 Tulsa Pavilion, Tulsa, OK

 開演7時。オクラホマでは計8回ショウをしている。これはその5回目。珍しく録音が無いらしい。


5. 1989 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 春節祝賀ショウの中日。サンフランシスコの中華交響楽団が前座、だそうだが、どういう楽団なのだろう。Drums では Dragon Drums が使われた由だが、脇に竜の絵が描かれた太鼓だろうか。全体としてはまずまずのショウのようだ。


 この日《Dylan & The Dead》がリリースされた。トラック・リストと収録日時は以下の通り。

Side One

1. Slow Train 1987-07-04 4:54

2. I Want You 1987-07-24 3:59

3. Gotta Serve Somebody 1987-07-26 5:42

4. Queen Jane Approximately 1987-07-19 6:30

Side Two

1. Joey {Bob Dylan & Jacques Levy} 1987-07-04 9:10

2. All Along the Watchtower 1987-07-26 6:17

3. Knockin' on Heaven's Door 1987-07-26 6:51


 この時のディランとのツアーの全体は以下の通り。

1987-07-04, Sullivan Stadium, Foxboro, MA

1987-07-10, JFK Stadium, Philadelphia, PA

1987-07-12, Giants Stadium, East Rutherford, NJ

1987-07-19, Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR

1987-07-24, Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA

1987-07-26, Anaheim Stadium, Anaheim, CA

 このうち24日と26日のデッドのみの部分の各々全体が《View From The Vault IV》で CD DVD が別々にリリースされた。

 また12日のデッドのみの部分の全体が《Giants Stadium 1987, 1989, 1991》でリリースされた。(ゆ)


0118日・火

 HiFiMAN JapanEdition XS を発表。国内価格税込6万弱は、なかなかやるな。しかし、諸般の事情というやつで、ここはガマン。


 図書館から借りた1冊『リマリックのブラッド・メルドー』を読みだす。ここ5年ほどのろのろと書きつづけているグレイトフル・デッド本にそろそろいい加減ケリをつけてまとめようとしている、その参考になるかと思って手にとった。最初の二章を読んで、あまり参考にはならないと思ったが、中身そのものは面白い。以前、中山康樹『マイルスを聞け!』も、参考になるかと思って読んでみて、やはり参考にならなかったけれど、やはり面白く、別の意味でいろいろ勉強になった。



 マイルス本にしても、このメルドー本にしても、それぞれ対象が異なるのだから、グレイトフル・デッド本を書く参考にならないのは当然ではある。それでも藁にもすがる思いで手にとるのは、それぞれの対象の扱い方は対象と格闘し、試行錯誤を重ねる中で見つけるしかない、その苦しさと不安をまぎらわせるためではある。それにしても、デッドはマイルスよりもメルドーよりもずっと大きく、底も見えない。いや、マイルスやメルドーが小さいわけではなく、かれらとデッドを比べるのは無限大の自乗と三乗を比べるようなものではあるが、それでもデッドの音楽の広がりと豊饒さと底の知れなさは、他のいかなる音楽よりも巨大だと感じる。

 面白いことのひとつは、牧野さんもチャーリー・パーカーを日夜聴きつづけて、ある日「開眼」した。この場合聴いていたのは駄作と言われる《Plays Cole Porter》。後藤さんによればパーカーの天才はフレージングなのだから、そこさえしっかりしていればいいわけだ。

 二人までも同じ経験をしているのなら、試してみる価値はある。ただ、今、あたしにチャーリー・パーカーが必要かは、検討しなくてはならない。パーカーがわかることは、デッドがわかるために必要だろうか。

 必要であるような気もする。あるミュージシャンをわかれば、それもとびきりトップ・クラスのミュージシャンをわかれば、他のとびきりのミュージシャンもわかりやすくなるだろう。

 一方で、後藤さんも牧野さんも、まだ若い、時間がたっぷりある頃にその体験をしている。あたしにそこまでの余裕は無い。これはクリティカルだ。とすれば、パーカーは諦めて、デッドを聴くしかない。

 デッドはもちろんまだよくわかっていないのだ。全体がぼんやり見えてきてはいるが、この山脈は高く、広く、深く、思わぬところにとんでもないものが潜んでいる。デッドの音楽がわかった、という感覚に到達できるかどうか。それこそ、日夜、デッドを聴きつづけてみての話だ。

 牧野さんはジャズを通じて、普遍的、根源的な問いに答えを出そうとする。あたしは大きなことは脇に置いて、グレイトフル・デッドの音楽のどこがどのようにすばらしいか、言葉で伝えようとする。むろん、それは不可能だ。そこにあえて挑むというとおこがましい、蟷螂の斧ですら無い、一寸の虫にも五分の魂か、蟻の一穴か。いや、実はそんな大それたものではなく、はじめからできないとわかっていることをやるのは気楽だというだけのことだ。できるわけではないんだから、どんなことをやってもいい。はじめから失敗なのだから、失敗を恐れる必要もない。できないとわかっているけれど、でもやりたい。だから、やる。それだけのこと。

 一つの方針として、できるだけ饒舌になろうということは決めている。そもそも、いくら言葉をならべてもできないことなのだから、簡潔にしようがない。できるかぎりしゃべりまくれば、そのなかのどこかに、何かがひっかかるかもしれない。

 牧野さんは出せる宛もない原稿を書きつづけて千枚になった。それは大変な量だが、しかし、それではデッドには足らない。まず倍の二千枚は必要だ。目指すは1万枚。400万字。どうせならキリのいいところで500万字。これもまず千枚も書けないだろう。だからできるだけ大風呂敷を広げておくにかぎる。

 デッドを聴けば聴くほど、それについて調べれば調べるほど、デッドの音楽は、アイリッシュ・ミュージックと同じ地平に立っている、と思えてくる。バッハのポリフォニーとデッドの集団即興のジャムが同じことをやっているのを敷衍すれば、バッハ、デッド、アイリッシュ・ミュージック(とそれにつながるブリテン諸島の伝統音楽)は同じところを目指している。バッハとデッドはポリフォニーでつながり、デッドとアイリッシュ・ミュージックはその音楽世界、コミュニティを核とする世界の在り方でつながる。アンサンブルの中での個の独立と、独立した個同士のからみあい、そこから生まれるものの共有、そして、それを源としての再生産。これはジャズにもつながりそうだが、あたしはジャズについては無知だから、積極的には触れない。ただ、デッドの音楽は限りなくジャズに近づくことがある。限りなく近づくけれど、ジャズそのものにはならない。それでも限りなく近づくから、どこかでジャズについても触れないわけにもいくまい。デッドが一線を画しながら近づくものが何か、どうしてどのようにそこに近づくのか、は重要な問いでもある。

 アイリッシュ・ミュージックを含めたブリテン諸島の伝統音楽とするが、いわば北海圏と呼ぶことはできそうだ。地中海圏と同様な意味でだ。イベリア半島北岸、ブルターニュ、デンマーク、スカンディナヴィア、バルト海沿岸までの大陸も含む。ただ、そこまで広げると手に余るから、とりあえずブリテン諸島ないしブリテン群島としておく。



##本日のグレイトフル・デッド

 0118日には1970年から1979年まで、3本のショウをしている。公式リリースは準完全版が1本。


1. 1970 Springer's Inn, Portland, OR

 このショウは前々日の金曜日にステージで発表された。1時間半の一本勝負。オープナーの〈Mama Tried〉と7曲目〈Me And My Uncle〉を除いて全体が《Download Series, Volume 02》でリリースされた。配信なので時間制限は無いから、省かれたのは録音そのものに難があったためだろう。

 短いがすばらしいショウ。4曲目〈Black Peter〉でスイッチが入った感じで、その次の〈Dancing In The Street〉が圧巻。後年のディスコ調のお気楽な演奏とは違って、ひどくゆっくりとしたテンポで、ほとんど禍々しいと呼べる空気に満ちる。ひとしきり歌があってからウィアが客席に「みんな踊れ」とけしかけるが、その後の演奏は、ほんとうにこれで踊れるのかと思えるくらいジャジーで、ビートもめだたない。ガルシアのギターは低域を這いまわって、渋いソロを聴かせる。前年と明らかに違ってきていて、フレーズが多様化し、次々にメロディが湧きでてくる。同じフレーズの繰返しがほとんど無い。次の〈Good Lovin'〉の前にウィアが時間制限があるから次の曲が最後と宣言する。が、それから4曲、40分やる。〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉はもう少し後の、本当に展開しきるところへの途上。それでもガルシアのソロは聞き物。クローザー〈Turn On Your Lovelight〉は安定しないジャムが続き、この歌のベスト・ヴァージョンの一つ。


2. 1978 Stockton Civic Auditorium, Stockton, CA

 自由席なので、土砂降りの雨の中、長蛇の列ができた。ショウはすばらしく、並んだ甲斐はあった。Space はウィアとドラマーたちで、Drums は無し。

 ストックトンはオークランドのほぼ真東、サクラメントのほぼ真南、ともに約75キロの街。サンフランシスコ湾の東、サスーン湾の東側に広がるサクラメントサン・ホアキン川デルタの東端。

 年初以来のカリフォルニア州内のツアーがここで一段落。次は22日にオレゴン大学に飛んで単独のショウをやった後、30日のシカゴからイリノイ、ウィスコンシン、アイオワへ短かいツアー。2月の大部分と3月一杯休んで4月初旬から5月半ばまで、春のツアーに出る。


3. 1979 Providence Civic Center, Providence, RI

 8.50ドル。開演8時。《Shakedown Street》がリリースされて初めてのこの地でのショウ。ローカルでこのアルバムがヒットしていたため、ひと眼でそれとわかる恰好をしたディスコのファンが多数来たが、お目当てのタイトル・チューンは演奏しなかったので、終演後、怒りくるっていた由。

 デッドはアルバムのサポートのためのツアーはしないので、リリースしたばかりの新譜からの曲をやるとは限らない。もっとも、このショウでは〈I Need A Miracle〉〈Good Lovin' 〉〈From The Heart Of Me〉と《Shakedown Street》収録曲を3曲やっている。

 〈Good Lovin' 〉は19660312日初演、おそらくはもっと前から演奏しているものを、13年経って、ここで初めてスタジオ録音した。カヴァー曲でスタジオ録音があるのは例外的だ。元々はピグペンの持ち歌で、かれが脱けた後は演奏されなかったが、ライヴ休止前の19741020日ウィンターランドでの「最後のショウ」で復活し、休止期後の197610月から最後までコンスタントに演奏されている。演奏回数425回。14位。ピグペンの持ち歌でかれがバンドを脱けてから復活したのは、これと〈Not Fade Away〉のみ。

 〈From the Heart of Me〉はドナの作詞作曲。19780831日、デンヴァー郊外のレッド・ロックス・アンフィシアターで初演。ガチョー夫妻参加の最後のショウである19790217日まで、計27回演奏。

 〈I Need A Miracle〉はバーロゥ&ウィアのコンビの曲。19780830日、同じレッド・ロックス・アンフィシアターで初演。19950630日ピッツバーグまで、272回演奏。

 デッドのショウは「奇蹟」が起きることで知られる。何らかの理由でチケットを買えなかった青年が会場の前に "I Need a Miracle" と書いた看板をもって座っていると、ビル・グレアムが自転車で乗りつけ、チケットと看板を交換して走り去る。チケットを渡された方は、口を開け、目を点にして、しばし茫然。幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、ショウの会場の駐車場でデッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。ショウの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。

 この歌で歌われている「奇蹟」はそうしたものとは別の類であるようだ。とはいえ、デッドヘッドは毎日とはいわなくても、ショウでは毎回「奇蹟」が起きるものと期待している。少なくとも期待してショウへ赴く。それに「奇蹟」はその場にいる全員に訪れるとはかぎらない。自分に「奇蹟」が来れば、それでいい。だから、この歌では、ウィアがマイクを客席に向けると、聴衆は力一杯 "I need a miracle every day!" とわめく。デッドが聴衆に歌わせるのは稀で、この曲と〈Throwing Stone〉だけ。どちらもウィアの曲。もちろん、聴衆はマイクを向けられなくても、いつも勝手に歌っている。ただ、この2曲ではバンドはその間演奏をやめて、聴衆だけに歌わせる。(ゆ)


 ウッドストックの言い出しっぺの一人 Michael Lang が8日に77歳で亡くなったというニュース。4人の創設者の中では、最もアクティヴに関っていたようにみえる。194412月生まれだから、ガルシアより2歳下、ハートの1歳下、クロイツマンの1歳半上。1969年のウッドストック当時25歳。

 デッドもウッドストックに出てはいる。が、演奏に満足できず、映像、録音のリリースは断った。昨年出たフェスティヴァル全体の録音の完全版ボックス・セットに初めて演奏の全貌が収められた。もっとも、全部を買わせようという商魂が嫌で、あたしは買わなかった。デッドのせいではないにしてもだ。

 デッドは多数のアクトが限られた時間で演奏するフェスティヴァル形式は苦手で、ウッドストックの前年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルにも出てはいるが、演奏はすばらしかったという評価もある一方で、ザ・フーとジミヘン、オーティス・レディングとジャニス・ジョプリンの間で、影は薄い。

 オルタモントは会場入りしたものの、雰囲気のあまりの殺伐さに嫌気がさして、ステージに上がらずに引き揚げた。

 フェスティヴァルの演奏で良かったのは、1982年ジャマイカでの Jamaica Wold Music Festival ぐらいのようだ。この時は出演者が誰も彼も時間にルーズで、スケジュールは押しに押し、初日トリのデッドがステージに上がったのは午前3時、というからデッドには合っていた。

 集めた聴衆の数では19730728日、オールマン・ブラザーズ・バンドとザ・バンドと合同で Watkins Glen 60万人を集め、史上最大のロック・コンサートと言われる。単独では19770903日、ニュー・ジャージー州の Raceway Park に単独で10万人を集めた。これはこの年、ハートの自動車事故のために夏のツアーができなかったお詫び(?)のショウ。こちらは《Dick's Picks, Vol. 15》として公式リリースされた。ちなみにこれは Dick LatVala が手掛けた最後の《Dick's Picks》。リリース直前にラトヴァラが急逝したため、現在のアーカイヴ管理者のデヴィッド・レミューがこの後を引き継いだ。


##本日のグレイトフル・デッド

 0109日には30年間で一度もショウをしていない。まったくショウをしていない日が365日のうちに4日ある、その1つ。前に2日と書いたが、ふたつ見逃していた。(ゆ)


 田川建三さんの講座で軽井沢往復。朝、出かける時はひどく寒くて、こりゃあ軽井沢では凍えるぞ、と文字通り慄えあがったが、着いてみるとそれほどでもない。昼間になって多少気温が上がったか。

 いつものかぎもと屋が臨時休業なので、その手前の喫茶店のインド・カレーを試す。味はまずまず。ナンが小さめ。カレーの量ももうちょっと欲しい。

 店主と客との会話で、「東京24区」という呼称があるのを知る。もっとも、元々が明治に別荘地として開発されたところではある。地方から東京に出てきた人たちの避暑地なわけだ。

 それにしても、この中軽井沢駅の駅舎に併設された図書館はなかなか立派だ。新幹線を通すことで得た金をこういう施設を造ることに使ったのは、エライものだと思う。これができるまでは、車でしか行けないところに小さなものがあっただけらしい。これだけ立派ならば、町の外から来る人もいるだろう。


 今日の田川さんも脱線に継ぐ脱線。最も印象的だったのは、ドイツへの留学試験を2年連続で落とされた話と、その後のフランス留学の話。『考える人』やその後の『はじめての聖書』でのインタヴューにも出てくるが、ご本人の口からあらためて聴くとまた格別。ドイツ語の実力は抜群の田川さんを気に入らないというだけで落としたドイツ語界の大物の名前も出てくる。まあ、あたしでも知ってる名前だ。こういうことが今でも無いとは言いきれないのが、わが国のアカデミアの哀しいところ。もっとも大物が1人ではなくなって、小ボスがたくさんいるのかもしれない。

 それにしても、方向転換で初級文法しかやったことのないフランス語を留学のため必死で勉強した5ヶ月は、あんな辛かったことはない、と言われる。しかし、それから2年半、つまりあらためて勉強しはじめて3年でフランス語で新約聖書学の博士論文を書くまでになるのだから、やはり語学の才能はあると言わねばなるまい。結局古代ギリシャ語はもちろん、フランス語、ドイツ語、英語、ラテン語に通じ、それにヘブライ語とアラム語もたぶんできる。今の文系学者は多言語を使えることがデフォルトになってきているけれど、田川さんは井筒俊彦と並んで、その先駆者の1人ではあろう。


1206日・月

##本日のグレイトフル・デッド

 1206日には1968年から1992年まで、7本のショウをしている。公式リリースは3本。


1. 1968 The Spectrum, Philadelphia, PA


2. 1971 Felt Forum, New York, NY

 3.50ドル。開演8時。4日連続の3日目。《Dave's Picks, Vol. 22》とこれに付属の《Dave's Picks Bonus Disc 2017》で第一部の3曲を除いて全体がリリースされた。


3. 1973 Public Auditorium, Cleveland, OH

 《Road Trips, Vol. 4 No. 3》ボーナス・ディスクで第一部の3曲と第二部の2曲がリリースされた。

 トラック運転手の組合 Teamsters のストライキで高速道路が詰まり、デッドの機材搬入も遅れる。8時開演のところを20分過ぎて開場となるが、中ではまだ Wall of Sound が設営中だった。9時、照明が落ち、バンドが出てきて演奏を始めるが、1曲ごとに長い機器の調整が入った。もっとも1曲やるごとに音は良くなっていった。第二部の〈Dark Star〉では、そばで「ちゃんと演奏しろよ」とわめく連中を近くの姉御が叱りつけた。当時のデッドヘッドでも〈Dark Star〉のジャムが音楽に聞えない連中はいたらしい。もっともあたしだって、CDのトラック・リストにそう書いてあるからわかる、ということはある。〈Sugar Magnolia〉で終ったところで深夜零時。アンコールは無し。以上 DeadBase XI での Dave Cubbedge のレポートによる。


4. 1980 Mill Valley Recreation Center, Mill Valley, CA

 アコースティック・セットのみ。


5. 1981 Rosemont Horizon Arena, Rosemont, IL

 10.50ドル。開演8時。昨年の《30 Days Of Dead》で第一部9曲目〈Jack-A-Roe〉がリリースされた。


6. 1989 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 20.00ドル。開演7時。1017日のロマ・プリータ地震救済のための資金集め。バックステージ・パスに "It's everybody's fault" と書かれているのがシャレている。「(誰かのせいじゃない)みんなのせい」という意味と「断層は誰も逃れられない」という意味をかけている。だから、お互い助けあおう、というわけだ。

 こういう時のデッドは良い演奏をする、というのはほとんどお定まりだが、実際すばらしいショウだったことは、DeadBase XI での Mike Dolgashkin のレポートでも明らかだ。オープナーは予想通り〈Shakedown Street〉だったとしても、聴衆の予測、期待を良い方に裏切りつづけるショウだった。第二部ではオープナーの〈Scarlet Begonias〉の後〈Sugar Magnolia〉が続き、その後半 "Sunshine Daydream" がクローザーとなる。

 第二部3曲目〈Ship Of Fools〉と Space からアンコールまで Clarence Clemons が参加。


7. 1992 Compton Terrace Amphitheatre, Chandler, AZ

 24.50ドル。開演午後2時。2日連続の2日目。雨天決行。セット・リスト以外の他の情報無し。(ゆ)


1120日・土

 昼食をとりながら『青天を衝け』第35回「栄一、もてなす」再放送を見る。畏友の1人に見た方がいいよ、と薦められたもの。グラントが世界周遊旅行の途中日本に立ち寄り、その接待係を澁澤が仰せつかる。グラントはまた澁澤の家を訪問することを望む。

 これを見ているわが国の視聴者はユリシーズ・グラントが何者かは、おそらくどうでもいいことなのだろう。とにかくアメリカのエラいさんが来た、というだけで話としては一応成立するわけだ。

 グラント本人に興味がある我々としては、かれが日本でどのように交流したか、そしてその日本での言動がその後のわが国にどう影響したか、が当面問題になるだろう。それは南北戦争とわが国の関係の一端をもなす。グラントの言葉は澁澤にどういう影響を与えたか。あるいは明治政府や明治の財界にどういう影響を与えたか、与えなかったか。

 Ron Chernow の伝記では第四部 A Life of Reflection のオープニング、40 The Wanderer でこの時の世界周遊を扱かっている。

Grant (English Edition)
Chernow, Ron
Head of Zeus
2017-11-02

 

 グラントが日本まで来たのは、その前のヨーロッパ旅行から帰国することを考えだした時に、海軍長官 Richard W. Thompson から蒸気船 Richmond で地中海からスエズ運河を通り、インド、中国、日本に旅行する提案を受けたからだ。トンプソンとしてはグラントの名声を利用して、ヨーロッパ列強の植民地当局とアジア諸地域にアメリカの存在を印象づけることを狙った。グラントもこれを絶好のチャンスとして、帰国を延ばし、東周りで帰ることにする。

 グラントのヨーロッパ旅行そのものからして、発端はプライベートなもので、私費によるものだったにしても、単なる旅行者というわけにはいかず、むしろ大きな外交イベントの一つとして、各国のアメリカ公使館はグラントに必要な援助を惜しむなという指令を受けていた。

 グラントはインド、ビルマ、シンガポール、香港、上海、北京と、行く先々で現地のトップと面会しているし、清に頼まれた沖縄問題の解決を日本政府にもちかけてもいる。そうなると、自分はもう大統領ではないから、いくらもてなされても見返りはできないというのは、かれの謙遜さの現れと一見見えるが、いささか不誠実といえなくもない。あるいは、グラントは日本政府が期待していることをちゃんと把握していて、自分に過大な期待はかけるなと釘を刺したのか。あるいはまた条約改正は簡単ではないし、その前にやらねばならないことがある、と忠告したつもりだったか。

 チャーノウが引用しているところからすると、劇中でのグラントの科白は、澁澤邸で言ったかどうかは別として、史料に忠実のようだ。

 チャーノウは大統領経験者がより自由でかつ影響力のある立場を活かして、第三者的に対立する勢力の仲介をするという新しい役割を開発した、と評価する。もちろん、この時点ではアメリカはまだアジアに植民地を持っていない。フィリピンを獲得するのは20年後だ。

 澁澤榮一はじめ、日本側で接した人びとがグラントが何をやってきたか、どこまで理解していただろうか。歓迎の言葉の中に、グラントが反乱を鎮圧し、その後、正義をもって国を平和に治めたことは世界が周知しているとの一節があり、グラントはこれに喜んだ、とチャーノウは書く。回想録の中で一貫して南軍を「叛徒」と呼び、戦いはあくまでも反乱を鎮圧しているとみなしたグラントであれば喜ぶのは当然だが、当時のわが国の人びとは、四半世紀前の南北戦争を2年前の西南戦争に重ねて、反乱鎮圧と実際に見ていたのか。とすれば、現在の我々よりも、遙かに切実に捉えていただろう。

 ん、すると西郷は、いやむしろ西郷本人というよりは、西南戦争を企画実行した指導部は南北戦争について研究していたのだろうか。あるいは明治政府側は薩摩の蜂起に対して、南北戦争を想起しただろうか。当時、どれくらいの情報がわが国に入っていたか、入手可能だったか。南北戦争がその後のアメリカを現在にいたるまで規定しているように、西南戦争が現在にいたるまでわが国を規定しているとするならば、南北戦争は西南戦争を通じて、近現代日本の形成に甚大な影響を及ぼしていることになる。

 南北戦争を勝利に導き、反乱を鎮圧したグラントをもてなすことには、明治政府としては外交的な配慮だけでなく、自分たちの正当性の確認の意図もこめていたのかもしれない。


 総じて女優陣の方が演技が自然だ。男優たちは、そういう演出をしているのか、動作がいちいち大袈裟で、実際にはこんな動作は絶対にしない、というふるまいをする。これも歌舞伎の伝統だろうか。女性俳優には歌舞伎の伝統がないから、ナチュラルな演技が規準になる。女形の演技は規準にならない。

 それにしても見ていて少しも面白くない。ストーリーテリングが良くない。というより無い。脚本と演出の両方の効果だろうか。物語を語れていない。場面の一つひとつはまだいいが、つながっていない。語りのメリハリが無い。単調で、ただシーンが並んでゆく。

 いずれにしても、これ以上前も後ろも見たいとは思わない。

 唯一感心したのはカメラ・ワークで、これはたぶんデジタル・ビデオでその場で画面を確認できるようになったことによる変化だろう。新鮮な角度や切り取り方、人物にカメラが追尾する手法、あるいはカメラの前を人物が横切ることを厭わないことに象徴される長回しは面白い。

 ただし全てセット内での撮影で、限られた空間の中でのドラマだ。カメラの視野は常にごく狭い角度の中に収められている。グラント一行が船の上から手を振るシーンはロケだが、カメラが退いたり、パンしたりすることはない。街頭で弁士が演説しているのは屋外のはずだが、そうは見えない。天下国家を論じるよりも、町内会の揉め事に見える。大河ドラマになっていない。あまり大きくない池が並んでいる。

 大河ドラマなるものに初めてハマったのは、中学1年のときの『天と地と』だった。原作が海音寺潮五郎の代表作で、本も買って読み、面白かった。川崎市の郊外に隠居家を建てて住んでいた祖父母のところに正月に泊まりがけで遊びに行き、2キロほど離れてぽつんとあった一番近い本屋、昔田舎にあった本屋と文房具屋を兼ねた小さな店までてくてく歩いて買いに行った。さすがに天下の大河ドラマ原作、そんな小さな店にもちゃんとあった。店番のおばさんから、こんな厚い本を2冊も読むのかね、エライねー、と言われた。体は小さい方だったから、小学生と思われたのかもしれない。角川文庫の上下巻で、それまでに読んだ最も長い話だったはずだが、一気に読んだと記憶する。語り、ストーリーテリングは抜群だった。テレビ・ドラマのタイトル・バックは一面たちこめた霧の中から騎馬軍団が現れ、石坂浩二扮する上杉謙信の采配の一振りで一斉に疾走を始める。ドラマのクライマックス、川中島の一戦の開幕シーンだ。もちろん屋外で、空撮も入っていた。かなりの数の騎馬が走っていた覚えがある。

 天の時も地の利も異なるところで、比べるのは意味が無いかもしれないが、やはりいろいろな意味で「大河」という呼称にふさわしくないほど小さく、流れも淀んでいると見える。

 この列島に暮らす我々はなにかというと小さく縮こまりたがる。「一丸」となりたがる。まとまりたがる。ドラマだけではない。筆記具の世界ではとにかく先の細いものが好まれる。小さな文字を書こうとするかららしい。ちまちまと狭いところにたくさん書きこもうとするらしい。それもまた「職人芸」かもしれないが、あたしはもっと広々としたところを悠々と流れていたい。



##本日のグレイトフル・デッド

 1120日には1966年から1985年まで6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続の最終日。午後2時から7時まで、Student Non-violent Coordinating Committee のための資金集め。James Cotton Blues BandLothar and the Hand People の他クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、Johnny Talbot & De Thangs が共演。

 Johnny Talbot 1939年テキサス生まれのリズム&ブルーズ・シンガーで、1965年にカリフォルニアのバークリー高校を卒業後、自分のバンド De Thang を作る。フィルモアがまだ黒人向けヴェニューだった頃から出演し、ビル・グレアムもタルボットを出演させた。ファンクの元祖、と公式サイトは言う。


2. 1970 The Palestra, University of Rochester, Rochester, NY

 開演9時。前半というより第一部だけで2時間。第二部が1時間。それにアンコール。

 同じ町でこの夜コンサートをしていたジェファーソン・エアプレインが立ち寄り、第二部にヨウマ・カウコネンが初めから参加し、半ば過ぎからジャック・キャサディも参加した。


3. 1971 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。ポスターによれば "Dance Concert"

 KMET FM で放送された。


4. 1973 Denver Coliseum, Denver, CO

 同じ会場の1日目。後半9〜11曲目〈Truckin'> The Other One> Stella Blue〉のメドレーが《Road Trips, Vol.  4, No. 3》でリリースされた。この3曲で約40分。


5. 1978 Cleveland Music Hall, Cleveland, OH

 後半ウィアは体調を崩し、楽屋で嘔吐した。ために当初ステージに上がれず、バンドはジャムから始め、〈Drums > Jack-A-Roe〉の後、〈Playing in the Band〉を始めるために短時間出てまたすぐ引っこみ、最後の〈Around and Around〉でショウを仕舞うために出てきた、そうだ。別の証言では、〈Jack-A-Roe〉の最後で出てきて、その後はずっといたが、アンコールは無かった由。

 〈Playing in the Band〉ではさまれた2曲のうち後ろの〈If I Had The World To Give〉はハンター&ガルシアによる《Shakedown Street》収録の曲で、ライヴでは3回しか演奏されなかった。このショウがその最後。ただし、その3回はいずれも良い演奏だそうな。


6. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 15ドル。開演8時。アンコール前のラスト〈Sugar Magnolia〉後半のいわゆる Sunshine Daydream の時、ウィアは積みあげられたスピーカーの上に乗って歌ったそうな。(ゆ)


1119日・金

 Shanling EM5 は面白い。ようやくこういうものが出てきた。これを買う気はないが、このラインで次ないしその次を期待する。これと M30 のいいとこどりして、もっと突き詰めたもの、かな。

 それにしても Naim をどこか、やらないか。あそこの Uniti Atom は聴いてみたい。ここは今はフォーカルと同じ親会社の傘下なんだから、ラックスマンがやればいいのに。


 Audeze を完実電気がやるのはめでたい。LCD-5 はともかく、Euclid は気になっていた。iSINE のデザインは買う気になれなかったが、こちらは許容範囲。


 Tor.com のノンフィクションのお薦めから Careless People by Sarah Churchwell を注文。フィッツジェラルド夫妻と『華麗なるギャツビー』の裏事情を狂言回しにして、ジャズ・エイジ、「不注意」というよりは「気にしない」と言う方がこの場合、適切ではないかと思う人びとの時空を描く、ものらしい。Nghi Vo の『ギャツビー』の語直し The Chosen And The Beautiful は面白かった。あれは『ギャツビー』の世界をこの世の裏側から描いているが、このチャーチウェルの本はギ・ヴォの生みだした世界とフィッツジェラルド夫妻が生きていた時空の間の世界を綱渡りするのではないかと期待する。
 


 Grado White + マス工房 model 428 で聞くデッドは実によろしい。《30 Days Of Dead》の MP3 ファイルでもひどく生々しくなる。
 



##本日のグレイトフル・デッド

 1119日には1966年と1972年にショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続の中日。3日間のうち、このショウのみ録音が殘っている。この時期の1本のショウを捕えた録音として定評がある。ピグペン時代のエッセンスが聞ける、と John W. Scott DeadBase XI で書いている。ジェファーソン・エアプレインがグレイス・スリックのバック・バンドであるというのと同様に、グレイトフル・デッドはピグペンのバック・バンドであるとも言えた。デッドのバンドとしてのスタートがピグペンのパフォーマンスとカリスマによるものであることの証拠、なのだろう。ピグペンとレシュの関係の深さも聞けるようだ。


2. 1972 Hofheinz Pavilion, University of Houston, Houston, TX

 開演8時。前日と同じヴェニュー。チケットの半券によればオールマン・ブラザーズ・バンドとの対バンだったようだ。

 これもこの時期のショウとして相当に良かったようだ。

 大学の施設で2日ないしそれ以上連続で演るのは珍しい。(ゆ)


1118日・木

 Journal of Music Toner Quinn によるマーティン・ヘイズの自伝 Shared Notes 熱烈な書評を見て、AbeBooks で注文。アマゾンは来年1月刊だよんとたわけたことをぬかす。Penguin のサイトには1014日刊行と出ているKindle を売るためか。新刊のキンドルは高い。電子版でも Apple なら半額だ。

 しかし、いいタイトルだ。音楽は共有されて初めて存在できる。アイリッシュ・ミュージックはその性格がことさら剥出しになる。


 そのアマゾンによるロバート・ジョーダン『時の車輪』の映像化の出だしは評判がいいが、ブランドン・サンダースンによる完結篇までやるのか。邦訳はそこまで完結していないけれど、これを機会に邦訳が出るか。それにしても、シリーズの途中で邦訳打切りになるのが多過ぎる。



##本日のグレイトフル・デッド

 1118日には1966年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1966 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA

 3日連続の初日。共演は James Cotton Blues Band, Lothar & the Hand People。セット・リスト不明。

 James Henry Cotton (1935-2017) はブルース・ハープ奏者、シンガー、ソングライター。1950年代、ハウリン・ウルフのバンドでブルース・ハープを始め、マディ・ウォーターズに呼ばれてシカゴに移り、ウォーターズのバンドリーダーとなる。1965年自分のバンドを結成。このショウのポスターにも「シカゴより」とある。

 Lothar & the Hand People 1965年にデンヴァーで結成、1966年にニューヨークに移る。テレミンやムーグ・シンセサイザーを最初に使いはじめたロック・バンドとして、短命ながら後のエレクトロニクス音楽の勃興に大きな影響を与えた、と言われる。Lothar は使っていたテレミンに与えられた名前で、the Hand People たるバンド・メンバーは John Emelin (vocals), Paul Conly (keyboards, synthesizer), Rusty Ford (bass), Tom Flye (drums) それに Kim King (guitar, synthesizer)。デッドはじめ、バーズ、ラヴィン・スプーンフル、キャンド・ヒートなどと共演した。


2. 1972 Hofheinz Pavilion, Houston, TX

 後半9曲のうち、冒頭の〈Bertha〉からラスト前の〈Sugar Magnolia〉の8曲が《Houston, Texas 11-18-1972》でリリースされた。曲数では全体の3分の1。これ以外の録音は The Vault には無い由。

 これにも含まれる〈Playing in the Band〉がキャリア全体のベストの1本、と言われる。この1972年秋の PITB はとにかく、どれもこれも長くて凄い。1968年6月の初演から4年経って、当初の5分ほどのあっさりした曲は30分のモンスターに成長した。この後は、間に他の曲をはさむ形になる。まとまった1曲としてはこの頃が頂点。演奏回数の総数610回はトータルで2位。1位は〈Me and My Uncle〉だから、デッドのオリジナルとしてはトップ。うち公式にリリースされている録音は今のところ126本。


3. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL

 8.50ドル。開演8時。前半7曲目〈Stagger Lee〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 「ジョーンズタウンの大虐殺」が起きた日。当初は集団自殺とされていたが、今ではむしろ大量殺人とみなされているようだ。ガイアナに移住する前、ジム・ジョーンズの人民寺院は本部をサンフランシスコに置いて急速に成長し、市政に影響を与えるまでになった。もっともデッド周辺との接触は確認されていない。

 こうしたカルトはアメリカのサイケデリック文化の流れを汲み、その文化の源流にはデッドも関っているが、デッドはなべて宗教的なものとは距離を置いていた。もっとも、デッドにとっては音楽、その演奏が礼拝、宗教行為であり、デッドヘッドのデッドへの信奉の仕方は宗教に近い。もっとも「カルト」をマイノリティの一種とするなら、デッドヘッドの広がりと浸透はむしろアメリカの主流をなす流れの一つではある。(ゆ)


1113日・土

 尊敬する友人と実に久しぶりに会食。南北戦争がいかに重要か、という話で盛り上がる。大河ドラマの明日の回がグラントの来日の話だから、見逃すな、と言われる。グラントについての日本語文献、少なくとも一般読者向けの文献は、この来日の前後に集中している。かれの『回想録』は、史料としても、文学としても、第一級の評価だが、邦訳されてはいない。そもそも南北戦争に関する邦語文献が少なすぎる。

 グラントとリーはスキピオとハンニバルだ、と言われてなるほど。グラントは軍人としては超一級だが、政治家としてはそこそこ、というのはアイゼンハワーに似ている、というのも納得。『回想録』を読んでいると、この人は南北戦争が起きなかったら、飲んだくれて野垂れ死んでいたのではないか、とも思う>


##本日のグレイトフル・デッド

 1113日には1966年から1987年まで5本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA

 "A Zenefit" すなわち Zen Mountain Center Benefit というイベント。共演はクィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー。

 セット・リスト不明。ポスターには、2ドル。午後8時と12時、とある。

 Zen Mountain Center というのは複数あるようだ。人里離れた山の中にある禅の道場。デッドはキリスト教も含めて、宗教からは距離を置いていたと見えるが、こういうイベントには参加していたわけだ。それとも禅は宗教とはみなしていなかったのかもしれない。誰かわからないが、主催者とつながりがあったのか。


2. 1970 46th Street Rock Palace, Brooklyn, NY

 4日連続の3日目。セット・リストは一部。ガルシア入りニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座。


3. 1972 Soldier's And Sailors Memorial Hall, Kansas City, KS

 これも〈Dark Star〉が聴きどころのショウらしい。


4. 1978 Boston Music Hall, Boston, MA

 9.50ドル。開演7時。

 後半が良かった由。前半半ばの〈Tennessee Jed〉で、故意か偶然か、PAの音量が下がり、会場全体が歌っているのが聞えたそうな。


5. 1987 Long Beach Arena, Long Beach, CA

 このヴェニュー3日連続の初日。開演8時。(ゆ)


9月27日・月

 ICF から来年の講師依頼。今度はアイルランドの歴史。もちろんやるけど、2時間でやるとなるとえらいこっちゃ。復習しなければ。A History Of Ireland In 250 Episodes を読みなおすか。これの訳書は間に合わないだろうなあ。うまく開催できるといいんだが。

 思うに、この COVID-19 パンデミックは、常に予定が大きく変わる可能性を考慮に入れながら、将来の計画を立てる訓練にはなるわな。


 

##9月27日のグレイトフル・デッド

 1969年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。


1. 1969 Fillmore East, New York, NY

 前日に続いて、カントリー・ジョー・マクドナルド、シャ・ナ・ナとの共演。


2. 1972 Stanley Theatre, Jersey City, NJ

 3日連続の中日。料金5.50ドル。《Dick’s Picks, Vol. 11》として全体がリリースされた。

 〈Morning Dew〉がオープナーは稀で、ガルシアがノってる証拠、だそうだ。この日のセット・リストは変わっていて、普通は前半にやる〈Me and My Uncle〉〈Deal〉〈Rumble on Rose〉〈Cumberland Blues〉を後半にやっている。もっともこの日のハイライトは〈Dark Star〉であることで衆目が一致している。

 〈Morning Dew〉のオープニングはやはりちょっと異様で、いきなり陽が暮れてしまう感覚。〈Brokedown Palece〉もこの位置で歌われると、おちつかなくなる。一方でこういう順番の入替えが刺激になったのか、どの曲もエネルギーみなぎり、温度が高い。しかも地に足がついている。〈Bird Song〉、〈China > RIder〉、いずれもすばらしい。〈Playing in the Band〉は前数本に比べるとやや届かないところがあるけれど、デッド流ポリフォニーはしっかりあって、快感。トリップ感が湧く。いい音楽を聴いた、というより、いい体験をしたという満足感。


3. 1976 War Memorial Arena, Rochester, NY

 料金7ドル。開演夜7時半。後半6曲目、Drums の後の〈The Other One〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 後半、3曲目から〈Help on the Way> Slipknot!〉と来て、次が〈Drums> The Other One> Wharf Rat〉と続き、再び〈Slipknot! から今度はいつも通り〈Franklin's Tower〉そして〈Around & Around〉まで、まったく途切れ無し。という、これはテープででも聞かねば。〈The Other One〉だけ聴かされるのはむごい。


4. 1980 Warfield Theatre, San Francisco, CA)

 15本連続公演の3本目。くつろいだ良いショウの由。


5. 1981 Capital Centre, Landover , MD

 料金10.50ドル。この0.5ドルが付いているのは何なのだろうか。開演夜8時。翌日、バンドは1年で2度目のヨーロッパ遠征に出発。


6. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の初日。料金30ドル。開演午後7時半。最後の〈They Love Each Other〉。1975-09-28のゴールデン・ゲイト・パークでの演奏を境に、かなり姿が変わる曲。(ゆ)


9月14日・火

 グラント回想録11章は米墨戦争のクライマックス、メキシコ・シティへの攻撃を描き、その中で Churubusco の戦いにも触れる。この戦いはメキシコ・シティへの攻撃中最も激しい戦闘になり、アメリカ軍は一時前進を阻止される。ここでアメリカ軍に対抗したのは、移民出身の兵への軍隊内の差別に憤激して脱走し、メキシコ軍に加わった元アメリカ兵だった。中心になったのがアイルランドからの移民だったためメキシコ側で El Batallon de los San Patricios、アメリカから St. Patrick's Battalion と呼ばれた。この一件を音楽にしたのがチーフテンズ最後の傑作《San Patricio》。
 

San Patricio (W/Dvd) (Dlx) (Dig) (Ocrd)
Cooder, Ry
Hear Music
2010-03-09


The Annotated Memoirs of Ulysses S. Grant
Grant, Ulysses S.
Liveright Pub Corp
2018-11-27


 

 このチュルブスコの戦いの描写への注で、サメトはグラントの叙述が同時代の他のものと異なり、戦闘の準備と結果とその影響のみ記すと指摘し、これが ellipsis of battle と呼ばれる漢詩の技法で、戦闘中の英雄的行為の描写は詩に描く価値はないとして省略するものに似ているという。その詩の実例として屈原の "Battle" をアーサー・ウェイリーの訳で挙げている。この英訳はウェイリーが翻訳編集したアンソロジーからの引用。その原詩を求めて『楚辞』を借りたわけだが、調べたところ集中「九歌第二」の第十、国殤篇と判明。小南一郎による訳注の167pp.
 「国殤は、戦いの中で国のために死んだ兵士の霊。この場合は、戦闘馬車に乗った指揮官の霊。殤は天寿を全うせぬまま、非業に死んだ者の魂。あるいは祀る者のいない死者の霊。この篇は、そうした国殤の生前の勇敢な戦いぶりを歌って、その魂を慰めようとする鎮魂歌謡」

と注にある。

楚辞 (岩波文庫)
岩波書店
2021-06-16

 

 この邦訳によればウェイリーの英訳のうち、2ヶ所は疑義がある。それに "Battle" という訳題はいささかずれると言えるだろう。

 原詩の意図としては鎮魂にあって、戦闘描写の省略という手法があるとしても、ここではむしろ結果だろう。一方で、グラントがこの回想録を書いたのも、金を稼ぐことが第一の目的としても、それとともに鎮魂の意図もおそらくあったと推測できることが、図らずも明らかになる。

 グラントは南北戦争を連邦軍(北軍)の勝利に導いた名将ではあるが、戦争の本質的な残酷さをとにかく嫌いぬいていた。勝つためには残酷な結果を招くとわかっている命令を出すのをためらわなかったし、シャーマンの焦土作戦を支持してはいたものの、戦争は無いのがベストと考えてもいた。南北戦争に従軍した他の将軍たちが戦後次々に回想録を出すのを見ながら、かたくなに回想録執筆を拒んでいたのも、嫌いなことをやったのを回想などしたくなかったとも見える。それが、自らの死とそれによる家族の困窮に直面して執筆を決意したとき、死んだ人びとがどう戦ったかではなく、なぜ戦い、どういう結果を生んだかを記すことが何よりの供養と考えたとしても不思議はない。

 そして考えてみれば、戦争で殺された人びとを供養・鎮魂するのに、他の方法があるとも思えない。



##本日のグレイトフル・デッド

 9月14日は1974年から1993年まで7本のショウ。公式リリースは無し。


1. 1974 Olympiahalle, Munich, West Germany)

 2度目のヨーロッパ・ツアー(3度目のヨーロッパ遠征)はロンドン、ミュンヘン、パリの3ヶ所で、ミュンヘンはこの1日のみ。アンコール3度という出血大サービス。


2. 1978 Sphinx Theatre, Giza, Egypt

 デッドの海外遠征でおそらく最も有名なエジプト、ピラミッド脇での3日間の初日。当時デッドのマネージャーをしていた Richard Loren がバンドの休止中に観光で行ったピラミッドを見て、ここでデッドの演奏を見たいと思いついて始まった前代未聞、空前絶後の企画。この企画のため、デッドはそのキャリアで2度めの記者会見も行う。チーフテンズは西側のポピュラー音楽のバンドとしておそらく初めて中国に行ったが、ピラミッドには行かなかった。商売を考えたら、中国に行く方がよほど筋が通る。しかし、商売の常道には背を向けるのがデッドの常。エジプト政府公認ではあった(この初日には当時の大統領サダトの夫人が最前列で見ていた)が、財政援助されたとしても、元はとれなかったはずだし、その後の商売に貢献した形跡もない。ライヴ・アルバムを出す予定もあったが、帰国後、テープを聴いたガルシアは使えないと判断した。30年後の2008年になって《Rocking The Cradle》として出る。ただし、これには、ボーナス・ディスクを含めても、この初日の音源は1曲も採用されていない。この日はアンコール無し。

 まさにこのデッドのエジプト遠征中、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が、カーター米大統領の仲介でキャンプ・デーヴィッド山荘で会談し、歴史的合意に至っているのは、デッドにつきもののシンクロニシティの一つではある。

 エジプト遠征直前、デッドはロゥエル・ジョージをプロデューサーに迎えて《Shakedown Street》となるアルバムの根幹を録音している。


3. 1982 University Hall, University of Virginia, Charlottesville, VA

 大学でのショウでこの時期としては珍しくポスターが残っている。料金12.50ドル。


4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY

 当時記録を作った最初の9本連続 MSG の初日。キングコングをフィーチュアしたポスターが面白い。料金20ドル。


5. 1990 Madison Square Garden, New York , NY

 この時は6本連続の初日。


6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY

 2度目の MSG 9本連続の6本め。こういう時は3日やって1日休む。ブルース・ホーンスビィ参加。


7. 1993 The Spectrum, Philadelphia, PA

 3日連続の最終日。(ゆ)


松井ゆみ子
『アイリッシュネスの扉』
ヒマール
ISBN978-4-9912195-0-4

アイリッシュネスの扉表紙


 アイルランドは不思議な国だ。ここを1個の独立した地域と認識しはじめてから、ずっと不思議なのは変わらない。ヨーロッパの一角なのに、洗練されていない田舎であるその在り方に、妙になじみがある。ユーラシア大陸の東西の端という、地球上でおよそ最も遠いところなのに、その佇まいに親近感が湧いてくる。初めてハワイ、オアフに行って島の中を走りまわった時にも、この風景は妙になじみがあると感じた。そのなじみのある感覚が、アイルランドの場合、視覚だけでなく、聴覚や、五感の奥の感情から湧いてくる。ひと言で言えば人なつこい、その人なつこさが「なつかしい」。


 同じケルトの他の地域では、こういう人なつこさはあまり感じない。他をあまり知らないこともありえる。どこも同じく音楽を通じてのつきあいで、その中でアイルランドの音楽は妙に人なつかいと感じる。


 その同じ人なつこさをこの本に感じる。人なつこいけれど、ベタベタしない。やたらすり寄らない。読み終わって、その辺にころがしておいて、表紙が目に入ると気分がよくなる。沈んでいた気分がふうわりと浮かんでくるし、ブリブリ怒っていれば、思わず吹きだしてしまう。中身の何か、イメージとか文章の一節がふっと浮かんでくる。


 アイルランド人には何でも屋さんがよくいるそうだ。手先が器用で、モノを使って何かをやる、日曜大工、家の修繕、電気器具の手入れ、何をやらせてもパッパッとかたづける。


 もっとも著者も手先が器用だ。カメラも料理もぶきっちょにはできない。あたしのようなぶきっちょにできるのは、スチーマーをレンジでチンくらいで、オーヴンを使いこなすなんてのは、悪夢になりかねない。


 器用な著者は、せっせと焼き菓子つまりクッキーやケーキを作っては、これを餌にそういう何でも屋さん、ハンディマンたちを駆使して、田舎の、歴史の詰まった家に暮す。ここはアイルランドであるから、もちろんのこと幽霊はつきものだ。アイルランドの幽霊はあまり悪さをしない。最悪でもじっとしているだけで、悪い結果はたいていがそれを見る側に問題があって起きる。幽霊のせいではない。


 幽霊がいるのにはもう一つ理由があって、アイルランドでは家が残っている。著者が住んでいる家も築二百年とかで、増築されたり、水廻りが改修されたりはしていても、根幹はそのままだ。いくら幽霊でも、完全に取り壊されたり、建替えられては残れないだろう。そして、幽霊もそれが取り憑いている家もまた人なつこい。


 いや、あたしは別にアイルランドの家に住んだことがあるわけじゃない。ただ、この本を読んでいると、そういう、長く建っていて、歴史の積み重なった、人なつこい家に暮している気分になってくる。ここでは歴史はどこか遠く、頭の遙か上を通りすぎてゆくものではなくて、毎日その中で暮しているものになる。毎日の暮しがそのまま歴史になってゆく。家だけではない。歴史に包まれ、浸りこんで暮していると、家を囲む自然、人、音楽、料理、食材、スポーツ、イベント、あらゆるものが、歴史になってゆく。歴史はエラい人たちが派手にたち回って作られるものではなくて、ごく普通の人たち、ハンディマンやフィドラーやカントリーマーケットの売子やハーリングの選手やも含む人たちの毎日の暮しから生まれるのだ、と実感が湧いてくる。


 やはり、アイルランドは不思議な国だ。


 著者は手先が器用なだけではなくて、敏感でもある。目も耳も鼻も舌も、そして皮膚もいい。いくら歴史の詰まった家に住んでも、あたしのように鈍い人間は、たぶん何も感じないだろう。幽霊など出ようものなら、スタコラ逃げだすにちがいない。


 著者は五感をいっぱいに働かせて、その歴史を感じとる。とりわけ触覚だ。触覚は指の先だけで感じるものではない。顔や腕など、外に出ているところだけで感じるものでもない。全身で、時にはカラダに沁みこんできたものを筋肉や血管や内蔵で感じたりもする。自覚しているかどうかは別として、著者は触覚をめいっぱい働かせている。文章も写真もその触覚で感じたものを形にしている。


 例えば著者が今住んでいる家を建てたパーマストン。ものの本などで現れるのは、武力をバックにしたいわゆる砲艦外交を得意技として、大英帝国建設に貢献した強面のタカ派の顔だ。パーマーズドンと著者が呼ぶ人は、大飢饉で打ちのめされた人びとを少しでも助けるノブリス・オブリージュに忠実で、どこか翳のある、憎めないところもある風情だ。


 触覚を働かせるには、触れなければならない。つまり距離が近い必要がある。一方であまりに近寄ると、周りが見えなくなる。木は見えるけれど、森が見えなくなる。触覚であれこれ感じながら、著者はちゃんと森が見えているようでもあって、これまた不思議だ。


 アイリッシュネスの扉はむろん1枚だけではない。いくつもの扉があって、開ける扉によっていろいろなアイリッシュネスが現れる。一番愉しいのはやはり食べることらしい。食材や料理、作ったものを食べたり売ったりすることになると、筆またはペンまたは鍵盤が踊りだす。


 飲むことも愉しいのだろうが、酒は自分では(まだ)作れないので、食べることとは別らしい。著者は馬も好きなはずだが、今回はあえて封印したようだ。代わりに出てくるのはトラクターだ。アイルランドの田舎の足はトラクターなのだそうだ。ちょっと訊いたら、わが国の農家にとってなくてはならない軽トラは、アイルランドには無いそうだ。


 扉を開けては覗きこみ、あるいは中へ入って歩きまわる。しばし暮してもみる。いや、そうでもないか。暮していると、ふと扉が開くのかもしれない。丘の下の妖精の王国への扉のように。ひょっとすると、気づかずに抜けていたりもするのかもしれない。後で、あああれが扉だったかと納得されるわけだ。呼ばれて入ることもあるのだろう。そこで見、聞き、嗅ぎ、味わい、そして肌や内蔵で感じたことを書いた。報告というと硬すぎる。遠く離れて住む誰かへの手紙、読む人がいるかもわからない、そう、壜に入れて海に流す、風船にゆわけて風に飛ばす手紙。本を書くのはそれに似ている。


 アイルランドらしい、というのはあたしにとっては不思議なことに等しい。特別なものではない。一見、ごく日常的、ありふれたように見える。けれどよくよく見ると、そこにそうしてあること、そこで人がしていることはヘンなのだ。どこがこうヘンだ、と指させない。そもそもあのベタつかない、群れない人なつこさからして不思議だ。この本も不思議だ。ここがおもしれえっと指させない。これだ!と膝を叩くわけでもない。でも、読んでみると気分は上々、著者がいい暮しをしている、そのお裾分けをもらったようだ。何度読んでも減らない。むしろ、噛むほどに味が出てくる感じがある。


 この本は造りも不思議だ。わが国の本は再販制で、返品されたものをまた出荷する。そのためにカバーがついている。カバーだけ換えて新品として出荷するわけだ。でも、この本にはカバーがない。表紙は本体についている。洋書のトレード・ペーパーバックの感覚だ。カバーがないと、本はこんなにすっきりするのだ、と英語の本では見慣れている姿に改めて感じいる。


 表紙、業界用語でいう表1、裏表紙、同表4がカラー写真なのは普通だけど、表紙の裏、表2と、裏表紙の裏、表3も同じくカラー写真なのは新鮮だ。この4枚も含め、中の写真はすべて著者の手になる。この写真も人なつこく、不思議だ。人など影も無い写真でも人なつこい。著者の手になるアイルランドの写真集ってなかったっけ。


 著者が住んでいるスライゴーとドリゴールとロスコモンの州境のあたりのローカルな伝統音楽家たちのポートレート集にすてきな言葉があった。


 何か新しいたチューンを覚えると、その曲を知ってる奴が他にいないかと探しはじめる。いればそれを一緒に演奏できるからだ。それが愉しいからだ。


 音楽の極意はいつでもどこにどんな形であっても、これ、つまり共有の確認なのだろうけれど、アイルランドではそれがとりわけ剥出しで、あの不思議な人なつこさはここから生まれているのか、とも思える。


 この本もまたたぶんそういう作用をするのだろう。この本を読んだ奴が他にいないか、探しはじめる。どうしてもいなけれぼ教える。覚えたばかりの曲を教えてやって、一緒にやる。この本を教えて、読ませて、一緒に盛り上がる。巻末のおやつを作りあって、食べてみる。あたしが作ったとしたら、それはそれはひっでえしろものができるだろう。家族すら見向きもしないようなそいつを、食べてやろうという人はいるだろうか。(ゆ)




 アリエット・ド・ボダールや最近の Nghi Vo、Violet Kupersmith など、ヴェトナムにルーツを持つ書き手たちに惹かれて、あの辺りの歴史に興味が湧き、ちょうど出た本書を手に取る。17世紀までを三つの章でカヴァーするというのは、もう少し中世史にスペースを割いてもらいたかったところだが、全体としてのペース配分はまあ妥当の範囲ではある。地域史に閉じこもるのではなく、大きな世界史全体の中で、その東南アジア的位相として捉えようという姿勢は、最近の歴史学の流れを汲んでいるのだろうし、それはよく機能してもいる。この地域は狭く見えるけれど、地域によって案外に違いがあるとわかったのは、今回の収獲の一つだけど、その各地域への目配りもバランスがとれていて、東南アジアの通史入門としては立派なものだ。各地域、あるいは時代に突込みすぎて、全体像が見えなくなったら、戻ってこれるくらい、しっかりもしている。


 西はビルマ、東はパプア、南はインドネシアから北はフィリピンまで、まとまっているようでもあり、また本人たちも ASEAN という形でまとまろうとしている一方で、現在、主権国家として成立している各国は、それぞれに相当に異なる。つなぐものは稲作と交易と本書冒頭にある。ここは中華世界とインド世界をつなぐ位置と役割を担った。そういう意味では、ユーラシア大陸どん詰まりのヨーロッパ半島とは性格を異にする。むしろ、バルカンに近いんじゃないか。


 大きくは大陸部、ビルマ、タイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナムと、インドネシア、フィリピンの島嶼部に別れる。マレーシアは両方にまたがる。


 あたしにとって東南アジアの不思議はまずインドシナ半島、とりわけ、ヴェトナム、ラオス、カンボジアの三つが、「歴史上かつて統一的な権力をいただいたことのない、文明的にもきわめて異質な諸社会」(101pp.)であること。フランスがここを仏領インドシナとして植民地化したのは、だから相当に無理をしていた、とある。


 このうちヴェトナムは東南アジアの中でも中国の影響を最も直接に受けていて、中華世界の一員でもあった。朝鮮、日本、琉球、満洲、内モンゴルなどと同じだ。ラオス、カンボジアまではインド世界に含まれ、マレー半島、インドネシア諸島にイスラームが入るのも、インド経由だ。


 面白いのは、マレー半島にもインドネシアにも、いわゆる華僑の形で、中国人、ここでは華人と呼ばれる人たちが大量に入っているのだけれど、そちらの地域では、自分たちが中華世界の一員だという自覚は無かったらしい。ヴェトナムだけがその自覚を持ち、それによって、他のインドシナ半島の地域に対して優越感を持っていたことさえあった由。


 そのヴェトナムは著者の専門でもあり、さすがにやや突込んだところもある。11世紀に最初の独立王朝の李朝が成立し、ここから1804年までは国号は大越を称した。アリエットがそのシュヤ宇宙のシリーズの王朝を Dai Viet すなわち大越と呼ぶのは、ヴェトナム人にとってはこの国号が王朝として最もなじみのあるものだからなのだろう。


 中華世界の一員としての優越感と裏腹に、独立王朝以後のヴェトナムは中国を常に警戒し、その影響を排除ないし薄めることに腐心してゆくのも面白い。ホー・チ・ミンたちにとって、ヴェトナム革命は当初、ソ連とも中国とも違う、独自のものとして出発する。冷戦の進展によって、否応なくソ連、中国側を頼らなければならなかったのは、むしろ不本意なことだったそうな。


 ヴェトナム戦争は特需となって日本の高度経済成長を支えてくれたわけだが、日本にとってだけでなく、シンガポールやタイにも恩恵をもたらす。朝鮮戦争の「教訓」が「活かされた」戦争というのもなるほどとメウロコだった。1975年の終結からもうすぐ半世紀。これまでヴェトナム戦争というと、あたしなどはどうしてもアメリカ経由で見てしまう。しかし、実際に戦争が戦われたこの地域から見ることも、当然必要だし、そうなると、あらためて興味が湧いてくる。


 わが国との関係で目に留まったのが、「『大東亜共栄圏』の経済的側面」のこの一節。150pp.


「経済面では、日本軍の東南アジア支配は、それまで築かれていた宗主国との関係や、アジア域内交易などの貿易構造を切断して、日本を東南アジアの鉱産物資源やその他の戦略物資の独占的輸入国とした。それは裏返せば、日本が東南アジアに対する工業製品の一元的輸出国とならねばならないことを意味していたわけだが、この時期の日本の経済力は脆弱で、十分な工業製品の供給能力をもっていなかった。そこで起きたのは、十分な工業製品供給という対価なしでの資源の略奪という、いわば「最悪の植民地支配」だっ。大戦末期には、連合軍の反攻で、海上交通に困難を来すようになったことも加わり、どこでも深刻なモノ不足とインフレが発生した」


 日露戦争の結果で日本は国際社会でいわば一流半国の扱いになり、それからは帝国主義国家としてふるまおうとする。しかし、こうなると、帝国主義国家としての資格には欠けていたわけだ。日露戦争から太平洋戦争開始までの30年間、わが国の経済は何をしていたのだろう、とあらためて興味が湧く。端的に言えば、何を作っていたのだろう。そうしてみれば、戦前の経済史について何も知らない。


 東南アジアと日本軍政の関係でいえば、中井英夫の父親・中井猛之進は戦時中、ジャワ島ボゴールにあった、当時東洋一のボイテンゾルグ植物園長であり、陸軍中将待遇の陸軍司政長官だった。そのことをめぐって、鶴見俊輔が東京創元社版全集第8巻『彼方より』の解説に書いていて、なぜか、印象に残っている。鶴見は当時、バタヴィアにあった海軍武官府に嘱託として勤務していて、中井猛之進に会っている。中井英夫という、およそ時代から屹立している書き手が、本人は否定したいものながら、時代と深くからまりあっていることが、思いがけず顔を出しているからだろうか。鶴見と同じく、あたしも『黒衣の短歌史』が大好きで、『虚無への供物』と『とらんぷ譚』のいくつかを除けば、中井の最高傑作ではないかと思っているくらいだ。この全集で『黒衣の短歌史』と同じ巻に収められて初めて世に出た中城ふみ子との往復書簡はまた別だけれども。


 フィリピンのナショナリズムの先駆者だったホセ・リサールの胸像がどうして日比谷公園にあるのか、とか、ビルマ独立に深くからんだ参謀本部の鈴木敬司大佐とか、ゾミアとか、いろいろときっかけやヒントが詰まっっている。となると、これは入門書としては理想に近い。(ゆ)


7月24日・土
 
 7月23日が Ulysses S. Grant の命日とのことで、Washington Post Book Club でグラントの回想録をとりあげている。ウェスト・ポイントの教授による注釈入りのものが出ていたので注文。士官学校時代に読んだ小説まで掘り出しているらしい。ハードカヴァーしかなく、1,100ページ超。

 この回想録はマーク・トウェインが出版して当時大ベストセラーになったが、それにはちゃんとワケがあり、トウェインはグラントの回想録を不見転で、Hail Mary として買ってから、全国的な販売キャンペーンを事前にしていた、という話。もっとも当時 USA はほとんどミシシッピ以東だけだし、南部にグラントの本が売れるはずはないから、全米といってもごく狭い範囲ではあったろう。とはいえ、鉄道はあったにしても、交通手段も限られたわけで、トウェインの努力は今の大出版社がくり広げるプロモーションよりも、手間暇がかかったものだったかもしれない。

 LOA版は回想録に加えて、手紙も入っている。LOA はそれとは別に夫人宛の書簡をまとめて1冊にして出している。夫人からの返信はまったく残っていないそうな。おそらく本人が処分したのではないか。回想録がベストセラーになった後、夫人はこのグラントの自分宛の書簡も集めて1冊にすることをトウェインに提案し、トウェインも乗り気だったが、トウェインとグラント家の関係が別のことで冷えたためにそれっきりになった。これなら電子版でもいいか。


 

 国会図書館で調べると、グラント関係は以下の書物がヒットする。グラント夫妻は1879=明治12年に国賓として来日した。没年は1885=明治18年。この中で回想録邦訳の可能性があるのは『自著克蘭徳一代記』と『米国偉観』。岩神本はページ数からして抄訳だろう。大阪外蘓渊颪里發里鷲読本か。古すぎて、版元のサイトでも出てこない。国会図書館も普通に使えるようになったら、一度確認してみるか。

北米聯邦前大統領藕蘭土氏成績記; 太田実 著, 瀬谷正二 抄訳, 東京: 鳴門堂, 明12.5, 26p ; 19cm
米国前大統領哥蘭的公伝; 山田享次 著, 岸田吟香 閲, 東京: 学農社, 明12.6, 41p 図版 ; 19cm
グランド公略伝; 豊島左十郎 編, 大阪: 北島禹三郎, 明12.7, 12p ; 17cm
米国前大統領虞蘭将軍全伝, 岩神正矣 著, 東京: 九春堂, 明19.4, 142p ; 19cm
米国偉観; グラント 著, 青木匡, 島田三郎 訳, 東京: 輿論社, 明19,20, 4冊 (合本2冊) ; 22cm
                                青木, 匡, 1856- 
                                島田, 三郎, 1852-1923
自著克蘭徳一代記: 一名・南北戦争記; グラント 著, 山本正脩 訳, 奥井清風 校, 東京: 精文堂, 明19,21, 2冊 (5巻合本版) ; 19cm
米国前大統領格蘭土将軍小伝; 石山敬太郎 (嫩葉) 著, 東京: 石山敬太郎, 明25.2, 7p ; 19cm
虞蘭得将軍; 布施謙太郎 著, 宮川春汀 画, 世界歴史譚 ; 第27編, 東京: 博文館, 1901.9, 116p ; 23cm
                                布施, 謙太郎, -1914
                                宮川, 春汀, 1873-1914
回想記, Ulysses S.Grant 原作, 大井浩二 編注, 大阪: 大阪教育図書, 1989.4, 76p ; 22cm

 ついでに Ron Chernow の Grant も注文。グラントの最新の伝記の1冊で、評価の高いもの。

Grant (English Edition)
Chernow, Ron
Head of Zeus
2017-11-02






 グラントは主な伝記だけで十数冊は下らず、どれにしようか手をつけかねていたが、これはちょうど良さそうだ。Chernow はワシントンとハミルトン、それにワールブルグ=ウォーバーグ家の伝記も書いていて、いずれもベストセラーかつ専門家の評価も高い。

 一族の一人、アビ・ワールブルグの伝記は読んだはずだが、ほとんどまったく記憶に残っていない。弟の銀行家に、跡継ぎを讓る代わりに本を買う金は無条件で出すという約束をさせて古書を買い漁り、膨大な蔵書の私立図書館を作る。この図書館は後、ロンドンに移って Warburg Institute となる。その蔵書の大半が大英図書館にも無いものだった。美術史家としての業績は別として、その話だけ、覚えている。ウォーバーグのバーグは burg で、Warburg はドイツで本拠を置いた都市の名前。ユダヤ系によくある berg では無い。

 グラントは戦争について実に醒めた見方をしていて、大統領にもなったが、シャーマンは三度の飯より戦の好きな生粋の軍人、ということか。もっとも政治に関わることを拒否したそうだから、自分の器はわかっていたのだろう。それにしても、南北戦争に対するアメリカ人の関心は、傍から見ると常軌を逸していると見えるところもあるが、わが国のこの無関心もなかなか面白い。まあ、南北戦争が戦われていた頃、わが国では幕末の騒動が最高潮に達していたということもあるのかもしれないが、それにしてもね。

 シェルビィ・フットの本とグラントのこの伝記、それにグラントとシャーマン、各々の回想録を読めば、まず南北戦争について一通りは押えられるだろう。いかに複雑で、わかりにくいものかということぐらいはわかるだろう。ロバート・E・リーにも回想録があるなあ。伝記も読んでみたいが、さて、どれがいいのか。奴隷制に反対しながら、奴隷制擁護のために戦ったわけで、南部では神格化されてるようだが、この人も一筋縄ではいかない。


 

Ulysses S. Grant, 1822-1885
William Techmuseh Sherman, 1820-1891
Robert E. Lee, 1807-1870

 グラントとリーは同じく63歳で死んでいる。ふうむ、ヘンリー・ソローは南北戦争の最中に死んでるのか。(ゆ)

Irish Traditional Musicians of North Connacht
Text by Gregory Daly
Photo by James Fraher
Bogfire, Skleen, Co. Sligo, Ireland
2020
228pp.

 副題にあるように、スライゴー、メイヨー、ロスコモン、リートリムを含む地域の伝統音楽の担い手108人を肖像写真と音楽的バイオグラフィで紹介する1冊。108人のほとんどはミュージシャンですが、音楽パブのオーナー、研究者、放送関係者も含みます。昔のミュージシャンの記念碑を建てたことで取り上げられた人もいます。

 108人のうち最年長は1920年生まれ。メイヨー州ドゥーキャッスル出身の Malachy Towey。取材時96歳。2020年、99歳で大往生。本が出た時点での故人は11人。

 Malachy Towey

 最年少は2000年生まれ。スライゴー出身の James Coleman と Fionn O’Donnell。取材当時17歳。写真左端ジェイムズ君はフルートの家系でマイケル・コールマンとは別系統です。中央のフルートは 1998年シカゴ生まれの Tom Murray。両親ともガーティーン付近の出身で、2012年に里帰りしました。本人や親の世代に国外に出て、後里帰りして永住するこういう一家は他にもいくつもいます。

James Coleman
 

 女性は26人。最年長は1932年、スライゴー州キラヴィル出身の Tilly Finn。

TillyFinn
 

 最年少は1991年生まれ、ロスコモン州バリナミーン出身の Breda Shannon。

Breda Shannon
 

 生年の年代別人数は以下の通り。右側は女性。フィンタン・ヴァレリーの緒言でも、文章担当 Gregory Daly の序文でも、昔から女性が伝統音楽の一翼を担ってきたことは強調されていますが、いささか贔屓の引き倒しの観があります。むろん、表に出ないところで支えていたこともあるでしょうけれども。まあ、今の時代、男性だけのものにしておくわけにはいかない、という状況に配慮したものではありますね。
1920s 7
1930s 19/ 5
1940s 17/ 4
1950s 25/ 7
1960s 17/ 6
1970s 7/ 1
1980s 8/ 3
1990s 6/ 1
2000 2

 出身州別の人数。アイルランド国外出身者も数人いますが、上記トム・マレィのように、その人たちもいずれもこの地域のどこかにルーツを持っているので、それを含めています。ウィックロウ出身の Harry Bradshaw は、マイケル・コールマンの全録音集成をプロデュースした縁です。ウェクスフォード出身のアコーディオン奏者 Jimmy Noctor はここ10年、スライゴー州ガーティーンの The Roisin Dubh のセッションのリーダー。
Fermanagh 1
Galway 2
Kerry 1
Leitrim 16
Mayo 33
Roscommon 15
Sligo 38
Wexford 1
Wicklow 1

 楽器別の人数。複数楽器を演奏する人もいるので延数です。無しは担当楽器があげられていない人。本書に記載の通りで、singer と singing の違いはわかりません。ハイランド・パイプの1人は軍楽隊で覚えたそうで、植民地時代の名残りか、アイルランドの軍隊には部隊ごとに軍楽隊があり、ハイランド・パイプ奏者がいて、専門の学校まで軍隊内にあるらしい。
accordion 1(どちらか不明)
button accordion 16
piano accordion 3
melodeon 4
banjo 5
bodhran 5
tambourine 1
bones 1
concertina 3
fiddle 41
flute 38
guitar 5
harmonica 1
Highland pipes 2
multi-instrumentalist 1
piano 7
recitations 1
saxophone 2
singer 18
singing 1
uillean pipes 5
whistle 14
none 7

 職業別の人数。これも延数。無しは職業があげられていない人ですが、ここでは本書の主題に沿ったもののみ記されているので、無職というわけではありません。これも composer と tune composer の違いは不明。若い人に音楽教師が多いのは興味深い。
archivist 3
broadcaster 1
radio presenter 1
collector 1
composer 13
tune composer 10
fiddle maker 2
local historian 1
music teacher 26
publican 3
proprietor of music venue 3
publisher 1
radio & record producer 1
researcher 3
songwriter 5
sound engineer 1
teacher 1
writer 1
none 60

 108人の中には Catherine McVoy、Carmel Gunning、Ben Lennon、P. J. Hernon、Shane Mulchrone、Junior Davey、Eddie Corcoran、Roger Sherlock、あるいは Harry Bradshaw、またスライゴー州ガーティーンの有名な音楽パブ The Roisin Dubh のオーナー Ted McGowan のようにあたしでも名前の知っている人もいます。またダーヴィッシュの初期メンバーで今はソロで活躍する Shamie O'Dowd の母親 Shiela のような人もいます。ですが、ほとんどはローカルでのみ名を知られる人たちです。また、地元ではミュージシャンとして知られている人たちも、必ずしも全員がとびきりの名人というわけでもなさそうです。

 文章を書いている Gregory Daly は1952年、ドニゴール南部、リートリム、スライゴーとの州境付近の出身でフルートを吹きます。本人はリートリム北部、スライゴー南部の音楽の伝統を汲むと自覚している由。写真の James Fraher は1949年シカゴ生まれのアメリカ人で、元はブルーズ・ミュージシャンの写真を撮ることでキャリアを始め、アメリカ在住の人たちからアイリッシュ・ミュージシャンに対象を広げています。現在はスライゴーに住み、パートナーとスタジオをやっていて、本書もそこからの刊行。祖先は1853年にリマリックから移民した人であるそうな。取材、撮影は2015から17年に集中的にされています。その時点ではほぼ全員が存命でした。

 写真はそれぞれ音楽との関りがわかる形で、関りのある場所で撮影されています。やはりというか、さすがというか、皆いい顔をしています。何枚か、個々のミュージシャンからは離れた、この地域の雰囲気を示す写真もあります。たとえばマイケル・コールマンの生家や上記 The Roisin Dubh でのセッションなど。前者は今は空き家のようでけど、残ってるんですねえ。

 文章は特徴的なものではなく、内容も各々の生涯の中で音楽に関する事柄のみを抜き出しているので、いささか単調なところもあります。ですが、その中からこの地域の伝統音楽や社会の歴史が浮かびあがってきます。また、個々の人の言葉には体験に裏付けられた含蓄があり、教えられるところが多いです。

 この本を出した意図はまずこの地域に特徴的な、つまりローカルな伝統の継承です。近年の伝統音楽の隆盛の副作用としてローカルなスタイル、伝統が消えようとしているという危機感が底流にあります。ここに取り上げられている人たちは、10代の若者たちも含めて、ローカルなスタイル、伝統(レパートリィも含みます)に価値を認め、ミュージシャンは自分の音楽として演奏し、ヴェニューのオーナーはこれをサポートしています。

 ここでのローカル・スタイルは最年長の人びとがその親の世代から受け継いだもの、19世紀以来のものです。ここはまたコールマン・カントリー、マイケル・コールマンの出身地であり、マイケル本人やアイルランドに残ったその兄ジェイムズとセッションしていた人たちもいるほどで、そのローカル・スタイルは一世を風靡したものでもありました。ただし、この地域の中でもさらに地域によってスタイルやレパートリィにヴァラエティがあり、マイケル・コールマンをエミュレートしようとして、せっかく確立していた独自のスタイルを壊してしまったミュージシャンも多数いたという証言もあります。かつては地域間の移動は徒歩かせいぜいが自転車によるもので、したがってそれほど頻繁ではありませんでした。その困難さ、距離によって各地域の個性が成立していました。スライゴーでも北と南で伝統そのものだけでなく、音楽の有無まで違っていました。またかつては音楽は基本的に誰かの家でのセッションでした。1960年代半ばまで、パブでは音楽はほとんど演奏されていません。

 この本が批判の対象としている今の伝統音楽のスタイルには CCE のものと、より商業的なものの二つがあります。CCE の存在はアンビヴァレンツでもあります。それによって音楽伝統がつながった側面と、競争の結果が強調される弊害です。ここに出てくるミュージシャンにも、競技会には無縁の人とタイトルをとっている人がいます。

 こうした本が出たことは伝統音楽が常に同時代の状況と切りむすんでいることの現われでもあります。それは何らかの形、位相で常に消滅の脅威にさらされています。伝統音楽はそれを担う人びとの生活様式、社会のあり方を反映するものだから当然で、どちらも常に変化しているからです。1940年代までの生まれの人たちの若い頃の社会は戦後、まったく変わっています。コミュニティがクローズドで、構成員は誰もが他の全員を知っている、ダンスと音楽が主な娯楽の一つである時代は消えました。この時期は音楽に関わる人間は限定されてもいたようです。ここに出てくる人びとはほぼ例外なく音楽家の家系です。生まれる前から家に音楽がありました。60年代生まれの人間は、周囲の同年代に伝統音楽をやっている人間は他にはいなかったと口を揃えます。これが90年代の生まれになると、同年代で伝統音楽をやるのはごく普通になります。

 ここでいう「古い音楽」1930年代生まれぐらいまでが若い頃に吸収した音楽が全盛だった頃も、安泰などではなかったでしょう。ダンス・ホール条例もあり、ケイリ・バンドや、fife and drum band は大きな存在でした。家でのセッションがメインということは、かなりクローズドなものだったはずです。無縁の人間がふらりと参加するわけにはいかなかったでしょう。最もパブリックだったのはダンス・パーティー、ケイリで、そこでは誰もが踊ったかもしれませんが、ダンスのための音楽を供給する人間は限られました。その時代、それ以前の時代の状況が伝統音楽にとって有利だったところがあるとすれば、音楽が共同体の生活の一部に不可欠のものとして組込まれていたことです。競争する他のメディア、娯楽もありませんでした。レコードも限られたものしか無く、それはお手本、曲のソースであって、娯楽として聴くのはむしろ少ない。ラジオも同じ。そうしたものを聴く目的は自分で演奏する素材を得るためです。レコードやラジオを聴くこと自体が目的なのではありません。そこで聴いた音源を探すガイドとするためでもない。中心はあくまでも自分で演奏することでした。

 とはいっても、独りだけで演奏する、あるいはしていたわけではありません。アイリッシュ・ミュージックの核心をこれ以上無いほど端的に表した言葉が出てきます。

 「音楽を演奏する歓びは他のミュージシャンとその体験を共有することなんだ。ステージの上や審判の前で演ることじゃない。たとえば家であるチューンを覚えたとする。すると、誰か他にその曲を知らないか、といつも探しはじめるんだ。いればそれを一緒に演奏できるからね」216/217pp.

 1981年スライゴー生まれのフィドラーでシンガー Philip Doddy の言葉です。共有の確認。ある曲をともに知っていることの確認こそが歓びになります。だからユニゾンになるわけです。ハーモニーは不要、むしろ邪魔でしょう。

Philip Doddy
 

 あるいはアイリッシュ・ミュージックに限らず、音楽体験の根底にあるのは共有なのかもしれません。知っている曲で声を合わせるのも、同じヒット曲を聴いて盛り上がるのも、共有の一つの形ではあります。アイリッシュ・ミュージックではそれが最もシンプルで直截な形で露わになる、ということでしょう。

 さらに、共有は音楽だけではなく、あらゆる文化活動の根底にあるのかもしれません。その昔、植草甚一が本が好きになる理由を問われて、本の好きな友人がいること、同じ本をあれはいいよねえと確認しあうことで本当に良くなるんだ、と答えていました。

 アイリッシュ・ミュージックにもどれば、たとえばわが国でアイリッシュをやる時に心掛けることとして、バンジョー奏者シェイン・マルクロンの言葉(189pp.)はヒントになると思われます。かれのソロ《Solid Ground》は、かつてのマレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの《Ceol Aodh》にも相当する傑作です。われわれにアイリッシュ・ミュージックが生きてきた社会はありません。とすれば、何をそこに注ぎこむか。一つはその楽曲をこれまで演奏してきた過去の全てのミュージシャンへのリスペクト、感謝を込めること。もう一つは自分の生き様、どのように生きているのか、どんな人間を、人生を目指しているのかを込めること。そして、その音楽といつどこでどうやって出逢ったか、その曲のどこに自分は惹かれていて、演奏の中で何を最も表したいか。そうやって楽曲を自分だけのものに独占しようとするのではなく、あくまでも共有を目指すこと。

Shane Mulchrone

 

 この地域は楽器別のリストでも明らかなようにフルートとフィドルが特徴的ですが、バゥロンの伝統があったという記述もあります。1940年代の話らしく、当時「バゥロン」と呼ばれてはいなかったはずですが、興味深いところ。関連する録音など聴きながら読みこんでゆくと、さらにいろいろ面白い発見がありそうです。(ゆ)


 Samuel R. Delany, Letters From Amherst 読了。実に面白い。補遺は娘アイヴァ・ハッカー=ディレーニィへの10通の手紙。1984年から1988年までの、夏のキャンプに行っているアイヴァ宛のもの。すべて7月ないし8月。やはり日常の細かいことを書きおくる。アイヴァはこの時10歳から14歳までだが、文章は多少やさしくしてはあるものの、内容は本篇の大人向けのものとほとんど同じ。この手紙の時期は本篇に先立つもので、あるいはむしろこちらがマクラとして読まれるべきものかもしれない。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-04-17



 とりわけ面白いのはまず1986-07-20付。この時、ディレーニィはデヴィッド・ハートウェルに頼まれたか雇われたかして、Arbor House のオフィスで週3日原稿やゲラを読む仕事をしている。同じオフィスで働いている人びとの描写に、例によって大笑いする。こういうのが見えてしまうと書かずにいられないということか。同じことを当時同棲していたフランクにすでに話しているその上でアイヴァに書きおくっている。

 この手紙にはタイプ原稿が2種類添えられている。一方は最初の草稿でシングル・スペースでびっしりと打たれ、もう一つはダブル・スペースつまり一行アケで打ちなおしている。そしてどうやら実際に送ったのは二番目のものをさらに打ちなおしたものらしい。本篇の長い手紙も同様のプロセスを経ているのか。それともこれは娘への特別サーヴィスか。

 ディレーニィはまた見た映画についてもよく書いている。『エイリアン2』は封切と同時に見たが、その後、一緒に見に行こうと誘われて都合4回見た。幸い、面白いから助かっているという。とりわけ『バベットの晩餐会』には強い感銘を受けたらしく、内容を詳しくアイヴァに書いている。こうしてディレーニィが語るのを読むと、この話は映画で見るのが効果的にも思える。もっともディネーセンの小説はどれも映画になりそうだが。

 クラリオンやハートウェルがハーヴァードでやっているサイエンス・フィクション作家養成講座への参加についての記述も面白い。後者の生徒の一人に、テキサス出身の若い男がいて、スティーヴン・ドナルドソン、ジョン・ノーマン、ドリー・プレスコットの本しか読んだことがない。ハインラインやスタージョンの名前すら知らなかった。この講座へ来て、自分が読んできたものがひどいものだとみんなから散々言われている。ここで学ぶことで、これまで楽しんできたものが読めなくなるんじゃないかと思うと言う。ディレーニィはこれに対して、そうではない、学ぶことはこれまで楽しんできたことを楽しまなくなるためのものではない、と諭す。そうした本を楽しむことになにも問題はない。学ぶことでもっといろいろな本を楽しめるようになるのだ。

 これを敷衍すれば、これまで読んできたものの別の楽しみ方を発見できるかもしれない。

 あたしに言わせれば、ひどい本も読む必要はある。傑作ばかり読んでいては見えないこともあるのだ。ディレーニィだって、シモンズの『ハイペリオン』をひどいものだと言いながら、読んでいる。

 ディレーニィは若い頃から自分がゲイであることを自覚していて、マリリン・ハッカーとの結婚は「実験」だったらしい。しかし、この娘を持ったことはディレーニィにとっては非常に大きなプラスになっている。ここに収められた手紙にも、娘がいることの幸福感があふれている。

 この時期の最後、1980年代末にはディレーニィはすでにワープロを使っている。まだワープロをタイプ代わりに使っているわけで、だから手紙の形で残っているわけだし、こうして本にもなる。メールでもこういう長いものを書いているのか。それは本になって出ることがあるのだろうか。それとも、単純にまとめられて電子版で出るのだろうか。これはディレーニィだけでなく、20世紀末からの、メールがデフォルトの通信手段になって以降につきまとう問題ではある。SNS などでの発言はどうだろう。たとえば死後、Facebook の書き込みなどが一般公開されることになるのだろうか。ディレーニィの原稿などの文書類はボストン大学図書館が収集しているが、そこではネット上のテキストも集めているのだろうか。そういう心配をするのも、あまりにこれが面白いので、ぜひ他の時期、60年代、70年代、90年代残りから今世紀のものも読ませてほしいからだ。日記は出はじめたが、書簡集はどうだろう。できれば、誰か、たとえばハッカーやハートウェル、バトラーなどとの往復書簡も読みたいものだ。


 春だ。花が咲き、木の芽が萌えでている。このやわらかい黄緑がなんとも言えない。

 Show Of Hands, Beat About The Bush。公式サイトでは初のスタジオ盤とされている。本人たちの意識の中でもCDで出すのはカセットとはレベルが違うのだろう。前作のライヴから2年。満を持してもいる。それにしてはジャケットで顔を隠すのはどうなのだろうか。しかし、こうして見ると、フィル・ビアは昔から丸い。Where We Are Bound のジャケットなど、最近太ったなあと思ったのだが、そう言えば昔から太っていたので、その後特に肥えたわけではなさそうだ。

Beat About the Bush
Show of Hands
Imports
2014-01-21

 

 内容としては確かに文句のつけようもない。四半世紀前の録音だが、時の試練に耐えて、今聴いてもみずみずしい。その後定番のレパートリィになる The Galway Farmer(この farmer は網野善彦のいう「百姓」がぴったり) と Blue Cockade はやはり鮮かなデビューだし、ロックンロールの Cars には笑ってしまう。Armadas で無敵艦隊、フォークランド/マルビナス戦争の UK、アルゼンチン両軍をならべて歌うのは、フォーク・シンガーとしてのしたたかさだ。ナイトリィのオリジナルとビアの歌う伝統歌を重ねることもすでにやっている。The Oak は遥か後年のヒット曲 The Roots の原型と言ってもいい。どこか無気味で、しかもシビアなユーモアも秘めていそうな Shadows in the Dark や Day Has Come は、宝石の原石にも見える。

 ピート・ゾーンのサックスのジャズ風味、Biddy Blythe のハープのたおやかな味わいと、いろいろと試してもいる。Blythe は The Galway Farmer で達者なフルートとホィッスルも聞かせる。このホィッスルはパイプの Stefan Hannigan かと思ったら違っていた。ハニガンはここではバゥロンを叩いて、馬の駆ける様を出している。Nick France という人は他では知らないが、シャープなドラミングで全体を浮上させる。こういう音を出せるのはジャズの人かもしれない。ラルフ・マクテルの切りたった断崖のようなハーモニカはちょっと意外。

Steve Knightley: vocals, guitar, mandocello, cuatro
Phil Beer: vocals, guitar, Spanish guitar, mandocello, mandolin, fiddle, melodeon, viola, slide guitar

Pete Zorn: bass, alto & soprano saxophone
Nick France: drums, percussion, tea tray
Matt Clifford: piano
Biddy Blyth: harp, flute, whistle
Vladimir Vega: vocals, charango, zamponas
Ralph McTell: vocal, mouthharp
Mike Trim: vocals, percussion, bass
Stefan Hannigan: uillean pipes, bodhran

01. Beat About The Bush; 4:38
02. Class Of Seventy Three; 3:06
03. Armadas; 4:28
04a. Nine Hundred Miles
04b. Wayfaring Stranger {Trad.}; 4:16
05. Shadows In The Dark; 3:47
06. The Galway Farmer; 5:44
07. White Tribes {Matt Clifford}; 2:35
08. Day Has Come; 4:36
09. The Hook Of Love; 4:15
10. Cars; 3:51
11. Blue Cockade {Trad.}; 6:09
12a. Mr. Mays {Phil Beer}
12b. Gloucester Hornpipe {Trad.}; 4:05
13. The Oak; 3:05

All songs by Steve Knightley except otherwise noted.

Produced & mixed by Mike Trim @ Wytherston Studios

 昼前、駅前まで歩く。山桜があちこち満開。大山の後ろの丹沢の高いところが白くなっているのは雪か。昨夜の雨があそこでは雪だったのかもしれない。

 CDリッピング続行。ようやく新しく買ったものがすんで一段落。

 ヴァルザーの『ヤーコプ・フォン・グンテン』は集英社版、藤川芳朗の訳の方が『作品集』の若林恵のものより良いので、こちらを読むことにする。英訳も読んでみるか。

 Delany, Letters From Amherst、第5信。1991-09-24付。マンハタンからアマーストへ帰ろうと Port Authority へ行くとアマースト方面行きの乗り場には人があふれ返り、バス会社は1台で運行のところを3台にバスを増やす。週末のせいか。してみれば、少なくともニュー・イングランドから北の東部ではかなりバスが利用されているのだろう。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04



 アマーストからマンハタンまでの4時間半の間に何をしているのだろうと思えば、この時はウォークマンで音楽を聴いている。この時期ならまだカセットのはず。聴いているのはハリィ・チェイピンの Short Stories、ヨー・ヨー・マのバッハ、無伴奏チェロ組曲、それにニルソン『ニルソン・シュミルソン』。途中、ヒスパニックの一団が後部座席を占拠し、キューバのゴスペルらしきものを歌っている。それがチェロとある時はハマり、ある時ははずれる。

Short Stories
Chapin, Harry
Rhino Flashback
2003-10-10


 

ニルソン・シュミルソン
ニルソン
BMG JAPAN
2002-07-24



 前信でメイン州まで行った時には、30そこそこの大工の男と知り合い、バンゴーまで一緒になる。この男の話はまるで1篇の短篇小説。映画にもなりそうだ。

 作家のエッセイで音楽の話が出てくるのはあまり読んだことがない。あたしが読んだことがないだけか。それにしてもディレーニィは音楽も聴き、映画、演劇、テレビを見、美術館に通う。読書量は言わずもがなで、やはりインプットの量の桁が違う。

 今回のメイン・イベントは BBC に委託されてアメリカの黒人サイエンス・フィクション作家についてのドキュメンタリーを16ミリで撮るためにやってきたほとんどがイギリス人からなるチームとのマンハタンでの撮影の話。当時アメリカの黒人サイエンス・フィクション作家といえばディレーニィとオクタヴィア・E・バトラーと Steven Barnes の3人だけだった。撮影チームはこれに加えてコミック業界で働いている人間も5、6人、入れようとしていた。カリフォルニアでのバトラーとバーンズの撮影の後、一行はニューヨークにやってきて、ディレーニィもそれに合わせてアマーストから出てゆく。マンハタンでのこの撮影の1日がまた抱腹絶倒なのだが、一つだけ、これは見たかったというシーンがある。まだ若そうな黒人の監督は、荒れはてたハーレムの街頭風景の中でディレーニィが自作を朗読するところを撮りたいと言いだす。たまたまカメラマンが数日前に行きあわせたところがあると言う。そこはガス爆発かなにかあったらしく、建物が半分倒壊し、残りの半分の中身が剥き出しになっている。ディレーニィはそこでたまたま監督が持っていた『ダルグレン』の一節を朗読する。それがまるでこの場に合わせて書いたかのようにハマる。

 見たかったと言えば、ディレーニィがアマーストで学部生のためにやっていた Introduction to Science Fiction の授業も受けてみたかったものだ。ウィリアム・ブレイクの詩 Auguries of Innocence、スタージョンの「極小宇宙の神」、ベアの「ブラッド・ミュージック」(中篇版)についての講義、その翌週のスタージョンの『夢見る宝石』と The [Widget], the [Wadget], and Boff についての講義を聞き、バトラーの「ブラッドチャイルド」とシェパードの「サルバドール」についての試験を受けてみたかった。そう言えばスタージョンもいたよなあ。読みちらかしていて、上記ノヴェラ、ディレーニィが a truly great little American novella と呼ぶものも読んでない。

 この書簡の宛先である Erin McGraw はこの当時は2年前に出た作品集でデビューしたばかりで、ジャンル作家でもなく、ディレーニィとの関係はわからない。ポール・ド・マンについては本人の著作を読むのが一番と書いたりしているから、マグロウの方からそういう問合せをしたのかもしれない。それにしても、前4信同様、細々とした日常を書いて知らせている。ちょっと不思議な感覚になる。(ゆ)

 溜まっていたCDのリッピングに精を出す。どうやっても読めないトラックがときたまある。ソフトを換えても同じだから、パイオニアのドライブの問題だろう。かつてはこういうものは古い iMac の内蔵ドライブで読みとっていたのだが、それは年末に処分してしまった。やはり代わりになるような「ゆるい」外付ドライブを探さねばならん。


 Samuel R. Delany, Letters From Amherst。3通め。1991-01-28。ここでのメイン・イベントは叔父 Hubert T. Delany が前年末12月30日に89歳で亡くなり、その通夜、葬儀が年明け1月2日、3日に行われたこと。この叔父はニューヨーク市の判事を勤め、その判決で市民権確立に努めたことで、死去に際しては New York Times に大きな死亡記事が載り、葬儀では市長からの感謝の言葉が朗読されるような人だった。一方で50代末から脳に異常をきたし、寝たきりになり、30年以上、ほとんど植物人間として過ごした。夫人は夫を自宅で通いの看護師の援助を得て、死ぬまで介護した。ディレーニィはアルツハイマーだろうと思っていたが、どうやらそうではなく、より複雑な病だったらしい。

 葬儀というのはどこでも同じで、会ったこともなかった親戚が現れ、長い間、無沙汰していて、相手が幼ない頃の記憶しかない若者たちに遭遇する。ディレーニィが若い頃、16歳くらいまで、誰かに初めて会うと、あなたはあのヒューバート・ディレーニィ判事の親戚かと訊かれるのが常だった。葬儀で会った若いいとこたちは、同じ状況で、あなたはSF作家のディレーニィの親戚かと訊かれると言う。

 ディレーニィの一族は長命でもあるらしく、葬儀には101歳や99歳で健在の故人の姉たちも、自分の足で歩いてやってくる。また一族の人間には独特のたたずまい、しぐさ、雰囲気があり、それは直接血がつながっていないはずの養子として育てられた人びとにも共通する。そしてその一族には判事、弁護士、医師、株式ブローカーなどがごろごろいる。教会での葬儀に参列しながら、ディレーニィはまるで威圧されているような気分になる。そして、マリリン・ハッカーと結婚した直後のある瞬間を思いだす。もし自分が最も摩擦の少ない道を選んでいたならば、大して努力することもなく、実入りのよい職業につき、順調にキャリアを重ね、かなりの物質的成功を収めていただろう、そして自分はそれに背を向けて、自分の才能に賭けることを選んだという事実を実感した瞬間だ。一部にはそれは名声のためであり、その点ではささやかながら成功したかもしれないが、自分のことをチップではなくサムと呼ぶ人びとの圧倒的でさりげない富の提示の只中にいて、ディレーニィはおちつかない気分になる。そして、そのおちつかない気分をおもしろいと思う。

 自分の中のおちつかない気分をおもしろいと思えるというのが、作家としての才能ということだろう。あるいはバラカンさんの言う「自虐的」self-deprecating に通じるものだろうか。ディレーニィは徹頭徹尾アメリカンで、イングランド人と同じ感覚というわけではないだろうが、効果としては同様な作用にも思える。普通ならマイナスの効果をもたらすような文章にユーモラスな要素がからんで、ポジティヴな印象に反転するのもこの能力の故かもしれない。

 チップ・ディレーニィの生まれるのが5年でも早いか遅いかしていたならば、おそらく作家は誕生しなかったのではないか。作家はチップ個人と時代の相互作用の産物だろう。The Motion Of Light In Water 巻頭のあの18歳の写真の眼光の鋭さは、一族の備える巨大な慣性に抗おうとするところから生まれてもいたのだ。『アプターの宝石』から『ノヴァ』にいたる1960年代の奔流のような創作活動の背後でも、同じ反抗精神が働いていたはずだ。

 きらびやかな一族の中でのおちつかない気分をおもしろいと思う中には、そうした「若気の至り」への想いもあるように見える。

 一方でディレーニィは18歳で、葬儀屋を営んでいた父親と死別している。そのこともまた、一族からの離脱の後押しになっていたはずだ。「父は1958年、ぼくが17歳の時、肺がんで死んだ」。問われればそう答えるのが常だった。ディレーニィ個人の記憶の中ではそうなっていた、というのは示唆的だ。(ゆ)

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04



 1400から1630過ぎまで ICF 春の講座のための Zoom でしゃべる。30分休憩は入ったが、2時間びっちりしゃべるとくたびれる。無事終ってほっとする。

 Delany, Letters From Amherst の2通め。1990年5月。劇画の Bread & Wine, 1999 に描かれた Dennis Rickett との出逢いと同棲の話。

Bread & Wine: An Erotic Tale of New York
Delany, Samuel R.
Fantagraphics Books
2013-07-19



 デニスはその後現在にいたるまでのパートナーとなるのだから、ディレーニィにとっての人生の転回点の一つでもある。あの劇画はこの手紙が「原作」だったのだ。ディレーニィがホームレスたちと日常的に交際していることもわかる。つまり、かれはホームレスを対等の存在、同じ世界に住む人間として、たとえば同僚の大学教授やオペラの演出家といった人びととまったく同等とみなしている。そういうことが可能なのは、やはり差別されてきたからだろうか。ひとつにはニューヨークの社会のホームレスへの態度が排他的ではないこともあるのかもしれない。駐車違反見回りを見張るためにデニスを雇っている人間もいる。デフォルトで排除しない。この点はわが国とは対照的だ。アマーストのマサチューセッツ大学の学生や教授たちの知的レベルの低さにうんざりし、滅入るのも、同じことの別の面だろう。手紙の最後に描かれた、ニューヨークの  The Whitney Museum のガイドの一人、若い白人女性の美術学生の見事なガイドぶりに感動するのもまた、同じことのさらに別の面だ。彼女はほとんどが黒人やヒスパニックの子どもたちに、展示されている絵の最も目立つ特徴を示し、そこからより目につきにくい要素へと導いて、絵の勘所とその見方を伝授している。しかも、この絵というのは20世紀アメリカの抽象画家 Willem de Koonig の "Women" のシリーズだ。子どもたちは夢中になって話を聴き、絵を見ている。その様子に、ここでこそ学びが働いているとディレーニィは感動し、涙を流す。自分には教師としては、ここまでは到底できないとも認める。
 
 これに関連するとも言えるが、デニスとアマーストからニューヨークにもどったある雨の日、ディレーニィはある交差点で歩道ぎりぎりに突込んできたヴァンに接触して、軽く飛ばされる。左下の肋骨に罅が入っただけだったが、危ない危ない。

 それにしても、ここでもやはりユーモアが底流にあって、この事故の話とか、デニスの足の臭さの描写とか、『ベオウルフ』を古英語で暗誦するしか能のない老教授の話とか、思わず笑ってしまう。ひょっとするとこのユーモア、ものごとを肯定的に表現する明るさはディレーニィの本質的なところなのかもしれない。


Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


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