クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:歴史

Irish Traditional Musicians of North Connacht
Text by Gregory Daly
Photo by James Fraher
Bogfire, Skleen, Co. Sligo, Ireland
2020
228pp.

 副題にあるように、スライゴー、メイヨー、ロスコモン、リートリムを含む地域の伝統音楽の担い手108人を肖像写真と音楽的バイオグラフィで紹介する1冊。108人のほとんどはミュージシャンですが、音楽パブのオーナー、研究者、放送関係者も含みます。昔のミュージシャンの記念碑を建てたことで取り上げられた人もいます。

 108人のうち最年長は1920年生まれ。メイヨー州ドゥーキャッスル出身の Malachy Towey。取材時96歳。2020年、99歳で大往生。本が出た時点での故人は11人。

 Malachy Towey

 最年少は2000年生まれ。スライゴー出身の James Coleman と Fionn O’Donnell。取材当時17歳。写真左端ジェイムズ君はフルートの家系でマイケル・コールマンとは別系統です。中央のフルートは 1998年シカゴ生まれの Tom Murray。両親ともガーティーン付近の出身で、2012年に里帰りしました。本人や親の世代に国外に出て、後里帰りして永住するこういう一家は他にもいくつもいます。

James Coleman
 

 女性は26人。最年長は1932年、スライゴー州キラヴィル出身の Tilly Finn。

TillyFinn
 

 最年少は1991年生まれ、ロスコモン州バリナミーン出身の Breda Shannon。

Breda Shannon
 

 生年の年代別人数は以下の通り。右側は女性。フィンタン・ヴァレリーの緒言でも、文章担当 Gregory Daly の序文でも、昔から女性が伝統音楽の一翼を担ってきたことは強調されていますが、いささか贔屓の引き倒しの観があります。むろん、表に出ないところで支えていたこともあるでしょうけれども。まあ、今の時代、男性だけのものにしておくわけにはいかない、という状況に配慮したものではありますね。
1920s 7
1930s 19/ 5
1940s 17/ 4
1950s 25/ 7
1960s 17/ 6
1970s 7/ 1
1980s 8/ 3
1990s 6/ 1
2000 2

 出身州別の人数。アイルランド国外出身者も数人いますが、上記トム・マレィのように、その人たちもいずれもこの地域のどこかにルーツを持っているので、それを含めています。ウィックロウ出身の Harry Bradshaw は、マイケル・コールマンの全録音集成をプロデュースした縁です。ウェクスフォード出身のアコーディオン奏者 Jimmy Noctor はここ10年、スライゴー州ガーティーンの The Roisin Dubh のセッションのリーダー。
Fermanagh 1
Galway 2
Kerry 1
Leitrim 16
Mayo 33
Roscommon 15
Sligo 38
Wexford 1
Wicklow 1

 楽器別の人数。複数楽器を演奏する人もいるので延数です。無しは担当楽器があげられていない人。本書に記載の通りで、singer と singing の違いはわかりません。ハイランド・パイプの1人は軍楽隊で覚えたそうで、植民地時代の名残りか、アイルランドの軍隊には部隊ごとに軍楽隊があり、ハイランド・パイプ奏者がいて、専門の学校まで軍隊内にあるらしい。
accordion 1(どちらか不明)
button accordion 16
piano accordion 3
melodeon 4
banjo 5
bodhran 5
tambourine 1
bones 1
concertina 3
fiddle 41
flute 38
guitar 5
harmonica 1
Highland pipes 2
multi-instrumentalist 1
piano 7
recitations 1
saxophone 2
singer 18
singing 1
uillean pipes 5
whistle 14
none 7

 職業別の人数。これも延数。無しは職業があげられていない人ですが、ここでは本書の主題に沿ったもののみ記されているので、無職というわけではありません。これも composer と tune composer の違いは不明。若い人に音楽教師が多いのは興味深い。
archivist 3
broadcaster 1
radio presenter 1
collector 1
composer 13
tune composer 10
fiddle maker 2
local historian 1
music teacher 26
publican 3
proprietor of music venue 3
publisher 1
radio & record producer 1
researcher 3
songwriter 5
sound engineer 1
teacher 1
writer 1
none 60

 108人の中には Catherine McVoy、Carmel Gunning、Ben Lennon、P. J. Hernon、Shane Mulchrone、Junior Davey、Eddie Corcoran、Roger Sherlock、あるいは Harry Bradshaw、またスライゴー州ガーティーンの有名な音楽パブ The Roisin Dubh のオーナー Ted McGowan のようにあたしでも名前の知っている人もいます。またダーヴィッシュの初期メンバーで今はソロで活躍する Shamie O'Dowd の母親 Shiela のような人もいます。ですが、ほとんどはローカルでのみ名を知られる人たちです。また、地元ではミュージシャンとして知られている人たちも、必ずしも全員がとびきりの名人というわけでもなさそうです。

 文章を書いている Gregory Daly は1952年、ドニゴール南部、リートリム、スライゴーとの州境付近の出身でフルートを吹きます。本人はリートリム北部、スライゴー南部の音楽の伝統を汲むと自覚している由。写真の James Fraher は1949年シカゴ生まれのアメリカ人で、元はブルーズ・ミュージシャンの写真を撮ることでキャリアを始め、アメリカ在住の人たちからアイリッシュ・ミュージシャンに対象を広げています。現在はスライゴーに住み、パートナーとスタジオをやっていて、本書もそこからの刊行。祖先は1853年にリマリックから移民した人であるそうな。取材、撮影は2015から17年に集中的にされています。その時点ではほぼ全員が存命でした。

 写真はそれぞれ音楽との関りがわかる形で、関りのある場所で撮影されています。やはりというか、さすがというか、皆いい顔をしています。何枚か、個々のミュージシャンからは離れた、この地域の雰囲気を示す写真もあります。たとえばマイケル・コールマンの生家や上記 The Roisin Dubh でのセッションなど。前者は今は空き家のようでけど、残ってるんですねえ。

 文章は特徴的なものではなく、内容も各々の生涯の中で音楽に関する事柄のみを抜き出しているので、いささか単調なところもあります。ですが、その中からこの地域の伝統音楽や社会の歴史が浮かびあがってきます。また、個々の人の言葉には体験に裏付けられた含蓄があり、教えられるところが多いです。

 この本を出した意図はまずこの地域に特徴的な、つまりローカルな伝統の継承です。近年の伝統音楽の隆盛の副作用としてローカルなスタイル、伝統が消えようとしているという危機感が底流にあります。ここに取り上げられている人たちは、10代の若者たちも含めて、ローカルなスタイル、伝統(レパートリィも含みます)に価値を認め、ミュージシャンは自分の音楽として演奏し、ヴェニューのオーナーはこれをサポートしています。

 ここでのローカル・スタイルは最年長の人びとがその親の世代から受け継いだもの、19世紀以来のものです。ここはまたコールマン・カントリー、マイケル・コールマンの出身地であり、マイケル本人やアイルランドに残ったその兄ジェイムズとセッションしていた人たちもいるほどで、そのローカル・スタイルは一世を風靡したものでもありました。ただし、この地域の中でもさらに地域によってスタイルやレパートリィにヴァラエティがあり、マイケル・コールマンをエミュレートしようとして、せっかく確立していた独自のスタイルを壊してしまったミュージシャンも多数いたという証言もあります。かつては地域間の移動は徒歩かせいぜいが自転車によるもので、したがってそれほど頻繁ではありませんでした。その困難さ、距離によって各地域の個性が成立していました。スライゴーでも北と南で伝統そのものだけでなく、音楽の有無まで違っていました。またかつては音楽は基本的に誰かの家でのセッションでした。1960年代半ばまで、パブでは音楽はほとんど演奏されていません。

 この本が批判の対象としている今の伝統音楽のスタイルには CCE のものと、より商業的なものの二つがあります。CCE の存在はアンビヴァレンツでもあります。それによって音楽伝統がつながった側面と、競争の結果が強調される弊害です。ここに出てくるミュージシャンにも、競技会には無縁の人とタイトルをとっている人がいます。

 こうした本が出たことは伝統音楽が常に同時代の状況と切りむすんでいることの現われでもあります。それは何らかの形、位相で常に消滅の脅威にさらされています。伝統音楽はそれを担う人びとの生活様式、社会のあり方を反映するものだから当然で、どちらも常に変化しているからです。1940年代までの生まれの人たちの若い頃の社会は戦後、まったく変わっています。コミュニティがクローズドで、構成員は誰もが他の全員を知っている、ダンスと音楽が主な娯楽の一つである時代は消えました。この時期は音楽に関わる人間は限定されてもいたようです。ここに出てくる人びとはほぼ例外なく音楽家の家系です。生まれる前から家に音楽がありました。60年代生まれの人間は、周囲の同年代に伝統音楽をやっている人間は他にはいなかったと口を揃えます。これが90年代の生まれになると、同年代で伝統音楽をやるのはごく普通になります。

 ここでいう「古い音楽」1930年代生まれぐらいまでが若い頃に吸収した音楽が全盛だった頃も、安泰などではなかったでしょう。ダンス・ホール条例もあり、ケイリ・バンドや、fife and drum band は大きな存在でした。家でのセッションがメインということは、かなりクローズドなものだったはずです。無縁の人間がふらりと参加するわけにはいかなかったでしょう。最もパブリックだったのはダンス・パーティー、ケイリで、そこでは誰もが踊ったかもしれませんが、ダンスのための音楽を供給する人間は限られました。その時代、それ以前の時代の状況が伝統音楽にとって有利だったところがあるとすれば、音楽が共同体の生活の一部に不可欠のものとして組込まれていたことです。競争する他のメディア、娯楽もありませんでした。レコードも限られたものしか無く、それはお手本、曲のソースであって、娯楽として聴くのはむしろ少ない。ラジオも同じ。そうしたものを聴く目的は自分で演奏する素材を得るためです。レコードやラジオを聴くこと自体が目的なのではありません。そこで聴いた音源を探すガイドとするためでもない。中心はあくまでも自分で演奏することでした。

 とはいっても、独りだけで演奏する、あるいはしていたわけではありません。アイリッシュ・ミュージックの核心をこれ以上無いほど端的に表した言葉が出てきます。

 「音楽を演奏する歓びは他のミュージシャンとその体験を共有することなんだ。ステージの上や審判の前で演ることじゃない。たとえば家であるチューンを覚えたとする。すると、誰か他にその曲を知らないか、といつも探しはじめるんだ。いればそれを一緒に演奏できるからね」216/217pp.

 1981年スライゴー生まれのフィドラーでシンガー Philip Doddy の言葉です。共有の確認。ある曲をともに知っていることの確認こそが歓びになります。だからユニゾンになるわけです。ハーモニーは不要、むしろ邪魔でしょう。

Philip Doddy
 

 あるいはアイリッシュ・ミュージックに限らず、音楽体験の根底にあるのは共有なのかもしれません。知っている曲で声を合わせるのも、同じヒット曲を聴いて盛り上がるのも、共有の一つの形ではあります。アイリッシュ・ミュージックではそれが最もシンプルで直截な形で露わになる、ということでしょう。

 さらに、共有は音楽だけではなく、あらゆる文化活動の根底にあるのかもしれません。その昔、植草甚一が本が好きになる理由を問われて、本の好きな友人がいること、同じ本をあれはいいよねえと確認しあうことで本当に良くなるんだ、と答えていました。

 アイリッシュ・ミュージックにもどれば、たとえばわが国でアイリッシュをやる時に心掛けることとして、バンジョー奏者シェイン・マルクロンの言葉(189pp.)はヒントになると思われます。かれのソロ《Solid Ground》は、かつてのマレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの《Ceol Aodh》にも相当する傑作です。われわれにアイリッシュ・ミュージックが生きてきた社会はありません。とすれば、何をそこに注ぎこむか。一つはその楽曲をこれまで演奏してきた過去の全てのミュージシャンへのリスペクト、感謝を込めること。もう一つは自分の生き様、どのように生きているのか、どんな人間を、人生を目指しているのかを込めること。そして、その音楽といつどこでどうやって出逢ったか、その曲のどこに自分は惹かれていて、演奏の中で何を最も表したいか。そうやって楽曲を自分だけのものに独占しようとするのではなく、あくまでも共有を目指すこと。

Shane Mulchrone

 

 この地域は楽器別のリストでも明らかなようにフルートとフィドルが特徴的ですが、バゥロンの伝統があったという記述もあります。1940年代の話らしく、当時「バゥロン」と呼ばれてはいなかったはずですが、興味深いところ。関連する録音など聴きながら読みこんでゆくと、さらにいろいろ面白い発見がありそうです。(ゆ)


 Samuel R. Delany, Letters From Amherst 読了。実に面白い。補遺は娘アイヴァ・ハッカー=ディレーニィへの10通の手紙。1984年から1988年までの、夏のキャンプに行っているアイヴァ宛のもの。すべて7月ないし8月。やはり日常の細かいことを書きおくる。アイヴァはこの時10歳から14歳までだが、文章は多少やさしくしてはあるものの、内容は本篇の大人向けのものとほとんど同じ。この手紙の時期は本篇に先立つもので、あるいはむしろこちらがマクラとして読まれるべきものかもしれない。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-04-17



 とりわけ面白いのはまず1986-07-20付。この時、ディレーニィはデヴィッド・ハートウェルに頼まれたか雇われたかして、Arbor House のオフィスで週3日原稿やゲラを読む仕事をしている。同じオフィスで働いている人びとの描写に、例によって大笑いする。こういうのが見えてしまうと書かずにいられないということか。同じことを当時同棲していたフランクにすでに話しているその上でアイヴァに書きおくっている。

 この手紙にはタイプ原稿が2種類添えられている。一方は最初の草稿でシングル・スペースでびっしりと打たれ、もう一つはダブル・スペースつまり一行アケで打ちなおしている。そしてどうやら実際に送ったのは二番目のものをさらに打ちなおしたものらしい。本篇の長い手紙も同様のプロセスを経ているのか。それともこれは娘への特別サーヴィスか。

 ディレーニィはまた見た映画についてもよく書いている。『エイリアン2』は封切と同時に見たが、その後、一緒に見に行こうと誘われて都合4回見た。幸い、面白いから助かっているという。とりわけ『バベットの晩餐会』には強い感銘を受けたらしく、内容を詳しくアイヴァに書いている。こうしてディレーニィが語るのを読むと、この話は映画で見るのが効果的にも思える。もっともディネーセンの小説はどれも映画になりそうだが。

 クラリオンやハートウェルがハーヴァードでやっているサイエンス・フィクション作家養成講座への参加についての記述も面白い。後者の生徒の一人に、テキサス出身の若い男がいて、スティーヴン・ドナルドソン、ジョン・ノーマン、ドリー・プレスコットの本しか読んだことがない。ハインラインやスタージョンの名前すら知らなかった。この講座へ来て、自分が読んできたものがひどいものだとみんなから散々言われている。ここで学ぶことで、これまで楽しんできたものが読めなくなるんじゃないかと思うと言う。ディレーニィはこれに対して、そうではない、学ぶことはこれまで楽しんできたことを楽しまなくなるためのものではない、と諭す。そうした本を楽しむことになにも問題はない。学ぶことでもっといろいろな本を楽しめるようになるのだ。

 これを敷衍すれば、これまで読んできたものの別の楽しみ方を発見できるかもしれない。

 あたしに言わせれば、ひどい本も読む必要はある。傑作ばかり読んでいては見えないこともあるのだ。ディレーニィだって、シモンズの『ハイペリオン』をひどいものだと言いながら、読んでいる。

 ディレーニィは若い頃から自分がゲイであることを自覚していて、マリリン・ハッカーとの結婚は「実験」だったらしい。しかし、この娘を持ったことはディレーニィにとっては非常に大きなプラスになっている。ここに収められた手紙にも、娘がいることの幸福感があふれている。

 この時期の最後、1980年代末にはディレーニィはすでにワープロを使っている。まだワープロをタイプ代わりに使っているわけで、だから手紙の形で残っているわけだし、こうして本にもなる。メールでもこういう長いものを書いているのか。それは本になって出ることがあるのだろうか。それとも、単純にまとめられて電子版で出るのだろうか。これはディレーニィだけでなく、20世紀末からの、メールがデフォルトの通信手段になって以降につきまとう問題ではある。SNS などでの発言はどうだろう。たとえば死後、Facebook の書き込みなどが一般公開されることになるのだろうか。ディレーニィの原稿などの文書類はボストン大学図書館が収集しているが、そこではネット上のテキストも集めているのだろうか。そういう心配をするのも、あまりにこれが面白いので、ぜひ他の時期、60年代、70年代、90年代残りから今世紀のものも読ませてほしいからだ。日記は出はじめたが、書簡集はどうだろう。できれば、誰か、たとえばハッカーやハートウェル、バトラーなどとの往復書簡も読みたいものだ。


 春だ。花が咲き、木の芽が萌えでている。このやわらかい黄緑がなんとも言えない。

 Show Of Hands, Beat About The Bush。公式サイトでは初のスタジオ盤とされている。本人たちの意識の中でもCDで出すのはカセットとはレベルが違うのだろう。前作のライヴから2年。満を持してもいる。それにしてはジャケットで顔を隠すのはどうなのだろうか。しかし、こうして見ると、フィル・ビアは昔から丸い。Where We Are Bound のジャケットなど、最近太ったなあと思ったのだが、そう言えば昔から太っていたので、その後特に肥えたわけではなさそうだ。

Beat About the Bush
Show of Hands
Imports
2014-01-21

 

 内容としては確かに文句のつけようもない。四半世紀前の録音だが、時の試練に耐えて、今聴いてもみずみずしい。その後定番のレパートリィになる The Galway Farmer(この farmer は網野善彦のいう「百姓」がぴったり) と Blue Cockade はやはり鮮かなデビューだし、ロックンロールの Cars には笑ってしまう。Armadas で無敵艦隊、フォークランド/マルビナス戦争の UK、アルゼンチン両軍をならべて歌うのは、フォーク・シンガーとしてのしたたかさだ。ナイトリィのオリジナルとビアの歌う伝統歌を重ねることもすでにやっている。The Oak は遥か後年のヒット曲 The Roots の原型と言ってもいい。どこか無気味で、しかもシビアなユーモアも秘めていそうな Shadows in the Dark や Day Has Come は、宝石の原石にも見える。

 ピート・ゾーンのサックスのジャズ風味、Biddy Blythe のハープのたおやかな味わいと、いろいろと試してもいる。Blythe は The Galway Farmer で達者なフルートとホィッスルも聞かせる。このホィッスルはパイプの Stefan Hannigan かと思ったら違っていた。ハニガンはここではバゥロンを叩いて、馬の駆ける様を出している。Nick France という人は他では知らないが、シャープなドラミングで全体を浮上させる。こういう音を出せるのはジャズの人かもしれない。ラルフ・マクテルの切りたった断崖のようなハーモニカはちょっと意外。

Steve Knightley: vocals, guitar, mandocello, cuatro
Phil Beer: vocals, guitar, Spanish guitar, mandocello, mandolin, fiddle, melodeon, viola, slide guitar

Pete Zorn: bass, alto & soprano saxophone
Nick France: drums, percussion, tea tray
Matt Clifford: piano
Biddy Blyth: harp, flute, whistle
Vladimir Vega: vocals, charango, zamponas
Ralph McTell: vocal, mouthharp
Mike Trim: vocals, percussion, bass
Stefan Hannigan: uillean pipes, bodhran

01. Beat About The Bush; 4:38
02. Class Of Seventy Three; 3:06
03. Armadas; 4:28
04a. Nine Hundred Miles
04b. Wayfaring Stranger {Trad.}; 4:16
05. Shadows In The Dark; 3:47
06. The Galway Farmer; 5:44
07. White Tribes {Matt Clifford}; 2:35
08. Day Has Come; 4:36
09. The Hook Of Love; 4:15
10. Cars; 3:51
11. Blue Cockade {Trad.}; 6:09
12a. Mr. Mays {Phil Beer}
12b. Gloucester Hornpipe {Trad.}; 4:05
13. The Oak; 3:05

All songs by Steve Knightley except otherwise noted.

Produced & mixed by Mike Trim @ Wytherston Studios

 昼前、駅前まで歩く。山桜があちこち満開。大山の後ろの丹沢の高いところが白くなっているのは雪か。昨夜の雨があそこでは雪だったのかもしれない。

 CDリッピング続行。ようやく新しく買ったものがすんで一段落。

 ヴァルザーの『ヤーコプ・フォン・グンテン』は集英社版、藤川芳朗の訳の方が『作品集』の若林恵のものより良いので、こちらを読むことにする。英訳も読んでみるか。

 Delany, Letters From Amherst、第5信。1991-09-24付。マンハタンからアマーストへ帰ろうと Port Authority へ行くとアマースト方面行きの乗り場には人があふれ返り、バス会社は1台で運行のところを3台にバスを増やす。週末のせいか。してみれば、少なくともニュー・イングランドから北の東部ではかなりバスが利用されているのだろう。

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04



 アマーストからマンハタンまでの4時間半の間に何をしているのだろうと思えば、この時はウォークマンで音楽を聴いている。この時期ならまだカセットのはず。聴いているのはハリィ・チェイピンの Short Stories、ヨー・ヨー・マのバッハ、無伴奏チェロ組曲、それにニルソン『ニルソン・シュミルソン』。途中、ヒスパニックの一団が後部座席を占拠し、キューバのゴスペルらしきものを歌っている。それがチェロとある時はハマり、ある時ははずれる。

Short Stories
Chapin, Harry
Rhino Flashback
2003-10-10


 

ニルソン・シュミルソン
ニルソン
BMG JAPAN
2002-07-24



 前信でメイン州まで行った時には、30そこそこの大工の男と知り合い、バンゴーまで一緒になる。この男の話はまるで1篇の短篇小説。映画にもなりそうだ。

 作家のエッセイで音楽の話が出てくるのはあまり読んだことがない。あたしが読んだことがないだけか。それにしてもディレーニィは音楽も聴き、映画、演劇、テレビを見、美術館に通う。読書量は言わずもがなで、やはりインプットの量の桁が違う。

 今回のメイン・イベントは BBC に委託されてアメリカの黒人サイエンス・フィクション作家についてのドキュメンタリーを16ミリで撮るためにやってきたほとんどがイギリス人からなるチームとのマンハタンでの撮影の話。当時アメリカの黒人サイエンス・フィクション作家といえばディレーニィとオクタヴィア・E・バトラーと Steven Barnes の3人だけだった。撮影チームはこれに加えてコミック業界で働いている人間も5、6人、入れようとしていた。カリフォルニアでのバトラーとバーンズの撮影の後、一行はニューヨークにやってきて、ディレーニィもそれに合わせてアマーストから出てゆく。マンハタンでのこの撮影の1日がまた抱腹絶倒なのだが、一つだけ、これは見たかったというシーンがある。まだ若そうな黒人の監督は、荒れはてたハーレムの街頭風景の中でディレーニィが自作を朗読するところを撮りたいと言いだす。たまたまカメラマンが数日前に行きあわせたところがあると言う。そこはガス爆発かなにかあったらしく、建物が半分倒壊し、残りの半分の中身が剥き出しになっている。ディレーニィはそこでたまたま監督が持っていた『ダルグレン』の一節を朗読する。それがまるでこの場に合わせて書いたかのようにハマる。

 見たかったと言えば、ディレーニィがアマーストで学部生のためにやっていた Introduction to Science Fiction の授業も受けてみたかったものだ。ウィリアム・ブレイクの詩 Auguries of Innocence、スタージョンの「極小宇宙の神」、ベアの「ブラッド・ミュージック」(中篇版)についての講義、その翌週のスタージョンの『夢見る宝石』と The [Widget], the [Wadget], and Boff についての講義を聞き、バトラーの「ブラッドチャイルド」とシェパードの「サルバドール」についての試験を受けてみたかった。そう言えばスタージョンもいたよなあ。読みちらかしていて、上記ノヴェラ、ディレーニィが a truly great little American novella と呼ぶものも読んでない。

 この書簡の宛先である Erin McGraw はこの当時は2年前に出た作品集でデビューしたばかりで、ジャンル作家でもなく、ディレーニィとの関係はわからない。ポール・ド・マンについては本人の著作を読むのが一番と書いたりしているから、マグロウの方からそういう問合せをしたのかもしれない。それにしても、前4信同様、細々とした日常を書いて知らせている。ちょっと不思議な感覚になる。(ゆ)

 溜まっていたCDのリッピングに精を出す。どうやっても読めないトラックがときたまある。ソフトを換えても同じだから、パイオニアのドライブの問題だろう。かつてはこういうものは古い iMac の内蔵ドライブで読みとっていたのだが、それは年末に処分してしまった。やはり代わりになるような「ゆるい」外付ドライブを探さねばならん。


 Samuel R. Delany, Letters From Amherst。3通め。1991-01-28。ここでのメイン・イベントは叔父 Hubert T. Delany が前年末12月30日に89歳で亡くなり、その通夜、葬儀が年明け1月2日、3日に行われたこと。この叔父はニューヨーク市の判事を勤め、その判決で市民権確立に努めたことで、死去に際しては New York Times に大きな死亡記事が載り、葬儀では市長からの感謝の言葉が朗読されるような人だった。一方で50代末から脳に異常をきたし、寝たきりになり、30年以上、ほとんど植物人間として過ごした。夫人は夫を自宅で通いの看護師の援助を得て、死ぬまで介護した。ディレーニィはアルツハイマーだろうと思っていたが、どうやらそうではなく、より複雑な病だったらしい。

 葬儀というのはどこでも同じで、会ったこともなかった親戚が現れ、長い間、無沙汰していて、相手が幼ない頃の記憶しかない若者たちに遭遇する。ディレーニィが若い頃、16歳くらいまで、誰かに初めて会うと、あなたはあのヒューバート・ディレーニィ判事の親戚かと訊かれるのが常だった。葬儀で会った若いいとこたちは、同じ状況で、あなたはSF作家のディレーニィの親戚かと訊かれると言う。

 ディレーニィの一族は長命でもあるらしく、葬儀には101歳や99歳で健在の故人の姉たちも、自分の足で歩いてやってくる。また一族の人間には独特のたたずまい、しぐさ、雰囲気があり、それは直接血がつながっていないはずの養子として育てられた人びとにも共通する。そしてその一族には判事、弁護士、医師、株式ブローカーなどがごろごろいる。教会での葬儀に参列しながら、ディレーニィはまるで威圧されているような気分になる。そして、マリリン・ハッカーと結婚した直後のある瞬間を思いだす。もし自分が最も摩擦の少ない道を選んでいたならば、大して努力することもなく、実入りのよい職業につき、順調にキャリアを重ね、かなりの物質的成功を収めていただろう、そして自分はそれに背を向けて、自分の才能に賭けることを選んだという事実を実感した瞬間だ。一部にはそれは名声のためであり、その点ではささやかながら成功したかもしれないが、自分のことをチップではなくサムと呼ぶ人びとの圧倒的でさりげない富の提示の只中にいて、ディレーニィはおちつかない気分になる。そして、そのおちつかない気分をおもしろいと思う。

 自分の中のおちつかない気分をおもしろいと思えるというのが、作家としての才能ということだろう。あるいはバラカンさんの言う「自虐的」self-deprecating に通じるものだろうか。ディレーニィは徹頭徹尾アメリカンで、イングランド人と同じ感覚というわけではないだろうが、効果としては同様な作用にも思える。普通ならマイナスの効果をもたらすような文章にユーモラスな要素がからんで、ポジティヴな印象に反転するのもこの能力の故かもしれない。

 チップ・ディレーニィの生まれるのが5年でも早いか遅いかしていたならば、おそらく作家は誕生しなかったのではないか。作家はチップ個人と時代の相互作用の産物だろう。The Motion Of Light In Water 巻頭のあの18歳の写真の眼光の鋭さは、一族の備える巨大な慣性に抗おうとするところから生まれてもいたのだ。『アプターの宝石』から『ノヴァ』にいたる1960年代の奔流のような創作活動の背後でも、同じ反抗精神が働いていたはずだ。

 きらびやかな一族の中でのおちつかない気分をおもしろいと思う中には、そうした「若気の至り」への想いもあるように見える。

 一方でディレーニィは18歳で、葬儀屋を営んでいた父親と死別している。そのこともまた、一族からの離脱の後押しになっていたはずだ。「父は1958年、ぼくが17歳の時、肺がんで死んだ」。問われればそう答えるのが常だった。ディレーニィ個人の記憶の中ではそうなっていた、というのは示唆的だ。(ゆ)

Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04



 1400から1630過ぎまで ICF 春の講座のための Zoom でしゃべる。30分休憩は入ったが、2時間びっちりしゃべるとくたびれる。無事終ってほっとする。

 Delany, Letters From Amherst の2通め。1990年5月。劇画の Bread & Wine, 1999 に描かれた Dennis Rickett との出逢いと同棲の話。

Bread & Wine: An Erotic Tale of New York
Delany, Samuel R.
Fantagraphics Books
2013-07-19



 デニスはその後現在にいたるまでのパートナーとなるのだから、ディレーニィにとっての人生の転回点の一つでもある。あの劇画はこの手紙が「原作」だったのだ。ディレーニィがホームレスたちと日常的に交際していることもわかる。つまり、かれはホームレスを対等の存在、同じ世界に住む人間として、たとえば同僚の大学教授やオペラの演出家といった人びととまったく同等とみなしている。そういうことが可能なのは、やはり差別されてきたからだろうか。ひとつにはニューヨークの社会のホームレスへの態度が排他的ではないこともあるのかもしれない。駐車違反見回りを見張るためにデニスを雇っている人間もいる。デフォルトで排除しない。この点はわが国とは対照的だ。アマーストのマサチューセッツ大学の学生や教授たちの知的レベルの低さにうんざりし、滅入るのも、同じことの別の面だろう。手紙の最後に描かれた、ニューヨークの  The Whitney Museum のガイドの一人、若い白人女性の美術学生の見事なガイドぶりに感動するのもまた、同じことのさらに別の面だ。彼女はほとんどが黒人やヒスパニックの子どもたちに、展示されている絵の最も目立つ特徴を示し、そこからより目につきにくい要素へと導いて、絵の勘所とその見方を伝授している。しかも、この絵というのは20世紀アメリカの抽象画家 Willem de Koonig の "Women" のシリーズだ。子どもたちは夢中になって話を聴き、絵を見ている。その様子に、ここでこそ学びが働いているとディレーニィは感動し、涙を流す。自分には教師としては、ここまでは到底できないとも認める。
 
 これに関連するとも言えるが、デニスとアマーストからニューヨークにもどったある雨の日、ディレーニィはある交差点で歩道ぎりぎりに突込んできたヴァンに接触して、軽く飛ばされる。左下の肋骨に罅が入っただけだったが、危ない危ない。

 それにしても、ここでもやはりユーモアが底流にあって、この事故の話とか、デニスの足の臭さの描写とか、『ベオウルフ』を古英語で暗誦するしか能のない老教授の話とか、思わず笑ってしまう。ひょっとするとこのユーモア、ものごとを肯定的に表現する明るさはディレーニィの本質的なところなのかもしれない。


Letters from Amherst: Five Narrative Letters (English Edition)
Delany, Samuel R.
Wesleyan University Press
2019-06-04


 安田さんが古希と聞いて愕然とした。が、何も驚くことはないわけだ。人は誰しも年をとる。むしろ、古希を迎えても、「楽しいのは、これからですよ」と言い切るポジティヴな姿勢にならいたい。年寄りがこう言うと、ともすればそれで自らを鼓舞しようという、どこか白々しい大言壮語に響くのだが、ここでの安田さんの言い方にはまるで無理がない。ごく自然に、心底そう思っていることが伝わってくる。実にいい年のとり方をしている。年寄りはすべからくこうありたい。そう、いろいろな意味で、今は転換の時期であり、ゲームに限らず、面白いものがどんどんと出てきているし、これからも出てくる。お楽しみはこれからなのだ。と、大いに励まされる。

 あたしはゲームには縁が無い。安田さんより5歳下の世代として、一通りはやっている。モノポリーは難しそうで手が出なかったが、バンカーズは友だちの家でやった。将棋、軍人将棋、五目ならべ、双六、野球盤、トランプ。花札は身近にやる人がいなかった。麻雀は大学に入ってから。しかし、どれも一通りで、のめり込むことはなかった。大学2年の時、周囲でトランプの「大貧民」が流行し、ヒマさえあれば、時には講義をさぼってもやっていたのがゲームというものに最も入れこんだ時だろう。

 ということで、本書の後半、ベストゲーム101はあたしには猫に小判である。不悪。

 一方、前半、安田さんの自伝は実に面白い。一番面白いところはまず金の使い方の巧さだ。たとえば45頁。ドイツの Funagain Games から大量にゲームを買った。あまりに量が多いので、あんたはいったい何者だと不審に思われる。ドイツのゲーム大会に行って、中古ゲームを山のように買う。日本へ送る送料だけで十数万。

 あるいは56頁。

 コロナで給付金がもらえたので、ここは時代が暗いから、パァーっと使おう。何に? ミステリーをこのところ趣味で読んでるから、論創ミステリーシリーズの残ってる100冊ほど買えば、それくらいになるんじゃないか。で、買っちゃうわけです。

 1960年代70年代のアメリカSFのペーパーバック・コレクションでは日本一ではないかと思うと、安田さんご本人から伺ったこともある。

 こうしたまとめ買いをすれば、中身は当然玉石混淆になる。そこから玉を拾いあげるのも楽しいが、それとは別に、ミソもクソもひっくるめた全体から見えてくるものがある。全部読めるはずもないが、読まなくても見える。ただし、それはとにかく全部を手許に置いてみなければ見えてこない。そして、そこで見えてくることが、実は玉だけを拾いあげるよりも大事なことなのだ。玉だけを見ていては見えないものの方に、一番のキモがある。ものごとの本質は玉よりも石ころの方により剥出しに現れる。あたしにこのことがわかるのは音楽の方面でたまたま同様の体験をしたからだが、それはまた別の話。

 もう一つ面白いのは、あるものが流行っては引き、流行っては引く、その繰返しと、安田さんがそれに対処し、次の波を呼ぶ努力をし、そして幸運に恵まれて次々と波を乗りこなしてゆく有様だ。幸運に恵まれたことは確かだが、幸運というのは努力をしている者にしか訪れない。別の言い方をすれば、努力をしていることで初めて幸運をモノにできる。

 流行に対して、わが国の出版社が一時にどっと集まり、去ったとみるとぱっと引くのも、本書ではからずも強調されていることだが、こういう「打って一丸となる」反応がいかに危ういか、わが国出版の現状にモロに現れているのではないか、と愚考する。先進国のみならずインドなども含め、出版がここ数十年、全体として売上を減らしているのはわが国だけだ。その原因はむろん単純であるはずもないけれど、何でも他人のやっているのと同じことをやらないと気がすまない性格は、少なくともその小さくない要因の一つではないか。他の何にも増して、出版という活動は多様性が大きいことにその生命がかかっているのだから。

 狭い国内の波の寄せ返しにばかりとらわれるのではなく、広く世界の動きに目を配り、他人のやらないことをやること、選択肢の幅を広くとることが、次の波を呼びこむための秘訣であることは、本書に描かれた安田さんの行動に明らかだ。

 今のところボードゲームの時代のように見えるが、これがずっと続くものでもあるまい。波は引いては返すとともに、満ちては退く潮つまり周期がある。一周回ってRPGがまた来るかもしれない。たいていは、もどってくる時にはまったく同じ姿ではなく、その間に現れたものと何らかの形で折衷している。コンピュータ・ゲームもますます盛んなようだし、新しいボードゲームとコンピュータの合体、たとえばARを使ったボードゲームも現れるだろう。いずれにしてもやはり好きこそものの上手なれ。好きなものにこだわるのがベストだ、と本書にはあらためて尻を叩かれる。

 好きなものにこだわる、というと、何か必死になってしがみつくようなイメージを抱かれるかもしれない。それはまったく反対のイメージであることは強調しておこう。実際には、好きなものにこだわるのは最も無理のない、自然なことである。あるいは、最も無理のない、自然なことをしていたら、こだわっていたことになった、と言うべきか。そうでなければ、どこかで無理をするならば、必ずうまくゆかなくなる。ただし、無理のない、自然なことをするのは必ずしも楽なことではない、というだけのことだ。時にそれは孤立したり、逆行したりするように見えることもある。それでも好きなものの呼ぶ声に素直に忠実に従うのは、生きてゆくことの醍醐味ではないか。

 もう一つ、ここには重要な教訓がある。少なくともあたしにとっては、あらためて肝に銘じるべき教訓がある。全体像を摑むのにコレクションの充実は必須だ。しかし本当にモノにするには、デターユに分け入らねばならない。すなわち、本は読んでナンボ、ゲームは遊んでナンボ、なのである。本書40頁、積んであったボードゲームの面白さにひっくり返るところ。時間がなくて遊べもしないゲームを買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に遊んでみなければ、面白いことはわからない。読めもしない本を買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に読まねばその面白さはわからない。

 折りしも、今、翻訳のファンタジーは売行不振のどん底にあるそうだ。これまた原因は単純ではないが、『ハリポタ』やGOTで我も我もとファンタジーに集まった反動という面も大きそうだ。しかし、あたしは今、ファンタジーに強く惹かれる。というよりも、読みたいと思う本がなぜかどれもファンタジーなのだ。もっとも科学は十分に発達すれば魔法と区別がつかなくなるというフリッツ・ライバーの言葉もある。SFはテクノロジーの装いを凝らしたファンタジーだ。サイエンス・フィクションが本当に面白くなるのは、科学の現在から飛躍するところだ。超光速飛行であり、時間旅行だ。どちらも科学からすれば不可能だからこそ、サイエンス・フィクションの最も強力で柔軟なツールになる。という議論はとりあえず脇に置いて、あたしはとにかく読みたい本、読んでくれとしきりに呼んでいる本を読むことに精を出そう。読んで面白ければ、報告もしよう。読まずには死ねない本は山のようにあり、日々増えつづけている。(ゆ)

安田均のゲーム紀行 1950-2020
安田 均
新紀元社
2020-12-12


 今年春の ICF のプログラムが発表になっています。

 あたしが担当するのは初日03/11午前中、10:00〜11:50の「アイリッシュを知るクラス〜意外と知らないアイリッシュ音楽の過去〜」です。

 副題としては「録音でたどるアイリッシュ・ミュージックの歩み〜蝋管録音から現在まで」を考えてます。今回は歌は脇にとって置き、主に器楽演奏の話です。両方やる時間は無いので。とはいえ、いくつか歌は否応なく入ってきますけど。

 以下は今考えている筋書きです。これから音源を再度聴いて検討するので、まだ中身は流動的です。聴く音源も変わるかもしれません。また、公式サイトの紹介では前半、後半に別れてますが、あたしとしては連続の話としてするつもりです。むろん、片方だけ参加されても問題はありません。ただ、きっちり予定どおり行くことはまず無いので、今のところアルタン以降を後半にするつもりですが、実際には進行状況によって前後したり、すっ飛ばしたり、ということもありえることは念頭に置いてください。


〇録音以前をざっくりと
神話
歴史文献
ハープ伝統

〇蝋管録音
Patsy Touhey
1901, The Sword In Hand - Reel, from "The Piping Of Patsy Touhey"

〇SP録音
コールマン、モリスン、キロランたち
1920-30s, from "Past Masters Of Irish Fiddle Music"

〇LP録音
1959, Paddy Canny, P. J. Hayes, Peadar O'Loughlin & Bridie Lafferty
from "All-Ireland Champions - Violin"

〇ショーン・オ・リアダ
1962, Sean O Riada & Ceoltoiri Chualann
from "Reacaireacht An Riadaigh"

〇プランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナン
1973, Planxty
Raggle Taggle Gypsy> Tabhair Dom Do Lamh, 1st or the live track

1975, The Bothy Band,
from "The Old Hag You Have Killed Me"

1975, De Danann,
from "The Best Of"


〇アルタン
1983, Mairead Ni Mhaonaigh & Frankie Kennedy,
from "Ceol Aduaidh"


〇ケルティック・タイガーに乗って
1990, Patrick Street
Music for Found Harmonium from Irish Times

1994, Sharon Shannon,
from "Out The Gap"

1995, Riverdance
初演キャストのビデオ冒頭, 7:30


〇ダーヴィッシュとルナサ
1993, Dervish
from "HARMONY HILL"

1998, Lunasa
1st or the live track


〇前衛と伝統
2018, The Gloaming
from "Live At NCH"

2018, Shane Mulchrone
from "Solid Ground"

 最後に質疑応答の時間はとる予定です。まあ、午後のクラスで見たいものもあるし、その辺をうろうろしてるでしょうから、つかまえてくれてもかまいません。事前に質問・要望などを送られるのも歓迎です。

 それと、ICF は大学生主体のイベントですが、参加資格に制限は無いそうです。有料ではありますがね。(ゆ)


2020/01/26追記
 参考文献としてはあたしが書いた本があります。これを読んで、あげてある音源を聴けば、ここでしゃべることは最新の部分を除いて、ほぼほぼカヴァーできます。



 F&SF すなわち Fantasy & Science Fiction, さらに正確には The Magazine of Fantasy & Science Fiction がこの秋創刊70周年を迎え、最新号はその記念として All-Star Issue になっている。久しぶりに Robert Silverberg の名前が表紙にあって、何を書いたのかと見てみたら、小説ではなくエッセイだった。

F&SF745


 "Three Scores and Ten" 直訳すれば「20の3倍と10」だが、これは日本語で言えば古希にあたる年齡を表す決まり文句。そう題されたエッセイは70年前、まだ作家になる前、10代前半のシルヴァーバーグがこの雑誌の創刊を知り、いかにそれを待ちこがれたか、から回想している。35セントという定価が当時、いかに高く、清水の舞台から飛びおりるつもりで買ったかということ。The Magazine of Fantasy と題された創刊号はあまり好みではなかったが、The Magazine of Fantasy and Science Fiction とタイトルの変わった2号、3号と読むうちに無くてはならぬものになったこと。そして早速に作品を送り、当然のことながらてんで相手にされなかったこと。次々に送るうちに、返却される原稿に付いてくる断り状がはじめは印刷された定型のものだったのが、やがて編集長アンソニー・バウチャーの手書きのものになり、ついにはもう一息だから次作を期待するという返事をもらったこと。直後、ニューヨークのコンヴェンションでバウチャー本人に会え、あらためて励まされたこと。帰って書き、送った作品に対して、ついに、とうとう、採用を知らせる手紙が来たこと。そこにはこれを皮切りに、多数の作品を期待すると書かれていたこと。1957年5月号にその短篇 "Warm Man"(未訳)が掲載され、表紙に自分の名前が出たこと。

FSFMay1957


 シルヴァーバーグが F&SF に発表した作品はしかし多くはない。長篇2本に中短編が12本だ。しかし中短編のうちの1本は Born with the Dead で、掲載されたのはシルヴァーバーグの個人特集号だった。長篇の1本は Lord Valentine's Castle で、単行本に先立ち、4回にわたって分載されている。

FSFAPR74


 個人特集号の話が来たときのことは、OTHER SPACES, OTHER TIMES (2009) で別に回想している。F&SF の個人特集号は新作、第三者による論評、そして当時までの詳細な書誌を掲載するもので、表紙ももちろん本人を描く。その数は少なく、対象となったのは例外的な書き手だ。1974年という時点でその対象に選ばれたことはシルヴァーバーグにとっては一握りのトップ作家の1人として認められたことだった。その抜擢に応えて書いたのが Born with the Dead、邦訳は佐藤高子さんによる「我ら死者とともに生まれる」。1960年代に新生シルヴァーバーグと呼ばれた大化けをしたかれがさらに一段、作家としてのレベルを上げたものであり、生涯の代表作の一つとなった。この結末の部分は、妻とともに映画を見ていて思いつき、上映の終った映画館の座席で一気に書きあげたという。




 『ヴァレンタイン卿の城』は1980年代開幕とともに登場し、マジプーアのシリーズの幕を切って落とした。シルヴァーバーグの厖大な作品群の中で、一つだけ挙げよと言われれば、ためらわずにこのシリーズになるだろう。ルーシャス・シェパードと同様、あるいは同期のエリスン同様、シルヴァーバーグもシリーズ化をはじめから意図して書くことをしていない。そしてこのシリーズも2本の長篇よりも、2冊にまとめられている中短編の方が面白かったりする。

FSFNOV79


 F&SF 初登場が1957年という、かれのキャリアの中で早い時期であるのも興味深い。シルヴァーバーグのプロ雑誌デビューは1954年、19歳の時で、この年は2本。翌年も2本。その次、1956年が大当りの年で、一気に54本にジャンプする。3年めの1957年には実に85本の作品を発表している。2週間に3本だ。その中にこの1本がある。次に F&SF に載るのは1958年2月。さらにその次は5年あいて、1963年2月のショートショート、さらに5年あいて1968年10月のノヴェレット。この時はもうニュー・シルヴァーバーグになっていたはずだ。

 「小説工場」の異名をとり、各種ペンネームを使い分け、同じ雑誌の同じ号に複数の作品が載ることはごく普通で、時にはある雑誌の1冊まるまる全部かれの作品だけで埋まっていたこともある、その中で F&SF デビューを果している。F&SF は作品の質の高さがウリであり、そこに採用されるようシルヴァーバーグが必死になったのもそのためだ。かれは生活のために書きなぐりながら、当初からクオリティのより高い作品を書こうと努力していた。1960年代半ばにフレデリック・ポールの Galaxy 誌を舞台にそれまでとは見違えるように質の高い作品を書き出し、New Silverberg と呼ばれたのは突然変異ではなく、下地はすでにできていて、チャンスを待っていたのだ。

 おそらくシルヴァーバーグだけではなく、エリスンにしても、ギャレットにしても、シェクリィにしても、当時の若い書き手にとって、F&SF誌は作家としての技量と器を磨き、作品の質を高めるための動機となってもいたのだ。こういう存在、これもロール・モデルと呼べるだろうが、それもまた今の時代には消えようとしているものの一つだ。とはいえ、小説、ここではサイエンス・フィクション、ファンタジィ、ホラーの小説とりわけ中短編ではオンライン・マガジンを含めた雑誌は選抜システムとして、フィルターとして機能している。代表的なオンライン・マガジンである Clarkesworld に送られてくる原稿の数は毎月1,000本を下らないというのだから。(ゆ)

 ヴァシーリー・グロスマンを読もうとして、待て待て、その前にスターリングラード攻防戦について基本的なところを押えるべし。とて、Anthony Beevor の Stalingrad, 1998 を知る。邦訳もある。軍隊用語、組織名は手に負えるものではないから、邦訳に如くはなしと手にとってみると、うん、なんだ、これは。どうも、うまくない。解説に、原書は readability で評価が高いとあるが、邦訳は読みやすいとはとても言えない。ごつごつとひっかかる。アマゾンの読者評でも翻訳の読みにくさを指摘しているものが複数あるから、あたしだけのことでもあるまい。

 これはどうもやはり原書にあたるしかない。と、Penguin トレード・ペーパーバック版を入手する。こちらは確かに読みやすい。軍隊用語も気にならない。すらすらと読める。これほど違うと、どこがどうなって、こういうことになるのか、気になってくる。そこで本文最後の一節を比べてみる。文庫版581頁。


 スターリングラードでパウルスに対抗したチュイコフ将軍の第六二軍は、第八親衛軍として長い道のりをベルリンまで進軍した。チュイコフは占領軍の総司令官となる。彼はソヴィエト連邦元帥に昇りつめ、あの危機を迎えた九月の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防省代理にもなった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士には墓標のある墓はない。統計の上でも彼らは他の戦闘の死者に紛れこんでいる。そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう。


 これはこの長い話の最後の結論だ。

「そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう」

 この「そこ」は何を指すのか、どうにも腑に落ちない。この段落に書かれたことのどこに「ある種の正義」が存在するのか。チュイコフが栄達したことか。他ならぬフルシチョフに引き立てられたことか。まさか、チュイコフの命令で射殺された兵士たちが、墓もなく、記録からも抹殺されたことが「正義」だとは言うまい。原文はどうか。


  His opponent at Stalingrad, General Chuikov, whose 62nd Army had followed the long road to Berlin as the 8th Guards Army, became commander of the occupation forces, a Marshal of the Soviet Union and deputy minister of defence under Khrushchev, who had appointed him on that September night of crisis by the Volga.  The tousands of Soviet soldiers executed at Stalingrad on his orders never received a marked grave.  As statistics, they were lost among the other battle casualties, which has a certain unintended justice.

Penguin Books, 1999, 431pp.

Stalingrad
Anthony Beevor
Penguin USA (P)
2000-05



 「統計の上でも〜」以下はカンマ付き関係代名詞で結ばれた一文。したがってここでの justice は処刑された者たちが処刑された犯罪者として勘定されているのではなく、他の戦闘とはいえ戦死者として扱われていることを明瞭に示す。戦争において、この違いには天と地の開きがあろう。

 そこで明らかになるのは、「統計の上でも」の「でも」が問題であること。この「でも」によって、墓の無いことと戦死者に数えられていることが同様の性格を備えたひとまとまりのものに解釈される。原文では全く別のことがらが、訳文ではまとまって読める。

 墓の無いことは「正義」ではない。しかし、原文ではこのことと、戦死者に数えられていることは別のこと、というよりも対立することであり、ここは「統計の上では」と訳さなければならない。「も」と「は」の違い、細かいことではあるが、文章のつながりの上では鍵を握る。

 ここでなぜ「でも」にしたのか。その方が日本語として通りが良いと判断したのか。しかし、本来、ほとんど対極にあることがらをあたかも同じ範疇に属することのように訳してしまうのは、誤訳と呼ぶのは酷かもしれないが、明白な誤訳よりも質が悪い。

 段落の最初の訳文にも文句をつけたくなる。この段落前半全体の主語はチュイコフである。チュイコフが梯子を一段ずつ昇って、栄達する。訳文はチュイコフが率いた軍を主語にすることで、この流れを断ち切った。カンマ以下の関係代名詞が導く従属節を独立させて前に置いて、チュイコフが上がってゆく姿を押し出そうとした、と一応見える。が、その後で、ベルリンでのことを独立の文にした。文章の流れがここでもぎくしゃくする。

 「あの危機を迎えた九月の夜」。「迎えた」は原文に無い。「迎えた」を加える理由は見当らない。訳文の調子を整えるためとも言えない。むしろ、これを加えたことで、原文の備えている緊迫感が削がれる。原文はリズミカルに畳みかけて、まさに危機だったのだよ、あの夜は、という感覚を伝える。例えば that night of crisis in September では無いのだ。こうであったら意味は同じでもリズムが無くなる。加えて「危機を迎えた九月」では、第三者の視点が忍びこみ、さらにのんびりしてしまう。チュイコフもフルシチョフも危機の当事者である。そこが薄れる。

 もう一つ、「期せずして」。「期せずして」は通常「期待していないにもかかわらず」を意味する。すると、この「期せずして」の主語は後世の人間、ひいては我々読者であろう。しかし、原文では intend していないのは読者ではない。ソ連の軍ないし政府である。この場合、「期せずして」と訳すのは誤訳と言うべきだろう。

 これらを踏まえて改訂してみる。


改訂案
 スターリングラードでパウルスの相手となったチュイコフ将軍は、第六二軍から第八親衛軍となった部隊を率いて長い道のりをベルリンまで進軍し、占領軍総司令官となり、ソヴィエト連邦元帥となり、あの九月の危機の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防相代理となった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士に墓標のある墓はない。統計の上では彼らは他の戦闘の損害に紛れこんでいる。それは意図したものではないにせよ、正義といえよう。


 「統計の上では」の前に「とはいえ」あるいは「一方、」と入れたいところではある。その方が原文の意図を明瞭にする。しかし、著者はここでそれに相当する言葉を入れていない。入れてもおかしくはないところに入れていないことは、訳者として尊重しなければならない。

 まあ、しかし、そもそもこの訳文があるからこういう分析もできるので、白紙で渡されたら、あたしでもチュイコフにかかるカンマ以下の関係代名詞による従属節を独立させていたかもしれない。

 というわけで、まさに、期せずして、翻訳の勉強をさせてもらうことになった。回り道せずにまっすぐグロスマンにとりかかっていたら、この勉強はできなかった。

 とはいえ、こんな回り道ばかりしているから、肝心のグロスマンがなかなか読めない。(ゆ)

 新宿の朝日カルチャーセンターでのアイリッシュ・ミュージックの講座が1週間後になりました。ようやく材料がそろってレジュメを作ってます。申込はこちらをどうぞ。

 手許にある材料でやるつもりでいたら、その材料が出てこない! 昨年、家のリフォームをしたりして、荷物をまとめて預けたり、あちこち動かしたりしたせいか、とにかく、いろいろなモノが行方不明になってます。CDやDVDだけでなく、本も、あれはあったはずだ、さあ読もうとするとまったく見つからないことが続いていて、いささかまいってます。

 こういう講座となると、無いではすまされないので、やむなくあらたに買いこんだりしてますが、まったく「ギャラより高い資料代」(「屋根より高い鯉幟り」のメロディで)。

 直前になって、材料を入れ換えたりもして、せっかく買ったものをはずしたり、まったく我ながら、何やってんだか。

 当日、一緒に見たり聴いたりしようと思っているのは、以下のような動画、録音です。

01. モダン・アイリッシュ・ミュージックの開幕
Planxty
〈Raggle Taggle Gypsy; Tabhair Dom Do Lamh (Give Me Your Hand)〉
1973

02. 無伴奏歌唱——英語
Rosie Stewart
〈Do Me Justice〉

03. 無伴奏歌唱——アイルランド語=シャン・ノース
Darach O Cathain
〈Oro, ‘Se Do Bheatha Abhaile (You’re Welcome Home)〉

04. マウス・ミュージック
Dolores Keane & John Faulkner
〈Mouth music〉

05. シャン・ノース・ダンス
Paidí Bán Ó Broin & Dessie O’Connor, Dublin

06. ホィッスル
Dennis O’Brien
Ni ar Chnoc no ar Isleacht (Not on a High Place nor on a Low Place)> Finbarr Dwyer’s Reel

07. イリン・パイプ
Gay McKeon
Bean Dubh a Ghleanna (Dark Woman of the Glen)> The Ace and Duece of Piping

08. セッション
Denis Murphy, Kerry & Ted Furey, etc.
Lucy Campbell’s Reel> The Sligo Maid

09. ケイリ・バンド
Paddy Canny: fiddle
P. J. Hayes: fiddle
Peadar O’Loughlin: flute
Bridie Lafferty: piano
Rolling In The Barrel> In The Tap Room> The Earl's Chair

10. 伝統の最先端
The Gloaming
The Sailor's Bonnet> Rolling In The Barrel> The Tap Room> Tom Doherty's


 プランクシティのは TG4 で放映されて、YouTube に上がっているライヴ映像です。まったく、こんなものが見られるとは、すごい時代になったもんです。と言っても、なかなかわかってもらえんでしょうなあ。ほんとにこうして見てても信じられない。だいたい、撮影していたとはねえ。これは例のドノヴァンのアイルランド・ツアーに前座として同行したときのもので、ダブリンとあります。このツアーの最初のコークでのライヴの録音が、クリスティ・ムーアの2004年のボックスセットに入っていて、最初に聴いたときはほんとうに仰天しました。このバンドのアイルランドにおける衝撃の大きさがようやく実感されました。だいたい、この時、ドノヴァンを見に来た人たちはイリン・パイプなんて、それまで見たことすらなかった。まあ、そういうものがある、あった、というのはどこかで耳にした人もいたかもしれない。しかし、こうやって映像で見ると、やあっぱり、カッコいいんですよねえ。

 それと、ドーナルの弾いてるブズーキがまだラウンドバックであるのも面白い。ただし、8弦4コース。アレック・フィンが初期に弾いてたのはレコード・ジャケットでは6弦3コースで、そのあたりも、二人の奏法の違いになってるのかも。

 それにしても、ここまでになるには、相当いろいろ試行錯誤したりしたはずです。もちろん、Sweeney's Men もあったし、クリスティの《PROSPEROUS》もあったし、ライヴやリハーサルや、そこまでいかない遊びみたいなものは結構やってたんでしょうけどね。そう、あの〈The Mouth of the Tobique〉のアレンジを、シャロン・シャノンやナリグ・ケイシーたちが、来日した時の杉並の公会堂の楽屋できゃあきゃあいいながら作ってった、というのと同様な光景が、たぶんあの頃のダブリンあたりのパブかどこかの地下室でくりひろげられていて、ドーナルやアンディやリアムたちが、わいわいいいながら作ってったんだろうなあ。

 タイトルの「真髄」というのは、前にも書きましたが、見よ、聞け、これが真髄なるぞよ、というんではなくて、あたしが真髄に触れてる、真髄が降りてきていると感じるものという意味で、今回見たり、聴いたりするのは、どれもそういう体験をさせてくれるものです。少なくともあたしにとっては。

 材料としてはまずいいかなと思ってますが、問題はこれで90分、質疑応答の時間もとるので、実質70分でまとめられるのか。あたしはどちらかというといつもおしゃべりが多すぎるので心配。話ベタなくせに、たくさんしゃべりたがるんです。自分でもわかってますが、直すのはたいへん難しい。とにかく、しゃべりはなるべく短かく、簡潔にと心がけるしかないですが。

 ということで、アイリッシュ・ミュージックとはどんなもんだ、どこが面白いのだ、と思ってる方は、ここは見てないでしょうけど、そういう人が周りにいたら、ものは試しに行ってみたらと薦めてみてください。(ゆ)



 いやあ、めでたい。ようやく出てくれました。ほんとはちゃんと全部読んでからレヴューすべきでしょうが、嬉しくて、とにかく紹介だけしときます。安い本ではないけれど、いやしくもアイルランドに関心があるならば、一家に1冊。せめて、地元の図書館には購入希望を出しましょう。

 これまで日本語で読めるアイルランドの通史としては、『アイルランドの風土と歴史』ぐらいしかまともなものは無かった。序章で上野も言うとおり、「イギリス史」の付録でしかなかったわけです。今さら「国別」の歴史かとおっしゃる向きもあるかもしれんけど、国よりも地域として見ればそれなりのまとまりもあるし、なにより把握がしやすい。宮崎市定の言うとおり、志は世界史でも、いっぺんに世界の歴史を書いたり読んだりするわけにもいかんわけで、宮崎が中国という空間の歴史を書いたように、アイルランドという空間の歴史をまずは読みましょう。

 それにしてもこれまでアイルランドの通史が出なかったのは、研究者がわが国にほとんどいなかったため、という上野の指摘にはなるほどと思いました。その昔、音楽からアイルランドの歴史に関心が湧いたとき、日本語で読めたのは松尾太郎と堀越智の本ぐらい。文学研究はたくさんあったけれど、歴史の本はとにかく無かった。松尾は経済史、堀越はノーザン・アイルランドが対象で、各々に面白くはあるけれど、全体像や、近代以前の歴史を知りたいと思うと、役に立たない。

 上野格と故堀越智の両氏は同い年で、あたしの親父の世代ですが、こういう本を出せるのは感無量ではないかと拝察します。

 面白いのは女性の執筆者が多いことで、これほど女性が多いのは、他の歴史の分野でもあんまりないんじゃないか。あたしは大いに言祝ぐことだと思います。こないだ、グレイトフル・デッド関係で Rosie McGee の Dancing with the Dead-A Photographic Memoir をすこぶる面白く読んだんですが、女性から見ると見えることや感じることが男性のものとはやはりまるで違ってくるんですよね。

 アイルランドの歴史の場合は女性が進出しているとして、スコットランドの歴史なんて、どうなんでしょう。うーむ、しかしスコットランドやウェールズの歴史をわが国で研究するのはこうしてみるとなかなか大変かもしれませんね。「イギリス史」に呑みこまれちまう。アイルランドは島が別だからまだやりやすいところがある。この「世界歴史大系」のシリーズで『スコットランド史』とか『ウェールズ史』が出るなんて、まずありえない。

 それはともかく、近現代ばかりでなく、古代や中世を研究する人が出てきてくれたのは嬉しい。この本で何がありがたいといってあたしとしては第一章と第二章が一番ありがたい。あのややこしい中世の様相をぱっと一望のもとに見せてくれるんじゃないか。とともに、アイルランド語固有名詞の日本語化です。これでとにかく一応の基準ができる。それにしても「ブリアン・ボールヴァ」ですか。そりゃあ、「ブライアン・ボルー」は英語名ですけどね。皆さん、これからは「ブリアン・ボールヴァ」でっせ。

 もう一度それはともかく、クロンターフの戦いはヴァイキングと「アイルランド王」ブライアン・ボルーが戦って「外国勢力」を撃退したわけじゃあない、あれは国内対立の延長だとちゃんと書かれていて、あたりまえと言やああたりまえなんだけど、胸がすっきりしました。

 蛇足だけど、『アイルランドの風土と歴史』が参考文献に上がっていないのは疑問。そりゃ、学術的には深いものじゃないかもしれんけど、原書の執筆者たちは当時のアイルランド史学界トップの人たちだし、日本語としてはとにかくこれが唯一の頼りという時代が長かったんだから、わが国におけるアイルランドの歴史像形成に一役かっていることは否定できんと思うんですが、どうでしょう。参考文献はそういうもんじゃないと言われればそれまでですが。

 一方であたしが訳したテレンス・ブラウンのアイルランド現代文化史が入っていて、もちろんあたしのせいじゃなくて、原書が優れているからですが、日本語ネイティヴのアイルランド史研究にあたしも僅かながら貢献できたかと思うと、ちょっぴり嬉しい。

 それにしても、政治・経済中心で、文化史、社会史の視点がほとんど無いらしいのはねえ。補説で少し補われているとはいうものの、うーん、ちょっとなあ。これまた、そういう研究をしている人がいない、または適当な執筆者がいないのかもしれませんし、スペースの余裕が無いのもあるんでしょうけどね。音楽を歴史の文脈で研究するのが難しいのもわかります。とはいえ、ハープが国の紋章になるくらいなんだから、補説の一つぐらいはあててもよかったんじゃないですかねえ。それこそハープが国の紋章になるのはどういう経緯で、なぜなのか、とかね。

 なにはともあれ、これで土台が据えられました。アイルランドの歴史の各分野の研究がこの上にどんどんと積み上げられてゆくことを期待します。そして、同僚向けの学術論文ばかりじゃなくて、あたしらのような素人も楽しく読めるような、そう、中国史の宮崎市定のような本がたくさん出ますように。

 なぜアイルランドかと問うことで見えてくることがある、という序章での上野の指摘はその通りでしょう。アイルランドから見たブリテン、ヨーロッパ、北米やオーストラリア・ニュージーランド、あるいは世界の歴史を読みたい。それも日本語で書かれたものが読みたい。アイルランドはユニークな地位を占めると思います。小さいが故に、ヨーロッパの北西の端という辺境の位置の故に、中心では見えず、かつ本質を貫くような視点を持てる。ここを出発点として、日本語ネイティヴによるアイルランドの歴史研究が大きく花開きますように。(ゆ)

 アイリッシュ・ミュージックの各楽器に焦点をあてる入門講座の第5回にとりあげるのはフィドルです。

 なお、会場の下北沢 B&B は昨年末に引っ越しています。すぐ近くへの転居ですが、ウエブ・サイトで場所のご確認をお忘れなきよう。


アイリッシュ・フィドル入門
アイルランドのフィドルを見る・聴く・知る

日時:3月11日(日)13:30-16:00(13:00 開場)
会場:本屋B&B(世田谷区北沢 2-5-2 BIG BEN B1F)
料金:2000円+1drink order(500円)
出演:小松 大(フィドル)
   トシバウロン(バウロン)
   おおしまゆたか(著者・訳者)


 アイリッシュといえば、これがなくては始まらない楽器、それがフィドルです。演奏人口から言えば圧倒的に多数、おそらく全演奏者数の8割はフィドラーといっていいんじゃないでしょうか。本来は真先にとりあげるべき楽器だったでしょう。

 とはいえ、このシリーズをイリン・パイプから始めたのは、なかなか味のあることではなかったかと思ってもいます。アイルランド音楽は過去200年ほど、パイプを伝統の中心、要、核として、回ってきました。これに並べてみるとフィドルは、それぞれの時代の要請に応じて音楽伝統に外から衝撃を与えて揺さぶり、新たな位相への転換を促してきたと言えます。

 フィドルはフレットレスで、理論上、どんな音でも出すことが可能です。この点で伝統楽器の中ではユニークな存在です。そしてそのためにフィドラーは規格はずれの存在とみなされてきました。いわば禁断の楽器を操る怪しい人間と思われたのです。フィドラーは音楽には欠かせないけれども、同時になるべく遠ざけておきたい存在でした。むしろ、そのせいでしょうか。フィドルはアイルランドだけでなく、ブリテン、北欧、東欧はじめ、ヨーロッパでフィドルが演奏されていないところはありません。しかも、楽器の形と基本的奏法はすべて同じ。こんな楽器は他にはありません。

 クラシックのオーケストラでもヴァイオリンがメインで圧倒的最大勢力であるところを見ると、ヨーロッパの人びとにとってこの楽器が何か特別の魅力を備えていることは想像がつきます。フィドル/ヴァイオリンは演奏する姿勢、楽器の持ち方からして人間の生理に反していると思われますけど、それもまた実にヨーロッパ的とも見えます。

 閑話休題。アイリッシュ・ミュージックにおけるフィドルはアイルランド全土で演奏されてきました。地域に特徴的なスタイルがあると言われるのも、どこででも演奏されてきたからです。歴史的にも、とりわけ20世紀以降の、録音技術の発明によって生まれたモダン・アイリッシュ・ミュージックにおいて、フィドルは独特の大きな役割を果してきました。

 アイリッシュ・ミュージックの史上初の録音は19世紀末のイリン・パイプのものとされていますが、音楽伝統全体に最初にインパクトを与えたのはフィドルの録音です。マイケル・コールマン、ジェイムズ・モリソン、パディ・キロランに代表されるアメリカ在住のフィドラーによるSP録音によって、現代のアイリッシュ・ミュージックは幕を開けました。

Past Masters of the Irish Fiddle Music
Various Artists
Topic Records
2001-10-09



 なぜアメリカか。まず、録音技術そのものがアメリカで開発され発展しました。そしてそのテクノロジーを使い、音楽を録音して販売するビジネスを立ち上げたのもアメリカ資本でした。アメリカ人以外には、誰もそんなことを思いつかず、また万一思いついたとして、それにカネを注ぎこもうと考えなかったのです。

 アイリッシュ・ミュージックにとってはもう一つの条件がありました。名手が多数、アメリカに移民していたのです。19世紀後半からの大量の移民によって、アイルランドの伝統音楽も大西洋を渡っていました。シカゴの警察署長オニールは身の回りにいたミュージシャンたちだけをソースとして、こんにちにいたるまでアイリッシュ・ミュージックのバイブルとされている楽曲集を編むことができました。そこに掲載・収録されている楽曲はすべて、移民たちが持ち込んだものです。

 名手たちの演奏は、最新のテクノロジーの衣をまとい、一層輝きを増したことでしょう。文字通りそれは一世を風靡し、かれらのスタイル、レパートリィを人びとはこぞって模倣、エミュレートします。SP盤に聞かれるフィドルは、アイリッシュ・ミュージックを統一した、とまで言われました。

 もちろん、そんなことはありません。今のように、世界の片隅で起きたことが、一瞬で全世界の知るところとなるわけではありません。まだまだ実にのんびりした時代です。SP盤を聴ける環境がどこにでもあったわけでもなく、人びとはラジオも持っていませんでした。それでも、それ以前の、ローカルの外の響きといえば、せいぜいが時偶やってくる旅回りのパイパーやフィドラーぐらいという状態に比べれば、天と地ほどの開きがあります。それはコペルニクス的転回と呼ばれるに値します。各地の共同体内でそれぞれ独自に展開されていた伝統がかき回され、混淆しはじめたのです。

 アイリッシュ・ミュージックの録音は1920〜30年代のSP録音によるものの後は不毛の時期が続きます。独自の録音産業が成立するにはアイルランドは貧しすぎました。ましてや伝統音楽が録音・販売に値するとは考えられていませんでした。ほとんど唯一の例外が1959年の Paddy Canny, P. J. Hayes, Peadar O'Loughlin & Bridie Lafferty による《All-Ireland Champions - Violin》です。2001年に《AN HISTORIC RECORDING OF IRISH TRADITIONAL MUSIC FROM COUNTY CLARE AND EAST GALWAY》としてCD復刻されたこの録音は、当時LPはあっという間に廃盤になったものの、コピーのテープがミュージシャンの間で珍重・重宝されます。ここでもフィドルの録音が、頼りになる規範となったのでした。

 そして1970年代、プランクシティ〜ボシィ・バンドによる革命でアイリッシュ・ミュージックが新たな段階に入った時、これを牽引したのは、パディ・キーナンのパイプ、マット・モロイのフルートとならんで、ケヴィン・バークのフィドルでした。そして後世への影響から見れば、バークのフィドルがボシィ・バンド・サウンドの象徴となったのです。


BOTHY BAND
BOTHY BAND
OLD HAG YOU HAVE KILLE
2017-06-16


 我々異国でかの国の伝統音楽に触れた人間にとっては、その前にもう一人、忘れられないフィドラーがいます。デイヴ・スウォブリックです。かれは独学でフィドルを身につけていて、ベースはスコットランドだと思いますが、その演奏は独自のものでした。フェアポート・コンヴェンションというロック・バンドのリーディング楽器として、かれのフィドルはアイリッシュやスコティッシュのダンス・チューンを、ロックのビートに載せてみせました。プランクシティやボシィ・バンドやデ・ダナンや、あるいはチーフテンズよりも前に、ぼくらがアイリッシュ・チューンを最初に聴き、その魅力のとりこになったのは、スウォブリックのフィドルによってだったのでした。

リージ・アンド・リーフ+2
フェアポート・コンヴェンション
USMジャパン
2010-11-24



 1990年代「ケルティック・タイガー」の追い風に乗ってアイリッシュ・ミュージックが世界音楽になっていった時、その先頭に立ったのもフィドルでした。マレード・ニ・ウィニーを中心としたアルタンです。アルタンがナマのまま演ってみせたドニゴールのスタイルとレパートリィは、それまで伝統音楽の主流ではほぼ無視されていました。ヨーロッパの周縁アイルランドのそのまた周縁ドニゴールの伝統が沈滞したシーンに活を入れ、そのまま世界に飛び出していった、そのドラマの主人公は、フィドルだったのです。


Ceol Aduaidh
Mairead Ni Mhaonaigh & Frankie Kennedy
Green Linnet
1994-02-04


 そして90年代末、20世紀を締め括くるとともに、次のステップへ踏み出したのもフィドルの録音でした。マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルの《The Lonesome Touch》。1997年のことです。本来のものから遙かにテンポを落して演奏されるダンス・チューンは、曲に潜むスリルとサスペンスをあらためてあぶり出しました。アイリッシュ・ミュージックは他のどんな音楽にも肩をならべる同時代性を備えていることが天下に宣言されたのでした。


The Lonesome Touch
Martin Hayes and Dennis Cahill
Green Linnet
2015-12-27


 最近のインタヴューで、ヘイズはこのアルバムを作るときに、チャーリー・ヘイデンとパット・メセニーの《Beyond The Missouri Sky》をお手本にしたと述べています。アイリッシュ・ミュージックに真の革新をもたらしたショーン・オ・リアダ、ポール・ブレディ、アンディ・アーヴァインは皆、伝統の外からやってきたとも述べています。そういうヘイズ自身もまた、アイルランド伝統の外に霊感の源泉を求めています。


Beyond the Missouri Sky
Charlie Haden & Pat Meth
Verve
2009-08-10



 フィドルはアイリッシュ・ミュージック演奏の現場を支配し、したがって伝統に対して保守的な姿勢をとるようにみえます。一方でフィドルは他には並ぶもののない柔軟性によって、常に伝統を脱皮させる契機を孕んでいます。

 ヘイズは The Gloaming や Martin Hayes Quartet、さらにはケヴィン・クロフォード、ジョン・ドイルとのトリオ、ジャズやクラシックまで含めた幅広いミュージシャンとの共演を集めたソロを予定するなど、その活動は留まるところを知りません。

Gloaming
Gloaming
Imports
2014-01-28


The Blue Room
Martin Hayes Quartet
Imports
2017-11-03



 そのヘイズの後を襲って、アイリッシュ・ミュージックを揺さぶり、その外延を広げようとしている人としてクィヴィーン・オ・ライアラ Caoimhin O Raghallaigh がいます。The Gloaming に hardanger d'amore で参加している人です。フィドラーだったオ・ライアラは、まずハルディング・フェーレでアイリッシュ・ミュージックを演奏するようになり、さらにこの楽器に改訂を加えて、10弦のハーダンガー・ダモーレと呼びます。レパートリィも、アイルランドの伝統曲から、ジャズやクラシックの語彙、手法を取り入れたオリジナルにまで広がってきています。


Kitty Lie Over
Mick O'Brien Agus Caoimhin O Raghallaigh
CD Baby
2007-05-29



Where One-Eyed Man Is King by Caoimhin O' Raghallaigh
Caoimhin O' Raghallaigh
CD Baby
2007-05-29



 というような話を、今回のフィドル講座でできればいいなと思っています。小松大さんは、実演と実践者の言葉によって、こうしたフィドルの二面性、双極性を、具体的なものにしてくれるでしょう。

 フィドルはアイリッシュ・ミュージックで最も普遍的な楽器であるために、フィドルについて語ることは、アイリッシュ・ミュージック全体について語ることにもなります。これは他の楽器とは異なる、フィドルならではの面白さでもあります。(ゆ)

 いやあ、興奮しました。ジャズに限らず、音楽に関する本でこんなに興奮して読んだのは、『文化系のためのヒップホップ入門』以来。あれも「世界が変わってゆく」のを実感しながら読んだもんですが、これまた「ジャズから見た世界」が根底からひっくり返されてゆく快感を満喫しました。もう、ばりばり音楽が聴きたくなってます。

 村井さんの『あなたの聴き方を変えるジャズ史』が、いわば北米大陸の上空から見たアメリカ音楽史の鳥瞰図をジャズにフォーカスして語ったものとすれば、こちらは地上に降りて、今新たな高みに登りつつある地点から、過去100年を眺めたものと言えるでしょうが、内容は遙かにラディカルです。ジャズの「正史」はほとんど完全にひっくり返されてます。「頑固なジャズおやじ」は読んではいけない。これは、最近ジャズを聴きだした、これからジャズを聴いていこうという人のための本です。

 鍵はヒップホップです。『文化系のためのヒップホップ入門』を読んでいたのはそれこそ「参照項」としてありがたかった。あれを読んでもヒップホップを聴きたいとは思いませんでしたし、今でもそうは思いませんが、ヒップホップによってポピュラー音楽の様相ががらりと変わってしまったことは納得していました。ただあたしの理解では、ヒップホップはポピュラー音楽でもいわば上部構造を変えたので、伝統音楽につながる下部構造まではその作用はまだ降りてきていなかった。しかし、この本を読むと、少なくともジャズはヒップホップによってものすごく大きく変化しています。ありていにいえば、ヒップホップによって、再生された。今のジャズの復活と盛り上がりは、物心ついたときにはヒップホップがあって、これを他の音楽と同様に聴いて育ってきた人たちによって、新たな音楽として立ち上がってきている。

 ヒップホップの重要なファクターとして過去の資産の再利用があります。過去の録音で使えそうなものを発掘するわけです。この場合の選択基準はその録音がジャズをどう変えたかとか、音楽としてどれだけ質が高いかとかではない。それで踊れるか、気持ちよくなれるか、になる。この評価軸の変更、というよりも、新たな評価軸によって見たジャズの100年は、当然、これまでの「正史」とはまったく違うものになる。そして、今、ここ数年、ということは2010年代に入ってからですね、劇的に復活し、盛り上がっているジャズを生みだしているミュージシャンたちは、この新しいジャズ観を共有し、それを土台にしています。

 ひと言でいえば、これまでリスナーの視点から書かれてきた「正史」が、ミュージシャンの視点によって別のものとして書き換えられている。それも、文字によってではなく、音楽そのものによって。

 これはスリリングです。しかもそうして書き換えている音楽を、ミュージシャンだけでなく、共有するリスナーも登場している。たとえばグレッチェン・パーラトの LIVE IN NYC で歓声をあげている聴衆は若い人たちでしょう。パーラトの音楽はジャズとしか呼べないし、本人もジャズをやっていると思っているのでしょうが、リスナーは必ずしもこれがジャズだと思っていないかもしれない。少なくとも、そのジャズはその人にとって他の音楽から飛び抜けた特別のものではなく、パーラトを聴く同じ人が、ヒップホップも聴けば、ロックや、クラシックや、あるいはアイリッシュだって聴いている。というのは筆が先走りしましたが、つまり聴いている方もヒップホップを聴いて育っている。

 この「聴いて育つ」というのは、必ずしもそれを熱心に聴いたということではなく、否が応なく耳に入る、音楽を聴こうとすれば、いや聴こうとしなくても、よほど意識的に排除するか、隔離教育でもされないかぎり、好き嫌いの前にごくあたりまえに入ってくることです。

 ヒップホップが音楽的素養の一部になっている人たちが、ミュージシャンでもリスナーでも増え、中心になってきたことが、ジャズの今の隆盛を招いた。その地点から振り返ると、これまでの「正史」で大きく扱われていた「巨人」たちは後景に退き、評価されなかったり、目立たなかったりした人たちや録音が脚光を浴びるわけです。評価が低かったり目立たなかったりしたのは、必ずしも音楽の質が低い、つまらないというだけではなく、評価が難しい、よくわからない、その時の流れから一見飛び離れている、ということも多かった。そういう人たちや録音も、今新しい地点から見ると、わかってくることがある。

 たとえば本書の第1章でとりあげられるのは、まずモンクであり、次にドルフィーであり、そしてブッカー・リトル、ディジー・ガレスピー。これが実はジャズの本質だ、こいつらの面白さがわからなければ、ジャズがわかったとは言えない、と言われると、トウシロのあたしだってええっとのけぞります。しかし、お三方の議論は説得力充分で、よおし、こいつら聴いたれ、ともりもり意欲が湧いてきます。

 他の3人はともかく、モンクはジャズ離れしたところがあって、自分がやりたいことができるのはとりあえずジャズの界隈だから、そこでやってるという感じがしてます。ザッパがロックを「使った」ようなもんですな。でも、ジャズでやったということはやはり後につながるものが出てくるので、かれのような音楽が可能であるというのはジャズの懐の深さにもなるし、またその深さをさらに深くしている。

 第2章で語られるのは、ジャズの形。あたしはジャズは方法論という点では中村とうようの意見に賛成ですが、ここでの議論を読んでみると、ジャズは疑似伝統音楽ではないかと思えてきました。伝統がないところでも人はやはり伝統を求める。音楽とは基本的には伝統音楽です。ローカルな社会の求めに応じて生まれ、口承によって伝えられている。クラシックも含めて、今、音楽とされている商業音楽は20世紀以降、録音技術によって生まれたもので、音楽の本来の立場からすれば歪んだ形でしかない。ロックやレゲエとは異なり、ジャズは自然発生している。つまり商品として売るために作られたものではなく、ローカルな社会のために生まれている。アメリカは他の旧大陸の社会のような伝統が無いので、様々な形で疑似伝統を作りますが、ジャズもその一つだった。今のクラシックも疑似伝統音楽の様相があると見えます。

 その最も顕著な側面は過去の資産の参照とともにコミュニティ意識と教育制度です。ミュージシャンたちは、ヒップホップで育ちながら、自分の表現の形態としてはジャズを選びとっている。まあ、ジャズに選ばれた、という言い方もできるでしょうけど、それはまた別のお話。そしてジャズをやるために様々な形で教育をされている。これがバークリーのような形をとるところが疑似たる所以です。そこで教えられることは、もともとは口伝えで習ってきたもので、かつてはジャズもそうだった。ただ、理論としてシステマティックに伝えるというのは、音楽伝統をオープンにもします。その理論を身につければ、誰でも、極端にいえば、アルファ・ケンタウリ人にだってジャズはできる。

 アイリッシュ・ミュージックがいま世界中に拡がっているのも、独自の教育制度があるからではないか。つまりセッションです。アイリッシュ・ミュージックのセッションとはどういうものかは、もうすぐアルテスパブリッシングから出るガイド本を見ていただきたい、とこれは宣伝ですが、セッションの特徴の一つは個人の師匠から弟子という形よりも、集団のなかで伝え、また伝えられてゆく様相が大きいことです。

 バークリーのような形になると、教師として優れた人からたくさんの弟子が出ることがありますが、音楽そのものとしては、その教師に属するのではなく、コミュニティに属する。

 加えて、今のジャズが個人の才能を表に出すのではなく、集団として、アンサンブルとして、バンドとして、全体の音楽としての質を重視する。これもあたしには、伝統音楽としての本来の在り方に近いように見えます。

 ジャズは疑似伝統として生まれたけれど、すぐ商業化されたことで、急速に拡大発展します。サッチモからコルトレーンまでの展開は、商業化の圧力によって猛烈に加速されたわけです。当然これは相当に無理が重ねられたので、商業化がフュージョンで極点に達すると、その反動がきます。資源が枯渇したわけです。それでも80年代はまだベテランも健在で、ワールド・ミュージックを促した動きもあって、多様性が確保できたのでかなり面白かったわけですが、90年代に入って、世代交替するともういけません。ジャズは「死に」ました。そして、ヒップホップによる革命を経て初めて生き返った。おそらくこれは文字通り生き返ったので、音楽の形としては、かつてのものとはまるで別のものです。

 ただ生き返ったものはジャズとして生き返った。方法論というのはここのところで、「ジャズの精神」ともいえるかもしれない。つまり、ミュージシャンがやりたいことを優先する。売れることを優先するのではない。いや、売れることも少しは考えるかもしれないけれど、それよりはこういうことをやったら面白いだろうということをやる。

 この本の冒頭に出てくるエスペランサ・スポルディングの音楽は、昔だったらジャズとは呼ばれない。ロックに分類されていたでしょう。たとえばキャプテン・ビーフハートの音楽に表向きは近い。ザッパの一部にも通じる。あえて言えば、彼女のうたの「異様な曲想」(後藤)には、ラル・ウォータースンのつくるうたの異様さと同質なものをあたしは感じます。ラルは北イングランドの伝統音楽ファミリー、ウォータースンズの一員で、兄弟のマイクとの共作《BRIGHT PHOEBUS》という傑作がありますが、これやその後息子のオリヴァー・ナイト Oliver Knight のサポートで出したソロの諸作に収められた曲は、イングランドからしか出てこないものでありながら、その伝統とはまったくかけ離れたところに立っている。他の伝統やポピュラー音楽からもかけ離れている。つながりがあるとすれば、そしてつながりはあるはずですが、それはビーフハートやモンクの音楽や、そうスポルディングの音楽を生んでいる何かになるでしょう。少なくともそう聞えます。


Bright Phoebus
Lal Waterson & Mike
Domino
2017-08-04



 ラルの娘のマリィ Marry Waterson も、母の衣鉢を継ぐうたを作り、うたっていて、嬉しいですが、これは余談。

 一方でスポルディングの音楽はやはりまぎれもないジャズとあたしにも聞える。もちろん、それはこれを何と呼ぶかと問われた上での話で、これがジャズだからどうこうということではありません。ジャズであろうとなかろうと、これはいい音楽だし、面白い。でも、であります。されど、なんだけど、やっぱりこれをジャズとして、他の音楽とならべてみるとまた別の面白さが出てくる。あるいはジャズの(疑似)伝統の中でのつながりをたどってみると、また別の面白さが出てくる。

 たぶん、そういうことなんでしょう。単独の、孤立したものとして聴くよりも、つながりを辿り、参照項を確認して、またもどってくると、あらたな面白さが生まれる。それが音楽を聴く楽しさなんです。ヒップホップはそれを、曲の中に組込んだ。それによって引用や参照した先に跳ぶわけです。これはデジタルのつながり方です。リンクをクリックして跳ぶのと同じ。アナログの、こいつの隣にはあいつがいてとか、レーベルが同じとかとはまったく違う。ブルーノート1500番台というくくりは通用しない。

 ヒップホップのつながり方がデジタルと同じになるのは、おそらく今の時代に共通する要素であって、インターネットが社会全体を変えていることの反映でもあるのでしょう。ネットは音楽の引用、参照先だけではなく、楽曲や録音の伝達のしかた、ミュージシャンやリスナーの意識まで変えています。ストリーミングと YouTube の時代に、もはや音楽も変わらざるをえない。

 音楽の基本はライヴです。これは動かない。録音でしか生まれない音楽もたくさんあるし、そもそも過去の資産の引用、参照となると録音で初めて可能になるわけですが、でも、音楽はまずライヴです。生身の人間がそこで演奏する、うたう。すべてはそこから始まる。たとえ、ギター1本の弾き語りでも、音だけで聴いているのと、ギターを弾きながらうたう姿を見るのとでは、音楽が入ってくる度合いが違います。ただ、本書の末尾で後藤さんも指摘するように、一度ライヴを見れば、その後は録音だけ聴いても想像できるようになる。だから YouTube は音楽にとっては革命です。間接的でも、とにかく演奏し、うたっている姿が見られる。かつてはそれは写真の1、2枚から想像するしかなかった。その写真すら無いこともたくさんあった。

 そしてストリーミング。この本を読みながら、聴きたいと思ったその瞬間に聴くことができる。ジャズの音源はまずたいていは出てきます。廃盤で市場ではアホみたいな値段がついているものも定額で聴けます。今あたしは Tidal を試してますが、アイルランドの個人がプライヴェートで出したばかりものはさすがに出てきませんけど、fRoots 誌が薦めている録音の8割は出てきます。しかも、その音源ファイルを手許に持っている必要もない。大容量の外付ストレージを買い、バックアップに気を使わなくてもすむのです。音楽を聴くことについて、こんなに集中できる環境はこれまでなかった。ブツが無くては、などというのは、音楽が好きなのではなくて、単なる所有慾でしかない。

 というのは酷かもしれませんが、リスナーにとっては、今は天国です。こんなに音楽を聴けるようになったことはかつてありません。当然、そのことは今生まれてくる音楽に影響します。ミュージシャンはまずリスナーであるからです。そして、生まれが異なる音楽を、様々にこねあわせ、一つの楽曲として提示するのに、ジャズほど柔軟性が高く、面白くなる方法論もありません。

 そしてこの変化はまだ止まったわけではない。変化の真最中でもあります。これからどうなるか、誰にもわからない。村井さんが言うように、クラークの『幼年期の終り』で突破してゆく子どもたちのように、従来から聴いてきた人間にとっては、まったく理解できない、鑑賞できないものになる可能性もあります。ひょっとするとその方が高いかもしれない。でも、じゃあ、変化を止めてくれ、とはあたしは言いません。たとえそうであろうと、この先を見たい。今起きていることを楽しみつつ、これがどうなるのか、見届けるまでは死ねない。生きている間にその変化が一段落しないことも大いにありえますが、それでも生きているかぎり、音楽を聴いて楽しむことができるかぎりは、その変化を追いつづけたい。

 だから、あたしは今、ほんとうに久しぶりに、猛烈に音楽が聴きたくなっています。

 いや、しかしこれは困ったことでもあります。今のジャズを聴き、その参照項を聴き、あるいはそこから派生する枝を聴き、となると厖大なんてもんじゃない。それに、ジャズばかり聴いているわけにもいきません。ジャズを活性化しているその同じ動き、大きな変化は、あらゆる音楽を活性化してもいます。アイリッシュ・ミュージックのようなルーツ音楽を見ても、それは明らかです。いったいどう時間を割りふればいいのか。音楽だけ聴いているわけにもいきません。読みたい本は山のようにあり、どんどん増えています。活性化されているのは音楽だけでもないのです。歌舞伎や文楽も見たいし、絵も見たい。まったくパニックに陥りそうです。

 むろんここに書いたことは、この本がカヴァーしていることのごく一部にすぎません。あたしにとって当面一番面白かったところだけです。語られていることの密度の濃さは恐しいもので、掘ってゆくともっと面白いことはいくらでも出てくるでしょう。何か溜まっていたものが、一気に吹き出た感じもあります。タイムリーといえば、まさに今出るべくして出た本でもあります。そして、おそらくこの本自身が、参照項として利用されてゆくでしょう。お三方と、この本を造らられた方々には心より感謝します。

 唯一の欠点。索引が無い!(ゆ)


100年のジャズを聴く
後藤 雅洋
シンコーミュージック
2017-11-16



 小尾俊人の名を初めて意識したのはおそらくその死亡記事を読んだときだったと思う。それから彼の著書『昨日と明日の間―編集者のノートから』や『本は生まれる。そして、それから』を読み、感嘆した。こういう人がやっていて、なるほどみすず書房はああいう出版活動ができたのか。

 もっとも小尾の著書から関心は丸山眞男に向かい、『戦中と戦後の間』には書き手と編集者の双方にまた感嘆した。この本は大学4年の時に出ていて、当時はベストセラーともなっているのに、まったく関心を抱いた覚えがない。今読むとあらためて教えられることが多い。その一方で、丸山眞男はこれ1冊読めば自分には充分という感じもする。ここには丸山のエッセンスが凝縮されているように読める。これもまた小尾の編集者としての力の発露だろうか。

 そこで遠くなった小尾の名に再び遭遇したのは本書の元となった『みすず』の連載が始まった時だった。隔月のその連載を毎回待ちかねて、息を詰めて読んだ。人生の師匠である著者の文章ということもあったが、それ以上に内容に惹きつけられた。まるで自分の足跡を消そうとしているような小尾が消しそこなった断片をひとつずつ拾いあつめ、小尾の姿を再構成してゆく著者の粘りに感嘆した。だから、本書の出版もまた待ちこがれた。

 いざ手にとった本の厚さにまず驚いた。こんなに加筆されたのかと思ったら、半分は小尾自身の1951年の日記だった。

 この本のキモは小尾の日記だ。表紙にもわざわざ刷ってある。著者が書いた部分はこの日記への序文にも解題にも見える。この日記が残された理由は不明かもしれないが、どこかに小尾自身の意図が働いているはずだ。小尾自身、これを残すと判断したとき、後に誰かが読むことは承知していたはずでもある。読ませたいとはまではいかなくとも、読まれてもいいとしていたはずだ。

 いや、そうではないかもしれない。死後も残すとまではっきり意識はしなくても、抹殺するにはどこか忍びない、ためらわれるものがある。そうして処分せずにおいたものを小尾自身忘れてしまい、後に残された、偶然の産物ということもありそうだ。

 いずれにしても、この日記は残るべくして残った。それはどうやら動かない。

 「密儀、偲ぶ会なし」という遺志は、自分が生み、育てた出版社からその評伝が出るという結果を生んだ。むろんこれはタイトルにもあるように、生涯をすべて辿ったものではないが、おそらくは最も肝心の部分、最も波瀾に富み、それゆえ劇的でもある時期の基本的様相を明らかにしている。

 葬儀や偲ぶ会は本来死者のためのものではない。遺された人びと、家族や親族や、あるいは親しい人びとが故人を失なった悲しみを耐えるための方便である。小尾がそのことを承知していなかったとも思えないが、他人の「自由」を奪ってまで己の人生をコントロールしたい、と考えたのか。自分がみすずから退いた時、実弟はじめ古くからの社員も数名、一緒に退社させた人だ。いやこの場合おそらくそうではなく、もっと単純にはにかんだのだろう。自分がそういうものの対象になることが、どうにも気恥ずかしく、そのことを思っただけで尻の穴がむずむずしてきたのだろう。あるいはそれはまた、170頁にあるエピソードの対象となった人物のように、「生き残りの復員組」のひとりとして「怯んだ」と言えるかもしれない。

 この「怯み」のよってくるところとして著者は「サバイバーズ・ギルト」と自己の卑小化とこれ以上の傷を避けたいとする恐れをあげている。同じ著者の『敗戦三十三回忌―― 予科練の過去を歩く』に描かれた学徒出陣組の姿、いきなり将校にされて自分より年下の者たちを特攻に出す順番を決める役割を負わされた人間が、平気でいられるはずはない。義務としてやらされたとはいえ、そうしたことをやった人間に、そんな晴れがましい(と見える)ことをやる、あるいはやってもらう資格があるのかと疑ったとしても無理はない。そう疑うことでかろうじて心の平衡が保てるだろう。

 しかし、そのはにかみがこんな書物を生もうとは、まさにお釈迦さまでもない、生身の人間である小尾にわかろうはずもない。葬儀や偲ぶ会は一時的だ。いかに盛大な葬儀や偲ぶ会でも、すんでしまえば終りである。そういうことがあったという記録は残っても、それだけだ。書物は違う。本は共時的には小さなメディアだが、通時的には途方もなく大きくなりうる。そして一度書物として出たものはいつまでも残る。終らないのだ。この出版を小尾本人が知ればはずかしさに身悶えするだろうが、もう遅い。本は書かれ、出てしまった。小尾俊人の姿はここに永遠に留められることになった。そして小尾とは無縁な、小尾の名前すら聞いたことのない人間が、かれがどのような人間で何をしようとし、またしたかを知ることが可能になった。

 そしてこの日記だ。唯一残されていた個人としての記録。この年小尾は29歳。老成した人間とひどく若い人間が同居している。緊張感が張りつめている一方で、ひどくのんびりしているところが同時にある。また同じ人と頻繁に会う。ひと言でいえば人なつこい。これだけ毎日いろいろな人間と会って話をしながら、いったいいつ本を読むのか。おそろしい速読だったという話も、前に出てくる(62頁)が。クルツィウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』を原書で読んだりもしている。あの篠田一士が音をあげたシロモノだ。後にみすずが邦訳を出す。四半世紀前、当時定価12,000円の本を、値段をまったく見ずに注文し、ブツが来てから仰天した。

 277頁、七月三日の「スマさん」須磨彌吉郎の注にあるラインバーガー『心理戦争』1953にもあらためて蒙を啓かれる。そうだった、みすずはこれを出していたのだ。図書館で取寄せてみると、ページを繰ったらバラバラになりそうな本がきた。少し読んでみれば翻訳もしっかりしているし、父親の方のポール・ラインバーガーの話も少し出てくる。孫文の顧問だった人物で、訳者は戦前、上海でこの父親に会ってもいる。小尾はコードウェイナー・スミスを読んだろうか。ちなみに『心理戦争』Psychological Warfere はこの訳書の出た後に第二版が出ている。Gutenberg に電子版がある。

 著者は月刊『みすず』創刊時から、小尾の依頼で出版界に苦言を呈するコラム「朱筆」を出版太郎の名で書き続けた。後、2冊の大冊にまとめられる。もともとは海外の書物の翻訳権仲介として、小尾からはむしろ嫌われた関係で始まりながら、このことをはじめ、様々な面で著者が小尾から相談を受け、協力していることはここにも出てくる。それだけ小尾が信頼した人物にその評伝が書かれたことは、小尾にとってやはりふさわしい。

 それにしても、岩波、筑摩、みすずとわが国を代表する出版社の3つが信州人の創設になるというのは面白い。(ゆ)

 昨日は下北沢のB&Bでの「アイリッシュ・ハープ入門 アイルランドのハープを見る・聴く・知る」にご来場いただき、ありがとうございました。

 昨年春に上梓しました『アイルランド音楽──碧の島から世界へ』の刊行記念として始めたこのイベントも通算7回目となりました。ありがたいことです。毎回、教えられることが多くて、送り手のはずのぼくらが一番楽しんでいるんじゃないかとも思えますが、音楽はそういうところがどこかについてまわります。ぼくなども聴くだけで十分楽しいのですが、実は演奏している人が一番楽しいわけです。

 今回の講師の村上淳志(むらかみ・じゅんし)さんはふだんはダブリンに住んでらっしゃるので、アイリッシュ・ハープの「現在」まっただ中で活動されているわけで、そのあたりの活きの良さが、他の回とはまた違った面白さをかもし出していたと思います。

 ハープはアイリッシュ・ミュージックの中でもやや特異な位置にあります。なんといってもまず楽器が美しい。会場に入って村上さんが楽器をケースから取出した瞬間、会場のスタッフから「ほおお」というため息とも嘆声ともつかぬものがあがりました。楽器は本来音が出てナンボのはずですが、ハープだけはその姿が美術品にもなります。「ブライアン・ボリューのハープ」が博物館に飾られているのは、必ずしも歴史的な意義、価値からだけではないでしょう。

 また美しさだけでなく、アイリッシュ・ハープのサイズも魅力のひとつだろうと思います。グランド・ハープよりもぐっと身近なサイズです。一方、現在の主流である34弦のものは、かわいいと言えるほど小さくはない。しっかりとした存在感があります。

 ハープはまずアイルランドの歴史の上でシンボルとなってきました。今でも国の紋章とされて、硬貨にも刻まれています。楽器が国の紋章になっているのは、世界でもアイルランドぐらいではないでしょうか。

 もともとハープはアイルランドの社会でとても高い地位にありました。ハーパーは詩人でもあり、その詩は氏族社会の歴史を語り、氏族のアイデンティティを保つ役割を果たしていました。他の楽士たちは一段下で、ハーパーは特別席を与えられていました。

 時代が下るにつれ、この氏族社会がゆるみ、崩れてゆくとハーパーの地位も下がってきます。カロランの時代、18世紀前半には、ハーパーはお抱えというよりは貴族の館をツアーし、貴族のために音楽をつくり、演奏するようになっていました。かれらはまた外界のニュースをもたらすメディアとしての役割もはたします。

 そして19世紀に古来からの氏族社会が消滅するにしたがい、ハープの伝統は一度途絶えます。代わって社会の最上位となったプロテスタントの地主階級たちが抱えたのは、イリン・パイパーでした。

 アイリッシュ・ミュージックのなかで伝統が一度完全に切れたのはハープだけです。1792年の Belfast Harp Festival などのおかげで、楽曲だけは残ってきましたが、それをどう演奏したのか、左手の使い方はどうだったのか、はまったくわかりません。現在復興されているのは、残された記録や情況証拠、あるいは論理的必然などを重ねて推測されたものです。

 ハープはその歴史的経緯から、アイリッシュ・ミュージックのレパートリィの圧倒的な部分を占めるダンス・チューンを演奏しませんでした。単純に「考えられないこと」だったのです。これはスコットランドのハイランド・パイプにあって、ダンス・チューンの演奏は「余技」、ceol beag = small music と呼ばれて、一段低く見られていたことに通じます(ちなみにでは「本曲」ceol mor = big music は何かというと、それがpiobaireachd ピブロックです。ピブロックとは何かというと話が長くなるので、それはまた別の機会に)。

 第二次世界大戦後にハープは劇的に復興しますが、それで演奏されたのはまず歌の伴奏であり、次にカロラン・チューンでした。ダンス・チューンが演奏されはじめるのは1980年代はじめです。

 もう一つ、ハープが特異なのは、ソロで演奏されることが圧倒的に多いことです。ハープはピアノの中の弦を外に出して縦にし、指で弾く(本当はハープが先で、ピアノが後ですが)形ですから、両手を使って1台でメロディとリズムが完結できます。さらに音量が他の楽器に比べて小さいことがあります。ハープが入ったアンサンブル、バンドはごく例外です。チーフテンズとクラナドと Dordan ぐらいでしょう。また、ハープの録音でも、他の楽器と共演することは例外に属します。

 その特異な性格にもかかわらず、ハープもまたアイリッシュ・ミュージック全体の盛り上がりによって、こんにち演奏者もレパートリィも格段に増えています。セッションに参加することも珍しくなくなってきました。かつての特殊な地位から、ようやく「普通の楽器」になってきた、と言えるかもしれません。

 一方で、ハープの魅力、なかんづく、その音色の繊細な美しさは、他の楽器にはないすっきりとした品位を備え、高貴な薫りをかもし出します。おそらくこれからも新たな奏法やスタイルが生みだされ、アンサンブルへの参加も増え、新しい魅力が現れるにちがいありません。

 こうした流れを昨日は音源でたどってみました。

Mary O’Hara (1935-)
The Leprechaun from 1958, SONGS OF IRELAND
 メアリ・オハラは1950年代末、ハープを伴奏としたうたによって国際的なスターになりました。天才肌の人で、クラシックの声楽の訓練を受けていますが、アイルランドの伝統歌をそのスピリットのままにうたいました。個人的に今回最大の発見でした。もっとクラシック寄りの人にみえて、まともに聴いたことがなかったのですが、村上さんに薦められてあらためて聴いて仰天した次第。まずシンガーとして第一級で、とりわけこの初期の録音はすばらしい。正規の訓練を受けたことは良い方に作用し、うたを型にはめるのではなく、その美しさをストレートに伝えています。

 ハープの演奏も革新的で、たとえばこの曲ではうたのメロディとは異なるメロディを弾き、ハーモニクスなども効果的に採り入れています。

 オハラによって長い間眠っていたハープが桧舞台に引き出され、あらためて注目をあびたのでした。

Down By the Glenside-Songs of Ireland
Mary O'Hara
Essential Media Afw
2011-10-24



The McPeake Family (= Kathleen)
The Derry Hornpipe from 1962 from WILD MOUNTAIN THYME
 マクピーク・ファミリーはベルファストの音楽一家で、1960年代、アイリッシュ・ミュージック不毛の時代に多くの録音を残し、音楽伝統、とりわけイリン・パイプの伝統をノーザン・アイルランドで伝えました。

 そのスタイルは独特で、2本のパイプをユニゾンにしてうたの伴奏をします。ハープはこれにコードでビートをつけています。このハープはピアノの動きをそのまま適用したものですが、パイプとハープの組み合わせはこんにちにいたるまで、他に例がありません。チーフテンズでも、この二つだけという組み合わせはありません。

 一見プリミティヴに響きますが、よく聴くとかなり練り上げた、洗練された音楽をやっています。かれらによってもハープの存在は光を当てられました。

ワイルド・マウンテン・タイム
ザ・マクピーク・ファミリー
ライス・レコード
2010-04-25

 


Grainne Yeats (1940-2008)
Fanny Power from 1992, THE BELFAST HARP FESTIVAL
 第二次世界大戦後のアイルランドでハープが復興する立役者がこの人。記録を渉猟し、試行錯誤を重ねて、かつてのハープの演奏法を推測しました。こんにちの、とりわけ金属弦のハープ演奏はこの人が推測したものを受け継いでいます。

 アイリッシュ・ハープには金属弦、ガット弦、ナイロン弦、そしてカーボン・ファイバー弦があります。また半音を出して、様々なキーの曲を1台で演奏できるようにする機構についても、いろいろな方式があります。こうした構造上の話も昨日は村上さんがかなり突っ込んで話されました。

 このCDは、ベルファスト・ハープ・フェスティヴァル200周年を記念してリリースしたもので、このフェスティヴァルに集まったハーパーたちのレパートリィを録音しています。

 このフェスティヴァルは正式には Belfast Harpers' Assembly と呼ばれ、1792年4月23日に開かれました。当時、消える寸前になっていた放浪ハーパーの伝統を憂えたベルファストの有志がアイルランド全土のハーパーに呼びかけ、一堂に集めようとしたものですが、様々な理由から集まったのは11人、うち一人はウェールズのハーパーでした。このうちアイリッシュの10人の演奏した曲が楽譜に記録されました。当然クラシックの慣習、理論に従った形で採譜されていますし、右手のメロディのみですが、その希少性から、こんにちのハープ音楽の基礎資料になっています。

Belfast Harp Festival
Grainne Yeats
Gael Linn
1994-05-16

 


Derek Bell (1935-2002)
Fanny Power from 1975, CAROLAN'S RECEIPT
 世界で最も有名なアイリッシュ・ハーパーでしょう。デレクによってアイリッシュ・ハープの存在を知り、その音楽に触れた人はひじょうに多い。

 デレクはまたカロラン復興の一方の立役者でもあります。この1975年のLPは、全篇カロランの曲だけで構成された初めての録音でもあります。

 今回は同じ曲をグローニャ・イェーツと聞き比べてみました。デレクの演奏がクラシックの語法に則り、メロディを構成する音と音の間に装飾音を入れるよりも、メロディそのものの変奏を主体にしているのがよくわかります。

Carolans Receipt
Derek Bell
Cladd
2011-11-29

 


Maire Ni Chathasaigh (1956-)
The Flax In Bloom; Lough Allen; McAuliffe’s from 1988, THE LIVING WOODS
 アイリッシュ・ハープでダンス・チューンを演奏することを始めたパイオニアがモイア・ニ・カハシーです。おそらく1970年代末から始めていたと思われますが、その成果が明確な形で世に出たのは1985年のLP《THE NEW STRUNG HARP》でした。当時これを聴いたときの新鮮な衝撃は忘れられません。

 ダンス・チューン演奏の要諦のひとつは装飾音の入れ方ですが、モイアはこれをパイプの演奏から学んでいます。

 アイリッシュ・ミュージックにおいて装飾音の入れ方の標準、お手本となるのがパイプであるのは面白いところです。他の楽器、フィドルやフルート、アコーディオンはパイプの装飾音を模倣する、エミュレートする傾向が明瞭に見られます。

Living Wood
Chathasaigh Maire Ni
Black Crow (UK)
1994-09-05

 


Laoise Kelly (1973-)
Compliments To Sean Maguire; The Saratoga; President Garfield’s from 1999, JUST HARP
 1999年のこのCDでリーシャ・ケリーが登場したとき、まずそのジャケットの笑顔にノックアウトされました。彼女の登場がハープに与えた衝撃はシャロン・シャノンが登場したとき、アイリッシュ・ミュージックに与えた衝撃に相当します。それまでフォーマルな、ほとんどいかめしいという印象だったハープの雰囲気ががらりと変わり、明るくはじけた、楽しいものになったのです。

 村上さんによれば彼女の演奏は誰の影響も見えない、まったくユニークなもので、楽器も現在主流のレバー式ではなく、古いブレード式のものを使っているそうです。ベース弦を積極的に活用するスタイルは奔放で、そのダンス・チューン演奏はほとんどクラブ・サウンドと呼びたいくらいです。

 彼女は教えるのは苦手と公言していもいる由ですが、その影響はむしろこれから出てくるかもしれません。

Just Harp
Laoise Kelly
Claddagh
1999-02-22

 


Michael Rooney
Land’s End from  2006, LAND’S END
 いま現在、主流となっているハープ演奏のスタイルを確立したのがこの人。もともとは Janet Harbison の教え子の一人ですが、ハーパーとしてはまさに出藍の誉れ、師を完全に超えてしまった例です。

 ルーニィは十度奏法と呼ばれる、左手を開いて十度の和音を出すのを多用するスタイルを編み出し、これが現在、若いハーパーがこぞって採用するようになっています。

 もう一つこの人が凄いのは作曲の才能で、ハープのために作曲したその曲が数多く、アイリッシュ・ミュージック広く一般のレパートリィとして採り入れられています。セッションの場でも普通に演奏される、というのは、ばりばり現役の人では他にはリズ・キャロルくらいでしょうか。


 ハープはこうして見ると、アイリッシュ・ミュージックの流れのなかでは、バゥロンよりもブズーキやギターよりも新しいと言えるかもしれません。村上さん自身は、マイケル・ルーニィの影響をやはり受けていますが、そこから脱出して、自分なりのスタイルを編み出そうと努力されているそうです。かれの演奏はアイルランドではちょっと聴いたことのない繊細さを備えていて、ルーニィと並ぶ一方の雄になる可能性は十分もっていると思います。演奏者としてのこれからの活躍を大いに期待します。

 来年4月9日には第3回のハープ・フェスティヴァルが東京で開かれる予定です。村上さんはじめ、わが国のハーパーたちが一堂に会する楽しいイベントです。また今回はスコットランドからトップ・ハーパーの一人 Rachel Hair がその親友 Joy Dunlop とともに来日します。スコットランドのハープは clarsach と呼ばれることが多いですが、楽器そのものはアイルランドのものと同じです。スコットランドでは現在アイルランド以上にハープは盛り上がっています。そのベストを直接体験できます。公式サイトがまもなく立ち上がるそうですので、乞うご注目。


 このアイリッシュ・ミュージックの楽器シリーズは次はフィドルを予定しています。時期はまだ未定で、たぶん来年春。フィドルはなんといってもアイリッシュ・ミュージックのメイン楽器なので、いろいろ大変ではありますが、それだけまた楽しみでもあります。(ゆ)

 拙著『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行を記念して下北沢の本屋B&Bで続けているイベント、楽器に焦点を当てたシリーズの3回めはフルートです。

 ゲストはわが国を代表するフルーティストのひとり、豊田耕三さんにお願いしました。豊田さんは演奏者として傑出しているだけでなく、理論やトレーニングにも通暁されていて、話を聞いてるだけでもたいへん面白い。いろいろ、ふか〜い話も聞けるんじゃないかと期待してます。

10月15日(土)19:00〜21:00(開場18:30)
会場:本屋B&B(世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F)
料金:2000円+1 drink order(500円)
出演:豊田耕三(フルート/ホィッスル)、トシバウロン(バウロン)、おおしまゆたか(著者)
ご予約はB&Bのウェブサイトからどうぞ。




 フルートは比較的ローカルに伝承されてきて、マット・モロイの出現でわっと広がった。伝統音楽といっても一様に昔からどこにでもあったのではないことの一つの証拠みたいなところがあります。フィドルやパイプに比べると、ケイリ・バンドのメンバーではあるけれど日陰者だったのが、今はずいぶんと様相が変わってます。同じ笛でもホイッスルとはもちろん違うし、ロウ・ホイッスルとも音域は同じだけど、音のキャラクターは違う。それからまた、一般的なベーム式の楽器との違いや、このシンプルな楽器を使うことの意義、なんてのも思ったりします。

 なんて話を豊田さんに聞いてみたい。

 それともちろん、モロイ以前以後の巨人たちの話も。いや、その前にいかにマット・モロイが凄いか、という話がまず第一ですね。凄いのはわかるけれど、どこがどう凄いのか。なぜ、かれがフルートを変えたのか。というところを聞けたらいいな。(ゆ)

 トマス・フラナガン Thomas Flanagan を知ったのは New York Review of Books のニュースレターだった。そこでそのエッセイ集 THERE YOU ARE: Writing on Irish & American Literature and History, 2004 を知り、読んでみた。検索してみるとこの本が出ている。シェイマス・ヒーニイが序文で触れているのはこれだった。
 
 わが国ではミステリ作家として知られている。というよりもミステリ作家としてしか知られていない。本国アメリカでは逆にミステリを書いていたことはほとんど知られていない。まず第一にアイルランドの文学と歴史の泰斗であり、次に近代アイルランドを描いた歴史小説三部作の作者であり、それがすべてだ。

 1949年から1958年にかけて、26歳から35歳にかけて、フラナガンは7本の短篇を EQMM に発表している。そのうち2本は当時同誌が行なっていた年次コンテストでトップになっている。この時期かれは修士と博士をとったコロンビア大学の准教授だった。どこで読んだか忘れたが、これらの短篇は家賃を払うために書かれたという説があるが、分量からしても、当時の身分からしても、冗談ととるべきだろう。

 ちなみに『アデスタを吹く冷たい風』文庫版解説およびウィキペディアの記事では、「カリフォルニア大学バークレー校の終身在職教員」とあるが、母校 Amherst College ウエブ・サイトのバイオグラフィによれば、バークレーにいたのは1978年までで、78年から96年まではニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の教授を勤めている。96年に教職から引退してからバークレーに住み、執筆に専念した。

 4人の祖父母はいずれもアイルランドはファーマナ出身の移民だった。かれは移民三世になる。上記エッセイ集 THERE YOU ARE の表紙に使われた写真は24歳の時のフラナガンで、タバコを加えて見下ろしているのは、コロンビアの大学院生というよりは、アイルランド系マフィアの鉄砲玉だ。



 今、翻訳で読んでも、ジャンルに関係なくなかなか優れた作品と思うが、アメリカでは全く忘れられていて、単行本にもなっていない。アイルランドを舞台とした長篇三部作はテレビにもなり、ベストセラーだったが、短篇がまったく顧られないのは、形式や狙いが異なるとはいえ、いささか不思議でもある。ヒーニィの言及が無ければ同名異人かと思うほどだ。

 長篇第一作 The Year of the French (1979) のテレビ・ミニシリーズ版 (RTEとフランスのテレビ局の合作、1982) の音楽を担当したのがパディ・モローニで、この音楽をチーフテンズでやったアルバムもある。チーフテンズは、ミュージシャンとして「出演」もしている。

The Year of the French
Chieftains
Shanachie
1990-02-20

 
 作品の初出を調べようと思って検索してみたが、EQMM の全てを網羅した Index はみつからない。唯一見つかったものも不完全で The Fine Italian Hand と The Cold Winds of Adesta しか載っていない。わかった限りのデータを発表順に書いておく。

玉を懐いて罪あり The Fine Italian Hand, 1949-05
アデスタを吹く冷たい風 The Cold Winds of Adesta, 1952; 1969-07(再録)
良心の問題 The Point of Honor, 1952
獅子のたてがみ The Lion's Mane, 1953
うまくいったようだわね This Will Do Nicely, 1955
国のしきたり The Customs of the Country, 1956
もし君が陪審員なら Suppose You Were on the Jury, 1958-03

 どれも言葉のトリックだ。何をどう書くか、そしてより重要なことには書かないかの工夫によって読者の意表をつく。だからなおさらこれは原文で読みたくなる。韻律やダジャレなどに頼るものではないから、翻訳でも十分楽しめるが、原文にはおそらくより微妙な遊びやひっかけがあるはずだ。

 もっともミステリとは畢竟言葉のトリックではあろう。すべての手がかりが読者の前にそろっている、わけではない。

 すぐれたミステリはみなそうだろうが、これもまた謎解きだけがキモではない。謎が解けてしまったらそこでおしまいではない。むしろ、あっと思わされてから、頭にもどって読みなおしたくなる。それには周到な伏線だけでなく、むしろその周囲、ごく僅かな表情やしぐさの描写の、さりげないが入念な書込みがある。細部を楽しめるのだ。

 もう一つの魅力は舞台の面白さで、これはとりわけテナント少佐ものに顕著だ。軍事独裁政権下の探偵役、それも型破りで有能な人物はそれだけで魅力的だ。つまりサイエンス・フィクションやファンタジィ同様、設定自体がキャラクターの一つになっている。ランドル・ギャレットの「ダーシー卿シリーズ」と同様の形だ。テナント少佐はダーシー卿に比べればずっと複雑な性格で、おそらく読みかえすたびに新たな面、新たな特性に遭遇することになるだろう。ダーシー卿の場合、あの世界全体の表象として現れているので、かれ個人の側面は薄い。テナント少佐の世界は現実により近いので、世界を説明する必要はない。それだけ個人のキャラクターに筆を割ける。これが長篇ならば別だが、中短編の積み重ねで世界を作ってゆく場合には世界設定と個人のキャラクターとしての厚みと深みはトレードオフになる。

 テナント少佐が住み、働いている「共和国」は Jan Morris 描くところの Hav を思わせる。地中海沿岸のヨーロッパのどこかであること、出入口がほとんど鉄道1本であることが共通するが、それだけではない。時代からとり遺された感覚、ノスタルジアとアナクロニズムの混淆、そして頽廢の雰囲気。現代の時空にそこだけぽっかりと穿いた穴。そして奇妙に現代の世界を反映するそのあり方。歪んでいるが故にかえって真実を映す鏡。真実の隠れた部分が拡大されて映る鏡。

 この国はかろうじて危うい均衡を保っていて、テナント少佐自身がまたその中で危うい均衡を保っている。しかし、現実というのはどっしり安定して動かない、などということはおそらくあったとしてもごく稀で、たとえば極盛期清朝のように、一見磐石に見えても実際には危うい均衡を保っているだけなのだ。磐石に見えれば見えるほど、それは崩壊の瀬戸際にある。これらの物語は、テナント少佐の綱渡りを描いてもいて、その緊張感が面白さを増すのは、ふだん見えない、見ないようにしている危うさが眼前に現れるからだ。

 テナント少佐を支えるものは何であろうか。将軍の先も長くないことだろうか。といってとって代わって政権をとる意志も能力も自分には無いことはわかっている。そういう意味では、テナント少佐についてはもっと読みたかった。コロンビアからバークレーに移ってからは著者は短篇を書くことはなかった。フラナガンのなかでは学者、教育者としての側面とともに小説家としての存在も消しがたくあったのだろうが、そのエネルギーは長篇執筆に向けられた。短篇を書くほどの余裕は無かったのかもしれない。

 しかしここに現れた短篇作家としての力量は中途半端なものではない。EQMMはじめダイジェスト版の雑誌に書いている作家によくいる、一定の水準は超えるが、突破した傑作は書けない職人とも一線を画す。ジョイスに傾倒し、初めてダブリンを訪れた際には、空港からホテルまでのタクシーの中で、ジョイスに関係のある場所を残らず指摘してみせたという伝説の持主であれば、ここに『ダブリン市民』の遠い谺を聞き取ることも可能だろう。もし本気で作家として身を立てようとしたならば、おそらくは後にかれがその批評の対象としたような作家たちに肩を並べていただろう。あるいはこれらの作品を書いたのが家賃稼ぎというジョークがジョークではなく事実だったとしたら、つまり生活のために小説を書かねばならなかったとしたら、シルヴァーバーグのように作家として大成していたかもしれない。名門アマースト大学を出て、コロンビアで博士号をとるとそのまま教授陣に加わる頭脳と才覚の持主だったことがはたして本人にとって、そして世界にとって幸福なことだったか。本人はおそらく幸福だったのであろう。しかし、世界はおかげでより貧しくなった。

 この7本をミステリ・ファンがどう読むかは知らない。本国では忘れられたその作品を独自に集めてハヤカワ・ミステリの1冊として出したところを見れば、正当な評価をしている。しかし、その本は復刊希望で多くの票を集めながら、長いこと品切れのままだった。

 実際、どれもストレートな形の「ミステリ」ではない。殺人事件の解決もあるし、どれも謎解きがメインテーマだ。しかし、「ミステリ」と言われて一般の人が思い浮かべるものからはずれている。謎解きはあくまでも中心の推進剤だが、作者の関心はむしろ謎のよってきたるところに置かれている。なぜ、こんな謎が生じるのか。事件を誰が起こしたかよりも、なぜ生じたか。当然それは作者が生きている時空に起きていることにつながる。探偵が現れて活躍するための事件ではなく、事件は起こるべくして起こり、探偵はいやいやながら、やむをえず介入する。事件は日常的で、それだけ切実だ。

 一方でどれにもゲームの匂いがある。ある厳密なルールにしたがって書いてみて、どういうものが出てくるか、試しているようにもみえる。その点でぼくの読んだかぎり最も近いのは中井英夫の『とらんぷ譚』の諸篇だ。

 こうなってくるとやはり長篇を読まざるをえなくなる。1798年、ウルフ・トーンの叛乱からアイルランド独立戦争までを描く三部作。小説という形で初めて可能な歴史の真実の提示がどのようにされているか。NYRB版で合計2,000ページ超。(ゆ)








The Tenants of Time
Thomas Flanagan
NYRB Classics
2016-04-05


The End of the Hunt
Thomas Flanagan
NYRB Classics
2016-04-05


 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』の索引を作りました。版元のサイトに PDF としてアップロードされてます。ご自由にダウンロードしてお使いください。

 ぼくがほとんど手作業で拾ったので、漏れやミスはたくさんあるはずです。見つけた場合は版元にご一報いただけると、たいへんありがたいです。本来は校正をきっちりしなくてはならないんですが、とりあえず作っただけで力尽きました。

 とはいえ、アルファベットからカタカナへの変換リストは必要なので、それはなるべく早く作ります。

 欧米、すくなくとも英語圏では小説などを除けば、ほとんどの本に立派な索引がついてます。本文はたいしたことはないが、索引があるので何かと便利という本もよくあります。ところが日本語の本には、学術書の類でもきちんとした索引が付いていないものの方が多い。このあたりは文化ではありますが、改善していきたいところです。索引によって初めて本は生きるからです。

 なので、この本にも索引はもともと付けるつもりでした。んが、出版の際のどたばたで、ぼくも編集担当もすっぽりと抜けてしまいました。出ちまったものがしようがない、あとから作るべ、と言って作ったのがこれです。PDF なので、修正も簡単です。その点はケガの功名かも。

 ということで、がんがん使って、より良いものにしてください。(ゆ)




 

 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行記念イベント第2回にご来場いただきました皆様、まことにありがとうございました。お楽しみいただけましたでしょうか。ぼくはすっかりアガってしまって、肝心なことは抜かすし、つながりは切れてしまうし、お聞きぐるしかったのではないかと反省しております。とまれ、バンドの演奏がすばらしかったのは何よりでした。

 アイリッシュ・ミュージックは聴くにも、演るにも、あるいは踊るにも敷居が低く、すなおに入っていける音楽です。その点ではクラシックやジャズはもちろん、いわゆるポップスやアニソンよりもさらに敷居は低いと思います。

 なぜなら、アイリッシュ・ミュージックは押しつけがましいところがないからです。買ってもらおうとか、芸術をやるんだとか、あるいはこの音楽を演っている自分を見てくれ、聴いてくれ、という姿勢がありません。

 音楽は演っている人が一番楽しいと言われますが、アイリッシュ・ミュージックではそれが特にあてはまります。それは娯楽、ビジネスとしてのエンタテインメントではありません。自分たちはめいっぱい楽しんでいる、それを一緒に楽しむのは大歓迎、演奏が良いと思ったら、ギネスの一杯もおごってくれ。明日の朝食のパンをくれれば最高だ。

 どんな姿勢で聴いてもかまいません。寝っころがってもいい。おしゃべりはもちろん、赤ん坊がわんわん泣いても気にしません。アイリッシュ・ミュージックは人を拘束しないのです。

 たとえば、これから聴きはじめるのに、誰を何を、どういう順番で聴かなければならない、なんてこともありません。今回はたまたまぼくが最も重要と考えるミュージシャンたちとその録音の演奏を時系列にしたがって聴いていただきました。それによって見えてくることがあると思ったからですし、聴いていただく価値があると考えられるミュージシャンや録音をすべて演るわけにもいかないからです。でもこれがベストの選択や順番であるわけではありません。他のもっと地味な人たちでも、順番の途中をすっとばしても、逆から、現在から遡っても、あるいはシャッフルしても、全然かまいません。

 そうして聴いていかれる時に、今回のミュージシャンたちやぼくのコメントや、演奏する姿や音が何らかのヒントになって、より深く楽しむことができれば、あるいはさらに探索を続け、奥に入っていかれるときのお役にたてれば、ぼくらとしては本望です。

 アイリッシュ・ミュージックは敷居が低い音楽です。その一方で、懐の深い、どこまでいっても果てのない世界でもあります。入れば入るほど、さらに魅力的な音や風景が現れてきます。それはもう豊饒そのもの、沃野であり、楽園です。

 その沃野にわけいり、楽しみ、収獲を得ようとすると、敷居はそう低いままではいてくれません。アイリッシュ・ミュージックは人を拘束しませんが、同様に、手取り足取り案内することもしてくれません。ぼくらは自分で道をみつけ、楽しめるところを探し、収獲する方法を知らなければなりません。異なる文化、異なる伝統に育った人間にはそう簡単なことではありません。

 この本はそうしたとき、道案内になるかもしれません。ぼくは道のないところをうろうろすることが好きです。アイリッシュ・ミュージックの世界をうろつくことはことに好きです。そうしてあちらこちらほっつき歩いて見つけたこと、宝物が埋まっているところやおいしい果物の成っているところ、すばらしい景色の見える丘やルートを、ここに書きつけてみたわけです。

 アイリッシュ・ミュージックの沃野をうろつくことは簡単ではないとはいえ、そこは別にアブナイところではありません。命をとられる恐れがあるわけでもない。財布は多少薄くなるかもしれませんが、コストパフォーマンスという点ではこんなに高いものはそうそうない。ですから、道案内なんかいらないとマイペースでうろつかれることをまず薦めます。それでも、道案内があれば、ぼくなどが行けなかったところまで、ずっと深く広く、行くことができるかもしれませんし、ぼくにはわからなかったそれは美しい御花畑が開けるかもしれません。

 ぼく自身は今度のイベントをやらせていただいたおかげで、ほんとうにたくさんのことを学びました。それはもう、ただ録音やライヴを聴いたり、本を読んだりしただけではまずわからないことばかりです。あまりに多すぎて、すぐには消化できないくらいです。このイベントを一緒に楽しもうとご来場いただいた皆様に心より御礼もうしあげます。

 イベントを企画し、推進してくれたトシバウロン、そしてすばらしいミュージシャンの方々に重ねて感謝申し上げます。

 イベントのきっかけとなったこの本を改訂してリブートすることを企画されたアルテスパブリッシングの鈴木さん、ほんとうにありがとう。

 サラヴァ東京のスタッフの皆さん、ありがとうございました。

 ぼく自身、うろつくことはまだまだ続けます。まあ、生きているかぎり、こんな楽しいことはやめられません。いずれまた、そのご報告をどこかでできるかもしれません。(ゆ)

 いよいよ明日になりました。
『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行記念イベントの第2回は明日の夜、渋谷・サラヴァ東京でおこないます。


☆出演
大久保真奈(フィドル)
長尾晃司(ギター)
中村大史(ギター、ブズーキ、アコーディオン)
野口明生(イルン・パイプ)
田中千尋(ボタン・アコーディオン)
トシバウロン(バウロン)

☆日時 10月14日(水)19時30分開演(19時開場 22時終了予定)
☆会場 サラヴァ東京(渋谷駅から徒歩6分・東急文化村よこ)
☆入場料 前売3000円/当日3500円(1ドリンク付き)
*学生の方はドリンク込2500円でご入場いただけます。当日受付で学生証をご提示下さい。
☆ご予約
*アルテスパブリッシング
メール:info@artespublishing.com または 電話:03-6805-2886で、お名前・人数・電話番号・メールアドレスとともにお申込みください。お支払いは当日受付でお願いします。

*サラヴァ東京
電話:03-6427-8886 で承ります。
【受付時間】予約受付デスク:月〜金(祝日を除く)の16:00〜19:00
詳細はお店のウェブサイト「予約フォーム」をご覧ください。


 前回はいろいろ会場の制限があったし、内容も手探りの部分がありました。予行演習というと語弊がありそうですが、とにかくやってみんべ、というところがあったことはたしか。

 その意味では、今回の方が、いわば「本番」になりましょう。なによりミュージシャンの方々が楽曲への理解を深められ、録音をライヴでやることの意義をより明確に把握されています。そのことはリハーサルからわかりました。

 歴史的な演奏を現在の時点で別のミュージシャンが生として再現することは、ジャズの世界では昔からおこなわれていて、オリジナルの演奏を新たな角度から聞き直して様々な発見をする契機になっています。まあ、それを言えば、クラシックはそれをメインの活動にしているわけです。

 アイリッシュ・ミュージックの場合、ぼくらにとって意義があるのは、これがやはり異国の音楽であるからです。異なる伝統、異なる文化の産物であるわけで、日本人がジャズやクラシックを演奏するよりも、発見するものが遙かに大きくなる可能性があります。

 理屈はいちおう脇に置いて、とにかく先達がやったとおりに演奏する、しようとしてみる。やったとおりになるはずはないわけですが、ではどこがどのように違うか、その違うところにアイリッシュ・ミュージックの本質、オリジナルの演奏が意図したところ、先達がめざしたところが見えて、聞えてきます。

 演奏する方はもちろんですが、聴く方もくりかえし体験することで、そうした理解が深まり、新鮮な体験を得られることは、リハーサルも含めて何度も繰り返し聴いているあたしが保証します。あたしの保証ではぜんぜん保証にはならないかもしれませんが。

 ということで、明日、渋谷でお目にかかりましょう。(ゆ)

 




 10/14 に予定しております第2回の『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行記念イベントのリハーサルに参加してきました。

 リハーサルって面白いですね。いろいろな要素を組込みながら、あーでもないこーでもない、こーしてみようか、ああいうのはどうだろう、と試行錯誤して作り上げてゆくのを見るのはたいへん楽しい。ミュージシャンの方たちはたいへんかもしれませんが。

 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』は、現在ぼくらが聴いているアイリッシュ・ミュージックがどういう経緯を経て今の形になってきたかをあたしなりに書いたもので、そこでとりあげた中でも鍵を握る最重要バンドの演奏を、生で再現してみようというのがこのイベントです。

 第1回ではプランクシティから始めて、ボシィ・バンド、デ・ダナン、チーフテンズ、アルタンの曲をとりあげました。会場の制約もあり、これ以上は削れないギリギリの選択でありました。

 今回は時間的に余裕があるので、まずシャロン・シャノンとダーヴィッシュを加えます。そのためにアコーディオン奏者に加わっていただきますので、前回は「ジャッキィ・デイリー」抜きだったデ・ダナンも本来の形で聴くことができます。

 だけでなく、リハーサルでは前回の反省も加えて、他のバンドの再現での楽器の組合せにも改訂がほどこされていました。

 それにしても、「再現」することでこんなにいろいろな発見があるとは、正直やる前には思いもよりませんでした。まず、やっぱり、簡単にできない。演奏するメンバーはいずれも名手ですが、その名手たちでも悲鳴をあげるくらい難しい曲が多いのです。選ぶ時には各バンドの特徴が出ているものを心掛けているのですが、聴いている分にはどれもすらすらと演奏されていて、誰でもできそうに聞こえます。難しい曲を簡単そうに聞かせるのもプロの技、ということでしょうか。

 それと、生で聴くことで録音ではわからない要素がぱっとわかるようになります。例えば、今度のリハーサルで気がついたことのひとつに、ボシィ・バンドの曲がすばらしくスイングすることがあります。2回目で演奏する方も馴れてきたのでしょうか。疾走感や切迫感はもちろんですが、それ以上に波に乗って運ばれてゆくスイングする感覚は新鮮な驚きです。

 あるいはシャロン・シャノンのメドレーでは、曲の性格がそろうように選んで、並べているのがわかるのも面白い。シャロンはもっと「天然」で、本能的に選んで並べていると思っていたのは浅はかでした。

 ミュージシャンの方たちもそれぞれに知見を深められているようで、前回より突っ込んだ話が聞けるのではと期待しています。結構技術的に濃い話も出そうです。

 1番の問題はあたしのしゃべりであることはあいかわらずですが、ほんとうにこの演奏を聴くだけでも収獲はたくさんあるでしょう。前回来られた方でも、あたしの同じ話を二度聞くのはたくさんと思われるのは無理もありませんが、演奏を二度聞くのは必ずや得るところが多いと断言できます。(ゆ)
 



☆出演
大久保真奈(フィドル)
長尾晃司(ギター)
中村大史(ギター、ブズーキ、アコーディオン)
野口明生(イルン・パイプ)
田中千尋(ボタン・アコーディオン)
トシバウロン(バウロン)

おおしまゆたか(しゃべり)
 
☆日時 10月14日(水)19時30分開演(19時開場 22時終了予定)
☆会場 サラヴァ東京(渋谷駅から徒歩6分・東急文化村よこ)
☆入場料 前売3000円/当日3500円(1ドリンク付き)
*学生の方はドリンク込2500円でご入場いただけます。当日受付で学生証をご提示下さい。
☆ご予約
*アルテスパブリッシング
メール:info@artespublishing.com または 電話:03-6805-2886で、お名前・人数・電話番号・メールアドレスとともにお申込みください。お支払いは当日受付でお願いします。

*サラヴァ東京
電話:03-6427-8886 で承ります。
【受付時間】予約受付デスク:月〜金(祝日を除く)の16:00〜19:00
詳細はお店のウェブサイト「予約フォーム」をご覧ください。

 昨日の

「バウロン研究会特別編レクチャーライブ
名プレイヤーで辿るバウロンの歴史とこれから」

に多数ご来場いただきまして、まことにありがとうございました。

 この企画はトシバウロンが研究会主宰の北川友里さんにもちかけ、北川さんが反応して始まりました。あたしのところにお鉢が回ってきたのは、『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』の刊行記念イベントでトシさんの協力を仰いでいたからでしょう。この本の趣旨としても、こうした企画は願ってもないことです。

 トシさんの先輩で、トシさんと並んでわが国バウロンのトップ・プレーヤーであり、わが国におけるバウロンの普及にも永年取組んでおられる長濱武明さんのご協力もいただき、あたしとしても、実に面白く、刺戟に満ちた経験をさせてもらい、そして大いに勉強になりました。一つの楽器に集中することで、これまでとまったく違う角度からアイリッシュ・ミュージックを聴いたり、眺めたりすることができました。バウロンは面白い素材と思ってはいましたが、正直ここまで面白いものとは、想像を超えておりました。

 今回のイベントは、あたしはむしろ狂言回しで、長濱さんとトシさんからいろいろと引き出す役割を心掛けましたが、その意図はかなりうまく当ったと思います。

 楽器だけでなく、長濱さんからはお得意のPAの知識と経験を活かした話がぽんぽんと出していただけましたし、トシさんは会ってきたばかりの向こうのバウロン奏者たちの生々しい話が聴けました。ポイントでのお二人の実演もうまくはまっていたと思います。最後には、思いもかけず、すばらしいセッションまで聴けて、あたしとしてはもう言うことはありません。

 あそこで披露されたことは、バウロン研究会から何らかの形でまとめられると思いますが、出たらあたしも買いたい。

 その後の懇親会もいろいろお話が聞けて、楽しいことでした。

 会場の Second Step も、すばらしいPAを備えたすてきなところです。今度は客として行きたい。

 企画・運営されたバウロン研究会の北川さん、講師として引っぱってくださった長濱さん、トシさん、受付などのスタッフの皆さん、そしてセカンド・ステップのオーナーご夫妻に深く御礼を申し上げます。(ゆ)

 春に刊行しました『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』のキモをライヴ演奏で再現するイベントの第二弾をすることになりました。


☆出演
大久保真奈(フィドル)
長尾晃司(ギター)
中村大史(ギター、ブズーキ、アコーディオン)
野口明生(イルン・パイプ)
田中千尋(ボタン・アコーディオン)
トシバウロン(バウロン)

☆日時 10月14日(水)19時30分開演(19時開場 22時終了予定)
☆会場 サラヴァ東京(渋谷駅から徒歩6分・東急文化村よこ)
☆入場料 前売3000円/当日3500円(1ドリンク付き)
*学生の方はドリンク込2500円でご入場いただけます。当日受付で学生証をご提示下さい。
☆ご予約
*アルテスパブリッシング
メール:info@artespublishing.com または 電話:03-6805-2886で、お名前・人数・電話番号・メールアドレスとともにお申込みください。お支払いは当日受付でお願いします。

*サラヴァ東京
電話:03-6427-8886 で承ります。
【受付時間】予約受付デスク:月〜金(祝日を除く)の16:00〜19:00
詳細はお店のウェブサイト「予約フォーム」をご覧ください。


 第1回は予想に反して、あっという間に予約がいっぱいになってしまい、やむなくお断りせざるをえなかった方も多数にのぼったと聞いています。

 また、在日アイルランド大使公邸という願ってもない場所で開催できたんですが、そういう特別な場所だけにいろいろ制約もありました。

 ですので、2回めをという声はたくさんいただいていましたし、第1回ではできなかったことをきちんとやっておきたいという気持ちもありました。

 その最大のものは、時間の制約からアルタンまでで内容をカットしなければならなかったことです。

 この本は、ぼくらが今親しんでいるモダン・アイリッシュ・ミュージックがどうやって今の姿をとるにいたったかを、主に録音を通して解明しようとした試みで、イベントでは、そこで時代を画した録音を、ライヴで再現し、体験してみようというのが趣旨です。

 プランクシティ、ボシィ・バンド、デ・ダナン、チーフテンズ、アルタンまでを第1回でやってみたわけですが、今回はアルタンの後、シャロン・シャノン、ダーヴィッシュ、ルナサまでを加える予定です。

 そのためにアコーディオンの田中千尋さんに加わっていただきましたので、前回できなかったジャッキィ・デイリーの入ったデ・ダナンも再現できるでしょう。

 この再現はまったくのコピーというわけではありません。それは現実的に不可能ですし、できたとしてもあまり意味はないでしょう。それよりも、演奏のスピリット、キモを再現することをめざしてます。当時、かれらがめざしたものを再現するといってもいいと思います。そうしてみると、お客様だけでなく、演ずる方でもまたいろいろな発見がありました。時代を画した演奏にはやはり時代を動かすだけのものがあったのです。そういうことは、再現しようと実際にやってみて初めてわかるところも大きいのですね。ミホール・オ・ドーナルのギターが実は何をやっているのかとか、リアム・オ・フリンのパイプの技の高さとか。

 ということで、場所はともかく、内容としては前回以上のものができるとぼくも期待しています。


 このイベントの前、09月23日にはバウロン研究会でもこの本にまつわるイベントをやらせてもらいます。そちらもよしなに。(ゆ)




 かなり強力な雨男であるぼくのイベントには珍しく雨は降らず(翌日土砂降りでした)、これもミュージシャンの中におそらくはより強力な晴女・晴男がいてくれたおかげでありましょう。

 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行記念イベント、無事おわりました。来てくださった方々は皆さん満足されたようで、まずは胸をなでおろしたところです。ご来場、まことにありがとうございました。

 これもひとえに発案・推進のトシバウロンと鈴木さん@アルテスパブリッシング、それに演奏担当のミュージシャンの皆さんのおかげです。

 それと特筆しなくてはならないのは、在日アイルランド大使公邸という、めったに使えるチャンスのないスペシャルな場所を提供され、くわえて豪華・美味な食事と飲み物を用意された大使館のご好意です。赴任されて間もないアン・バリントン大使と文化アタッシェのアシュリンさん(日本語が達者)はじめ、スタッフの方々に深く深く御礼を申し上げます。

 今回の趣旨は、『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』でぼくが書いたモダン・アイリッシュ・ミュージックの生まれてきた様子を、元の音源ではなく、生演奏で聴いてみようというものです。その際に最低限必要なコンテクストをぼくが言葉で説明しました。

 録音ではなく、生の演奏で聴くというのは、想像した以上に収獲がありました。録音と生の違いはひとまず置いても、ミュージシャンの人たちとやりとりができたことと、アンサンブルの一部だけとり出して演奏していただいたことです。

 例えばプランクシティとボシィ・バンドでドーナル・ラニィのブズーキ演奏がどう変わっているか。そのボシィ・バンドでのブズーキとギターの役割分担がどうなっているか。あるいはリアム・オ・フリンとパディ・キーナンとパディ・モローニそれぞれのパイプ演奏の性格がどう違うか。こういうことは、正直ぼくも今回初めて明瞭にわかったことでありました。デ・ダナンのジョニィ・リンゴ・マクドノー以前と以後でのバゥロン演奏の違いも、こうして目の前で比べられるとまさに一目瞭然です。

 これによって今ぼくらが聴いているアイリッシュ・ミュージックの基本的性格や特徴が、立体的に見えてきました。 

 ミュージシャンの方々ご自身もいろいろな発見や収獲があったようで、長尾晃司さんが、ミホール・オ・ドーナルが単純なコードしか使っていないのに、とてもダイナミックで変化の大きな音楽をうみだしていることをあらためて認識されたというのには、ををっと思いました。後でセッションの時にこのミホール流コード・ワークを試してみたところ、それによって全体が浮揚し、音楽が活き活きしてくる様を実感されたそうです。

 今回のイベントの成功はもちろん5人のミュージシャンの方々の精進によるものです。それには、お一人おひとりが、アイリッシュ・ミュージックだけでなく、音楽全体を深く理解し、身につけられていることも寄与しているのではありましょう。

 個人的に最も感服したのは、ドーナル・ラニィの演奏法の変化を指摘された中村大史さんのブズーキ、マレード・ニ・ムィニーのドニゴール・フィドルの空気をみごとに再現された大久保真奈さんのフィドルと、3人のパイパーの違いを明らかにしてくれた野口明生さんのパイプです。大使も挨拶で触れておられましたが、一人前になるには21年かかると言われるイルン・パイプを野口さんが2年で習得されたのは驚異としか言いようがありません。

 それにしても、モダン・アイリッシュ・ミュージックを作ってきた名演を生演奏で再現できる、それもただコピーするのではなく、それぞれの性格・特徴を的確に把握し、それを提示する形で演奏できるようになったというのには、ぼくなどはどうしても感傷的になってしまいます。

 しかしそれ以上に、ラストのジョンジョンフェスティバル+1としての演奏のすばらしさに、これだけでもこのイベントを開催した価値はあると思ったことでありました。スペインはアストゥリアスの曲、アメリカのハンツ・アラキから習った曲、それにダーヴィッシュの演奏からの曲をつなげるという自在さと、緩急をあざやかに対照させる構成、そして完璧な演奏は、いま・ここで起きていることの象徴でした。聴衆の熱狂的な反応はこの音楽が借り物などではない、ホンモノであることの何よりの証に思えました。

 今回の成功を受けて、このイベントをブラッシュアップし、様々な形で開催しようという話が出ています。また、今回は収容人数に制限があり、満員札止めでおことわりしなければならなかった希望者の数も少なくないそうです。そうした方々のためのリベンジとこの場合言えるのかな、再演も企画されています。全国ツアーだとの声もあります。どーせなら、めざせブドーカン!

 また、別の角度からの展開もできそうです。たとえばバゥロンに焦点をあてて、これがアイリッシュ・ミュージックで使われるようになった経緯や、その演奏法・スタイルの変遷をたどってみるという企画も進行中です。イルン・パイプなどでもできるかもしれません。

 鈴木さんの強い勧めにしたがったものの、正直「いまさら」という気持ちがどうしても消えませんでした。けれどそれによってこういうイベントができたというのは、改訂版を出したこともムダではなかったと思ったことであります。

 アイルランド大使公邸のある場所にはぼくが生まれ育った家がありました。かつてアイリッシュ・ミュージックに出逢ったところでこういうイベントができたのは、奇遇というだけではすまない縁を感じました。(ゆ)


 

 07/02(木)に予定しております、アイルランド大使公邸でのイベントのリハーサルが昨日都内某所であり、参加してきました。

 イベントについてはこちらをご覧ください。

 こういうリハーサルに参加するのは初めてで、どんなことになるか、不安もあったんですが、ミュージシャンの皆さんのおかげで楽しく過ごせました。皆さん腕は達者だし、カンも良くて、飲み込みも速い。当日の選曲とおおまかな流れはまず固まりました。

 問題はあたしのしゃべりで、これはもうどうなることか。アルテスの鈴木さんによると予約がとても好調で、このままの調子でゆくと、ひょっとすると入りきれない可能性もなくはない。なんて聞くと、すごいプレッシャー。人前でしゃべることはこれでも結構回数を重ねているんですが、いつもはたいてい単独で、勝手にしゃべりちらしていればいいわけだったんですが、今回はそうもいかない。これだけのミュージシャンと共演というのも光栄、といえばカッコいいですが、あれだけの演奏にふさわしいしゃべりができるのか、内心では不安がむくむく湧いてきてます。

 台本書いたら棒読みになりそうだし、メモくらいではアガリまくって、なに話しているのかわからなくなりそうだし。どうもね、この頃、アガるんですよ。いーぐるのイベントでもアガる。亀の甲より年の功なんていいますが、年とったらアガるようになってきた。うーむ、コトバにつまったら、音楽、たのみます、でまかせるしかないか。

 演奏はばっちりです。やはりね、録音でさんざん聴いて耳タコになっていても、生演奏で聴く、というのは違います。リハーサルでも実感しました。ボシィ・バンドのあの曲なんて、リハーサルで軽く流しているだけなのに、背筋に戦慄が走りました。あたしのしゃべりなんぞすっ飛ばして、これを聴くのだけでも、価値はあると思います。(ゆ)

 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』刊行記念イベント 版元のアルテスパブリッシングのサイトに出ましたので、こちらでも告知します。

 小著『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』の刊行を記念してのイベントを、7月2日(木)に開催します。場所はアイルランド大使公邸の大広間、なのかな、いろいろなイベントを開いているそうな。
http://artespublishing.com/events/ireland0702/
https://www.facebook.com/events/833896019992529/

 何をやるか、というと、本に書いてあることを実際に聴いてみましょう。といっても、プランクシティとかボシィ・バンドとかアルタンとか、そういう時代を画し、今のアイリッシュ・ミュージックを作ってきた録音を聴くのは読者がそれぞれにできるでしょうから、いっそ生音で聴いてみるのはどうや、というわけ。言いだしっぺはトシバウロンさんで、はじめはそんなんできるんかいな、と半信半疑だったんですけど、トシさんがどんどんと進めるのにほいほいとついていったら、こういうことになり、しかもアイルランド大使館の協賛までいただいて、正直いささかあせっております。来月早々にはリハーサルも予定されていて、どんな音になるのか、あたし自身楽しみです。

 もちろんプランクシティやボシィやの演奏をそっくりそのまま再現するのは不可能だし、だったら録音を聴いていただけばいいので、あまり意味があるとも思えません。むしろ、そうした録音のキモ、アイリッシュ・ミュージックへの貢献の一番肝心なところを、ああ、これかーと体験できることをめざします。その時々のアイルランドの人びとや世界の他の場所であたしのような人間たちが受けた衝撃と歓びを追体験していただこうというわけ。そのためにあたしがコトバで説明もします。実演のよいところは、いろいろ試しもできることで、ちょっと楽器を変えてみるとか、一部だけとりだしてみるとかもできるんじゃないか。

 こういう形は初めてで、うまくいけばたいへん面白いものになるでしょう。たとえうまくいかなくても、時の試練に耐えてきた名曲を、いまのわが国のトップのメンバーの生演奏で聴けるというのはお得と思います。しかも、アイルランド大使公邸なんて、こういうことでもなければなかなか入るチャンスもありません。おまけに後半はおいしい飲み物と料理を楽しみながら、アイリッシュ・ミュージックのセッションも楽しめる。楽器を持ってくるのもOKで、セッションに参加できます。

 本を読んでから来ていただけるとうれしいですが、これを見てから本を読むのも、かなり面白い体験になるんじゃないでしょうか。会場で販売もできるそうなので、すでにお持ちの方は、保存用、プレゼント用にどうぞ。

 ということで、7月2日、ハナモクの夜にお眼にかかりましょう。(ゆ)



 人間誰でも一生に一冊は本が書けるという。

 では、ぼくの場合、なぜこの本だったか。

 直接の理由は書くように薦められたからだが、その薦めに乗ったのは、アイリッシュ・ミュージックとは何か、いちいち説明するのが嫌になったからだ。こんな本を書いたからといって、そう説明することが必要になる頻度が減るはずはないが、それでもとりあえず、これを読んでくれ、ということはできよう。

 その割には、いろいろな前提をすっとばし、すでに知られているものとして書いていた。そうなったのは、もう一つの理由が、漠然と捉えていたものにより明瞭な形を与えたい、というものだったからでもある。つまり、第一の読者対象は自分だった。ぼくなりのアイリッシュ・ミュージックというものを描くことで、つかまえようとすればするりと抜けてしまう相手をつかまえようとした。

 その間の機微は、旧版『アイリッシュ・ミュージックの森』の「はじめに」にまとめた。今回は編集者との相談の上さしかえたが、あれはこの本のなりたちについて述べているので、ここに再録する。横組用に一部数字をアラビア数字にしたり、段落の間を1行空け、明らかな誤字脱字を正した他は、初版そのままである。内容や文章にいささかあやしいところもあるが、20年前に書いたものとて、変更はしていない。(ゆ)


--引用開始--
 アイルランドやブリテンの音楽、それも伝統音楽を好んで聴いている、というとたいてい「なぜそんなものが好きなのだ」と尋ねられる。あるところの音楽を好きになるのに、理由などいらんだろうと尋ねられるほうは思うが、尋ねたほうは当然という顔で訊いてくる。ロックが好きだ、とかジャズが好きだ、クラシックが趣味です、あるいはカントリーが最高、中華ポップスにはまってますといえば、なぜ、という質問は出ないのだろうか。なぜ、そんな質問をするのだ、とこちらこそ尋ねてみたい。音楽でも人でも、好きになるのに理由があるのだろうか。

 とはいえ、確かに冷静になってみると、なぜこんな音楽が好きなのだ、と自分でも不思議に思う。「なぜ、と考えることが、トラッド・ファンは好きな連中だ」と松平維秋氏もかつて書いていた。東京・渋谷は百軒店にあったロック喫茶「ブラックホーク」で「お皿回し」を勤め、「トラッド」をわが国音楽シーンの一角に根づかせた張本人である。たまたまそういう理屈好きの人間が集まっただけなのか、「トラッド」とこの国では総称されるアイルランドやブリテンの伝統音楽/フォーク・ミュージックには、人を理屈好きにさせる力があるのか、それは知らない。いずれにしても、なぜ好きなのかと考えてみて、一応の結論として出てきたのは、こちらから進んで好きになったわけではない、ということだ。

 この手の音楽にのめりこむきっかけは、トラフィック(1967年結成)という英国のロック・バンドの「ジョン・バーリコーン」を聞いたことだ。1970年に発表された同名のアルバムに収められたこの曲を、スティーヴィー・ウィンウッドはアコースティック・ギターとフルート、それにトライアングルの伴奏で歌っている。アルバム発表からかなりあと、70年代も半ばころだった。これはイングランドの古いバラッドだが、そのときはアイルランドもイングランドも区別などつかない。

 この歌がぼくにはじつに異様に聞こえた。美しいとも、かっこいいとも、「いい音楽だ」とも感じられなかった。それまで触れてきた音楽、歌謡曲とかテレビ・アニメの主題歌とかクラシックとかロックとは、明らかに違うものに響いた。そして、その異常さが気になった。こんな妙な音楽がある、しかもそれを有名なロック・ミュージシャンがやっていることが腑に落ちなかった。喉に刺さった小骨だ。だからその小骨をとろうと、繰り返しこの曲を聴いた。当然その曲だけ何度も聴いても、異様さは薄れるものではない。似たものを探しはじめた。手がかりはこの曲のクレジットに記された "Trad." という言葉。「トラッド」ってなんだと訊いて回っても、誰も知らない。音楽通のある友人がペンタングルという名前を教えてくれた。だが、そのころのぼくにはペンタングルはまだ早すぎた。この唯一無二の集団の真価を理解しはじめるには、十年の歳月と得がたい友人が必要だった。そうしたある日、そのころ最後の花を咲かせていたロック喫茶の一軒として、ぼくは「ブラックホーク」の扉を押す。

 そこは普通のロック喫茶ではなかった。少なくとも、すでに通いはじめていた新宿の「レインボー」や「ライトハウス」や、吉祥寺の「赤毛とそばかす」、同じく渋谷・百軒店の「BYG」とはまったく違っていた。あとから思えば、あの異様さは、「ジョン・バーリコーン」の異様さと相通じるものだったのかもしれない。そこには「スモール・タウン・トーク」という、店の発行しているミニコミ誌があり、ほぼ毎週「ブラックホーク・ニュース」というガリ版刷りのフリー・ペーパーが出ていた。そのなかで、松平維秋なる人物が、聞いたこともないミュージシャンやグループの、聞いたこともないレコードを紹介していた。それを読んでも、どんな音楽なのか、さっぱりわからない。その前に、書いてあることがわからない。たとえば、スティーライ・スパンのセカンドとサードについて、「ご存じのように、マーティン・カーシィとアシュレィ・ハッチングスがいっしょにいたのはこのときだけです」などとある。このカーシィという男もハッチングスという人物もひどく大物らしいが、いったい何者なのだろう。前提が違いすぎた。ただ、頻繁に「トラッド」の文字が現れる。店でかかる音楽も違っていた。まず静かだった。隣の人間としゃべるのに、相手の耳に口をつけて怒鳴らなくても聞こえる。音楽自体も静かだ。総じて、いちばん大きく聞こえるのはヴォーカルだ。電気楽器を使わないものも多い。これが「ロック」なのか。これでも「ロック喫茶」なのか。その異様さはやはり気になった。そこでまたこの店に戻ってゆくことになる。

 そうしてまたある日。店の片隅で本を読んでいたぼくの耳に、いきなり響いた。あの「異様な」音である。いや「ジョン・バーリコーン」ではない。曲は違う。けれど、この音運びの異様さ、ペンタングルにはない「土」の匂いのする肌触り。これは同類だ。「ブラックホーク」は出入り口の扉のすぐ脇がガラス張りのレコード室になっていた。ガラスの隅に、今かけているレコードのジャケットが飾られている。リチャード&リンダ・トンプソン『ポア・ダウン・ライク・シルヴァー』(1975年)。「トラッド」ではない。オリジナルらしい。だが、これは間違いなくどこかでつながっているはずだ。二つの異様さが重なった。

 その先にどういう世界があるのか、予感などというものはまるでなかった。なにか考えていたとしても、漠然とロックの変形、位置的にはプログレのようなサブジャンルなのだろうという程度。動機としてはただただ、喉の小骨を、あの異様な響きを異様なものでなくしたい欲求があるだけだ。結局「ブラックホーク」の異様な空間で、異様な響きは異様ではなくなっていった。そこには「異様な響き」がふんだんにあったからだ。リチャード&リンダ・トンプソンからニック・ジョーンズ、デイヴ・スウォブリック、フェアポート・コンヴェンション、アルビオン・カントリー・バンド、さしてジューン・テイバー、という順番は今でも覚えている。三日にあげず通いはじめれば、いくらでも異様な響きに浸ることができた。アイルランドの音楽も異様さの点では同じだったから、そのころはアイルランドもイングランドもスコットランドもみんなまとめて一つのジャンル、またはサブジャンルとして捉えていた。だいたい、アイルランドという国自体、「イギリス」の一部という認識から一歩も出ていなかった。

 アイルランドのもので初めて聴いたのは、クリスティ・ムーアのサード、ザ・ブラックスミス、トゥリーナ・ニ・ゴゥナルのソロ。玉石混淆。アイルランド盤がどっと入ってきて紹介されていた時期でもある。イングランドやスコットランドのものに比べると、ずいぶんと「明るい」ね、などと数少ない同好の友人と言いあいながら、すでに刷り込まれていたブリテンとの違いを漠然と感じ取ってはいた。その違いがなんなのか、どこからきているのかよくわからず、「アイルランドは結局『二流のイギリス』だ」などという表現にうなずいていたりした。今から思えば、そうした表現はアイルランドの音楽が、既存のロックやポピュラー音楽の枠では捉えられないことへの苛立ちを表していたのだろう。しかし苛立ちながらも、アイルランド音楽を漁ることはやめなかった。「異様さ」はすでになくてはならぬものになってしまっていたからだ。そこから先はもう止めるものはなにもない。自分が足を踏み入れたのは、事実上無限に広がる沃野であると気づくのは、ずいぶんあとのことだ。

 だから、はじめから「好き」だったわけではない。たまたま聞いて気に入ったのではなかった。自分にとって異質なもの、異様なものを追いかけていたら、そしてその異質さ、異様さを消化しようとしていたら、いつの間にかそれなしではすまなくなってしまった。これを要するにミイラとりがミイラになったわけだ。なにかわからないが、得体の知れないものに取り込まれてしまったのだ。つまりは、ぼくはアイルランド音楽に、あるいはここでの主題ではないがブリテンの音楽に、選ばれてしまった。選ばれるというのが傲慢であるというならば、呼ばれたといおうか。そこにはこちら側の意志の入る余地はない。その点では、相手が音楽で、ヘロインなどではなかったことに感謝している。少なくともこの音楽は体も心も健康にしてくれる。ヘルシィなドラッグだ。

 この本はいうなれば、そのドラッグへのラヴレターである。選んでくれた、ないし呼んでくれたことへの報復ないし返礼である。それが第二次大戦後、こんにちまでのアイルランド音楽の歩みを跡づけるかたちをとったのは、歴史が好きだからだ。音楽そのものも好きだが、音楽の背後にあるものを探るのも同じくらい好きだからだ。当然、これはきわめてパーソナルな物語である。ぼくの眼に映った、ぼくの耳に聞こえた、ぼくの手の届く範囲で調べ回った物語である。それ以下のものではあるかもしれないが、それ以上のものではない。もしこの本を読まれて、アイルランド音楽が嫌いになったとしても、それはぼくの関知するところではない。縁がなかったのだと諦めていただこう。もしこの本を読まれて、いささかでもアイルランド音楽への興味が増したならば、それもまたぼくの関知するところではない。ぼくはただ、アイルランド音楽について、今の時点で書いておきたいと思ったことを記しただけであり、そのあとのことはアイルランド音楽自体の作用だ。

 ブリテンの音楽について触れていないのは、ひとつには単純にスペースと時間がなかったからであり、もうひとつにはすでにそちらを扱ったはるかに立派な本が存在するからだ。茂木健氏の『バラッドの世界——ブリティッシュ・トラッドの系譜』(春秋社、1996年)である。併読をお薦めしておく。

 アイルランドの音楽をブリテンの音楽とは別個の、深く結びついてはいるが独立した世界として認識しはじめたのは、ドロレス・ケーン&ジョン・フォークナーの『ブロークン・ハーティド・アイル・ワンダー』(1979年)あたりからのように思う。1970年代も終わろうとするころだ。メアリ・ブラックのソロ・ファースト『メアリ・ブラック』(1983年)、チーフテンズの『ライヴ!』(1977年)などがその後押しをした。最後のひと押しは、のちにアルタンとなるマレード・ニ・ウィニー&フランキィ・ケネディの最初のアルバム『北の調べ』(1983年)だったろう。かくも若い連中が、なんの飾りも道具立てもない素っ裸の伝統音楽を、かくもみずみずしく演奏している。アイルランド、恐るべし。

 アイルランドの音楽をアイルランドの音楽として意識して聴きはじめて教えられたことの一つは、音楽は特別なものではなく、おしゃべりや手紙のやりとり同様、人と人とのコミュニケーションの基本要素である、ということだ。はじめからエンタテンイメントの一環として他人に聴かせるためのものではない。とはいえ、このことを明確に認識したのはずっとあとのことになる。今年(1997年)アルタンが初来日したおり、公式のライヴが終わっての打ち上げが会場近くのビール・バーで行われた。そこでバンドのメンバーは、座ったと思う間もなく楽器をとりだしたものだ。それから延々朝方の二時過ぎまで、ほとんどとぎれずに彼らは音楽をやりつづけた。店が閉まらなければ、そのまま夜の明けるまでやっていたことだろう。周囲の関係者に聴かせようなどという姿勢はまるでなかった。それはちょうど友人同士でおしゃべりをしているのと同じだ。たがいが仲間であることの確認をしている。音楽の基本的性格は、娯楽のためのもの前に、コミュニケーション手段である。この点では、ジャズをはじめ、世界中の伝統音楽・大衆音楽はみな変わらないはずだ。音楽はやっている人間がいちばん楽しんでいる、という表現は、この事実をいささか嫉妬をこめて指摘したものだ。

 そのうち、娯楽の性格だけが肥大化してきたのは、音楽の「商品化」「メディア化」による。そのプロセスが始まるのはおそらく18世紀にヨーロッパで「クラシック」が新興市民階級の「娯楽」になってゆくころからだろう。それが19世紀の「ポピュラー音楽」の成立につながり、レコードの発明とともに産業として確立し、こんにちにいたる。今では音楽は「娯楽」のために「生産」され、「娯楽」として享受される以外の存在形態はないかのようだ。それがもう一度基本性格をとりもどす契機になっているのが文化的「周縁」地域から出て注目を集めている音楽である。そしてその代表格がアイルランド音楽、ということになる。

 あなたやる人、わたし聴く人、という垣根をアイルランド音楽は取り払ってくれる。少なくともぐんと低くしてくれる。たとえさまざまな理由から楽器を操ることができない、しない人間、すなわちぼくのような人間にとっても、同様の効果がある。アイルランドの音楽を聴いていると、たんに聴いているとい気がしない。外からやってくる音楽を受けとめているのではなく、すでに音楽はみずからのうちにあって、外からの音によってそれが刺激され、みずからの音を奏ではじめるのだ。録音でも生でも、目の前で演奏されているものは、自分のなかから引き出されたものがかたちをとっているように思えてくる。アイルランド音楽を聴くとき感じると、誰もが口を揃える「なつかしさ」の正体はそういうことだろう。

 そのなつかしく恐るべきアイルランド音楽はどのようにして現れてきたのだろうか。それをこれから確認してみよう。



 言葉遣いについて、この本のなかでは地域や音楽を表すうえで多少特殊な使い方をしているので、お断りしておく。

 「アイルランド」は島全体を指し、「共和国」はもちろん南部二十六州を指している。また英領ノーザン・アイルランドは「ノーザン・アイルランド」としてある。「アルスター」はあくまでも島全体を四つに分ける地方名称。「英国」は国家としての連合王国の謂。「ブリテン」は島としてのグレート・ブリテン島、つまりイングランドだけでなく、スコットランド、ウェールズも含む。「ケルト」は、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ブレトンなど、いわゆる「ケルト文化」の息づいている地域。

 「伝統音楽」は、詠人不知として伝えられてきた音楽だけでなく、そこから直接派生したオリジナル曲も含む。必ずしもアイルランド国内で演奏されているものには限らない。「アイルランド音楽」という場合には、伝統音楽だけでなく、メアリ・ブラックに代表される、片足を伝統音楽においているようなスタイルからU2、ヴァン・モリソンなど、スタイルよりも担い手の出身地や主な活動場所に重点をおいた捉え方だ。

 つまりは、厳密な定義をしているわけではなく、視点の置き場所による捉え方、イメージの違いと思っていただきたい。

 また、各章末に、「補足」を加えてある。これは本文中の重要語句の注記であると同時に、本文のなかでは直接触れられなかった要素について、記したものだ。文化現象の変遷は1本のリニアな記述で語りつくせるものではないので、その不足をカヴァーするためのささやかな試みである。語句は五十音順にならべ、本文中に出ているものについては、本文中の語句と「補足」の語句の双方に*印をつけた。
--引用終了--
 

 Apple Watch の懐中時計版が欲しいな。

 版元のサイトに告知が出ましたので、こちらでも宣伝します。

 20年近く前に書いた『アイリッシュ・ミュージックの森』(青弓社)を改訂して出しなおします。

 題して『アイルランド音楽 碧(みどり)の島から世界へ』

 旧著のうち、本文には最低限の訂正、修正をほどこし、「その後」についての第六章を加筆しました。「まえがき」「あとがき」も差し替えています。各章ごとに入れていた補足は取捨選択、改訂して巻末にまとめました。読書案内、ディスコグラフィは割愛しました。

 追加としてトシバウロンとの対談があります。かれがどのようにアイリッシュ・ミュージックに入りこんでいったかがよくわかり、興味深かったです。

 付録にCDが付きます。これは当初予定にはなくて、まさに瓢箪から駒。先日の『アルテス』2015年3月号の編集後記で鈴木さんも書かれてますが、かなり聴き応えのあるオムニバスができあがりました。これはひとえに楽曲を提供してくださった皆さまのおかげです。このためだけに買われても損はないでしょう。

 発売は3月25日。お近くの本屋さんに予約していただければ、幸いです。

 もちろん、ここに書いたのは、ぼくにとってのアイリッシュ・ミュージックなので、これが唯一のアイリッシュ・ミュージックだ、とか、これこそがアイリッシュ・ミュージックの王道本流元祖本家だ、などと言うつもりは毛頭ありません。まあ、そんなものはそもそもあり得ませんが。

 むしろ、これが刺激になって、様々なアイリッシュ・ミュージックの姿が現れてくれれば嬉しい。もっといろいろなアイリッシュ・ミュージック、色、トーン、テクスチャ、性格、位相などの異なるアイリッシュ・ミュージックが現れてほしい。

 この改訂新版が出るにあたっては、多くの方々のお世話になっています。今日までアイリッシュ・ミュージックを聴きつづけてこれたことからして、たくさんの人たちに支えられています。一人だけだったら、とっくの昔にどこか別の方へ引っ張られていたかもしれません。このブログの元にもなったメルマガの編集発行を共にしてくれたマイケル菱川さんと洲崎一彦さんには、何よりもまず御礼を申さねばなりません。あれが無かったら、今のぼくはありませんでした。そして、そこに書いてくださった方々、読んでくださった方々にも深く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。

 「まっさん」のおかげで、今度はスコットランド音楽が独自のものとして認知されないかなあ、と期待しています。ウィスキーでもスコッチとアイリッシュが違うように、血はつながっていても、スコッチ・ミュージックとアイリッシュ・ミュージックはまた別なんですがねえ。(ゆ)



 先週土曜日夜。大泉学園も in F も初めてだ。西武池袋線に乗るのも、遥か昔、飯能の先の高麗神社で行われたサムルノリの奉納ライヴを見に行った帰り以来だろうか。

 ピアノ、作曲、編曲の shezoo さんのユニット、シニフィアン・シニフィエの初ライヴ。編成はピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、サックスとフルート持ち替え、ダブル・ベース。この編成で「現代音楽」をやるという。shezoo さんにとっての現代音楽はアルヴォ・ペルトとジョルジュ・リゲティとその先のバルトークの由。それにバッハがまじる。ということでこの夜はペルト、リゲティ、バッハが2曲ずつにバルトークがひとつ。
 
 このバルトークが何といっても良かった。「ミクロコスモス」の149番をジャズとして料理する。ヴァイオリン、クラリネット、サックスとソロをとる。いずれ劣らぬ芸達者の中に、バリトンで吹いたサックスがとりわけ冴えわたる。コーフンしますた。バルトークが聴いてもきっとコーフンしただろう。

 といってジャズ的展開ばかりではなく、もう一つ、shezoo さんのオリジナルで別ユニット Trinite のための「神々の骨」の1曲もやはりすばらしい。Trinite の渋谷でのライヴのハイライトの一つだったこの曲はペルトへのトリビュートとも言えるが、緊張と弛緩が対等に同居していて、シンプルで美しい曲なのに聴いているうちにカラダとココロの中のどこかがねじられてくる。3.11と直接の関連はないのかもしれないが、ポスト3.11のリアリティをどんな楽曲よりもひしひしと感じる。どこと明確に指さすことはできないが、どこかが決定的に変わってしまっている感覚。あまりに決定的な変化のために、そうは見えない。またそうは見たくない。そういう変化をいやおうなく抱えこまされた事態を表面化する音楽なのだ。その変化はいずれ、思いもかけない時に、思いもかけない形で爆発するはずだ。その時をただじっと待つしかないという事態でもある。

 それがシンプルで美しい音楽の形をとって提示されるとき、極小なりとはいえ、何らかの準備をととのえることに貢献するのではないか。あらかじめこの音楽を聴いておくことで、実際に出るまで、出口の形も、いつ出られるかもわからない、その「時」への希望をつなぐことができるのではないか。ここには、かすかではあるが、まぎれもない希望が着実に流れている。

 同じ希望は、この夜のどの演奏にも流れていたようにもおもう。

 ヴァイオリンの壷井彰久氏とクラリネットの小森慶子氏は Trinite でもおなじみで、やはり質の高い演奏を聴かせてくれたが、バルトークでの活躍もあって初見参のサックス・大石俊太郎氏と出逢えたのは嬉しい。ベースの水谷浩章氏は、むしろオーケストラのコントラバスに求められるような役割をふられてとまどいながら楽しんでいた様子がおもしろかった。サックスとのデュオでのバッハは珍品というと失礼かもしれないが、ひょっとすると新たな突破口たりうる可能性を感じる。そう、バッハはもっといろいろな楽器で演奏されるべきだ。

 shezoo さんがご自分のブログに、あれは自分が聴きたいことをやったのだと書かれているが、バッハだってバルトークだって、自分が聴きたい音楽を作っていたはずである。(ピーター・S・ビーグルが言うように)作家は自分が読みたい物語を書く。画家は見たい絵を書く。音楽家は聴きたい音楽を音にする。その音楽をなろうことならぼくもまた共有したい。共有されることで作品は巣立つ。その巣立ちに立会いたい。

 Trinite とこのシニフィアン・シニフィエを聴いて、shezoo さんのやることへの信頼は確立した。なにをどんな名目でやろうと、時間とカネと体力の許すかぎり、聴きにゆくであろう。


 時間がちょと早かったので、駅のあたりをうろうろ。どこにでもある私鉄沿線の町になりつつあるが、まだ抵抗してしぶとく生き延びている独得の蓄積がありそうだ。と感じていたら、おもしろそうな古本屋がある。比較的新しいマンションらしい建物の一階で、エントランスをはさんだ左側の喫茶店もうまそうだ。一度行きすぎるが、やはり引かれるものがあって扉を引きあけて入る。

 古書ほうろうとはまた違って、昔ながらの、どこか得体のしれない無気味さを備えた店。そうか、ほうろうは明るいのであった。あそこでは書棚の向こうからぬっと何かが出てくるような雰囲気はない。

 とりあえずと右手の文庫の棚を見てゆくと、宮崎市定の『謎の七支刀』と中野美代子『三蔵法師』ともに中公文庫を見つけてしまう。宮崎のはなぜか買いそこねていたし、中野のはリアル玄奘の伝記となれば、読まないわけにはいくまい。コミックの棚も『サスケ』新書判の揃いなんかがある。うーむ『カムイ伝』愛蔵版かあ。

 いやいや今日は背中のリュックも重いのだと思いなおして、文庫二冊だけにする。値段が書かれるべきところに262という半端な数字が書いてあるので、ほんとはいくらなんだろうと思ったら、その数字まんまの値段であった。

 こういう本屋は田園都市線の沿線にはありえない。あの線の、とりわけ梶ケ谷から先は町に蓄積がない。ブランド品をならべたシャレた店はあるかもしれないが、何の役にもたたない文化の薫りは薬にしたくもないのである。もともとは大山街道筋だったはずで、それなりに過去の堆積があってもおかしくはないのだが、きれいに消されてしまっている。
 
 ちなみに本屋の名前はポラノ書房。ちゃんとサイトもある。

 宮崎の本は、得意の文献分析による謎解きで、よくできたミステリを読む気分で、一気読み。さらに同時期の他の刀の遺物から銘文の源流をたどって、東アジア全体の動きにまでいたるのも、この人の真骨頂。そもそもこんな銘文を刀に刻んで与えるあるいは残すというふるまいがいつどこで生まれたのかは、年代推定にあたっても重要なポイントではある。全世界の歴史を通じて、どこでも行われたというようなことではない。むしろ、特定の時代と地域に限定される現象なのだから。

 それにしても漢文が読めなくては中世までの日本列島とその周辺の歴史を学ぶことなどできないのは、漢文に加えてポルトガル語もできないでは日本の戦国時代史を学べないのと同じ。当然、江戸時代の研究にはオランダ語は必須だし、幕末から明治にかけてはそれに加えて英仏露朝語も必要になる。20世紀に入れば、独伊が加わる。日本の歴史を学ぶのはたいへんだ。(ゆ)

 

 正式発表されたので、ここでもお知らせします。

 福島・須賀川で奮闘する畏友・川村龍俊さんが主宰する Winds Cafe に来年、おおしまが参加します。4月21日日曜日の午後。まだ時間表は決めていませんが、おそらく13時オープン、30分後にスタートして、休憩をはさんで2時間半くらい、3時間内にはおさめたい、と思っています。何をやるのかといえば、例によって音源をかけておしゃべりします。題して

【もう一つのチーフテンズ】

 「本当のチーフテンズ」としようかとも思いましたが、今の世の中、謙虚な姿勢が求められているだろうと、こちらにしました。

 チーフテンズ、とぼくは呼ばせてもらいますが、来年はチーフテンズのレコード・デビュー50周年にあたります。今年、結成50周年だったわけですが、初のレコード、むろんLPですが、《THE CHIEFTAINS》をリリースするのが1963年です。

 それから半世紀。今なお現役、ではあるものの、その実体はまったく別のバンドといってもいい。あれだけがチーフテンズの姿とおもわれるのは、かれらにとっても不本意でありましょう。かつてのチーフテンズは、ゲストなど必要なく、自分たちだけで独得なアイリッシュ・ミュージックを生み出していました。

 その方針を180度転換するのが、1988年のヴァン・モリソンとの共演盤《IRISH HEARTBEAT》です。1963年のデビューからここまでの各録音、そしてチーフテンズとしてのデビューに先立つバンドの母体となったグループ、ショーン・オ・リアダのキョールトリ・クーランをはじめとする同時代の関連する音源を聴いてみようという企画です。いわば「素っ裸の」チーフテンズの姿を再確認してみたいのです。

 その裸のチーフテンズ本来の音楽はどういうものだったか。かれらがいかにユニークな存在だったか。

 そこに現れるのは、今の「チーフタンズ」とはまったく異なる姿です。アイリッシュ・ミュージックのこんにちの隆盛の一端を担ったのは、そのバンドに他なりません。

 その歩みを、バンドとしてのデビュー以前から、1990年代末まで、録音でたどります。

 くわしい時間表などは、約ひと月前に、Winds Cafe の公式サイトと当ブログでお知らせします。入場料などは無料です。本番のあと、パーティーとオークションがあります。それ用に食べ物、飲み物の差し入れをしていただけるとみんな幸せになれます。場所は中央線・西荻窪駅北口から徒歩10分かからない、住宅地の中のコージィな空間、トリアホールです。(ゆ)
 

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THE CHIEFTANS (1)

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