クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:津軽三味線

 今度の日曜日23日は原宿で Winds Cafe です。原宿の隠れ家、カーサ・モーツァルトで月に1度開かれているイベント。くわしくはこちら

 カーサ・モーツァルトはもともとは今のオーナーの父君が大好きなモーツァルトを気兼ねなしに思う存分聴くために作られた部屋で、壁にはモーツァルト関連の絵画、美術作品が飾られ、棚にはモーツァルトについての各国語の文献、レコードがぎっしりならび、モーツァルトが弾いたのと同じ型のピアノが置かれています。別の部屋の棚には、SP盤がこれまたぎっしり。20畳ぐらいでしょうか、立派なオーディオ装置もありますが、音楽の生演奏を聴くスペースとしてもほどよいサイズ。生音をたっぷりと愉しめます。

 ということもあって、ここに会場が移ってからの Winds Cafe はクラシックの室内楽やソロがメインになってます。それも、他ではまず聴けない類の音楽ですね。入場無料、投げ銭方式なので、ふつうの公演にはかからない、かけられない組合せ、楽曲があたりまえのように聴けるわけです。

 むろん例外もあって、その一つが今回の山中信人&山本謙之助のご両人。いつも間違えそうになるんだけど、山本さんは唄、山中さんが三味線。レパートリィは津軽民謡。

 津軽民謡というのは面白い。レパートリィの幅がそんなに広いわけではない。三味線も「型」が決まってます。ところが、唄う人、演る人によってまるで違ってくる。同じ人がやっても毎回違う。このあたりは伝統音楽というものの本質にもかかわりますけど、どこにあっても、伝統というのは同じ曲、同じ型のくり返しを意味します。そして、人間は聴きなれた曲、唄を、それが優れた演奏であれば何度もくり返して聴いて愉しめる。むしろ、同じ曲、唄を聴くことに歓びを感じる。

 音楽は驚きだ、というのはさる有名なジャズの批評家の言葉ですけど、そのジャズにもスタンダードというものがあって、聴きなれた曲をやるわけです。同じ曲を聴くなかに驚きがある。

 山本さんの唄と山中さんの三味線の組合せの生を見るのはあたしはこれが4度めです。過去3回、いつも春で、このお二人の唄と演奏を見る聴くことで、今年も春が来たと実感しました。演奏される曲はほとんど同じ。そしてそれがいい。曲順はその場で決めるので、違ってきますから、ん、今年はあの曲がまだだな、をを、ここに来たか、という愉しみもあります。

 そしてこのお二人が一緒にやるのは Winds Cafe だけ。

 山本さんは全国から選抜された歌手が競う民謡大会で優勝されてます。つまり日本一。あたしもこの大会をむかあし、二度ほど見たことがあります。その時は奄美の若い女の子が優勝してました。また、たいていはそうなるんだそうです。その中で、山本さんは70歳、古希近くで優勝されてます。

 山本さんの唄には艷があります。艷気と言っちゃうとちょっと違う。そのぎりぎり一歩手前。生で、ノー・マイクで聴くとその艷がまた映えます。ただ美声とか、唄がうまいとか、そういうのとはまた違います。ぜんぜん押しつけがましくないのに、聴くと引きこまれます。それも強引に引きずりこまれるんじゃなくて、ふわりと包みこまれてもっていかれます。

 Winds Cafe では時間がたっぷりあるので、山本さんは1時間以上、唄われます。これも普段は無いことだそうな。たいていはたくさんのうたい手が出るので、一人あたりは2、3曲。Winds Cafe では、たぶん津軽民謡の主なレパートリィはほぼ全部唄われるんじゃないか。あたしは中でも「鯵ヶ沢甚句」が大好きで、毎回、どこで出るかなあ、と愉しみにしてます。

 山中さんは津軽三味線の全国大会で三年連続優勝して殿堂入りしました。全国大会で三連覇すると、それ以上の参加はできなくなるんだそうです。つまり四連覇はできない。もちろん、そう何人もいるわけじゃない。優勝の動画があります。



 他にも動画がたくさんあります。

 山中さんの三味線にも艷気があるんですが、これがまた山本さんの艷とは違う。こちらははっきり艷気と言ってもいい。華やかさと哀しさが同居してます。名手はたいていそうですが、ソロでの演奏も、伴奏もすばらしい。ソロでは毎回、オリジナル曲の披露もあって、これがまた面白い。こちらは毎回変化があって、まったく変わらないようにみえる津軽三味線も、ちゃんと変わっていっていると実感されます。

 そう、そしてお二人とも実にカッコいい。気品というと方向がずれる気もしますが、背筋がぴんと伸びていて、まっすぐ前に向かって唄い、演奏する。それを浴びると、ああ、音楽を聴くというのはこういうことなんだよな、とつくづく思います。音楽を聴く、浴びる快感ここにあり。そうなると、聴いているのが津軽の伝統音楽かどうか、なんてのはどうでもよくなるんですけど、そこでやはりツガルということがあらためて染みこんできます。

 ということで、今度の日曜日の Winds Cafe 316 【津軽の風〜再び〜】は、音楽のファンならぜひ1度体験されますことを。このお二人の組合せは次はいつになるか、わからないですし。

 パンデミックがまだ終らないので、予約制です。予約のしかたはウエブ・サイトにあります。(ゆ)

 カーサ・モーツァルトで Winds Cafe 291。山中信人&山本謙之助。いやもう、すばらしかった。

 前半で山中さんが、津軽民謡で三味線は何をやっているかの解説をしたのがまず面白い。うたい手が自由に即興で引き延ばし、コブシを回すところで、三味線も即興でそれに合わせてゆく。むろん、ある程度の基本の型はあるはずだし、いつも一緒にやっていれば、その日の調子の良し悪しもわかる。とはいえ、やはりたいへんなことにはちがいない。

 津軽三味線の楽器、三味線についての話も面白い。通常、三味線は猫の腹の皮を使う。そこには乳腺が四つあるので、それを「ヨツ」と呼ぶ。津軽三味線は犬の背中の皮を使う。東南アジアからの輸入品に頼っていたが、そちらで犬肉を食べることが減り、供給不足になったため、代用品がいろいろ試されている。カンガルーの皮もその一つで、そのカンガルーの皮の楽器を使われる。カンガルーの皮はどこを使うといいか、まだ試行錯誤だそうだ。

 山本さんは久しぶりのライヴで、COVID-19 のため、練習がほとんどできなかった由。公民館の会議室などを借りてされるそうで、確かに自宅では無理だろう。当日、会場に来て練習されたそうだが、最初に声が出たときは、練習が不足とも思えなかった。ところが、歌ってゆくにつれて、どんどん声にハリが出て、よくなっていく。5曲めだったか、いきなりどかんと来た。なるほど、練習不足とはこういうことなのか。

 こういう歌と三味線にひたると、元気が出る。もりもり湧いてくる気がする。今年も聴くことができて、ありがたや、ありがたや。

 雨が止んでいたので、歩いて四谷に出る。そこから電車で御茶ノ水、歩いて秋葉原のファイナルの直営店。試聴してオスロ・ケーブルを購入。A4000 では、シルバーコート・ケーブルとは方向が異なる。悪いわけでは全然ないが、これにはシルバーコート・ケーブルの方が合うようだ。Unique Melody 3D Terminator にはモロにハマる。試聴なのに聴くのをやめたくなくなる。駿河台下まで歩くがザ・ハンバーグは臨時休業。まっすぐ本厚木までもどり、慶福楼で食事してバスで帰宅。17,000歩超えて、くたびれる。

 
 表参道と明治通り交差点から四谷に出るには、竹下口から斜めに入って北東に向かい、国立競技場脇を通って、日本青年館前から神宮球場の外周を通り、絵画館前の銀杏並木の通りを横切りながらまわって東宮御所の西側に沿い、迎賓館から四谷の交差点に出る。東宮御所の周りは日曜なのに走っている人が結構いる。警官がぶらぶらしている。国立競技場脇の付属工事は中断されたまま。神宮球場では試合があったのか、これからあるのか、という雰囲気。後で、電車に神宮球場帰りの若いカップルがいた。球場の中に入るのはゲートがあるが、外は公共空間。東宮御所手前で左折すれば信濃町の駅にも出るが、時間調節で四谷まで歩く。途中、あちこち、桜、桃、その他いろいろ咲いている。落葉樹の芽も萌えでている。

 昨年は5月21日だったからちょうど1年になる。山中信人、山本謙之助によるライヴは、お二人とも昨年よりも明らかに調子が良い。音楽というのは玄妙なもので、ライヴがあらゆる音楽の本来の姿であり、すべてのベースとは言っても、そのライヴが常にベストの出来になるということはありえない。あまりにも沢山の要素が働いていて、すべての要素がどんぴしゃりに合うことはごく稀だからだ。

 その中で最も影響が大きいのはミュージシャン自身の調子の良し悪しではあろうが、調子が良い悪いはそう簡単に言えるものではない。たとえばの話、今回の山中、山本両氏の演唱を体験して、昨年は実はそれほど調子が良くなかったのではないか、と思えたのだが、しかし昨年はそんなことは露ほどもわからなかった。

 いや、昨年も調子は良かった、今年はもっと良かったのだ、と言うことも可能かもしれない。一方で、もしそうならば、昨年は普通の調子の良さで、今年の調子の良さはどこかもっと根本的なところがアップデートされた故のものに思える。

 山中さんの場合にはよりわかりやすそうだ。津軽三味線世界大会での三連覇をされたことだ。三連覇というのは史上7人目、数十年ぶりで、最年長。そしてこの大会では三連覇すると殿堂入りして、以後、コンテストには参加できない。津軽三味線の世界では究極のトップの座という。それを成しとげた。昨年の Winds Cafe で「三連覇します」と気負いもなく、さらりと言ってのけられたのは、やはり自信と言うべきだろう。その時には自信と呼ぶのさえためらわれるような、ごくあたりまえの話に聞えたのだが、今こうして実現されてみると、そう言わせたのはやはり自信で、自信とはそうは見えないくらいでないとホンモノではないのだと思い知らされる。目標達成が偶然でもフロックでもなく、当然の結果であることを知っている人の自信だ。

 そうした自信が実際に結果を得て、何か別のものに変わったのだ。それを何と呼ぶのか、あたしは知らない。川村さんは風格と言う。確かに余裕がある。安定感がある。たとえばミスをしないという意味ではない。人間である以上、ミスが皆無ということはありえない。そうではなく、ミスも音楽の一部、芸の一部になってしまうのだ。ミスではなく、主体的になされたことに思われて、それによってむしろ音楽に、芸に味が出る。

 聴いている方にはミスかどうかは全くわからない。ただひたすら、陶然として音楽に惹きこまれる。あそこはミスだと指摘する人がたとえいたとしても、だからどうした、そんなことはまるで問題ではないと答えよう。

 いつもは付き物である太鼓を今回はあえて外した、と山中さんは言う。太鼓無しでどうなるかの実験だと言うのだが、こうした実験に踏みだすのもまた自信がアップデートされた何かの故ではないか。

 前半は三味線ソロで3曲。うち2曲はオリジナル。曲を作っている時に雷雨があり、稲妻が走り、雷鳴が轟いたのでそれを音楽にして〈稲妻ごろぴか〉と名づけたという。「まだ手が暖まっていない1曲めにやる曲じゃありませんね」と言いながら、楽器の限界を押し広げるような演奏が続く。おまけにリピートが無い。津軽三味線の曲とはそういうものなのか。あるいはリピートがあるものだというのは、ヨーロッパの音楽に毒されている感覚なのか。

 2曲めはチェコに遠征した際、地元のコントラバス奏者との共演したという曲〈土佐の砂山〉。そうした共演にふさわしい、境界を軽々と越えてゆくような曲だ。

 この二つ、いつ何が起きるかわからないような緊張感が張りつめている一方で、かすかながらユーモアの筋が見え隠れする。これがどういうベクトルを持ったユーモアなのか、演奏している自分に向けられているのか、聴かせようとしているのか、まだよくわからない。

 3曲めは世界大会で弾いた課題曲。これも昨年よりもスケールが大きいと聞える。

 山中さんはこれを演奏しては録音して聴き、また演奏するという訓練を250回やったという。そうして完璧を目指すのだが、300回目にミスをすることがある。300回やらないとわからないミス。そのミスを無くそうとしてまた研鑽を積む。そうやって初めて自分を高めることができる。上達ができる。コンテストでの優勝を目指すことが、技術的なものだけではなく、音楽全体の底上げにつながったそうだ。つまるところコンテストとは他の参加者と競うのではなく、己との戦いなのだ、との山中さんの言葉には納得してしまう。

 何やらひどく深刻な話のように思えるが、この話をする、そして三味線を弾く山中さんはひどく楽しそうだ。実は塗炭の苦しみをくぐり抜けてこの境地に達したのかもしれないが、そんな様子はカケラもない。つまりは、本当に自分が楽しめるものでないと、そこまでの研鑽は積めないということだろう。研鑽そのものを楽しめるようになることは、トップに立つためのおそらくは必要条件なのだ。

 山本謙之助さんの方に何があったのかはわからない。全国から民謡のチャンピオンが集まった大会で優勝し、日本一の民謡唄いとされたのは一昨年だから、それは直接の要因でもないだろう。嬉しいことがあったのか。しかし、その調子の良さには、やはり一時的なものではないものが聞える。今や、いつどこで唄っても、これくらいの歌は聴かせられる、ように見える。

 圧倒的な声の量と太さが最初から最後まで変わらない。コブシの粘りと節回しの面白さはますます冴えわたる。そして、唄とおしゃべりの転換の自在なこと。一節唄って、すぐに今唄った詞の意味を説明してまた唄にもどるのにいかにも無理がない。

 後半のハイライトは〈津軽世去れ節〉。こんな嫌な世の中は早く去れとの祈りのこめられた歌だそうで、一連唄うその前半の歌詞のある部分は決まっているが、後半、音を延ばしてゆくところは即興で、コブシをいかに回すかがうたい手の聴かせどころであり、これにいかにぶつけてゆくかが三味線に求められるのだそうだ。

 ここはむろんPAなど必要なく、肉声と生の三味線を至近距離でたっぷりと浴びられる。こういうチャンスはあまり無い。今、この場にいない奴はかわいそうだ、と不遜な想いが湧いてしまうのも無理はない。何が贅沢といってこれほど贅沢な体験は、おそらくここでしか味わえない。勢い、その後のパーティーでの清談もはずもうというものだ。

 どうやら Winds Cafe はやらせてくれという人が増えてるらしい。来年の予定はすでに埋まってしまったとのことで、山中、山本ご両人の次の登場は再来年の3月になった。それまでは何としても生きていなければならない。だけでなく、この音楽をとことん味わえるような状態でいなければならない。目標を持つのはいいことだ、と山中さんを見ると思えてくる。たとえその目標がそこへ登ってゆく対象ではなく、衰退をできるだけ遅らせるという消極的なものであっても。

 それにしても、だ。山中さんも山本さんも、後世に残すアルバムの一枚くらい、録音していただきたいと切に願う。(ゆ)

 津軽三味線世界大会最上級A級チャンピオンを昨年、今年と連覇した山中信人氏と、日本民謡フェスティバル2016総合優勝グランプリを獲得した山本謙之助氏という、超弩級の組合せを、至近距離で、もちろんノーPAで聴けるのは、Winds Cafe でなければまず味わえない。

 津軽三味線世界大会A級チャンピオンというのがどれくらい凄いものか、ほんとうのところはよくわからなかったりする。とはいえ、これを連覇するために山中氏は3分48秒の〈津軽じょんがら節〉を280回、録音して聞き返すことを繰り返したそうだ。そうやって、ありとあらゆる条件において、完璧にかぎりなく近い演奏ができるように、練り上げてゆく。それでも本番では281回の演奏で最低の出来であった、と本人は言う。コンテストの本番というのはそれくらい厳しいもので、自分の全力は絶対に出せない。八分ないし七分あるいはそれ以下の出来にしかもっていけない。それを上げるには、全体の力を引上げてゆくしかない。

 もちろん、コンテストに勝つための訓練を重ねることと、音楽家として鍛えあげてゆくことはまったく別のことではあるだろう。一方で、一定の型にむけて精密に演奏する訓練を重ねることは、心身のコントロールの精密化も可能にするはずだ。技術といえば技術ではあろうが、手指を動かせる、楽器を操れるというのとは、また一段レベルが違うのではないか。カラダだけでなく、ココロと一体になった、心身全体を調整し、操る技術、たとえ最悪の条件のもとであっても、最高の演奏を可能とするような技術だろう。

 津軽三味線世界大会A級では三連覇まで可能だそうで、来年も挑戦する由。この日の終演後のパーティーで、川村さんが来年ぜひもう一度やってほしいと要請し、山中氏も快諾した。その時、期日を来年の大会の前にするか後にするかとたずねられて、後にしましょう、三連覇してきますから、と即答されていた。その答えに全然りきみがないのだ。といって、当然とれるというものでも無いらしい。今年も勝つのはたいへんだったとも言われた。来年、楽になるはずもない。自信満々というのともちょっと違う。まるでもう既成事実というようでもあるが、傲慢はかけらも無い。

 津軽三味線の生を聴くのは初めてではない。人並みに上妻宏光も見たし、澤田勝秋さんは録音スタジオまで押し掛けて聞かせていただいた。しかし、山中信人氏のソロはほとんど晴天の霹靂だった。黙ってはじめた最初の1曲が終って、いまのはオリジナルと言われてようやく納得がゆく。伝統のなかに現代の響き、流れが巧みに明瞭に織りこまれている。これこそまさに伝統を継承することなのだ。古いものをそのまま、何も変えずになぞっていては伝統は尻窄み、消えてゆく。あるいは博物館に陳列される。

 上妻宏光のライヴを見たのはもうずいぶん前だが、こうした真の継承、あたらしく伝統をつむぎだしているのではと大いに期待していった。ところが、そのライヴでは伝統と現代はまっぷたつに別れていた。伝統として提示されたのはソロ演奏で、巧いものの、津軽三味線としてきわだつものではなかった。現代的展開では、リズム・セクションやキーボードを入れた編成だが、そこでは伝統曲はまったく出てこなかった。今では変化しているのかもしれないが、失望感は大きく、ライヴも録音も聴く気が失せたままだ。

 澤田さんは木津茂理さんとのデュオの形で、そこから生みだされる音楽はエキサイティングだが、澤田さん自身はまったく変わらない。あの場合はあれでいいのだ。むしろ、あそこで澤田さんが変わってしまっては、失敗していただろう。

 山中信人さんのオリジナル曲はあたしにとってはまったく新しい体験だった。3曲やられた、どれも良かった。もっともあとの二つは本来はもっと即興を入れて展開するはずで、これからというところで終ってしまったのはちょと残念だった。それでも、津軽三味線の限界、さらには三味線という楽器の限界を探る、それも無理矢理押しだすのではない、より自然な流れに沿って探ってゆくように思えた。川村夫妻によれば、前2回にも増してキレが良くなり、演奏の質が上がっているという。そういうものの後で聴くと、コンテスト用に練りあげた曲の演奏もまた、ひどく新鮮に聞える。

 日本民謡フェスティバルで総合優勝することがどういうことかは、いくらか心組みもある。かつては奄美出身の若い娘さんたちが何年も続けて優勝をさらっていた。昨年も山本氏は最年長で、他ははるかに若い人たちばかりだったそうだ。伴奏者として出場した山中氏によれば、唄のうまさではダントツだったそうだが、高い声がきれいに出る方がコンテストでは有利になるので、優勝はまずないと二人とも思っていたそうだ。昨年の審査員はたまたま高い声よりも唄のうまさを取る人が多かったのだろうと謙之助氏は言う。

 唄のうまさとは民謡の場合、コブシのうまさと言い換えても、まず大外れではないだろう。少なくともあたしにとってはそうだ。山本氏のコブシの気持ち良さはまず粘りにある。思いもかけないひねりを加えながらどこまでも続いてゆく。これに近いものを挙げろと言われれば、今のあたしならジェリィ・ガルシアのギター・ソロと応える。とりわけ今聴いている1977年春のツアーでのガルシアだ。つまりコブシのうまさは技術的なところをクリアしたその向こうにうたい手の本質が剥き出しになる。天性と精進の幸福な結び付きが、謙之助氏のコブシに現れる。そこには氏のこれまでの人生での蓄積も小さくない。そういうものには時間が必要だ。醗酵作用は薬品などでプロセスを促進し、速くしても意味はない。時間はそこでは必要不可欠の要素だ。40代、50代の謙之助氏の唄もそれなりにすばらしいものだったろうが、70を超えられた今になって初めて出てくるものは格別だ。音楽の伝統とはそのように作用する。

 会場のカーサ・モーツァルトは原宿ラフォーレの裏になる、もとは現オーナーの父君の私邸の3階全部を占める。脇を坂が降りていて、そこからは2階になる。モーツァルトの「オタク」だったらしい父君のリスニング・ルームだったそうで、20畳ぐらいだろうか。50人も入れば満杯という部屋で、ひょっとすると壁などに音響の工夫がこらされているのか、楽器も声も響きはとても良い。天井の中央に少し高くなった天窓があるのも効果的なのかもしれない。

 父君が古いタンノイのスピーカーでモーツァルトを聴かれていた頃は原宿ももっとずっと静かだっただろうが、日曜の昼、天気は上々とて、11時前という時間にもかかわらず、原宿の駅では電車を降りてから改札を出るまで15分以上かかったし、駅の女子トイレには列ができているし、食事のできそうな店はどこも満杯だし、ラフォーレの向い、東急プラザからは何やら長蛇の列ができているし、正直、Winds Cafe のようなイベントがなければ来ようとは思わない。家族連れやカップルでうろうろしている人たちもかなり見かけたから、「行楽地」「観光地」のひとつでもあるのか。まあ、あたしらも、ダブリンだのパリだのマンハタンだの、あるいは京都だのに行けば、ああいう風に見えるのであろう。あそこにしか無いようなものは何も無いが、同じものでもあそこにあるというのが一つの価値か。

 その外の喧騒をよそに、出演者の方々がそれぞれに去られた後も、我々はのんびりとビールを飲みながら清談を楽しんだ。そういうことができるのもあの場所の功徳ではある。Winds Cafe も吉祥寺以来、ようやく恰好の地におちついたようだ。これからの企画もどれも面白そうで、できるかぎり、というか、これを最優先にして通いたい。原宿には生活の場が無く、まともな酒屋や食料品店は無いことがわかったので、次は新宿あたりで調達していこう。(ゆ)

 ゲストに細野晴臣&浜口茂外也を迎えてブレイクした3枚目《しゃっきとせ》がもうすぐ発売になる、津軽三味線&ヴォーカルの澤田勝秋、鳴り物&ヴォーカルの木津茂理のお二人のデュオ、つるとかめのライヴ・スケジュール。

05/19(土)東京・渋谷 居酒屋ニュー信州 30席限定、要予約
05/31(木)横浜三渓園 鶴翔閣

 詳しくはこちら

 どちらもユニークなイベントですな。

 そして06/26、浅草はアサヒ・アート・スクエアでその《しゃっきとせ》の発売記念ライヴが、フル・メンバーでおこなわれるそうです。

 先日、つるかめに浜口氏(うさぎ)が加わったライヴがメディア向けにあったのにもぐりこんできましたが、それはもうすばらしいものでした。浜口さんはカホンやダホルの他、和太鼓もしっかりやられていて、感服しました。これに細野さんが入ったら、どういうことになるのか。正直、チーフテンズなんか、もうどうでもいい(爆)。(ゆ)

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