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去年、何冊読んだ?
01月15日・土
Washington Post Book Club のニュースレターで昨年アメリカの成人は平均して年12冊強の本を読んだ、というギャラップの調査結果をとりあげている。この数字は1990年以降で最低。1冊も本を読まなかった人は17%で変わらず。ただし、多読の人の数が激減して、全体の数が減少した。年10冊以上読む人の割合は27%で、2016年以来8%の減少。それ以前に比べても4%以上減っている。この減少は大学院生やそれ以上の年齡でとりわけ顕著。つまり、自由な時間の使い方として、読書の人気は落ちている。というのがギャラップの結論。
一方で、電子本、オーディオ本、デジタル雑誌を1年で100万回以上貸出した公共図書館の数は記録的な増加をしている。そうだ。
わが国ではどうかとちょと検索してみると、2015年4月の調査で月平均2.8冊という数字が出てきた。ということは年33冊以上。3倍だ。が、1冊も読まなかったのは3分の1。こちらも倍である。この調査では月10冊以上が8.2%。21冊以上は出ていないが、こちらも3分の1。つまり、日本語では本を読む人間はたくさん読むが、読まない人間が多い。アメリカでは、英語とは限らないが、本を読む人間の数そのものは多いが、一人あたり数は読まない。
それに、ここでは本の中身まではわからない。マンガも入れているのか。回答者によって入れたり入れなかったりかもしれない。アメリカでの調査には comics は入っていないと見ていい。もっともこちらもそれ以上の中身まではわからない。
引きこもりで読書量は増えたと言われるけれど、日本語ネイティヴは本を読むのが好きでない、というより習慣にない人が多い気がする。というのは上の数字からも当たっていそうだ。新聞、雑誌は読んでも、本は読まないという人たちだ。もともと江戸時代までは読書はほんの一部のものだった。とすれば、明治以降でここまで増えた、とみるべきか。
日本語ではマンガがほとんど遺伝子に組みこまれている。『源氏物語』にも早くから『絵巻』が作られた。物語を絵で語る技術をわれわれは磨いてきている。漢字かな混じり文がその原型だろうし、そもそも漢字かな混じり文を発明したのは、言語からの要請だけでなく、絵に対する感受性が鋭いこともあったのだろう。その感受性がどこから来ているのかはわからないが。マンガは絵が漢字、ネームがかなに相当する。
だから、文字だけで物語を語ることも読むこともあまり得意ではない。文字を読んでイメージを思い描くのが苦手なのではないか。日本語では大長編は例外だ。饒舌よりも簡潔が尊ばれる。量はある閾値を超えると質に転換することに、あたしらはようやく気がつきはじめたところだ。本はもちろん小説や物語ばかりではないが。
あたしはといえば、昨年は54冊。うちマンガは3冊。英語33冊。日本語21冊。頁合計12,294。1冊平均227頁。一番厚い本は Michelle West, The Sacred Hunt Duology, 858頁。日本語で一番厚かったのは平出隆『鳥を探しに』660頁。
##本日のグレイトフル・デッド
01月15日には1966年から1979年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1966 Beaver Hall, Portland, OR または The Matrix, San Francisco, CA
どちらのショウだったか、定まっていない。後者はポスターがあり、ほぼ確定か。前者は元旦に行われたとの推測もある。
2. 1967 Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
2ドル。子どもは無料。開演午後2時。前2日の追加公演だろう。ジュニア・ウェルズ・シカゴ・ブルーズ・バンド、ドアーズというラインナップ。セット・リスト不明。
3. 1978 Selland Arena, Fresno, CA
前売6.50ドル。当日7.50ドル。開演7時半。ガルシアははじめ声が出なかったが、だんだん良くなった。第二部の〈Playing In The Band〉はこの時期としては珍しく30分近い演奏。
この曲は演奏回数610回で第2位だが、トップは〈Me and My Uncle〉なので、デッドのオリジナルとしてはこれがトップになる。これだけの回数演奏したのは、この曲を演奏するのがそれだけ愉しかったのだろう。これが5分で終る(デッドとしては)ごくありきたりの曲から30分を超えるモンスターに成長し、さらに他の曲をはさんだり、時には日をまたいではさんだりするようになってゆく様は、何とも興趣が尽きない。しかも、そのどれ一つとして同じことの繰返しが無い。こういう現象もデッド宇宙ならでは。
4. 1979 Springfield Civic Center Arena, Springfield, MA
8.50ドル。開演7時半。第一部と第二部の出来の差が大きいらしい。ここでも〈Playing In The Band〉がスピリチュアルだったそうな。デッドの音楽はめくるめく集団即興になって聴く者を巻きこんでもみくちゃにもすれば、深閑としたスピリチュアルな時空を現出して吸いこんで解き放ちもする。(ゆ)
『索引の歴史』
9月22日・水
Index, A History Of The, by Dennis Duncan, Alen Lane 着。ペーパーバックを待ちきれずにハードカヴァーを買ってしまった。立派な索引がついている。しかも、コンピュータで作ったものの実例が冒頭2ページ分あり、これがどうダメかの説明もある。その後に人間が作ったものが本番としてある。もちろんこの索引はプロの索引師が作ったのだ。わが国には索引作りが得意な人はいるかもしれないが、プロはいないだろうなあ。英語圏の大学には索引を研究している講座もあって、索引師養成コースもあるらしい。Society of Indexers もある。
索引は文化で、わが国の伝統には無い。これも明治期に入ってきて、一応定着しているようには見えるけれど、邦書についている索引は形だけのものが多い気がする。当然ついているはずのタイプの本に無いことも多い気がする。とりわけ学術書。日本語の索引の作り方は英語のものとはまた異なると思うが、そういうことをまっとうに研究している人はいるのだろうか。英語の本では、中身は凡庸でも索引が優秀なので使える本もあったりする。大部の本では索引を利用して、当面必要なところだけ読むこともできる。R. A. Foster の Modern Ireland などはそうやって部分的に読んでいる、つまり辞書のかわりにしているので、未だに通読していない。翻訳でもさせられなければ、通読しないで終りそうだ。そら、やれと言われれば、喜んでやりまっせ。それにしても、今、これ、出そうというところ、あるかなあ。
索引にもどれば、デジタルの検索が世界を支配するようになって、あらためてその重要性が注目されている。グーグルを検索するのは、生のデータを検索しているのではなく、グーグルの索引を検索している、とグーグルのエンジニアも言っている。索引をどう作るかだけでも、検索結果は変わってくる。ハッシュタグも索引の一種ではある。
その索引、ここでは一応本の索引は、冊子体 codex の発明が契機となる。それ以前の巻物 volume では索引は役に立たない。ランダム・アクセスが簡単にできないと索引は役にはたたない。冊子体はランダム・アクセスを容易にし、さらにノンブル、頁打ちの発明によって、本の中の位置の特定が飛躍的に容易になる。
それにしても、アルファベットのあの順番、abc という順番は、いつ、どうやって定まったのだろう。規準になったのは何なのだ。中国には索引の伝統が無いように見えるけれど、漢字にはアルファベットやひらがなのように定まった順番というものがないからではないか。それに、まあ、字の数が多すぎる。『康煕字典』に現れたような順番が定まっているにしても、誰でも知っている順番ではない。索引を漢字だけで作るのはまず不可能だ。音韻も時代・地域で違いが大きすぎて規準にならない。索引には「誰でも知っている順番」が必要なのだ。
序文を読んで index と concordance の違いがようやくわかる。いわゆる索引、本の巻末についているのはテーマ別索引で、語彙のリストがコンコーダンス。後者はたとえば聖書とかシェイクスピアの作品とかの語彙をリストアップして、どこに出てくるかを記したリストだ。もっともこれに各々の語彙の説明をつけたものもコンコーダンスと呼ばれる。手許にあるものでは、スティーヴン・キングの『ダーク・タワー』シリーズのコンコーダンスがこれで、そうなると一種の百科事典だ。コンピュータが作る索引は本来の意味のコンコーダンスに近い。それはそれで聖書やシェイクスピア作品なら便利でもあろうが、どの本にも必要というわけじゃない。一般の本の巻末につけるのは、ある主題に沿って分類したものだ。だから、コンコーダンスは完全に中立的になりうる。一方、主題索引は、この序文に挙げられた例のように、ある主張を強烈に打ち出すツールにもなりうる。
本文、第1章冒頭はバラードの短篇「索引 The Index」1977 から始まる。でも、著者が指摘するこの短篇の欠陥は納得できる。これなら筒井康隆の「注釈の多い年譜」の方が形式が合っている。
グラント回想録の Samet による注釈版には索引が無くて驚いたけれど、まともにつけようとすれば、1,000を超える今のページ数の3割増くらいにはなるんじゃないか。でも、本当はこの注釈の索引は欲しい。
ところで、この「索引」という語はどこから出てきたのか。『大漢和』でも引かにゃなるまいか。
届いたサンシャインの新しいインシュレータに M11Pro を置いてみる。サウンドジュリアの金属ベース+カーボンのもの、昔にサンシャインから試用品としてもらったマグネシウムの円筒形塊と比べる。金属ベース+カーボンも悪くは無いが、サンシャインの新しいインシュレータに載せるとどこか安心感が湧いてくる。音が明瞭に変わるわけではないが、背景が静かになる気がする。ここから離す気になれない。
散歩からもどると AppleWatch のフィットネスが今日は階段を1階分しか昇っていないと言う。そんなはずはないぞ。いつもと同じだ。ちゃんと最後に昇ってる。アホめが。
##本日のグレイトフル・デッド
9月22日は1967年から1993年まで、6本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1967 Family Dog, Denver, CO
ポスターだけ残っている。セット・リスト無し。Mother Earth が共演。
2. 1968 Del Mar Fairgrounds, Del Mar, CA
秋分の日フェスティヴァルで、共演者多数。Quicksilver Messenger Service, Taj Mahal, Buddy Miles Express, Mother Earth, Curly Cook's Hurdy Gurdy Band, the Youngbloods, Ace of Cups, Phoenix, Sons of Champlin。ポスターが2種残っている。女性の顔をしたハーベスト・ムーンをフィーチュアしたもの。
Curly Cook's Hurdy Gurdy Band というのはちょっと気になる。この時期、アメリカでハーディガーディをフィーチュアしたバンドがあったのか。どんな音楽をやっていたのか。音を聴きたいが、レコードは無いらしい。
3. 1987 The Spectrum, Philadelphia, PA
この会場3日連続の初日。夜7時開演。この頃になるとどこの会場も複数日のレジデンス公演。
後半オープナー〈Gimme Some Lovin'〉にスペンサー・デイヴィスがゲスト・シンガー。
1969年から20年近く間が空くのは偶然とはいえ面白い。この時期は1975年や1986年を除き、毎年秋のツアーの最中だが、1969年から86年までは毎年休日だったわけだ。
4. 1988 Madison Square Garden, New York , NY
9本連続の7本目。
5. 1991 Boston Garden, Boston, MA
6本連続の3本目。基本的に良いショウのようだが、60年代、70年代をバンドとともに過ごしたデッドヘッドと、80年代以降にバスに乗った人びとで意見が別れるのは興味深い。もっとも90年代に顕著になる MIDI によるサウンドの多様化とシンセ・サウンドの多用は、好みの別れるところではある。
6. 1993 Madison Square Garden, NY
6本連続の千秋楽。前半最後の〈Bird Song〉から最後までアンコールを除き、デヴィッド・マレィがサックスで参加。さらに後半のラスト2曲で James Cotten がハーモニカで加わる。ブランフォード・マルサリス、オーネット・コールマン、このマレィと、ジャズのサックス奏者が参加したショウを聴いた中では、1990-03-28のマルサリスの初回に次ぐ出来。DeadBase XI での John W. Scott の評ではこの年のベストとしている。テープ・コミュニティの評価でもこの年のベストとされたようだ。これは公式で出してほしい。
ジェイムズ・コットンはマディ・ウォーターズのバンドから出たブルース・ハープ奏者。この時58歳。(ゆ)
The National Book Festival
9月17日・金
Washington Post 書評欄のニュースレター Book Club が報じる The National Book Festival の記事を見ると、詮無きこととは知りながら、うらやましさに身の震える想いがする。今年は10日間、オンラインでのヴァーチャル・イベントで100人を超える著者が、朗読、講演、対談、インタヴュー、質疑応答などに参加する。児童書、十代少年少女、時事問題、小説、歴史と伝記、ライフスタイル、詩と散文、科学というジャンルだ。こういう一大イベントが本をテーマに開かれるということ、それを主催するのが議会図書館であるということ、そして、これがもう20年続いているということ。これを見ると、本というもの、そしてそこに形になっている文化への態度、考え方の違いを感じざるをえない。わが国は先進国、BRICs で唯一、本の売上がここ数十年減り続けている国だ。パンデミックにあっても、あるいはパンデミックだからこそ、世界のいわゆる四大出版社は昨年軒並、売上を大きく伸ばした。
このフェスティヴァルは9/11の直前、2001年9月8日に、当時のブッシュ大統領夫人ローラの提唱で始まった。オバマ大統領夫人ミシェルは他のことに忙しくて、このフェスティヴァルを顧る余裕が無かったので、イベントは大統領一家からは独立する。当初はワシントン、D.C.のナショナル・モールで屋外で開かれていたが、2013年からワシントン・コンヴェンション・センターに移る。参加者はのべ20万人に達していたそうだ。そして昨年パンデミックのためにオンラインに移行するわけだが、これによって逆にワシントン、D.C.のローカル・イベントから、本物の全国=ナショナルなイベントになった。
夫人はブック・フェスティヴァルから離れたにしても、オバマ氏は読書家として知られ、今でも毎年シーズンになると、推薦図書のリストを発表して、それがベストセラーになったりする。それもかなり幅広いセレクションで、政治、経済、時事に限られるわけではない。 わが国の元首相でこういうことができる人間がいるだろうか。大統領としては最低の評価がつけられながら、元大統領としてはベストと言われるカーター氏も一家あげての読書家で、夕食に集まるときには、各々が食卓に本を持ってきて、食事をしながら本について語りあう、というのを読んだこともある。
と顧ると、本、活字、言葉をベースとした文化の層の厚さの彼我の差にため息をつかざるをえない。わが国では本が売れないのも無理はない、という諦観にとらわれてもしまう。確かにわが国にはマンガがある。しかし、マンガでは表現できないものもまたあまりに多いのだ。それにマンガが表現しようとしないことも多すぎる。
こういうイベント、お祭がアメリカ人は大好きで、またやるのが巧い、というのもあるだろう。本のイベントの原型はSF大会ではないかとあたしは思っているけれど、ワールドコンだけでなく、今ではローカルな大会=コンヴェンションやスターウォーズ、スタートレック、ゲームなどのジャンル別の大会も花盛りだ。もちろんどれも今は中止、延期、オンライン化されているけれど、今後も増えこそすれ、減ることはあるまい。
コミケやそれにならったイベントはわが国において、こうしたフェスティヴァル、コンヴェンションに相当する役割を果たせるだろうか。そもそものイベントの趣旨、志向しているところが違うようにも見える。それともわれわれはモノの売買を通じてでないと、コミュニケーションを始めることができないのだろうか。
ブック・フェアも性格が異なるように思える。とはいえ、わが国でもこのナショナル・ブック・フェスティヴァルに相当するイベントを開くとすれば、例えば東京ブック・フェアが門戸を広げ、著者や編集者をより巻き込む形にすることが近道ではないかという気もする。
パンデミックはそれまで見えなかったことをいろいろ暴露しているけれど、文化、とりあえず活字文化の層の薄さもその一つではある。
ほんとうは活字文化だけではない。文化全体、文化活動そのものが薄いことも明らかになった。パンデミックの前、ライヴや芝居や展覧会などに青年、中年の男性の姿がほとんど無いのが不思議だったのだが、何のことはない、彼らは仲間内で飲むのに忙しくて、そんなものに行っているヒマが無かったのだった。
##本日のグレイトフル・デッド
9月17日には1966年から1994年まで8本のショウをしている。うち公式リリースは2本。
1. 1966 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
前日に続き、同じヴェニュー。
2. 1970 Fillmore East, New York, NY
4日連続の初日。料金5.50ドル。三部制で第一部はアコースティック。ガルシアはペダルスティールを弾き、ピグペンはピアノを弾くこともあり、New Riders Of The Purple Sage の David Nelson が一部の曲でマンドリンで参加。第二部が30分弱の NRPS。第三部がエレクトリック・デッド。この4日間はいずれも同じ構成。
3. 1972 Baltimore Civic Center, Baltimore, MD
このヴェニュー3日連続の最終日。料金5.50ドル。夜8時開演。《Dick’s Picks, Vol. 23》としてアンコールのみ除いてリリースされた。前半の〈Bird Song〉(10分超、ベスト・ヴァージョンの一つ)、〈China Cat Sunflower > I Know You Rider〉(11分、Rider のジャム最高!)から〈Playing in the Band〉(18分、最高!)への並び、それに後半、1時間超の〈He's Gone > The Other One > Sing me back home〉のメドレー。CD3枚組でも全部入らない黄金の72年。ロック・バンドのコンサートの契約書には普通「最長演奏時間」の項目がある。どんなに長くなっても、これ以上はやらないよ。デッドのショウの契約書には「最短演奏時間」の項目があった。どんなに短かくても、これだけは演奏させろ。長くなる方は無制限。
演奏はピークの年72年のそのまた一つのピーク。1972年は公式リリースされたショウの本数も、ショウ全体の完全版のリリースの数でも30年間のトップだけど、この年のショウは全部出してくれ。と、こういう録音を聴くと願う。まあテープ、今ならネット上のファイルやストリーミングを聴けばいいんだけどさ。でも、公式リリースは音が違うのよねえ。
4. 1973 Onondaga County War Memorial, Syracuse, NY
同じヴェニュー2日間の初日。だが、翌日のショウには疑問符がつく。開演午後7時。後半2曲目〈Let Me Sing Your Blues Away〉から最後まで〈Truckin'〉を除き、トランペットのジョー・エリスとサックスのマーティン・フィエロが参加。その〈Let Me Sing Your Blues Away〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
ピアノ左端、ガルシアのギター右。キースのヴォーカルはピアノの右。そのキースの声とピアノの間でフィエロがサックス。彼はロック・バンド向けのサックス奏者ではある。だいぶ慣れてきて、キースはピアノも愉しそうだ。
5. 1982 Cumberland County Civic Center, Portland, ME
料金10.50ドル。夜8時開演。〈Throwing Stones〉初演。前半最後から2番目。
6. 1991 Madison Square Garden, New York, NY
9本連続の8本目。
7. 1993 Madison Square Garden, New York , NY
6本連続の2本目。開演夜7時半。
8. 1994 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA)
3日連続の中日。開演夜7時。(ゆ)
書く狂気
まだ遺産があった若い頃、少なくとも1冊は作品が出版され、短篇はいくつか雑誌掲載されている。まったくのゴミというわけでもなかったのではないか。原爆に似た神秘的な兵器 "Hell Ray" についても書いていた、というから、"increasingly unconventional stories" というものには、サイエンス・フィクション的な要素もあったのか。とはいえジーンのある伝記によれば "The piles of unpublished, unread manuscripts accumulated more quickly than the inevitable rejection letters." だったそうから、送ってみなかったわけではないらしい。もっとも送る先を間違えれば、当然拒絶されただろう。それともやはり半ば気が狂っていたのか。死の15年前にジーンが最後に会った時、その姿に、子どもたちが揺籠の中で自殺しなかったのは驚きだと思ったとなると、やはり一種の狂気であろうか。
タイポグラフィーと盗賊
『文學界』2020年11月号
創作2本
を収録する。巻頭から155ページ。全体の4割を割いている。
fRoots の休刊
『今日の宿題』Rethink Books 編

『書庫を建てる』
安部公房は首から下げる式の大きな画板に原稿用紙を置いていつも書いていた。安部にとっての書斎はこの画板だった。というのを読んで、いい話だ、あたしも画板に MacBook を置いて書いたら楽そうだ、と思っていたら、この本を見て、書庫は欲しいと思うようになった。実家を畳んだとき、預けてあった本の大部分は処分し、どうしても残しておきたい本だけ持ってきたのだが、段ボールに入れて積んだままだ。どこに何があるのかももうわからない。読みたい本があって、そういえばあれは持っていたはずだと、データベースを検索するとちゃんと入っている。が、どうにも出てこない。探しまわる労力を考えると、古本を買うほうが安いし早いと注文してしまう。
コレクターではないつもりだが、本もレコードもなんだかんだでそれぞれ1万タイトルはある。30年も追いかけていれば、塵も積もるのだ。これの背中が一望できるようにしたい。とは思う。読みたい、聴きたいというよりも、すいと抜きだしてパラパラやったり、ジャケットを眺めたり、ライナーを読んだりするだけでいい。ひょっとすると本やレコード同士が共鳴したり、呼びあったりして、思わぬ反応が生まれるかもしれない。
本書はそういう願望、欲望にもならない、遙かな願望には最適の書庫を建てる話だ。そこがまず面白い。東京の、それも23区内という超過密地帯では、プロの協力が不可欠だ。それでもあやうく「ガセ」を掴まされかけるというスリルもある。
なぜ、こういう建物を建てる気になったか。そこがまた面白い。著者はあたしの一歳下、父親はともに同じ昭和2年生まれ、ということも面白い。あたしの父親は貧乏人の次男坊だったから、松原の父親のようには壊れなかったが、やはりよくわからない人物だった。そもそも父親の実家がよくわからないイエだった。次男ということもあり、父は婿養子に来たから、あたしが継ぐべきイエは母親のそれだが、これまたあって無いようなもの。昭和のはじめに静岡の田舎から単身上京した祖父が「初代」ということになる。この祖父が自分の実家とは交際が無かったからだ。ウチで法事というのは、祖父以後のホトケさんが対象になる。つまり、松原のような事情はあたしには無縁なのだが、だからこそ、知らない世界だからこそ面白い。松原の祖父のような人間は他にも多数いたはずで、昭和の日本を支えたのはこういう人びとだったのではないか。
堀部安嗣という建築家の考え方が面白い。とりわけ興奮したのは、この書庫から触発されて設計してみた公共図書館のアイデア(162pp.)。そもそもこの書庫を思いつく源泉となったスウェーデン市立図書館には憧れていたが、この堀部版図書館があれば、その街に引越したいくらいだ。
この図書館のプランに付随して堀部が述べる図書館の役割には共感する。
「今の時代、図書館の最も重要な役割は街で浴びた情報から自分を避難させ、情 報を洗い落とすところにあるといっていいかもしれないし、今後そのような役割 が重視されてゆくような気がする。情報を集める場所だった図書館が、有象無象 の情報から身を守り、自分にとって本当に必要な情報だけを得られる場所となっ てゆく。」165pp.
図書館もだが、本、書物の役割がそもそもそれじゃないか。つまり情報を濾過し、取捨選択して整理し、知識として使えるようにする。 出版の役割もそこにあるんじゃないか。
この構想をもう一歩進めるならば、図書館は大きなものが1ヶ所に集中している必要はない。情報はクラウドにあればいい、その方がむしろ利用しやすく、されやすい。エネルギーは1ヶ所で作らなくてもいい。必要なところで必要なだけ作ればいい。従来は不可能だったことも、テクノロジーの発達は可能にしている。図書館もまた、小さな書庫、1万冊を収蔵する書庫が10軒あれば10万冊、100軒あれば100万冊。そしてそれぞれが特色を持つ。堀部の公共図書館プランの1つの円筒が独立した形だ。それが街のあちこちにある。そこを歩きまわる。途中にすてきなカフェもあって、いま借りてきた本に目を通す。
阿佐ヶ谷の書庫は松原の死後、どうなるであろうか。息子あるいは弟子が讓り受けて使うことになる可能性が最も高い。しかし、「地域に開放」して、誰でも利用できるようにすることもできる。
この書庫も完璧ではない。ここでは階段を登り降りできなくなるという可能性は考慮されていない。もちろん、ここにエレヴェータを設置することはかぎりなく不可能に近いだろうし、できたとしてもとんでもなく高価になるだろう。
とはいえ、そういう設備のある書庫もあっていいはずだ。
それにしても、一番の面白さは、1万冊の本とばかでかい仏壇を8坪の土地に収めるという松原隆一郎の挑戦に、堀部安嗣が応えてゆくところだ。そして出した、円筒を螺旋階段でつなぐという回答の面白さ。さらに、円筒の建物、つまり塔を建てるのではなく、立方体の内部をくり抜くという面白さ。外から見れば窓が少ない以外は特にめだつものではないが、一度中に入ると、これに似た空間は、今この瞬間では、地球上にはまず無いだろう。これは「バベルの図書館」の極小版ではないか。
松原の挑戦に堀部がみごとに応えて、松原はかれにとって理想の書庫兼仕事場を手に入れた。ここからどんな仕事を生み出すか、今度は松原が堀部に挑戦されているわけだ。この書庫にふさわしい仕事を生み出すことができるか。それは松原自身の課題であるが、一方で、環境と創造性の関係の点からは、より広い「世間」の関心も呼ばずにはいまい。
この本を読もうとしたきっかけは月刊『みすず』7月号の植田実「住まいの手帖」105「阿佐ヶ谷の書庫」。この号ではもう1冊、酒井啓子「若者は『砂漠』を目指す」に啓発されて、ブノアメシャン『砂漠の豹 イブン・サウド』を読んでいる。そして今日の Al Jazeera の記事 "Bringing Arab opera to a Western stage" のネタになった新作オペラの原作 Cities of Salt は、そのイブン・サウドが建てたサウディアラビアで1932年、石油が見つかったことから起きる大騒動を描いて、20世紀アラブ文学の代表作とされる。この長篇5部作はサウディアラビアでは発禁、著者のアブドルラーマン・ムニフはサウディアラビア市民権を剥奪されている。となると、読む価値はあるだろう。(ゆ)
村井康司『JAZZ 100の扉』
それはつまるところ「ジャズというジャンルは、この本の中でも言及してきたように、アンサンブルとソロ、楽曲と即興の関係について、さまざまな試行錯誤がなされてきた分野である」(198pp.)からだ。ジャズとはこういう音楽で、そのためにあの姿、形をとってきた。他の音楽はこういうことを考えない。しようとしない。したいと思わない。しようとするときは、否応なくジャズの姿をとるしかない。
そしてその試行錯誤に最も適した楽器を使用する。人間が息を使って音を出す楽器が主に使われる。弦楽器は片隅に追いやられる。ヴァイオリンは限られた天才しかできない。凡庸なジャズ・サックス奏者は普通にいるが、凡庸なジャズ・ヴァイオリニストというものはいない。ギターも電気増幅によって音が持続できるようになったからだ。凡庸なジャズ・アコースティック・ギタリストは存在しない。ベースは例外だが、弦楽器というよりは打楽器の仲間とみなされたのだろう。ピアノも同じだ。
この試行錯誤を別のことばでいえば「遊び」である。生活必需品、衣食住は供給しないし、他人の暴力から守ってもくれない。ただのヒマ潰し、現実逃避だ。ただし、あってもなくても同じではない。人間は遊ぶから人間なのだ。そして音楽は人間だけの遊びだ。現在のところ進化の最終形態だ。音楽を演ることを楽しむ、音楽を聴くことを楽しむところまで、生命は進化してきたのだ。
言うなれば、ジャズは、生物としての人間が到達しうる最も先端の状態である。ジャズがたった百年の間に、これだけめまぐるしくも、急激に変容したのも、だから当然のことではある。百年しかないその過程を「歴史」と感じるのは、その中に人間の、ひいては生命の進化全体が凝縮されているからだ。
ここで取り上げられているのはさらに短かい。まあ、古生代までは省略して、いきなり恐竜から始めたようなものですな。その過程の中で、時々の最先端を形成し、次の世代の先駆ともなった活動の軌跡を集めたのがこの100枚、ということになろう。
それにしても「アルバム」という単位がまだ生きていることに、ぼくは不思議の念に打たれる。もともとは商売のための単位でしかなかったものが、ジャズにあっては音楽自体の要請とうまくかち合ったということだろうか。むしろジャズにとっては、LPというメディアは必ずしも居心地の良いものではなかったはずだが、そのことがかえって幸いしたのだろうか。
音楽にとって録音は副次的な活動である。それは記録であり、軌跡である。録音を作成し、販売し、それを聴くことが主な音楽活動であるとするのは錯覚でしかない。録音がデジタル化されることで、そのことがあらためて露わになった。デジタル化はアナログでは見えにくいことを暴露する。これもその一つだ。
日本のジャズ受容の特殊性が、ここでも働いているのかもしれない。日本、とりわけ戦後におけるジャズの消化は圧倒的に録音を媒介とした。ジャズだけのことではなく、音楽に限った話でもないが、ジャズは録音偏重が極端なケースでもある。もっともロックの場合はさらに偏りが進んでいるが、これは音楽自体の成立ちにも関わる。乱暴に言うと、ロックは録音を作る、ジャズの録音はできる。
興味深いのは、単位としてディスクを看板に掲げながら、いざディスクの内容を紹介するとなると、個々のトラック、楽曲が挙げられるところ。ディスク全体の構成や流れに立つ記述で面白いものもあるが、つまるところはこの曲が入っているからこのディスク、という姿勢におちつく。ディスクはやはり中短篇集、せいぜいが連作集であって、1本の長篇にはなれない。中短編集が長篇に劣るのではない。「良い短篇集は数冊の長篇に匹敵する」とは筒井康隆も言っている。しかし、どんなに優れた中短編をいくら集めても、長篇にはならない。ジャズの文脈で長篇に一番近いのは、1本のライヴ、コンサートだろう。だからこの100枚の中で長篇に最も近いのはアート・アンサンブル・オヴ・シカゴとサン・ラーのものになる。1枚1曲のようなものもあるが、それは長篇というよりは、ノヴェラ、長い中篇だ。
アルバム単位で把握しながら、具体的な評価軸は楽曲の出来になる。なぜ、素直に楽曲に行かないのか。アルバムという枠組を、なぜはさむのか。これはやはり「録音症候群」ではないか。「アルバム」という枠組はCD由来ではない、LPというメディアが分かちがたく絡んでいる。
もちろんLPを離れた論議もジャズをめぐって行われているのだろうが、ジャズへの導入口というと、判で押したようにディスク・ガイドの形をとるところを見ると、ジャズがつながれているLPというメディアの軛の強さに、あらためて驚く。視野が広く、しかも刺激的な文章が詰まっているだけに、その部分がどうにも訝しい。
訝しいというより、もどかしい、と言うべきかもしれない。これもこうした本の常としてブートレッグは御法度だ。しかし、1987年11月、ブエノス・アイレスでのスティングの公演のブートレッグで聴けるケニー・カークランドのソロは、オフィシャルの《BRING ON THE NIGHT》のものを数段上回るし、ここでのスティーヴ・コールマンの演奏もまた最高なのだ。このブートの元は現地の放送音源のはずで、オフィシャル・リリースが出ないかと淡い期待をしておく。
もどかしさはもう一つある。
ここにフェラ・クティが登場しない(巻末の対談でバラカンさんの口から洩れるだけ)のは、とことん遊ぼうとする著者の姿勢からすれば、当然なのかもしれない。フェラにとって音楽は「単なる」遊びではなかった。それは命懸けの、生きることそのものであって、圧倒的に非対称な相手と取っ組み合い、音楽という「遊び」の形をとることでかろうじて崖っ縁で踏みとどまっていた。音楽という「遊び=文化」の形をとったおかげで、最後に笑うことができた。後に残って、人間の真の姿を暴きだすのは文化だからだ。ナチが抹殺しようとした「モダンな芸術作品」が、爆撃で建物ごと埋められ、遙か後年地下鉄工事で掘り出されるように。
もっともそうして見れば、パコ・デ・ルシアも、チューチョ・バルデスも、ヒュー・マセケラも、ヤン・ガルバレクもここには登場しない。ブラジル人は登場するから、それは著者の好みだと言ってすませることもできる。
とはいうものの、なのだ。ジャズとはまずなによりもアメリカの産物、という暗黙の了解が底に流れているのを、やはり感じてしまう。
確かにジャズはアメリカに生まれてはいる。アメリカでしか生まれなかったでもあろう。そしてアメリカで育ってきたものでもある。最も面白いことは大部分アメリカで起きてもきたし、今でもいるだろう。しかし新しい冒険に乗出している者がアメリカに限らないことは、大友良英を例として挙げられてもいる。日本やアメリカで起きていることが、日本とアメリカ以外で起きていないはずはない。
そこまで期待するのは酷だろうか。しかし、「多様な試み、多様なジャンル、多様なタイプの音楽を先入観なく聴いて、そこから自分なりの新たな音楽聴取の喜びを見いだし、そうすることによって以前聴いた音楽にま新しい意味を聞きとる……という『耳の更新』を常に行う聴き手が増えることによって、『明日のジャズ』は生き生きとした豊かなものになるはずだ」(『ジャズの明日へ』)と20世紀の最後に宣言した著者であってみれば、そしてこの本の冒頭にも「ジャズも雑食のほうが楽しいとおもうよ、ぜったい」と呼びかけた著者であってみれば、もっと雑食を、と期待してしまうのは、手前勝手だろうか。
これは導入口だから、というのなら、それは違う。いりぐちであるからこそ、ジャズの世界の奥行と拡がりは可能なかぎり提示すべきだ。
それにしても、この本はいったい誰に向けて書かれたのか。巻末対談で想定読者対象の話が出てくるところを見れば、そう思うのはぼくだけではない。「『デートコースって何? 菊地がやってるマイルス風のバンド? ふーん』とかタワけたことを抜かしているコアなジャズ・ファンのおじちゃんたち」(203pp.)にはもう遅すぎるし、「ちゃぶ台の前に正座して、玉露を飲み、最中を食いながら」(37pp.)アート・ペッパーを聴く人間、なんて鉄の下駄を履いて探しても見つかるまい。そのデートコースのライヴで踊りくるっている人たちは、そもそもこんな本など必要としないだろう。
思うに、軸足は他に置きながらジャズの周囲をうろうろし、つまみ食いしながらも、深く足を踏み入れるのはためらっている、そういうリスナーが一番ありがたがるのではないか。そして、同じように「アルバムの軛」につながれている人間。つまりはぼくのような中途半端な人間にとって、霊験あらたかなのではないか。読みながら、まるでぼくのために、ぼくのためだけに、書いてくれたような感覚を何度も覚えた。
そう感じながら、あと一歩、いや半歩、踏みこんでくれたら、と思うこともまたしばしばで、そのもどかしさはどこから来るのか、というのを書きながら探ってみると、上述のようなことになる。
最後に著者が言うように、この100枚、あるいは追加も含めて300枚を、順不同、シャッフルして聴いてみるのが、最も実り多いだろう。むしろ、全部をライブラリにぶちこんで、曲もシャッフルして聴いてみるのが一番かもしれない。あるいはそこで、ここでもまだ隠されている様相が、わらわらと立ち上がってくるのではないか。(ゆ)
日録:モノの威力

消えた太陽
もうひとつはモノがたくさんあること、というより、モノに囲まれている環境の力。これが他のモノにまじって、数点ならんでいただけならば、はたして買う気になったかどうか。状況によってはなったかもしれないが、本屋に入って、本に囲まれると、なんとなくなんぞ買おうかという気になる。このあたりは、ミニマルなインテリアにもうしわけのように商品がおいてあるブティックなどとは違うだろう。男性という条件付けもあるのか、あたしはああいう店では買う気は起きない。やはり「ドンキ」式に、モノがわっとある、はきちれそうな状態の方がわくわくする。図書館や古本屋で本に囲まれると、ようし、いっちょ読みましょうか、という気分にもなるのと同じ。とはいうものの、だからというか、「ヴィレッジヴァンガード」はちょと違う。
『逍遥 本明朝物語』片塩二朗
中村とうようと松平維秋
外野というよりも場外から見えた中村氏はレコード産業に奉仕しながら、そうではないポーズを取ることをスタイルとしていた。売れることと音楽の価値は重ならないことを一応の前提にしながらも、商品にならないものは相手にしない。商品となった時点で初めてそれは論評に値するものとなる。裏返せばレコードにならない音楽は存在しない。
中村氏にとって録音パッケージの衰退、さらにはその滅亡は己れの立つ基盤が崩れてゆくように思われたのではないか。YouTube や iPhone/ iPod で聞く音楽など、音楽では無いと感じられたのではないか。
そうした意味で、中村氏の自殺は一つの時代の終焉を何よりも明らかに示すものではある。レコード産業の自殺もまさに進行している。個人とは違い、その自殺には時間がかかり、波及効果も大きい。中村氏の死もまた、そのあおりを喰った結果でもある。
逆に言えば、自殺を選ぶほどに、中村氏はレコード音楽と深く絡みあっていたのだ。月並な表現を使えば、中村氏はレコード音楽と結婚していたのだ。江藤淳が夫人の死に耐えられずに自殺したように、中村氏は生涯の伴侶たるレコード音楽の死に耐えられなかったのだろう。
松平さんの姿勢は全く違っていた。松平さんの課題はブラック・ホークという閉鎖空間をどう埋めるか、だった。一つの雑誌を影響力を持てるだけの数を売る、という中村氏の課題とは根本的に異なる。松平さんにとって、流行を追いかける必要はない。むしろ、差別化を考えれば追わないことが戦術として有効になりうる。実際、流行に背を向ける戦術は功を奏し、ブラック・ホークは『ニュー・ミュージック・マガジン』とは別の次元で影響力を持った。
ただし、レコード産業が資本の論理にしたがい、レコード音楽が流行に覆いつくされてしまうと、松平さんの戦術は基盤を失うことになる。
レコード音楽が流行に覆いつくされたと見えたのが表面的な現象であって、実際にはその裏や底では流行から距離を置いた動きや流れが脈打っていたとわかるのは、それから10年も経ってからのことだ。今ならばリアルタイムでそうした動きや流れは見えるだろうが、インターネットはおろか、Mac や PC すら影も無かった当時、情報の伝達は細く、遅かった。レコード産業以外に存在形態があることなど、まったく思いもよらなかった。
流行に背を向ける戦術は背を向ける流行を必要とする。また、背を向けた音楽を必要とする。しかも流行から完全にかけ離れてはいない音楽でなくてはならない。だから「ブリティシュ・トラッド」ではこの戦術は支えられない。やはりアメリカの、少なくとも一部では知名度のある音楽が無ければならない。
ここで強調しておかねばならないのは、「ブリティシュ・トラッド」と当時呼ばれていたアイルランドやブリテンをはじめとするヨーロッパの伝統音楽の愛好者は、ブラック・ホークという閉鎖空間の中でも少数派だったことだ。「ブリティシュ・トラッド愛好会」は一方でそうした音楽のファンを集め、交流をはかることを意図しながら、もう一方でそうしたファンをブラック・ホークの「主流」からまとめて排除することも目的としていた。そうすることでブラック・ホークは、いわば安心してレゲエを聞かせる店への方向転換ができたのだ。
して見ると、全く逆の方向をめざしたように見えながら、中村とうようと松平維秋は同じ流れに棹差していたのだ。ブラック・ホークを離れて以降、松平さんが音楽についてほとんど書かなくなった理由もわかる気がしてくる。松平さんにとって、音楽を聴き、選ぶことと、それについて書くことはまるで別のことだったのだろう。
ただ、文章家、いや詩人といった方がより正確だろう松平さんの文才を想うとき、もっと新しい音楽、今の音楽について書かれたものを読みたかったと、哀惜の想いを新たにする。松平維秋を今の音楽について書かざるをえない場に置いてみたかった、と痛切に想う。
だが、おそらくは松平さんはそうなってもなお沈黙を選んだのではないか、とも思う。録音技術の登場によって音楽は変わった。録音された音楽の流通手段の革命によって、今ふたたび音楽は変わりつつある。中村氏の言説と同じく、松平さんの文章もまた、今過ぎさろうとしている音楽を対象とする時、実をつけるものだった。
そして、この今生まれようとしている新たな音楽は、おそらく中村とうようも松平維秋も必要とはしない。
こう書いてきてみて、中村氏の死に際して、ようやく松平さんの死を実感している。今年の命日に予定している、四谷・いーぐるでの「ブラック・ホークの99選を聴く会」は、少なくともぼくにとっては、松平さんを送る作業に一時期を画すものになるのだろう。(ゆ)