クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:演劇

 平成中村座は、コクーン歌舞伎同様、十八世勘三郎が始めた。江戸時代の芝居小屋を再現している。舞台の間口は今の歌舞伎座の半分くらいか。奥行も、歌舞伎座で普通使われる部分のやはり半分ぐらい。客席もこれに応じて狭く、定員は確か856。歌舞伎座なら桟敷になるような、舞台と直角に、メインの客席に向けた席が1階両脇と2階に設けられている。ここも別に桟敷ではなく、普通の席で前後二列ある。面白いのは2階席が緞帳の向こうまで伸びていることで、桜席と呼ばれるここに座れば、舞台の上で進行しているものは準備も含めて全部見える。花道の長さは歌舞伎座の3分の2くらいだろうか。

 舞台との距離が短かいから、役者の顔もよく見えるのはいいが、その両側の舞台とは直角を向いて座る席だったので、後半、腰が疲れて、座っているのが苦痛になってくる。椅子そのものも江戸規格らしく、小さくて、まるで小学校の椅子に座っている按配。しかも体を捻らねばならない。夜の三部構成のうち、最後の「忠臣蔵」が1時間半あるので、後半は時々体を動かして何とか凌ぐ。

 舞台の狭さは囃子方に皺寄せが行く。第二部の踊りでは笛、鼓、太鼓の4人が下手の緋毛氈に座り、長唄と三味線が上手にしつらえた台に座る。こちらは我々の席からは幕の陰になってほとんど見えない。

 江戸の再現として、客は靴を脱いで客席にあがる。ビニール袋が配られ、履物はそれに入れて席まで持ってゆく。本来なら下足番がいて、履物はすべて預かったはずだが、そこまでやる気は主催者の側にはどうやら無い。

 場所は浅草・浅草寺本堂の裏にテントを建てている。平成中村座はもともとここが発祥の地の由。開演に合わせて行くと、浅草は完全に観光地となり、各国からの観光客に国内の人間も入り乱れている。早く着いたので、隅田川の土手でグレイトフル・デッド・イベントの準備にリスニングをしていると、目の前を高齢者白人観光客の団体さんが通ってゆく。対岸にはスカイツリーが立っている。川面は案外船の往来がある。空には鷗。雲はあるが、空は明るく、風が無いので、寒くはない。休日とて、客席には男性の姿もかなりある。しかし、歌舞伎座には必ずいる外国人、少なくともそれと知れる外国人は皆無。確かにこれは敷居が高かろう。チケットをとるのも大変である。

 歌舞伎のチケットは相撲と同じで、贔屓筋から売ってゆく。各俳優の後援会員、次に松竹歌舞伎会、そして一般客の順。それぞれに対してチケットの発売日が設定されている。うちは2番めの松竹歌舞伎会だが、それでもとれたのは、この横向きの席の、それも後ろの方だ。まあ、休日ということもあるだろうが、中村一族の後援会員も多いだろう。先月の歌舞伎座での勘三郎七回忌追善興行では、大物が揃ったので、各々の後援会員が殺到して、多少とも良い席はまったく残っていなかった。後援会の会費は安いものだそうだが、我々は誰か特定のファンというわけでもない。優遇するのなら、通っている頻度に応じて優遇するというのも、歌舞伎全体のファン(かみさんはともかく、あたしなんぞは、まだファンになる前の段階だが)に対するものとして、意義があるんじゃないか。それとも各々の後援会に全部入れというのか。

 閑話休題。

 その平成中村座、次は平成ではなくなるから、まあいわゆる最後の平成中村座夜の部は「弥栄芝居賑」「舞鶴五條橋」「仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場」。

 「弥栄芝居賑(いやさかえしばいのにぎわい)」は、ご挨拶の一場。中村一族最長老の扇雀、芝翫から勘九郎、七之助以下、一族が勢揃いして興行の口上、御礼を宣べる。勘九郎が平成中村座の座元、七之助が座元の女房、勘九郎の二人の息子、勘太郎と長三郎がその「夫婦」の息子。芝翫は平成中村座がある「猿若町」名主、扇雀は芝居茶屋「扇屋」亭主。

 まずは扇雀と芝翫が出て、マクラを振り、そこへ勘九郎、七之助らが出てきて舞台に並んで座り、挨拶する。二人の男の子もそれぞれにやる。襲名披露の口上に似ているが、真面目一方でああいうユーモアは無い。続いて、花道の端から端まで、贔屓の親分、姉御が勢揃いして名乗りを上げる。10人以上で20人はいなかったはずと、筋書を見ると16人のようだ。これが順番に五七調に整えたいわくを述べて名乗るわけだが、後の方の人は自分の順番がくるまで、結構長い間待たされるわけで、いざ、自分の番が来たときには調子が狂うこともあるんじゃないかと思ったら、案の定、一人、科白をつっかえた。

 一方、この間、正面の舞台では、さきほど挨拶した連中が立ったまま、名乗りを聴き、相手の顔を見ている。子どものうち、年長の勘太郎はそれでもじっと立っているが、弟の方は顔は花道を見ているが、片脚をひねったりしている。

 さあ、では、芝居を見ることにしましょうと一堂が引っ込むと、舞台が綺麗になって奥の壁に勘三郎の動画が映しだされる。この時、あらかじめ知っていたか、打ち合わせがあったか、大向こうから「待ってました」と声がかかった。それにどんぴしゃのタイミングで画面の勘三郎が「待っていたとはありがてえ」と応える。こういうのはシビれるねえ。

 動画はどうやら平成中村座での勘三郎を撮ったものを短かく畳みかけてゆくもの。かなり面白い。中では『俊寛』のシーンが印象に残る。記録が残っているのなら見てみたい。

 芸の広かった勘三郎の色々な側面ごとにまとめてあるらしく、最後に喜劇になったところで画面が凍る。もとになっているコンピュータがフリーズしたらしい。やがて幕が引かれ、化粧途中の七之助が舞台袖に出てきて挨拶し、幕間となる。

 「舞鶴五條橋」は三つの場からなる舞踏。

 ここでは勘太郎が大活躍。開幕からしばらくは独りで踊るし、最後の五條橋では父親の弁慶を相手に牛若丸を舞う。これが見せるのだ。7歳の子どものやることとして立派というのではなく、一個の芸になっている。幼ない頃から舞台に立って喝采を受けることは悦びだろうが、それよりも舞うことが嬉しいのが現れている。体を見事に動かすこと、所作がぴたりと決まることが、愉しくてしかたがないのだ。そう感じさせるのも訓練、教育のうち、といえばそれまでだが、伝統の力というのはこういうところに出る。

 かみさんに言わせれば、あの子は腹が座っているのだそうで、訓練だけではない天稟もあるのだろうが、小さな体が美しく動くのを見るのは愉しい。

 ひとつにはこの中村座の空間のサイズもあるだろう。歌舞伎座の舞台ではおそらく広すぎる。この小さな空間だから、あの体でも映える。

 二つ目の場は、福之助と虎之助の若者二人の溌剌とした舞が気持ちよい。基本的に滑稽な踊りだが、ユーモラスな仕種を重ねながら、気品も失わない。二人はいわばハーモニーをとったり、ユニゾンになったり、カウンターメロディをつけたり、あるいはソロにもなったりする。ここでの音楽はやはりダンス・チューンで、そりゃアイリッシュのようなスピードはないが、しっかりとビートはあり、体が動く。やっぱり舞踏はあたしにとっては歌舞伎の愉しみのひとつだ。

 『忠臣蔵』は大星由良之助すなわち大石内蔵助が芝翫、遊女おかるが七之助、平右衛門が勘九郎、斧九太夫が亀蔵。ここは何と言ってもおかるが芝居の要だが、七之助はどうだろう。うーん、どこがどうというのではないが、物足らないのだ。先月の揚巻が良かったので期待が高すぎたか。

 悪いわけじゃあない。演技としては文句ない。んが、揚巻にはあった、一種突き抜けたところ、その場をぎゅうっと摑んで一気に異次元へ持ってゆくところが感じられない。七之助ならこれくらいはやるだろう、というところで留まっている。巧い役者が巧くやっていると見える。しかし、それでは七之助の場合、平板に見えてしまう。

 そりゃまあ、調子の波もあるだろう。まだ開幕3日めということもあるかもしれない。先月は大物揃いで、緊張していたのが、今月はいわば仲間うちでほっとしたこともありえる。またまたかみさんの言葉を借りれば、揚巻は同じ舞台の玉三郎にかなりシゴかれたはずで、それと比べるのはあるいは酷とも言える。七之助が大成してゆくところを見たいというこちらの期待もある。

 同様なことは勘九郎にも言えて、こちらは役柄で得していて目立たないが、あんた、それで本当に親父が喜ぶと思うのか、と言いたくなる。これまた悪いわけじゃない。水準は軽く超えていよう。しかし、平成中村座を特別の空間にするものには届いていない。わざわざこうした場をつくる以上、歌舞伎座には無いものを出すことは基本だろう。それが勘太郎の舞だけというのでは、やはり物足らないと言わざるをえない。こちらとしては、舞台に夢中になって、椅子の座りごこちの悪さなど忘れされてもらいたいのだ。無理な姿勢で見ていて、終ってから体が痛くなったとしても、我を忘れて吸いこまれた舞台の後なら、それすらが気持ちよいものになる。

 あるいは勘九郎、七之助の中では、父親が始めたものを続けようという意識なのかもしれない。だとすれば、それでは続けられないはずだ。伝統というのは、それを守ろうとすると守れないものなのだ。常に新たなことをやる。つまり、先代が面白いと思ってやったことを繰り返すのでなく、自分たちが心底面白いと思えることをやってゆくと、それが結果として伝統を継ぐことになってゆくのだ。

 コクーン歌舞伎や平成中村座という器を受け継ぐことも含んで、新たな場、空間、あるいは手法を編み出し、試みてゆくことが、勘三郎のやり残したことを継ぐことになる。海老蔵が歌舞伎座にプロジェクション・マッピングを持ち込んだのは、そうした試みの一つだ。むろんまだごく表面的な使い方だが、劇場空間の構築に新たな可能性を開いたことは確かだ。

 してみれば、平成中村座が今回で終るのはかえって絶好のチャンスかもしれない。新たな年号を冠した中村座は、平成中村座とは異なるものに自然になれる。あるいは江戸の再現をもっと徹底する。下足番などは枝葉末節だが、芝居の質として、または演目や興行の形として、原点を確認するのはアリだろう。アイリッシュ・ミュージックもそうだが、伝統芸能にあっては古いものは新しいものになりうる。それは古いものの単なるリピートにはなりえない。古いものが今を生きる我々にとって意味のある、新たな姿を現わす。それはスリリングなのだ。

 それにしても、筋書に出ているアラーキーが撮った法界坊の写真を見ても、勘三郎の平成中村座を一度は見てみたかったものよのう。(ゆ)

 演し物は「宮島のだんまり」「義経千本桜 吉野山」「助六曲輪初花桜 三浦屋格子先の場」の三本建。

 「宮島のだんまり」は緞帳が引かれてもまだ内側の幕が降りていて、その前で平家の赤旗を二人の役者が滑稽な仕種で奪いあう。二人が引っこむと、着流し姿のお兄さんが内側の幕の裏から上手に出てきて、何やら台のようなものを置いて引っこむ。入れ替わりに三味線と唄の二人が出てくる。台に右脚を置いて立ったまま三味線を弾く。三味線を立って弾くのは初めて見る。唄の人は三味線の陰に下手を向いて立っていて、唄うときだけ三味線の脇に出る。三味線は途中なかなか派手な速弾きを披露し、拍手がわく。「だんまり」の前に演るこれを「大薩摩」と呼ぶのだそうだ。

 「だんまり」は一応の設定とストーリーはあるらしいが、主な目的は歌舞伎に登場する様々なキャラクターの紹介だろう。いわば、サンプラー、トレイラーのようなものだ。だから、舞台には多彩多様な衣裳をつけた人物が最大で12人入り乱れ、スローモーションで動きまわる。このスローモーションで舞台を動きまわるのは、かなり面白い。もっとも、見るのはなかなか大変。どこか一点に焦点を合わせると、他の人物の動きが見えなくなるし、全体を見ようとするとディテールがおろそかになる。これも見るのに訓練が要る。

 次の「吉野山」は静御前と狐忠信の舞がメインで、5月に文楽で見た「道行初音旅」の歌舞伎版。静御前は玉三郎、忠信が勘九郎。舞台下手奥に台がしつらえられて、ここに清元連中が右に三味線3人、左に謡が4人座る。さらに、途中から上手の袖の囃子を入れる造りの2階部分に竹本連中が三味線、謡二人ずつ入って、掛合をやる。別々に見ると同じようなものだが、こうして掛合で並んで聴くと、なるほど、結構違うものだ。まず姿勢が異なる。清元は身体を動かさないが、竹本は文楽の時同様、上体をかなり動かす。

 玉三郎は全盛期を知らないから、今どうなのかわからないが、まあ、悪いわけはなかろう。踊りそのものも、これは主に男性の踊りで、勘九郎の踊りは素人眼にも見事に見える。この十月の公演は十八世勘三郎の七回忌追善興行で、そのため玉三郎、仁左衛門、白鴎以下、ほとんど歌舞伎座総出演という配役で、息子たちも張り切らざるをえないところだが、ここの踊りと、次の「助六」の白酒売新兵衛の勘九郎は、夭死した親父の穴を埋めてゆくだけの器を示していたと思う。とりわけ、この踊りは6月の菊之助の踊りに優るとも劣らず。やはり踊りはいいなあ。

 ここで30分の幕間で、夕飯を食べる。いつものように食べてから買おうとしたら、鯛焼が売り切れ。最初の幕間で買うべきだったか。

 3本めの「助六」は助六が仁左衛門、傾城揚巻が七之助、助六の兄新兵衛に勘九郎。七之助の張り切り方が尋常でない。花道から出てきて、スッポンのあたりで初めてあげる声からして、力の入り方が違う。それはもう他の出演者を圧倒する声で、その後も終始テンションが変わらない。大きく笑うところで、ほとんど狂気すれすれと感じさせるのは凄い。これもまあストーリーよりも、揚巻の存在感、助六と新兵衛が股くぐりをさせるところのコメディが楽しい。二人目に股をくぐる通人を演じる彌十郎が、いわゆる内輪ネタ、勘九郎が来年のNHK大河ドラマに出ることなどをセリフにして笑わせる。こういう役をやるときの役者は活き活きしている。その彌十郎の言うとおり、勘九郎、七之助の兄弟は親父の追善をしっかり果している。

 この助六の終り近く、揚巻の母親役で出てきたのが、やけに存在感があるなと思ったら玉三郎だった。かみさんに言わせると、これから自分がやるべき役を試した、というところだが、「吉野山」の踊りよりも、さすがという感じは強い。

 大物総出ということもあるし、連休最終日もあるだろう、満席で、席は2階4列めの右端。ここは舞台は一応全部見えるが、花道がスッポンあたりからしか見えない。もっとも右端の席は前に椅子が無いので、姿勢が自由という点では一番だ。休日のせいか、若手の男性客もちらほら見えた。

 しかし、まあ歌舞伎というのは何でもありというのが、ようやく少しわかってきた。こういう奥の深さはいいもんだ。(ゆ)

 演し物は『盟三五大切』。この話は遙か昔、コクーン歌舞伎での初回の公演で見ている。まだ歌舞伎を見るのが二度目かそこらの時で、むろん話など何もわからず、ただ、はめられたと覚った直後の源五兵衛の演技、その後の血みどろのシーン、その流血によってさらに狂ってゆく源五兵衛の凄惨が印象に残った。それと最後の、源五兵衛が数右衛門として赤穂義士に呼ばれる急転直下のところのすばらしく派手な演出も面白かった。歌舞伎はこんな仕掛けもするのか、と感心したが、もちろんそれはコクーンでのもので、歌舞伎座ではあんなことはやらない、と今回、わかった。

 コクーンでの源五兵衛は当時はまだ勘九郎、後の勘三郎で、席が花道のすぐ脇だったので、呆然として足許もあやしく去ってゆく顔と演技を見られたのは、後々財産になるくらいのものだった。

 今回は源五兵衛の幸四郎も熱演と言っていいと思うが、それ以上に、三五郎の獅童がいい。かれとしてはおそらく嵌まり役で、本人も嬉々として演じている。最後に樽の中から出てきた後はもうちょっとだが、前半、やくざな三五郎はすばらしい。とりわけ、源五兵衛から百両巻き上げた後、開き直り、斬るものならさっさと斬ってみろいとタンカを切るところ、そして、鬼横丁に引っ越してきて、小万に怖くないかと問い詰められて、こええと認めるところ。対照的なシーンだが、どちらも見事。七之助の小万は、まあ、かれならこれくらいはやるだろう。一番よかったのは、源五兵衛の家に押しかけてきて、女房をきどるところ。

 もっとも今回個人的に最優秀演技賞をあげたいと思ったのは、源五兵衛の従者、八右衛門の橋之助。前半のかなり重要な役回りだが、コクーンではまったく記憶に残っていない。本質的に軽い人物の軽さをうまく出し、しかも、その軽さのまま、退き際に万感の思いをこめる。溌剌としている。獅童も七之助も若く、全体に若さがはじける感じの舞台で、この人もまだ20代前半の若さが良いほうに出ている。

 演出としては、小万を殺した後、その首をふところに傘をさして花道をひきあげる源五兵衛を、他の照明を全部落とし、花道の奥から照らし出したのは工夫。舞台の壁に映しだされるその影に、鬼と化した男の悽愴な孤独が出ていた。源五兵衛の残酷は、女に迷って大義を棄ててしまった己に対するやりきれなさに駆りたてられてもいることが、よくわかる。

 それと、源五兵衛が仮寓に引上げてきて、小万の首を据え、その前で飯を食おうとして、まず小万の首に箸でさしだすと首が口をぱっと開けたのも絶妙。その前の無残な小万殺しの場面で落ち込んだ見る側の気分がほっとまぎれる。

 カーテンコールのように、幕切れに、舞台で幸四郎、獅童たちが客席に向かって挨拶したのも珍しく、なかなか気持ちがいい。

 席は三階右端の前から3列め。舞台を見下ろせるのはいいし、ツケ打ちの真正面にもなって、よく見える。ただ、花道はほとんど見えず、出てきた役者たちが演技をするあたりがかろうじて見えるくらい。三階は一人で来ている男性の客が多い。折りをみて役者に声をかける人たちもその中にいるわけだ。開演前や、途中の20分の休憩で夕食を食べている人も多い。我々は今回は劇場に入る前に、四丁目の竹葉亭で食べる。実に久しぶりに鯛茶漬を食べられたのも嬉しい。(ゆ)

 昼とはがらりと変わって、こちらは音楽と舞踏の劇。それも能とオペラも取り入れて、素人にもまことにわかりやすい、サーヴィス満点の組立て。正直、これまで歌舞伎座で見た中では最初から最後まで楽しめて、抜群に面白かった。

 開幕、紫式部と翁による序があって、いきなりカウンターテナーの独唱。伴奏は古楽器のアンサンブルで、チェンバロ、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロ、リコーダーという編成だが、チェンバロだけのときもあり、1曲、鼓も加わって、これは良かった。

 カウンターテナーは黒一色の装束、対してもう一人のテノールは白の装束。それぞれ闇と光の象徴だそうな。この二人が折りに触れて出てきて、独唱し、また重唱する。歌詞は英語、ラテン語、その他の言語もあるらしい。ステージだけでなく、花道や客席の通路でも唄う。いずれも一級のシンガーで、わが国伝統文化にも多少は通じているようで、演出もあるのだろうが、全体に違和感なく溶け込んでいる。歌詞の意味はとれないが、感情はよくわかる。ハイライトは、源氏の須磨落ちの場面にカウンターテナーが唄うところ。馬に騎った海老蔵の光源氏の孤独が際立つ場面。

 能の方は主に怨霊などの裏の現実を担当していて、時に囃子方もステージに席を設けて出る。能はまったくの無知なのだが、どちらかというと急調子で切迫感、緊張感に満ちた舞台を造るのは、おそらく普段とはだいぶ違うのだろう。しかし、その切迫感、緊張感は歌舞伎でも現代劇でもあたしなどは見たことも無いほど、すばらしくシャープかつ重厚で、場内の空間全体が巻きこまれる。

 一方で能の舞いはやはり静が主な要素で、どんな動きをし、音楽が鳴っても、静謐そのものだ。動そのものの歌舞伎の舞いとの対照が鮮やかで、どちらも映える。

 話は源氏物語の開巻から源氏が須磨から呼び戻され、太政大臣に任ぜられてこれからわが世の春を謳歌しようというところまでで、ラストはその源氏を祝う祝祭で、世をあげて踊る。このクライマックスに典型だが、普段は前半分だけで、回転舞台は場面転換に使われるのを、後ろ半分まで広く開け、舞い踊る群衆を載せたまま舞台が回る。ここだけでなく、前述の須磨落ちの場面など、奥まで舞台を一杯に使うところが多い。これも新機軸なのだろう。これに加えて、プロジェクション・マッピングも使って、舞台がいつもよりさらに大きく広く見える。

 演出もコクーン歌舞伎の手法をとりいれて、誇張した仕種や科白の現代的表現など、新しい試みをしている。これに一番応えて、とあたしには見えたが、伸び伸びと楽しんで演技していたのが源内侍の右若で、役柄も面白い。まあ、歌舞伎というのは何でもありで、また何でもできるのだ。

 舞いでは六条の御息所の生霊に殺される葵の上の児太郎が印象に残る。源氏は気づかず、独りで苦しみ、死んでゆく様を舞いの形で演じる。ラストの群舞で、前面左に若い、小学生か中学生ぐらいの子が二人いて、小学生に見える方が装束だけでなく、動作もどう見ても女の子だったが、後で確認すると市川福之助だった。女形への準備としてこういうところからやるのかもしれないが、感心してしまう。

 今回は花道の左側、真ん中から少し後ろの左端という席で、かなり面白い。花道は舞台よりもずっと役者の肉体に近いし、そこからまた少し離れるので、見やすい。主役級が花道から出る時には、至近距離で見られる。ラストに近く、帝に召された源氏が出てくるときの海老蔵は威風辺りを払って、さすがの存在感。千両役者とまではまだだろうが、三百両くらいはあるんじゃないか。この演目は花道での演技や踊りも多く、いろいろ楽しめた。海老蔵の宙乗りも花道の上でやるから、これまたよく見える。

 昼夜出ずっぱりの海老蔵親子のおかげか、客席は文字通り満席。しかし、歌舞伎座は意外に小さく、満席でも2,000弱。このサイズが舞台を最も楽しめるという経験値なのだろう。

 今回は歌舞伎以外の共演者も多いからか、珍しくカーテンコールをやる。やっぱりこれはいいものだ。(ゆ)

 『三國無雙瓢箪久(さんごくむそうひさごのめでたや)』は古典を補綴復活した通し狂言。太閤記のうち、本能寺から大徳寺法要までの秀吉の三段跳びを描くが、合戦とか交渉とかなどは一切出てこない、のが歌舞伎なのだろう。つまり、集団劇ではなく、あくまでも個人と個人のからみあいで描く。歌舞伎だけでなく、舞台というのはそういうものか。ステージの上で大規模戦闘シーンなど、できようはずもないわいなあ。一方、歌舞伎は役者の肉体のもつ表現力を徹底的に引き出し、利用して、そこに特別の空間を作り、カタルシスを産む。見栄はそのための最も効果的かつ特徴的な手法ではある。こちらはこちらで、テレビや映画では不可能だ。どんな映像でも、生身の存在から発するカリスマにはかなわない。

 さてもさても、だ。歌舞伎の筋や設定に論理とかリアリティを求めてはいけない、と歌舞伎指南書にはあるが、あたしなどはどうしてもそういうものを引きずってしまう。あんまりだー、と心中叫んでしまうのだ。だってさあ、藤吉郎が奴つまり奴隷となっていた松下嘉兵衛の娘とできて、子どもまで孕ませておいて出奔、娘も後を追って出奔、しかしめぐりあえず放浪の途中で生みおとしたその息子が行方不知となる。娘は備中高松の陣中で秀吉となった藤吉郎と再会、一方、赤子の方は明智光秀の妻に拾われて、嗣子として育てられる。山崎の合戦の後、隠棲していた嘉兵衛の家にいろいろ偶然が重なって全員が集まって、実の親子の再会も束の間、重次郎と呼ばれていたその息子は養父の後を追って自刃。これってあんまりでないかい。しかも、そのドラマが第二幕で延々と繰り広げられる。

 歌舞伎は筋ではない、むしろ絵、一つひとつの場面において存在感あふれる人間が作り出すイマージュなのだ。それも、声と動きも伴う動と、見栄に代表される静との組合せから生まれる、ある感情を運ぶイマージュだ。筋はその組合せにひとつの流れを作り、スムーズに転換してゆくためにあるので、それ自体の合理性はむしろ邪魔なのだ。と頭では一応理解している。つもりではあるものの、なのだ。

 展開されるストーリーに、一定の合理性、ストーリーそのものの中だけでもいい、最低限の合理性が無いと、どうしてもシラけてしまう。おまけに子役のスタイル。大人同様、子役にもいくつか演技のパターンがあるらしく、今回は型にはまった、甲高い声で、音を延ばし、あえて不自然に単調に科白を発声するスタイルで、伝統のものではあるのだろうし、これをこういうところで使うにはそれなりの理由もあるかもしれないが、やはりどうにもシラけてしまう。

 まあ、歌舞伎を見る功徳の一つは、そうした、近代以降の、合理性を全ての土台に置こうとする姿勢へのいわばアンチテーゼ、と言ってはまた近代にひきずられるが、あるいは合理性とは対極にあって、やはり人間をつくっている土台を、1個のイマージュとして与えられることにあるのだろう。そもそも土台は他にもある、合理性だけではないことは、サイエンス・フィクションやファンタジィによって教えられたことでははなかったか。しかし、歌舞伎の非合理性は、「合理に非ず」とも言えない、もっとまったく別の、合理、不合理、非合理とは異なる性質のものにおもえる。しかもそれは、西欧近代のような舶来ものではなく、我が身の内に感得されるものでもある。自分がその中で生まれ育った文化から出てきている。つまりはシラけると言いながら、その実、結構楽しんで、面白く見ているからだ。ただ、その面白さ、楽しさが、たとえばいい映画を見るとか、傑作小説を読むとかで味わう面白さ、楽しさとは、相当に異なる。

 これがどういう面白さ、楽しさなのかは、まだよくわからない。しかし、退屈でどうしようもない、とか、二度と見ようとは思わない、とかいう反応が、自分の中で皆無であることだけは確かだ。誘われれば、いそいそと同行する。歌舞伎ではすべてが型にはまっていて、各々の型が一定の意味ないし役割を持つ。そういう意味や役割や含蓄がまだわからないのだろう。たとえば、どういうところで見栄を決めるか、なぜ、ここで見栄が入るのか、よくわからない。だから、時に不意をつかれてつんのめる。そうしたものは、本で読んだりして知ることができる部分もあるが、核心のところは実際の舞台を見てゆくうちに沁みこんでくるはずだ。これはライヴやコンサートなどでも同じだ。どんなものであれ、表現はすべからく、受けとる側にもそれなりの訓練を必要とする。生のパフォーマンスだけでなく、録音を聴いたり、本を読んだりすることにも訓練は必要だ。

 だから、あたしなどはまだまだ表面的なパフォーマンスを見ているだけだろうが、印象に残ったのは光秀と左馬助の一人二役の獅童と、第二幕で松下嘉兵衛の老妻を演じた東蔵のふたり。老女の役は難しかろうと素人眼にも思えるが、東蔵はみごとに老女に化けてみせた。ことに二幕三場の「松下嘉兵衛住家の場」。いい演技だと感心するのをすっかり忘れるほどだ。獅童は、動きのキレ、よく通る声と明晰な発音、見栄を切るときの存在感、どれも良く、調子が今一つな主役の海老蔵を完全に喰っていた。パンクの入った、まだまだ無尽蔵のエネルギーを秘めているような、しかし危うい、ひとつ間違えば、歌舞伎なんぞにぷいと背を向けてしまいそうな、ああいう存在はあたしの好みではある。

 もう一つ、面白かったのは二幕一場の最後で秀吉が重次郎のお守り袋を拾う場面。ここは科白が一切無く、ただ7、8人の人物が全員スローモーションで動き回り、絡み合う。一種の舞いと呼ぶべきだろうが、すばらしく幻想的で、異界の場に引き込まれる。

 今回は2階東の桟敷。前回の直下になり、花道は出るところから全て見えるし、舞台も上から見下ろす形で、舞台床に照明で描かれる模様もよく見える。前回のように、舞台の上手3分の1が見えないなんてこともない。舞台裏、大道具の裏の仕掛けも見えてしまうが、それはもちろんご愛嬌。ここはなかなかいい。テーブルがあるので、弁当を買って持ち込む。足回りも余裕がある。

 海老蔵の親子出演で、客席はほぼ満席。それにしても、わが国の文化は女性が支えている、と客席を見渡すと思えてくる。学生風から、手を引かれてかろうじて歩いている人まで、彼女たちが切符を買い、毎月通ってくれるおかげで歌舞伎も続けられるのだ。

 今回は昼が15時終演、夜は16時半開演なので、余裕がある。が、それにしても、出入口と地下鉄につながる昇降口は設計ミスだ。(ゆ)

 無知で妹背山婦女庭訓三笠山御殿の段はほとんどわからず。とりわけ、蘇我入鹿役の楽善のセリフがまったくわからない。他の役者のは七、八割方はわかるから、必ずしもこちらだけの問題ではないだろう。と思ったら渡辺保は「口跡は明晰」と言うから、やはりあたしにはまだ「歌舞伎耳」ができていないのだろう。

 いかにも歌舞伎の古典もの。長い話の一部だけを抜き出して語るのは、世界のどこでも伝統芸能では普通に見られる。ただし、その場合、聴き手ないし観客がその語りを楽しむには話の全体像を知っている必要がある。そこが無知なので、充分楽しめない。

 いいなと思ったのは松緑の鱶七。きびきびして、かつゆったりと大きな動き。何だかなあと感じたのは官女たち。いじめているのはわかるのだが、完全に型にはまっているように見えて、憎らしさが出てこない。渡辺の言うとおり男の地声を出すのは興醒めする。

 文屋は菊之助の舞い。先月の喜撰よりもずっと面白い。ひょっとすると3階の上から見たからかもしれない。この角度の方が動きがずっとよく見える。踊りは上から見るべきか。

 六人の腰元が群舞につくが、菊之助を先頭に後ろに六人直線に並んで踊るあたり、『リバーダンス』冒頭のシーンを連想する。どちらが先、というよりはおそらくは各々独立に思いついたのではないか。菊之助の舞は見ているだけで相当にハードなもので、動きがゆっくりなだけに、難しい姿勢、動きを美しく見せるのは並大抵の精進ではなかろう。相当に基礎訓練を積んでいるはずだ。美しいだけでなく、コミカルでもある。先の菊之助を先頭にした群舞でも、後ろに並んだ腰元たちが、菊之助から将棋倒しになる。

 ユーモラスというのとはまた少し違うようにも感じる。自他の区別をつけない日本文化の性格が現れているようでもある。笑いは文化のコアに直結していて、日本語の笑いは英語のユーモアとはおそらく別なのだ。日本の舞ではダイナミズムやスピード感がごく小さいが、こういうコミカルかつ優雅な舞はヨーロッパには見当らない。

 野晒悟助は独立した話でもあり、婦女庭訓よりもわかりやすい話で、なかなか面白い。ただ悟助役の菊五郎が高齢で、動きにキレがまったく無いので、乱闘シーンがアクロバットだけになる。見得はあるけれど、その前後とつながらず、苦しいように見えた。もっとも立ち回りの四天が音羽屋と大きく書いた傘を駆使して、アクロバットや絵を作っていたのは、うまい開き直りではある。それを言えば、引っくり返って、赤褌を剥き出しにするのも、緊迫感が漲るはずの乱闘シーンをうまくひっぱずす。二幕の冒頭で悟助の若党が浄瑠璃を唸る代わりに「長崎は今日も雨だあった〜」とうたいだすのも、その後で悟助が「今、ヘンなうたが聞えなかったか」と当てるのも、効いている。

 婦女庭訓でも感じたが、シリアスな話と思っているといきなりはずすセリフや動きをはさむのは面白い。ヨーロッパ流の喜劇、悲劇の別とは異なる。女殺油地獄の立ち回りもそうだが、シリアスとユーモアが一つのシーンに同居することが可能だし、それをともにうまく出すのが歌舞伎や浄瑠璃の醍醐味でもあるだろう。とはいえ、これは基調はコメディなのだろう。ここでも堤婆の仁三郎役の左團次のセリフがほとんどわからない。となると、あるパターンのセリフが聞き取れないのだろうか。どちらも悪役だ。

 ラスト、返しの乱闘シーンのバックの音楽が面白い。ほとんどダンス・チューンだ。ここはセリフがなく、掛け声とこの音楽、それに床を棒で叩くツケだけで進行する。ツケはここぞという動きを強調するアクセント。演じられているドラマの緊迫感を出すのは音楽だ。3階だとこのツケ打ちの音の反響が聞えるのが楽しい。

 今回は3階東の袖、桟敷上の席で、ここからは舞台の上手ほとんど3分の1は見えない。その代わり、黒衣の動きがよく見えるのが楽しい。舞踏の時の後見が舞台の奥を中央へ移動する際の足の運び。蹲踞のまま歩くのは、相当に筋力が要るはずだが、それをいとも簡単にさっさと進む。

 踊りの動きがよく見えるとともに、役者の足さばきもよく見える。女形の歩き方の美しさは初めて腑に落ちた。細かく小さく足を出して、するするすると進む。和服の女性の歩きかたはあれが基本になる。そうしてみると役のキャラによって歩き方が異なる。というよりも、歩き方によって役のキャラを表しているのだ。とりわけ花道に出てくる時の歩き方だ。舞台に出る最初だから、そこでまずキャラクターを観客に印象づける。花道に出てくる時は舞台に向かって歩くしかない。こういう手法は、自然な演技を旨とする舞台では難しいだろう。

 歌舞伎は仕種の一つひとつがある意味を備えている。具体的な意味のときも抽象的なもののときもある。しかし、まったく無意味、あるいは単に日常世界での体の動きそのままということは、おそらく皆無なのだ。そういう意味を的確に読みとれるようになると、本当に面白くなってくるのだろう。

 席は脚の前に空間がなく、脚を組むこともままならないし、幅が狭く、胡座もかけないので、窮屈。これまでの席は、1階右後方、1階東桟敷、2階花道真上最前列。2階花道の真上が一番面白く見られた。ただし、ここも最前列は前が窮屈。

 歌舞伎座の昼が16時10分前終演で、16時には夜の部開場、16時30分開演というのはなかなか凄い。まだ昼の部の客が客席から出終らないうちに、マキタを持った作業員がどんどん入ってくる。(ゆ)

03/15(火)きゃめる
酒井絵美: fiddle
高梨菖子: whistles
成田有佳里: bodhran
岡皆実: bouzouki
open 19:30/ start 20:00
予約 2,500円 当日 3,000円+1ドリンク
03-3822-0527

03/20(日)ノルカル Tokyo
酒井絵美: fiddle, harding fele
Morten J. Vatn: seijefloyte, fjellfloyte, bukkehorn, munnharp, etc.
記憶の蔵 in 谷根千
open 13:30/ start 14:00
2,500円(軽食付き)

03/24(木)「凪ぐ、はじまる」演奏会
服部阿裕未: accordion
中藤有花: fiddle
長尾晃司: guitar
with tipsipuca
高梨菖子: whistles
酒井絵美: fiddle
03-6320-0790
open 19:00/ start 19:30
2,500円+オーダー

03/27(日)*ノルカル Tokyo インストア・ライヴ@タワーレコード渋谷6F
酒井絵美: fiddle, harding fele
Morten J. Vatn: seijefloyte, fjellfloyte, bukkehorn, munnharp, etc.
start 16:00
無料

04/02(土)tricolor 最新アルバム《うたう日々》発売記念コンサート
tricolor
with
森ゆに: vocal
優河: vocal
中川理沙: vocal
渡辺庸介: percussion
マチネ open 13:30 start 14:00
予約 3,000円 当日3,500円 + 1オーダー
ソワレ open 17:00 start 17:30
予約 3,500円 当日4,000円 + 1オーダー
03/15までに予約すると特典付き

04/07(木)〜09(土) Garcon!
 フィジカルシアターカンパニー CAVA による生演奏の音楽付きパントマイム。
CAVA(さば)
with
熊坂義人: contrabass
瀬戸信行: clarinet
酒井絵美: violin
スパン子: accordion
作・演出 丸山和彰
前売 3,800円 当日 4,000円
ペア券 7,000円
学生 3,200円
小学生以下 1,500円
ファミリー割引あり 04/09(土)11:30〜のみ
予約・問合せ
CAVA 070-5585-3388
Confetti 0120-240-540

04/11(月)ゴリ達(ごりら)
渡辺庸介: percussion
清野美土: harmonica
佐藤芳明: accordion
岩見継吾: wood bass
open 19:00 start 19:30
予約 2,700円 当日 3,200円
0334100505

04/21(木)ムシカ・アラビーヤ
酒井絵美: violin
矢島夕佳里: oud
ミヤタカコ: darbukka, req
03-3891-6444
open 19:00/ 一部 20:00/ 二部 21:00
2,000円+オーダー

04/28(木)*ハモニカクリームズ「踊る復活祭」
清野美土: harmonica
大渕愛子: fiddle
長尾晃司: guitar
+
田中祐司: keyboards
松下マサナオ: drums
open 19:00/ start 19:45
前売 3,000円 予約3,500円+オーダー
小中高生割引 前売予約1,500円 当日2,000円+オーダー
小学生未満無料
注意:「整理番号付き前売券はスター・パインズ・カフェ、またはハモニカクリームズのライヴ会場にてお求めください。通常のメール予約前売券には整理番号は付いておりません。
当日の入場は整理番号付き前売券をお持ちの方> 整理番号付き前売券をお持ちでないメール予約の方>当日券の方の順番です」
(ゆ)

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