クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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 いやあ、興奮しました。ジャズに限らず、音楽に関する本でこんなに興奮して読んだのは、『文化系のためのヒップホップ入門』以来。あれも「世界が変わってゆく」のを実感しながら読んだもんですが、これまた「ジャズから見た世界」が根底からひっくり返されてゆく快感を満喫しました。もう、ばりばり音楽が聴きたくなってます。

 村井さんの『あなたの聴き方を変えるジャズ史』が、いわば北米大陸の上空から見たアメリカ音楽史の鳥瞰図をジャズにフォーカスして語ったものとすれば、こちらは地上に降りて、今新たな高みに登りつつある地点から、過去100年を眺めたものと言えるでしょうが、内容は遙かにラディカルです。ジャズの「正史」はほとんど完全にひっくり返されてます。「頑固なジャズおやじ」は読んではいけない。これは、最近ジャズを聴きだした、これからジャズを聴いていこうという人のための本です。

 鍵はヒップホップです。『文化系のためのヒップホップ入門』を読んでいたのはそれこそ「参照項」としてありがたかった。あれを読んでもヒップホップを聴きたいとは思いませんでしたし、今でもそうは思いませんが、ヒップホップによってポピュラー音楽の様相ががらりと変わってしまったことは納得していました。ただあたしの理解では、ヒップホップはポピュラー音楽でもいわば上部構造を変えたので、伝統音楽につながる下部構造まではその作用はまだ降りてきていなかった。しかし、この本を読むと、少なくともジャズはヒップホップによってものすごく大きく変化しています。ありていにいえば、ヒップホップによって、再生された。今のジャズの復活と盛り上がりは、物心ついたときにはヒップホップがあって、これを他の音楽と同様に聴いて育ってきた人たちによって、新たな音楽として立ち上がってきている。

 ヒップホップの重要なファクターとして過去の資産の再利用があります。過去の録音で使えそうなものを発掘するわけです。この場合の選択基準はその録音がジャズをどう変えたかとか、音楽としてどれだけ質が高いかとかではない。それで踊れるか、気持ちよくなれるか、になる。この評価軸の変更、というよりも、新たな評価軸によって見たジャズの100年は、当然、これまでの「正史」とはまったく違うものになる。そして、今、ここ数年、ということは2010年代に入ってからですね、劇的に復活し、盛り上がっているジャズを生みだしているミュージシャンたちは、この新しいジャズ観を共有し、それを土台にしています。

 ひと言でいえば、これまでリスナーの視点から書かれてきた「正史」が、ミュージシャンの視点によって別のものとして書き換えられている。それも、文字によってではなく、音楽そのものによって。

 これはスリリングです。しかもそうして書き換えている音楽を、ミュージシャンだけでなく、共有するリスナーも登場している。たとえばグレッチェン・パーラトの LIVE IN NYC で歓声をあげている聴衆は若い人たちでしょう。パーラトの音楽はジャズとしか呼べないし、本人もジャズをやっていると思っているのでしょうが、リスナーは必ずしもこれがジャズだと思っていないかもしれない。少なくとも、そのジャズはその人にとって他の音楽から飛び抜けた特別のものではなく、パーラトを聴く同じ人が、ヒップホップも聴けば、ロックや、クラシックや、あるいはアイリッシュだって聴いている。というのは筆が先走りしましたが、つまり聴いている方もヒップホップを聴いて育っている。

 この「聴いて育つ」というのは、必ずしもそれを熱心に聴いたということではなく、否が応なく耳に入る、音楽を聴こうとすれば、いや聴こうとしなくても、よほど意識的に排除するか、隔離教育でもされないかぎり、好き嫌いの前にごくあたりまえに入ってくることです。

 ヒップホップが音楽的素養の一部になっている人たちが、ミュージシャンでもリスナーでも増え、中心になってきたことが、ジャズの今の隆盛を招いた。その地点から振り返ると、これまでの「正史」で大きく扱われていた「巨人」たちは後景に退き、評価されなかったり、目立たなかったりした人たちや録音が脚光を浴びるわけです。評価が低かったり目立たなかったりしたのは、必ずしも音楽の質が低い、つまらないというだけではなく、評価が難しい、よくわからない、その時の流れから一見飛び離れている、ということも多かった。そういう人たちや録音も、今新しい地点から見ると、わかってくることがある。

 たとえば本書の第1章でとりあげられるのは、まずモンクであり、次にドルフィーであり、そしてブッカー・リトル、ディジー・ガレスピー。これが実はジャズの本質だ、こいつらの面白さがわからなければ、ジャズがわかったとは言えない、と言われると、トウシロのあたしだってええっとのけぞります。しかし、お三方の議論は説得力充分で、よおし、こいつら聴いたれ、ともりもり意欲が湧いてきます。

 他の3人はともかく、モンクはジャズ離れしたところがあって、自分がやりたいことができるのはとりあえずジャズの界隈だから、そこでやってるという感じがしてます。ザッパがロックを「使った」ようなもんですな。でも、ジャズでやったということはやはり後につながるものが出てくるので、かれのような音楽が可能であるというのはジャズの懐の深さにもなるし、またその深さをさらに深くしている。

 第2章で語られるのは、ジャズの形。あたしはジャズは方法論という点では中村とうようの意見に賛成ですが、ここでの議論を読んでみると、ジャズは疑似伝統音楽ではないかと思えてきました。伝統がないところでも人はやはり伝統を求める。音楽とは基本的には伝統音楽です。ローカルな社会の求めに応じて生まれ、口承によって伝えられている。クラシックも含めて、今、音楽とされている商業音楽は20世紀以降、録音技術によって生まれたもので、音楽の本来の立場からすれば歪んだ形でしかない。ロックやレゲエとは異なり、ジャズは自然発生している。つまり商品として売るために作られたものではなく、ローカルな社会のために生まれている。アメリカは他の旧大陸の社会のような伝統が無いので、様々な形で疑似伝統を作りますが、ジャズもその一つだった。今のクラシックも疑似伝統音楽の様相があると見えます。

 その最も顕著な側面は過去の資産の参照とともにコミュニティ意識と教育制度です。ミュージシャンたちは、ヒップホップで育ちながら、自分の表現の形態としてはジャズを選びとっている。まあ、ジャズに選ばれた、という言い方もできるでしょうけど、それはまた別のお話。そしてジャズをやるために様々な形で教育をされている。これがバークリーのような形をとるところが疑似たる所以です。そこで教えられることは、もともとは口伝えで習ってきたもので、かつてはジャズもそうだった。ただ、理論としてシステマティックに伝えるというのは、音楽伝統をオープンにもします。その理論を身につければ、誰でも、極端にいえば、アルファ・ケンタウリ人にだってジャズはできる。

 アイリッシュ・ミュージックがいま世界中に拡がっているのも、独自の教育制度があるからではないか。つまりセッションです。アイリッシュ・ミュージックのセッションとはどういうものかは、もうすぐアルテスパブリッシングから出るガイド本を見ていただきたい、とこれは宣伝ですが、セッションの特徴の一つは個人の師匠から弟子という形よりも、集団のなかで伝え、また伝えられてゆく様相が大きいことです。

 バークリーのような形になると、教師として優れた人からたくさんの弟子が出ることがありますが、音楽そのものとしては、その教師に属するのではなく、コミュニティに属する。

 加えて、今のジャズが個人の才能を表に出すのではなく、集団として、アンサンブルとして、バンドとして、全体の音楽としての質を重視する。これもあたしには、伝統音楽としての本来の在り方に近いように見えます。

 ジャズは疑似伝統として生まれたけれど、すぐ商業化されたことで、急速に拡大発展します。サッチモからコルトレーンまでの展開は、商業化の圧力によって猛烈に加速されたわけです。当然これは相当に無理が重ねられたので、商業化がフュージョンで極点に達すると、その反動がきます。資源が枯渇したわけです。それでも80年代はまだベテランも健在で、ワールド・ミュージックを促した動きもあって、多様性が確保できたのでかなり面白かったわけですが、90年代に入って、世代交替するともういけません。ジャズは「死に」ました。そして、ヒップホップによる革命を経て初めて生き返った。おそらくこれは文字通り生き返ったので、音楽の形としては、かつてのものとはまるで別のものです。

 ただ生き返ったものはジャズとして生き返った。方法論というのはここのところで、「ジャズの精神」ともいえるかもしれない。つまり、ミュージシャンがやりたいことを優先する。売れることを優先するのではない。いや、売れることも少しは考えるかもしれないけれど、それよりはこういうことをやったら面白いだろうということをやる。

 この本の冒頭に出てくるエスペランサ・スポルディングの音楽は、昔だったらジャズとは呼ばれない。ロックに分類されていたでしょう。たとえばキャプテン・ビーフハートの音楽に表向きは近い。ザッパの一部にも通じる。あえて言えば、彼女のうたの「異様な曲想」(後藤)には、ラル・ウォータースンのつくるうたの異様さと同質なものをあたしは感じます。ラルは北イングランドの伝統音楽ファミリー、ウォータースンズの一員で、兄弟のマイクとの共作《BRIGHT PHOEBUS》という傑作がありますが、これやその後息子のオリヴァー・ナイト Oliver Knight のサポートで出したソロの諸作に収められた曲は、イングランドからしか出てこないものでありながら、その伝統とはまったくかけ離れたところに立っている。他の伝統やポピュラー音楽からもかけ離れている。つながりがあるとすれば、そしてつながりはあるはずですが、それはビーフハートやモンクの音楽や、そうスポルディングの音楽を生んでいる何かになるでしょう。少なくともそう聞えます。


Bright Phoebus
Lal Waterson & Mike
Domino
2017-08-04



 ラルの娘のマリィ Marry Waterson も、母の衣鉢を継ぐうたを作り、うたっていて、嬉しいですが、これは余談。

 一方でスポルディングの音楽はやはりまぎれもないジャズとあたしにも聞える。もちろん、それはこれを何と呼ぶかと問われた上での話で、これがジャズだからどうこうということではありません。ジャズであろうとなかろうと、これはいい音楽だし、面白い。でも、であります。されど、なんだけど、やっぱりこれをジャズとして、他の音楽とならべてみるとまた別の面白さが出てくる。あるいはジャズの(疑似)伝統の中でのつながりをたどってみると、また別の面白さが出てくる。

 たぶん、そういうことなんでしょう。単独の、孤立したものとして聴くよりも、つながりを辿り、参照項を確認して、またもどってくると、あらたな面白さが生まれる。それが音楽を聴く楽しさなんです。ヒップホップはそれを、曲の中に組込んだ。それによって引用や参照した先に跳ぶわけです。これはデジタルのつながり方です。リンクをクリックして跳ぶのと同じ。アナログの、こいつの隣にはあいつがいてとか、レーベルが同じとかとはまったく違う。ブルーノート1500番台というくくりは通用しない。

 ヒップホップのつながり方がデジタルと同じになるのは、おそらく今の時代に共通する要素であって、インターネットが社会全体を変えていることの反映でもあるのでしょう。ネットは音楽の引用、参照先だけではなく、楽曲や録音の伝達のしかた、ミュージシャンやリスナーの意識まで変えています。ストリーミングと YouTube の時代に、もはや音楽も変わらざるをえない。

 音楽の基本はライヴです。これは動かない。録音でしか生まれない音楽もたくさんあるし、そもそも過去の資産の引用、参照となると録音で初めて可能になるわけですが、でも、音楽はまずライヴです。生身の人間がそこで演奏する、うたう。すべてはそこから始まる。たとえ、ギター1本の弾き語りでも、音だけで聴いているのと、ギターを弾きながらうたう姿を見るのとでは、音楽が入ってくる度合いが違います。ただ、本書の末尾で後藤さんも指摘するように、一度ライヴを見れば、その後は録音だけ聴いても想像できるようになる。だから YouTube は音楽にとっては革命です。間接的でも、とにかく演奏し、うたっている姿が見られる。かつてはそれは写真の1、2枚から想像するしかなかった。その写真すら無いこともたくさんあった。

 そしてストリーミング。この本を読みながら、聴きたいと思ったその瞬間に聴くことができる。ジャズの音源はまずたいていは出てきます。廃盤で市場ではアホみたいな値段がついているものも定額で聴けます。今あたしは Tidal を試してますが、アイルランドの個人がプライヴェートで出したばかりものはさすがに出てきませんけど、fRoots 誌が薦めている録音の8割は出てきます。しかも、その音源ファイルを手許に持っている必要もない。大容量の外付ストレージを買い、バックアップに気を使わなくてもすむのです。音楽を聴くことについて、こんなに集中できる環境はこれまでなかった。ブツが無くては、などというのは、音楽が好きなのではなくて、単なる所有慾でしかない。

 というのは酷かもしれませんが、リスナーにとっては、今は天国です。こんなに音楽を聴けるようになったことはかつてありません。当然、そのことは今生まれてくる音楽に影響します。ミュージシャンはまずリスナーであるからです。そして、生まれが異なる音楽を、様々にこねあわせ、一つの楽曲として提示するのに、ジャズほど柔軟性が高く、面白くなる方法論もありません。

 そしてこの変化はまだ止まったわけではない。変化の真最中でもあります。これからどうなるか、誰にもわからない。村井さんが言うように、クラークの『幼年期の終り』で突破してゆく子どもたちのように、従来から聴いてきた人間にとっては、まったく理解できない、鑑賞できないものになる可能性もあります。ひょっとするとその方が高いかもしれない。でも、じゃあ、変化を止めてくれ、とはあたしは言いません。たとえそうであろうと、この先を見たい。今起きていることを楽しみつつ、これがどうなるのか、見届けるまでは死ねない。生きている間にその変化が一段落しないことも大いにありえますが、それでも生きているかぎり、音楽を聴いて楽しむことができるかぎりは、その変化を追いつづけたい。

 だから、あたしは今、ほんとうに久しぶりに、猛烈に音楽が聴きたくなっています。

 いや、しかしこれは困ったことでもあります。今のジャズを聴き、その参照項を聴き、あるいはそこから派生する枝を聴き、となると厖大なんてもんじゃない。それに、ジャズばかり聴いているわけにもいきません。ジャズを活性化しているその同じ動き、大きな変化は、あらゆる音楽を活性化してもいます。アイリッシュ・ミュージックのようなルーツ音楽を見ても、それは明らかです。いったいどう時間を割りふればいいのか。音楽だけ聴いているわけにもいきません。読みたい本は山のようにあり、どんどん増えています。活性化されているのは音楽だけでもないのです。歌舞伎や文楽も見たいし、絵も見たい。まったくパニックに陥りそうです。

 むろんここに書いたことは、この本がカヴァーしていることのごく一部にすぎません。あたしにとって当面一番面白かったところだけです。語られていることの密度の濃さは恐しいもので、掘ってゆくともっと面白いことはいくらでも出てくるでしょう。何か溜まっていたものが、一気に吹き出た感じもあります。タイムリーといえば、まさに今出るべくして出た本でもあります。そして、おそらくこの本自身が、参照項として利用されてゆくでしょう。お三方と、この本を造らられた方々には心より感謝します。

 唯一の欠点。索引が無い!(ゆ)


100年のジャズを聴く
後藤 雅洋
シンコーミュージック
2017-11-16



 ジョージ・R・R・マーティンがそのブログ Not A Blog でやはりローカスの推薦作品リストをとりあげている

 そうそう、マーティンも指摘している通り、ローカスのリストから漏れた優れた作品はまだまだあるはずだ。

 ところで今年のヒューゴーについて昨年末来、いろいろ書いている。

 昨年は Puppygate でヒューゴーは大揺れに揺れ、結果「受賞作なし」が続出したわけだが、長篇賞は中国の劉慈欣『三体』の英訳(翻訳は Ken Liu)が受賞し、一方、Sad Puppy が送りこんだ候補作はすべて最下位かそれに近い形で落選して、かれらの意図はみごとに裏切られる結果となった。マーティンはワールドコンの会場で「ヒューゴー落選者パーティー」を開いて、意地を示した。

 Sad Puppy は今回も従来通り、ヒューゴーの投票を仲間うちの集団投票で乗っ取る意志を表明しているが、マーティンによればどうやら様相がいささか変わっている

 Sad Puppy はごく狭い価値観の上に書かれた作品群を候補作に送りこみ、引いては受賞させることを狙っているわけだが、かれらのウエブ・サイト上にはおそろしく広い範囲の価値観を代表する作品が候補の候補として上げられ、これまでのような誹謗中傷や罵詈雑言は影を潜めて、それらの作品について真剣で活発な議論が行われている。俎上に載せられた作品の中には、Puppy たちがもともとヒューゴーから排除しようとした傾向の作品も多数含まれている。とすれば、昨年の二の舞になる可能性は低くなるのではないか。

 そしてマーティンはヒューゴーのノミネートに参加することを薦める。それにはワールドコンのメンバーになる必要があるが、来年のヘルシンキ大会の会員にもノミネート権はある。そしてできれば今年の大会のメンバーになって投票しよう、と呼びかける。それも自分の意見として、誰か他人の指示に従って投票するのではなく、自らの判断のもとに投票しよう、と呼びかける。

 つまり、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、そしてそのファンダムの健康にとっては多様性の確保、できるだけ幅の広い、奥の深い多様性を確保拡大してゆくことが何より重要である、という認識だ。サイエンス・フィクションという現象が多様性の確保拡大への志向から生まれていることの確認でもある。そして現行のモダン・ファンタジィは、サイエンス・フィクションを生んだ幻想文学からよりも、サイエンス・フィクションから枝分かれしたものではある。

 ここで興味深いのは、Sad Puppy への対策として、これを隔離し、排除しようとはしないことだ。それでは Sad Puppy と同じことをやることになる。逆にそこでの議論に積極的に参加し、具体的な作品の推薦や議論を通じて、かれらが当初意図したことを換骨奪胎してしまおうという動きが見える。いやそれは言いすぎかもしれない。換骨奪胎することは二次的な結果であって、そういう結果が生まれることを期待はしても、第1の目的にはしていない。第1の目的は議論すること、議論を通じて相手の認識を変えようということだ。価値観の合わない人間たちは排除するという Sad Puppy の行為の根源にある認識を変えようとする。狭い視野と認識に閉じこもるよりもより多様な様々な価値観が共存する方がおもしろいではないか、と提案し、その認識の共有をめざす。すべてのサイエンス・フィクションに通底する主張ないし目的があるとすれば、それは多種多様な、時には異様なまでに異なった価値観が共存することのおもしろさを示すことである。

 もっとも言わせてもらえば、それはすべての芸術、サイエンス・フィクションのみならず、文学のみならず、およそ芸術活動とされるすべての行為の根源的な目的ではある。サイエンス・フィクションはその提示、多様性を生みだす契機として現代の科学とテクノロジーを利用する。そこがあたしにとっては他の芸術活動よりもより身近に切実に感じられ、したがっておもしろい。


 そうしてマーティンは自分もヒューゴーを受賞する価値があると考える作品をあげている。かれはこれらの作品をノミネートしようと言ってはいない。これらがノミネートに値するかどうか、確認するだけの価値はある、と言う。それが推薦作品リストのあるべき姿であり、ローカスのリストはそのお手本とも言う。これまでのところ Best Editor: Long Form, Dramatic Presentation の Long Form と Short Form、Graphic Story、Related Works、それに Professional Artists について書いている。その余白に2冊の長篇を挙げている。

NEMESIS GAMES, James S. A. Corey
SEVENEVES, Neal Stephenson

 James S. A. Corey は Daniel Abraham と Ty Franck のデュオのペンネームで、この作品は Expanse シリーズの5冊め。うわ、また読まねばならぬシリーズが増えたぞ。シリーズ第1作 LEVIATHAN WAKES, 2011 はヒューゴーにノミネートされ、ローカス賞ではベストSFの第5位。『巨獣めざめる』として中原尚哉訳が出ている。第2作 CALIBAN'S WAR はローカスで第5位、第3作 ABADDON'S GATE はローカス・ベストSF賞受賞、第4作 CIBOLA BURN はローカス第8位、といずれも好評だが、ヒューゴーにはこれまで縁が無い。

 Neal Stephenson の方は17冊めの長篇。スティーヴンスンはこれまで3冊邦訳があるが、今世紀に入ってからのものは邦訳されていない。

 関連書籍も2冊。
 
THE WHEEL OF TIME COMPANION, ed. by Harriet McDougal, Alan Romanczuk, and Maria Simons
YOU'RE NEVER WEIRD ON THE INTERNET (Almost), A Memoir, by Felicia Day

 フェリシア・デイの回想録はまあまず邦訳は出ないだろう。36歳で回想録、というのもちょと早すぎるような気もするが、ひょっとして10年ごとくらいに何冊も書くつもりかも。

 『「時の車輪」コンパニオン』も邦訳はおそらく出ない。当然のことながらネタバレのオンパレードだから、これはあのシリーズのファンのためのもので、それも全部読んだ人のためのもので、さらに何度も読んでいる人のためのものだ。まったく本篇を読んだことのない人間には、あるいは少なくとも半分くらいまでは読んでいないと、これは役には立たないだろう。その代わり、熱心なファンにはこたえられまい。本篇では明らかにされていない、あるいは曖昧なままになっていることなども、ジョーダンのノートなどからかなり詳しく書かれてもいるらしい。

 最新の記事では Best Editor: Long Form をとりあげる。これは編集者の中で書籍、長篇の編集者が対象だ。Short Form が雑誌編集者になる。

 編集者は表に出ない。わが国でも近年は編集担当を奥付に明記する本も増えているが、まだまだ黒子としての存在であることが本分とされる。編集者として評価されるのは例外的な存在だ。アメリカでも事情は同じで、Tor が本に担当編集者の名前を付けだしたのも、ここ2、3年だ。そこで一部の有名人に投票が集中することになり、ヒューゴーの中でもこの部門は前身も含め、同一人物の連続または複数受賞が多い。現在のような区分になり、書籍編集者が受賞しはじめると、他の部門にはない慣行ができる。受賞が2、3回重なると、それ以後、候補にあげられることを永久に辞退する。これは初期の受賞者であるデヴィッド・G・ハートウェルが始めたが、それ以後の受賞者たちにも受け継がれている。この部門は一種の功労賞になっているわけだ。普段あまり評価されることのないところで重要な仕事をしている人たちなのだから、照明があたるチャンスをなるべく大勢の人びとに拡げたい、というのはわかる。

 ところが、昨年は Puppygate のあおりを食って、この部門は「受賞者なし」になった。マーティンに言わせれば、この部門の昨年の候補者はいずれも受賞に値する人たちだったから、これはいささか「不当」な扱いになる。今年はしっかり候補を見定めて、投票すべきはちゃんと投票しよう、と呼びかける。

 こういう部門、とりわけ編集者はマーティンのようなプロでないとわかりづらい。Locus の消息欄を丁寧に追いかけていれば名前や所属は多少ともわかるだろうが、普段の仕事ぶり、誰を担当し、何を編集しているかまではなかなかわからない。ここで名前のあがっている人たちには、今後とも注目しよう。

 その他の部門についてはそれぞれの記事を参照。




 後半が良かった。

 前半はどこが悪いというわけではないが、こちらの受取り方とミュージシャンの送り出すものが微妙にずれていたらしい。波長が合わない、ということか。

 それが、後半はズレがなくなり、焦点も合って、例によって類例のない音楽を十二分に浴びることができた。なにが理由か、原因かはよくわからない。こちらの調子もあったのか。

 「新録」のための曲はもちろん、《PRAYER》に入っている曲も、毎回アレンジが違う。トリニテのライヴである曲を同じようにやったことはこれまで無いように思う。根幹のテーマであるメロディや全体の構造は同じなのに、イメージがどんどん変わる。どこかをめざしてリニアに進んでゆくというよりは、さまざまな方向を試みて、螺旋を描いているようでもある。

 この螺旋自体は外へ向かっている、と昨日のライヴを見て思う。この場合、鍵を握っているのは小林氏のパーカッションで、この人の演奏はとにかく外向的だ。基本的ベクトルが外へ向いている。比べると岡部氏の演奏は求心的だ。トリニテがバンドとして成立するためには、おそらくその求心性が必要だったのだろう。そして、一度できあがったものを、もう一度変容させてゆくには、小林氏の外向性がモノを言うということではないか。

 加えて、螺旋であることは結論がないことでもある。録音はある時点で切り取った姿であって、完成された形ではない。トリニテの音楽がどこにいるか測ることができるような三角点というところか。もちろん、いつもライヴに行けるわけではないから、やはり録音があることはありがたい。理想をいえば、グレイトフル・デッドのように、すべてのライヴが録音されていて、いつでも聴けるようになってほしい。毎回音楽が違うのはデッドと同じだ。そして、その音楽にひたることの悦びもまた、デッドの音楽に通じる。

 そこからすると、トリニテにもし足らないものがある、というよりは次のレベルに行く場合のステップになりうるものがあるとすれば、即興のやり方だろう。今はソロを廻す形だが、これを即興の叩きあい、あるいは集団即興にもってゆくのはどうか。むろん容易なことではないが、このメンバーならばそういうものを聴いてみたい。

 今回は《月の歴史》《神々の骨》の「次」になるもののための新曲も披露された。螺旋が1個で、それがどんどん大きくなる、というよりは、いくつもの螺旋が生まれていて、それらが互いにまた螺旋を描いているようでもある。

 今年はあまりライヴをしなかった、と shezoo さんは言われたが、これが毎月などということになると、聴く方も辛くなりそうだ。とはいえ、年1回か2回でもいいから、3日間連続で、たとえば《PRAYER》《月の歴史》《神々の骨》をそれぞれ演奏する、というのは聴いてみたい。やる方も聴く方もヘトヘトになるだろうが、おそらく至上の体験になるはずだ。(ゆ)

prayer
Trinite トリニテ
qs lebel
2012-08-19


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