クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:現代音楽

 shezoo さんは年明け、正月7日の『マタイ受難曲 2023』を控えててんてこ舞いのはずなのだが、精力的にライヴをしている。先日の透明な庭のライヴの時も、もう『マタイ』で頭がいっぱいで、家ではピアノを弾くヒマもなく、ライヴで弾けるのが愉しいと言っていたくらいだから、ライヴが息抜きになっているのか。台本はできあがったそうで、これから年末、集中的にリハーサルをする由。この日のライヴはすばらしかったが、ということは、たぶん『マタイ』の台本も満足のゆくものができたのだろう。それについて、聴く方も事前準備として『カラマーゾフの兄弟』を読んでおいてくれと宿題が出た。あとで確認したら、「5回読んでください」。ひええ。自慢じゃないが、ドストエフスキーは読んだことがない。

 エアジンに比べてずっと小さな空間であるここでこのユニットがやるのはどうなるのかと危惧がなくもなかったのだが、スペースの制約はむしろプラスに作用した。ひとつにはパーカッションの永井さんが見事に対応して、全体の音量を絞り気味にしたことがある。スペースだけではなくて、このユニットにふさわしい演奏の仕方を探りあててきているのかもしれない。大きな器で声とピアノをくるむようにるすだけでなく、その隙間に入りこんで双方をひき寄せ、接着したり、先頭に立って引っぱったりもする。パーカッションの人たちは、一人ひとりがスタイルも使う楽器もまったく違っているのが実に面白い。おまけに shezoo さんが一緒にやる人たちがまたそれはそれは愉しく面白い人たちばかりだ。shezoo さんには共演者を見る目があるのだ。

 永井さんも、これまでの共演者たちの誰ともまた違っていて、ダイナミック・レンジの幅がとんでもなく広い。出す音色の多彩なこともちょっと比べる人が見当らない。楽器も自作していて、前回、エアジンでも使っていたガスボンベを加工して作ったという、二つ一組の音階も奏でられるものに加えて、今回は木製の細長い直方体の上面にスリットが入ったものを持ちこんできた。これも自作だそうだが、それにしては仕上げも見事で、市販品と言われても疑問は抱かない。スリット・ドラムと呼ばれるタイプの楽器の由で、やはり音階が出せる。片足首に鈴をつけて踏み鳴らしながら、これをマレットや指で叩いてアンサンブルをリードする。

 そうすると石川さんの声が浮上する。一応増幅もしていて、距離が近いせいもあるか、エアジンの時よりも生々しい。ピアノと打楽器がメロディから離れて跳びまわるのに歌詞なしで即興で歌うときも声が埋もれない。石川さんもミミタボとは別の、このユニットで歌うときのコツを探りあててきているようだ。3人とも別々の形で何度も共演しているようだが、いざ、この組合せでやるとなると、他にはないここだけの化学反応が起きるのにあらためて対処する必要があるのだろう。それもライヴを重ねる中でやるしかない。リハーサルだけではどこか脱けてしまうのではないか。

 ここのピアノは小型でやや特殊なタイプで、弾くのが難しく、出せない音もあるそうだが、この日の shezoo さんは活き活きしている。弾くのが愉しくてしかたがない様子だ。後で聞いたら、弾いているうちにだんだん調子がよくなり、終った時がベストだったそうな。ミュージシャンというのはそういうものではある。

 2曲目の〈瞬間撮影〉でいきなりピアノとパーカッションがジャムを始め、ずっと続いて、そのまま押しきる。続く〈残月〉でもパーカッションと対話する。不思議なのは、歌っていなくても、シンガーがいるのが「見える」。対話というよりも、音のないシンガーも参加した会話に聞える。その後のパーカッションのソロがすばらしい。

 とはいえ前半のハイライトは何といってもクローザーの《神々の骨》からの〈Dies Irae〉。もともとは全ての旋律楽器がユニゾンでシンプルきわまる短いメロディをくり返す曲なのだが、今回はまずシンギング・ボウルからガスボンベ・ドラムの小さい音でビートを刻んでゆく。ほとんどホラー・ソングだ。ピアノがメロディを弾く一方で、なんと歌が入る。歌というより、何かの朗読をつぶやく。トリニテだと、パーカッション以外の3人がミニマルなメロディをくり返してゆく一方で、パーカッションが奔放にはね回るというスタイルだったが、これはまたまったく新たな位相。

 後半でもまず冒頭の〈枯野〉がすばらしい。透明な庭のための shezoo さんの曲で古事記に出てくる「からの」と呼ばれる舟の話。石川さんがその物語を語り、永井さんと shezoo さんは勝手にやっている。3人がそれぞれに異なる時間軸でやっている。それでいてちゃんとひとつの曲に聞える。

 shezoo さんによれば、これはポリリズムとポリトーナリティを同時にやる「ポリトナリズム」になる。

 この後は多少の波はあるが、レベルの高い演奏が続いて、舞いあがりっぱなし。〈Sky Mirror〉ではピアノとパーカッションの即興が地上に写っている夜空の転変を伝え、〈ひとり林に〉では、ミニマルで少ない音を散らすピアノに吸いこまれる。その次の〈ふりかえって鳥〉がもう一つのピーク。木製のスリット・ドラムと足首の鈴で、アフリカンともラテンとも聞えるビートを刻むのに、スキャットとピアノがメロディをそれぞれに奏でてからみあう。もう、たまりません。行川さをりさんの詞に shezoo さんが曲をつけた月蝕を歌った〈月窓〉では歌が冴えわたり、そして留めに〈Moons〉。ここのピアノはどうも特定の音がよく響くのか、それとも shezoo さんがそう弾いているのか。イントロでスキャットでメロディを奏でた後のピアノ・ソロに悶絶。そしてヴォーカルが粘りに粘る。この曲はどうしてこう名演ばかり生むのであろうか。

 そしてアンコールにドイツのキャロル〈飼葉桶のイエス〉。ここでのパーカッションのソロがまた沁みる。

 このトリオは来年アルバム録音を予定しているそうで、来年のベスト1は決まった(笑)。いや、冗談ではなく、楽しみだ。

 外に出てみれば氷雨。しかし、このもらったエネルギーがあればへっちゃらだ。さて、ドストエフスキーを読まねばならない。本は家の中のどこかにあるはずだ。(ゆ)

shinono-me
石川真奈美: vocal
永井朋生: percussion
shezoo: piano

 生誕110周年死去30周年のジョン・ケージ・メモリアル・イヤーの今年、Winds Cafe は何らかの形でジョン・ケージにつながりのあるイベントを組んできた。11月はついに主宰者・川村龍俊氏自らの登場。それも MOZART MIX という、あたしなぞにはまったくの謎のブツをひっさげての登場である。予告を見て、いったいこりゃなんじゃいなと検索しても、写真などは出てくるものの、それがいったいどういう代物なのかはさっぱりわからない。そうなるとますます知りたくなる。現物を見るしかない。このチャンスを逃せば、この先死ぬまで拝顔の栄には浴せまい。もう年で、3日連続で出かけるのはしんどくて避けてきたのだが、このまま知らずに死ねば、絶対に後悔のあまり化けて出ざるをえないだろう。ここは這ってでも見に行かねばならない。

 MOZART MIX とは1991年、死の前年にケージが発表した作品で、限定35セット。お値段は7桁前半。川村さんが買ったのは1997年で、その時点でもまだ売れのこっていた。本朝でこれを買ったのは川村さんの他にもう一人いたことが、この日、これを売った人、井部治氏から明かされた。その人はお金持ちのコレクターというだけで、ジョン・ケージに愛着があったわけではないそうで、現在は音信不通。捨てられていなければ、もう1セットがこの列島のどこかにあるわけで、いつか、何らかの形で浮上することがあれば、ちょと面白い。

 この作品は「サウンド・マルチプル」と呼ばれるジャンルまたは形態に属する。音で構成された「マルチプル」。「マルチプル」とは現代美術、芸術の分野で生まれた形態で、たとえば一つのボックスに複数の作品、版画とか写真とかを収め、セットとして提示、販売する。ドイツの現代美術専門のスタジオ兼販売店が1970年代に始めたものだそうだ。

 音を素材として使った「サウンド・マルチプル」としては、自動的に偶然に弦が弾かれる仕掛けをほどこしたアコースティック・ギターを函に収めたもの、なんてのがあった。これなどは作品として一度だけ一定期間展示されて終り、後に残るのは写真のみという。チップを備えて、ランダムに光と音が発するのはちょと面白そうにもみえる。結果としてあらわれるものだけでなく、その光と音を発生させる仕組みそのものが面白そうでもある。

 で、このブツである。実物はかなり大きい。縦横1メートルほどの正方形、厚さ15センチほどだろうか。がっちりした木製のケース。このケースがまず贅沢そうだ。いかにも美術品あるいはハイエンドのオーディオ装置などの超精密機械を収めるためのもの。重量も相当にあり、おそらくは素材も選びぬいた特注品であろう。これがさらにでかい木枠に入るという形で屆けられたそうで、送料だけでもウン万円はかかっていそうだ。なお、上のケースの裏にはケージのサインとこれが35セット中の何番かの番号が書かれている。筆記具は鉛筆に見えた。

 入っているのはカセット・プレーヤーが5台とカセット・テープが25本。カセット・プレーヤーはパナソニック製のモノーラル・スピーカー付きの録再機。三味線や謡などを習う人たちは今でもデフォルトで使っているアレである。録音もできるのだが、入っているものにはボタンの上に金属の板が貼られて、再生とストップ以外のボタンは押せないようになっている。電池駆動だが、コンセントから電源もとれる。ただし、同梱されているケーブルはドイツ仕様なので、そのままでは本朝では使えない。

 テープはエンドレス・テープで、3分ほどの音楽が録音されている。25本のカセットには番号などの識別記号は一切なく、どのテープにどんな音楽が入っているか示すものは何もない。25本はどれも皆同じ外見。

 録音されているのはすべてモーツァルトの楽曲。オペラ、シンフォニーからソロ・ピアノまで、各種一応揃っているらしい。3分ほどなので、全曲入っているものはない。すべて断片。モーツァルト・ファンならば、ああ、あの曲と聴けばわかるのだろう。あたしなどは〈アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク〉だけはわかった。演奏のクレジットなども一切無いが、まっとうな演奏だそうだ。

 立派なケースとは裏腹とど素人には見えるが、中身はつまり超精密機器でもハイエンドな装置やソフトウェアでもない。こんなにまでしてカネをかけたケースに入れる必要もないだろうと思えてしまう。

 もちろんこのハードウェアが「作品」なわけではない。「作品」はあくまでもアイデアとそこから生まれる「音楽」になるので、ハードウェアはそれを実現するための専用の手段になる。その気になれば、自分なりのハードウェア環境とソフトウェア、つまりカセット・テープに収めた音楽の断片を用意して再現することも可能だ。

 この場合、ケージの意図としては、カセット・テープに収めたモーツァルトの音楽の断片のセレクションそのものにそう大きな意味があったとは思えない。それはモーツァルトの音楽の録音という枠内で、適当にランダムで、多様性が確保されていればよいはずだ。その断片を5台のプレーヤーでさらにランダムに再生した場合の「音」の偶然性が鍵になる。

 したがって、カセット・テープに収められた内容そのものは、セットによって異なり、それを「再生」した場合の効果も異なる可能性もある。本朝のどこかにあるもう1セットの浮上をそこはかとなく期待するのはこのことの確認のためだ。あるいは、35セットを一堂に集めての「演奏」というのも一度はやってみる価値はあるかもしれない。

 ケージの作品としては当然とも思えるが、マニュアル、使用法の類は一切無い。同梱されていた書類はカセット・プレーヤーのマニュアルと保証書のみ。これをどう使うかはすべて買った人、あるいは使う人(たち)にまかされる。極端な話、カセット・プレーヤーやテープを投げつけあってもかまわないわけだ。

 しかしまあ普通はプレーヤーでカセット・テープを再生することになるだろう。どの順番で、どういう形で再生するかが、どうぞご自由にになる。

 イベントの前半はこれを売った井部治氏が、そもそもこれは何か、「マルチプル」とは何か、どうやって見つけ、売ったかをスライドをまじえて講演。あとで確認したら、井部氏から川村さんに買いませんか、と誘いがあり、川村さんは二つ返事で、かどうかは訊きそびれたが、とにかく買った。さすがに4年の月賦だったそうだ。面白いのは完済したところでブツが引き渡されたそうな。月賦でモノを買うと、初回の払込と同時ぐらいにモノは引き渡されるののが普通であろうが、この場合にはなにか深い事情があったものと思われる。もう一人買った方ももっと短かくはあったがやはり月賦で、引き渡しはやはり完済後だったので、でかい木枠に入ったブツが二つ、井部氏の狭い店を長い間占拠していたという。

 一方で川村さんは買ったものの開けることはなく、この立派なケースは部屋の隅に置かれたままだった、と夫人にうかがった。今回のご開帳は買われてから四半世紀経ってのものということになる。次がいつになるかは不明である。

 イベントの後半は開いたケースの中に収めたままのプレーヤーで25本のカセットが再生された。そのやり方はいろいろ考えられるが、今回は川村さんがひとりで、いわば独奏する形である。たあだ、その場ででたらめにやるのも面白くない。そこに何らかの筋を通して、それにしたがって再生することをおそらくケージも期待していただろう。

 この作品を発表した晩年、ケージは易に入れこんでいた。それも日常生活にまで導入し、たとえばその日何を食べるかを易で決めるということまでしていたそうな。そこで、今回も再生の順番を易で決めることにした。

 易の64卦のどれかを出すのに一番簡単なのはコインである。コインの表を陽、裏を陰として、たとえば3回はじくか、3枚一度にはじくかで陰陽の組合せを作る。たとえば陽3つなら「乾=天」、陰3つなら「坤=地」で、その間に6つの卦ができる。これを上下に組合せて上も下も「乾」なら「乾為天」、両方とも「坤」なら「坤為地」になって、この間に62の卦ができる。

 いちいちこれをやるのは時間がかかる。ケージの晩年の助手の一人がプログラミングに詳しく、瞬時に卦をランダムに出してくれるアプリを作り、ケージはこれを使っていた。同じ人が今はブラウザ上で同じことをできるようにしてくれている。しかも、変数をいろいろ変えたりもできるよう性能もよくなっている。川村さんはこれを利用して、25本のカセット・テープを5台のプレーヤーでランダムに重複なしに一度だけ再生し、全体で35分で終るようなタイム・テーブルを作った。テープはケースにならべた順番に再生し、それぞれのプレーヤーで何秒間再生するかが決まっているわけだ。

 ケースにテープを並べるところだけは今日の参加者から有志を募ったが、誰も手を挙げないのを見定めてから井部氏が買って出た。井部氏にしてもどのカセットに何が入っているかはわかりようもない。ただ、川村さんではない人間の手が加わるところがポイントである。

 そしてよーい、どんで1本目のカセットをプレーヤー1に入れてボタンを押した。これも川村さんが用意した、当時よく使われていた電子ストップ・ウォッチとタイマーとその他いろいろ機能のついたもので秒単位でタイミングを測る。これと同じようなものを、その昔、星川京児さんがいつも首からかけていた。音楽の録音を仕事とするプロデューサーには手離せないものであったらしい。

 プリント・アウトしたタイム・テーブルを見ながら、川村さんはカセット・テープをプレーヤーに入れてはボタンを押し、また押して止めてはテープを出して交換する。単純に見えるが、タイム・テーブルを決めたプログラムは人間の都合など考慮に入れていないから、時にはすぱぱぱぱと手練の早業で入れかえねばならないこともある。川村さんは大汗をかいている。

 そうして聞えてくるものが、この「作品」の実際ということになる。再生音は事前に調整して、音が割れない最大音量にしてある。様々な音楽の断片があるいは単独で、あるいは二つ三つと重なり、さらには全部が同時に聞えてくる。時にはサイレント・テープがあたったか、無音にもなる。1本、走行に問題のあるテープもあって、最後の数分も無音になった。このカセットの再生音にプレーヤーの操作音が加わる。なにせ、原始的ともいえるプレーヤーで、カセットを入れる時も出す時も盛大な音をたてる。この音もまたケージの意図ないし構想の中には入っていたはずだ。

 これを今の最先端の機器を使ってやることもむろん可能ではあるだろうが、どうもそれで面白くなるとも思えない。カセット・テープとプレーヤーはこの「システム」を可能にした初めてのテクノロジーだ。そこでケージがこれを思いついたところがキモである。

 ケージはとにかく音楽に偶然を持ちこもうとした、とあたしには見える。少なくともこの MOZART MIX のめざすところはそこにある。モーツァルトの音楽という枠を設定することで、偶然を際立たせる。これが、クラシック全体とかに広げてしまっては、やはり無意味になる。別にモーツァルトでなくてもよかっただろう。ビートルズでもできたと思われる。ただ、多様性の点ではオーケストラから独奏まで備わるモーツァルトの方が幅は広い。

 そして偶然を持ちこむことによって生まれる、聞えてくる音楽を愉しむ。というのはちょとずれる。再生音の質はここでは問うてはいない。このプレーヤーの音質は音楽そのものを鑑賞するには届かない。そこではなく、音楽に偶然を持ちこむことそのものを愉しんでみよう、愉しめるようにしようとした。だから、この「作品」をどういう順番で、どういう形で再生するかを考えることがまず愉しみの第一になる。

 アンコールも用意されていた。ネット上では、この「作品」では5台のプレーヤーが全部常に鳴っている状態にするのが本筋だという議論があるそうだ。そこで川村さんは25本のテープ全部を重複せずに一度ずつ再生し、5台全部が常に鳴っている状態が4分33秒続くタイム・テーブルを、上記と同じ方法で組んでみた。テープの順番はまた別の人間が並べた。

 本番とアンコールでは、鳴っている「音楽」そのものの印象は案外似ている、とあたしには聞えた。ランダムに再生される音楽、それも複数の再生機で再生される音楽は音の塊、クラスターとなって、しかもその結果は平均化されるのではないか。

 むしろここでは、このコンセプト、「25本のテープ全部を重複せずに一度ずつ再生し、5台全部が常に鳴っている状態が4分33秒続く」というアイデアそのものが面白い。このアイデアの元になったケージのおそらく最も有名な「作品」〈4分33秒〉も、実際の演奏そのものよりは、そのアイデアが面白い。

 だから、たぶん同じことをもっと音質の良い装置を使ってやることには、あまり意味は無いだろう。これはこのケースの中でやってこそ面白い。

 そして、再びご開帳があるとして、その時も川村さんが「演奏」するのでは、おそらくあまり面白くない。まったく別の人間が、まったく別のアイデア、「演奏」の仕組みそのものから考えたアイデアをもちこんで初めて面白くなりだす。終演後の雑談でも出ていたように、これは本来は個人所有というよりは、美術館なりの公共施設が保有して、様々な人びとがいじれる、利用できるようにすることで実力を発揮する性格のものにみえる。これにはこんな使い方、「演奏」法があったのか、とみんながびっくりするようなものが出てくるのが理想だ。ケージの意図も究極的にはそこにあったのではないか。

 音楽は必然と偶然の相互作用の産物である。クラシックのように、楽譜通りに演奏することが理想とされていて、どんなに「完璧」にその通りに演奏されたとしても、それを次もまったく同じに再現することは求められない。毎回同じ曲をまったく同じように演奏しようとしても、そうはならないところに音楽の面白さがある。反対に、毎回違うように演奏しようとしても、期待以上に似たことのくりかえしになってしまうのも音楽だ。この二つでは文句なく前者の方が面白くなる。人間としては必然をめざし、偶然の生成は天にまかせる方が結果は面白くなる。

 ケージは必然をめざすその前の段階で偶然の要素を可能なかぎり人為的に導入することをめざした、とあたしには見える。偶然そのものは人智のおよぶところではないにしても、どこでどのように偶然を呼びこむかはわが手に握ろうとした。易に入れこんだのは、それこそ必然的に思える。易は本来、人智の及ばぬ偶然のはたらきをなんとか感知しようとする試みではないか。

 かくて、MOZART MIX を目のあたりにし、そのご開帳に立ちあえて、本当によかった。これで死ぬときは、少なくともこれに関しては納得して死んでいける。ありがたや、ありがたや。(ゆ)


2022-12-14追記
 当日のレクチャー原稿に基く井部治氏によるまとめ、写真、川村さんが「演奏」に使ったリストなどが、Winds Cafe のページにリンクされている。「マルチプル」や「サウンドマルチプル」について、より詳しく、正確な事情がわかる。

 それにしても、あの日の体験はどこか異様で、感動したわけでもないのに、なぜか面白かったという感覚が時間が経つほどに少しずつ強くなっている。Winds Cafe の上記ページにある肖像画にもあるように、ジョン・ケージのユーモアのセンスがたまらない。
 

 昨年ハロウィーン以来という夜の音楽のライヴ。パンデミックの半年の間に音楽の性格が少し変わったようでもある。あるいは隠れていた顔が現れたというべきか。こういうユニットの顔は一つだけとは限らないし、また常に変わっているのが基本とも言えるだろうから、やる度に別の顔が見えることがあたりまえでもあろう。また、パンデミックはライヴそのものだけでなく、リハーサルや個々の練習にも影響を与えるだろう。もっとも今回の練習とリハーサルはかなり大変だったとも漏らした。

 2曲を除いて「新曲」、それも普通、こういうユニットではやらないラフマニノフとかラヴェルとかを含む。そりゃあ、リハーサルは大変だったろう。

 どの曲もこのユニットの音楽になりきっているのはさすがだが、いつもの即興が目に見えて少ないのはちょっと物足らなくもある。楽曲の消化の度合いが足らないのではなく、演奏の方向がそちらに向かわないのだろう。つまり、このユニットでやるというフィルターを通すとカオスの即興をしなくても、十分ラディカルになる。

 もっともバリトン・サックスを前面に立てて、真正面から律儀にやったラフマニノフやヴィラ・ロボスと、Ayuko さんがゴッホの手紙の一節の朗読をぶちこみ、思いきりカオスに振ったラヴェルで演奏の質やテンションが変わらないのは面白く、凄くもある。しかもこの3曲をカオスをストレートの2曲ではさんでやったのは新境地でもあった。

 一方で、新曲ではない2曲、加藤さんの〈きみの夏のワルツ〉と shezoo さんの〈イワシのダンス〉は、さらに磨きがかかって、とりわけ後者はこの曲のベスト・ヴァージョンといえる名演。

 ラスト3曲〈夏の名残のバラ〉、ジュディー・シルの〈The Kiss〉、アンコールの〈Butterfly〉(Jeanette Lindstrom & Steve Dobrogosz) のスロー・テンポ三連発も下腹に響いてきた。決して重くはないのに、むしろ浮遊感すらある演奏なのに、じわじわと効いてくる。

 今回は加藤さんと Ayuko さんが、それぞれの限界に挑戦して押し広げるのを、立岩さんと shezoo さんが後押しする形でもある。ただ、挑戦とはいっても、しゃにむに突進して力任せに押すのとは違う。このユニットでこの曲をやったら面白そうだと始めたらハマってしまい、気がついたら、いつもはやらないこと、できそうにないことをやっていたというけしきだ。こういうところがユニットでやることの醍醐味だろう。

 エアジンは全てのライヴを配信している。カメラは8台、マイクも各々のミュージシャン用の他に数本は使っている。途中でも結構細かくマイクの位置を調整したりしている。このユニットではとりわけ立岩さんのパーカッションがルーツ系で、ダイナミック・レンジが大きく、捉えるのがたいへんなのだそうだ。アラブで使われるダフなどは、倍音が豊冨で、ビビっているようにも聞えてしまう。確かに、冒頭で枠を後から掌底でどんと叩いた時の音などは、たぶん生でしか本当の音はわからないだろう。

 パンデミックで、ライヴに行くのも命懸けだが、その緊張感が音楽体験の質をさらに上げるようでもある。(ゆ)

夜の音楽
Ayuko: vocal
加藤里志: saxophones
立岩潤三: percussions
shezoo: piano

4月12日・月

 Grimdark Magazine のニュースレターにざっと目を通すつもりが、なぜか今回はじっくりと見て、サイトにも跳んで全部読んでしまう。どれもこれも面白そうだが、とりあえずインタヴューされていた Marina J. Lostetter のデビュー長篇を注文。壮大なスペースオペラだそうだ。アメリカ人だが最初の長篇はロンドンの Harper Voyager から出た。最新作のファンタジィは Tor からだが。




 散歩の供は Kefaya + Elaha Sorpor, Songs Of Our Mothers, 2019。

kfy+es


 Kefaya はロンドン・ベースのギタリスト Giuliano Modarelli と、キーボーディスト Al MacSween のふたりによるチームだそうだ。後者は名前からするとアイルランド系か。Kefaya は2011年にエジプトの草の根革命の母体となった集団の仇名らしい。

 Elaha Sorpor はアフガニスタンのシンガーでハザラ族出身の由。この人は本物の伝統歌シンガーで、芯のある強靭で伸びやかな声が自然にあふれ出る。相手に何が来ようとびくともしない。

 シンガーはアフガニスタンの伝統歌をそのまま歌い、それにギターとキーボード主体のバンドがバックをつけるというよりは、一聴、まったく無関係に響く音楽を勝手にやっている。それが共鳴して全体としてひじょうにスリリングでかつ地に足のついた面白い音楽になっている。方法論としてはフリア・アイシとヒジャーズ・カールの『オーレスの騎兵』に共通する。

オーレスの騎兵
ヒジャーズ・カール
ライス・レコード
2008-11-02



 ヒジャーズ・カールはアコースティックなサウンドでジャズをベースにしていることを明確に打出しているが、こちらは今風の電子ロック、と言っていいのか、本来アコースティックなサックスないしバスクラなどにもエフェクトをかけたアンサンブルによるものや、まったくフリーのカオス、静謐で端正でスローなジャズ、レゲエの変形のようなビートなど、曲によってかなりの変化を見せる。ドゥドゥックまたはその親戚のリード楽器がふにゃふにゃしたフレーズで縫ってゆくのも気持ちがいい。

 こういう時モノをいうのはドラムスで、CDがまだ来ないのでクレジットはわからないし、たぶん名前を見ても知らない人だろうが、切れ味抜群このドラマーは相当の腕利き。こういうドラマーがスコットランドの伝統音楽もやってくれると面白いんだが。

 このアルバムはセカンドだそうで、Bandcamp ではダウンロードしたファイルは 24/44.1 のハイレゾ・ファイル。録音も文句なし。フリア・アイシとヒジャーズ・カールもワン・ショット・プロジェクトで、この組合せも何枚も出るとは思えないが、どちらも今後は要注意。(ゆ)

 今週末はライヴ三昧。3日連続で同じ人のライヴに通うのは、何年か前、Lau のライヴに4日間通って以来だと思う。ラウーはメンツが変わらないが、今回は毎日、ヒロイン以外のメンツが変わり、やる音楽もがらりと変わる。会場の横濱エアジンのマスター、うめもとさん夫妻が用意された打ち上げ用の食材と同じく、和食、洋食、中華、それに無国籍まで揃えた、美味しい料理の宴会を3日間楽しませていただいた。

 この3日の間に35歳の誕生日を迎えたと今年から年齡を公開したユカポンを初めて見たのは、3日目のバンド、シズさん主宰のシニフィアン・シニフィエのライヴだった。たしか、渋谷の公園通りクラシックスだったと思う。ドラム・キットではなく、多彩な「鳴物」を駆使し、難しい要求を明るく軽々とこなしている若いチャーミングな女性の姿にまず目を瞠された。

 シニフィアン・シニフィエの次はやはりシズさんが主宰した昨年末のエアジン年末最後のライヴの臨時ユニットの時だった。この時はシズさんのライヴでの恒例で録音をさせていただくため、リハーサルから参加したのだが、やはり明るい調子で他のメンバーを盛りあげるところ、なかなか器も大きいのではないかと思われた。

 この臨時ユニットはプリエとなって続けられることになり、二度めのライヴがやはりエアジンであった時、今回の 3 Days の発表を聞いて、こりゃ行かねばなるまいとスケジュールに組み込んだ。期待は裏切られず、ライヴの楽しさを満喫させていただいた。アイリッシュもそうだが、今のわが国の若い音楽家の皆さんはすばらしい。真剣に、しかも楽しんで、それはそれは質の高い音楽をやっている。

 ジャンルとしてはジャズということになるのだろうが、ジャズと書くよりじゃずと書く方が適切に思える。あらゆるジャンルを呑みこむ自由度と可塑性の高い形態としてのじゃずだ。

 初日6月11日はこの日のための特別セッションとのことで、黒田京子(ピアノ)、田嶋真佐雄(コントラバス)、荻野やすよし(ギター)の諸氏とのカルテット。黒田氏以外は録音でも聴いたことがない。田嶋氏の楽器は弦が4本とも剥き出しのガットという、「世界でも類例がない」ものの由。なるほど、響きがとても深い。とりわけアルコの艷気は「恋におちる」というユカポンの表現が納得できる。荻野氏もガット・ギターで、ギターというのはこうも繊細になれるのかと感嘆する。先日の村上淳志氏のアイリッシュ・ハープを思い出す。心なし、外観も似ている。というよりも、かもしだす雰囲気が似ている。自分では曲は書きません、というユカポン以外の3人のオリジナルのこのユニットによる演奏は、現代音楽の極北をめざす。テーマの提示から即興に展開する点ではジャズと呼ぶべきだろうが、ここでの遊び、「エンタテインメント」のレベルは次元が別ではある。シリアスというより切実だ。持続音が無いこともあいまって、聴くのにも相応の準備と構えを求められる。うっかりすると本のページで指を切るように、しかしもっと深く刻みこまれそうだ。そこにユカポンが入るととても楽しくなる。性格はそのままに、態度が変わる。打楽器というのは使い方によっては、クリティカルになる。

 かなりなまでに張りつめた空気が一変したのはアンコール。まだ独身のユカポンに王子様が来るように、"Someday My Prince Will Come" をやったところへ、「楽器をもって」お祝いに駆けつけたミュージシャンたちが飛び入り参加する。谷川賢作さんが黒田氏と連弾し、熊坂路得子さんは谷川さんが持ってきたピアニカを吹きまくり、もう1人若いギタリスト(お名前を失念)がエレキ・ギターで参戦。いやもうそれは楽しく、これなら石油王の王子様が1ダースくらい駆けつけるだろうと思われた。

 2日目のプリエは個人的に一番楽しみにしていた。シズさんの一連のプロジェクトでは一番好きで、その理由はヴォーカルが入っているからでもある。松岡恭子さんのうたは線はあまり太いほうではないが粘着力があり、消えいりそうでしぶとく延びる。あまり他では聴いた覚えがないタイプだ。ちょっと聴くとどこにでもあるような感じだが、慣れてくるといつまでも聴いていたくなる。サックスのかみむら泰一さんが加わるカルテットという形も、他ではあまり聴いた覚えがない。あくまでも柔かいうたと、トンガリまくるサックスとピアノとパーカッションによる即興という対照の妙がいつ聴いても新鮮だ。〈サマータイム〉のようなスタンダード、〈シェナンドー〉のようなトラディショナル、シズさんのオリジナルなどどれも聴かせるが、今回はかみむらさんが選んだブラジルの古いショーロの曲がいい。なるほど、このユニットはこういうことをやっても面白いのだと新たな可能性を見せてくれた。こうなると、日本の伝統音楽、たとえば平曲や謡とかも聴いてみたくなる。松岡さんの声にはセファルディムのうたも合いそうだ。それにしてもアンコールの〈蘇州夜曲〉は良かった。〈昔のあなた〉はどうだろう。

 3日目、シニフィアン・シニフィエは前回は〈マタイ受難曲〉で、聴いている方は至福だったが、演る方はヘトヘトになっていた。とはいえ、それはユニット全体のレベルを上げたようで、今回は1枚も2枚も皮が剥けている。クラシックの作品をカヴァーする、というのではこのユニットのやっていることの半分もカヴァーできない。ここではまず作曲家による演奏編成は無視される。クラシックにおける作曲家の専制が転覆されるだけでも相当に楽しいが、それに加えてメンバーによるソロが展開される。シズさんはサポートに徹するが、フロントの3人だけでなく、ベースも、そしてついに今回はユカポンのソロも登場した。この部分はまずジャズと呼んでいい。スタンダードの対象が大幅に拡大されたものと言えなくもないが、テーマというか原曲の性格の違いはおそろしい。ジャズのスタンダード曲の場合は、多少の距離はあってもジャズの親戚ではある。それがショスタコービッチやバッハやプーランクとなると、いわばロマン派の風景画の真只中に抽象画を描きこむようなものだ。『スターウォーズ』の映画の一部、起承転結の転の部分をキューブリックにまかせたらこうもなろうか。しかも、ミュージシャンたちが、そうした実験、遊びを楽しみだした。〈マタイ〉を乗り越えて、一段上のレベルに登り、自分たちのやっていることが客観的に見えるようになったらしい。余裕ができ、遊べるようになった。テーマの部分と即興の部分は落差が大きくなるのだが、しかし違和感が不思議なほどない。ごく自然に片方から片方へ移行し、またもどる。即興によって原曲の美しさがさらに引き立つ。曲そのものの美しさが、異なる編成とアプローチによって浮き上がる。

 加えて今回はもう1人、サックスの加藤里志氏が参加したのがハイライト。曲はジョン・ケージの〈〉で、聴いているだけでも難曲だとわかるが、ケージの音楽のユーモアがどんぴしゃの度合いでにじみ出る。ケージのユーモアはかなりひねくれていると思うが、そのひねくれ方がぴたりと一致している。その後にやった〈マタイ〉のコラールが、前回に輪をかけて良かったのも霞むほどだった。加藤さんはシズさんがやっている「夜の音楽」にも参加している由で、やはりあれも見なくてはならない。

 ユカポンのマリンバのソロはみごとなもので、彼女が主宰するバンドはマリンバを2台フィーチュアしている由だから、これはぜひ見に行かねばならない。打楽器は鳴物やドラム・キットに限定されるものではないのだとあらためて納得。

 ユカポンとしては本領はマリンバなのかもしれないが、この3日間は特別製というカホンが大活躍していた。中に張ってあるギター弦は普通は4本なのだが、彼女のは8本ある。さらに前面だけでなく、両側面も叩けるようになっている。今回はもう一つ、秘密兵器が登場した。大太鼓、グラン・カッサだ。その威力は文字通り巨大で、「重低音」のようなまやかしではない、ホンモノの低音を叩き出す。音というより下から伝わってくる振動だ。室内の空気が全体として震える。ただ、あまりに大きいので、その裏にあたる席にすわると、ユカポンの姿はまったく見えなくなった。

 プリエやシニフィアン・シニフィエはシズさんがバンマスということで、これまでのライヴではユカポンはどこか遠慮していた部分があった。と、今回の演奏を見るとわかる。遠慮というか、バンマスの指示に遅れないでついてゆくことに専念していたというべきか。今回は自分の3日間という自覚があったのだろう、アンサンブルに積極的にからんでいた。堂々たるマリンバ・ソロはその最たるものだが、それだけではなく、いたるところで全体を浮揚させ、推進し、煽っていた。初日のユニットは別として、プリエもシニフィアン・シニフィエも、明かに一段階段を上がった演奏を展開していたことは確かで、それにはユカポンの成長がかなり大きく寄与していると思える。

 ユカポンも含め、この3日間で登場した十数人のミュージシャンのほとんどはとても若い。シズさん、水谷浩章氏、黒田京子氏を除けば、みな30代からそれ以下だろう。その人たちが演っている音楽の質と志の高さはには圧倒されっぱなしだった。それだけではなく、みんな音楽を楽しんでいる。音楽をやることが、やれることが嬉しくてしかたがない。その点はアイリッシュの人たちと少しも変わらない。この中でアイリッシュと多少とも縁があるのは大石俊太郎、壷井彰久の両氏だけだが、チャンスがあれば、皆さん、進んでアイリッシュをはじめとするルーツ方面も演られるのではないか。いい音楽、おもしろい音楽と思えれば、こだわりなく、どんどん演ってくれそうだ。ユカポンがバゥロンを叩いている姿を想像するのも楽しい。

 ジャズをベースにしているこういう人たち、若くすぐれたミュージシャンたちはまだまだたくさんいるようだ。たとえばプリエを見にきていたヴァイオリンの西田けんたろう氏がベースの田嶋真佐雄氏、ギターの福島久雄氏と作っている Tango Triciclo も面白そうだ。もうたいして時間も残されていないし、カネはあいかわらず無いが、できるかぎり追いかけたくなってきた。(ゆ)

 先週土曜日夜。大泉学園も in F も初めてだ。西武池袋線に乗るのも、遥か昔、飯能の先の高麗神社で行われたサムルノリの奉納ライヴを見に行った帰り以来だろうか。

 ピアノ、作曲、編曲の shezoo さんのユニット、シニフィアン・シニフィエの初ライヴ。編成はピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、サックスとフルート持ち替え、ダブル・ベース。この編成で「現代音楽」をやるという。shezoo さんにとっての現代音楽はアルヴォ・ペルトとジョルジュ・リゲティとその先のバルトークの由。それにバッハがまじる。ということでこの夜はペルト、リゲティ、バッハが2曲ずつにバルトークがひとつ。
 
 このバルトークが何といっても良かった。「ミクロコスモス」の149番をジャズとして料理する。ヴァイオリン、クラリネット、サックスとソロをとる。いずれ劣らぬ芸達者の中に、バリトンで吹いたサックスがとりわけ冴えわたる。コーフンしますた。バルトークが聴いてもきっとコーフンしただろう。

 といってジャズ的展開ばかりではなく、もう一つ、shezoo さんのオリジナルで別ユニット Trinite のための「神々の骨」の1曲もやはりすばらしい。Trinite の渋谷でのライヴのハイライトの一つだったこの曲はペルトへのトリビュートとも言えるが、緊張と弛緩が対等に同居していて、シンプルで美しい曲なのに聴いているうちにカラダとココロの中のどこかがねじられてくる。3.11と直接の関連はないのかもしれないが、ポスト3.11のリアリティをどんな楽曲よりもひしひしと感じる。どこと明確に指さすことはできないが、どこかが決定的に変わってしまっている感覚。あまりに決定的な変化のために、そうは見えない。またそうは見たくない。そういう変化をいやおうなく抱えこまされた事態を表面化する音楽なのだ。その変化はいずれ、思いもかけない時に、思いもかけない形で爆発するはずだ。その時をただじっと待つしかないという事態でもある。

 それがシンプルで美しい音楽の形をとって提示されるとき、極小なりとはいえ、何らかの準備をととのえることに貢献するのではないか。あらかじめこの音楽を聴いておくことで、実際に出るまで、出口の形も、いつ出られるかもわからない、その「時」への希望をつなぐことができるのではないか。ここには、かすかではあるが、まぎれもない希望が着実に流れている。

 同じ希望は、この夜のどの演奏にも流れていたようにもおもう。

 ヴァイオリンの壷井彰久氏とクラリネットの小森慶子氏は Trinite でもおなじみで、やはり質の高い演奏を聴かせてくれたが、バルトークでの活躍もあって初見参のサックス・大石俊太郎氏と出逢えたのは嬉しい。ベースの水谷浩章氏は、むしろオーケストラのコントラバスに求められるような役割をふられてとまどいながら楽しんでいた様子がおもしろかった。サックスとのデュオでのバッハは珍品というと失礼かもしれないが、ひょっとすると新たな突破口たりうる可能性を感じる。そう、バッハはもっといろいろな楽器で演奏されるべきだ。

 shezoo さんがご自分のブログに、あれは自分が聴きたいことをやったのだと書かれているが、バッハだってバルトークだって、自分が聴きたい音楽を作っていたはずである。(ピーター・S・ビーグルが言うように)作家は自分が読みたい物語を書く。画家は見たい絵を書く。音楽家は聴きたい音楽を音にする。その音楽をなろうことならぼくもまた共有したい。共有されることで作品は巣立つ。その巣立ちに立会いたい。

 Trinite とこのシニフィアン・シニフィエを聴いて、shezoo さんのやることへの信頼は確立した。なにをどんな名目でやろうと、時間とカネと体力の許すかぎり、聴きにゆくであろう。


 時間がちょと早かったので、駅のあたりをうろうろ。どこにでもある私鉄沿線の町になりつつあるが、まだ抵抗してしぶとく生き延びている独得の蓄積がありそうだ。と感じていたら、おもしろそうな古本屋がある。比較的新しいマンションらしい建物の一階で、エントランスをはさんだ左側の喫茶店もうまそうだ。一度行きすぎるが、やはり引かれるものがあって扉を引きあけて入る。

 古書ほうろうとはまた違って、昔ながらの、どこか得体のしれない無気味さを備えた店。そうか、ほうろうは明るいのであった。あそこでは書棚の向こうからぬっと何かが出てくるような雰囲気はない。

 とりあえずと右手の文庫の棚を見てゆくと、宮崎市定の『謎の七支刀』と中野美代子『三蔵法師』ともに中公文庫を見つけてしまう。宮崎のはなぜか買いそこねていたし、中野のはリアル玄奘の伝記となれば、読まないわけにはいくまい。コミックの棚も『サスケ』新書判の揃いなんかがある。うーむ『カムイ伝』愛蔵版かあ。

 いやいや今日は背中のリュックも重いのだと思いなおして、文庫二冊だけにする。値段が書かれるべきところに262という半端な数字が書いてあるので、ほんとはいくらなんだろうと思ったら、その数字まんまの値段であった。

 こういう本屋は田園都市線の沿線にはありえない。あの線の、とりわけ梶ケ谷から先は町に蓄積がない。ブランド品をならべたシャレた店はあるかもしれないが、何の役にもたたない文化の薫りは薬にしたくもないのである。もともとは大山街道筋だったはずで、それなりに過去の堆積があってもおかしくはないのだが、きれいに消されてしまっている。
 
 ちなみに本屋の名前はポラノ書房。ちゃんとサイトもある。

 宮崎の本は、得意の文献分析による謎解きで、よくできたミステリを読む気分で、一気読み。さらに同時期の他の刀の遺物から銘文の源流をたどって、東アジア全体の動きにまでいたるのも、この人の真骨頂。そもそもこんな銘文を刀に刻んで与えるあるいは残すというふるまいがいつどこで生まれたのかは、年代推定にあたっても重要なポイントではある。全世界の歴史を通じて、どこでも行われたというようなことではない。むしろ、特定の時代と地域に限定される現象なのだから。

 それにしても漢文が読めなくては中世までの日本列島とその周辺の歴史を学ぶことなどできないのは、漢文に加えてポルトガル語もできないでは日本の戦国時代史を学べないのと同じ。当然、江戸時代の研究にはオランダ語は必須だし、幕末から明治にかけてはそれに加えて英仏露朝語も必要になる。20世紀に入れば、独伊が加わる。日本の歴史を学ぶのはたいへんだ。(ゆ)

 

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