クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:生音

 ああ、生のフィドルの音はこんなにも気持ちのよいものだったのだ。もちろん名手の奏でるフィドルだからこそではあるだろう。久しぶりのせいか、マイキーはフィドルの腕が上がったように聞える。冒頭、いきなりポルカで始めるが、ビートがめだたない。まるでポルカではないかのように、細かい装飾音に支えられてメロディが浮きたつ。その次はホーンパイプからジグ。その次はカロラン・チューンからリール。ギター・ソロで始まり、フィドルが加わる。曲種と楽器のこの転換がひたすら心地良い。とりわけ斬新な工夫でもない、特別なことではないよというように、実際もう特別なことではないのだろうが、風景が変わってゆくのは快感だ。もう、これがアイリッシュかどうかなんてことはどうでもよくなるが、それでもこれはアイリッシュならではの快感だ。

 前半のしめくくりにトシさんが歌う。去年あたりから、あたしが見るライヴではトシさんの歌が最低で1曲は入っている。やはり歌っていると巧くなるもので、今回はもう一段の工夫もあって、レベルが上がった。芸は Bucks of Oranmore のメロディにオリジナルの歌詞をのっけるのだが、マクラとしてその歌詞を一度講談調に演じる。コロナが流行りだす頃から京都に移って、あちらの友人の提案だそうだが、講談はトシさんのキャラ、ミュージシャンとしてのキャラにも合っている。あの風采で和服に袴をつければ講談師で通りそうだ。誰もアイリッシュ・ミュージシャンとは思うまい。それでリルティングとか、こういう既存のメロディに物語りをのせるのをやったらウケるかもしれない。バラッドというのはそもそもそうやってできている。たとえばラフカディオ・ハーンの怪談をアレンジしてみるのはどうだろう。

 高橋さんのギターはマイキーのフィドルとの呼吸の合い具合がさらに練れてきたと聞える。後半の1曲めでコード・ストロークでソロをとったのは良かった。引田香織さんたちとやっている「ブランケット」の成果だろうか。高橋さんは去年からスティール・ギターをもう80を超えたわが国の名手に習っているそうで、そのスティール・ギター風で Danny Boy をやる。確かに素直に聞けばこのメロディは綺麗なのだ。困るのはこれに余計な感傷をこめてしまうからだ。高橋さんのギター・ソロからフィドルとバゥロンが加わった演奏は、これまで聞いたこの曲の演奏でもベスト3に入る。マイキーのCDにはぜひ入れてもらいたい。

 ギター・ソロから3人のアンサンブルという転換はその前の Banks of Cloudy から Blackbird のメドレーも同じで、これも良かった。こいつもぜひCDに入れてください。まあ、この日の演目はどれもCDで残す価値はあるとは思う。

 マイキーは来年6月に次の任地ウクライナへの転任が決まったそうで、日本にいられるのはあと半年。なんとしてもその間に、CDだけは出してほしい。マイキーが去るのは残念だが、マイキーと入れかわりにコンサティーナを演られる妹さんが来日するそうで、なにせ、マイキーの妹さんだから、楽しみだ。

 20名限定で満席。こんな時によく来てくださいました、とミュージシャンたちは言うが、こんな時だからこそ、なのだ。こんな時によくも演ってくれました、なのだ。みんな、飢えているのだ。きっと。あたしは少なくとも飢えている。配信は確かに新しいメディアで、ふだんライヴに行けないような人たち、スケジュールが合わない、遠すぎる、などなどで行けない人たちにも生演奏に接するチャンスを生んだ。とはいえ、なのだ。それはそれでケガの功名として、ライヴの、それもノーPAの生音のライヴは格別なので、こういうライヴを体験できる幸運にはただひたすら感謝するしかない。

 ムリウイはビルの屋上の一部だし、周囲に高い建物は無いので、店の外に出れば街中としては空が広い。その宙天に冷たく輝く月がことさら目にしみる。思いの外に寒くなり、おまけに来てゆく服をまちがえたので、帰りの駅からのバスでは胴震いが止まらない。それでも、音楽のおかげだろう、風邪をひかずにすむ。(ゆ)

 高円寺グレインでのライヴがあまりに良かったので、原則を破って連日のライヴ通いした福江さんの東京2デイズの2日めは、前夜とはがらりと変わったものだったけど、やはり同じくらいすばらしい。中村さんとの組合せも別の意味でばっちりで、こうなると、福江、中村、高橋の3人でのライヴというのも聴いてみたくなる。

 変化の要因の一つはレテというこの空間。20人も入れば満員の小さな空間は、床と壁は木で、やや高い天井が打ちっ放しのコンクリート。演奏者は奥の、少し狭くなったところに位置する。木の壁で三方が囲まれたそこで奏でると、アコースティック・ギターの響きがすばらしいらしく、福江さんがあらためて驚いている。響きのよさに、いつまでもそこに座ってギターを弾いていたくなるらしい。

 演奏者のいる場所の天井には枯れ枝がからまる装飾というよりは彫刻と呼んでみたくなるものが吊るされている。音響にはこれも良い効果を生んでいるのではないか。照明はその絡みあった枝の中に吊るされた小さな電球、LEDではない、昔ながらの電球だけで、演奏中はこれも少し暗くなり、静謐な空間を生み出す。

 室内はいい具合に古びた感じで統一されている。椅子は、おそらく教会用の、背中に書類か薄い本を挿すいれものがついている。固く、小さく、坐り心地は良くないが、音楽には集中できる。トイレの扉も、ヨーロッパの旧家からはずしてきたような、白塗りのペンキがあちこち小さく剥げかけた両開き。

 全体に、下北沢のライヴハウスというよりは、どこか人里離れた岬の上にでも立つ小さなバー、という感じで、周囲の時空からすっぽりと切り出されている。

 正面、演奏者の背後の壁には、2メートル四方くらいの大きな絵の複製が、枠もなく、裸で貼られている。何を描いているのか、はじめわからなかったが、ずっと見ているうちに、どうやら中央に開けているのは川面で、両側にびっしり背の高い草が生えているのだと見えてきた。店の名前から、地獄の手前のレテ(忘却)の河かと思ったら、そうではなかった。しかし、そうであると言われても、納得する、ひどく静かな絵だ。

 ライヴは中村さんのソロで始まる。ソロ・アルバムに収めたような、静かでスローなダンス・チューンを坦々と弾いてゆく。MCの声も低く、ほとんど囁くようだ。自然にそういう振舞いになるのが、よくわかる。この空間に、騒々しいおしゃべりは似合わない。終演後のおしゃべりでも、皆さん、自然に声が低くなる。中村さんの静謐なギターの静謐なダンス・チューンは、その空間に沁み透る。

 中村さんは歌も唄う。〈見送られる人〉と〈夢のつづき〉。後者は聴いた初めから好きになったが、前者も何度かライヴで聴いて、だんだん好きになってきた。どちらも太文字で「名曲」とわめきたくなるものではないが、折りに触れて、聴いては味わいたくなる。不思議な魅力を備えたうただ。

 中村さんのラストに、福江さんと二人で〈オリオン〉。たがいにリードとリズムを交互にとるのは高橋さんの時と同じだが、シャープな高橋さんに対置すると、中村さんは全体にソフト・フォーカス。それでいて、焦点はぴしりと合っている。片方がカウンターメロディを弾いていて、するりとユニゾンになり、またふわりと離れる。うーん、たまりません。アコースティック・ギター2本のユニゾンがこんなにすばらしいとは。篠田昌已が大熊ワタルさんに、ユニゾンは深いんだよ、と言ったそうだが、いや、ユニゾンは実に深い。

 後半はまず福江さんのソロ。やはり静謐なドイツのピアニストの小品から始まり、その後は前日同様、ソロ・アルバムからの曲がメインだが、これまた響きがまるで違う。グレインでは福江さんの演奏を初めて見ることもあって、テクニックに眼を奪われたところがあるが、昨日はテクよりも曲そのものがずっと入ってくる。二度目ということはもちろんあろうが、それよりもやはりこの空間の作用が大きい。聴く者に音楽を沁み込ませるのだ。

 選曲も違ってきて、福江さんが大好きというアンディ・マッギーとエリック・モングレインの二人のギタリストの曲をカヴァーする。どちらも楽器としてのギターの限界をおし広げようという挑戦精神に満ちていて、しかも音楽として面白い。弦を叩いてわざと出すノイズが実に美しく響いたりする。福江さんの作る曲にもこの二人の影響は明らかだ。むろん、この二人だけではないはずだが。

 ひとしきりソロでやってから、また二人になる。中村さんが左、福江さんが右に座るが、幅が無いので二人は客席に直角に、互いに向かい合う形。二人でやると、またユニゾンに合わさったり、自然にズレて離れたりする対話になる。ずっとユニゾンではなく、ここぞというときにユニゾンになるのが、こんなにスリリングだとは知らなんだ。

 ハイライトはその次の福江さんの〈Coma〉で、まず中村さんがリード、応えて福江さんがリードをとる。ぞぞぞぞぞーと背筋に戦慄が走る。アコースティック・ギターの醍醐味、ここにあり。しかも、熱いのに、あくまでも静か。盛り上がるのにうるさくならない。聴く方は音楽に吸いこまれる。

 アコースティック・ギターにはやはり魔法がある。そして、この空間にもまた魔法が働いている。

 お客さんの数は少なかったけれど、ライヴに通うために九州から東京に転職したという若い女性や、hatao さんのお弟子さんで、遥々台湾から中村さんを見に来たという、これまた若い女性もいる。やはり、ここはどこか特別なのだ。当てられて、まったく久しぶりに Bushmills など飲んでみる。8月はまことに幸先よく始まった。(ゆ)

fluctuation
福江元太
gyedo music
2018-08-29


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26


 人生最高のライヴだった。

 もちろん人生最高のライヴはいくつかある。とはいえ三本の指に入る。

 良いライヴというのが稀なのは、それを形作るさまざまな条件が全部うまくはまることが稀だからだ。ミュージシャンの体調、リスナーの体調、会場の特性、曲の選択と配置、当日の天候、聴衆の性格、その他にもいくつもの要素がぴたりと合って初めてライヴは成功する。

 まず会場がすばらしかった。演奏は最高だった。曲の流れが練りに練られていた。聴衆は音楽をよく知っている。一年で一番良い季節。

 なかで一番の貢献をしていたのは、つまりこの夜の主役は会場だ。

 求道会館は「きゅうどうかいかん」と読み、もともとは浄土真宗大谷派の会堂として百年前に建てられた。建てた人と設計した人については公式サイトに詳しい。外から見ると洋館。中に入ると教会のような柱のない、しかも高い空間の正面、教会ならば祭壇や十字架が掲げられているところに六角堂がはめこまれており、阿弥陀如来の立像が安置されている。六角堂は壁の裏側にもちゃんと続いている由。床は板張り。そこに3人掛けの、やや座位の低い長椅子が並べられている。教会のように両側に二階席があり、その下は身廊ともみえて、つまりロマネスク様式でもある。二階も床は板張りで、内へ向かって段々になっている。やや大きめの窓にはすべて板が打ち付けられているが、後で聞くと吸音材だそうだ。中は土足厳禁で、靴を抜いでスリッパで入る。ミュージシャンたちも靴下だった。リアム・オ・メーンリなら大喜びで裸足になるところだ。

 今世紀に入って建築主の子孫が主体となって修復し、主に真宗の講演や行事に使われており、一方で様々なライヴも行っている。辻康介氏をはじめとする古楽が多いらしい。地唄の藤井昭子氏が定期的に演奏会を開いているとのことで、これは一度来よう。

 とにかく音が良い。ローゲルのギターに、本人がいつも持ち歩いている小さなアンプで軽く増幅をかけた他は完全に生音。それがかつてなくよく聞こえる。かれらの本当の音を初めて聴いた。ニッケルハルパの倍音の重なり、ヴィオラのふくらみ、十二弦ギターの芯の太さが、はっきりと聞こえる。もちろんバラバラに聞えるのではなく、アンサンブルとして、一個の有機体としてやってくる。適度の湿り気をふくんだ弦の響きがまっすぐに伝わってきて、背筋に戦慄が何度も走る。

 響きのよい会場ならば、ミュージシャンたちの意気込みもちがってくる。来年結成25年を迎えるヴェーセンは、いま現在、これまでないほど多忙なそうだが、その多忙さは良い方に作用している。今回は、とりわけ東京での会場が普通のコヤではないところが、よい刺戟になっているのだろう。この前の晩は科学博物館で恐竜の骨格標本に見下ろされての演奏だったし、この日は阿弥陀様が見守っていた。教会のような威圧的なところもなく、寺のような抹香臭さもない。それでいて、どこか敬虔な気持ちがわいてくる不思議な空間。この空間ですばらしい音楽に洗われて、身も心もすっきりと晴れやかになってくる。アルテスの鈴木さんも風邪が治ってしまった。

 あまりにすばらしかったので、ほんとうに久しぶりに打上げに参加させてもらった。かれらの英語は実に聞き取りやすく、わかりやすい。ローゲルから、英語で書かれた日本の歴史の良いものはないか、と訊かれた。後で調べて連絡することにする。スカンディナヴィアのバンドで最初に聴いたのは何だというので、Folk Och Rackare と答えるともちろん知っていた。リード・シンガーの Karin Kjellman は健在で、いまもうたっている由。Rackare は死刑執行人のことだとミッケが言うと、ウーロフがそうではなくて皮剥職人のことだと言う。いずれにしても賤民とされた人びとをさすらしい。

 それをバンド名に掲げたこの先駆者はやはりその後のスウェーデンのミュージシャンに甚大な影響を与えたそうだ。かれら自身はスウェーデンとノルウェイの混成バンドだったはずだが、カリンの気品に満ちたヴォーカルを中心に、民衆の野生と粘りを格調の高い音楽として演じていて、今聴いてもあれだけのものはなかなかない。ローゲルによればかれらはまたフェアポート・コンヴェンションに影響を受けていて、それは最後のアルバム《RACKBAG》にリチャード・トンプソンが参加しているのでもわかる。ここでのトンプソンの演奏は一世一代といってもいい。ローゲル自身、フェアポートにははまったそうだ。

 久しぶりに遅くなって時間計算をあやまり、これまた久々に終電を逃して手前の駅からタクシーをとばす破目になったが、そんなことは全然気にならない夜だった。

 このライヴを実現してくれたバンドはもちろん、招聘元ののざきさん、そして会場のコーディネート担当鷲野さん、そしてこのすばらしい建物を修復し、使用して後世に伝えている会館オーナーに心から感謝する。(ゆ)

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