クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:短篇

 こういうことを書きだすと、キリが無くなる懼れが大いにある。それはもういくらでも出てくる。『S-Fマガジン』、「S」と「F」の間にハイフンが入るのが本来の誌名だが、表紙、目次、奥付を除いて、本誌の中でもハイフンは付いていないから、ここでもハイフンなしで表記する。むしろあたしなどには SFM の方がおちつく。

 今年2月号の創刊60周年記念の「私の思い出のSFマガジン」に目を通して、同世代が多いのが少々不思議だった。SFM に思い出を持つのがその世代が多い、ということか。また、われわれの世代が SFM が最も輝いていた時代に遭遇したということか。あるいは単純に年をとったということか。

 あたしが初めて買ったのは1970年10月号、通巻138号。理由もはっきりしている。石森章太郎の『7P(セブンピー)』である。これを学校に持ってきたやつがいて、ぱらぱら見たときだ。この連載は雑誌の真ん中あたりにあるグラビア紙を使ったいわゆる「カラー・ページ」に7ページを占めていた。毎回、著名なSF作家に捧げられている。この号は「ジュール・ヴェルヌに」。石森が得意とした、というより、トレードマークに作りあげた、擬音だけで科白つまりネームが一切無いものの一つ。これがもう大傑作。このシリーズでも1、2を争う傑作である。何回読んでも、今読んでも、笑ってしまう。何に笑うのか、よくわからないのだが、可笑しい。なに、どんな話かって? 自分で探して読んでくれ。ここであたしが筋を書いてもおもしろくもなんともない。

 で、だ、これを読んで、こいつはぜったいに持っていなくてはならない、となぜか思った。この頃、まだあたしは図書館というものの利用法をよくわかっていなかった。学校の図書館には入りびたり、それなりに本も借りて読んでいたが、しかし本当に読みたいものは持っているのが当然だった。図書館にはなぜか世界SF全集もSFシリーズもあって、どれも群を抜いて最も貸出頻度が高かったが、自分では借りたことがない。とにかく、この雑誌は持っていなくてはならない。その日の帰りに買ったはずだが、どこで買ったのかの覚えは無い。学校の近くか、家の近くか、どちらかの本屋のはずで、いずれにしても昔はよくあった小さな本屋だ。そして、それから毎号買いだした。なぜか定期購読はしなかった。結局ずっと買いつづけ、社会に出て、出版社に就職してからは、問屋を通して8掛けで買えたから、定期を頼んでいた。会社を辞めたとき、もういいや、とそれきり買わなくなった。実際、いつ頃からだろう、買っても読むことはまず無くなっていた。

 話が先走った。とにかく1970年10月号、ということはおそらく二学期が始まった直後だろうか。それから何年かは毎号表紙から裏表紙まで舐めるように読んだ。広告のコピーも漏らしはしない。大学に入った頃からバックナンバーを漁りだした。だんだん遡ってゆき、ついには創刊号から揃えた。これには今は亡き、神田の東京泰文社にもっぱらお世話になった。ここは洋書と翻訳ものがメインで、この店にお世話になったSFファン、ミステリ・ファンは多いはずだ。野田さん、伊藤さん、それに植草甚一も常連の1人だったと記憶する。

 雨宮さんのサイトで見ると、この号には主なものでは、シルバーヴァーグ『時間線をのぼろう』の連載第2回と、光瀬龍「都市」シリーズ最終回の「アンドロメダ・シティ」、そして筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』連載第1回が載っている。いや、たぶんバックナンバーはもっと早く漁りだしていたはずだ。なんといってもシルバーヴァーグの第1回を読まねばならなかったのだから。

 あたしはこの時がシルバーヴァーグには初見参だ。この年の4月に『時の仮面』が浅倉さんの訳でSFシリーズから出たのが初の単行本のはずで、それまではSFMと福島さんが編んだアンソロジーで中短編が訳されていただけだから、書籍として出ていた長篇主体に読んでいたあたしが触れるチャンスはまず無かった。『時の仮面』は『時間線をのぼろう』の連載終了後、まもなく買って読んだはずだ。

 『時間線をのぼろう』はいろいろな意味で強烈で、それからしばらくシルバーヴァーグは手に入るかぎり読むことになる。この時期のものでは『夜の翼』が最高だと今でも思うけれど、伊藤さんがいかにも楽しそうにやっている『時間線をのぼろう』は、作品そのものの質とはまた別にSFを読む愉しさを教えられた。当然これがそのまま単行本になるのだと思っていたから、中村保男版が出たときにはずっこけた。一人称が「私」になっているのを見ただけで、買う気が失せた。これは翻訳そのものの質の問題ではなく、自分の感覚と合うか合わないか、のところだ。固有名詞の発音とならんで、人称の問題は結構大きい。

 光瀬龍のシリーズは『喪われた都市の記録』としてまとめられるものだが、この最終回は収録されなかった。代わりに、散文詩のようなものが加えられた。単行本刊行当時、石川喬司がやんわりと批判したけれど、あたしもこれは失敗だったと思う。この「アンドロメダ・シティ」も成功しているとは言えないが、この方向でもう一段、突込むべきだったろう。光瀬の悲劇は福島正実と別れてから、かれの器をあつかえる編集者にめぐり逢えなかったことだ。当時の編集長・森さんは今回60周年記念号の寄稿で自ら述べているように、早川のSF出版を会社の屋台骨にした手腕の持ち主だが、光瀬には歯が立たなかった。

 『脱走と追跡のサンバ』は筒井の最初の転換点となった傑作だが、高校1年のあたしに歯が立つはずもない。これまた筒井初体験だったから、なおさらだ。いったい、何の話なのか、さっぱりわからなかった。筒井は後に塙嘉彦と出会って完全に化けるけれど、かれにとって編集者はおそらく踏み台で、光瀬にとってほど重要なパートナーではなかった。とまれ、この連載はしかし、あたしにとっても重要だった。というのは、わけがわからないまでも、とにかく連載にくらいつき、読んでゆくうちに、ある日、ぱあっと眼の前が開けたからである。言うまでもない、半ばにいたって、それまで逃げていた語り手が攻守ところを変え、追いかけだした時だ。小説を読むとは、こういうことなのだ、と教えられた。右も左もわからない五里霧中でも、とにかくくらいついて読んでゆけば、ユリイカ!と叫びたくなる瞬間が必ずやってくる。それが、優れた小説ならば。

 この1970年代前半の SFM に遭遇したのは、やはり幸運だったと思う。森優編集長は福島時代の編集方針とは対照的な新機軸をいくつも打出し、雑誌にとっての黄金時代を将来したからだ。あたしにとってまず興奮したことに、半村良と荒巻義雄が、ほとんど毎号、競うようにして力の籠もった中篇を発表していった。小松左京を売り出したときの福島さんの手法にならって、意図的に書かせたのだ、と森さんに伺った。この時期の半村の作品は後に『わがふるさとは黄泉の国』、荒巻のは『白壁の文字は夕陽に映える』にまとめられる。あたしにとっては半村はまず「戦国自衛隊」の書き手だった(後の改訂版は読んでいないし、読もうとも思わない)。これらの中篇を助走として、半村は翌年『産霊山秘録』へと離陸し、さらに『亜空間要塞』へと飛躍する。山野浩一、河野典生、石原藤夫が本格的に書きだしたのも、おそらく森さんの慫慂があってのことだろう。

 「戦国自衛隊」は前後100枚ずつの分載で、これには興奮した。その気になれば大長編にもできる素材とアイデアを贅肉をそぎおとし、200枚という分量にまとめる。あたしの中篇、ノヴェラ好きは、たぶんここが淵源だ。同様に興奮したのが、2冊めに買った1970年11月号と12月号に分載されたハインラインのこれもノヴェラ「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」だ。訳はもちろん矢野さん。その後、原文でも読んだけれど、ハインラインで一番好きな作品。あたしにはこれと『ダブル・スター』があればいい。これはちょっとハインラインらしくないとも思えるダークな話。一見ファンタジィなんだが、実はわれわれの棲むこの宇宙そのものの成立ちに関わる壮大な話でもある。

 この11月号と12月号の間に臨時増刊「秋の三大ジャンボ特集」がはさまる。これも強烈だった。光瀬の時間ものの嚆矢「多聞寺討伐」に始まり、平井和正の「転生」があり、石森、藤子、永井が揃い、そして松本零士がブラケット&ブラッドベリの「赤い霧のローレライ」をコミック化している。原作はずっと後に鎌田さんの訳が出たが、未だに読んでいない。この時の衝撃で、もう満足。極めつけは、ハワードのコナン「巨像の塔」。

 コナンものはなぜか『ミステリ・マガジン』で先に紹介されているが、当時のあたしはそちらには目もくれていなかったから、これも初体験。もっとも、本当にコナンものをおもしろいと思ったのは、後になって前年1969年秋の臨時増刊を読んだとき。「秋の小説カーニバル」と題されたこの号は、SFM史上最強のラインナップの一つでもある。小松左京「星殺し」筒井康隆「フル・ネルソン」平井和正「悪徳学園」、そして星新一「ほら男爵の地底旅行」という、それぞれの代表作が並び、巻末にカットナー、クラーク・アシュトン・スミス、そしてハワードの各々のヒロイック・ファンタジイの中篇がどーんと控える。カットナーとスミスもハワードに優るとも劣らない傑作だが、この雑誌掲載のみだ。

 とにかくこの時期の SFM は翻訳、オリジナルがともに恐しいほど充実している。「戦国自衛隊」前篇が載った1971年9月号にはディレーニィの「時は準宝石の輪廻のように」(訳は小野耕世さん)、ニーヴンの「終末も遠くない」があり、後篇の翌月号にはディック「小さな町」、ル・グィン「冬の王」、スタージョン「海を失った男」という具合だ。

 森さんの新機軸の一つに、ヒューゴー、ネビュラ受賞作候補作の特集がある。1971年8月号がその最初のはずで、ル・グィン「九つのいのち」、シルバーヴァーグ「憑きもの」、そして、エリスン畢生の傑作「少年と犬」。ここにも半村良の隠れた傑作「農閑期大作戦」があったりする。

 1972年8月号のラファティ特集は今ひとつピンとこず、そのふた月前、6月号のロバート・F・ヤング特集はツボにはまった。とりわけ中篇「いかなる海の洞に」は泣きました。これまで邦訳されているヤングは全部読んでると思うけど、これがベスト。次点は「妖精の棲む樹」。なぜか特集に入らず、翌月に掲載。ひょっとして翻訳が間に合わなかったか、頁数の関係か。作家特集ではさらにそのふた月前のエリスン特集も忘れがたい。何てったって「サンタ・クロース対スパイダー」。つまり、この年は1月に当時のソ連作家、4月エリスン、6月ヤング、8月ラファティという具合だった。

 とはいうものの、なのである。1冊だけ選べ、と言われるなら、やはり1973年9月号をあげねばなるまい。ここには半村の『亜空間要塞』の連載が始まっている。これと続篇『亜空間要塞の逆襲』こそは半村の最高傑作ではないかと秘かに思う。河野典生がこの年に書きつづけていた、これも彼のベスト、というより日本語ネイティヴによるファンタジィの最高傑作のひとつ『街の博物誌』の1篇「ザルツブルグの小枝」。そして、この号はヒューゴー・ネビュラ特集として、クラーク「メデューサとの出会い」とアンダースンのベストの一つ「空気と闇の女王」。今、こう書いても溜息が出る。表紙の絵も含めて、この号はあたしにとっての SFM 60年の頂点なのだ。

 森さんのもう一つの功績はニュー・ウェーヴを本格的に紹介したことだ。もっともこの点ではメリルの『年刊傑作選』と『終着の浜辺』までのバラードの諸作によって、創元文庫の方が先行していた。あたしにとってのラファティの洗礼は『傑作選』に収められた「せまい谷」や「カミロイ人」連作だったし、バラードには夢中になった。それでも、1972年9月号と1973年5月号のそれぞれの特集と1974年6月号のムアコック特集は新鮮だった。この最初の特集のジャイルズ・ゴードンやキース・ロバーツがすんなりわかったわけじゃない。ウブな高校3年にそれは無理だ。しかし、アメリカのものとは違う英国のSFの土壌というものがあることは強烈に叩きこまれた。そこにはたぶん、その頃聴きはじめていたイギリスのプログレの影響もあっただろう。

 ニュー・ウェーヴについてはもっと前、1969年10月号が最初で、次の1970年2月号はもっとわかりやすかった。どちらも後追いだが、後者で紹介されたゼラズニィ「十二月の鍵」には痺れた。浅倉さんの筆がことさらに冴えてもいて、ゼラズニィの中短編では一番好き。

 ヒロイック・ファンタジイ、ニュー・ウェーヴと並んでクトゥルーの紹介も、1972年9月臨時増刊号がたぶん本格的な本邦初紹介だろう。たとえ初ではなくても、SFM でまとめて紹介されたことは大きい。あたしもこのとき洗礼を浴びた1人だ。もっとも、クトゥルーには結局入れこまなかった。ラヴクラフトは創元の全集の他、いくつか原文でも読んだけれど、むしろサイエンス・フィクションの作家だというのがあたしの見立て。クトゥルーはやはりダーレス以降のものではないか。「インスマゥス」は象徴的かもしれないが、ラヴクラフトの本領は「過去の影」や「異次元の色彩」「銀の鍵」や「カダス」で、「狂気の山にて」も立派なサイエンス・フィクションだ。というのは余談。

 こうして見ると、中3で沼澤洽治=訳の『宇宙船ビーグル号の冒険』によってSFに捕まったあたしは、高校の3年間に SFM とメリルの『年刊傑作選』で土台を据えられたことになる。

 SFの黄金時代は12歳というにはいささか遅いが、人生80年なら今の人間の精神年齡は実年齢の8掛という山田風太郎理論にしたがえば、ぴったり重なる。(ゆ)

 アリエット・ド・ボダールの作品集『茶匠と探偵』再校ゲラの点検をやっている。どの話も強力で、次から次へとやることができない。一篇かたづけると、何か、まったく別のこと、掃除とか、食事の支度や後片付けとか、散歩とかをやって息を抜かねばならない。

 「哀しみの杯三つ、星明かりのもとで」Three Cups of Grief, by Starlight。傑作ぞろいのなかで、どちらかというと地味な話だ。Clarkes World 2015年新年号、通巻100号に発表、翌年ドゾアの年刊ベスト集に収録されている。出たばかりの著者初の本格的作品集 Of Wars, And Memories, And Starlight にも収録。

 ある偉大な科学者で母でもあった人物が死に、その長男、研究の後を継いだ科学者、そして娘でもある有魂船 mindship の3人がそれぞれに死者を悼み、哀しみを抱えながら、前へ進んでゆく様を描く。この3番目の有魂船の哀しみには、何度読んでも涙が出てくる。人間とはまったく異なる哀しみは、人間である兄にもわからず、同僚の有魂船にもわからない。ひとりで哀しまねばならない。とりわけ、死の直前の母がふらりと乗ってきたときのこと。

 初読のときに泣いたのはしかたがないとして、訳しながら涙が出てきたのには参った。おまえはそれでもプロか、と自分に言ってみても、出てくるものは止まらない。泣きながらやって、時間を置いて、改訂のために読みなおすと、また泣いてしまう。

 わんわん泣くわけではない。じわじわと胸の奥の方からなんとも名付けようのないものが沁みだしてきて、気がつくと目がうるんで、喉が詰まっている。どうにも始末が悪い。

 編集が検討した初稿の改訂のときに泣いて、初校でも泣く。そして今回、再校でも泣いた。何なんだ、これは、と思いながら、不快なわけではむろん無い。読後感はさわやか、というほどカラっとはしていないが、カタルシスとはこういうことだなと納得できる。

 有魂船はむろんSF的仕掛けであって、人と機械の合体、広い意味でのサイボーグ、その哀しみは本来、人間にはわからないはずのものだ。にもかかわらず、彼女の哀しみは、他の二人の人間の哀しみよりも胸に迫る。異質な存在の哀しみゆえに、哀しみの本質、失なった人を悼むことの本質が、素のままに提示されるからだろうか。だとすれば、ここはサイエンス・フィクションならではの醍醐味だ。そしてその異質の哀しみを説得力をもって描ききる作者の想像力に、読む方が翻弄されている。いや、まいりました。

 もちろん、誰も彼もがこれを読んで同じように泣くわけはない。どんな人間でも読めば必ず泣くという話があるとすれば、それ自体がホラーだ。たとえ同じく哀しみを感じとるとしても、別の形、異なる角度で感じる人もいるはずだ。あるいは哀しみではなく、まったく別の感情を汲みとる読者もいるだろう。あたしの場合はたまたま、涙が出てくるような形でこの話と波長が合ったにすぎない。

 さて次は「魂魄回収」A Salvaging of Ghosts。2016年3月、Beneath Ceaseless Skies 195号に発表。翌年、ストラーンとドゾア各々の年刊ベスト集に収録。こちらは対象的に、特異な宇宙空間での娘の死体の回収におのれの命を危険にさらす母親の話だ。上記 Of Wars, And Memories, And Starlight にも収録。この作品集に添えられた著者の注記によれば、これは「哀しみの杯」と対になるものとして書いた由。別にそうと企んだわけではなく、発表順にならべたらこうなったのだが、なかなかうまい具合になった。(ゆ)

 トマス・フラナガン Thomas Flanagan を知ったのは New York Review of Books のニュースレターだった。そこでそのエッセイ集 THERE YOU ARE: Writing on Irish & American Literature and History, 2004 を知り、読んでみた。検索してみるとこの本が出ている。シェイマス・ヒーニイが序文で触れているのはこれだった。
 
 わが国ではミステリ作家として知られている。というよりもミステリ作家としてしか知られていない。本国アメリカでは逆にミステリを書いていたことはほとんど知られていない。まず第一にアイルランドの文学と歴史の泰斗であり、次に近代アイルランドを描いた歴史小説三部作の作者であり、それがすべてだ。

 1949年から1958年にかけて、26歳から35歳にかけて、フラナガンは7本の短篇を EQMM に発表している。そのうち2本は当時同誌が行なっていた年次コンテストでトップになっている。この時期かれは修士と博士をとったコロンビア大学の准教授だった。どこで読んだか忘れたが、これらの短篇は家賃を払うために書かれたという説があるが、分量からしても、当時の身分からしても、冗談ととるべきだろう。

 ちなみに『アデスタを吹く冷たい風』文庫版解説およびウィキペディアの記事では、「カリフォルニア大学バークレー校の終身在職教員」とあるが、母校 Amherst College ウエブ・サイトのバイオグラフィによれば、バークレーにいたのは1978年までで、78年から96年まではニューヨーク州立大学ストーニーブルック校の教授を勤めている。96年に教職から引退してからバークレーに住み、執筆に専念した。

 4人の祖父母はいずれもアイルランドはファーマナ出身の移民だった。かれは移民三世になる。上記エッセイ集 THERE YOU ARE の表紙に使われた写真は24歳の時のフラナガンで、タバコを加えて見下ろしているのは、コロンビアの大学院生というよりは、アイルランド系マフィアの鉄砲玉だ。



 今、翻訳で読んでも、ジャンルに関係なくなかなか優れた作品と思うが、アメリカでは全く忘れられていて、単行本にもなっていない。アイルランドを舞台とした長篇三部作はテレビにもなり、ベストセラーだったが、短篇がまったく顧られないのは、形式や狙いが異なるとはいえ、いささか不思議でもある。ヒーニィの言及が無ければ同名異人かと思うほどだ。

 長篇第一作 The Year of the French (1979) のテレビ・ミニシリーズ版 (RTEとフランスのテレビ局の合作、1982) の音楽を担当したのがパディ・モローニで、この音楽をチーフテンズでやったアルバムもある。チーフテンズは、ミュージシャンとして「出演」もしている。

The Year of the French
Chieftains
Shanachie
1990-02-20

 
 作品の初出を調べようと思って検索してみたが、EQMM の全てを網羅した Index はみつからない。唯一見つかったものも不完全で The Fine Italian Hand と The Cold Winds of Adesta しか載っていない。わかった限りのデータを発表順に書いておく。

玉を懐いて罪あり The Fine Italian Hand, 1949-05
アデスタを吹く冷たい風 The Cold Winds of Adesta, 1952; 1969-07(再録)
良心の問題 The Point of Honor, 1952
獅子のたてがみ The Lion's Mane, 1953
うまくいったようだわね This Will Do Nicely, 1955
国のしきたり The Customs of the Country, 1956
もし君が陪審員なら Suppose You Were on the Jury, 1958-03

 どれも言葉のトリックだ。何をどう書くか、そしてより重要なことには書かないかの工夫によって読者の意表をつく。だからなおさらこれは原文で読みたくなる。韻律やダジャレなどに頼るものではないから、翻訳でも十分楽しめるが、原文にはおそらくより微妙な遊びやひっかけがあるはずだ。

 もっともミステリとは畢竟言葉のトリックではあろう。すべての手がかりが読者の前にそろっている、わけではない。

 すぐれたミステリはみなそうだろうが、これもまた謎解きだけがキモではない。謎が解けてしまったらそこでおしまいではない。むしろ、あっと思わされてから、頭にもどって読みなおしたくなる。それには周到な伏線だけでなく、むしろその周囲、ごく僅かな表情やしぐさの描写の、さりげないが入念な書込みがある。細部を楽しめるのだ。

 もう一つの魅力は舞台の面白さで、これはとりわけテナント少佐ものに顕著だ。軍事独裁政権下の探偵役、それも型破りで有能な人物はそれだけで魅力的だ。つまりサイエンス・フィクションやファンタジィ同様、設定自体がキャラクターの一つになっている。ランドル・ギャレットの「ダーシー卿シリーズ」と同様の形だ。テナント少佐はダーシー卿に比べればずっと複雑な性格で、おそらく読みかえすたびに新たな面、新たな特性に遭遇することになるだろう。ダーシー卿の場合、あの世界全体の表象として現れているので、かれ個人の側面は薄い。テナント少佐の世界は現実により近いので、世界を説明する必要はない。それだけ個人のキャラクターに筆を割ける。これが長篇ならば別だが、中短編の積み重ねで世界を作ってゆく場合には世界設定と個人のキャラクターとしての厚みと深みはトレードオフになる。

 テナント少佐が住み、働いている「共和国」は Jan Morris 描くところの Hav を思わせる。地中海沿岸のヨーロッパのどこかであること、出入口がほとんど鉄道1本であることが共通するが、それだけではない。時代からとり遺された感覚、ノスタルジアとアナクロニズムの混淆、そして頽廢の雰囲気。現代の時空にそこだけぽっかりと穿いた穴。そして奇妙に現代の世界を反映するそのあり方。歪んでいるが故にかえって真実を映す鏡。真実の隠れた部分が拡大されて映る鏡。

 この国はかろうじて危うい均衡を保っていて、テナント少佐自身がまたその中で危うい均衡を保っている。しかし、現実というのはどっしり安定して動かない、などということはおそらくあったとしてもごく稀で、たとえば極盛期清朝のように、一見磐石に見えても実際には危うい均衡を保っているだけなのだ。磐石に見えれば見えるほど、それは崩壊の瀬戸際にある。これらの物語は、テナント少佐の綱渡りを描いてもいて、その緊張感が面白さを増すのは、ふだん見えない、見ないようにしている危うさが眼前に現れるからだ。

 テナント少佐を支えるものは何であろうか。将軍の先も長くないことだろうか。といってとって代わって政権をとる意志も能力も自分には無いことはわかっている。そういう意味では、テナント少佐についてはもっと読みたかった。コロンビアからバークレーに移ってからは著者は短篇を書くことはなかった。フラナガンのなかでは学者、教育者としての側面とともに小説家としての存在も消しがたくあったのだろうが、そのエネルギーは長篇執筆に向けられた。短篇を書くほどの余裕は無かったのかもしれない。

 しかしここに現れた短篇作家としての力量は中途半端なものではない。EQMMはじめダイジェスト版の雑誌に書いている作家によくいる、一定の水準は超えるが、突破した傑作は書けない職人とも一線を画す。ジョイスに傾倒し、初めてダブリンを訪れた際には、空港からホテルまでのタクシーの中で、ジョイスに関係のある場所を残らず指摘してみせたという伝説の持主であれば、ここに『ダブリン市民』の遠い谺を聞き取ることも可能だろう。もし本気で作家として身を立てようとしたならば、おそらくは後にかれがその批評の対象としたような作家たちに肩を並べていただろう。あるいはこれらの作品を書いたのが家賃稼ぎというジョークがジョークではなく事実だったとしたら、つまり生活のために小説を書かねばならなかったとしたら、シルヴァーバーグのように作家として大成していたかもしれない。名門アマースト大学を出て、コロンビアで博士号をとるとそのまま教授陣に加わる頭脳と才覚の持主だったことがはたして本人にとって、そして世界にとって幸福なことだったか。本人はおそらく幸福だったのであろう。しかし、世界はおかげでより貧しくなった。

 この7本をミステリ・ファンがどう読むかは知らない。本国では忘れられたその作品を独自に集めてハヤカワ・ミステリの1冊として出したところを見れば、正当な評価をしている。しかし、その本は復刊希望で多くの票を集めながら、長いこと品切れのままだった。

 実際、どれもストレートな形の「ミステリ」ではない。殺人事件の解決もあるし、どれも謎解きがメインテーマだ。しかし、「ミステリ」と言われて一般の人が思い浮かべるものからはずれている。謎解きはあくまでも中心の推進剤だが、作者の関心はむしろ謎のよってきたるところに置かれている。なぜ、こんな謎が生じるのか。事件を誰が起こしたかよりも、なぜ生じたか。当然それは作者が生きている時空に起きていることにつながる。探偵が現れて活躍するための事件ではなく、事件は起こるべくして起こり、探偵はいやいやながら、やむをえず介入する。事件は日常的で、それだけ切実だ。

 一方でどれにもゲームの匂いがある。ある厳密なルールにしたがって書いてみて、どういうものが出てくるか、試しているようにもみえる。その点でぼくの読んだかぎり最も近いのは中井英夫の『とらんぷ譚』の諸篇だ。

 こうなってくるとやはり長篇を読まざるをえなくなる。1798年、ウルフ・トーンの叛乱からアイルランド独立戦争までを描く三部作。小説という形で初めて可能な歴史の真実の提示がどのようにされているか。NYRB版で合計2,000ページ超。(ゆ)








The Tenants of Time
Thomas Flanagan
NYRB Classics
2016-04-05


The End of the Hunt
Thomas Flanagan
NYRB Classics
2016-04-05


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