クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:社会

06月17日・金
 昨日通知の来た市・県民税の1回目を払いこむ。この税金は市民の暮しを支えていると、市や県は言うけれど、全然実感が無い。救急車や消防を呼ぶくらい。目に見えるのは縁のない土木工事ばかり。一番身近に感じて、ありがたくもあったのは、市立保育園に子どもたちを預けていた時だけだ。今、一番困るのは、バスの便数が減ったことだが、改善の希望も持てない。企業の誘致はするが、住民の誘致はしないように見える。


%本日のグレイトフル・デッド
 06月17日には1966年から1994年まで10本のショウをしている。公式リリースは完全版が2本。

01. 1966 Veterans Memorial Hall, San Jose, CA
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。セット・リスト不明。共演 The Jaywalkers。
 The Jaywalkers という名前のバンドは複数あるが、この時期、この地域で活動していたものは不明。

02. 1968 Daytop Village, Staten Island, NY
 月曜日。セット・リスト不明。スタテン島にある麻薬中毒者更生センター Daytop Village のためのベネフィット・コンサートに参加した。このフェスティヴァルは4日間にわたって、センター本体とマンハタンの Village Gate の2ヶ所で行われた。ニューヨーク・タイムスの1968年06月16日付の "4-DAY MUSIC FETE AIDS EX-ADDICTS" という記事に、デッドは17日月曜日のロック・セッションに参加するとある。06月16日に Village Gate のフェスティヴァルに出たと DeadBase 50 にあるが、これはニューヨークのアンダーグラウンド新聞の一つに出た広告によるものと思われる。
 この日は午後にラテン・セッションとロック・セッションが行われ、ロック・セッションにはデッドの他、ケニー・ランキン、Jeremy Satyra, Cat Mother and the All Night Newsboys, The Children of God が参加した。夜にはヴィレッジ・ゲイトでジャズのセッションも行われた。
 以上、DeadLists の記事による。
 Jeremy Satyra は不明。
 Cat Mother and the All Night Newsboys は1967年にニューヨークで結成されたグループで、Roy Michaels (1942-2008)、Bob Smith (1942-1991)、Michael Equine を核として、5人ないし6人のメンバーで活動。マイケルズはバッファロー・スプリングフィールドの前にスティーヴン・スティルスとリッチー・フューレィと共に Au Go Go Singers を組んでいた。1969年夏に〈Good Old Rock 'n' Roll〉というロックンロールの有名曲をメドレーに仕立てたものが Top 40 ヒットとなる。このシングルとファースト・アルバム《The Street Giveth and the Street Taketh Away》はジミ・ヘンドリックスがプロデュースしている。バンドの当初のマネージャーがヘンドリックスのマネージャーで、バンドはヘンドリックスの前座も何度か勤めた。このマネージャーと袂を分った結果、1970年にカリフォルニアのメンドシーノに移り、1977年まで活動。
 The Children of God は1968年にウッドストックで結成された5人組で、メンバーの操る楽器にはサックス、クラリネット、ハーモニカ、バンジョー、タブラ、コンガも含まれる。

03. 1972 Hollywood Bowl, Hollywood, CA
 土曜日。開演7時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 ヨーロッパ・ツアーから帰って最初のショウ。ピグペン最後のショウ。歌わなかった。
 第一部クローザー前の〈El Paso〉の途中、ビーチボールを追いかけてステージに幼ない子どもが出てきてつまずいて転んだのを、倒れる前に捕まえようとして、ウィアはマイク・スタンドを突きとばしてしまった。子どもはケガした様子もなく、遊びつづけた。と Louis Woodbury が DeadBase XI で書いている。
 第一部11曲目で〈Stella Blue〉がデビュー。ハンター&ガルシアの曲。1995-07-06まで計328回演奏。演奏回数順では33位。〈He's Gone〉より1回少なく、〈Beat It On Down The Line〉より2回多い。ハンターによれば、詞は1970年にチェルシー・ホテルで書いた。スタジオ版は《Wake Of The Flood》収録。ガルシアは静かにゆっくりと歌うバラードが好きで、名曲名演も多いが、この曲はおそらくその最たるもので、デッドとして最もセンチメンタルに接近した曲でもある。歌詞の美しさでもピカ一。

04. 1975 Winterland Arena, San Francisco, CA
 火曜日。この年行なった4本のショウの2本目。3ドル。Bob Fried なる人物の追悼コンサート。ポスター・アーティストらしい。デッド名義ではなく、Jerry Garcia and Friends としてポスターには出ている。DeadBase XI の David Gans によれば、司会のビル・グレアムは "Grateful Dead" とは言わず、個々のメンバーの名前を呼んだ。共演キングフィッシュ、キース&ドナ、The Mirrors。二部構成で第二部は《Blues for Allah》の組曲を通しで演っている。
 第一部オープナーで〈Crazy Fingers〉、クローザーで〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉がデビュー。ただし〈Help On The Way〉にはまだ歌詞がない。
 前者はハンター&ガルシアの曲。1995-07-05まで144回演奏。スタジオ盤は《Blues For Allah》収録。
 後者はこの形で《Blues For Allah》に収められた。〈Help On The Way〉はハンター&ガルシアの曲。常に〈Slipknot!〉が後に続く形で演奏された。〈Slipknot!〉はガルシアのクレジット。1995-06-22まで110回演奏。1977年10月にレパートリィから落ちて、1983年03月に復活。1985年09月にまた落ちて、1989年10月に復活。その後は最後まで継続的に演奏された。
 〈Franklin's Tower〉はハンター&ガルシアの曲。これのみ単独で演奏されることも多く、やはり1995-06-22まで計221回演奏。演奏回数順では63位。〈Saint Of Circumstance〉より1回少なく、〈Brokedown Palace〉より1回多い。
 このショウの録音はデッドのアーカイヴ The Vault には無い、とデヴィッド・レミューが《30 Trips Around The Sun》の1975年のライナーノートで書いている。Internet Archives には SBD とされているものがあるが。
 The Mirrors は不明。この名前のバンドは多数あるが、この時期、この地域で活動したものは見当らない。ローカル・バンドか。

05. 1976 Capital Theater, Passaic, NJ
 木曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。7.50ドル。開演7時半。
 第二部オープナー〈Help On The Way> Slipknot!> Franklin's Tower〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《Dave's Picks, Vol. 28》で全体がリリースされた。

06. 1988 The Met Center, Bloomington , MN
 金曜日。
 第一部クローザーで〈Victim Or The Crime〉がデビュー。クレジットはボブ・ウィア単独だが、作詞に Gerrit Graham が関っていることは、ウィア自身が明らかにしている。メロディはバルトークの曲を「パラフレーズ」していることを、やはりウィアが明らかにしている。1995-07-02 まで94回演奏。スタジオ盤は《Built To Last》収録。
 ファンの間で好き嫌いの別れる歌。ガルシアの言うとおり、ウィアの曲は聞いてぱっとわかる、あるいは親しみやすいものではないが、そこがまた魅力でもある。これまたガルシアの言う通り、演奏する方にとっても同じで、初めの頃の演奏はキモが無い。それがある時から隠れていた相が現われて、こんな曲だったのかと驚く。こういう体験をするから、デッドを聴くのをやめられない。

07. 1990 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 日曜日。このヴェニュー3日連続の楽日。開演5時。
 この時期のショウに悪いもの無し。

08. 1991 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。リトル・フィート前座。
 《Giants Stadium 1987, 1989, 1991》で全体がリリースされた。
 第一部半ばから最後まで〈Dark Star〉のライトモチーフが鏤められている。クローザー前の〈Playing In The Band〉は4本前の06-11, シャーロットで Space から遷移して演奏されたものの後半。

09. 1992 Charlotte Coliseum, Charlotte, NC
 水曜日。このヴェニュー2日連続の初日。開演7時。
 第二部 drums 前の〈Estimated Prophet〉がすばらしい由。

10. 1994 Autzen Stadium, University of Oregon, Eugene, OR
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。28.50ドル。開演2時。
 雨が降っていて、第二部オープナーはビートルズの〈Rain〉。この雨でひどい風邪をひいた者もいたそうな。(ゆ)

0227日・日

 花粉の季節が始まる。かみさんが結構激しい花粉症なので、これから5月の連休明けまでは、洗濯物を外に干せず、部屋干しになる。今はまだ洗濯物が多いので、狭い室内でいかにたくさん、効率的に干すか、様々に工夫をしている。愉しそうにやっていて、ほとんど芸術的だ。かみさんがまだ仕事をしていた去年の今頃はあたしが干していたはずだが、どうやっていたか、もう忘れている。少なくとも、こんな芸術的な曲芸はしていなかったはずだ。

 かみさんが仕事をやめたのは、教員免許の更新制度にひっかかって、免許が失効したためだが、別の愉しみを見つけたようでもある。文科省が今頃になって免許更新制度廃止すると言いだしたのは、かみさんのように、免許失効とともに完全に辞める教員が「想定を上回って」、人手不足がどうしようもなくなったためだ。昨年春は、教員免許更新制度で期限が来た教員が年金フル支給開始年齡に達した初めての年だった。免許更新制度などというものを「後出しじゃんけん」で作ったらどうなるか、初めて明らかになったわけだが、文科省官僚にはこの当然の結果が予測できなかったというのだろうか。

 義弟夫人は都の小学校教員で、ただでさえ人手不足のところへパンデミックが加わり、さらに今回は小学生の罹患が増え、そこから感染する親の教員が続出して、現場はパニック状態だそうだ。児童・生徒の患者が増えれば学級閉鎖になるが、担任が感染しても学級閉鎖にはならない。一方で、オンライン授業といっても、小学生が画面の前でおとなしくしているはずもなく、成立しているのかどうかすらあやしい。限界を超えているのは、医療現場だけではない。物流など、いわゆるエッセンシャル・ワークと急にもちあげられている仕事の現場はどこも同じだろう。

 うーむ、さて、では、あたしに何ができるか、となると、とにかく身をつつしんで、感染リスクを下げ、免疫力を上げて、感染してもそうとは気がつかないでいられるようにする、くらいしか思いつかん。



##本日のグレイトフル・デッド

 0227日には1969年から1994年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。


1. 1969 The Fillmore West, San Francisco, CA

 木曜日。このヴェニュー4日連続の初日。ここからの4本の録音から選抜されたものが《Live/Dead》の核をなした。後、《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》で4本とも全体がリリースされた。

 このショウについては第二部3・4曲目〈Dark Star> St. Stephen〉が《Live/Dead》でリリースされ、第一部3曲目の〈That's It for the Other One〉が《So Many Roads》でリリースされた。またアンコールの〈Cosmic Charlie〉が《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》からの抜粋《Fillmore West 1969 (3CD)》に収録された。さらに、2018年のレコード・ストア・ディ向けに、この初日の全体がアナログ・ボックスでリリースされた。

 第二部冒頭の2曲〈Dupree's Diamond Blues〉と〈Mountains Of The Moon〉でガルシアがアコースティック・ギターを弾く。後者の後半ではソロもとる。かなり良い。デッド以前の録音集《Before The Dead》では達者なギターが聴けるから、エレキでなければだめというわけではない。優れたギタリストでアコースティック・ギターは弾けるがエレキはダメという人はいるが、逆はまずいない。エレキがダメな人も、テクニカルなレベルではなくて、審美的なレベルでエレキが使えないだけだ。

 〈Dark Star〉から〈Turn On Your Lovelight〉の並びはここでもハイライトで、《Live/Dead》で前半だけとったのは不思議。長さとしては似たようなもので、アナログ片面に入るから、判断の基準としては演奏の出来であろうか。しかし、この4日間の出来はどれも甲乙つけ難し。比べて優劣がつけられるようなものでもない。判断した本人たちも、明瞭な理由はないのかもしれない。むろん、理由はなくても判断ははっきりしていることはありうる。

 アンコールは〈Cosmic Charlie〉だが、どうにもしまらない演奏だ。この曲はこの4日間ではこの日と0301日にやっているが、どちらもひどい。演奏よりもまず曲がひどい。ガルシアは曲作りにまだ慣れていなかったと言うが、それだけでもないだろう。短期間でレパートリィから落ちるのは、単に演奏が難しいだけではないはずだ。こういう曲を聴きたいという強い欲求がどこから生まれるのか。アメリカ人は感性が違うのか。出来の悪い子ほどかわいいのと同じ心理か。出来の悪い曲を四苦八苦しながら演奏する姿がいとおしいのか。


2. 1970 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA

 金曜日。このヴェニュー3日連続の初日。3.50ドル。コマンダー・コディ&ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン共演。

 2時間半近い一本勝負。ここの音響はひどかったらしい。


3. 1977 Robertson Gym, University Of California, Santa Barbara, CA

 日曜日。8.50ドル。開演7時半。クローザーからアンコールの3曲〈Morning Dew〉〈Sugar Magnolia〉〈Johnny B. Goode〉が《Dave’s Picks, Vol. 29》でリリースされた。この年らしく、全体も良いショウと言われる。残りもきちんと出してもらいたいものだ。

 この3曲だけでも、ショウの出来の良さは察しられる。どれも各々の曲のベスト・ヴァージョンの一つ。面白いのは、この3曲はどれも軽やかに演奏される。肩に余計な力が入っていない。

 〈Morning Dew〉ではエモーショナルになるところでも余裕を残し、過剰な思い入れを排する。むしろ、距離をとってクールに唄い、演奏する。歌の後のインスト・パートは初め、ごく静かに始まり、徐々に音量を上げ、激しさを増してゆくが、最後の爆発でも目一杯ではない。最後の "It doesn't matter anyway." もむしろ余韻を愉しむ。

 1度終って、あらためてウィアが始める〈Sugar Magnolia〉でもまずテンポに余裕がある。イントロでガルシアが弾くギターは蕪村の俳諧のような軽みをもって、ふふふと笑っている。歌の後の間奏パートでは、春の歓びが湧いてくる。"Sunshine Daydream" で、ウィアとドナの息がぴったり合う。この二人のための曲に聞える。

 いつもは重く激しく演奏されるロックンロール・ナンバーまでもが軽やかだ。愉しそうな演奏の最後、コーダでガルシアのギターが自在に駆けまわる。


5. 1981 Uptown Theatre, Chicago, IL

 金曜日。このヴェニュー3日連続の中日。

 第二部オープナーから〈Scarlet Begonias> Fire On The Mountain> Estimated Prophet> Eyes Of The World〉という並びはこれが唯一だそうだ。この4曲、あるいは一組のペアと2曲はどれもバンドにも聴衆にも最も人気が高い曲に数えられ、同じショウの中で演奏されることは少なくないが、全部連続してやるのは稀らしい。たいていは前のペアと後のペアの間に何かはさまるか、第二部の Drums> Space パートの前後に別れるとかする。


5. 1990 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 木曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。マルディグラ祝賀で、第二部冒頭〈Iko Iko > Man Smart (Woman Smarter)〉でマルディグラのパレードが行われ、Michael Doucet & Beausoleil が共演。高さ10メートルの骸骨が現れて踊った。天井から10人ほどがワイヤで操り、本当に踊る。〈Man Smart (Woman Smarter)〉の最後に向かってだんだん低くなり、最後は片腕だけが天を指し、最後の音とともにそれも崩れた。

 Michael Doucet & Beausoleil はニューオーリンズのケイジャン/ザディコ・バンド。ドゥーセットはフィドル、アコーディオンなどを演奏し、歌も作り、歌う。1975年にボーソレイユの前身になるバンドを始め、1977年にファースト・アルバムを出す。今も現役。あたしなどはデッドを聴きはじめる遙か前、1980年代から聴いていて、旧馴染のミュージシャンがデッドと共演しているのを見るのは嬉しい。


6. 1994 Oakland-Alameda County Coliseum Arena, Oakland, CA

 日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。26.5ドル。開演7時。第二部後半で〈The Other One〉から〈Wharf Rat〉に移る前に、一瞬〈Cosmic Charlie〉をやりかけて止め、〈Wharf Rat〉を始めた。これに対し、聴衆から「ブー」が起こった。

 〈Cosmic Charlie〉は19681008日サンフランシスコ初演で、1969年と70年に各々20回ほど演奏されてレパートリィから落ちる。1976年に復活して数回演奏され、最後は19760925日、メリーランド州ランドーヴァー。トータル45回。スタジオ盤は《Aoxomoxoa》。この曲についてガルシアは、これを作った時にはまだハンターとともに曲を作りだしたばかりで、ステージで演奏することはまるで考えていなかったから、あまりにテクニカルなことを詰めこみすぎて、ライヴでまっとうに演奏できる自信がついに持てなかった、と言っている。レパートリィから落ちるには、それなりの理由がある。

 デッドヘッドは古い歌への郷愁が強い。60年代の曲で、長いこと演奏されないというだけで価値があるとする傾向がある。〈Wharf Rat〉よりこっちを聴きたい、とまで言われると正直ついていけないのだが、ショウに通っていなかったせいだろうか。ライヴで聴くことに価値があるのかもしれないが、全ての曲をやるわけにもいかないだろう。この年、このバンドは143曲もの異なる曲を演奏している。

 この歌に関しては、1980年代半ばに "Bring back Cosmic Charlie" キャンペーンが行われたこともあるそうだ。デッドは自分たちが演奏したいもの、演奏して愉しいものしか演奏しないから、こういうリクエストに応えることはまずしない。あるいはそれは承知の上で、こういう形で「遊んで」いたのだろうか。この「ブー」も本気ではなく、そんなことでバンドが気を悪くすることはない、と信じていた故の遊びであろうか。

 ただこの歌にはユーモアの感覚がはっきり出ている。デッドはユーモアのセンスには事欠かないが、後の時期ではより目立たない、隠れたものになることは確かだ。ストレートなユーモアよりも、風刺やほのめかしが多くなる印象がある。ステージ上のやりとりは諧謔に満ちてはいても、音楽はかなりシリアスに聞える。そうしてみると、こういうユーモラスな歌を聴きたいという欲求はより理解できる。(ゆ)


0218日・金

 インドはじめアジアの食品、雑貨を輸入しているティラキタのブログで、インドのインフレが激しくなっているという話。運送費が上がっていることは実感しているが、それだけではなく、ブツの値段がそもそも上がっているそうな。アメリカでもヨーロッパでも物価は上がっている。インフレ対策で家計費補助をどうするというのがアイルランドでは問題になっている。

 わが国もこれから物価がどんどんと上がるだろう。ガソリンがすでに上がっているし、先日、カップ麺の値上げが発表されていた。JVCケンウッドも全製品の値上げを発表した。コーヒー豆も、MacBook iPhone も、値上がるだろう。日銀総裁は喜ぶかもしれないが、収入が上がらないこちらはビンボーになる。

 物価が上がらなかったのは、モノがあふれていたからだ。もしくは、あふれていると見せていたからだ。見かけは上がらなくても、中身の量は落ちている。値段も量も変わらなければ、質が落ちている。ファーストフード店のポテトが品薄なのも、値段を上げないために、輸送費を抑え、仕入れの総額を抑えようとすれば、量を減らすしかない。カネを出せないのなら、モノは来ない。経済の実力が問われることになる。



##本日のグレイトフル・デッド

 0218日には1971年と1985年の2本のショウをしている。1971年に公式リリースがある。


1. 1971 Capitol Theater, Port Chester, NY

 このヴェニュー6本連続のランの初日。前半10曲目〈Wharf Rat〉の後のジャムが〈Beautiful Jam〉として《So Many Roads》でリリースされ、4曲目〈Loser〉が2016年の、オープナー〈Bertha〉が2017年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《American Beauty50周年記念盤で全体がリリースされた。この全体のリリースでは〈Beautiful Jam〉は〈Dark Star, Part II〉とされている。

 なお、臨時で Ned Lagin がオルガンで参加し、以後、しばらく非公式メンバーとしてショウに参加する。ラギンは後にレシュと組んで、第一部と第二部の間に〈Seastones〉と呼ばれるパートを展開する。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座で、ガルシアがペダルスティールで参加。

 このショウは話題が多い。まず、聴衆がテレパシーの実験に参加を求められた。サイケデリック・ドラッグの研究を通じてデッドの友人となっていた Dr. Stanley Krippner なる人物がこの当時超能力と睡眠の研究をしており、その実験をしたいというのに、デッドが積極的に協力した。演奏しているバンドの背後の壁に投射された図形を、聴衆はクリプナーの研究所で眠っている相手にテレパシーで送るよう要請された。結果は「意味あるもの」だったそうだ。

 DeadBase XI Ron Waloff のレポートによれば、NRPS の演奏中、消防の制服を着た男たちが通路を通ってステージに上がった。場内は様々なシロモノからの煙が充満していたから、そのせいかと思ったら、爆弾をしかけたという脅迫が入ったとのことで、全員、外に出された。しばらくして、安全確認されて、中に入ることが認められた。チケットの確認は無かった。爆弾の話は、チケットを持たない連中が入ろうとしてでっち上げたのではないかと言われた。

 次に、一挙に5曲、新曲が披露された。オープナーの〈Bertha〉、4曲目〈Loser〉、次の〈Greatest Story Ever Told〉、10曲目〈Wharf Rat〉、そして第二部6曲目〈Sugar Magnolia〉。

 新曲のうち〈Bertha〉と〈Wharf Rat〉にはスタジオ盤収録が無い。ともに《Skull & Roses》が公式アルバム初出。どちらもハンター&ガルシアの曲。

 〈Bertha〉は公けに演奏されたのは19701215日が最初だが、この時はガルシア、デヴィッド・クロスビー、レシュ、ハートというメンバーで、デッドとしてはこの日が初演。最後は19950627日。計 403回演奏。演奏回数17位。《Skull & Roses》に収録されたのは1971年4月27日フィルモア・イーストでの演奏。「バーサ」とはデッドのオフィスにあった背の高い扇風機で、スイッチが入って回りだすと、勝手にあちこち動く癖があった。不器用で余計なことをしてしまうが憎めない存在、そこにあることで、その場の空気が和む潤滑油のような存在をユーモラスにうたった、シンプルな曲と聴くこともできる。少なくともガルシアの曲はそう聴かせる。これがオープナーや一部でも前半にうたわれることが多いのは、曲調も含め、場の雰囲気をゆるめる作用があるからだろう。もっともハンターの詞は例によっていろいろと深読みができる。うたわれる対象が、デッドという存在そのものとも見える。

 〈Wharf Rat〉は最後が19950625日、計398回演奏。演奏回数19位。《Skull & Roses》に収録されたのは1971年4月26日のフィルモア・イーストでの演奏。3つのパートに明確に別れる組曲構造をもち、アル中の路上生活者というどん底の男 August West の話を語り手が聞くという枠物語でもある。ウェストは今こそ wino に落ちぶれてはいるが、魂までは酒に売ってはいない、と語り、そしてパート3で、おれは翔ぶのだ、と宣言する。アル中の見はてぬ夢と冷たく見放すこともできようが、ガルシアの歌を聴くと、必ずしもそうは聞えない。ヴァージョンによって色彩の濃淡は異なるが、必ず、希望がこめられている。くり返し、聴くにつれて、その希望の色はだんだん濃くなってきた。デッドの音楽は聴く者の内に希望を湧かせる。あたしの最も好きな曲の一つではある。

 〈Loser〉はハンター&ガルシアの曲。19950628日まで、コンスタントに演奏され、トータル352回演奏は25位。スタジオ盤は1972年のガルシアのソロ・ファースト。ちなみにこのガルシアのファーストには、この曲の他にも、その後デッドの定番レパートリィとなる曲が多数収録されている。〈Deal〉〈Bird Song〉〈Sugaree〉〈To Lay Me Down〉〈The Wheel〉と半数を超える。

 負けつづけるギャンブラーの "I got no chance to lose this time." というつぶやきに、聴くたびに胸をえぐられる。ああ、こいつ、次も負けるな、それが最後かも、と聴くたびに思う。本人も実はそうは信じていない。そうあって欲しい、そうあるはずだ、と自分に言い聞かせようとしている。それもまたわかるから一層哀しい。この曲はたいていショウの前半または第一部で演奏され、そんなに長くならないが、間奏でガルシアが歌に負けないくらい胸をえぐるギターを聴かせることが多い。ここには希望はない。無いのだが、《Europe '72: the Complete Recordings》で繰返し聴くうちに、この歌の魅力にハマってしまった。デッドに名曲は多いが、これは五指に入る。

 〈Greatest Story Ever Told〉はハンター&ウィアの曲。19950627日まで計281回演奏で45位。スタジオ盤はウィアのソロ・ファースト《Ace》。このアルバムはデッドのメンバーが全員参加しているし、収録曲中、1曲を除いてデッドのレパートリィの定番となったし、ウィア自身、インタヴューに答えて、これは自分としてはグレイトフル・デッドのアルバムと思っていると発言しているから、デッドのスタジオ盤の1枚とみなす向きがあるのは当然と言える。しかし、デニス・マクナリーのバンドの公式伝記 A Long Strange Trip によれば、アルバムの企画、録音は終始、ウィアが先導しているから、集団としてのバンドのアルバムとはやはり別ものと捉えるべきだろう。

 《Ace》がグレイトフル・デッドのアルバムではないのは、ここには、各々独立したベクトルが互いに引付けあい、反発しあいながら進む方向を決めてゆく危うい均衡を保ったプロセスが無いからだ。ここでは、ウィアの意志がすべてをまとめている。だからまことにすっきりと進路が決まっている。デッドにあっては一人の意志がすべてを決めることはない。ガルシアは中心ではあったが、リーダーではなかったし、まとめ役でもない。音楽面でも、ガルシアがすべてを決めているわけでは無い。どこへ向かうかは常に流動的だ。スタジオ・アルバムではこういうプロセスはマイナスに作用することが多い。ライヴにあっても必ずしもうまくゆくとは限らない。むしろ、うまくゆかない場合の方が多いだろう。しかし、スイッチが入って、各々のベクトルが揃うときには、何者にも止められない推進力を発揮する。その軌跡が1本1本のショウになる。

 Greatest Story Ever Told〉は歯切れのよい、闊達な曲調で、ショウや第二部のオープナーや第一部クローザーになることが多い。詞の内容は旧約聖書の創世記を敷衍して、その登場人物が現代にやってくる仕立て。あまり長くならず、すぱりと終る。

 〈Sugar Magnolia〉をめぐっては、作詞のロバート・ハンターが、作曲のウィアが勝手に歌詞をいじって変えてしまうことに腹を立て、この曲とは一切の縁を切り、以後、ウィアに詞を提供しないと宣言し、さらにたまたま傍にいた John Perry Barlow をさして、ウィアにこれからはこいつと組め、と言いはなった。ここにバーロゥ&ウィアのコンビが誕生して、ハンター&ガルシアとは別の流れの楽曲を提供することになる。デッドを貫く「双極の原理」の最も顕著な現れの一つだ。

 この曲の最後は19950709日最後のショウのアンコール前のクローザーで、演奏回数601回は〈The Other One〉と同数第3位。スタジオ盤は《American Beauty》収録。ショウのクローザーが定位置だが、大晦日の年越しショウでは、新年到来とともにこの曲で始まることも多い。これも二つのパートに明瞭に別れる組曲構造の曲で、後半は "Sunshine Daydream" と呼ばれる。1973年頃から二つのパートの間に長い無音の中断をはさむようになる。またゆったりと入って、前半の歌の後のインスト部分でぐんとテンポが上がることもある。後半、 "Sunshine Daydream" のリピートもだんだん増え、ウィアは声を涸らす。さらに、前半と後半の間に他の曲をはさむ。時には第二部を前半で始め、後半をクローザーにする。後半だけ別の日にまで持ち越すこともある。名演も多いが、1970年代、ドナがウィアと競うように声を合わせる時の魔法は抗しがたい。おおらかに、ほがらかに、一点の雲もない蒼穹にどこまでも昇ってゆく、デッドの楽天性を凝縮した曲。

 そしてもう一つ、ミッキー・ハートがこのショウを最後にしばらく離脱する。バンドのマネージャーをしていた父親レニーが多額の金を使いこみ、横領して行方をくらましたことにショックを受けてのことである。バンドはミッキーを責めることは一切せず、離脱中も変わらずに給与は支払われていた。復帰は19741020日、当初は無期限でショウをやめる直前最後のショウの後半。この時は、これを逃せば二度とデッドでの演奏はできなくなるとの想いから、楽器を持って会場のウィンターランドに駆けつけた。

 レニー・ハートは横領した金を自らが主宰する宗教団体に注ぎこんでいた。数年後、レニーはメキシコで逮捕され、アメリカで訴追されて、懲役刑を受けた。民事訴訟も薦められたが、デッドはいつもの流儀で追求せず、代わりに〈He's Gone〉を作って演奏した。この曲はその後、デッド関係者やその係累、知人友人が死ぬと追悼として歌われるようになる。

 ショウ自体は、終始ゆったりしたテンポの演奏が続くが、全体としては引き締まった第一級のもの。新曲はどれも後の演奏に比べるとあっさりしていて、未完成であることを感じさせる。8曲目のピグペンのブルーズ・ナンバー〈Hard To Handle〉でスイッチが入る。ガルシアがすばらしいブルーズ・ギターを炸裂させ、ここから〈Dark Star> Wharf Rat> Dark Star> Me and My Uncle〉という組合せの第一部クローザーに向かって一気に盛り上がる。〈Wharf Rat〉は初登場とは思えないおちついた演奏で、その次のジャムは確かに「美しい」。全体としてビートはあるが、メロディは不定形の、デッド特有のジャム。聴いていると、おちつかない気分になる一方で、蒼穹を駆けてゆく爽快さが終始感じられる。第二部でもゆったりとした構えは変わらないが、中盤からの〈St. Stephen> Not Fade Away> Goin' Down the Road Feeling Bad> Not Fade Away> Uncle Jhon's Band〉は、曲が進むにつれて演奏の緊張度が高まってゆく。2度目の〈Not Fade Away〉でぎりぎりまで張りつめたのが終りきらないうちに、ウィアが UJB のコードを刻みだし、まだ熱いままだが、余韻を引く余裕を生みだす。


2. 1985 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA

 この年最初のショウ。春節記念でこのヴェニュー3日連続のランの初日。15ドル。開演8時。

 この年0118日、ガルシアはゴールデン・ゲイト公園の中に駐めた車の中にいたところを麻薬所持で逮捕される。ガルシアは治療を受けることに合意し、この年は前年に比べると健康を回復した。翌年夏糖尿病の昏睡に陥った際、九死に一生を得るのはそのおかげとも言えよう。このショウも、1ヶ月の治療の甲斐あって、年始のショウにもかかわらず、調子は良い。

 1985年は計71本のショウを行い、レパートリィは130曲。新曲は無し。バンド結成以来、新曲が1曲も無かったのはこれが初めてで、これはバンドの健康状態の反映ではないかと危惧する向きもあった。デッドはスタジオ盤を出すことにあまり熱心でないことは確かだが、それでも198004月の《Go To Heaven》から198707月の《In The Dark》までは、スタジオ盤の無い期間としては最も長い。

 1980年代前半のレーガン時代はアメリカの主流が保守化した時期で、デッドとそのコミュニティにとっては寿ぐべきことが少ない。にもかかわらず、あるいはそれ故に、デッドのショウの質は良いと言われる。(ゆ)


6月17日・木

 市から介護保険料通知。昨年の倍になる。年収2,000万以上の金持ちはいくら稼いでも金額が変わらない。「不公平」だ。金があればあるほど、収入に対する保険料の比率は減るんだぜ。余裕のある奴はますます余裕ができる。その1割しか年収のない人間はちょっと増えると月額倍増って、そりゃないだろう。

 散歩の供は Ariel Bart, In Between
 Bandcamp で購入。ファイルは 24/44.1 のハイレゾ。

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 ハーモニカ・ジャズ。ピアノ・トリオがバック。チェロも数曲で参加。いや、いいですねえ。ハーモニカの音か、この人の音か、線は細いが芯はしっかり通っているというやつで、繊細な抒情と骨太な叙事が同居している。ハーモニカの音には軽さとスピードもありながら、鋭どすぎない。それにわずかに音が濡れている。文字通り瑞々しい。とんがったことをしないで、まあ普通のジャズをしている一方で、惰性でやっているのでもなく、故意にそうしているわけでもなく、自然にやっている感じが新鮮さを醸しだす。聴いていて、またか、とは思わない。はっと驚くようなこともないが、むしろじわじわと効いてくるするめ盤の予感。曲はすべて本人のオリジナル。愁いのある昏いメロディはあるいはセファルディム系だろうか。参加ミュージシャンの名前だけではアラブ系の人もいる。

 1998年3月生まれ。7歳からクロマティック・ハーモニカを吹いているそうな。The New School University in New York でジャズ演奏の学位を取得。ベーシストの William Parker と2枚、Steve Swell and Andrew Cyrille がポーランドのレーベル Not Two から出したアルバムに参加。本人のリーダー・アルバムとしてはこれが初めて。ようし、追いかけましょう。


 夜は YouTube の宿題をかたづける。MacBook Air (M1, 2020) から AirPlay で FiiO M11Pro に飛ばし、DSD変換して聴く。YouTube 側はノーマルでも聴くのは DSD だ。M11Plus は本家ではリリースされたが、国内販売開始のアナウンスはまだ無い。数が少なすぎて、回せないのか。やはり M17 狙いかなあ。

 スナーキー・パピーの Grount Up Records が提供する The Secret Trio のライヴ音源が凄い。凄いとしかいいようがない。ウードはアラ・ディンクジャンではないか。お久しぶり。お元気なようで何より。



 shezoo さんに教わった、行川さをりさんの YouTube 音源をあれこれ視聴。Asu とのデュオ Kurasika の〈写真〉。向島ゆり子さんがすばらしい。Kurasika と上田健一郎による、どこでもスタジオにしてしまう「旅するレコーディング」もいい。これはまさにクーキー・マレンコが言っていたものではないか。周囲の音も音楽の一部で、でかいせせらぎの音が歌とギターに耳を引付ける。うぐいすは絶妙の合の手を入れてくれる。引き込まれて、次々に聴いてしまう。(ゆ)






 『アイルランド音楽 碧の島から世界へ』の索引を作りました。版元のサイトに PDF としてアップロードされてます。ご自由にダウンロードしてお使いください。

 ぼくがほとんど手作業で拾ったので、漏れやミスはたくさんあるはずです。見つけた場合は版元にご一報いただけると、たいへんありがたいです。本来は校正をきっちりしなくてはならないんですが、とりあえず作っただけで力尽きました。

 とはいえ、アルファベットからカタカナへの変換リストは必要なので、それはなるべく早く作ります。

 欧米、すくなくとも英語圏では小説などを除けば、ほとんどの本に立派な索引がついてます。本文はたいしたことはないが、索引があるので何かと便利という本もよくあります。ところが日本語の本には、学術書の類でもきちんとした索引が付いていないものの方が多い。このあたりは文化ではありますが、改善していきたいところです。索引によって初めて本は生きるからです。

 なので、この本にも索引はもともと付けるつもりでした。んが、出版の際のどたばたで、ぼくも編集担当もすっぽりと抜けてしまいました。出ちまったものがしようがない、あとから作るべ、と言って作ったのがこれです。PDF なので、修正も簡単です。その点はケガの功名かも。

 ということで、がんがん使って、より良いものにしてください。(ゆ)




 

 グレイトフル・デッドの結成50周年記念ボックスセット 30 TRIPS AROUND THE SUN の出荷が始まったよ、という通知が来てほどなく現物がやって来た。発送したらトラッキング・ナンバーも知らせるということだったが、通知もなく、いきなりモノが DHL でやってきた。輸入消費税をとられた。

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 ひと通り開封し、スクロールで番号を確認してから、本をとりだす。電子版も買ってしまったら、本の PDF がダウンロードできたので、ひととおり眼は通していた。

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 この本は英語書籍のふつうのハードカヴァーの大きい方のサイズ。たぶん人工とおもうが、革装のソフトカヴァーというべきか。糊付け製本ではなく、糸綴じで、背がオープンになっており、ぺたんと開くことができる。全288ページ。

 半分の151ページがニコラス・メリウェザー Nicholas Meriwether による "Shadow Boxing the Apocalypse: An Alternate History of the Grateful Dead。

 反対側が表紙になって135ページの "Dead Heads Tell Their Tales"。

 2つの間にボックスセット全体のクレジットと、バンドの歴代全メンバーの名前と担当がある。

 つまり、2つの本が背中合わせになっている。なので、ぺたんと開けるようになっているのだろう。これはなかなか良い製本で、たいへん読みやすい。

 印刷やレイアウトはしっかりしていて、写真や図版も鮮明。これは PDF ではちょっとかなわない。あちらは拡大するとボケてしまう。

 PDF 版には、これに加えて、デヴィッド・レミュー David Lemieux による "Show Notes"と、ジェス・ジャーノゥ Jesse Jarnow による "Song Chronology"がある。


 "Show Notes" はCD版では個々のショウのCDパッケージに印刷されている。30本の録音のそれぞれについて、リイシュー・プロデューサーのレミューが簡潔に解説する。それぞれの年でその録音を選んだ経緯を述べてから、聴き所をあげる。デッドといえども当然調子の良し悪しはあるわけで、1980年代前半などは選ぶのに苦労しているし、もちろん1975年は大問題だ。この年4回だけおこなわれたコンサートのうち、1回は30分だけ、1回はテープが無く、1回は《ONE FROM THE VAULT》として既に出ている。残りの1回が今回収録されたわけだが、これがリリースの要望も多かった9月28日、ゴールデンゲイト・ブリッジ公園でのフリー・コンサートだ。

One From the Vault
Grateful Dead
Arista
1995-10-24

 

 各年での収録コンサートの選択にあたっては公式に未発表のもののうち、その年を象徴し、ハイライトとなるようなものを選んだということだが、それに加えて、なるべく珍しい選曲、組合せを提供しようともしている。

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 "Song Chronology" は、スクロール、巻紙に印刷されている。PDF版ではタイトルの下に、演奏された時期とひとことがある。巻紙ではそれぞれが、どのショウで演奏されているかを色分けした表になっている。順番は時系列だ。〈I Know You Rider〉(Trad.)に始まり、〈Childhood's End〉(Lesh)に終る198曲。オリジナルは全て入っているが、カヴァーは一部(19曲)で、ディランやチャック・ベリーは入っていない。

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 メリウェザーは University of California Santa Cruz の図書館に置かれた Grateful Dead Archives の管理人を勤める。このエッセイの長さは70,000語超。邦訳すれば400字詰原稿用紙換算で700枚以上。300ページの文庫なら優に2冊分。グレイトフル・デッドの歴史を書いた本の中で最も短かいものになり、ライナー・ノートとしてはおそらく史上最長だ。

 1965年から1年毎に1章として、デッドの歴史を書いてゆく。ボックスセットに選ばれている毎年のコンサートのコンテクストを提供することが主眼だ。まずその年を総括し、そして大きな出来事をほぼ時系列で追う。ライヴ本数、レパートリィの曲数、新曲の数などの数字も押える。主なツアーの時期と行き先、リリースされた録音、そしてショウや録音へのメディアの反応を述べる。その際、上記アーカイヴからの資料が、ヴィジュアル、テクスト双方からふんだんに引用される。'60年代、'70年代、'80年代、'90年代について各々イントロがあり、さらに全体の序文と結語がつく。この全体の序文と結語、それにショウについての注記が公式サイトに公開されているが、これはダウンロードしたものよりも拡大されている。

 とりわけ目新しい事実が披露されているわけではないが、従来あまりなかった角度からの分析は新鮮だ。レパートリィの数など具体的に上げられると、あらためて驚かされもする。例えば1977年にデッドが演奏したレパートリィは81曲。これだけでも驚異的だが、1980年代後半には数字はこの倍になる。

 1970年代初めにデッドは精力的に大学をツアーしているが、これによってデッドの音楽に出逢ってファンになった学生たちが後にデッドヘッドの中核を形成するという指摘は目鱗だった。デッドのメンバーやクルーで大学を出ているのはレッシュくらいだが、デッドの音楽と歌詞に学生たちは夢中になったのだ。

 これで思い出すのは1970年代後半、ある東部の大学でのベニー・グッドマンのコンサートでの話だ。体育館を改装した多目的ホールの会場にやってきたグッドマンは中に3歩入って内部を見渡すと、床に唾を吐いて言った。
 「くそったれ、またファッキン体育館か」
そして回れ右して出てゆき、客電が落とされる5分前までもどってこなかった。ちなみにまだシットとかファッキンとかまともに印刷できなかった頃で、グッドマンのような大物の口からこういう言葉が出たことに聞いた方は驚いている。この時の演奏はなかなかご機嫌なものではあるが、目立つのは女性ヴォーカルの方で、グッドマンの存在感はあまりない。

 むろん、デッドとグッドマンでは、天の時も地の利もまるで違うから、同列には論じられないが、2つの世代の交錯がぼくには象徴的に見える。

 メリウェザーが繰り返して描くのは、デッドの音楽がうみだす共同体生成とヒーリングの効果である。内外からかかる圧力やそこから生まれる軋轢、様々な障碍も音楽が帳消しにし、乗り越えることを可能にしてゆくその作用だ。

 最も印象的なシーンのひとつは1995年3月オークランドのスペクトラムでの3日連続公演の3日め、ファースト・セットの最後に突如、録音から20年ぶりに〈Unbroken Chain〉が初めてステージで演奏されたところだ。デッドヘッドの unofficial anthem になっていたこの曲がついに目の前で演奏されるのを見た聴衆の歓声は演奏を掻き消すほどだった。その瞬間がデッド体験最高のハイライトになったファンも多かった。

 ちなみに、これはレシュの息子のリクエストによるそうだ。

 そして7月9日の最後のコンサート。ぼろぼろになりながら、なお持てる力をすべて絞り出して〈So Many Roads〉をうたうガルシアの姿。スピリチュアルな響きさえ湛えたその姿は聴衆だけでなく、バンド仲間をも動かし、レシュはガルシアがアンコールとした〈Black Muddy River〉の絶望と諦観の余韻を〈Box of Rain〉の希望と決意へ拾いあげる。この一節はメリウェザーの力業=トゥル・ド・フォースだ。

 グレイトフル・デッドとしてのこの最後の演奏の録音は、ボックスの蓋に収められた7インチ・シングルのB面にカットされている。A面に入っているのは、1965年11月、The Emergency Crew として録音した最初の録音のうちの〈Caution〉、その時の録音したもののうち唯一のオリジナル曲だ。

 メリウェザーが提供するパースペクティヴに映しだされるデッドの歩みは、こういう現象が30年にわたって続いたことは奇蹟以外のなにものでもないと思えてくる。そしてその余沢をぼくらも受けているわけで、これからも受ける人は増えこそすれ、減りはしないのではないか。


 "Dead Heads Tell Their Tales" は50周年を記念して募集したデッドヘッドからの手紙を集める。初めてのライヴの体験、デッドヘッド同士の交歓、自分にとってデッドとは何か、ささやかなエピソードから深淵なコメントまで、ほんのひと言から、1,000語(四百字詰め原稿用紙換算約10枚)以上の長文まで、語り口も内容も実に様々だ。

 ぼくとしては、この部分を最も興味ぶかく読んだ。デッドヘッドとその世界がどういうものか。ひいてはデッドが生み出した世界がアメリカにおいてどういう位置にあり、いかなる役割を担ってきたか。ごく断片的で表層的ではあれ、初めて現実感と説得力をもって伝わってきたからだ。

 書き手もまことに多種多様。The Warlocks 時代からのファンもいれば、ガルシア死後の若いファンもいる。ヨーロッパから遠く憧れつづけた人たち、同時代に生き、しかもスタジオ録音は全部聞き込んでいながらついに一度もライヴを体験しなかったアメリカ人もいる。ブレア・ジャクソンやビル・ウォルトンなどのビッグ・ネーム・ファンや、スタンリー・マウスやハーブ・グリーンなど関係したアーティスト、あるいはツアーのシェフを勤めたシェズ・レイ・セウェル Chez Ray Sewell、ビル・クロイツマンの息子ジャスティンなども含む総勢180人が口を揃えて言うのは「デッドに出逢って人生は良い方に変った」ということ、そしてその変化をもたらしてくれたことへの感謝の気持ちである。

 もちろん、デッドに出逢ったことで悪い方へ人生が変化した人もいたはずだ。ここは祝いの場であるからそういう声は出てこない。その点はどこか別のところでバランスをとる必要はあるだろう。

 とはいうものの、ここに溢れるポジティヴなエネルギーと心からの感謝の想いをくりかえし浴びていると、ひとまずそういうマイナス面は忘れて、この歓喜にこちらの身もゆだねたくなってくる。デッドはオアシスなのだ。せちがらい、クソッタレなこの世界で、まことに貴重なプラス・エネルギーを浴び、充電できる場なのだ。

 文章だけでなく、ファンたちが贈った様々なヴィジュアル・アートがページを飾る。肖像画やパッチワークや彫刻、バンバーステッカー、さらにはイラク戦争に従軍した兵士がトルコであつらえた骸骨と薔薇の画を編みこんだ絨緞。そこにあふれるのは、ミュージシャンたちの姿とならんで髑髏と骸骨すなわち死の象徴だ。

 Grateful Dead と名乗った瞬間、かれらは死の象徴を歓びのシンボルへと換える道へ踏み出した。

 死の象徴があふれるデッドのコンサートでは奇蹟が起きる。その実例もまた数多くここには記録されている。

 駐車場に "I need a miracle." と書いたプラカードを持った青年がすわっていた。そこへ薮から棒にビル・グレアムが自転車に乗ってあらわれ、青年の前に乗りつけるとプラカードをとり、チケットを渡して、あっという間に消えてしまった。チケットを渡された青年はただただ茫然としていた。

 幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、デッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。コンサートの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。

 Dennis McNally によれば、90年代の絶頂期、デッドが発行した招待状=無料入場券は年間60万ドル相当に達していた。

 それだけではない。デッドはプロがやってはいけないとされることを残らずやっていた。コンサートの契約書には、[最短]演奏時間が書きこまれていた。ラミネートと呼ばれるバックステージパスの斬新でユニークなデザインと製作に毎回莫大な金と手間をかけていた。ライヴ・サウンドの改善のために、カネに糸目をつけなかった。レコードを出しても、そこに収録した曲を直後のツアーで演奏することは避けた。聴衆がコンサートを録音し、録音したテープを交換することを認め、後には奨励した。等等等。それ故に誰にも真似のできない超大成功をおさめたわけだ。そして、この「成功」にカネの割合は小さい。

 なぜ、デッドはそういうことをしたか。それはたぶん、かれらの資質だけでなく、あの1960年代サンフランシスコという特異な時空があってこそ生まれたものでもあるだろう。デッドは60年代にできたその土台に最後まで忠実だったこともこの本を読むとはっきりわかる。80年代のレーガンの時代にも、90年代にも、デッドのコンサートは60年代エトスのオアシスであり、そこへ行けば Good Old Sixties の空気を吸ってヒッピーに変身することができた。

 一方でそれにはまた、とんでもないエネルギーと不断の努力が必要でもある。「努力」というのはデッドには似合わない気もするし、日本語ネイティヴの眼からはいかにもノンシャランに見えるかもしれない。しかし、眉間に皺を寄せ、日の丸を染めぬいた鉢巻を締め、血と涙と汗を流し、歯を食いしばっておこなう努力だけが努力の姿ではない。日本流のものとは違うが努力以外のなにものでもないことを、デッドは30年間続けた。ともすれば、こんなに努力しているボクちゃんエラいという自己陶酔に陥りがちなスポ根的努力とは無縁な、しかし誠実さにおいてはおそらく遙かに真剣な努力を、デッドは重ねていた。

 ステージの上で毎晩ああいうことをやるのはどんな感じかとファンに訊ねられたガルシアはふふふと笑ってこう答える。
 「そりゃな、一輪車を片足だけでこいで、砂が流れ落ちてくる砂丘を登ろうとしているようなもんだよ」

 そうして努力しても、常に報われるとは限らない。むしろ、シジュフォスと同じく、虚しく終ることも多かったはずだ。しかし、成功した時のデッドのショウはまさしく奇蹟としか思えない。その奇蹟を捉えた記録を年1本ずつ30本集めたのがこのボックスということになる。(ゆ)

   村井康司さんの名著『ジャズの明日へ』の中に、「ジャズはテクニックのくびきがおそろしく強いジャンルだ」との一節がある。
   
    無理矢理一言で言いかえてしまうと、ヘタは相手にされない世界、ということなのだが、含蓄はかなり深いことばである。誰だって、どんな名人、巨匠とて、最初はヘタなのだから。
   
    実はアイリッシュ・ミュージックも、「テクニックのくびき」がひじょうに強い音楽ではないかと気がつく。
   
    一見まったくそうは見えない。誰でもできそうである。ヘタでも聞いてもらえる。演奏にしても、鑑賞にしても、敷居がおそろしく低い。むしろ、ヘタが排除されないことがアイリッシュ・ミュージックの「暖かさ」「温もり」であるかのように喧伝されている部分もある。いや、ぼく自身、そういう喧伝の片棒を担いできてもいる。
   
    それは外見だけで、実際はそうではない、敷居は低くて誰にでも入れるかもしれないが、一度中に入ると奥は深くて広くて、それこそ下手をすればドツボにはまるぞ、あるいは生きては帰れないぞ。
   
    ということを、ビートないしリズムの角度から説きほぐそうとしたのが、本誌における洲崎一彦の連載だったわけだが、それだけではない、メロディの解釈、装飾音の使い方などの角度からしても、あらためてアイリッシュ・ミュージックは相当に「テクニックのくびき」が厳しい。
   
    思うにアイリッシュ・ミュージックの外見上の「敷居の低さ」はアイリッシュ・ミュージック自体に備わる本質的なものではない。それはむしろ、アイリッシュ・ミュージックを包含するアイルランド社会全体の性格なのではないか。
   
    最初の接触の段階ではフレンドリーで、誰でも歓迎し、相手が自分たちの文化や社会や歴史に対する無知や親しみの浅さを露呈しても、それをもって責めたり、バカにすることはしない。相手にわからないようにからかったり、ジョークのネタにしたりはするかもしれないが。
   
    ところが、もう一歩中へ入ろうとすると、話が違ってくる。冷淡になったり、見下したりするわけではない。ただ、暗黙のうちにある閾値が設定されていて、そこに達しないものは無視される。まあ無視というのも強すぎるだろう。黙ってみている。ほうっておく。積極的に排斥もしない。時に有望そうな相手には手を貸すこともある。しかし、手取り足取り、細やかに面倒を見て、自分たちの世界に招きいれるようなことは、まず無い。
   
    これがアイリッシュ・ミュージックから見たアイルランド社会の性格、それもかなり基本的だろうと思われる性格である。
   
    アイリッシュ・ミュージックのテクニックは派手なものではない。ジャズの場合、そのテクニックは即興の形で顕れる。これ自体は外から見て、聞いて、ごく明解だ。ジャズなどふだんほとんど聴かない人間でも、コルトレーンのソロが高度のテクニックに支えられていることは、聞けばわかる。
   
    アイリッシュ・ミュージックのテクニックも即興の中に顕われるのだが、アイリッシュの即興は誰が聞いてもすぐわかる形のものではない。むしろ、聞きなれないリスナーにとっては、どこが即興かもわからない。即興をしているのかどうかすらわからない。
   
    アイリッシュ・ミュージックの即興が最もわかりやすい形で顕れているのはマーティン・ヘイズのライヴ演奏だろう。ただ、あれはむしろジャズの手法を採り入れたもので、アイリッシュ本来の即興とはいささか趣が異なる。むろん、百%ジャズではなくて、アイリッシュの即興も入っているので、そこがかれの天才たるところではある。
   
    しかし、聞きなれてくると、だんだん即興の良し悪しがわかるようになってくる。どこがツボか、そのツボがちゃんと押さえられているかどうか、わかるようになってくる。才能のある人は比較的早く、わかるようになるかもしれない。しかし凡人でも時間をかけて、良いといわれる演奏をくりかえし聞くことで、わかるようになる。「いーぐる」の後藤さんの言う「ジャズ耳」という概念を借りれば、「アイリッシュ耳」ができてくる。
   
    聞くのはまだそれでも、時間をかけさえすればなんとかなる。しかし、これを演奏で示そうとするととたんに敷居はとんでもなく高くなる。「テクニックのくびき」が厳しいのだ。そこで要求されるのは、単に技術の高さだけではないからだ。伝統音楽には「暗黙のきまり」または「奥義」があるからだ。一般的なポピュラーやクラシックも含めた「標準音楽」とはそこが違う。
   
    クラシックや、またジャズもある程度そうだが、クラシックをクラシックたらしめている、あるいはジャズをジャズたらしめている「奥義」は大部分、オープンになっている。それさえ守れば、演奏者の出自には無関係に、それはクラシックである、ジャズである、と世界的に認められる。いわば、ルールをオープンにして「標準化」し、それを守るものは「コミュニティ」のメンバーとして認めるようにしたことで、クラシックやジャズは標準的地位を獲得していったというべきだろう。当然その過程で切り落とされていったものもある。その点では、バッハやモーツァルトやベートーヴェンの時代のヨーロッパのローカル音楽と現代の「クラシック」は別物だ。
   
    「奥義」はどこの伝統音楽にもある。それは演奏のレベルがある程度上がり、その音楽の世界の中に入りこんでいかないと開示されない。それも、ではこれから汝に奥義をさずけようなどと明確な形で示されるわけではない。演奏者の側がある日ある時、そういうものの存在に気がつく形でしか示されない。そして、そこへ到達する道もまた演奏者が独自に見つけ、切り開かねばならない。助言や援助は得られるかもしれないが、誰も手をとって引き上げてはくれない。自力であがるしかない。そして、精進を続ければ、確実に上がれるという保証もまたない。
   
    そしてこの「奥義」をどうにかして体得しないと、その人がやっているものがアイリッシュ・ミュージックであるとは認められない。体得しない場合、それは「まねごと」「まがいもの」とされる。あるいは単にメロディを借りたもの、関連はあるかもしれないが別のもの、とされる。「おケルト」の類は前者の、「ラスティック」や「フォークメタル」と呼ばれるジャンルは後者の代表。
   
    逆に「奥義」を体得していれば、どんな形でやろうと、例えば電気楽器を使おうと、他のジャンルや伝統音楽と交配しようと、それもまたアイリッシュ・ミュージックの一つの形としての評価を受ける。
   
    一方で「奥義」は普遍的性格も備える。アイルランドの社会に生まれ育たなくとも、体得は可能だ。アイルランドの社会と密接に結びついてはいるものの、社会は「奥義」にとって必須条件ではない。「奥義」は他者の存在を否定しないからだ。伝統音楽は常に「外部」との混淆物だ。他者との異種交配の産物だ。いや、異種交配が絶え間なく行われている、絶え間なく変化している、その現場だ。変化そのものが形をとったものだ。たとえ一見変わっていないようにみえても、おそろしくゆっくりではあるが、確実に変化している。

    老舗の味、変わらないもののシンボルとされている味は、必ず常にわずかずつだが変わっている。そうでなければ、同じとは感じられない。まったく変えないでいると、味が落ちたと言われる。人間の感覚は常に変わっているからだ。

    音楽伝統も同じだ。変わらないと見えるということは変わっているからそう見える。まったく変わらないでいるとすれば、それは博物館の陳列品と同じだ。

    言い換えれば、伝統音楽が伝統音楽であるためには、常に他者の「血」が入ることが不可欠なのだ。人間の社会は内部だけで閉じてしまうと、遺伝子のプールが縮小し、共同体全体が退化してゆく。伝統音楽の「奥義」が「奥義」でありつづけるためには、他者がこれに参入し、わずかずつではあっても変えてゆくことが必要なのだ。

    クラシックやジャズは「奥義」を「標準化」することで他者の参入による変化が不可能になった。「奥義」の固定化はジャンルの固定化と縮小再生産を招き、ひいては衰頽につながっている。

    クラシックはさて置いて、ジャズに回復の道があるとすれば、「奥義」の変化を許すことだろう。その「歴史」を神話化するのではなく、相対化する。一本のリニアな物語ではなく、多数の平面が重なり、無数の解釈が可能な混沌と捉える。どうしても混沌は困るというのなら、ヴァーチャルなゲーム世界はどうだ。ルールや設定はあるが、プレーヤーの行動を縛るのではなく、それぞれの趣向にそって自由に楽しめる世界だ。

    『バット・ビューティフル』に描かれるジャズはたしかに無類に美しいが、あまりに悲しすぎる。あるいはジャズに籠められた悲しみを愛でるあまり、これを神話にまで祭りあげている。あれはあくまでも著者ダイヤーにとっての神話だ。ならば、あれとはまったく対照的なジャズ、悲しみを笑いとばす喜びにあふれた、なおかつ同じくらい美しいジャズがあってもいいはずだ。「時系列にそって」聞くならばそれ以外のジャズはありえないというのなら、時系列をはずせばいい。西欧クラシックは「時系列にそって」聞くときが最高だ、とは誰も言わない。ロックンロールを誕生から「時系列にそって」聞こうとは誰もしない。なぜ、ジャズだけが「時系列」をそんなに尊重するのか。ジャズ自体の生命力を犠牲にしてまで「時系列」にこだわるのは、それが神話でしかない証拠ではないか。

    「外部」の人間はだから、伝統音楽が伝統音楽であるために必要不可欠の要素でもある。

    さらにまた、伝統音楽がそれが生まれ育った土地、社会と不可分の関係にあるということは、土地や社会の変化にも敏感に反応する。音楽伝統を生んでいる社会の変化を反映しなければ、伝統自体からはずれることになる。

    もうひとつ。伝統音楽は、生まれ育った土地、社会から離脱しようというベクトルもまた備えている。

    より正確には、社会そのものが自己変革、脱皮への欲求を基本的性格、本質的要素として備えていて、それが音楽に顕われるのではないか。
   
    それは音楽だけのことではなく、文芸や美術や演劇や舞踏や、およそ文化活動、表現活動と呼ばれる人間の活動のすべてに共通するものだろう。むしろ、そうした活動は、社会の自己改造、新たな存在への脱皮の欲求の顕われなのかもしれない。すべての文化活動には、それを生み出した社会を変える契機が含まれている。権力を握った者が文化活動を監視し、抑圧しようとするのはおそらくそのためだ。

    その掲げるイデオロギーやスローガンにかかわらず、文化活動、表現活動に対する態度で、その権力者の性格、めざすところ、つまりは正体が顕わになる。
   
    この伝統音楽に、ひいては文化全体に備わる離脱のベクトルにも、「外部」の人間は感応することができる。
   
    文芸の場合、これに相当するのが「翻訳」行為と言えなくもない。音楽演奏に比べればかなり間接的だが、これは言語というメディア自体が間接的だからだろう。とまあこれは余談。
   
    この「奥義」をテクニックの範疇に入れるのは少々無理があるかもしれない。確かに純粋に音楽的なものからははみ出す要素も含まれる。しかし、一方でそれは精神的なもの、倫理や信仰や思想とは結びつかない。むしろ、肉体にしみこむもの、考えるのではなく、感じるものだ。あるいは脳で考えたり感じたりするのではなく、筋肉と骨で考え感じるものだ。
   
    だからジャズとは意味合いが違うが、やはりアイリッシュ・ミュージックは「テクニックのくびき」が強い。(ゆ)



バット・ビューティフル
ジェフ ダイヤー
新潮社
2011-09

 大嵐になった今月13日木曜日の夜、下北沢の本屋兼カフェで開かれた栩木伸明さんの講演会に行った。栩木さんが昨年みすず書房から上梓された『アイルランドモノ語り』で読売文学賞を受賞された、そのお祝いの会である。先輩受賞者である管啓次郎氏がホスト役。 お二人の対談形式かと思っていたら、前半、栩木さんの語り、後半、菅氏からの投げかけに栩木さんが応える形。最後に管氏が聴衆からの質問を誘い、二人が質問をし、栩木さんが応えた。

 一番の収獲は、本の冒頭に出てくる「ヘンズ・ネスト」の実物を手にとれたこと。栩木さんがミュージアムのショップで買われた小型のレプリカではあるが、サイズ以外は「ホンモノ」だ。「ホコリっぽくツンとくる匂い」も嗅ぐことができた。

 それからトーリー島のキングの描いた絵。本の52頁に載っている「大西洋上のトーリー」の実物。絵はどんなに詳細で鮮明なものでも、写真で見ただけでは一番肝心なものが顕れない。見えない。たとえばの話、実際のサイズで、この絵は思いのほか、小さかった。iPad の一回り大きいくらいだろうか。そして、確かに妙に惹きこまれる。美しいとか、迫力があるとか、あるいは深い意味があるとかいうのではないかもしれないが、いつまでも見ていたくなる。そして見ているうちに、胸の奥がおちついてくる。こういう絵なら、手許に置いて、ときどき眺めたい。といっても、こればかりは現地に行かなければ買えないのだろう。また、このネット時代に、わざわざそこに行かなければ手に入らない、というのもひとつの価値だ。

 トーリー島に行くのは結構たいへんです、と栩木さんが言う。船酔いは覚悟しろ、ともおっしゃる。もっとも船酔いは、どくとるマンボウのように、生まれつきか、かからない人もいるし、どんなに船に弱い人でも、繰り返し乗っていればだんだん強くなるというから、何度も通えばいずれ平気になるだろう。それよりも、島に渡る船が出るところまで行くのがまずたいへんらしい。

 お薦めはどこですか、という聴衆からの質問に、トーリー島が一番と応えられていたから、これから島へ行く日本人は増えるだろう。住みつく人もいるかもしれない。アラン島だって、地元の人と結婚して住んでいる日本人がいるのだ。

 ただし、離島の生活が楽ではないのは、James MacIntyre の THREE MEN ON AN ISLAND を読んでもわかる。冬の嵐が続いて船が来られなくなり、食料がなくなって寝ているしかなくなることもあるのだ。ブラスケット島が無人になったのも、そういうことが度重なったためだ。ちなみにこの本は、アイルランドの西端の孤島にひと夏過ごした3人の、こちらは職業画家の記録である。1951年のことだ。すてきなスケッチと水彩画にあふれた瀟洒な本で、ニワトリもちゃんと出てくる。

Three Men on an Island
James Macintyre
Blackstaff Pr
1996-01-01



 ブラスケット島の住民が集まったのが、アメリカはマサチューセッツ州スプリングフィールドで、ここはアイルランド国外のゲールタハトの様相を示した、というのは今回栩木さんのお話で初めて知った。

 もう一つの収獲はキアラン・カースンの『琥珀捕り』について、アイリッシュ・ミュージックのダンス・チューンと同じ構造だ、との指摘。韻文でこれをやるのはわかるし、実例も多いと思うけれど、散文でやるのは思いいたらなかった。そういう視点から再読してみよう。実のところ、ひどく面白いのだが、なんとなくコツコツ当たるところがあって、見事な作物であることは確かで、不満はなにもないのに、諸手を挙げて絶賛する気にどうしてもなれなかった。どうも散文となると「筋」をなぞろうとしてしまうらしい。筋の展開がリニアではなく、サイクルであることに気がつかなかった。なるほど、そうして読んでみると、シェーマが変わるかもしれない。

 栩木さんのお話がもっぱら本のはじめの方に集っていたのはやむをえないところだろう。うしろの方の、「岬めぐり」の章のお話など、あらためて聞けるチャンスがあると嬉しい。

 開演前の会場にはアルタンが流れ、お話の中でもかけたりもしていた。管氏も、いいですね、ぼくもアイリッシュ・ミュージックは大好き、と言われていたあたり、あらためてアイリッシュ・ミュージックもあたりまえの存在になったものよのう、との思いを新たにする。アイリッシュ・ミュージックを出すと、これはアイルランドの伝統音楽でありまして、なんて説明というか言い訳というか、そういうものをやらねばならない、ということがなくなったのは、やはり素朴に嬉しく、ありがたい。

 栩木さんは読売文学賞受賞によって、自分が書き手として日本語の活動に貢献したと認められたことが嬉しいとおっしゃる。それを否定するつもりは毛頭ないが、一方で栩木さんは翻訳家としてりっぱな仕事をされてきているわけで、それもまた日本語への貢献に他ならないことも、指摘するのもおこがましいが、言わせてもらいたい。明治以降の、いわゆる口語という文章語の形成展開に翻訳の果たしてきた役割はむしろ大きい。単語だけでなく、構文や、さらには思考方法や、感じ方にいたるまで、翻訳によって日本語は鍛えられてきた。英語というワンクッションをはさんではあるけれど、そこにアイルランドという新たな要素を加えたのは栩木さんの功績のひとつでもあるはずだ。イェイツのなかのアイルランド性は、本を読んでいただけではわからなかった、と栩木さんは言われるが、それはたぶん栩木さんだけではなく、かつてのわが国「英文学」の趨勢ではなかったか。音楽の勃興によって、アイルランド自体の見方も変わった、そのことによってアイルランド性の捉え方も変わったのではないか。

 先日も古い資料をひさしぶりに見ていたら、「二流のイギリスとしてのアイルランド」なんて言葉が恥ずかしげもなく使われているのに、覚えずして顔がほてった。そう書いたのは自分ではないにしても、その表現に疑問を感じないどころか、うんうんとうなずいていたことは確かだったからだ。この四半世紀で、アイルランドのイメージは、180度というも愚か、まったくの次元の別な物になってしまった。天動説から地動説への転換にも相当しよう。その地点から見れば、かつては「英」文学の一部であったアイルランドの文芸もまた別物となるだろう。

 もちろん、翻訳家だけでなく、書き手としての栩木さんにはもっともっと書いていただきたい。ティム・ロビンソンの『アラン島』二部作、『コネマラ』三部作はたしかに圧倒的だけど、栩木さんなら、また別のアプローチであれに肩をならべる文章を書いてくれるのではないかと期待する。そしてそれはまた、アイルランド人には書けないものであるだろう。イングランド人ロビンソンの作物がアイルランドのネイティヴには書けなかったように。

 『アイルランドモノ語り』は、昨年読んだ本の中では一番の収獲だった。というより、人生でもこれだけの本に出会うことは、そんなに何度もない、と思われた。この本は、最初の章を読んだとき、一日一章と決めて、読んでいった。一気に読んでしまうのがもったいなかったからだ。お話をうかがって、あらためてまた一章ずつ読みはじめた。今度は毎日一章ではない。一週間に一章、ぐらいのペースだ。時には他の本やネットに脱線しながら、ゆっくりと読んでいる。そう、この本に欠陥があるとすれば、それは索引が無いことである。無ければ作ればいい。というわけで、自分で索引を作りながら、読んでいる。

 もう1冊、読みだしたのが Fintan O’Toole の A HISTORY OF IRELAND IN 100 OBJECTS。栩木さんの本とほぼ同時に出たのを、例によって積読してあった。タイトル通り、100個のモノをダシにして、アイルランドの島に人間があらわれてから21世紀までの歴史を語る試み。栩木さんの語るモノがきわめてパーソナルな性格を帯びるのに対し、こちらは良くも悪しくも公的な、パブリックなモノがならぶ。それはそれで面白く、オトゥールの文章も、ある時は掘り下げ、ある時は大きく拡がり、縦横に語って、この島に展開されてきたドラマをぐいぐい描きだす。実物がどこで見られるかの案内もついていて、その気になればツアーできるようにも作られている。

A History of Ireland in 100 Objects
Fintan O'Toole
Royal Irish Academy
2013-03-12



 遅まきながら、栩木さん、読売文学賞受賞、おめでとうございます。(ゆ)

アイルランドモノ語り
栩木 伸明
みすず書房
2013-04-20

遅くなりましたが、日曜日は新宿ベルクでの『ギネスの哲学』刊行記念イベントに多数ご来場いただき、ありがとうございました。
    
    はじめは店内の様子にちょっと不安になりましたが、たまたま店に居合わせた方にも好評だったようで、本もたくさん売れたそうです。重ねて、御礼申しあげます。
    
    イベントが一応終わってから、記念撮影とのことで、店のすぐ外、地下通路との境あたりで、もう1セット演奏があったんですが、これが意外にすばらしく良い音でした。店内ですと、音が吸われるのが、カンカンのライヴな地下街では良く響きます。できることなら、しばらく聴いていたかったです。
    
    ベルクの名前は知っていましたし、新宿で「アカシア」に向かう途中、いつも脇を通っていたんですが、初めて中に入って、すっかりファンになってしまいました。とにかく、飲み物も食べ物も、全部旨い。そして安い。お客さんの雰囲気もいい。ちょっと立ち寄って軽く食べるのにも、腰を落ちつけて飲み物を味わうのにも、恰好の店ですね。
    
    とにかく何もかもが旨かったんですが、ちょっとびっくりしたのは「リアルハーフ」という、ギネスとエーデルピルスのハーフ&ハーフ。比重が違うそうで、この二つがグラスの上下にきれいに別れてきて、それはそれは美しい。飲むときは混ざりますが、グラスを置くとまた別れる。もちろん、注ぐにはそれなりのスキルが要るそうで、世界でもベルクでしか飲めない、見られない由。逸品といっていいと思います。
    
    お酒だけでなく、コーヒーも美味。生チョコ付きコーヒーというのもあって、この次、飲んでみようと思いました。
    
    レギュラーのメニューの他にも、国内各地の地ビールの生や、特別料理を臨時に出したりもするそうです。今月も骨付きハムの予告が出てました。それもすこぶるリーズナブルな値段で、ひじょうに食慾がそそられます。
    
    ぼくは所用もあり、夕方で失礼しましたが、他へ演奏に行ったパイプの内野さんがまたもどってきて、23時の閉店までセッションをしたそうな。
    
    
    昨日は東京・千駄木の古書ほうろうへ伺って、やはり『ギネスの哲学』にひっかけたイベントの仕込みをしてきました。ちょっと先で、いずれ、お店や版元のウエブ・サイトで告知が出るので、お楽しみに。
    
    あそこへ行くと、ついつい買ってしまいます。平凡社の東洋文庫をまた買ってしまった。日本語の本は原則買わないようにしてますが、東洋文庫だけはあの造本が大好きで、チャンスがあると買ってしまいますねえ。新宿のジュンク堂は棚一本ずらりと並んでいて、眺めるだけでも浮き浮きしてきたものですが、あれが見られなくなるのはやはり痛いなあ。東洋文庫もようやく、オンデマンドではない復刊を始めたようで、青木正児の『江南春 (東洋文庫 217)』があったのには思わず手が延びそうになって、ぐっと堪えました。桑原隲蔵の『考史遊記 (岩波文庫)』とならぶ、戦前中国大陸紀行の名著だと思います。
    
    本の他にCDもあって、友人に教えられていた鈴木常吉さんの2枚と二階堂和美さんの《にじみ》があったので、思わず購入。鈴木さんのにはほうろうだけのおまけのCDが付いてきました。
    
    店の奥では「しでかすおともだち」による「しでかす移動商店街」が展開中。オーラが溢れてました。最終日、03/25にはサイン会があるそうで、うーん、来てみようかな。
    
    そうそう、今週末には良元優作さんのライヴもありますね。やっぱりほうろうは面白い。(ゆ)

ギネスの哲学――地域を愛し、世界から愛される企業の250年    久しぶりに翻訳した本が出ます。
    
    題して、『ギネスの哲学』。
    
    といっても別に難しいものではなく、要は、儲けたものはシェアしようよ、ということ。
    
    長谷川眞理子氏によれば、生物としてのヒトは集団を作ることで初めて生存できるのだそうで、確かに、まったく単独で生きられる人間はいません。集団を作り、得たものを分けあうことでようやく生きつづけることができる。
    
    現代の人間の生活様式が、ヒトとしての根本的性質から外れてしまったことから諸々の問題が生じているわけで、カネというシステムなんかもその典型。カネを儲けると、それを自分の力だけで手に入れたと勘違いしてしまう。それだけならまだしも、だからってんで、自分だけで独占しようとする人が多い。
    
    「リーマン・ショック」に象徴される「強欲資本主義」(というのも冗長な呼称ですな)はその行きついた姿で、「オキュパイ・ウォール・ストリート」の運動が起きない方がおかしい。
    
    著作権をめぐる軋轢なんかも、著作物が生みだす利益を(著作者と同一とは限らない)著作権者が独占しようとするから起きる、とぼくなどは見ています。
    
    で、ギネスの話です。
    
    ギネスはアイルランド独自の産物ということでは伝統音楽と肩をならべます。生まれるのが18世紀後半というのも、現在の形の伝統音楽とほぼ同時期です。ギネスそのものを生みだしたのはプロテスタントですが、そのビールを愛し、育んだアイルランドの人びとの圧倒的多数はカトリックでした。その結果、ギネスはアイルランドのビールとなり、やがて大英帝国のビールとなり、ついには世界のビールになります。この道筋も伝統音楽が後を追っていますね。
    
    当然その過程でギネス社は大いにカネを儲けます。歴代経営者は当時の英国最大の大金持ちになります。かれらは儲けたカネをどう使ったか。
    
    並の経営者なら、儲けたカネをさらに増やすことだけを考えて投資するでしょう。あるいはバブル期のわが国の企業のように、有名な美術品をやたら買い込んだりすることもあります。
    
    ギネスの人びとは違いました。
    
    もちろん、実際の使い方は時代によって違いますが、基本方針としては儲けたカネをシェアしたのです。今風に言えば「利益の社会還元」ということになるんでしょうが、そのやり方はハンパではなかった。従業員の福利厚生(これがまた凄い。一例をあげればデートの費用まで会社が負担した)はもちろん、工場周辺の住民の健康促進、ダブリン市全体の貧困対策、さらにはアイルランド全体を対象とした文化振興や福祉事業と、留まるところを知らない、と言ってもいいくらい、気前良くカネを注ぎこみました。「バラ撒き」というのは、今のわが国では公的なカネの使い方としては良くないイメージがありますが、ギネス社のカネの使い方は頼まれると「ノー」とは言えないんじゃないかと思えるくらいです。
    
    中には従業員対策として行なったことが思わぬ広がりを持ち、アイルランドの未来を具体的な姿として提示し、その行方を左右することになった例もあります。19世紀末から20世紀前半にかけてギネス社の専属医師だったドクター・ラムスデンの事績は、持てる者が得たものを分け合うことでどれほどのことが可能になるか、まざまざと示しています。
    
    翻訳する対象に感情的に入れこんでしまうのは「プロ」としては失格なのでしょうが、このドクター・ラムスデンの活動を描いたところは、下読みをした時も、実際に翻訳している時も、校正で何度も読みなおした時も、その度にいつも涙が浮かんでくるのを止めることができませんでした。こうして書いているだけでも、胸が熱くなります。
    
    つまりギネス社は儲けたものを分け合う、シェアすることで「世界を変えた」のです。「世界を変える」のは悪い方へ変える場合もあるわけですが、普通はより良い方へ、涙が減り、笑顔がより増える方へ変えることであります。
    
    この本はそうしたギネスが生まれ、育ち、ついには世界最大のアルコール飲料企業になりながら、「世界を変え」てゆく、その過程を生き生きと描いたものです。
    
    なにせ、大好きなギネスが、ただ旨いだけでなく、「世界を変え」てもいた、というのは嬉しい話で、ぼくとしてはまことに楽しい仕事でした。病気でやむなく中断していた間も早く再開したくてうずうずしていました。唯ひとつ、残念なのは、ギネスと音楽、とりわけ伝統音楽との関りにほとんどまったく触れられていないこと。ですが、それはギネスが間接的に「世界を変え」てゆく話で、そういうことまで含めれば、話は音楽に限られないでしょうから、とても一冊の本で語りきれるものではなくなってしまいます。
    
    というわけで、この次ギネスを飲みながらこれを繙けば、旨いギネスが一層旨くなります。ギネス2杯半分ですが、それ以上の「旨味」があることは保証します(^_-)。
    
    刊行を記念してちょっとしたイベントをやります。明後日の日曜日、という急な話ですが、東京・新宿の「ベルク」というカフェで、14:00からトークとアイリッシュ・ミュージックのミニ・ライヴがあります。演奏はフィドルの西村玲子さんとイルン・パイプの内野貴文さん。西村さんはこの本のカバーのイラストも描いてくださいました。さすがに雰囲気出てます。お二人とも生を聴くのは初めてなので、ぼくも楽しみです。
    
    他にも二、三、イベントを企画してます。ギネスを飲みながら、ライヴを聴くという形になると思います。
    
    ということで、『ギネスの哲学』をよしなに。(ゆ)

今日は雲があるので、陽射しが遮られる。が、風はあきらかに秋の風。
    
    気温が高いので蝉たちは元気。ひさしぶりに油の声も聞こえる。が、数は激減。法師蝉ばかりきわだつ。土曜日は近くの小学校の運動会で、時おり激しい雨が降るなか、朝から大騒ぎだったが、今日は蝉の声があたりの静けさを強調する。
    
    先日から調子づいたので、朝から仕事したい気分が湧いてきて、午前中、かなり集中できた。今やっているギネス本の第三章、十九世紀末から二十世紀初めにかけてギネス醸造所の専属医師だったジョン・ラムスデンなる人物の事績は、なかなかに泣かせる。とりわけ、章の掉尾を飾る、第一次世界大戦直前から最中にかけてアイルランドが体験した暴力の嵐の中で、敵味方なく負傷者の手当をするため、銃弾もものともせず最前線に飛びこんでゆく医師の姿には、訳しながら覚えず目頭が熱くなった。ついには片手に白旗、片手に医師鞄を下げて駆けこんでくる医師の姿を見ると、皆、射撃を控えるようになる。そして、自分たちの国のより良い未来の可能性をその姿に垣間見るのだ。
    
    もっともこれはラムスデンの事績としてはむしろ枝葉末節に属するもので、かれの業績の本分は、ギネス社の従業員やその家族、工場の近隣住民たちの居住環境の改善と公衆衛生の向上だ。
    
    調子に乗っていつもの倍ちかい量をこなす。いつもこういう調子で行けば、来月末脱稿の予定は守れるかもしれない。抗がん剤の副作用の出方にもよるが。
    
    先週に入って手足の先の痺れが強くなっている。その前まではそれほど感じなかったのは、本来とは逆のような気もする。首まわりの痒いのはようやく軽くなってきたが、あちこち入れ替わり立ち替わり痒くなるのはあいかわらず。これも副作用か。
    
    ドス・パソスのスペイン紀行『ロシナンテ再び旅に出る』を読む。内戦前、両大戦間のスペイン。この人もアメリカ人として生まれながら、アメリカからははみ出してしまった者の一人。『U.S.A.』 のような本を着想し、書けたのも、そのおかげではあろう。
    
    そのはみ出し方はアメリカ人にしかおそらくできない。この人の生涯そのものが数奇ではある。生まれたのはシカゴのホテルで、幼少の頃はヨーロッパのホテルを点々として育ち、その生涯のほとんどを旅から旅を続けて過ごした。かれにとって故郷は具体的な場所ではなく、いうなれば「アメリカ」という抽象概念だったろう。むしろ旅そのものが故郷だったかもしれない。
    
    両親はともに既婚者で、つまりドス・パソス本人は「不倫の子」だ。アメリカどころか、「世間」からはみ出して生まれた。生まれた時、母は42歳、父はその10歳年長。19歳で母を、21歳で父を失う。兄弟姉妹はない。良い伝記が読みたい。
    
    アメリカからはみ出したアメリカ人としては、他にはコードウェイナー・スミスがいる。ブルース・スターリングがいる。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアがいる。ルーシャス・シェパードも数えていいかもしれない。
    
    作家にははみ出し者が結構いる、というよりはどこかではみ出していないと作家にはならない。ミュージシャンではあまりいないように思える。マイルス・デイヴィスもデューク・エリントンもフランク・ザッパもジェリィ・ガルシアもボブ・ディランも、あるいはジョン・ケージも、とことんアメリカ人ではある。
    
    はみ出してしまった者は音楽には行かないのかもしれない。同じパフォーマンス芸でも演劇やダンスや曲芸に行くとも思える。
    
    JAVS nano/V はパスパワーだが、かなりパワーを喰うようで、MacBook Pro ではバッテリーだと音が悪くなる。バッテリーの減りも速い。電源をつないで使うのが基本。

    DAC など、つなぎっぱなしにしていると、音が悪くなることがある。USB のジャックを換えると回復する。USB につなぐ時は他の USB 接続はしない方が良いらしい。TimeMachine にライブラリを置いて、無線で飛ばす方が音が良いという話もある。
    
    ダギー・マクリーンがあらためてマイ・ブーム。昨年久しぶりのオリジナル新作が出ていた。届くまでの復習に、新しい方から一枚ずつ聞き直す。(ゆ)

今週は本誌の配信予定日がありますが、編集部(ゆ)が抗がん剤投与のため短期入院するので、お休みさせていただきます。大型台風が来ているそうで、その最中の入院になりますが、皆さまにはなにとぞご無事で。
    
    
    野上彌生子『欧米の旅』は下巻に入るとイングランドに渡ります。さる大学教授が引退して借家に貸しているハムステッドの家の一角を夫妻は借り、1938年末からの4ヶ月、ここを拠点として、イングランド各地を訪問します。その家を仕切るのが教授の友人ミシズ・ハント。はじめはその下にミシズ・ライレイという初老の婦人が家事をしていましたが、途中でミス・ドヴィニというアイルランド人に交替します。そのミス・ドヴィニについての記述。

    まるで方程式のやうに整然として、生眞面目に、しめやかなこの家の生活にちよつとひずみができたのは、ミシズ・ライレイが暇をとつて、ミス・ドヴィニと云ふ愛蘭生れの女中に代つたことと、ミスタ・パイクがよそへ移つて、二人のフィンランド愬がやつて來た時からであつた。ミス・ドヴィニはミシス・ライレイに比べればずつと若く見えた。しかし西洋人が日本人をとんでもなく若く思ふやうに、私たちにも彼らの年齡はわかり惡いから、ミス・ドヴィニが果して幾つになるか知らないが、愛蘭のものがよくやる通り、彼女も米國に渡つて十五年もニュー・ヨークで暮らしたと云ふから、二十で行つたとしても三十五より少くはない筈である。それでどうしてもそんな氣がしないのは、彼女のちよつと顎のしやくれた、細面の愛くるしゐ顏立ちのせゐばかりではなく、すらりとした恰好のいい身軆つきから、物腰に溢れてゐる愛蘭人特有の、屈託のない陽氣さのためであつた。來てから二三日目に、階段の掃除をしながら鼻歌をうたつてゐる彼女を見いだした時の驚きを私は未だに忘れない。ミシズ・ハントがきつとびつくりして困つてゐるだらうとなにか私の方で氣懸かりになるのに、當人は平氣で、にこにこと薄悗ご磴脳个弔討陲襦まるで子供のやうな氣のよいその笑顏には、こちらまで釣りこまれてしまふが、ただ閉口するのは、掃除でも何でも恐ろしく亂暴なことであつた。(中略)しかし朝から雪になつて、ミシズ・ハントがいけないお天氣を呪ふ時に、おお、綺麗、と叫びながら窓際に駈けより、降りしきる雪を眺めるのは彼女であつた。また私たちがマーキュリ座でシングの『西の海岸からのプレイボーイ』を見て來た話をすると、自分も何度も見た、しかし、あの芝居がほんとうにわかるためには愛蘭に行かなければ駄目だ、愛蘭は英國とはなにからなにまで違つた國だ、とまくしたてる彼女であつた。さうして日曜日には缺かさず覚鬚暴个ける。

    このミス・ドヴィニがなほもはつきり面目を發揮するのは、晩餐のあとにみんなで客間に集まる時である。(中略)彼女はミシズ・ライレイのやうに、女主人の横の椅子でむつちり默つてはゐなかつた。相手はきつとフィンランドの二人の愬である。

    この二人は常にロシアを敵國にして話す。ロシアはわれわれの國フィンランドをねらつてゐるし、われわれはあんな野獸と仲よくすることはできないから、早晩戰爭は免かれないだらうと云ふのである。するとミス・ドヴィニは、何故ロシアが野獸かと反問する。コンミュニストはみんな野獸だ、と二人のフィンランド人は答へる。コンミュニストでなくたつて野獸は世界に澤山ゐる。それだけでロシアをけなすのは間違ひだ。そんなにロシアの肩をもつなら、君もコンミュニストだらうと二人が揶揄すると、コンミュニストではないが、コンミュニズムが何故わるいのだ、とミス・ドヴィニはむきになつてまくしたてるのであつた。(後略)

    (中略)

    二月になると私たちはオックスフォードに行つたり、また間もなくリーヅからニュー・カッスルまで出かけたりした。冬でも僂遼匸譴つづく英國の田園は、聞いてゐた通り繪畫のやうな美しさであつたが、何しろ寒いので、歸つて來て馴れた部屋の煖爐の前に寛ろぐと、のうのうして愉しく、ミス・ドヴィニの鼻歌までなくてはならないもののやうな氣がした。ところがそれから二週間とたたないうちに、彼女の不意な失踪と云ふ奇妙な出來事が生じた。

    二十四日の、丁度四旬祭に入つた明けの日のことであつた。前の日は聖灰節で、夕方のしーんと冷たく澄み透つた空氣を震はして鳴り渡る覚鬚両發蓮日本で彼岸會の鐘を聽くに似た思ひを旅人の胸に與へ、やがては復活祭だ、と、なにかしんみり鐘の音に耳傾むけさせたのであつたが、朝になつて、いつもの通り煖爐を焚きつけに來たミス・ドヴィニは、自分は昨日から斷食をはじめたと云つた。(四旬祭の間には曠野のキリストを記念するため斷食や懺悔をする。)お晝飯《ひる》と晩をぬき、朝飯と五時のお茶だけにしたらしいのであつた。働く人がそんなことをしては體がもたなくなる、と私が云ふと、大丈夫、と例のしゃくれた顎と薄悗ご磴脳个辧△い弔發猟未蠅修海い蕕造罎Τイ世蕕韻砲靴峠个胴圓弔拭

    お晝頃、ミシズ・ハントがいつになくせかせかした風で入つて來て、ミス・ドヴィニを知らないかと云ふ。(中略)しかしミシズ・ハントをもつとも怒らしてゐるのは、彼女が前知らせ《ノーテイス》なしに飛びだした點であつた。暇を取りたければ、約束通り一週間前に云ふべきであり、それをしないで突然出てしまふのは有りえない不合理だ、とミシズ・ハントは主張する。全く前知らせなしに出るなんて、こんな話は聞いたこともないと彼女はその言葉を何度も繰り返し、だから愛蘭人《アイリツシユ》には困る、と云ひ云ひ出て行つた。ひとりになつて考へても、ミス・ドヴィニがどうして飛びだしたか見當がつかなかつた。明日は土曜日の支拂ひ日だから、出てゆくのを一日だけ延ばしさへすれば二十五志(邦貨で二十圓)の週給が貰へるのである。一般の女中ならいかにさし迫つた理由があるにしても、その大事な権利を抛棄する筈はないのに、ミス・ドヴィニが五日間ただ働きで、未練もなく飛びだしたところに却つて愛蘭人らしいおもしろさがあり、この跳躍的で理詰めにゆかない性格こそ、シングや、グレゴリや、イェーツの人物の魅力だと思ふと、彼女の人のよい、陽氣で、亂暴で、それで信心家で、氣紛れで、薄悗ご磴粒椶里靴笋れた笑顏がなかなか懐しいのであつた。

    あとでだんだんわかつたところによると、ミス・ドヴィニは一種の宗掛羔犬劼世髪召奸お寺詣りに凝り過ぎてこれまでの勤め口もしくじつたとのことだから、あの日無斷で飛びだしたのも、四旬祭の鐘の音に憑かれてふらふらと出てしまつたのだらう、と私たちは話しあつた。それにしても、その宗灰泪縫△肇灰鵐潺絅縫坤爐箸、彼女の胸の中でどんな繋がり方をしてゐるかは誰にもかわらなかつた。しかし矛盾を矛盾なりに熱情ではぐくんでゐるところが、また愛蘭人らしいやり方かも知れない。

『歐米の旅』下巻「ロンドンの宿」、岩波書店、1943.06、014〜023頁

    本日15:30からの予定で本誌1月通常号を配信しました。未着の方はご一方ください。
   
   
    アイルランドでは今年の移民による人口流出が5万人に達するという予想が出ています。これは前回最悪だった1980年代の年間最高水準をも凌ぐそうです。英 Independent 紙の記事はこちら
   
    これでまず影響を受けるのがゲーリック・スポーツの世界だそうで、ゲーリック・フットボールのスターがすでに一人、移民した由。その他、全国で毎月250人以上のプレーヤーが移民しているという報告もあります。
   
    ゲーリック・スポーツはアイルランド国内しか行われていませんから、プロといっても経済的基盤は例えばサッカーの選手などより弱いのかもしれません。
   
    おそらくはこれから音楽関係にも影響は出てくるでしょう。どういう形でかはわかりませんが、ひょっとするとわが国なども移住先のひとつになるかもしれません。(ゆ)

    えー、本日は本誌12月号の配信予定日ですが、諸般の事情により遅れます。
   
   
    アイルランドでは経済に続いて、社会的文化的方面でも大きなできごとがあって大騒ぎになっています。
   
    ヨーロッパ人権裁判所 the European Courts of Human Rights が、妊娠中絶を合法とする条件を明示し、法制化しないのはアイルランド政府の人権侵害であるとの判決を判事全員一致の判断として先週12/17に下しました。
   
    アイルランドでは妊娠中絶は理由にかかわらず犯罪です。憲法で禁止されています。一方で、妊娠中絶は女性の基本的人権であるとして合法化しようとする動きは、特に20世紀末から大きくなっています。この問題は理性ではなく、信仰にまつわる感情がからんでいて、解決を難しくしています。わが国でこれに似た問題を探すとすれば、女性天皇を認めるかどうかの問題が一番近いでしょう。まあ、この件はその前に、これからのわが国に天皇制が必要かどうかも議論されるべきでしょうが、それはまた別の話。
   
    訴訟の中心になった女性(氏名は伏せられています)は稀な種類のガンの前歴があり、意図せぬ妊娠をしたため、これが再発する恐れがあるのではと医師に相談しました。どうやら医学的には妊娠中絶することが母体にとってベストの選択らしいのですが、それは犯罪なので医師は明確な判断を示しませんでした。そこで、ECHR に訴えを起こしたわけです。
   
    裁判は他にも2件のアイルランド女性からの訴えがあり、3件がまとめて審理され、他の2件は人権侵害の事実は無いとの判決が出ましたが、こちらは全員一致ではなく、侵害しているとの少数意見が公表されました。
   
    ヨーロッパ人権裁判所はEUとは別の条約で設立されているもので、その判決は加盟各国政府を拘束します。アイルランドもこの条約は批准しているので、判決にはしたがわなくてはなりません。つまり、人権侵害状態を解消しなければなりません。ただし、どうやって解消するかはアイルランド政府に任せられています。
   
    そこでこの解消の方法をどうするかで論争になっているわけです。妊娠中絶賛成派は中絶を認める法律を早急に制定することを求め、反対派は国民投票を求めています。ちなみに妊娠中絶を認めるか否かの最新の国民投票は2002年3月に行われ、この時は50.4%対49.6%で妊娠中絶を認める憲法修正は否決されました。
   
    外野から見ると、今、国民投票をやれば妊娠中絶が認められる結果になる可能性は高いと思いますが、反対派としては妊娠中絶禁止を延長する可能性が少しでもあるのは国民投票しかない、ということなのでしょう。
   
    アイルランドのこの妊娠中絶禁止はカトリックの教義から来ています。教会は早速絶対反対の立場を公表していますが、聖職者の未成年者への性的虐待スキャンダルで教会の権威は大揺れに揺れているところで、正面切ってこの態度を批判する向きも現れています。
   
    なおここでの妊娠中絶は英語でも単に abortion とされていますが、本来は induced abortion、つまり人工妊娠中絶です。
   
    カトリックだけでなく、キリスト教は一般に妊娠中絶に反対していますが、これはどうやらそう古いものではないらしい。聖書に根拠があるとも思えませんが、聖書はどうにでも解釈できるテクストの宝庫なので、強引にこじつけて根拠にしている人たちもいるでしょう。いずれにしても後世、土着信仰か、ある時期の社会的要請によって加えられた教義と思われます。キリスト教に限らず、宗教の教義には、一見基本的にみえて、新しい社会の変化に応じて加えられたり、変化したりするものが少なくありません。
   
    とはいえ、ヨーロッパで、問答無用で妊娠中絶を禁止しているのはアイルランドだけで、カトリックの強いスペインやイタリアでも合法です。ポーランドですら、強姦によるものや母親の生命・生活が危険にさらされる場合などの条件はつくものの基本的に認められています。
   
    アイルランドでは強姦で妊娠した場合も中絶は犯罪で、1992年にはこのために有名な「X事件」が起きています。強姦で妊娠した14歳の少女が両親とともに英国に渡って中絶を受けようとしたのに対し、法務長官が渡航を禁止する命令を裁判所から得たために、大論争になりました。この時は結局、認めない場合、少女が自殺するおそれがあるとの理由で最高裁が渡航を認めました。
   
    EU加盟にあたっても、2008年にアイルランドが国民投票で一度リスボン条約を拒否した背景には中絶を認めることが条約の一部にあったためと言われます。リスボン条約でもアイルランドに妊娠中絶を認める憲法修正を強制しないと他のEU諸国からの保証をとりつけた結果、アイルランドは翌年二度めの国民投票でリスボン条約を承認しました。
   
    アイルランドの南部つまり共和国におけるカトリック教会の影響が特に19世紀後半以降絶大だったことが理由の一つではありましょうが、それだけではおそらくなく、アイルランドの文化の根幹に妊娠中絶への嫌悪がからんでいるのでしょう。
   
    その一方で、アイルランドでは婚外妊娠率も高かったそうですから、望まない妊娠をさせられた女性も多かったはず。しかも、特に独立後は、強姦はされる方が悪い、つまり女性が誘惑した結果であるとされる風潮が強かったですから、女性の人権もへったくれもあったものではありませんでした。
   
    ということで、この件は、アイルランドにとって大きな分水嶺になるかもしれず、その行方からは目を離せません。(ゆ)

    ひええ、もう5日だ。とゆーことで、今月も情報号の配信が遅れます。たぶん1日、2日で配信できるでしょう。
   
   
    このところアイルランドもふつうのニュースによく登場してますが、こういう時は悪いニュースなのはどういうわけでしょうかねえ。ニュースの無いのが良いニュース、というのはやはり真理か。
   
    EU と IMF からの借金はほとんどが乱脈経営をしていた銀行の救済に消え、これを4年で完済しようというのが現政権の方針で、もう約束しちゃったし、デフォルトなんかできないよと強硬突破の構え。しかも、来年早々の総選挙で政権交替してもこの計画は変えられないような立法措置までやるそうな。借金返済のため、公共サーヴィス、各種補助金の大幅な削減、公務員削減、増税という大緊縮予算が予定されてます。当然のことながら、国内からは猛反発が出ています。
   
    日本も少なくない額を貸しているはずですが、あれはどうなるんでしょうか。
   
    かてて加えて、猛烈な寒波で、もう何十年もなかったような降雪と風で交通は大混乱。各種イベントなどものきなみ中止に追いこまれ、クリスマス商戦もどこかに吹っ飛ぶ勢い。人びとが外出するのは反政府デモの時だけ、と言ってもいいかもしれません。
   
    「ケルティック・タイガー」が元気なうちは萎れていたノーザン・アイルランドのプロテスタントが急に威勢が良くなって、ざまあみやがれと言わんばかりなのもご愛嬌。緊縮財政に追いこまれているのが自分たちだけでないというんで嬉しいのはわかりますが、むしろおたがい苦しい時ほど協力した方がいいんじゃないかと、外野からは思います。まあ、プロテスタントとしては、共和国のカトリックと協力するくらいなら、赤貧に甘んじた方がマシと思ってる人が多いのでありましょう。この辺が、ノーザン・アイルランド問題の難しいところ。
   
    ということで、アイルランド音楽にとっても来年以降は試練の年になりそうです。「ケルティック・タイガー」を経験して、音楽を支える共同体の質も変わっていると思われますが、実際にどう変わっていて、それがどう影響するか。表面の景気の動向よりもそちらの方がおそらく大きい。外からはなかなか見えにくいところではありますが、できるだけ追いかけたいと思っています。(ゆ)

    本日は本誌10月情報号の配信予定日ですが、1日2日遅れます。2日以上は遅れないと思います。
   
   
    アイルランド政府の音楽に関する政策が、音楽業界やミュージシャンから非難された、という記事が『アイリッシュ・タイムズ』に出てました。
   
    昨日、ダブリンで開かれた「音楽ショウ」でのパネル・ディスカッションで、通信相エイモン・ライアンが、現在のアイルランド経済の苦境を、音楽をはじめとする芸術、文化セクターが救える、と発言したのに対して、ポール・ブレディが、それは違う、と批判したそうです。ポールはまた非合法ファイル共有を禁ずる政府の政策も認めなかったそうな。
   
    前半は当然として、後半、ポールの真意がよくわからないんですが、ファイル共有は合法化せい、というのかしらん。
   
    別の発言者は、アイルランドの音楽産業が苦境に陥っているときに、アイルランドのラジオがアイルランド産の音楽、必ずしも伝統音楽とはかぎらないでしょう、そのアイルランド「国産」の音楽をオン・エアしないのはどういうことか、と批判した由。やはり英国産が多いのかしらん。それともアメリカ産かな。(ゆ)

    昨日は本誌9月号の配信予定日でしたが、例によって遅れてます。今回は3日ぐらいの遅れか。
   
   
    09/15付の『アイリッシュ・タイムズ』にちょと面白い世論調査の結果が出ていました。今のアイルランド成人のセックスに対する考え方の調査です。
   
    ヨーロッパでは世論調査、市場調査の基準やルールがあるそうで、Aimro (Association of Irish Market Research Organisations) と Esomar (European Society for Opinion and Market Research) のガイドラインをきっちり守ってるよ、とのこと。世論誘導のためにメディアが勝手に世論調査するどこかとは違いますな。それとも、わが国にもこういうガイドラインはあるんだが、誰も守っていないのか。
   
    元記事はこちら

    主な質問と回答の比率。

問:自分のセックス傾向は何だと思うか。
    ヘテロ96%、ホモ、バイ、無性、答えたくないが合計4%。

問:宗教または倫理的理由により、性交渉を長期にわたって行わない人びとを尊敬するか。
    する。48% しない。35% わからない。17%

問:婚外性交渉は道徳に反すると思うか。
    思う。15% 思わない。79% わからない。6%

問:ある人がゲイまたはレズビアンであるとカミングアウトしたら、その人の評価を下げるか。
    下げる。5% 下げない。91% わからない。4%

問:ゲイのカップルは養子縁組を認められるべきだと思うか。
    思う。46% 思わない。38% わからない。16%

問:パートナーになる可能性のある相手が処女または童貞であることは重要だと思うか。
    思う。50% 思わない。36% わからない。13%

問:若者がセックスを初体験する年齢はいくつが適当だと思うか。
    18歳以下。28% 18歳。18% 19歳以上。14% 結婚後。5% わからない。12%

問:アイルランドでは結婚前から同棲するカップルが増えている。このことは結婚の安定化につながる可能性が高いと思うか、低いと思うか。
    高い。57% 低い。25% わからない。18%

問:ゲイのカップルは結婚を認められるべきだと思うか。
    思う。67% 思わない。25% わからない。8%

問:性転換をした人は出生証明書上でも新しい性を反映することを認められるべきだと思うか。
    思う。48% 思わない。39% わからない。13%

    なお、調査は Behaviour Attitudes という調査会社が行い、全国100ヶ所、地域、年齢、職業、収入の点で平均化されるよう配慮されている。数字の性格さに対する誤差はプラスマイナス3%。


    ということなんですが、わが国で同様の調査は行われていないんでしょうかね。(ゆ)

A New History of Ireland: Ireland, 1921-1984 v. 7    ペーパーバック版が届きました。このシリーズのテクストの巻の仕上げ、1921〜84年を扱います。残るは資料集の2冊、年表の VIII と地図、家系図、表などの IX。実際に使うのはこの2冊が一番多いと予想。
   
    ちなみに、ペーパーバック版 VIII と IX の刊行予定は来年5月、2冊同時です。アマゾン・ジャパンでは予約受付始まってますが、うわわ、合計1万円超だぜ。Amazon.uk で買った方が送料入れても1冊1,000円近く安いぜよ。
   
    表紙はアマゾンのサイトにあるものと全然違って、映画『静かなる男』の、メイヨー州でのロケ風景。地元の新聞社が撮ったもの。このアマゾンの表紙はトリニティ・カレッジの図書館かな。
   
    元版は2003年刊行。このペーパーバック版は本文891頁、文献リスト114頁(!)、索引52頁。巻末に別刷で写真図版24葉、収録図版92。この図版は撤退する英軍と入れ替わりに駐屯地に入るアイルランド軍という象徴的な写真から、モノクロながらこの時期を代表する視覚芸術家(建築家を含む)の作品まで収録した充実したものです。
   
    収録論文は27本。執筆者は26人。政治・経済のみならず、文学、視覚芸術、音楽、マスメディア、教育、移民、そして掉尾を飾るのは19世紀半ばから1984年までのアイルランドの女性史。
   
    1984年というのは「新アイルランド・フォーラム」の年。共和国政府が音頭をとり、ノーザン・アイルランド紛争解決策を、ユニオニスト代表もまじえて真剣に討議し、当時実現可能とされた提案をしたものです。フォークランド紛争(マルビナス戦争)の戦勝で得意の絶頂にあったサッチャー英首相がこれをまったく相手にしない態度をとっておおいに顰蹙を買いました。
   
    音楽は共和国とノーザン・アイルランドを別々の論文で扱っているのが眼を引きます。短いものとはいえ、ノーザン・アイルランドの音楽についてまとまったものは、一般読者が簡単にアクセスできるものとしては貴重でしょう。
   
    音楽にかぎらず、島が分割されている現実を反映している点が、これまでの巻には無い、この巻の特徴です。1921年以降、アイルランド島には二つの「国家」が存在していることをあらためて認識させられます。序文からしてジョナサン・バードンとダーモット・キューの共著になっています。
   
    1984年にはT・W・ムーディ T W Moody が亡くなり、2000年にはFXマーティン F X Martin が亡くなっています。前者はこのシリーズの「言い出しっぺ」で、編集委員会委員長を勤めました。後者はムーディの後を継いで委員長となっています。アイルランドの歴史学を、ナショナリズムに染められ、あるいはこれに奉仕するものから、事実を明らかにする、より科学的現代的な学問へと脱皮させたのが、この二人でした。このシリーズそのものが、そうしたアイルランド流の「修正主義」歴史学を定着させ、またその成果をより広い読者に提供するために構想・実現されています。
   
    「修正主義」史学の最初の成果は RTE と組んだ THE COURSE OF IRISH HISTORY (1967)  でした。初版は『アイルランドの風土と歴史』として邦訳もされて、今なおアイルランド史全体をカヴァーする概説書としては唯一無二の邦語文献です。 この初版を、編者であるムーディ、マーティンが時の首相ジャック・リンチに手渡している写真を図版に収録したのは、アイルランドにおける歴史学のターニング・ポイントを示すとともに、この二人への現編集委員会からのオマージュでもありましょう。
   
    歴史学の「修正主義」をめぐっては、むろん素直に移行したわけではなく、むしろ今なおそれについての論争は絶えないようです。ですが、歴史は常にその前提を疑い、修正されつづけなければならないという意味で「我々は今では皆修正主義者だ」というロイ・フォスターの言葉(D Ferriter, The Transformation of Ireland 1900-2000, Introduction, 7)は正鵠を射ています。このシリーズそのものもまた「修正」されることで、真の歴史学は発展してゆくわけです。
   
    実際、この巻が扱う時期については史料の点から見ても近年革命的とも言える変化が起きています。すでにこの巻の刊行準備段階ですら文献リストは100頁を超えていますが、今新たに作れば、おそらくこの数倍になるのではないか。
   
    ディアマド・フェリッターの The Transformation of Ireland 1900-2000 の序文など読むと、この巻に現われた研究成果そのものがもう時代遅れ、新たに出現した史料が踏まえられていない恐れがあるとも思えます。フェリッターのあの本自体が、1921年を一つの時期の開始とするこの本へのアンチ・テーゼとして書かれてもいます。実際、この第7巻の序文冒頭で、20世紀以降のアイルランドを形作ったのは第一次世界大戦と断言されると、ではその第一次世界大戦とアイルランドについてはむしろこちらで扱うべきではないか、と思えます。
   
    この序文で第一次世界大戦を「ヨーロッパの内戦」と捉え、争っていたのは帝国主義列強だけではない、各地の民族集団もまたたがいに争っていた、としているのは炯眼と思いました。列強の地位にはおよばないまでもすでに国家を持っている「民族」はその領土を拡大しようとし、アイルランドのように国家を持たない「民族」は国家を持とうとしたのです。アイルランド自由国とノーザン・アイルランドはまさに第一次世界大戦によるヨーロッパ内部の再編成の一環でありました。第二次世界大戦では今度は世界が再編成されるわけです。
   
    一方で、歴史もまたそれが書かれる時代の枠組みからは離れられない以上、1990年代と9/11、それに「リーマン以後」を体験してしまった人間が書けば、また違った歴史になるのも当然ではあります。
   
    1988年5月、『エコノミスト』誌はアイルランド特集号で、ダブリンはオコンネル・ストリートの乞食の写真の下に「先進国中最貧国」という見出しをつけた。そのわずか8年後、同じ雑誌はその見出しを「アイルランド:ヨーロッパの輝ける星」に変えた。(フェリッター、前掲書)
   
    20世紀アイルランド史はアイルランド史全体の中でも16世紀と並んで最も面白い時期とぼくなどは思っています。アイルランド自由国成立はむろん「事件」ですが、この自由国が共和国宣言を経て、二十世紀をもがきながら生きてゆく、その姿だけでもなかなかにドラマチックで、ありえたかもしれないわが国の姿を重ね合わせたりもします。何より、わが愛するアイリッシュ・ミュージックを伝え、形作っていったのはやはりこの20世紀アイルランドに他なりません。この巻は批判するにしても、やはりまず読んでおかねばならない基本図書ではあるとも思います。
   
    それにしても、このペーパーバック版、いったい誰が買うんだろう。研究者はハードカヴァーでとっくに読んでるでしょうし、アイルランド史に関心がある「一般読者」はもっと焦点を絞った本、それこそフェリッターの本とか、最新の成果を注ぎこんだものに行くでしょうし。結局、あたしのような中途半端なヤツぐらいか。(ゆ)

アイルランド・ストーリーズ    栩木伸明さんの選・訳によるウィリアム・トレヴァーの2冊めの短篇集が出ました。今回は舞台がアイルランドのもの12篇。1960年代のものから2006年O・ヘンリー賞受賞作まで。うち1篇は雑誌掲載だけで、本国でも単行本収録されていない貴重品です。
   
    カヴァーなどに使われている写真は栩木さんがご自分で写されたもの。この表紙はトーリー島で、アコーディオンを弾いているのはこの島の「王様」。
   
    届いたばかりで、これからじっくりと一日一篇ずつ読みます。栩木さんは短篇集を編むのをLPのベスト・アルバムを作るのに譬えていますが、読むときはLPとは違って、ゆっくりと読みたいものであります。(ゆ)

    遅くなりましたが、本誌メルマガ7月号を本日 21:00 からの予定で配信しました。未着の方はご一報ください。
   
   
    ノーザン・アイルランドの夏の行進季節の問題について、南の共和国の姿勢も変わってきているようです。
   
    07/12 のオーグリムの戦い記念の行進について、全アイルランドの祝日にしてはどうかという提案が、前副首相からなされています。記事はこちら
   
    つまり、セント・パトリック・ディのようなお祭として、祝ってはどうか、というわけです。
   
    北のプロテスタントに対して一方的な譲歩を求めるのではなく、たがいに相手の祝日を祝いあおうというのは、建設的な提案だと思います。
   
    現実にはまだまだそうした気運が高まるというわけにはなかなかいかないでしょうが、こういう提案がなされたということ自体が、まずは解決へ向けての第一歩ではあります。(ゆ)

    お暑うございます。気温は高いのですが、どうも空が真夏の空ではありません。入道雲がもくもく湧いてきません。なんか、こう、秋の空、という感じです。
   
    それで調子を崩した、というとうまい口実になるのですが、そうは問屋が都合よくおろしてくれませんで、本日は本誌メルマガ今月号の配信予定日ですが、諸般の事情により、遅れます。えー、今回は3日ぐらい、と思ってます。
   
   
    ノーザン・アイルランドではいわゆる「行進シーズン」ですが、やはり今年はいろいろと変化が出てきているようであります。
   
    先日07/12の、いわばプロテスタントによる示威行進の「本番」のひとつ、1691年7月12日のオーグリムの戦いにおけるプロテスタント王ウィリアム3世軍のカトリック王ジェイムズ2世軍に対する勝利を祝う行進ですが、この時に、毎年事件が起きているベルファストのアードイン Ardoyne 地区で大規模な暴動が起き、警官90名が負傷しました。
   
    これで一番怒りくるったのはどうやら、地元ではなく、ロンドンの政府だったようです。
   
    こういう暴動や衝突は毎年繰り返されているので、そのたびに警備や被害の復旧で多額の金がつぎこまれているわけです。今回もすべて合わせると数百万ポンド、と言われていますが、今後はこういう警備の費用はロンドンは出さない、と、連合王国政府高官が宣言しました
   
    このベルファスト、アードイン地区のクラムリン・ロードはカトリックとプロテスタントの居住区が接触しているところで、伝統的にプロテスタントの行進ルートになっています。
   
    だいたい、このプロテスタントの行進はカトリックに対する優越を見せつけるためのものですから、昔からわざわざこういう問題の起きやすいところをルートにしているところが多い。
   
    で、カトリックの発言権が強まってくると、当然事件が起きるわけです。地元では住民が協議会などを作って、おたがい妥協できるやり方を考え、近年はノーザン・アイルランド政府もこういう調停をバックアップするようになったわけですが、おさまらないのはプロテスタント側です。行進の主体はオレンジ団の地元支部、ロッジといいますが、このオレンジ団が伝統的権利を主張してルート変更などは受け入れず、そもそもカトリック側との協議の場にもつかない、ということも屡々です。
   
    英国政府としては、地元のトラブルは地元で解決せい、そんなローカルの特殊事情にブリテンの納税者のカネを使うことはない、と怒ってしまった、というのが今回の事情のようですが、先の政府高官は、オレンジ団行進のルート変更で問題が解決するなら、さっさとルート変更すべきだ、と言ったとも伝えられています。
   
    なにせ、今のロンドン政府は保守党政府です。伝統的にはノーザン・アイルランドでは常にプロテスタント側に立ってきました。その保守党政府の中からこういう発言が出るというのは、相当イラついているのでしょう。もちろんその背景には、予算削減という事情もあります。各地の納税者にきつい予算カットを呑んでもらう手前、ローカルな特殊事情で余計なカネはもう出せないとなるのは当然といえば当然。
   
    しかも、その争点が、生死にかかわることでもない。行進をしなければ、あるいは行進を伝統的なルートでおこなわないならば、住民の生活に重大な支障が出る、というわけでもありません。単にノーザン・アイルランドのプロテスタントの感情が満足できない、というだけのことです。
   
    むろん、この感情面での不満は、それはそれで地元住民にとっては小さな問題ではありませんが、福祉事業の削減とか、住民サービスの削減とかいうことに比べれば、緊急性が低くなるのはこれまた当然であります。ましてや、ノーザン・アイルランドの特殊事情とは縁のない、イングランドやスコットランドやウエールズの人びとから見れば、いったい、あいつらは何のために毎年暴動を起こしているのか、そして毎年同じことが同じ時期に起きるとわかっていながら、それを取り締まりもできない地元政府と警察は何をやっている、ということになるのもまたまったくその通り。
   
    というのも、こういう夏の行進の暴動や騒ぎで逮捕される人間はきわめて少数だからです。暴動を起こしても責任が問われないのであれば、当然暴動によって得る利益は大きくなり、ますます暴動が起きるようになる。
   
    地元住民はカトリックばかりでなく、プロテスタントも暴動はごめんだ、という空気になってきたようで、実際、どうやら暴動の主体はノーザン・アイルランドの他の地域からやってきた人びとらしい。
   
    今年ノーザン・アイルランド警察は特殊チームを編成し、暴動の間、暴徒の側をビデオや写真で撮影したそうです。暴動参加者の特定と逮捕に結びつけるためですが、はたして効果があるか。
   
    というわけで、警備の費用がロンドンからもらえなければ、ノーザン・アイルランド政府の予算内でまかなうしかないわけで、するとただでさえ削減されている中から、余計な出費を強いられることになります。これはプロテスタントにとっても困ることになる。
   
    今回の英国政権の与野党交替は、ノーザン・アイルランドの社会、ひいては共和国も含めたアイルランド全体に、意外に大きな変更をもたらすかもしれません。(ゆ)

    たいへんお待たせしてすみません。今月の情報号を本日16:30からの予定で配信しました。未着の方はご一方ください。
   
   
    伝統音楽からは離れますが、人気ポップ・バンドの Westlife のシンガー、シェイン・フィランは兄弟のフィンバーと共同で、故郷のスライゴーに500万ユーロ、今のレートで5億6千万円かけた養老院、今の日本なら特別養護老人ホームかな、を建設するそうです。記事はこちら

    この他にもスライゴーやリートリムに同様の施設を建設する計画だそうです。
   
    兄弟は建設会社を所有してもいて、その不況対策の面もあるそうですが、儲けたカネの使い方としてはなかなかシャレてるんじゃないでしょうか。
   
    使いきれないほどのカネを儲けた者は、いろいろな形で社会に還元することは、キリスト教の伝統から生まれてきているそうですが、ほんと、わが国の金持ちどもは、抱えこむことしか考えてない、という印象はぬぐえません。(ゆ)

    今日は本誌情報号の配信予定日ですが、諸般の事情から遅れます。んー、2日ぐらいでしょうか。
   
   
    ノーザン・アイルランドでは「行進の季節」です。今年は警察管轄権のベルファスト政府への移譲で、その条件のひとつに「行進委員会」の解散と新たな行進ルート決定機構の設立があったために、プロテスタントがカトリック地区を通過する旧ルート復活をめざしてます。もっとも「行進委員会」は実際にはまだ解散されていないので、カトリック地区への行進侵入を禁じた命令も生きてます。
   
    この「行進」は各地のオレンジ団が組織するもので、ノーザン・アイルランドのプロテスタントがカトリックへの政治的社会的経済的優位を確認する示威行為です。かつてはカトリックが集中的に住む地域のど真ん中を通るので、これを阻止しようとしたカトリック住民との衝突も頻繁で、大規模な暴動に発展することもありました。
   
    1990年代後半、ネー湖南岸のアーマー州ポータダウンドラムクリー教会への行進をめぐって大規模な騒擾が起き、これに対処するために設けられたのが事前に行進ルートを決定する「行進委員会」で、主にカトリック地区への行進の侵入を禁じる決定を出すことで衝突を防ごうとしたので、プロテスタントからは嫌われています。
   
    この騒擾では1998年に、まったく関係ない北部アントリム州バリマニィで、カトリック家庭の3人の幼ない兄弟が放火で殺されたり、ドラムクリー行進の通過を拒否しているガルヴァギー・ロード地区住民連合の顧問弁護士が1999年自動車にしかけられた爆弾で暗殺されたりしています。こうした暴力行為の結果、ドラムクリー行進に固執するプロテスタントは支持を失うことになりましたが、オレンジ団の地元支部は現在にいたるも抗議と行進申請を続けています。

    「行進委員会」の施策はこれまでのところ功を奏し、警察による厳重な警備もあって、今世紀に入ってからは暴力行為は下火となり、ドラムクリー問題はすでに過去のものになった、とする意見もあります。1995年には行進の先頭に立って勝利を叫んだ当時プロテスタントの中でも最過激派だったイアン・ペイズリー自らが、聖金曜日合意にしたがい、カトリックを代表するシン・フェインと権力分担政権を組みました。ノーザン・アイルランドの政治的空気はがらりと変わっていると思われますが、ドラムクリー問題の行方は、今後のノーザン・アイルランドの社会と政治の行方を示唆するものになるでしょう。(ゆ)

    以上、47人の書き手による50点の候補作のデータをまとめておく。

書き手の性別
    女性18人
    男性29人

書き手の年齢
    最年長 ウィリアム・トレヴァー 1928年生
    最年少 セシリア・アハーン 1981年生

生年代別の人数
    1920年代生 1
    1930年代生 4
    1940年代生 3
    1950年代生 11
    1960年代生 11
    1970年代生 7
    1980年代生 1
    生年不明 10名
   
物故者 2名

邦訳のあるもの 11点
該当作以外に邦訳のある作家 14人

発行年別点数
    2001    2
    2002    3
    2003    2
    2004    6
    2005    5
    2006    8
    2007    9
    2008    12
    2009    3

ノンフィクション 12点
長篇小説 31点
短篇集 2点
ジュヴナイル/ヤングアダルト 5点(すべて長篇)うち4点邦訳あり

    アイルランド2000年代を代表する本としては、圧倒的に小説、ということらしい。それだけ創作、出版ともに盛ん。とりわけ若い読者向けのものの隆盛は際立つ。
   
    邦訳がこの分野に多いのは、ひとつには「ハリポタ」の後遺症でもあるので、必ずしも作品の質が成人向けのものより平均して高い、というわけでもなかろう。
   
    ノンフィクションの中では、回想録・自伝類が半分の6点。歴史ものが2点。もっともこの片方は伝記の一種ではある。経済関係が、経済人の回想録も含めれば2点。政治関係が1点。哲学思想も含むものが1点。自然科学が無いのは、あるいはハナからはずしたのか。詩、韻文関係が作品そのものは無くて、シェイマス・ヒーニイのインタヴューによる自伝1冊というのも、ちょと解せない。詩や詩人の地位は高いし、日本語の詩よりも公の場で接する機会ははるかに多いが、実際に詩集を読む人はそれほど多くない、ということか。

    書き手の3分の1というのは、やはり女性が多いと言うべきだろう。これが1990年代ならば、女性の比率はもっと減ったのではないかと思う。今の勢いなら、2010年代はさらに女性の書き手が増えそうだ。最年長が男性、最年少が女性、となったのはおそらく偶然だろうが、象徴的ではある。専門的な分野でも増えると期待。
   
    ということで、これから未読の48点を実際に読んでみることにする。邦訳のあるものは後回し。
   
    まずは、サッカーのワールド・カップ南アフリカ大会中ということもあり、ポール・マグラアの自伝からかな。(ゆ)

Foolish Mortals    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その50。

    このおさらいのラストは1930年生まれのジェニファ・ジョンストン。作品としては本篇の後に、昨年、最新作 Truth or Fiction が出ている。ウィリアム・トレヴァーエドナ・オブライエンとともにこの50選の書き手の中では最長老世代。
   
    ちなみにこの順番は『アイリッシュ・タイムズ』の記事に掲載された順番。どういう基準かは不明。
   
    ジョンストンはキャリアは長いし、作品も映画化されているのだが、邦訳は一点もない。この辺が翻訳出版の「七不思議」である。
   
    ダブリン生まれだが、家庭はアイルランド国教会信徒で、その小説のモチーフはアングロ・アイリッシュのプロテスタントの20世紀における没落が多い。この辺が邦訳しても売れない、と判断される要因だろうか。
   
    最も有名な作品は1979年の The Old Jest だろう。ホイットブレッド賞受賞作で、ロバート・ナイト監督、アンソニー・ホプキンス、レベッカ・ピジョン主演で『青い夜明け』The Dawning (1988) というタイトルで映画化もされた。アイルランド独立戦争がテーマの由。
   
    母親は俳優、父親は劇作家、いとこにも女優がいるという一族。
   
    現在はノーザン・アイルランドのデリー在住だが、共和国の「人間国宝」に相当する「オスダナ」のメンバーでもある。
   
    本篇はメイン・キャラの一人、ヘンリーが交通事故から意識を回復するところから始まる。運転していたのは二人めの妻で、彼女は事故で死んでいる。周囲には最初の妻ステフと二人の子どもたち、ヘンリーの母親が現れて、それぞれのドラマを演じる。ヘンリーはダブリンで出版社を経営している。事故はどうやら仕組まれたものであるようで、真相を知っているらしい画家の母親はそれを明かそうとしない。
   
    テーマは21世紀初頭のダブリンの中流階級の家庭における家族の絆、あるいは家族の関係とはどういうものか、どう変化しているのか、世の常識をくつがえすところにある由。
   
    ここでもものごとを進め、事態を打開してゆくのは女性たちで、男どもは醜態をさらしているらしい。
   
    21世紀初頭のアイルランドは「女性」の社会、女性中心に回っている社会である、とこの50選を眺めるかぎりでは言えそうだ。現在のわが国にも似た男尊女卑社会だった20世紀とはまことに対照的ではある。一言で言えばそれは「武士は喰わねど高楊枝」の社会であり、女たちは、もう二度とあんなことはごめんだ、男には任せておけない、とほぞをかためているのだろう。(ゆ)

スカルダガリー 1    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その49。
   
    今回の Irish Book of the Decade 受賞作。アイルランド・ゼロ年代を代表する本として、これが選ばれた。
   
    こういう大きな賞に児童書が選ばれるのは、やはり珍しいことではある。もっとも、そもそも5本も児童書が入っているのは、アイルランドにおける児童書出版の盛んなこと、質の高さの証であるとともに、出版界、あるいは文芸の世界での児童書の地位の高さをも物語る。
   
    これが日本語圏であればどうだろうか。ハリポタは大人もたくさん読んだかもしれないが、やはりそれは例外で、児童書はいかに質が高くても、たとえば村上春樹や高橋源一郎、橋本治、あるいは大江健三郎、さらには井上靖、井上ひさしといった作家たちの作品とは別世界のものにされているけしきだ。例外は宮沢賢治ぐらいか。坪田譲治や鈴木三重吉、椋鳩十、そこまでいかなくとも、あさのあつこ、いやそれよりもラノベでひとくくりにされる書き手は、はじめから同列に扱われない。山手樹一郎の少年小説が池波正太郎や山本周五郎とならべられることもなさそうだ。
   
    『ハウルの動く城』の原作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、児童ものと大人ものと両方書いている人だが、児童ものの方が自由に書けるという。児童ものの唯一の制限は露骨なセックス描写だけで、他は、たとえばプロットをいくら複雑にしてもかまわない。若い読者はちゃんとついてくる。
   
    あるサイン会場で、娘に付き添いで来ていた母親から「抗議」を受けたことがある。あなたの話は複雑すぎて、わからない、もっと簡単にしてほしい。これを傍らで聞いたその娘は作家に対し、ママの言うことなんか気にしないで、あたしはちゃんとわかるから、と保証した。
   
    テーマにしてもおとな向けはいろいろタブーがあるし、おとなが読みたがらないテーマも多い。政治や哲学はその筆頭だ。児童向けではそういう制限もない。
   
    同様のことは日本語の本にもあてはまりそうだ。
   
    話をこのアイルランド・ゼロ年代の50選にしぼっても、5点の児童ものは、それぞれにおとな向けではできないことをやっているとみえる。ケイト・トンプソンのもののように、伝統音楽が作品の不可欠の要素になっている小説は、どうやら大人向けのものには無いらしい。ジョン・ボインのものも、大人向けでは思いつかない角度から、人間の愚行の極致を描いてみせる。
   
    『スカルダガリー』は『アルテミス・ファウル』とともに、エンタテインメントに徹しているらしいが、デレク・ランディはオゥエン・コルファーよりもファンタジーを存在の一部にしているようではある。
   
    願わくはこの受賞を機に、アイルランドの児童書がどんどんと邦訳されますように。(ゆ)

P.S.アイラヴユー (小学館文庫)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その48。

    チック・リットはあるいは英語の小説伝統の一部なのかもしれない。19世紀にも女性のベストセラー小説家は何人もいたらしい。ブロンテ姉妹はさしづめその筆頭で、『嵐が丘』『ジェイン・エア』はチック・リットの嚆矢と言えないこともなかろう。なおこの姉妹は生まれ育ちはアイルランドである、念のため。
   
    後に忘れられた人では、ヘンリー・ウッド夫人とか、ハンフリー・ウォード夫人など、当時は夫の名に「ミセス」を付けた名前で書き、出版していた。ウォード夫人はヘンリー・ジェイムズとも親交があったそうだ。もちろん、現在の書き手たちとは状況が異なるから、テーマやモチーフは違ってくるが、女性特有の視点やスタイルがセールス・ポイントになるのは同じであるようだ。
   
    この人はそのチック・リットの最も新しいスターで、またこのジャンル最大のヒット・メーカーの一人でもある。
   
    これはデビュー作で、ベストセラーとなり、映画化されてさらに売れた。これを含め、3作ある小説はすべて邦訳されている。(ゆ)

湖畔    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その47。
   
    今年1月に邦訳が出ている。

    回想録『小道をぬけて』とともにこの50選で2冊目のジョン・マクガハン。6冊めにして最後の小説作品。人生の最後の時期をアイルランドのある湖畔の農村で暮らす老夫婦の日常生活。「平凡」の偉大さを発見したのがジョイスならば、その平凡を散文詩にうたいあげたのがマクガハンか。

    エイモン・デ・ヴァレラが夢みたアイルランドは、国として実現することはついにないが、個人のレベルではこうしたところに具体化されているのかもしれない。デ・ヴァレラは政治家としては同時代に並ぶ者なき達人だったかもしれないが、個人的レベルでしか実現可能性のない夢を国家の夢と混同したところで失墜した、と言えようか。
   
    邦題はアメリカ版のタイトルからとったと思われる。(ゆ)

Netherland (Vintage Contemporaries)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その46。
   
    1964年コーク生。アイルランドとトルコの混血。幼少時、両親は頻繁に転居。モザンビーク、トルコ、イランに住む。12歳からオランダに腰を落ちつける。ケンブリッジで法律を学び、最初の小説を書いた後、イングランドでビジネス法関係の弁護士を勤める。夫人は『ヴォーグ』誌の編集者だが、ファラー・シュトラウス・ジローの編集者時代に、後の夫の第二長篇を却下した。現在はニューヨーク在住で、『アトランティック・マンスリー』に文芸批評を書く。英語、仏語、蘭語を話す。
   
    作家デビューは This is the Life (1991) で、本作は3作め。著書は他に Blood-Dark Track: A Family History (2001) がある。
   
    話は比較的単純。語り手はオランダ人株式仲買人がイングランド人の妻と息子と1998年にニューヨークに移住する。9/11後、かれは妻と疎遠になり、妻は息子を連れてロンドンに帰る。語り手は若い頃楽しんだクリケットにはまりこむ。ニューヨークでは当然移民のごく一部が楽しむだけだが、その中にトリニダード出身の実業家チャックがいる。カリスマ的なチャックはニューヨークにクリケット・スタディアムを造り、クリケットをアメリカのメジャー・スポーツにする夢をもっている。語り手はチャックの夢に共感するが、チャックとの関係が深まるとともに、かれが賭博や犯罪組織と関係を持つことを知る。夢やぶれて、語り手もロンドンの妻子のもとへ赴く。後日、語り手はチャックが殺害されたことを知る。
   
    というストーリーだけでは、この話の面白みはわからないようだ。刊行当時、9/11後にニューヨークとロンドンの生活について書かれた、最もおかしく、怒りに満ち、読むのがつらい、荒涼とした小説、と評された。『グレート・ギャツビー』のポストコロニアル版として、ポストコロニアル小説として群を抜いた作品という評もある。オバマ大統領の愛読書としても知られる。
   
    アイルランドにしても、オランダにしても、おそらくはアメリカを正面ではなく、斜めの角度から見る視点を提供しているのだろう。それも、意識的なものではなく、ごく自然にそうなってしまうのだ。
   
    オランダ人はニューヨークに最初に植民した人びとであり、後にイングランド人に奪われ、さらにアメリカ化されたそこに行くことは、他の人びとには無い感覚を生むこともありえる。オランダ人にとって植民地でありながら、植民地ではない。クリケットはイングランドのシンボルたるスポーツであり、イングランドがオランダから奪った植民地に、イングランドのシンボルをトリニダード人とオランダ人が造ろうというのは、イングランドへの捻れた復讐にもみえる。と同時にアメリカを内部から切り崩す契機もはらむ。チャックは犯罪組織間の抗争で殺されたとも考えられるが、「テロとの戦い」の一環として、「反アメリカ分子」として抹殺された可能性も捨てきれない。
   
    カラム・マッキャンと同世代であり、アイルランドの外で活動し、伝統的に「アイルランド的」とされてきたものに依存しない作風でも共通する。この50選に選ばれた作品もともに9/11をモチーフとする点も同じなのは、はたして偶然か。一方、世代的には一世代ずれるが、コスモポリタンな背景ではヒューゴー・ハミルトンに通じよう。これをしも「アイルランド文学」に含めることで、アイルランドの文学はその展開の場を拡大し、ひいてはアイルランド人の意識も拡大している。(ゆ)

Judging Dev: A Reassessment of the Life and Legacy of Eamon De Valera    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その45。
   
    1972年ダブリン生。現在ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンのアイルランド史教授。これまでに9冊の著書がある他、テレビにも頻繁に出演。
   
    本書は8冊めの著書で、この後に来月、最新作 Occasions of Sin: Sex and Society in Modern Ireland が控えている。
   
    この50冊の中では唯一の学術書といってよい。歴史ノンフィクションではもう一冊、Des Ekin の The Stolen Village があるが、あちらはジャーナリストによる。
   
    フェリッターの専門はアイルランド史の中でも20世紀だ。アイルランドに人間が住みついてからこんにちまでの約1万年の間で、歴史として最も面白いのは、17世紀と20世紀、とぼくは思う。どちらもこの島の社会が根柢から変化した時代だ。
   
    大変化ということなら5世紀のキリスト教、9世紀のヴァイキング、12世紀のノルマン人の、それぞれの到来も大きいわけだが、劇的なプロセスと登場人物たちの個性の豊かさ、後世への影響となると、17と20なのだ。
   
    なかでも20世紀のアイルランドは、同時代としての興味も湧くし、直接間接のつながりも太い。生々しい一方で、ひとまず幕を閉じたひとつの時代として、いわば「棺の蓋を覆った」状態で振り返ることができる。同時にまだまだ明らかになっていないことも多い。フェリッターの2004年の著書 The Transformation of Ireland 1900-2000 は、その20世紀アイルランドの政治社会経済文化の総合的通史として画期的な著作だが、その中の「イースター蜂起の決定的な歴史はまだ書かれていない」という一節は、ぼくにはちょっとしたショックだった。
   
    アイルランドは小さな国ではあるけれど、その社会や歴史、そして何よりそこに住む人びとの性格はなかなかに複雑だ。一筋縄ではいかない、というが、ほとんどの人間は2本から3本の筋で生きているようにもみえる。なかには4本やそれ以上の筋を持つ者も少なくない。かれらに比べれば、イングランド人のほうが、人の悪さでは上回っても、性格としてはむしろずっと単純だ。
   
    この本の主題であるエイモン・デ・ヴァレラ(1882-1975)は、アイルランド人のなかでも最も複雑怪奇な人物のひとりだ。ひとことで言えば、20世紀アイルランド最大の政治家、であるが、その業績の評価も毀誉褒貶が激しい。上記通史を読むかぎり、フェリッターの姿勢は結論を急がず、クールに対象に迫る。おそらくこの本も、これまでになかったような新鮮な捉え方、評価軸を提示して、単純にプロとかコンとかではない、むしろ読者自身にこの人物について、ひいては20世紀アイルランド史について、考えさせる刺激的論考を展開しているはずだ。
   
    デ・ヴァレラが世に出る初めは、他ならぬイースター蜂起に際して、叛乱軍が市内各地を占拠したそのうちの一つの指揮官としてだ。そして、首謀者と現場指揮官のうちで処刑を免れた唯一の人物でもある。英国が処刑をためらったのは、デ・ヴァレラがニューヨーク生まれで、アメリカ市民権を持っていたからといわれる。
   
    母親はリマリックからの移民だが、父親はキューバからの移民だった。生まれた時の名はジョージ・デ・ヴァレロといった。後に母親はかれの名をエドワードとすることを申請し、認められた。エイモンはアイルランド語名だが、これに相当する英語名は本来はエドマンドが正しい。なお、de Valera と de を小文字にするのはスペイン語の表記法だ。以上、ウィキペディア英語版による。
   
    イースター蜂起のいわば唯一の生き残りとして、独立戦争の中でトップへとのし上がり、休戦協定を英国と結ぶ代表となるものの、独立を決めた英愛条約締結交渉への参加は拒否する。アーサー・グリフィスとマイケル・コリンズを中心とする交渉団が、南部26州の英連邦内の自治国として独立する条約を持って帰るとこれの批准に反対し、内戦を引き起こす。
   
    内戦で破れると武力闘争路線を捨ててフィアンナ・フォールを創設し、こんにちまで続くアイルランド政治のひな型を作る。そして共和主義本流としての地位を確立して長期政権を担い、20世紀前半のアイルランドの姿を築く。
   
    第二次世界大戦を利用して、英連邦からの離脱、アイルランド農民が英国政府に負っていた負債の「くりあげ償還」を実現し、ゲールの神話とカトリック信仰を基本イデオロギーとした共和国憲法を制定する。この1937年憲法は、いくつか重要な修正もされているものの、基本的には現行憲法である。そこから生みだされた共和国の枠組みはその後長くこの国のあり方と人びとの国に抱くイメージを規定しつづける。
   
    一方、かれが掲げた理想国家はついに実現されることはなく、文化の発展や社会の改善に向けた政策はことごとく意に反した結果しか生まない。アイルランド共和国がその住民の大多数にとって住みやすい国へと脱皮するには、デ・ヴァレラの政策を経済面で百八十度転回したショーン・レマスの登場を待たねばならない。レマスはデ・ヴァレラの子飼いであり、その経済政策の設計者であり、政権移譲の際も他に対抗馬がいなかったほどだった。結局デ・ヴァレラは一番弟子におのれの業績を全否定されることになる。
   
    もしアイルランド共和国に「父」がいるとすれば、それはエイモン・デ・ヴァレラだった。あるいはこのことはまだ過去形になっていないのかもしれない。
   
    著者はこの本で、デ・ヴァレラのいわば「厳父」としての世俗的なイメージが、レマス時代に作られたもので、当人の実体とは離れていると主張しているらしい。とすれば、そのイメージは誰が何のために作ったのか、が当然問題となる。
   
    この「アイルランド・ゼロ年代の1冊」受賞作はネットでの投票で決められたわけだが、投票締切1週間ほど前に公表されたその途中経過では、トップ10の中に本書が入っていた。他は人気や評価の高い小説家の作品ばかりの中に、学術書である本書が入っていたのは印象的だった。エイモン・デ・ヴァレラという人には、重要な政治家というにとどまらない歴史的人物として幅広い層からの関心を集める魅力があるのだろう。わが国の近代史では、多少とも似た人は見当たらない。(ゆ)

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