
1956年、ノーザン・アイルランドはベルファスト郊外にカトリックの家族に生まれる。かれが生まれた地域はカトリックとプロテスタントが混在して住んでいることを誇りにしていた。
1974年、オフィシャルIRAによる銀行強盗に関連して、ロイヤル・アルスター警察(RUC)の警官殺害の容疑で起訴される。1975年、控訴審で逆転無罪を獲得、メイズ監獄から釈放。
1978年、ロンドンに移住するが、ここでも爆弾事件の容疑をかけられて、16ヶ月拘留される。ベネットは自ら自分と仲間の弁護に立ち、1979年、無罪をかちとる。
後に、ギルドフォード・フォーの一人の回想録執筆に、名前を出さずに協力するのは、こうした経歴からするとよくわかる。
ギルドフォード・フォーは、1974年、ロンドンの南にあたるギルドフォードの町のパブが爆破された事件などで逮捕、起訴され、有罪宣告を受けて服役した4人のアイルランド人をさす。事件はIRAによるものだったが、この4人はまったく無関係で、事件は英国警察(スコットランドヤード)の完全なでっちあげだった。4人は15年間、刑務所で過ごした後釈放される。同じく無実の罪で刑務所に入れられたマガイア・セヴン、バーミンガム・シックスとともに、ノーザン・アイルランド紛争の生んだ英国警察行政の一大汚点として歴史に残ることになった。
ちなみにオフィシャルIRAはプロヴィジョナルIRAと区別する際の呼称で、1969年、IRAはこの二つに分裂する。分裂の理由は単純ではないが、かいつまんで言えば、当時のIRA指導部が社会主義的傾向を強め、アイルランド全島の統一にはまず社会主義革命が必要と主張しはじめたことに、伝統的なカトリック・イデオロギーの共和主義者が反発したことによる。
オフィシャルは1972年以降、英国、プロテスタントよりもプロヴィジョナルやプロヴィジョナルよりさらに過激なINLA(アイルランド国民解放軍)などとの抗争に明け暮れるようになる。後には資金調達のために始めた麻薬取引などの組織犯罪が主な活動になったと言われる。
ベネットはロンドンで無罪判決を得た後、キングズ・カレッジ・ロンドンで歴史を学び、1987年に博士号を得た。小説家としてのデビューは1991年、The Second Prison で、同年のアイリッシュ・タイムズ/エア・リンガス賞の最終候補になった。
注目を集めたのは、3冊目の長篇 The Catastrophist『恋々』(2001-08)。独立前後のコンゴを舞台に、ある作家の報われぬ恋を描いたもの。
その後がこの『大惨事、その三年め』で、ヒューズ&ヒューズ/サンデー・インディペンデント・アイルランド小説賞を受賞。
2006年に英国の日曜紙『オブザーヴァー』に Zugzwang を連載。
また、映画、TVの脚本も多数手がけている。
本篇は、17世紀前半、ピューリタン革命前夜のイングランド北部のある町を舞台に、一人の男性が、世間とのしがらみ、圧力、利害に抗し、地位、財産、名声を失いながら、真実と、愛する者たちへの愛と、人間としての感情に忠誠を貫く姿を描く。
17世紀前半のイングランドは疾風怒濤の世界だ。社会全体の変化はその社会を構成する人びと自身が作りだしているにもかかわらず、変化を生みだした人びとの生活を容赦なく粉砕し、変えてゆく。何が「正しく」、何が「立派」であるか、評価の軸は千々に乱れ、意見のわずかの違いをもとに、離合集散して、たがいに対立抗争し、お先真暗な未来を前に、人びとは頼れる指針を求めて右往左往する。
要するに、今の、この21世紀前半の、世界の状況によく似ている。
王党派と議会派の対立からいわば鬼っ子として生まれたクロムウェルの独裁も一時的で、事態は収拾にはほど遠く、混乱は17世紀いっぱい続いて、莫大な犠牲と甚大な損害のすえに、ブリテンとアイルランドの情景は一変する。
いま、われわれがその只中にあって右往左往している変化は、17世紀イングランドの人びとが直面したものよりも、深度ははるかに深く、規模も全世界的であるだろうが、変化にさらされて人間としての価値を問われ、裁かれている現場の苦しみは同じだ。つぶされる蟻にとっては、頭上の足が人間の子どものものか、マンモスのものか、どちらでも違いはない。
本篇の主人公は町の王室私有財産管理官であり、重役だ。しかし妻と妻が後見人となっている少女の二人を、ともに心から愛する羽目に陥る。さらに、自分の赤ん坊を殺した容疑をかけられた無実のアイルランド女の弁護にまわって、町の主流から孤立する。熱心ではないがカトリックであることで、司祭をかくまうのをためらわない。戦乱を逃れて放浪する人びとに一宿一飯を提供し、なかの一人を自分の農園で雇うことさえする。
歴史上のヒーローにはちがいない。しかしこのヒーローは、われわれの眼に映って初めてヒーローとなるので、本人が「生きた」時空にあっては、「鼻つまみ者」として世間から排除されてゆく。今、われわれの生きるこの世界の片隅で、人としての本文を尽くそうとしている者も、やはり同じように、世間から排除されているにちがいない。いつの時代にも、地球上どこでも、同じことがこれまで起きてきたし、今も起きているし、これからも起きるだろう。
であれば、この物語は、「原型の物語」のひとつだ。何度でも、形を変え、媒体を変え、くりかえし、語られるべき物語なのだ。われわれの存在そのものが矛盾であることを忘れないために。(ゆ)