クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:社会

Havoc, in Its Third Year: A Novel    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その44。


    1956年、ノーザン・アイルランドはベルファスト郊外にカトリックの家族に生まれる。かれが生まれた地域はカトリックとプロテスタントが混在して住んでいることを誇りにしていた。
   
    1974年、オフィシャルIRAによる銀行強盗に関連して、ロイヤル・アルスター警察(RUC)の警官殺害の容疑で起訴される。1975年、控訴審で逆転無罪を獲得、メイズ監獄から釈放。
   
    1978年、ロンドンに移住するが、ここでも爆弾事件の容疑をかけられて、16ヶ月拘留される。ベネットは自ら自分と仲間の弁護に立ち、1979年、無罪をかちとる。
   
    後に、ギルドフォード・フォーの一人の回想録執筆に、名前を出さずに協力するのは、こうした経歴からするとよくわかる。
   
    ギルドフォード・フォーは、1974年、ロンドンの南にあたるギルドフォードの町のパブが爆破された事件などで逮捕、起訴され、有罪宣告を受けて服役した4人のアイルランド人をさす。事件はIRAによるものだったが、この4人はまったく無関係で、事件は英国警察(スコットランドヤード)の完全なでっちあげだった。4人は15年間、刑務所で過ごした後釈放される。同じく無実の罪で刑務所に入れられたマガイア・セヴン、バーミンガム・シックスとともに、ノーザン・アイルランド紛争の生んだ英国警察行政の一大汚点として歴史に残ることになった。
   
    ちなみにオフィシャルIRAはプロヴィジョナルIRAと区別する際の呼称で、1969年、IRAはこの二つに分裂する。分裂の理由は単純ではないが、かいつまんで言えば、当時のIRA指導部が社会主義的傾向を強め、アイルランド全島の統一にはまず社会主義革命が必要と主張しはじめたことに、伝統的なカトリック・イデオロギーの共和主義者が反発したことによる。
   
    オフィシャルは1972年以降、英国、プロテスタントよりもプロヴィジョナルやプロヴィジョナルよりさらに過激なINLA(アイルランド国民解放軍)などとの抗争に明け暮れるようになる。後には資金調達のために始めた麻薬取引などの組織犯罪が主な活動になったと言われる。
   
    ベネットはロンドンで無罪判決を得た後、キングズ・カレッジ・ロンドンで歴史を学び、1987年に博士号を得た。小説家としてのデビューは1991年、The Second Prison で、同年のアイリッシュ・タイムズ/エア・リンガス賞の最終候補になった。
   
    注目を集めたのは、3冊目の長篇 The Catastrophist『恋々』(2001-08)。独立前後のコンゴを舞台に、ある作家の報われぬ恋を描いたもの。
   
    その後がこの『大惨事、その三年め』で、ヒューズ&ヒューズ/サンデー・インディペンデント・アイルランド小説賞を受賞。
   
    2006年に英国の日曜紙『オブザーヴァー』に Zugzwang を連載

    また、映画、TVの脚本も多数手がけている。
   
    本篇は、17世紀前半、ピューリタン革命前夜のイングランド北部のある町を舞台に、一人の男性が、世間とのしがらみ、圧力、利害に抗し、地位、財産、名声を失いながら、真実と、愛する者たちへの愛と、人間としての感情に忠誠を貫く姿を描く。
   
    17世紀前半のイングランドは疾風怒濤の世界だ。社会全体の変化はその社会を構成する人びと自身が作りだしているにもかかわらず、変化を生みだした人びとの生活を容赦なく粉砕し、変えてゆく。何が「正しく」、何が「立派」であるか、評価の軸は千々に乱れ、意見のわずかの違いをもとに、離合集散して、たがいに対立抗争し、お先真暗な未来を前に、人びとは頼れる指針を求めて右往左往する。
   
    要するに、今の、この21世紀前半の、世界の状況によく似ている。
   
    王党派と議会派の対立からいわば鬼っ子として生まれたクロムウェルの独裁も一時的で、事態は収拾にはほど遠く、混乱は17世紀いっぱい続いて、莫大な犠牲と甚大な損害のすえに、ブリテンとアイルランドの情景は一変する。
   
    いま、われわれがその只中にあって右往左往している変化は、17世紀イングランドの人びとが直面したものよりも、深度ははるかに深く、規模も全世界的であるだろうが、変化にさらされて人間としての価値を問われ、裁かれている現場の苦しみは同じだ。つぶされる蟻にとっては、頭上の足が人間の子どものものか、マンモスのものか、どちらでも違いはない。
   
    本篇の主人公は町の王室私有財産管理官であり、重役だ。しかし妻と妻が後見人となっている少女の二人を、ともに心から愛する羽目に陥る。さらに、自分の赤ん坊を殺した容疑をかけられた無実のアイルランド女の弁護にまわって、町の主流から孤立する。熱心ではないがカトリックであることで、司祭をかくまうのをためらわない。戦乱を逃れて放浪する人びとに一宿一飯を提供し、なかの一人を自分の農園で雇うことさえする。
   
    歴史上のヒーローにはちがいない。しかしこのヒーローは、われわれの眼に映って初めてヒーローとなるので、本人が「生きた」時空にあっては、「鼻つまみ者」として世間から排除されてゆく。今、われわれの生きるこの世界の片隅で、人としての本文を尽くそうとしている者も、やはり同じように、世間から排除されているにちがいない。いつの時代にも、地球上どこでも、同じことがこれまで起きてきたし、今も起きているし、これからも起きるだろう。
   
    であれば、この物語は、「原型の物語」のひとつだ。何度でも、形を変え、媒体を変え、くりかえし、語られるべき物語なのだ。われわれの存在そのものが矛盾であることを忘れないために。(ゆ)

ロイ・キーン 魂のフットボールライフ    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その43。

    50選に入った二人のスポーツ選手がともに、ハーリングやゲーリック・フットボールではく、サッカー、いわゆるアソシエイティッド・フットボールのスターというのは21世紀の特徴だろうか。「ケルティック・タイガー」を経て、アイルランドのスポーツ精神もまたアイルランドの枠を出て「国際化」したのだろうか。
   
    アイルランドで人気のある、というより新聞などのメディアに頻繁に登場するスポーツとしてはサッカー、ラグビー、クリケット、ゴルフ、ハーリング、ゲーリック・フットボール、テニス、自転車、競馬というところ。皆、屋外の競技だ。
   
    ハーリングなどのいわゆるゲーリック・スポーツは20世紀アイルランド人の故郷への帰属意識養成に大いに貢献した。アイルランドの人びとの意識を直接にはブリテンから引き離し、共和国内にまとめると同時に、各州対抗のシステムを通じて州への帰属意識を高めてきた。映画『麦の穂をゆらす風』が、主人公たちがハーリングを楽しむシーンから始まるのは、反英国の意志と国内対立の双方を象徴していた。1920年11月21日日曜日の午後、英軍補助隊とRIC(ロイヤル・アイルランド警察)が、その日の朝、マイケル・コリンズが指揮した英軍士官11名の殺害に対する報復の対象として、ダブリン対ティパラリのゲーリック・フットボールの試合を観戦中の群衆を選んだのは、偶然ではなかった。
   
    サッカー、ラグビー、クリケットなどはどちらかというと国際マッチを通じて、対外的な帰属意識を強める作用がある。もっともサッカーの場合はその意識の外縁はヨーロッパの内部だし、ラグビー、クリケットは旧英連邦の内部に限られるわけではある。アジアやアフリカは入ってこない。
   
    もちろん、ポール・マグラアとロイ・キーンの二人の書いたもの自体がたまたま優れていたのかもしれない。サッカーという競技自体の要素は作用していないのかもしれない。それでも、これが例えば四半世紀前に同様の試みが行われたとしたら、ゲーリック・スポーツ関連が1冊も入らない、ということはなかったのではないかという気がする。
   
    一方で、アイルランドのスポーツ選手として、おそらく現在最も広く全世界にその名が知られているのもこの人だろう。わが国でもこうして邦訳が出るくらいだ。
   
    スポーツの国別対抗戦は、実弾を使った戦争の代替手段であるだけでなく、たがいの対抗意識や無知から生まれる悪感情を緩和する機能ももっている。サッカーにはお国柄が出るという。ならば、サッカーを通じてある国を知ることは、言語、視覚、聴覚による芸術を通じて知ることよりも、その国の本質に迫れる可能性を秘める。
   
    そしてまた外国を知ることは、自国を知ることでもある。自国を知らない者は、当人は「愛国者」のつもりでも、おのれの国に殺されることになる。(ゆ)

ロイ・キーン 魂のフットボールライフ    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その43。

    50選に入った二人のスポーツ選手がともに、ハーリングやゲーリック・フットボールではく、サッカー、いわゆるアソシエイティッド・フットボールのスターというのは21世紀の特徴だろうか。「ケルティック・タイガー」を経て、アイルランドのスポーツ精神もまたアイルランドの枠を出て「国際化」したのだろうか。
   
    アイルランドで人気のある、というより新聞などのメディアに頻繁に登場するスポーツとしてはサッカー、ラグビー、クリケット、ゴルフ、ハーリング、ゲーリック・フットボール、テニス、自転車、競馬というところ。皆、屋外の競技だ。
   
    ハーリングなどのいわゆるゲーリック・スポーツは20世紀アイルランド人の故郷への帰属意識養成に大いに貢献した。アイルランドの人びとの意識を直接にはブリテンから引き離し、共和国内にまとめると同時に、各州対抗のシステムを通じて州への帰属意識を高めてきた。映画『麦の穂をゆらす風』が、主人公たちがハーリングを楽しむシーンから始まるのは、反英国の意志と国内対立の双方を象徴していた。1920年11月21日日曜日の午後、英軍補助隊とRIC(ロイヤル・アイルランド警察)が、その日の朝、マイケル・コリンズが指揮した英軍士官11名の殺害に対する報復の対象として、ダブリン対ティパラリのゲーリック・フットボールの試合を観戦中の群衆を選んだのは、偶然ではなかった。
   
    サッカー、ラグビー、クリケットなどはどちらかというと国際マッチを通じて、対外的な帰属意識を強める作用がある。もっともサッカーの場合はその意識の外縁はヨーロッパの内部だし、ラグビー、クリケットは旧英連邦の内部に限られるわけではある。アジアやアフリカは入ってこない。
   
    もちろん、ポール・マグラアとロイ・キーンの二人の書いたもの自体がたまたま優れていたのかもしれない。サッカーという競技自体の要素は作用していないのかもしれない。それでも、これが例えば四半世紀前に同様の試みが行われたとしたら、ゲーリック・スポーツ関連が1冊も入らない、ということはなかったのではないかという気がする。
   
    一方で、アイルランドのスポーツ選手として、おそらく現在最も広く全世界にその名が知られているのもこの人だろう。わが国でもこうして邦訳が出るくらいだ。
   
    スポーツの国別対抗戦は、実弾を使った戦争の代替手段であるだけでなく、たがいの対抗意識や無知から生まれる悪感情を緩和する機能ももっている。サッカーにはお国柄が出るという。ならば、サッカーを通じてある国を知ることは、言語、視覚、聴覚による芸術を通じて知ることよりも、その国の本質に迫れる可能性を秘める。
   
    そしてまた外国を知ることは、自国を知ることでもある。自国を知らない者は、当人は「愛国者」のつもりでも、おのれの国に殺されることになる。(ゆ)

In the Forest    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その42。

    ウィリアム・トレヴァー、ジェニファ・ジョンストンとともに現役最長老世代の19作めの長篇。小説作品としてはこの後、2006年に The Light of Evening がある。
   
    いわゆるチック・リット、この50選の中でも最大勢力ともいえる女性の視点からの小説の元祖はこの人かもしれない。日本語への紹介でも、『恋する娘たち』三部作を筆頭とするそのタイプのものが1970年代後半から80年代前半にかけて集中的に9点が邦訳されている。その他にもエッセイ、昔話など3点の邦訳があるので、50選の中では最も邦訳書の多い人と言える。最新の邦訳はペンギン評伝双書の1冊『ジェイムズ・ジョイス』(2002-09)。
   
    一方でこの人は人間の奥にある闇を直視できる人でもあるようだ。これはそうした作品のひとつで、アイルランド西部の農村部で起きた実際の殺人事件を題材にしている。カポーティの『冷血』に似た手法らしい。
   
    1994年4月29日から5月7日にかけて、クレア州で当時20歳のブレンダン・オドンネルが5人の人間を誘拐し、そのうち3人を殺した。被害者は画家イメルダ・ライニィ、その3歳の息子リアム、それにジョー・ウォルシュ。オドンネルは逮捕、起訴されて終身刑が確定し服役したが、1997年、薬の副作用で獄中で死亡。
   
    主人公はその殺人犯をモデルとした若い男ミシェン・オケイン。父親は母親に暴力をふるい、母親は主人公が10歳のときに死ぬ。それ以後、精神的にハンディキャップがあるとされて各地の施設を転々とするうちに、かれは独自の世界を育てる。とはいえ、それでかれが人殺しになったことを説明はできない。
   
    著者は複数の視点から物語るため、「すべて」が明らかになることはない。書かないことで書きえないことを浮かびあがらせる手法か。
   
    ここで扱われるテーマは政治、性に関する政治、聖職者による性的虐待、児童虐待などなど。これをゴシック小説の手法で語るのがミソか。
   
    タナ・フレンチの『悪意の森In the Woods もそうだが、これもまた森がひとつのメタファになっているようだ。アイルランドには森のイメージは薄いのだが、現れるときは暗さが強調されるところがある。(ゆ)

There are Little Kingdoms: Stories by Kevin Barry    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その41。

    このおさらいもあと10タイトル。
   
    この人も生年や出身地を明らかにしていないが、写真やインタヴューからして、おそらく30代半ばというところ。

    コークでジャーナリストをしていたが、一念発起してキャンピング用トレイラーを買い、とある田舎に駐めて半年そこで暮らしながら、創作に没頭。そこで生まれた短篇が文芸誌に売れはじめる。これは最初の著書でいずれもアイルランドの田舎の小さな町を舞台にした短篇集。2冊目は来年、初の長篇が予定されている。
   
    クレア・キーガンの『青い野を歩く』に続くこの50選で2冊目の短篇集で、デビュー作としてもタナ・フレンチ、ジュリア・ケリィ、それに最終的にこの「アイルランド・ゼロ年代の1冊」に選ばれたデレク・ランディの『スカルダガリー』ともに4人いる。
   
    もっともロイ・キーン、ポール・マグラア、ビル・カレンの「素人」トリオのものも「デビュー」作ではある。
   
    お手本としたのはアメリカの短篇作家ジョン・チーヴァーだそうで、実際かれの短篇はチーヴァーが主な作品発表の場とした『ニューヨーカー』にも掲載されている。
   
    地方の小さな町の、一見平凡な人びとの暮らしの、一枚皮をはぐと現れる「異常さ」を、すぐれたユーモアをもって語ったものらしい。伝統的な共同体が独自の性格を失い、のっぺらぼうの現代社会に呑みこまれていく過程を捉えている、と評されている。過去を神話化するのでもなく、ノスタルジーに陥るのでもなく、クールに坦々と書いているようだ。
   
    こういう話はリアリズムに徹した末にシュールリアリズムやホラーになることも少なくないので楽しみ。(ゆ)

The Master    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その40。
   
    この50選中 Brooklyn とともに2冊めのトービーン。Brooklyn の前作にあたる。

    アイルランドにとって歴史は「文化資産」のひとつだ。少し古い国ではどこでもそうと言えるが、アイルランドではほとんど「天然資源」の趣すらある。ということは、霊感の源泉ともなれば、逃れようとて逃れられない重荷ともなる。作家という職業はその歴史に対して敏感にならざるをえない。あるいは、アイルランドにあっては、歴史に敏感でなければ作家にはなれない。したがって、様々な方法でこれと折り合いをつけるよう努力する。その苦闘の跡を、あるいは手練手管の妙を眺めるのも読者としての楽しみのひとつであったりもする。

    カラム・トービーンは歴史に対して真正面から誠実に相対している作家の一人だ。その誠実さ、歴史を真向から受け止めるその角度の精度において、おそらく現在右に出る者はいないかもしれない。

    例えば気鋭の史家ディアマド・フェリッターと組んだ The Irish Famine: A Documentary (2001)。元は別々に刊行されたものを1冊にまとめたものの由で、第一部がトービーンのエッセイ、第二部がフェリッターが選んだ当時の各種文献からの抜粋を集めたもの。これに引用文献リスト、さらに勉強したい人のための推薦文献リスト、索引が付く。
   
    ここでのトービーンの主張ないし提案のひとつは、歴史に想像力を働かせることだ。実証主義は土台だが、土台だけでは生きた歴史にならない。〈大飢饉〉が実際にどのようなものであったのか、当時の人びとがどのような状況に置かれ、何を感じ、何を考え、どうふるまったか、を明らかにしようとする時、「史実」が記録された史料、たとえば救貧法関連の記録、私信、閣議記録、当時の報道をいくら読みこんでも、こぼれ落ちる部分がある。そして、史実をすくいあげようとする歴史家の指をすり抜けてゆくものにこそ、歴史の真実が含まれている。
   
    トービーンが小説で表現しようとするのは、この歴史の断片、通常史実とは呼ばれないような、 歴史の諸相に生命を吹きこみ、たとえ事実ではなくとも真実ではあるものなのだろう。
   
    とはいうものの、トービーンの書く小説を歴史小説と呼ぶのもためらわれる。かれは何か、体系的な「史観」を提供しているわけではない。もっとずっと広い視野で歴史を掴みながら、デターユを掘り起こす。おそらくトービーンの小説に最も近いものは島崎藤村の『夜明け前』ではないか。

    この The Master の主人公はアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズだ。その晩年、ロンドンでの演劇上演の失敗から南イングランドのライに隠遁し、そこで生涯の傑作となる小説を次々に生みだした時期の作家の内面を描く。人生の危機にあって、作家としての理想を追求して世間との接触をほとんど断ち、作家としての存在もほとんど黒子と化してゆく。
   
    と書いてみると、ピンチョンやサリンジャーを連想するが、あるいはかれらは先輩ジェイムズの顰みにならったのか。
   
    創作という行為と作家が住む日常の、現実の世界との関係が主なモチーフの一つとなろうか。ここではジェイムズが「異邦人」であることが鍵かもしれない。同じ英国のアメリカ人T・S・エリオットとは違ったベクトルをジェイムズはめざしていたようだ。エリオットは心身ともに英国人となるべく、世間と積極的に交わり、大御所としての存在をめざす。ジェイムズはあくまでもアメリカ人のまま、世間との接触を断ち、孤高のクリエイターへと沈潜する。
   
    というようなことが書いてあるのかどうか。20世紀世界文学の中でのジェイムズの位置の確認も兼ねるか。篠田一士は『二十世紀の十大小説』でフォークナーとドス・パソスをとりあげて、ジェイムズは落とした。ジェイムズは20世紀ではなく、19世紀の完成ということか。プルーストやジョイスと並べるのではなく、フロベールやバルザック、ディケンズ、あるいはトルストイ、ドストエフスキーと並べるべきなのだろう。一方でジェイムズには20世紀の先取りもあるように思えてしかたがない。少なくとももはや19世紀ではやっていけないことを感じとり、「次」を模索していた、というと意識的にやっているようだが、むしろクリエイターとしての本能で従来のやり方ではできないものを掴もうとしていたように思える。同様のことはコンラッドにも感じる。
   
    ヨーロッパは19世紀から無理矢理引き剥がされた。本音を言えばまだまだ19世紀でいたかっただろうに。なんと言っても19世紀はヨーロッパの世紀なのだから。もっとも引き剥がした張本人もヨーロッパ自身ではある。つまりは19世紀から20世紀への移行はあのような極限まで暴力的なものにならざるをえなかったのだろう。
   
    その引き剥がしのプロセスを創作過程として体験したのが、ジェイムズであり、コンラッドではなかったか。フォークナー、ドス・パソス、ジョイスといった書き手はすでに転換を終えた世界に棲息している。極限の暴力で「白紙」になった世界に、新たな文字を刻もうとしている。ジェイムズとコンラッドは、19世紀小説にケリをつけ、20世紀文学への地均し、というよりマッピングをする作業を引き受けた。そうと自覚していたかどうかは別として。
   
    アイルランドにとって19世紀から20世紀への移行は、大掴みすれば、従属から独立への移行だった。独立というより、そんなに不満ならば、あとは勝手にやってろ、もう面倒はみないとほうり出された。ほうり出されて、必死になってもがいた苦闘の軌跡がアイルランドの20世紀だ。20世紀も末になって、その苦闘は思いもかけぬ形で報いられるわけだが、ここからふりかえった時、19世紀はどう見えるか。あるいは19世紀から20世紀への移行はどう見えるか。おそらくは今ようやく、アイルランドは19世紀と20世紀を冷静にふりかえることができるようになったのだろう。
   
    〈大飢饉〉についての上記の本もそうがだ、トービーンはそのふりかえりの作業を自分なりにやっているとみえる。この作品もヘンリー・ジェイムズの苦闘を通じて、アイルランドの苦闘を描きだそうとしているのか。(ゆ)

A Secret History of the IRA    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その39。

    2007年にアイルランドと英国向けに第二版が出ている。
   
    著者は長年にわたって「北」の「トラブルズ」を取材していたジャーナリストで、カトリック、プロテスタント、英国政府のいずれにも深く関わり、そのニュース・ソースのネットワークでは抜群のものがあったらしい。
   
    刊行当時、大いに物議を醸し、IRAの奥深くからの情報にもとづいて大いなる陰謀を暴いた偉大な本と持ち上げる向きもあれば、一方に、ごく一部の見解に無批判に基いた、偏向して独善的な叙述と非難する者もいる。
   
    まだ現物を読んでいないから大きなことは言えないが、各種書評を読むかぎりでは、いろいろ他にはない新たな事実、新たな展開を盛り込みながらも、それらの事実、展開を有機的に関連づける全体像に欠けるため、説得力を失っている、というところか。事実や経緯を冷静に述べて、現実感のある歴史を描きだすというよりも、身についてしまった「新聞見出し」を追うセンセーショナリズムに引きずられた結果、記述が空回りしてしまった、と想像する。
   
    基本的にはIRAをその創設から20世紀末、聖金曜日合意までの足跡を追ったものらしい。しかし、大部分は90年代末からのいわゆる和平プロセスにおけるIRA指導部、ありていに言えばシン・フェイン党首ジェリー・アダムズの動きを追っている。その主張は、アダムズがIRAとシン・フェイン党の大部分を裏切り、共和主義運動の大義を犠牲にして和平プロセスを推進した、そしてアダムズの裏切りはかれが党首になってからの20年間ずっと続いていた、というものらしい。
   
    いかにアダムズが有能な政治指導者で、権謀術数にも長け、現場の信頼が篤いとしても、ただ一人で共和主義運動を、それに参加している大部分の人びとの意向とは反対の方向へ動かせるとは、素人目にも、外野からの観察としても、とても信じられない。
   
    この本の背景には聖金曜日合意によってシン・フェインとIRAは、もっとありていに言えばカトリックは、反英闘争の目標を達成できないまま妥協した、という感覚がある。この挫折感を抱えた人びとは、そのはけ口として、アダムスを標的にする傾向があるように思える。
   
    傍から見れば、権力共有政府の大きな部分を担い、カトリックを守る、あるいはカトリック差別を否定ないし柔らげることは、武装闘争時代よりも遥かに容易になっただろうと見える。
   
    むろん、そう簡単にプロテスタント側が既得権益を手放すはずもないが、しかし少しずつでも変化が出ていることは、プロテスタント側にも不満が高まっていることからもわかる。何しろノーザン・アイルランドは、宗派抗争の名を借りた経済的な階級闘争に血道をあげている間に、地域経済全体が衰退しきってしまった。それだけでなく、「ケルティック・タイガー」と化した「南」にあっさり追いぬかれ、はるか後塵を拝する羽目になってしまった。カトリックに任せるとああなるぞ、とバカにしていた共和国に、である。
   
    北のカトリックにしても、いくら南が繁栄したところで、その余録が直接北に回ってくるわけではない。あくまでもノーザン・アイルランドの地域の中でやっていかねばならないわけだ。
   
    聖金曜日合意は、ミモフタもない言い方をすれば、ノーザン・アイルランドのプロテスタントもカトリックももう後がない、このまま対立抗争を続ければ、共倒れになって、かつての共和国以上のどん底に落ちこんで二度と這いあがれなくなる、という恐怖の産物である。
   
    当然、カネがすべてではないと思っている人間は多い。IRAの反英闘争はカネのためではない、少なくともカネのためだけではない、と思っている人間はたくさんいる。そういう人たちにとっては聖金曜日合意は反英反プロテスタント闘争の大義への裏切りに映る。闘争で犠牲になった人びとはいったい何のために死んでいったのか、というわけだ。
   
    アイルランドの20世紀における反英闘争、あるいは共和主義 Republicanism と呼ばれる運動は、そうした二面性をおそらく常に抱えていたのだ。いや、ノーザン・アイルランドだけではない、抑圧に対する闘争とは常に思想と経済の両面を抱えているのだ。そして、現実の解決は常に経済をベースとしておこなわれる。思想、すなわち人の生き方は常に取り残される。
   
    ノーザン・アイルランド紛争は20世紀でも最も長い紛争だった。カトリック側でこれを担ったIRA、正確には Provisional IRA つまりIRA暫定派は、当然単なる反政府武装組織ではない。その主要目的のひとつは、プロテスタント側からの搾取、抑圧、虐待からカトリックを守ることだった。ということはノーザン・アイルランドの政府、警察(RUC= Royal Ulster Constabulary ロイヤル・アルスター警察)、そして英軍からカトリック住民を守ることである。したがってIRAは場合によってはカトリックのためのほとんど自治政府として機能する。とりわけ、治安維持機関、警察の役割も果す。
   
    和平プロセスの最大の問題のひとつが、RUC の再編、改名であったこと、現在の権力共有政府の最大の問題のひとつが警察管轄権のロンドンからベルファストへの移譲であることは、ノーザン・アイルランド紛争の本質の一端を顕わにしている。ほぼ完全にプロテスタントの要員からなり、プロテスタントの権益を守ることを第一の任務としていた RUC は2001年に Police Service of Northern Ireland と改称・再編された。
   
    IRAとて人間の集団である。マイナスの側面、隠しておきたいことは多々あるはずだ。ましてや、反英反プロテスタント闘争の必要から半分以上は秘密組織である。ノーザン・アイルランドのカトリック地区では絶対的といってよい権力も持っていた。となれば堕落腐敗もまぬがれない。その全貌が明らかになるためには、こうした本の1冊や2冊では間に合わないだろう。
   
    IRAが何であったか。何をし、何をなさなかったか。何故か。それは結局IRAだけの問題ではなく、ノーザン・アイルランド紛争全体の歴史の中で検討されねばならない。この本はその検討のための興味深い素材の一部を提供している、と推測する。それがこの50選に選ばれたのは、ひとつには一種のタブーとなっていたノーザン・アイルランドのカトリック側指導部批判を、やや歪んだ形ながらやってのけたからではないか。
   
    こういう紛争の歴史は、当事者よりも第三者の方がうまく書けるものだ。ドイツやアメリカあるいは北欧あたりの研究者が順当だろうが、わが国にも堀越智氏のような人がいる。その学統を汲んだ人たちに小生としては期待する。カトリックもプロテスタントも納得せざるをえないような、バランスのとれた、包括的かつ徹底的なノーザン・アイルランド紛争の歴史が日本語ネイティヴから現れることを期待する。
   
    ノーザン・アイルランド紛争は20世紀以降世界各地で起こってきた、また起こっている地域紛争の最古最大のものの一つだ。各植民地の独立運動のヴァリエーションの一つとも捉えられるし、独立した旧植民地内の植民地体制に対抗する運動の一つであるし、アメリカ合州国政府の言う「テロとの戦い」の原形とも言える。カトリック、プロテスタントそれぞれがパレスチナの各々の当事者に共感し、肩入れするのも無理はない。ならばノーザン・アイルランド紛争の成り立ち、構造、背景まで含めた全体像を提示することは、現代を相手にする歴史家の仕事として最高にやりがいのあるものの一つではないか。(ゆ)

Tatty    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その38。
   
    この人も生年が明らかでない。というより、バイオグラフィ情報が極端に少ない。作品の内容からしてダブリン子ではあるだろう。現在はダブリン在住。
   
    デビューは1995年、The Dancer。ここから、The Gambler (1996)、The Gatemaker (2000) と続く「ダブリン」三部作で名を挙げる。これは第一次世界大戦前から1953年までのダブリンを、ある家族を通じて描いているらしい。その次の著書がこれ。短篇作家としての評価も高いようだが、短篇集はまだ無い。著書としては 最新長篇 Last Train from Liguria (2009) がある。
   
    この本は小説と回想録を融合したものとして高い評価を受けた。1964年から74年までのダブリンを舞台に、開幕時5歳の女の子タティの愛称を持つキャロラインの一人称で語られる、ある中流家族崩壊の物語。
   
    読む人によって毀誉褒貶の激しい人で、まるで正反対の評価が出ている。本書はベストセラーにもなり、この年の Irish Book Award の最終候補にもなっているが、その賞の最終候補を論評するサイトではくそみそにこきおろされている。それだけはまるかはまらないかがはっきり別れるのだろう。(ゆ)

悪意の森 (上) (集英社文庫)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その37。

    この人は1973年生まれで、Irish Book of the Decade を受賞したデレク・ランディTenderwireクレア・キルロイと同年。なお、この50選中で生年がわかる人では他に『縞模様のパジャマの少年』のジョン・ボインと架空作家のロス・オドリスコル・ケリィの黒子ポール・ハワード、それにロイ・キーンが70年代生まれ。
   
    ジュリア・ケリィケヴィン・バリィデレク・ランディとともにこれもデビュー作。エドガー賞受賞作。さすがに邦訳が出ている。翌年第2作 The Likeness を出す。ただし続篇やシリーズではない。
   
    公式サイトによると、著者はトリニティ・カレッジ・ダブリンで俳優の訓練を受け、そちらでも活動している由。アイルランド、イタリア、アメリカ、マラウィで育ち、1990年からはダブリン在住。
   
    このデビュー作も第二作も、事件の設定が風変わりでおもしろい。いずれも探偵役の主人公はダブリンの警察の刑事だが、アイルランドならばこんな事件があってもおかしくないと思わせる。
   
    それにしても、アマゾン・ジャパンの読者評、最後まで一気に読ませれば、それは優れた小説の証として十分ではないかと思うが、皆さん、どこかでケチを付けないと気がすまないのか、素直に誉めるのは沽券にかかわるということなのか。(ゆ)

Connemara: Listening to the Wind (Connemara Trilogy 1)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その36。
   
    この50選発表時点で読んでいた2冊のうちのもう1冊。
   
    この人については、メルマガ本誌本年四月号の(ゆ)の記事でとりあげていますが、読まれていない人もいると思うので、改めて。
   
    ティム・ロビンスンは1935年イングランドのヨークシャ生まれ。ケンブリッジで数学を修めた後、海外で教師をしたり、視覚芸術家として活動したりした後、1972年にゴールウェイ湾のアラン諸島最大の島アランに移住。1984年、その北の対岸コナマーラのラウンドストーンに移住。現在もそこに住んでいます。アイルランドに住みついて活動している点ではケイト・トンプソンと同じ。
   
    アイルランドでは芸術活動に伴う収入には所得税がかからないので、かつてはブリテンから作家やミュージシャンが大挙して移住したこともありました。この二人はそうした人びととは違って、アイルランドの土地と人に惚れこんだ結果、住みつき、アイルランドの魅力を文章にしてくれています。
   
    トンプスンは小説として、ロビンスンはエッセイとして、それぞれにユニークな把握と提示をしています。
   
    どちらかというとロビンスンの方は、外国人であることを活用し、土着の視点では見えないところを見、聞こえないものを聞き、感じられないことを感じている、といえるでしょう。
   
    また、数学者としての素養と訓練は、ロビンスンの観察力、把握力を磨いていますし、文章も明晰で喚起力が強いもので、こういう性格の文章はアイルランド土着の書き手にはあまり見られません。

    1977年にバレンの、1980年にアラン島の、1992年にコナマーラの地図を自身の出版社から刊行します。普通の地図には載っていない細かい地形、地名が丹念に集められて掲載された独自の地図です。どれもすべて実際に自分の足で歩いて確認した情報です。

    1986年、最初の著書 Stones of Aran: Pilgrimage を出版。好評をもって迎えられます。これは現在、現代の古典を収録している New York Review of Books の叢書に第二部の Labyrinth (1995) とともに収められています。
   
    以後、現在までに10冊の著書があります。エッセイ集、小説集、視覚芸術家としての作品の写真集、写真家とのコラボレーションなど様々ですが、主著は上記『アランの石』二部作と『コナマーラ』三部作。
   
    この『コナマーラ:風に耳をすませて』は9冊目。最新作は Connemara: The Last Pool of Darkness (2008)。『コナマーラ』第三部は前2冊の間隔からすると今年刊行のはずですが、今のところまだ予告などはありません。
   
    『アランの石』で確立したロビンスンのスタイルは、ある限られた土地を丹念に歩き、その地勢、そこに生きるいきもの、歴史を丹念に観察、調査、検証を行い、それらをすべて消化した上で、あらためてひとつのヴィジョンとして文章に定着する、というものです。これは地図を作成する過程で、アラン島をくまなく、それこそその足が踏んでいない地面は無いくらいにくまなく歩きまわるうちに形成されたスタイルでしょう。
   
    むろん一人の人間がすべてを知るわけにはいかないので、ロビンスンの関心は主に、鉱物と植物、それに歴史と人間関係に向かいます。その関心と観察の細かいこと。細部にこそ神は宿りたもう。肉眼の極限にまで降りてゆくような観察で明らかにされる細部の描写から、思索は深まる同時に広がって、今度は全宇宙を包含するほどになる。
   
    『アランの石:巡礼』では、アラン島を東端の砂浜を出発して時計まわりに海岸線を一周します。『迷宮』では、同じ東端から内部を歩きます。
   
    『コナマーラ:風に耳をすませて』では、南西部のラウンドストーンからはじめて、その北にラウンドストーン・ボグから内陸部を歩き、「九つのピン」と呼ばれるコナマーラの背骨を成す山に登ります。『最後の闇の水溜り』では北西部、メイヨー州との州境から海岸を南下します。第三部では、コナマーラの南部、アイルランド語伝統の濃いコナマーラでもその中心であり、公式のゲールタハトでもある南部海岸地帯を歩く予定。
   
    というわけで、『アランの石』と『コナマーラ』は、身辺雑記でもあり、紀行でもあり、博物誌でもあり、歴史でもあり、説話集でもあり、哲学書でもあり、つまり言葉の最も本質的な意味で文学であります。アイルランドのごく一部の狭い狭い空間とそこに流れた時間に竿さして、アイルランドの全体像を描きだす。さらには人間世界の、そして人間が置かれた世界の全体像を描きだす。細部を重ねることによって。
   
    万人向けの本ではありません。しかし、その気になれば、誰でも入ることができる。一応リニアな作りではありますが、どこから読んでもよい。これだけ読んでもよいし、著者の作った地図とともに読めばまた格別の味わいがあるでしょうし、地元の写真、動画などとを伴にすれば、さらに面白い。もちろん、実際に自分もそこを歩きながら読めれば最高ではあります。
   
    翻訳を業とする者として、アイルランドを心の故郷とする者として、この『コナマーラ』と『アランの石』はぜひ自分の手で日本語に移してみたい作品であります。が、はたして自分の手に負えるものかどうか、それすらあやしい。と思いまどいつつ、あちらこちらと、また著者の他の著作を読み返す日々であります。なお、ロビンスンの著作はまだ邦訳はありません。(ゆ)

With My Lazy Eye    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その35。

    この50選の中に4冊ある小説デビュー作。刊行時のインパクトも相当なものだったらしいが、こうして3年たっても評価されるということは、たとえ、この著者がついに2冊めを書けなかったとしても、この本は価値があるとみるべきかもしれない。
   
    著者は本業は公務員で、この本の大成功後も勤めをやめていないそうだ。ただ、この人自身はセレブといっていい人で、父親はフィナ・ゲール党所属の国会議員で、法務大臣を勤めていた。
   
    この小説は、著者の分身であるヒロインの「成人」を描いたもので、どこまでが現実でどこからがフィクションか、容易に見分けがつかないものらしい。著者にとって父親は単なる良い父親で、家では政治については一切触れない。とはいえ、どんな小さな国とはいえ、著名政治家の家庭がごく普通の、どこにでもある家庭であるはずはなく、ヒロインが少女から脱皮してゆく過程は小説の素材として不足のないものであったようだ。
   
    著者はその自分の姿を客観視し、ビタースイートなユーモアをまぶして、新鮮な体験として提示することに成功しているのだろう。
   
    当然、第二作を書くのはたいへんだろうと予測され、今のところまだ書かれていないようである。(ゆ)

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その34。

    シェイマス・ヒーニイがアイルランドの詩の現役代表なら、小説の現役代表はこの人ということになる。ウィリアム・トレヴァー、エドナ・オブライエン、ジェニファ・ジョンストンが長老世代。ヒューゴー・ハミルトン、セバスチャン・バリィ、ロディ・ドイル、 ケイト・トンプソン、カラム・トービーン、パトリック・マッケイブの1950年代世代が中核。その後に、ジョセフ・オコナー、カラム・マッキャン、ジョセフ・オニール、クレア・キーガンの60年代世代が続く。
   
    今回の50選の中でも40年代生まれの作家というのは1940年生のモーヴ・ビンキーと1945年生のこの人ぐらいだ。他の世代に比べると、それだけ作家になるのが厳しい時代に遭遇したということか。そのハードルを乗り越えてきたこの二人が、現在のアイルランドの男女の小説家をそれぞれ代表するというのは、それなりに筋が通っているとも言える。
   
    で、これはそのバンヴィルのブッカー賞受賞作。やはり代表作ということになろう。『海に帰る日』(2007-08) として邦訳も出た。めでたいことではあるが、この人ぐらい、きちんと紹介されてほしい。理由なき殺人を犯人の側から描いて前回ブッカー最終候補になった The Book of Evidence (1989) も訳されてないし、Doctor Copernicus (1976) 『コペルニクス博士』(1992-01)、Kepler (1981)『ケプラーの憂鬱』(1991-10)と三部作をなす The The Newton Letter (1982) も出ていない。そういう中でベンジャミン・ブラック名義の Christine Falls (2006) が『ダブリンで死んだ娘』(2009-04) として出ているのは言祝ぐべきか。しかし、この邦題はひどいね。
   
    ちなみに他の邦訳としては、エッセイ Prague Pictures: Portraits of a City (2003) が『プラハ 都市の肖像』(2006-04) として、小説第2作 Birchwood (1973) が『バーチウッド』(2007-07) として、出ている。

    今回、このおさらいをしていても思うが、わが国でアイルランド文学の研究者は少なくないだろうに、現代文学をきちんと追いかけて紹介している人はいないのか。飜訳にいたらないまでも、どういう書き手がいて、どういうものを書いているのか、それは全体の中でどういう位置になるのか、ということを掴めるような紹介だって無意味ではないだろう。単にこちらの探しかたが悪いのか。
   
    これがエンタテインメント系になると、SFやファンタジー、ミステリなどは、それなりに紹介がされていて、その気になれば、概要を掴むことができるのだが、いわゆる純文系とか、児童文学(含むヤングアダルト)とか、少しずれるととたんに五里霧中になる。まさか、わが国のアイルランド文学者はみーんな、ジョイス、ベケット、イエイツばかりやっていて、他の書き手は知りません、というわけでもあるまいに。
   
    英文学の一部として、イングランドやスコットランドといっしょくたにされているのだろうか。だとすれば、もったいない話で、だったら英語で書かれているということで、アフリカやインドの書き手も一緒に扱ったっていいだろう。アイルランドは、アフリカやインドよりも物理的距離はずっと近いとはいえ、イングランドやスコットランドとは明瞭に異なる文化をもっている(いや、スコットランドだって独自の文化だが)。少なくともアメリカがブリテンと違うのと同程度にアイルランドはブリテンとは違う。アメリカ文学が別なら、アイルランド文学だって別だ。
   
    とまれ、詩だったらいざとなれば栩木伸明さんに聞けばよいわけだが、散文の方で栩木さんに相当する人は誰がいるのだろう。(ゆ)

Yours, Faithfully    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その33。

    これもチック・リット、 女性を主人公とし、女性特有の問題をテーマとするジャンルの作家。ジャンル的にはこの50選の中で人数が一番多いのではないか。まあ、わが国でも林真理子とか吉本ばななとか、あのあたりの書き手に近いのだろう。
   
    現物を読んでいるわけではないが、設定はダブリンを中心とした都会の中流階級の話が多いように思われる。少なくともあまり貧乏人は出てこないようだ。もっとも貧困層の話はこれも大量に刊行されている回想録や自伝でいやというほど読める。こちらは逆に中流から上はほとんどない。その点では、こういう書き手が増えたのはやはり経済成長のおかげにみえる。
   
    この人の経歴はチック・リット作家としてはちょと異色で、はじめアイルランドの商業銀行に入り、ディーラーとなってついには主任ディーラーにまで昇進。アイルランド初の女性チーフ・ディーラーだった由。もっともその割には書く小説は幸田真音のような経済小説ではなく、女性ディーラーが主人公であっても、テーマは個人的な問題、結婚、妊娠、恋愛、家族、友情などである。アイルランド経済の中での女性の地位、というようなモチーフも見当らない。この辺がアイルランドらしさということか。
   
    チック・リットではそうしたいわば「天下国家」を論じたり、テーマとして正面からとりあげたりすることは無いようだ。また、宗教、というよりも教会との関係も大きくとりあげられることはどうもないらしい。背景にはあるはずだし、異教徒や外国人の眼から見ると、著者も意図しない形で顕わになっていることもありえるが。あくまでもメイン・キャラの周辺にフォーカスを絞り、そこで起きる人間模様を語ることに専念しているようにみえる。また基調は明るく、ユーモラスで、問題自体は深刻でも暗い雰囲気にはならない。結末も悲劇、オープン・エンディングなどではない。
   
    それと、この分野の書き手で生年を明らかにしている人は例外に属する。
   
    この人は幼ない頃から本に関わる仕事をしたいと念じていて、いわば「ケルティック・タイガー」の一角を支えながらも、30代半ばになって、今書かなければ一生書けないと一念発起。最初に書いたものは売れなかったが次のオファーにつながり、最終的には銀行を辞め、作家に専念。現在は小説家業のかたわら『アイリッシュ・タイムズ』に経済コラムを執筆。なお生粋のダブリン子。
   
    デビューは Dreaming of a Stranger (1997)。以後、年1冊のペースを確実に守る。3作目の Suddenly Single (1999) が『サドンリー・シングル』 (2001-11) として、4作目の Far from Over (2000) が『パーフェクト・マリッジ』 (2002-05) として邦訳されている。

    今回候補になったのは11作めの長篇で、2人のヒロインの結婚と妊娠をめぐる話。 片方は子どもが欲しいのにできず、もう片方は17歳の娘がいるのに二人目を妊娠する。しかしこちらの夫は妊娠判明と前後して、実は重婚していることが明るみに出て……。
   
    最新作は14作めの The Perfect Man (2009)。またパトリシア・スカンランの立ち上げた Open Door シリーズのノヴェラが2冊。他に短篇集が2冊。今秋3冊めの短篇集が刊行予定。短篇集がこれだけ出るのはチック・リットの書き手としては珍しい。(ゆ)

アルテミス・ファウル―妖精の身代金 (角川文庫)    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その32。

    この50選の中で当初読んでいた2冊のうちの1冊。原書が出た時に、アイルランドものということと「ポスト・ハリポタ」最右翼という惹句に惹かれて読んだのでした。
   
    結論から言えば、どうもこの50選に選ばれるには力不足ではないかと思います。同じヤングアダルトものにしても、他のセレクションに比べると出来としては一段落ちるでしょう。まあ、まだ他の本を実際に読んでいるわけではないので、断言はしませんが、これを選ぶのなら、まだ他にあるのではないかと思ってしまいます。もっともシリーズの続篇は読んでいませんから、そちらの出来も含めてのことかもしれません。あるいは話題になり、 売れたことも50選の資格のうちか。
   
    ひとことで言えばこれは職人作家が売れているファンタジーのフォーマットで書きました、というものに見えます。面白い話を作る技には長けているのでしょうが、ファンタジーが根っから好きという書き手ではない。著者は1965年、ウェクスフォド生まれ。これ以前には4冊のヤングアダルトものを書いています。
   
    話が面白ければいいじゃないか、というのはファンタジーが三度の飯より好き、という人ではなくて、面白い話が好きという人です。骨の髄からのファンタジー好きは、話の面白さよりも幻想の質を問うのです。様々のファンタジーの要素が書き手の無意識の底から湧きでてきているのか、それとも共通の源泉からファンタジー的な小道具や設定を借りてきて、組み合わせているのか、を問題にしますし、また敏感に察知するのです。
   
    したがって時に話はそれほど面白くはないが、幻想の質の高さだけで許す、というよりその話や書き手の熱烈なファンになる、こともよくあります。あまりよい例ではないかもしれませんが、ダンセイニの初期の短篇には時にそういうものがあります。話の筋はほとんどなくて、幻想だけで成立している。
   
    この「アルテミス・ファウル」は話としてはよく作られています。設定や  キャラも独自のところがあります。ですが、少々できすぎなのです。あまりにもすっきりとまとまっている。本物の、という言い方に語弊があれば、根っからファンタジーが好きという書き手の書くものには、どこかにほつれがあります。うまくおさまっていないところ。謎が謎のままにほうり出されているところ、よくわからないままにされているところが必ずあります。そして、根っからのファンタジー好きはそこにこそ魅力を感じます。
   
    実はハリポタそのものにも同じところがあります。どちらかといえばコルファーよりはローリングズの方にファンタジー体質がありそうですが、ハリポタも共有財産としてのファンタジーの要素や設定をいろいろ組合せたものです。ローリングズ独自の要素や設定はない。選択や組み合わせ方に多少個性がある程度です。その意味ではこの本はたしかにハリポタの後継ではあるのでしょう。
   
    シリーズ化されて、キャラクターの成長や設定の深化はあっても、それは幻想性皆無のシリーズでもあることで、シリーズ化によって幻想性が深まることはまずありません。
   
    それにしてもこの50選の中ではジョン・マクガハンの『湖畔』That They May Face The Rising Sun とならんで2001年刊行の、最も古いものになります。それだけ、当時のインパクトは強かったのでしょう。(ゆ)

The Stolen Village: Baltimore and the Barbary Pirates    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その31。

    "Baltimore and the Barbary Pirates" の副題がつく。ディアマド・フェリッターの Judging Dev: A Reassessment of the Life and Legacy of Eamon De Valera と並んで、この50選では2点だけの本格的な歴史ノンフィクション。アーゴシー年間最優秀ノンフィクション賞の最終候補。
   
    このボルチモアはもちろんアメリカ合州国東岸の都市ではなく、コーク西部の村だ。1631年6月、ここをアルジェから進発した「海賊」が襲い、村人のほぼ全員を拉致する。後に生きて帰ったのは2人だけ。本書はこの事件の背景、経緯、そしてマグレブに連れていかれたアイルランド人たちの運命を描く。

    このボルチモアの事件は被害の大きさと略奪の徹底ぶりで、アイルランドとブリテンにおけるこの種の事件としては最大のものとなる。ちなみに当時ブリテンはスチュアート朝チャールズ一世の時代で、正直、アイルランドを海賊から守るなどということは、ロンドンの王室も議会も念頭になかっただろう。

    著者はダウン州出身。現在 The Sunday World の副編集長のひとり。ノーザン・アイルランド紛争の報道に10年関った後、現在はダブリン在住。本書の他に小説が2冊ある。
   
    ベルベル海賊についての邦語での文献としてはちょと古いがスタンリー・レーン・プールの著作 The Story of the Barbary Corsairs (1890) の邦訳『バルバリア海賊盛衰記―イスラム対ヨーロッパ大海戦史』がある。飜訳はかの前嶋信次。今はなきリブロ ポートにより1981年12月刊。
   
    この本はレパントの海戦(1571)を分水嶺として、それまでの大海賊時代とそれ以後の小物時代に分ける。それによると17世紀のマグレブは名目上はオスマン帝国の領土だが、実質は無政府状態で、海賊たちは好き勝手に暴れまわっていたらしい。
   
    ボルチモア襲撃を指揮したのはムラード・レイス。小物時代で抜きんでた大海賊、かつての「黄金時代」に匹敵する「活躍」をして「大ムラード」と呼ばれた人物。レーン・プールの本でも187頁以下にやや詳しく紹介されている。出身はアルバニア人で、12歳でアルジェの海賊に捕えられ、以後、自分も海賊になる。キリスト教徒に仇すること比類なし、と言われた。大西洋に進出したのもその頃のアルジェの海賊では初めてだった。ただ、この本ではボルチモア襲撃には触れられていない。なお、この本のカバー裏にレイスの肖像画がある。

追記
すみません、早とちりしてました。「レイス」はトルコの船長を意味するので、この肖像画はムラードのものとは限りませんでした。まあ、これに近い恰好をしていたのではありましょう。
   
    ついでにこの本によると、ダン神父という人が1634年アルジェにあって、市とその周辺に25,000人のキリスト教徒奴隷がいると報告している。他に改宗者が8,000人いたそうだ。あるいはボルチモア村民の買い戻し交渉に行ったのだろうか。ちなみにこれより半世紀ほど前のアルジェにはセルバンテスが捕えられていた。(ゆ)

It's a Long Way from Penny Apples    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その30。

    この50選の中に6点ある自伝・回想録の1冊。
   
    著者が書き手としては素人である点では、スポーツマンであるポール・マグラアロイ・キーンと同じだが、実業界からは唯一の選出。
   
    1942年、ダブリン北部のスラムに14人兄妹の長子として生まれ、6歳から路上商人を始める。貧困の中で努力を重ね、奨学金を得て経営学を学び、フォードのディーラーとして出世。フォードとルノーの販売会社としてアイルランド最大の企業を経営する。アイルランド・ルノーを破産から救ったというのでレジョン・ドヌール勲章をフランスから受けている。アイルランドのベスト・ビジネスマン100人にも選出。テレビにも頻繁に登場。政治的には中立だが、緑の党の自動車抑制策には猛烈に反対、というのは当然ではある。
   
    この自伝は刊行当時、リマリックを舞台にした『アンジェラの灰』のダブリン版と言われた。もっともこちらは成功物語なので、雰囲気はだいぶ違うようだし、刊行当時すでに著者は実業家として有名だったことも有利に働いたはず。
   
    この世代のアイルランド貧困層の教育にはカトリック教会の修道会などが設立した学校が深く関るが、この人も13歳までクリスチャン・ブラザーズの学校に通っている。教会関係者による児童の性的虐待も隠さずに書いているところは、21世紀の本らしい。
   
    成功者として様々な慈善活動もしているが、面白いのは、リチャード・ブランソンのヴァージン・ギャラクティックが予定している宇宙旅行の最初期の乗客として予約しているそうだ。ちなみにチケットの価格は20万ドル。

The Lovers    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その29。

    1968年ダブリン生まれ。様々な職業を経て、ミステリの書き手になる、というのはアメリカの職業作家に多いパターン。もっともこの人の場合、やや異色なのは、社会経験を積んでからトリニティ・カレッジ・ダブリンに入って英文学を学び、ダブリン・シティ・ユニヴァーシティでジャーナリズムを学んで、1993年に Irish Times に入り、その後に小説家となっている。
   
    この50選の作家ではほぼ唯一ストレートな男性向けエンタテインメント作家。ミステリという点ではもう一人タナ・フレンチがいる。ジョン・バンヴィルが別名でミステリを書いたりしているが、アイルランドでは案外このタイプの作家は少ないようだ。SFでもアイルランド人作家というと、故ジョン・ブラナー、ボブ・ショウ、それにちょと無理してジェイムズ・ホーガン、イアン・マクドナルドぐらい。魂はアイルランド人という意味ではハリィ・ハリスンがいる。
   
    作品の中心は元警官の探偵チャーリー・パーカーを主人公とするシリーズで、1999年、シリーズ第一作 Every Dead Thing でデビュー。MWAの新人賞シェイマス賞を受賞。これ(『死せるものすべてに』(2003-09))と二作めの Dark Hollow (2000; 『奇怪な果実』(2005-10)) が邦訳されている。シリーズは出たばかりの The Whisperers で10作めになる。舞台はすべてUSA。他に独立の長篇が2冊に中短編集が1冊。
   
    この THE LOVERS はパーカー・シリーズ第8作で、パーカーは私立探偵の免許を剥奪され、オレゴン州ポートランドでバーテンになっている。そして、空いた時間を使って、丸腰の若者を二人射殺してから自殺した父親の件を調査しはじめる。一方、パーカーのことを調べているジャーナリストがおり、さらに表からは見えないところで、表題となっているカップルがいてパーカーになにか仕掛けている。
   
    アイルランド人らしいところといえば、公式サイトの質疑応答によると、中短編集 Nocturnes (2004) 以降、超自然の要素が増えているようで、ジム・バチャーの「ドレスデン・ファイル」シリーズをはじめとする、いわゆるアーバン・ファンタジーに近づいているらしい。また、強い女性のメイン・キャラが活躍するのも、最近の流行にそくしていると言えるだろう。
   
    読むとすればデビュー作か上記中短編集からか、あるいは両方か。シェイマス賞受賞というので邦訳されたのだが、3作目以降出ていないのは売れなかったのだろう。内容か、飜訳か、どちらかがわが国の読者とは合わなかったかは、読んでみないとわからない。おかげでたぶんもう邦訳は出ないだろうから、安心して読める。
   
    アマゾンの読者評では人が死ぬすぎるあたりが問題とされているようだが、この人が生まれ育ったダブリンのリアルト地区は1970年代から80年代にかけて、麻薬中毒患者の「ゴミ溜め」になっていたそうだから、そういう作風になるのも無理はないと言えようか。若きコノリーが出勤に使うバス停には毎朝大勢の人間がいたが、バスに乗るのはコノリーだけ。他は皆、売人を待つジャンキーだったそうな。警官に職務質問を受けるとバスを待っていると言い訳するのである。
   
    作家になってから、この地区にできた麻薬中毒者更生施設の開所式で、その頃の「喧嘩相手」と再会したこともあった由。(ゆ)

    今月上旬の情報号を本日15:00から予定で配信しました。未着の方はご一方ください。
   
   
    英保守党政権の補助金カットが現実となったノーザン・アイルランドですが、オレンジ団の最高幹部が一週間に二度も、ノーザン・アイルランドのプロテスタント団結を訴えています。
   
    オレンジ団 The Orange Order は、ノーザン・アイルランドのプロテスタントの精神的支柱として政治的にも大きな影響力をもっていますが、その幹部がわざわざ団結を訴えなければならないというのは、それだけプロテスタント間の分裂が目立ってきているのでしょう。
   
    もともとプロテスタントは宗派の性格としても独立したがりますし、準軍事組織にしても、いくつもの集団に別れて、たがいに抗争してきています。端的な話、ノーザン・アイルランドのプロテスタントの二大宗派、国教会と長老派の各々の信徒の関係は仲が良いとは決して言えません。
   
    ノーザン・アイルランド紛争の暴力行為は必ずしもすべてがカトリック対プロテスタントというわけではなく、プロテスタント同士の内部抗争もかなりの部分を占めます。つい先日も、ベルファストでアルスター義勇軍 Ulster Volunteer Forces のメンバーによるとされる殺人事件が起き、関連して UVF の政治組織・進歩ユニオニスト党 Progressive Unionist Party のノーザン・アイルランド議会議員が議員辞職をしています。

    オレンジ団幹部の訴えは、ノーザン・アイルランドが連合王国に留まるためにはプロテスタントの団結が必要、というものですが、補助金カットはプロテスタント内部の階級格差を増幅、促進する可能性があるのでしょう。従来プロテスタントはノーザン・アイルランド社会の上層部にあって、カトリックの犠牲の上に、様々な恩恵を受けており、それによって階級間の格差などが見えなくなっていたのですが、権力分担政権の成立以後はその構造が崩れ、プロテスタント内部の実態が明らかになってきているとみえます。
   
    ノーザン・アイルランド住民の意志に反して、この地域を連合王国からはずすことはない、というのがロンドン政府の従来方針ですが、裏返せば、住民の意志表示があれば、いつでも独立ないし共和国と合併してもらってかまわない、というのも本音ではあります。
   
    ひょっとすると、近い将来、ここでも大きな変動があるやもしれません。そうなれば、共和国の方にも大きな影響は当然あるわけで、1990年代に始まった社会の変化がさらに大きくなることもありえます。(ゆ)

    本日は6月上旬情報号の配信予定日ですが、諸般の事情から、配信が遅れます。明日か、明後日には、できると思います。
   
   
    少し前ですが、ダブリンのカトリック教会の司教管区の不動産の指定変更を、教会が市当局に申請しているという報道が Irish Times に出ていました。記事はこちら

    教会の土地建物の指定を変更して、住宅開発ができるようにしたい、ということらしいですが、つまり、これまで教会付属の駐車場や、司教の住居などに使っていて、そういう指定がされていた部分が不要になったので、これを宅地開発に回したいということのようです。
   
    なぜ、不要になったかというと、ミサに出る人や聖職者の数が減っているから。
   
    どのくらい減ったか、というデータも記事に出ていて、1980年には85%の人が毎週ミサに出ていたのが、Red C という調査会社の昨年の調査では46%。教会自身の最近の調査ではさらに数字が落ちているそうな。

    これだけ落ちると、そんなに広い駐車場は要らないというわけ。
   
    聖職者の方は、一昨年、2008年時点でアイルランド全土で4,752名の司祭がいたのが、20年後、2028年には1,500名まで落ちると予想されてます。さらにダブリン司教管区では46名の司祭が80歳以上で、35歳以下は2人しかいない。おまけに、聖職者でも教会の敷地内に住む者がどんどん減っている由。なので、教会付属の住宅施設も要らない。
   
    カトリック教会は聖職者による児童性虐待スキャンダルで大揺れに揺れていますが、ひょっとすると、強固なカトリック国であるアイルランドでも、巨大な地殻変動が起きはじめているのかもしれません。
   
    これが音楽にどういう影響を与えるか、まではまだわかりませんが、教会はだいたいにおいて音楽やダンスには敵対的、抑圧的な態度を示してきたので、全体としては良い方向の変化ではないかと期待します。(ゆ)

スカルダガリー 1    「ゼロ年代」のアイルランドで最高の本ということで、Derek Landy のヤングアダルト向け小説『スカルダガリー』が選ばれました。最終選考はネットでの投票によるので、それだけ若い世代の投票が多かったということでしょうか。

    Irish Times の記事

    公式サイト

    2007年の Skulduggery Pleasant 以来、現在までに4作出て、アイルランドと英国では大ベストセラー。33ヶ国で飜訳出版されている由。わが国でも小学館から邦訳が出ています。
   
    12歳の少女と骸骨だけになった探偵のコンビが悪の魔法使いたちと戦うという話。
   
    今回の Irish Book of the Decade ではヤングアダルト向けの本が50点の最終候補に5点入っています。ということは一割。いわゆる純文学作品やノンフィクション、歴史の専門書などと肩をならべているわけで、アイルランドでのこの分野の盛況を反映するものでしょう。
   
    さて、どうするかな。やはり原書で読んでみますかね。(ゆ)

The Parish Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その25。
 
コーク州イニスハノン(キンセイルの北約20キロ)に住む。1988年 To School Through the Fields 『アイルランド田舎物語―わたしのふるさとは牧場だった』でデビューするや、アイルランド史上最大のベストセラーとなり、ラジオ、テレビにも引っ張り凧となったおばちゃんの今のところ最新作。年齢はわからないが、60代半ばというところか。

最近邦訳が出たイングランドのフローラ・トンプスン『ラークライズ』のアイルランド版というとあるいは語弊があるかもしれないが、要するにアイルランドの農村共同体の日常を暖かく書いたもの。アイルランドですら失われようとしている、人のつながりとそこから生まれる温もりを生き生きと感じさせてくれるのが魅力であるのだろう。
 
あまりに陰が無さすぎるという批判もあるらしいが、それは無いものねだりというものである。

回想録を続けたあと、1997年には The Woman of the House(有名なリールのタイトルですな)で小説デビューし、こちらでも成功している。
 
回想録の最初の4冊は邦訳がある。2冊め以降は以下の通り。

The night before Christmas
アイルランド冬物語―晩秋、クリスマスそして冬の暮らし (1995-12)
 

The Truth Commissioner    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その24。

    ノーザン・アイルランドに住み、1993年のデビューから一環してノーザン・アイルランドの分裂した社会によってあぶり出された人間の悲劇、不条理、希望を書きつづけているようだ。
   
    これまでの著作は6冊で、これは最新長篇。the Christopher Ewart-Biggs Memorial Prize 2008 を受賞。

1993, The Healing
1993, Oranges from Spain, collection
1994, The Rye Man
1996, Stone Kingdoms
2002-01, The Big Snow
2004-04, Swallowing the Sun
2008-02, The Truth Comissioner

    デビュー作は宗派対立で親を目の前で殺された少年を主人公にしたヤングアダルト作品で、Authors' Club First Novel Award を受賞。
   
    共和国のアイルランド人にとって、ノーザン・アイルランドは政治的には他国だが、社会的文化的には同じ共同体の一部だ。そこで起きていること、そこから生まれていることは、直接の決定権は持たない一方で、無視することもできない。これは現代社会の備える、じつに腹立たしい特徴のひとつだ。たとえば地球環境は一体であって、政治的国境によってコントロールできるものではない。いや、もっと身近な経済でも、もはや「市場」としては全世界は統一されているにもかかわらず、各国政府は自国の経済は自分たちだけでコントロールできると思っている。
   
    アイルランドでは南北分離によって、こういう構図の特徴が増幅されているともみえる。
   
    とすれば、そのノーザン・アイルランドの状況を正面から素材としてとりあげているこの人の著作はきわめて重要になってくる。(ゆ)

    本日 01:30 からの予定で本誌今月号を配信しました。未着の方はご一方ください。
   
   
    今週、英国新首相デヴィッド・キャメロンはベルファストでノーザン・アイルランドの首相ピーター・ロビンスンと副首相マーティン・マッギネスと会談しました。話題は当然、ノーザン・アイルランドへの助成金カットの問題。ある程度のカットはやむをえないとノーザン・アイルランド側も認識している模様。ただ時期は ノーザン・アイルランド政府側に任され、どうやら1年先送りになるらしい。当面は政府所有不動産売却などでしのぐ。
   
    ただし、先に延ばせば、それだけカット額もふくらむ、という警告もロビンスンから出ています。
   
    ノーザン・アイルランドのGDPの7割が公共部門に関係するものだそうですから、助成金カットはノーザン・アイルランド経済にモロに打撃を与えることは確か。民間部門の底上げをしてカヴァーする、というのがロンドン政府の説明で、そのために経済特区をつくり、法人税を共和国なみに下げるなどの刺激策を行う由。
   
    どうも、これはかなりエライことになるのではないでしょうか。
   
    元ネタの Irish Times の記事はこちら。(ゆ)

    本日は本誌5月号の配信予定日ですが、例によって諸般の事情により遅れます。土曜日までにはなんとか配信したいと思ってます。
   
   
    英国に保守党首相が誕生し、経費削減の公約がどうなるか、注目であります。公約通り、ノーザン・アイルランドへの補助金が削減されれば、地域経済自体が立ち行かなくなる可能性は大きいでしょう。だからこそ、保守党のこの公約にはシン・フェイン党首のジェリィ・アダムズも、宗派を超えて一致した反対を呼びかけました。
   
    万一、ノーザン・アイルランド経済が崩壊するようなことがあれば、共和国も無事ではすまず、かろうじて糊塗している経済危機が本格化しないともかぎりません。ギリシャの次はスペイン、ポルトガルの名が上がっていますが、アイルランドも対岸の火事とは言っていられないはず 。
   
    とゆーわけで、(ゆ)は「大きな」経済とは対極のささやかなイベントをします。今度の日曜日、東京・千駄木の古書店ほうろうでおめにかかりましょう。

Walk the Blue Fields    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その22。

    この50選のうちケヴィン・バリィとならぶ短篇小説集。というのもこの人、短篇しか書いておらず、これまでの著書はデビュー作 ANTARCTICA (1997) とこれの2冊だけ。 しかし、 内外の文学賞をさらっており、アイルランドの短篇小説の伝統を受け継ぐひとりであるだろう。ぜひ長篇などに色気を出さず、短篇に徹してほしい。短篇集ながら、『青い野を歩く』として邦訳も出ている。
   
    1968年ウィックロウ生。ニューオーリンズ、ウェールズに学び、 現在はラウズ州在住。(ゆ)

Back From the Brink: The Autobiography    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その20。

    同じく The Irish Book of the Decade 候補になっているロイ・キーンの自伝は邦訳も出ているが、本国ではキーン以上に英雄とされ、尊敬されているポール・マグラアの自伝はどうやら無視されているらしい。
   
    1959年、アイルランド人の母とナイジェリア人の父との間にロンドンで生まれる。父親は母親の妊娠を知って逐電し、母は生後4週間のポールを里子に出す。後に母は後悔して息子を探しだすが、幼児期はダブリンの孤児院を転々としたという。
   
    少年の頃からサッカーの才能を発揮し、アイルランドの国内リーグで活躍した後、マンチェスター・ユナイティッドに加入。ミドフィールダーからディフェンダーに移って活躍し、「サッカーのディフェンスを芸術に高めた」と言われる。
   
    マンUの新任監督アレックス・ファーガソンと合わず、膝の故障もあってアストン・ヴィラに移籍。ヴィラを強豪に押しあげた。
   
    アイルランド代表としても1980年代から90年代にかけてのアイルランドの黄金時代を現出する原動力となり、キャプテンも勤める。1990年のワールド・カップ・イタリア大会でアイルランドが準々決勝に進出した際もチームの柱石となった。1994年ワールド・カップの開幕試合でアイルランドがイタリアを破った際には、ロベルト・バッジオを初めとするイタリアのフォワード陣をほとんど単身で防ぎきっている。
   
    1998年に現役引退。
   
    というウィキペディアにある経歴を見ると、その割に知られていないのはやはりディフェンスというポジションのせいだろうか(もちろんサッカー・ファンは知っているのだろうが)。サッカーにあまり興味のない(ゆ)ですら、バッジオの名くらいは聞いたことがあるが、マグラアは今回初めてその存在を知った。
   
    光があれば影がある。アルコール依存症に悩み、宿酔でピッチに立ったことも一度や二度ではなく、試合そのものに出られなかったことも何度もあった。膝の故障の手術は8度におよんでいる。
   
    とまれ、ジャーナリストの Vincent Hogan との共著で出したこの自伝は、アイルランドのスポーツの本として最も売れたものとなった。(ゆ)としてもキーンよりもこちらを先に読みたい。

The Pope's Children: Ireland's New Elite    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その19。

    このおさらいシリーズその13でとりあげた THE BUILDERS と同じく、「ケルティック・タイガー」のアイルランドを描いたノンフィクション。こちらはより広く、ひとつの世代を対象としているようだ。
   
    「教皇の子どもたち」とは1979年の教皇ヨハネ・パウロ二世のアイルランド訪問の前後に生まれた世代をさす。1990年代、アイルランドの高度経済成長時代に思春期を迎えた。わが国のバブル世代に相当するとみてよいのかな。
   
    Deckland、Kells Angels、HiCos = Hiberno-Cosmopolitans などをキーワードとして、アイルランド史上初めてといっていい楽天性を備えた世代を生き生きと描いている由。
   
    こういう本はなかなか飜訳されないので、原書を読むしかないだろうな。

    著者は1966年生まれのジャーナリスト、エコノミスト。アイルランド中央銀行などで働いた後、現在はブロードキャスターとして有名。自己宣伝に長けているとの評判もあり、なかなかにぎやかなキャラクターのようで、この本も盗作騒ぎがあった。本書は最初の著書。(ゆ)

一箱古本市の歩きかた (光文社新書)    元気が湧いてくる本です。もっとも、誰もがこれを読んで元気が湧いてくるわけではないでしょう。一攫千金を狙っていたり、本を読むことで自己改造ができないかと期待したりしている向きは、素通りされた方がよろしいかと存じます。
   
    ここに語られているのは、小さな小さな企画です。広告代理店が間に入ってスポンサーを集め、巨額の資金を投入して巨大な数の不特定多数の人間を動員し、底引き網で味噌も糞もいっしょくたにかっさらい、大儲けする。ひと言で言えば「ヒット」を狙う姿勢とは対極にある企てであり、動機であり、志向であり、手法です。
   
    個人、それもカネもコネもカンバンもジバンも無い、ごく普通の庶民のひとりである個人が、自分や仲間たちが楽しめる、同時に本というメディアとそれが作る世界を盛り上げる可能性を求めて行動を起こした、その記録。
   
    この人びとが持っていたのは、本に対する愛着、本の作る世界全体を楽しみたいという欲求、平均よりは少しばかり大きな行動力、知恵を絞り、骨を折ることを楽しむ楽天性、そして他人との協力は惜しまないが、群れることはしない独立精神。
   
    こうした「自立した個人」が本が好きという一点でつながることで、本の世界を盛り上げ、同時に自分たちが住む共同体を活性化しようと行動を起こした。その象徴、要のイベントが「一箱古本市」でありました。
   
    どこまでも個人の営為を積み重ねることでイベントを作ってゆく。地方自治体や地元企業のような組織を利用することはあっても、主導権はあくまでも個人の集団が握ります。
   
    鍵は企画に参加する全員がそのプロセスを初めから最後まで楽しむこと。楽しもうという姿勢と楽しませる配慮の相乗効果でしょう。本との多様なつきあい方をそのまま受け容れ、何かを排除することをしないこと。そして、大きなこと、大きくなることを目的としないこと。つまり優劣を競わないこと。
   
    これまでの世界、われわれの社会は大きいことを第一とし、小さなことの価値を認めませんでした。世界全体は置くとしても、わが国は19世紀後半以来ひたすら大きくなることを求めました。「大国」であることが何より大事なことでありました。政治的に失敗すると、経済で大国になろうとしました。その結果として、われわれは今、お先真暗の「未来」を前に立ちすくんでいます。
   
    もっとも「未来」とは本来お先真暗なものであります。そこに見えるとわれわれが思っていることは、われわれの願望にすぎません。われわれは実際には手探りで前に進んでいます。
   
    その「未来」があらためて「お先真暗」に見えるならば、われわれはわれわれ自身が何を望んでいるのか、何を見たいと、どうありたいと思っているのか、それがわからなくなっているのです。
   
    そして、大きなことを至上命題とするかぎり、われわれは自分たちが望むもの、こうなってほしい、こうありたいと考えることをもはやつかまえることはできない。おそらくは。
   
    そんなものはつかまえなくてもいい、という向きもあるでしょう。未来はお先真暗のままでいい、という人もいるはずです。なかなか度胸のいい人たちです。あるいはあの「アパッチ族」の末裔かもしれません。
   
    でも、それはやはりまずいのではないか、と考える人もいます。自分たちが、個人として、また共同体として、何を望むのか、つかまえたい。少なくともつかまえようと努力したい。あるいは明確な欲求ではなく、漠然とした不安、何となくつまらない、何かが足らないという感覚かもしれません。面白いことをやりたい。
   
    そこで大きなことを避けて、小さなこと、自分たちの手が届く範囲のこと、身の丈に合うことで、この欲求を満たそう、不安を薄めようとした人びとがいました。本という小さなメディアを愛する人びとです。
   
    本書を読むかぎり、本を媒介として自分たちの願望を垣間見ようとした試みは、各地で成功しているようです。成功という意味は、自分たちの願望が見えたというのではなく、どのような形であれ参加した人びとが、楽しいと感じ、またやろうと思っていることです。
   
    一つひとつはバラバラなイベントにつながりがあるように見えるのは、著者の存在があるからです。本を媒介にして、共同体の中にゆるやかなつながりを回復しようとする各地の企てを、今度は南陀楼綾繁という個人がつないでゆく。
   
    ひょっとすると、これが続いてゆくことで、われわれが未来に求めるものが、おぼろげでも見えてくるかもしれない。その希望がここにはあります。「元気が湧いてくる」と言うのはここのことです。
   
    本というメディアの小ささを承知しており、その小ささを本にとっても本で遊ぶ人びとにとってもプラスと考える。肩肘張らずに、ごく自然にそれができる人びとが現れてきている。これが希望でなくて、何が希望でありましょうや。
   
    ここで大きなことの追求と小さなことの積み重ねが共存できない、と考えるのも性急でしょう。ただ、これまでのわれわれは、この二つを同時に行うことはどうも得意ではなかったようです。小さなことをやるための訓練を、組織的にほどこすこともありませんでした。教育は常に大きなことのやり方を教えようとするのみで、それはおそらく今でも変わっていません。そこでは小さなことをやるのに必要な資質、乱暴に言ってしまえば、個人として自立できる資質は、大きなことをやるのに必要な資質、ここでも乱暴に言ってしまえば、組織に組込まれて協調できる資質と相容れないと思われているようです。
   
    というのは、本書の範囲からは少し脱線しました。まあ、これまでが大きいことの良さばかりが強調されていたので、小さなことを扱う場合には、そこに集中した方がバランスはとれるというものです。(ゆ)

A Long Long Way    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その18。

    このおさらいシリーズその7で最新長篇 The Secret Scripture  をとりあげたセバスチャン・バリィの、その一つ前の第4長篇。これもブッカー賞最終候補。バリィの小説はこの作品から注目を集めるようになったようだ。

    第一次世界大戦に従軍する若いアイルランド人の物語。イースター蜂起に続く時期の 、アイルランド人兵士が抱いた、アイルランドと連合王国と忠誠の対象の分裂がテーマ。
   
    これはわが国の読者にはわかりにくいテーマかもしれない。しかし第一次世界大戦勃発当時のアイルランドは連合王国の一部であり、「祖国」とは文化的にはアイルランドでも、政治的社会的には連合王国だった。開戦と同時に、アイルランドでも組織的な大動員が行われ、多数の若者が前線へと向かう。参戦したアイルランド人の数は1916年初頭までに20万人を超えた。20歳前の者も多かった。前線でイースター蜂起の知らせを聞いたこの若者たちが抱いた感情は一言では言い表しがたいものだったはずだ。

    ジョナサン・バードンは『250話で語るアイルランド史』の中で、この間の機微をダブリン・フュージリア連隊中尉だったナショナリストの前国会議員トム・ケトルが故郷へ書きおくった手紙に代表させている。
   
    「(蜂起に参加した)この連中は後世の歴史で英雄、殉教者として記憶されるだろう。そして私は、私の名が残るとすればだが、血腥い英軍士官として記憶されるわけだ」
    (第220話「ソンムでの犠牲」)
   
    前線で戦うことはアイルランドのためであるとのプロパガンダが集中的に行われ、その「大義」を信じて、かれらは大陸へと渡った。イースター蜂起はその「大義」に真向から疑問をつきつけるものだ。前線のアイルランド人、とりわけカトリックのナショナリストたちは、内心の疑惑がふくれあがるのを感じただろう。参戦の呼びかけに応じた時点で、連合王国すなわちロンドン政府のために戦うことが本当にアイルランドのために戦うことになるのか。その疑惑をあえて封印して、連合王国とアイルランドの利益は合致すると信じた。その「ごまかし」が糾弾された。
   
    ついでに言うならば、ロンドン政府もイースター蜂起が突き付けたものを正確に読みとった。だからこそ、「アイルランド共和国独立宣言」署名者を「首謀者」として銃殺刑に処した。「大義」をゆるがす者を放置すれば、動員そのものが揺らぎかねない。事実、大戦後期には、アイルランドからの新兵募集はほとんど止まる。徴兵制導入に対してはゼネストで抵抗する。
   
    ロンドン政府の措置は、戦時という特殊状況下、それも国家総動員体制を背景として見れば、妥当ではあっただろう。しかしこの措置こそがアイルランド人の内心深くに潜んでいたロンドン政府への反感に火をつける。蜂起の間は冷やかな態度で「迷惑」なことだととらえていた一般民衆が、「首謀者」銃殺を境にして、今度は蜂起を熱狂的に支持し、「独立」の「大義」を自分たち自身のものとしていだきだす。大戦終結直後の総選挙で、「独立」を掲げるシン・フェインが大躍進し、それまでウェストミンスターでアイルランドを代表していた議会党は、潰滅する。独立ではなく「自治=ホーム・ルール」を掲げ、結局それすらも実現できなかったと判断されたのだ。
   
    こうみると、フランスの戦場で連合王国軍兵士として出征していたアイルランドの若者たちの陥ったジレンマは、アイルランドの歴史の上での大きな転回点へと通底する。
   
    ということを、バリィが書いているかどうかは、読んで確かめる必要がある。(ゆ)

小道をぬけて    Irish Book of the Decade 候補作のおさらい その17。

    20世紀アイルランド最高の小説家のひとりとされるマクガハン(1934〜2006)の回想録。生まれはダブリンだが、育ったのはリートリム。母親への手放しのオマージュ。小学校教師の母親とともに、母親が勤める小学校に通う幸福、母親の死、警官の父親の住む宿舎への転居、父親の肖像。そして1940年代から50年代のアイルランド、中でも目立たない州リートリムの情景。書物の世界の発見と作家志望の誕生。さらに1960年代、ダブリンでの教師生活、著書の発禁(第2作の The Dark)の体験。
   
    マクガハンの6冊の長篇はいずれも自分の生涯を題材にしていて、デビュー作 The Barracks (1963) は十歳の時から暮らした警官の宿舎を舞台とする。ということはこの回想録はその前の時期を主に描いているわけだ。この時期のことはフィクションではなく、「事実」として書きたかったのだろうか。長篇を書き終わった、その後に、いわば作家としてのキャリアの仕上げに書いているのをみても、この時期は著者にとって最も大切なもので、この年になるまで書けなかったのだろう。
   
    アイルランド人にとって、回想録という形式はひょっとすると散文としては最高の、一番大切な素材、メッセージを伝えるための文学形式なのだろうか。日本語にとっては随筆が最高の形式であるように。

    なお、この50選に2冊送りこんでいるのは、コルム・トービーンとセバスチャン・バリィの2人、と書いていたが、ジョン・マクガハンもこれと最後の長篇 THAT THEY MAY FACE THE RISING SUN (2001) が選ばれていた。
   
    飜訳は今のところこれを含めて5冊。長篇第2作『青い夕闇』THE DARK (1965)。最後の長篇『湖畔』THAT THEY MAY FACE THE RISING SUN (2001) 。短篇集『男の事情女の事情』。The Collected Stories から15篇を選んだもの。それに柴田元幸訳・編のオリジナル・アンソロジー『燃える天使』に短篇が1本。

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