クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:紀行

 まずはアマゾンに予約しておいた Vasily Grossman, The People Immortal が午前中に配達。1942年に赤軍の機関紙『赤い星』に連載された長篇。残されていた原稿から追加してロシア語本文を確定してから英訳している。この小説には実在のモデルがおり、その人物たちについての注記が付録にある。付録にはバルバロッサ作戦でナチス・ドイツがソ連を席捲している最中にソ連軍最高司令部スタヴカが出した命令なども収められている。

The People Immortal (New York Review Books Classics)
Grossman, Vasily
New York Review of Books
2022-09-27



 昼過ぎ、佐川が DHL の荷物を二つもってくる。Mark A. Rodriguez, After All Is Said And Done: Taping the Grateful Dead 1965-95 と Subterranean Press からの Anthony Ryan, To Blackfyre Keep。

 アンソニー・ライアンのは年1冊で出しているノヴェラのシリーズ The Seven Swords の4冊目。全6冊予定。

To Blackfyre Keep (Seven Swords, 4)
Ryan, Anthony
Subterranean Pr
2022-09-30

 

 前者は凄いものであった。今年の Grateful Dead Almanac から跳んだ In And Out Of The Garden の Podcast ページで紹介されていたもの。デッドのテープ文化全体についての厖大な資料集。関係者へのインタヴュー、テーパーズ・コーナー設置の経緯についてのデッドの全社会議の議事録、Audio 誌に掲載されたテーパーズ・コーナー特集記事の複製、テープ・ジャケットのコレクションなどなど。宝の山だがLPサイズの本に細かい活字でぎっしり詰めこまれて、消化するのに時間がかかりそうだ。

After All Is Said and Done: Taping the Grateful Dead; 1965-1995
Rodriguez, Mark A.
Anthology Editions
2022-09-20



 夕方、郵便ポストを確認すると、Robert Byron, The Station が入っていた。22歳の時、友人二人とともギリシャの聖地アトス山を訪ねた旅行記。初版は1928年刊行。買ったのは2011年の再刊。バイロンはこの旅行で東方の土地と文化に惹かれて中央アジアを旅し、9年後1937年に出した The Road To Oxiana で文学史に名を残す。


 

 最後に、夕飯もすんだ7時半、郵便局の配達が大きな航空便を持ってくる。バート・ヤンシュの At The BBC アナログ・ボックス・セット。LPサイズのハードカヴァー。40ページのライナーの内容はバートの BBC ライヴの歴史、共演者・キャスター、そして彼の広報担当の見たバート。このボックスを企画したのはコリン・ハーパーだった。正式発売は4日だが、発送通知は来ていた。アナログ版は4枚組で48曲収録だが、CD8枚組収録の147曲にプラス α のダウンロード権が付いている。1966年から2009年まで、バートが BBC に残した録音を網羅している。らしい。

 こうなるとバート・ヤンシュもあらためて全部通して聴きたくなる。ひー、時間が無いよう。(ゆ)

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 図書館にあったのでとりあえず読んでみる。筑摩書房が1968年に出した『現代世界ノンフィクション全集』16。この巻は「戦後の探検」がテーマで、収録はハイエルダール『コン・ティキ号探検記』、本篇、エフレーモフ『恐竜を求めて——風の道』の3本。他の2本は科学研究を目的とした調査、実験だが、これはスターク個人の愉しみのための旅の報告。

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 エフレーモフは後に作家に転ずるだけあって、これも純粋な調査研究報告ではなく、りっぱな文学作品、スタークの翻訳をし、解題を書いている篠田一士の言葉を借りればりっぱな旅行文学になっているらしい。惜しいことに訳出されているのは『風の道』の第一部、3回の調査旅行の第1回を扱った部分のさらに抄訳。今となっては完訳は望むべくもない。英訳もない。「風の道」とは、モンゴルのゴビ砂漠を渡る隊商路を現地の人びとが呼ぶ名前。エフレーモフはここでの恐竜化石発掘を指揮した。

 コン・ティキ号もゴビの恐竜化石も後日の読書を期し、とにかくスタークの作品の実地につくべく、読んでみたわけだが、これが滅法面白い。

 邦題は一応原題に忠実だが、日本語だとチグリス川に沿って馬でまわった、という印象になる。英語ではチグリス川に向かって馬に乗っていったことを示す。トルコ東部、イランとの国境近くにヴァン湖がある。イラン側のウルミラ湖と双子のような湖で、この間を隔てる山脈は4,000メートルを超える最高峰をもち、富士山より高い嶺がつらなる。ここから南へメソポタミアの平原に向かっては徐々に低くなるものの、険しい峡谷がつづく山岳地帯だ。ヴァン湖の南のイラクとの国境に近い一帯を、東から西へ、国境にだいたい平行に、スタークは旅している。始めと終りは自動車で、最も奥地は馬とらばで旅した。その終りはチグリスの上流で、そこでこのタイトルになる。1950年代後半のある夏のことだ。

 当時、自動車の入れる道はヴァン湖東岸のヴァンから南東、ユーフラテスに注ぐグレート・ザブ川の河畔にあるハッキアリまでしか通じていない。そこから2週間、馬の鞍に揺られて、チグリス上流に注ぐ支流の源流近くの村ミリに至る。ここから先はまた道路が通じていて、自動車で一気にチグリス河畔のシズレを経て、空港のあるディヤルベクルまで行っている。

 もちろんバスやタクシーが走っているわけではない。自動車はどちらもたまたまその方面に行く誰かの車に便乗させてもらう。ハッキアリまでは、地方の子どもたちに種痘をしに回る医師の一家の車だ。この地域に住んでいたのはほとんどがクルド人で、その後クルド独立運動の舞台になっている。おそらく外国人が一人で旅行することは現在では不可能だろう。スタークの頃までの紀行が貴重なのは、今は部外者が入れない地域歩いていることもある。

 医療の提供と治安維持がここがトルコ政府の管轄にあることを示す。このあたりは第二次大戦前までは山賊が跋扈し、あるいはクルド人とアッシリア人(とスタークは書く)の日常的な部族抗争で、やはり部外者は立ち入れなかった。戦後、山賊は討伐・追放され、部族対立の方はアッシリア人が様々な要因から四散していなくなったために終息した。トルコ政府は地域の長官=ワリや町長、村長を任命・派遣し、要所には守備隊を置いた。スタークが宿をとったのはこうした役人のいる集落や駐屯地だ。外来者が泊まれる施設があるわけではない。夜を過ごし、食事をとるのは、どこでも役人たちの家や、集落の中でも富裕な家族の家の一部屋だ。クルド人たちは牧畜を営む。冬を越す村は深い谷の河畔にあるが、夏は谷の上流の上にある台地の放牧地「ヤイラ」で過ごす。スタークは一夜、ヤイラの一つの天幕で過ごし、「開いたテントや、地面の上のキャンプの寝床」の安心感をおぼえてもいる。

 こうした集落をつないでいる道は、ほとんどが川沿いで、馬一頭がかろうじて通れる幅しかないことも普通だ。とはいえ、この地域は小アジアからメソポタミアに抜ける道の1本として古代から使われている。クセノポンの『アナバシス』で有名な紀元前5世紀の一万人のギリシャ傭兵団もここを通っていて、スタークは随所で引用する。ローマ帝国とササン朝ペルシャの国境地帯でもあって、あたりに誰も住んでいないところにローマの遺蹟がぽつんとあったりする。スタークが1日馬で旅して、人っ子一人遭わないことも珍しくないが、昔からずっとそうであったわけではない。

 先輩のガートルード・ベルと同じく、スタークも単独行を好む。途中で、逆方向へ向かうドイツの民俗学調査団と徃きあう。自分が旅行の許可をとるのにさんざん苦労し、おまけに写真撮影を禁止されているのに、相手が多人数で機材もそろえ、写真も撮り放題なのをいぶかる。

 ドイツは第一次大戦前、ギリシャ、トルコ経由でバグダードへ進出する計画を立て、それが大戦の原因の一つになっているが、どこか深いところで親近感を互いに抱いているのか。第二次大戦後、トルコからはドイツに大量に出稼ぎ、移民が出て、ディシデンテンのようなバンドも現れている。ギリシャ、トルコの観光地はドイツからの観光客が占拠するらしい。

 ここで描かれる世界は時間的に半世紀以上前というよりもずっと遠く感じられる。誰かの想像が生んだのではなく、確実に今われわれが生きているこの世界にかつて存在したとはなかなか信じられない。今は消えており、おそらく復活することはない世界でもある。途中、何が起きるわけでもない。ごく平凡な人たちの、毎日の生活が続いているだけだ。土地の住人たちにとっては、スタークの到来そのものが事件である。西欧人がやってくるだけでも異常事態で、しかも女性がひとりでやってくるのは、おそらく彼らの一生に一度のことだったろう。

 スタークにしてみれば、旅につきもののトラブルは多々あるにしても、未知の土地を自分の脚で歩いてゆくことが歓びだ。ただその歓びを味わいたい、それだけのために、あらゆるツテをたどって旅行の許可をとり、あらゆる不便を耐えしのぶ。トイレの問題一つとっても、その不便は表現できるものではないだろう。1ヶ所だけトイレについての言及がある。旅も終わりに近く、ある川の畔の村であてがわれた宿ではトイレが川をまたぐ形で作られていた。自分にとってはありがたいが、下流の住民にとっては問題だ、と書く。

 訳者の篠田一士はスタークの文体を誉めたたえる。

「大変力強い英語散文で、修辞法も堂々としていて、とても女流の筆になったとは思えないほど雄渾な響きをもっている。この文体のかがやきこそ、外ならぬ、女史をイギリス旅行文学のチャンピオンにしているのである」

 「とても女流の筆になったとは思えない」というところは今なら問題にされるかもしれないが、要は「男流」の筆でも珍しいほどのかがやきをその文章は備えているわけだ。

 その雄渾なかがやかしい文章で描きだされたこの世界は、そこだけぽっかりと時間と空間のあわいに浮かびあがる。我々の過去の一部では確かにあったものの、一方でこの世界はまったく独立に成立している。これを幻と言わずして何と言うか。我々の世界の実相が映しだされた幻。幻なるがゆえに明瞭に映しだされた実相。むろん世界全体の実相ではないが、実相は全体としては把握できるものではない。こうした小さな断片の幻に焦点を合わせることで拡大され、見えるようになる。

 スタークはそこでいろいろ考えたことも記す。トルコ人について。大英帝国の思考法、システムについて。先達の旅行家たちについて。今自分が歩いている同じ場所をかつて通った人びとについて。人間と人間が生みだしてきたさまざまなもの全般について。そうした考えもまた、この世界、時空の泡の中でこそ生まれたものでもある。

 紀行を読む愉しみはそこにある。見慣れた風光から見慣れぬ世界を浮かびあがらせるのもいいが、見慣れぬ風光から、知っているはずの世界の新たな位相が立ち上がってくるのはもっといい。


 篠田は巻末の解題で英国旅行文学の中でも中近東を旅してその旅行記を書いた人たちを個性と作品の質の高いことでぬきんでているとする。その最上の書き手は18世紀末『アラビア砂漠 Arabia Deserta』を書いたチャールズ・ダウティということに評価は定まっていて、これに続くのがカートルード・ベル、T・E・ロレンス、そしてこのフレヤ・スタークが世代を代表する大物作家。さらにフィルビー、バイロン、セシガーと続く。

 もっともダウティはガートルード・ベル Gertrude Bell の『シリア縦断紀行 The Desert And The Sown』邦訳第1巻巻末の解説の筆者セアラ・グレアム=ブラウンに言わせれば「おそるべき記念碑趣味=モニュメンタリズム」に陥っているそうだ。

シリア縦断紀行〈1〉 (東洋文庫)
G.L. ベル
平凡社
1994-12-01



 ロレンスはもちろん「アラビアのロレンス」で、主著『知恵の七柱』は完全版の完訳も出た。上記グレアム=ブラウンは「とりとめのない自意識過剰の内省」が多いと言う。

完全版 知恵の七柱 1 (東洋文庫0777)
T.E.ロレンス
平凡社
2020-06-30



 フィルビーは Harry St John Bridger Philby (1885-1960) と思われる。二重スパイのキム・フィルビーの父親。サウディアラビアを建国し、英傑といわれたイブン・サウドの顧問。これもグレアム=ブラウンに言わせると「隠喩だらけの散漫な文章」だそうだ。

 篠田の文章も半世紀前のものではある。彼自身の見立てもその後変わったかもしれない。

 バイロンは Robert Byron (1905–1941) だろう。The Road To Oxiana, 1937 が有名。これについてはブルース・チャトウィンが「聖なる本。批評などできない」と述べているそうな。チャトウィンは中央アジアを4回旅していて、その間、この本を肌身離さず持ちあるいたから、あちこち濡れた跡があり、ほとんどばらばらになっていたという。
 英文学には紀行の太い伝統がある。チャトウィンはその伝統を豊かにした書き手の一人だろう。
 バイロンにはもう1冊、The Station, 1928 がある。ギリシャのアトス山の紀行。村上春樹が『雨天炎天』1990 にそこへの旅を書いた聖地。60年の時間差で、どれだけ変わり、あるいは変わらないか、読みくらべるのも一興。
 バイロンは第二次大戦中、西アフリカへ向かう乗船が魚雷攻撃を受けて沈没して亡くなる。
 セシガーは Wilfred Thesiger (1910-2003) 。『ベドウィンの道』が同じ『現代世界ノンフィクション全集』の7に収録。他に『湿原のアラブ人』が白水社から出ている。スタークと同様、この人も93歳の高齢を保った。アラビアの砂漠を探検すると長生きするとみえる。

湿原のアラブ人
ウィルフレッド セシジャー
白水社
2009-10-01



 問題はガートルード・ベル Gertrude Bell (1868-1926) である。スタークの先輩旅行家兼作家でもあり、スタークももちろん読んでいるし、その著作の中でも『シリア縦断紀行』と双璧と言われる Aramuth To Aramuth をこの旅にも携えてきている。こちらはシリアのアレッポからユーフラテスを下ってバグダードに至り、Uターンしてティグリスを上って最終的にはトルコのコンヤに至る、3,000キロの旅の紀行。

 ベルはしかし、旅行作家としてだけでなく、第一次大戦中から戦後にかけての英国の中東政策に絶大な貢献をしている。『ラルース』はかつてベルについて「ロレンスの女性版」と書いたそうだが、実相はロレンスがベルの男性版と言う方が近い。
 たとえば第一次大戦後、イラクという国を作ったのは、実質的にベルの仕事である。ロレンスが「発見」したファイサルをイラクの初代国王に据えたのはベルである。国境の策定も一人でやっている。他にできる人間がいなかった。
 ベルは1911年05月、ユーフラテス上流カルケミシュで考古学者としてのロレンスに会っている。ロレンスはベルの『シリア縦断紀行』を読んでいて、ファンだった。ベルはこの邂逅を告げる書簡で
「私の来るのを心待ちにしていたロレンスという若い人に会いました。彼もひとかどの旅行作家になることでしょう」
と書いている。と、 『シリア縦断紀行』の訳者・田隅恒生は「訳者後記」で書いている。

 ベルの伝記が2冊、ジャネット・ウォラックの『砂漠の女王:イラク建国の母ガートルード・ベルの生涯』と『シリア縦断紀行』とデビュー作『ペルシアの情景』の訳者・田隅恒生による 『荒野に立つ貴婦人:ガートルード・ベルの生涯と業績』がある。
 ということで、スタークの『暗殺教団の谷』と伝記『情熱のノマド』、ベルの3冊と伝記2冊、バイロンの2冊、セシガーまたはセシジャーの2冊は読まねばならない。宮崎市定の『西アジア遊記』も再読しよう。(ゆ)

08月14日・日
 公民館に往復。本を3冊返却、4冊受け取り。借りた本はいずれも他の図書館からの借用なので、2週間で返さねばならない。家人が横浜市内に勤めていたときには、横浜市立図書館から借りられたので、自前でまかなえたから延長できた。県立から借りたのが一度あったくらいだ。『宮崎市定全集』全巻読破できたのも、そのおかげだった。厚木はビンボーで、図書館蔵書も少ない。

 ワシーリー・グロスマンの『システィーナの聖母』は茅ヶ崎市立図書館から。所収のアルメニア紀行を確認するため。これは後3分の1ほどを占める。ということで買うことにしよう。が、NYRB 版は NYRB original で、160ページあるから、邦訳よりは分量がありそうだ。英訳も買うか。グロスマンの本としては The People Immortal も邦訳されていない。『人生と運命』の前にあたるのが Stalinglad で、The People Immortal が扱うのはさらに前のバルバロッサ作戦酣で赤軍が敗走している時期だそうだ。そこで、いかなる手段を用いてもナチス・ドイツ軍の進攻を止めろと命じられたある師団の話、らしい。

システィーナの聖母――ワシーリー・グロスマン後期作品集
ワシーリー・グロスマン
みすず書房
2015-05-26

 
Stalingrad
Grossman, Vasily
NYRB Classics
2019-06-11

 
The People Immortal
Grossman, Vasily
MacLehose Press
2022-08-18



 アンソロジー『フィクション論への誘い』は横浜市立図書館から。師茂樹氏のエッセイを読むため。プロレスについて書いている。一読、こよなく愛するファンであることがひしひしと伝わってくる。
 プロレスにまつわる記憶では、学生の時、なぜか高田馬場で友人とたまたま夕飯を食べに入った食堂のテレビで、猪木の試合を中継していた。見るともなしに見ていると、いかにもプロレスと思われるまったりとした進行だったのが、ある時点で猪木が「怒る」ことでがらりと変わった。中継のアナウンサーが「猪木、怒った、怒った」と、いかにもこれはヤバいという口調になった。つまりヒールの反則が過ぎたのに猪木が怒った、というシナリオ(「ブック」と呼ばれるそうだ)だったのだろう、と後で思いついたのだが、その時の猪木の変身、本気で怒っている様子、それによる圧倒的な強さは見ていてまことに面白いものだった。後でああいう台本だろうと思ってはみたものの、その瞬間はいかにも猪木が怒りのあまり、そうした打合せや台本を忘れはてて、本気を出しているとしか見えなかった。師氏がここで言うように、本当に思わず本気で怒ってしまったのかどうか、わからないところはまた面白いが、あの猪木の変身ぶりは、プロレスも面白くなるものだ、というポジティヴな印象を残した。猪木といえば、河内音頭の〈アントニオ猪木一代記〉が真先に出てくるのだが、その次にはあの時の印象が湧いてくる。

 ハンス・ヘニー・ヤーン『岸辺なき流れ』上下は鎌倉市立図書館から。第三部『エピローグ』をカットした形。訳者の紹介によればカットするのも無理は無いとは思われる。これもまた未完なのだ。完成しないのは20世紀文学の宿命か。プルーストもムージルもカフカも未完。『鉛の夜』に使われた部分もある由。この上下を2週間では読めないから、買うしかないな。

岸辺なき流れ 上
ハンス・ヘニー・ヤーン
国書刊行会
2014-05-28


岸辺なき流れ 下
ハンス・ヘニー・ヤーン
国書刊行会
2014-05-28



%本日のグレイトフル・デッド
 08月14日には1971年から1991年まで4本のショウをしている。公式リリースは無し。

1. 1971 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 アンコールの1曲目〈Johnny B. Goode〉の前にデヴィッド・クロスビーのために〈ハッピー・バースディ〉が演奏された。これと続く〈Uncle John's Band〉の2曲のアンコールにクロスビー参加。
 オープナーの〈Bertha〉が《Huckleberry Jam》のタイトルの1997年の CD でリリースされた。限定2万枚でベイエリア限定販売。1960年代末にアメリカで最初の家出少年少女のための避難所としてオープンされた Huckleberry House の資金援助のためのベネフィットCD。

2. 1979 McNichols Arena, Denver, CO
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。9.35ドル。開演7時。
 第一部6曲目で〈Easy To Love You〉がデビュー。ジョン・ペリィ・バーロゥ作詞、ブレント・ミドランド作曲。1980年09月03日で一度レパートリィから落ち、1990年03月15日に復活して1990年07月06日まで、計45回演奏。スタジオ盤は《Go To Heaven》収録。ミドランドの曲でデッドのレパートリィに入った最初の曲。バーロゥとの共作としても最初。演奏回数では〈Far from Me〉の73回に次ぐ。
 この初演ではウィアがほぼ同時に〈Me and My Uncle〉を始める。ウィアは第二部2曲目〈Ship of Fools〉でも〈Lost Sailor〉を歌いだすので、おそらくは意図的、少なくとも2度目は意図的ではないか、という話もある。
 ショウ全体は良い出来。

3. 1981 Seattle Center Coliseum, Seattle, WA
 金曜日。この日がシアトル、翌日ポートランド、その次の日ユージーンと、北西部3日間の初日。9.50ドル。開演7時。
 第二部で4曲目〈Playing In The Band〉の後の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉がとんでもなく速かった。

4. 1991 Cal Expo Amphitheatre, Sacramento, CA
 水曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。22.50ドル。開演7時。
 第二部が始まるとともに霧が立ちこめて、そのため第二部は〈Cold Rain And Snow〉〈Box Of Rain〉〈Looks Like Rain〉と続いたので、聴衆は大喜び。さらに〈Crazy Finger〉をはさんで〈Estimated Prophet〉でウィアが "I'll call down thunder and speak the same" と歌うのと同時に、ステージの遙か後方のシエラ・ネヴァダの麓の丘の上で稲妻が光った。(ゆ)

6月25日・金
Adnan Joubran
 Shubbak フェスティヴァル出演のウード奏者。1985年生まれ。どこの出身か公式サイトにない。参加している兄二人とのウード・トリオ Le Trio Joubran の記事が Wikipedia にあり、ナザレ、ラマラ、パリを拠点とするトリオ。 

 長兄 Samir (1973-) 、次兄 Wissam (1983-)。サミルは一家を成し、ソロもある。2003年のサード《Tamaas》でサミルは弟のウィサムを誘ってデュオでやる。2004年夏、末弟アドナンを加えてトリオを結成。以来、現在までにアルバム7枚。6作めは Dhafer Youssef がゲストだ。兄弟の父親 Hatem はナザレを拠点とする、アラブ世界全体で有名なウード・メーカー。母親 Ibtisam Hanna Joubran は Muwashahat と呼ばれる、アラブ・アンダルシア源流の歌謡のうたい手。

 3人のうちウィサムだけ Wikipedia に独立項目がある。父親の後を追ってウード製作を幼少時から始め(6歳で最初のウードを作った、そうだ)、さらにヴァイオリンに興味を持ってクレモナのストラディヴァリウス学院に留学。ヴァイオリン製作でも一級とイタリアで認められる。現在はジューブラン家第4世代の製作者として演奏と二足の鞋を履いている。演奏はもっぱらトリオでのものらしい。

 トリオのアルバムは大部分 Tidal にあるが、サミル、アドナンのソロは無し。




 Penguin のサイトの The greatest walks in literature のセレクションが面白い。確かに『指輪』ではたいへんな距離をみんな歩く。はじめっからグワイヒアにフロドを運んでもらえばいいものを、というのもまったくその通り。『嵐ヶ丘』でキャシィとヒースクリフがおたがいを探してムーアを歩きまわる距離はたいへんなものだ、というのには大笑いする。ウルフのダロウェイ夫人はロンドンを歩きまわる。とすれば、ジョイスのブルームとディーダラスがダブリンを歩きまわるのもここに入れてもいいか。しかし、エディンバラかグラスゴー、あるいはカーディフを歩く話は無いのか。パリは山ほどありそうだ。東京と京都もたくさんあるだろう。もっとも、ダロウェイ夫人ほど歩きながら考えるのも珍しい。オースティンのエリザベス・ベネットが歩く3マイルが本当に長いかどうかは読んでみてのお楽しみだろうが、5キロ歩くのは今のわが国のほとんどの人間にとっては長すぎるだろうなあ。へー、コーマック・マカーシィの The Road はこういう話だったのか。と今さら知る。それにしても Patrick Leigh Fermor が無いのはおかしいという向きもあろうが、かれはもうみんな読んでるだろう、という前提か。この中でまず読むとすれば Rachel Joyce の The Unlikely Pilgrimage Of Harold Fry かな。65歳の男が手紙を投函しに出かけて、そのまま700マイル=1,127キロを87日間かけて歩くことになる、という話。同い年の男の話だし。いや、自分もそうなってみたい。邦訳もあるが、やっぱり原文だろうな。それから Raynor Wynn, The Salt Path、Robert MacFarlane の The Old Ways。マクファーレインの Mountain Of The Mind は滅法面白かった。



ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅
レイチェル・ジョイス
講談社
2013-08-27




The Old Ways
Macfarlane, Robert
Hamish Hamilton UK
2013-06-25


Mountains Of The Mind: A History Of A Fascination
Macfarlane, Robert
Granta Books
2017-11-09


 大嵐になった今月13日木曜日の夜、下北沢の本屋兼カフェで開かれた栩木伸明さんの講演会に行った。栩木さんが昨年みすず書房から上梓された『アイルランドモノ語り』で読売文学賞を受賞された、そのお祝いの会である。先輩受賞者である管啓次郎氏がホスト役。 お二人の対談形式かと思っていたら、前半、栩木さんの語り、後半、菅氏からの投げかけに栩木さんが応える形。最後に管氏が聴衆からの質問を誘い、二人が質問をし、栩木さんが応えた。

 一番の収獲は、本の冒頭に出てくる「ヘンズ・ネスト」の実物を手にとれたこと。栩木さんがミュージアムのショップで買われた小型のレプリカではあるが、サイズ以外は「ホンモノ」だ。「ホコリっぽくツンとくる匂い」も嗅ぐことができた。

 それからトーリー島のキングの描いた絵。本の52頁に載っている「大西洋上のトーリー」の実物。絵はどんなに詳細で鮮明なものでも、写真で見ただけでは一番肝心なものが顕れない。見えない。たとえばの話、実際のサイズで、この絵は思いのほか、小さかった。iPad の一回り大きいくらいだろうか。そして、確かに妙に惹きこまれる。美しいとか、迫力があるとか、あるいは深い意味があるとかいうのではないかもしれないが、いつまでも見ていたくなる。そして見ているうちに、胸の奥がおちついてくる。こういう絵なら、手許に置いて、ときどき眺めたい。といっても、こればかりは現地に行かなければ買えないのだろう。また、このネット時代に、わざわざそこに行かなければ手に入らない、というのもひとつの価値だ。

 トーリー島に行くのは結構たいへんです、と栩木さんが言う。船酔いは覚悟しろ、ともおっしゃる。もっとも船酔いは、どくとるマンボウのように、生まれつきか、かからない人もいるし、どんなに船に弱い人でも、繰り返し乗っていればだんだん強くなるというから、何度も通えばいずれ平気になるだろう。それよりも、島に渡る船が出るところまで行くのがまずたいへんらしい。

 お薦めはどこですか、という聴衆からの質問に、トーリー島が一番と応えられていたから、これから島へ行く日本人は増えるだろう。住みつく人もいるかもしれない。アラン島だって、地元の人と結婚して住んでいる日本人がいるのだ。

 ただし、離島の生活が楽ではないのは、James MacIntyre の THREE MEN ON AN ISLAND を読んでもわかる。冬の嵐が続いて船が来られなくなり、食料がなくなって寝ているしかなくなることもあるのだ。ブラスケット島が無人になったのも、そういうことが度重なったためだ。ちなみにこの本は、アイルランドの西端の孤島にひと夏過ごした3人の、こちらは職業画家の記録である。1951年のことだ。すてきなスケッチと水彩画にあふれた瀟洒な本で、ニワトリもちゃんと出てくる。

Three Men on an Island
James Macintyre
Blackstaff Pr
1996-01-01



 ブラスケット島の住民が集まったのが、アメリカはマサチューセッツ州スプリングフィールドで、ここはアイルランド国外のゲールタハトの様相を示した、というのは今回栩木さんのお話で初めて知った。

 もう一つの収獲はキアラン・カースンの『琥珀捕り』について、アイリッシュ・ミュージックのダンス・チューンと同じ構造だ、との指摘。韻文でこれをやるのはわかるし、実例も多いと思うけれど、散文でやるのは思いいたらなかった。そういう視点から再読してみよう。実のところ、ひどく面白いのだが、なんとなくコツコツ当たるところがあって、見事な作物であることは確かで、不満はなにもないのに、諸手を挙げて絶賛する気にどうしてもなれなかった。どうも散文となると「筋」をなぞろうとしてしまうらしい。筋の展開がリニアではなく、サイクルであることに気がつかなかった。なるほど、そうして読んでみると、シェーマが変わるかもしれない。

 栩木さんのお話がもっぱら本のはじめの方に集っていたのはやむをえないところだろう。うしろの方の、「岬めぐり」の章のお話など、あらためて聞けるチャンスがあると嬉しい。

 開演前の会場にはアルタンが流れ、お話の中でもかけたりもしていた。管氏も、いいですね、ぼくもアイリッシュ・ミュージックは大好き、と言われていたあたり、あらためてアイリッシュ・ミュージックもあたりまえの存在になったものよのう、との思いを新たにする。アイリッシュ・ミュージックを出すと、これはアイルランドの伝統音楽でありまして、なんて説明というか言い訳というか、そういうものをやらねばならない、ということがなくなったのは、やはり素朴に嬉しく、ありがたい。

 栩木さんは読売文学賞受賞によって、自分が書き手として日本語の活動に貢献したと認められたことが嬉しいとおっしゃる。それを否定するつもりは毛頭ないが、一方で栩木さんは翻訳家としてりっぱな仕事をされてきているわけで、それもまた日本語への貢献に他ならないことも、指摘するのもおこがましいが、言わせてもらいたい。明治以降の、いわゆる口語という文章語の形成展開に翻訳の果たしてきた役割はむしろ大きい。単語だけでなく、構文や、さらには思考方法や、感じ方にいたるまで、翻訳によって日本語は鍛えられてきた。英語というワンクッションをはさんではあるけれど、そこにアイルランドという新たな要素を加えたのは栩木さんの功績のひとつでもあるはずだ。イェイツのなかのアイルランド性は、本を読んでいただけではわからなかった、と栩木さんは言われるが、それはたぶん栩木さんだけではなく、かつてのわが国「英文学」の趨勢ではなかったか。音楽の勃興によって、アイルランド自体の見方も変わった、そのことによってアイルランド性の捉え方も変わったのではないか。

 先日も古い資料をひさしぶりに見ていたら、「二流のイギリスとしてのアイルランド」なんて言葉が恥ずかしげもなく使われているのに、覚えずして顔がほてった。そう書いたのは自分ではないにしても、その表現に疑問を感じないどころか、うんうんとうなずいていたことは確かだったからだ。この四半世紀で、アイルランドのイメージは、180度というも愚か、まったくの次元の別な物になってしまった。天動説から地動説への転換にも相当しよう。その地点から見れば、かつては「英」文学の一部であったアイルランドの文芸もまた別物となるだろう。

 もちろん、翻訳家だけでなく、書き手としての栩木さんにはもっともっと書いていただきたい。ティム・ロビンソンの『アラン島』二部作、『コネマラ』三部作はたしかに圧倒的だけど、栩木さんなら、また別のアプローチであれに肩をならべる文章を書いてくれるのではないかと期待する。そしてそれはまた、アイルランド人には書けないものであるだろう。イングランド人ロビンソンの作物がアイルランドのネイティヴには書けなかったように。

 『アイルランドモノ語り』は、昨年読んだ本の中では一番の収獲だった。というより、人生でもこれだけの本に出会うことは、そんなに何度もない、と思われた。この本は、最初の章を読んだとき、一日一章と決めて、読んでいった。一気に読んでしまうのがもったいなかったからだ。お話をうかがって、あらためてまた一章ずつ読みはじめた。今度は毎日一章ではない。一週間に一章、ぐらいのペースだ。時には他の本やネットに脱線しながら、ゆっくりと読んでいる。そう、この本に欠陥があるとすれば、それは索引が無いことである。無ければ作ればいい。というわけで、自分で索引を作りながら、読んでいる。

 もう1冊、読みだしたのが Fintan O’Toole の A HISTORY OF IRELAND IN 100 OBJECTS。栩木さんの本とほぼ同時に出たのを、例によって積読してあった。タイトル通り、100個のモノをダシにして、アイルランドの島に人間があらわれてから21世紀までの歴史を語る試み。栩木さんの語るモノがきわめてパーソナルな性格を帯びるのに対し、こちらは良くも悪しくも公的な、パブリックなモノがならぶ。それはそれで面白く、オトゥールの文章も、ある時は掘り下げ、ある時は大きく拡がり、縦横に語って、この島に展開されてきたドラマをぐいぐい描きだす。実物がどこで見られるかの案内もついていて、その気になればツアーできるようにも作られている。

A History of Ireland in 100 Objects
Fintan O'Toole
Royal Irish Academy
2013-03-12



 遅まきながら、栩木さん、読売文学賞受賞、おめでとうございます。(ゆ)

アイルランドモノ語り
栩木 伸明
みすず書房
2013-04-20

今日は雲があるので、陽射しが遮られる。が、風はあきらかに秋の風。
    
    気温が高いので蝉たちは元気。ひさしぶりに油の声も聞こえる。が、数は激減。法師蝉ばかりきわだつ。土曜日は近くの小学校の運動会で、時おり激しい雨が降るなか、朝から大騒ぎだったが、今日は蝉の声があたりの静けさを強調する。
    
    先日から調子づいたので、朝から仕事したい気分が湧いてきて、午前中、かなり集中できた。今やっているギネス本の第三章、十九世紀末から二十世紀初めにかけてギネス醸造所の専属医師だったジョン・ラムスデンなる人物の事績は、なかなかに泣かせる。とりわけ、章の掉尾を飾る、第一次世界大戦直前から最中にかけてアイルランドが体験した暴力の嵐の中で、敵味方なく負傷者の手当をするため、銃弾もものともせず最前線に飛びこんでゆく医師の姿には、訳しながら覚えず目頭が熱くなった。ついには片手に白旗、片手に医師鞄を下げて駆けこんでくる医師の姿を見ると、皆、射撃を控えるようになる。そして、自分たちの国のより良い未来の可能性をその姿に垣間見るのだ。
    
    もっともこれはラムスデンの事績としてはむしろ枝葉末節に属するもので、かれの業績の本分は、ギネス社の従業員やその家族、工場の近隣住民たちの居住環境の改善と公衆衛生の向上だ。
    
    調子に乗っていつもの倍ちかい量をこなす。いつもこういう調子で行けば、来月末脱稿の予定は守れるかもしれない。抗がん剤の副作用の出方にもよるが。
    
    先週に入って手足の先の痺れが強くなっている。その前まではそれほど感じなかったのは、本来とは逆のような気もする。首まわりの痒いのはようやく軽くなってきたが、あちこち入れ替わり立ち替わり痒くなるのはあいかわらず。これも副作用か。
    
    ドス・パソスのスペイン紀行『ロシナンテ再び旅に出る』を読む。内戦前、両大戦間のスペイン。この人もアメリカ人として生まれながら、アメリカからははみ出してしまった者の一人。『U.S.A.』 のような本を着想し、書けたのも、そのおかげではあろう。
    
    そのはみ出し方はアメリカ人にしかおそらくできない。この人の生涯そのものが数奇ではある。生まれたのはシカゴのホテルで、幼少の頃はヨーロッパのホテルを点々として育ち、その生涯のほとんどを旅から旅を続けて過ごした。かれにとって故郷は具体的な場所ではなく、いうなれば「アメリカ」という抽象概念だったろう。むしろ旅そのものが故郷だったかもしれない。
    
    両親はともに既婚者で、つまりドス・パソス本人は「不倫の子」だ。アメリカどころか、「世間」からはみ出して生まれた。生まれた時、母は42歳、父はその10歳年長。19歳で母を、21歳で父を失う。兄弟姉妹はない。良い伝記が読みたい。
    
    アメリカからはみ出したアメリカ人としては、他にはコードウェイナー・スミスがいる。ブルース・スターリングがいる。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアがいる。ルーシャス・シェパードも数えていいかもしれない。
    
    作家にははみ出し者が結構いる、というよりはどこかではみ出していないと作家にはならない。ミュージシャンではあまりいないように思える。マイルス・デイヴィスもデューク・エリントンもフランク・ザッパもジェリィ・ガルシアもボブ・ディランも、あるいはジョン・ケージも、とことんアメリカ人ではある。
    
    はみ出してしまった者は音楽には行かないのかもしれない。同じパフォーマンス芸でも演劇やダンスや曲芸に行くとも思える。
    
    JAVS nano/V はパスパワーだが、かなりパワーを喰うようで、MacBook Pro ではバッテリーだと音が悪くなる。バッテリーの減りも速い。電源をつないで使うのが基本。

    DAC など、つなぎっぱなしにしていると、音が悪くなることがある。USB のジャックを換えると回復する。USB につなぐ時は他の USB 接続はしない方が良いらしい。TimeMachine にライブラリを置いて、無線で飛ばす方が音が良いという話もある。
    
    ダギー・マクリーンがあらためてマイ・ブーム。昨年久しぶりのオリジナル新作が出ていた。届くまでの復習に、新しい方から一枚ずつ聞き直す。(ゆ)

 ティム・ロビンスンのこの名著が New York Review of Books から現代の古典として復刻されるそうで、めでたいかぎり。

 元々はアーティストである著者がアイルランド西部、ゴールウェイはコネマラ沖合に浮かぶアラン諸島最大の島、アラン島に住みつき、島内をくまなく歩きまわって、詳細きわまる地図を作る。その過程で見、聞き、触り、嗅ぎ、味わったものを、美しく、喚起力の強い言葉でつづった二部作が『アランの石』 STONES OF ARAN。

 第1部「巡礼」Pilgrimage はアラン島の海岸線を東端の浜の一画から始めて時計回りに一周する。落ちている小石の一つひとつにまでいたると思えるほどに、微に入り、細を穿って描いてゆくのは、島を造る岩の生成から、住みついた生きものたち、かれらと風と波と太陽が刻んできた場所の姿、歴史。さらにはその場所に宿る精神ないし霊。

 アラン島はヨーロッパでも有数の特異な動植物相を持ち、ここでしか見られない植物も多い。著者の植物への関心は学者はだしで、近著 Connemara: Listening to the Wind (Connemara Trilogy 1) (2006) でも存分に発揮されているが、読みおわっての印象は、アラン島は岩と草花と波と風でできている。鳥もいる。人間などは片隅にしがみついている。アラン島では人間は北側の斜面に散在して住んでいる。本書の半分をなす南の海岸線、つまりほぼ一直線に続く有名な断崖絶壁には人影はない。北に回っても、著者はとにかく水際を丹念に歩くので、ここでも人間はほとんど出てこない。アラン島の人間については第2部「迷宮」Labyrinth を待たねばならない。

 そして、この岩と草花と鳥、波と風の世界のなんと豊饒なことよ。人間などの立ち入る余地のない、穏やかにさりげなくむき出しになっているこれは、自然と呼ぶには複雑すぎ、大きすぎる。アランの石は宇宙に直結している。地球の縮図。太陽系の縮図。銀河系の縮図がここにある。

 もう一つ、それを見ている人間の存在。むき出しになっているものを一つひとつ確かめ、観察し、記録してゆく人間の存在。立ち入る余地のないところへ、一歩一歩、入ってゆく人間の存在。アランの石を一つひとつ確かめてゆく過程で、アランと一体化してゆく人間の存在。この人間にとって、歩くことは見ることであり、考えることであり、書くことである。アランの石が宇宙に直結していれば、それを通じて、人間もまた宇宙へとつながる。

 ちっぽけな島なのだが、では、これだけの詳細きわまる探索の対象として、これに匹敵する島が世界中にどれだけあるか。そう思わせるものが、ここにはある。そして、著者の驚異的な観察力と、見たものを岩を刻むようにつづってゆく文章もまた、この島にふさわしい。

 チャンスがあれば日本語に移してみたい作品の一つではある。これはこの人にしか書けない本だから。日本語ネイティヴでこれに相当する本を書ける人間は、まず当分出ないだろう。アラン島という対象がまずユニークであり、アプローチの方法がユニークであり、記述のスタイルがユニークであるからだ。

 いや、チャンスを待つなどと甘っちょろいことを言っていないで、とにかく訳してみるしかないだろう。刊行できるかどうかはいつも二の次なのだから。(ゆ)

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