一番の驚きは本文には無い語彙を見出しに立てる、というところ。本文の記述から概念をとりだしたり、本文のテクストを改変したりして、よりアクセスしやすい見出しをたてろと言う。索引というのは本文とそれに付随する索引対象にある語句、語彙のみを対象にするものだと思っていた。索引の要諦は、レイアウト、配列もさることながら、どう項目を立てるか、拾うかなのだから、そこで内容にまで踏みこめ、というのはメウロコ。
翻訳書も独自に作れ、と暗黙のうちに言っている。とはいえ、原書に立派な索引がついていれば、それをベースにすべきであろうとは思う。英語の本だからといって、索引がついているからといって、それがまっとうとは限らないことがあるにしてもだ。Hugh Thomas の大西洋奴隷貿易の歴史 The Slave Trade の英国版の索引は立派なものだが、アメリカ版の索引はまるでひどいしろものだった。
それにしても本朝で索引がほとんど無視されてきたのはなぜなのだろうか。本全体の中での分量からいえば比較的小さいかもしれないが、索引が無い本は本来備えるはずの価値の半分しかない。明治に初めて触れて、その後、自家薬籠中のものとして、自明のものとして採用されているものは多いのに、索引の重要性はなぜ浸透していないのか。
ひょっとすると、索引の扱われ方が本来妥当なものより犯罪的にまで軽いことは、明治期以降に採用された他の概念、システムも実は本来妥当な形とは相当にかけ離れた形でしか定着していないことを示唆しているのではないかとすら思える。
富国強兵、帝国主義などの採用の仕方も、和魂洋才とか言って、本筋とはひどくかけ離れたものであったために、一度は亡国の憂き目を見なければならなかったわけだ。
索引というのは、とりわけここでいう閉鎖型の、個々の書籍の一部としての索引はそのシステムも姿形も、あまりに本質的すぎて、変形のさせようがない。その概念をそっくりそのまま呑みこむしかない。日本語ネイティヴにはそれは苦手、というよりもまず不可能なのではないか。そこで、索引はそれほど重要ではないということにしてしまう。理解できないものは重要ではない、手が届かない葡萄はすっぱいことにするわけだ。
さらに一つ、ここにも指摘されているが、索引というのは、本文とそれに付随する部分で語られていることを一度分解し、編成しなおすものだ。これに対して無意識のうちにでも反撥する傾向が著者の側にあるのではないか。自分が書いたものは、頭から最後まで、意図した通りに読め、それ以外の「利用」のしかたは著者の権威にたてつくものだ、というわけだ。そこで、索引をよけいなもの、書物に不可欠のものではなく、せいぜいがおまけとみなす。
これは著者の側の不遜というものだろう。1冊の本が著者の意図した通りに読まれことなど、まずありえない。それにたとえその本に書かれていることがいかに重要な、あるいは立派なことであっても、索引によって思いもかけない角度からそこに光が当たることもある。それもまた索引の本質的な役割の一つだ。と、本書を読むとわかる。
あるいは単純に、索引を作るのが面倒なのかもしれない。索引の作成は時間と労力と注意力、そして何よりもシステマティックに構想して、これを実装する能力が必要だ。時間と労力の点では、たとえば索引の校正は、所在指示、つまり見出し語の後についている頁を全部一つひとつ、実際に引いてみるしかない。本全体を見渡し、主旨に沿って多すぎず少なすぎず、大小、軽重のバランスをとって見出し語を拾いだし、整理するのは、大きな構想力と細心の注意の双方の賜物だ。日本語ネイティヴには最も苦手な部分ではある。
英語の本に慣れていると、索引が無い本は片脚をもがれたように見える。中には、本文の中身は凡庸でも、索引が充実しているために重宝する本もある。
これまで索引がまったく無くて驚いたのはユリシーズ・S・グラントの回想録に Elizabeth D. Samet が詳細な注釈をつけた The Annotated Memoirs Of Ulysses S. Grant ぐらいだ。これはしかし、回想録本文が相当に長い上に、それに匹敵するか、これを上回ろうかという分量の注釈と写真、図版を加えていて、B5判に近い判型のハードカヴァー1,100ページを優に超える本だから、索引をつけようとしたら、少なくともこの2割から3割増しになり、現実的ではないという判断だろう。
いずれにしても、本書は、アナログであれデジタルであれ、およそ出版を業とする組織の編集部には必須だろう。ここにもあるが、コンピュータによる検索や、ソフトが自動的に作る索引はホンモノの索引ではなく、索引としての役には立たないのだ。それらには検索の漏れやノイズがあまりにも多すぎる。文脈を読んで、本文には無い項目を見出し語として立てることもできない。将来、AI 利用によって、より柔軟で、内容や概念にまで踏みこんだ読解の上にたった索引作成ができるようになる可能性はある。一方で、AI がフィクションや作曲もするようになっても、生身の人間による創作物がすたれることはないように、生身の人間による索引の価値が落ちることはない。AI はむしろ、生身の人間による索引作成を補助する形が理想だろう。
索引作成は専門のスキルを必要とする高度に職人的な仕事、技なのだ。と、あらためて思い知らされる。(ゆ)