クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

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本の索引の作り方
藤田 節子
地人書館
2019-10-19


 一番の驚きは本文には無い語彙を見出しに立てる、というところ。本文の記述から概念をとりだしたり、本文のテクストを改変したりして、よりアクセスしやすい見出しをたてろと言う。索引というのは本文とそれに付随する索引対象にある語句、語彙のみを対象にするものだと思っていた。索引の要諦は、レイアウト、配列もさることながら、どう項目を立てるか、拾うかなのだから、そこで内容にまで踏みこめ、というのはメウロコ。


 翻訳書も独自に作れ、と暗黙のうちに言っている。とはいえ、原書に立派な索引がついていれば、それをベースにすべきであろうとは思う。英語の本だからといって、索引がついているからといって、それがまっとうとは限らないことがあるにしてもだ。Hugh Thomas の大西洋奴隷貿易の歴史 The Slave Trade の英国版の索引は立派なものだが、アメリカ版の索引はまるでひどいしろものだった。


 それにしても本朝で索引がほとんど無視されてきたのはなぜなのだろうか。本全体の中での分量からいえば比較的小さいかもしれないが、索引が無い本は本来備えるはずの価値の半分しかない。明治に初めて触れて、その後、自家薬籠中のものとして、自明のものとして採用されているものは多いのに、索引の重要性はなぜ浸透していないのか。


 ひょっとすると、索引の扱われ方が本来妥当なものより犯罪的にまで軽いことは、明治期以降に採用された他の概念、システムも実は本来妥当な形とは相当にかけ離れた形でしか定着していないことを示唆しているのではないかとすら思える。


 富国強兵、帝国主義などの採用の仕方も、和魂洋才とか言って、本筋とはひどくかけ離れたものであったために、一度は亡国の憂き目を見なければならなかったわけだ。


 索引というのは、とりわけここでいう閉鎖型の、個々の書籍の一部としての索引はそのシステムも姿形も、あまりに本質的すぎて、変形のさせようがない。その概念をそっくりそのまま呑みこむしかない。日本語ネイティヴにはそれは苦手、というよりもまず不可能なのではないか。そこで、索引はそれほど重要ではないということにしてしまう。理解できないものは重要ではない、手が届かない葡萄はすっぱいことにするわけだ。


 さらに一つ、ここにも指摘されているが、索引というのは、本文とそれに付随する部分で語られていることを一度分解し、編成しなおすものだ。これに対して無意識のうちにでも反撥する傾向が著者の側にあるのではないか。自分が書いたものは、頭から最後まで、意図した通りに読め、それ以外の「利用」のしかたは著者の権威にたてつくものだ、というわけだ。そこで、索引をよけいなもの、書物に不可欠のものではなく、せいぜいがおまけとみなす。


 これは著者の側の不遜というものだろう。1冊の本が著者の意図した通りに読まれことなど、まずありえない。それにたとえその本に書かれていることがいかに重要な、あるいは立派なことであっても、索引によって思いもかけない角度からそこに光が当たることもある。それもまた索引の本質的な役割の一つだ。と、本書を読むとわかる。


 あるいは単純に、索引を作るのが面倒なのかもしれない。索引の作成は時間と労力と注意力、そして何よりもシステマティックに構想して、これを実装する能力が必要だ。時間と労力の点では、たとえば索引の校正は、所在指示、つまり見出し語の後についている頁を全部一つひとつ、実際に引いてみるしかない。本全体を見渡し、主旨に沿って多すぎず少なすぎず、大小、軽重のバランスをとって見出し語を拾いだし、整理するのは、大きな構想力と細心の注意の双方の賜物だ。日本語ネイティヴには最も苦手な部分ではある。


 英語の本に慣れていると、索引が無い本は片脚をもがれたように見える。中には、本文の中身は凡庸でも、索引が充実しているために重宝する本もある。


 これまで索引がまったく無くて驚いたのはユリシーズ・S・グラントの回想録に Elizabeth D. Samet が詳細な注釈をつけた The Annotated Memoirs Of Ulysses S. Grant ぐらいだ。これはしかし、回想録本文が相当に長い上に、それに匹敵するか、これを上回ろうかという分量の注釈と写真、図版を加えていて、B5判に近い判型のハードカヴァー1,100ページを優に超える本だから、索引をつけようとしたら、少なくともこの2割から3割増しになり、現実的ではないという判断だろう。


 いずれにしても、本書は、アナログであれデジタルであれ、およそ出版を業とする組織の編集部には必須だろう。ここにもあるが、コンピュータによる検索や、ソフトが自動的に作る索引はホンモノの索引ではなく、索引としての役には立たないのだ。それらには検索の漏れやノイズがあまりにも多すぎる。文脈を読んで、本文には無い項目を見出し語として立てることもできない。将来、AI 利用によって、より柔軟で、内容や概念にまで踏みこんだ読解の上にたった索引作成ができるようになる可能性はある。一方で、AI がフィクションや作曲もするようになっても、生身の人間による創作物がすたれることはないように、生身の人間による索引の価値が落ちることはない。AI はむしろ、生身の人間による索引作成を補助する形が理想だろう。


 索引作成は専門のスキルを必要とする高度に職人的な仕事、技なのだ。と、あらためて思い知らされる。(ゆ)


 George R. R. Martin が昨年末、『氷と炎の歌』A Song of Ice and Fire の第6巻 THE WINDS OF WINTER の原稿を年末の締切に間に合わせることができなかったと謝罪した。春から放映が始まるテレビ・ドラマ版 Game of Thrones のシーズン6がこの第6巻をもとにしているため、版元としてはドラマ開始前に本を出そうとし、マーティンもそれに間に合わせることを約束していたからだ。締切は当初、昨年のハロウィーンに設定されたが守れず、年末まで延長されたが、やはり守れなかった。

 というのは本とドラマと両方を楽しんでいるファン以外にはどうでもいいことではあるが、より一般的な興味を惹かれるのが、年末原稿締切で3月までに本が出せるのか、ということである。わが国ならなんでもないが、アメリカでこんなことは普通ありえない。しかしそれが可能だと版元からは約束されたとマーティンは書いている。ではそれはいかにして可能かということを、Tor の制作部長 Chris Lough が Tor.com に書いている。ロウは Tor.com のブログの執筆者でもあって、頻繁に面白い記事を寄稿しているが、この記事は質量ともに最高のものだ。

 というのもこの記事は原稿完成から刊行まで3ヶ月でどうやるかということを述べながら、アメリカの小説出版の実際のプロセスを詳細に説明してくれているからだ。長さも10,000語超で、邦訳すれば400字詰原稿用紙100枚を超える。断片的にはあたしも承知していたが、これだけまとまったものは初めて目にする。読者のコメントを見るとアメリカでも無かったらしい。多少とも出版に関わっている人には、自分も含めて興味津々の記事なので、内容をかいつまんで紹介しよう。

 なお、ここに書かれていることは原稿が入ってから本になって出荷されるまでのプロセスだ。原稿そのものの完成への過程、また作品の取得はまた別の話。

 またこれは小説やそれに準じるノンフィクションなどのリニアな本のケースだ。ヴィジュアルの要素、写真や絵、図版の多いもの、辞典などのリファレンス、マニュアルなどは当然変わってくる。なお、ノンフィクションの場合、索引作成が加わる。英語圏のノンフィクションやエッセイ集では索引が無いほうが例外だ。

 さてロウは全体を六つのパートに分ける。

1 編集
2 表紙
3 マーケティングと宣伝
4 営業
5 組版
6 印刷と配本

1 編集
 編集は入った原稿を読み、点検し、改訂して完成させるブロセスなのは、洋の東西を問わない。ロウはここを以下の6つに分ける。

first read
Structural edits
line edit
copy edits
First Pass
Advanced Reading Copies (ARCs)

first read
 何はともあれ、完成した原稿は担当編集者によって読まれなければならない。むろん、単に読者として読むのとは異なる。たいていの編集者はメモをとりながら読むだろう。また、集中する必要もあるから、まとまった時間をとる、あるいはとれる形で読むだろう。まあ、たいていは「5時以降」でしょうね。喫茶店とかに逃げる人もいますね。で、first read を終えると編集者はメモをもとに改訂を著者に提案する。そこで次の段階だ。

Structural edits
 ここで提案されるのは大幅な改訂で、キャラクターの配置転換や合体分離、舞台設定の適正化、ときにはアーサー・ウィーズリーを殺さない変更などもある。シリーズもので巻数が重なってくると、既刊の内容を読んでいることを前提にした部分があまりに多くなりすぎることを防ぐ、なんてこともある。

 改訂に応じるかどうかは著者次第だが、賢明な著者は信頼している編集者からの提案は受け入れるものだ。著者の改訂には当然時間がかかる。3ヶ月というのが目安。これでできあがった原稿に編集者がOKとなれば、ここで原稿は出版社に正式に「受取られる」ことになる。

line edit
 次の段階は一行ごと、センテンスごとの点検、検討、改訂である。単純な誤字脱字の訂正、似たような語彙の使用を避ける、繰り返しの削除などから、会話の調子を前後の章と同じにする、ということもありえる。一語変更するだけで、シリーズ全体を支える謎に回答が出てしまうこともある。これに普通2ヶ月はかかる。

copy edits
 これは時に専門の編集者に任されることもある。文法やスペル・ミスのチェック、文章のつながり、事実関係、論理関係などの点検だ。内容や文体には踏みこまない。シリーズものだと、同じ担当者がずっとやるのが理想。これにだいたいひと月。

 これらのプロセスを経てできあがるのが First Pass と呼ばれる本文だ。名称は出版社によって多少異なる。これは Tor での呼び名だ。ここから Advanced Reading Copies (ARCs) が作られる。本文を印刷したものを製本し、簡単な紙の表紙をつけたもので、各メディアの書評担当、大手書店のバイヤー、推薦のことばを頼む作家、海外のエージェントや出版社の翻訳書担当などに送られる。時には著者がサインしてチャリティ用などに売られたり、読者サービスに使われたりもする。わが国でも時々作られるようになりましたな。原稿が入ってからここまでで普通半年。

 作家にとって良い編集者と組めることは作家としての大成や成功には不可欠と言っていいだろう。編集者との作業がうまくいかないで、良い作品は生まれないし、売れることはもっと無い。では、作家にとって理想の編集者とはどういう編集者か。マーティン自身が1979年の Coastcon II でおこなった講演からロウは引用している。

 いい編集者はどんな編集者か。いい編集者はまっとうなアドヴァンスを払ってくれて、本がきちんとプロモーションされるように社内で立ち回ってくれて、電話をちゃんとかけ返し、手紙には返事をくれる、そういう編集者だ。いい編集者は作家と共同で本を作る。ただし、必要がある時とところでだけだ。いい編集者は作家がめざしていることを把握し、そこに近づけるように作家を助ける。なにかまるで別のものに本を変えようなんてことはしない。いい編集者は自説を曲げないとか、許可なしに変更するなんてことはしない。作家はその言葉に命がかかっている。作品に対して誠実を貫くには、作品に対する最終的な決定権は作家がもたなくてはならない。


 加えて、このブログのコメントでマーティンの担当編集者だとおもうが、Adam Whitehead がマーティンの執筆スタイルについて書いている。それによると、マーティンは1冊の本を頭からリニアに書いているのではない。キャラクターごとにまとめて書く。あるキャラクターについてひとまとまり書くと、別のキャラクターについて書く。そうしてできた原稿を編集者とやりとりしながら再構成して完成してゆく、という(実際はもっと複雑)。これはむしろ映画やテレビ・ドラマの作り方に近い。映画や長いドラマなどでは、俳優のスケジュールなどによって、撮れるところから撮ってゆく。できた長短様々なシーンを編集して1本にする。マーティンは上記の講演をした後、一時小説がまったく売れなくなり、ハリウッドで仕事をしていた。おそらくそこで身につけたのだろう。こういうやり方だと、あとどれくらいで完成とはなかなか言えない。


2 表紙
 これはわが国のものとほとんど変わらない。関わる人間の数が、アメリカでは増えるくらいだ。版元のアート・ディレクター、編集部、営業部、マーケティング部のそれぞれ担当者、画家、写真家などのアーティスト、装幀あるいは本全体のデザイナー。これらの関係者が打合せ、ラフ・スケッチからいくつかの工程を経て最終候補を絞り見本をつくって決定する。わが国と一番違うのは、アメリカではカヴァーの決定に本屋も発言権を持っていることだ。時には最後の段階で書店からの反対で全部ひっくり返り、はじめからやりなおしということもあるそうな。

 アーティストにもいろいろいるが、まともな人は原稿をちゃんと全部読んでから仕事をする。長い作品になると原稿を読むだけで時間がかかる。ここで実例が出ているのは Tor の看板作品の1つ、ブランドン・サンダースンの「ストームライト・アーカイヴ」シリーズ第1巻 WAY OF THE KINGS 『王たちの道』の表紙絵を描いたマイケル・ウィーラン。この原書の表紙は作品内のあるシーンの描写ではなく、作品世界全体のモチーフを表現している。当然全部読まなければできない。これを作ってゆく過程をウィーラン自身が Tor.com のブログに書いている。それによれば、初めに原稿が送られてきた時はその長さにげっそりしたそうだ。

 なかには、おめーらなーんも考えてねーだろ、といいたくなる表紙もあるが、SFやファンタジィでの表紙にはしっかり作ってあるものが多いし、表紙の絵を発表することはプロモーションの基本の一部だ。それは本屋やサイトでその絵を見たときに思い出してもらうためでもあるが、作品世界を端的に伝える有力な方法でもある。「SFは絵だよ」という故野田大元帥の言葉の通り、実際表紙を見ただけで、中身がわからなくても買いたくなる本は少なくない

 先日もオーストラリア在住の Lian Hearne の新作 Tale of Shikanoko のカヴァーが発表された、と Tor のブログに出ていた。断っておくがこれの版元は Tor ではない Farrar, Strauss & Giroux である。ジェフ・ヴァンダーミーアの AREA X 三部作の版元だ。アメリカ版のジャケットの絵はニューヨーク在住の清水裕子によるもの。日本画の伝統技法に乗っ取りながらダイナミックな構図が楽しい。


 さて、多少とも出版を知っている人はすぐにわかるだろうが、わが国のものとまるで違うのが3のマーケティングと宣伝だ。もちろんマーティン作品のような超ビッグ・タイトルについては、今ならわが国でも大手版元は多少ともマーケティングを行っているだろうが、アメリカのようにマーケティングの独立部門があり、専門スタッフが仕事をすることはあったとしてもごく稀だろう。営業部、宣伝部などの一部が担当するか、あるいは編集者の仕事になっているのが一番多い。大手出版社で宣伝部というのは、自社製品の宣伝つまり出広よりも、雑誌に入れる広告を扱う入広が主な仕事だ。

 マーケティングとは何をするものか、というのはロウも書いているように、まことに多岐にわたる、細かい仕事の積み重ねだ。マーケティングの本場アメリカでも、それがどういう仕事か、簡単には掴めないらしい。それにマーケティングが最も成功した時には、あたかもマーケティングがされなかったように見える。超自然的なまでに成功すれば、口コミだけである作家のデビュー作品が売れてゆく。

 実際のマーケティング担当の仕事が列挙されている。ブロガーに ARC を発送したかと思うと、その次には大金をかけた全国規模の宣伝のアートワークを決め、終ると次に営業と組んで可能性のありそうな販売ルート、たとえば Victoria's Secret に "Epic Fantasy Lovemaking" の本を下着とセットにして売る提案をする。さらに、通常の販売対象には入っていない市場調査をする。YouTube にアップするトレイラーの作成、アメリカ全土の放送局にばらまくための著者のインタヴュー映像と録音のパッケージの制作と配布の手配もその仕事だ。放送局ではこうして送られてくるパッケージを適当に編集して、番組にはさみこむ。

 マーケティング担当はまた、Amazon など大手書店チェーンの広報担当、The New York Times 書評欄の担当者や常連執筆者とのコネもつくらねばならない。こうした面では PR つまり Public Relations の仕事もする。

 あえてマーケティングの肝はといえば、想定される読者に本の刊行を知らせ、またその本を買う可能性、潜在性のある読者に本の存在を知らせる、つまり新規市場の開拓にある。新人のデビュー作ならば、その存在とウリをできるだけ広く知ってもらうよう努力する。マーティンのような多数の読者が待ち望んでいるタイトルであっても、そのリリースを知らせ、新たな需要を喚起しなければならない。

 マーケティングの仕事にはもう一つの要素がある。対象の出版物をアピールする際の競争相手は他の出版社ではない。そうではなくて、他のメディアだ。テレビや映画や音楽やゲームやスポーツや食事や旅行やSNSやネット・サーフィンや、その他新旧様々の選択肢のなかから、他のものではなく、本を選んでもらわねばならない。他のメディアには無い魅力があること、他では体験できない面白い体験ができると納得させ、買ってもらわねばならない。LOST やフットボール、バスケット、野球の試合を見たり、LINE でおしゃべりしたり、ハンググライダーでエンパイア・ステート・ビルのてっぺんから飛んだり、マインクラフトでミナス・ティリスを築いたり、フィッシュのコンサートに行って踊りまくったり、Call of Duty で敵をやっつけたり、改造マウンテン・バイクでスコットランドの無人島を駆けめぐったりするよりも、この本を読む方が面白い、と思ってもらわねばならない。アメリカの版元のマーケティング担当者の夢は、スーパーボウルの当日に観戦者と同じ数の人間が、試合ではなく、自分がプッシュした本を夢中になって読んでいる、という姿を見ることだろう。

 本が他のメディアと一番異なるのは読書には読者の積極的な関与が必要なことだ。電子ブック・リーダーを使うにしても、映しだされる文章を読み、ページを繰る作業はしなければならない。さらに読んで楽しむには、そこで想像力を働かせなければならない。テレビや画面の前にすわって目と耳を開いていれば、話が流れこんでくるわけではないのだ。

 だから本こそはマーケティングが他よりも必要なのだ。

 一方でこうしたマーケティングが幅を利かせることが必ずしも良いことばかりでないのは、いろいろな意味で当然だ。作品やそれを生み出したクリエイターを売り込むために整えられたものが「虚像」として独り歩きしてしまうこともある。また、あまりに整えられすぎて、とても本物とは思えなくなってしまうこともある。まったく欠陥のない、ぴかぴかつるつるのイメージが、狙ったものとは正反対の効果を生むこともある。


 4の営業は、アメリカとわが国では書籍流通の方式や経路が違うから、当然仕事の内容も異なる。いわゆる取次営業はアメリカでは存在しない。アメリカでは書籍商は仕入れるタイトルと数を年2、3回、まとめて決定するので、まずそれへの対応がある。わが国でいう、いわゆる新刊配本、つまり出る本は自動的に一定の部数が送られてくることは無い。本屋が仕入れると決めたタイトルが注文した数だけ来る。

 つまり本屋がある本をいくつ仕入れると決定する時には、本自体はまだできていないのが普通だ。小説の場合、表紙の原案とおおまかなストーリーとセールス・ポイントがあるくらい。実際の原稿は著者の頭の中だけ、ということもありうる。

 ここでロウは本屋が売れ残ったものは自由に返品できると書いている。この点は完全フリーではないのではないかとも思うが、あたしにはわからない。あるいは返品数は次の注文への対応に反映される形で制約を受けるのかもしれない。つまり、返品が多ければ、次に注文する際、希望する数を仕入れることができなくなる形。

 いずれにしても何をいくつ仕入れるかに、アメリカの本屋の商売はかかっているわけで、Amazon や Barnes & Noble のような大手は専門のバイヤーがジャンル別にいるのが普通だ。
 
 ジャンルというのはそもそも本屋側の要請でできていて、本にも印刷されている。本屋は厳密にこれにしたがって陳列出品する。ネット上なら、ジャンル別検索のインデックスになる。ある小説作品を science fiction で出すか、fantasy で出すか、thriller で出すか、あるいは fiction で出すかの決定は本の売行に直結する。だから、どこにも属さないような作品は出版を敬遠されたりする。一方でジャンルを明確にすることで、新人のデビューはやりやすくなる。各ジャンルには専門の定期刊行物があり、サイトがあり、書評家がいて、賞も設けられているから、新人の出現には敏感だ。SFFの世界ではコンヴェンションつまりプロアマファンの交流会も盛んだ。商売ではなく、作品から見たジャンルはまた別の話になる。


5 組版
 基本的には日本語と同じ。もちろんわが国では縦組特有の作業が加わるが、書体、字間・行間・余白、紙、印字カラー、総頁数といった要素を選定し、設定し、勘案して決めてゆく。総頁数から他のものが来まる場合もある。昔は500頁を超える本は作るのが大変で、とりわけペーパーバックでは頁数を抑えるために小さな文字をぎっしり詰めていた。その後、製本技術、特に束ねた紙の背中とカヴァーを貼り付ける糊の進歩で、1,000頁の本も珍しくなくなった。おかげで長篇は長くなる一方だ。

 本屋や出版の内幕暴露本として有名な『暴れん坊本屋さん』を読んだ人はご存知のはずだが、ページ数は8の倍数というのも、洋の東西を問わない。というか、これは明治に西洋風の本が導入された時に一緒に入ってきた。

 

 組みあがったものはまず少数印刷製本されて、外部のリーダーに送られることもある。第三者の目でもう一度点検してもらうわけだ。ここで大きな変更が起きることはまずないが、細かい誤字脱字、前後の話のつながりなどが訂正されるのは普通だ。こうして外部の点検も経て Second Pass ができる。ここまでくると、万一改訂が必要になると、ページ数を変更しないようにしなくてはならない。もし半ページ分削除したければ、その分を何らかの形で書き足さなければならない。ファンタジィでは無くてはならない地図、各章の冒頭に入れるカットなどの付属物もここでまとめられる。できあがったものに担当編集がOKを出すと、制作担当はファイルを印刷所に送る。これ以後、重版が出るまでは本に修正はできない。


6 印刷と配本
 印刷は基本的には日本語と変わらない。現代の印刷機はモノクロの場合、1時間で16ページ分を22マイル=35,400メートル印刷できる。つまり1時間36万ページのスピードだ。この印刷機が50台あれば、1,000ページの本36万部を24時間で印刷できる。むろんこれは理想値で、紙を供給するスピード、製本、品質点検、箱詰めなどで実際には遙かにずっと時間がかかる。たいていの印刷会社は製本もする。

 本文とは別にジャケットの印刷が進められる。別の専門印刷会社でおこなわれることも少なくない。その場合はできたジャケットが製本所または製本をおこなう印刷会社に送られ、製本とジャケット掛け、品質点検、箱詰めが行われる。そして出荷となる。

 ここから先はわが国とは異なる。アメリカには東日販のような大手取次はないから、できあがった本はまず出版社の倉庫に入り、そこから各地方の配本会社の倉庫へ出荷される。マーティンのようなベストセラーが確実なものは発売日を合わせるため、遠方の分から出荷される。アメリカでは本は火曜日に発売される。特別なものは月曜から火曜に日付が変わる真夜中に発売ということもある。先日もブランドン・サンダースンが新作 THE  OF MOURNING の発売記念パーティを母校 Brigham Young University 内にある本屋で真夜中にやっていた。

 


 なおマーティンの A Song of Ice and Fire の版元は Bantam Books で、Tor ではない。ファンタジィやサイエンス・フィクションならば他社の本でも積極的にとりあげるところが Tor.com の懐の広いところだ。

 Bantam はペンギン・ランダムハウス傘下で、Tor はマクミラン帝国の一角を占める。Tor は Tom Doherty Associates のブランドで、サイエンス・フィクション、ファンタジィ、ホラーの版元として現在世界最大。なお、英語圏の大手出版社は Big Five と呼ばれ、Simon & Schuster、Penguin Random House、HarperCollins、Macmillan、Hachette。現在世界で出版される本では圧倒的に英語のものが多いから、このビッグ5は世界最大の出版社でもある。これらの下に imprint と呼ばれるブランドまたは子会社があり、普通本の表に出ている版元の名前はインプリントが多い。

 わが国では原稿が渡されてから3ヶ月で本になるのは、マーティンの本のような最優先タイトルだったらまあ普通だろう。あわただしくはあるが、異常事態ではない。もう四半世紀前になるが、宮仕えしていた時、ある小説が原稿完成から3週間で本になったのを目撃した。さすがにこれは異常事態ではありましたがね。いや、ありがたいことに、担当ではありませんでしたよ。

 マーティンはまだまだ書くことはたくさんあり、何ヶ月もかかる、と言う。こうなれば、原稿が入りさえすれば3ヶ月で出るのだろうが、さてはたして今年中に第6巻は出るだろうか。マーティンもそう若くはない。いつ何が起きてもおかしくない。あの体型は血管系の発作を起こしやすいように見える。現在のところ『氷と火の歌』は全7巻予定とされている。(ゆ)


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