クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:美術

 昨年読了した本は53冊。総ページ数12,365ページ。1冊平均237.8ページ。この他に、雑誌、アンソロジー、ウエブ・サイトなどで読んだものもある。そちらはいちいち記録はしていないが、記憶に残るものを一篇あげれば、Wendell Berry の 'The Rise'。1968年発表で、1969年のエッセイ集 The Long-Legged House に収録。LOA の The Story of the Week で読む。その畔に住んでいたケンタッキー河が雨で増水し、普段の何倍もの幅に膨らんだ。そこに上流からカヌーで乗りだし、いつもとはまったく違う世界を体験しながら家まで下る。


Sarah Ogilvie, The Dictionary People: the Unsung Heroes Who Created the Oxford English Dictionary; 2023
 著者はオーストラリア生まれ。英国で学び、Oxford English Dictionary すなわち OED の編集部に入る。オクスフォードで教えることになり、そこを去る日、地下の倉庫に降りて、世界中の協力者たちから送られてきた用例スリップの束にでくわす。

 OED の編集者といえば三代目で実際に OED を出しはじめたジェイムズ・マレーが有名だが、マレーと少数のその編集部だけで OED ができあがったわけじゃない。

 OED の原則は2つある。一つは語彙の意味を歴史にそって並べること。もう一つはすべての意味の時間的変化を用例で示すこと。この用例を収集することは少人数の編集部でまかなえるものではなく、OED の初期編集者たちは全世界の英語話者に協力を呼びかけた。つまり、文献を読んで、ある語彙のある意味を適切に示している用例を抜き書きして編集部に送ってくれというわけだ。語彙と用例、出典を書いた紙切れ、京大カードの一回り小さいくらいのサイズの紙が全世界の英語話者から送られた。英語圏からだけではなく、日本からも送られた。送ったのが日本人とは限らないが。それが全て地下に保管されていたのだ。OED を作ることが可能になったのは、ひとえにこの膨大な数の用例スリップのおかげだ。

 著者が見つけたものはもう一つある。マレーが作っていた住所録だ。用例スリップをたくさん送ってくる人たち、優れた用例スリップを送ってくる人たちの氏名、住所、時にその特徴、そして送ってきた用例スリップについてのメモが書かれていた。用例を探す文献は各自の判断に任されていたが、マレーの方で用例を探したい文献がある場合、本と空白のスリップを送って依頼することもあった。またある語彙の意味の変化を辿って空白の時期の用例を探すことを依頼することさえした。

 著者はこの2つの資料をもとに、用例スリップを送った人びとを追いかけはじめる。大部分は名前と住所だけで、何者ともわからない。それでも調べてゆくとぼんやりわかってくる人もいる。また、正体が詳細にわかる人もいる。こうしてわかった人たちについてわかったことを著者は書いてゆくのだが、まあ面白い。用例スリップを送った人びとのうち学者はごく一部。ほとんどは市井の人たち。実にいろいろな人たちがいる。

 おそらく最も有名なのは、それだけで1冊の本になり、映画化までされた、人殺しをして精神病院で生涯を過したウィリアム・マイナーだろう。

 職をもとめて執拗にマレーにまとわりつき、スリップを送りつづけた男オースティン。この男は家族が経営していた会社からも放りだされる。どこか性格か精神の箍がはずれていたのだろう。しかし送ったスリップの枚数ではダントツでトップ。

 フランクリンの第一次北西航路探索隊に医師として参加し、辛酸を舐め、また命の危険を感じて土着民の協力者の1人を射殺した人物。フランクリンが3度目の試みで行方不明になると、その追跡・探索に向かう。晩年、レイク・ディストリクトに隠棲して、娘とともにマレーにスリップを送りつづけた。

 OED立上げのためのネットワーク作りに誰よりも抜きんでて貢献したアレクサンダー・エリス。11歳のとき、親族の1人が姓を自分の Ellis に変えるなら莫大な遺産を残すともちかけたのに両親が応じて、生涯食うに困らず、趣味を追求した。その趣味の一つが古文献学、方言学。手がけたすべての趣味でプロの業績を残したアマチュア。

 マレー前任者でマレーを編集者に推した Furnivall の弟 William の存在もここで初めて明るみに出る。マレーに送ったスリップと国勢調査などの断片的な情報以外、データが無い。死んだ時約1万ポンドを唯一人親しかった姪に遺贈する。スリップ以外、外部との音信の記録が無い。OED の中だけに存在した人物。これに関連するヴィクトリア朝のイングランドの精神病院の様相もあり、さらにともにスリップを送った対照的な2人の精神科医も登場する。

 読んでいると、OED を生みだしたヴィクトリア朝英国は面白いキャラクターに満ちているとすら見えてくる。ほとんど OED を媒介としたヴィクトリア朝英国社会史の趣すらある。辞書の話というよりは辞書を作った人びとの話で、マレーやファーニヴァルなどの編集部も含めて、立ちまくったキャラクターのオンパレード。こうした人びとが作った OED が最大のキャラということになろうか。


Victoria Goddard, At The Feet Of The Sun; 2022-11
 ゴダードは昨年長篇を1本、中篇を6本リリースした。すべてセルフ出版。電子版だけでなく、紙版もある。

 長篇 The Bone Harp は「九世界」とは別の世界での話。ストーリーは単純で、次に何が起こるかよりも、どう起きるか、それがどう語られるかを味わう小説。しかも、いろいろな意味で、小説の構成や語りの型にまつわる暗黙の決まりを破っている。通常の出版社では構成が破綻しているといって、まず出さないか突返されるだろう。それでいて、小説を読む愉しみを十全に味わわせてくれる。加えて、ここまで徹底的に歌を織りこんだ話は珍しい。魔法としての歌、無生物との、あるいは死者との意思疎通の手段としての歌、武器としての歌、祝福としての歌。ただし、ここでは歌は呪詛にだけはならないらしい。

 その前に、例の The Hands Of The Emperor の続篇 At The Feet Of The Sun を読んだ。Hands と質量ともに肩を並べる雄篇。なお、話の順序としてはこの2本の間に The Return Of Fitzroy Angursell がはさまる。この3本は三部作を成す。長さから言えば Hands と Feet は通常の長篇の3、4倍はあるので、通常の長さの Return が2つをつなぐ形。これから読もうという向きはこの順番で読むことを薦める。

 この三部作はゴダードのこれまでの全作品の核をなす。「九世界」の中心の話だ。これを本流とすれば、Greenwing & Dirt のシリーズが最大の支流を形成する。Feet の最後で2つの話が合体する可能性が示される。

 昨年リリースした6本の中篇のうち、5本は Hands/Return/Feet の話の外伝で、すでに語られた事件を別の人物から見たり、主著に登場する人物たちの前日譚などだ。残る1本は「アブラマプル三姉妹」三部作の第三部。

 アブラマプル三姉妹は九世界の一つ Kaphyrn カフィルンの出身。その砂漠に住む Oclaresh 族の盗賊女王と都市からやってきた芸術家の夫の間の娘たち。長女アルズは魔法の編み手で空飛ぶ絨緞などを織ることができる。次女パリは抜きんでた戦士。三女サーディートは当代並ぶ者のない美貌の持ち主。三部作はまずサーディートが蒼い風の神にさらわれて妻とされたことから始まり、第二部でパリがごく稀な第三ヴェールの戦士の位を授けられ、そしてこの第三部でアルズの冒険となる。アルズは故郷に帰って母親の後を継ぐが、パリとサーディートは「九世界」を股にかける無法者集団「紅団(くれないだん)」の一員となり、その姿はすでに出ている作品のあちこちに現れている。Hands や Feet にも短かいが重要な役割で登場する。紅団については、正面からこれを扱ったシリーズの第一部が出ていて、あたしは続篇の登場を最大の愉しみにしている。


島田潤一郎, 長い読書; みすず書房, 2024-04
 「ひとり出版社」の先駆けとして知られる夏葉社を興した著者の回想録。核は夏葉社をなぜ始めたかの顛末。回想録はやはり面白い。この本を読んで思った。短い読書というのはありえない。細切れに、少しずつであっても、最後には長くなる。読書は長いもの、長くなるものなのだ。ここにも長い本を読む人びとが登場する。長い本を日常のごく断片的な時間の中で読む人びとに感心する。証券会社の営業マンをしながら、立ち食いそば屋でそばをかき込みながらプルーストを読み、谷崎源氏を読み、『カサノヴァ回想録』を読む人。高知の書店に勤め、毎年長い小説を読んでいる人。ドストエフスキー、『兵士シュヴェイクの冒険』『特性のない男』。そして、「決して座れない小田急線に揺られながら、新潮文庫の『魔の山』の上巻を読む」著者。最も共感した一節。

「疲れているから、内容は全然頭に入ってこない。でも、漂流した人が海面に浮かぶ丸太を離さないように、左手に吊り輪、右手に文庫本をしっかりともつ。

 ぼくは目をこすりながら、ページをめくる。それをやめてしまうと、こころがどこか遠くへ行ってしまいそうなのだ。
(中略)
 本を読んでいる時間も、働いている時間も、どちらも現実感がない。でも、世界がふたつあるということが、たいせつなのだ。」

 そうだ、長い本を読むぞ、と決意を新たにしたことであった。


庄野潤三, 世をへだてて; 講談社文芸文庫, 1987-11/2021-07
 その島田氏が称揚していて、それではとまずこれを読んでみた。著者が脳梗塞で最初に倒れた時のいきさつ。老人は他人の病気の話は気になる。書名は倒れたことの前後が別の世と見えたことからつけられている。ここからしばらく庄野の著作を読んでいった。中ではアメリカ留学から生まれた『ガンビア滞在記』『シェリー酒と楓の葉』『ガンビアの春』『懐しきオハイオ』の四部作が面白かった。『鉛筆印のトレーナー』に始まる後期の小説連作も読むつもりでいるが、今は諸事情で棚上げ。今年どこかで戻りたいものだ。庄野が住んでいた生田の丘は、あたしの実家がしばらくあった所から尾根と谷を一つずつ隔てたところで、その家には散歩で何度か行ったことがある。そこが庄野潤三の家ということはなぜかわきまえていたが、その頃は庄野作品とは縁が無かったから、単に周りをまわっただけである。教えられて、折りしも神奈川文学館で開かれていた「庄野潤三展」も見にいった。ちびたステッドラーの鉛筆でいっぱいのボウルの実物に感激した。

佐藤英輔, 越境するギタリストと現代ジャズ進化論; リットーミュージック, 2024-09
 パンデミックでやることがなくなったので書いたそうだが、それならもう2、3回パンデミックが来て欲しいものである。唯一の不満はジェリィ・ガルシアにひと言も触れられていないことだが、それは無いものねだりであろう。

Surrealisme 展図録, ポンピドー・センター, パリ, 2024
 これまた教えられて瀧口修造のデカルコマニーを見にいった画廊で実物見本をぱらぱらやり、矢も楯もたまらず欲しくなって、英語版を注文してしまった。シュールレアリスム宣言百周年記念の一大回顧展の図録。2冊の本が背中合わせになっている。片方はほぼ時系列に沿って、重要な作品を並べる。片方は写真、資料と文章でシュールレアリスムの歴史を辿る。残された人生、シュールレアリスムについてはこれがあれば十分だ。(ゆ)

05月10日・火
 Susan L. Aberth の Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art が届く。キャリントンの生涯と作品を包括的に扱ってベストの本の由。出たのは2010年でキャリントンはまだ生きていた。

Leonora Carrington: Surrealism, Alchemy and Art
Aberth, Susan L.
Lund Humphries Pub Ltd
2010-05-15

 
 名前は知っているけれど親しんではいなかったある作家に急に惹かれるというのは珍しくはないが、この人の場合は小説と絵の両方で、今回のきっかけは全短篇集からなのだが、むしろこれまでほとんど知らなかった絵に惹かれる。
 
 本が届いて包みから出し、表紙が現れて、まずガーンとなる。1950年頃の作とされる "Darvault"。タイトルはイール・ド・フランスのある村の名前、らしい。高い塀に囲まれた荘館の庭、のようだ。表4に掲げられているのは1956年の "Ab eo quod"。ラテン語で「以下の事実により」の意味、とネットには出てくる。降霊術が行われるテーブルが置かれた部屋、らしい。キャリントンは手法はシュールレアリスムだが、主題としたのは錬金術、オカルトと称されるもの、というのがアバースの本のモチーフだそうだ。シュールレアリスムの絵画は好きで、一番好きなのはキリコ、次はマグリットだが、これまでまともに見たことがなかったキャリントンの絵は一番しっくりくる。こりゃあ、ええ。こりゃあ、ええよ。

 この人はその生い立ち、キャリアも面白い。メキシコかあ。やあっぱり、マヤの霊がいるのかねえ。いや、その前にまずキャリントンをじっくり見て、読んでみましょう。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月10日には1969年から1991年まで8本のショウをしている。公式リリースは完全版1本と準完全版1本。

1. 1969 Rose Palace, Pasadena, CA
 土曜日。前売3.50ドル、当日4ドル。開演8時、終演1時。このヴェニューでの2日連続のイベントの2日目。初日はサンタナが出演。メインはクリームのさよなら公演の映像上映。2時間弱の一本勝負。オープナー〈Hard To Handle〉はステージの電気がいかれて最後で中断。3曲目〈Morning Dew〉も機材トラブルでこれからクライマックスというところで中断。ウィアが「くそったれ!」と言うとガルシアが「演奏する音がでかすぎたんだな」。

2. 1970 Atlanta Sports Arena, Atlanta, GA
 日曜日。3ドル。開演4時。
 航空会社のミスで機材が到着せず、デッドはオールマン・ブラザーズ・バンドの機材を借りた。この日はまずオールマンが演奏し、次にデッドが演奏し、最後に両者がジャムをした。デッドのセット・リストの全体像は不明。ショウの前座は地元アトランタの Hampton Grease Band で、最後のジャムにこのバンドの Glen Phillips と Mike Holbrook も参加したという証言がある。
 ビル・クロイツマンは回想録 Deal でこのショウに触れて、Hampton Grease Band のリーダー Bruce Hampton は友人だとしている。056pp.

3. 1972 Concertgebouw, Amsterdam, Netherland
 水曜日。ヨーロッパ・ツアー14本目。オランダでの2日連続の初日は、1888年オープンの由緒あるコンセルトヘボウでのショウ。デッドのせいかどうかは知らないが、ロック・バンドのコンサートで内装を傷つけられたため、現在はロックのコンサートは拒否している由。何でも、ケーブルを留めるため、所かまわずガムテープを貼ったらしい。クラシックのコンサートではケーブルが這うことはないからねえ。
 第一部10曲目〈He's Gone〉が《Europe '72》でリリースされた後、《Europe ’72: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。なお、後者のブレア・ジャクソンのライナーによれば、《Europe '72》の〈He's Gone〉のコーダには1972-07-16コネティカット州ハートフォードでのショウのコーダのコーラスがオーヴァーダビングされている。
 フランクフルト、パリ、ビッカーショウ・フェスティヴァルが一つのピークだったか、このショウはどこか疲れが見えないこともない。長いツアーでは当然波がある。このツアーのように、ショウの間があいていても、そういう波はあるだろう。波は高まれば低くならざるをえない。そういう調子の波が最も顕著に現れるのはどうしてもガルシアになる。
 この日のガルシアはなかなか点火しない。歌はまだきっちり歌っているが、ギターははじめほとんどおざなりに聞える。4・5曲目で〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉をやるが、ほとんどソロを弾かない。12曲目〈Playing In The Band〉でようやく弾くのをやめなくなって良くなりはじめ、3曲後の〈Tennessee Jed〉で見違えるように良くなる。次の〈Big Boss Man〉で完全に回復し、さらに次の〈Greatest Story Ever Told〉では離陸してすばらしいソロを聴かせる。第二部でもそのまま飛びつづける。ショウの仕舞いに向かう前の〈Sugar Magnolia〉のギターがこの日のベスト。
 第一部14曲目〈Jack Straw〉ではガルシアとウィアのヴォーカル分担が復活し、以後は常に2人が役割分担して歌われる。
 この日のビッグ・ジャムは〈The Other One〉で、第二部を〈Truckin'〉で始めて、短かいドラムスをはさんですぐに移る。これも良いが、この日はむしろこの後に続くゆっくりしたバラードに聴き所が多い。すぐ後の〈Wharf Rat〉、2曲後のピグペンの〈The Stranger〉、さらに2曲後の〈Sing Me Back Home〉。いずれも歌いだしは力を抜いて、投げやりのようなのが、進むにつれて徐々に力が入り、最後は熱唱になる。〈Sing Me Back Home〉は回を重ねるごとに良くなる。
 ピグペンもどちらかというと疲れているようだが、このツアーではとにかく踏ん張っている。オルガンもしっかり弾いているし、〈The Stranger〉は弾きながら歌う。〈Not Fade Away〉もきっちり決める。
 アンコールは無し。
 次は翌日のロッテルダム。

4. 1978 Veteran's Memorial Coliseum, New Haven, CT
 水曜日。7.50ドル。開演7時半。
 第二部3曲目〈It Must Have Been The Roses〉とアンコールの〈U.S. Blues〉を除き、《Dick's  Picks, Vol.25》でリリースされた。

5. 1980 Hartford Civic Center, Hartford, CT
 土曜日。10.50ドル。開演7時半。
 これも良いショウの由。春は本当に毎年調子が良い。

6. 1986 Frost Amphitheatre, Stanford University, Palo Alto, CA
 土曜日。このヴェニュー2日連続の初日。14ドル。開演2時。
 これも良いショウの由。

7. 1987 Laguna Seca Raceway, Monterey , CA
 日曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。20ドル。開演正午。ライ・クーダー、ブルース・ホーンスビィ&ザ・レンジ前座。
 第一部3曲目〈West L.A. Fadeaway〉にロス・ロボスのデヴィッド・イダルゴが参加。

8. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA
 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。開演7時。
 第一部2曲目〈They Love Each Other〉がブルース・ホーンスビィのボックス・セット《Intersections: 1985-2005》の DVD でリリースされた。
 かなり良いショウの由。(ゆ)

 1969年生まれの南インド、カルナータカ出身の美術家の展覧会。どちらかというと北よりは南の方が好みではある。ビームセン・ジョーシーよりもスブラクシュミだ。シタールよりもヴィーナだ。ヴィーナはこの展覧会でもあちこちに出てくる。インド亜大陸は英国の植民地化が完成するまで、全土が統一政権のもとに入ったことはない。南は常に独立していた。展示の一角に中世マイスールの寺院の壁に刻まれた細密彫刻のスライドがあった。精密極まる細部と、全体の規模の巨大さに圧倒される。この時期の南インドは現在のインドネシアからアフリカまで股にかけた海洋帝国をつくっていて、各地に巨大な建築が残っているそうだが、あらためて舌をまく。

 会場に入ってまず感じたのは、巨大な量感だ。でかいだけでなく、ぎっしり中身が詰まっている。全体として巨大だが、細部まで描きこまれていて、細かく見ようと思えばいくらでもストーリーが見えてきて、まともにつきあおうとしたら1日や2日ではすみそうもない。まさに、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の世界だ。ちなみに『ラーマーヤナ』には南インド版ともいえる『カンバ・ラーマーヤナ』もある。『カンバ・ラーマーヤナ』が『ラーマーヤナ』を11世紀タミールナドゥの時空に置き換えた語直しであるように、ハルシャの作品群も現代のマイスールに置き換えた世界の物語の語直しに思える。

 こんなに物語を感じた美術展は初めてだ。一つひとつの作品がそれぞれに物語を語り、その細部がそれぞれに物語を語り、そして展覧会全体が物語を語る。その物語は当然一つではなく、いくつもの物語が重なり、響きあい、あるいは飛び交い、錯綜する。しかし混沌ではあっても混乱ではない。秩序とは違うなにかの、論理でもない、つながり、筋がある。作品独自の、それぞれの細部の、そして作家のなかの、つながりがある。明瞭に見えるわけではなく、むしろ暗示されている。物語は作家の中にあるのではなく、見る者の中にあり、それが作品によって誘発され、引き出されるようでもある。

 絵画作品、とはまた違う。床の上に説明もなく、あちこちほおり出されているように置かれている「絵」もある。天井に一つだけ離れて描かれているものもある。インスタレーション、パフォーマンス作品が入交る。「彫刻」の部類もある。ひと部屋全部、各国の国旗の上に置かれたミシンで埋めつくされ、壁にそって積み上げられたそれらの間に色とりどりの糸やヒモが渡されている。これは鑑賞よりも体験だ。展覧会全体が、見るよりも体験するように構成されている。床に寝転んで天井の鏡に映る床に描かれた顔の中の自分の姿を見る。高さ3.7メートル全長24メートルの循環する宇宙の環は「見る」だけではどうしようもない。子どもたちが思い思いに色を塗りたくった白いシャツの壁一面の展示。これはむしろ、来訪者一人ひとりが白いシャツにその場で色を塗れるようにしたかったのだろう。

 絵画として見ても、もちろんヨーロッパの伝統とはまったく異なる。遠近法がほとんど無い。無限とも思える反覆と繰り返すたびに少しずつ変化する差異に、巨大な画面に吸いこまれてゆく。「チャーミングな国家」のシリーズはぼくらが見慣れた絵画に一番近いとも言えるが、これも全体が1枚の「絵」であって、それぞれのフレームの中はその一部であると見るべきかもしれない。

 こうして体験するものは何か。

 一つは底知れないエネルギー。そして、ユーモアのセンス。そこから生まれるこの世に生きてあることの肯定だ。クソッタレとはきだしたくなることも多いし、どんどん増えるような気さえするが、それでも世界がこうしてあること、そこに生きていることは、それだけですばらしい。ポジティヴなエネルギー、ポジティヴなユーモア、楽天的であろうと意志する力。

 その意味で一番印象的なのは全体の核をなす「ここに演説をしにきて」とそのすぐ横、順番でいえば直前に置かれた「溶けてゆくウィット」だ。展示室の中でみると、奥の壁いっぱいを占める前者の前には人がたくさん立っているのだが、その右手の後者の前にはほとんど人がいない。しかし、おそらくこの二つはペアになるものだろう。少なくともぼくにはそう見えた。後者があるからこそ、前者が生きてくる。前者だけでは肝心なものが脱けてしまう。後者を描いているからこそ、この人は信用できる。

 買ってきた図録をぱらぱらやっていると、また記憶がよみがえる。最後の方に置かれていた「消費の連鎖の中で」を見ると、『ラーマーヤナ』の悪役、ラーヴァナとはこれのことだったのかとあらためて思い当たる。ラーヴァナは「ここに演説をしに来て」のなかにもいる。顔が向かって右に5つ、左に4つ着いていて、両隣が邪魔そうにしているのがそれだ。

 展覧会はたいていくたびれるものだが、今回のくたびれ方はまた格別だった。満腹感と高揚感もたっぷりしていて、身体はくたくただが、気分はさわやか。

 やはりインドは面白い。

 それにしても、土曜日午後の六本木ヒルズの人混みには辟易する。まっすぐ歩けない。森美術館ではこのハルシャ展の他に、マーヴェルとエルミタージュの展覧会も開かれ、さらにミュシャもまだやっていて、地上の入口では会場に入るまで30分とか出ていて恐れをなしたのだが、幸い、ハルシャ展はそれほどの混みようではなかった。それでも若い人たちがたくさんいるのには意を強くする。こうなると我々のような老人も、印象派ばかりではなくて、こういうものも見ろよ、体験しろよと言いたくなる。エルミタージュ展には老人が多かったのだろうか。手許の券は三つとも見られるものだったが、他を見るまでの体力はなかった。

 この展覧会に招いてくれた川村龍俊さんに心から感謝。(ゆ)

 今日はウィリアム・バトラー・イェイツの誕生日。DNBのフリー配信はそのイェイツの項目(1週間はタダで見られる)。執筆者は R. F. Foster というのはまあそうであろう。項目の長さはワーズワース、ブラウニング、チョーサーに次ぎ、キーツより上。とはいえこのあたりは数百語の違いなので、まず同等といっていいだろう。詩人ではテニソンがワンランク上にあり、ミルトンがその上、そしてコールリッジが18,800語で、詩人では今のところトップ。文学者ではその少し上にディケンズがいる。別格はシェイクスピアで、これは手許にある DNBの項目でもトップで、エリザベス一世より長い。

 イェイツはその所属する集団がほぼ滅亡する寸前に現れ、アイルランド全体の文化を代表する存在になったというところで、カロランに似ている。

 ウィリアム・バトラーは詩人として名をなしたが、父親も姉妹弟も画家として名をなしたのは、おもしろい。ウィリアム・バトラーも画才があり、一家の絵を集めた展覧会の図録はときどき取出して見る。ウィリアム・バトラーの詩も言葉で絵を描いているようにも思える。 

 駐日アイルランド大使館ではイェイツ生誕150周年ということで「イェイツ・デー」と銘打って、様々な催しをしている。

 今月は16日が「ブルームの日」で、アイルランド文学の関係者は忙しい。(ゆ)

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