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部厚い本を読む方法
02月28日・月
Washington Post Book Club のニュースレターで筆者 Ron Charles が部厚い枕本をいかに読むかの工夫の一つを紹介している。
注意を集中できる時間の長さがどんどん縮んでいるのが問題になっているが、Washington Post のハードカヴァーの小説のベストセラー・リストでは話が違う。少なくとも、まだ本を買う人間にとっては話が違う。今週の上位5冊の平均は600ページ。ちょっと下がると、Hanya Yanagihara "To Paradise" が720ページ、2018年のノーベル賞受賞者 Olga Tkarczuk の "The Books Of Jacob" は992ページだ。
長く入り組んだ話を毎日寝る前に15ページずつ読むのは、ドラマの1シーンを1ヶ月かけて見るようなものではないか。これはそのドラマを一晩で見るのとはまるで違った体験になるはずだ、というのはわかる。どういう体験かはすぐにはわからないにしても。
これは確かに面白い問題で、見るのにかかる時間だけではなくて、演じられるものをただ見るのと、活字を読んでそのシーンを頭の中に浮かびあがらせたものを見るのでは、まるで違った体験になる。
18世紀のポーランドの神秘主義者 Jacob Frank の話である "The Books Of Jacob" を読んでやろうという人向けに Olga Tokarczuk Books Calculator なるサイトがあるそうだ。ポーランドの本の虫たちがつくったサイトで、読む時間がどれくらいあるかと自分の読書スピードを入れると、この作家のどの本から読めばいいか、どれくらいで読みおえられるかを計算してくれる。わかったら、あとはただ読みはじめればいい。まことに簡単。
いや、そりゃそうだろうけどさ、自分の読書スピードは測ったことがないし、本によっても変わるし、日本語と英語では当然違う。
とにかく読みはじめればいいというのはまったくその通りだが、次々に目移りして、いつまでたっても読みおわらない、途中で読みかけた本だけが増えていくのはどうすればいいのか。とにかく読みおわるまでは次の本を読まない、というのをルールにしたこともあったが、長続きしたことはない。
トカルチュクの作品はいくつか邦訳もされているけれど、代表作ならば The Books Of Jacob ヤクプの諸書になるとすれば、こいつから読みたいわな。それが邦訳されるかどうかわからないから、といあえず英訳(7年かかったそうな)を読むか、ということになる。それにチャールズと同じく、部厚い本は好きだ。読みおえられるかどうかは関係ない。部厚い、というだけでわくわくしてくる。だから、部厚い本は電子本ではダメなのだ。部厚いブツを手に持ちたい。その部厚さを眺めてにやにやするのだ。どこまで読んだか、一目でわかるのが嬉しい。読みおえて本を閉じる時の快感。しかし、もう部厚いブツを置いておくスペースは無い。それに電子版はすぐ読みはじめられる。無料サンプルもある。
ということで、とりあえず、無料サンプルをダウンロード。巻頭に18世紀のヨーロッパの地図。現在のウクライナの東半分はロシア帝国、西半分はクリミア半島も含めてポーランドの領土。
##本日のグレイトフル・デッド
02月28日には1969年から1981年まで4本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版1本。準完全版1本。
1. 1969 The Fillmore West, San Francisco, CA
金曜日。このヴェニュー4日連続の2日目。3.50ドル。この日の演奏からは《Live/Dead》への収録は無し。《Fillmore West 1969: The Complete Recordings》で全体がリリースされた。第一部全部と第二部〈Dark Star〉からの4曲が抜粋盤《Fillmore West 1969 (3CD)》に収録された。
この日の第一部は2曲目から〈Good Morning Little Schoolgirl〉、3・4曲目〈I'm A King Bee〉〈Turn On Your Lovelight〉とピグペン祭りだ。第二部は一変して、ピグペンの影もない。無いはずはないが、音には出てこない。オルガンはトム・コンスタンティンだ。
原始デッドはピグペンが原動力のはずだが、その完成した姿の中では居心地があまりよくないように見える。ピグペンが前面に立つ時のデッドは、それ以外の時と別のバンドのようだ。これもまたデッドを貫く「双極の原理」の現れの一つだろうか。ピグペンが脱けてそちらの位相は消えるわけで、ピグペン・デッドとそれ以外が、ガルシア、ウィア、それぞれがリード・ヴォーカルをとる曲の対照に入れ替わる、としてみよう。
この日のショウにもどれば、〈Turn On Your Lovelight〉を第一部にやっているために、〈That's It For The Other One〉から〈Dark Star> St. Stephen> The Eleven〉と来て、ガルシアのブルーズ・ナンバー〈Death Don't Have No Mercy〉をはさんで、また〈Alligator> Caution〉と集団即興のジャムが続く。誰もビートをキープしていないのに、全体としてビートはしっかり刻まれて、一見、それぞれに勝手なことをやっているようなのに、全体としては調和がとれている音楽が流れてゆく。その間、ドラムスでは「ラクタ、タケタ、タケタ」という口打楽器まで出てくる。この時期以外では聴いた覚えがない。最後の〈Feedback〉は後の "Space" そのもの。こうしてみると、メロディもビートも無い、このクールでフリーな時間を、デッドは必要としていたとわかる。そして、デッドによるこの演奏、音楽は聴いていても面白い。こういうあくまでもフリーな即興が聴くだけでも面白いのは、メンバーの音楽的蓄積が生半可なものではないことの証しの一つではある。デッドのコピー・バンドがコピーしようとして聴くにたえないものになるのは、こういう演奏だ。かれらはデッドしか聴いていない。それではデッドのコピーはできない。デッドの本当のコピーをしようとするなら、デッドが聴いていた音楽も聴かねばならない。
2. 1970 Family Dog at the Great Highway, San Francisco, CA
土曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。コマンダー・コディ前座。約2時間の一本勝負。5〜7曲目〈Monkey And The Engineer〉〈Little Sadie〉〈Black Peter〉はアコースティック・セット。その前後はエレクトリック・セット。
3. 1973 Salt Palace, Salt Lake City, UT
水曜日。ここで年初からのツアー1度中断。次は2週間後にニューヨーク。第二部5曲目〈The Promised Land〉を除く全体が《Dick's Picks, Vol. 28》でリリースされた。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが間で演奏し、ガルシアがペダルスティールを弾いた。
《Dick's Picks, Vol. 28》は2本のショウをCD4枚に収めるが、CDの収録限界に収めるため、どちらも曲を削っている。この日は、この時期にしては短かめのショウで、削られたのは1曲ですんだ。
内容は第一級で、良い時のデッドらしく、緊張と弛緩が同居する。ここではまずドナの貢献が目立つ。〈Beat It On Down The Line〉は終始ウィアとの二重唱が見事に決まり、〈Box Of Rain〉ではレシュの歌にハーモニーをつけて、ぎくしゃくした彼の歌唱を滑らかにし、〈He's Gone〉でもコーラスがリッチになる。これを聴くだけで幸せになる。
〈They Love Each Other〉は闊達でポップ、アップテンポの弾むような演奏。この歌はこういうスタイルと、リリカルに流れるような演奏と二つの面を持つ。弾むヴァージョンでは、ユーモラスな面が前に出る。ユーモアの点では次の〈Mexicali Blues〉はバーロゥとウィアのコンビによる最初の歌で、歌詞は深刻にも読めるが、メロディと演奏スタイルはユーモラスだ。いわゆる "gallows humour" というやつ。この流れはさらに〈Sugaree〉にも続く。
第二部でも快調そのもので、ガルシアのソロも冴えわたる。〈Truckin'〉の後半で、ベースとドラムスだけの対話となり、ベース・ソロから、オープニングのリフで〈The Other One〉、〈Eyes Of The World> Morning Dew〉まで止まらない。クローザーの〈Sugar Magnolia〉の中間のブレイクは結構長いが、"Sunshine Daydream" の始まりはふつうで、フルバンドによる「ドン!」はまだない。ここでもウィアとドナの息はぴったりで、最後にドナが "Thank you."
4. 1981 Uptown Theatre, Chicago, IL
土曜日。このヴェニュー3日連続のランの最終日。11.5ドル。開演7時半。第一部クローザーの〈Let It Grow> Deal〉が2012年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
この2曲だけでもこのショウの質の高さは鮮明。どちらもアップテンポで、前者はマイナー調なのでぐんと切迫感が強い。後者は明るく陽気な曲で開放的だ。
前者ではガルシアがこの時期の特徴の一つでもある細かい音を連ねる奏法を続けて、さらに切迫感がつのる。この奏法はおそらくブルーグラスのバンジョーをエミュレートしたものだろう。デッドを始める前、ガルシアはブルーグラスに入れあげて、ベイエリア随一のバンジョー奏者とも言われた。エレクトリック・ギターでやるとバンジョーのように音が跳ねないので、音楽が発散されず、1ヶ所に集中してゆく。どんどん集中してゆく一方で、その集中が引きのばされる。いわば無限に収束してゆくので、いつまでも集中しきらない。まるでその無限の空間から音が湧きでてくるようだ。ひとしきりジャムを続け、元にもどってウィアとミドランドが2度目のコーラスを歌った後も、ガルシアは弾きやめようとしない。ミドランドが何度かうながして、ようやくコーダのフレーズに移る。
その最後の音の次にいきなり後者を始める。ミドランドは電子ピアノからハモンド・オルガンに斬りかえる。ここではがらりと変わって、突きぬけるような解放感のもと、ガルシアは気持ち良さそうにギターを、バンジョーではなくギターを弾く。ガルシアの声も元気。元気に弾くガルシアをミドランドが応えて煽り、それにガルシアが乗るのにさらに返す。二人の掛合、からみあいに興奮する。やめたくないのがありあり。コーダのコーラス・リピートをやってもまだやめず、もう1度やる。(ゆ)
『SFが読みたい! 2022年版』
02月11日・金
『SFが読みたい! 2022年版』所載の海外篇ベストSF2021で、あたしが訳した『時の他に敵なし』が第6位に入った、というので、初めて買ってみる。
どなたが、どのようにして選んでおられるのかも承知しないが、自分の仕事がこうして認められるのは嬉しい。何はともあれ、ありがとうございます。そして、これを機に少しでも売れますように。
このリストでは内田さんの訳された『時の子供たち』が2位に入ってもいて、これまためでたい。
ベスト10のうち、この本の版元の早川のものが半数なのはまあそんなものだろうが、『時の他に敵なし』の版元、竹書房が2点、早川の他では唯一複数入っているのも、めでたい。Mさんの苦労も報われたというものだ。
エイドリアン・チャイコフスキーも面白いものを書く人と思うので、評価されるのはめでたい。この人、ひと頃のシルヴァーバーグやディックなみに量産しているのも今どき珍しいし、虫好きで、これもそうだが、虫がたくさん出てくるのも面白い。動物との合体はSFFに多いが、虫との合体は、スターリングにちょっとあったくらいじゃないか。ディッシュの短篇に「ゴキブリ」という大傑作があるが、あれはむしろホラーだ。チャイコフスキーはもっと普通の話。出世作の十部作のファンタジーはキャラクターの祖先が虫で、祖先の虫が何かで部族が別れていたりする。だいたい、この人の名前がいい。チャイコフスキーは元々ポーランドの名前で、作曲家も祖先はポーランドの出身だそうだ。『ウィッチャー』で注目されるポーランドには、なんてったってレムがいるけど、『ウィッチャー』以外の今の書き手も読んでみたいものだ。
レムと言えば、ジョナサン・レセムが先日 LRB に書いていたエッセイ、「レムを読んだ1年」はなかなか面白い。今年は無理だが、来年はレムを読むぞ、と思ったことではある。
ぱらぱらやっていると、中国に続いて、韓国のSFも盛り上がっているのだそうだ。英語圏でも Yoon Ha Lee がいるし、E. Lily Yu も確かコリアン系ではなかったかと思う。中国系はやはりケン・リウの存在が大きい。今の中華系SFの盛り上がりはほとんど彼が独力で立ち上げたようなもんではある。
アジア系ではサムトウ・スチャリトクルのタイが先行したけれど、やはり今世紀に入ってどっと出てきた感じがある。去年やらせてもらったアリエット・ド・ボダールのヴェトナムでは、Nghi Vo の The Empress Of Salt And Fortune が今回ヒューゴーのノヴェラを獲った。あれは受賞して当然だし、やはり去年出した初の長篇 The Chosen And The Beautiful も面白かった。フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を視点を換え、世界を少しずらしてゴシック・ファンタジーに仕立てなおした1篇で、実に見事な本歌取りになっている。元歌がフィッツジェラルドなので、一般読書界からも注目された。Washington Post の Ron Charles は、こちらの方が話のつじつまが合うと言っていた。
ヴェトナムは今のところ、もう一人 Violet Kupersmith も含めて、ファンタジー色が強いのも面白い。アリエットの「シュヤ」のシリーズにはサイエンス・フィクションもあるから、これから出てくることを期待する。
##本日のグレイトフル・デッド
02月11日には1966年から1989年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本。
1. 1966 Youth Opportunities Center, Compton, CA%
Watts Acid Test と呼ばれるイベントとされるが、アウズレィ・スタンリィの言葉だけで、明確な証拠はない。アシッド・テストに関するベアのコメントは信用性が低いことで知られる。このイベントのものとされているテープが存在するが、その憶測を支持する根拠は無い。
2. 1969 Fillmore East, New York, NY
このヴェニュー2日連続の初日。《Fillmore East 2-11-69》で全体がリリースされた。
ショウは Early と Late の2本立てで、ともに1時間強。ジャニス・ジョプリンが自分のバンド、後に Kozmic Blues Band と呼ばれるバンドを率いての初のライヴで、デッドはその前座。デッドの演奏を見たジョプリンは、あたしたちが前座をするべきだね、と言ったと伝えられる。
いろいろな意味で興味深いショウ。とりわけ、遅番ショウの冒頭の2曲〈Dupree's Diamond Blues〉〈Mountains Of The Moon〉をアコースティック仕立てでやっている。ガルシアはアコースティック・ギターで、後者の途中でエレクトリックに持ち替える。この年は原始デッド完成の時期だが、すでに次のアメリカーナ・デッドへの模索が始まっていたのだ。ともに演奏としては上の部類で、こういう仕立ても立派に成り立つと思わせる。ともに《Aoxomoxoa》収録。
〈Dupree's Diamond Blues〉は1969年01月24日にサンフランシスコで初演。07月11日を最後に一度レパートリィから落ち、1977年10月02日、ニューヨークで復活。1980年代を通じてぽつりぽつりと演奏され、最後は跳んで1994年10月13日のマディソン・スクエア・ガーデン。計78回演奏。公けの初演の前日のリハーサルの録音が《Download Series, Vol. 12》に収録されている。
〈Mountains Of The Moon〉は1968年12月20日、ロサンゼルスで初演。1969年07月12日、ニューヨークが最後。《Aoxomoxoa》の1971年リミックス版が出た時のインタヴューでガルシアは、この曲はお気に入りだと言っているが、結局トータル13回しか演奏されなかった。
このショウの話題の一つは早番ショウの最後にピグペンが〈ヘイ・ジュード〉を歌っていることで、デッドとしての初演。オリジナルは前年8月にリリースされているから、カヴァーとしては早い方だろう。一聴すると、ひどくヘタに聞えるが、ピグペンは自分流に唄おうとしている、というより、かれ流にしか唄えないのだが、そのスタイルが楽曲とはどうにも合わない。おそらく自分でもそれはわかっているが、それでも唄いたかった、というのもわかる。ただ、やはりダメだと思い知ったのか、以後、長く封印され、1980年代半ばを過ぎてようやくブレント・ミドランドが持ち歌として、今度はショウの第二部の聴き所の一つとなる。
デッドがジャニス・ジョプリンの新たな出発に立ち会うのはまことにふさわしいと思える一方、デッドはまたこういう歴史的場面に立ち会うような星周りの下にあったようでもある。DeadBase XI の Bruce C. Cotton のレポートにあるように、当時、デッドはまだローカルな存在だったが、後からふり返るとそこにデッドがいたことで輝く瞬間に立ち合っている。North Face がサンフランシスコに開いた最初の路面店のオープニングで演奏しているように。
もっともこのコットンのレポートはかなり脚色が入っている、あるいはその後の体験の読込みが入っているように思える。
ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーはクィックシルヴァーやエアプレイン同様、サンフランシスコ・シーンの一員だが、この二つのメンバーがデッドのショウに参加することはあっても、ビッグ・ブラザーのメンバーは無かったようなのは、興味深い。
まったくの余談だが、ジョプリンがビッグ・ブラザーを離れたことには、ビッグ・ブラザー以外の誰もが喜んだように見える。自分たちの音楽によほど自信があったのか、音楽的な冒険をすることに臆病だったのか、理由はわからないが、すでにできあがったスタイルに固執していて、それがジョプリンの可能性の展開を抑えていたという印象がぬぐえない。一方でその頑固さがジョプリンの保護膜にもなっていたとも見える。
3. 1970 Fillmore East, New York, NY
このヴェニュー3本連続のランの初日。日曜日までフィルモア・ウェストで3日連続をやり、月火と2日置いてニューヨークで3日間、20日から4日間テキサスを回り、3日置いてサンフランシスコのファミリー・ドッグ・アト・ザ・グレイト・ハイウェイで3日連続と、まさに東奔西走。
これも8時の早番と 11時半の遅番の2本立てで、3.50、4.50、5.50ドルの3種。オールマン・ブラザーズとラヴが共演。
早番のオープナー〈Black Peter〉が2012年の、遅番の2曲目〈Cumberland Blues〉が2021年の、アンコール〈Uncle John's Band〉が2010年と2013年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた。
遅番の〈Dark Star〉にラヴの Arther Lee がパーカッションで参加。ピーター・グリーンとデュアン・オールマンも参加したらしい。〈Turn On Your Livelight〉にグレッグ・オールマンがオルガンとヴォーカルで、ベリー・オークリィがベースで参加。ダニー・カーワンも入っていたらしい。
アンコールはアコースティック・ギター1本とヴォーカルだけで、なかなか良い演奏。
オールマン・ブラザーズ・バンドがツイン・ドラムスの形を採用したのはデッドの影響、というのはどこかで誰かが証明していないか。フィルモアのライヴでも顕著な長いジャムやスペーシーな即興もデッドの影響だと言ってもおかしくはない。
4. 1979 Kiel Auditorium, St. Louis, MO
このヴェニューでは、昨年のビッグ・ボックス・セット《Listen To The River》でリリースされた1973年10月30日以来久々のお目見え。セント・ルイスでは1977年05月15日に演っている。年初以来のツアーの最後。あともう1本、17日にオークランドでショウをして、ガチョー夫妻はバンドを離れる。
5. 1986 Henry J. Kaiser Convention Center, Oakland, CA
16ドル。開演8時。このヴェニュー5本連続の中日。ネヴィル・ブラザーズ前座。さらに、第二部のオープナー〈Iko Iko〉〈Eyes Of The World〉とそれに続く Drums、さらに3曲のアンコールにも参加。
ミッキー・ハートの招きでジョセフ・キャンペルがこのショウを見にきて、「デュオニソスの儀式、バッカスの宴そのままだ」と述べたと伝えられる。
6. 1989 Great Western Forum, Inglewood, CA
開演8時。このヴェニュー3日連続の中日。第二部 Drums にアイアート・モレイラが、Space の後の〈Eyes Of The World〉にアイアート&ダイアナ・モレイラとフローラ・プリムが参加。年頭から5本目にして、ようやくエンジンがかかってきたようだ。(ゆ)
03-27: ヴァルザー、翻訳
『茶匠と探偵』が『本の雑誌』2020年のSFベスト1位!
No Enemy But Time, by Michael Bishop
わが思い出のSFマガジン
『東京人』2019年12月号「偏愛文具」
サミュエル・ディレーニィの自宅の朝食のテーブルにはノートとボールペンが載っていた。
Paul Park は1983年にマンハッタンのアパートと職を捨ててアジアへの旅に出た。ヒマラヤをトレッキングし、インド、ビルマ、ネパール、それに東南アジアを回った。最初の長篇 "Soldiers Of Paradise" (1987) はその旅の途中、ラジャスタンから黄金の三角地帯にいたる、あるいはマンダレーからジョクジャカルタまでの、安ホテルや借り部屋で、ノートやメモの切れ端に書かれた。当然手書きだ。宇野千代は『東京人』の特集でも宣伝されている三菱鉛筆の uni で書いた。初めは2Bを使っていたのが、年をとるに連れて濃く柔かくなり、最後は6Bだったそうだ。名著『森のイングランド』を川崎寿彦は鉛筆で書いた。
『シュヤ宇宙作品集』のこと
翻訳の勉強
スターリングラードでパウルスに対抗したチュイコフ将軍の第六二軍は、第八親衛軍として長い道のりをベルリンまで進軍した。チュイコフは占領軍の総司令官となる。彼はソヴィエト連邦元帥に昇りつめ、あの危機を迎えた九月の夜、ヴォルガ河畔で彼を任命したフルシチョフのもとで国防省代理にもなった。彼の命令によってスターリングラードで処刑された多数のソ連軍兵士には墓標のある墓はない。統計の上でも彼らは他の戦闘の死者に紛れこんでいる。そこには期せずしてある種の正義が存在すると言えるだろう。
His opponent at Stalingrad, General Chuikov, whose 62nd Army had followed the long road to Berlin as the 8th Guards Army, became commander of the occupation forces, a Marshal of the Soviet Union and deputy minister of defence under Khrushchev, who had appointed him on that September night of crisis by the Volga. The tousands of Soviet soldiers executed at Stalingrad on his orders never received a marked grave. As statistics, they were lost among the other battle casualties, which has a certain unintended justice.
Penguin Books, 1999, 431pp.
『小尾俊人の戦後:みすず書房出発の頃』宮田昇
『ブルー・マーズ』
ヒューゴー賞2016日記 彌生6日
ヒューゴー賞2016日記 如月12日
SFファン交流会・追補
森下一仁さんとぼくの他に牧真司さんも浅倉さんの思い出を語られてました。カナダの同人誌が日本のラファティ特集号を出したとき、浅倉さんと伊藤さんが英文のコメントを送られたのだそうです。その現物も回覧されてましたが、残念ながらぼくは拝見するチャンスがありませんでした。
もう一つ、二次会で話題になったこと。浅倉さんの翻訳の師匠あるいは手本は誰だったのか。
浅倉さんとて、初めは誰かの翻訳を手本とされたはずですが、それが誰だったのか、わからない。当時SFの翻訳をされていた人たちを手本にされたけしきもありません。その頃SFが好きで翻訳をしていた先輩と言えば、福島正実と矢野徹の二人がいますが、どうもこの二人に習ったとも思えない。
中村さんもご指摘されていたように、矢野さんを浅倉さんは先輩として慕われ、頼りにされていました。矢野さんのご葬儀の時、弔辞を述べる浅倉さんの落胆されたご様子にはまことに痛々しいものがありました。ですが、翻訳のお手本にされたかとなると、お二人の翻訳はいささか違いが大きい。
映画評論の双葉十三郎の翻訳を浅倉さんが高く評価されていたことはありますが、手本や師匠とまで言えるのかどうか。
あるいは伊藤さんあたりにおたずねすればあっさり氷解するのかもしれませんが、日本語の系譜の上からも、結構大事なことではないかと思います。
あるいは翻訳自体の師匠は明確な存在が無くとも、日本語を書く上で手本とされた、あるいは影響を受けた書き手はいたはずで、いずれどなたかが解明してくださることを期待します。
影響といえば、村上春樹がヴォネガットの翻訳者で影響を受けた人として浅倉久志の名を挙げていないのは、やはり韜晦ではないか、というのも、酒の上の話として出たことでありました。(ゆ)
SFファン交流会
今回は中村融さんの発案で、交流会で浅倉さんの追悼をやろうということになり、中村さんの他、白石さん、高橋良平さん、大森望さんがゲストという趣向。編集者として浅倉さんと仕事をされた白石さん、大森さんのお話がメイン、それに最も親しかった高橋さんが間の手を入れられる、という感じでした。
中村さんは浅倉さん直々に翻訳の添削をしてもらったことがあるとのことで、その赤の入った手書き原稿を回覧されていましたが、実にていねいにコメントが入っていたのには驚きました。参加されていた国書刊行会の樽本さんも、かつてディッシュのベストを作られた際、浅倉さんが中の一篇「降りる」の昔のご自分の翻訳を改訂された、そのゲラを回覧されていましたが、これもほとんど真赤になるくらい、それもまことにきれいな、読みやすい赤が入っていました。
浅倉さんは早川書房で通常の翻訳、作品選択の他に、新人翻訳家養成のための添削も引き受けられ、中村さんはじめ何人もの優れた翻訳家がそこから生まれているそうです。表向きは下訳者も使われず、学校で教えることもされず、お弟子さんもとられなかったわけですが、世間一般の眼からは見えにくいところで、しっかり次世代養成に関わっておられたのでした。
森下一仁氏も来られていて、1984年にヴォネガットが来日した際、浅倉さん、当時のSFマガジン編集長今岡清氏、通訳の方と4人でインタヴューをしに行かれた際の話をされていました。
ぼくはまあ、ブログに書いたことをごく手短かに話しただけですので、くわしくはむしろそちらの記事を御覧いただければと思います。
編集担当者としてのお話を伺うにつけ、その翻訳の優秀さに加え、仕事の速さ、手間のかからなさからして、その存在そのものがほとんど奇跡に思えてきます。ほんとうに浅倉久志という人が存在し、活躍してくれたことは、日本語SFにとって、さらには戦後日本語文学にとって、いかに幸せなことであったか、つくづく、思い知らされたことであります。
その思いを再確認したのは、新宿の中国料理屋に場所を移しての二次会の席で、若い交流会のスタッフの方(お名前を失念しました、乞うご容赦)が、前はミステリ系を読まれていたのが、ここ数年SFを読むようになり、翻訳があまりに読みやすいのがうれしい、とおっしゃられたこと。ミステリを読まれていた頃は、話の中に入りこむまで時間がかかったのだが、SFは設定などはずっと入りにくいはずなのに、そこでの苦労が無い、というのです。
これは日本語SFの翻訳がそれだけ優秀であることのひとつの証だと思いますが、それにはやはり浅倉久志、伊藤典夫の存在が大きい。この二人がひじょうに高い水準で日本語SFの翻訳を供給してきた結果、後続の日本語SFの翻訳者たちはそれを目標にせざるをえなくなったわけです。あのお二人の仕事と比べて恥ずかしくない仕事をしなければならない。むろん、肩をならべることは簡単ではありませんが、少なくともそこに向かって努力するようになります。
ミステリでは幸か不幸か、そういう標準になるような翻訳家はいませんし、総体でみればSFよりも点数も多いですから、全体として質が下がる傾向があります。その二次会の席でも出ていましたが、冷静に見ればかなりの「癖」がある翻訳が、それに慣らされてしまったのか、あるシリーズについては「標準」とされてしまう例もあります。翻訳権のある同時代作家の翻訳の場合、基本的に一種類の翻訳しか読者は読めませんから、やむをえないところはあるにしてもです。
浅倉、伊藤の存在はそうした「バイアス」を修正する役割も果たしてきたのでしょう。点数の多さ、作品の幅の広さ、さらには仕事の進め方で、お二人の中ではやはり浅倉さんの翻訳が手本とされるケースが多いと思われます。
お仕事の幅の広さという点で、中村さんが強調されたことのひとつが、浅倉さんのいわゆる「ユーモア・スケッチ」もののお仕事。あれは浅倉さんの独創による、いわば新ジャンルであり、浅倉さん自身、愛着と自信を持っておられたものである、分量からいっても、翻訳者としてのほぼ全キャリアに渡って続けられたことにしても、SFとならぶ、浅倉さんのいわば「別棟」のお仕事として評価されるべきであるとのご指摘は眼からウロコでした。
今月発売のSFマガジンは浅倉久志追悼号で、識者の選んだ浅倉さんの翻訳の再録が柱の一つになるそうです。また、単行本としても、浅倉さんのお仕事を集めたアンソロジーも予定されているとのこと。
明治以来、日本語の、特に書き言葉は翻訳によって作られてきました。浅倉久志の訳業はそのいわば本流の一角、それも小さくない一角を担うものとして、これからもくり返し賞味検討されるに値するもの、との想いを新たにしたことでありました。
まことに楽しい機会をつくっていただいた、白石さん、牧さんにあらためて感謝。(ゆ)
鈴木雅明
バッハの教会カンタータを外国人がやるには翻訳が必要だ。ただ、翻訳を通してしかわからないことがある、外国人が一所懸命翻訳を通して学び、演奏してみる、というプロセスは実はドイツ人にはできない。
言われてみれば同じことは何度か聞き、その度に納得してきたものの、こういう一見翻訳とは縁遠いように見える人から言われると、妙に心に沁みる。
この人たちの演奏には、スピード感やビート感が強い、という感想があるらしい。別段速くやろうとしているのではなく、やっていて気持ちがよい速度でやろうとするとそうなる、というのは実にまっとう。
古楽も、研究の成果を発表するのではなく、日々の生活の糧になるような形で「楽しめる」ようにやりたい。
クラシックでもこういうことをいう人がいるのは意外でもあり、楽しくもなる。
この人は自分でもソロでオルガンやチェンバロを弾くそうで、平均律も出している、となるとちょっと聞いてみたくなった。バッハの鍵盤に関してはグールドしか聞く気になれなかったが、この方面も確実に変化しているはずではある。をを、大好きなフランス組曲も出してるぞ。ゴールドベルクよりはこっちから聞いてみよう。(ゆ)