クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:老化

07月24日・日
 Washington Post Book Club のニュースレターで紹介されていた Alec Wilkinson, A Divine Language の電子版の無料サンプルを読んで、そのまま購入。



 
 この人はノンフィクションに分類される本を10冊書いていて、これが11冊目。前作 The Ice Balloon は飛行船で北極探索をしようとしたスウェーデン人の話。その前 The Protest Singer はピート・シーガーについての短かい本。その前 The Happiest Man In The World は型破りのホームレス、ポッパ・ニュートリノの「伝記」。デビュー作 Midnight は25歳で就職したマサチューセッツ州ウェルフリート、つまりケープ・コッドの先端から一つ南の町の警察官としての経験を書いたもの。警官になる前はバークレーでロック・ミュージシャンをしていて、ディランのバンマスであるトニィ・ガルニエと一緒にやったこともある。LSD の体験もしている。60年代末の話だ。デッドヘッドではないまでも、デッドを知らないはずはない。
 かれの父親の一番の親友は The New Yorker の小説担当編集を長らく勤め、作家でもある William Maxwell で、父親の頼みで Midnight の原稿を読んでもらえたことから、マクスウェルに「弟子入り」し、The New Yorker で働きはじめる。1952年生まれ。
 ウィリアム・マクスウェルはもう1人のマクスウェル、マクスウェル・パーキンスの次の世代を担った編集者でその担当作家の1人はサリンジャーだった。『ライ麦畑』を書き上げたとき、サリンジャーはマクスウェルの別荘に車を走らせ、そのベランダで夫妻に読んで聞かせた。別荘があったのはケープ・コッドで、それが建つ同じ道沿いの家でウィルキンソンは育った。おかげでかれはウェルフリートの2,000人の住人を知っていた。警官になれたのはそれが理由だ。
 出たばかりの A Divine Language は65歳になったウィルキンソンが一念発起して、数学をモノにしようとする。1年余りのその奮闘の記録、だそうだ。副題に "Learning Algebra, Geometry, and Calculus at the Edge of Old Age"。数学の才に恵まれてシカゴ大学の教授をしている姪の支援を受けながら、若い頃に失敗した数学をイチから学びなおそうとする。高校を卒業できたのは、数学の試験でカンニングをしたおかげだった、という告白からこの本は始まる。老いを感じる時、人は何かを学ぶことで知的衰退を遅らせようとする。新たな言語を学んだり、詩集を1冊暗誦できるようにしたり、という具合だ。ウィルキンソンの場合はなぜか数学だった。それも趣味ではなく、きちんと学問の訓練を受ける形でだ。数学のあのにやにや笑いを吹きとばしてやりたいという一心からである。
 当然、著者は、その本道を学ぶだけでなく、数学を様々な角度から攻めたてる。その歴史、作ってきた人びと、数学者集団の特性、数学と世界の関係。電子版の無料サンプルを読んでいるだけでも、著者の博識には読書欲をかきたてられる。断片が引用される本を次から次へと読みたくなる。
 そしてもちろんここには老いること、困難な課題にくらいついていくこと、そしてこの世界の表に現れない本質的な秩序についての考察が鏤められている。
 この人の文章は一見簡潔でドライだが、ユーモアがこぼれ出る。こぼれ出るのがわかっていて、こぼれ出るのに任せているようだ。あるいは本人にとっては特段ユーモラスなことを書こうとしているわけではなくても、読んでいると思わず腹を抱えて笑ってしまう。読むのがたいへん愉しい。
 というわけで、The Protest Singer と The Happiest Man In The World も注文してしまった。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月24日には1987年と1994年の2本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1987 Oakland-Alameda County Coliseum Stadium, Oakland, CA
 金曜日。開演7時。ディランとのツアーの一環。
 第一部、第二部がデッド、第三部がデッドをバックにしたディラン。第一部と第二部のデッドのみのセットの全体が《View From The Vault IV》で DVD と CD で別々にリリースされた。DVD の方は第一部5〜7曲目〈Friend Of The Devil〉〈Me And My Uncle> Big River〉が省かれている。
 また第三部5曲目〈I Want You〉が《Dylan & The Dead》でリリースされた。
 見た人によると、最初にディランがソロで数曲やったらしい。
 第3の黄金時代へと向かいはじめている時期で、演奏はすばらしい。第二部はほぼ1本につながった70分。

2. 1994 Soldier Field, Chicago, IL
 日曜日。32.50ドル。開演6時。このヴェニュー2日連続の2日目。トラフィック前座。
 前日に比べると劣るようだ。ガルシアだけが不調というわけではなく、〈It Must Have Been Roses〉ではウィアが二度も歌詞を間違えた。とはいえ、輝きはまだところどころあり、印象に残るショウという人もいる。
 二度、同じところの歌詞を間違えた、ということは、歌詞をいちいち思い出しながら歌っているのではなく、自動的に口をついて出てくるようになっているのだろう。それが何かの拍子に、別の似たフレーズと置き換わってしまうわけだ。
 デッドのレパートリィは少ないときでも50、1980年代には常時100を超え、1987年以降は150曲前後で推移した。これはステージで実際にやった曲を集めて、重複を除いた数だ。デッドは演奏する曲をその都度その場で決めている。ということは150にも及ぶ数の曲はいつ何時でも演奏できたわけだ。動画を見ると初期の頃から歌詞は一切見ていない。150曲の歌詞はすべてアタマにというよりも、カラダに刻みこまれていたわけだ。
 1993年頃になってガルシアが歌詞を忘れたり、間違えたりすることが多くなるのが問題になる。これは動脈硬化で、脳に十分な量の血液が行かなくなるためだと後にわかる。当面、本人の努力でどうなるものでもないから、歌詞を映しだすプロンプターを用意することで解決をはかった。だからここではガルシアが「正しい」歌詞をうたっていて、ウィアの方が違う歌詞を同時にうたってしまった。それも二度も。ウィア自身、自分で自分に呆れはてたとかぶりを振るのが画面に大映しになったそうだ。
 もっとも調子の良い時でも、歌詞のスタンザの順番が入れ替わったり、スタンザの前半が次のスタンザの後半にくっついたり、ということは稀ではない。むしろ、歌詞のまちがいがまったく無いショウの方が少ないと言ってもいい。デッドの場合、調子が良い時には、そういう「ミス」はまったく気にならない。あはは、またやってら、と聴いている方は文字通り笑って許す。ミスが気になるのは、全体の演奏の質がよくないときだ。
 この年の夏のツアーは長く、このショウでは疲れている様子が目立ったらしいが、この後08月04日のジャイアンツ・スタジアムまで、4箇所、7本残っている。(ゆ)

07月16日・土
 おふくろはもっと大きい画面と「しゃべって筆談」が欲しいというので楽々ケータイから iPad に替えたのだが、メニュー画面から選ぶ形に慣れていたらしく、アイコンをタップして欲しい機能を出す、というのが理解できない。それに、どういうわけか、タップしても指が認識されない。ケースを買ったら付いてきたタッチペンが重宝しそうだ。老人が新しいシステムをあらためて学習するのはたいへんだ。こちらも根気よくつきあうしかない。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月16日には1966年から1994年まで10本のショウをしている。公式リリースは5本。

01. 1966, Fillmore Auditorium, San Francisco, CA
 土曜日。開演9時。このヴェニュー4日連続のランの3日目。共演ジェファーソン・エアプレイン。
 第一部6曲目〈You Don't Have To Ask〉とクローザー〈Cream Puff War〉が《So Many Roads》で、オープナー〈Viola Lee Blues〉を含む9曲が《Birth Of The Dead》でリリースされた。全体の半分がリリースされたことになる。
 第一部2曲目で〈Don't Ease Me In〉がデビュー。
 〈Don't Ease Me In〉は1995年07月08日まで318回演奏。演奏回数順では37位。〈Ramble on Rose〉と〈U.S. Blues〉より1回少なく、〈Casey Jones〉より1回多い。カヴァー曲としては珍しく、スタジオ版が《Go To Heaven》に収録されている。1970、1972、1973の各年と1979〜95年に定番として演奏され、他の年には演奏されていない。デッドの前身バンドの一つ Mother McCree's Uptown Jug Champions でも演奏された。原曲は伝統歌で、Henry Thomas (aka Ragtime Texas) が1928年06月13日に録音したものが最初とされる。
 この07月はなぜか録音が残っているショウが集中している。この日の他に、07月03日のフィルモア・オーディトリアムが《30 Trips Around The Sun》で出た。また、月末の29日、30日のヴァンクーヴァーでの録音がファースト・アルバム《The Grateful Dead》の50周年記念盤に収録された。
 この辺りの録音は良い悪いの前に、残っているというだけでありがたく感じてしまう。一方で、面白いことに、まったく箸にも棒にもかからないという演奏も無い。何らかの形で、聴いて愉しい。熱烈なファンがついてゆくのも無理はないと思える。同じことは繰返さないことは、すさまじいエネルギーを必要とする。デッドはどこからか、そのエネルギーを汲みだし、維持しつづけた。そう、一体、かれらのエネルギー源は何だったのだろう。

02. 1967 Golden Gardens Beach, Seattle, WA
 日曜日。午後のショウ。

03. 1967 Eagle's Auditorium, Seattle, WA
 日曜日。3ドル。開演7時、終演12時。
 共演 Daily Flash、Magic Fern。
 Magic Fern はシアトルの4人組で、1966年から1967年に活動。ヤードバーズ、デッド、ジェファーソン・エアプレインなどの前座を勤めた。

04. 1969 Longshoreman's Hall, San Francisco, CA
 水曜日。1ドル。
 ヘルス・エンジェルス・サンフランシスコ支部のパーティー。メンバーの1人の夫人が亡くなった追悼とベネフィット。
 Cleveland Wrecking Co. もポスターには名前がある。サンタナも出ていたはずだという話もある。
 Cleveland Wrecking Co. はこの時期のバンドは不明。

05. 1970 Euphoria Ballroom, San Rafael, CA
 木曜日。このヴェニュー2本連続の2本目。
 共演ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ、ラバー・ダック・カンパニー。
 第一部クローザー〈Turn On Your Lovelight〉にジャニス・ジョプリン参加。ピグペンとのかけあいで、最高のヴァージョンだそうだ。
 ベアことアウズレィ・スタンリィのさよならパーティー。

06. 1972 Dillon Stadium, Hartford, CT
 日曜日。5.50ドル。開演2時。雨天決行。
 クロージングの〈Not Fade Away> Goin' Down The Road Feeling Bad> Hey Bo Diddley〉にベリー・オークリィとディッキー・ベッツが参加。この3曲ではレシュが遠慮した。
 第一部10曲目〈Stella Blue〉が2021年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 第一部14曲目で〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉がデビュー。1995年07月06日まで計232回演奏。演奏回数順では67位。〈Hell In A Bucket〉より2回少なく、〈Feel Like A Stranger〉より6回多い。1983、1984年以外は毎年演奏された。1974年まではかなり頻繁。1976年移行は頻度が減る。ハンター&ガルシアの曲で、スタジオ版は《Wake Of The Flood》収録。オープナーになることも多い。とぼけた味の、デッドのレパートリィでも最もユーモラスな曲の一つ。
 DeadBase XI の Zea Sonnabend によれば、とにかく暑かったが、演奏は最高の中の最高で、ガルシアのはじけぶりはピグペン不在を補って余りあるものだった。全体にエネルギーが溢れる。オールマンの参加は歴史的できごとに思われた。

07. 1976 Orpheum Theatre, San Francisco, CA
 金曜日。6.50ドル。開演8時。このヴェニュー6本連続のランの4本目。
 第一部6曲目〈Big River〉からの第一部全部とアンコール〈U.S. Blues〉が《Dave's Picks, Vol. 18》で、第二部からオープナー〈Playing In The Band〉とクローザー〈Sugar Magnolia〉を含む8曲が《Dave's Bonus Disc 2016》でリリースされた。2時間超、全体のほぼ3分の2がリリースされたことになる。
 このショウが全体としてリリースされなかったのにはそれなりの理由、たとえば、全体としてはA+級の演奏とまでは言えないなどの判断があったのだろう。リリースされた部分だけとれば、A+のレベルは十分クリアしている。復帰してほぼひと月、これが23本目で、油が隅々にまで回り、またこの面子でやることの愉しさを実感している様子があちこちに伺われる。最もそれが表に出ているのは第二部の〈Spanish Jam〉で、このジャムは先行する特定の曲が無いままに、ごく自然に、あたりまえのように始まる。
 あるいは第一部の〈Looks Like Rain〉。復帰後はドナが全面的にコーラスに参加する曲がぐんと増える。中にはドナの声があって初めて成立するような曲も出てくる。これはその最高の例の一つだ。ドナは必ずしもより高域のパートを担当するわけではなく、下をつけることが多いのも、彼女の声が加わる効果が大きくしている。次の次の〈The Music Never Stopped〉もそうだ。第二部オープナーの〈Playing In The Band〉、上記ジャムから Drums を経由しての〈The Wheel〉もドナの声の参加によって、歌のレベルが一段上がる。〈Cosmic Charlie〉のような曲でも同じで、これはこの年09月25日が最後で、この日の演奏はその前、つまり最後から2回目の演奏になり、ガルシアのギターの茶目っ気たっぷりの名演もあって、ベスト・ヴァージョンの一つ。コーラスのアレンジもかなり肌理細かくやっていて、〈High Time〉がいい例。思いきり奔放に歌いはなつところと、繊細に抑えるところのメリハリが見事。
 ガルシアのギターがまたすばらしい。なぜか、この前後数本のショウの録音ではガルシアのギターの音が他に比べて大きい。また、いつもより硬質の響きを帯びている。ここではそれがひどく気持ちよく聞える。
 〈High Time〉の後、レシュが「今夜はもう一つ祝うことがある、誕生日おめでとう、ミスタ・ビル・グレアム」とやる。ちなみにグレアムの誕生日は01月08日。そして始めるのが〈Sugar Magnolia〉。グレアムがことのほかに好んだという曲。後半の "Sunshine Daydream" のパートはここでもドナとウィアのデュエットがそれは愉しい。とりわけ2人が「ウーウウウ」と声を合わせるところはたまらん。
 しかし、こうなると、たとえ全部がトップ・クラスの演奏ではなくても、全体を聴きたくなる。

08. 1988 Greek Theater, Berkeley, CA
 土曜日。開演5時。このヴェニュー3日連続のランの中日。レックス財団ベネフィット。KPFA Berkeley で FM放送された。
 第二部 drums に Baba Olatunji 参加。休憩時間中に Alexander Gradsky が演奏。
 Alexander Gradsky (1949-2021) はロシアの最も初期のロック・ミュージシャン。この日、ゴールデン・ゲイト・パークで USSR-USA Peace Walk なる催しがあり、ガルシア&ソーンダース、グレイス・スリック、ババ・オラトゥンジ、アイアートなどがフリー・コンサートをした。その流れだろう。
 第一部5曲目〈Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again〉が《Postcards Of The Hanging》でリリースされた。
 ウィアのヴォーカル。ウィアはこれといい、〈Desolation Row〉といい、ディラン・ナンバーでも歌詞のたくさんある曲を好むらしい。面白いのは、本人の声になったり、ディランそっくりの声になったりする。声の質はガルシアよりもディランに近いか。ディランのカヴァーをする者は誰でもディランになる、と言われるが、こうまでそっくりになると、そうでない、本人の地の声のところはウィアのものになっている。ガルシアはソロはとらないが、歌の裏でいいギターを弾く。力演。

09. 1990 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 月曜日。24ドル。開演5時。
 クロスビー・スティルス&ナッシュ前座。
 第一部クローザー前の〈Let It Grow〉が2010年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 最高のショウとほぼ全員が口を揃える。100本近くショウを見ているベテランのデッドヘッドたちが、である。

10. 1994 RFK Stadium, Washington, DC
 土曜日。31.50ドル。開演6時。このヴェニュー2日連続の初日。
 トラフィック前座。
 日本に3、4年いてひどいホームシックになっていた友人に帰ったことを実感させるのはデッドのショウがベストだった、という話がある。(ゆ)

07月10日・日
 昨日のイベントの後とて、使いものにならず。終日、茫然。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月10日には1969年から1990年まで、6本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。

1. 1969 Playboy After Dark, Los Angeles, CA
 木曜日。このタイトルのテレビ番組に出演して3曲演奏した。映像は You Tube で見られる。
 Deadlists、DeadBase 50 ともに掲載がなく、Setlist Program にはある。DeadBase XI にトム・コンスタンティンがこの件について書いているから、確実だろう。
 Playboy After Dark は『プレイボーイ』創設者のヒュー・ヘフナーが自らホストとなるバラエティショーで、1969年から70年にかけて、2クール、制作・放映された。三大ネットワークとは別に、シンジケートで地方局に流される形。

 ただし、コンスタンティンはハリウッドに行ったと書いているし、Wikipedia によればこの番組の収録はロサンゼルスの CBS Television City でおこなわれていたとあるから、Setlist の New York は間違いだろう。


2. 1970 Fillmore East, New York, NY
 金曜日。このヴェニュー4日連続のランの2日目。第三部のエレクトリック・セット以外のセット・リストは不明。

3. 1981 St. Paul Civic Center Arena, St. Paul, MN
 金曜日。9.50ドル。開演7時半。
 良いショウのようだ。

4. 1987 JFK Stadium, Philadelphia, PA
 金曜日。ボブ・ディランとのツアー。開場2時、開演6時。雨天結構。録音録画厳禁。ディランが入った第二部2曲目〈I'll Be Your Baby Tonight〉でガルシアがペダルスティール。アンコール〈Touch of Grey〉にはディラン出ず。
 ディランとの第二部10曲目〈Queen Jane Approximately〉は始まったと思うと、ディランがやめてしまった。
  第一部のデッドのセットは最高だが、ディランはおかしかったという意見が多い。

5. 1989 Giants Stadium, East Rutherford, NJ
 月曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。21ドル。開演7時。ロス・ロボス前座。第二部 Drums から Space 以外、アンコールまでネヴィル・ブラザーズのメンバーが参加。
 第一部6曲目〈Tennessee Jed〉が2013年の、第二部オープナー〈Foolish Heart〉が2015年の、〈Just A Little Light〉が2016年の、各々《30 Days Of Dead》でリリースされた後、全体が《Giants Stadium 1987, 1989, 1991》でリリースされた。

6. 1990 Carter-Finley Stadium, Raleigh, NC
 火曜日。開演5時。ブルース・ホーンスビィ&ザ・レンジ前座。ホーンスビィはアコーディオンで第一部全部と第二部 drums の前まで参加。
 ショウの最中に雷雲が通り、雨が降って、雷が光り、鳴った。第一部クローザー〈The Promised Land〉の途中でステージ脇の発電機に落雷して、一時停電した。バンドは停電で音が切れたところから再開した。
 ある証言。第二部2・3曲目〈Playing in the Band> Uncle John's Band〉のメドレーの最中に、後ろの学生たちが大声でわめきはじめた。学生のガールフレンドの1人が聞えないぞ、黙れと叱りつけて、静かにさせた。〈Uncle John's Band〉の半ばで、その娘は肩を叩いて、この曲は何という曲で、どのアルバムに入っているのか訊ねた。娘はメモして、じっと耳を傾むけてから言った。
 「こんな美しい歌は生まれてこの方、聴いたことがない」
 このショウは何らかの公開のために映像に収められたが、公開されなかった。それがアメリカ西部時間の2020年07月10日に30周年記念で、YouTube のデッド公式チャンネルでストリーミングされた。これは一つには COVID-19 によるロックダウンで生計の道を断たれたミュージシャンやヴェニューの支援用資金調達のためでもあった。現在は普通に見られる。



 途中、特に第二部で、余計なヴィジュアルが入るのが、あまりにセンスが悪くて、いささか興を削ぐが、演奏、音楽はとにかくすばらしい。ミドランド・デッドの最後の輝き。ホーンスビィが花を添える。
 最初のストリーミングを途中から見はじめたら、止められなくなって、結局最後まで見てしまった。(ゆ)

07月04日・月
 JR 高田馬場でホームから階段を降りている時、脇にスペースができたので、そちらに駆け下ろうとして右足がひっかかり、あやうく倒れそうになるが、かろうじて二段ほど飛ばしながらなんとか無事下に降りたつ。下手をすれば頭から突込むところだった。危ない危ない。年寄りは無理をしてはいけない。


%本日のグレイトフル・デッド
 07月04日には1969年から1990年まで7本のショウをしている。公式リリースは2本。うち完全版1本。

1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。共演バディ・マイルズ・エクスプレス。
 2時間の一本勝負。3・4曲目〈Slewfoot〉〈Silver Threads And Golden Needles〉でガルシアがペダルスティール。15曲目〈Dire Wolf〉はウィアが歌ったそうなので、ここでもペダルスティールか。

2. 1981 Manor Downs, Austin, TX
 土曜日。10ドル。開場4時、開演8時。
 テキサスで7月4日の演奏にもかかわらず、あるいはそれ故に、オープナー〈Jack Straw〉の歌詞の一節 "Leavin' Texas 4th day of July" をウィアは間違えた。故意ではないかという説もある。

3. 1984 Five Seasons Center, Cedar Rapids, IA
 水曜日。アイオワ州での最後のショウ。アイオワでは1971年03月10日から計9本やっている。
 第二部6曲目〈He's Gone〉は、バスを運転して会場に来る途中、インターステイトから飛びだして死んだデッドヘッドに捧げられた。

4. 1986 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 金曜日。開場正午、開演2時。ディラン&トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズとのツアーの一環。
 第二部3〜5曲目〈Samson And Delilah; The Wheel> I Need a Miracle〉が "Farm Aid" の一部として放送された。
 ウィアが「独立記念日に雨は降らないよ」と言って大喝采を受けたが、第二部オープナー〈Cold Rain and Snow〉の最中にどっと降りはじめた。
 第二部2曲目単独の〈Fire on the Mountain〉の時、フィールドの後方でジャグラーが8人、信じられないほどすばらしい演技をした。
 糖尿病による昏睡直前にもかかわらず、ガルシアは健康で、元気そうに見え、演奏も良かった、という見解がある一方で、John J. Wood はデッドヘッドではない友人が、デッドはいいバンドだが、あのガルシアというのは外した方がいいね、とのたまわった、と DeadBase XI で書いている。

5. 1987 Sullivan Stadium, Foxboro, MA
 土曜日。21ドル。開演4時。ボブ・ディランとのツアーのスタート。
 第二部3曲目〈I'll Be Your Baby Tonight〉でガルシアがペダルスティール。
 ディランが入っての第二部クローザー前の2曲〈Slow Train〉〈Joey〉が《Dylan & The Dead》で、第一部クローザー〈Throwing Stones〉が《Beyond Description》所収の《In The Dark》ボーナス・トラックで、各々リリースされた。
 第二部6〜10曲目の〈Ballad Of A Thin Man〉〈Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again〉〈Queen Jane Approximately〉〈Slow Train〉〈Joey〉はこれが初演。
 〈Ballad Of A Thin Man〉は1988年04月01日まで計8回演奏。
 〈Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again〉は1995年04月02日まで、計74回演奏。
 〈Queen Jane Approximately〉は1995年07月08日まで、計129回演奏。デッドによるディランのカヴァーでは演奏回数で第3位。
 〈Slow Train〉はこの月24日まで計3回演奏。
 〈Joey〉はこの月12日までやはり計3回演奏。
 つまり、下の2曲はディランとのこのツアーでのみ演奏された。上の3曲、とりわけ2曲はデッドのレパートリィの一部となる。
 ついでながら、《Dylan & The Dead》は出た当時、「こんなものは出すべきではなかった」とまで酷評され、誉めるものは誰もいなかった。が、今無心に聴いてみれば、なかなかどうして立派なものである。どうしてこれがあそこまでこきおろされねばならないのか、不思議。ディランとデッドという、アメリカ音楽最強のコンビが実現したことへの嫉妬だろうか。しかし、史上最高のディラン・カヴァー・バンドというのは必ずしも的外れではないし、ディランもデッドの演奏は大いに気に入っていたことも明らかだ。いずれ、実現するはずだったし、このタイミングで実現したことは、デッドの側から見ればベストだった。両者のコラボが完璧にうまくハマったわけではなく、危うい綱渡りであることも、かえって良い緊張感を生んでいる。ここまで個性の強い二組のアーティストが組んで、ぴったりハマる方がおかしい。あるいは危うい綱渡りであることが、大きなマイナスと捉えられたのだろうか。

6. 1989 Rich Stadium, Orchard Park, NY
 火曜日。21ドル。開場2時。開演5時。10,000 Maniacs 前座。
 第二部9曲目〈All Along The Watchtower〉が《Postcards Of The Hanging》でリリースされた後、《Truckin’ Up To Buffalo》の CD と DVD で全体がリリースされた。

7. 1990 Sandstone Amphitheatre, Bonner Springs, KS
 水曜日。19.50ドル。開演6時。雨天決行。ミドランド最後のツアーの最後のレグのスタート。デッド第三のピークはまだ続いている。陽は高く、気温は40度近くで、オープナーが〈Cold Rain And Snow〉はサイコーだった。(ゆ)

05月12日・木
 忘れものを取りに、関内のエアジンまで往復。その前の食事の時は忘れなかったのに、エアジンに忘れたのは、ワインを飲んでいい気分になっていたからか。こういうことが重なると、名札でも付けねばなるまい。関内に着いたのが早すぎて、馬車道のスタバで時間をつぶす。スタバはやはり高いのう。

 帰ると《Dave's Picks, Vol. 42》が着いている。今年2番目のリリースなので今年のボーナス・ディスクも一緒。1974年02月23日が本体でその前日がボーナス・ディスク。ここは22〜24日の三連荘、この年の始動のランで、3日目はすでに《Dave's Picks, Vol. 13》で出ている。その時、この23日とどちらを出すか、いかに悩んだかを、デヴィッド・レミューがライナーに書いている。無事両方出たから、結局は良かった。が、22日はこれで3分の1出たわけで、残りはどうなるのか。

 しかし、今は1977年春のツアーを聴くのが先なので、当分聴けない。


##本日のグレイトフル・デッド
 05月12日には1965年から1991年まで8本のショウをしている。公式リリースは3本、うち完全版1本。

1. 1965 Magoo's Pizza Parlor, Menlo Park, CA
 水曜日。実際に演ったかどうか、定かでない。

2. 1967 Marigold Ballroom, Fresno, CA
 金曜日。前売2.50ドル。当日3ドル。セット・リスト不明。このショウは05月11日という説もあり、DeadBase 50 はそちらをとるが根拠は示していない。残っているチラシの日付は12日で、21:45と23:45の2回ショウをした、という証言もある。The Lost Dead Live Blog は13日付け the Fresno Bee というローカル紙に掲載の短評から12日と結論している。
 チラシには
In The Land Of The Dark, the Ship Of The Sun Is Driven By The Grateful Dead
とある。

3. 1974 University of Nevada, Reno, NV
 日曜日。開演2時。三部構成。
 第三部7曲目〈Ship Of Fools〉が2014年の、第一部クローザー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
283 Mike Dolgushkin

4. 1977 Auditorium Theatre, Chicago, IL
 木曜日。このヴェニュー2日連続の初日。
 第一部クローザー〈Dancing In The Street〉と第二部の後半6曲が《Winterland June 1977: The Complete Recordings》のボーナス・ディスクでリリースされた後、全体が《May 1977》でリリースされた。
 幸福なツアーは続いている。オープナーの〈Bertha〉で最後の "anymore" のリピートが少ないのは肩透かしだが、その後は気合いの入った演奏が続く。ここでも前日同様、きっちりと新鮮な演奏だ。クローザー前の〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉のユーモアはあらためてデッドならではと思うし、もっとこういうコントロールの効いたユーモアが欲しい。それともこれも70年代という時代の生むところなのだろうか。クローザーの〈Dancing In The Street〉はどちらかというと抑えた演奏で、最後も静かにしまう。
 が、第二部は熱気にあふれる。とりわけ後半〈Terrapin Station〉から途切れずに〈Playing In The Band〉につながるところから完全に離陸する。完全にジャズの領域を遊びまわるガルシアにクロイツマンが正面から応え、そこからの Drums ではハートとクロイツマンが対話し、そして2人がいきなりビートを叩きだして〈Not Fade Away〉。ここでもガルシアが中低域でユーモラスなフレーズを連ねるのに、今度はウィアが反応する。その次の〈Comes a Time〉が凄い。ガルシアのヴォーカルは、またしても差し手引き手の呼吸が絶妙。ギターがそれに輪をかけ、泣きのサウンドを連発する。ただ感情に負けて泣いているのではなく、感情を浄化するために泣いているような音。積極的な、ポジティヴな泣きというものがあるとすれば、これだろう。このあたりのギターの音、音色、テクスチャは、他のギタリストでは聴いたことがない。狼の顔のステッカーをガルシアが貼ったため、"Wolf" と呼ばれるこの楽器のおかげか。そこから〈Playing In The Band〉に戻るのだが、この曲の戻りは、どういう形でもカッコいい。ガルシアが弾く、なんということもないコードが歓びにあふれている。無事、帰ってこられたことを心底喜んでいる。
 アンコールの〈Johnny B. Goode〉のテンポがまた良い。遅すぎず、速すぎず、ノリノリながら余裕がある。
 この日は誰もシメの挨拶をしなかったのか。少なくとも録音には入っていない。

5. 1979 Alumni Stadium, University of Massachusetts, Amherst, MA
 土曜日。10ドル、開演午前11時と11時半の二つの表記がある。
 オープナーの〈Jack Straw〉が始まるとともに、群衆が入口を破ってなだれこみ、その中をバイクが1台、旗をひるがえして駆けぬけたそうな。
 ここは後にデッドのパブリシティ担当になるデニス・マクナリーの母校。

6. 1980 Boston Garden, Boston, MA
 月曜日。まずまずのショウらしい。

7. 1981 New Haven Coliseum, New Haven, CT
 火曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
 第二部5曲目〈He's Gone〉は前日に死んだボブ・マーリィに捧げられた。後半、すばらしいジャムになったそうな。

8. 1991 Shoreline Amphitheatre, Mount View, CA
 日曜日。開演5時。このヴェニュー3日連続のランの楽日。03月17日にメリーランド州ランドーヴァーから始まった春のツアーの千秋楽。ブルース・ホーンスビィ参加。この後は06月01日のロサンゼルスまで休み。
 オープナーの〈Picasso Moon〉が2016年と2017年の、第一部クローザー〈Black-throated Wind > Deal〉が2018年と2019年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。〈Picasso Moon〉は演奏は凄いが、あまりにタイトすぎて、デッドらしくもないと思える。〈Deal〉は BTW から間髪を入れずに転換する。確かにこれはベスト・ヴァージョン。
 第一部5曲目でディランの〈It Takes A Lot To Laugh, It Takes A Train To Cry〉が1973年06月以来18年ぶりに復活。1992年03月16日フィラデルフィアまで計7回演奏。オリジナルは《Highway 61 Revisited》収録。
 全体は水準以上のショウの由。(ゆ)

04月25日・月
 皮膚科に架電し、塗り薬をもらいにゆく。処方箋をもらって薬局で受け取り。大腸がん切除後の抗がん剤治療以来、あちこち、いきなり痒くなる症状は、軽くなったりひどくなったり、ぐずぐずと続いていて、塗り薬は欠かせない。痒み止めの飲み薬もあるが、そう継続して飲みつづけていいものか、どうも怪しく思えて、なるべく飲まないようにしている。皮膚も老化しているし、この症状は死ぬまでつきあうのであろう。つきあえるだけでもありがたいことではある。生きているわけだから。


##本日のグレイトフル・デッド
 04月25日には1969年から1983年まで6本のショウをしている。公式リリースは4本、うち完全版1本。

1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL
 金曜日。このヴェニュー2日連続の初日。5ドル。開場7時半、閉場午前3時。SRC、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド共演。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセットがひどく長かったので、デッドは1セットのみ。翌日、デッドはお返しをした。
 2曲目〈Doin’ That Rag〉が2016年と2018年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
 SRC は地元のバンドの由。

2. 1970 Mammoth Gardens, Denver, CO
 土曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。ジョン・ハモンド前座。セット・リスト不明。

3. 1971 Fillmore East, New York, NY
 日曜日。このヴェニュー5日連続のランの初日。5.50ドル。開演8時。ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジ前座。
 第一部クローザー前の〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉、第二部2曲目〈Beat It On Down The Line〉から10曲目〈Sing Me Back Home〉までが4曲目の〈Bertha〉を除いて《Ladies & Gentlemen…》でリリースされた。計10トラック。CD ではあちこちに散在している。
 《Skull & Roses》と《Ladies & Gentlemen…》収録の音源は主にこの5日間からのもの。

4. 1977 Capitol Theatre, Passaic, NJ
 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの初日。8.50ドル。開演8時。《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

5. 1981 Berkeley Community Theatre, Berkeley, CA
 アコースティックの短い1セット。バークリーでは10年ぶりのショウ。

6. 1983 The Spectrum, Philadelphia, PA
 月曜日。このヴェニュー2日連続の初日。9.50ドル。開演7時。第二部後半〈Space〉からアンコール〈(I Can't Get No) Satisfaction〉まで6曲が《Dave’s Picks, Vol. 39》でリリースされた。(ゆ)

0408日・金

 医者。先月採血した検査の結果。尿酸値は5.1に下がる。が、薬は継続して6以下にしておくことが肝要。さもないと腎臓がいかれて透析になるよ。つまりは死ぬまで薬は続けるわけだ。やれやれ。薬を飲んでりゃ、納豆は食べていいのか、訊くのを忘れた。



##本日のグレイトフル・デッド

 0408日には1971年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。


1. 1971 Boston Music Hall, Boston, MA

 木曜日。このヴェニュー2日間連続の2日目。ネッド・ラギンがキーボードで参加。第一部と第二部の間は機器調整のためだけの短時間の可能性もあるらしい。内容は良い由。

 第一部7曲目で〈I Second That Emotion〉がデビュー。同じ0429日までに7回演奏される。最後は1989-10-13のデヴィッド・レターマン・ショーにガルシアとウィアが出た時の演奏。ジェリィ・ガルシア・バンドでは1994年まで定番のレパートリィ。原曲はスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの196710月のシングル。


2. 1972 Wembley Empire Pool, London, England

 土曜日。1ポンド。開演7時。一時会場に決まっていた Commodore のチケットも残っており、こちらは1.50ポンドとある。

 第一部クローザー前の〈Looks Like Rain〉が2001年の《Europe '72》拡大版でリリースされた。また、これを含む10曲が《Steppin' Out with the Grateful Dead》でリリースされた。このアルバムはこのツアー中イングランドで行われた8本のショウからの抜粋で2002年にリリースされたもの。その上で、全体が《Europe ’72: The Complete Recoddings》でリリースされた。

 Gary Lambert がライナーでこの最初のロンドン2日間を前後編の2本でひとつとしているのは妥当ではある。この2日間で、この時期のデッドの形は一通り提示される。

 初日に〈The Other One〉をやり、こちらで〈Dark Star〉をやっている。30分を越える演奏はロンドンの聴衆にとってはまったく新しい体験であったろう。まず最初の3分の1、歌の前のジャムがすばらしい。ドラムスは後景に退き、まずガルシアのギターとベース、次にガルシアのギターを中心とした全員参加のジャム。1番の歌の後、ビートが消えてフリーになり、ひどく静かになり、ピアノとドラムスを中心にまた徐々にビートが現れる。そこに乗るガルシアのギターが冴えている。

 全体にかなりゆったりと余裕のあるテンポ。〈Deal〉や〈Looks Like Rain〉もかなりゆっくりだし、〈Case Jones〉も前半、テンポが変わりはじめる前はのんびりとしている。意識して遅くしているようでもある。〈Looks Like Rain〉ではこの時期だけ、ガルシアがペダルスティールを弾く。あまりこの楽器らしくない音を出すが、演奏はすばらしい。このツアーでのガルシアのギターは冴えまくっているのが、こちらにも出ている。第二部でピグペンがヴォーカルをとるスロー・ブルーズの〈It Hurts Me Too〉では、一級のブルーズ・ギターを披露する。

 〈Playing In The Band〉も遅めのテンポで始まり、歌の後のジャムは元のメロディからは完全に離れてジャズになっている。曲の初めにウィアがドナを紹介する。ドナの参加はまだまだ少ない。

 クローザーの〈Caution (Do Not Stop On Tracks)〉はこのツアー中、0511日のロッテルダムでの演奏が最後になるが、形は定まらないままに各々の演奏の質が上がっていて、これまでのベスト・ヴァージョン。

 アンコールが〈One More Saturday Night〉なのは、この日が本当に土曜日だからか。とはいえ、次のニューカッスルでも3本続けてこれをアンコールにしている。ウィアが1番の後、"Mr. Garcia" と促して始めるガルシアのソロがことさらに見事。

 まずは最高の形でツアーが始まった。次は3日後のニューカッスル。


3. 1978 Veterans Memorial Coliseum, Jacksonville, FL

 土曜日。オープナー〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉がことにすばらしい由。


4. 1982 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY

 木曜日。11ドル。開演7時半。ここからニューヨーク州アップステート3ヶ所を回る。ここもデッド・カントリーの一つ。


5. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。13.50ドル。開演5時。


6. 1988 The Centrum, Worcester, MA

 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。17.50ドル。開演7時半。WCUW FM放送された。この年最短のショウの一つの由。


7. 1989 Riverfront Coliseum, Cincinnati, OH

 土曜日。開演8時。クローザー前の〈Black Peter〉で、男がステージに上がりこみ、クルーが素早く排除した。ショウは良かった。


8. 1991 Orlando Arena, Orlando, FL

 月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。21.50ドル。開演7時半。


9. 1994 Miami Arena, Miami, FL

 金曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。25ドル。開演7時半。(ゆ)


0308日・火

 自分の医者に行く。尿酸値を下げる薬を1ヶ月飲んでの採血。待合室で血圧を測ると159/66。これは高いね、と診察室で測ると129/77。これなら安心だが、30も変わるかねと医者が驚く。インターバル速歩タオル握りは効いているらしい。



##本日のグレイトフル・デッド

 0308日には1968年から1992年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1968 Melodyland Theatre, Anaheim, CA

 金曜日。"Jefferson Airplane & Friends" という名目で、デッドが前座。このヴェニュー2日連続の初日。ロサンゼルスの LA Free Press に広告がある由。セット・リスト不明。

 会場はアナハイムのディズニーランドの向いにあった円形のアンフィシアターで、客席が舞台をぐるりと囲む形。すぐに潰れたそうな。なぜか客はバンド名を "Dreadful Great" と間違えて読んでいた。


2. 1970 Travelodge Theatre in the Round, Phoenix, AZ

 日曜日。1時間半強のテープがあり、この日のものとされる。7曲目〈Hard To Handle〉から13曲目〈Wake Me Shake Me〉の途中までアコースティック。〈Wake Me Shake Me〉からテープ最後の〈Turn On Your Lovelight〉まで、正体不明のシンガーが参加し、ハーモニカを吹く。

 次は10日空いてニューヨーク。


 1973年のこの日、Ronald Charles 'Pigpen' McKernan が、長年のアルコールの過剰摂取による臓器不全で死去した。享年27歳。最後のショウは19720617日のハリウッド・ボウル。そこではピグペンは歌っていない。後に、ピグペンの父親は、息子とすばらしい人生を共にしてくれたことで心からの感謝を述べた手紙をバンドに送った。

 ジェリィ・ガルシアがピグペンと出逢うことでグレイトフル・デッドとなるバンドが The Warlocks として出発する。さらに、バンドが支持者を集めてゆくのに、ピグペンが果たした役割は限りなく大きい。ピグペンを生で体験してデッドヘッドになった人びとと体験せずにデッドヘッドになった人びとの間には越えがたい溝があるように思われる。録音を聴くかぎりでは、原始デッドはピグペンのバンドであり、ワーナーが最初の契約書を送った相手として想定していたのはピグペンをフロントとするブルーズ・ロック・バンドだったろう。ピグペン時代のデッドはいわばロケットの初段とも言える。そこは最も大きな推進力を必要とする。そして、ロケットがうまく飛びあがることができれば、初段は燃え尽きて切り離される。


3. 1992 Capital Centre, Landover , MD

 日曜日。23.50ドル。開演7時半。このヴェニュー2日連続の初日。

 そこらじゅう警官だらけで、検問がいたるところにあり、デッドヘッドが多数逮捕された由。



##本日のグレイトフル・デッド

 0307日には1970年と1981年の2本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1970 Santa Monica Civic Auditorium, Santa Monica, CA

 土曜日。合わせて75分ほどのテープが出回っており、この日のものと推定されている。そこに入っているセット・リストは恐らく一部。


2. 1981 Cole Field House, University of Maryland, College Park, MD

 土曜日。9ドル。開演7時。ボブ・マーレィ&ウェイラーズが前座の予定だった由。一級のショウらしい。(ゆ)


0307日・月

 母の眼科受診に付き添う。白内障手術後初めての受診。病院での所見で眼の表面に傷が多かったのでそれを治す目薬が退院の朝に急遽追加された。今日の所見ではかなり良くなっているので、その薬は中止。目薬は4種類になった。念のため、訊ねると、種類と頻度は減ってゆくが、最低でも1ヶ月から2ヶ月は続ける由。一つさすごとに5分はあけろというので、4種類さすと最低でも15分はかかる。母は高齢で動作も遅いから、ひとつさすのに5分はかかる。全部で結局30分以上。とまれ、経過良好ということだから、目薬はちゃんと自分でさせているわけだ。診察前の視力検査では手術前とあまり変わらず、もう少し出てもいいはずだが、高齢者の場合、視力の回復が遅れることがある、と主治医の弁。視野はずいぶん明るくなったと本人は言うから、手術したメリットは出ている。



##本日のグレイトフル・デッド

 0306日には1981年から1994年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。


1. 1981 Stanley Theatre, Pittsburgh, PA

 金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。


2. 1992 Hampton Coliseum, Hampton, VA

 金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。23.50ドル。開演7時半。


3. 1994 Blockbuster Desert Sky Pavilion, Phoenix, AZ

 日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。23ドル。開演5時。

 サウンド・エンジニアの Dan Healy がこのショウを最後にクビになった。原因は今一つ、定かではない。この時期、ウィアのヴォーカルにディレイやリヴァーブなどの効果をかけることが多く、ためにウィアはモニターが聴こえづらかった。スティングが前座をした時、同様の操作でPAの調子がおかしく、これによって問題が表面化した。という説が一つ。ヒーリィがヘロインを入手するため、 SBD をヨーロッパのブートレグ業者に売っていたことが発覚した、という説が一つ。その他にもいくつかある。

 ヒーリィがウィアのヴォーカルにエフェクトをかけた理由もよくわからない。時には、喉の調子が良くないのをカヴァーすることもあるから、そのせいかとも思うが、たいていはこれは要らないよ、と思える。あるいはデッドのスタッフが例外なく感じていた過剰なまでのストレスへの対策の一つなのかもしれない。デニス・マクナリーの本によれば、最後には俺をクビにしろとさかんに言っていたともある。辞任する気にはなれなかったのか。

 ヒーリィはアウズレィ・スタンリィが作ったPA工房の Alembic のメンバーでもあり、デッド草創期からのファミリーの一人で、長くサウンド・エンジニアを勤め、復帰後のデッドのPAシステムの音響改善に貢献している。1980年代以降の公式録音の担当者でもある。(ゆ)


介護認定

02月21日・月

 母の介護認定に立ち会う。耳が遠くなるなどの加齢に伴う体の不具合はいろいろあるが、頭ははっきりしているのがよくわかる。今のところ要支援だが、要介護にはならないかもしれない。

 生きながらえれば、いずれあたしもこういうのを受けるようになるんだろう。幸い、わが親や祖父母でボケた者はいないから、頭だけは保つ可能性が高い。問題は目と耳。この二つは鍛える方法もないなあ。

 「アルジャーノンに花束を」の中篇版は、やはり後半の、主人公がクスリで増進された知能を失ってゆくところがヤマだが、年をとると読むのがだんだん辛くなる。


##本日のグレイトフル・デッド

 02月21日には1969年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版2本。

 Vince Welnick の誕生日。1951年アリゾナ州フェニックス生。2006年06月02日カリフォルニア州ソノマ郡死。享年55歳。死因は自殺。1990年07月、ブレント・ミドランドの急死を受けて、オーディションで選ばれ、メンバーとなる。同年09月07日初ステージ。1995年07月09日のラスト・ショウまで鍵盤とヴォーカルを担当。ジョン・ペリィ・バーロゥと組んで作曲もする。

 ウェルニクがミュージシャンとして一流だったとしても、グレイトフル・デッドに入ったことが果して幸せだったかどうか。

 デッドは毎回違うことをやろうとし、集団即興をめざした。そのためメンバー間の関係は通常のバンドとは比較にならないほど密接となる。実際、ロージィ・マッギィは回想録 Dancing With The Dead の中で、1960年代にすでにメンバー間の関係は恋人や妻ですら伺い知れず、間に入ることなど思いもよらないほど密接だったと述べている。そういう深くからみあった集団に、結成から四半世紀経って参加し、他のメンバーと「うまくやってゆく」には、ミュージシャンである前に一個の人間として、よほどの覚悟とコミュニケーション能力と、そしておそらく確固として確立した自己が必要だろう。そして、たとえそうした資質を十二分に備えていたとしても、さらにその上に、かなりの重圧も感じられただろう。他のメンバーとしては特に圧力をかけているつもりはなくとも、かれらとして当然のことをやることが、新メンバーには圧力になりうる。デニス・マクナリィはデッドの歴史を描いた著書 A Long Strange Trip の中で、参加して間もなく、あるショウの後で呆然と佇むウェルニクを見つけた時のことを書いている。その日のショウはひどい出来で、ウェルニクはそれが自分のせいだと思いこんでいたのだった。マクナリィはひどい出来のショウはバンドとして珍しいことではなく、ウェルニクの責任ではないことを言って聞かせる。

 ウェルニクは前任のミドランドとほぼ同世代で、加入したとき39歳。人生において冒険する年齡ではもはや無い。己の才能に自信をもち、デッドに新たな要素を持ち込む意気に燃えていたわけでもなかった。あの時のデッドに必要だったのは、おそらくそうした新しい血、若く、溌剌とした新人であったろう。しかし、ミドランドの死の衝撃は、残りのメンバー、就中ガルシアの保守化をもたらした。いわば安全牌を求めさせた。後継の人選において、やってみなはれをやってみる気にはどうしてもなれなかった。

 ウェルニクはリハーサルと録音による勉強で、レパートリィの各曲に詳細なノートを作り、それを持って初ステージに臨む。かれが目指したのは皆の足を引っ張らないことだった。ガルシアがブルース・ホーンスビィに参加を求めたのは、選んでしまったウェルニクにはミドランドの代役、つまり自分のソロの霊感の元としての役割が勤まらないことを覚ったためだったであろう。これは本来、ウェルニクからすれば屈辱でしかない。その場で辞表を叩きつけてもおかしくはなかった。しかし、かれはどうやらそういう性格ではなかったし、また貧困のどん底にあったのを、デッドに拾われて救われてもいた。辞めるわけにはいかなかった事情もある。

 ウェルニク時代のライヴ音源の公式リリースが少ないので、バランスのとれた評価をしにくいが、歴代鍵盤奏者のなかでデッドヘッド間の人気が最も低いことは確かだ。キースもミドランドもプラス・マイナスどちらの評価もあり、強い否定論者もいると同時に熱狂的に評価する者もいる。ウェルニクには、どちらにしても熱意が感じられない。むしろどう評価すべきか、決めかねているようでもある。

 聴いた範囲でのウェルニクは、衰えてゆくガルシアをカヴァーすることに努めている。新しいことを持ち込むよりも、欠けてゆくところを埋めようとしている。またそれがかれとしては等身大、背伸びせずにできる精一杯のところだったようにも見える。

 2002年に The Other One から除外されたことはウェルニクには大きなショックで、結局これがかれの命取りとなった。The Other One を「ファミリー再結集」とした4人におそらく悪気は無かっただろう。というよりも、おそらくはウェルニクはこのプロジェクトの当初からまったく考慮に入れられていなかったのではないか。かれらにとって「ファミリー」とは60年代から続いていた関係であり、1990年になって入ってきた者は一時的滞在者であって、家族とはみなしていなかったのだ。しかし、ウェルニクにしてみれば、グレイトフル・デッドの一員であったことは、人生最大の歓びであり、誇りであった。それを否定されたことは、人間として否定されたのと同じことだった。

 グレイトフル・デッドに出逢って、まずたいていの人間の人生は良い方に変わる。しかし、ずっと良いままである保証もまた無い。そして、良いままであるか、悪い方に変わるかには、当人のコントロールが及ばない。もう1度しかし、ウェルニクにしても、では、デッドに拾われない方が良かったかと訊かれれば、たとえ後でそういう仕打ちを受けるとわかっていたとしても、まず十中八九、拾われて良かったと答えるだろう。



1. 1969 Dream Bowl, Vallejo, CA

 このヴェニュー2日連続の初日。Country Weather、It's A Beautiful Day、サンズ・オヴ・シャンプリン、Blues Helping、サンタナ共演。第二部とアンコールのセット・リストが残る。ショウ自体は原始デッドの好例、と言う。

 It's A Beautiful Day の結成は1967年で、この年06月にファースト・アルバムをリリースする。

 Country Weather はサンフランシスコ郊外で1966年、高校生によって結成され、当初は The Virtues と名乗った。1967年、チェット・ヘルムズの薦めで改名し、オリジナルを作って演奏するようになる。正式な録音は無いが、1969年にプロモーション用に5曲録音している。1973年解散。

 Blues Helping という名のバンドは不明。


2. 1970 Civic Center Arena, San Antonio, TX

 開演6時。6ドル?。イッツ・ア・ビューティフル・デイ、ジョン・メイオール、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。出演はこの順番で、デッドがトリ。セット・リストは不明だが、後半、原始デッドの定番をやり、〈Turn On Your Lovelight〉の途中で客電が点いたのは、いい加減終れとの合図らしい。


3. 1971 Capitol Theater, Port Chester, NY

 このヴェニュー6本連続の4本目。《Workingman’s Dead》50周年記念盤で全体がリリースされた。

 前2本同様、このショウもすばらしい。全体としてゆったりとしたうねりのあるショウ。テンポが遅めで、ガルシアのソロもくだけてメロウで、流れるようにうたう。このランでデビューした新曲はまだフォーマットが固まらず、手探りしてもいる。どれもコーダがあっさりしている。

 ピグペンの出番は3曲だが、どれも腰の入ったブルーズで、かれのハーモニカ、いやブルーズ・ハープもいい。第二部後半の〈Wharf Rat> Truckin'> Casey Jones> Good Lovin'〉の畳みかけは、決して急いではいないのだが、集中の度合いが高まってゆく。

 〈Good Lovin'〉で歌の後、クロイツマンが5分ほど、独りでドラムを叩く。あるいはハートが不在でも心配するな、というデモンストレーションの意味もあるかもしれない。ギターが小さく戻ってだんだん大きくなってジャムになる。ピグペンも戻って即興の歌をつらねる。このあたり、同じジャムでも前年の原始デッドとは明らかに変わっている。より複雑で洗練されて、音楽の中へもう一歩踏みこんでいる。

 〈Good Lovin'〉から間髪を入れずにウィアがコードをアコースティックの響きで弾きはじめる〈Uncle John's Band〉の風格には新生デッド、アメリカーナ・デッドへの手応えを感じる。


4. 1973 Assembly Hall, University Of Illinois, Champaign-Urbana, IL

 このヴェニュー2日連続の初日。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。

 なるほど良いヴァージョン。CCS 後半のジャムでウィアが渋いソロを聴かせる。ここはかれがリードをとる数少ないところだが、ここでは定型の結論のメロディに向かって霊感に満ちている。ガルシアがこれを軽く受け、徐々に引き継いで IKYR へ移る。メロディらしいメロディを弾かず、軽快に音を散らす。くー、たまらん。ラストのソロでは、中域でほぼ同じ音を繰返してから、高く飛翔する、ガルシア得意のパターン。


5. 1982 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA

 11.75ドル。開演8時。良いショウの由。

 サンフランシスコ、サンディエゴ、このロサンゼルスと回り、次は03月13日にネヴァダ州リノに飛ぶ。


6. 1991 Oakland County Coliseum Arena, Oakland, CA

 このヴェニュー3日連続の最終日。第二部2・3曲目〈Uncle John's Band〉〈Terrapin Station〉、6曲目〈Eyes Of The World〉にアイアート・モレイラが参加。ホーンスビィはいないが、この年の五指に入るショウだそうだ。


7. 1993 Oakland Coliseum Arena, Oakland,, CA

 24ドル。開演7時。1月下旬の3日連続に続いて、再びここで3日連続のショウをする、その初日。マルディグラ祝賀。新曲デビューが3曲。第一部3・4曲目〈Lazy River Road〉〈Eternity〉と第二部オープナー〈Liberty〉。

 〈Lazy River Road〉はハンター&ガルシア。最後は1995年07月09日のラスト・ショウ。計65回演奏。スタジオ盤収録無し。

 〈Eternity〉はウィリー・ディクソンとボブ・ウィアの曲。1995年07月08日まで、計43回演奏。スタジオ盤収録無し。ベースの Rob Wasserman が《Trio》のアルバムを作った時、ウィアとディクソンを組み合わせた。スタジオでのセッションで、ウィアが思いついていたコードとメロディをディクソンに示し、ディクソンは気に入ってその場で詞を書いた。二人でさらに揉んで、ブリッジを加え、ディクソンが詞を整えて曲ができた。

 〈Liberty〉は1995年07月06日まで、計56回演奏。スタジオ盤はハンターのソロ《Liberty》収録。アンコールで演奏されることが多い。


8. 1995 Delta Center, Salt Lake City, UT

 28ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続の最終日。《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。

 オープナーの〈Salt Lake City〉はバーロゥ&ウィアの曲で、この時1度だけ演奏された。スタジオ盤はウィアのソロ《Heaven Help The Fool》収録。

 2015年にバンド結成50周年を記念してリリースされたビッグ・ボックス・セット《30 Trips Around The Sun》は、1966年から1995年までのデッドの30年を、各年1本ずつ代表するショウの完全版によって紡ごうとする企画で、《Europe '72: The Complete Recordings》と並んで、アーカイヴからのリリースとしてこれまでで最大規模のものだ。この日のショウは1995年で初めて全体がリリースされたショウで、この年のショウで全体がリリースされているのは、今のところ、この他には無い。ということはこの年のベストのショウと見ることができる。この録音については、以前、書いている

 1995年の悪評に対して、悪いものばかりではないことの証拠としてこのショウを挙げる向きもある。が、その場での体験はまた別だろう。デッドのショウを実際に体験しているか否かでも、捉え方は変わってくるだろう。まったくの後追いでこの録音を聴くかぎり、これがベストの出来であるならば、他のショウの出来は推して知るべしだ。《30 Trips Around The Sun》のショウを順番に聴いてきて、ここに至る時、そのいたたまれなさをどこに持っていけばいいのか、わからなくなってもだえる。このショウを再度聴きかえす気にはまだなれない。

 一方で、このショウはグレイトフル・デッドが常に前を、前だけを見て進んでいったことの証しでもある。あたしらは通常、未来に向かって背中を向け、後ろ向きに過去を見ながら後ずさってゆく。ところが、こいつらは過去をふり向くことをせず、顔をまっすぐ未来に向けて進んでいった。そこに何があるか、起きるか、わからないことをものともせずに、というよりは、わからないからこそ進んでみるという風情だ。その結果、かかっていることを意識しなかった圧力におし潰されてばったりと倒れた。そのまさに倒れようとする姿、倒れてゆく姿を捉えたものがこれである。なんと、こいつらは、自分たちが倒れようとしていることすら、自覚していないようだ。倒れおわり、2度と起きあがれないとわかって初めて、自分たちが倒れた、潰れたことに気がついた。生き残ったメンバーだけではない。ガルシア本人にしてからがそう見える。

 グレイトフル・デッドが過去をふり返らなかったというのは、過去を尊重しなかったというわけではない。先人たちが積みあげてきた遺産、伝統にはむしろ人一倍敬意を払っている。数多いカヴァー曲のいずれもが原型を止めないほど変えられている。オリジナルを作るのと同等の熱意をもってエネルギーを注ぎこみ、大切にくり返し演奏されている。それは過去を簒奪して商品化することではなく、自分たちもまた伝統の一部となることを目指している態度だ。その点では、デッドはアイリッシュ・ミュージックなどの伝統音楽の演奏家に立ち位置が近い。スタジオ録音の質の高さよりも、ライヴの、生演奏の場を確保し、その質を上げることを何よりも重視した点でも、伝統音楽家と呼んでいい。

 この日のショウでは、表面的な出来不出来とは別に、そうしたデッドの基本的性格が図らずも露わになる。それを確認するためにも、やはりこのショウはいずれ聴きなおさねばなるまい。(ゆ)


0121日・金

 眼科で緑内障の検査。視野検査まで一通り受ける。視野検査は3回目で、だいぶ慣れてきた。前回、右目で見えなかったところが、今回は見えている。この検査は慣れが必要で、最初の1、2回はあまり参考にならないのだそうだ。結論として、今回もまだ治療を始めるほどではない。また定期的に検査しましょう。とはいえ、特に右目は老化が確実に進んでいる。視力は右の方がずっと良いので、うまくいかないものだ。


 右足を前に出すか、左足を引くかして、下半身を軽く左にひねるようにして立つと、腹がひどく楽になることに気がつく。ということはなぜか上半身が右にねじれているのか。とにかく、気持ちがよい。血圧まで下がる気さえする。実際にはそんなことはないのだろうが。



##本日のグレイトフル・デッド

 0121日には1971年と1979年の2本のショウをしている。公式リリース無し。


1. 1971 Freeborn Hall, Davis, CA

 2.50ドルと3.50ドル。UC Davis の学生と一般か。開演8時。この年最初のショウ。James & the Good Brothers とニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座。

 ショウはすばらしいもので、学生は踊りくるっていた由。

 会場は1961年建設の UC Davis の多目的ホール。授業や講演、集会など様々なイベントに使用され、コンサートも多数行われた。もっとも、こういうホールの常で、床は平坦だから、椅子を並べると後ろの方はステージが見にくかった。

 James & the Good Brothers はカナダ、オンタリオ州出身、カントリー、ブルーグラス、フォークをベースとしたバンド。ここに出ている3つのバンドの中では最もアコースティックなサウンド。Brian Bruce の双子の兄弟に弟の Larry James Akroyd が加わって、1967年この名前で活動を始め、1971年にバンド名をタイトルにしたデビュー・アルバムを出す。これにはクロイツマンが参加し、ベティ・カンター=ジャクソンがプロデューサーで、彼女とボブ・マシューズが録音。クレジットには無いが、ガルシアが参加している可能性もある。ドラムスにはホット・ツナの Sammy Piasta もクレジットされている。Special Thanks にクロイツマン、 ウィア、レシュ、Grateful Dead and Family、さらに Jack Cassady の名がある。わが国では「隠れ名盤」とされて、一時、LPの中古盤が高かった。後にグッド兄弟はカナダに戻り、The Good Brothers として現在も現役。

 かれらがここに登場したのは前年夏の有名な the Trans Continental Pop Festival の一部に参加したことで、デッドとのつながりができたため。ジャニス・ジョプリン、ザ・バンド、デラニー&ボニー、テン・イヤーズ・アフター、トラフィック、バディ・ガイ、シートレイン、フライング・バリトー・ブラザーズ、イアン&シルヴィアとザ・グレイト・スペクルド・バード、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジなどにデッドも加わり、カナダの大陸横断鉄道を走る列車を借り切って、ところどころ停まってはコンサートをやる、という企画。そのコンサートよりも、列車の中が24時間のミュージシャンにとってのフェスティヴァルになった。全体の企画は途中で資金が切れて終ったが、このイベントは参加したミュージシャンたちに深甚な影響を与えた。デッドはその恩恵を最も大きく受けたうちのひとつ。後に定番のレパートリィになる〈Going Down the Road Feelin' Bad〉をここでデラニーからガルシアが習ったとされるのが一例だが、それだけでなく、デッドの音楽、ショウの組立て全体がこれ以後大きく変わることになる。この時の様子は映画撮影もされ、今は《Festival Express》としてドキュメンタリー・ビデオが出ている。


 

 《James And The Good Brothers》は今聴くと CS&N をずっとフォーク寄りにした感じ。ドラムス、ベースの入る曲も、リズム・セクションはあくまでも背景で、歌を前面に立てる。グッド兄弟とアクロイドの3人ともリード・ヴォーカルがとれるし、コーラスも綺麗に決まっている。《Workingman's Dead》ではやりきれなかったことをやっている、とも言える。サウンド的にはオートハープがアクセント。もう少し曲に個性があれば、ヒットしていたかもしれない。一番目立つのがラストのニルソンの〈The Rainmaker〉というのは、ちょっと弱い。あえて、売れ線を狙っていないように見えるところが、かつての「ブラックホーク」で評価されたのだろう。もっともヘンに背伸びせず、ウェストコーストでの録音のチャンスにのぼせ上がりもせず、普段着の音楽を普段通りやっているのは気持ちが良い。なかなか腹の座った人たち。なお、クロイツマンが入っているのは5曲目〈Poppa Took the Bottle from the Shelf〉。デッドの時とは別人の、ごく普通のタイコだ。


2. 1979 Masonic Temple, Detroit, MI

 9.50ドル。開演8時。外は厳寒。中はホット。良いショウの由。(ゆ)


 東日本大震災の10日前に大腸がんの開腹手術を受けてから10年経ちました。あの日は病院2階の病室にいました。揺れがおさまってから、建物の外に避難するかもしれないとのことで、点滴の柱を持って階段を1階に降りました。結局、外には出ず、しばらくロビーでテレビを見ながら待機してから、2階にもどり、家に電話して家族の無事を確認しました。

 10年経って、今のところがんの再発、転移は出ていません。先日の人間ドックで肺に影があると言われて、すわ、来たか、と青くなりましたが、CT では何もありませんでした。

 抗がん剤の Folfox の後遺症は残っています。足の指先はずっとしびれています。おそらくこのまま一生、しびれているのでしょう。それは慣れましたが、最近になって、左の親指と中指の先端、爪の下あたりが圧迫されると痛むようになりました。たとえば朝眼が覚めると、布団に圧迫されて痛くなっています。外見は何もなく、念のため整形外科にも行きましたが、レントゲンを撮ってもやはり何もなく、原因がわかりません。圧迫されなければ、痛みはありません。このまま痛みが続くようなら、次は神経科に行くかと思っています。痛みを意識しだしたのは今月に入ってですが、ひと頃よりは痛みの程度が軽くなってきたような気もします。

 55歳でがんが判明して10年目。50、60というキリよりも、45、55 という5のつく年に体の転換があるようなので、今年もあるだろうと覚悟しています。老化にもとづく変化は逃げられません。運動して、進行を遅らせるくらいです。なるべく遅らせるべく、雨以外は毎日散歩しています。おかげで体重は70キロをだいぶ切り、BMIは22.7。まあだメタボリック・シンドロームだと言われましたが、これは厚生省の陰謀なので無視します。

 温暖化も確実に進行していて、10年後にどうなっているのか、見るのはコワくもありますが、それでもやはり見たいものです。それまでにはここでも地震があるでしょうから、それもなんとか生きのびたい。地震には一応備えてるつもりですけど、いざとなると、あれをやっときゃよかった、これもやらねばならなかった、と思うことでありましょう。今考えているのはポータブル電源をどうするかなあ。(ゆ)

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