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老人にとっての iPad
イベントの後
駅の階段を駆け降りるな。
忘れものをとりに。
皮膚科
尿酸値を下げる薬
04月08日・金
医者。先月採血した検査の結果。尿酸値は5.1に下がる。が、薬は継続して6以下にしておくことが肝要。さもないと腎臓がいかれて透析になるよ。つまりは死ぬまで薬は続けるわけだ。やれやれ。薬を飲んでりゃ、納豆は食べていいのか、訊くのを忘れた。
##本日のグレイトフル・デッド
04月08日には1971年から1994年まで9本のショウをしている。公式リリースは完全版が1本。
1. 1971 Boston Music Hall, Boston, MA
木曜日。このヴェニュー2日間連続の2日目。ネッド・ラギンがキーボードで参加。第一部と第二部の間は機器調整のためだけの短時間の可能性もあるらしい。内容は良い由。
第一部7曲目で〈I Second That Emotion〉がデビュー。同じ04月29日までに7回演奏される。最後は1989-10-13のデヴィッド・レターマン・ショーにガルシアとウィアが出た時の演奏。ジェリィ・ガルシア・バンドでは1994年まで定番のレパートリィ。原曲はスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの1967年10月のシングル。
2. 1972 Wembley Empire Pool, London, England
土曜日。1ポンド。開演7時。一時会場に決まっていた Commodore のチケットも残っており、こちらは1.50ポンドとある。
第一部クローザー前の〈Looks Like Rain〉が2001年の《Europe '72》拡大版でリリースされた。また、これを含む10曲が《Steppin' Out with the Grateful Dead》でリリースされた。このアルバムはこのツアー中イングランドで行われた8本のショウからの抜粋で2002年にリリースされたもの。その上で、全体が《Europe ’72: The Complete Recoddings》でリリースされた。
Gary Lambert がライナーでこの最初のロンドン2日間を前後編の2本でひとつとしているのは妥当ではある。この2日間で、この時期のデッドの形は一通り提示される。
初日に〈The Other One〉をやり、こちらで〈Dark Star〉をやっている。30分を越える演奏はロンドンの聴衆にとってはまったく新しい体験であったろう。まず最初の3分の1、歌の前のジャムがすばらしい。ドラムスは後景に退き、まずガルシアのギターとベース、次にガルシアのギターを中心とした全員参加のジャム。1番の歌の後、ビートが消えてフリーになり、ひどく静かになり、ピアノとドラムスを中心にまた徐々にビートが現れる。そこに乗るガルシアのギターが冴えている。
全体にかなりゆったりと余裕のあるテンポ。〈Deal〉や〈Looks Like Rain〉もかなりゆっくりだし、〈Case Jones〉も前半、テンポが変わりはじめる前はのんびりとしている。意識して遅くしているようでもある。〈Looks Like Rain〉ではこの時期だけ、ガルシアがペダルスティールを弾く。あまりこの楽器らしくない音を出すが、演奏はすばらしい。このツアーでのガルシアのギターは冴えまくっているのが、こちらにも出ている。第二部でピグペンがヴォーカルをとるスロー・ブルーズの〈It Hurts Me Too〉では、一級のブルーズ・ギターを披露する。
〈Playing In The Band〉も遅めのテンポで始まり、歌の後のジャムは元のメロディからは完全に離れてジャズになっている。曲の初めにウィアがドナを紹介する。ドナの参加はまだまだ少ない。
クローザーの〈Caution (Do Not Stop On Tracks)〉はこのツアー中、05月11日のロッテルダムでの演奏が最後になるが、形は定まらないままに各々の演奏の質が上がっていて、これまでのベスト・ヴァージョン。
アンコールが〈One More Saturday Night〉なのは、この日が本当に土曜日だからか。とはいえ、次のニューカッスルでも3本続けてこれをアンコールにしている。ウィアが1番の後、"Mr. Garcia" と促して始めるガルシアのソロがことさらに見事。
まずは最高の形でツアーが始まった。次は3日後のニューカッスル。
3. 1978 Veterans Memorial Coliseum, Jacksonville, FL
土曜日。オープナー〈Mississippi Half-Step Uptown Toodeloo〉がことにすばらしい由。
4. 1982 Onondaga Auditorium, Syracuse, NY
木曜日。11ドル。開演7時半。ここからニューヨーク州アップステート3ヶ所を回る。ここもデッド・カントリーの一つ。
5. 1985 The Spectrum, Philadelphia, PA
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。13.50ドル。開演5時。
6. 1988 The Centrum, Worcester, MA
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。17.50ドル。開演7時半。WCUW で FM放送された。この年最短のショウの一つの由。
7. 1989 Riverfront Coliseum, Cincinnati, OH
土曜日。開演8時。クローザー前の〈Black Peter〉で、男がステージに上がりこみ、クルーが素早く排除した。ショウは良かった。
8. 1991 Orlando Arena, Orlando, FL
月曜日。このヴェニュー3日連続のランの中日。21.50ドル。開演7時半。
9. 1994 Miami Arena, Miami, FL
金曜日。このヴェニュー3日連続のランの楽日。25ドル。開演7時半。(ゆ)
血圧
03月08日・火
自分の医者に行く。尿酸値を下げる薬を1ヶ月飲んでの採血。待合室で血圧を測ると159/66。これは高いね、と診察室で測ると129/77。これなら安心だが、30も変わるかねと医者が驚く。インターバル速歩とタオル握りは効いているらしい。
##本日のグレイトフル・デッド
03月08日には1968年から1992年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1968 Melodyland Theatre, Anaheim, CA
金曜日。"Jefferson Airplane & Friends" という名目で、デッドが前座。このヴェニュー2日連続の初日。ロサンゼルスの LA Free Press に広告がある由。セット・リスト不明。
会場はアナハイムのディズニーランドの向いにあった円形のアンフィシアターで、客席が舞台をぐるりと囲む形。すぐに潰れたそうな。なぜか客はバンド名を "Dreadful Great" と間違えて読んでいた。
2. 1970 Travelodge Theatre in the Round, Phoenix, AZ
日曜日。1時間半強のテープがあり、この日のものとされる。7曲目〈Hard To Handle〉から13曲目〈Wake Me Shake Me〉の途中までアコースティック。〈Wake Me Shake Me〉からテープ最後の〈Turn On Your Lovelight〉まで、正体不明のシンガーが参加し、ハーモニカを吹く。
次は10日空いてニューヨーク。
1973年のこの日、Ronald Charles 'Pigpen' McKernan が、長年のアルコールの過剰摂取による臓器不全で死去した。享年27歳。最後のショウは1972年06月17日のハリウッド・ボウル。そこではピグペンは歌っていない。後に、ピグペンの父親は、息子とすばらしい人生を共にしてくれたことで心からの感謝を述べた手紙をバンドに送った。
ジェリィ・ガルシアがピグペンと出逢うことでグレイトフル・デッドとなるバンドが The Warlocks として出発する。さらに、バンドが支持者を集めてゆくのに、ピグペンが果たした役割は限りなく大きい。ピグペンを生で体験してデッドヘッドになった人びとと体験せずにデッドヘッドになった人びとの間には越えがたい溝があるように思われる。録音を聴くかぎりでは、原始デッドはピグペンのバンドであり、ワーナーが最初の契約書を送った相手として想定していたのはピグペンをフロントとするブルーズ・ロック・バンドだったろう。ピグペン時代のデッドはいわばロケットの初段とも言える。そこは最も大きな推進力を必要とする。そして、ロケットがうまく飛びあがることができれば、初段は燃え尽きて切り離される。
3. 1992 Capital Centre, Landover , MD
日曜日。23.50ドル。開演7時半。このヴェニュー2日連続の初日。
そこらじゅう警官だらけで、検問がいたるところにあり、デッドヘッドが多数逮捕された由。
##本日のグレイトフル・デッド
03月07日には1970年と1981年の2本のショウをしている。公式リリース無し。
1. 1970 Santa Monica Civic Auditorium, Santa Monica, CA
土曜日。合わせて75分ほどのテープが出回っており、この日のものと推定されている。そこに入っているセット・リストは恐らく一部。
2. 1981 Cole Field House, University of Maryland, College Park, MD
土曜日。9ドル。開演7時。ボブ・マーレィ&ウェイラーズが前座の予定だった由。一級のショウらしい。(ゆ)
経過良好
03月07日・月
母の眼科受診に付き添う。白内障手術後初めての受診。病院での所見で眼の表面に傷が多かったのでそれを治す目薬が退院の朝に急遽追加された。今日の所見ではかなり良くなっているので、その薬は中止。目薬は4種類になった。念のため、訊ねると、種類と頻度は減ってゆくが、最低でも1ヶ月から2ヶ月は続ける由。一つさすごとに5分はあけろというので、4種類さすと最低でも15分はかかる。母は高齢で動作も遅いから、ひとつさすのに5分はかかる。全部で結局30分以上。とまれ、経過良好ということだから、目薬はちゃんと自分でさせているわけだ。診察前の視力検査では手術前とあまり変わらず、もう少し出てもいいはずだが、高齢者の場合、視力の回復が遅れることがある、と主治医の弁。視野はずいぶん明るくなったと本人は言うから、手術したメリットは出ている。
##本日のグレイトフル・デッド
03月06日には1981年から1994年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1981 Stanley Theatre, Pittsburgh, PA
金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。
2. 1992 Hampton Coliseum, Hampton, VA
金曜日。このヴェニュー2日連続の2日目。23.50ドル。開演7時半。
3. 1994 Blockbuster Desert Sky Pavilion, Phoenix, AZ
日曜日。このヴェニュー3日連続の最終日。23ドル。開演5時。
サウンド・エンジニアの Dan Healy がこのショウを最後にクビになった。原因は今一つ、定かではない。この時期、ウィアのヴォーカルにディレイやリヴァーブなどの効果をかけることが多く、ためにウィアはモニターが聴こえづらかった。スティングが前座をした時、同様の操作でPAの調子がおかしく、これによって問題が表面化した。という説が一つ。ヒーリィがヘロインを入手するため、 SBD をヨーロッパのブートレグ業者に売っていたことが発覚した、という説が一つ。その他にもいくつかある。
ヒーリィがウィアのヴォーカルにエフェクトをかけた理由もよくわからない。時には、喉の調子が良くないのをカヴァーすることもあるから、そのせいかとも思うが、たいていはこれは要らないよ、と思える。あるいはデッドのスタッフが例外なく感じていた過剰なまでのストレスへの対策の一つなのかもしれない。デニス・マクナリーの本によれば、最後には俺をクビにしろとさかんに言っていたともある。辞任する気にはなれなかったのか。
ヒーリィはアウズレィ・スタンリィが作ったPA工房の Alembic のメンバーでもあり、デッド草創期からのファミリーの一人で、長くサウンド・エンジニアを勤め、復帰後のデッドのPAシステムの音響改善に貢献している。1980年代以降の公式録音の担当者でもある。(ゆ)
介護認定
介護認定
02月21日・月
母の介護認定に立ち会う。耳が遠くなるなどの加齢に伴う体の不具合はいろいろあるが、頭ははっきりしているのがよくわかる。今のところ要支援だが、要介護にはならないかもしれない。
生きながらえれば、いずれあたしもこういうのを受けるようになるんだろう。幸い、わが親や祖父母でボケた者はいないから、頭だけは保つ可能性が高い。問題は目と耳。この二つは鍛える方法もないなあ。
「アルジャーノンに花束を」の中篇版は、やはり後半の、主人公がクスリで増進された知能を失ってゆくところがヤマだが、年をとると読むのがだんだん辛くなる。
##本日のグレイトフル・デッド
02月21日には1969年から1995年まで8本のショウをしている。公式リリースは3本。うち完全版2本。
Vince Welnick の誕生日。1951年アリゾナ州フェニックス生。2006年06月02日カリフォルニア州ソノマ郡死。享年55歳。死因は自殺。1990年07月、ブレント・ミドランドの急死を受けて、オーディションで選ばれ、メンバーとなる。同年09月07日初ステージ。1995年07月09日のラスト・ショウまで鍵盤とヴォーカルを担当。ジョン・ペリィ・バーロゥと組んで作曲もする。
ウェルニクがミュージシャンとして一流だったとしても、グレイトフル・デッドに入ったことが果して幸せだったかどうか。
デッドは毎回違うことをやろうとし、集団即興をめざした。そのためメンバー間の関係は通常のバンドとは比較にならないほど密接となる。実際、ロージィ・マッギィは回想録 Dancing With The Dead の中で、1960年代にすでにメンバー間の関係は恋人や妻ですら伺い知れず、間に入ることなど思いもよらないほど密接だったと述べている。そういう深くからみあった集団に、結成から四半世紀経って参加し、他のメンバーと「うまくやってゆく」には、ミュージシャンである前に一個の人間として、よほどの覚悟とコミュニケーション能力と、そしておそらく確固として確立した自己が必要だろう。そして、たとえそうした資質を十二分に備えていたとしても、さらにその上に、かなりの重圧も感じられただろう。他のメンバーとしては特に圧力をかけているつもりはなくとも、かれらとして当然のことをやることが、新メンバーには圧力になりうる。デニス・マクナリィはデッドの歴史を描いた著書 A Long Strange Trip の中で、参加して間もなく、あるショウの後で呆然と佇むウェルニクを見つけた時のことを書いている。その日のショウはひどい出来で、ウェルニクはそれが自分のせいだと思いこんでいたのだった。マクナリィはひどい出来のショウはバンドとして珍しいことではなく、ウェルニクの責任ではないことを言って聞かせる。
ウェルニクは前任のミドランドとほぼ同世代で、加入したとき39歳。人生において冒険する年齡ではもはや無い。己の才能に自信をもち、デッドに新たな要素を持ち込む意気に燃えていたわけでもなかった。あの時のデッドに必要だったのは、おそらくそうした新しい血、若く、溌剌とした新人であったろう。しかし、ミドランドの死の衝撃は、残りのメンバー、就中ガルシアの保守化をもたらした。いわば安全牌を求めさせた。後継の人選において、やってみなはれをやってみる気にはどうしてもなれなかった。
ウェルニクはリハーサルと録音による勉強で、レパートリィの各曲に詳細なノートを作り、それを持って初ステージに臨む。かれが目指したのは皆の足を引っ張らないことだった。ガルシアがブルース・ホーンスビィに参加を求めたのは、選んでしまったウェルニクにはミドランドの代役、つまり自分のソロの霊感の元としての役割が勤まらないことを覚ったためだったであろう。これは本来、ウェルニクからすれば屈辱でしかない。その場で辞表を叩きつけてもおかしくはなかった。しかし、かれはどうやらそういう性格ではなかったし、また貧困のどん底にあったのを、デッドに拾われて救われてもいた。辞めるわけにはいかなかった事情もある。
ウェルニク時代のライヴ音源の公式リリースが少ないので、バランスのとれた評価をしにくいが、歴代鍵盤奏者のなかでデッドヘッド間の人気が最も低いことは確かだ。キースもミドランドもプラス・マイナスどちらの評価もあり、強い否定論者もいると同時に熱狂的に評価する者もいる。ウェルニクには、どちらにしても熱意が感じられない。むしろどう評価すべきか、決めかねているようでもある。
聴いた範囲でのウェルニクは、衰えてゆくガルシアをカヴァーすることに努めている。新しいことを持ち込むよりも、欠けてゆくところを埋めようとしている。またそれがかれとしては等身大、背伸びせずにできる精一杯のところだったようにも見える。
2002年に The Other One から除外されたことはウェルニクには大きなショックで、結局これがかれの命取りとなった。The Other One を「ファミリー再結集」とした4人におそらく悪気は無かっただろう。というよりも、おそらくはウェルニクはこのプロジェクトの当初からまったく考慮に入れられていなかったのではないか。かれらにとって「ファミリー」とは60年代から続いていた関係であり、1990年になって入ってきた者は一時的滞在者であって、家族とはみなしていなかったのだ。しかし、ウェルニクにしてみれば、グレイトフル・デッドの一員であったことは、人生最大の歓びであり、誇りであった。それを否定されたことは、人間として否定されたのと同じことだった。
グレイトフル・デッドに出逢って、まずたいていの人間の人生は良い方に変わる。しかし、ずっと良いままである保証もまた無い。そして、良いままであるか、悪い方に変わるかには、当人のコントロールが及ばない。もう1度しかし、ウェルニクにしても、では、デッドに拾われない方が良かったかと訊かれれば、たとえ後でそういう仕打ちを受けるとわかっていたとしても、まず十中八九、拾われて良かったと答えるだろう。
1. 1969 Dream Bowl, Vallejo, CA
このヴェニュー2日連続の初日。Country Weather、It's A Beautiful Day、サンズ・オヴ・シャンプリン、Blues Helping、サンタナ共演。第二部とアンコールのセット・リストが残る。ショウ自体は原始デッドの好例、と言う。
It's A Beautiful Day の結成は1967年で、この年06月にファースト・アルバムをリリースする。
Country Weather はサンフランシスコ郊外で1966年、高校生によって結成され、当初は The Virtues と名乗った。1967年、チェット・ヘルムズの薦めで改名し、オリジナルを作って演奏するようになる。正式な録音は無いが、1969年にプロモーション用に5曲録音している。1973年解散。
Blues Helping という名のバンドは不明。
2. 1970 Civic Center Arena, San Antonio, TX
開演6時。6ドル?。イッツ・ア・ビューティフル・デイ、ジョン・メイオール、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス共演。出演はこの順番で、デッドがトリ。セット・リストは不明だが、後半、原始デッドの定番をやり、〈Turn On Your Lovelight〉の途中で客電が点いたのは、いい加減終れとの合図らしい。
3. 1971 Capitol Theater, Port Chester, NY
このヴェニュー6本連続の4本目。《Workingman’s Dead》50周年記念盤で全体がリリースされた。
前2本同様、このショウもすばらしい。全体としてゆったりとしたうねりのあるショウ。テンポが遅めで、ガルシアのソロもくだけてメロウで、流れるようにうたう。このランでデビューした新曲はまだフォーマットが固まらず、手探りしてもいる。どれもコーダがあっさりしている。
ピグペンの出番は3曲だが、どれも腰の入ったブルーズで、かれのハーモニカ、いやブルーズ・ハープもいい。第二部後半の〈Wharf Rat> Truckin'> Casey Jones> Good Lovin'〉の畳みかけは、決して急いではいないのだが、集中の度合いが高まってゆく。
〈Good Lovin'〉で歌の後、クロイツマンが5分ほど、独りでドラムを叩く。あるいはハートが不在でも心配するな、というデモンストレーションの意味もあるかもしれない。ギターが小さく戻ってだんだん大きくなってジャムになる。ピグペンも戻って即興の歌をつらねる。このあたり、同じジャムでも前年の原始デッドとは明らかに変わっている。より複雑で洗練されて、音楽の中へもう一歩踏みこんでいる。
〈Good Lovin'〉から間髪を入れずにウィアがコードをアコースティックの響きで弾きはじめる〈Uncle John's Band〉の風格には新生デッド、アメリカーナ・デッドへの手応えを感じる。
4. 1973 Assembly Hall, University Of Illinois, Champaign-Urbana, IL
このヴェニュー2日連続の初日。第二部オープナー〈China Cat Sunflower> I Know You Rider〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
なるほど良いヴァージョン。CCS 後半のジャムでウィアが渋いソロを聴かせる。ここはかれがリードをとる数少ないところだが、ここでは定型の結論のメロディに向かって霊感に満ちている。ガルシアがこれを軽く受け、徐々に引き継いで IKYR へ移る。メロディらしいメロディを弾かず、軽快に音を散らす。くー、たまらん。ラストのソロでは、中域でほぼ同じ音を繰返してから、高く飛翔する、ガルシア得意のパターン。
5. 1982 Pauley Pavilion, University of California, Los Angeles, CA
11.75ドル。開演8時。良いショウの由。
サンフランシスコ、サンディエゴ、このロサンゼルスと回り、次は03月13日にネヴァダ州リノに飛ぶ。
6. 1991 Oakland County Coliseum Arena, Oakland, CA
このヴェニュー3日連続の最終日。第二部2・3曲目〈Uncle John's Band〉〈Terrapin Station〉、6曲目〈Eyes Of The World〉にアイアート・モレイラが参加。ホーンスビィはいないが、この年の五指に入るショウだそうだ。
7. 1993 Oakland Coliseum Arena, Oakland,, CA
24ドル。開演7時。1月下旬の3日連続に続いて、再びここで3日連続のショウをする、その初日。マルディグラ祝賀。新曲デビューが3曲。第一部3・4曲目〈Lazy River Road〉〈Eternity〉と第二部オープナー〈Liberty〉。
〈Lazy River Road〉はハンター&ガルシア。最後は1995年07月09日のラスト・ショウ。計65回演奏。スタジオ盤収録無し。
〈Eternity〉はウィリー・ディクソンとボブ・ウィアの曲。1995年07月08日まで、計43回演奏。スタジオ盤収録無し。ベースの Rob Wasserman が《Trio》のアルバムを作った時、ウィアとディクソンを組み合わせた。スタジオでのセッションで、ウィアが思いついていたコードとメロディをディクソンに示し、ディクソンは気に入ってその場で詞を書いた。二人でさらに揉んで、ブリッジを加え、ディクソンが詞を整えて曲ができた。
〈Liberty〉は1995年07月06日まで、計56回演奏。スタジオ盤はハンターのソロ《Liberty》収録。アンコールで演奏されることが多い。
8. 1995 Delta Center, Salt Lake City, UT
28ドル。開演7時半。このヴェニュー3日連続の最終日。《30 Trips Around The Sun》の1本として全体がリリースされた。
オープナーの〈Salt Lake City〉はバーロゥ&ウィアの曲で、この時1度だけ演奏された。スタジオ盤はウィアのソロ《Heaven Help The Fool》収録。
2015年にバンド結成50周年を記念してリリースされたビッグ・ボックス・セット《30 Trips Around The Sun》は、1966年から1995年までのデッドの30年を、各年1本ずつ代表するショウの完全版によって紡ごうとする企画で、《Europe '72: The Complete Recordings》と並んで、アーカイヴからのリリースとしてこれまでで最大規模のものだ。この日のショウは1995年で初めて全体がリリースされたショウで、この年のショウで全体がリリースされているのは、今のところ、この他には無い。ということはこの年のベストのショウと見ることができる。この録音については、以前、書いている。
1995年の悪評に対して、悪いものばかりではないことの証拠としてこのショウを挙げる向きもある。が、その場での体験はまた別だろう。デッドのショウを実際に体験しているか否かでも、捉え方は変わってくるだろう。まったくの後追いでこの録音を聴くかぎり、これがベストの出来であるならば、他のショウの出来は推して知るべしだ。《30 Trips Around The Sun》のショウを順番に聴いてきて、ここに至る時、そのいたたまれなさをどこに持っていけばいいのか、わからなくなってもだえる。このショウを再度聴きかえす気にはまだなれない。
一方で、このショウはグレイトフル・デッドが常に前を、前だけを見て進んでいったことの証しでもある。あたしらは通常、未来に向かって背中を向け、後ろ向きに過去を見ながら後ずさってゆく。ところが、こいつらは過去をふり向くことをせず、顔をまっすぐ未来に向けて進んでいった。そこに何があるか、起きるか、わからないことをものともせずに、というよりは、わからないからこそ進んでみるという風情だ。その結果、かかっていることを意識しなかった圧力におし潰されてばったりと倒れた。そのまさに倒れようとする姿、倒れてゆく姿を捉えたものがこれである。なんと、こいつらは、自分たちが倒れようとしていることすら、自覚していないようだ。倒れおわり、2度と起きあがれないとわかって初めて、自分たちが倒れた、潰れたことに気がついた。生き残ったメンバーだけではない。ガルシア本人にしてからがそう見える。
グレイトフル・デッドが過去をふり返らなかったというのは、過去を尊重しなかったというわけではない。先人たちが積みあげてきた遺産、伝統にはむしろ人一倍敬意を払っている。数多いカヴァー曲のいずれもが原型を止めないほど変えられている。オリジナルを作るのと同等の熱意をもってエネルギーを注ぎこみ、大切にくり返し演奏されている。それは過去を簒奪して商品化することではなく、自分たちもまた伝統の一部となることを目指している態度だ。その点では、デッドはアイリッシュ・ミュージックなどの伝統音楽の演奏家に立ち位置が近い。スタジオ録音の質の高さよりも、ライヴの、生演奏の場を確保し、その質を上げることを何よりも重視した点でも、伝統音楽家と呼んでいい。
この日のショウでは、表面的な出来不出来とは別に、そうしたデッドの基本的性格が図らずも露わになる。それを確認するためにも、やはりこのショウはいずれ聴きなおさねばなるまい。(ゆ)
緑内障の検査
01月21日・金
眼科で緑内障の検査。視野検査まで一通り受ける。視野検査は3回目で、だいぶ慣れてきた。前回、右目で見えなかったところが、今回は見えている。この検査は慣れが必要で、最初の1、2回はあまり参考にならないのだそうだ。結論として、今回もまだ治療を始めるほどではない。また定期的に検査しましょう。とはいえ、特に右目は老化が確実に進んでいる。視力は右の方がずっと良いので、うまくいかないものだ。
右足を前に出すか、左足を引くかして、下半身を軽く左にひねるようにして立つと、腹がひどく楽になることに気がつく。ということはなぜか上半身が右にねじれているのか。とにかく、気持ちがよい。血圧まで下がる気さえする。実際にはそんなことはないのだろうが。
##本日のグレイトフル・デッド
01月21日には1971年と1979年の2本のショウをしている。公式リリース無し。
1. 1971 Freeborn Hall, Davis, CA
2.50ドルと3.50ドル。UC Davis の学生と一般か。開演8時。この年最初のショウ。James & the Good Brothers とニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジが前座。
ショウはすばらしいもので、学生は踊りくるっていた由。
会場は1961年建設の UC Davis の多目的ホール。授業や講演、集会など様々なイベントに使用され、コンサートも多数行われた。もっとも、こういうホールの常で、床は平坦だから、椅子を並べると後ろの方はステージが見にくかった。
James & the Good Brothers はカナダ、オンタリオ州出身、カントリー、ブルーグラス、フォークをベースとしたバンド。ここに出ている3つのバンドの中では最もアコースティックなサウンド。Brian と Bruce の双子の兄弟に弟の Larry と James Akroyd が加わって、1967年この名前で活動を始め、1971年にバンド名をタイトルにしたデビュー・アルバムを出す。これにはクロイツマンが参加し、ベティ・カンター=ジャクソンがプロデューサーで、彼女とボブ・マシューズが録音。クレジットには無いが、ガルシアが参加している可能性もある。ドラムスにはホット・ツナの Sammy Piasta もクレジットされている。Special Thanks にクロイツマン、 ウィア、レシュ、Grateful Dead and Family、さらに Jack Cassady の名がある。わが国では「隠れ名盤」とされて、一時、LPの中古盤が高かった。後にグッド兄弟はカナダに戻り、The Good Brothers として現在も現役。
かれらがここに登場したのは前年夏の有名な the Trans Continental Pop Festival の一部に参加したことで、デッドとのつながりができたため。ジャニス・ジョプリン、ザ・バンド、デラニー&ボニー、テン・イヤーズ・アフター、トラフィック、バディ・ガイ、シートレイン、フライング・バリトー・ブラザーズ、イアン&シルヴィアとザ・グレイト・スペクルド・バード、ニュー・ライダーズ・オヴ・パープル・セイジなどにデッドも加わり、カナダの大陸横断鉄道を走る列車を借り切って、ところどころ停まってはコンサートをやる、という企画。そのコンサートよりも、列車の中が24時間のミュージシャンにとってのフェスティヴァルになった。全体の企画は途中で資金が切れて終ったが、このイベントは参加したミュージシャンたちに深甚な影響を与えた。デッドはその恩恵を最も大きく受けたうちのひとつ。後に定番のレパートリィになる〈Going Down the Road Feelin' Bad〉をここでデラニーからガルシアが習ったとされるのが一例だが、それだけでなく、デッドの音楽、ショウの組立て全体がこれ以後大きく変わることになる。この時の様子は映画撮影もされ、今は《Festival Express》としてドキュメンタリー・ビデオが出ている。
《James And The Good Brothers》は今聴くと CS&N をずっとフォーク寄りにした感じ。ドラムス、ベースの入る曲も、リズム・セクションはあくまでも背景で、歌を前面に立てる。グッド兄弟とアクロイドの3人ともリード・ヴォーカルがとれるし、コーラスも綺麗に決まっている。《Workingman's Dead》ではやりきれなかったことをやっている、とも言える。サウンド的にはオートハープがアクセント。もう少し曲に個性があれば、ヒットしていたかもしれない。一番目立つのがラストのニルソンの〈The Rainmaker〉というのは、ちょっと弱い。あえて、売れ線を狙っていないように見えるところが、かつての「ブラックホーク」で評価されたのだろう。もっともヘンに背伸びせず、ウェストコーストでの録音のチャンスにのぼせ上がりもせず、普段着の音楽を普段通りやっているのは気持ちが良い。なかなか腹の座った人たち。なお、クロイツマンが入っているのは5曲目〈Poppa Took the Bottle from the Shelf〉。デッドの時とは別人の、ごく普通のタイコだ。
2. 1979 Masonic Temple, Detroit, MI
9.50ドル。開演8時。外は厳寒。中はホット。良いショウの由。(ゆ)