クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:能

 今月2回ある定例公演の二つ目。演し物は狂言『左近三郎(さこのさむろう)』と能『夕顔』。

 狂言は短かいもので上演時間15分ほど。狩人と禅坊主の二人の対話劇。なかなか可笑しい。狂言の科白は聞いてすぐわかる。

 能は『源氏物語』を題材にして、ある僧が京で夕顔の霊に会う。こちらも僧と夕顔の霊の二人の劇に、後で事情を説明する役の者が出てくる。演技といえるほどのものはほとんど無い。少なくとも、あたしなどには演技とは見えない。表情も変えず、腕や体も動かさず、舞台をあちこち行ったり来たりするだけ。歌舞伎以上に一定の型にはまっている。その型や型の組合せに意味があるのかもしれない。科白はほとんどわからない。

 僧に続いて、二人がかりで四方に布を巻いて中を隠した篭のようなものを床をすべらせて運んでくる。ここに夕顔の霊が入っていて、途中で布が解かれ、霊が出現する。これを「山ノ端之出」というそうな。

 夕顔の霊は梅若万三郎が勤めたが、腰が悪いらしく、舞台の上でも待っている時は丸椅子に腰かけ、立つ時も介添えが必要な様子だった。立ってしまえば問題はないらしいし、声はしっかりしていた。もっとも、面をつけているから、ますますもって聞き取りにくい。

 前回の『道成寺』は科白自体が少なく、ほとんど音楽と舞踏だった。『夕顔』も音楽劇と呼びたいものだ。違うのはこちらでは地謡が活躍する。八人の男性が舞台の脇に座り、ユニゾンで唄う。我々の席は脇正面なので、地謡の座は正面になる。唄っている時の表情とかが見えて、なかなか面白い。正面をじっと見ていることは同じだが、ずっと瞑目している人、眼を開けたままの人、瞑ったり開けたりしている人、それぞれにいる。年齡の幅はかなり広いようだ。まさか20代ではないだろうが、そう見える人もいる。唄う前に、前に置いていた畳んだ扇子を手に取り、唄っている間、これを立てている。歌が終るとまた前にもどす。この動作のタイミングも八人ぴたりと一致している。もちろん、合図も何も無い。

 それにしても、今回はこの地謡が実に気持ちよい。声の質がたまたまうまく合ったのか、合うように選んでいるのか、とにかくユニゾンの響きが快感そのものだ。ハーモニーの快感にはどこか予定調和的なところがあるが、ユニゾンの響き、それぞれに異なる声の重なり方の快感はもっと原初的だ。ハーモニーは天上から降ってくるが、ユニゾンは地の底から湧いてきて、腹に響く。そして、確かにユニゾンなのに、ハーモニーのような重層的な響きが聞えてくる。ラストも囃子方とともに地謡が盛り上げて、「(霊が)失せにけりぃ」でふっつりと終る。これまた快感。

 能は基本的に音楽劇なのか、とも思ってしまう。大鼓も鼓も打つ前に声を出す。この声は役者が科白を言っていようがいまいがおかまいなしに出す。ますます科白が聞きとりにくい。役者の動きは極端に少ないから、見るというより聞く方が大きい。聞えている音のほとんどは音楽だ。

 まあ、最低でも10本くらいは見ないと、ほんとうのところはわかりそうにないが。(ゆ)

 能・狂言デビュー。数年前、プランクトンが「ケルティック能」をやった時、ここで記者会見を見たけれど、本番は結局仕事とぶつかって行けなかった。

 演し物は狂言が「棒縛」、能が「道成寺」。狂言が30分、休憩20分、能が110分。「道成寺」は110分一本勝負。2時間近く、中断もまったく無い。前後に舞台に鐘をもちこんでしつらえ、またかたづける作業というかこれも「演技」の内ではあろうが、それが合計10分くらいあるけれど、実際の演技だけでも少なくとも1時間半以上、ひとときの休みもない。

 あらためて面白いのは、能舞台には幕が無い。橋掛かりという、鏡の間から舞台本体までの通路の鏡の間側に揚幕があるだけで、定刻、幕が上がって、狂言の3人の役者が間隔をおいて音もなく出てくる。すーっと橋掛かりを渡り、後座の縁を通って本舞台にまず先頭の役者が入る。「これはこの辺りの者でござるが」と言って演技を始める。

 能の「道成寺」の場合には、定刻にまず囃子方が一人ずつ、間隔をおいて出てくる。能管、鼓、大鼓、太鼓が後座に着くとともに、切戸口からもわらわらと出てきて、地謡座に着く。次に鐘が出てくる。吊るしの輪に太い竹竿を通し、前後で頭上腕をいっぱいに差し上げて支え、鐘の脇に二人着いて運び、本舞台に置く。そこから準備して、舞台上に吊るす。この鐘は50キロ以上あるそうな。

 終るときも、逆の手順で鐘を下ろして、運び出し、続いて地謡、囃子方がそれぞれ出てきたところに戻る。

 この冒頭と終りでは一切音が無い。無言のうちに、また音をたてずに作業が進行する。囃子方の最後の一人が揚幕に消えようとして初めて拍手が湧く。

 「棒縛」は「ぶす」に次いで狂言では有名なもので、話の筋ぐらいはあたしでも知っている。が、やはり聞くと見るとは大違い。それにしても、縛られたままでも動きがまったく乱れないのは、当然といえば当然かもしれないが、たいしたものではある。歌舞伎役者の下半身の鍛え方にも感心したが、能や狂言の役者たちも、基礎訓練は相当に積んでいる。こういうところは世襲制のメリットではある。出てくる時の歩き方からして違う。上半身がまったく上下せず、すーっと進んでゆく。

 科白まわしも歌舞伎の一部よりもよほどよくわかる。国立能楽堂は前のシートの背に画面があって、科白や謠の文句が出るのはありがたいが、それを見なくても、科白は7割ぐらいは明瞭にわかる。謠の細かい詞やその含蓄などまではむろんわからないが、そういう背景がわからなくても、まず楽しめる。基本的には娯楽、エンタテインメントであるわけだし、言葉もせいぜい室町以降だ。

 「道成寺」は能の演目の中でも最もわかりやすいものだそうだが、前半は寝そうになる。ヒロインの白拍子がとんでもなくゆっくり舞う。舞うというより、数分に一度ちょっと身体を動かすだけだ。これが30分ほど続く。やる方もたいへんだろうが、見ている方も目を開けているのに必死になる。周りでは寝ている人も少なくない。それが後半は一転、急調子になり、般若の面をつけた物の怪となって、僧侶たちと争う。

 ここでは何よりも囃子方にびっくり。それも能管よりも鼓と大鼓《おおつづみ》。大鼓はかーんという甲高い音がする方で、見た目は鼓とほとんど変わらない。少し大きいかと思えるのと、持ち方が違うからそれとわかる。鼓は肩にあて、大鼓は脇に抱える。この二人のみ、演奏するときだけ、床几に腰かける。

 二人は交互に、時には合わせて、「いよおぉぉぉ」と声をいれる。入れてから打つ。声なしに打つこともあるが、まずたいていは入れる。その入れ方がいくつもの種類がある。声の大小、いきみ方の強弱、伸ばしの長短。大鼓の方が音程を高くとる。裏声も使う。いきむのは鼓。

 前半の超スローモーションでは、打つ間隔も長いが、後半はほとんど連打、ひっきりなしに声をあげては打つ。時おり入る能管の音よりもよほど大きい。あんなにいきみつづけて、声がつぶれないかと心配になるほど。

 能はシリアス一方と思っていたら、こちらも意表をつかれる。白拍子が鐘に入り、鐘がどんと落ちたところで、能力《のうりき》と呼ばれる寺の下男二人が、橋掛かりに控えていて、鐘の落ちるのと同時にごろごろと転がってから起き上がる。ここからしばらくこの二人の演技になる。これが滑稽味をメインにしている。まずころがるのにはこちらも驚いた。鐘が落ちたのを住職に報告に行く役目を二人が押し付けあうのも、儀式化されているのがかえっておかしい。落語と同じで、演者はすこぶるシリアスに演じる。

 上手い下手はむろんわからない。というよりも、どの人も、役者も囃子方も上手く見える。あれれと思えるようなところは皆無だ。もっと寝てしまうのではないかと思っていたが、予想外に楽しめた。狂言はともかく、能がこれほど面白く見られるとは、やはり実物を見なければわからない。

 問題は能がそう簡単には見られないことだ。国立能楽堂では毎月上演はしているものの、4回が普通で、しかもどの演目も一日だけ。座席数600弱では、チケットをとるのも「瞬間芸」になる。銀座シックスに観世能楽堂ができたし、宝生も金春もそれぞれに能楽堂を持っているとはいえ、どこも上演回数はひどく限られている。観世の1月など、半分は志の輔が出ている。多目的ホールではない、能楽専門の舞台、ホールでだ。歌舞伎みたいなわけにはいかないのかもしれないが、パフォーマンス芸術は上演してナンボなのだ。演らなければ、見られない。

 客層は歌舞伎はもちろん、文楽に比べても男性が多い。半分以上になるかもしれない。が、どうも我々のような一般の、つまり「民間人」の客は少なく、関係者や研究者、あるいは何らかの弟子筋のような人が多い感じだ。玄関まで出てきたら、誰やら黒塗りに乗って帰ってゆくのを、大勢が一礼して送っていた。

 能は囃子方は一噌幸弘氏のような人もいて、いろいろ試行錯誤もし、努力もして、面白いが、役者の方は元気がない、と昔、星川さんから聞いたことがある。上演回数の少ないことを言っていたのかと思いあたる。囃子方は能楽堂以外でも公演活動ができるが、役者は能楽堂でしかできない。「道成寺」も、囃子方の演奏には圧倒され、鼓と大鼓が一見勝手に打ちながら、ぴたりと音が合うところなど感動すら覚えたが、ヒロイン役の舞ないし身体の動きには、感心はしても感動するようなところは無かった。上手いか下手かと言われれば、そりゃあ上手いと答えようものの、それ以上の何かを感じなかったのは、単にあたしが無知なだけだろうか。(ゆ)

 昼とはがらりと変わって、こちらは音楽と舞踏の劇。それも能とオペラも取り入れて、素人にもまことにわかりやすい、サーヴィス満点の組立て。正直、これまで歌舞伎座で見た中では最初から最後まで楽しめて、抜群に面白かった。

 開幕、紫式部と翁による序があって、いきなりカウンターテナーの独唱。伴奏は古楽器のアンサンブルで、チェンバロ、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロ、リコーダーという編成だが、チェンバロだけのときもあり、1曲、鼓も加わって、これは良かった。

 カウンターテナーは黒一色の装束、対してもう一人のテノールは白の装束。それぞれ闇と光の象徴だそうな。この二人が折りに触れて出てきて、独唱し、また重唱する。歌詞は英語、ラテン語、その他の言語もあるらしい。ステージだけでなく、花道や客席の通路でも唄う。いずれも一級のシンガーで、わが国伝統文化にも多少は通じているようで、演出もあるのだろうが、全体に違和感なく溶け込んでいる。歌詞の意味はとれないが、感情はよくわかる。ハイライトは、源氏の須磨落ちの場面にカウンターテナーが唄うところ。馬に騎った海老蔵の光源氏の孤独が際立つ場面。

 能の方は主に怨霊などの裏の現実を担当していて、時に囃子方もステージに席を設けて出る。能はまったくの無知なのだが、どちらかというと急調子で切迫感、緊張感に満ちた舞台を造るのは、おそらく普段とはだいぶ違うのだろう。しかし、その切迫感、緊張感は歌舞伎でも現代劇でもあたしなどは見たことも無いほど、すばらしくシャープかつ重厚で、場内の空間全体が巻きこまれる。

 一方で能の舞いはやはり静が主な要素で、どんな動きをし、音楽が鳴っても、静謐そのものだ。動そのものの歌舞伎の舞いとの対照が鮮やかで、どちらも映える。

 話は源氏物語の開巻から源氏が須磨から呼び戻され、太政大臣に任ぜられてこれからわが世の春を謳歌しようというところまでで、ラストはその源氏を祝う祝祭で、世をあげて踊る。このクライマックスに典型だが、普段は前半分だけで、回転舞台は場面転換に使われるのを、後ろ半分まで広く開け、舞い踊る群衆を載せたまま舞台が回る。ここだけでなく、前述の須磨落ちの場面など、奥まで舞台を一杯に使うところが多い。これも新機軸なのだろう。これに加えて、プロジェクション・マッピングも使って、舞台がいつもよりさらに大きく広く見える。

 演出もコクーン歌舞伎の手法をとりいれて、誇張した仕種や科白の現代的表現など、新しい試みをしている。これに一番応えて、とあたしには見えたが、伸び伸びと楽しんで演技していたのが源内侍の右若で、役柄も面白い。まあ、歌舞伎というのは何でもありで、また何でもできるのだ。

 舞いでは六条の御息所の生霊に殺される葵の上の児太郎が印象に残る。源氏は気づかず、独りで苦しみ、死んでゆく様を舞いの形で演じる。ラストの群舞で、前面左に若い、小学生か中学生ぐらいの子が二人いて、小学生に見える方が装束だけでなく、動作もどう見ても女の子だったが、後で確認すると市川福之助だった。女形への準備としてこういうところからやるのかもしれないが、感心してしまう。

 今回は花道の左側、真ん中から少し後ろの左端という席で、かなり面白い。花道は舞台よりもずっと役者の肉体に近いし、そこからまた少し離れるので、見やすい。主役級が花道から出る時には、至近距離で見られる。ラストに近く、帝に召された源氏が出てくるときの海老蔵は威風辺りを払って、さすがの存在感。千両役者とまではまだだろうが、三百両くらいはあるんじゃないか。この演目は花道での演技や踊りも多く、いろいろ楽しめた。海老蔵の宙乗りも花道の上でやるから、これまたよく見える。

 昼夜出ずっぱりの海老蔵親子のおかげか、客席は文字通り満席。しかし、歌舞伎座は意外に小さく、満席でも2,000弱。このサイズが舞台を最も楽しめるという経験値なのだろう。

 今回は歌舞伎以外の共演者も多いからか、珍しくカーテンコールをやる。やっぱりこれはいいものだ。(ゆ)

 東京・渋谷のアップリンクで続いている能面師を描いた映画『面打』の上映とライヴ・パフォーマンスの組合せイベントに、瞽女うたをうたっている月岡祐紀子さんが出演するそうです。

 月岡さんの瞽女唄は、先日 Winds Cafe で生で聞く機会がありましたが、ソウル・フィーリングたっぷりで、瞽女唄の持つたくましい哀しみを味わわせてくれました。

 今回はまた能楽とのコラボだそうで、芸能の原点に触れられるのではと期待できます。

 映画の出演者が上映後に生身で演ずる、というのもなかなかできない体験ですね。

   *   *   *   *   *

映画『面打』×能舞シリーズ Vol.6

 弱冠22歳の能面打ち・新井達矢を描いたドキュメンタリー映画『面打』。上映後の能舞では能楽師・中所宜夫と、瞽女三味線奏者・月岡祐紀子による異色のコラボレーションを行う

 毎回大好評の映画『面打』×能舞シリーズ第6弾!
 言葉の一切を排し、木を刻む音だけが響きわたる映画『面打/men-uchi』。その沈黙の余韻の後、能舞による瞽女唄と能の身体が空間を切り裂く!

○ 上映
『面打/men-uchi』(2006年/DV/60分)
監督 三宅流
出演 新井達矢(面打)、中所宜夫(観世流能楽師)、津村禮次郎(観世流能楽師)

○能舞
中所宜夫(観世流能楽師)
月岡祐紀子(瞽女三味線)

日時:12/11(月)(開場19:00/ 開演19:30)
料金:予約2,50円/ 当日2,800円
会場;UPLINK FACTORY
チケット取扱  UPLINK FACTORY
TEL 03-6825-5502/ E-mail: factory@uplink.co.jp
能舞後、『面打』2回目上映あり。(21:30〜 料金1,500円)

三宅流(みやけ ながる)
 映画監督。身体表現をモチーフにした『蝕旋律』がイメージフォーラムフェスティバル、キリンアートアワードにて受賞。イモラ国際短編映画祭(イタリア)、 Mediawave 2002(ハンガリー)等で上映される。フランスの思想家モーリス・ブランショの『白日の狂気』をモチーフにした『白日』はモントリオール国際映画祭ほか、フランスや韓国の映画祭で上映される。過去の作品は海外十数か国で上映され、いずれも高い評価を得る。

中所宜夫(なかしょ のぶお)
 観世流能楽師。観世九皐会、名古屋九皐会、緑泉会において活動。「中所宜夫能の会」を主催。バハレーン、香港、イギリス等の海外公演にも参加。また、実験的能公演「能楽らいぶ」を継続的に行い、宮沢賢治原作に基づく新作能「光の素足」を創作するなど、古典、実験双方において意欲的な活動を続けている。

月岡祐紀子(つきおか ゆきこ)
 武蔵野女子大学卒。第44期NHK邦楽技能者育成会修了。盲目の女旅芸人、瞽女の芸能と出会い感銘を受け、本場新潟に最後の瞽女といわれる故・小林ハル氏らのもとに通い交流を重ねる。瞽女の旅を追体験しようと、四国八十八ヶ所霊場を歩き遍路し「遍路組曲」を作曲。その様子がドキュメンタリーとなり、放送文化基金賞出演者賞を受ける。

新井達矢(あらい たつや)
 面打。7歳より面を彫り始める。東京造形大学造形学部美術学科彫刻専攻に在籍故・長沢氏春氏に師事。国民文化祭ふくい2005「新作能面公募展」において最高賞「文部科学大臣奨励賞」を受賞。仏像製作にも取り組む。

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