今月2回ある定例公演の二つ目。演し物は狂言『左近三郎(さこのさむろう)』と能『夕顔』。
狂言は短かいもので上演時間15分ほど。狩人と禅坊主の二人の対話劇。なかなか可笑しい。狂言の科白は聞いてすぐわかる。
能は『源氏物語』を題材にして、ある僧が京で夕顔の霊に会う。こちらも僧と夕顔の霊の二人の劇に、後で事情を説明する役の者が出てくる。演技といえるほどのものはほとんど無い。少なくとも、あたしなどには演技とは見えない。表情も変えず、腕や体も動かさず、舞台をあちこち行ったり来たりするだけ。歌舞伎以上に一定の型にはまっている。その型や型の組合せに意味があるのかもしれない。科白はほとんどわからない。
僧に続いて、二人がかりで四方に布を巻いて中を隠した篭のようなものを床をすべらせて運んでくる。ここに夕顔の霊が入っていて、途中で布が解かれ、霊が出現する。これを「山ノ端之出」というそうな。
夕顔の霊は梅若万三郎が勤めたが、腰が悪いらしく、舞台の上でも待っている時は丸椅子に腰かけ、立つ時も介添えが必要な様子だった。立ってしまえば問題はないらしいし、声はしっかりしていた。もっとも、面をつけているから、ますますもって聞き取りにくい。
前回の『道成寺』は科白自体が少なく、ほとんど音楽と舞踏だった。『夕顔』も音楽劇と呼びたいものだ。違うのはこちらでは地謡が活躍する。八人の男性が舞台の脇に座り、ユニゾンで唄う。我々の席は脇正面なので、地謡の座は正面になる。唄っている時の表情とかが見えて、なかなか面白い。正面をじっと見ていることは同じだが、ずっと瞑目している人、眼を開けたままの人、瞑ったり開けたりしている人、それぞれにいる。年齡の幅はかなり広いようだ。まさか20代ではないだろうが、そう見える人もいる。唄う前に、前に置いていた畳んだ扇子を手に取り、唄っている間、これを立てている。歌が終るとまた前にもどす。この動作のタイミングも八人ぴたりと一致している。もちろん、合図も何も無い。
それにしても、今回はこの地謡が実に気持ちよい。声の質がたまたまうまく合ったのか、合うように選んでいるのか、とにかくユニゾンの響きが快感そのものだ。ハーモニーの快感にはどこか予定調和的なところがあるが、ユニゾンの響き、それぞれに異なる声の重なり方の快感はもっと原初的だ。ハーモニーは天上から降ってくるが、ユニゾンは地の底から湧いてきて、腹に響く。そして、確かにユニゾンなのに、ハーモニーのような重層的な響きが聞えてくる。ラストも囃子方とともに地謡が盛り上げて、「(霊が)失せにけりぃ」でふっつりと終る。これまた快感。
能は基本的に音楽劇なのか、とも思ってしまう。大鼓も鼓も打つ前に声を出す。この声は役者が科白を言っていようがいまいがおかまいなしに出す。ますます科白が聞きとりにくい。役者の動きは極端に少ないから、見るというより聞く方が大きい。聞えている音のほとんどは音楽だ。
まあ、最低でも10本くらいは見ないと、ほんとうのところはわかりそうにないが。(ゆ)