あまりに圧倒的で、その印象を言葉にしようとしてみても、どうにもならないことがある。受け取ったもの、いや、本当には受取れてはいるかどうかもわからないので、滔々と流れてくる音楽にひたすら身を任せていただけなのだ。うまくすれば、そしてこちらの器が多少ともふさわしいものであるならば、何らかの形でその一部なりとも受け止められたものが、後になって浮上してくることを祈るしかない。

 ジャン=ミシェル・ヴェイヨンがフルートをその楽器として選んだことに何らかの理由はあるのだろうが、それは重要なことではない。それは譬えばジミヘンがギターをとったとか、キース・ジャレットがピアノをおのれの楽器としているとかいうレベルの話だ。フルートと出逢わなかったとしても、音楽家として大成していたはずだ。とはいえ、フルートを選んだからこそ、hatao がかれをわが国に招くことにしたので、だからこそ我々はかれの生の演奏に触れることができたわけだから、この天の配剤には感謝せざるをえない。

 ジャン=ミシェル・ヴェイヨンの音楽は「音楽」なので、誤解を恐れずに言えば、ブルターニュとか、フルートとかいった枠組み自体に何か意味があるわけではない。バッハの『音楽の贈り物』には演奏楽器、形態の指定が無い。どんなもので、どのような編成で、演奏してもかまわない。もっとも、楽曲とは本来そういうもので、作曲家の「指定」は本来はデフォルトとして、実例の一つ、出発点でしかないはずなので、何がなんでも守らねばならないものではない。というのは余談だが、ヴェイヨンには「贈り物」としての音楽が備わっていて、それがブルターニュの伝統音楽、フルートという形を借りて流れでてくる。

 人間はどこの誰であっても、その歴史的社会的条件から逃れられない。つまりは時代と生れ育った環境の外に出られない。ヴェイヨンもまた、人間の一人としてブルターニュの伝統音楽をそのフォームとしている。もっともフルートはブルターニュの音楽伝統に昔からあったわけではない。そこにはかれの意志が働いているようにみえる。一方で、各地の音楽伝統で伝統的とされている楽器のほとんどは、その土地土着のものでは無い。アイリッシュ・ミュージックにおいて現在中心となっているフィドル、パイプ、蛇腹、すべて外来の楽器だ。すなわち、各々の時代にあって、それらの楽器をその伝統の中で初めて演奏し、導入した人びとが存在したのだ。してみれば、外来の楽器を初めは借り、やがて伝統の一部にしてしまうことは、音楽伝統の作用の一つである。ヴェイヨンもたまたまフルーツをブルターニュ音楽に導入する役割を担うことになった。人間の意志は、必ずしも個人にのみ還元されるものではない。自分の意志、おのれ一個の判断だと思っていることは、実のところ、良く言えば時代の要請、悪く言えば他人の吹込みであることの方が普通なのだ。別の言葉で言えば、めぐりあわせである。

 より重要なのは、ヴェイヨンの音楽そのものの方だ。これまたヴェイヨンの中にもともと備わっているというよりは、巨大な貯水池がどこかにあって、そこからヴェイヨンを通じて流れでるものが我々の耳に入る。おそらく音楽家はそれぞれの器に応じてその貯水池からの音楽を貯め、放出する。ヴェイヨンはその一時的なバッファのサイズが並外れて巨大でもあり、そして放出口のサイズもほとんど類例の無いほど巨大なのだ。

 それはかれのフルートから溢れでた最初の一音を聴いて実感された。量が豊冨なだけでなく、水そのものがどこまでも澄んで、かぎりなく甘美なのだ。あとはもうひたすらその流れに身をゆだねるだけ。音楽を聴くという意識すら消える。何か途方もなく大きなものの懐に抱かれる感覚。暖かいのだが、皮膚の表面に感じるよりは肌の裏にはじまって内側へと広がってゆくようだ。

 ケルトの音楽の常として、ブルターニュの音楽もくるくると繰返される。はじめはゆったり、やがて速度を増し、ついにはトップ・スピードに乗る。各曲の繰返しとともに、この組合せの繰返しそのものも快感となる。

 そのメロディはアイルランドのものほど流麗ではなく、むしろ突兀としたスコットランドに近い。一方で独自の華やぎがある。茶目っ気とも言いたいが、アイリッシュのすっとぼけたところが無いのはほっとしたりもする。

 音楽家はすべからく音楽の憑代であるとすれば、ヴェイヨンは抜きんでて大きな憑代なのだ。音楽家としての器の大きさは人格とは一応別のものではある。日常的につきあうとなると、どうしようもなくシミったれで、嫌らしく、こんなやつと金輪際一緒にいたくはないと思える人間が、音楽家としては圧倒的に大きな器を備えていることはありえる。ひょっとするとその方が多かったりする。まあ、伝統音楽の世界ではそういう人間はごく少ない。音楽が生活と密着しているからだ。親しむ余裕は無かったが、MCや物腰からして、ヴェイヨンもおそらくは人間としても器の大きな、いわば「せごどん」のような人物ではないかと想像される。

 こういう存在に遭遇すると、音楽の不思議さに圧倒される。その玄妙さにあらためてしみじみと思いいたる。音楽は人間を人間たらしめているものだ。音の連なりを、それを聴いて愉しいというだけで生み出し、鑑賞し、それに乗って踊ったり、聴いて涙を流したりするのは、あらゆる生物のなかで人間だけだ。その人間存在の一番奥にある本質がよろこんで現れてくる想いがする。天の岩戸の話は、実はこのことを語っているのではないかと思えてくる。

 オープニングの一噌幸弘氏の笛は、天の岩戸の前で鳴っていただろう響きにつながるものではある。表面的にはヴェイヨンの音楽とは対照的だが、これまた音楽家の器としては、おさおさ劣るものではない。能はどちらかというと「静」を基本とすると思うが、一噌氏の音楽は一瞬も留まることがない。メロディとか拍とか構造すらも無視して、まさに目にも耳にも止まらぬスピードでかっ飛ぶ。まるで加速装置でもつけているようだ。まあ、舞台での音楽とこうした場でソロで演奏する音楽とは別物なのだろう。

 凄いのは、それを演じるのに格別の努力をしているわけではないことだ。音だけ聴くと、ひっちゃきになって汗をとばして渾身の力と技を繰り出しているように聞えるが、実際の姿はむしろ平然として、ごくあたりまえのことを、いつもどおりやってますというように見える。異なる種類の笛を2本、3本と口に含んで同時に吹く時ですらそうだ。普段からこういうことを日常的にやっているにちがいない。むしろ、一噌幸弘がこういう音楽を奏でているというよりも、音楽そのものが一噌の肉体を借りて顕現しているので、こういう猛烈な音楽に平然と耐えられるだけの精進を積んでいるということなのだろう。

 合わせて、何かとんでもないものを体験してしまった、という感覚を抱いて会場を出る。しかし体験したものを消化して、己のものとするには程遠い。そもそも消化できるのかどうかすらあやしい。ベスト・コンサートなどというケチなものでもない。たぶん、ずっと後になって、何かの折りにふと蘇えってきて、あれはこういうことだったのかた想いあたる。ことがあるのではないかと期待している。

 ヴェイヨンの相棒のギタリスト Yvon Riou もヴェイヨンにふさわしい、器の大きな、当然まことにユニークなギターを演奏する。とはいえ、かれのギターもヴェイヨンの音楽と渾然一体となってしまっている。

 まずは、この体験を可能にしてくれた hatao さんに感謝する。(ゆ)