クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)

 アイリッシュ・ミュージックなどのケルトをはじめ、世界各地のルーツ音楽を愉しむブログです。そうした音楽の国内の音楽家も含みます。加えて主宰者の趣味のグレイトフル・デッド。サイエンス・フィクション、幻想文学などの話もあります。情報やメモ、ゴシップ、ただのおしゃべりなどもあります。リンク・フリーです。

タグ:芝居

 いやもう圧巻というか、圧倒的というか。芝居を見に行って、ライヴの感動、それも並々でない感動を味わった。歌舞伎というのは、実に何でもあり、なのだ。

 何が、って、玉ちゃんの演奏である。

 玉三郎が天才だというのは、さんざん読んでいたし、人からも聞いていた。歌舞伎界ではいわば外様だが、芸と美貌だけで頂点を極めた例外中の例外。歌舞伎の世界におさまらない、スケールの大きな仕事をしている世界人。しかし、とにかく実際に体験するのはまったく別のことだ、とあらためて思い知らされる。

 演し物は「阿古屋」である。『壇浦兜軍記』のなかの一場が独立して演じられるもの。もとは人形浄瑠璃で、歌舞伎になってこの「阿古屋」の場のみが上演されてきた。遊君・阿古屋が身の証をたてるため、箏、三味線、胡弓の三種を演奏する。実際に生で演奏するので、カラオケでも「口パク」でもない。芝居の相手の重忠に対してというよりも、観客を納得させるだけの演奏をしなければならない。歌舞伎役者は演技だけでなく、踊りもできなくてはならないし、したがって楽器のひとつぐらいは素養も身につけるだろう。しかし、この三つを三つとも、水準以上に演奏できるようになるのは、才能に恵まれた者でも簡単ではない。

 玉三郎の演奏は、三つが三つとも水準を超えてますどころではない。どれも名人の域だ。たとえ役者としてダメだったとしても、この腕なら、どれか一つのプロのトップ奏者として十分通用する。それでもさすがにどれもまったく同じというわけではなく、多少は得意不得意はある。というよりも、胡弓は他の二つに比べて、明らかに好きでもあるようだ。もっともこれは胡弓だけ、まったくのソロで即興で演奏するところがあったためにそう聞えたのかもしれない。他の二つは、端で義太夫の三味線と謡がサポートする。このサポートはあるいはユニゾンになり、あるいは合の手を入れ、また一種のハーモニーをつけもする、というように様々で、例えばピアノ五重奏のピアノの位置に箏や三味線や胡弓が来るような按配だ。面白いのは、箏では上手に座った三味線、謡各々4人ずつが合わせ、三味線には、下手にこの時だけ出てきた一組が合わせる。

 この胡弓のソロ即興がまず凄い。テクニックも凄いが、入れてくるフレーズ、出してくる音に圧倒された。背筋に戦慄がたて続けに走る。胡弓の伝統は何も知らないが、明らかに現代のジャズにも通じるフレーズや音が次々に繰り出される。もちろんこんなフレーズや音は、たとえば玉三郎にこの役を伝えた六代目歌右衛門でも絶対に演らなかったはずだ。しかし、今のあたしらにとってはこれこそが醍醐味になる。

 箏にしても、三味線にしても、ソロこそないが、演奏の際立っていることはあたしでもわかる。つまり、ジャンルや形態を超えた音楽として独り立ちしている。役者が演技としてやっているのではなく、一個の音楽家がそこで演奏しているのだ。それも超一流の、その楽器、ジャンルではトップの音楽家が、最高の演奏を繰り広げている。

 もう一つ、凄かったのは唄だ。箏と三味線は演奏しながら唄う。この声がまず凄い。ちゃんと若い遊女の声だ。70近い男性の声ではない。訓練だけで、発声法だけではあれは無理なんじゃないか。日頃からよほど精進もし、また手入れも怠らないのだろう。

 見たのが千穐楽だったのは残念で、こうと知っていたなら、一幕見で通うところだ(実際、この回の一幕見は売切れていた)。毎回、このレベルで演奏しているのか、確かめたくなる。

 たぶん、玉三郎の本当の凄さはそこなのだろう。三週間半の公演中、毎回、このレベルでの演奏を聞かせるのだろう。つまり、これは演奏であると同時に演技でもある。超一流の音楽家を演ずる、それも実際の音楽の生演奏によって演ずる。たとえば、モーツァルトを舞台で演ずるとして、そこでモーツァルトが作ったのと同じレベルの新曲を次々に作曲してみせるとすれば近いのかもしれない。

 今回は夜はABに分れ、Aは玉三郎自身が「阿古屋」を演じ、Bはこれを児太郎と梅枝が交互に演じた。玉三郎自身が実際に演じるのは、だから通常の半分の回数になる。昼は『於染久松色読取(おそめひさまつうきなのよみとり)』で壱太郎(かずたろう)が一人七役をやる。つまり、今月の歌舞伎座は玉三郎が若手の女方に自分の芸を伝えるという企画。となると、ますます、児太郎と梅枝それぞれの「阿古屋」も聞きたかったところだ。

 この玉ちゃんの演奏に、他はすべて吹っ飛んでしまった。二番目の『あんまと泥棒』、三番目のこれも児太郎と梅枝による『二人藤娘』もそれぞれに面白かったのだが、玉三郎の音楽の余韻に、今ひとつ舞台に身が入らない。正直、さっさと出て、夜の銀座をうろうろしながら余韻にひたっていたかったぐらいである。

 これはショックだ。今年はたいへん良いライヴに恵まれた嬉しい年ではあったが、最後の最後にこんなものを聴かせられてしまうとは。他が全部吹っ飛んでしまうほどのショックである。まあ、玉三郎というのがそもそも特別なので、これと比べられる「音楽家」は今のわが国ではいないのかもしれない。つまり、音楽家としての器の問題だ。ジャンルとかスタイルとか、あるいは技倆とかとは別の、存在のあり方の問題だ。先日の Bellows Lovers Night で coba と内藤さんが見せたものに通じるもの。貫禄やスケールの大きさとして顕れることもあるもの。

 玉三郎の場合、それに蓄積が加わる。超一流の芸術家が、精進と実践を営々と重ねてきて、ある閾値を超えて初めて産まれるもの。玉三郎が阿古屋を演じるのは、1997年の初演以来これが11回目。練習を始めたのは14歳の時だそうだ。

 演技と演奏の関係、パフォーマンス芸術というのものありよう、ということまで、いろいろと湧いてきてしまう。少なくとも、玉三郎の「阿古屋」を、音楽をなりわいとする人間は体験すべきだ。こういうものがありうるということ、実際にやってのけている人間がいるということを実感すべきだ。玉三郎がまだこれを演るかどうかはわからない。とりあえず、3月に京都南座で「玉三郎特別公演」として演る。

 歌舞伎恐るべし。わが国伝統芸能のなかで、民間の興行として、観客を集めることで続けているのは歌舞伎ぐらいではないか。文楽や能が国家の保護に甘えているとは言わないが、大衆芸能として生きつづけている歌舞伎は、その故にこそ芸の深化、伝統の継承に命をかけている。そのことが玉三郎という一個の存在に結晶している。伝統の継承とは古いものを古いままに繰り返すことではないのだ。その時その時に演る人間、見聞する人間が面白いと感じられる形でやりなおすことだ。歌舞伎はそれを、たぶん意識して、やっている。(ゆ)

 無知で妹背山婦女庭訓三笠山御殿の段はほとんどわからず。とりわけ、蘇我入鹿役の楽善のセリフがまったくわからない。他の役者のは七、八割方はわかるから、必ずしもこちらだけの問題ではないだろう。と思ったら渡辺保は「口跡は明晰」と言うから、やはりあたしにはまだ「歌舞伎耳」ができていないのだろう。

 いかにも歌舞伎の古典もの。長い話の一部だけを抜き出して語るのは、世界のどこでも伝統芸能では普通に見られる。ただし、その場合、聴き手ないし観客がその語りを楽しむには話の全体像を知っている必要がある。そこが無知なので、充分楽しめない。

 いいなと思ったのは松緑の鱶七。きびきびして、かつゆったりと大きな動き。何だかなあと感じたのは官女たち。いじめているのはわかるのだが、完全に型にはまっているように見えて、憎らしさが出てこない。渡辺の言うとおり男の地声を出すのは興醒めする。

 文屋は菊之助の舞い。先月の喜撰よりもずっと面白い。ひょっとすると3階の上から見たからかもしれない。この角度の方が動きがずっとよく見える。踊りは上から見るべきか。

 六人の腰元が群舞につくが、菊之助を先頭に後ろに六人直線に並んで踊るあたり、『リバーダンス』冒頭のシーンを連想する。どちらが先、というよりはおそらくは各々独立に思いついたのではないか。菊之助の舞は見ているだけで相当にハードなもので、動きがゆっくりなだけに、難しい姿勢、動きを美しく見せるのは並大抵の精進ではなかろう。相当に基礎訓練を積んでいるはずだ。美しいだけでなく、コミカルでもある。先の菊之助を先頭にした群舞でも、後ろに並んだ腰元たちが、菊之助から将棋倒しになる。

 ユーモラスというのとはまた少し違うようにも感じる。自他の区別をつけない日本文化の性格が現れているようでもある。笑いは文化のコアに直結していて、日本語の笑いは英語のユーモアとはおそらく別なのだ。日本の舞ではダイナミズムやスピード感がごく小さいが、こういうコミカルかつ優雅な舞はヨーロッパには見当らない。

 野晒悟助は独立した話でもあり、婦女庭訓よりもわかりやすい話で、なかなか面白い。ただ悟助役の菊五郎が高齢で、動きにキレがまったく無いので、乱闘シーンがアクロバットだけになる。見得はあるけれど、その前後とつながらず、苦しいように見えた。もっとも立ち回りの四天が音羽屋と大きく書いた傘を駆使して、アクロバットや絵を作っていたのは、うまい開き直りではある。それを言えば、引っくり返って、赤褌を剥き出しにするのも、緊迫感が漲るはずの乱闘シーンをうまくひっぱずす。二幕の冒頭で悟助の若党が浄瑠璃を唸る代わりに「長崎は今日も雨だあった〜」とうたいだすのも、その後で悟助が「今、ヘンなうたが聞えなかったか」と当てるのも、効いている。

 婦女庭訓でも感じたが、シリアスな話と思っているといきなりはずすセリフや動きをはさむのは面白い。ヨーロッパ流の喜劇、悲劇の別とは異なる。女殺油地獄の立ち回りもそうだが、シリアスとユーモアが一つのシーンに同居することが可能だし、それをともにうまく出すのが歌舞伎や浄瑠璃の醍醐味でもあるだろう。とはいえ、これは基調はコメディなのだろう。ここでも堤婆の仁三郎役の左團次のセリフがほとんどわからない。となると、あるパターンのセリフが聞き取れないのだろうか。どちらも悪役だ。

 ラスト、返しの乱闘シーンのバックの音楽が面白い。ほとんどダンス・チューンだ。ここはセリフがなく、掛け声とこの音楽、それに床を棒で叩くツケだけで進行する。ツケはここぞという動きを強調するアクセント。演じられているドラマの緊迫感を出すのは音楽だ。3階だとこのツケ打ちの音の反響が聞えるのが楽しい。

 今回は3階東の袖、桟敷上の席で、ここからは舞台の上手ほとんど3分の1は見えない。その代わり、黒衣の動きがよく見えるのが楽しい。舞踏の時の後見が舞台の奥を中央へ移動する際の足の運び。蹲踞のまま歩くのは、相当に筋力が要るはずだが、それをいとも簡単にさっさと進む。

 踊りの動きがよく見えるとともに、役者の足さばきもよく見える。女形の歩き方の美しさは初めて腑に落ちた。細かく小さく足を出して、するするすると進む。和服の女性の歩きかたはあれが基本になる。そうしてみると役のキャラによって歩き方が異なる。というよりも、歩き方によって役のキャラを表しているのだ。とりわけ花道に出てくる時の歩き方だ。舞台に出る最初だから、そこでまずキャラクターを観客に印象づける。花道に出てくる時は舞台に向かって歩くしかない。こういう手法は、自然な演技を旨とする舞台では難しいだろう。

 歌舞伎は仕種の一つひとつがある意味を備えている。具体的な意味のときも抽象的なもののときもある。しかし、まったく無意味、あるいは単に日常世界での体の動きそのままということは、おそらく皆無なのだ。そういう意味を的確に読みとれるようになると、本当に面白くなってくるのだろう。

 席は脚の前に空間がなく、脚を組むこともままならないし、幅が狭く、胡座もかけないので、窮屈。これまでの席は、1階右後方、1階東桟敷、2階花道真上最前列。2階花道の真上が一番面白く見られた。ただし、ここも最前列は前が窮屈。

 歌舞伎座の昼が16時10分前終演で、16時には夜の部開場、16時30分開演というのはなかなか凄い。まだ昼の部の客が客席から出終らないうちに、マキタを持った作業員がどんどん入ってくる。(ゆ)

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