8月は毎年、「納涼歌舞伎」と称して、三部制をとる。各部のチケットの価格も若干安い。
今年は初めて玉三郎が出演し、夜の部に「新版 雪之丞変化」をかけた。出演は玉三郎、中車、七之助、それに狂言回しの鈴虫役を尾上音之助と坂東やゑ六が分担する。見たのはやゑ六の方。
「雪之丞変化」はタイトルぐらいは聞いたことはあるが、どんな話かも知らなかった。悪代官に両親を殺された長崎の豪商の息子が、歌舞伎役者の女方として身を立てながら、仇を狙う。それを一座の先輩や江戸の盗賊など周囲が支援し、見事、仇を討つ。という話だそうだ。内容的にも、構成上も、かなりいろいろの含みのある話で、これを4人で2時間で見せようというのはいささか無理がある。その無理を通すために、舞台の上に大小様々のスクリーンを置いて、映像を映す。それは舞台の裏の情景だったり、主人公、雪之丞の演技を見ている観客であったり、あるいは「街の声」、さらには雪之丞が演じる舞台そのものだったりする。雪之丞は念願だった江戸での上演で「京鹿子娘道成寺」を演ずるのだが、玉三郎自身が別の機会に演じた際の映像が映しだされる。
舞台の上に映像を映して、芝居の一部とする手法は昔からあるものだそうだが、大正時代に法律で禁止されてから、その法律の効力が消えても手法としては復活はしていなかったらしい。なぜ、法律で禁止までされたのか、は知らない。
しばらくやっていなかった手法を復活する、にしては、どうも準備不足のけしき。意図はわかるが、映し出される素材、その使い方、挿入するタイミングや舞台上の演技とのからみ、いずれも噛み合っているとは言えない。
その中で面白かったのは、冒頭、仁木弾正を演ずる菊之丞が花道を下がってゆくところを正面から映し、この像を増幅して見せたところ。そしてその後、花道から舞台下の空間に降り、歩いてゆくのを追う映像だ。客席からはふだんは絶対に見えない映像で、舞台の上に再現しても、労力の割りに面白くないだろう。後半にも、舞台上の演技を舞台手前から黒衣が映している映像を舞台の画面に映しだしても見せて、これも面白い。カメラはスマホのようだったが、映像としては充分だ。
雪之丞を玉三郎が演じ、その先輩女方、星三郎を七之助が演じる、というのはおそらくわざとしたことだろう。これもまた玉三郎による後輩教育の一環だ。その七之助は力演だ。とりわけ、宮島で七之助の星三郎が、玉三郎の雪之丞に、女方としての様々な役の心得を諭し、二人して科白の一節を口ずさみ、芝居をするシーンはすばらしい。ここと、その後、星三郎が江戸公演を前に病死するところがハイライト。この二つのシーンだけが際立っていて、他はつまらない。一カ所だけ、若い雪之丞がとんでもなく甲高い声を出すところ、70近い男があの声をあれだけ綺麗に出すのには感心する。
この話が語っているものの中では、役者としての覚悟と夢を強調しているのだが、玉三郎の演技にそのリアリティが出ていない。娘道成寺を演じる雪之丞を演じるところはさすがで、道成寺を演じるのは玉三郎ではなく、雪之丞の存在感がきちんと出ている。が、それ以外の、まだ雪太郎と呼ばれている頃の未熟さとか、河原者、河原乞食と呼ばれた役者という仕事への迷いとかになると、どこかに忘れてきたように存在感が薄くなる。科白も二度ほど言い間違えていたし、どうもあまり調子が良くないんじゃないか、とすら思えてくる。ひょっとすると、そうした「初心」をとりもどすための工夫なのかもしれないが。この納涼歌舞伎の第一部「伽羅先代萩」も監修し、この新版では補綴と演出もして、忙しすぎるのかもしれない。玉ちゃんもやはり人間だったか。
1人で五役の中車は大忙しだが、演技としては敵役の土部三斎が一番良かった。派手なところはあまりないが、芝居の屋台骨を支える役を渋く演じるタイプで、この奮闘を見て、ますます好きになってきた。この人と亀蔵が、今のところ、あたしの贔屓だ。(ゆ)