文學界 (2020年11月号)
文藝春秋
2020-10-07


 「JAZZ × 文学」として「総力特集」を組む。冒頭に村井康司さんによる村上春樹へのロング・インタヴューを置き、以下に

創作2本
対談3本
長めのエッセイ2本
「ジャズと私」として短いエッセイ9本
「ジャズ喫茶店主が選ぶこの1枚とこの1冊として7本
それに小説と非小説それぞれの読書ガイド

を収録する。巻頭から155ページ。全体の4割を割いている。

 『文學界』の読者にジャズを紹介しようというのが基本の姿勢。村上春樹にこれからスタン・ゲッツを聴こうという人へのお薦めを訊ねているのが象徴だ。登場している書き手たちの作品の背後にジャズがあることを示し、そのジャズの世界へ誘う。

 登場している人たちは皆、長年ジャズに親しんでいる。聴くだけでなく、読んでもいる。作家だけでなく、ジャズ喫茶の店主たちも皆読書家だ。そのセレクションがまず面白い。初めのお二人の1冊はジャズの本だが、他の5人それぞれの1冊はジャズと結びつけられることはまず無いものばかりだ。

 親しみ方も半端ではなく、時間が長いだけでなく、聴いている音楽のほとんどはジャズであるらしいし、深く突込んで聴いている。

 にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、語られているジャズはほとんどがビバップからコルトレーンの死までの、ジャズの黄金時代と呼ばれるごく短かい時期の録音だ。山下洋輔 × 菊地成孔、岸政彦 × 山中千尋の対談が各々のジャズを対象にしているのと、ラストに置かれた柳樂光隆氏の文章がかろうじて今起きているジャズに触れているのが目立つ。

 あるいはペーター・ブロッツマンについての保坂和志の文章が新鮮になる。この文章は、ブロッツマンの、ジャズの、ひいては音楽の聴き方そのものについても新鮮で、この特集で最も面白いものの一つだ。

 個人的には文学側で唯一、本人を知っている木村紅美さんの文章も面白い。そういえば、彼女と音楽全体について話をしたことはなかった。

 アマチュアとして実践する立場からジャズの「現場」について論じた岸政彦のエッセイもいろいろと興味深い。これを読むと、ジャズとアイリッシュ・ミュージックの相似にますます確信が強くなった。世界のいたるところで音楽の共通言語になっているということで、つまり、一定の数の「スタンダード」といくつかのルールを身につけているだけで、誰とでもどこでも「セッション」できてしまうという点で、ジャズとアイリッシュ・ミュージックは同じだ。だからといって、両方一緒にやるのも容易というわけではないが。

 もう一つ、岸氏のいう「ジャズ界」がニューヨークを頂点とするヒエラルキーをなしているという見方もいろいろな意味で興味深い。ロンドンやミュンヘンやストックホルム、あるいはイスタンブールやカイロ、あるいはブエノスアイレスやサンパウロでジャズをやっている人たちもそういうヒエラルキーを捕捉しているのだろうか。その前に、アトランタやシカゴやサンフランシスコやでジャズをやっている人たちが、そういうヒエラルキーを見ているのだろうか。

 いるのかもしれない。アイリッシュ・ミュージックにおいて、源泉としてのアイルランドの地位は絶対的だから、ジャズにおいてもそうしたセンターがあってもおかしくはない。

 ただ、ジャズにはそういうニューヨークを頂点とするヒエラルキーを成すものとは別の側面、位相、要素もあるようにも見える。そして、あたしが今いっちゃん面白いと入れこんでいるのは、そのヒエラルキーからは外れた、センターをひっぱずすようなジャズなのだ。端的に言えば、各地の伝統音楽の要素を持ちこみ、あるいは伝統音楽にジャズの方法論を適用して、これまで聴いたことがないと思える音楽をやっている連中だ。

 もう一つ言えば、あたしのような、ジャズも聴くリスナー、音楽は大好きで、ここに登場している人たちと同じく、音楽が無くては生きてはいけないが、ジャズはその音楽生活の一部であるような人間が面白がる音楽だ。

 その意味では、村上春樹が聴いているジャズ以外の音楽も含めた話を聞いてみたい。CDで持っているのはクラシックが多いというのなら、何をどのように聴いているのか。それは村上の中でジャズとどうつながっているのかいないのか。オーディオ・ファンの端くれとしては、何で聴いているのかも訊いてみたいが、おそらくそれはもうどこかに出ているのだろう。

 JAZZ × 文学を掲げるのであれば、「ジャズ文学」についての話が、読書ガイドだけではなく、もっとあってもいいと思う。この号には映画『スパイの妻』をめぐる蓮實重彦、黒沢清、濱口竜介の鼎談も載っていて、これが滅法面白い。映画はふだん見ないあたしも、これなら見てもいいかなと思えるくらい面白い。たとえば間章の文業について、微に入り細を穿って検討する座談会ないし論考ぐらいは欲しいところだ。筒井康隆の「ジャズ小説」についてのものでもいい。

 まあ、そういうことはこれからやられることを期待しよう。

 それにしても、こういう特集が組まれるのは、ジャズが今また盛り上がっていることの反映なのだろう。それにしてはその今の盛り上がりの内実に触れているのが、ほとんど柳樂さんの文章だけというのも、これまたひどく「ジャズ的」と思うのは下司の勘繰りであろうか。

 ジャズはもともとが雑種音楽で、実に多種多様多彩なものから成っていて、多種多様多彩な位相、側面を展開し、聴かせてきた、とあたしには見えるのだが、たとえばここに現れているように、ジャズをモノ・カルチャーと見ようとする姿勢ばかりが目立つのは、もったいないとも思うし、半世紀前ならともかく、「多様性」があらゆる文化のキーワードになってきている今の精神にはそぐわないとも思う。リニアな物語として捉えるのは、目先、役に立つかもしれないが、そういう物語は多くのものを切り捨てなければ成立しない。一般的に言っても、語られていないところで起きていることの方がずっと面白く、したがって大事なことの方が多いのだ。そのことは『100年のジャズを聴く』後藤雅洋×村井康司×柳樂光隆でも、散々言われていたことではある。皆さん、あの本を読んでいないのか。

100年のジャズを聴く
柳樂 光隆
シンコーミュージック
2017-11-16



 現代のジャズ・ミュージシャンのレコード棚にはジミー・ジュフリーのレコードが、現代のジャズ・ファンのレコード棚よりもずっと沢山あるのではないかと思っている、証拠は何も無いが。先日、ECM から出た Matthieu Bordenave/Patrice Moret/Florian Weber の La Traversee のレヴューにこうあって、なるほどと思って聴いてみれば、そう、こういう絡み合う即興があたしには面白いのだと納得した。そして、この絡み合う即興は、そう、グレイトフル・デッドの即興にも通じるのだ。このアルバムの3人がデッドを聴いているとはちょっと思えないが。(ゆ)