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R.I.P. Mick Moloney
RIP Dennis Cahill
アイリッシュ・ミュージックに魅せられた人間は、たいてい、そのコアに入ることを目指します。それが不可能だとわかっていても目指します。そうさせるものがアイリッシュ・ミュージックにはあります。カヒルもおそらくその誘惑にかられたはずです。しかし、どうやってかその誘惑を斥けて、つなぐことに徹していました。あるいはギターという楽器の性格が後押しをしていたかもしれない。それにしてもです。
Norma Waterson (1939-2022)
30日午後に母が亡くなった、とイライザ・カーシィがツイートしていました。イライザの母ならばノーマ・ウォータースン。イングランドのフォーク・ミュージックの無冠の女王とも言われる傑出したうたい手であります。
ノーマはまず弟妹の Mike と Elaine (Lal)、それにいとこの John Harrison との The Watersons の一員として姿を現します。4人は出身地、北イングランドの伝統歌をアカペラ・コーラスで歌い、1960年代、ブリテンのフォーク・リヴァイヴァル新世代の登場を告げ、後続の若者たちに衝撃を与えたのでした。60年代後半、ヨークシャーのある街で、自分たちのギグを終えたザ・フーがウォータースンズが歌っているところを探して聴きにきた、という話も伝えられています。
ぼくがウォータースンズを初めて聴いたのは1977年の《Sound, Sound Your Instruments Of Joy》でした。ちょうど、ブリテンの伝統音楽に入れこみだしたばかりの頃で、その精妙かつ野趣あふれるハーモニーに夢中になったのでした。これはイングランドの教会で日常的に歌われてきた聖歌を集めた1枚ですが、説教臭さも抹香臭さもかけらもなく、まじりけのない歓びに溢れた、美しい歌が詰まっているアルバムです。聖歌集だということさえ、当初はわからず、伝統的なクリスマス・ソング集だとばかり思いこんでいました。実際、そう聴いてもかまわないものでもありましょう。
続いてノーマが妹のラルとの二人の名義で出した《A True Hearted Girl》はまたがらりと趣が変わって、軽やかな風に吹かれるような歌を集めていて、こちらも当時、よく聴いたものです。
とはいえ、一人の独立したうたい手としてノーマを見直したのはずっと下って1996年、ハンニバルから出た《Norma Waterson》でした。名伯楽 John Chelew のプロデュースのもと、リチャード・トンプソン、ダニィ・トンプソン、Benmont Tench に、なんとロジャー・スワロゥという、これ以上は考えられない鉄壁の布陣をバックに、悠々と、のびのびと、歌いたいうたを天空に解きはなつその声に、完全にノックアウトされたのでした。就中、冒頭の1曲〈Black Muddy River〉の名曲名唱名演名録音にはまったく我を忘れて聴きほれたものです。曲がロバート・ハンター&ジェリィ・ガルシアの作になることはクレジットを見ればわかりましたが、それがグレイトフル・デッドのレパートリィの中でどういう位置にあるのか、多少とも承知するのは何年も後のことです。ノーマ自身、それが誰の歌であるか、知らないままに歌いだした、とライナーにありました。ある日誰からともなく送られてきていたカセット・テープに入っていて、ただいい曲だとレパートリィに加えたのだそうです。
この人は年をとるにしたがって、存在感が大きくなっていきました。セカンド、サードとソロを出し、一方で 夫マーティン・カーシィと娘イライザとのユニット Waterson: Carthy の一員として、あるいは再生ウォータースンズのメンバーとして、その評価は上がる一方で、ついにはマーティンの叙勲とともに、一家はイングランド・フォーク・シーンのロイヤル・ファミリーとまで呼ばれるようになりました。それには、English Folk Dance and Song Society 会長にもなったイライザの活躍もさることながら、いわば女族長としてのノーマのごく自然な威厳ある佇まいも寄与していたようにも思えます。
生前最後の録音はイライザとの2010年のアルバム《Gift》から生まれた Gift Band との2018年の《Anchor》になりました。
先日、イライザはパンデミックによって一家が困窮しているとして、ファンに財政支援を訴えていました。そこではノーマが肺炎で入院しているともありました。ここ数年、いくつかの病気を患い、2010年には一時昏睡に陥ってもいたそうです。
弟マイクは2011年に、妹ラルは1998年に亡くなっています。
自分でも思いの外、衝撃が大きくて、すぐにはノーマの歌を聴きかえす気にもなれません。今はまず冥福を祈るばかりです。合掌。
01月31日・月
##本日のグレイトフル・デッド
01月31日には1969年から1978年まで3本のショウをしている。公式リリースは無し。
1. 1969 Kinetic Playground, Chicago, IL
5ドル。開場7時半。閉場午前3時。このヴェニュー2日連続の初日。シカゴ初見参。1981年まではほぼ毎年のようにシカゴでショウをしている。Grassroots 共演。セット・リスト無し。
ポスターでは Grassroots と一語で、これが The Grass Roots と同一であるかはわからない。後者は1966年にデビューしたブルー・アイド・ソウルのグループとウィキペディアにある。こちらは1967年に〈Let's Live for Today〉というベスト10ヒットをもっている。
ポスターには1月下旬から3月上旬までの出演者が日付とともに掲げられている。デッドとグラスルーツの前は Buddy Rich Orchestra、Buddy Miles Express、Rotary Connection。後はヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル。以下、ティム・ハーディン、スピリット、The Move。ジェフ・ベック、サヴォイ・ブラウン、マザー・アース。ポール・バターフィールド、B・B・キング。ポール・バターフィールド、ボブ・シーガー・システム。ジョン・メイオール、リッチー・ヘヴンス。チケット代金、開場、閉場時刻はすべて同じ。
2. 1970 The Warehouse, New Orleans, LA
このヴェニュー3日連続の2日目。フリートウッド・マック、ザ・フロック前座。
8曲演奏されたところで、レシュのアンプがトラブルにみまわれ、5曲25分ほど、アコースティックで演奏され、またエレクトリックにもどってさらに5曲、40分ほど演奏される。
3. 1978 Uptown Theatre, Chicago, IL
9.50ドル。開演8時。このヴェニュー3日連続の中日。最高のショウの一つだった由。この後のショウの録音を聴けば、容易に想像がつく。(ゆ)
RIP Sean Tyrrell
アイルランドのシンガー・ソング・ライター、Sean Tyrrell の訃報が入ってきました。10月30日夜死去。享年78歳。
1943年ゴールウェイ生まれ。1960年代からフォーク・クラブで歌いはじめ、1968年にニューヨークに渡り、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活動します。サンフランシスコ、ニュー・ハンプシャーに移り、Apples In Winter というグループに参加。1975年1枚アルバムを出します。
その年、アイルランドに戻り、クレアのバレンに住みつき、1978年、National University Ireland Galway に職を得ます。また、隣近所だったデイヴィ・スピラーンと演奏するようになり、そのアルバム2枚に参加もします。《Shadow Hunter》と、たぶん《Atlantic Bridge》と思います。前者は確認しましたが、後者は行方不明。
アイルランドでのかれの評価は ‘Cuirt an Mhean Oiche (The Midnight Court)’ という詩に曲をつけたことが大きいようです。この詩は Brian Merriman または Brian Mac Giolla Meidhre (c. 1747 – 1805) というクレアの農民で寺子屋教師が残したもので、アイルランド語のコミカルな詩として最高のものとされています。フランソワ・ラブレーの作品に比されることもあるそうな。この詩は1,200行に及ぶ長篇で、ティラルはこれをバラッド・オペラに仕立て、1992年に上演されて好評を博しました。先日亡くなった Mary McPartlan も出演した由。
1994年にデビュー・アルバム《Cry Of A Dreamer》を、当時ばりばり元気だった Hannibal Records からリリース。ぼくがかれの歌を聴いたのもこれが初めてでした。朴訥と形容したくなるような、ごつごつと一語一語言葉を打ちこんでくるような歌と、やはりぽつりぽつりと弾くマンドーラの伴奏は強い印象を受けました。以後2014年の《Moonlight on Galway Bay》まで、5枚のアルバムがあります。いずれも質の高い佳作ですが、とりわけセカンドの《The Orchard》は傑作。
一方で、バンジョーも達者でフィドルの Kevin Glackin、パイプの Ronan Browne とのアルバムや、地元のフィドラーとのライヴ盤や、フルート、ホィッスル、ヴィオラを操る人たちと The Medal Hunters の名前で出したライヴ盤があります。この最後のものはやはりトリオで、おそらくセッションをほぼそのまま録音したものらしい。3人とも名人達人というわけではありませんが、味があり、耳を惹かれます。
アイルランドの現大統領マイケル・ヒギンズとは Universty College Galway の同窓だったそうで、追悼の言葉を発表しています。
すぐれたシンガーの星の数ほどいるアイルランドでも、なぜかぼくには最もアイルランド的と感じられるうたい手でした。オリジナルやカヴァーが多いのですが、深く下ろした根っこからたち登ってくるような歌です。美声でもないし、耳に快いスタイルでもありませんけど、ずっと聴いていたくなる。今夜は久しぶりにかれの歌に浸って、追悼しようと思います。合掌。(ゆ)
RIP Paddy Molony (1938-2021)
パディ・モローニの訃報は晴天の霹靂だった。死因はどこにも出ていないようだ。Irish Times には比較的最近のビデオがあるから、あるいは突然のことだったのかもしれない。
先日の「ショーン・オ・リアダ没後50周年記念コンサート」のキョールトリ・クーラン再編にモローニが参加しなかったことについて、オ・リアダの息子との確執を憶測したけれど、あるいは健康状態もあったのかもしれない。あの時、不在の原因としてモローニの健康を思いつかなかったのは、かれが死ぬなどということは考えられなかったからだ。他が全員死に絶えようと、モローニだけは生きのこって、唯一人チーフテンズをやっていると思いこんでいた。こんなに早く、というのが訃報を知っての最初の反応だった。
パディ・モローニがやったことのプラスマイナスは評価が難しい。見る角度によってプラスにもマイナスにもなるからだ。まあ、ものごとはそもそもそういうものであるのだろう。それにしても、かれの場合、プラスとマイナスの差がひどく大きい。
出発点においてチーフテンズが革命であったことは間違いない。そもそもお手本としたキョールトリ・クーランが革命的だったからだ。モローニはクリエイターではない。アレンジャーであり、プロデューサーだ。オ・リアダが始めたことをアレンジし、チーフテンズとして提示した。クラシカルの高踏をフォーク・ミュージック本来の親しみやすさに置き換え、歌を排することで、よりインターナショナルな性格を持たせた。たとえ生きていたとしても、オ・リアダにはそういうことはできなかっただろう。クラシックとしてより洗練させることはできたかもしれないが、それはアイリッシュ・ミュージックとはまったく別のものになったはずだ。
チーフテンズもアイリッシュ・ミュージックのグループとは言えない。ダブリナーズ、プランクシティ、ボシィ・バンドのようなアイリッシュ・ミュージックのバンドと、キョールトリ・クーランのようなクラシック・アンサンブルの中間にある。もちろんこの位置付けは後からのもので、モローニが当初からそれを意図してわけではないだろう。かれはかれなりに、自分がやりたいこと、面白いだろうと思ったことをやろうとした。キョールトリ・クーランを手本としたのは、それが手近にあったことと、オ・リアダが目指したことを、モローニもまた目指そうとしたからだろう。それが結果としてチーフテンズをアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間に置くことになった。
当初はしかしむしろモローニは自分なりのアイリッシュ・ミュージックのアンサンブルを構想したと見える。チーフテンズだけでやっていた時はそうだ。1977年頃までだ。《Live!》は今聴いても十分衝撃的だ。アイリッシュ・ミュージックのアルバムの一つの究極の姿と言ってもいい。
チーフテンズがアイリッシュ・ミュージックとクラシックの中間にあり、様々な他の音楽とのコラボレーションに使えるといつモローニが気がついたのかはわからない。少なくとも中国に行く前に確信していたことは明らかだ。そして以後、モローニはチーフテンズのマーケットをコラボレーションによって拡大することに邁進する。その際、ポリシーとしたことは二つ。チーフテンズの音楽、レパートリィと手法は変えないこと、そしてチーフテンズの音楽を「アイリッシュ・ミュージック」として売り込むこと。それによってモローニはチーフテンズをビジネスとして成功させる。
チーフテンズのコンサートは判で押したようにいつも同じだ。やる曲も順番も演奏も時間も MC もすべてまったく変わらない。わが国以外でチーフテンズのコンサートを見たことはないから言明はできないが、場所によって多少変えていただろうことは想像はつく。ただ、基本は同じだっただろう。そして共演する相手に変化がある。録音はもっと手間暇をかけられるし、テーマも立てやすいから、もっとヴァリエーションを作れる。チーフテンズのコンサートは何度か見れば、後は見ても見なくても大して違いはなくなる。もっとも、その違いが無いことを確認するために見るというのはありえた。録音の方には繰返し聴くに値するものがある。
ただし、録音にしても変わるのはモチーフや構成、共演のアレンジで、チーフテンズの音楽そのものはコンサートと同じく、いつもまったく同じだ。変わらないことによって、どんな音楽が来ても、共演できる。そして誰と一緒にやっても、それは否応なくチーフテンズの音楽になる。
モローニのやったことのマイナス面の最大のものは、チーフテンズの音楽をアイリッシュ・ミュージックそのものとして売り込んだことだろう。この場合チーフテンズの音楽以外はアイリッシュ・ミュージックでは無いことも暗黙ながら当然のこととして含まれた。チーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックの位相の一つだったことはまちがいない。しかし、アイリッシュ・ミュージックの中心にいたことは一度も無かった。むしろアイリッシュ・ミュージックの中では最も中心から遠いところにいて、1970年代末以降はどんどん離れていった。Irish Times でのモローニの追悼記事が「音楽」欄の中でも「クラシカル」に置かれていることは象徴的だ。チーフテンズの音楽は「チーフテンズ(チーフタンズ)」というブランドの商品だった。それをイコール・アイリッシュ・ミュージックとして売り込むことに成功したことで、商品としてのアイリッシュ・ミュージックのイメージが「チーフテンズ(チーフタンズ)」になった。
チーフテンズを続けていることは、モローニにとって幸せだっただろうか。幸せではないなどとは本人は口が裂けても言わなかったはずだ。幸せかどうかはもはや問題にならないレベルになっていたのでもあるだろう。そう問うことには意味が無いのかもしれない。
しかし、一箇の音楽家としてのパディ・モローニを思うとき、チーフテンズを始めてしまったことは本人にとっても不運なことだったのではないか、と思ってしまう。アイリッシュ・ミュージックの傑出した演奏家として大成する道もとれたのではないか、と思ってしまう。
パディ・モローニはパイパーとして、そしてそれ以上にホィッスル・プレーヤーとして、他人の追随を許さない存在だった。と、あたしには見える。《The Drones And The Chanters: Irish Pipering》Vol. 1 でかれのソロ・パイプを聴くと、少なくとも1枚はソロのフル・アルバムを作って欲しかった。そしてショーン・ポッツとの共作ながら、彼の個人名義での唯一のアルバム《Tin Whistle》に聴かれるかれのホィッスル演奏は、未だに肩を並べるものも、否、近づくものすら存在しない。この二つの録音は、まぎれもなくアイリッシュ・ミュージックの真髄であり、とりわけ後者はその極北に屹立している。
あたしが訳したチーフテンズの公式伝記の末尾近く、パディがダブリンのパイパーズ・クラブのセッションに参加するシーンがある。久しぶりに参加して、ひたすらパイプを吹きまくり、パディは指がツりそうになる。たまたまそこへフィドラーのショーン・キーンが現れ、セッションにいるパディを見て、大声でけしかけ、励ます。どうした、パディ。もっとやれえ。パディはあらためてチャンターを手にとる。そこでのパディはそれは幸せそうに見える。だからショーン・キーンも嬉しくなって思わず声をかけたのだろう。
さらば、パディ・モローニ。チーフテンズはこれでめでたく終演を迎え、一つの時代が終った。あなたはクリスチャンのはずだから、天国に行って、楽しく、誰はばかることなく、大好きなパイプやホィッスルを思う存分吹いていることを祈る。合掌。(ゆ)